連載小説
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リリムと終わらない物語 〜雪の降る日に〜
視界は灰色の景色だった。
この辺りの季節は冬らしく、雲に覆われた空は白い雪を静かに降らせている。
眼下には、その雪によって早くも緑と白の二色になった森が広がっている。
身を切る風は冷たく、吐く息は白い。
現在、私は散歩中だ。
散歩といっても、いつもしている世界行脚ではなく、当てもなくふらつく方。
人が散歩と呼ぶ本来のものだ。
人と違うのは、大地ではなく、空を散歩しているということだろうか。
行く手を遮るものがないというのはなかなかに気分がいい。
おかげで、同行者も実に軽快に空を飛んでいる。
言っておくと、今回の同行者はルカではない。
なんという種類かはわからないが、鳥の群れである。
その群れから少し離れた位置をキープしつつ、行き先を鳥達に委ねて飛んでいるのが今の私の状況だ。
越冬のためか、渡り鳥達は雪が降る天気にもめげず、翼を羽ばたかせて目的地へと飛んでいく。
そんな彼らの一丸となって飛ぶ様を少し離れた位置から眺めていた時だった。
突如、森から一羽の鳥が飛び立ってきて、それに驚いた群れがばらける。
しかし、森から飛んできた鳥は別に群れを狙ったわけではないようで、全く関係のない方角に飛び去って行った。
渡り鳥達もそれを理解したのか、再び群れを形成して飛行を再開した。
それを静止して見送ると、私は鳥が飛び出してきた森へと目を向ける。
渡り鳥でもなければ、雪が降る日は鳥も活動せずにじっとしているはず。
つまり、森の中でじっとしていられないような事態が起きたということだ。
狩人が鹿でも狩りにきているのだろうか。
そんな想像をしつつ、木の高さにまで降下して耳をすませる。
すると案の定、複数の声が聞こえた。
「いたか!?」
「近くにいるはずだ!探せ!」
等々。
言葉だけならいかにも狩人らしいセリフだが、私はそこに少し違和感を覚えた。
語気の荒い彼らの言葉は怒気を孕んでいたからだ。
渡り鳥がそうであるように、人もまた越冬の準備が必要な地域はある。
そのための糧食がかかっているのなら躍起になるのも当然かもしれないが、それでも違和感は残った。
「ちょっと試してみようかしら」
彼らの追っているものが鹿や猪ならいい。
だが、そうでないなら。
そんな考えがよぎり、探知魔法を使う。
それによって察知した人数は二十人以上。
思っていたよりも遥かに多い。
その誰もがせわしなく動き回っている。
そんななか、一つだけ全く動かない気配があった。
待ち伏せでもしているのかと思ったが、その気配は他の人に比べてあまりに弱々しい。
そして、その気配に近づいている二つの気配。
完全に見つけているわけではないから動きは迷走しているが、それでも発見は時間の問題だろう。
それが気になり、私はそちらへ向かった。
木を避けていかなければならない彼らと比べて、空を行ける私は段違いに早い。
詳しい場所が分かっているから尚更だ。
森の上を行き、あっと言う間に距離を縮めると静かに森の中へと降りた。
この先に、なにかがいる。
木々の間を抜け、自然と逸る足。
雪の降り積もる大地に足跡をつけながら、少し大きな木を避けたところでついに気配の元を見つけた。
それは黒いローブを纏った漆黒の髪の青年。
私の目が釘付けになる。
木の根元に座り込み、背を預けて目を閉じている様子は、一見すればうたた寝をしているようにも見える。
しかし、その姿は一休みしているなどというのん気なものではなく、戦地から命からがら逃げ出してきた難民といった雰囲気だ。
それが間違いではないと証明するように、彼の纏っているローブはぼろぼろで、ところどころから覗く下の服には血が染みているのが見える。
だが、私が目を奪われたのは、彼のそんな痛々しい様に対してではない。
彼の体の奥、そこで光を放つ魂。
ゾクリと背中に鳥肌が走る。
それは、私が今まで見てきたどの魂よりも光り輝いていた。
穢れを知らないかのような澄んだ蒼に、私の目は嫌でも惹きつけられる。
「綺麗……」
場違いな言葉が無意識のうちに口から漏れる。
それが耳に届いたのか、青年はゆっくりと目を開けた。
その青い目が私を捉え、少しだけ見開かれる。
「君は……」
そのままなにかを言いかけたのだが、口が動くばかりで声は聞こえない。
代わりに、別の声が響いた。
「いたぞ!こっちだ!」
大きな怒鳴り声で、私の意識が現実に戻る。
ハッとしたようにそちらに目を向ければ、一目で教団だとわかる軽装の男がいた。
止まっていた思考が活動を再開し、状況を瞬時に把握する。
追っていたのは狩人ではなく教団で、目の前にいる青年が追われていた者。
頭がそう答えを弾き出した瞬間、私は素早く青年に駆け寄ると、彼を抱き寄せて転移魔法を使い、その場を後にしたのだった。


「ふう……」
家へと無事に転移し、軽いため息をもらす。
今まで雪の降る外にいたからか、部屋の中に来ただけで温かく感じられる。
「ここは……」
「私の家よ。とりあえず、ここに座って」
彼の体をソファに座らせると、改めて彼をよく見てみる。
光の下で見た彼の体は傷だらけだった。
重傷こそないが、あちこちに傷があり、そこから滲んだ血によって服が変色している。
そのせいか、彼もぐったりしているように見える。
「傷だらけね。今、治癒魔法をかけるわ」
傷を癒そうと、そっと彼へと手を向けたその時だった。
怪我人とは思えないくらいに俊敏な動きで、私の腕が掴まれた。
「やめてくれ」
次いで見上げてくる青い目には、強い意志の色があった。
それが予想外で、一瞬呆気にとられてしまった。
「あなたの体は傷だらけよ。このまま放っておけば、出血によって体調が悪化するわ」
「それでも構わない。これは、この傷は……俺に対する罰なんだ……」
私を見ていた目が逸らされた。
そして、彼の顔が辛そうに歪む。
ただ、それは体の傷が痛むからという理由ではなさそうだ。
「……あなたに事情があるのはわかったわ。でも、怪我人を放置できるほど私も薄情ではないの。あなたも、死にたいわけではないでしょう?」
「この身の死で罪が償えるなら、俺はそれでも構わない」
少しも揺らぎそうにない口ぶりだ。
私の口からため息がもれた。
「どうあっても、治癒魔法を受け入れないのね……。なら、せめて傷の手当てはさせて。それくらいならいいでしょう?」
「……」
彼は少し顔を俯け、押し黙る。
そして、僅かの間を置いてうなずいた。
了承を得て、私は手当てに必要な物を別室から持ってくる。
ただ、治癒魔法が使えるからと高を括っていたので、必要最低限の物しか揃っていない。
それを申し訳なく思いながら、ガーゼと包帯を箱から取り出す。
「お待たせ。準備できたから、上着を脱いでくれる?」
私の言葉に、彼は素直にローブを脱ぎ始めた。
闇色のローブを脱ぎ、次いであちこち切れている上着に手をかける。
そうしてあらわになった彼の裸の上半身を見て、私の心臓が一際大きくトクンと鳴った気がする。
ローブを着ていたからわからなかったが、線が細いように見えて意外にしっかりとした体つきだ。
細身だが痩せているというわけでもない彼の体は余計な部分を削ぎ落した感じで、完成された肉体とでも言えばいいのかもしれない。
そんな彼の体からは男独特の匂いが放たれている。
そこには傷口からの血の香りも混じっていたが、それでも私には好ましく思えた。
森林の中にいるような彼の匂いが鼻に届く度に、なんだか心が安らぎを覚えるのだ。
傷口の手当てのために近づくと、その匂いはより強くなって私の嗅覚を刺激する。
だから、それに気を取られないように手を動かすのは大変だった。
「とりあえず、痛み止めの魔法をかけるわ」
治癒魔法は拒んでも痛み止めなら受け入れるらしく、彼は大人しく座ったままだ。
そんな彼に痛み止めをかけ終わると、表情が幾分か和らいだ。
痛み止めがきちんと効果を発揮しているのを確認すると、傷口を濡れタオルで拭いていく。
そして、そこにガーゼを当て、包帯を巻いて止めるという作業を繰り返した。
あちこちに傷があるので、それら全てに同じ処置をしていたら、なんだか重症患者のような見かけになってしまった。
「これで終わりね」
「すまない……」
最後の一つに処置が終わると、彼は顔を俯けそう言った。
「謝るようなことじゃないわ。それより、私は少し出てくるから、あなたはゆっくり休んでいて」
申し訳ないという気持ちがあるらしく、私の言葉を聞くなり彼の表情が曇り、視線が逸らされた。
できるなら、取って食べたりはしないという冗談でも言ってあげたかったが、彼の魂を見た後では、手を出さないとは言い切れないから困ってしまう。
そんな自分に呆れる笑みを浮かべ、代わりの言葉を告げる。
「疲れているのでしょう?少し眠るといいわ。さすがにここまで追手は来ないから」
「……君は、なにも聞かないんだな……」
ぽつりと彼がそう呟いた。
「言ったでしょ、事情があるのはわかったと。興味がないといえば嘘になるけど、言いたくないことを無理に聞こうとは思わないもの」
なぜ傷だらけなのか、なぜ教団に追われていたのか、問いたいことはいくらでもある。
でも、その結果、彼に言いたくないことをしゃべらせるくらいなら、私は知らないままでいい。
「……では、俺から一つ聞いてもいいだろうか?」
「ええ、どうぞ」
聞きたいこととはなんだろうと思いながら質問を了承すると、彼は私を見つめて目を細めた。
「君の名前を教えてくれないか?」
その質問はちょっと意外だった。
少し意表を突かれた気分だが、それでもなぜか笑顔になってしまう。
「ミリアよ。私も、あなたの名前を聞いていいかしら?」
「グレンだ」
彼の名前を聞き、私の頭にその名が刻まれていく。
「グレン……いい名前ね。じゃあ、グレン君。私はこれから外に出てくるから、あなたはゆっくり休んでいてね」
そう彼に言い、少し名残惜しいと思いながらも外に向かおうとした時だ。
「グレンでいい。敬称を使われるのは……あまり好きじゃないんだ」
そんな言葉が耳に届いた。
振り向くと、彼はどこか複雑そうな表情で床を見つめていた。
ただ、その視線の先には床など映ってはいないように見える。
「そう。じゃあ、望み通りにグレンと呼ぶわ。その代わり、あなたも私に敬称を使うのはなしよ」
彼の青い目が私を見た。
「……いいのか?君はリリムだろう」
「いいのよ。そういうわけだから、遠慮なくミリアと呼んでいいわ。じゃあ、私はそろそろ行ってくるわね。大人しく休んでいてね、グレン?」
悪戯っぽい笑みを向けると、今度こそは家を出た。
後ろ手で扉を閉め、いざ行こうとした時、右手にちょっとした違和感を感じる。
「?」
不思議に思って自分の右手を見つめると、その違和感は手首からきていた。
ちょうどグレンに掴まれた辺りだ。
その部分だけが僅かに熱を持っているようなのだ。
「男として意識しているということかしらね……」
そっと掴まれた辺りを撫でても、熱は冷めない。
それにまんざらでもない笑みを浮かべつつ、親友の家へと向かったのだった。


「ルカ、いる?」
親友の家に到着した私は、扉を控えめにノックする。
ルカの生活は不規則な上に、いつ外出しているかもわからない。
睡眠中だと申し訳ないなと思いながら待つと、大して間も置かずに扉は開かれ、ルカが顔を覗かせた。
「なんか用?」
いつも通りはきはきと話すことから、どうやら寝ていたわけではないようだ。
それにほっと一息つき、今日の訪問理由を告げる。
「ええ。ちょっと、仕事の依頼をね」
「仕事依頼?あんたが依頼なんて珍しいわね。とりあえず入りなさいよ」
そう言って、扉を開け放ってくれた。
「お邪魔するわ」
「ま、座んなさいよ。立ち話ってのもあれだし」
お言葉に甘えて席に着くと、対面にルカが座る。
「で、依頼ってなによ?」
「実は今、私の家にお客さんが来ているの。依頼もそのお客さんのことなんだけどね……」
彼について説明を始める。
最初は普通に聞いていたルカだが、話が進むにつれて眉が寄り、最終的には盛大なため息をこぼした。
「はぁ……。あんた、人を捨て犬みたいに拾ってくるんじゃないわよ」
「あの時は咄嗟だったから仕方ないわ。それに、傷だらけの人を見つけたら、普通は助けようって思わない?」
余程の薄情な人でもない限り、普通は助けるはずだ。
なんだかんだで根は優しいルカだって、そうするはず。
「まあ、過ぎたことを言っても仕方ないから、それはいいわ。で、治癒魔法は嫌だとか、そいつは何様のつもりよ」
「事情がある、としか言えないわね」
彼の口ぶりから、あの無数の傷は自分に対する罰なのだという。
それがどういう意味なのかはわからない。
「めんどくさいヤツね。なんなら、アタシが強引にでも治してあげよっか?」
「ルカ?」
たしなめるように言うと、ルカは目を逸らして再びため息をついた。
「はいはい。そいつの事情を考慮すればいいんでしょ。で、アタシに薬を作ってほしいと」
「ええ。できれば、料理に混ぜても大丈夫なものがいいのだけど、作れるかしら?」
今日ルカの家に来た理由。
それは薬を作ってもらうためだ。
私が彼に施したのは痛み止めだけ。
だからこそ、彼の具合が早く良くなるように、自然治癒力を高める薬をルカに作ってもらいにきたのだ。
治癒魔法は拒む彼だが、効果が出るまでに時間のかかる薬なら、恐らく受け入れてくれるはず。
「アタシを誰だと思ってんのよ。自然治癒力を高める薬なんてわけないわ。ちょっと待ってなさい。すぐに作るから」
実に頼もしい言葉とともに、ルカはさっそく準備に取り掛かる。
私から見れば枯れ草や木の実でしかないようなものが次々に作業机に並べられ、次いで乳鉢と棒を持ってきた。
ただなんとなくその様子を眺めていた私だが、このまま薬が出来上がるのを見ているだけというのも複雑だ。
彼のために、なにかしたい。
「ねぇルカ、私にも出来ることはある?」
「出来ること?そうね……」
一瞬だけ考えるように視線が泳ぐルカだが、すぐに先程の枯れ葉や木の実を持ってきた。
ルカが準備していた時にはわからなかったが、手元にくると、予想外に爽やかな香りがして少し意外だ。
「じゃあ、これをすり潰して。さらさらの粉になるまでね。アタシは他の準備をするわ」
「粉になるまでね。わかったわ」
渡された乳鉢に材料を入れ、棒でごりごりとかき混ぜるように動かすと、予想に反してすんなりと中身の物がすり潰れていく。
しかし、なかなか粉にはなってくれず、思ったよりも根気がいるようだ。
それでもグレンのためになるのだと思うと、少しも大変だとは思わない。
「それにしても、そいつにはイラっとくるわね。事情があるにしたって、治癒魔法を拒絶するとかバカでしょ。口に入れた瞬間に吐き出したくなるくらい苦い薬にしてやろうかしら……」
そう言うルカは机の引き出しを開けて再び素材らしきものを持ってきた。
「これ、入れる?」
ルカが手にしているのは黒い物体で、毒々しいとか禍々しいという表現がぴったりのもの。
形状からしてなんらかの植物の根に見えるが、どう見ても薬草というより毒草だった。
「あまり体に良さそうには見えないのだけど」
「見かけはね。でもこれ、他の素材の効果を劇的に高める効果があるのよ。難点は、恐ろしく苦いってとこね」
見かけはともかく、薬としては有用らしい。
それはいいにしても、本気で吐くほど苦い薬にするつもりなのだろうか。
「あまり意地悪はしないであげて」
苦笑混じりに言うと、ルカは肩をすくめた。
「ま、それだけでも十分に効果はあるし、今回は勘弁してやるわ。で、どう?そろそろ粉になった?」
私の手元を覗き込み、乳鉢の中へと手を入れるルカ。
「ん、これだけ潰せば十分ね。ちょっと待ってて。アタシが用意した粉を混ぜるから」
私が潰した粉の出来を確かめると、ルカは別の乳鉢を持ってきた。
私が作業している間に自分もやっていたらしく、そこには真っ白な粉が入っていた。
それを私の方の乳鉢へと入れ、棒でかき混ぜる。
そうして出来上がったそれを、丈夫な紙袋へと入れてくれた。
「これでよしと。料理に混ぜてもいいけど、できれば食事前にこれだけで飲ませて。量はスプーン一杯分だから」
「ありがとう、ルカ。それで、代金は?今回は私用だから、きちんと払うわ」
「いいわよ代金なんて。大したものでもないし、貴重な素材を使ったわけでもないしね」
「でも」
さすがにタダはよくないと思い、食い下がろうとする私だったが、ルカにきっぱりと言われてしまった。
「アタシがいいって言ってんだからいいのよ。ほら、さっさとそれ持って戻んなさいよ。そいつを待たせているんでしょ?」
「……いいの?」
「そう言ってんでしょ。あんたから代金とろうなんて思わないわよ」
呆れるように言われてしまった。
「ありがとう、ルカ。そう言ってくれるなら、今回は遠慮なく受け取るわ。じゃあ、今日はこれで。また遊びに来るわ」
本当なら一緒にどこかに遊びに行きたいと思わないでもないが、生憎と今は家に彼を待たせている。
痛み止めは施したが、やはり早く戻ってこの薬を飲ませてあげたい。
そんな私の内心を悟ったのかはわからないが、ルカは特に会話を振ってくるでもなく、「ん」と短く言って手を上げただけだ。
それに軽くを手を振り返すと、ルカの家を出て転移魔法で家へと戻った。
だから、ルカが怪訝そうにぽつりと呟いた声に気づくことはなかった。
「まさか、あの占いが当たったってわけじゃないでしょうね……?」


「ただいま」
言ってみてから、なんだか妙な気分だ。
今まで一人暮らしだったから、ただいまと言っても応えてくれる人はいなかった。それが今はいる。
しかし、私の声に返事はなかった。
疑問に思って居間に移動すると、グレンはソファに背を預けて顔を俯けていた。
「グレン?」
名前を読んでみても返事はない。
少し心配になって近づいてみると、彼の定期的な呼吸が聞こえた。
屈んでその顔を覗き込むと、穏やかな顔で目を閉じている。
どうやら眠っているらしい。
名前を読んでも起きなかったことから、深い眠りについているようだ。
「……」
まじまじと彼の顔を見つめ、自然と笑みが浮かんでしまう。
ゆっくり眠ってほしい。
そう思いつつ立ち上がり、台所に向かう。
そろそろ夕食の準備をする時間だ。
しかも、今日は二人分を用意しなければならない。
ルカに食事を作ることは多々あったので二人分を作るのは簡単だが、問題はグレンが男だということだ。
私やルカはそこまで食べないが、男となるとどのくらいの量を食べるのか見当がつかない。
手にした野菜を弄びつつそんなことを考えるが、疑問はすぐに解決した。
少ないよりは多いほうがいい。
どんな事情があるかはわからないが、苦労してきたみたいだし、お腹いっぱい食べさせてあげよう。
決断が出たところで野菜の皮むきを開始だ。
料理を始めた頃はなかなかうまくいかなかったその作業も、今は苦もなくできる。
包丁ではなく剣なら簡単に扱えるのにと思っていた頃が嘘のようだ。
全てはいつかできるであろう夫のため。
「なんだか妻になった気分ね……」
今現在は夫ではなく、グレンのために作っているわけだが、少しも嫌な気はしない。
それどころか、逆に楽しいくらいだ。
自然と口元に笑みが浮かぶのを自覚しながら、私はいつもより多めの野菜の皮むきを続けた―。


鍋の中のシチューがぽこぽこと泡を立て、完成したことを告げる。
辺りにはミルクの濃厚な香りが漂い、それが食欲を誘う。
テーブルに食パンやサラダを並べ、食事の準備は万全だ。
後は、彼を起こしにいくだけ。
だが、そんなことをせずともグレンは起きていた。
眠っていた時と変わらずソファに背を預けたままで、その顔は天井を見上げているようだった。
ただ、なにかしらの事情があるようだから、その目は天井など映してはいないかもしれない。
「グレン、食事の準備が出来たのだけど、食欲はあるかしら?」
彼の顔が私に向けられた。
「わざわざ俺の分も用意してくれたのか……?」
「当然じゃない。それとも、あなたには私がお客さんの食事の準備もしないような意地悪女に見えるのかしら?」
そう見えていたら少し、いや、かなりショックだが、私の冗談に彼は初めて笑顔を見せてくれた。
たったそれだけのことなのに、胸がどきりと反応する。
「いや、見えない。こうして俺を助けてくれた時点で、君はそんな人じゃない」
傷の手当てをしていた時よりも優しい声音だった。
そのせいか、どう返していいかわからなくなる。
もしかして、私は照れているの……?
そんな答えに辿り着き、内心驚いてしまう。
ルカを始め、様々な人をからかい、弄ってきたはずなのに、その私が彼の笑顔一つ、たったの一声で動揺させられている。
それがなんだかちょっぴり悔しい。
「……それはよかった。で、食事は食べられそうかしら?」
言った後で、我ながらなんて面白みのない返事だと思ってしまう。
それでも彼は笑みを崩さなかった。
「……いただこう。実は、昨夜からなにも食べてないんだ」
そう言って苦笑を浮かべたのは、きっと自分自身に対してだろう。
ただ、彼のなにも食べていないという言葉に私は少し安心する。
多めに食事を用意してよかったと。
「じゃあ、こっちに来て。ああ、動ける?無理そうなら、こっちに持ってくるわ」
「いや、大丈夫だ。君の魔法のおかげで、痛みはすっかり消えている」
すっと立ち上がるグレン、やはり魔法が効いているようで、その動作は至って自然だ。
改めて彼が立っている姿を見ると、私より頭一つ分は背が高い。
私はリリムの中でも標準的な身長だが、グレンは男にしては高い部類だろう。
それになぜか安心感を覚えてしまう。
「あくまで痛みを止めただけよ。傷を治したわけではないから、あまり無理はしないようにね」
うなずくグレン。
彼を連れて台所に向かうと、席に着くようにと椅子を指差す。
大人しく席に着いた彼の前に作ったばかりのシチューを置くと、その向かい側に自分の分を置く。
そして最後にルカに作ってもらった薬を持ってくる。
ルカは料理に混ぜても問題ないと言っていたが、そんな姑息なことをせずとも、グレンなら飲んでくれる気がしたのだ。
「グレン、食べる前にこれを飲んでくれる?量はスプーン一杯分だから」
差し出された袋を一瞥し、スプーンを受け取るグレン。
そこで薬の説明をしようとしたのだが、彼は私が説明するよりも先に薬を掬い上げると、躊躇う素振りも見せずに口に放り込み、水で飲み下してしまった。
「これでいいか?」
「……普通、どんなものか聞いてから飲まないかしら?もし変な薬だったらどうするつもりなの?」
「君が用意してくれたものが変な薬であるはずがない」
確信に満ちた口ぶりだった。信用されているのだろうか?
「あなたが今口にしたのは体の治癒力を高める薬よ。するはずだった説明をすると、こんな感じかしら」
「そうか……。食事だけでなく、薬まで用意してくれたのか。すまない……」
自嘲気味に笑うのは負い目を感じているからかもしれない。
「余計なお世話だったかしら」
「いや、そんなことはない。今聞いた効果の薬なら……まだ許容できる」
「そう。じゃあ、食事にしましょ。冷めたらせっかくのシチューが台無しだもの」
そう言って椅子に座ると、彼は小さく笑った。
「そうだな……。せっかく作ってくれたものだ、冷めないうちにいただくとしよう」
それを合図に食事が始まる。
じっくり煮込んだシチューをすくい、口に運ぶ。
味見はきちんとしたので問題ない仕上がりになっているはずだが、正直不安に駆られる。
一通り料理を出来るようになって、ルカ以外の人に食べてもらうのは初めてなのだ。
そのせいで、どうしてもグレンの感想が気になってしまう。
そっと彼に目を向けると、グレンは黙々とスプーンをシチューと口との間で往復させている。
しかし、やがて私の視線に気づいたらしい。
「なんだ?」
「料理を作った身としては、感想が気になるのよ」
顔を向けてきた彼に、正直にそう言った。
直後、彼の顔に苦笑が浮かぶ。
「すまない。気のきいた言葉を言えず申し訳ないが、おいしい、と思っている」
そう言うと、彼は目を逸らした。
見れば、僅かに頬が赤くなっている。
誰かさんとそっくりの仕草だ。
お世辞ではなく、本心からおいしいと言ってくれた。
それがわかり、喜びから尻尾は揺れ、顔には笑みが浮かぶ。
「それなら一安心だわ。おかわりはあるから、欲しかったら言ってね」
言ってみたものの、彼がおかわりを申し出るかは微妙なところだ。
実際、グレンは「ああ」という短い返事とともに黙々と食べるのを再開するだけで、話しかけてくる素振りは一切ない。
これはよろしくない。
これでは、おかわりどころか、何か口にするのもためらうような雰囲気になってしまう。
そんな食事、ちっとも面白くない。
「ねえグレン。あなたの好きな食べ物は?」
だから、何気ない質問をした。
彼が話しかけてこないなら、私からリードすればいいのだから。
「好きな食べ物?」
私の質問にグレンは手を止め、少し考えるように顔を俯ける。
私としては、グレンの好きな食べ物が私の作れるものなら、明日作ってあげようくらいのつもりで聞いたのだが、なぜか彼は真剣に考えているようだった。
「……すまない。食べられればなんでもいいと思っていたんだ。だから、これといって好きなものは思いつかない」
会話のきっかけにしようとした質問は失敗のようだ。
それにため息をつきかけ、代わりの質問をしようとする。
しかし、先に口を開いたのはグレンだった。
「だが、このシチューは好き……だと思う。食べていて、自然と温かくなる」
好きの後に少し間が空いたが、嘘でもなく、世辞でもない。
本心からそう言ってくれている。
それを嬉しいと思う反面、明日の食事はどうしようかと悩む。
まさか明日もシチューというわけにもいかないし、どうしたものか。
「褒め言葉と受け取っておくわ。じゃあ、明日、食べたいものはある?」
「特に思いつかないな。だから君が食べたいものでいい。言ったように、好きなものはないが、嫌いなものもないからな」
「そう言われても、作り手としては困ってしまうわね。もっと自己主張してほしいわ」
嫌いなものがないのはいいが、私はグレンが食べたいものを作りたいのだ。
私が食べたいものでは意味がない。
「自己主張、か……。では……コーンスープを作ってもらってもいいだろうか。もちろん、無理なら無理で構わない」
一瞬だけ目をさ迷わせた後、グレンはそっと申し出た。
なんでコーンスープなのかは、特に気にならない。
今まで遠慮している感じだった彼が、一歩近づいてきてくれたのだ。
それが嬉しい。
「コーンスープでいいなら、明日作るわ」
もっと凝ったスープでも作れるが、彼が望むのだからコーンスープにしよう。
スープ以外にはどんな料理を作ろうか?
頭では早くも明日の予定が組み上がっていく。
「すまない、我がままを言って」
申し訳なさそうな彼の声で、意識が現実に戻る。
「あら、聞いたのは私なんだから、謝る必要なんてないわ。それよりグレン、私はもっとあなたとお話したいのだけど、おしゃべりは嫌いかしら?」
私はもっとグレンのことが知りたい。
心が強くそう思うのだ。
「こうして一緒に食事をしている以上、会話にはつき合うつもりだ。ただ、俺は女性との会話はあまり得意とは言えないが、それでもいいだろうか?」
「気のきいたセリフを言ってもらいたいわけじゃないから、普通に受け答えしてくれれば十分よ」
本当にそれだけでいい。
何気ない会話から、ゆっくりとお互いのことを知っていく。
一歩ずつお互いの距離を縮めていけば、いつかは彼の抱えていることも話してくれるはずだから。
「そうか。では、なんとか努力してみよう……」
会話を努力するということ自体がおかしなことだが、彼が言うとなんだか微笑ましい。
「そう意気込まなくても大丈夫よ。さて、なにから話そうかしら……」
その後の会話は、出会ったばかりの私達にしては盛り上がったほうだろう。
主に話したのは様々な景色や旅についてだ。
グレンも旅慣れているようで、やれあそこの滝はすごかった、あの森には綺麗な湖があるだのと、私の行ったことのない場所についての体験を話してくれた。
共通の話題が見つかるとつい夢中になりそうなものだが、私もグレンも穏やかな空気のままに話していたと思う。
グレンが林で昼寝をしていたら、急に天気が悪くなって雨に降られ、ずぶ濡れになったという話が終わった時だ。
彼のシチューがすっかりなくなっていることに気づいた。
「グレン」
そっと皿の前に手を差し出す。
何度か私の顔と手に目をやり、グレンは私がなにを言いたいか分かったらしい。
苦笑にも似た笑みを浮かべ、しばし躊躇った後に皿を渡してきた。
それを無言で受け取ると、シチューのおかわりをよそりに行く。
保温魔法をかけてあるので、鍋の蓋を開ければ湯気とともにミルクの香りが漂う。
最初と同じくらいの量を皿によそり、グレンの下へと持っていく。
「はい、どうぞ」
「すまない」
皿を受け取ると、グレンは再びシチューに手をつける。
口元を小さく笑みの形にしてグレンが食べてくれるのを見守るように眺めていると、その手が急に止まった。
「どうしたの、グレン?もうお腹いっぱい?」
「いや、そうではないんだが……」
「じゃあ、どうしたの?」
思わず首をかしげてしまう。
そんな私に、グレンは困ったように苦笑する。
「女性と二人きりで食事をするのは初めてなんだ。そのせいか、ガラにもなく緊張しているらしい……」
グレンは自嘲の笑みを浮かべつつ、再びシチューを食べ始める。
私はといえば、彼の言葉に若干の喜びを覚えていた。
きちんと女として見てくれている。
それが嬉しい。
「じゃあ、この食事はあなたにとって女性との初めての食事というわけね。あなたの初体験の相手になれるだなんて、光栄だわ」
「そう大げさに言われると反応に困るんだが……」
眉を曇らせつつも、グレンの口元は僅かに笑っている。
この会話を彼も楽しんでくれているらしい。
「あら、嬉しいのは本当よ。それにしても、あなたが女性と食事をしたことがないのは意外だわ」
魔物の目による補正をなしにしても、グレンはかなりいい男のはずだ。
それこそ、人の女性だって放っておくわけがない容姿をしている。
それなのに、女性と食事をしたことはないと言うのだから不思議だ。
「親友が言うには、俺は声をかけ辛い雰囲気をしているらしい。恐らく、それが原因だろう」
淡々と語るグレンは特に困っている感じでもない。
少し天然気味なようだが、それも私には魅力的に映る。
「私は特に気にならないわね。他の男と大差ないと思うわ」
「確かに、君はそういうことを気にしなそうだ」
彼の相槌に、嫌でも口元が笑ってしまう。
魔物である以上、男の雰囲気を気にする人はほとんどいないはずだ。
それでさえ、相手の魅力の一つ。
そう映るだけにすぎない。
だから、私の目に映るグレンは声をかけづらいというより、物静かな雰囲気の青年でしかない。
「ええ、そうよ。それで、あなたから見た私はどうなのかしら?」
やはり彼の目にどう映っているかは気になってしまうもので、つい尋ねていた。
「……雰囲気のことを言っているのなら、風、だろうか。自由で、なにものにも囚われない。そんな感じがする。容姿のことを言っているのなら……陳腐な言葉だが、美しいと思う……」
グレンの頬に僅かながら朱が混じった。
グレンの口から出たのはなんの飾り気もない褒め言葉だったが、それでも彼に褒めてもらえたことに悦びを感じてしまう。
今まで男からの褒め言葉など、数えきれないほど言われてきたはずなのに、だ。
「ふふ、褒めてくれたのなら、ありがとうと言っていくわ。でも、あなたが見てきた女性の中にも、美しい人はいたでしょ?」
「どうだろうな……。仕事の関係上、女性の容姿を気にかけている暇はなかった。最後にそう思ったのがいつかも覚えていないのだから、恐らく俺は無頓着なのだろう」
「そうなの?そういえばグレン、あなたの仕事はなに?」
会話の流れから、つい口が動いた。
教団に追われていたグレンだ。
言ってしまってから、失言だったと気づいた。
「他人に誇れるような仕事ではない、とだけ言っておこう」
少しだけ彼の表情が苦いものになった。
「そういえば、あなたは事情があるんだったわね。ごめんなさい、つまらないことを聞いたわ」
「いや、当然の質問だ。だから、いずれ話そう。仕事だけでなく、俺のことを。ただ、少し頭を整理する時間が欲しい。それまで待ってはもらえないだろうか」
彼の青い目が臆することなく私を見つめてくる。
そこに嘘を語っている色はない。
つまり、いつか話してくれる。
より彼を知ることができる。
今はそれだけで満足だ。
「ええ、待つわ。あなたが話してくれるのをね。だから、慌てなくていいわ。あなたが話す気になるまで、私は待っているから」
「……すまない」
グレンが謝りつつも、少しだけ嬉しそうだったのは私の気のせいだろうか。
感情があまり顔に出ないから判断が難しいが、そうだったらいいなと思う。
それからは特に気まずい雰囲気にもならず、お互いの些細な話をしながら食事を終えたのだった。


すっかり夜になり、風呂をすませて後は寝るだけという時間になって、ちょっとしたことで彼と言い合いになった。
言い合いと呼べるほどお互いに感情的になってはいないが、それでも意見が分かれたのだ。
その理由は、グレンがどこで寝るかについてだった。
「俺はソファで十分だ」
そう彼は言うのだが、怪我人をソファで寝させるわけにはいかない。
「あら、怪我人をソファで寝ろだなんて言わないわ。あなたはベッドを使って。私がソファで寝るから」
木の上でだって眠れるくらいだから、ソファでも私には十分だ。
しかし、グレンも譲らなかった。
「それこそ論外だ。家主を差し置いてベッドで眠れるほど図々しくはない。だから、君がベッドを使うべきだ。俺は外だって構わない」
家の外など、あり得ない話だ。
「あなたは私に気を遣いすぎね。その私がいいと言っているのだから、あなたがベッドで眠るべきよ」
「それはお互い様だ。俺はそこまで気を遣ってもらうような男ではない」
グレンは頑として了承しない。
この様子では、簡単には意思を曲げないに違いない。
なんとなく父様に似ている気がする。
母様が喧嘩する時もこんな感じなのだろうか。
「じゃあ、お互いに納得できる妥協点を探しましょ。私は、あなたがベッドで寝ることだけは譲れないわ」
「俺も同意見だ。君がベッドで寝ることは譲れない」
グレンと喧嘩がしたいわけではない。
だから、お互いに妥協できる条件を探そうと思ったのだが、早くも意見がぶつかった。
「困ったわね……。私もあなたも、お互いにベッドで寝るべきだと言う。この状況はどうしましょうか?」
どちらかが折れればいいのだが、私は折れる気はないし、グレンも同じだろう。
だから、このままいい案が浮かばないなら、怪我人だということを理由にして彼にベッドを使ってもらえばいい。
彼の家主であるという発言を逆手にとって、強制してしまおう。
そんなことを考えていると、グレンの口から信じられない提案が出た。
「……なら、一緒に寝るか?」
思わずぽかんとしてしまう。
「自分がなにを言っているか、わかっているのかしら?」
「ああ……。幸か不幸かわからないが、ベッドは二人で寝ても十分な大きさだからな。これなら、お互いの条件を満たせる」
努めて冷静にそう言うグレン。
確かにそれならお互いの条件を満たせるが、私も魔物の一人だ。
男と同じベッドで一緒に寝て、なにも起こらないとでも思っているのだろうか。
「ねえグレン。わかっていると思うけど、私も魔物よ。その私と一緒に寝るということがなにを意味するか、わかっているのかしら?」
教団に追われていたくらいだから、グレンは反魔物派の人間ではないだろう。
なら、魔物がどういう存在であるかは知っているはずだ。
「ああ。だから……その覚悟はできている。俺はこんな体だからな。君がその気になれば、俺がどこにいようと結果は同じだ。なら、君がしやすい場所で寝た方がいいと考えた」
思わず呆れそうになった。
自分の貞操の危機かもしれないのに、私に気を遣っているのだから。
同時に嬉しいとも感じてしまう。
その喜びに呼応するように、身体が僅かに疼きを覚える。
「生憎と、怪我人を襲うほど飢えてはいないわ。だから、あなたを食べたりはしない」
「そうか……。では、どうする?」
小さく笑い、グレンが青い目をこちらに向けてきた。
一緒に寝るかという質問に対する答えを保留にしたままだ。
自分でもわかるくらいに、今の私は苦笑している。
淫魔の私がベッドに誘うのではなく、男の彼がベッドに誘っているこの状況はなんなのだろうと。
「説得力があるかはわからないが、俺から君に手を出すつもりはない」
私の考えが読めたのか、それとも安心させるためか、彼はそう付け加えた。
グレンとは今日出会ったばかりだが、それでも彼がいきなりそういうことをするような男には思えない。
そんな彼にそこまで言われたら、うなずくしかなかった。
「……わかったわ。あなたも折れるつもりはないようだし、一緒に寝ましょうか。それしかお互いに納得できなそうだしね……」
諦めたように先にベッドに上ると、グレンも反対側からベッドに体を乗せる。
彼が体を横たえるのを確認して明かりを消すと、目だけをそっと横に向けた。
暗くなった部屋でも、同じベッドにいるグレンが仰向けになっているのが分かる。
ほとんどベッドの端にいるのは、私が万が一襲いかかろうとした時の備えなのかもしれない。
そんなグレンを可愛らしく思いながら、私もベッドに体を沈める。
そしてくるりと彼に背を向けたのは、ほとんど反射だった。
彼の方を向いて寝るのは、なぜか恥ずかしい気がしたのだ。
洗濯されたシーツの匂いに混じって彼の香りがするのを鼻が感じ取り、胸の鼓動が少し早まったように思う。
身体の奥から温かいものが込み上げてくる。
それが不思議と心地良くて、口元に笑みが浮かんでしまう。
意識を背後に向ければ、そこにははっきりと彼の気配を感じる。
男と寝るのはこれが初めてというわけではない。
身体を許したことはないが、それでも添い寝なら何度もした。
だから、単純に男と寝た経験ならそれなりにあるはずなのに、こうしてグレンと一緒に寝ていると安心感を覚える。
これからしばらくは寝るのが楽しみになりそうだ。
今後のことを想像して一人声なく笑うと、私はゆっくりと目を閉じたのだった。
12/10/25 18:00更新 / エンプティ
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■作者メッセージ
お久しぶりです。エンプティです。
最初から読んでくれている方、途中から読んでくれている方も随分とお待たせしました。
リリムの散歩、いよいよ最終章となります。
今まで絶滅危惧種となっていたイチャラブがようやくです。
サブタイトルからも分かるとおり、前編や後編では終わりません。そんな最終章ですが、最後までお付き合いいただければと思います。
お気づきの方もいると思いますが、グレンは白い孤島のエピローグに登場した彼です。ミリアの相手となる人物なので、最終章より前に先行登場としました。
では、最終章仕様の次回予告を。

「幸せか。俺にとっては、夢のようなものだな……」

そのために剣を振るってきた。
それが課せられた使命だったから。
今の自分がそうなのだと認識した時、青年は苦悩する。
それはかけがえのないものだとようやく分かったから。
自分が今まで奪ってきたものだから―。


さて、この場を借りて一言謝礼を。
マイクロミーさん、コラボありがとうございました!
申し込まれた時は驚きましたが、丁寧に対応していただいたのでほとんど全てお任せすることができました。
ほとんどの読者の方も知っているとは思いますが、マイクロミーさんの作品である「幼き王女ときままな旅」にうちの主要な方々を登場させていただきました。
「幼き王女ときままな旅」はロリリムと個性的な人達が世界を旅するという、読みやすくてほのぼのできる作品です。
うまい説明ではなくて申し訳ないですが、ある意味では同じ旅を扱っているこの作品から、バトルやシリアスを取り除いてほのぼのを強くした感じとでも言えばいいのでしょうか。
それだけに、気軽に読めて楽しめると思います。エンプティと違って更新速度も早いですし……。
そういうわけで、未読の方は少しでも興味が沸いたら是非読んでみましょう。

あれこれと書いたところで今回はこのへんで。
ではまた、次回でお会いしましょう。

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