連載小説
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善き者のための全て
商都ダーツェニカ。
大陸中の金品を吸い上げ、商取引を経て大陸中に送りだしていた、世界の心臓。
その数百年に及ぶ栄光の歴史が途絶えたのは、数年前のことだった。
ある日、地響きと共に街の全てが触手と粘液の海に没したのだ。
そびえる城壁の代わりに、触手の絡み合う肉の壁がそそり立ち、城壁の向こうには見上げるほど巨大な半球形の肉塊が鎮座していた。
そして、肉塊と城壁の間には、無数の触手がひしめきあい、粘液を互いになすりつけ合っている。
商都の変貌に、ダーツェニカ南方砦は駐屯している部隊を展開してダーツェニカを包囲し、王都から援軍が投入された。
自治都市であったダーツェニカの王都への反乱か、魔王軍の直接攻撃によるものか、王都はいずれの場合にも対応できるようにするためである。
だが、砦の駐屯兵と援軍による完全包囲の後も、ダーツェニカの触手は版図を広げるわけでもなく、ただ脈動するばかりだった。
「朝の見張り、異常なーし」
「おう、お疲れ」
ダーツェニカ包囲陣の一角、防壁に築かれた見張り台から降りて来た兵士の報告に、大型テントの中で書類を片づけていた分隊長はそう返した。
昨日もそうで、一昨日もそうだった。
ダーツェニカ南方砦から派遣されてそれなりに経過するが、たまに触手が鎌首をもたげる程度で、『異常なし』以外の報告は無いに等しかった。
「全く…」
テントの出入り口から外を見れば、塹壕と土を積んで固めた防壁の向こうに、赤いドームが聳えていた。
初めて目にした時は、噂に聞く魔王城が顕現したのかと身を強張らせたが、テントでの寝泊りと異常なしの日々が続くうちに、いつしか日常の風景となっていた。
噂に聞くところによると、ダーツェニカの一件に対し魔王が無関係であると使者を通して主張をしただとか、ダーツェニカに住んでいた魔物の被害について調査に乗り出しただとか言う話も出ているらしい。
だが、最前線である包囲陣では、王都や聖都、魔王軍の情勢などと関わりなく、肉の積み上がった元ダーツェニカを眺めて暮らしていた。
おそらく、ダーツェニカはこのまま動くこともなく、鎮座し続けるのではないのだろうか。
そんな予感が、彼の内に常に存在していた。
「分隊長?よろしいですか?」
「おう、どうした」
テントの入口から顔をのぞかせた兵士に、彼はにらみ合いを続ける未来から現在に引き戻された。
「久々に『勇者サマ』が来ましたので、報告に参りました」
「ほう、珍しいな」
兵士の報告に分隊長の口から、感嘆の声が漏れた。
『勇者サマ』というのは、この包囲陣におけるダーツェニカへの侵入希望者のことだ。ダーツェニカを支配する触手の群れに単身、あるいは少数で突入し、街を解放しようと言う崇高な目的を掲げた冒険者である。
だが、実際のところ彼らの本命は触手に埋もれる大量の金品の採掘が目的である。
ここ数カ月、訪れることのなかった『勇者サマ』に、分隊長は興味を抱いた。
「それで、もう帰ったのか?」
「いえ、まだ説明中です。ですが、今回はかなりやる気がある様ですよ」
王都は、ダーツェニカの変貌直後から殺到する、自称勇者のトレジャーハンター気取りに対し、ダーツェニカの金品採掘権を与える代わりに、救出や補助は一切しないという対応を取った。
そのため、包囲陣を訪れた『勇者サマ』に対しては、権利関係の説明を行ってから送り出すのである。
もっとも、彼らの多くは実際にダーツェニカを目にするか、救出も補助もないと聞いて戻る場合が多い。
久々の『勇者サマ』に加え、やる気があると言うのはかなり珍しいことだ。
「ちょっと様子を見に行こうか」
久々の命知らずの登場に、分隊長はペンを置いて立ち上がった。
兵士と共にテントを出て、しばし歩くと陣の後方、物資の搬入路近くで一人の男が兵士から説明を受けているのが見えた。
「以上の通り、指定区域内であなたが遭難、負傷しても我々は救出に向かいませんし、死亡時の遺体の回収もしません。よろしいですか?」
「理解した」
再三にわたって繰り返された兵士の言葉に、男は頷く。
「では、こちらの同意書にサインをお願いします」
兵士は、ダーツェニカへの潜入許可申請書や、救出が不要だという意思表明書を取り出し、男に差しだした。
だが、男はペンを手に取るわけでもなく、軽く頭を振った。
「…すまない、剣ばかり振ってきて、字が書けないんだ…」
「しかし、それでは…」
「ああ、いい、大丈夫だ」
担当兵士に声を掛けながら、分隊長は歩み寄った。
「分隊長」
「あんたが、ダーツェニカに潜り込もうとしている勇者だな?」
担当兵士を押しとどめながら、彼は男に声を掛けた。
「我々はお前さんのような、勇気と自信のある人物を歓迎する!だが、この書類はあとのごたごたで面倒くさくならないようにするためでな、どうしても『全部承知の上でダーツェニカに入った』って証拠が必要なんだ」
兵士から書類の束を受け取ると、分隊長は男に向けて広げた。
「まあ、お前さんが書類を見せられて、説明を受けたって証拠さえあればいいから、別に手形でもいい。人にはいろいろ理由があるからな」
「…では、手形を押させてもらおう…」
久々の『勇者サマ』を、書類上の問題で追い返してしまうという事態を起こさないためのフォローに、男はそう応えた。
「よし、じゃあ準備をしてくれ」
「はっ」
説明に当たった担当兵士が、近くのテントへインク等を取りに駆けて行った。






大地に描かれた赤い円。かつて、ダーツェニカと呼ばれていた土地は、無数の触手の巣と化していた。
街を囲んでいた城壁は、蔦状の触手によって覆い隠され、脈打つ肉の壁となっている。
街の中に目を向ければ、建物を支えに触手が繁茂し、街の中心部には巨大な半球型の肉塊が鎮座していた。
触手が蠢動し、粘液と肉が擦れて音を立てるほかは、動く物も音を立てる物もなかった。
その様子は、魔界に存在する触手の森その物であった。
街一つが触手の森に飲まれている様子は圧巻だが、触手をたどり、石畳の割れ目や水路から地下へと目を向ければ、地下に張り巡らされた根にたどり着く。街の地下に、蟻の巣のように張り巡らされた触手は、規模と深さのいずれをとっても、地上のそれと遜色がなかった。
そんな触手に満たされた地下の一角、水路から続く通路を伝って辿りつける場所に、大きな空洞があった。壁面は紐状の触手と膜が覆っており、天井には燐光を放つ肉瘤がいくつかぶら下がっていた。
淡い燐光に照らされる、生き物の体内めいた空洞に、触手ではない二つの人影があった。
一つは壁にもたれかかり、とぐろを巻く触手の上に腰掛ける女で、もう一つは外套を重ね着し、丸兜を被った男だった。
女は一糸まとわぬ姿で、へそを中心とする複雑な模様や、模様を強調するように大きく膨れた腹を晒していた。合間から角をのぞかせる、緩くウェーブのかかった頭髪の下で優しい笑みを浮かべながら、彼女は命の宿った腹を撫でていた。
だが、壁にもたれる女は座っているにもかかわらず、その頭は丸兜の男より高い位置にあり、彼女の背丈が普通の人間の倍以上あることを示している。加えて、頭髪の間から覗く角は彼女がサキュバスに類する魔物であることを示していたが、どこにも見えていなかった。尻の下には大きな体を支える触手のとぐろが鎮座し、その背中は放射状に極太の管が走る粘膜の壁に接している。まるで、彼女の尻と背中が、直接触手にと繋がっているかのようだった。
そして事実、その通りだった。
「ああ、立派に育ってきていますね…」
丸兜を被った男が、巨大なサキュバスの膨れた腹に兜を寄せ、薄汚れた包帯に包まれた手で撫でながら声を漏らした。
「あれほど小さかった胚が、よくこれほどまでに育ったものです…」
「あんたのおかげよ」
数年前、丸兜の手によって植え付けられた胚の成長に、サキュバスは母親の表情で答えた。
丸兜と遭遇し、肉塊を通じて胚を植え付けられたあの日、意識を取り戻した彼女が目にしたのは、土の壁だった。
それきり彼女は地上へ出ることもなく、この空間で過ごした。
「あなたの協力あっての物です。よくここまで耐えてくれました」
丸兜は、彼女の腹を撫でながら、この数年を労う言葉を紡いだ。
思い返してみれば、この数年間彼女はつわりに苦しめられてきたのだ。加えて、植え付けられた胚の働きによる倍以上の体格への成長と、翼と尻尾の触手化に伴う身体の変化は、強烈な飢えと渇きをもたらした。
定期的に丸兜が地上から男を連れて来なければ、とっくに死んでしまっていただろう。
そして、成長した触手を地上に伸ばし、夜に紛れて人や魔物を調達することを覚えなければ、今日と言う日を迎えることは出来なかっただろう。
「あなたの忍耐の結果、胚は臓物へ成長し、あなたの身体を作り変えて外界へと溢れだしました」
へそを中心とする複雑な模様を撫でながら、丸兜はうっとりとした表情で呟いた。
「溢れだした臓物は、地下の隅々に枝と根を広げ、あの日地上に溢れだして、富める者も貧する者も、悪しき者も善き者も、人も魔物も全て…」
兜越しに、腹を傷つけぬよう気をつけながら頬ずりしつつ、彼は続けた
「分かりますか?この中に、ダーツェニカの全てが詰まっているのです…」
「ふふふ、分かるわよ…ほら、また蹴った…」
胎内で脈動する生命の動きに、サキュバスの笑みが深まる。
「あなたに宿っているのは、ダーツェニカの全てを溶かし、善人の抱える悪を捨て去り、悪人の内の微かな善を拾い上げて作りあげられた、善なる者です。これが無事産まれれば、それはそれは素晴らしいことが起こるのです…!」
「そうね…」
サキュバスは丸兜の言葉を聞き流しながら、胸中に溢れる穏やかな心地に浸っていた。
正直、彼女は自身の腹に宿った子の由来などどうでもよく、ただこの子がいるだけで多幸感が溢れてくるのだ。
だが、ぬるま湯に浸るが如き心地に、不意に痛痒が加わった。
「……ん……」
「おや、どうしました?」
彼女の表情に浮かんだ微かな不快感に、男が問いかけた。
「地上にお客さんみたい。攻撃を受けてるわ」
「この大事な時に…」
丸兜が左右に、やれやれとばかりに揺れた。
「私が相手をしましょう。場所は?」
「南側、城門を抜けて大通りを進んでいるわ」




ダーツェニカ包囲陣を抜け、肉の城壁に迫ったところで、男は剣を抜いた。鈍く光を照り返す、分厚い片刃の剣だ。
通る者が居なくなり、石畳の隙間から草が顔を出す街道の先では、城門代わりの肉の壁が立ちはだかっていた。
男は、ざわりと波打つ肉壁に急接近すると、手にした刃を振り抜いた。隙間なくひしめき合う、人の胴ほどはあろうかという触手が、斬撃によってまとめて切り裂かれる。
返す刃で更に切りつけ、城門を切り開くと、男は肉の隙間からダーツェニカに飛びこんだ。
男を迎えたのは石畳を覆う肉膜と、建物や背後の城壁に絡みつく触手だった。触手が壁面から身を離し、男に迫る。
彼は、振り向くことなく城壁から近づく触手を切りつけると、町中央にそびえるドームに向けて、大通りを駆け出した。
通りに横たわる触手が身をもたげ、建物の合間から顔を出し、男に迫り、捕えようとする。
しかし男は、接近する触手を一太刀で斬り伏せ、距離を置いて放たれる粘液を跳躍してかわしながら、ドームに向けて駆け続けた。
すると、男の視線の先、数区画先で大通りを遮るように、触手が積み上がっていく。
「…」
左右に目を向ければ、大通りに面する建物の合間にも、触手と粘膜のバリケードが築きあげられていた。
引き返して別のルートを取ってもいいが、どうせまた塞がれるのだろう。ならばまっすぐに進んで、道を切り開けばいい。
だが、肉の袋小路を進むうちに、男は通りを遮る防壁の上に、何者かが立っているのに気が付いた。同時に、いつの間にか触手たちの動きが止まり、ただ男を見送るばかりになっていた。
そして、大通りを遮る肉の防壁に迫るに連れて男の脚は遅くなり、周囲の建物と変わらぬ高さの壁を前に、止まった。
「こんにちは」
防壁の上、正面にガラスの小窓を備えた丸い兜を被り、コートを重ね着したやたら細長い人物が、そう男に向けて声を掛けた。
「ダーツェニカへようこそ、と言いたいところですが、刃物を振りまわすのは少々感心しませんねえ」
「……」
上からの言葉に、男は鋭い視線で返した。
「ここ、ダーツェニカは今まさに、主神の奇跡が降臨しようとしているところなのです。ただでさえ繊細な状況だと言うのに、あなたのように乗りこまれては困ります。特別に見逃しますから、お引き取り願えませんか?」
「…生存者かと思ったが…元凶のようだな…」
丸兜の言葉に、男は剣を握りなおした。
「ほう?まだ刃向うつもりですか。なんと愚かな」
男の視線に宿る殺気に、丸兜がやれやれといった調子で続ける。
「せっかく可能性が示されていると言うのに、意固地に古い考えにかじりついて…これだから主神も世界を改めようとなさるわけです」
「…?」
魔界に存在する触手の森めいたものにダーツェニカを沈めたと言うのに、なぜ主審の名を出すのだろう?
丸兜の漏らした言葉に、男は訳がわからないと言う様子で疑問符を浮かべた。
「残念ですが仕方ありません。あなたも全に加え、主神の奇跡の礎となってもらいます」
丸兜はそう告げると、肉の防壁の縁を蹴り、虚空に身を躍らせた。
突然の跳躍に男は一瞬驚くが、すぐに気を取り直し、剣を構える。無防備に落下してきたところを、切り刻んでやるのだ。
しかし、丸兜の落下に気を取られた瞬間、傍らの建物から一本の肉紐が弾けるような勢いで接近し、男の足首に絡みついた。
触手の感触に気がつくころにはすでに遅く、丸兜の着地と同時に足首を持ち上げられてしまう。
バランスを崩して転倒し、同時に足を引き上げられることで逆さ吊りになる。男はとっさに手にした刃を振るい、己の足に巻き付く肉紐を切断しようとした。しかし、十分に勢いがつく前に、薄汚れたぼろ布に包まれた手が、刃を止めた。
「危ない危ない」
着地と同時に接近し、剣に手を伸ばした丸兜が、対して慌てた様子もなくそう呟いた。
「この物騒な物は回収させていただきます」
包帯にくるまれた細い指が、万力のような力で男の指を押し開き、剣を奪い取った。
同時に、彼の上下逆になった視界の中で、建物の合間にひしめいた触手が這い寄って来た。
触手は粘膜に覆われた石畳の上で、互いに絡みつくようにしてとぐろを巻く。中空の、壺のような形をした大きなとぐろだ。
「さて、先ほど申し上げた通り、あなたには主神の奇跡の礎になってもらいます」
肉紐が男の身体を引き上げ、触手の織り成すとぐろの上に移動させる。とぐろの内側は、触手から滲みだす粘液に満たされつつあった。
「あなたは全に、全は善に」
その一言の直後、男の身体は粘液の満たされた肉の壺へと落とされた。




ダーツェニカ地下の空間で、壁にもたれて目を閉ざしたサキュバスが、悩ましげな表情を浮かべていた。
「ん…」
鼻にかかった微かな吐息と共に、彼女の背中へと続く触手が、びくびくと脈動した。地上で触手に取り込まれた人間が、彼女の内側へと流れ込んできたのだ。
人間一人の生が、彼女の内に渦巻くダーツェニカの全に流れ込み、一体となる。まるで長らく会っていなかった家族と再会したような、安堵感が胸の奥から沸き起こる。安堵感はいつしか多幸感と一体となり、腹の中で脈打つ命への想いへと収束していった。
「ふふふ…ふ…ぅ…?」
不意に、サキュバスの浮かべていた穏やかな笑みに、陰りが浮かんだ。一体何かはわからぬが、彼女の穏やかな気分をかき乱したからだ。
多幸感の内に生じたしこりは、次第に大きくなり、ついに痛みと言う形で原因が露わになる。
命を抱え込んだ大きな腹が、痛むのだ。
「う、うぅぅ…うぅ…!」
腹をだ抱き変えるようにしながら、彼女は痛みに歯を食いしばって呻いた。痛みは徐々に大きくなり、腹の中で何かが蠢き始める。同時に、へそを中心に描かれた円形の模様に、淡い光が宿り始めた。
すると、地下の空間へと続く通路に、丸兜が姿を現した。
「っ!始まりましたか!」
なぜか手にしていた片刃の剣を投げ出すと、丸兜はサキュバスの下へ駆けより、外套の袖を掲げた。
すると左の袖口から四本の触手が伸び、サキュバスの両腕を捕えて広げた。
「握って下さい」
丸兜の言葉に、サキュバスが掌に巻き付く触手を握りしめ、痛みをこらえた。
「さあ、ここからが正念場です」
サキュバスを励ますように、丸兜が右手で膨れた腹を撫でる。
「ダーツェニカの全を溶かし、上澄みだけを救い上げて作りあげた、全き善。善なる者が無事生み出されれば、私の理論の正しさが証明され、世界は救済されるのです」
へそを中心とする円形の模様の輝きが増し、彼女の体内で何かが動く。
「考えても見てください。なぜ魔王は積極的に魔界化を推し進めないのでしょう?簡単なことです。魔王は魔界の一角、魔力濃度の高い場所に生じる、触手の森の拡大を恐れているからです」
胎内の蠢動は次第に大きくなり、出口を探ろうとするかのように腹腔内を這いまわって、痛みに文字通り臓物を掻き回される気持ち悪さが加わった。
「魔力に満たされ、触手の這い回るそこは魔物にとって楽園のように見えますが、実は違います。人も魔物も関わりなく、捕え、貪り、啜る、地獄です。ですがこの地獄こそ、堕落しきった世界を救済する最後の奇跡なのです」
腹腔内を動き回っていた何かが、ついに腹の内側の一点で動きを止めた。そこはちょうど、彼女のへその裏だった。
「世界が魔界に堕ち、魔力が世界を満たすことで、触手の森が世界を覆います。全てを溶かした触手の森は、その内で全から善を結晶させ、世界を再誕させるのです。これこそ、魔王が魔界の拡大を躊躇う理由で、主神が世界を救済する奇跡なのです!」
丸兜の励ましの言葉はいつしか、演説めいたものになっていたが、もはやサキュバスに効く余裕はなかった。へその裏で止まった何かが、そこから出て行かんとばかりに圧迫し始めたからだ。
「この事実に至ったのは、魔王の交代直後のことでした。ですが、魔術アカデミーの連中はこの真実を受け入れませんでした。そこで私は単身研究を続け、ローパーとダークマターと数種の魔物を掛け合わせ、触手の森の種子を作り出しました」
内側からの圧力に、ただでさえせり出していたへそが更に突出し、腹腔内に収まっていたモノが露出した。彼女の巨体に合わせた、握りこぶしが入りそうなほどのへそから顔を出したのは、柔らかな瘤に覆われ、歪な形状をした触手だった。
「っ!?」
「その結果、ごらんなさい!このように全ては理想と予測通りに動き、今まさにダーツェニカの全から善なる者が産まれようとしています!」
自身のへそから出て来た、正に臓物とも言うべき不気味な肉塊に、彼女は痛みを忘れ、思わず息をのんだ。だが、丸兜はへそから出て来た瘤だらけの捩れた触手に驚きもせず、彼女の両脚の間で膝をつき、触手を覗き込んだ。
「さあ、もう少しです!主神の奇跡と、世界の救済を今この場に…!」
「いぎっ…!」
丸兜の言葉と同時に、腹奥の痛みとへその痛みがつながった。彼女の胎内で成長した臓物が、へそからはみ出る触手を伝い、内側に抱え込んだ命を産み落とそうとしているのだ。
同時に、サキュバスは背中と尻につながる触手から、何かが体内に流れ込むのを感じた。




同時刻、ダーツェニカ包囲陣。『勇者サマ』を送り出し、書類仕事に戻った分隊長の耳に、兵士達のざわめきが届いた。
「分隊長!」
一人の兵士がテント入口に飛び込み、慌てた様子でそう声を上げた。
「どうした?」
「だ、ダーツェニカが変色して…!とにかく、見てください!」
報告を完全にあきらめ、彼は上官に外を見るよう促した。上官に対する命令など、本来ならば簡易軍法会議ものだが、分隊長は兵士の剣幕に思わず視線を彼の背後に向けた。
すると、防壁の向こうにそびえる、ダーツェニカの肉壁とドームの一部分の色が、変化していることに気が付いた。
肉と触手の艶を帯びた赤が、何の光沢もない灰色へと変わっているのだ。それどころか、灰色の領域はじわじわと広がっている。
「一体何が…!?」
彼は椅子を立つと、テントの外に飛び出した。陣の中では兵士たちが皆ダーツェニカの方を見詰めたまま、棒立ちになっていた。
分隊長は兵士達の間を駆け抜け、見張り台に駆けあがる。
「おい!」
「…はっ!分隊長!?」
「望遠鏡を貸せ!」
見張りの兵士からひったくるようにして望遠鏡を奪い取ると、彼はダーツェニカに向けて覗きこんだ。
丸く切り取られた視界の中、変色する肉壁が大写しになる。そして彼の見ている前で、粘液に濡れた触手が乾き、みずみずしい赤から枯れて死んだ灰色に肉壁が変色していく。どうやら、触手が次から次に死んでいるようだった。
ドームの方に目を向ければ、互いに絡み合う触手が徐々に枯死し、萎縮していく様子が望遠鏡越しに見える。加えて、枯死はドームの奥の方でも起こっているらしく、触手自体の凹凸はあるものの滑らかだったドームの表面に、いくつか凹みが生じつつあった。
本格的に、触手が枯れ始めているのだ。
「一体何が…」
見張りの兵士の口から、呆然とした気配を孕んだ言葉が零れ落ちた。
直後、分隊長の脳裏に、一つの可能性が浮かび上がった。




触手の枯れゆくダーツェニカの地下では、サキュバスの苦痛は極限に迫ろうとしていた。
胎内の蠢動は大きな物となり、へそから露出する触手は、出産に備えてへそを拡張しつつある。臓物の影響により、へそ近辺の皮膚が裂けることはなかったが、それでも痛みは生じていた。
サキュバスの腹に浮かぶ模様は眩いほどに輝き、背中と尻を通じて地上へと続く触手から何かが彼女自身に注ぎ込まれていく。
「あ、あぁ…!」
ダーツェニカ中の触手から注がれる感触とは裏腹に、サキュバス自身は大きな喪失感を感じつつあった。無理もない。地上では、彼女から直接生えている触手が枯れているからだ。
腹に抱えた命を無事産み落とすべく、自らの一部分を切り捨てながら、彼女は苦痛と喪失感に耐えていた。
「ああ…始まった…!」
地上の触手が枯れ尽くし、地下へ枯渇が及ぶころ、サキュバスの前に膝をついていた丸兜が呟いた。
体奥の臓物の蠢動はいつしかへその裏へ移動し、へそから延びる触手の先端の窄まりから、粘液が滴り始めていたからだ。
「ぅぐ…ぎ……!」
心臓が脈を一つ打つたびに、サキュバスの食いしばった歯の間から呻きが漏れ、地下いっぱいに広がる触手から胎内の命へ、何かが吸い上げられていく。
そして、へその裏に移動していた何かが、ついに体外に露出する触手にもぐりこんだ。
「いぎ…!」
触手がさらに膨張し、へそが押し広げられ、サキュバスの口から呻きが漏れる。
同時に、淡い光に照らし出される壁面の触手が、ついに枯れ始めた。
サキュバスの脈拍と共に、這い回る触手の粘液が表面に吸収され、赤黒い表面が萎びて灰色に変色する。
地下空間が灰色に染まっていくのに合わせ、へそから歪な触手の内側へ何かが押し出されていく。
「うぐ、ぅ…ぅ…!」
「さあ、もう少しです!」
先端の窄まりからぼとぼとと粘液を滴らせながら、肉瘤に覆われた触手が徐々に膨張していく。
そして、壁面を覆う触手が全て枯死した瞬間、触手の窄まりが広がった。
「おお…!」
ばちゃばちゃばちゃ、と粘着質な滴りが地下空間に響き、丸兜が両腕を差し出した。触手の窄まりから産み落とされたモノが、丸兜の両腕に収まる。
「おおお…これは…なんと…」
「はぁはぁ…」
丸兜の感嘆の声を耳にしながら、サキュバスは荒く息をついた。
つい先ほどまで腹腔内で暴れ回っていた痛みは治まり、彼女は呆然と放心している。だが、彼女に多幸感をもたらしていた生命の喪失に、サキュバスは胸に穴があいたような感覚を覚えた。
出産の疲労によると思われる喉の渇きと、目のかすみを抑えながら、彼女は丸兜に視線を向けた。だが、まだ膨れたままの腹と、膝をついている丸兜の姿勢により、彼が両腕で抱くモノは見えなかった。
「素晴らしい…ああ、こんなに清く…」
「産まれたのね…?抱かせて…私の赤ちゃん…!」
喪失感に駆られたサキュバスは、感嘆を漏らす丸兜に向けて腕を伸ばす。
「赤ちゃん?」
だが、顔を上げた丸兜は、それが突拍子もない言葉だとでも言うような調子で繰り返した。
「これは、私がダーツェニカを使って生み出した、『善なる者』です。あなたの赤ちゃんなどではありません」
「え…?」
数年にわたり、腹の中で育み続けた生命の否定に、彼女は絶句した。
「それに、『善なる者』はまだ完全に生まれていません。ダーツェニカの最後の一人の善まで吸い上げて、ようやく生まれるのです」
疲労のためか朦朧としはじめた意識でも、丸兜の言わんとしていることは分かった。
「それって…私まで…?」
「そうです。もっとも、臓物があなたの内側を全て溶かしているので、今から触手で吸収する必要はありません」
そこで彼女は、へその触手からへその緒めいたものを引き出されるのにつれて、自身の渇きや目の霞みが強くなっていくことに気が付いた。
丸兜に向けて差し出した腕を見ると、肌の張りが失われ、皺が生じていた。その上、皺は見る見るうちに深みを増し、老人の腕のようになりつつあった。まるで、彼女の周囲で枯れ果てる触手のように。
「い、いや…!」
自らの乾きに気が付き、彼女は震え声を漏らした。
「安心しなさい。あなたの内の善は、善なる者が引き継ぎ、生き続けるのです」
怯えるサキュバスに、丸兜は朗らかな声で語りかけた。
「そして、私の理論の正しさが証明されましたので、次は世界の全から善なる者を作り出すのです」
丸兜のガラス窓の向こうから、興奮した様子の言葉が紡がれる。
「人も、魔物も、王都も、聖都も、魔界も、魔王も…!全てが一つとなり、堕落しつつある世界の善良だけが救い上げられ、世界の救済が果たされる!ああ、主神の奇跡が今ここ…」
その瞬間、ぐぢゅ、という濡れた音がサキュバスの両足の間から響き、感極まった様子の丸兜の言葉が、不意に断ち切られた。
「…お…?」
丸兜が、どうにか疑問を孕んだ呻きを漏らすと、よろよろと立ち上がりながら数歩退いた。
彼の羽織るコートの合わせ目からは、赤い紐状のものが生えており、そのままサキュバスのへそから延びる触手の窄まりへ続いていた。まるで、彼自身とサキュバスを繋ぐへその緒のように。
「お…?お…?」
つい先ほどまで両腕で抱えていたモノが消え去り、代わりに腹からへその緒が生えている理由が、全く理解できていないようだった。
だが、彼の理解が及ぶ及ばないにかかわらず、彼の腹の中にもぐりこんだモノが動く。
「おごっ…!?」
濁った呻きが丸兜の下からあふれ出し、彼の背筋が反り返った。背筋を反らして、天井を仰ぐその様子は、雷に打たれた人間のようだった。
だが、彼を打ちすえるのは稲光などではなく、体内で蠢く激痛だった。
背筋をそらしたまま、痙攣が始まり、見る見るうちに大きくなっていく。
「おご…っ…お…ご……ご………!」
そして、呻き声が途切れた瞬間、丸兜正面のガラス窓の留め金が弾けた。
蝶番で繋がれたガラス窓が開き、空いた穴から赤黒い液体が迸った。天井にとどかんばかりの勢いで液体が噴出し、雨のように彼の身体へ降り注ぐ。ただでさえ薄汚れていた外套が、見る見るうちに汚されていった。
やがて液体の中に、小さな塊のようなものが混ざり、丸兜の窓から飛び出して、萎れた触手の上や赤黒く染まった外套に叩きつけられていく。
「……!」
目の前で突如発生した惨劇に、サキュバスはただ呆然と見つめるしかなかった。
そして、液体と塊をたっぷり吐きだしたところで、丸兜の迸りが弱まり、止まった。
天井を仰ぐ丸兜の、外套の裾や袖から液体が滴り落ちる水音だけが、辺りに響いていた。
「ん、あ、あ、あ、あぁぁ…」
不意に、開かれたままの窓の奥から、声が溢れだした。
つい先ほどまで朗々と演説していた丸兜の男の物とは違う、どこか幼さを感じさせる声だった。
すると、硬直していた丸兜の腕が上がり、開きっぱなしだった窓を閉ざした。
「あ、あ、あ、あ、あ…ん、ん、ん、あ…」
のけぞらせていた背を丸め、顔を左右にぎくしゃくとした動きで向けながら、とぎれとぎれにあえぐ。
そして正面、即ちサキュバスの方に向けたところで、動きが止まった。
「ん、ん、ん、あ、ん、あん、んあ、んあ、んま…んまんま…んまんま…んまんま…」
使い慣れていない楽器で同じ音を奏でるように、それは同じ言葉を繰り返し始めた。
同時に、サキュバスはそれが何を言わんとしているのか、そして目の前に立つ丸兜の中に何がいるのかを悟った。
「……おいで…」
枯れ枝のように細くなり、皺の寄った腕を掲げ、サキュバスは自身と肉の紐で繋がるそれに呼びかけた。
「んまんま…」
丸兜の下からの声に、微かな喜色が混ざり、足を引きずるようにしながらそれが動き出した。
それが一歩、また一歩と歩むに連れ、サキュバスのへそから延びる肉紐を通じて、何かが吸い上げられていく。
「おいで…もう少し…もう少し…」
急速に暗くなっていく視界と、重くなっていく両腕に耐えながら、彼女は丸兜の中身に向けて呼びかけた。
そしてついに、丸兜が彼女の両足の間に立ち、彼女の巨体に身体を添えた。
「んまんま」
「ふふ…よしよし…」
もはや見えなくなった両目で、身体に触れるそれを見下ろし、かさかさに乾ききった両腕を添えながら、彼女は言った。
「わた、しの…」
その瞬間、彼女のへそから延びていた肉紐が引き抜け、同時にサキュバスの意識が闇へと沈んでいった。その胸の内に、安らぎを抱えたまま。


薄闇の中、大きな影と寄り添うようにしていた小さな影が、不意に立ち上がった。
「んまんま」
小さな影は




目を開くと、辺りは闇に包まれていた。ワーキャットである私の目から見れば薄闇でしかないが、俺の兜ののぞき窓が汚れているため、よく見えなかった。
「あうあう」
袖でガラスを拭うと、微かによく見えるようになった。
アタシは闇の中、顔を左右に振って辺りを確認した。すると、すぐそばに何かが鎮座していることに気が付いた。
見上げるほど巨大な、壁にもたれかかる人型の何か。
自分だ。
「んまんま」
すっかり様変わりした我輩を見上げながら、オレはそう呼びかけた。
懐かしさはあるが、名残惜しさは存在しない。なぜなら我輩は一人ではないからだ。
あたしは、全てを一つにして、そこから善だけを拾い上げると言っていた。だがそれは間違いだ。心優しい善が、全から何かを切り捨てることができるだろうか?
答えは私だ。俺の中に我々の全てが入っている。衛兵隊隊長の僕も、ヴァンパイアの吾輩も、商人の俺も、元魔術研究所所員のあたしも、全てがここにいる。もちろん、目の前のあたしもだ。つい先ほどまで抱えていた、多幸感も安堵感も、何もかもがここにある。
だが、ここは暗い。とりあえず外に出るとしようか。
「おもおもおも」
俺はそう呟きながら、地下空間を出て行った。
12/04/28 16:13更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
第38次ダーツェニカ空中調査結果報告

第38次ダーツェニカ空中調査結果について報告する。
本調査は、斥候竜兵部隊が、ダーツェニカ上空を飛行しつつ、目視によって行った。
調査の結果、ダーツェニカの壁面に繁茂していた触手状生物、及び城壁内の触手状生物の変色と乾燥を確認した。また、ダーツェニカ中央部の大型の肉半球も、乾燥による萎縮で、地面の穴に縮退していた。
隊員による低空飛行を繰り返したところ、触手はいずれも反応しなかった。
よって、地表に露出する触手については既に枯死しているものと考えられる。
触手状生物、及び肉半球の枯死については、空中からでは特に原因と思われる事物は発見できなかった。

空中からの目視では、これ以上の調査は困難だと思われるため、着陸調査、もしくは歩兵部隊による直接調査が必要である。
以上を持って、第38次ダーツェニカ空中調査結果報告とする。

ダーツェニカ南方砦所属 斥候竜兵部隊隊長 レリア

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