連載小説
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リリムと白い孤島 〜来訪者〜
「招かれざる客って、まさか教団……?」
誰にともなくウォルターが呟き、イースは静かに頷いた。
「そうとしか思えません。まさか、こんな辺鄙な島に来るとは思いませんでしたが」
「あれは教団だったんですか!?ど、どうするんですかイース様!?」
教団と聞いてセリーヌが騒ぎ出す。
「どうするもなにも、お帰り願うだけです。……少々、乱暴になるかもしれませんが」
どうやら、教団を追い払いに行くつもりらしい。
島の統治者としての務めを果たそうとするのは立派だが、回りがそうさせなかった。
「だ、だめですよ!お腹の子になにかあったらどうるんですか!?」
「セリーヌの言う通りだ。ここは警備隊に連絡して、各町の警戒態勢を強化してもらったほうがいい」
「島の代表ともあろう者が、島の危機に動かず、他の島民に任せろと?それはできませんよ」
二人の静止を振り切って立ち上がるイース。
それを見計らって、私は口火を切った。
「なら、島の人でなければいいわけね?」
「え?」
驚いたように、三人の視線が私に集まった。
驚いていないのはルカだけだ。
「ここに、島の者ではないリリムとサキュバスがいるじゃない。ねえ、ルカ」
「はぁ。ま、この状況でアタシ達だけなにもしないってのは、さすがにないわ」
私達の言いたいことはすぐに分かったのだろう。
イースは力強く首を振る。
「それこそあり得ません。客人であるお二人にこのようなことを押しつけるわけには」
「あら、それを言ったら、妊娠中のあなた一人に押しつける方がよほどあり得ない選択ね」
「しかし!」
なおも食い下がるイースだったが、その両腕をウォルターとセリーヌがしっかりと掴む。
「すいませんミリア様、今回は力をお貸し下さい!」
「私からもお願いします!島の人は皆イース様の子が生まれるのを楽しみにしているんです!これでイース様になにかあったら…」
誰かのために必死になれるのは、素敵なことだと思う。
だから、微笑んでおいた。
「頼まれずとも力は貸すわ。島民ではなくとも、この事態を見逃すわけにはいかないもの。それに、この島はセラ姉さんのお気に入りでもあるみたいだしね」
これで島を制圧でもされたら、あの姉になにを言われるかわからない。
そういった意味でも、私が手を貸さない理由はない。
「話はまとまった?じゃ、行きましょ」
すっかり準備を整えたのか、ルカは立ち上がって伸びを一つ。
なんだかんだでやる気らしい。
「ああ、そうそうルカ。あなたはここで待機してて。今回は私一人で行くわ」
「なによ、人のこと巻き込んでおいて一人で行くつもり?まあ、あんたなら問題ないだろうけど。ん?今回は?」
「そう、今回は」
含みを持たせた笑みを向けると、説明することなく私は水晶洞窟を出て行く。
どういう仕組みなのか、イースの住処では寒さを感じなかったが、外に出るとやはり雪景色に相応しい気温だ。
「さてと、たまにはリリムとしての仕事もしないとね」
相手が誰であろうと、魅了して島の人達に引き渡してしまえばそれで終わり。
だが、それではあまりにもつまらなすぎる。
かといって、被害が出ることは避けなければならない。
最悪の事態を避けつつ、こちらの望む方向へと運ぶにはやはり情報が必要だ。
そういった意味でも、まずは顔合わせといこう。
思考をまとめて軽く笑うと、島の南側へと転移したのだった。



「今のところは順調ですか?」
室内に女性の声が響いた。
実際には響くほど大きな声ではなかったが、室内が静かだったこともあり、その声はよく聞こえた。
「ええ。ただ、島の規模とこちらの人員を考えると、どうしても時間はかかりそうです」
書き物をしていたウィルは顔を上げて苦笑しつつ、言葉を続けた。
「だからこそ、今回の仕事は納得がいきません。相手がドラゴンだと分かっていながら、こちらは大隊一つに勇者が一人。相手が相手なだけに、いささか心許ない。上層部は一体なにを考えているのやら」
「勇者が私一人では頼りないですか?」
エアリスが少し楽しそうに言うので、ウィルもまた満面の笑みで返事を返した。
「まさか。私が言いたいのは、ドラゴンを倒したいのならもっと勇者を送るべきだということです。いくら大隊といっても、ドラゴン相手はさすがに厳しい。結局のところ、最後はエアリス様に頼らざるを得ないわけです。言い換えれば、ドラゴンを倒す負担は全てあなた一人に押しつけることになる」
語り終える頃には、ウィルの顔はすっかり真剣なものになっていた。
だからこそ、エアリスもまた笑みを消して真面目に言葉を返す。
「それが私の、いえ、勇者の務めですから」
さも当たり前のように言うエアリスに、ウィルは鋭い視線を向けて口を開こうとする。
だが、それは扉をノックする音に遮られた。
「入れ」
言葉と同時に扉が開き、入ってきたのは水晶玉を手にした兵士。
「失礼します!ウィル様、偵察部隊より急ぎの連絡が来ています!」
「わかった、繋いでくれ」
ウィルがそう言うと、兵士は机に箱のようなものを置き、その上に水晶玉をセットする。
遠隔地と交信できる魔導具だ。
水晶玉が淡い光を帯びるのを待って、ウィルは語りかける。
「聞こえるか?私だ、聞こえたら応答しろ」
「こちら第二偵察部隊!報告します!魔物が一体出現!数は一!」
「一匹だと?目標のドラゴンか?場所は?」
「いえ、違います!場所は船から北!あれは…なんだ!?」
報告している者が混乱しているのか、その報告は要領を得ない。
「落ち着け。お前も教団が把握している魔物については一通り叩き込まれているはずだ。魔物の種類は?」
「み、未確認です!」
「未確認だと?」
ウィルが怪訝そうに聞き返すと、水晶玉から絶望的な声が流れた。
「嘘だろ……!」
「どうした?なにがあった?」
「不意打ちをしかけた仲間が…敵に触れることなく戦闘不能になりました……!」
「っ!敵の姿はなんだ!人型か!?」
初めてウィルが声を荒げた。
エアリスと兵士も表情を固くし、報告される内容に集中する。
「人型です!白い髪と赤い目…まさかリリム!?」
「リリムだと!?」
出てきた単語にウィルと兵士が驚愕するなか、エアリスだけがぴくりと体を反応させる。
「ウィル様、これは…!」
「わかっている!聞こえるか!偵察任務は中止!即座に撤退を開始しろ!すぐに増援を送る!」
「りょ、了解!撤退だ!撤退しろ!!」
水晶での交信はその指示を以て終了すると、ウィルは厳しい表情を兵士に向ける。
「大至急、魔法部隊を全員出動させろ!現場に到着次第、遠距離魔法による攻撃を開始!ダメージを与えられずとも構わん!偵察部隊が撤退する時間を少しでも稼げ!」
「はっ!!」
敬礼もそこそこに兵士は慌てて去って行く。
それに続くようにエアリスも立ち上がった。
「私も行きます」
静かに言い放った言葉は、ウィルをこれ以上ないくらいに真剣な顔にさせる。
「お待ち下さい。あなたは我々の最高戦力です。不用意に出て行ってはなりません」
「最高戦力だからこそです。相手がリリムだというなら、対抗できるのは私だけ。他の方では手に負えないでしょう?」
笑顔でそう言われていたら、ウィルも反論したかもしれない。
しかし、エアリスは笑みなど一切浮かべず、真剣にウィルを見つめていた。
「……わかりました。エアリス様は先行して下さい。私も後続を率いてすぐに援軍に向かいます」
目礼し、部屋を出て行こうとするエアリスへ「ご武運を」と小さく告げる。
それが聞こえたのか、エアリスは一瞬だけ動きを止めるものの、なにも言わずに部屋から出て行く。
「やれやれ。仮に相手がリリムだとしたら、撤退も選択肢に入れないといけませんね…」
そうぼやき、ウィルもまた足早に部屋を出て行った。


エアリスが現場へと駆けつけた時、そこでは既に魔法部隊が遠距離魔法による攻撃を開始していた。
それによって大きな雪煙が立ち上るが、魔法部隊はそれでも攻撃を止めようとはしない。
「状況は?」
「はっ!偵察部隊は魅了された者を除いて撤退を完了!しかし」
「未だに敵がいる、というわけですね?」
近くにいた者から報告を聞きつつ、エアリスは雪煙を見つめる。
水晶越しの報告では相手はリリム。
あの程度の攻撃では恐らく効果はないだろう。
「エアリス様!」
声をかけてきたのは後続を率いてきたウィル。
その後ろには剣と魔法、両方を扱える精鋭部隊が控えている。
「ウィル、これから私が前に出ます。あなたは他の部隊をまとめて、いつでも動けるようにしておいて下さい」
「了解しました。して、援護は?」
「私一人で。それと、もし私が敗北した場合、私は見捨ててすぐに退却して下さい」
いつでも動けるようにとは、すぐに退却できるようにということでもある。
エアリスの言葉が聞こえた何人かが動揺するなか、ウィルだけは顔色を変えないまま、即座に言い返した。
「了承しかねます」
「して下さい。私一人だけの損失なら、代えは利きます。しかし、全滅だけは避けなくてはなりません。参謀なら分かるでしょう」
駄々っ子に言い聞かせるようにエアリスは穏やかに語るが、ウィルは無視するように指示を出し始めた。
「魔法部隊に攻撃を一時中止するよう伝達!他の者はいつでも退却できるよう準備しておけ!」
指示を受けた何人かが散らばっていくなか、エアリスは小さく笑った。
「ありがとうございます」
「勘違いなさらないで下さい。あなたが敗北したら、私が引きずって行きますから」
思わず目を見開いていた。
集団である以上、一つの意思の元に動かなければならない。
そうでなければ、すぐに瓦解してしまうからだ。
エアリスはそれを言おうと口を開きかけるが、ウィルは素知らぬ顔で背を向けた。
「万が一に備え、遠距離魔法はいつでも使えるようにしておけ。合図は私が出す」
精鋭部隊に指示を出す様子は有能な参謀そのもので、さっきの聞き分けのなさなど微塵も感じさせない。
「まったく…」
ため息を漏らしつつ、諦めたように向き直る。
できることならきちんと話し合いたいが、今はそんなことをしている時間はない。
小さな苛立ちをぶつけるように、エアリスは雪煙を睨む。
魔法攻撃は中止され、静かな雪原に音はない。
その場にいる者全員が無言で雪煙を凝視するなか、唐突にそれは現れた。
白一色が支配する世界で、コートに似た黒衣に身を包み、背中に黒翼を有するその漆黒に、誰もが無意識に目を奪われた。
レスカティエの一件でリリムの存在は世に知れ渡っても、実際に目にするのは初めてだったからだ。
その場にいる者が揃って凍りついたかのように動かないなか、リリムだけが優雅に微笑んだ。
それで呪縛が解けたかのようにエアリスは唇を噛み締め、一歩前へ出る。
「ようやく勇者の登場というわけね。待った甲斐があったわ」
聞き惚れるような声で楽しそうに笑った。
声でさえもが人を魅了する。
もはや決定的だ。
性質の悪い悪夢だと思いたいが、目の前にいるのはまさしくリリムだった。
「ねぇ、あなたのお名前は?」
緊張感のない声で続けられたのは、あまりにも気安い質問。
「魔物に名乗る名はありません」
エアリスはそう言い放ち、剣を抜いた。
「っ!総員、援護態勢をとれ!」
エアリスが剣を抜いたことで、弾かれたようにウィルが声を張り上げた。
それによって呆けていた者達が慌てて身構えるが、エアリスは左手を上げて制止の合図を出す。
「エアリス様?」
「援護は無用です。この場は、先程話した通りでお願いします」
振り向けば、ウィルはきっと苦い顔をしていたに違いない。
それでも言い返してこなかったのは、言い合いをしている場合ではないからだろう。
そんなエアリス達のやり取りを眺めていたリリムはやれやれと肩をすくめた。
「まずはお互いを知るところからだと思ったのだけど、名前も教えてくれないの?」
「我々はおしゃべりをしに来たわけではありません。それはあなたも同じでしょう」
人を惹きつけてやまない美貌に、薄い笑みが浮かんだ。
「私はそのつもりで来たのだけど、あなたはおしゃべりよりもダンスをご所望みたいね」
リリムの右手が左腰の辺りに向かい、そこで掴むような動作をする。
次の瞬間、その手には片刃の剣が握られていた。
剣を手にしたその姿は背中の黒翼と相まって、人を滅亡に導く堕天使のようだ。
戦う前から気圧されそうになるが、剣をしっかりと握り直すことでエアリスは耐える。
「あなたのダンスに付き合うつもりはありません」
「つれない返事ね。まあ、最初だしこんなものかしら」
笑顔でぶつぶつと独り言を言いつつも、リリムは剣を構えた。
「リリムの一人、ミリアよ。お手合わせ願うわ、勇者さん」
緊張感のかけらも感じさせないまま、ミリアは素早く詰め寄ってきた。
雪原を滑るように移動し、あっと言う間にエアリスの目前まで迫ると笑顔で剣を振るう。
そこに敵意はなく、訓練で模擬戦でもしているかのような感じだ。
そんな緩い空気を纏っているというのに、繰り出される剣撃は恐ろしいくらいに鋭い。
対抗するエアリスも果敢に攻めるが、ミリアはそれを綺麗に受け流していく。
「ふふ、なかなか」
そして楽しそうに笑うのだ。
挑発したつもりはないのだろうが、エアリスはそんなミリアを睨みつけ、一際強く剣を振るう。
しかし、ミリアの笑みを消すことはできなかった。
「あら、少し感情が昂ぶったみたいね」
あっさりと剣は受けとめられ、そのまま二人はお互いの顔を見つめ合う。
「どう?少しはお話してくれる気になった?」
「あなたと話すことなどありませんよ」
「正面からそう言われると悲しくなるわ。じゃあ…」
「聞く気はありません」
競り合ったままの剣を強引に弾き、エアリスは距離を取る。
聞くつもりなど一切ないと証明するように。
それを見つめるミリアは、どこか物足りないといった顔。
そんな表情のまま小さくため息をつき、彼女はそっと言葉を紡いだ。
「今回はこのへんにしておくわ。事を急くのは好きじゃないし」
そして剣をすっと下ろし、あっさりと戦闘解除。
演技でもなんでもなく、本当に止めるつもりらしく、剣を虚空へと消してしまう。
唐突すぎる展開に頭がついていかず、エアリスは拍子抜けしてしまう。
それでも剣はしっかりと構えたまま、真意の分からない言動をする悪魔から目は逸らさない。
「どういうつもりですか」
「あら、ようやく話をする気になってくれた?」
「誰が」
素っ気なく言ったつもりだったのに、このリリムは笑顔のまま。
それが腹立たしい。
「ふふ、そうムキにならくてもまた会いに来るわ。またね、勇者さん」
くるりと背を向け、肩越しにこちらを見たミリアの目は楽しそうに細められている。
そして、手の代わりに白い尻尾をバイバイをするように揺らしながら、彼女は一瞬で姿を消した。
それがあまりにも自然で、エアリスはただ見送るだけだった。
「エアリス様がリリムを追い払った!この場は我々の勝利だ!」
ウィルの声で我に返り、振り向けば歓声を上げる仲間達の姿。
「魅了されたヤツを救出に行くぞ!」
「気付薬を持ってこい!」
「魔力が切れて動けないヤツがいる!手を貸してくれ!」
寒さにも負けずに元気な声があちこちから発せられるなか、エアリスは剣を納めてウィルの傍に向かった。
「いくらなんでも、追い払ったは言いすぎでは?」
「兵を鼓舞するためには、多少の誇大表現も必要ですよ。さあ、船に戻りましょう」
「撤収!」と叫ぶウィルの指示に従い、皆が船に向かうなか、エアリスも小さく笑って後に続く。
撤退でなくて良かったと思いながら。


「ただいま」
イースの住処に戻ると、客室には私が出て行った時と同じメンバーが顔を揃えていた。
島民組の三人は神妙な面持ちで、ルカだけはいつもの澄まし顔でそれぞれ視線を向けてくる。
「ミリア様、ご無事ですか?」
「ええ、見ての通りね」
手傷は負っていないし、仮に負傷したとしても治癒魔法で治している。
だから大丈夫という意味を込めて微笑んでみせると、イースは安堵したようにため息をついた。
「さてと。とりあえず、結果報告から始めるわね。予想通り、お客さんは教団の方々。人数は私が確認しただけでも、ざっと三十。それに加えて勇者が一人。船が大型だったという話を考えると、五十以上の団体さんね」
ありのままを告げると、当然といえば当然だが、イース達の顔が曇った。
唯一変化がないのはルカだ。
「で?その団体さんをあんたはどうして来たわけ?」
皆がもっとも関心を抱いているであろう質問。
その証拠に、ルカがそう言った途端に私に集まる視線に力がこもった気がする。
全員の視線を一身に浴び、それをくすぐったく思いながら、私は困ったようにこう言った。
「一人魅了しただけね。その後は勇者にいじめれたから、帰ってきちゃったわ♪」
「はいはい。で、本当は?」
場の雰囲気を明るくしようと思っての発言はあっさり流された。
状況を考えれば仕方ないかもしれないが、ちょっと悲しい。
「今回の目的は、向こうの戦力の調査。後は、効果が出るか分からない毒を仕込んできたというとこかしら。それ以外は、まだ何もしてないわね」
笑顔で両手を肩の高さまで上げ、降参を示すようにそう答えた。
その返答にルカは盛大なため息だ。
「今度は何を企んでるわけ?」
胡乱な目とともに向けられた言葉は、この島に来て何回聞いただろうか。
もっとも、今回は確かに企んでいるので反論する気はないのだけど。
「たまには、私自身の仕事をしようと思ってね」
「あんたの仕事?」
「ええ。人と魔物とが愛し合っていける世界。それが母様の理想であり、この世界の正しい在り方。そして、世界がそうなるように導くのが私達リリムの仕事。だからね、彼らにも協力してもらおうと思って」
敵対していようと、彼らもまた人間だ。
だから不穏分子として処分するのではなく、こちら側へと堕としてしまえばいい。
「では、ミリア様は教団の人達を」
黙って聞いていたイースがそう言ったので、私は後を継いだ。
「そう。この島の人達の夫になってもらおうと思ってね。迷惑かしら?」
「はい!私も一人欲しいです!」
夫と聞いては黙っていられなかったのか、セリーヌがしゅたっと挙手。
「とまあ、望む人がここにいるわけだけど、どうかしら?」
「迷惑など、とんでもありません。お恥ずかしい話ですが、この島では男が人員不足でして。未だに未婚の魔物が大勢いるのです。定期船がやってくるのも、必要物資を届けてもらう以上に、外部の男性を連れてきてもらうのが目的なくらいですから」
イースの話を補強するようにセリーヌがコクコクと首を振る。
街が発展すれば生活は豊かになる。
そうすると日々の生活に余裕が生まれるわけで、物欲が満たされれば人はまだ満たされない欲を優先するようになる。
つまり、性欲だ。
魔物であれば真っ先に優先するその欲が満たされないのは、島の代表としては頭を抱えたくなる問題だろう。
「じゃあ、この問題は私に任せてもらってもいいかしら?」
「はい。こちらでも、できる限りのことはお手伝いさせていただきます。なにか必要なものがあれば、気兼ねなく仰って下さい」
島の代表たるイースと話がまとまったところで、私はルカへと顔を向けた。
「そういうわけなんだけど、まだ説明は必要かしら?」
「それだけ聞けば十分よ。で、具体的にはどうするの?教団連中を堕とすことに文句はないけど、向こうは集団でしょ。散らばって街を襲撃でもされたら、目も当てられないわよ」
確かにルカの言うことには一理ある。
「それは当然の懸念ね。でも、今この島に来ている彼らは指揮者の下に、集団で動く感じだったわ。今回はたまたまそうだったという可能性もあるけど、私が見た限りでは、一つの目的を集団で達成させる。彼らの動きからは、そういう雰囲気が見てとれたわね」
あくまで見た側からの意見だ。
だが、実際に多くの部隊に指示を出している青年がいたし、あながち見当外れというわけでもないはず。
「指揮者の下に統率された集団というわけですか。そうだとすると、厄介ですね」
ある意味では島民を統率する立場にあるイースが唸り、首をひねる。
「厄介なのはどっちも同じよ。重要なのはその対策。向こうがどういう動きをしようと、街への被害は抑えなくちゃいけないわけだし。そういうわけだから、この島の地図、ある?」
ルカの言葉を受けてウォルターが即座に動くなか、私もその懸念については考えていた。
一番いいのは各町に連絡して警戒してもらうという方法だが、できるなら不安を煽るような真似はしたくない。
「不本意ですが、各町の警備隊に注意してもらうという方法が無難ではないかと」
イースもまた同じ考えだったらしい。
不本意というのも、不安を煽りたくないということで間違いないはず。
「そうしてもらえるなら助かるけど、いいの?」
「ええ。万が一襲撃された場合のことを考えれば、何も知らされていないよりは、知っていた方がよほど冷静に対応できるはずですから」
ただ慕われてるだけでは、人の上には立てない。
それでは周りが担ぎ上げているだけで、いざという時に冷静な判断を下せないからだ。
その点、イースはきちんと人の上に立つだけの器を持っているようだ。
「ま、それが妥当ね。もっとも、街に近づけさせるつもりはないけど」
「あら、頼もしいわね。さすがルカ」
「なに言ってんのよ。あんただってその気のくせに。効くか分からない毒ってのも、ほとんど効くようなもんでしょ」
呆れるような目で見られ、つい笑ってしまう。
説明せずとも理解してくれるのは、やはり傍にいる時間が長いからか。
「あの、私も気になっていたのですが、その毒とは?」
「ミリア自身よ」
ルカの即答に、イースは目を丸くした。
「ミリア様が……?」
「そう。正確には、リリムがこちら側にいるって事実。アタシ達からすれば心強いけど、相手から見れば最悪でしょうね。なにしろ、遭遇すればそれだけで全滅。それを避けるためにも、効率を重視した少人数での行動は控えざるを得ない。この子の存在が、教団の行動を制限する毒になるってわけ」
講義よろしくルカが説明を終えると、イースはもちろんセリーヌも関心したようにうなずいた。
「ま、一番いいのはあんたが全員魅了してさっさと終わりにするってことなんだけど。そうする気はないんでしょ?」
「そうね。それは切り札にしておきましょ。できる限り、向こうを降伏させようと思ってるわ」
「あんた、切り札をいくつ持ってるのよ?」
その問いには、笑ってこう答えた。
「私が勝てる数だけ、と言っておくわ」
「すいません、遅くなりました」
会話に割り込むように声をかけてきたのは、丸めた地図を手にしたウォルター。
ルカの依頼通りに地図を持ってきたようで、それをテーブルに広げてみせる。
その地図は島を上から見たもので、どこに何があるか、一目で分かるというものだった。
「へぇ、けっこう詳しく描いてある地図ね。これなら文句ないわ」
そう言いつつ、ルカは服から小さなコインのようなものをいくつか取り出した。
「南の海岸がここでっと。ここから近くの街まで、大人の足でどれくらい?」
海岸に当たる場所にコインを一つ置くと、残りは手にしたままイース夫妻へと尋ねた。
「あなた、どうなの?」
「そうですね。海岸から近い街は二つありますが、どちらも二日という距離です。夜の行軍をして一日半といったところでしょうか」
「ふむふむ。つまり、海岸から街までは二日ってとこか……」
そのまま地図を見つめて考えている感じだったが、その顔がすぐに私へと向いた。
「ミリア。ちょっと向こうに仕込んでもらいたい物があるんだけど、できる?」
「説明さえしてくれれば、なんでもやるわ」
「さすがね。じゃあ、これ」
手渡されたのは無色の液体が入った試験管だった。
「これは?」
「一種の反応薬。まあ、効果は後で説明するわ。とりあえず、それを勇者の持ち物にかけてきて。できれば、いつも持ち歩くような物がいいわ」
「かければいいの?」
「ええ。無臭だからばれる心配もないわ」
よく分からないが、ルカがそうしろというならそうしよう。
私が薬を虚空へとしまったところで、ルカは再び地図に目を落とした。
「とりあえず、今日はこのまま夜まで待機ね。あんたは夜になったら、その薬を仕込みに行きなさい」
「あの、私達はなにをすれば?」
蚊帳の外だったイースがおずおずと申し出た。
「各町に連絡してくれればそれでいいわ。向こうもミリアの襲撃で警戒してるだろうから、今日はそこまで活発に動いたりはしないと思うしね」
話をまとめるように、ルカの声音が穏やかなものになった。
それに合わせて、部屋の空気も張りつめたものから、緩やかなものへと変化したように感じる。
必要な議論が終われば、後に続くのは談笑だ。
「では、話がまとまったようなので休憩としましょう。今、茶菓子を用意します」
「あ、ウォルターさん。私の分はいいです。今から町に行って今回のことを説明しますから」
ウォルターとセリーヌの二人が揃って動きだし、取り残された私達はとりあえずといった感じで紅茶を啜る。
こうしていると、さっきまでの緊迫した空気が嘘のようだ。
「そういえばミリア様、先程は来客のせいでお話できなかったのですが、一つお尋ねしてもいいですか?」
「ええ、どうぞ。なにかしら?」
「『麗翼姫』とは、ミリア様のことですか?」
面食らう、とはきっとこのことだ。
もちろんイースは意図してそう言ったわけではないだろう。
それでも私は口に運びかけたカップを手にしたまま、動きを止めた。
「……それ、姉さんから聞いたの?」
その呼び名を知っているのはごく僅かのはず。
それをイースが知っているということは、あの姉が話したに違いない。
そしてその予想は見事に的中した。
「はい。以前、セラ様から。自慢の妹だから、もしここに来たらよろしくと。伺っていた通り、見事な翼だと思います」
世辞抜きに褒めてくれているのだろうが、私はため息しか出ない。
そういう呼び名は好きじゃないと知っているのに、あの姉には困ったものだ。
「なんだ、麗翼姫ってあんたのことだったの?」
「え?」
思わず、隣りに座るルカをまじまじと見ていた。
「ルカも知っているの?」
「いや、けっこう有名だと思うけど。あれ?そういえば麗翼姫と勇者殺しは同一人物だって聞いたけど、そうなの?」
私はほとんど絶句していた。
イースはまだしも、ルカまでもが私の二つ名を知っている。
姉が勝手につけて一人で楽しんでいただけだと思ったら、しっかり言い触らしていたらしい。
嫌な事実を知ってしまい、失敗を隠すように顔に手を当てる。
「そう、ね…。そう呼ばれてた頃もあるわね……」
「あの、どうかしましたか?」
イースが首をかしげて不思議そうに見てくるが、私がうなだれた原因はきっとわからないだろう。
「……いえ、なんでもないわ。ちょっと精神的に疲れただけ」
そう、どっと疲れただけ。
自分の知らないところで二つ名が広まっていたという事実は、勇者との戦闘よりよほど精神を疲弊させる。
「おや、大丈夫ですか?実は、セラ様がお気に入りの温泉がすぐ近くにあるのですが、いかがですか、少し休まれては」
その言葉に、ルカと顔を見合わせる。
こちらが行動を起こすのは夜。
つまり、それまでは暇。
だからか、ルカの目も行ってくればいいんじゃない?と言っていた。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかしら」
「では、ご案内します」
ゆっくりと腰を上げるイースに続いて立ち上がると、座ったままのルカを引っ張り上げた。
「さ、ルカも行きましょ」
「ちょっと、アタシは行くなんて言ってないわよ?」
「私が一緒に入りたいの。だから行きましょ」
姉が二つ名を広めていたことには嘆息ものだが、姉と私の好みは似通っているので、姉がお気に入りなら私も気に入る可能性が高い。
そこにルカを連れて行かないなんて選択肢はない。
素敵な場所なら、それを共有してくれる人がいればより楽しめるのだから。
そんなわけで、強引にルカを誘ってイースの後についていく。
イースは案内がてらキッチンに顔を出し、そこで茶菓子とは思えないほど本格的にケーキを作っているウォルターに声をかけてから、私達を洞穴の外に連れ出した。
「こちらです」
山を右手に歩いていくイースに続いて森に入り、そのまま少し歩いていくと不思議な場所に出た。
森の中でそこだけ木がなく、代わりに背の高い水晶が密集して地面から伸びているのだ。
「あそこです」
「へ?どこに温泉なんてあるのよ?」
「あの水晶の奥ですよ」
訝しむルカに微笑みながら、イースは回り込むように水晶へと近づいていく。
彼女の後をついて行くと密集している水晶の一部が途切れ、その先に温泉があった。
「なるほど、確かに姉さん好みだわ」
「ここもまた自然が作り出した場所です。まあ、シャワーだけは取り付けましたが。では、存分にご堪能下さい」
「あら、あなたは入らないの?」
イースがそのまま去ろうとするので、そう尋ねてみた。
「はい。夫は凝り性なもので、放っておくとすごいものを作りそうですから」
来る前に見た光景では、ウォルターはホールケーキを作ろうとしていた。
それを思い出したのか、イースは苦笑する。
「そういうわけですから、私は一足先に戻らせていただきます。置いてあるものは自由に使ってもらって構わないので」
「わかったわ」
しかし、恭しく頭を下げたイースはそのままくるりと踵を返して足を止めた。
そのまま空を見上げ、そして振り向く。
「どうやら、午後からは天気が荒れそうですので、昼までにはお戻り下さい」
「荒れる?どう見ても晴れなんだけど?」
空を見上げ、ルカは不思議そうにイースへ視線を戻す。
確かにルカの言うように、空は青く晴れ渡り、荒れそうもない。
「確かには今は晴れてますね。しかし、私の経験上、この空気は間違いなく荒れますよ」
予想ではなく予言だった。
「じゃ、程よく入って上がるわ。あんたもそれでいいでしょ?」
「ええ、もちろん」
「では、ごゆっくりと」
今度は本当に去っていき、私達はさっそく温泉へ。
水晶に覆われたその場所は神秘的で幻想的だ。
広さも申し分なく、顔を上げれば、気持ちいいくらいの晴天が目に眩しい。
「へぇ、これがあんたの姉がお気に入りの温泉かぁ」
服を脱ぎ終え、ちゃぷちゃぷと入っていくルカはそっとその儚い身体を白い湯に浸からせる。
「どう?湯加減は?」
「なんていうか、不思議な感じ」
微妙に噛み合ってない返事だ。
そう言うルカが面食らったような顔をしているので、私もそれ以上の追求はせずに湯へ入ってみた。
「これは…」
熱さは昨日の温泉と大差ない。
違うのは湯の質だ。
身体の隅々まで湯がしみ入り、勝手に身体を洗われるとでも言えばいいのだろうか。
柔らかく微細な毛のタオルでそっと撫でられている感覚。
それはくすぐったくも心地よく、ルカが不思議と言ったのも納得だ。
「確かに不思議ね。でも気持ちいいわ」
「お気に入りっていうのもうなずける話だわ。これ、特別な温泉って感じがするもの。あんたもそう思うでしょ、麗翼姫?」
いつ聞いても私を微妙にさせる二つ名だ。
それを言ったルカは、鬼の首でも取ったかのような顔。
その目には嗜虐的な色がありありと浮かんでいる。
「……なんだか、最近ルカが意地悪だわ」
「あんたの日頃の行いがそうさせてんのよ。それより、あんたは姉妹仲ってどうなの?」
しれっと言ったルカは次の瞬間には静かな眼差しを向けてきた。
そこに先程までの嫌みや悪意はなく、純粋に興味の色だけ。
他愛ない話をしたことは数知れずだが、ルカからこういう質問が来るのは初めてかもしれない。
だからか、私も洒落た返事ではなく、ごく普通に答えていた。
「なんて言えばいいのか分からないわね。知っての通り、私の姉妹は何人もいるし。さっき話に上がったセラ姉さんとは仲がいいっていえるけど、他はなんとも」
夫を見つけて城でずっと愛し合っている者もいれば、私のように世界をフラフラしている者だっている。
それぞれが思い思いの行動をしているので、姉妹同士が会うということ自体がない。
そんな現状だから、仲がいいも悪いもない。
「私自身、姉さんが結婚して城を出て行ったと同時に一人暮らしを始めたから、下に何人いるかも分からないわ。気まぐれ起こして城に戻った時に新しく生まれたって話は聞くけど、わざわざ会う必要もないし。それに、数年前に完全に城を出たから、接点はほとんどない。だから、仲が悪いとは思わないけど、いいとも言えない」
お互いに無関心。
きっとそんなところだろう。
「ん?数年前に城を出たのと、一人暮らしを始めたのってどう違うのよ?」
「一人暮らしをしてた頃は、定期的に戻るようにしていたのよ。まあ、ほとんど戻らなかったけどね。で、ふと思ったの。城ではすることがないから、大して戻る意味がないなって。だから、完全に一人暮らしをしようと思って、きっぱり母様に宣言したわけ。まあ、していたことは今と大して変わらないわ」
「ふーん」
私の話を聞き終えてルカが発したのはそんな一言。
満足したのか、それとも不満なのかよく分からない。
「微妙な返事ね。今の話じゃ不足だった?」
「なんとなく聞いただけだから、不足もなにもないわ」
静かな湖面でも見るように、ルカの目が遠くに向けられた。
それが意外で、ついその顔を見つめてしまう。
ルカでもこんな顔をするのかと。
「なにか思うところがあったの?」
だからそっと言葉を紡いだ。
この雪のように繊細な空気が消えてしまわないよう控えめに。
「……アタシには姉妹っていないからさ、あんたの話を聞いて、もしアタシに妹がいたらどんな感じなんだろうって思ったの」
照れてるわけでもなく、淡々と語る様子は独白に近い。
それに返事を返すべきか、私は少し悩む。
ルカの過去を知っているだけに、迂闊なことを言えば古傷を抉る結果になりかねないからだ。
思案しているせいで間が空いたからか、ルカはこちらを見て小さく笑った。
「ああ、気にする必要なんてないわよ。アタシが勝手に言ったんだし。アタシには体験しようがないから、ちょっと気になっただけ」
「そうだとしたら、あまり参考にはならなそうね。私の姉妹は、一般的な姉妹とは少し違うから」
「そうでもないわよ。それも一つの形だもの。まあ、変わってるとは思うけど、仲が悪くないならいいわ」
言い終わると同時に、ルカはずるずると湯へ身体を沈めていく。
「あら、気にしてくれたの?」
「そんなんじゃないわ。あんたの意外な事実を知って、少し物思いに耽ったってだけ」
手をひらひらさせるついでにぴちゃぴちゃと湯を飛ばしてくるあたり、すっかりいつもの調子に戻ったらしい。
少しだけ意地悪そうな笑みは既に見慣れたもの。
それに微笑みを返し、私はそっと立ち上がった。
「シャワー、先に使っていいかしら?」
「あ、待って!」
ざばっと音を立てて慌てたようにルカが体を起こした。
「どうしたの?先に使う?」
「いや、そうじゃなくて。その、ねっ。ほら、昨日はアタシが洗ってもらったでしょ?だから、その…」
そういうルカはちょっと頬を赤らめ、もじもじしている。
それに合わせて、昨日洗ってもらったという発言。
これだけでなにが言いたいか、手に取るように分かった。
「背中、洗ってくれるの?」
「……アタシだけ洗ってもらったら、なんか貸しを作ったみたいでしょ」
言いたいことを代弁してあげると、ルカの視線が泳いだ。
恥ずかしがっているのが一目で分かり、なんとも微笑ましい。
そして素直に嬉しい。
だからルカがやりやすいように、先に移動してシャワー近くの椅子に座った。
遅れてルカが温泉から上がり、ひたひたと近づいてくる足音がする。
背後に感じる気配が強まったところで、振り向かずに言った。
「じゃあお願いね」
直後に聞こえたぽたぽたという音は、スポンジを搾って落ちた泡によるものだろう。
一体どんな顔をして立っているのか気になった私は、そっと肩越しに振り向いた。
「そうそう。言い忘れてたけど、変なところを触ってもいいからね」
「うっさい!いいから前向いてなさいよ!」
少しだけ見えた顔は予想通りのもの。
そして、怒声とともに頭に落とされた手刀はちょっと痛かった。


昼過ぎから急に悪くなった空は雪を降らせ始めた。
そのせいでリリムを追い払ったことによる昂揚はすっかり冷めてしまい、止めを刺すような吹雪で完全に士気は下がってしまった。
敵地で吹雪の中を散策するわけにもいかず、各自船で待機。
しかし、なにもできないまま夜になってしまった。
鬱陶しい吹雪は夜になってようやく止んだが、さすがに今から行動を再開するというわけにもいかず、今日はこのまま活動を終了せざるを得なかった。
数時間前にそんな会議を終え、自室で眠っていたエアリスはふと目を覚ました。
それは、ある種の予知だったのかもしれない。
「こんばんは」
起きて早々に声をかけられた。
それが女性の朗らかな声だったせいでつい挨拶を返しそうになったが、よく考えれば部屋の鍵はきちんと閉めた。
それに、今回の作戦に女性の参加者は自分一人だったはず。
起きてない頭がなんとかそれだけのことを弾き出し、声のした方を見た。
そしてすぐに目を見開いた。
そこにはいるはずのない、いや、いてはいけない者がいた。
夢を見ているのかと思い、何度か瞬きするがその悪夢は消えなかった。
テーブルに行儀悪く腰かけ、艶めかしい足を組んでこちらを眺めているのがはっきりと分かった。
怪しく輝く赤い瞳とともに、暗い室内でもはっきりと見える白は露出している肌だろう。
「リリムッ!」
寝ぼけていた頭が一瞬で覚醒し、飛び起きると右手がベッド脇に立てかけてあった剣へと伸びる。
だが、右手は虚しく空を掴み、驚いて目を向けるとそこにあるはずの剣は存在していなかった。
「!?」
「探し物はこれかしら?」
楽しそうな声とともにミリアの背後から白い尻尾がひょっこりと現れる。
そこにエアリス愛用の剣が絡めとられていた。
エアリスの顔がみるみる歪んでいく。
状況は最悪だ。
武器を取り上げられ、自分は丸腰。
勇者としてあるまじき醜態だ。
「よくもぬけぬけと……!!」
睨みつけようとして、妙な匂いが鼻についた。
お世辞にもいい匂いといえないそれは室内に充満していて、エアリスは顔をしかめて口元を手で覆う。
「あら、精の香りはお気に召さなかったかしら?」
「なに……!」
「この部屋に漂っているのは、入り口にいた二人の精の香りよ。私にとってはいい匂いだけど、あなたには合わないみたいね」
「っ!!二人になにをしたんです!?」
聞かずとも扉の先にいる二人がどうなったかは想像がつく。
だから、その問いはほとんど自分を奮い立たせるためのようなもの。
それを分かっているのか、ミリアは嘲笑うかのようにあっさりと告げた。
「ちょっと味見をね。ふふっ、なかなか美味しかったわよ♪」
ぎりり、と歯噛みする音がした。
それくらい、目の前の悪魔が忌々しい。
いっそ船の損壊など気にせずに大魔法でも使ってやろうかと思うが、腹を立てれば相手の思うつぼだ。
頭に上った血を下げるべく目を閉じ、鼻で大きく一呼吸すると幾分か冷静さを取り戻す。
「……夜襲とは、さすが野蛮な魔物らしいことですねっ」
最大限に皮肉を言ったつもりだった。
それに対してミリアはくつくつと声なく笑う。
「夜に訪問しただけで、襲った人はいないわね。まあ、ここに来るまでに魅了した人はいるけど。そういうわけだから、助けは当分来ないわ」
さらりと告げられる事実に頭痛が起きそうだ。
「一体、なにが目的ですか?」
襲うつもりなら簡単に襲えた。
なにしろ、エアリスは無防備に眠りこけていたのだから。
「あなたとのおしゃべり。朝に会った時はろくにしゃべってくれなかったから、こうしてまた会いに来たの」
本気で頭痛がした。
たったそれだけのために、このリリムはここまで来たというのか。
敵地に、たった一人で。
「だからそうね、目的はほとんど果たされたと言っていい。あと一つ目的を果たしたら、今日は大人しく帰ると約束するわ」
そう言うミリアはにこにこと笑顔のまま。
これほど信用できない約束があるだろうか。
「この期に及んで、なにをするつもりです」
「あなたの名前を教えて?それが聞けたら帰るから」
「……魔物に名乗る名はないと言ったはずです」
なにを考えているか分からないが、これ以上このリリムのいいようにさせるつもりはない。
「そう、それは残念ね。じゃあ」
言葉と同時に、なにかが煌めいた。
そう思った時には、首筋にぴたりと剣が当てられていた。
遅れてきた刃風が前髪を僅かに揺らす。
「力尽くで聞こうかしら?」
一瞬のうちにテーブルからエアリスの目の前まで移動し、エアリスの剣を手にしたミリアは変わらず笑っている。
このままエアリスが答えなければ、首を落とすかもしれない。
真意の読めない笑顔はそれをやりかねない。
まるで重大な秘密を聞き出そうとする傭兵のようだが、相手が聞きたいのはこちらの名前。
ならば言ってしまえばいいとも思うが、魔物の要求に応じるというのは勇者として不本意だ。
しかし、このまま抵抗しても防戦一方のエアリスに勝機はない。
「…………エアリス」
屈したわけじゃないと心の中で言い訳しながら、ぼそっと呟く。
「エアリス……。そう、素敵な名前ね」
聞こえなかったらいいのにとの願いを込めて言った名前はしっかり耳に届いたらしく、満足そうに微笑むミリア。
要望通りに名乗ったからか、剣はすっと下げられ、鞘に納めるとご丁寧に柄の方を向けて差し出してきた。
「はい。これ、返すわ」
「っ!!」
ひったくるように奪い返すと、すぐに剣を抜いて戦闘態勢に入る。
それが可笑しかったのか、ミリアは小さく苦笑を浮かべて一歩後ろに下がった。
「そう怖い顔をしなくても、約束通り帰るわ。またね、エアリス。できれば、今度はその綺麗な顔が笑うところを見たいものね」
さっそくエアリスの名前を呼びながら、ミリアの姿が黒い霧となって霧散していく。
その気配が完全に消えると、エアリスは長いため息をついた。
不意を突かれ、挙句に魔物の要求を飲むなど勇者失格もいいところだ。
しかも、その相手がリリムとなれば―。
自己嫌悪に陥りそうだったが、今はするべきことがある。
「いけない、状況を確かめないと」
あのリリムが魅了したと言っている以上、なにかしらの被害が出ているはず。
それを確認し、対応しないといけない。
気を引き締め直し、剣をしっかり持つと、エアリスは異臭のする自室を飛び出したのだった。



「なるほど、それでこの有様というわけですか」
船の甲板で報告を受けたウィルはため息混じりに目を別のところへ向けた。
その先ではモップとバケツを手にした兵士達が床を掃除している。
皆一様に微妙そうな顔なのは、自分がぶちまけた精液を処理しているからだろう。
あのリリムは魅了したと言っていたが、その人数は予想以上に多かった。
しかも、最初に遭遇した者によると、堂々と正面から船内に侵入してきたというのだから性質が悪い。
エアリスの部屋に至るまでに遭遇した者は揃って魅了され、挙句絶頂させれたという。
おかげで船内には異臭が漂い、夜も遅い時間に揃って船内の掃除だ。
傍から見れば、間抜けなことこの上ない。
偵察兵の一人とともに近くの森へと出向いていたウィルは難を逃れたが、帰ってきたらこの惨状なのだからため息の一つもつきたくなるだろう。
「すいません。私がいながら、これだけの被害を……」
「いえ、この程度で済んでよかったと言うべきでしょう。人員、物資、ともに損害はないな?」
エアリスの隣りに立つ兵士にウィルの目が移る。
「はっ。どちらも確認しましたが、損失はありません。魅了された者も正気に戻っていますし、目立った被害はないかと」
確かになにかを失うような被害は出ていない。
だが、この船に乗り合わせる者達の間に流れる空気は非常に微妙なものになっている。
魅了されたことによる二次被害は甚大だった。
「不幸中の幸いだな。エアリス様も無事なんですね?」
「はい。一応、救護部隊の方にも検査してもらいましたが、問題なしとのことです」
「なるほど。そうなると、リリムは一体なにが目的だったのか気になりますね」
考え込むウィルだが、エアリスはどう答えたものかと悩む。
まさか、自分の名前を聞きに来たとは言える雰囲気ではないからだ。
「船の位置はいかがしますか?敵に拠点がバレていると、最悪総攻撃という可能性も」
「確かにその可能性はあるが、位置はこのままでいい。全ての魔物が空を飛べるわけではい。いざとなったら船を出せば、手出しできる魔物は限られる」
ウィルが冷静に判断していくなか、エアリスはバレないようにそっと小さく欠伸をした。
頼れる参謀が戻ってきてあれこれと指示を出しているのを見たせいか、緊張が解けたらしい。
「とりあえず、今夜再び襲撃してくることはないと思うが、念のために見張りは倍に増やせ。三時間交代で明日、陽が昇るまではその予定でいく。全員にそう伝えろ」
出された指示に短い返事を返して兵士が去っていく。
それを見送ると、ウィルはエアリスを見て小さく笑った。
「そういうわけですから、おねむの勇者様はこのまま部屋に戻ってお休み下さい」
どうやらこの優秀な参謀は、さっきの不謹慎な様子を目ざとく見ていたらしい。
反論しようがない事実にエアリスの頬が赤く染まり、彼女は気まずそうに目を逸らす。
「……見てたのですか?」
「ええ。ただ、私が休めと言うのは、なにもあなたが欠伸をしていたからというわけではありません」
「え?」
さっきまでの軽口ではなかった。
それに気づいて顔を上げると、そこには気遣うような目で見るウィルがいた。
「リリムとの間にどんなことがあったかは知りませんが、そのせいであなたが疲弊しているのはわかりましたから。ですから、エアリス様は部屋に戻ってお休み下さい」
「あなたはどうするんですか?」
「私は他の者と一緒に交代で見張りです。指示を出すだけ出して、自分は悠々と寝るわけにはいきませんから」
「なら私も」
「駄目です」
きっぱりと、有無をいわせない口調だった。
「何度も申し上げていますが、あなたは我々の最高戦力です。今回の目的を果たすためにも、休める時には休んでもらわなければならない。見張りは我々下っ端の仕事です。では、勇者であるあなたの仕事は?」
あまりにもわかりやすい問題だ。
その問いに答える代わりに、エアリスはため息をつく。
「……わかりました。私は部屋に戻ります。その代わり、魔物が来たらすぐに呼んで下さい。私の『仕事』ですから」
強調された仕事という言葉に、ウィルは満足そうに頷く。
「わかりました。できることなら、そんな事態にはならないよう願いたいですけどね。それではおやすみなさい、エアリス様」
真意の読めない笑顔を向けるウィルにエアリスはなにかを言いかけるが、結局なにも言わずお休みなさいと告げて部屋に戻る。
エアリスの部屋周辺の掃除は終わったらしく、部屋に戻ると精の匂いは感じなくなっていた。
おかげで横になれば、すぐに眠気が襲ってきた。
それに抵抗することなくエアリスは目を閉じる。
何事もなく朝を迎えられますように。
そう願ったところで意識は途切れた。
12/07/16 23:10更新 / エンプティ
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■作者メッセージ
やっぱり文字数を押さえられたのは最初だけだった!
どうも、お久しぶりです。エンプティです。
ようやく第二話をお送りできました。
しかし、七月ってなんだ……。暑いし、忙しいし、仕事は面倒だし、家でだべっていたい……。
それはさておき、ミリアの麗翼姫という二つ名は「リリムと在りし日々」で書くつもりだったはずがすっかり忘れ、今更になって思い出したので無理矢理書き込んだものだったりします。
プロットを書かずに、頭の中の設計図だけで書いているからこんなことに……。
でも、反省は活かさない。それが作者です。
さて、無駄話をしたところで、これまたすっかり忘れていた次回予告を。

「すぐに転移魔法で医者に連れて行くわ。急いで準備して」
「ルカ、後はお願いね」
「あなたがここで大人しく殺されてくれたら、最高の笑顔を浮かべてあげますよ」
「あなたはなんのために剣を振るうの?」
「うそ……」
「あの黒翼の大敵には勝てますか?」
「絶対に触れてはならないもの、とでも言えばいいのでしょうか」

最後になりましたが、質問に答えてくれた皆さま、ありがとうございました。
ではまた、次回でお会いしましょう。

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