リリムと秘密のお仕事
空から見下ろす森。
それは緑一色で、まるで色の違う海のようだ。
樹海とはよく言ったものだと思う。
恐らくは延々と木が生い茂る森を見た人がそう言ったのだろう。
けど、個人的には空から見た森の方が樹海と呼ぶに相応しい気がする。
そんな森の中にぽつんと存在する家。
友人ルカの家である。
彼女の家の前に静かに降り立つと、扉をノックする。
「ルカ、いるかしら?」
「いるわよ。それにしても、あんたも懲りないわね。なんか用?」
すぐに扉が開けられ、ルカが顔を出した。
ちょっと呆れたような顔だが、声は穏やか。
ご機嫌斜めというわけではないようだ。
だから挨拶代わりに言ってあげた。
「あら、用がなかったら会いに来てはいけないの?」
首をかしげて微笑むと、ルカはなんとも言えない顔になる。
「そういうわけじゃないけど…。言っとくけど、今日はあんたにかまってられないわよ?」
「それは仕事の用事かなにか?」
「そうよ。調合素材の取引相手と色々と打ち合わせがあるの。あんたも新聞読んでるなら知ってるでしょ。この前レスカティエが陥落したってやつ」
ルカがつまらなそうに語ったことはもちろん知っている。
なにしろ新聞の一面に大きく掲載されていたし、その実行犯は身内だし。
まあ、会ったこともない姉の一人だが。
「それはもちろん知っているわ。でも、その件とあなたにどういう関係があるの?」
「単純な話よ。これを機に、レスカティエにも支店を出す予定なんだって。で、今以上に注文が増えるだろうから、その辺の打ち合わせ」
面倒くさいと顔に大書したルカはため息をつく。
「じゃあ仕方ないわね。また今度遊びに来るわ」
さすがに打ち合わせでは手伝えることもないし、邪魔はしたくない。
そんなわけで踵を返した私に、ルカは慌てたように声をかけてきた。
「あ、い、言っとくけど、あんたより仕事を優先してるわけじゃないから!アタシは打ち合わせなんて面倒としか思ってないから!そこんとこ誤解しないでよ!?」
早口でまくしたてるルカの頬は赤い。
ただ、そんなルカの様子よりも、その言葉に驚いてしまう。
驚いてしまうが、すぐに笑みを返した。
「ええ、分かってるわ。じゃあ、またねルカ」
「え、ええ…。その、ま、またね…」
最後のほうはほとんど視線を逸らしてしまうルカ。
顔が赤いところを見ると、恥ずかしいのだろう。
そんなルカとの会話を名残惜しく思いつつも、彼女の家を後にする。
「さて、どうしようかしら?」
散歩という気分ではないし、かといって何かすることがあるわけでもない。
仕方ないので、ふと頭に浮かんだ場所に行くことにした。
「ここは相変わらずね…」
私がそう感想を漏らしたのは、所々にガーゴイルが並び、禍々しい装飾が施されている城を見てだ。
どんなに強い力を持った勇者でも陥落させることは出来ない難攻不落の城などと言われているが、私から見ると無駄に大きいだけの実家である。
そんな魔王城は今日も平和そのものらしい。
だからこそ、少し耳を澄ませば甘い嬌声が聞こえてくる。
中庭にいるのにも関わらず、だ。
まあ、非常事態でもない限り毎日がこんな調子なのでなんとも思わないのだが。
城内に入ると声だけでなく甘い香りまで漂ってくるが、気にせずに進んでいくと警備のリザードマンに出会った。
「これはミリア王女様。お久しぶりでございます」
その場に片膝をつき、リザードマンは恭しく頭を下げる。
「久しぶりね。ただ、その仰々しい態度はやめてもらえるかしら?それと、王女様もいらないわ」
私だけかもしれないが、全くと言っていいほど自分が王女だと自覚したことがないのだ。
それに、例え王女であっても、次の王になれるのは一人だけ。
だったら、その者だけが王女として扱われればいいと思う。
まあ、所詮私の考えにすぎないのだけど。
「とんでもありません!あなた様は陛下のご息女なのですから、王女とお呼びし、敬うのは当然のことです!」
「もう少し気楽に接してくれてかまわないのだけど」
ため息混じりそう言うと、リザードマンは申し訳なさそうに顎を引き、恐る恐るといった感じで私を見た。
「では…その、一つ質問をしてもよろしいでしょうか?」
「なにかしら?」
笑みとともに了承の言葉を返すと、リザードマンは少しの間を空けて質問してきた。
「レスカティエを陥落したのは、あなた様ですか?」
虚を突かれるというのはきっと、こういうことを言うのだろう。
あまりにも予想外すぎる質問に、私は返事が遅れてしまった。
「…なぜ私だと?」
「ミリア王女様は一際強い力をお持ちだとお聞きしていましたので、レスカティエの陥落はあなた様の手によって成されたのではないかと」
至って真面目な考察を述べるリザードマン。
それに対して私はため息が出てしまう。
「私ではないわ」
「そう、ですか…。これは失礼しました」
見当違いのことを言ってしまったからか、リザードマンは視線を泳がせる。
「いいえ、謝ることではないわ。だから気にしないようにね?」
そう言ってリザードマンの肩を軽く叩くと、「見回り、頑張ってね」と囁いてその場を後にした。
そして、しばらく歩いて辿り着いた玉座の間の扉を開ける。
ただ、ここに母様がいることはほとんどなく、玉座に座る者がいないからか、他の臣民の姿もない。
誰もいないことを確認すると、私はため息をついた。
その理由はここに来るまでに交わされた会話にある。
会う人会う人、二言目にはレスカティエについて尋ねてくるのだ。
「私って、そういうことをするように見えるのかしら?」
その問いに答えてくれる人はいない。
再びため息をつくと、ゆっくりと歩き出す。
向かうは玉座の奥にある通路。
私達リリムは魔王である母様の娘ということで、玉座の奥にある通路からしか行けない特別区画に部屋があるのだ。
今までのレスカティエに関する質問でなんだか疲れたし、今日は自分の部屋でのんびりしていよう。
そんなことを思いながら通路へと歩いていた時だった。
別の通路から甲冑を纏った者特有の音が聞こえてきた。
そして現れたのは見知った顔のデュラハンだった。
「これはミリア様。お久しぶりでございます。今お戻りになられたのですか?」
私の姿を確認したデュラハンは足早に近づいてくると、一礼した後にそう声をかけてきた。
「ええそうよ。久しぶりね、セリエル。元気そうでなによりだわ」
セリエルは魔王軍の中でも数少ない将軍の地位に就いているデュラハンだ。
よってその実力も他のデュラハンとは比べ物にならないほど高い。
そして、私の剣の師でもある。
「ところでセリエル。あなたが持っているその巻物はなにかしら?」
「ああ、これですか。これは先程陛下より仰せつかった仕事ですね」
「母様からの仕事?」
「はい」
「ちょっと見せてもらってもいいかしら?」
「ええ、どうぞ」
セリエルはためらいもせずに、巻物を手渡してくれた。
受け取った巻物に目を通すと、その内容は廃棄された教団支部の調査となっている。
一見すればただの指令書。
でも不可解な点がある。
調査程度で将軍であるセリエルを向かわせるの?
頭に真っ先に浮かんだ疑問がそれ。
本来であれば、この程度の内容ならセリエルを向かわせるほどではない。
それなのに、わざわざセリエルを向かわせるということは…。
なにかお楽しみがあるってことね。
母様の意図を理解し、軽く笑みを浮かべる。
「ねえセリエル。この仕事、私が引き受けるわ」
「え…。いえ、これは私に与えられた仕事ですから、さすがにそれは」
「あら、いいじゃない。これはあなたの手を煩わせるような仕事じゃないわ」
「それは私の台詞ですよ。それに、これではまるで私がミリア様に押し付けたように感じてしまいます」
困り顔になりつつも、セリエルはそう簡単に譲ってはくれない。
「ふふ、じゃあ、この指令書を取り返してみる?私が初めてあなたに剣を教えてもらった時みたいに気絶でもさせて」
いたずらっぽく笑う私には、はっきりとあの日の出来事が思い浮かぶ。
その日、まだ幼い私は初めてセリエルに声をかけた。
歳は十四か五だったと思う。
ようやく手足が伸びてきて、少女から大人へと変わっていくという頃だ。
「ねえ、セリエル。お願いがあるの」
「これはミリアお嬢様。私に何か用でしょうか?」
「私に剣を教えてほしいの」
「剣を、ですか?お嬢様の頼みとあらば、喜んでお教えしたいのですが、さすがに私一人の独断では」
「大丈夫よ。母様には許可を貰っているから」
「陛下がそうおっしゃったのならば、私が断る理由はありません。では、訓練場に参りましょう」
セリエルに連れられて、私はいくつかある訓練場の一つに赴いた。
ちなみに、剣を教えてもらおうと思った理由は単純明快だ。
魔王軍に所属する魔物は、その力を落とさないようにという理由から定期的に模擬戦を行う。広い闘技場で、降参するか戦闘不能になるまで戦うのだ。
その模擬戦を、私を含む何人かの姉妹も観戦していた。
私がセリエルの戦う姿を見たのはその時が初めてだった。
剣一つで対戦相手を悉く打ち倒していく様子は、幼い私に大きな感動を与えた。それくらい、剣を手に戦うセリエルは格好良かったのだ。
あんなふうに剣を扱えるようになりたい。
それが剣を教えてもらおうと思った理由だ。
大概の魔物はこの歳になると性について理解し始めるので、興味を持つのも性の場合がほとんどだ。それはリリムも同じ。
それに対して私が興味を持ったのは剣なのだから、回りから変わっていると言われるのも無理はないかもしれない。
もっとも、当時の私は自分が変わっているとは思っていなかったのだが。
訓練場に着いた私は、初めて触る剣にドキドキしながらセリエルの話を聞いていた。
「さてお嬢様。剣の扱いより先に教えることがあります」
剣を教えてもらえるとウキウキしていた私はその言葉にきょとんとする。
「剣より先に?なに?」
「はい、それは殺気についてです。よほどの達人でもない限り、相手を攻撃する時はどうしても殺気が混じってしまうものなのです。それこそ、相手を殺す気がなくても」
「殺気って相手を殺そうとする空気のことでしょ?」
「その通りです。お嬢様にはまずそれを理解してもらいたい。殺気を感じ取ることが出来れば、格上の相手の攻撃を避けたり、防ぐことも可能になります」
「それはどうすれば分かるの?」
首をかしげる私に、セリエルは微笑む。
「説明するより、体感してもらった方が理解しやすいでしょう。今から私が殺気を放ちますから、お嬢様はじっとしていて下さい」
セリエルは剣を構えると笑顔を消し、鋭い目でこちらを見た。
次の瞬間に私を襲ったのは圧倒的な恐怖。
「う…」
そして私は気を失ったのだ。
あの日の出来事はセリエルの中で決して軽くない失態になっているらしく、案の定その表情が曇る。
「あ、あの時は本当に申し訳ありませんでした!」
あの後、土下座までしてこちらがうんざりするほど謝ってきたのに、セリエルは再び頭を下げる。
「申し訳なく思っているのなら、この仕事、私に譲って?」
可愛らしくお願いすると、セリエルはため息をついた。
「ミリア様。あまり困らせないでいただきたい」
さっきまでは平身低頭だったのに、このお願いにはしっかりと首を振る。
それとこれとは話が別ということだろう。
全く真面目なことだ。
まあ、セリエルらしいのだけど。
「じゃあ、私が直接母様に申し出てくるわ。それなら問題ないでしょ?」
「そうですね。陛下がミリア様に任せるとおっしゃるのであれば、私はそれに従います」
「交渉は成立ね。じゃあ、母様のところに行ってくるわ」
「分かりました。では、私はここでお待ちしていますので」
セリエルとの話がまとまったところで、奥へと進む。
母様がいるであろう場所はおよそ二つ。
寝室か、執務室だ。
その二つのうちでも可能性の高い寝室へと行ってみたのだが、意外なことにそこに母様はいなかった。
そうなると、執務室か。
ため息をついて執務室へと向かうと、部屋の前に警備のデュラハンがいた。
「おお、ミリア様。お久しぶりでございます」
「久しぶりね。ところで、中に母様はいるかしら?」
「はい。二人で仕事中ですね」
二人ということは父様も一緒か。
そうなると、本当に仕事をしているか怪しくなってくる。
ひょっとしたら、中で夫婦仲良く愛し合っているかもしれない。
「母様に話があるのだけど、通ってもいいかしら?」
「申し訳ありませんが、誰も通すなと仰せつかっています。なので、いくらミリア様といえど、お通しするわけには…」
その言葉で、中でしていることが仕事じゃない可能性が濃厚になってくる。
それを分かってか知らずか、ものすごく申し訳なさそうな顔でデュラハンは頭を下げるが、予想はしていたので特に気にしない。
「じゃあ、代わりにこれを母様に渡してもらえるかしら。この仕事は私が引き受けると言えば分かるはずだから」
セリエルへの指令書を手渡すと、デュラハンは「かしこまりました」と言って恭しく頭を下げた。
「じゃあ、お願いね」
伝言を任せると、私はその場を後にする。
さて、これで仕事は私の役目だ。
セリエルから譲り受けるわけだし、きちんとこなさなければならない。
気持ちを切り替えて玉座の間に行くと、律儀にセリエルが待っていた。
「おかえりなさいませ。仕事の件はどうなりました?」
「母様には会えなかったから、伝言を頼んでおいたわ。そういうわけだから、この仕事は私がやるわね」
わざわざセリエルを向かわせようとしたくらいだから、きっと何かある。
それが楽しみで、つい笑ってしまう。
そんな私に対してセリエルは苦笑を浮かべる。
「ミリア様。なぜそこまでこの仕事にこだわるのですか?」
「興味あるからよ。あなたも気づいているんでしょう?あなたほどの人が調査なんて仕事に向かわされるという不自然な点に」
「それは、まあ…」
曖昧な返事なのは、やはり不思議に思っているからだろう。
もしくは、意図がよく分からない仕事を私に押し付けるようなことは好ましくないとでも思っているのかもしれない。
だから、そんなセリエルの気持ちが晴れるように言ってあげた。
「まあ、それは建前の理由ね。本当の理由はあなたのため。弟子から師への遅い恩返しだとでも思ってくれればいいわ」
「ミリア様…」
「まあ、そういうわけだから、あなたは空いた時間は夫探しでもしてくるといいわ。まだ独り身なのでしょう?」
微笑みながらそう言ってあげると、セリエルの表情が崩れた。
「わ、私は、私より強い男でなければ伴侶とは認めません!」
頬を赤くしながら視線を逸らすセリエルはルカに負けず劣らず可愛い。
ただ、セリエルより強い男となるとこの世に何人もいないだろう。
「強さだけが男の魅力じゃないわよ?まあ、なにに魅力を感じるかは人それぞれだけどね」
そう言って歩き出すと、すれ違いざまに呼び止められた。
「ミリア様」
「なにかしら?」
振り向くと、セリエルはなんとも複雑そうな顔をしていた。
「その、なにかありましたか?先程とは纏っている雰囲気が違うのですが」
「あら、私だって気持ちの切り替えくらいできるわよ?今回はミリア個人としてではなく、魔王である母様の使いとして行くわけだしね」
だからこそ、普段は抑えているリリムとしての力を今は抑えていない。
雰囲気が違うように感じるのはそのせいだろう。
「やはりあなたも陛下のご息女ですね。ただ傍にいるだけなのに、圧倒されそうですよ」
どこか畏敬の感情がこもった笑みを浮かべるセリエルに、私も笑みを返した。
「あら、私としては剣を構えたあなたの方がよっぽど圧倒的だと思うけど。その証拠に、今まで一度もあなたに剣で勝ったことがないしね」
「それは剣だけでの場合でしょう。それに、私を倒せずとも、私に負けることもない。つまり剣の腕は互角です。しかし、あなたは様々な魔法を使える。剣だけでなく魔法も併用されたら、私に勝ち目はありませんよ」
謙遜の言葉を言うセリエルは朗らかに笑っている。
おごらず、相手の実力をきちんと認めるその姿は凛とした女性そのもの。
だからこそ、早くいい夫を見つけてもらいたいと思う。
「あなたは相変わらずね。このままおしゃべりに付き合ってもらいたくなるけど、生憎と仕事があるから、それはまたの機会にするわ」
セリエルも「そうですね」と笑って同意する。
「じゃあ、行ってくるわ」
「ミリア様」
手をひらひらさせながら歩き出すと、再び呼び止められた。
「ご武運を」
振り向いた私に向けられた言葉は、短くも思いやりのこもったもの。
「ええ」
だからこそ、同じくらいに短い返事とともに笑みを返しておく。
さて、行くとしよう。
軽く笑うと転移魔法を使い、目的地である廃棄された教団支部へと向かったのだった。
目的地のすぐ傍へと転移した私が見たのは、廃れたという言葉が相応しい建物だった。
窓のガラスは全て割られ、無事なものは一つもない。
壁には所々に亀裂が入り、場所によっては大穴まで空いていた。
情報では親魔物派の人々と魔物に襲われ、やむなく廃棄したとのことだったが、この状態を見るとそうせざるを得ないだろう。
空が曇天なこともあって、荒廃した建物が酷く陰鬱な場所に見える。
「さて、始めましょうか」
建物の規模はそこまで大きいわけではないので、それほど時間はかからないだろう。
あくまで調査は、だが。
そんなことを考えながら壊れて半開きになっている扉から中に入ると、中はそれほど荒れてはいなかった。
当然、人の気配はない。
だが、争った痕はある。
だから、飾ってあっただろう壺などは割れて床に転がっているし、壁や床にはなんらかの武器によってつけられた傷がいくつもある。
それでも、外の様子と比べれば遥かにマシと言えるだろう。
調査をする身としてはこれくらいだと助かる。
最悪、ものをどかす作業から入ることになるかと思っていたからだ。
進む度に何かの破片を踏んだ音がするが、気にせずにほこりくさい内部を進んでいくと、ちょっとした広間に出た。
すぐ左手に階段、その先は左右に別れた通路となっている。
どっちに進むべきか悩むが、どのみち一通りは調査することになるのだから、どこに行っても同じかと思いなおし、二階へと上がった。
二階の様子も一階とさほど変わりはなく、似たような光景だった。
まあ、二階は綺麗なんてことを予想していたわけではないのだが、ため息が漏れてしまう。
「随分と荒れてることで」
ぼやきながら近くにあった部屋を覗くと、そこは私室のようだった。
ベッドが四つ置かれているところを見ると、共同で使用していたのだろう。
それ以外に目ぼしいものといえば本棚くらいだ。
その本に関しても、『主神の教え』だの、『奇跡をもたらす者』だのと、いかにも教団らしい本しかない。
この部屋はこれ以上調べても何もなさそうなので、他を当たろう。
そう思い、別の部屋へと移動したのだが、またも私室だった。
それだけでなく、どこを覗いても私室ばかり。
どうやら二階は全て私室という作りらしい。
そんな二階を巡っていると、一つだけ扉の作りが違う部屋があった。
扉は半開きになっていて、中は他の部屋とは違い、少し上等のベッドが一つ。
その他にも、机や本棚、タンスと、個人の部屋のようだった。
一人で部屋を使用していたことから、教団の中ではそれなりに地位のある者の部屋らしい。
とりあえず机の引き出しを開けてみると、入っていたのはペンと手紙用の紙だけ。
他の引き出しも開けてみるが、意外なほどに中身が少ない。
襲撃を受けたのなら中身を持ちだす余裕などなかったはずだが、元々引き出し自体を使っていなかったのだろうか?
そんなことを思いながら、改めて室内を見回してみる。
元の位置からずれたと一目でわかる家具や床に散らばった本を見ても、争いがあったことは間違いないはず。
しかし、それにしてはどこにも血痕がない。
それだけでなく、この部屋以外に見てきた場所のどこにも血痕は存在していなかった。
「妙ね…」
壁に大穴が空くような襲撃を受けて、人の被害がないことなど有り得るのだろうか?
なんにせよ、判断するにはまだ情報が少なすぎる。
思考をひとまず中断すると、足元に丸められた紙クズがあることに気づいた。
他にもいくつかあることから、ゴミ箱の中身が散乱しているらしい。
何気なく拾い上げて丸められた紙を開いてみると、そこには神経質そうな文字が書かれていた。
やはりアイツは頭がどうかしているとしか思えない。
それだけでなく、この計画自体が異常だ。
いくら邪悪な魔物を滅ぼすためとはいえ、やって良いことと悪いことがある。
レスカティエの陥落という信じがたい事実から、上層部がこの計画に力を入れようとするのも理解できなくはないが、それでも私には道を踏み外した行為に思えてならない。
そもそも、今回の
どうやら誰かに向けての手紙のようだが書き損じらしく、文章はそこで終わっていた。
それでも、私にとっては充分なもの。
つまりはこの計画とやらの調査が母様の本当の目的というわけね。
ようやくおもしろくなってきたと思いながら、他に手掛かりはないかと残りの紙クズも見てみるが、どれも関係のないものばかりだった。
「残りは一階ね」
二階は一通り見終わったので、残るは一階。
そこに例の計画の資料なり情報なりがあるといいのだが。
部屋を後にすると一階へと降り、廊下を進む。
そして目に入った最初の部屋は、部屋というよりは広間で、長机や椅子が大量にあることから食堂だろう。ただ、台風でも通り過ぎたかのように中がすごいことになっている。
ここも一応調査しようかと思ったが、さすがに食堂に資料があることはないかと判断して別の場所に行くことにした。
そして次に見つけたのは聖堂だった。
ただ不思議なことに、この聖堂だけはあまり荒れていない。
ステンドグラスは割れていないし、争った形跡もほとんどない。
こういう広い場所にこそ戦いの痕があるものだが、ここには見当たらない。
あるのは配置がずれた長椅子くらいだ。
ここで争いはなかったか、あるいは守り通したか。
仮説はいくらでも浮かんでくるが、どれも違う気がする。
あれこれと考えながら、残りの場所も順に調べていく。
上級職の執務室から単なる休憩室、はては訓練所まで見て回ったが、計画とやらの片鱗さえ見つけることは出来なかった。
そして最後の部屋。
建物でいえば一階の一番奥に当たる場所に存在する部屋だ。
扉を開けば、そこは資料室のようでいくつかの本棚が配置されていた。
ここも他の場所同様に荒らされていて、床に散らばった無数の本と倒れた本棚のせいで足の踏み場に困る。
「これはまた派手に散らかってるわね…」
思わずため息が出てしまう。
出来れば見なかったことにして帰りたくなるが、この中になにか手掛かりがあるかもしれないと思うとそうもいかない。
再びため息をつくと、整理しながら一冊一冊調べていく。
それは、気の遠くなる作業だった。
何冊目か分からない本を積み上げた時だ。
ふと、右の壁に扉があることに気づいた。
あまりの部屋の惨状に目を奪われて見落としていたらしい。
「この先にも資料室があるのかしらね…?」
あるとすれば更に大量の本が待っていることだろう。
そう思うと少しげんなりしてしまう。
やる気が急激に下降していくなか、思い切って扉を開けるとそこにあったのは壁だった。
…壁?
予想すらしてなかったので思わず瞬きをしてしまう。
しかし、目の前にあるのは壁。
扉こそ取り付けてあるものの、その先が存在してはいなかった。
恐らく増築する予定だったのだろう。
拍子抜けしたが、これ以上の本がなくてよかった。
それを感謝するように壁を軽く叩いた時だ。
僅かに、本当に僅かにだが空洞音がした。
「?」
疑問に思って少し強めに叩いてみると、間違いなく空洞音がする。
「これは…」
疑問が確信へと変わる。
そっと壁へと手を当てて衝撃魔法を放つと、壁は崩れ落ちて地下へと続く階段が現れた。
偽りの壁によって隠された地下。
怪しい以外の言葉がないわね…。
それでも本をひたすら調べる作業に飽きてきていた私は思わず笑ってしまう。
ようやく調査が前進しそうだ。
この先にあるのがなんなのか、それを楽しみにしながら、三人くらいなら余裕で並んで歩けるほどの幅を持つ階段を下りて行く。
程なくして階段と階段の中間地点に辿りついたところで、そこに転移魔法陣が存在するのを見つけた。
転移魔法は高度なものだが、相応の道具と術式を用意できれば人でも扱うことはできる。
その証拠に、魔法陣の付近には複雑な模様の術式と器具とが置かれていた。
問題はまだこの魔法陣が活動しているということだ。
「どうやら、下はまだ廃棄されてはいないみたいね」
つまりこの先にはなにかがある。
辺りに警戒しながら階段を下りていくと、上の建物とは打って変わって無機質な作りの通路があった。
なんの装飾も施されていない一本道の通路を進んでいくと、大きな広間に出た。
左右に等間隔で柱が並んでいるそこは、上にあった聖堂と作りが似ているが、広さはおよそ倍といえる。
見方によっては神殿にも見える広間の一番奥に、まるで私を待っていたかのように白衣姿の男が立っていた。
「人…ではないようだな。随分と変わった姿だが、とりあえず、教団の秘密の地下へようこそと言っておこうか」
黒い髪をオールバックにし、眼鏡をかけた男は不敵に笑う。
「魔物だと分かっていながら、ようこそだなんて言っていいのかしら?」
広間の中央へと歩きながら返事を返すと、男は目を細めた。
「構わないな。ちょうど定時報告の時間だ。そこに侵入してきた魔物を一人殺したと付け加えれば問題ない」
「それは、あなたが私を殺すということかしら?」
私が問いかけると、男は声なく笑う。
「いいや?私は見ての通り、ただの研究者でね。武力は持ち合わせてはいない。だから、お前を殺すのはこいつらだ」
そう言うなり、男は近くの術式が描かれた壁へと手を触れる。
すると、すぐ近くの壁が音もなく開いていく。
「出ろ」
男の声に合わせて壁の奥から姿を現したのは軽装の鎧を身に付け、剣を腰につけた三人の女性。
それだけなら、教団の戦士ということですんだだろう。
だが、彼女達は瞳が白く濁り、私と向き合っていてもどこを見ているか分からない。
これだけでも不気味に感じるが、なにより不可解なのは―。
「どういうこと?なぜ、その人達から魔力が放たれているの?」
人の女性であれば、魔力が体内へと侵入すれば魔物化が始まるはず。
しかし、目の前の三人は至って普通の人の体だ。
だとすれば、可能性として考えられるのは。
三人の後ろで不気味な笑みを浮かべる男へと視線を向ける。
「彼女達になにをしたの?」
「なにを、か。そうだな、一言で言えば実験だな」
「それは人体実験をしたということかしら?」
「そう言ったつもりだが」
口から出た言葉は非常識なものであると言うのに、男は全く気にしていないような口ぶりだ。
そんな男の態度を見て、私は確信する。
この男こそが、あの手紙に書かれていた者なのだと。
「親魔物派の人達が襲撃するわけだわ」
呆れたように言うと、男はニヤリと笑った。
「襲撃、か。ここまで辿り着いたわりに、考察力はイマイチだな」
「どういう意味かしら?」
「お前は、本当にこの支部が襲撃されたと思っているのか?」
そう言われて、いくつかの不自然な点を解消する答えに辿り着いた。
「まさか…」
「そう。全ては教団自らが行ったことだ。この秘密の地下と、ここで行われる実験を隠蔽するためにな」
だから血痕がどこにもなかったというわけね…。
あまりの徹底ぶりに思わずため息が出てしまう。
「自分達のしていることを理解しているの?」
「ああ、してるさ。魔物と渡り合えるだけの力を持った戦士を作り出している。全てはお前達魔物を滅ぼすためにな」
「そう。じゃあ、その三人はさしずめ、人工的な勇者ということかしら?」
「いいや、勇者とは呼べないな。勇者とは主神より加護を与えられた者だけだ。だからこそ、教団では『捧げし者』という仮称で呼ばれているよ」
捧げし者、ね…。
大仰な呼び名を付ければ、自分達の行為は正当であるとでも思っているのかしらね?
「私から言わせれば、捧げられし者と言った方がしっくりくるわね。彼女達の目も、それが理由なのでしょう?」
私の言葉に、男は楽しそうに笑う。
まるで、下らない馬鹿話でもするかのように。
「ああ、その通りだ。視覚的な魅了を防ぐために魔法で視力をなくした。それだけでなく、任務遂行に不必要な本人達の意思もな」
「すごいわね。そこまですると、もはや狂気としか思えないわ」
そう言いつつも、この男が既にまともではないことは分かっている。
私は今リリムとしての力を抑えてはいない。
つまり誰だろうと魅了できる状態。
それでもこの男は全く魅了されていない。
リリムであっても、魅了できない相手は存在するのだ。
目の前にいる男のように、精神が狂ってしまっている者がその例だろう。
「勝てば官軍だからな。多少の無茶には目をつむられる。そしてこの三体は記念すべき最初の戦士だ」
「三人、とは言わないのね」
「お前達魔物より抽出した魔力と適合したこの者達は、魔物と同様の身体能力を得て人の領域を超えた。人扱いするほうが失礼というものだ」
適合、と言うからには魔物化せずにその力だけを得たということだろう。
これで彼女達がなぜ魔力を放っているかは分かった。
そのためにどういった術を用いたかは分からないが、きっとまともな方法じゃない。
本当に教団はろくなことを考えない。
呆れるわね…。
もう口からはため息しか出てこない。
「その人達の体を勝手にいじっておいてよく言うわね」
「はッ、それこそ論外だ。この者達は皆親魔物派との争いで重傷を負い、再起不能とされた者達だ。そのままではただ死にゆくだけの存在に、再び教団の剣となる機会を与えた。それのどこが悪い?」
心底不思議そうに男は首をかしげる。
やはりこの男は人として大事なモノが壊れてしまっている。
これ以上の会話は不毛。
頭がそう判断する。
「あなた達にとって忌むべき存在であるはずの魔物。その力を利用してまで私達を滅ぼそうとする教団。私には理解しかねるわ」
「毒は毒を以て制す。それだけのことだ」
屁理屈による理論武装はばっちりのようだ。
男の言葉をほとんど聞き流しながら、頭がある答えへと辿り着く。
母様がセリエルを送ろうとした理由。
母様もこの計画についてなにかしらの情報を掴んだのだろう。
調査という名目の仕事。でも、その本当の狙いは―。
「そう。じゃあ、見せてもらいましょうか。教団の作り出した毒が、私という毒を制することができるのかをね」
抑えていた魔力を解放すると、溢れ出す魔力の一部を右手へと集中させ、愛剣を模した魔力の剣を作り出す。
私が戦闘態勢に入ったのを見ると、男は短く言い放った。
「殺せ」
その言葉を合図に、三人の戦士は正確に私へと向かってくる。
「あなた達のその計画、私が潰すわ」
教団の計画を潰すこと。それが母様の目的。
だからこそ、その執行者としてセリエルが選ばれたのだろう。
ようやく納得したところで頭を切り替え、赤髪の戦士が振り下ろした剣を右に避ける。
当然、振り下ろしただけでは終わらず、そのまま私の後を追うように剣が払われる。
それを剣で防ぎ、そのまま弾き返すと、その場から飛び退く。
次の瞬間、私がいた場所に剣が振り下ろされた。
赤髪の戦士の背後、私にとっての死角から金髪の戦士が赤髪の戦士を飛び越えるように跳躍して空中から斬りかかってきていたのだ。
攻撃を外して硬直した隙を逃すまいと剣を振ろうとしたところで殺気を感じ、咄嗟に身を引く。
直後、数瞬前まで私の首があったところに紫髪の戦士による突きが繰り出されていた。
その見事な突きに、刃風が遅れてきたほどだ。
「危ないわね…」
言葉とともに紫髪の戦士へと視線をやるが、視力を失い、口を引き結んだその顔からは感情が読み取れない。
まるで人形ね…。
突きを外した紫髪の戦士はそのまま首を落とそうと剣を薙いでくるが、それを屈んで避けると、反撃の切り上げを放つ。
そして響き渡る剣と剣がぶつかる音。
こちらの一撃を紫髪の戦士は剣で防いでいた。
ただ、それは想定内。
剣を盾にして防御の姿勢を取った紫髪の戦士へと追撃を放って距離を空けると、振り向いて斬りかかってきていた金髪の戦士の攻撃を防ぎ、強く斬り払って一定の距離を保つようにする。
なるべく敵の姿を視界に納めておくこと。
一人で複数の相手と戦う際の鉄則だ。
三人の戦士の戦い方は絶妙。
一人が斬りかかっている間は残りの二人が斬りかかってくることはないが、距離が開けば、入れ替わるように残りの二人のどちらかが斬りかかる。
それは休む間を与えない攻め方。
だから、こうして距離を取ってもすぐに詰めてくる。
三人の巧妙な攻めを捌きながら反撃するものの、剣と剣の音が響くだけ。
お互いに有効な一撃を当てられない。
そんななか、私は少し感心していた。
抑えているとはいえ、この三人は私の動きに対応できている。
魔物の身体能力を得ているというのもあながち間違いではないらしい。
ただ、不思議なのは。
「理解できないという顔だな」
間髪入れずに繰り出された剣撃を受け止めながら、男へと視線を向ける。
見れば、いかにも興味深そうな顔でこちらを見ていた。
「その者達は探知能力に優れていてね。目は見えずとも、敵の魔力を探って動いている。ああ、魔法は囮にならないからやめておいたほうがいい。分離された魔力は魔法だと認識するからな」
「随分と優しいのね。そんなに情報を教えていいのかしら?」
「構わんよ。戦闘記録は多い方がいい」
「記録に残せるほど彼女達が持てばいいけどね」
軽く笑みを向けると、男は鼻で笑う。
「その余裕、いつまで持つかな?」
男の言葉に合わせるように、三人同時に斬りかかってくる。
その早さは人では目で追うことは出来ないほどのもの。
三方向から振られる剣の狙う先は一つ。
私の首。
だから一歩引いて三本の剣が行きつく場所に、先に剣を構えて同時攻撃を防ぐ。
そのまま力を込めて鍔迫り合いになっている三人の剣を弾き飛ばすと、斬り上げ、振り下ろし、横薙ぎと、順に三人の戦士に繰り出す。
三人に対して一撃ずつだが、それなりの速さで振ったはずの剣を三人はきっちりと防いでみせた。
大したものね…。
こちらが感心している間にも繰り出される攻撃を後ろに下がって避けるが、それを見越したかのように、次の攻撃がくる。
見事なまでの連携攻撃。
それでも反応できるのは、きっとセリエルにあれこれと教えてもらったから。
彼女達はまるで人形のようだが、それでも攻撃の一つ一つにしっかりと殺気が感じられる。
おかげで私は死角からの攻撃を察知できているようなものだ。
「何事にも手は出しておくものね」
真横から払われた攻撃をすれすれで避け、私を捉え損ねた剣は柱へと直撃する。
意外だったのは、剣が直撃した部分が見事に砕けたことだ。
切れたのではなく、砕けた。
つまり、それほどの腕力だということらしい。
「ここまでくれば、もう私達と大差ないわね」
砕けた柱を横目で眺めながら、剣をそっと構え直す。
「少し強くいくわ」
今までは相手に攻めさせていたが、そろそろこちらも責めるとしよう。
即座に距離を詰め、今まで以上の速さで剣を振るう。
柱を砕いた者は剣を構えて私の一撃を受けるが、生憎と今までのようにその場に踏み止まれる威力ではない。
よって受け止めこそしたものの、彼女の体は吹き飛んでいく。
距離が開けば次は別の者。
既にこちらへと向かってきている戦士へと私も走り寄る。
そして銀と藍色の軌跡が描かれ、剣がぶつかる。
一度だけでなく、何度もぶつけ合う。
私が剣を振る度に、床に、柱に、剣圧による線が描かれる。
それだけでなく、私の剣を受ける彼女達の体にも小さな傷がいくつもできていくが、怯む様子はない。
「無駄だよ。捧げし者はその程度では止まらない。痛みを感じないようにしてあるからな。せいぜい力尽きるまで戯れるといい」
「せっかくだけど、もうお人形と遊ぶ歳じゃないの」
傷など意に介さず向かってくる彼女達の攻撃を避けるように、空中へと飛び上がる。
後を追うように彼女達も跳躍してくるが、空を飛ぶ術を持たない以上、その動きは制限される。
「そろそろ終わりにしましょう」
追ってきた彼女達を斬り払うと、手に持っている剣と同じ物を何本も空中に作り出す。
「多少の傷は勘忍してもらうわ」
言葉とともに左手をそっと払うと、無数の剣がまるで意思を持っているかのように彼女達に向かっていく。
三人は次々に向かってくる剣を避け、時に防いでしのごうとするが、剣は正面からだけでなく様々な方向から攻め立てるのだ。いくら探知能力が高かろうと、どうにかできるものではない。
結果、全ての剣が再び空中に戻る頃には彼女達の体は無数の切り傷で血まみれになっていた。
そろそろいいかしらね。
そう判断し、剣を伴って空中から床へと降り立つ。
それを待っていたかのように三人が斬りかかってくるが、動きに先程までの精彩はない。
痛みは感じずとも、出血による疲労はきちんとするらしい。
そのせいか、連携にもずれが見られ、三人の攻撃は私に届くことなく空中の剣によって阻まれる。
さて、彼女達には少し眠ってもらうことにしよう。
私の意思に呼応するように、無数の剣は全て砕けて藍色の粒子となり、彼女達の体へと纏わりついていく。
「…!」
声こそ出なかったが、体の異変に気づいたのだろう。
三人とも痙攣するように体をびくつかせながらその場に倒れ、やがて動かなくなる。
「な、なんだ?なにをした!?」
「そうね、簡単な謎かけをしましょうか。なぜ私が魔力でできた剣を使って戦ったと思う?」
この計画を潰すと決めた瞬間から考えていたこと。
彼女達を殺さずに止める最善の方法。
「まさか…!」
私の狙いに男も気づいたらしい。
もっとも、気づいたところで手遅れだ。
「察したみたいね。その通りよ。この剣で斬られた場合、傷口から私の魔力が体へと侵入する。そして魔力は体を巡り、やがて変化をもたらすわ」
魔物化。
それが、私が辿り着いた結論。
体を麻痺させるだけではやがて回復してしまう。
それでは意味がないのだ。
「バカな…、魔物化だと!?」
「なぜ驚いているの?レスカティエを陥落させた魔物と私は同種の存在。同じ力を持っているのは当然でしょう?さあ、彼女達が生まれ変わる瞬間を見届けましょうか」
視線を向けた先では、三人の身に纏った物が音もなく消滅している最中だった。
そして生まれた時の姿になった彼女達の体を藍色の霧が覆っていく。
程なくして霧が消えると、彼女達は三人とも鎧姿になっていた。
「レスカティエを陥落させた魔物…?まさか!」
驚く男に、私は軽く笑みを漏らす。
まさか三人ともデュラハンになるとはね。
言っておくと、私の意思でデュラハンに変化させたわけではない。
あくまで彼女達の性質にあった魔物に変えただけ。
それでもデュラハンに変化したということは、彼女達にそういう素質があったということだ。魔力に適応しただけはあるかもしれない。
「どうやら、私という毒の方が強かったみたいね」
「くっ、なぜだ!なぜリリムがこんな所に来る!」
「人と同じ理由よ」
「なに…?」
少し考えればわかるはずなのに、動揺している男はそれだけでは理解出来なかったらしい。
「どこかで好きな人と楽しくおしゃべりする人がいる裏で、幸せであるようにと努める人がいる。そしてそれは魔物も同じ。夫と愛し合う人がいる裏で、その幸せが続くようにと動く人がいる。それが今回は私だったというだけの話」
皆が幸せ。
言葉にすれば単純だが、それがどんなに困難なものかは、未だに母様の理想とする世界になっていないことが証明している。
「さて、おしゃべりはここまでにして、あなたの処遇を決めましょうか」
瞬時に男へと詰め寄ると、その額に人差し指を当てる。
「なっ…」
「まだ若い男を再起不能にするのは心苦しいけど、あなたのその狂気はあなただけでなく、回りの人にまで悪影響を与えかねない。だから、その狂気ともに夢の世界へ堕ちなさい」
「あ…」
催眠の魔法を使うと、男は呻き声とともに崩れ落ちる。
それでも、今にも閉じられそうな瞼の奥からこちらを見る瞳には未だに狂気の色があった。
「覚めない夢は現実と同じ。責めて夢の中では私達魔物がいない世界を享受するといいわ」
「く…そ…」
呟きながら、男は覚めない眠りへとついた。
「良い夢を」
男に向けてそう言うと、背後に気配を感じて振り返る。
そこには意識を取り戻し、ゆっくりと体を起こす三人の姿があった。
「見、える…?」
鎧に覆われた自分の手を見て、赤髪の娘がぽつりと呟いた。
他の二人も、まるで見知らぬ土地にでも来たかのように辺りを見回している。
魔物化の際に体の悪い部分は大概回復したはずだから、彼女達も視力は回復しているはず。
「その体、調子はどうかしら?」
声をかけると、三人とも視線をこちらに向けた。
「あなたは…」
「もしかして、さっきまで私達が戦っていた人、ですか?」
「ええ、そうよ。覚えているの?」
視力は失っていたはずだが、三人ともこくりと頷いた。
「見えてはいませんでしたが、それでも自分の体が剣を持って誰かと戦っているのは分かりました」
「そう。じゃあ、どうする?私はあなた達を魔物へと変えた張本人よ。魔物になったとはいえ、あなた達は元は教団の戦士。さっきの続きでもする?」
すると言われると困るのだが、今回は彼女達の意思に関係なく魔物化してしまった。
その代償と考えれば仕方ないかと思う。
ところが彼女達は揃って首を振る。
そして、代表するように赤髪の娘が口を開いた。
「それは違います。私を…、私達を人ではない存在へと変えたのはその男です」
娘が憎らしげに倒れている男を睨む。
「ッ!コイツ!!」
青髪の娘は男を確認すると、落ちていた剣を拾い上げて男の傍へと走り寄り、剣を振り上げた。
「リシェル、駄目!!」
赤髪の娘が叫ぶが、彼女、リシェルは躊躇うことなく剣を振り下ろそうとする。
「させさないわ」
なにをしようとしたのか訊かなくてもわかる行動。
だから、私は彼女の手首を掴む。
掴んだまま、その瞳を覗きこむように顔を近づける。
「あなたがどれだけこの男を憎んでいようと、私の目の前で誰かを殺すことは認めないわ。もし殺したいなら、先に私を殺すことね」
「なぜこの男をかばうんですか!?」
体を好き勝手にされた怒り。
それを私にぶつけるようにリシェルは叫ぶ。
「相応の報いは与えたわ。彼は終わらない夢の中。二度と目覚めることはないわ。もうなにも出来ない彼に手を出すということは、あなた達を実験台にした彼と同じ行為よ。それでも、あなたは彼を殺すというの?」
動けぬ者に手を出す。
それは、彼女達が身を持って体験したこと。
だからこそ、同じことをするわけがない。
私がそう言うと、リシェルの顔が辛そうに歪み、やがて俯いた。
それに合わせて、振り上げていた腕からも力が抜けていく。
そっと掴んでいた手首を放すと、リシェルがぽつりと呟いた。
「なら、なぜあなたは私達を救ってくれたのですか…?」
「救ったわけではないわ。私は母様の意思に従って教団の計画を潰しただけ」
「いいえ、救われました」
再び赤髪の娘の声がした。
「実験体として視力を奪われ、何も話せず、自由に動かない体となっても意思だけはあったのです。自分の体なのに、思い通りに動かない。それがどんなに辛かったか。あなたはそんな牢獄から私達を救い出してくれた。だから……、私達にあなたと戦う意思はありません」
「教団の元戦士がそんなことを言っていいのかしら?」
「構いません。教団の教えは間違っていた。魔物は邪悪な存在などではなかった。あなたを見れば、それが間違いであったと分かります」
そう語った娘の目には心酔したような色があった。
ひょっとしたら感化されやすいのかもしれない。
良くも悪くも純粋、といったところかしらね…。
小さくため息をつくと、静かに彼女の正面へと移動し、その顔を見下ろす。
「何も分かってないみたいね」
「え…?」
戸惑う彼女の頬へとそっと手を触れる。
「魔物化して視力が回復しても、その目は何も見えていないみたいね。木を見て森を見ないつもり?しっかりとその両目を見開いて。また、何も見えないようになりたくなければね」
頬に触れた手を放すと、娘はすがるような目で私を見つめてきた。
「では、何を信じればいいのですか…?」
「何が真実かは自分の目で見て決めなさい。その目はきちんと現実を見ることができるはずだから。私の話はこれでお終い」
私が魔物がどういう存在かを語ったところで意味がない。
それでは、教団が何も知らぬ人に嘘を教えこむのと同じ。
だから何を信じるべきかは、自分で見つけ、判断しなくてはならない。
彼女だって子供ではないのだから、それくらいは出来るはずだ。
目の前の娘は私の言葉を聞いて、何かを考え込むように顔を俯かせていたが、やがて顔を上げた。
「では、何が真実か分かるまで、あなたの傍にいてもよろしいですか?」
その言葉は私にとって予想外。
それは残りの二人も同じだったらしく、ぽかんとした顔で見つめている。
「レイム?あなた、なに言って―」
「あなたにもわかるはずよ、リシェル。受けた恩を返さないなんてことは、私にはできない。それに、仕えると決めた教団はもう信じられない。だから、私はこの人に仕えるわ」
そう言ってレイムは私の前でひざまづくように片膝をつき、頭を下げる。
「!」
レイムの宣言と行動に残りの二人は驚いた顔になるが、すぐにレイムの横に来て同じように片膝をつく。
こうなってくると困るのは私だ。
こういうのは好きじゃない。
「生憎と、堅苦しいのは好きじゃないの。誰かに仕えたいのなら、母様にして」
「いいえ。私達を救ってくれたのはあなたです。だから、私達が仕えたいのはあなた様をおいて他にいません」
言葉と同様、真っ直ぐな瞳が私を見る。
これは何を言っても無理そうね…。
「はぁ…。じゃあ、とりあえず従者見習いということでいいかしら?後は、あなた達次第で考えるわ」
「ありがとうございます!では、あなた様のお名前をお訊きしてもよろしいですか?」
「ミリアよ」
私が名乗ると、三人は片膝をついたままで剣を手に取った。
「ミリア様ですね。では、私、レイム」
「リシェル」
「ルミナ」
それぞれ自分の名を呼びながら、祈るように額を剣に当てる。
「今この時より、ミリア様にお仕え致します」
私には分からないが、これはきっと何かの儀式なのだろう。
なにはともあれ、これで仕事は終了だ。
「三人ともよろしくね。で、さっそくだけど、あなた達には一緒に来てもらいましょうか。それと、申し訳ないけど、あなた達が受けた人体実験について話してもらうことになるわ」
「かまいません。私達のような被害者を出さないためにも、知っていることは全てお話し致します」
「いい返事ね。じゃあ、行きましょうか」
レイムの返事に軽く微笑むと転移魔法陣を展開し、三人を連れて魔王城へと帰還した。
「ここが…」
リシェルが魔王城を見てそう漏らした。
「魔王城。私にとってはただの実家ね。そして、これからあなた達が住む場所でもあるわ」
「あの、いきなり三人も大丈夫なのですか?」
不安そうにルミナが訊いてくるが、それは不要な心配だ。
「見ての通り、無駄に大きいから寝泊まりする場所はいくらでもあるわ。それより、こっちに来て。これからあなた達の世話をしてくれる人を紹介するわ」
セリエルの魔力を探し当てると、そちらへと歩き出す。
感じる方向にあるのは訓練所なので、セリエルは自己鍛練でもしてるらしい。
いくつかある訓練所の一つへと入ると、セリエルが一人、黙々と剣を振っていた。
「セリエル。ちょっといいかしら?」
「ああ、ミリア様、お帰りなさいませ。ご無事でなによりです。何かご用ですか?」
私が声をかけるとすぐにセリエルは気づいてくれた。
だが、その視線が私の後ろにいる三人に向けられる。
「あの、ミリア様。その者達は?」
「そのことで、あなたのとこに来たのよ。この子達は魔物になったばかりでね。色々と手ほどきしてほしいの」
「ああ、そういうことですか。しかし、この者達は例の仕事と何か関係が?」
「ええ。話すと長くなるから、連れてきたわ。で、この子達は私の従者になりたいみたいだから、鍛えてあげて」
簡単に説明すると、セリエルは少し意外そうに目を瞬かせた。
「従者ですか。しかし、あなたはそういうのを好まないはずでは?」
「ええ。だから熱意に負けたというところね」
「なるほど。では、喜んで引き受けます」
「お願いね。ああ、調査の内容も報告してもらっていいかしら?この子達を母様のところに連れていけば、後は話してくれるから」
「了解しました」
私が話し終えると、セリエルは恭しく頭を下げる。
「あの、ミリア様。私達はどうすれば…」
「聞いていた通りよ。しばらくはセリエルの元で鍛練に励んで。もしセリエルが認めるくらいに強くなったら、その時は私の親衛隊にしてあげるから」
戸惑った顔のレイムにそう言って微笑むと、彼女はやがて言葉の意味を理解したらしい。
その顔が綻んだ。
「じゃあ、頑張ってね。時々は様子を見にくるから」
「はい!」
女らしい笑顔で返事をしてきたレイムに微笑むと、後の事はセリエルに任せ、私は訓練所を出て行く。
「さて、色々と教える前に言っておくことがある」
セリエルは三人へと向き直ると、そう口火を切った。
三人が真面目に聞いているのを確認すると、セリエルは言葉を続ける。
「王女であるリリムの方々は基本的に従者など必要としないくらいの力を持っている。それでも王女であることに変わりはないから、ほとんどの方には専属の従者兼親衛隊が何人かついているがな。それで、お前達が仕えることになるミリア様だが」
一旦話すのをやめると、セリエルはそっと入り口の方を見た。
まるで、そこに本人がいないことを確認するように。
「あの、ミリア様がなんなのですか?」
三人を代表するようにルミナが問いかけると、セリエルは視線を戻した。
「あの方に親衛隊はいない。必要最低限の数だけいればいいと言ってな。身の回りの世話をする者だけしかいないのだ。それも、専属ではなく、リリムの方々全員の世話をする者だけ。だが、ミリア様はお前達を親衛隊にすると言った。この意味がわかるか?」
セリエルは三人の目を順に見つめていくと、最後に楽しそうに笑った。
「期待しているということだ。だから、あの方の期待を裏切るような真似だけはするな。いいな?」
話の終わりを察したのだろう。
三人は神妙な顔で頷くと、緊張が切れたかのようになにやら話し始めた。
楽しそうにしているところを見ると、親衛隊になった時のことでも話しているのかもしれない。
そんな様子を横目で眺めながら、セリエルは一人声なく笑う。
やはり、あなたも魔王様の娘だと。
こうして、言葉一つで人の心を掌握してしまうのだから。
「ひょっとしたら、次の魔王はあなたかもしれませんよ?ミリア様」
セリエルがそう呟いている頃、私は既に見慣れつつある家の扉をノックしていた。
時刻は夜。
打ち合わせからは帰ってきているはずだ。
「はあ。あんた、一日に何度うちに来れば気が済むのよ?」
ため息をつきながら、扉の内側からルカが顔を出す。
「まあ、そう言わずに。ルカも夕食はまだでしょ?一緒に食べに行かない?」
「食べに、か。まあ、いいけど。あ、まさか、男を食べに行くとか言うんじゃないでしょうね?」
「あなたがそれを望むなら、私はそっちでもかまわないけど?」
半分は冗談、もう半分は本気で言うと、ルカは盛大にため息をついた。
「冗談じゃないわ。で、どこに食べに行くのよ?」
「私の友達が経営している店でいいかしら?」
「それって、この間の差し入れを買ってきたとこ?」
「ええ、そうよ」
おいしい料理を食べられるところなら散歩のおかげで色々と知っている。
だが、味も種類も、レナの店を超える場所はなかなか無いのだ。
「ま、それならいっか。じゃ、行きましょ」
渋るかと思ったが、ルカは意外とあっさり承諾してくれた。
そんなルカとともに向かった『狐の尻尾』は、意外なことに客が誰もいなかった。
「あ、ミリアさん。いらっしゃいませ」
テーブルを拭いていたレナに笑顔で迎えられ、私とルカは空いている席につく。
「どうも、こんばんは。今日は何にします?」
「その前にこの子を紹介するわね。友達のルカよ」
「あ、お友達の方ですか。どうも、レナです。よろしく」
にこにこしながら握手を求めるレナに、ルカはさっそく頬が赤くなった。
「よ、よろしく…」
目を逸らしつつも、きっちり手を握り返している姿が微笑ましい。
「それにしても、新しいお友達ですか。あ、そうだ。どうせお客さんもいないし、せっかくだから、今日は貸し切りにしちゃいましょう」
「あら、そんなことしていいの?」
「店主ですから。その代わりと言ってはなんですけど、私達もご一緒していいですか?」
私はその提案に問題はない。
だからルカへ目で問う。
「アタシもかまわないわよ」
「いいみたい」
「じゃあ、すぐに料理を準備しますね」
軽く一礼すると、レナは一旦店の扉を開いて営業中の札を閉店へと変え、そのまま厨房に入って行った。
そして大した時間も置かずにハンスが料理を次々と運んできて、テーブルはあっという間に料理で埋まってしまう。
レナとハンスの二人が片付けを終えて席につくと、小さな食事会が始まった。
温かくおいしい料理と酒に舌鼓を打ちながら、それでも食べることに夢中にならず、ちょっとした話で笑い合う。
ルカは人見知りするかと思ったが、案外すんなりとレナ夫婦と打ち解け、時折、何気ない会話もしていた。
「で、結局打ち合わせが終わるまでいちゃいちゃしてたわね。おかげで、無駄に疲れたわ」
「それは災難でしたね」
「さすがにそれはちょっと…」
ため息混じりにルカが語り、レナとハンスが苦笑しながら同意する。
「さて、ミリアさんは今日は何をしてたんですか?やっぱり散歩?」
最後のお楽しみとばかりにレナが話を振ってきた。
「私?私は…」
今日、私がしたことを思い出し、封をするように人差し指を唇に当てる。
「今日は特になにもしてないわね。城に戻ってのんびりしてたわ」
「はあ。いくら王女だからって怠慢なんじゃない?あんたも少しは働きなさいよ」
「まあまあ。ミリアさんらしいじゃないですか」
ため息をつくルカと、それに笑いかけるレナ。
全く微笑ましい光景だ。
「そうね。じゃあ、明日からはルカが気に入りそうな男でも探しに行くとするわ」
「ちょっと!なんでそうなるのよ!」
「あら、私が働くってそういうことよ?人と魔物が愛し合える世界にする。そのためには、まず目の前のあなたから幸せになってもらわないとね」
「アタシより先に、まずは自分が幸せになりなさいよ!」
そう言いつつも、恥ずかしくなったのか、ルカは食べることに逃げる。
それを見て微笑む私。
ささやかで、幸福なひと時。
だから、今日私がした事は語らない。
こうして私が食事を楽しんでいる間にも、あの子達はセリエルの元で鍛練に励んでいるはずだから。
知らないだけで、皆やるべきことをしているのだ。
それをさも美談のように語るなど、つまらない人だけがすること。
語ってもいいことと、そうでないことの区別くらいは私にもできる。
そして、今日私がしたことは語る必要のないこと。
だから、知るべき人だけが知っていればいい。
あれは、秘密の仕事だったのだから。
「じゃあ、ルカ。どんな男がいい?」
「だから!アタシは男になんて興味ないって言ってるでしょ!!」
頬を赤くして叫ぶルカと、それを見てさざ波のように笑う私達。
その日『狐の尻尾』からは、夜遅くまで賑やかな声が聞こえていたのだった。
それは緑一色で、まるで色の違う海のようだ。
樹海とはよく言ったものだと思う。
恐らくは延々と木が生い茂る森を見た人がそう言ったのだろう。
けど、個人的には空から見た森の方が樹海と呼ぶに相応しい気がする。
そんな森の中にぽつんと存在する家。
友人ルカの家である。
彼女の家の前に静かに降り立つと、扉をノックする。
「ルカ、いるかしら?」
「いるわよ。それにしても、あんたも懲りないわね。なんか用?」
すぐに扉が開けられ、ルカが顔を出した。
ちょっと呆れたような顔だが、声は穏やか。
ご機嫌斜めというわけではないようだ。
だから挨拶代わりに言ってあげた。
「あら、用がなかったら会いに来てはいけないの?」
首をかしげて微笑むと、ルカはなんとも言えない顔になる。
「そういうわけじゃないけど…。言っとくけど、今日はあんたにかまってられないわよ?」
「それは仕事の用事かなにか?」
「そうよ。調合素材の取引相手と色々と打ち合わせがあるの。あんたも新聞読んでるなら知ってるでしょ。この前レスカティエが陥落したってやつ」
ルカがつまらなそうに語ったことはもちろん知っている。
なにしろ新聞の一面に大きく掲載されていたし、その実行犯は身内だし。
まあ、会ったこともない姉の一人だが。
「それはもちろん知っているわ。でも、その件とあなたにどういう関係があるの?」
「単純な話よ。これを機に、レスカティエにも支店を出す予定なんだって。で、今以上に注文が増えるだろうから、その辺の打ち合わせ」
面倒くさいと顔に大書したルカはため息をつく。
「じゃあ仕方ないわね。また今度遊びに来るわ」
さすがに打ち合わせでは手伝えることもないし、邪魔はしたくない。
そんなわけで踵を返した私に、ルカは慌てたように声をかけてきた。
「あ、い、言っとくけど、あんたより仕事を優先してるわけじゃないから!アタシは打ち合わせなんて面倒としか思ってないから!そこんとこ誤解しないでよ!?」
早口でまくしたてるルカの頬は赤い。
ただ、そんなルカの様子よりも、その言葉に驚いてしまう。
驚いてしまうが、すぐに笑みを返した。
「ええ、分かってるわ。じゃあ、またねルカ」
「え、ええ…。その、ま、またね…」
最後のほうはほとんど視線を逸らしてしまうルカ。
顔が赤いところを見ると、恥ずかしいのだろう。
そんなルカとの会話を名残惜しく思いつつも、彼女の家を後にする。
「さて、どうしようかしら?」
散歩という気分ではないし、かといって何かすることがあるわけでもない。
仕方ないので、ふと頭に浮かんだ場所に行くことにした。
「ここは相変わらずね…」
私がそう感想を漏らしたのは、所々にガーゴイルが並び、禍々しい装飾が施されている城を見てだ。
どんなに強い力を持った勇者でも陥落させることは出来ない難攻不落の城などと言われているが、私から見ると無駄に大きいだけの実家である。
そんな魔王城は今日も平和そのものらしい。
だからこそ、少し耳を澄ませば甘い嬌声が聞こえてくる。
中庭にいるのにも関わらず、だ。
まあ、非常事態でもない限り毎日がこんな調子なのでなんとも思わないのだが。
城内に入ると声だけでなく甘い香りまで漂ってくるが、気にせずに進んでいくと警備のリザードマンに出会った。
「これはミリア王女様。お久しぶりでございます」
その場に片膝をつき、リザードマンは恭しく頭を下げる。
「久しぶりね。ただ、その仰々しい態度はやめてもらえるかしら?それと、王女様もいらないわ」
私だけかもしれないが、全くと言っていいほど自分が王女だと自覚したことがないのだ。
それに、例え王女であっても、次の王になれるのは一人だけ。
だったら、その者だけが王女として扱われればいいと思う。
まあ、所詮私の考えにすぎないのだけど。
「とんでもありません!あなた様は陛下のご息女なのですから、王女とお呼びし、敬うのは当然のことです!」
「もう少し気楽に接してくれてかまわないのだけど」
ため息混じりそう言うと、リザードマンは申し訳なさそうに顎を引き、恐る恐るといった感じで私を見た。
「では…その、一つ質問をしてもよろしいでしょうか?」
「なにかしら?」
笑みとともに了承の言葉を返すと、リザードマンは少しの間を空けて質問してきた。
「レスカティエを陥落したのは、あなた様ですか?」
虚を突かれるというのはきっと、こういうことを言うのだろう。
あまりにも予想外すぎる質問に、私は返事が遅れてしまった。
「…なぜ私だと?」
「ミリア王女様は一際強い力をお持ちだとお聞きしていましたので、レスカティエの陥落はあなた様の手によって成されたのではないかと」
至って真面目な考察を述べるリザードマン。
それに対して私はため息が出てしまう。
「私ではないわ」
「そう、ですか…。これは失礼しました」
見当違いのことを言ってしまったからか、リザードマンは視線を泳がせる。
「いいえ、謝ることではないわ。だから気にしないようにね?」
そう言ってリザードマンの肩を軽く叩くと、「見回り、頑張ってね」と囁いてその場を後にした。
そして、しばらく歩いて辿り着いた玉座の間の扉を開ける。
ただ、ここに母様がいることはほとんどなく、玉座に座る者がいないからか、他の臣民の姿もない。
誰もいないことを確認すると、私はため息をついた。
その理由はここに来るまでに交わされた会話にある。
会う人会う人、二言目にはレスカティエについて尋ねてくるのだ。
「私って、そういうことをするように見えるのかしら?」
その問いに答えてくれる人はいない。
再びため息をつくと、ゆっくりと歩き出す。
向かうは玉座の奥にある通路。
私達リリムは魔王である母様の娘ということで、玉座の奥にある通路からしか行けない特別区画に部屋があるのだ。
今までのレスカティエに関する質問でなんだか疲れたし、今日は自分の部屋でのんびりしていよう。
そんなことを思いながら通路へと歩いていた時だった。
別の通路から甲冑を纏った者特有の音が聞こえてきた。
そして現れたのは見知った顔のデュラハンだった。
「これはミリア様。お久しぶりでございます。今お戻りになられたのですか?」
私の姿を確認したデュラハンは足早に近づいてくると、一礼した後にそう声をかけてきた。
「ええそうよ。久しぶりね、セリエル。元気そうでなによりだわ」
セリエルは魔王軍の中でも数少ない将軍の地位に就いているデュラハンだ。
よってその実力も他のデュラハンとは比べ物にならないほど高い。
そして、私の剣の師でもある。
「ところでセリエル。あなたが持っているその巻物はなにかしら?」
「ああ、これですか。これは先程陛下より仰せつかった仕事ですね」
「母様からの仕事?」
「はい」
「ちょっと見せてもらってもいいかしら?」
「ええ、どうぞ」
セリエルはためらいもせずに、巻物を手渡してくれた。
受け取った巻物に目を通すと、その内容は廃棄された教団支部の調査となっている。
一見すればただの指令書。
でも不可解な点がある。
調査程度で将軍であるセリエルを向かわせるの?
頭に真っ先に浮かんだ疑問がそれ。
本来であれば、この程度の内容ならセリエルを向かわせるほどではない。
それなのに、わざわざセリエルを向かわせるということは…。
なにかお楽しみがあるってことね。
母様の意図を理解し、軽く笑みを浮かべる。
「ねえセリエル。この仕事、私が引き受けるわ」
「え…。いえ、これは私に与えられた仕事ですから、さすがにそれは」
「あら、いいじゃない。これはあなたの手を煩わせるような仕事じゃないわ」
「それは私の台詞ですよ。それに、これではまるで私がミリア様に押し付けたように感じてしまいます」
困り顔になりつつも、セリエルはそう簡単に譲ってはくれない。
「ふふ、じゃあ、この指令書を取り返してみる?私が初めてあなたに剣を教えてもらった時みたいに気絶でもさせて」
いたずらっぽく笑う私には、はっきりとあの日の出来事が思い浮かぶ。
その日、まだ幼い私は初めてセリエルに声をかけた。
歳は十四か五だったと思う。
ようやく手足が伸びてきて、少女から大人へと変わっていくという頃だ。
「ねえ、セリエル。お願いがあるの」
「これはミリアお嬢様。私に何か用でしょうか?」
「私に剣を教えてほしいの」
「剣を、ですか?お嬢様の頼みとあらば、喜んでお教えしたいのですが、さすがに私一人の独断では」
「大丈夫よ。母様には許可を貰っているから」
「陛下がそうおっしゃったのならば、私が断る理由はありません。では、訓練場に参りましょう」
セリエルに連れられて、私はいくつかある訓練場の一つに赴いた。
ちなみに、剣を教えてもらおうと思った理由は単純明快だ。
魔王軍に所属する魔物は、その力を落とさないようにという理由から定期的に模擬戦を行う。広い闘技場で、降参するか戦闘不能になるまで戦うのだ。
その模擬戦を、私を含む何人かの姉妹も観戦していた。
私がセリエルの戦う姿を見たのはその時が初めてだった。
剣一つで対戦相手を悉く打ち倒していく様子は、幼い私に大きな感動を与えた。それくらい、剣を手に戦うセリエルは格好良かったのだ。
あんなふうに剣を扱えるようになりたい。
それが剣を教えてもらおうと思った理由だ。
大概の魔物はこの歳になると性について理解し始めるので、興味を持つのも性の場合がほとんどだ。それはリリムも同じ。
それに対して私が興味を持ったのは剣なのだから、回りから変わっていると言われるのも無理はないかもしれない。
もっとも、当時の私は自分が変わっているとは思っていなかったのだが。
訓練場に着いた私は、初めて触る剣にドキドキしながらセリエルの話を聞いていた。
「さてお嬢様。剣の扱いより先に教えることがあります」
剣を教えてもらえるとウキウキしていた私はその言葉にきょとんとする。
「剣より先に?なに?」
「はい、それは殺気についてです。よほどの達人でもない限り、相手を攻撃する時はどうしても殺気が混じってしまうものなのです。それこそ、相手を殺す気がなくても」
「殺気って相手を殺そうとする空気のことでしょ?」
「その通りです。お嬢様にはまずそれを理解してもらいたい。殺気を感じ取ることが出来れば、格上の相手の攻撃を避けたり、防ぐことも可能になります」
「それはどうすれば分かるの?」
首をかしげる私に、セリエルは微笑む。
「説明するより、体感してもらった方が理解しやすいでしょう。今から私が殺気を放ちますから、お嬢様はじっとしていて下さい」
セリエルは剣を構えると笑顔を消し、鋭い目でこちらを見た。
次の瞬間に私を襲ったのは圧倒的な恐怖。
「う…」
そして私は気を失ったのだ。
あの日の出来事はセリエルの中で決して軽くない失態になっているらしく、案の定その表情が曇る。
「あ、あの時は本当に申し訳ありませんでした!」
あの後、土下座までしてこちらがうんざりするほど謝ってきたのに、セリエルは再び頭を下げる。
「申し訳なく思っているのなら、この仕事、私に譲って?」
可愛らしくお願いすると、セリエルはため息をついた。
「ミリア様。あまり困らせないでいただきたい」
さっきまでは平身低頭だったのに、このお願いにはしっかりと首を振る。
それとこれとは話が別ということだろう。
全く真面目なことだ。
まあ、セリエルらしいのだけど。
「じゃあ、私が直接母様に申し出てくるわ。それなら問題ないでしょ?」
「そうですね。陛下がミリア様に任せるとおっしゃるのであれば、私はそれに従います」
「交渉は成立ね。じゃあ、母様のところに行ってくるわ」
「分かりました。では、私はここでお待ちしていますので」
セリエルとの話がまとまったところで、奥へと進む。
母様がいるであろう場所はおよそ二つ。
寝室か、執務室だ。
その二つのうちでも可能性の高い寝室へと行ってみたのだが、意外なことにそこに母様はいなかった。
そうなると、執務室か。
ため息をついて執務室へと向かうと、部屋の前に警備のデュラハンがいた。
「おお、ミリア様。お久しぶりでございます」
「久しぶりね。ところで、中に母様はいるかしら?」
「はい。二人で仕事中ですね」
二人ということは父様も一緒か。
そうなると、本当に仕事をしているか怪しくなってくる。
ひょっとしたら、中で夫婦仲良く愛し合っているかもしれない。
「母様に話があるのだけど、通ってもいいかしら?」
「申し訳ありませんが、誰も通すなと仰せつかっています。なので、いくらミリア様といえど、お通しするわけには…」
その言葉で、中でしていることが仕事じゃない可能性が濃厚になってくる。
それを分かってか知らずか、ものすごく申し訳なさそうな顔でデュラハンは頭を下げるが、予想はしていたので特に気にしない。
「じゃあ、代わりにこれを母様に渡してもらえるかしら。この仕事は私が引き受けると言えば分かるはずだから」
セリエルへの指令書を手渡すと、デュラハンは「かしこまりました」と言って恭しく頭を下げた。
「じゃあ、お願いね」
伝言を任せると、私はその場を後にする。
さて、これで仕事は私の役目だ。
セリエルから譲り受けるわけだし、きちんとこなさなければならない。
気持ちを切り替えて玉座の間に行くと、律儀にセリエルが待っていた。
「おかえりなさいませ。仕事の件はどうなりました?」
「母様には会えなかったから、伝言を頼んでおいたわ。そういうわけだから、この仕事は私がやるわね」
わざわざセリエルを向かわせようとしたくらいだから、きっと何かある。
それが楽しみで、つい笑ってしまう。
そんな私に対してセリエルは苦笑を浮かべる。
「ミリア様。なぜそこまでこの仕事にこだわるのですか?」
「興味あるからよ。あなたも気づいているんでしょう?あなたほどの人が調査なんて仕事に向かわされるという不自然な点に」
「それは、まあ…」
曖昧な返事なのは、やはり不思議に思っているからだろう。
もしくは、意図がよく分からない仕事を私に押し付けるようなことは好ましくないとでも思っているのかもしれない。
だから、そんなセリエルの気持ちが晴れるように言ってあげた。
「まあ、それは建前の理由ね。本当の理由はあなたのため。弟子から師への遅い恩返しだとでも思ってくれればいいわ」
「ミリア様…」
「まあ、そういうわけだから、あなたは空いた時間は夫探しでもしてくるといいわ。まだ独り身なのでしょう?」
微笑みながらそう言ってあげると、セリエルの表情が崩れた。
「わ、私は、私より強い男でなければ伴侶とは認めません!」
頬を赤くしながら視線を逸らすセリエルはルカに負けず劣らず可愛い。
ただ、セリエルより強い男となるとこの世に何人もいないだろう。
「強さだけが男の魅力じゃないわよ?まあ、なにに魅力を感じるかは人それぞれだけどね」
そう言って歩き出すと、すれ違いざまに呼び止められた。
「ミリア様」
「なにかしら?」
振り向くと、セリエルはなんとも複雑そうな顔をしていた。
「その、なにかありましたか?先程とは纏っている雰囲気が違うのですが」
「あら、私だって気持ちの切り替えくらいできるわよ?今回はミリア個人としてではなく、魔王である母様の使いとして行くわけだしね」
だからこそ、普段は抑えているリリムとしての力を今は抑えていない。
雰囲気が違うように感じるのはそのせいだろう。
「やはりあなたも陛下のご息女ですね。ただ傍にいるだけなのに、圧倒されそうですよ」
どこか畏敬の感情がこもった笑みを浮かべるセリエルに、私も笑みを返した。
「あら、私としては剣を構えたあなたの方がよっぽど圧倒的だと思うけど。その証拠に、今まで一度もあなたに剣で勝ったことがないしね」
「それは剣だけでの場合でしょう。それに、私を倒せずとも、私に負けることもない。つまり剣の腕は互角です。しかし、あなたは様々な魔法を使える。剣だけでなく魔法も併用されたら、私に勝ち目はありませんよ」
謙遜の言葉を言うセリエルは朗らかに笑っている。
おごらず、相手の実力をきちんと認めるその姿は凛とした女性そのもの。
だからこそ、早くいい夫を見つけてもらいたいと思う。
「あなたは相変わらずね。このままおしゃべりに付き合ってもらいたくなるけど、生憎と仕事があるから、それはまたの機会にするわ」
セリエルも「そうですね」と笑って同意する。
「じゃあ、行ってくるわ」
「ミリア様」
手をひらひらさせながら歩き出すと、再び呼び止められた。
「ご武運を」
振り向いた私に向けられた言葉は、短くも思いやりのこもったもの。
「ええ」
だからこそ、同じくらいに短い返事とともに笑みを返しておく。
さて、行くとしよう。
軽く笑うと転移魔法を使い、目的地である廃棄された教団支部へと向かったのだった。
目的地のすぐ傍へと転移した私が見たのは、廃れたという言葉が相応しい建物だった。
窓のガラスは全て割られ、無事なものは一つもない。
壁には所々に亀裂が入り、場所によっては大穴まで空いていた。
情報では親魔物派の人々と魔物に襲われ、やむなく廃棄したとのことだったが、この状態を見るとそうせざるを得ないだろう。
空が曇天なこともあって、荒廃した建物が酷く陰鬱な場所に見える。
「さて、始めましょうか」
建物の規模はそこまで大きいわけではないので、それほど時間はかからないだろう。
あくまで調査は、だが。
そんなことを考えながら壊れて半開きになっている扉から中に入ると、中はそれほど荒れてはいなかった。
当然、人の気配はない。
だが、争った痕はある。
だから、飾ってあっただろう壺などは割れて床に転がっているし、壁や床にはなんらかの武器によってつけられた傷がいくつもある。
それでも、外の様子と比べれば遥かにマシと言えるだろう。
調査をする身としてはこれくらいだと助かる。
最悪、ものをどかす作業から入ることになるかと思っていたからだ。
進む度に何かの破片を踏んだ音がするが、気にせずにほこりくさい内部を進んでいくと、ちょっとした広間に出た。
すぐ左手に階段、その先は左右に別れた通路となっている。
どっちに進むべきか悩むが、どのみち一通りは調査することになるのだから、どこに行っても同じかと思いなおし、二階へと上がった。
二階の様子も一階とさほど変わりはなく、似たような光景だった。
まあ、二階は綺麗なんてことを予想していたわけではないのだが、ため息が漏れてしまう。
「随分と荒れてることで」
ぼやきながら近くにあった部屋を覗くと、そこは私室のようだった。
ベッドが四つ置かれているところを見ると、共同で使用していたのだろう。
それ以外に目ぼしいものといえば本棚くらいだ。
その本に関しても、『主神の教え』だの、『奇跡をもたらす者』だのと、いかにも教団らしい本しかない。
この部屋はこれ以上調べても何もなさそうなので、他を当たろう。
そう思い、別の部屋へと移動したのだが、またも私室だった。
それだけでなく、どこを覗いても私室ばかり。
どうやら二階は全て私室という作りらしい。
そんな二階を巡っていると、一つだけ扉の作りが違う部屋があった。
扉は半開きになっていて、中は他の部屋とは違い、少し上等のベッドが一つ。
その他にも、机や本棚、タンスと、個人の部屋のようだった。
一人で部屋を使用していたことから、教団の中ではそれなりに地位のある者の部屋らしい。
とりあえず机の引き出しを開けてみると、入っていたのはペンと手紙用の紙だけ。
他の引き出しも開けてみるが、意外なほどに中身が少ない。
襲撃を受けたのなら中身を持ちだす余裕などなかったはずだが、元々引き出し自体を使っていなかったのだろうか?
そんなことを思いながら、改めて室内を見回してみる。
元の位置からずれたと一目でわかる家具や床に散らばった本を見ても、争いがあったことは間違いないはず。
しかし、それにしてはどこにも血痕がない。
それだけでなく、この部屋以外に見てきた場所のどこにも血痕は存在していなかった。
「妙ね…」
壁に大穴が空くような襲撃を受けて、人の被害がないことなど有り得るのだろうか?
なんにせよ、判断するにはまだ情報が少なすぎる。
思考をひとまず中断すると、足元に丸められた紙クズがあることに気づいた。
他にもいくつかあることから、ゴミ箱の中身が散乱しているらしい。
何気なく拾い上げて丸められた紙を開いてみると、そこには神経質そうな文字が書かれていた。
やはりアイツは頭がどうかしているとしか思えない。
それだけでなく、この計画自体が異常だ。
いくら邪悪な魔物を滅ぼすためとはいえ、やって良いことと悪いことがある。
レスカティエの陥落という信じがたい事実から、上層部がこの計画に力を入れようとするのも理解できなくはないが、それでも私には道を踏み外した行為に思えてならない。
そもそも、今回の
どうやら誰かに向けての手紙のようだが書き損じらしく、文章はそこで終わっていた。
それでも、私にとっては充分なもの。
つまりはこの計画とやらの調査が母様の本当の目的というわけね。
ようやくおもしろくなってきたと思いながら、他に手掛かりはないかと残りの紙クズも見てみるが、どれも関係のないものばかりだった。
「残りは一階ね」
二階は一通り見終わったので、残るは一階。
そこに例の計画の資料なり情報なりがあるといいのだが。
部屋を後にすると一階へと降り、廊下を進む。
そして目に入った最初の部屋は、部屋というよりは広間で、長机や椅子が大量にあることから食堂だろう。ただ、台風でも通り過ぎたかのように中がすごいことになっている。
ここも一応調査しようかと思ったが、さすがに食堂に資料があることはないかと判断して別の場所に行くことにした。
そして次に見つけたのは聖堂だった。
ただ不思議なことに、この聖堂だけはあまり荒れていない。
ステンドグラスは割れていないし、争った形跡もほとんどない。
こういう広い場所にこそ戦いの痕があるものだが、ここには見当たらない。
あるのは配置がずれた長椅子くらいだ。
ここで争いはなかったか、あるいは守り通したか。
仮説はいくらでも浮かんでくるが、どれも違う気がする。
あれこれと考えながら、残りの場所も順に調べていく。
上級職の執務室から単なる休憩室、はては訓練所まで見て回ったが、計画とやらの片鱗さえ見つけることは出来なかった。
そして最後の部屋。
建物でいえば一階の一番奥に当たる場所に存在する部屋だ。
扉を開けば、そこは資料室のようでいくつかの本棚が配置されていた。
ここも他の場所同様に荒らされていて、床に散らばった無数の本と倒れた本棚のせいで足の踏み場に困る。
「これはまた派手に散らかってるわね…」
思わずため息が出てしまう。
出来れば見なかったことにして帰りたくなるが、この中になにか手掛かりがあるかもしれないと思うとそうもいかない。
再びため息をつくと、整理しながら一冊一冊調べていく。
それは、気の遠くなる作業だった。
何冊目か分からない本を積み上げた時だ。
ふと、右の壁に扉があることに気づいた。
あまりの部屋の惨状に目を奪われて見落としていたらしい。
「この先にも資料室があるのかしらね…?」
あるとすれば更に大量の本が待っていることだろう。
そう思うと少しげんなりしてしまう。
やる気が急激に下降していくなか、思い切って扉を開けるとそこにあったのは壁だった。
…壁?
予想すらしてなかったので思わず瞬きをしてしまう。
しかし、目の前にあるのは壁。
扉こそ取り付けてあるものの、その先が存在してはいなかった。
恐らく増築する予定だったのだろう。
拍子抜けしたが、これ以上の本がなくてよかった。
それを感謝するように壁を軽く叩いた時だ。
僅かに、本当に僅かにだが空洞音がした。
「?」
疑問に思って少し強めに叩いてみると、間違いなく空洞音がする。
「これは…」
疑問が確信へと変わる。
そっと壁へと手を当てて衝撃魔法を放つと、壁は崩れ落ちて地下へと続く階段が現れた。
偽りの壁によって隠された地下。
怪しい以外の言葉がないわね…。
それでも本をひたすら調べる作業に飽きてきていた私は思わず笑ってしまう。
ようやく調査が前進しそうだ。
この先にあるのがなんなのか、それを楽しみにしながら、三人くらいなら余裕で並んで歩けるほどの幅を持つ階段を下りて行く。
程なくして階段と階段の中間地点に辿りついたところで、そこに転移魔法陣が存在するのを見つけた。
転移魔法は高度なものだが、相応の道具と術式を用意できれば人でも扱うことはできる。
その証拠に、魔法陣の付近には複雑な模様の術式と器具とが置かれていた。
問題はまだこの魔法陣が活動しているということだ。
「どうやら、下はまだ廃棄されてはいないみたいね」
つまりこの先にはなにかがある。
辺りに警戒しながら階段を下りていくと、上の建物とは打って変わって無機質な作りの通路があった。
なんの装飾も施されていない一本道の通路を進んでいくと、大きな広間に出た。
左右に等間隔で柱が並んでいるそこは、上にあった聖堂と作りが似ているが、広さはおよそ倍といえる。
見方によっては神殿にも見える広間の一番奥に、まるで私を待っていたかのように白衣姿の男が立っていた。
「人…ではないようだな。随分と変わった姿だが、とりあえず、教団の秘密の地下へようこそと言っておこうか」
黒い髪をオールバックにし、眼鏡をかけた男は不敵に笑う。
「魔物だと分かっていながら、ようこそだなんて言っていいのかしら?」
広間の中央へと歩きながら返事を返すと、男は目を細めた。
「構わないな。ちょうど定時報告の時間だ。そこに侵入してきた魔物を一人殺したと付け加えれば問題ない」
「それは、あなたが私を殺すということかしら?」
私が問いかけると、男は声なく笑う。
「いいや?私は見ての通り、ただの研究者でね。武力は持ち合わせてはいない。だから、お前を殺すのはこいつらだ」
そう言うなり、男は近くの術式が描かれた壁へと手を触れる。
すると、すぐ近くの壁が音もなく開いていく。
「出ろ」
男の声に合わせて壁の奥から姿を現したのは軽装の鎧を身に付け、剣を腰につけた三人の女性。
それだけなら、教団の戦士ということですんだだろう。
だが、彼女達は瞳が白く濁り、私と向き合っていてもどこを見ているか分からない。
これだけでも不気味に感じるが、なにより不可解なのは―。
「どういうこと?なぜ、その人達から魔力が放たれているの?」
人の女性であれば、魔力が体内へと侵入すれば魔物化が始まるはず。
しかし、目の前の三人は至って普通の人の体だ。
だとすれば、可能性として考えられるのは。
三人の後ろで不気味な笑みを浮かべる男へと視線を向ける。
「彼女達になにをしたの?」
「なにを、か。そうだな、一言で言えば実験だな」
「それは人体実験をしたということかしら?」
「そう言ったつもりだが」
口から出た言葉は非常識なものであると言うのに、男は全く気にしていないような口ぶりだ。
そんな男の態度を見て、私は確信する。
この男こそが、あの手紙に書かれていた者なのだと。
「親魔物派の人達が襲撃するわけだわ」
呆れたように言うと、男はニヤリと笑った。
「襲撃、か。ここまで辿り着いたわりに、考察力はイマイチだな」
「どういう意味かしら?」
「お前は、本当にこの支部が襲撃されたと思っているのか?」
そう言われて、いくつかの不自然な点を解消する答えに辿り着いた。
「まさか…」
「そう。全ては教団自らが行ったことだ。この秘密の地下と、ここで行われる実験を隠蔽するためにな」
だから血痕がどこにもなかったというわけね…。
あまりの徹底ぶりに思わずため息が出てしまう。
「自分達のしていることを理解しているの?」
「ああ、してるさ。魔物と渡り合えるだけの力を持った戦士を作り出している。全てはお前達魔物を滅ぼすためにな」
「そう。じゃあ、その三人はさしずめ、人工的な勇者ということかしら?」
「いいや、勇者とは呼べないな。勇者とは主神より加護を与えられた者だけだ。だからこそ、教団では『捧げし者』という仮称で呼ばれているよ」
捧げし者、ね…。
大仰な呼び名を付ければ、自分達の行為は正当であるとでも思っているのかしらね?
「私から言わせれば、捧げられし者と言った方がしっくりくるわね。彼女達の目も、それが理由なのでしょう?」
私の言葉に、男は楽しそうに笑う。
まるで、下らない馬鹿話でもするかのように。
「ああ、その通りだ。視覚的な魅了を防ぐために魔法で視力をなくした。それだけでなく、任務遂行に不必要な本人達の意思もな」
「すごいわね。そこまですると、もはや狂気としか思えないわ」
そう言いつつも、この男が既にまともではないことは分かっている。
私は今リリムとしての力を抑えてはいない。
つまり誰だろうと魅了できる状態。
それでもこの男は全く魅了されていない。
リリムであっても、魅了できない相手は存在するのだ。
目の前にいる男のように、精神が狂ってしまっている者がその例だろう。
「勝てば官軍だからな。多少の無茶には目をつむられる。そしてこの三体は記念すべき最初の戦士だ」
「三人、とは言わないのね」
「お前達魔物より抽出した魔力と適合したこの者達は、魔物と同様の身体能力を得て人の領域を超えた。人扱いするほうが失礼というものだ」
適合、と言うからには魔物化せずにその力だけを得たということだろう。
これで彼女達がなぜ魔力を放っているかは分かった。
そのためにどういった術を用いたかは分からないが、きっとまともな方法じゃない。
本当に教団はろくなことを考えない。
呆れるわね…。
もう口からはため息しか出てこない。
「その人達の体を勝手にいじっておいてよく言うわね」
「はッ、それこそ論外だ。この者達は皆親魔物派との争いで重傷を負い、再起不能とされた者達だ。そのままではただ死にゆくだけの存在に、再び教団の剣となる機会を与えた。それのどこが悪い?」
心底不思議そうに男は首をかしげる。
やはりこの男は人として大事なモノが壊れてしまっている。
これ以上の会話は不毛。
頭がそう判断する。
「あなた達にとって忌むべき存在であるはずの魔物。その力を利用してまで私達を滅ぼそうとする教団。私には理解しかねるわ」
「毒は毒を以て制す。それだけのことだ」
屁理屈による理論武装はばっちりのようだ。
男の言葉をほとんど聞き流しながら、頭がある答えへと辿り着く。
母様がセリエルを送ろうとした理由。
母様もこの計画についてなにかしらの情報を掴んだのだろう。
調査という名目の仕事。でも、その本当の狙いは―。
「そう。じゃあ、見せてもらいましょうか。教団の作り出した毒が、私という毒を制することができるのかをね」
抑えていた魔力を解放すると、溢れ出す魔力の一部を右手へと集中させ、愛剣を模した魔力の剣を作り出す。
私が戦闘態勢に入ったのを見ると、男は短く言い放った。
「殺せ」
その言葉を合図に、三人の戦士は正確に私へと向かってくる。
「あなた達のその計画、私が潰すわ」
教団の計画を潰すこと。それが母様の目的。
だからこそ、その執行者としてセリエルが選ばれたのだろう。
ようやく納得したところで頭を切り替え、赤髪の戦士が振り下ろした剣を右に避ける。
当然、振り下ろしただけでは終わらず、そのまま私の後を追うように剣が払われる。
それを剣で防ぎ、そのまま弾き返すと、その場から飛び退く。
次の瞬間、私がいた場所に剣が振り下ろされた。
赤髪の戦士の背後、私にとっての死角から金髪の戦士が赤髪の戦士を飛び越えるように跳躍して空中から斬りかかってきていたのだ。
攻撃を外して硬直した隙を逃すまいと剣を振ろうとしたところで殺気を感じ、咄嗟に身を引く。
直後、数瞬前まで私の首があったところに紫髪の戦士による突きが繰り出されていた。
その見事な突きに、刃風が遅れてきたほどだ。
「危ないわね…」
言葉とともに紫髪の戦士へと視線をやるが、視力を失い、口を引き結んだその顔からは感情が読み取れない。
まるで人形ね…。
突きを外した紫髪の戦士はそのまま首を落とそうと剣を薙いでくるが、それを屈んで避けると、反撃の切り上げを放つ。
そして響き渡る剣と剣がぶつかる音。
こちらの一撃を紫髪の戦士は剣で防いでいた。
ただ、それは想定内。
剣を盾にして防御の姿勢を取った紫髪の戦士へと追撃を放って距離を空けると、振り向いて斬りかかってきていた金髪の戦士の攻撃を防ぎ、強く斬り払って一定の距離を保つようにする。
なるべく敵の姿を視界に納めておくこと。
一人で複数の相手と戦う際の鉄則だ。
三人の戦士の戦い方は絶妙。
一人が斬りかかっている間は残りの二人が斬りかかってくることはないが、距離が開けば、入れ替わるように残りの二人のどちらかが斬りかかる。
それは休む間を与えない攻め方。
だから、こうして距離を取ってもすぐに詰めてくる。
三人の巧妙な攻めを捌きながら反撃するものの、剣と剣の音が響くだけ。
お互いに有効な一撃を当てられない。
そんななか、私は少し感心していた。
抑えているとはいえ、この三人は私の動きに対応できている。
魔物の身体能力を得ているというのもあながち間違いではないらしい。
ただ、不思議なのは。
「理解できないという顔だな」
間髪入れずに繰り出された剣撃を受け止めながら、男へと視線を向ける。
見れば、いかにも興味深そうな顔でこちらを見ていた。
「その者達は探知能力に優れていてね。目は見えずとも、敵の魔力を探って動いている。ああ、魔法は囮にならないからやめておいたほうがいい。分離された魔力は魔法だと認識するからな」
「随分と優しいのね。そんなに情報を教えていいのかしら?」
「構わんよ。戦闘記録は多い方がいい」
「記録に残せるほど彼女達が持てばいいけどね」
軽く笑みを向けると、男は鼻で笑う。
「その余裕、いつまで持つかな?」
男の言葉に合わせるように、三人同時に斬りかかってくる。
その早さは人では目で追うことは出来ないほどのもの。
三方向から振られる剣の狙う先は一つ。
私の首。
だから一歩引いて三本の剣が行きつく場所に、先に剣を構えて同時攻撃を防ぐ。
そのまま力を込めて鍔迫り合いになっている三人の剣を弾き飛ばすと、斬り上げ、振り下ろし、横薙ぎと、順に三人の戦士に繰り出す。
三人に対して一撃ずつだが、それなりの速さで振ったはずの剣を三人はきっちりと防いでみせた。
大したものね…。
こちらが感心している間にも繰り出される攻撃を後ろに下がって避けるが、それを見越したかのように、次の攻撃がくる。
見事なまでの連携攻撃。
それでも反応できるのは、きっとセリエルにあれこれと教えてもらったから。
彼女達はまるで人形のようだが、それでも攻撃の一つ一つにしっかりと殺気が感じられる。
おかげで私は死角からの攻撃を察知できているようなものだ。
「何事にも手は出しておくものね」
真横から払われた攻撃をすれすれで避け、私を捉え損ねた剣は柱へと直撃する。
意外だったのは、剣が直撃した部分が見事に砕けたことだ。
切れたのではなく、砕けた。
つまり、それほどの腕力だということらしい。
「ここまでくれば、もう私達と大差ないわね」
砕けた柱を横目で眺めながら、剣をそっと構え直す。
「少し強くいくわ」
今までは相手に攻めさせていたが、そろそろこちらも責めるとしよう。
即座に距離を詰め、今まで以上の速さで剣を振るう。
柱を砕いた者は剣を構えて私の一撃を受けるが、生憎と今までのようにその場に踏み止まれる威力ではない。
よって受け止めこそしたものの、彼女の体は吹き飛んでいく。
距離が開けば次は別の者。
既にこちらへと向かってきている戦士へと私も走り寄る。
そして銀と藍色の軌跡が描かれ、剣がぶつかる。
一度だけでなく、何度もぶつけ合う。
私が剣を振る度に、床に、柱に、剣圧による線が描かれる。
それだけでなく、私の剣を受ける彼女達の体にも小さな傷がいくつもできていくが、怯む様子はない。
「無駄だよ。捧げし者はその程度では止まらない。痛みを感じないようにしてあるからな。せいぜい力尽きるまで戯れるといい」
「せっかくだけど、もうお人形と遊ぶ歳じゃないの」
傷など意に介さず向かってくる彼女達の攻撃を避けるように、空中へと飛び上がる。
後を追うように彼女達も跳躍してくるが、空を飛ぶ術を持たない以上、その動きは制限される。
「そろそろ終わりにしましょう」
追ってきた彼女達を斬り払うと、手に持っている剣と同じ物を何本も空中に作り出す。
「多少の傷は勘忍してもらうわ」
言葉とともに左手をそっと払うと、無数の剣がまるで意思を持っているかのように彼女達に向かっていく。
三人は次々に向かってくる剣を避け、時に防いでしのごうとするが、剣は正面からだけでなく様々な方向から攻め立てるのだ。いくら探知能力が高かろうと、どうにかできるものではない。
結果、全ての剣が再び空中に戻る頃には彼女達の体は無数の切り傷で血まみれになっていた。
そろそろいいかしらね。
そう判断し、剣を伴って空中から床へと降り立つ。
それを待っていたかのように三人が斬りかかってくるが、動きに先程までの精彩はない。
痛みは感じずとも、出血による疲労はきちんとするらしい。
そのせいか、連携にもずれが見られ、三人の攻撃は私に届くことなく空中の剣によって阻まれる。
さて、彼女達には少し眠ってもらうことにしよう。
私の意思に呼応するように、無数の剣は全て砕けて藍色の粒子となり、彼女達の体へと纏わりついていく。
「…!」
声こそ出なかったが、体の異変に気づいたのだろう。
三人とも痙攣するように体をびくつかせながらその場に倒れ、やがて動かなくなる。
「な、なんだ?なにをした!?」
「そうね、簡単な謎かけをしましょうか。なぜ私が魔力でできた剣を使って戦ったと思う?」
この計画を潰すと決めた瞬間から考えていたこと。
彼女達を殺さずに止める最善の方法。
「まさか…!」
私の狙いに男も気づいたらしい。
もっとも、気づいたところで手遅れだ。
「察したみたいね。その通りよ。この剣で斬られた場合、傷口から私の魔力が体へと侵入する。そして魔力は体を巡り、やがて変化をもたらすわ」
魔物化。
それが、私が辿り着いた結論。
体を麻痺させるだけではやがて回復してしまう。
それでは意味がないのだ。
「バカな…、魔物化だと!?」
「なぜ驚いているの?レスカティエを陥落させた魔物と私は同種の存在。同じ力を持っているのは当然でしょう?さあ、彼女達が生まれ変わる瞬間を見届けましょうか」
視線を向けた先では、三人の身に纏った物が音もなく消滅している最中だった。
そして生まれた時の姿になった彼女達の体を藍色の霧が覆っていく。
程なくして霧が消えると、彼女達は三人とも鎧姿になっていた。
「レスカティエを陥落させた魔物…?まさか!」
驚く男に、私は軽く笑みを漏らす。
まさか三人ともデュラハンになるとはね。
言っておくと、私の意思でデュラハンに変化させたわけではない。
あくまで彼女達の性質にあった魔物に変えただけ。
それでもデュラハンに変化したということは、彼女達にそういう素質があったということだ。魔力に適応しただけはあるかもしれない。
「どうやら、私という毒の方が強かったみたいね」
「くっ、なぜだ!なぜリリムがこんな所に来る!」
「人と同じ理由よ」
「なに…?」
少し考えればわかるはずなのに、動揺している男はそれだけでは理解出来なかったらしい。
「どこかで好きな人と楽しくおしゃべりする人がいる裏で、幸せであるようにと努める人がいる。そしてそれは魔物も同じ。夫と愛し合う人がいる裏で、その幸せが続くようにと動く人がいる。それが今回は私だったというだけの話」
皆が幸せ。
言葉にすれば単純だが、それがどんなに困難なものかは、未だに母様の理想とする世界になっていないことが証明している。
「さて、おしゃべりはここまでにして、あなたの処遇を決めましょうか」
瞬時に男へと詰め寄ると、その額に人差し指を当てる。
「なっ…」
「まだ若い男を再起不能にするのは心苦しいけど、あなたのその狂気はあなただけでなく、回りの人にまで悪影響を与えかねない。だから、その狂気ともに夢の世界へ堕ちなさい」
「あ…」
催眠の魔法を使うと、男は呻き声とともに崩れ落ちる。
それでも、今にも閉じられそうな瞼の奥からこちらを見る瞳には未だに狂気の色があった。
「覚めない夢は現実と同じ。責めて夢の中では私達魔物がいない世界を享受するといいわ」
「く…そ…」
呟きながら、男は覚めない眠りへとついた。
「良い夢を」
男に向けてそう言うと、背後に気配を感じて振り返る。
そこには意識を取り戻し、ゆっくりと体を起こす三人の姿があった。
「見、える…?」
鎧に覆われた自分の手を見て、赤髪の娘がぽつりと呟いた。
他の二人も、まるで見知らぬ土地にでも来たかのように辺りを見回している。
魔物化の際に体の悪い部分は大概回復したはずだから、彼女達も視力は回復しているはず。
「その体、調子はどうかしら?」
声をかけると、三人とも視線をこちらに向けた。
「あなたは…」
「もしかして、さっきまで私達が戦っていた人、ですか?」
「ええ、そうよ。覚えているの?」
視力は失っていたはずだが、三人ともこくりと頷いた。
「見えてはいませんでしたが、それでも自分の体が剣を持って誰かと戦っているのは分かりました」
「そう。じゃあ、どうする?私はあなた達を魔物へと変えた張本人よ。魔物になったとはいえ、あなた達は元は教団の戦士。さっきの続きでもする?」
すると言われると困るのだが、今回は彼女達の意思に関係なく魔物化してしまった。
その代償と考えれば仕方ないかと思う。
ところが彼女達は揃って首を振る。
そして、代表するように赤髪の娘が口を開いた。
「それは違います。私を…、私達を人ではない存在へと変えたのはその男です」
娘が憎らしげに倒れている男を睨む。
「ッ!コイツ!!」
青髪の娘は男を確認すると、落ちていた剣を拾い上げて男の傍へと走り寄り、剣を振り上げた。
「リシェル、駄目!!」
赤髪の娘が叫ぶが、彼女、リシェルは躊躇うことなく剣を振り下ろそうとする。
「させさないわ」
なにをしようとしたのか訊かなくてもわかる行動。
だから、私は彼女の手首を掴む。
掴んだまま、その瞳を覗きこむように顔を近づける。
「あなたがどれだけこの男を憎んでいようと、私の目の前で誰かを殺すことは認めないわ。もし殺したいなら、先に私を殺すことね」
「なぜこの男をかばうんですか!?」
体を好き勝手にされた怒り。
それを私にぶつけるようにリシェルは叫ぶ。
「相応の報いは与えたわ。彼は終わらない夢の中。二度と目覚めることはないわ。もうなにも出来ない彼に手を出すということは、あなた達を実験台にした彼と同じ行為よ。それでも、あなたは彼を殺すというの?」
動けぬ者に手を出す。
それは、彼女達が身を持って体験したこと。
だからこそ、同じことをするわけがない。
私がそう言うと、リシェルの顔が辛そうに歪み、やがて俯いた。
それに合わせて、振り上げていた腕からも力が抜けていく。
そっと掴んでいた手首を放すと、リシェルがぽつりと呟いた。
「なら、なぜあなたは私達を救ってくれたのですか…?」
「救ったわけではないわ。私は母様の意思に従って教団の計画を潰しただけ」
「いいえ、救われました」
再び赤髪の娘の声がした。
「実験体として視力を奪われ、何も話せず、自由に動かない体となっても意思だけはあったのです。自分の体なのに、思い通りに動かない。それがどんなに辛かったか。あなたはそんな牢獄から私達を救い出してくれた。だから……、私達にあなたと戦う意思はありません」
「教団の元戦士がそんなことを言っていいのかしら?」
「構いません。教団の教えは間違っていた。魔物は邪悪な存在などではなかった。あなたを見れば、それが間違いであったと分かります」
そう語った娘の目には心酔したような色があった。
ひょっとしたら感化されやすいのかもしれない。
良くも悪くも純粋、といったところかしらね…。
小さくため息をつくと、静かに彼女の正面へと移動し、その顔を見下ろす。
「何も分かってないみたいね」
「え…?」
戸惑う彼女の頬へとそっと手を触れる。
「魔物化して視力が回復しても、その目は何も見えていないみたいね。木を見て森を見ないつもり?しっかりとその両目を見開いて。また、何も見えないようになりたくなければね」
頬に触れた手を放すと、娘はすがるような目で私を見つめてきた。
「では、何を信じればいいのですか…?」
「何が真実かは自分の目で見て決めなさい。その目はきちんと現実を見ることができるはずだから。私の話はこれでお終い」
私が魔物がどういう存在かを語ったところで意味がない。
それでは、教団が何も知らぬ人に嘘を教えこむのと同じ。
だから何を信じるべきかは、自分で見つけ、判断しなくてはならない。
彼女だって子供ではないのだから、それくらいは出来るはずだ。
目の前の娘は私の言葉を聞いて、何かを考え込むように顔を俯かせていたが、やがて顔を上げた。
「では、何が真実か分かるまで、あなたの傍にいてもよろしいですか?」
その言葉は私にとって予想外。
それは残りの二人も同じだったらしく、ぽかんとした顔で見つめている。
「レイム?あなた、なに言って―」
「あなたにもわかるはずよ、リシェル。受けた恩を返さないなんてことは、私にはできない。それに、仕えると決めた教団はもう信じられない。だから、私はこの人に仕えるわ」
そう言ってレイムは私の前でひざまづくように片膝をつき、頭を下げる。
「!」
レイムの宣言と行動に残りの二人は驚いた顔になるが、すぐにレイムの横に来て同じように片膝をつく。
こうなってくると困るのは私だ。
こういうのは好きじゃない。
「生憎と、堅苦しいのは好きじゃないの。誰かに仕えたいのなら、母様にして」
「いいえ。私達を救ってくれたのはあなたです。だから、私達が仕えたいのはあなた様をおいて他にいません」
言葉と同様、真っ直ぐな瞳が私を見る。
これは何を言っても無理そうね…。
「はぁ…。じゃあ、とりあえず従者見習いということでいいかしら?後は、あなた達次第で考えるわ」
「ありがとうございます!では、あなた様のお名前をお訊きしてもよろしいですか?」
「ミリアよ」
私が名乗ると、三人は片膝をついたままで剣を手に取った。
「ミリア様ですね。では、私、レイム」
「リシェル」
「ルミナ」
それぞれ自分の名を呼びながら、祈るように額を剣に当てる。
「今この時より、ミリア様にお仕え致します」
私には分からないが、これはきっと何かの儀式なのだろう。
なにはともあれ、これで仕事は終了だ。
「三人ともよろしくね。で、さっそくだけど、あなた達には一緒に来てもらいましょうか。それと、申し訳ないけど、あなた達が受けた人体実験について話してもらうことになるわ」
「かまいません。私達のような被害者を出さないためにも、知っていることは全てお話し致します」
「いい返事ね。じゃあ、行きましょうか」
レイムの返事に軽く微笑むと転移魔法陣を展開し、三人を連れて魔王城へと帰還した。
「ここが…」
リシェルが魔王城を見てそう漏らした。
「魔王城。私にとってはただの実家ね。そして、これからあなた達が住む場所でもあるわ」
「あの、いきなり三人も大丈夫なのですか?」
不安そうにルミナが訊いてくるが、それは不要な心配だ。
「見ての通り、無駄に大きいから寝泊まりする場所はいくらでもあるわ。それより、こっちに来て。これからあなた達の世話をしてくれる人を紹介するわ」
セリエルの魔力を探し当てると、そちらへと歩き出す。
感じる方向にあるのは訓練所なので、セリエルは自己鍛練でもしてるらしい。
いくつかある訓練所の一つへと入ると、セリエルが一人、黙々と剣を振っていた。
「セリエル。ちょっといいかしら?」
「ああ、ミリア様、お帰りなさいませ。ご無事でなによりです。何かご用ですか?」
私が声をかけるとすぐにセリエルは気づいてくれた。
だが、その視線が私の後ろにいる三人に向けられる。
「あの、ミリア様。その者達は?」
「そのことで、あなたのとこに来たのよ。この子達は魔物になったばかりでね。色々と手ほどきしてほしいの」
「ああ、そういうことですか。しかし、この者達は例の仕事と何か関係が?」
「ええ。話すと長くなるから、連れてきたわ。で、この子達は私の従者になりたいみたいだから、鍛えてあげて」
簡単に説明すると、セリエルは少し意外そうに目を瞬かせた。
「従者ですか。しかし、あなたはそういうのを好まないはずでは?」
「ええ。だから熱意に負けたというところね」
「なるほど。では、喜んで引き受けます」
「お願いね。ああ、調査の内容も報告してもらっていいかしら?この子達を母様のところに連れていけば、後は話してくれるから」
「了解しました」
私が話し終えると、セリエルは恭しく頭を下げる。
「あの、ミリア様。私達はどうすれば…」
「聞いていた通りよ。しばらくはセリエルの元で鍛練に励んで。もしセリエルが認めるくらいに強くなったら、その時は私の親衛隊にしてあげるから」
戸惑った顔のレイムにそう言って微笑むと、彼女はやがて言葉の意味を理解したらしい。
その顔が綻んだ。
「じゃあ、頑張ってね。時々は様子を見にくるから」
「はい!」
女らしい笑顔で返事をしてきたレイムに微笑むと、後の事はセリエルに任せ、私は訓練所を出て行く。
「さて、色々と教える前に言っておくことがある」
セリエルは三人へと向き直ると、そう口火を切った。
三人が真面目に聞いているのを確認すると、セリエルは言葉を続ける。
「王女であるリリムの方々は基本的に従者など必要としないくらいの力を持っている。それでも王女であることに変わりはないから、ほとんどの方には専属の従者兼親衛隊が何人かついているがな。それで、お前達が仕えることになるミリア様だが」
一旦話すのをやめると、セリエルはそっと入り口の方を見た。
まるで、そこに本人がいないことを確認するように。
「あの、ミリア様がなんなのですか?」
三人を代表するようにルミナが問いかけると、セリエルは視線を戻した。
「あの方に親衛隊はいない。必要最低限の数だけいればいいと言ってな。身の回りの世話をする者だけしかいないのだ。それも、専属ではなく、リリムの方々全員の世話をする者だけ。だが、ミリア様はお前達を親衛隊にすると言った。この意味がわかるか?」
セリエルは三人の目を順に見つめていくと、最後に楽しそうに笑った。
「期待しているということだ。だから、あの方の期待を裏切るような真似だけはするな。いいな?」
話の終わりを察したのだろう。
三人は神妙な顔で頷くと、緊張が切れたかのようになにやら話し始めた。
楽しそうにしているところを見ると、親衛隊になった時のことでも話しているのかもしれない。
そんな様子を横目で眺めながら、セリエルは一人声なく笑う。
やはり、あなたも魔王様の娘だと。
こうして、言葉一つで人の心を掌握してしまうのだから。
「ひょっとしたら、次の魔王はあなたかもしれませんよ?ミリア様」
セリエルがそう呟いている頃、私は既に見慣れつつある家の扉をノックしていた。
時刻は夜。
打ち合わせからは帰ってきているはずだ。
「はあ。あんた、一日に何度うちに来れば気が済むのよ?」
ため息をつきながら、扉の内側からルカが顔を出す。
「まあ、そう言わずに。ルカも夕食はまだでしょ?一緒に食べに行かない?」
「食べに、か。まあ、いいけど。あ、まさか、男を食べに行くとか言うんじゃないでしょうね?」
「あなたがそれを望むなら、私はそっちでもかまわないけど?」
半分は冗談、もう半分は本気で言うと、ルカは盛大にため息をついた。
「冗談じゃないわ。で、どこに食べに行くのよ?」
「私の友達が経営している店でいいかしら?」
「それって、この間の差し入れを買ってきたとこ?」
「ええ、そうよ」
おいしい料理を食べられるところなら散歩のおかげで色々と知っている。
だが、味も種類も、レナの店を超える場所はなかなか無いのだ。
「ま、それならいっか。じゃ、行きましょ」
渋るかと思ったが、ルカは意外とあっさり承諾してくれた。
そんなルカとともに向かった『狐の尻尾』は、意外なことに客が誰もいなかった。
「あ、ミリアさん。いらっしゃいませ」
テーブルを拭いていたレナに笑顔で迎えられ、私とルカは空いている席につく。
「どうも、こんばんは。今日は何にします?」
「その前にこの子を紹介するわね。友達のルカよ」
「あ、お友達の方ですか。どうも、レナです。よろしく」
にこにこしながら握手を求めるレナに、ルカはさっそく頬が赤くなった。
「よ、よろしく…」
目を逸らしつつも、きっちり手を握り返している姿が微笑ましい。
「それにしても、新しいお友達ですか。あ、そうだ。どうせお客さんもいないし、せっかくだから、今日は貸し切りにしちゃいましょう」
「あら、そんなことしていいの?」
「店主ですから。その代わりと言ってはなんですけど、私達もご一緒していいですか?」
私はその提案に問題はない。
だからルカへ目で問う。
「アタシもかまわないわよ」
「いいみたい」
「じゃあ、すぐに料理を準備しますね」
軽く一礼すると、レナは一旦店の扉を開いて営業中の札を閉店へと変え、そのまま厨房に入って行った。
そして大した時間も置かずにハンスが料理を次々と運んできて、テーブルはあっという間に料理で埋まってしまう。
レナとハンスの二人が片付けを終えて席につくと、小さな食事会が始まった。
温かくおいしい料理と酒に舌鼓を打ちながら、それでも食べることに夢中にならず、ちょっとした話で笑い合う。
ルカは人見知りするかと思ったが、案外すんなりとレナ夫婦と打ち解け、時折、何気ない会話もしていた。
「で、結局打ち合わせが終わるまでいちゃいちゃしてたわね。おかげで、無駄に疲れたわ」
「それは災難でしたね」
「さすがにそれはちょっと…」
ため息混じりにルカが語り、レナとハンスが苦笑しながら同意する。
「さて、ミリアさんは今日は何をしてたんですか?やっぱり散歩?」
最後のお楽しみとばかりにレナが話を振ってきた。
「私?私は…」
今日、私がしたことを思い出し、封をするように人差し指を唇に当てる。
「今日は特になにもしてないわね。城に戻ってのんびりしてたわ」
「はあ。いくら王女だからって怠慢なんじゃない?あんたも少しは働きなさいよ」
「まあまあ。ミリアさんらしいじゃないですか」
ため息をつくルカと、それに笑いかけるレナ。
全く微笑ましい光景だ。
「そうね。じゃあ、明日からはルカが気に入りそうな男でも探しに行くとするわ」
「ちょっと!なんでそうなるのよ!」
「あら、私が働くってそういうことよ?人と魔物が愛し合える世界にする。そのためには、まず目の前のあなたから幸せになってもらわないとね」
「アタシより先に、まずは自分が幸せになりなさいよ!」
そう言いつつも、恥ずかしくなったのか、ルカは食べることに逃げる。
それを見て微笑む私。
ささやかで、幸福なひと時。
だから、今日私がした事は語らない。
こうして私が食事を楽しんでいる間にも、あの子達はセリエルの元で鍛練に励んでいるはずだから。
知らないだけで、皆やるべきことをしているのだ。
それをさも美談のように語るなど、つまらない人だけがすること。
語ってもいいことと、そうでないことの区別くらいは私にもできる。
そして、今日私がしたことは語る必要のないこと。
だから、知るべき人だけが知っていればいい。
あれは、秘密の仕事だったのだから。
「じゃあ、ルカ。どんな男がいい?」
「だから!アタシは男になんて興味ないって言ってるでしょ!!」
頬を赤くして叫ぶルカと、それを見てさざ波のように笑う私達。
その日『狐の尻尾』からは、夜遅くまで賑やかな声が聞こえていたのだった。
12/07/21 21:15更新 / エンプティ
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