リリムと多忙な余暇(後編)
「じゃあ、行ってくるわ」
翌日、そう言って私は部屋を出た。
集合場所の本屋までは少し距離があるので、時間に余裕をもっての出発だ。
ルカは今日も部屋で暗号解読に集中するらしく、私が声をかけても「ん」の一言だけで、見向きもしない。
昨日と違って今日は気持ちのいい晴天だというのに、ルカは相変わらず部屋にこもるつもりのようだ。
とはいえ、あれこれと口出しする気はないのでそのまま私は宿を出ることにする。
雨が降っていないからか、今日は通りに人の数が多いようで、朝から賑やかだ。
私のすぐ近くでも、腕白そうな男の子が水溜まりに飛び込んで母親らしき人を苦笑させている。
それを眺めて微笑みながら、軽やかに歩き出す。
街の喧騒が陽が昇るのに合わせて大きくなってきているなか、待ち合わせ場所の本屋に到着したがカロンの姿はなかった。
しかし、店自体は開いているようなので、カロンが来るまで適当に店をぶらついていればいいだろう。
そう思って店に入れば、本屋の定番である立ち読み客があちこちに見受けられた。
店番だろうサキュバスもカウンターに座って本を読んでいるあたり、立ち読みには寛容らしい。
私も適当に移動して棚から一冊の本を選び出すと、気ままに読み始める。
手にしたのは姫とその従者の禁断の恋を扱ったもののようで、冒頭から情事が書かれていた。
魔物が経営する本屋なだけあって、置かれているものも魔物向けが多いらしい。
ルカにお土産に買っていこうかしらなんて思いながら十数ページ読んだ頃だ。
ふと隣りに誰かが立った気配を感じた。
「その本に暗号の答えは書かれておるのか?」
本から目を離して横に向けると、適当な本を手に取って開いているカロンがいた。
それを確認すると、私は文章に目を戻した。
「『お許し下さいお嬢様。私はもう耐えられそうにない。あなたが欲しくてたまらないのです』『駄目よオスカー。こんなところでしたら、使用人達に声が聞こえてしまいます……』口では嫌がりつつも、シャーリーのふわりとしたスカートをたくし上げれば、その下着は既に愛液でぐしょぐしょとなっていた。それを確認すると、オスカーは彼女の下着を僅かにずらして秘唇を露わにする。そしていきり立った自分の剛直を」
「ええい、やめるんじゃ!リリムが娯楽小説を音読などするでない!濡れてきてしまうじゃろう!」
読んでいる最中に足を蹴られて仕方なく中断すると、カロンはむくれ面でこちらを見上げていた。
「この話はなかなか悪くないわね。あなたもそう思わない?」
「お主は本当にやり辛いリリムじゃなっ。まったく、厄介な者を相手にしたものじゃ」
初めて会った人に対して優位に立つためには、落ち着いて自分のペースにゆっくりと巻き込んでいくこと。
姉の教えはなんだかんだで役に立つらしい。
「それで、どこで話すのかしら?」
ぶつぶつと愚痴るカロンは私が声をかけると、丸く青い目を向けてくる。
「近くのオープン喫茶じゃ。アレの話は落ち着いた場所でしたいからのう」
「そう。じゃあ、行きましょ」
「うむ」
本を棚に戻し、歩き出そうとした時だ。
「……ところで、さっき読んでいた本はなんというタイトルじゃ?」
カロンにそう問われた。
興味が湧いたのだろうか。
「『姫と従者のいけない蜜月』ね」
「ふむ。後で買うとするかのう」
そんな会話をしながら本屋を出て向かった先は、本当にすぐ近くのオープン喫茶だ。
天気のおかげか、鮮やかな空色のパラソルが設置されたテーブルは半分程が埋まっていて、客の入りはなかなかのようだ。
カロンはパラソルが開いているテーブルの一つに歩いていくと、ちょこんと席に着く。
その向かいに座ろうとして、私は足を止めた。
カロンの隣りに先客がいたのだ。
しかし、カロンは特に気にした様子もなく私に座るようにと目で勧めてくる。
カロンの前ではなく、先客の前の席にだ。
なにか考えがあるのかもしれないが、ここで拒否してもめるのもよくない。
結果、私は大人しく指定された席に着いた。
そしてすぐに少し驚くことになった。
「お主はワシが誰のために動いているかと問うたな。これが答えじゃ」
カロンの声が少し嬉しそうなのは、私に一矢報いることができたからかもしれない。
そこにいたのは、一人の少女。
ショートの黒い髪と、対照的な白い肌。
少し長めの前髪から覗く目は、私とはまた違った色の赤だ。
黒いワンピースに身を包んだその少女は、私と目が合うとびくりと身体をすくませた。
彼女のそんな様子も含め、色々と想定外でつい笑ってしまう。
「まさか、ドッペルゲンガーとはね。さすがに意外だわ」
「ワシの親友のターニアじゃ」
カロンが紹介し、ターニアはおずおずと頭を下げる。
「ミリアよ。よろしく、ターニア」
にこりと微笑んでみせると、ターニアは小さくうなずく。
「ふむ、そういえばお主の名前を聞いたのは今回が初じゃのう」
「確かにそうね。あなたに名乗らなかったのは謝るわ」
「そう思うなら、昨日のワシの問いに答えてくれんかのう」
この場の空気が変わった。
カロンの目が笑っていないことが、それを証明している。
「そうね、約束は守るわ。質問の答えはいいえ。私は母様の命を受けてここに来たわけではないの」
カロンの審判者のような目を見つめながらそう答えると、即座に別の質問が飛んできた。
「なら、なぜこの街に来たんじゃ」
「観光兼夫探しね。その結果、見つけたのがあなたの出した張り紙というわけ」
素直にありのままを話すと、カロンも嘘を言っていないことがわかったのか、ため息をついた。
それに合わせて、この場の空気が緩む。
「はあ。情報を得ようとした結果が裏目に出るとは、すまんのう、ターニア」
「いいよ、カロンちゃんは悪くないもん」
ターニアに苦笑され、カロンは嫌そうな目で私を見た。
「まったく、観光に来たなら素直に街だけを眺めていてくれればよかったのじゃ。西以外なら、どこを見たって楽しめるじゃろうに」
「あら、なぜ西は駄目なの?」
「なんじゃ、知らんのか。この街はつい最近になってから発展したばかりでのう。最初は小さな町だったものが、今はご覧の有様じゃ」
話すことを中断し、カロンは辺りを見回す。
天を衝かんばかりに立ち並ぶ背の高い建物や、整備された石畳の通りはどこを見ても綺麗だ。
そこを行く人々も一様に笑顔。
「じゃが、急速に発展すると、それに追いつけない場所が出てしまうものじゃ」
「それが西だと?」
「うむ。この街で西は旧市街と呼ばれておる。元はそこから発展したんじゃが、今となってはもう昔のものなんじゃろうな。街の連中も、旧市街を新しく建て直すより、今のこの街を更に発展させる方をとっておる。それを悪いとは言わんが、昔のものはこうして忘れられていくんじゃのう」
どこか感慨深そうにカロンがそう語る。
「なるほどね。それで、あなた達はその昔のものをどうして探し求めるのかしら?」
私がそう言うと、カロンとターニアは揃ってこちらを見た。
話が現在のものへと変わったからだろう。
二人とも真剣な表情になった。
「利用したいからです」
ぽつりと、しかしはっきりと告げられた言葉はカロンのものではない。
私がそちらに目を向けると、ターニアはどこか怯えたような表情になりつつも、しっかりと私を見ていた。
「あれがどういう物か分かった上での発言かしら?」
「もちろんです。それを説明するために、今日は私も来たんです」
言葉と同時に、ターニアの身体を影が覆っていく。
少女の身体をすっぽりと包むと、影はすぐに霧散していった。
そこにいたのは、二十歳前後の金髪の女性。
「リムルさん。私の大好きなケビンさんの想い人です。私は、この人をケビンさんに取り戻してあげたいんです」
他人へと変身したことで臆病な性格が緩和されたのか、ターニアははっきりとそう告げた。
そこまで言われれば、私も理解できる。
ルカは言っていた。
禁書は死者さえも蘇らせる力があると。
「つまり、あなたの目的は……」
「はい。リムルさんを生き返らせてあげたいんです。カロンちゃんから、禁書なら恐らくそれも可能だと聞きました。だから私は」
「待って」
勢い込んで語ろうとするターニアを手で制し、そっと彼女を見つめた。
「あなたはそれでいいの?」
「もちろんです。リムルさんが戻ってくれば、ケビンさんは幸せになれる。これ以上のことはないでしょう」
「違うわ。私が訊きたいのは、あなたは幸せになれなくてもいいのかということよ。私も禁書については聞いた範囲でしか知らないけど、旧魔王の力が宿っているなら、死者を蘇らせることもできておかしくない。その結果、あなたの想い人は幸せになれるかもしれないわね。けど、あなたは?愛しい男を他の女に取られてもいいの?自分の手で幸せにしてあげたいとは思わないの?」
禁書を利用すれば、ケビンとやらはリムルと一緒に幸せになれるかもしれない。
しかし、そこにターニアの幸せはない。
ただ、損な選択をしただけ。
「それはワシも言ったんじゃ。しかし、こやつときたら……」
「いいんです。私にできるのは、ケビンさんの理想のリムルさんを演じることだけ。どれだけ上手く化けられても、私はリムルさんにはなれない。大好きな人を騙しているのは辛いんです。もし、私がリムルさんではないとバレたら、ケビンさんを傷つけてしまう。私は、あの人に都合の良い夢を見せているだけにすぎないんです。だから、もし彼が目を覚ませば夢は終わってしまう。でも、禁書があれば、夢を現実に変えられる。ケビンさんの幸せが私の幸せですから」
視界の端で、カロンがやれやれとため息をついた。
私も同じようにため息をつきたい気分だ。
ターニアの想いは本物。
だからこそ、カロンも手を貸しているのだろう。
これは、私がどうこう言っても意思は変わらない。それを直感した。
「あなたの言いたいことはわかったわ」
「それは……」
私が容認したと思ったのか、ターニアの顔が僅かに綻ぶ。
それを歪めてしまうのは辛いが、言わなくてはならない。
「誤解しないで。あなたの言い分は理解した。でも、私はそれを容認するわけにはいかないの。特に、禁書を利用しようという点においてね」
「待って下さいっ。確かに、私は禁書を利用しようとしてます。でも、悪用はしません。一度だけ、たったの一度だけでいいんです。どんな力も、使い方次第です。それは禁書も同じはずです。正しい使い方をすれば、それはきっと救いにもなると思うんです」
「そうね。確かに救いにもなるかもしれない」
その点においては理解できる。
力は力でしかない。
だからこそ、使い手の意思一つで簡単に変わるのだ。
「けど、それは滅びにもなるの。あなたにその意思がなくても、最悪の可能性を考慮するなら、やはり禁書は使用するべきじゃない」
「……で、その禁書を使う気でいるワシらを、お主はどうするつもりなんじゃ?」
油断のない目でカロンがこちらを見ていた。
手負いの獣が敵を威嚇するような目だ。
私はその目を真っ直ぐに見つめ、言った。
「どうもしないわ」
「なんじゃと?」
「だって、私達が先に手に入れれば、それで済む話だもの」
お互いに望む物は、この世に一つだけ。
なら、それを先に手に入れればいい。
「そういえば、お主達はなぜ禁書を求める。魔王様の命ではないんじゃろう?」
「私達の目的は、あなた達とは真逆。禁書を使われないために、手に入れてこの世から消し去る。それが目的よ」
直後、ターニアの顔が曇った。
「やっぱり、相容れないんですね……」
「そうね。でも、これだけは言っておくわ。いくら禁書を消し去るとは言っても、先に使われてはどうしようもない」
言外に重大な意味を含ませての発言。
二人とも私がなにを言いたいか、さして時間も置かずにわかったらしい。
カロンは眉を寄せ、ターニアは素直に驚いていた。
「つまり、私達が先に手に入れて使うなら、それは黙認してくれるってことですか?」
「それがぎりぎりの妥協点よ。あなた達を権力でどうこうするつもりはないけど、代わりに見逃すこともできない。だから、禁書を利用したいなら、私達より先に手に入れることね」
我ながら甘いかもしれない。
禁書の危険性を考えるならこの場で二人を拘束し、無事に処分し終えた後に解放すればいいのだが、その方法を採用するのは卑怯な気がした。
「つまり、禁書の争奪戦というわけじゃな?」
「ええ。望みの物は一つだけ。なら、先に手に入れた方が願いを叶えられる。簡単でいいでしょ?こちらはあの子と私の二人。そっちは……あなた達と、サバトの面々かしら?」
余裕の笑みを浮かべて言ってあげると、カロンも負けじと口の端をつり上げる。
「既に使っておる。今頃は、暗号相手に頭を悩ませているじゃろうな」
サバト総出で今回の件に取り組んでいるらしい。
親友のためなら、カロンはそれくらいのことはやってのけるようだ。
もっとも、私も大して変わらない。
ルカのためなら、なにも惜しむ気はないのだから。
「じゃあ、話はこれで終わりね。どっちが先に手に入れても、恨みっこなしよ」
「わかりました」
ターニアはほっとしたようにうなずく。
カロンもまた安堵のため息を漏らしていた。
私が権力を行使して二人を拘束するとでも思っていたのだろうか。
「やれやれ。こやつなら、お主のことを説得できるかもしれぬと踏んでいたんじゃがのう。なかなか思い通りにはいかないものじゃ」
「それは残念だったわね。今の私はあの子の協力者にすぎないもの。説得するなら、あの子をしないとね」
もっとも、この場にルカがいたとしても、説得されるとは思えないが。
そう思ったのはカロンも同じだったのか、その顔に苦笑が浮かぶ。
「それこそ無理じゃろう。あの小娘、かなり頑固そうだったからの。だからこそ、お主がこの場にあの小娘を連れてこなかったことには感謝しておる。もしここにいたら、こやつともめそうじゃったからの」
カロンの目がターニアに移り、子供扱いされたと思ったのか、ターニアは少しだけむくれた。
「しかし、あの小娘は何者なんじゃ?サキュバスではあり得ん魔力を持っておったが、新種か?」
禁書の話が終わったからか、カロンは興味本位の質問を向けてきた。
その問いに答えるなら、ルカは新種でもなんでもなく、ただのサキュバスだ。
しかし、利害の対立がある以上、それを教える意味はない。
むしろ、伏せておいた方が有利だ。
「その問いの答えを得ることが、今あなた達がするべきことではないと思うけど?」
その瞬間、カロンのこめかみが小さくひくついた。
「むう……お主は本当にやり辛いリリムじゃ……」
嫌そうな顔で嘆息し、カロンは席を立つ。
「ターニア、ワシらはそろそろ戻るとするかの。厄介な相手が出てきてしまった以上、一刻も早く本を手に入れねばならぬ」
ちらりと向けられた目には、少し皮肉めいた色があった。
声をかけられたターニアは立ち上がると律儀に一礼し、カロンと去って行く。
その間に一度だけ振り向いた顔には、なんとも曖昧な表情が浮かんでいた。
それに笑って手を振ると、私も席を立った。
「さて、こちらも本腰を入れないといけないかしらね……」
とは言ったものの、やることは暗号解読しかないのだが。
とりあえずは宿に戻って、ルカに事の顛末を伝えることにしよう。
相手がドッペルゲンガーだと知ったら、ルカはどんな反応をするだろうか。
それを想像しつつフードを被ると、そっとその場を後にしたのだった。
人形のようだった。
ベッドの上で腕を組み、胡坐をかいて紙を眺めているルカは私が部屋に入ってもぴくりともしない。
その集中を途切れさせるのも悪いと思い、声はかけずにそっと隣りのベッドに腰を下ろす。
そしてその横顔をなんとなく眺めた。
私から見えるルカの横顔は年相応の少女そのもの。
そのままこちらを見て微笑んでみせれば、大概の男は堕とされるに違いない。
「……なに見てんのよ」
私を見向きもしないまま、ルカが声を発した。
「可愛いなと思ってね」
ちょっとしたじゃれ合いの言葉を返すと、ルカは顔を向けて眉を僅かにひそめた。
「禁書がかかってるっていうのに、あんたは……」
呆れたように私を見ると、ルカはため息をついた。
そこに言おうとして止めた言葉がどれだけ含まれているかは、ルカだけが知っている。
想像でしかないが、多分私に対する小言だ。
「その禁書だけど、向こうも諦める気はないみたい。だから、宣告してきたわ」
つい先程のやり取りをそのまま伝えると、ルカはぷいと明後日の方向を向いた。
「ふーん。ドッペルゲンガーねぇ……」
関心があるんだかないんだかわからない声音だ。
「あまり興味はなさそうね?」
笑って尋ねると、ルカは素直にうなずいた。
「ないわね。相手が誰であろうと、アタシは譲る気はないもの。例え、あんたの姉妹が相手でもね」
相手がリリムであっても、それを出し抜くつもりでいるらしい。
まったく、見上げた気概だ。
だからこそ、ちょっとだけ意地悪をしたくなる。
「仮に姉妹が相手だったら、私は対応に困るわね」
「なに言ってんのよ。あんただって、例え相手が同じリリムでも、譲る気なんかないくせに」
まったく動揺のない声での指摘に、少し驚いてしまう。
「随分とはっきり言うのね。ちょっと意外だわ」
「わかりきってるからよ。少なくとも、あんたとセラはそうする」
絶対の確信があるのか、ルカはそう断言した。
そして、それはまさしく正解だ。
「そうね。私と姉さんは、相手が同じ姉妹であっても対立する方を取るでしょうね」
同じ家族であっても、禁書は使用するべきではない。
それだけは譲れない。
「じゃあ、あんたも暗号解読に集中しなさい。アタシ達が知るべきなのは、禁書の在り処であって、相手の事情じゃないんだから」
そう締めくくったルカは、これで話は終わりとばかりに目が紙へと戻る。
その様子はカロン達のことなど、もうどうでもいいようだった。
余計なことは考えず、目的だけを果たそうとする姿は本当に頼もしい限りだ。
禁書は手に入る。
ルカを見てそれを確信しつつも口には出さず、私も暗号解読に乗り出す。
それからルカのお腹が可愛い音で鳴くまでは、互いに無言で暗号と向き合っていたのだった。
なんの収穫もないまま迎えた翌日。
私が目を覚ますと、ルカは既に起きていて、早くも暗号を解きにかかっていた。
「おはよう。今日は早いわね……」
「朝は考え事をするのに向いてるのよ。それに、昨日ずっと考えてたおかげか、なにか閃きそうだし」
「あら、そうなの?じゃあ、私は朝食でも用意してくるわ」
ルカの返事に眠気が一瞬で吹き飛び、身体を起こすとそのままベッドから降りる。
暗号が解けそうだというなら、のんびりもしていられない。
ルカが解読に集中できるよう、私にできることをしなければ。
「あ、アタシはいらないわ。食べてる時間が惜しいもの。今日の食事はあんた一人で適当にすませて」
まさかの食事いらない宣言だった。
思わず歩き出そうとした足が止まり、ルカをまじまじと見つめる。
「気持ちはわかるけど、なにかお腹に入れた方がいいと思うわ」
「一日食事を抜いたって、なにも影響なんかないわよ」
本当に断食で解読するつもりらしい。
それだけ本気だということだが、私としては少し心配になってしまう。
「ねえルカ。朝食くらいは食べない?軽食も出してくれる雰囲気のいい喫茶店を見つけたのよ」
「禁書を処分したら一緒に行くわ」
取りつく島もないとはこのことだ。
どうにかルカの興味を惹けないかと思って言ってみたが、今のルカには何を言っても通じそうにない。
「そう……。じゃあ、私は外で食べてくるわ」
同じ部屋にいるとつい話しかけてしまいそうなので、邪魔をしてしまわないように部屋を出る。
向かう先は一つ。
先程話題に上げた喫茶店だ。
あそこなら食事をしつつ、考え事をするのに向いている。
店内は静かだし、飲み物も食べ物もなかなかに味がいい。
さて、今日はなにを食べようかと店のメニューを思い浮かべながら、辿り着いた喫茶店の扉を開けると、ある客が目に入った。
ちょっとした予感もあったが、テーブルの一つにカロンの姿があったのだ。
今までと同じように一人で、サバトの者やターニアの姿はない。
相変わらずテーブルには暗号関連の本が置かれ、彼女は一人、紙になにかを書き殴っていた。
そんなカロンのテーブルへと移動すると、満面の笑みを向ける。
「ここ、空いているかしら?」
「見ての通り空いておるが、お主の相手をする時間はないの」
ちらりと視線を向けたカロンはそれだけ言うと、再びペンを走らせる作業に戻る。
「まあ、そう言わずに。私とあなたの仲じゃない」
向かいの席に座ると、カロンの動きがぴたりと止まる。
「勝手に親しげな仲にするでない」
その言葉は無視して店員を呼び、苺タルトと紅茶を注文する。
「解読作業は順調かしら?」
「なんじゃ、リリムともあろう者が妨害工作か?」
「いいえ、そんなつもりは少しもないわ。妨害なんてするくらいなら、あなた達を捕らえた方が早いもの」
一つのものを求める競争相手がいるなら、その相手を消してしまえばいい。
そうすれば、誰かに出し抜かれることなく目的の物を独占できる。
私がそうしないのは、それはあまりにも強引でつまらないやり方だからだ。
「ならばなぜワシの前に座る?奢ってやれるほどの小遣いはもっておらんぞ」
「少し話し相手が欲しかったから、かしら。それで、今日はお小遣いをもらえたの?」
その時、注文した品が運ばれてきた。
それらをテーブルに置き終わった店員に代金を渡し、さっそく紅茶を一口飲む。
「まあの。それより、相手をする時間はないと言ったはずじゃ」
「なら、どうすれば時間を割いてもらえるのかしら?」
こちらを見ていたカロンの目を真っ直ぐに見つめ返すと、カロンは興味を失くしたように視線を暗号に落とした。
「そうじゃの。お主が一緒に暗号を考えるなら、話をしてやってもよい」
意外な提案だ。
「随分と大胆な提案をするのね。私達、一応競争相手よ?」
「じゃが、互いに暗号という壁にまごついているのも事実じゃろう。この壁を超えんことには競争もなにもない。だから、ここは共同戦線といかんか?」
「暗号がわかった瞬間に敵になるのに?」
ルカとは違うが、やはり打てば響く会話というのはおもしろい。
そのせいか、このやり取りをもっと続けたいと思っている私がいる。
「逆を言えば、わかるまでは味方じゃろう。正直、サバトの連中は当てにならんからのう。ワシとしては、利用できるものは利用したいんじゃ」
「らしくない弱音ね。バフォメットの頭脳なら、あっさり解けてもおかしくないと思うのだけど」
舌戦、とまではいかないが、言葉の応酬はカロンもそれなりに楽しんでいるらしい。
笑顔でこんなことを言ってきた。
「それはお主も同じじゃろう。魔王様の血を引いているなら、人が作った暗号などすんなり解いてみせんか」
「残念だけど、母様の血は淫らなことにしか力を発揮しないのよ」
きっちり言い返してあげると、カロンは苦笑を浮かべた。
この馬鹿な言い合いに我慢ができなくなったらしい。
「むう……納得できてしまうから困るのう。で、どうじゃ。ずっととは言わんから、今日一日くらいは手を取り合って考えてみんか?」
「いいわよ」
ルカのように一人黙々と考えるのも一つの方法だが、私は誰かとあれこれと言い合いながら考える方が性に合っている。
そう思っての返事だったが、私の即答にカロンは目を丸くしていた。
それはいじめたくなるような顔で、ついくすくすと笑ってしまう。
「どうしたの?そんなに意外だった?」
「むう、やはりお主はやり辛くて敵わぬ」
そう言って、カロンは追加のココアを注文する。
すぐに運ばれてきたそれに、角砂糖を一つ、二つ、三つと入れていく。
「そんなに入れなくてもいいと思うわ」
八個目を入れたところで、ついに見かねて口を挟む。
あれではとんでもない甘さでむせそうだ。
「頭を働かせる上で、甘いものは重要じゃ。ワシはこれくらいがよい」
結局、十個の角砂糖を放り込んでかき混ぜると、カロンはためらうことなくそれを飲む。
見てるだけで胸焼けしそうだが、カロンは幸せそうに顔を綻ばせたので、それ以上なにかを言うのはやめた。
「さて、始めるとするかの。ほれ、お主にも紙をやろう」
紙とペンが差し出された。
本気で一緒に考えるつもりらしい。
私が変な方向へ誘導するとは思わないのだろうか。
「じゃあ、さっそく質問させてもらうけど、その本に書いてある解き方では駄目だったの?」
「うむ。暗号の解読法は何種類もあるからの。なかには関心してしまうような解き方も載っておったが、厄介なことにこの暗号には当てはまらぬ」
「つまり、それほど難解なのか、それとも私達が難しく考えすぎているのか」
暗号である以上、簡単に解けては困るが、逆に解けなくても困るのだ。
しかし、この暗号の先にあるのは、世に出回るべきではない禁書。
それを考えると、このまま見つからなくてもいいように難解にした可能性が高い。
「頭の出来は例外を除いて人も魔物も大差ないからの。トーマスとかいうやつは優秀じゃったんじゃろう。故に、人の作った暗号だと馬鹿にはできぬ」
その意見には賛成だ。
現に、リリムとバフォメットがこうして頭を悩ませているのだから。
「まあ、暗号を作った本人について考察しても仕方ないわ。それより、この十一の種族よ。見たところ、なにか関連があるようには思えないけど、やっぱり意味があると思う?」
「あるんじゃろう。一応、それぞれの種族について詳しく調べたが、全てに共通するのは魔物であるということくらいじゃ。そこからはなにも見出せんかった」
さすが、バフォメットなだけあってよく考えている。
しかし、それでも手応えなしだということは、やはり解き方は違うのだろう。
「じゃあ、このラニアについては?」
私の問いに、カロンは唸った。
「実は、それにはワシも頭を悩ませておる。言っておくと、原本にもそう書かれておるのじゃ。ほれ、見てみよ」
小さなバックからカロンは一枚の紙を取り出して、私の前に置いた。
そこに書かれていたのは、ルカから見せてもらったものと一語一句違わぬ内容。
ルカが持っていたのはカロンが写したものだから字が違うが、それ以外に異なる点はなく、やはり『ラニア』と書かれていた。
「筆跡が乱れていないところを見ると、慌てていたせいで書き間違えたということはなさそうね」
「うむ。つまり、この部分は故意にということになる。なるんじゃが……なにを意味しているのかのう……」
困り顔でカロンは首をひねる。
本人は真面目に考えているのだろうが、その容姿のせいでいまいち真剣に取り組んでいるように見えない。
それが可笑しくてつい笑いそうになるのを、咳払いで誤魔化した。
「それも含めて色々と考えてみましょ。幸い、禁書は逃げないんだしね」
「うむ」
そう言い交わすとお互いの考え方で解読へと乗り出す。
とにかく手探りだ。
どちらかがある解き方を思いつけば、それを元に二人で検証する。
その繰り返しだった。
あることに集中していると時間の経過というのは早いもので、本来なら時間の経過を認識させる空腹も、口寂しくなったら追加であれこれと注文して紛らわせていたため、気がつけば店から見える外はすっかり暗くなっていた。
「むう、もうこんな時間か。充実した時間ではあったが、実りはないのう……」
「そうね。どうせなら種族ではなく、あっち方面の単語で固めてくれたら、すぐにでも解く自信があるのだけど」
「それは言うでない。ワシら魔物なら簡単に解けてしまうようでは、暗号の意味がないじゃろう。それ以前に、淫らな言葉ばかりの暗号は嫌じゃ」
集中が途切れたのか、カロンは手を止めて何杯目かわからないコーヒーを口に含む。
それを眺めながら、私はふと気づいたことを紙に書き始める。
「なにを書いておるんじゃ?」
「それぞれ何文字かと思ってね」
答えつつも頭で数字に変換し、紙に綴っていく。
「3、3、3、5、7、5、5、5、3、5、3か。この数字に見覚えは?」
それぞれの種族の文字数を書きあげると、カロンに目を向ける。
「残念ながらないのう。わかるのは全部奇数というところじゃな」
見たままの返事だ。
「確かに全て奇数ね。偶然にしては少し出来すぎているかしら?」
「どうかのう。数は奇数か偶数のどちらかしかないんじゃから、意図したわけではなく、選んだ種族を数字にしたらたまたま奇数だったという可能性もあるじゃろ」
カロンの意見ももっともだ。
しかし、十一の種族を選び、その全てが奇数の文字の魔物という可能性はどう考えても高くない。
そこに意味があると思うのは、私の考えすぎだろうか。
「それより、お主はこの最後の一文をどう思う?」
そこに書かれているのは、その御心の許しが得られますようにという祈りにも似た言葉。
「単純に考えるなら、彼女達の許しを得られた者が禁書に辿り着けるという意味にとれるけど……」
「それ以上の意味はなし、か。ふーむ、どうやって許しを得よと言うんじゃ」
「それは、彼女達の心がわかれば―」
わかるんじゃない?と言いかけて、なにかが引っかかった。
思考が変な穴に入り、思わず暗号の原本を見つめる。
「どうしたんじゃ?なにか思いついたのか?」
「心って、どこにあると思う?」
返しの質問にカロンは眉をひそめた。
「随分と哲学的なことを聞くのう。それには諸説あるが、やはり体の真ん中―」
カロンもまた違和感に気付いたらしい。
続く言葉は口から出てこない代わりに、目を見開いて原本を見つめる。
そしてすぐに、私の顔にその視線が移った。
私はうなずき、新しい紙に再び十一の種族を書く。
そのうちの一部は、分かりやすいように書き換えた上で。
そして、そこから真ん中の一文字を抜き出した。
「リ『リ』ム」「リ『ュ』ウ」「ヨ『ウ』コ」「ナイ『ト』メア」「アント『ア』ラクネ」「マー『メ』イド」
「ユニ『コ』ーン」「バイ『コ』ーン」「ラ『ニ』ア」「ドリ『ア』ード」「ア『ル』プ」
『リュウトアメココニアル』通して読むとこうなる。
「龍と雨 ここにある」
暗号に隠されたメッセージが浮かび上がった瞬間、私とカロンはお互いの目を見つめ合う。
越えなければならない壁は崩れた。
つまり、ここからは争奪戦だ。
その火蓋が切って落とされた。
それを理解し、私もカロンもすぐに転移魔法でその場を去ったのだった。
「ルカ」
部屋へ戻ると、慌てたように支度をしているルカがいた。
「ミリアっ!いいタイミングで戻って来たわ。急いで支度して。暗号、解けたのよ!」
ルカもまた、あの暗号を解いたらしい。
そのせいか、少し興奮気味だ。
「行き先は、龍と雨でいいかしら?」
「あんたの口からその単語が出てくるってことは、アタシの答えに間違いはないみたいね。急ぐわよ」
確信したようにうなずき、ルカは部屋の扉に手をかける。
その背中に向かって言った。
「そうね、急いだほうがいいわ。カロンもまた、暗号の答えに辿り着いたから」
「っ!なら、尚更よ!」
急かすような真似はしたくなかったが、カロンについて告げると、ルカは苛立ったように荒々しく扉を開ける。
そしてすぐに駆け出した。
「おっさん!この街で、龍と雨って場所はどこにある!?」
ルカの唐突な質問に、カウンターで台帳と記入していた店主は目をぱちくりさせる。
見かけは可憐なサキュバスの少女にいきなりおっさん呼ばわりされれば当然の反応かもしれないが、ちょっと面白くてつい笑いそうになってしまった。
戸惑った様子の店主だったが、ルカの剣幕を見てある程度の事情は察してくれたのか、素直に話してくれた。
「随分と懐かしい名前だ。それなら、旧市街の東通りに」
「行くわよミリア!」
全て聞いているルカではなかった。
必要な点のみ聞くと、あっと言う間に宿を飛び出していってしまう。
さすがに苦笑ものだが、せっかちだと笑うことはできない。
ぽかんとしている店主に礼を言うと、私もルカの後を追う。
外に出た途端に感じる夜の空気は少しひんやりしている。
雨かと思って見上げた空に、星は光っていても月はない。
どうやら今夜は新月らしい。
「あの子も来ているかしら……」
「ターニアってドッペルゲンガーのこと?今夜は新月みたいだし、魔力を失っているはずだから、来ないんじゃない?それよりミリア、急いで。最後の禁書、なんとしてでも手に入れなくちゃいけないんだから」
空を仰いでいた私を咎めるように言うと、ルカは走り出す。
それに追従しながら、今後の展開を思案する。
カロンは間違いなく向かっているはず。
よって、どこかで対峙するのは避けられないだろう。
その時に私とルカが揃って足止めされると最悪だ。
人数は向こうの方が遥かに多いのだから、私達を足止めしている間に禁書を入手される可能性が高い。
そうならないために必要なのは。
ルカの望みを叶えるために、私がすべきなのは。
ふと笑ってしまう。
そうこうしているうちに見えてきた旧市街との境界線。
そこに張られたロープを軽快にルカが飛び越え、私も後に続く。
以前見た時も寂しい場所だと思ったが、新月の夜にも関わらず、灯り一つない旧市街は本当にゴーストタウンだ。
そんな旧市街を、私達は駆け抜けていく。
やがて見えてきた十字路を東方面へと折れる。
そこでルカは光の球を作り出し、辺りの建物に目を配り出した。
しかし、わざわざ目的の建物を探す必要はなかった。
東通りを進んで僅かというところで、見知った人物が進路を妨害するように立っていたからだ。
「やはり来たか」
何人もの魔女を引き連れ、カロンは疲れたように言った。
その横には、そこそこの大きさを誇る宿。
看板は汚れていたが『龍と雨』の文字がはっきり記されている。
「あんたも今着いたってとこ?」
「いや、少し前じゃな。今、あやつが捜索をしておる。見つけるのは時間の問題じゃ」
「悪いけど、禁書をあんた達に渡すわけにはいかないわ」
一歩前に出つつ、ルカはカロンを見据える。
そこには、邪魔するなら容赦しないという雰囲気がにじみ出ていた。
「それはワシのセリフじゃ。お主達を行かせるわけにはいかぬ」
言ったと同時に大鎌が取り出された。
背後の魔女達も、それぞれ箒を手にしてじっとこちらを見つめてくる。
「実力行使ってわけね。いいわ、あんた達がそうくるなら、こっちも」
言葉から、ルカが昂ぶっているのがわかる。
だからこそ、それ以上熱を持つ前に、その背に手を伸ばして引き寄せた。
「ルカ、あなたは禁書を。ここは私が引き受けるから」
「っ、それは……!」
言いかけ、ルカは口を噤む。
最優先すべきはなにかを思い出したのだろう。
その目が、宿の入り口に向く。
それを見て手を離すと、ためらうことなく走り出した。
その行き先に、二人の魔女が立ちはだかる。
「行かせませんよ!」
「ターニアちゃんの邪魔はさせません!」
ここでルカが足止めを食うわけにはいかない。
そう思い、私が一歩踏み出した時だった。
「その小娘に構うでないっ!」
カロンの鋭い声が響き、魔女二人はびくりと体をすくませる。
その隙に、ルカは建物の中へと飛び込んでいった。
「ちょっとカロン様、どうして止めるんですか!?」
「そうですよ!あの子、とんでもない魔力でしたよ!?あんな子をターニアちゃんのとこに行かせたら!」
口々に魔女達がカロンに言い寄るが、カロンはそれらの全てを無視して私を見つめていた。
「わかっておる。じゃが、ワシらの前におるのは、もっと行かせてはならぬ者じゃ。こやつだけは、絶対にここで食い止めねばならぬ」
「え……カロン様、それって……」
語気荒くカロンが語ったからか、魔女達も揃って私を見る。
そこで私はローブを脱いでみせる。
それだけで、魔女達に動揺が走った。
「え……」
「えぇぇぇぇ!?」
「嘘!?リリム様!?」
「ちょ、ちょっとカロン様!リリム様に盾突くような真似していいんですか!?」
相手にリリムがいるとは聞かされていなかったらしい。
魔女達は揃って困惑混じりの言葉を口にする。
「心配するでない。権力でどうこうするつもりはないそうじゃ。それに、刃向かったところで殺されはせぬ。そうじゃろう?」
カロンに苦笑を向けられ、私は笑顔でうなずく。
「ええ、その通りよ。ついでに言わせてもらうと、私はあの子を手伝うために中に行くつもりはない。だから、代わりに私と遊んでくれるかしら?」
言葉と同時に、邪魔にならないよう魔法で消していた翼を出す。
なんの感慨も覚えない自分の姿だが、他人から見るとやはり異質に映るらしい。
魔女達はもちろん、カロンまでもが目を見開いていた。
「これは非常によろしくないのう……」
「あう、か、カロン様っ!なんか私の知ってるリリム様と大分違うんですけど、勝ち目はあるんですかぁ〜!?」
苦しげに呻くカロンに、ほとんど泣きそうな魔女。
それを見ると、なんだか弱い者いじめをした気分になる。
「勝ち目などあるわけないじゃろう。相手は王の血族じゃ。ワシから見ても、あの者は次元が違う。だからこそ、ここで止めねばならん。ターニアのところへ行かせるわけにはいかぬ」
カロンが大鎌を構え直したからか、魔女達にも最低限のやる気は戻ったようだ。
泣きそうな顔でありながら、その目に意思が宿る。
「まったく、お主は本当に嫌なリリムじゃな……。魔王様の秘蔵っ子といったところかのう?」
その問いには内心笑ってしまう。
セラ姉さんは特別扱いしてくれたが、母様からはそうでもない。
他の姉妹と同じように、分け隔てなく扱ってくれたはず。
もっとも、それを思い出そうとしても、頭に浮かぶのはどうしたって母様ではなくセラ姉さんの方なのだが。
口元に笑みが浮かびそうになるのを押し止め、そっと剣を虚空より取り出す。
「そろそろ問答はやめましょう。私もあなたも、ここにいるのは親友のためなのだから」
そっと剣を構えてみせると、カロンはふと小さく笑う。
「……そうじゃな。ワシらは互いに友のためにこうしておる。じゃから……」
カロンも身長以上の大鎌を振り上げるように構えた。
「一対一ではないことを、卑怯とは言わぬよな?」
話はそれで終わりだという空気を察したらしい。
魔女達も緊張した面持ちで箒を構える。
「もちろん」
カロンのつぶらな瞳と目が合う。
卑怯などとは思わない。
お互いに、大切な親友のためなのだから。
その想いを胸に、飛び出していった―。
一方、宿に無事入ることができたルカは禁書を探す。
人が入らなくなった建物というのはすぐに埃が積もるもので、龍と雨も例外ではなかった。
しかしルカは鼻につく埃の臭いなどに構わず、光球で床を照らす。
そこには小さな足跡がいくつもあった。
それはあちこちに行ったようだが、そのうちの一組がぼんやりと見える階段へと向かっていた。
ルカの目がそちらへと向かい、耳が階上で生じた物音を拾う。
上にいる。
それを理解したルカは静かに階段へと向かう。
光球が照らし出した階段にはカーペットが敷かれていたが、これも埃にまみれ、元の色がわからないほどだ。
そんな階段を踏みつけると、僅かに埃が舞い上がり、次いで軋む音が生じる。
それで向こうもルカの存在に気づいたらしい。
「誰……?カロンちゃん……?」
思いのほか近くから聞こえた声に、ルカは足早に階段を上る。
そして、すぐ傍の開かれた扉の先に、彼女はいた。
闇夜を凝縮したような黒髪と黒のワンピースを纏い、赤い目をこちらに向けているターニアが。
「違うわ」
光球に照らされたルカの姿を見て、ターニアは戸惑った表情になる。
「あなたは……」
「あんたの敵よ」
そう言った瞬間、ターニアは弾かれたように走り出した。
部屋の入り口に立っていたルカの脇をその小さな体で強引に通り抜け、薄暗い廊下を疾走する。
「っ!あんた、まだ探す気!?」
「あれは、あなた達には渡せません……!」
どこか悲痛そうな叫びに、ルカは舌打ちしつつ後を追いかける。
廊下を軋ませ、埃が舞い上がる廊下を進むとさらに上へと上っていく足音。
そして勢いよく扉が閉まり、鍵がかかる音がした。
「往生際が悪いわね……」
鬱陶しそうな表情を浮かべ、ルカは再び追跡する。
階段を上り、三階へと到達するとすぐに足跡を追う。
ターニアが逃げ込んだのは倉庫だったようで、扉には店員専用の文字が彫られていた。
「諦めなさい。アタシがここに来た時点で勝負はついてる」
返事はない。
代わりに、中からはバタバタと物が落ちる音。
どうやらめげずに捜索を続けているらしい。
それがルカをいらつかせる。
だからルカはため息をついて扉に手を当てると、魔法で容赦なく扉を破壊した。
「きゃっ!?」
数多の破片となった扉が部屋へと散らばるなか、ターニアはルカの正面で体をすくませていた。
「鬼ごっこの時間は終わりよ。あんたに禁書はっ!」
「っ!」
二人揃って息を飲んだ。
ルカが放った魔法は部屋にも衝撃を与えていた。
そのせいで、二人の間には棚から落ちた様々な物が散乱している。
埃に汚れた品々のなかに見えた一冊の本。
どこにでもありそうなそれは、互いに探し求めたものだった。
禁書にいち早く気づいたターニアは、餌を前にした猫のように飛びかかる。
しかし、その小さな手が本に届く前に、彼女の体が不自然に床へと落ちた。
「!?」
自分の身に何が起こったのか理解できていないという顔で、ターニアはルカへと視線を向ける。
「言ったはずよ。勝負はついてるって」
右手を突き出したまま、ルカは静かに禁書へと向かう。
「私になにをしたんですか……!」
「ミリア直伝の重力魔法よ。それだけ言えばわかるでしょ」
素っ気なく言い放ち、ルカは床から禁書を拾い上げる。
直後、ターニアの顔が玩具を取り上げられた子供のように歪んだ。
「お願いですから、それを渡して下さい!それを使えば、ケビンさんに幸せを取り戻してあげることができるんですっ!だから……!」
「そのお願いはきけないわ。これは危険な力。使うものではなく、この世に存在するべきではないものだから」
「違います!どんな力だって、使い方次第で救いになるんです!」
臆病なドッペルゲンガーとは思えないくらいに声を張り上げているのは、それくらい彼女の感情が昂ぶっているからなのだろう。
必死にそう訴えるターニアの目尻には涙が浮かぶ。
「そうね、あんたが使うなら救いになるかもね」
「ならっ!」
渡して下さいと続けるつもりだったのかもしれない。
しかし、ルカはそれを言わせなかった。
「でも、それはあんただけの話。もし、あんたが禁書を奪われたら?悪用され、誰かの大切なものを傷つけることになったら?あんたは救いになると言ったけど、これは滅びにもなる。だから、アタシはアタシのエゴでこれを消す。こんなちっぽけなものに、アタシの大切なものを奪われたくなんかないもの」
揺るぎない様子で、ルカはそう告げる。
それは、ターニアにとって残酷とも言える宣告。
だから、その目から涙が零れた。
「どうして……どうしてわかってくれないんですか!?私はケビンさんに幸せを取り戻してあげたいだけなのに!あなたは、大切な人を失う悲しみをわからないとでも言うんですか!?」
ターニアとしては、必死な訴えだったかもしれない。
だが、それを聞いたルカの目がこれ以上ないくらいに冷めたものになった。
「そんなのわかってるわ。あんたよりもずっとね」
「どこがですか!あなたはただ私の言葉に反論しているだけでしょう!?」
ルカのそれは、子供じみた反論だとでも思っているのかもしれない。
だから、正論を返されれば、ルカは逃げるしかないと。
ターニアは涙を零しながらもルカを見つめる。
逃しはしないと言うように。
そんなターニアを見つめ返し、ルカは微動だにしないまま、静かに告げた。
「アタシのお母さんは、アタシの目の前で勇者に殺された」
「え……」
ターニアが這いつくばった姿勢のまま固まる。
それを冷やかな目で見下ろしながら、ルカは淡々と語った。
「言ったでしょ、あんたよりずっとわかってるって。アタシは大切なものを失う悲しみを知ってる。他人の感情や記憶を読み取って、知った気になってるあんたと違ってね」
「っ!だったらっ!だったら、どうしてその本を消そうとするんですか!?それがあれば、大切なものを取り戻せるのに!」
ぽろぽろと涙を零しながらも、ターニアはルカから目を逸らさない。
「馬鹿ね」
静かな部屋に、その罵倒の言葉はよく響いた。
なんの感情も窺えないその言葉に、ターニアは気圧されたかのように絶句する。
そんな彼女に背を向け、ルカは静寂を打ち破るように言った。
「こんなちっぽけな本にすがるだけで取り戻せるものなんか、アタシは持っていた覚えはないわ」
無造作に床へと禁書を投げ捨てると、ルカはそれを中心に魔法陣を展開していく。
そこに魔力が行き渡ると、一気に炎が噴き出して禁書を包んだ。
「あ……あぁ……!」
紅蓮の炎の中でゆっくりとその存在を消滅させていく禁書を目の当たりにして、ターニアは絶望したようにその様子を見ていた。
どれだけ時間をかけて作っても、壊すのは一瞬だ。
禁書も例外ではなく、数多の技法とともに炎の中で淡い光となって消えていく。
それを見届けると、ルカは振り向き、ターニアを見つめた。
「う……うぅ……」
顔を俯け、ターニアは涙を零していた。
埃まみれの床に零れ落ちる涙は止まらない。
悲しさと悔しさ、両方の感情がこもった涙を、ルカは知っている。
自分も同じだったから。
あの日あの時、自分に今の力があったなら、母は死なずに済んだはずだから。
「あんたもわかってるはずよ。一度失った大切なものは取り戻せない。だから、失わないように守るしかないのよ」
ターニアはハッとしたようにルカを見る。
しかし、今のルカは能面のような無表情を顔に張り付けていて、感情を読み取れない。
そんなルカは重力魔法を解除すると、そっと手を差し伸べた。
「ほら、帰るわよ。あんたにもアタシにも、帰りを待っている人がいるんだから。それは、お互いに大切なものでしょ?」
ふとルカの表情が緩んだ。
お互いに譲れない想いがあるからこそ、禁書を求めて争った。
それでも相手を憎く思っているわけではない。
ターニアは戸惑った表情を浮かべ、ルカの顔と手とに目が行き来する。
そこには、急に見せられた優しさにどうしていいかわからないという感情が容易に見て取れた。
「……あなたは、ずるいです……」
「さっさと戻りたいから、文句の言葉は歩きながらにして。アタシとあんたの連れはどちらも上位魔族よ。あの二人が本気で戦うような事になったら、この辺りは瓦礫の山になりかねないもの」
大げさでもなんでもなく、単なる事実である。
それがわからないターニアではない。
だから、おずおずと手を伸ばし、ルカの手に触れる。
「さ、行くわよ」
二人の互いの手がゆっくりと、しかし強く握り締められたのだった。
「やはり勝てんのう……」
膝を地面につき、疲れたようにカロンがぼやく。
「あうう……」
「動けないです……」
その背後では、鎖に拘束された魔女達が呻き声を上げている。
それを見て、カロンの口から重いため息が漏れた。
「お主が戦闘経験のない姫君であることを期待したんじゃが、そう都合よくはいかんようじゃのう……」
「残念ね。姉妹の中でも上位に入るくらい、そっちの経験は多いと思っているわ」
逆に男に対する性欲については最下位を争えるとも思い、つい笑ってしまった。
「やれやれ、わかってはおったが、ここまで差があると清々しくすら感じるの……」
「じゃあ、そろそろ終わりにする?」
「そうはいかぬ。親友が頑張っておるというのに、ワシだけ諦めるわけにはいかぬじゃろう。じゃから、む?」
フラフラと立ち上がったカロンは大鎌を構え、そしてあらぬ方向を向いた。
それにつられるように、私もそちらを向く。
視線の先にあるのは宿の入り口、そこにルカとターニアが並んで立っていた。
二人が出てきたということは決着はついたらしい。
「ミリア、そこまでにして」
「カロンちゃんも。もう、終わったから……」
二人は私とカロンの間まで歩いてくると、そこで別れた。
それを見て、私は魔女達の拘束を解除すると剣を虚空に消す。
カロンも大鎌をしまうと、埃だらけになったターニアを見て乾いた笑みを零した。
「なんじゃ、捨てられた子犬のような有様になりおって」
「カロンちゃん、皆もごめんね……。協力してもらったのに、私は手に入れられなかったよ……」
「負けたんじゃな。ワシらは」
ターニアがこくりとうなずき、敗北した事実に魔女達の何人かが泣き出す。
カロンはため息をついて、埃まみれになったターニアの服をはたき始めた。
一方、ルカはなんの感情も窺わせないまま、淡々と私の傍まで歩いて来る。
「お疲れさま。無事に望みは果たせたみたいね」
「ええ。これで安心できるわ。あんたもお疲れさま。ほら、宿に戻って休みましょ」
珍しくルカが私の手を取って引っ張っていこうとする。
まるでこの場から逃げるように。
「ワシらも帰るとしよう。ほれ、いつまでも泣くでない。可愛い顔が台無しじゃ」
魔女達の背中を押し、慰めるカロンとターニア。
その様子を眺めていると、私の視線に気づいたのか、カロンと視線がかち合った。
カロンは手を上げて苦笑する。
またの、とでも言うように。
私もそれに手を振って応える。
それだけのやり取りを交わし、私達は互いにその場を後にした。
人のいなくなった旧市街は静かだ。
そこに、私とルカの足音だけが響く。
その足取りは二人とも軽い。
旧魔王が残したとされる禁書に関わる物語は、こうして幕を閉じたのだった。
「へぇ、けっこういけるじゃない」
「でしょ?」
二日後、私とルカは例の喫茶店に足を運び、朝から甘味をあれこれと試食していた。
「で、なんであんたもいるわけ?」
ルカの視線がテーブルの向かい側にいる人物に向けられた。
しかし、その人物は咎めるようなルカの言葉に少しも動じず、やたらと大きなパフェを口に運んで幸せそうな笑みを浮かべていた。
「細かいことを気にするでない。ワシとお主達の仲ではないか」
「それは私が言ったセリフね」
「勝手に親しげな仲にするんじゃないわよ」
「それはワシが言ったセリフじゃ」
こうして甘菓子を食べつつあれこれと言い合っている様は、他人から見れば女子会に映ったかもしれない。
しかし、実際のところは宿の前でカロンが待ち伏せしていたというだけなのだが。
「で、なんで待ち伏せなんかしてたのよ?お礼参りでもしに来たわけ?」
あの夜のことを考えればそれも無きにしも非ずだが、カロンはそんなことをする性格ではない。
実際、パフェを頬張っているだけで、そんな気配は微塵もないのだから。
「ふむ、まあ、ある意味では礼参りじゃ。お主達には世話になったからのう。近況報告をしておこうと思っての」
どこか得意げなカロンだが、その頬にパフェのクリームが付いていることに気づいていない。
そのおかげというわけでもないが、ルカは余裕の欠伸だ。
「アタシ達に報告するようなことはないでしょ」
「なにを言っておる。お主達はワシらを打ち負かしたのじゃから、聞く義務がある」
「もちろん聞くわ。それで、なにを話してくれるのかしら?」
フルーツケーキを切る手を止めて聞く姿勢になると、カロンは鷹揚にうなずいた。
「とりあえず、ターニアじゃ。禁書を手に入れられなかったことで塞ぎ込むかと思ったんじゃがな。意外にも、あの翌日にはケビンに自分から正体をばらしおった」
「あら、それは意外ね」
他のドッペルゲンガーと同じように臆病な性格だと思っていたが、禁書を求めたりと変なところで思い切りのいい子だ。
なにか、思うことがあったのかもしれない。
「お主もそう思うじゃろう?じゃから聞いたんじゃ。なぜいきなり正体をばらしたのかとな」
「それで?彼女の返事は?」
「大切なものを失わないように守りたいからじゃと。姿を偽っていては、それができないからだそうじゃ」
カロンの言葉に、ルカがぴくりと反応するのを視界の端で捉えた。
しかし、それにはなにも言及せずカロンに続きを促す。
「それで、あの子はその男とうまくいったのかしら?」
カロンは複雑そうな表情でうなずいた。
「うむ。今はケビンの家で同棲中じゃ。とりあえずは恋人かららしいが、毎晩いちゃいちゃしておるようでの。喜ばしいやら、羨ましいやらで複雑じゃ」
なんだかんだでうまくいっているようだ。
もし彼女が禁書を手に入れて願いを叶えたら、今の現実はあり得なかった。
それを思うと、ターニア自身が幸せになれてよかったと思う。
だからこそ、その立役者にはぜひ聞いてみたい。
「だそうだけど、あなたはあの子になにを言ったの?」
「ワシも聞きたいのう。あれでなかなかに頑固者じゃからな」
二人の視線がルカに向かう。
そのルカはティーカップを手に取ると、なんでもないことのように言った。
「別に。ちょっと説教しただけよ。それより最後の禁書、あれはアタシが今まで処分してきたどれよりも宿している魔力が多かった。あんたはなにか知ってる?」
「それは当然じゃろう。禁書は全てが繋がっておるからの」
「繋がってる?」
ルカが訝しむ顔になる。
続きは?という無言の催促に、カロンは笑って答えた。
「うむ。つまり、一冊の禁書が消滅すると、そこに宿っていた魔力が残りの禁書へと流れ込むのじゃ。数が減れば減るほど、残りの禁書に宿る魔力が強力になっていく仕組みじゃな。じゃからこそ、トーマスとやらは禁書を処分できなかったんじゃ」
説明を終えたカロンは口直しでもするようにパフェを口に運ぶ。
「ふーん。そんな仕組みになってたんだ」
「ま、全ては終わった話じゃ。それより」
急に真剣な顔になったカロンが私を見つめた。
いきなりの様変わりに、ルカも何事かと紅茶を飲む手を止めてカロンに視線を送る。
このテーブルだけが妙な空気になるなか、カロンは言った。
「独り身で寂しいからワシもいちゃいちゃしたい。そういうわけじゃから、よい男を紹介してくれんかのう。できれば、幼女趣味の者がよい」
真顔で言った言葉は実に魔物らしいものだった。
そのせいで、ルカが脱力する。
「私がこの街に来た理由を忘れたの?観光兼夫探しよ。いい男がいるなら、私が紹介してほしいくらいだわ」
「そうじゃった……。はぁ、どこかにおらんかのう、ワシのお兄ちゃんになってくれる者は」
「まあ、気長にいきましょ。禁書と違って、今度はゆっくり探せるわけだしね」
もっとも、男というだけで魔物の競争倍率は高いから、のんびりもしてられないのだが。
それでもカロンはくつくつと笑う。
「そうじゃのう。ワシらは負けこそしたが、結果としてはこれでよかったかもしれぬ。誰も損をしたわけではないしの」
私達は禁書を処分する目的を果たし、ターニアは本来の願いこそ叶わなかったが、それでも自身は幸せを手にした。
強いて損をした誰かを挙げるとすれば、私とカロンだ。
しかし、私が損をしたと思っていないように、カロンもまたそう思ってはいないはず。
お互いに、ただ親友のためにと動いたのだから。
「さて、報告はこれくらいにして、本題に入ろうかの」
言葉とともに、カロンは大きな水晶玉を宙から取り出し、テーブルに置く。
それは綺麗な球体なのにテーブルを転がったりはせず、見事なまでに静止している。
なんだか不思議な光景だ。
「なによ、水晶玉なんか取り出して」
「ワシのサバトは占いサバトと呼ばれてての。あれこれと占うのを専門にしておる。お主達には世話になったからのう。礼代わりに、お主達の今後を占ってやろうと思ってな」
カロンが両手をかざすと、透明の水晶玉は不思議な光を放ちつつ宙に浮かび上がった。
占いに関して素人である私にはそれっぽく見える。
「あー、アタシはパス。占いとか信じてないし」
悩む素振りさえ見せず、ルカが即答した。
「なんじゃ、これでも占いの腕には自信があるんじゃぞ。禁書がこの街にあると突き止めたのだって占いの結果じゃ」
少し不満そうに言うカロン、しかしルカはそれでも興味がないらしく、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「もう、ルカったら。せっかく占ってくれるんだから、素直に好意を受け取ればいいのに。いいわ、私の今後を占って」
完全に無視する態勢になったルカに代わって申し出ると、カロンは小さくうなずいてみせた。
「では、お主の手を水晶玉に近づけてくれるかの」
指示通り、私は水晶玉へと手を伸ばす。
ルカも信じていないと言いつつ、横目でその様子を眺める。
口にこそしないが、私も占いは信じていない。
それでもカロンの申し出に応じたのは、単なる気まぐれだ。
信じてはいないが、興味はあるとでも言えばいいのかもしれない。
そんな私の内心には気づかないまま、カロンは水晶玉を見つめる。
「……ふむ。なかなかに興味深い結果じゃ」
「なにがわかったの?」
透明な水晶玉を真剣に見つめるカロン。
そこには、私には見えないなにかが映っているのだろうか。
「近いうちに、お主の今後を左右するような出来事があるじゃろう。それにどう応じるかで、先は変わる。そこにはお主も関わるようじゃ」
カロンの目がルカに向いた。
「なんでアタシがミリアの出来事に関わるのよ」
「親友だからじゃ。浅からぬ絆がそうさせるんじゃろうな」
「……なによそれ」
曖昧な言い方が気に入らないのか、ルカの表情が曇る。
「それで、他には何かわかった?」
カロンの目が遠くを見た気がした。
「……眩しいくらいに光り輝く蒼が見えた。それがなにを意味するかはわからぬ。ワシに見えたのはそれくらいじゃ」
水晶玉から光が消え、音もなくテーブルに落ちて安置されたように止まった。
「なにそれ。肝心なことはちっともわからないじゃない」
「占いとはそういうものじゃ。未来を完璧に予知できるなら、既にそれは占いではないからのう」
ルカが不満の声をあけるが、カロンの言い分ももっともだ。
占いは占いにすぎない。
それで未来を知ろうとする方が間違っているというもの。
「さて、今見たものを踏まえて助言をするなら、常に選択することじゃ。たまたま手に入ったものが、いつまでもお主の傍にあるとは限らぬ」
占いは終わりらしく、水晶玉が煙の如く消えていく。
それをなんとなく眺めていると、カロンはパフェの最後の一口を食べ終え、席を立った。
「ふう、美味じゃった。さて、礼もしたことだし、ワシはそろそろ行くとするかの」
「せっかくの機会なのに、もう行くの?」
「うむ。ワシもそろそろお兄ちゃん探しに本腰を入れようと思っての」
そういう理由なら、引き止めるわけにもいかない。
代わりに、笑って手を振った。
「そう。なら、邪魔はできないわね。いい人が見つかるよう願っているわ」
「うむ。お主達も幸運を。ではの」
お別れだというのに少しもしんみりとした様子もなく、平然と去っていけるのはバフォメットのなせる業なのかもしれない。
だからか、悠然と歩いて行くカロンを見ても寂しさはなく、どこか笑ってしまえるような空気だ。
店の扉に据え付けられたベルが鳴り、その先へと出て行くカロンに店員が「ありがとうございました」と感謝の言葉を述べている。
それが済めば、喫茶店は普段の静けさを取り戻す。
そこでルカが言った。
「あんたの今後を左右する出来事があるってよ」
「あら、占いは信じないんじゃなかったの?」
「もちろん信じてないわ。ただ、もしそんな事態になったら、あんたはどうするのかって思っただけ」
そう言われても困ってしまう。
実際にその出来事とやらが起きなければ、対応のしようもないのだから。
「その時に考えるわ。今は当分頭を使いたくないもの」
つい数日前まで頭脳労働ばかりだったのだから、頭を使いたくないのは本当だ。
同じように暗号を解読していただけあって、私の冗談にルカも呆れたように笑う。
「ま、確かにそうね。じゃあ、当たるかどうかもわからない占いの結果はどうでもいいとして、今日はどうする?」
どうする、というのは、このまま帰るか、それともぶらぶらしていくかという意味だろう。
もちろん、私の取る選択は後者。
「この街は、西以外ならどこを見ても楽しめるらしいわ」
ルカと共に過ごした時間はそれなりのものになっている。
それだけに、ルカは私がなにを言いたいかすぐに理解したらしい。
「ま、あんたはそう言うだろうと思ってたわ。いつも通り、ぶらつくんでしょ?」
「ええ。ルカさえよければだけどね」
「別にいいわよ。禁書も処分したから、のんびりできるし」
いつから禁書を追っていたのか知らないが、ようやく全て処分したのだから、ルカもこれで羽休めができる。
そして、のんびりするという点において、未だ発展を続けるこの街は打ってつけのはずだ。
「じゃあ、私達も行きましょ。今日もいい天気だしね」
異論はないらしく、ルカが立ち上がり、私もそれに続く。
「ありがとうございました」という業務的な店員の声を背後に受けながら店を出ると、日の光が眩しい。
「さて、どこに行こっか。あんたは行きたいところとかあるの?」
「そうね。買い物ができる場所がいいかしら」
特に買いたい物があるわけではないが、ただ眺めるだけでも楽しいのでそう提案してみた。
「んー、あっちの方かしら。なんか色々と看板出てるし。行ってみましょ」
きょろきょろと辺りを見回して見当をつけたらしく、ルカが歩き出す。
私も並んで歩き出し、隣りのルカを横目で眺めた。
どこか憑き物が落ちたような、さっぱりとした表情だ。
禁書を根絶した祝杯は昨日やったが、その横顔を見ていると、それとは別になにかしてあげたいという思いが湧き上がってくる。
これから買い物に行くのだから、なにか贈り物でもしようか。
そう考えると胸は躍り、頭は早くもなにを買おうかという思考に入った。
様々な店が立ち並ぶ通りは、家族連れや恋人同士の買い物客が笑みを浮かべながら商品を手に取ったり、眺めたりしている。
よく晴れた空の下、私もそれらの人々と同じように親友との買い物を楽しんだのだった。
翌日、そう言って私は部屋を出た。
集合場所の本屋までは少し距離があるので、時間に余裕をもっての出発だ。
ルカは今日も部屋で暗号解読に集中するらしく、私が声をかけても「ん」の一言だけで、見向きもしない。
昨日と違って今日は気持ちのいい晴天だというのに、ルカは相変わらず部屋にこもるつもりのようだ。
とはいえ、あれこれと口出しする気はないのでそのまま私は宿を出ることにする。
雨が降っていないからか、今日は通りに人の数が多いようで、朝から賑やかだ。
私のすぐ近くでも、腕白そうな男の子が水溜まりに飛び込んで母親らしき人を苦笑させている。
それを眺めて微笑みながら、軽やかに歩き出す。
街の喧騒が陽が昇るのに合わせて大きくなってきているなか、待ち合わせ場所の本屋に到着したがカロンの姿はなかった。
しかし、店自体は開いているようなので、カロンが来るまで適当に店をぶらついていればいいだろう。
そう思って店に入れば、本屋の定番である立ち読み客があちこちに見受けられた。
店番だろうサキュバスもカウンターに座って本を読んでいるあたり、立ち読みには寛容らしい。
私も適当に移動して棚から一冊の本を選び出すと、気ままに読み始める。
手にしたのは姫とその従者の禁断の恋を扱ったもののようで、冒頭から情事が書かれていた。
魔物が経営する本屋なだけあって、置かれているものも魔物向けが多いらしい。
ルカにお土産に買っていこうかしらなんて思いながら十数ページ読んだ頃だ。
ふと隣りに誰かが立った気配を感じた。
「その本に暗号の答えは書かれておるのか?」
本から目を離して横に向けると、適当な本を手に取って開いているカロンがいた。
それを確認すると、私は文章に目を戻した。
「『お許し下さいお嬢様。私はもう耐えられそうにない。あなたが欲しくてたまらないのです』『駄目よオスカー。こんなところでしたら、使用人達に声が聞こえてしまいます……』口では嫌がりつつも、シャーリーのふわりとしたスカートをたくし上げれば、その下着は既に愛液でぐしょぐしょとなっていた。それを確認すると、オスカーは彼女の下着を僅かにずらして秘唇を露わにする。そしていきり立った自分の剛直を」
「ええい、やめるんじゃ!リリムが娯楽小説を音読などするでない!濡れてきてしまうじゃろう!」
読んでいる最中に足を蹴られて仕方なく中断すると、カロンはむくれ面でこちらを見上げていた。
「この話はなかなか悪くないわね。あなたもそう思わない?」
「お主は本当にやり辛いリリムじゃなっ。まったく、厄介な者を相手にしたものじゃ」
初めて会った人に対して優位に立つためには、落ち着いて自分のペースにゆっくりと巻き込んでいくこと。
姉の教えはなんだかんだで役に立つらしい。
「それで、どこで話すのかしら?」
ぶつぶつと愚痴るカロンは私が声をかけると、丸く青い目を向けてくる。
「近くのオープン喫茶じゃ。アレの話は落ち着いた場所でしたいからのう」
「そう。じゃあ、行きましょ」
「うむ」
本を棚に戻し、歩き出そうとした時だ。
「……ところで、さっき読んでいた本はなんというタイトルじゃ?」
カロンにそう問われた。
興味が湧いたのだろうか。
「『姫と従者のいけない蜜月』ね」
「ふむ。後で買うとするかのう」
そんな会話をしながら本屋を出て向かった先は、本当にすぐ近くのオープン喫茶だ。
天気のおかげか、鮮やかな空色のパラソルが設置されたテーブルは半分程が埋まっていて、客の入りはなかなかのようだ。
カロンはパラソルが開いているテーブルの一つに歩いていくと、ちょこんと席に着く。
その向かいに座ろうとして、私は足を止めた。
カロンの隣りに先客がいたのだ。
しかし、カロンは特に気にした様子もなく私に座るようにと目で勧めてくる。
カロンの前ではなく、先客の前の席にだ。
なにか考えがあるのかもしれないが、ここで拒否してもめるのもよくない。
結果、私は大人しく指定された席に着いた。
そしてすぐに少し驚くことになった。
「お主はワシが誰のために動いているかと問うたな。これが答えじゃ」
カロンの声が少し嬉しそうなのは、私に一矢報いることができたからかもしれない。
そこにいたのは、一人の少女。
ショートの黒い髪と、対照的な白い肌。
少し長めの前髪から覗く目は、私とはまた違った色の赤だ。
黒いワンピースに身を包んだその少女は、私と目が合うとびくりと身体をすくませた。
彼女のそんな様子も含め、色々と想定外でつい笑ってしまう。
「まさか、ドッペルゲンガーとはね。さすがに意外だわ」
「ワシの親友のターニアじゃ」
カロンが紹介し、ターニアはおずおずと頭を下げる。
「ミリアよ。よろしく、ターニア」
にこりと微笑んでみせると、ターニアは小さくうなずく。
「ふむ、そういえばお主の名前を聞いたのは今回が初じゃのう」
「確かにそうね。あなたに名乗らなかったのは謝るわ」
「そう思うなら、昨日のワシの問いに答えてくれんかのう」
この場の空気が変わった。
カロンの目が笑っていないことが、それを証明している。
「そうね、約束は守るわ。質問の答えはいいえ。私は母様の命を受けてここに来たわけではないの」
カロンの審判者のような目を見つめながらそう答えると、即座に別の質問が飛んできた。
「なら、なぜこの街に来たんじゃ」
「観光兼夫探しね。その結果、見つけたのがあなたの出した張り紙というわけ」
素直にありのままを話すと、カロンも嘘を言っていないことがわかったのか、ため息をついた。
それに合わせて、この場の空気が緩む。
「はあ。情報を得ようとした結果が裏目に出るとは、すまんのう、ターニア」
「いいよ、カロンちゃんは悪くないもん」
ターニアに苦笑され、カロンは嫌そうな目で私を見た。
「まったく、観光に来たなら素直に街だけを眺めていてくれればよかったのじゃ。西以外なら、どこを見たって楽しめるじゃろうに」
「あら、なぜ西は駄目なの?」
「なんじゃ、知らんのか。この街はつい最近になってから発展したばかりでのう。最初は小さな町だったものが、今はご覧の有様じゃ」
話すことを中断し、カロンは辺りを見回す。
天を衝かんばかりに立ち並ぶ背の高い建物や、整備された石畳の通りはどこを見ても綺麗だ。
そこを行く人々も一様に笑顔。
「じゃが、急速に発展すると、それに追いつけない場所が出てしまうものじゃ」
「それが西だと?」
「うむ。この街で西は旧市街と呼ばれておる。元はそこから発展したんじゃが、今となってはもう昔のものなんじゃろうな。街の連中も、旧市街を新しく建て直すより、今のこの街を更に発展させる方をとっておる。それを悪いとは言わんが、昔のものはこうして忘れられていくんじゃのう」
どこか感慨深そうにカロンがそう語る。
「なるほどね。それで、あなた達はその昔のものをどうして探し求めるのかしら?」
私がそう言うと、カロンとターニアは揃ってこちらを見た。
話が現在のものへと変わったからだろう。
二人とも真剣な表情になった。
「利用したいからです」
ぽつりと、しかしはっきりと告げられた言葉はカロンのものではない。
私がそちらに目を向けると、ターニアはどこか怯えたような表情になりつつも、しっかりと私を見ていた。
「あれがどういう物か分かった上での発言かしら?」
「もちろんです。それを説明するために、今日は私も来たんです」
言葉と同時に、ターニアの身体を影が覆っていく。
少女の身体をすっぽりと包むと、影はすぐに霧散していった。
そこにいたのは、二十歳前後の金髪の女性。
「リムルさん。私の大好きなケビンさんの想い人です。私は、この人をケビンさんに取り戻してあげたいんです」
他人へと変身したことで臆病な性格が緩和されたのか、ターニアははっきりとそう告げた。
そこまで言われれば、私も理解できる。
ルカは言っていた。
禁書は死者さえも蘇らせる力があると。
「つまり、あなたの目的は……」
「はい。リムルさんを生き返らせてあげたいんです。カロンちゃんから、禁書なら恐らくそれも可能だと聞きました。だから私は」
「待って」
勢い込んで語ろうとするターニアを手で制し、そっと彼女を見つめた。
「あなたはそれでいいの?」
「もちろんです。リムルさんが戻ってくれば、ケビンさんは幸せになれる。これ以上のことはないでしょう」
「違うわ。私が訊きたいのは、あなたは幸せになれなくてもいいのかということよ。私も禁書については聞いた範囲でしか知らないけど、旧魔王の力が宿っているなら、死者を蘇らせることもできておかしくない。その結果、あなたの想い人は幸せになれるかもしれないわね。けど、あなたは?愛しい男を他の女に取られてもいいの?自分の手で幸せにしてあげたいとは思わないの?」
禁書を利用すれば、ケビンとやらはリムルと一緒に幸せになれるかもしれない。
しかし、そこにターニアの幸せはない。
ただ、損な選択をしただけ。
「それはワシも言ったんじゃ。しかし、こやつときたら……」
「いいんです。私にできるのは、ケビンさんの理想のリムルさんを演じることだけ。どれだけ上手く化けられても、私はリムルさんにはなれない。大好きな人を騙しているのは辛いんです。もし、私がリムルさんではないとバレたら、ケビンさんを傷つけてしまう。私は、あの人に都合の良い夢を見せているだけにすぎないんです。だから、もし彼が目を覚ませば夢は終わってしまう。でも、禁書があれば、夢を現実に変えられる。ケビンさんの幸せが私の幸せですから」
視界の端で、カロンがやれやれとため息をついた。
私も同じようにため息をつきたい気分だ。
ターニアの想いは本物。
だからこそ、カロンも手を貸しているのだろう。
これは、私がどうこう言っても意思は変わらない。それを直感した。
「あなたの言いたいことはわかったわ」
「それは……」
私が容認したと思ったのか、ターニアの顔が僅かに綻ぶ。
それを歪めてしまうのは辛いが、言わなくてはならない。
「誤解しないで。あなたの言い分は理解した。でも、私はそれを容認するわけにはいかないの。特に、禁書を利用しようという点においてね」
「待って下さいっ。確かに、私は禁書を利用しようとしてます。でも、悪用はしません。一度だけ、たったの一度だけでいいんです。どんな力も、使い方次第です。それは禁書も同じはずです。正しい使い方をすれば、それはきっと救いにもなると思うんです」
「そうね。確かに救いにもなるかもしれない」
その点においては理解できる。
力は力でしかない。
だからこそ、使い手の意思一つで簡単に変わるのだ。
「けど、それは滅びにもなるの。あなたにその意思がなくても、最悪の可能性を考慮するなら、やはり禁書は使用するべきじゃない」
「……で、その禁書を使う気でいるワシらを、お主はどうするつもりなんじゃ?」
油断のない目でカロンがこちらを見ていた。
手負いの獣が敵を威嚇するような目だ。
私はその目を真っ直ぐに見つめ、言った。
「どうもしないわ」
「なんじゃと?」
「だって、私達が先に手に入れれば、それで済む話だもの」
お互いに望む物は、この世に一つだけ。
なら、それを先に手に入れればいい。
「そういえば、お主達はなぜ禁書を求める。魔王様の命ではないんじゃろう?」
「私達の目的は、あなた達とは真逆。禁書を使われないために、手に入れてこの世から消し去る。それが目的よ」
直後、ターニアの顔が曇った。
「やっぱり、相容れないんですね……」
「そうね。でも、これだけは言っておくわ。いくら禁書を消し去るとは言っても、先に使われてはどうしようもない」
言外に重大な意味を含ませての発言。
二人とも私がなにを言いたいか、さして時間も置かずにわかったらしい。
カロンは眉を寄せ、ターニアは素直に驚いていた。
「つまり、私達が先に手に入れて使うなら、それは黙認してくれるってことですか?」
「それがぎりぎりの妥協点よ。あなた達を権力でどうこうするつもりはないけど、代わりに見逃すこともできない。だから、禁書を利用したいなら、私達より先に手に入れることね」
我ながら甘いかもしれない。
禁書の危険性を考えるならこの場で二人を拘束し、無事に処分し終えた後に解放すればいいのだが、その方法を採用するのは卑怯な気がした。
「つまり、禁書の争奪戦というわけじゃな?」
「ええ。望みの物は一つだけ。なら、先に手に入れた方が願いを叶えられる。簡単でいいでしょ?こちらはあの子と私の二人。そっちは……あなた達と、サバトの面々かしら?」
余裕の笑みを浮かべて言ってあげると、カロンも負けじと口の端をつり上げる。
「既に使っておる。今頃は、暗号相手に頭を悩ませているじゃろうな」
サバト総出で今回の件に取り組んでいるらしい。
親友のためなら、カロンはそれくらいのことはやってのけるようだ。
もっとも、私も大して変わらない。
ルカのためなら、なにも惜しむ気はないのだから。
「じゃあ、話はこれで終わりね。どっちが先に手に入れても、恨みっこなしよ」
「わかりました」
ターニアはほっとしたようにうなずく。
カロンもまた安堵のため息を漏らしていた。
私が権力を行使して二人を拘束するとでも思っていたのだろうか。
「やれやれ。こやつなら、お主のことを説得できるかもしれぬと踏んでいたんじゃがのう。なかなか思い通りにはいかないものじゃ」
「それは残念だったわね。今の私はあの子の協力者にすぎないもの。説得するなら、あの子をしないとね」
もっとも、この場にルカがいたとしても、説得されるとは思えないが。
そう思ったのはカロンも同じだったのか、その顔に苦笑が浮かぶ。
「それこそ無理じゃろう。あの小娘、かなり頑固そうだったからの。だからこそ、お主がこの場にあの小娘を連れてこなかったことには感謝しておる。もしここにいたら、こやつともめそうじゃったからの」
カロンの目がターニアに移り、子供扱いされたと思ったのか、ターニアは少しだけむくれた。
「しかし、あの小娘は何者なんじゃ?サキュバスではあり得ん魔力を持っておったが、新種か?」
禁書の話が終わったからか、カロンは興味本位の質問を向けてきた。
その問いに答えるなら、ルカは新種でもなんでもなく、ただのサキュバスだ。
しかし、利害の対立がある以上、それを教える意味はない。
むしろ、伏せておいた方が有利だ。
「その問いの答えを得ることが、今あなた達がするべきことではないと思うけど?」
その瞬間、カロンのこめかみが小さくひくついた。
「むう……お主は本当にやり辛いリリムじゃ……」
嫌そうな顔で嘆息し、カロンは席を立つ。
「ターニア、ワシらはそろそろ戻るとするかの。厄介な相手が出てきてしまった以上、一刻も早く本を手に入れねばならぬ」
ちらりと向けられた目には、少し皮肉めいた色があった。
声をかけられたターニアは立ち上がると律儀に一礼し、カロンと去って行く。
その間に一度だけ振り向いた顔には、なんとも曖昧な表情が浮かんでいた。
それに笑って手を振ると、私も席を立った。
「さて、こちらも本腰を入れないといけないかしらね……」
とは言ったものの、やることは暗号解読しかないのだが。
とりあえずは宿に戻って、ルカに事の顛末を伝えることにしよう。
相手がドッペルゲンガーだと知ったら、ルカはどんな反応をするだろうか。
それを想像しつつフードを被ると、そっとその場を後にしたのだった。
人形のようだった。
ベッドの上で腕を組み、胡坐をかいて紙を眺めているルカは私が部屋に入ってもぴくりともしない。
その集中を途切れさせるのも悪いと思い、声はかけずにそっと隣りのベッドに腰を下ろす。
そしてその横顔をなんとなく眺めた。
私から見えるルカの横顔は年相応の少女そのもの。
そのままこちらを見て微笑んでみせれば、大概の男は堕とされるに違いない。
「……なに見てんのよ」
私を見向きもしないまま、ルカが声を発した。
「可愛いなと思ってね」
ちょっとしたじゃれ合いの言葉を返すと、ルカは顔を向けて眉を僅かにひそめた。
「禁書がかかってるっていうのに、あんたは……」
呆れたように私を見ると、ルカはため息をついた。
そこに言おうとして止めた言葉がどれだけ含まれているかは、ルカだけが知っている。
想像でしかないが、多分私に対する小言だ。
「その禁書だけど、向こうも諦める気はないみたい。だから、宣告してきたわ」
つい先程のやり取りをそのまま伝えると、ルカはぷいと明後日の方向を向いた。
「ふーん。ドッペルゲンガーねぇ……」
関心があるんだかないんだかわからない声音だ。
「あまり興味はなさそうね?」
笑って尋ねると、ルカは素直にうなずいた。
「ないわね。相手が誰であろうと、アタシは譲る気はないもの。例え、あんたの姉妹が相手でもね」
相手がリリムであっても、それを出し抜くつもりでいるらしい。
まったく、見上げた気概だ。
だからこそ、ちょっとだけ意地悪をしたくなる。
「仮に姉妹が相手だったら、私は対応に困るわね」
「なに言ってんのよ。あんただって、例え相手が同じリリムでも、譲る気なんかないくせに」
まったく動揺のない声での指摘に、少し驚いてしまう。
「随分とはっきり言うのね。ちょっと意外だわ」
「わかりきってるからよ。少なくとも、あんたとセラはそうする」
絶対の確信があるのか、ルカはそう断言した。
そして、それはまさしく正解だ。
「そうね。私と姉さんは、相手が同じ姉妹であっても対立する方を取るでしょうね」
同じ家族であっても、禁書は使用するべきではない。
それだけは譲れない。
「じゃあ、あんたも暗号解読に集中しなさい。アタシ達が知るべきなのは、禁書の在り処であって、相手の事情じゃないんだから」
そう締めくくったルカは、これで話は終わりとばかりに目が紙へと戻る。
その様子はカロン達のことなど、もうどうでもいいようだった。
余計なことは考えず、目的だけを果たそうとする姿は本当に頼もしい限りだ。
禁書は手に入る。
ルカを見てそれを確信しつつも口には出さず、私も暗号解読に乗り出す。
それからルカのお腹が可愛い音で鳴くまでは、互いに無言で暗号と向き合っていたのだった。
なんの収穫もないまま迎えた翌日。
私が目を覚ますと、ルカは既に起きていて、早くも暗号を解きにかかっていた。
「おはよう。今日は早いわね……」
「朝は考え事をするのに向いてるのよ。それに、昨日ずっと考えてたおかげか、なにか閃きそうだし」
「あら、そうなの?じゃあ、私は朝食でも用意してくるわ」
ルカの返事に眠気が一瞬で吹き飛び、身体を起こすとそのままベッドから降りる。
暗号が解けそうだというなら、のんびりもしていられない。
ルカが解読に集中できるよう、私にできることをしなければ。
「あ、アタシはいらないわ。食べてる時間が惜しいもの。今日の食事はあんた一人で適当にすませて」
まさかの食事いらない宣言だった。
思わず歩き出そうとした足が止まり、ルカをまじまじと見つめる。
「気持ちはわかるけど、なにかお腹に入れた方がいいと思うわ」
「一日食事を抜いたって、なにも影響なんかないわよ」
本当に断食で解読するつもりらしい。
それだけ本気だということだが、私としては少し心配になってしまう。
「ねえルカ。朝食くらいは食べない?軽食も出してくれる雰囲気のいい喫茶店を見つけたのよ」
「禁書を処分したら一緒に行くわ」
取りつく島もないとはこのことだ。
どうにかルカの興味を惹けないかと思って言ってみたが、今のルカには何を言っても通じそうにない。
「そう……。じゃあ、私は外で食べてくるわ」
同じ部屋にいるとつい話しかけてしまいそうなので、邪魔をしてしまわないように部屋を出る。
向かう先は一つ。
先程話題に上げた喫茶店だ。
あそこなら食事をしつつ、考え事をするのに向いている。
店内は静かだし、飲み物も食べ物もなかなかに味がいい。
さて、今日はなにを食べようかと店のメニューを思い浮かべながら、辿り着いた喫茶店の扉を開けると、ある客が目に入った。
ちょっとした予感もあったが、テーブルの一つにカロンの姿があったのだ。
今までと同じように一人で、サバトの者やターニアの姿はない。
相変わらずテーブルには暗号関連の本が置かれ、彼女は一人、紙になにかを書き殴っていた。
そんなカロンのテーブルへと移動すると、満面の笑みを向ける。
「ここ、空いているかしら?」
「見ての通り空いておるが、お主の相手をする時間はないの」
ちらりと視線を向けたカロンはそれだけ言うと、再びペンを走らせる作業に戻る。
「まあ、そう言わずに。私とあなたの仲じゃない」
向かいの席に座ると、カロンの動きがぴたりと止まる。
「勝手に親しげな仲にするでない」
その言葉は無視して店員を呼び、苺タルトと紅茶を注文する。
「解読作業は順調かしら?」
「なんじゃ、リリムともあろう者が妨害工作か?」
「いいえ、そんなつもりは少しもないわ。妨害なんてするくらいなら、あなた達を捕らえた方が早いもの」
一つのものを求める競争相手がいるなら、その相手を消してしまえばいい。
そうすれば、誰かに出し抜かれることなく目的の物を独占できる。
私がそうしないのは、それはあまりにも強引でつまらないやり方だからだ。
「ならばなぜワシの前に座る?奢ってやれるほどの小遣いはもっておらんぞ」
「少し話し相手が欲しかったから、かしら。それで、今日はお小遣いをもらえたの?」
その時、注文した品が運ばれてきた。
それらをテーブルに置き終わった店員に代金を渡し、さっそく紅茶を一口飲む。
「まあの。それより、相手をする時間はないと言ったはずじゃ」
「なら、どうすれば時間を割いてもらえるのかしら?」
こちらを見ていたカロンの目を真っ直ぐに見つめ返すと、カロンは興味を失くしたように視線を暗号に落とした。
「そうじゃの。お主が一緒に暗号を考えるなら、話をしてやってもよい」
意外な提案だ。
「随分と大胆な提案をするのね。私達、一応競争相手よ?」
「じゃが、互いに暗号という壁にまごついているのも事実じゃろう。この壁を超えんことには競争もなにもない。だから、ここは共同戦線といかんか?」
「暗号がわかった瞬間に敵になるのに?」
ルカとは違うが、やはり打てば響く会話というのはおもしろい。
そのせいか、このやり取りをもっと続けたいと思っている私がいる。
「逆を言えば、わかるまでは味方じゃろう。正直、サバトの連中は当てにならんからのう。ワシとしては、利用できるものは利用したいんじゃ」
「らしくない弱音ね。バフォメットの頭脳なら、あっさり解けてもおかしくないと思うのだけど」
舌戦、とまではいかないが、言葉の応酬はカロンもそれなりに楽しんでいるらしい。
笑顔でこんなことを言ってきた。
「それはお主も同じじゃろう。魔王様の血を引いているなら、人が作った暗号などすんなり解いてみせんか」
「残念だけど、母様の血は淫らなことにしか力を発揮しないのよ」
きっちり言い返してあげると、カロンは苦笑を浮かべた。
この馬鹿な言い合いに我慢ができなくなったらしい。
「むう……納得できてしまうから困るのう。で、どうじゃ。ずっととは言わんから、今日一日くらいは手を取り合って考えてみんか?」
「いいわよ」
ルカのように一人黙々と考えるのも一つの方法だが、私は誰かとあれこれと言い合いながら考える方が性に合っている。
そう思っての返事だったが、私の即答にカロンは目を丸くしていた。
それはいじめたくなるような顔で、ついくすくすと笑ってしまう。
「どうしたの?そんなに意外だった?」
「むう、やはりお主はやり辛くて敵わぬ」
そう言って、カロンは追加のココアを注文する。
すぐに運ばれてきたそれに、角砂糖を一つ、二つ、三つと入れていく。
「そんなに入れなくてもいいと思うわ」
八個目を入れたところで、ついに見かねて口を挟む。
あれではとんでもない甘さでむせそうだ。
「頭を働かせる上で、甘いものは重要じゃ。ワシはこれくらいがよい」
結局、十個の角砂糖を放り込んでかき混ぜると、カロンはためらうことなくそれを飲む。
見てるだけで胸焼けしそうだが、カロンは幸せそうに顔を綻ばせたので、それ以上なにかを言うのはやめた。
「さて、始めるとするかの。ほれ、お主にも紙をやろう」
紙とペンが差し出された。
本気で一緒に考えるつもりらしい。
私が変な方向へ誘導するとは思わないのだろうか。
「じゃあ、さっそく質問させてもらうけど、その本に書いてある解き方では駄目だったの?」
「うむ。暗号の解読法は何種類もあるからの。なかには関心してしまうような解き方も載っておったが、厄介なことにこの暗号には当てはまらぬ」
「つまり、それほど難解なのか、それとも私達が難しく考えすぎているのか」
暗号である以上、簡単に解けては困るが、逆に解けなくても困るのだ。
しかし、この暗号の先にあるのは、世に出回るべきではない禁書。
それを考えると、このまま見つからなくてもいいように難解にした可能性が高い。
「頭の出来は例外を除いて人も魔物も大差ないからの。トーマスとかいうやつは優秀じゃったんじゃろう。故に、人の作った暗号だと馬鹿にはできぬ」
その意見には賛成だ。
現に、リリムとバフォメットがこうして頭を悩ませているのだから。
「まあ、暗号を作った本人について考察しても仕方ないわ。それより、この十一の種族よ。見たところ、なにか関連があるようには思えないけど、やっぱり意味があると思う?」
「あるんじゃろう。一応、それぞれの種族について詳しく調べたが、全てに共通するのは魔物であるということくらいじゃ。そこからはなにも見出せんかった」
さすが、バフォメットなだけあってよく考えている。
しかし、それでも手応えなしだということは、やはり解き方は違うのだろう。
「じゃあ、このラニアについては?」
私の問いに、カロンは唸った。
「実は、それにはワシも頭を悩ませておる。言っておくと、原本にもそう書かれておるのじゃ。ほれ、見てみよ」
小さなバックからカロンは一枚の紙を取り出して、私の前に置いた。
そこに書かれていたのは、ルカから見せてもらったものと一語一句違わぬ内容。
ルカが持っていたのはカロンが写したものだから字が違うが、それ以外に異なる点はなく、やはり『ラニア』と書かれていた。
「筆跡が乱れていないところを見ると、慌てていたせいで書き間違えたということはなさそうね」
「うむ。つまり、この部分は故意にということになる。なるんじゃが……なにを意味しているのかのう……」
困り顔でカロンは首をひねる。
本人は真面目に考えているのだろうが、その容姿のせいでいまいち真剣に取り組んでいるように見えない。
それが可笑しくてつい笑いそうになるのを、咳払いで誤魔化した。
「それも含めて色々と考えてみましょ。幸い、禁書は逃げないんだしね」
「うむ」
そう言い交わすとお互いの考え方で解読へと乗り出す。
とにかく手探りだ。
どちらかがある解き方を思いつけば、それを元に二人で検証する。
その繰り返しだった。
あることに集中していると時間の経過というのは早いもので、本来なら時間の経過を認識させる空腹も、口寂しくなったら追加であれこれと注文して紛らわせていたため、気がつけば店から見える外はすっかり暗くなっていた。
「むう、もうこんな時間か。充実した時間ではあったが、実りはないのう……」
「そうね。どうせなら種族ではなく、あっち方面の単語で固めてくれたら、すぐにでも解く自信があるのだけど」
「それは言うでない。ワシら魔物なら簡単に解けてしまうようでは、暗号の意味がないじゃろう。それ以前に、淫らな言葉ばかりの暗号は嫌じゃ」
集中が途切れたのか、カロンは手を止めて何杯目かわからないコーヒーを口に含む。
それを眺めながら、私はふと気づいたことを紙に書き始める。
「なにを書いておるんじゃ?」
「それぞれ何文字かと思ってね」
答えつつも頭で数字に変換し、紙に綴っていく。
「3、3、3、5、7、5、5、5、3、5、3か。この数字に見覚えは?」
それぞれの種族の文字数を書きあげると、カロンに目を向ける。
「残念ながらないのう。わかるのは全部奇数というところじゃな」
見たままの返事だ。
「確かに全て奇数ね。偶然にしては少し出来すぎているかしら?」
「どうかのう。数は奇数か偶数のどちらかしかないんじゃから、意図したわけではなく、選んだ種族を数字にしたらたまたま奇数だったという可能性もあるじゃろ」
カロンの意見ももっともだ。
しかし、十一の種族を選び、その全てが奇数の文字の魔物という可能性はどう考えても高くない。
そこに意味があると思うのは、私の考えすぎだろうか。
「それより、お主はこの最後の一文をどう思う?」
そこに書かれているのは、その御心の許しが得られますようにという祈りにも似た言葉。
「単純に考えるなら、彼女達の許しを得られた者が禁書に辿り着けるという意味にとれるけど……」
「それ以上の意味はなし、か。ふーむ、どうやって許しを得よと言うんじゃ」
「それは、彼女達の心がわかれば―」
わかるんじゃない?と言いかけて、なにかが引っかかった。
思考が変な穴に入り、思わず暗号の原本を見つめる。
「どうしたんじゃ?なにか思いついたのか?」
「心って、どこにあると思う?」
返しの質問にカロンは眉をひそめた。
「随分と哲学的なことを聞くのう。それには諸説あるが、やはり体の真ん中―」
カロンもまた違和感に気付いたらしい。
続く言葉は口から出てこない代わりに、目を見開いて原本を見つめる。
そしてすぐに、私の顔にその視線が移った。
私はうなずき、新しい紙に再び十一の種族を書く。
そのうちの一部は、分かりやすいように書き換えた上で。
そして、そこから真ん中の一文字を抜き出した。
「リ『リ』ム」「リ『ュ』ウ」「ヨ『ウ』コ」「ナイ『ト』メア」「アント『ア』ラクネ」「マー『メ』イド」
「ユニ『コ』ーン」「バイ『コ』ーン」「ラ『ニ』ア」「ドリ『ア』ード」「ア『ル』プ」
『リュウトアメココニアル』通して読むとこうなる。
「龍と雨 ここにある」
暗号に隠されたメッセージが浮かび上がった瞬間、私とカロンはお互いの目を見つめ合う。
越えなければならない壁は崩れた。
つまり、ここからは争奪戦だ。
その火蓋が切って落とされた。
それを理解し、私もカロンもすぐに転移魔法でその場を去ったのだった。
「ルカ」
部屋へ戻ると、慌てたように支度をしているルカがいた。
「ミリアっ!いいタイミングで戻って来たわ。急いで支度して。暗号、解けたのよ!」
ルカもまた、あの暗号を解いたらしい。
そのせいか、少し興奮気味だ。
「行き先は、龍と雨でいいかしら?」
「あんたの口からその単語が出てくるってことは、アタシの答えに間違いはないみたいね。急ぐわよ」
確信したようにうなずき、ルカは部屋の扉に手をかける。
その背中に向かって言った。
「そうね、急いだほうがいいわ。カロンもまた、暗号の答えに辿り着いたから」
「っ!なら、尚更よ!」
急かすような真似はしたくなかったが、カロンについて告げると、ルカは苛立ったように荒々しく扉を開ける。
そしてすぐに駆け出した。
「おっさん!この街で、龍と雨って場所はどこにある!?」
ルカの唐突な質問に、カウンターで台帳と記入していた店主は目をぱちくりさせる。
見かけは可憐なサキュバスの少女にいきなりおっさん呼ばわりされれば当然の反応かもしれないが、ちょっと面白くてつい笑いそうになってしまった。
戸惑った様子の店主だったが、ルカの剣幕を見てある程度の事情は察してくれたのか、素直に話してくれた。
「随分と懐かしい名前だ。それなら、旧市街の東通りに」
「行くわよミリア!」
全て聞いているルカではなかった。
必要な点のみ聞くと、あっと言う間に宿を飛び出していってしまう。
さすがに苦笑ものだが、せっかちだと笑うことはできない。
ぽかんとしている店主に礼を言うと、私もルカの後を追う。
外に出た途端に感じる夜の空気は少しひんやりしている。
雨かと思って見上げた空に、星は光っていても月はない。
どうやら今夜は新月らしい。
「あの子も来ているかしら……」
「ターニアってドッペルゲンガーのこと?今夜は新月みたいだし、魔力を失っているはずだから、来ないんじゃない?それよりミリア、急いで。最後の禁書、なんとしてでも手に入れなくちゃいけないんだから」
空を仰いでいた私を咎めるように言うと、ルカは走り出す。
それに追従しながら、今後の展開を思案する。
カロンは間違いなく向かっているはず。
よって、どこかで対峙するのは避けられないだろう。
その時に私とルカが揃って足止めされると最悪だ。
人数は向こうの方が遥かに多いのだから、私達を足止めしている間に禁書を入手される可能性が高い。
そうならないために必要なのは。
ルカの望みを叶えるために、私がすべきなのは。
ふと笑ってしまう。
そうこうしているうちに見えてきた旧市街との境界線。
そこに張られたロープを軽快にルカが飛び越え、私も後に続く。
以前見た時も寂しい場所だと思ったが、新月の夜にも関わらず、灯り一つない旧市街は本当にゴーストタウンだ。
そんな旧市街を、私達は駆け抜けていく。
やがて見えてきた十字路を東方面へと折れる。
そこでルカは光の球を作り出し、辺りの建物に目を配り出した。
しかし、わざわざ目的の建物を探す必要はなかった。
東通りを進んで僅かというところで、見知った人物が進路を妨害するように立っていたからだ。
「やはり来たか」
何人もの魔女を引き連れ、カロンは疲れたように言った。
その横には、そこそこの大きさを誇る宿。
看板は汚れていたが『龍と雨』の文字がはっきり記されている。
「あんたも今着いたってとこ?」
「いや、少し前じゃな。今、あやつが捜索をしておる。見つけるのは時間の問題じゃ」
「悪いけど、禁書をあんた達に渡すわけにはいかないわ」
一歩前に出つつ、ルカはカロンを見据える。
そこには、邪魔するなら容赦しないという雰囲気がにじみ出ていた。
「それはワシのセリフじゃ。お主達を行かせるわけにはいかぬ」
言ったと同時に大鎌が取り出された。
背後の魔女達も、それぞれ箒を手にしてじっとこちらを見つめてくる。
「実力行使ってわけね。いいわ、あんた達がそうくるなら、こっちも」
言葉から、ルカが昂ぶっているのがわかる。
だからこそ、それ以上熱を持つ前に、その背に手を伸ばして引き寄せた。
「ルカ、あなたは禁書を。ここは私が引き受けるから」
「っ、それは……!」
言いかけ、ルカは口を噤む。
最優先すべきはなにかを思い出したのだろう。
その目が、宿の入り口に向く。
それを見て手を離すと、ためらうことなく走り出した。
その行き先に、二人の魔女が立ちはだかる。
「行かせませんよ!」
「ターニアちゃんの邪魔はさせません!」
ここでルカが足止めを食うわけにはいかない。
そう思い、私が一歩踏み出した時だった。
「その小娘に構うでないっ!」
カロンの鋭い声が響き、魔女二人はびくりと体をすくませる。
その隙に、ルカは建物の中へと飛び込んでいった。
「ちょっとカロン様、どうして止めるんですか!?」
「そうですよ!あの子、とんでもない魔力でしたよ!?あんな子をターニアちゃんのとこに行かせたら!」
口々に魔女達がカロンに言い寄るが、カロンはそれらの全てを無視して私を見つめていた。
「わかっておる。じゃが、ワシらの前におるのは、もっと行かせてはならぬ者じゃ。こやつだけは、絶対にここで食い止めねばならぬ」
「え……カロン様、それって……」
語気荒くカロンが語ったからか、魔女達も揃って私を見る。
そこで私はローブを脱いでみせる。
それだけで、魔女達に動揺が走った。
「え……」
「えぇぇぇぇ!?」
「嘘!?リリム様!?」
「ちょ、ちょっとカロン様!リリム様に盾突くような真似していいんですか!?」
相手にリリムがいるとは聞かされていなかったらしい。
魔女達は揃って困惑混じりの言葉を口にする。
「心配するでない。権力でどうこうするつもりはないそうじゃ。それに、刃向かったところで殺されはせぬ。そうじゃろう?」
カロンに苦笑を向けられ、私は笑顔でうなずく。
「ええ、その通りよ。ついでに言わせてもらうと、私はあの子を手伝うために中に行くつもりはない。だから、代わりに私と遊んでくれるかしら?」
言葉と同時に、邪魔にならないよう魔法で消していた翼を出す。
なんの感慨も覚えない自分の姿だが、他人から見るとやはり異質に映るらしい。
魔女達はもちろん、カロンまでもが目を見開いていた。
「これは非常によろしくないのう……」
「あう、か、カロン様っ!なんか私の知ってるリリム様と大分違うんですけど、勝ち目はあるんですかぁ〜!?」
苦しげに呻くカロンに、ほとんど泣きそうな魔女。
それを見ると、なんだか弱い者いじめをした気分になる。
「勝ち目などあるわけないじゃろう。相手は王の血族じゃ。ワシから見ても、あの者は次元が違う。だからこそ、ここで止めねばならん。ターニアのところへ行かせるわけにはいかぬ」
カロンが大鎌を構え直したからか、魔女達にも最低限のやる気は戻ったようだ。
泣きそうな顔でありながら、その目に意思が宿る。
「まったく、お主は本当に嫌なリリムじゃな……。魔王様の秘蔵っ子といったところかのう?」
その問いには内心笑ってしまう。
セラ姉さんは特別扱いしてくれたが、母様からはそうでもない。
他の姉妹と同じように、分け隔てなく扱ってくれたはず。
もっとも、それを思い出そうとしても、頭に浮かぶのはどうしたって母様ではなくセラ姉さんの方なのだが。
口元に笑みが浮かびそうになるのを押し止め、そっと剣を虚空より取り出す。
「そろそろ問答はやめましょう。私もあなたも、ここにいるのは親友のためなのだから」
そっと剣を構えてみせると、カロンはふと小さく笑う。
「……そうじゃな。ワシらは互いに友のためにこうしておる。じゃから……」
カロンも身長以上の大鎌を振り上げるように構えた。
「一対一ではないことを、卑怯とは言わぬよな?」
話はそれで終わりだという空気を察したらしい。
魔女達も緊張した面持ちで箒を構える。
「もちろん」
カロンのつぶらな瞳と目が合う。
卑怯などとは思わない。
お互いに、大切な親友のためなのだから。
その想いを胸に、飛び出していった―。
一方、宿に無事入ることができたルカは禁書を探す。
人が入らなくなった建物というのはすぐに埃が積もるもので、龍と雨も例外ではなかった。
しかしルカは鼻につく埃の臭いなどに構わず、光球で床を照らす。
そこには小さな足跡がいくつもあった。
それはあちこちに行ったようだが、そのうちの一組がぼんやりと見える階段へと向かっていた。
ルカの目がそちらへと向かい、耳が階上で生じた物音を拾う。
上にいる。
それを理解したルカは静かに階段へと向かう。
光球が照らし出した階段にはカーペットが敷かれていたが、これも埃にまみれ、元の色がわからないほどだ。
そんな階段を踏みつけると、僅かに埃が舞い上がり、次いで軋む音が生じる。
それで向こうもルカの存在に気づいたらしい。
「誰……?カロンちゃん……?」
思いのほか近くから聞こえた声に、ルカは足早に階段を上る。
そして、すぐ傍の開かれた扉の先に、彼女はいた。
闇夜を凝縮したような黒髪と黒のワンピースを纏い、赤い目をこちらに向けているターニアが。
「違うわ」
光球に照らされたルカの姿を見て、ターニアは戸惑った表情になる。
「あなたは……」
「あんたの敵よ」
そう言った瞬間、ターニアは弾かれたように走り出した。
部屋の入り口に立っていたルカの脇をその小さな体で強引に通り抜け、薄暗い廊下を疾走する。
「っ!あんた、まだ探す気!?」
「あれは、あなた達には渡せません……!」
どこか悲痛そうな叫びに、ルカは舌打ちしつつ後を追いかける。
廊下を軋ませ、埃が舞い上がる廊下を進むとさらに上へと上っていく足音。
そして勢いよく扉が閉まり、鍵がかかる音がした。
「往生際が悪いわね……」
鬱陶しそうな表情を浮かべ、ルカは再び追跡する。
階段を上り、三階へと到達するとすぐに足跡を追う。
ターニアが逃げ込んだのは倉庫だったようで、扉には店員専用の文字が彫られていた。
「諦めなさい。アタシがここに来た時点で勝負はついてる」
返事はない。
代わりに、中からはバタバタと物が落ちる音。
どうやらめげずに捜索を続けているらしい。
それがルカをいらつかせる。
だからルカはため息をついて扉に手を当てると、魔法で容赦なく扉を破壊した。
「きゃっ!?」
数多の破片となった扉が部屋へと散らばるなか、ターニアはルカの正面で体をすくませていた。
「鬼ごっこの時間は終わりよ。あんたに禁書はっ!」
「っ!」
二人揃って息を飲んだ。
ルカが放った魔法は部屋にも衝撃を与えていた。
そのせいで、二人の間には棚から落ちた様々な物が散乱している。
埃に汚れた品々のなかに見えた一冊の本。
どこにでもありそうなそれは、互いに探し求めたものだった。
禁書にいち早く気づいたターニアは、餌を前にした猫のように飛びかかる。
しかし、その小さな手が本に届く前に、彼女の体が不自然に床へと落ちた。
「!?」
自分の身に何が起こったのか理解できていないという顔で、ターニアはルカへと視線を向ける。
「言ったはずよ。勝負はついてるって」
右手を突き出したまま、ルカは静かに禁書へと向かう。
「私になにをしたんですか……!」
「ミリア直伝の重力魔法よ。それだけ言えばわかるでしょ」
素っ気なく言い放ち、ルカは床から禁書を拾い上げる。
直後、ターニアの顔が玩具を取り上げられた子供のように歪んだ。
「お願いですから、それを渡して下さい!それを使えば、ケビンさんに幸せを取り戻してあげることができるんですっ!だから……!」
「そのお願いはきけないわ。これは危険な力。使うものではなく、この世に存在するべきではないものだから」
「違います!どんな力だって、使い方次第で救いになるんです!」
臆病なドッペルゲンガーとは思えないくらいに声を張り上げているのは、それくらい彼女の感情が昂ぶっているからなのだろう。
必死にそう訴えるターニアの目尻には涙が浮かぶ。
「そうね、あんたが使うなら救いになるかもね」
「ならっ!」
渡して下さいと続けるつもりだったのかもしれない。
しかし、ルカはそれを言わせなかった。
「でも、それはあんただけの話。もし、あんたが禁書を奪われたら?悪用され、誰かの大切なものを傷つけることになったら?あんたは救いになると言ったけど、これは滅びにもなる。だから、アタシはアタシのエゴでこれを消す。こんなちっぽけなものに、アタシの大切なものを奪われたくなんかないもの」
揺るぎない様子で、ルカはそう告げる。
それは、ターニアにとって残酷とも言える宣告。
だから、その目から涙が零れた。
「どうして……どうしてわかってくれないんですか!?私はケビンさんに幸せを取り戻してあげたいだけなのに!あなたは、大切な人を失う悲しみをわからないとでも言うんですか!?」
ターニアとしては、必死な訴えだったかもしれない。
だが、それを聞いたルカの目がこれ以上ないくらいに冷めたものになった。
「そんなのわかってるわ。あんたよりもずっとね」
「どこがですか!あなたはただ私の言葉に反論しているだけでしょう!?」
ルカのそれは、子供じみた反論だとでも思っているのかもしれない。
だから、正論を返されれば、ルカは逃げるしかないと。
ターニアは涙を零しながらもルカを見つめる。
逃しはしないと言うように。
そんなターニアを見つめ返し、ルカは微動だにしないまま、静かに告げた。
「アタシのお母さんは、アタシの目の前で勇者に殺された」
「え……」
ターニアが這いつくばった姿勢のまま固まる。
それを冷やかな目で見下ろしながら、ルカは淡々と語った。
「言ったでしょ、あんたよりずっとわかってるって。アタシは大切なものを失う悲しみを知ってる。他人の感情や記憶を読み取って、知った気になってるあんたと違ってね」
「っ!だったらっ!だったら、どうしてその本を消そうとするんですか!?それがあれば、大切なものを取り戻せるのに!」
ぽろぽろと涙を零しながらも、ターニアはルカから目を逸らさない。
「馬鹿ね」
静かな部屋に、その罵倒の言葉はよく響いた。
なんの感情も窺えないその言葉に、ターニアは気圧されたかのように絶句する。
そんな彼女に背を向け、ルカは静寂を打ち破るように言った。
「こんなちっぽけな本にすがるだけで取り戻せるものなんか、アタシは持っていた覚えはないわ」
無造作に床へと禁書を投げ捨てると、ルカはそれを中心に魔法陣を展開していく。
そこに魔力が行き渡ると、一気に炎が噴き出して禁書を包んだ。
「あ……あぁ……!」
紅蓮の炎の中でゆっくりとその存在を消滅させていく禁書を目の当たりにして、ターニアは絶望したようにその様子を見ていた。
どれだけ時間をかけて作っても、壊すのは一瞬だ。
禁書も例外ではなく、数多の技法とともに炎の中で淡い光となって消えていく。
それを見届けると、ルカは振り向き、ターニアを見つめた。
「う……うぅ……」
顔を俯け、ターニアは涙を零していた。
埃まみれの床に零れ落ちる涙は止まらない。
悲しさと悔しさ、両方の感情がこもった涙を、ルカは知っている。
自分も同じだったから。
あの日あの時、自分に今の力があったなら、母は死なずに済んだはずだから。
「あんたもわかってるはずよ。一度失った大切なものは取り戻せない。だから、失わないように守るしかないのよ」
ターニアはハッとしたようにルカを見る。
しかし、今のルカは能面のような無表情を顔に張り付けていて、感情を読み取れない。
そんなルカは重力魔法を解除すると、そっと手を差し伸べた。
「ほら、帰るわよ。あんたにもアタシにも、帰りを待っている人がいるんだから。それは、お互いに大切なものでしょ?」
ふとルカの表情が緩んだ。
お互いに譲れない想いがあるからこそ、禁書を求めて争った。
それでも相手を憎く思っているわけではない。
ターニアは戸惑った表情を浮かべ、ルカの顔と手とに目が行き来する。
そこには、急に見せられた優しさにどうしていいかわからないという感情が容易に見て取れた。
「……あなたは、ずるいです……」
「さっさと戻りたいから、文句の言葉は歩きながらにして。アタシとあんたの連れはどちらも上位魔族よ。あの二人が本気で戦うような事になったら、この辺りは瓦礫の山になりかねないもの」
大げさでもなんでもなく、単なる事実である。
それがわからないターニアではない。
だから、おずおずと手を伸ばし、ルカの手に触れる。
「さ、行くわよ」
二人の互いの手がゆっくりと、しかし強く握り締められたのだった。
「やはり勝てんのう……」
膝を地面につき、疲れたようにカロンがぼやく。
「あうう……」
「動けないです……」
その背後では、鎖に拘束された魔女達が呻き声を上げている。
それを見て、カロンの口から重いため息が漏れた。
「お主が戦闘経験のない姫君であることを期待したんじゃが、そう都合よくはいかんようじゃのう……」
「残念ね。姉妹の中でも上位に入るくらい、そっちの経験は多いと思っているわ」
逆に男に対する性欲については最下位を争えるとも思い、つい笑ってしまった。
「やれやれ、わかってはおったが、ここまで差があると清々しくすら感じるの……」
「じゃあ、そろそろ終わりにする?」
「そうはいかぬ。親友が頑張っておるというのに、ワシだけ諦めるわけにはいかぬじゃろう。じゃから、む?」
フラフラと立ち上がったカロンは大鎌を構え、そしてあらぬ方向を向いた。
それにつられるように、私もそちらを向く。
視線の先にあるのは宿の入り口、そこにルカとターニアが並んで立っていた。
二人が出てきたということは決着はついたらしい。
「ミリア、そこまでにして」
「カロンちゃんも。もう、終わったから……」
二人は私とカロンの間まで歩いてくると、そこで別れた。
それを見て、私は魔女達の拘束を解除すると剣を虚空に消す。
カロンも大鎌をしまうと、埃だらけになったターニアを見て乾いた笑みを零した。
「なんじゃ、捨てられた子犬のような有様になりおって」
「カロンちゃん、皆もごめんね……。協力してもらったのに、私は手に入れられなかったよ……」
「負けたんじゃな。ワシらは」
ターニアがこくりとうなずき、敗北した事実に魔女達の何人かが泣き出す。
カロンはため息をついて、埃まみれになったターニアの服をはたき始めた。
一方、ルカはなんの感情も窺わせないまま、淡々と私の傍まで歩いて来る。
「お疲れさま。無事に望みは果たせたみたいね」
「ええ。これで安心できるわ。あんたもお疲れさま。ほら、宿に戻って休みましょ」
珍しくルカが私の手を取って引っ張っていこうとする。
まるでこの場から逃げるように。
「ワシらも帰るとしよう。ほれ、いつまでも泣くでない。可愛い顔が台無しじゃ」
魔女達の背中を押し、慰めるカロンとターニア。
その様子を眺めていると、私の視線に気づいたのか、カロンと視線がかち合った。
カロンは手を上げて苦笑する。
またの、とでも言うように。
私もそれに手を振って応える。
それだけのやり取りを交わし、私達は互いにその場を後にした。
人のいなくなった旧市街は静かだ。
そこに、私とルカの足音だけが響く。
その足取りは二人とも軽い。
旧魔王が残したとされる禁書に関わる物語は、こうして幕を閉じたのだった。
「へぇ、けっこういけるじゃない」
「でしょ?」
二日後、私とルカは例の喫茶店に足を運び、朝から甘味をあれこれと試食していた。
「で、なんであんたもいるわけ?」
ルカの視線がテーブルの向かい側にいる人物に向けられた。
しかし、その人物は咎めるようなルカの言葉に少しも動じず、やたらと大きなパフェを口に運んで幸せそうな笑みを浮かべていた。
「細かいことを気にするでない。ワシとお主達の仲ではないか」
「それは私が言ったセリフね」
「勝手に親しげな仲にするんじゃないわよ」
「それはワシが言ったセリフじゃ」
こうして甘菓子を食べつつあれこれと言い合っている様は、他人から見れば女子会に映ったかもしれない。
しかし、実際のところは宿の前でカロンが待ち伏せしていたというだけなのだが。
「で、なんで待ち伏せなんかしてたのよ?お礼参りでもしに来たわけ?」
あの夜のことを考えればそれも無きにしも非ずだが、カロンはそんなことをする性格ではない。
実際、パフェを頬張っているだけで、そんな気配は微塵もないのだから。
「ふむ、まあ、ある意味では礼参りじゃ。お主達には世話になったからのう。近況報告をしておこうと思っての」
どこか得意げなカロンだが、その頬にパフェのクリームが付いていることに気づいていない。
そのおかげというわけでもないが、ルカは余裕の欠伸だ。
「アタシ達に報告するようなことはないでしょ」
「なにを言っておる。お主達はワシらを打ち負かしたのじゃから、聞く義務がある」
「もちろん聞くわ。それで、なにを話してくれるのかしら?」
フルーツケーキを切る手を止めて聞く姿勢になると、カロンは鷹揚にうなずいた。
「とりあえず、ターニアじゃ。禁書を手に入れられなかったことで塞ぎ込むかと思ったんじゃがな。意外にも、あの翌日にはケビンに自分から正体をばらしおった」
「あら、それは意外ね」
他のドッペルゲンガーと同じように臆病な性格だと思っていたが、禁書を求めたりと変なところで思い切りのいい子だ。
なにか、思うことがあったのかもしれない。
「お主もそう思うじゃろう?じゃから聞いたんじゃ。なぜいきなり正体をばらしたのかとな」
「それで?彼女の返事は?」
「大切なものを失わないように守りたいからじゃと。姿を偽っていては、それができないからだそうじゃ」
カロンの言葉に、ルカがぴくりと反応するのを視界の端で捉えた。
しかし、それにはなにも言及せずカロンに続きを促す。
「それで、あの子はその男とうまくいったのかしら?」
カロンは複雑そうな表情でうなずいた。
「うむ。今はケビンの家で同棲中じゃ。とりあえずは恋人かららしいが、毎晩いちゃいちゃしておるようでの。喜ばしいやら、羨ましいやらで複雑じゃ」
なんだかんだでうまくいっているようだ。
もし彼女が禁書を手に入れて願いを叶えたら、今の現実はあり得なかった。
それを思うと、ターニア自身が幸せになれてよかったと思う。
だからこそ、その立役者にはぜひ聞いてみたい。
「だそうだけど、あなたはあの子になにを言ったの?」
「ワシも聞きたいのう。あれでなかなかに頑固者じゃからな」
二人の視線がルカに向かう。
そのルカはティーカップを手に取ると、なんでもないことのように言った。
「別に。ちょっと説教しただけよ。それより最後の禁書、あれはアタシが今まで処分してきたどれよりも宿している魔力が多かった。あんたはなにか知ってる?」
「それは当然じゃろう。禁書は全てが繋がっておるからの」
「繋がってる?」
ルカが訝しむ顔になる。
続きは?という無言の催促に、カロンは笑って答えた。
「うむ。つまり、一冊の禁書が消滅すると、そこに宿っていた魔力が残りの禁書へと流れ込むのじゃ。数が減れば減るほど、残りの禁書に宿る魔力が強力になっていく仕組みじゃな。じゃからこそ、トーマスとやらは禁書を処分できなかったんじゃ」
説明を終えたカロンは口直しでもするようにパフェを口に運ぶ。
「ふーん。そんな仕組みになってたんだ」
「ま、全ては終わった話じゃ。それより」
急に真剣な顔になったカロンが私を見つめた。
いきなりの様変わりに、ルカも何事かと紅茶を飲む手を止めてカロンに視線を送る。
このテーブルだけが妙な空気になるなか、カロンは言った。
「独り身で寂しいからワシもいちゃいちゃしたい。そういうわけじゃから、よい男を紹介してくれんかのう。できれば、幼女趣味の者がよい」
真顔で言った言葉は実に魔物らしいものだった。
そのせいで、ルカが脱力する。
「私がこの街に来た理由を忘れたの?観光兼夫探しよ。いい男がいるなら、私が紹介してほしいくらいだわ」
「そうじゃった……。はぁ、どこかにおらんかのう、ワシのお兄ちゃんになってくれる者は」
「まあ、気長にいきましょ。禁書と違って、今度はゆっくり探せるわけだしね」
もっとも、男というだけで魔物の競争倍率は高いから、のんびりもしてられないのだが。
それでもカロンはくつくつと笑う。
「そうじゃのう。ワシらは負けこそしたが、結果としてはこれでよかったかもしれぬ。誰も損をしたわけではないしの」
私達は禁書を処分する目的を果たし、ターニアは本来の願いこそ叶わなかったが、それでも自身は幸せを手にした。
強いて損をした誰かを挙げるとすれば、私とカロンだ。
しかし、私が損をしたと思っていないように、カロンもまたそう思ってはいないはず。
お互いに、ただ親友のためにと動いたのだから。
「さて、報告はこれくらいにして、本題に入ろうかの」
言葉とともに、カロンは大きな水晶玉を宙から取り出し、テーブルに置く。
それは綺麗な球体なのにテーブルを転がったりはせず、見事なまでに静止している。
なんだか不思議な光景だ。
「なによ、水晶玉なんか取り出して」
「ワシのサバトは占いサバトと呼ばれてての。あれこれと占うのを専門にしておる。お主達には世話になったからのう。礼代わりに、お主達の今後を占ってやろうと思ってな」
カロンが両手をかざすと、透明の水晶玉は不思議な光を放ちつつ宙に浮かび上がった。
占いに関して素人である私にはそれっぽく見える。
「あー、アタシはパス。占いとか信じてないし」
悩む素振りさえ見せず、ルカが即答した。
「なんじゃ、これでも占いの腕には自信があるんじゃぞ。禁書がこの街にあると突き止めたのだって占いの結果じゃ」
少し不満そうに言うカロン、しかしルカはそれでも興味がないらしく、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「もう、ルカったら。せっかく占ってくれるんだから、素直に好意を受け取ればいいのに。いいわ、私の今後を占って」
完全に無視する態勢になったルカに代わって申し出ると、カロンは小さくうなずいてみせた。
「では、お主の手を水晶玉に近づけてくれるかの」
指示通り、私は水晶玉へと手を伸ばす。
ルカも信じていないと言いつつ、横目でその様子を眺める。
口にこそしないが、私も占いは信じていない。
それでもカロンの申し出に応じたのは、単なる気まぐれだ。
信じてはいないが、興味はあるとでも言えばいいのかもしれない。
そんな私の内心には気づかないまま、カロンは水晶玉を見つめる。
「……ふむ。なかなかに興味深い結果じゃ」
「なにがわかったの?」
透明な水晶玉を真剣に見つめるカロン。
そこには、私には見えないなにかが映っているのだろうか。
「近いうちに、お主の今後を左右するような出来事があるじゃろう。それにどう応じるかで、先は変わる。そこにはお主も関わるようじゃ」
カロンの目がルカに向いた。
「なんでアタシがミリアの出来事に関わるのよ」
「親友だからじゃ。浅からぬ絆がそうさせるんじゃろうな」
「……なによそれ」
曖昧な言い方が気に入らないのか、ルカの表情が曇る。
「それで、他には何かわかった?」
カロンの目が遠くを見た気がした。
「……眩しいくらいに光り輝く蒼が見えた。それがなにを意味するかはわからぬ。ワシに見えたのはそれくらいじゃ」
水晶玉から光が消え、音もなくテーブルに落ちて安置されたように止まった。
「なにそれ。肝心なことはちっともわからないじゃない」
「占いとはそういうものじゃ。未来を完璧に予知できるなら、既にそれは占いではないからのう」
ルカが不満の声をあけるが、カロンの言い分ももっともだ。
占いは占いにすぎない。
それで未来を知ろうとする方が間違っているというもの。
「さて、今見たものを踏まえて助言をするなら、常に選択することじゃ。たまたま手に入ったものが、いつまでもお主の傍にあるとは限らぬ」
占いは終わりらしく、水晶玉が煙の如く消えていく。
それをなんとなく眺めていると、カロンはパフェの最後の一口を食べ終え、席を立った。
「ふう、美味じゃった。さて、礼もしたことだし、ワシはそろそろ行くとするかの」
「せっかくの機会なのに、もう行くの?」
「うむ。ワシもそろそろお兄ちゃん探しに本腰を入れようと思っての」
そういう理由なら、引き止めるわけにもいかない。
代わりに、笑って手を振った。
「そう。なら、邪魔はできないわね。いい人が見つかるよう願っているわ」
「うむ。お主達も幸運を。ではの」
お別れだというのに少しもしんみりとした様子もなく、平然と去っていけるのはバフォメットのなせる業なのかもしれない。
だからか、悠然と歩いて行くカロンを見ても寂しさはなく、どこか笑ってしまえるような空気だ。
店の扉に据え付けられたベルが鳴り、その先へと出て行くカロンに店員が「ありがとうございました」と感謝の言葉を述べている。
それが済めば、喫茶店は普段の静けさを取り戻す。
そこでルカが言った。
「あんたの今後を左右する出来事があるってよ」
「あら、占いは信じないんじゃなかったの?」
「もちろん信じてないわ。ただ、もしそんな事態になったら、あんたはどうするのかって思っただけ」
そう言われても困ってしまう。
実際にその出来事とやらが起きなければ、対応のしようもないのだから。
「その時に考えるわ。今は当分頭を使いたくないもの」
つい数日前まで頭脳労働ばかりだったのだから、頭を使いたくないのは本当だ。
同じように暗号を解読していただけあって、私の冗談にルカも呆れたように笑う。
「ま、確かにそうね。じゃあ、当たるかどうかもわからない占いの結果はどうでもいいとして、今日はどうする?」
どうする、というのは、このまま帰るか、それともぶらぶらしていくかという意味だろう。
もちろん、私の取る選択は後者。
「この街は、西以外ならどこを見ても楽しめるらしいわ」
ルカと共に過ごした時間はそれなりのものになっている。
それだけに、ルカは私がなにを言いたいかすぐに理解したらしい。
「ま、あんたはそう言うだろうと思ってたわ。いつも通り、ぶらつくんでしょ?」
「ええ。ルカさえよければだけどね」
「別にいいわよ。禁書も処分したから、のんびりできるし」
いつから禁書を追っていたのか知らないが、ようやく全て処分したのだから、ルカもこれで羽休めができる。
そして、のんびりするという点において、未だ発展を続けるこの街は打ってつけのはずだ。
「じゃあ、私達も行きましょ。今日もいい天気だしね」
異論はないらしく、ルカが立ち上がり、私もそれに続く。
「ありがとうございました」という業務的な店員の声を背後に受けながら店を出ると、日の光が眩しい。
「さて、どこに行こっか。あんたは行きたいところとかあるの?」
「そうね。買い物ができる場所がいいかしら」
特に買いたい物があるわけではないが、ただ眺めるだけでも楽しいのでそう提案してみた。
「んー、あっちの方かしら。なんか色々と看板出てるし。行ってみましょ」
きょろきょろと辺りを見回して見当をつけたらしく、ルカが歩き出す。
私も並んで歩き出し、隣りのルカを横目で眺めた。
どこか憑き物が落ちたような、さっぱりとした表情だ。
禁書を根絶した祝杯は昨日やったが、その横顔を見ていると、それとは別になにかしてあげたいという思いが湧き上がってくる。
これから買い物に行くのだから、なにか贈り物でもしようか。
そう考えると胸は躍り、頭は早くもなにを買おうかという思考に入った。
様々な店が立ち並ぶ通りは、家族連れや恋人同士の買い物客が笑みを浮かべながら商品を手に取ったり、眺めたりしている。
よく晴れた空の下、私もそれらの人々と同じように親友との買い物を楽しんだのだった。
12/09/24 23:17更新 / エンプティ
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