連載小説
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全は善なり
ダーツェニカ全体が揺れた後、最初に異常を察知したのは、水路沿いに通行人と怪人たちだった。
地下水路への入り口から、水路の水面に波が生じていたからだ。
一瞬、波紋は揺れの余韻のようにも見えていたが、揺れが収まってもなお収まるばかりか、むしろ強まっていくばかりだった。
「なんだよ、これ…」
「さあ…?」
水路の監視をパイロから言い渡されていた、若い男女の二人が、そっと水路に近づいた。
二人の視線の先では、波が水路の壁面を叩き、水が飛沫を上げている。
まるで、水路の奥から何かが迫っているようだ。
二人がその思考に至った瞬間、真っ暗な地下水路の入り口から何かが飛び出した。
細く長い、紐のようなものだ。
女は飛び出してきた物を目で追い、男が考えるより先に後ずさった。
ほんの一瞬の判断の違いだったが、それが二人のしばしの運命を分けた。
地下から現れた紐は一気に空に向けて伸びあがると、水路の縁にたたずんでいた女めがけて、先端を振り回すようにし横薙ぎに自身を叩き付けた。
紐の半ばほどが女の身体に当たり、巻きつくようにして捕えられる。
「うわ…!?」
腹を中心に絡み付く紐に、彼女は驚きの声を上げた。
下水路の入り口から伸びる紐は、表面が凸凹としており、今しがた動物から切り出した生肉のように赤黒く、濡れていた。
「ひ、ひぃ…!」
女は、生理的な嫌悪感を催させる肉紐に声を上げると、紐に指を掛けて引きはがそうとした。
しかし肉紐の表面を覆う、水路の水とは異なるぬるりとした感触の液体に、彼女は怖気づいた。
「だ、大丈夫か!?」
「た、助けて…!」
男が声を掛けると、彼女は肉紐の表面から糸を引きながら指を離し、助けを求めた。
だが、男が駆け寄るより先に、新たな肉紐が数本、地下水路の入り口から現れた。
肉紐たちは、何の迷いもなく女の下に集まると、先達に倣って彼女の両手両足に絡み付いた。
「ひぃ!」
手足に絡み付き、衣服越しにじわじわと染み込んでくる肉紐の表面の汁と、拘束されてしまったことに女はひきつった悲鳴を上げた。
女を助けようと歩み寄っていた男は、ぼごぼごと表面を波打たせながら絡み付く触手に一瞬足を止めた。
だが、頭を振って怖気を振り払うと、腰から大ぶりのナイフを抜いて、肉紐の一本に切りかかった。
木や草、動物はもちろんのこと人も切ったことのある分厚い刃が、親指と人差し指で作った輪ほどの太さの肉紐に食い込む。しかし、食い込んだだけで切り裂くことは出来なかった。
「こ…この…!」
にちゃにちゃとべたつく粘液に構うことなく、彼は左手で肉紐を掴み、ぐいぐいとナイフを押し当て、前後に刃を揺すった。
しかし肉紐が切れる気配はなく、鋼にぬるぬると粘液が擦り込まれるばかりだった。
「くそ…!」
「は、早くして…たくさん来た…!」
悪戦苦闘する男の耳に、女の震えた声が届いた。
男が思わず顔を向けると、彼女の言葉通り、新たな肉紐が下水路から出てくるところだった。
得物を、犠牲者を探すように、細く窄まった先端を左右に揺らしながら、辺りに広がっていく。
「…応援を呼んでくる…」
男は肉紐から手を離し、濡れたナイフを腰の鞘に収めながら、女にそう告げた。
「え?待ってよ!助けて!」
「大丈夫だ、必ず助ける。だから待ってろ!」
男は後ずさりながら、安心させるように彼女に告げると、踵を返して路地の奥へ消えていった。
「あ…あ…!」
男の背中を見送った彼女の目から、つうと涙があふれた。
女は悟ったのだ、男が帰ってこないことと、自分が助からないことを。
「あ…あっ…!」
やがて、女の口から微かに色づいた声が溢れ出した。
今まで恐怖と嫌悪感だけで抑え込んでいたが、四肢に絡み付く肉紐の身体をまさぐるような動きが、彼女の情欲をわずかずつ煽っていたからだ。
腐汁を思わせる肉紐表面の粘液も、衣服に染み込み肌に擦り付けられれば、むずがゆさを伴う心地よさを生み出していた。
肉紐の表面が蠕動し、衣服越しに腕を、太ももを、腹を擦っていく。
そして締め付ける位置を変えながら、内腿に粘液を擦り付け、衣服越しに乳房の下あたりをくすぐり、首筋を先端でなぞっていく。
焦らすような動きに、彼女の体奥でゆっくり情欲の炎が燻っていく。
「あ…は、ぁ…あ…!」
彼女の口からあふれ出す吐息に甘い色が加わり、ついに太ももを濡らす粘液に、触手の表面に滲む物とは違うものが加わった。
太ももの上方、両脚の付け根から肌を伝って降りてきた、体液だった。
すると、どうやって悟ったのか、触手は彼女に巻き付きつつも窄まり尖った先端を、女の身体に近づけた。
触手の先端が、花が開くように広がり、その奥から幾本もの糸状の黄色い肉糸が伸び出した。
花を開いた触手が袖口や裾から入り込み、ついに彼女の肌を直に撫で始める。
「ひ、ひぅっ!?」
肌に触れた、細い触手の束の感触に、彼女が上ずった声を上げる。
情欲に感度の高まった肌には、ほんの少しのくすぐったさでも背筋を駆け上る雷のような感触だった。
触手は肉糸をのた打ち回らせ、彼女の肌を濡らす粘液と汗を舐め取るように肌を擦りながら、ゆっくりと四肢の端から螺旋状に巻きついていく。
手首足首から始まった、四肢への直接巻きつきは、いつしか肘と膝を越え、桃屋二の腕の半ばまで達していた。
その頃には腹部以外の衣服の上からの拘束は解放されていたが、女には逃げる気力も力もなかった。
糸状の触手にくすぐられ、蠕動する肉紐によって継続的に愛撫される四肢から、ゆるゆるとした柔らかな快感が幾度も届けられていたからだ。
内部の情欲と四肢への快感に、女の下腹部からは、甘く切ない疼きが生じていた。
しかし、腹部に巻きつく触手はその先端を両足の間に垂らしてはいるものの、太ももの奥に挿し込むわけでもなく、ただゆらゆらと揺れているだけだった。
もどかしさと情欲に彼女が身を焦がされるうち、四肢を包む触手が、ついに肩と太ももの付け根までを覆った。
腕を包む触手が、肉糸で鎖骨を撫で、首筋を擦った瞬間、彼女の胸が期待で膨らんだ。
だが、両脚の触手は両足の間に入り込むわけでもなく、そのまま腹と背中にその先端を伸ばし、臍の下と腰の裏を肉糸でなぞるばかりだった。
「ああ…あ…!」
膨らんでいた期待が大きかっただけに、落胆もまた大きかった。
そして彼女の情欲の炎は、もはや堪えがたいほどにまで燃え上がっていた。
「おねがい…いれて…!」
触手相手に、懇願するほどまでに。
すると、どこに耳が付いているのか、腹部に巻きついていた触手が、先端を窄ませたまま両足の間に入り込み、付け根を覆い隠す薄布に触れた。
そこは汗と奥から滲み出した体液でぐっちょりと濡れており、軽く押せば滴が滴るほどだった。
肉紐は先端で下着を横にずらすと、薄く口を開く肉洞に己を挿し込んだ。
「あはぁ…!」
欲してやまなかった感覚に、下腹部の疼きが僅かに収まり、多幸感が女の胸に湧き起こった。
『男』を受け入れるべく、弛緩して濡れそぼった膣道を、赤黒い肉の紐が押し開き、奥へ奥へと入り込んでいく。
そしてその先端が体奥、膣の突き当たりを押し上げた瞬間、彼女の精神もまた絶頂へといざなわれた。
背骨を伝わる快感に背筋が仰け反り、ガクガクと体を震わせた。
四肢に絡み付く触手もまた、もぞりもぞりと彼女の肌を刺激し、先端からあふれ出す無数の肉糸で首筋や胸元、背筋や臍を撫ぜた。
その間にも肉紐の表面はごぼごぼと蠕動しており、女の膣壁を擦り、抉り、揉んでいた。
肉壷が掻き回され、一掻きごとに軽い絶頂が彼女を襲う。
そして、意識が快楽の白い光に塗りつぶされていく中、彼女はふと気が付いた。
触手の先端がまだ、窄まったままであるということに。
その瞬間、膣内で触手が蠢き、先端から肉糸を吐き出した。
触手と彼女の体液溢れる肉洞で、細やかな触手が膣の襞を抉り、掻き回す。
新たに加わった刺激が、女の絶頂を強める。
やがて肉糸は一通り膣を蹂躙し終えると、膣道の一角に存在する、コリコリとした部分に集まった。
そこは子を宿し、育むための神聖な臓器、子宮へと続く子宮口だった。
普段キュッと引き締まっているはずのそこは、煽られた情欲の炎と快感、そして度重なる絶頂によっていくらか緩んでいた。
肉棒が入り込むには狭すぎる小さな穴に、肉糸が一本ずつ入り込んでいった。


そしてしばしの間が過ぎた。
地下水路から伸びる触手はあちこちの路地裏へと続き、その先から強制や悲鳴を響かせている。
空に目を向ければ、幾筋もの煙が立上っており、空に線を描いていた。
やがて、触手が動きを止めると、女は全身を弛緩させ、触手に身体を預けた。
触手が女の体力の限界を察知し、責めを止めたのだ。
だが、彼女の四肢に巻き付き、陰部に挿入された肉紐はそのままで、子宮内部に入り込んだ何十本もの肉糸はゆるい快感を与え続けていた。
「あ…あぅ…あ…」
随喜の涙に頬を濡らし、言葉もなくとぎれとぎれの喘ぎを漏らす様子は、完全に『壊れ』ているようだった。
触手を取り去り、しばしの時間をおけば快復するかもしれない。
だが、触手は最期まで彼女を放すつもりは無いらしい。
「あ…?」
身体に力がかかり、持ち上げられた瞬間、女の口から声が漏れた。胴に巻きつく触手が、吐息を搾り出したためかもしれない。
彼女の身体は抵抗することもなく、触手の導くまま水路上に移動し、地下水路への入り口に近づいて行った。
すると、彼女の身体が地下水路に近づくにつれ、何十本もの肉紐が伸びる闇の奥から、何かが這い出てきた。
四角い闇の奥から出てきたのは、人の背丈の半分ほどの太さはあろうかと言う、巨大な触手だった。
花のように広がった先端から、何十本もの肉紐が伸びており、女はその肉の花へと引き寄せられつつあったのだ。
「あぁ…」
肉紐のひしめく花の奥を目にした瞬間、女の表情にわずかな悦びが浮かんだ。
やがて、彼女の身体は肉紐の導くまま、一際太い触手、肉蚯蚓の奥へと飲まれていった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

衛兵隊の詰め所では、多くの衛兵が慌ただしく出入りしながら、ほとんど怒号めいた声で報告をしていた。
「西、十二番水路の地下入口より、触手が出現しました!」
「北西部、三番水路地下入口より、触手が出現しました!」
報告の度に、係の衛兵が壁に貼られたダーツェニカの地図に、黒い画鋲で触手の出現位置を示していく。
すでに画鋲の数は数十に及んでおり、地図のほぼ全域に刺してあった。
「衛兵は近隣住民を街の外か水路から離れた場所へ、可能な限り避難させろ!」
リェンは衛兵にそう命令を下すと、地図に向き直った。
基本通りに対処するなら、一時的に住民を避難させ、衛兵隊やダーツェニカ魔術研究所の所員の手で対象を駆除すべきだろう。
だが、今回の触手騒ぎは数が多すぎる。
仮にこの調子で出現箇所が増え続ければ、住民を一時的に避難させる場所を探さねばならない。
いや、場合によってはダーツェニカからの避難さえも考慮に入れる必要がある。
そのためにも、住民が待機できる場所と城門までの避難路を確保しなければ。
「報告!」
その時、新たな衛兵が部屋に駆けこみながら声を上げた。
「南六番水路に触手が出現しました!」
新たな画鋲が、地図に加わった。


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一人の男が、街の中を駆け回っていた。
一獲千金を夢見てダーツェニカにやってきて、そのまま店舗従業員やに運びの仕事を転々としながら数年過ごした、ダーツェニカにいくらでもいるような男だ。
彼はほんのつい先ほどまで、水路から数ブロックの距離にある商店の裏で、荷解きの仕事をしていた。
ダーツェニカ全体が揺れた後、水路の方角から悲鳴が響いて来たため、彼は様子を見るために仕事場を離れた。
そして、水路から現れる何十本もの触手と、絡め取られる人々を目にした瞬間、彼は駆けだしていた。
仕事場に辞退を伝えるためでも、人々の下へ助けるためでもなく、ただ逃げるためだ。
だが、触手はどこまでも伸びるうえ、街のあちこちから現れているらしく、行く先々で悲鳴と絡みつかれる人々の姿が彼を迎えた。
「うわぁぁあああ!」
「ひぃ、あっ!」
「あっ、あぁ!あぅ…!」
悲鳴に怒号に喘ぎ声。
触手から逃れようとする人と、囚われた人、そして蹂躙される人々の三つの声が入り混じっていた。
囚われた人々の表情は、嫌悪と恐怖から恍惚としたものに変わっていたが、男は羨ましさをみじんも感じてはいなかった。
赤黒い肉紐にまさぐられ、引き寄せられた後、どうなるのか見てしまったからだ。
触手のいないところ、安全なところを求めて、男はただひたすら街を駆けまわっていた。
だが、次第に彼の足は重くなり、呼吸も喘ぐようなものに変わっていく。
走れども走れども、いずこからか触手は姿を現しており、とどまることができないからだ。
「はぁ…はぁ…!」
もはや歩くような速さで、手足を振りまわしながらよろよろと進む彼の体が、ついに限界を迎えてその場に崩れ落ちた。
とっさに体を庇った腕に鈍痛が響き、ひんやりとした石畳が火照った体をいやす。
このまま寝そべっていたいという思いが、彼の胸中を占めていくが、男はどうにか顔を石畳から離すと、痛む腕で体を引きずるようにして這って行った。
目指す先は目と鼻の先にある、建物と建物の間の路地、そこに置かれた樽の影だった。
「はぁ…はぁ…」
早鐘のように打つ心臓をなだめつつ、どうにか樽の影に隠れると、男は建物にもたれるようにして体を落ちつけた。
ごうごうと血の流れる音が響く耳に、僅かに悲鳴が聞こえる。ここももうじき危なくなるだろう。
体力が回復するまでの、ほんのひと時だけ。そう男は思っていた。
程なくして、男の耳に別な荒い息遣いと、まばらな足音が届いてきた。
タルト壁の隙間から男が覗くと、先ほどの男のように、よろよろと尽きかけの体力で走る少年の姿が目に入った。
「はぁ、はぁ…!」
少年は時折後ろを振り返りながら、よろよろと通りを挟んだ向かいの建物の側を走っていた。
だが、彼の足首に背後からやってきた肉紐が絡みつき、少年のバランスを崩した。
「は…あ!」
転倒し、声を漏らすが、少年は痛がるそぶりも見せず上体を起こした。
そして足首に絡みつく赤黒い触手に、自由な方の脚で幾度も蹴りを入れる。
しかし、肉紐は少年を逃す気はないようだった。遅れて追い付いた三本の触手が、自由な両手と「おいた」をする足を絡め取った。
「あぁ…!」
両足の間に向けて、ずるずると蛇のように這いずる五本目の触手に、少年の顔に絶望の色が浮かんだ。
肉紐は、窄まっていた先端を広げると、糸のような触手を何十本もむき出しにした。
そして、ざわざわと蠢くそれを少年の股間に近付けると、ズボンのボタンをはずし、下着と共に器用に脱がせた。
すると、限界を超えて走り続けたことによる疲労によるものか、極度の恐怖によるものか、少年のペニスは屹立していた。
「や、やめてぇ…」
限界を迎えた両脚を動かして抵抗するが、ささやかな抵抗も触手はねじ伏せ、憎いとひしめく触手の先端を屹立に近付けた。
粘液を滴らせる黄色く細い触手が、未発達な陰茎に絡みついた。
「はぁひっぃぃ!」
生白い、なめらかな肌にぬるつく肉糸が絡みつき、探るように蠢くと、少年が悲鳴を上げた。
半ばまで皮を被った亀頭を肉糸が包み込み、その形を探るように粘液を擦り付ける。
敏感な粘膜への刺激は、少年の酷使した全身にけいれんをもたらすほど強烈だったようだ。
両脚がピンと伸び、かくかくと腰が浮くように動き始める。
そして程なくして、肉棒を包み込む肉糸の隙間から、白濁の粘液が迸った。
肉糸に覆われ、粘液に塞がれているというのに、地面に仰向けにされた少年の迸りは人の腰ほどの高さに達し、石畳の上に滴った。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
射精の快感と余韻に恍惚としつつも、幾ばくかの恐怖を滲ませた表情のまま、少年が荒く呼吸を繰り返す。
今はまだ恐怖心と理性が残っているようだが、数度射精させられれば大人しくなるだろう。
だが触手は、絡みつく肉糸を蠢動させるのではなく、亀頭から粘液の糸を引きながら肉棒を解放した。
「はひぇ…?」
余韻に浸る少年が、股間の感触の消失に疑問の声を漏らした。
しかしすぐに、男も少年も触手の狙いに気が付いた。
肉糸を露出させる触手の先端が、更に大きく広がったのだ。
それこそ肉棒から睾丸まで一飲みにできそうなほどの赤黒い皮の内側に、先ほどまで陰茎に絡みついていた肉糸がひしめいていた。
「あ、ああ…!」
ぐじゅぐじゅと粘液を掻き回す音を立てながらのた打ち回る肉糸に、少年が声を漏らした。
その声には、幾ばくかの期待が滲んでいるようだった。
直後、大きく口を開いた触手は、少年の肉棒に覆いかぶさった。
「んぁぁあああああっ!?」
体をのけぞらせ、声を上げながら少年が全身を震わせる。
肉棒に覆いかぶさる触手は、その表面を大きく波打たせ、文字通り屹立を搾っていた。
肉糸が少年を蹂躙し、苛烈な刺激で精を吸い上げていく。
「あぁぁぁぁぁっ!あああああっ!」
絶頂と絶頂の合間すら与えない無慈悲な責めは、快感を通り越して苦痛と化していた。
「あぁ…あぁぁ…あ…ぁ……」
やがて少年の全身から力が抜け、ついに弱々しく放っていた悲鳴も収まった。
連続した射精により、体力が尽きてしまったのだ。
肉紐は、最後に口をすぼめて、肉棒から射精の残滓を搾り取るように離れると、そのまま腹に巻き付いた。
そして、ずるずると少年を引きずっていく。
どこかに存在する、触手の親玉か大元が食べるためだろう。
「よし…」
男は小さく囁くと、少年の嬌声にいつしか屹立していた股間の物をなだめながら、樽の影から立ち上がった。
運ばれていった少年にはかわいそうだが、これで一人分の触手が押さえ込まれたわけだ。
これで、少なくとも五本の肉紐からは逃げられるはずだ。
男は、逃走のためのルートを脳裏に思い浮かべながら、そっと通りを覗き見た。
だが、少年が運ばれていった方向、触手たちのやって来た方向に目を向けた瞬間、彼の動きが止まった。
通りの向こうに、一際巨大な物があったからだ。
馬車ほどの幅と高さを持つ、赤黒く長い塊だ。両脇から等間隔に人の胴ほどの太さの触手が生えており、その先端から先ほどの肉紐が何十本も生じていた。
ちょうど肉糸と肉紐のように、肉紐が触手から生えているのだ。
だが、問題はその触手が生えている塊である。
ムカデのように触手を生やす、その長い体の先端は急激にすぼまり、一つの形を作っていた。
赤黒い肉から、艶のある肌色に変化したそこは、どう見ても女性の上半身だった。
「うふふふふふ…」
腰から下を肉塊に埋没させたまま、失神した少年を触手で手繰り寄せるその姿は、下半身のサイズこそ狂っていたがラミアか何かの魔物のようだった。
いや、魔物なのだろう。
やがて、少年の体が胴の脇から生える触手の一本に近づいた。
すると、何十本と肉紐を生やす窄まりが広がり、先ほど少年の屹立を飲み込んだように、少年自身を飲み込んでいった。
「うふふふふ…」
赤黒い肉と触手の海に少年が消えていくと、巨大な赤黒い肉塊から触手を生やしたラミア、触手ラミアは微笑んだ。
膨らんだ触手が蠕動し、中の少年を馬車ほどの太さの胴へ送りこんでいく。
「うふ、うふふふ…」
触手ラミアは波打つ触手の表面を眺めながら、穏やかに笑った。
やがて、触手の膨らみが移動し、根元から触手ラミアの胴へと入って行った。
「うふふふふ」
満足げに彼女は微笑むと、次なる獲物を探し、触手の範囲を広げるため、顔を上げて視線を前方に向けた。
「うふふふふ…ふふ?」
触手ラミアが男のほうに視線を向けたまま動きを止め、その含み笑いに疑問符を混ぜた。
男は、触手ラミアの視線に、自身がいつの間にか路地から通りに歩み出ていることに気が付いた。
「な…!?」
「ふふふ」
何かに誘われるように隠れ場所から出ていた自身に驚く男に、触手ラミアが女体のすぐそばから生える触手から、数本の肉紐を伸ばした。
あの触手に囚われたら終わりだ。
男の背筋を、冷たい物が滑り落ちた。
「くそ…!」
捕まるものかとばかりに踵を返し、男は駆けだそうとした。
だが、彼の脚がもつれ、数度たたらを踏んでから男はその場に転倒した。予想以上に疲労が抜けていなかったのだろうか?
「…!?」
愕然とする男の足首に、肉紐が絡みついた。
地面の上から締め付ける肉紐は、かなり弾力があり、痛みこそない物の絶対に獲物を逃さないという強い意志のようなものが存在していた。
「…っ!」
男は声にならぬ悲鳴のような吐息を漏らしながら、触手から逃れようと無様に暴れた。
だが、四本の肉紐は的確に男の四肢と胴を絡め取り、動きを封じて行った。
「はっ、放せ!放してくれえ!」
ようやく意味のある言葉が紡がれるが、五本の肉紐は男に芋虫の如きもぞもぞとした動作しか許さなかった。
やがて、男の身体が触手ラミアの側まで導かれ、先端から生える女体の高さまで掲げられる。
「うふふふふ…」
「や、やめろ…」
何をされるのかと恐れおののく男に触手ラミアは微笑むと、顔を寄せて唇を重ねた。
「!」
喰われるとばかり思っていたところへの、突然の接吻に、男は思考を停止させて動きを止めた。
そして、麻痺した彼の意識に触手ラミアの唇の柔らかさと甘い味が、彼の口から流れ込んだ。
魔力のこもった口付けが、彼の周囲を遠ざけ、恐怖感を小さくした。
「ん…ん、む…」
小さな声が唇の間から漏れ出て、触手ラミアの口の奥から何かが男の口へと押し入った。
舌に絡み口蓋を撫でまわすそれは、単に長い舌などではなく、先端から何本もの細い糸状の物を生やしていた。
そう、胴の脇から生える触手と同じ肉紐だった。
だが男は、肉紐が肉糸で口内を蹂躙し、喉奥から体奥へ入り込もうとしているにも拘らず、特に抵抗もなくその感触を受け入れていた。
柔らかな肉と柔らかな肉がふれあい、唾液と粘液が混じり合う。
やがて、口内を一通り撫でまわすと、肉紐は舌を擦りながら喉の奥へと入り込んでいった。
男は微かな息苦しさを覚えたが、粘膜を擦る肉紐の感触が、呼吸から意識を逸らした。
肉紐はやがて男の胃の腑に至ると、先端から肉糸を伸ばし、内壁を軽く一撫でした。
苦しみと違和感しか生まないはずの愛撫が、男の背筋を伝う快感を生み出した。
男の快感による体の震えを察したのか、触手ラミアが口内へ肉紐を引きもどして行った。
胃の腑から食道を抜け、最後に舌の表面を一撫ですると、彼女の唇へ収まる。
そして唇を離すと、触手ラミアは男に向けて微笑んだ。
「うふふ…」
「クソ…はな…う!?」
つまりかけていた呼吸を取り戻したことで、男の胸中に反抗心が芽生えたが、それも股間に触れた何かによって潰えた。
触手ラミアが、その手で男の股間をズボン越しに撫でたのだ。
そこはズボン越しにもわかるほど固く盛り上がっており、触れられることで内心の口吻を再確認させるようだった。
「うふふふ…」
触手ラミアは小さく笑うと、男の待とうシャツのボタンを一つずつ外し、ズボンの合わせ目を開いた。
首元から下腹までが露になり、両手足を縛る肉紐がその先端を伸ばし、肌をくすぐった。
赤黒い粘液まみれの肉に触れられているというのに、眼前の触手ラミアの美しい顔のおかげか、男はいつの間にかおぞましさを感じなくなっていた。
赤黒い肉から黄色い肉糸が顔を表し、わき腹や太ももをくすぐるようになぞる。
だが、屹立する肉棒やその近辺に、触手は触れる様子がなかった。
皮膚越しに触手が筋肉をなぞり、肉棒が先走りを滲ませながら揺れた。
だが、いくら心地よいと言っても、絶頂に至るには足りなかった。肉棒への刺激が足りないのだ。
無論、触手に触れられてしまえば絶頂に達し、そのまま喰われてしまうであろうことは目に見えている。
だが、男は身を焦がす情欲に、次第に胸中の天秤が快楽を求めるように傾いていった。
そしてついに、彼は眼前の触手ラミアに向けて、懇願していた。
「頼む…出させて…!」
「うふふふ」
触手ラミアはにっこり笑うと、一本の肉紐を男の眼前に掲げた。
男の目の前で触手先端の窄まりが広がり、粘液を滴らせながら何十本もの黄色い肉糸を露わにした。
ぬちゃぬちゃと音を立てて肉糸をもつれあわせ、そのしなやかさと柔らかさを男にたっぷり見せつけた。
眼前で淫猥な蠢きを見せる触手は、先ほどの少年の痴態と相まって、男の期待と興奮を高めていった。
そして蠢動する触手が男の目の前から、次第に下へと移動を始めた。
男の胸板と触手ラミアの乳房の間を通り抜け、へそから下腹へと下っていく。
だが、触手は屹立する肉棒に触れることなく、男の屹立と触手ラミアの下腹の間を通り抜けて行った。
「ああ…」
男の口から、心底無念そうな声が漏れた。
もう少し焦らして遊ぶつもりなのか、と情欲の火に身を焦がされる男が頭の片隅で考えた時、彼の目に触手の根元が映った。
触手は、触手ラミアの女体の直下、赤黒い胴体に生じた縦一文字の亀裂から生えていたのだ。
触手はずるずると亀裂の中に引き込まれ、ついに完全に姿を消した。
すると、亀裂は粘液の糸を引きながら、ぐぱあと大きく左右に広がった。
亀裂の長さは子供の背丈ほどはあり、幅に至っては男の肩幅を優に上回っていた。
そして亀裂の内側には、肉紐が先ほどの触手の先端のようにみっしりとひしめきあっている。
自身を丸のみできそうな大きさの亀裂と、粘液を互いになすりつけ合う何十何百もの触手が、男の目をくぎ付けにした。
少年を悶絶させ、たちどころに絶頂に追いやった触手が、彼の全身を飲み込んでやろうとばかりに待ち構えているのだ。
加えて、触手ラミアの女体の直下に開いた亀裂は、まるで彼女の女陰そのもののようにも見える。
男の興奮はいやおうなしに高まり、肉棒の先端に滲む先走りは亀頭から伝わって裏筋を濡らした。
「うふふふふふ…」
触手ラミアの微笑みと共に、男の四肢を捕える触手が、彼の体を亀裂へと近付けていく。
「あ、ああ…!」
大部分の期待と、ごくわずかな恐怖の入り混じった声が彼の口から漏れだし、ついにつま先が埋まった。
「ひぃっ!?」
足の指に絡みつき、指の間をくすぐり、足全体にまとわりついてくる肉紐の感触に、彼は裏返った悲鳴を上げた。
粘液を擦りつけ、皮膚に浮かんだ汗を舐めとろうとするような触手の動きは、まさに凌辱であった。
だが、触手ラミアは止めることなく男を亀裂の奥へと導いていく。
足首に亀裂の中の触手が絡み、内股を擦りあげながら、引き込んでいく。
そしてついに、男の屹立が亀裂の中に入りこんでいった。
限界に達していた男の肉棒は、温かな亀裂の内側に引き込まれた時点で大きく脈打ち、その先端から白濁を迸らせた。
精液を放つ肉棒に、争うようにして数本の触手が絡みつき、うち一本がパンパンに張り詰めた亀頭を大きく開いた先端で包み込む。
注ぎ込まれる白濁を啜り取りながら、触手の内側にひしめく肉糸は亀頭に絡みついた。
張り出したカリ首に巻き付き、表面を先端でくすぐり、もっと精を放たせようと触手粘膜全体が吸いつく。
下半身を包み込む触手と、肉棒に巻き付く肉紐、そして亀頭に纏わりつく肉糸の感触が、男に快感をもたらし興奮を煽っていく。
皮膚に刷り込まれた粘液は、肌に熱を帯びさせ、触手表面の脈動をより大きく神経に伝えた。
「うあああああ…あぁぁああ…」
熱と触手の蠕動に、男は下半身が触手ラミアの亀裂の中で蕩け、肉棒からほとばしっていくような錯覚を覚えていた。
男の四肢から力が抜け、肉棒の感覚以外が全て遠ざかっていく。
やがて男の体は、腹から胸、胸から肩口へと亀裂の中に飲まれて行った。
「うぁぁ…あぁぁぁ…」
両腕を引きこまれ、顔だけが亀裂の外に出ている状態になりながら、男は喘ぎ声と精液を漏らしていた。
粘液を擦り込まれ、触手の蹂躙に晒された四肢や胴はもはや溶け崩れたような甘い快感だけを男に伝え、肉棒からは射精の悦びと解放感しか感じなかった。
「あぁ…あぁぁ…」
呻く男の顔に、亀裂から延びた触手が絡み、ゆっくりと奥に引き込んでいく。
そして、男の両目が亀裂の内に没する寸前、見下ろす触手ラミアと視線が交錯した。
だが、男の視線には何の感情も宿っておらず、男の思考も射精の快感に塗りつぶされていた。
「うふふふふ…」
触手ラミアは、もはや何も映していない男の双眸に向けてほほ笑むと、自らの胎内に男を完全に引き込んだ。
じゅぶ、と濡れた音を立てて、男の頭が亀裂の内へと消える。
「うふ、うふふふふ…」
触手ラミアは、胎内の僅かな異物感に微笑むと、奥へ奥へと蠕動させていった。
胎内の触手の合間を何かが通って行き、ついに体の奥で感覚が紛れる。
「うふ、うふふふふふ」
異物感の消失に目を細めると、触手ラミアは止めていた動きを再開した。
もっと人々を触手の内に、胎内に引き込むために。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「一体何が起こっている!?」
「報告はまだか!?」
商工会議所の一室、つい先ほど開いたばかりの『ダーツェニカ連続失踪事件対策本部』で、商工会の幹部である商人たちが声を上げていた。
窓に目を向ければ、街の合間から幾筋もの黒煙が立ち上っており、風に乗ってどこからか悲鳴のような音が聞こえる。
つい先ほど飛び込んできた衛兵によれば、ダーツェニカの各所に突然触手が現れたということだが、その後のことが分からないのだ。
「ええい、衛兵隊は何をやっているのだ…」
「情報が無ければ、命令の下しようがないではないか…」
内心の不安を隠そうとするかのように、商工会の幹部たちは苛立たしげに苦言を呈した。
「……どうやら、我々が動かねばならないようだな…」
沈黙を保っていた、人間会の幹部であるアヌビスが、ふと漏らした。
「人間会の集会所に部下を送り、地下通路を通じて情報収集と命令の伝達を行う。諸君らは、人間会を仲介して命令伝達ができるよう、命令書を作成してくれ」
「しかし、それでは…」
事実上の、衛兵隊指揮権の委譲に、商人の一人が渋るような言葉を漏らした。
「いいのか?遅くなればなるほど、市民への被害は拡大すると思うが…」
「もっとも、触手による被害と聞きますので、人間会の者たちは人間の方々と異なり、発情して自ら触手に身を捧げるような真似はしないと思いますが」
「ううむ…」
一方的に、ダーツェニカの市民だけが被害を受けると言わんばかりの彼女たちの言葉に、幹部たちは呻いた。
「仕方ありませんよ皆さん。ここは、人間会の提案に乗ってみたらどうでしょうか?」
「シトート、貴様何を…」
ロックの発した一言に、商人たちが目を剥いた。
「だって皆さん、現に衛兵隊は触手そのものへの対応か、避難誘導か何かで報告する暇がないようですし。ここは彼女たちの提案通り、人間会の皆さんを通じて情報収集や命令伝達を行うようにするべきでは?」
「確かにそうだが…」
『連続失踪事件対策本部』を設立した時もそうだが、メンツや伝統にこだわって市民を失うのは本末転倒も甚だしい。
やはり、ロックの言うとおり、人間会の提案に乗るべきだろうか?
「…分かった。では、命令書には商工会と人間会の両方の署名が必要という条件で、一時的に衛兵隊を…」
「ほ、報告します!」
幹部たちが一応の合意に達しそうになったところで、不意に衛兵の一人が部屋の入口に現われた。
「先ほど、会議所の裏口に人間会の伝令が現れました。報告があるようです」
「…通しなさい」
アヌビスが、衛兵の言葉にそう返した。
衛兵が商人たちに許可を求めるような視線を送ると、幹部の一人が頷いた。
「こっちだ、連れてきてくれ」
衛兵が廊下の方に顔を向けると、左右から衛兵に支えられたワーウルフが、ゆっくりと連れてこられた。
「ジェーン…!」
アヌビスが、ワーウルフの名を呼ぶと、疲労困憊した彼女は衛兵に支えられながら顔を上げた。
「報告…します…ダーツェニカ全域に、触手が出現…人間会の地下施設も襲撃を受けました…」
途切れ途切れの報告の言葉に、室内に緊張が満ちた。
「また、地下通路内にも触手が出没しており…地下通路はほぼ分断されてます…」
「そんな…」
サキュバスが、頼みの綱であった地下通路の状態に、そう言葉を漏らした。
「……つまり、人間会が地下通路を使って、衛兵との仲介を行うのは困難ということか」
「いや、まだ動ける魔物を使えば…」
「それでは衛兵隊と変わりがないではないか」
「それより先に、元凶を叩くべきではないのか」
「そうだ、怪人どもが一連の元凶に違いない!連中を探し出して、事態を収束させるんだ!」
「王都と聖都の連中も怪しいぞ。あ奴らは何かとダーツェニカを目の仇にしていたからな。こうして災害を引き起こして、『我々に盾突いたからあんなことが起きたのだ!』と喧伝するに違いない」
「いや、魔物連中がこのダーツェニカを『住みやすく』するために細工しているのだろう」
「魔物が住みやすくするため?人間会からも被害者が出ているのですよ!」
「貴様ら人間会ではなく、新魔王かもしれないだろう」
人間会と商工会の幹部が、そう言い合う。
だが、そんなことを言い争っていても、どうにもならない。
「ええい、もういい!」
商人の一人が、荒々しく椅子を蹴倒すようにして立ち上がった。
「この事態の犯人が魔王か聖都かは知らんが、もうダーツェニカは終わりだ!私はとっとと街から出て行かせてもらう!」
そう言い放ち、彼はお供を引き連れて部屋から出て行った。
「……あの男…そんなに自分が大事か…」
「ダーツェニカが無くなれば、我々も商人を続けられないというのに…」
「いえ、彼の言うことにも一理はありますよ」
ふと、ロックが漏らした言葉に、魔物と人間の視線が向けられた。
「シトート、貴様何を」
「いえ、確かにダーツェニカが無くなれば、我々は商業の拠点を失ってしまいます。ですが、死んでしまえば元も子もありません。言い換えれば、命さえあればどこでも商売は再開できる、ということです」
ロックはそういうと、椅子から立った。
「それでは僕も、ここで失礼するとします。もしもの時は、新天地で新たなダーツェニカを起こすとしましょう」
彼は一礼すると、後ろに立っていたワーバットのメイドとともに歩き出した。
「シトート!貴様も逃げ出す気か!?」
「いえ、僕は僕でやるべきことを成すだけですよ」
商人の言葉を背に、彼は会議室を出て行った。
「…クソ…あいつら…」
「まあいい。逃げ出した連中は、触手に捕まったと思って我々だけで対処するぞ」
「そうだ、我々の手でダーツェニカを守るのだ…!」



衛兵たちの視線を浴びながら、ロックは廊下を通り抜け、会議所前に停められた馬車にバティとともに乗り込んだ。
「ロック様…あんなこと言ってよかったんですか?」
動き出した馬車の中で、ワーバットのメイドが主にそう問いかけた。
「問題ないよ。むしろ自分から言い出して、あの場から出るつもりだったからね」
窓の外を流れていく景色を見ながら、ロックは答えた。
「とりあえず、僕は途中で降りる。君は屋敷に着いたら、可能な限り近所の住民を屋敷に避難させてくれないか」
「!それって…」
「そうだ。バードマン出動だ」
ロックはバティの持っていた大きなカバンを開いた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



触手が暴れまわる街の中、裏路地を一人の少年が走っていた。
両手には、分厚く黒い布でくるまれた何かを大事そうに抱えている。
踏み出す足は上がらず、両腕もぶるぶると震え、彼の限界が近いことを物語っていた。
「あぁぁぁぁああああ…!」
「いやぁぁぁあ!放して、放してぇえええ!」
涙混じりの悲鳴と嬌声が、裏路地にこだましている。
路地の左右に並ぶ建物の表面には、蔦のように触手が這いまわっており、開け放たれた窓やガラスの割れた所から屋内へと肉紐を伸ばしていた。
赤黒く、びくびくと収縮と蠕動を繰り返す不気味な肉紐の姿に、少年は怖気を覚えつつ、必死に逃れようと足を動かす。
やがて触手ひしめく裏路地を抜けて、やや広い通りに出た。
だが、そこでも彼を迎えたのは喘ぎ声であった。
「んぁああああ…あぁぁ…」
「あぁぁ、もっと…もっとぉ…」
「ひぃぃ…溶けるよぉ…」
男に女、子供から大人まで様々な年齢層の者が、肉紐に絡め取られ、全身をまさぐられながら嬌声を上げていた。
そして、通りの向こうに目を向けると、馬車程はありそうな太さの巨大な触手が、捕えた男女を先端の亀裂へ、一人また一人と押し込んでいた。
「うふふふふ」
亀裂の上部、触手の先端に生えた女の上半身が、頬を赤らめ自身の乳房を揉みながら、飲み込まれていく男女を見おろし、微笑んでいた。
「……!」
少年はいつの間にか、その触手の親玉に見とれてしまっていたことに気が付くと、頭を振って意識に染み込みつつあった、辺りの甘ったるい香りを追い払った。
むせ返るような甘い香りを、胸の悪くなりそうな匂いに置き換え、恍惚の表情で巨大な触手に飲まれていく人々から視線を引きはがすと、彼は通りに沿って触手から離れるように走り出した。
だが、その速さはお世辞にも早いとは言えず、手に抱えた包みも加わっているためか、歩くよりも遅いぐらいだった。
「うふふ…」
巨大な触手の先端から生えた女体が、のろのろと遠ざかる少年に目を向けると、含み笑いとともに触手を数本伸ばした。
粘液を滴らせる触手は、見る見るうちに少年と距離を詰め、ついにその襟口から覗く細く白いうなじに達しようとした。
だが、触手が少年に触れる寸前、彼の抱える包みを突き破って飛び出した何かが、触手を力強く払った。
少年を絡め取ろうとしていた力の向きが狂い、石畳に肉紐がことごとく叩き付けられていく。
「ステアお嬢様…!」
黒い布から飛び出した、手袋とドレスの袖に包みこまれた一本の腕に、少年が声を上げる。
だが、すぐに彼は自身の状況を察すると、表情から驚きを消し、残る力を振り絞って足を動かした。
触手から距離を取るべく全力で走り、通りに面した建物の合間の一つに飛び込んだのだ。
建物と建物の距離が近いせいか、その路地はほとんど日が差さず、じめじめとしていた。
少年はしばしの間路地を走り抜けると、呻くように漏らした。
「く…う、ぅ…!」
そして、走る勢いを落としながら抱えた包みを路地の石畳にそっとおろし、少年は倒れ込むように石畳に膝をつく。
「はあ、はあ…」
「よくここまで頑張ったわね、セフ」
すると、包みの内から高い声が響き、その黒い布が衣擦れを立てながら解けた。
「でもやっぱり無理よ」
包みの中から姿を現した、長袖のドレスに身を包んだ少女が、荒く息をつく少年に向けて言葉を続ける。
「私のことはもういいから、あなた一人だけでも逃げなさい」
「大丈夫です…!少し休めば、すぐにお嬢様をお連れできます…!」
ぜいぜいと荒く息をつく少年が、絶え絶えながらも力強くそう応えた。
だが、少年の手足は細かく震えており、少々休憩したところでヴァンパイアの少女を日除けの布ごと運ぶなど無理な話だ。
彼女は胸中で、馬車が触手に襲われた瞬間、少年だけを逃がすようにしなかったことを悔やんだ。
「分かったわ…だったらこれは命令よ。今すぐ、あなた一人で逃げなさい」
彼女はそう、あえて命令した。
だが、少年は彼女の言葉に首を振った。
「いいえ、お断りします…お嬢様を安全な場所までお連れします…!」
そう言うと、少年は立ち上がりながら地面に落ちた布を手に取り、少女にかぶせながら抱えた。
「セフ…っ!」
少年の突然の行動に少女は少年の名を呼ぶが、すぐにその行動の理由を悟った。
路地の入口から、肉紐が数本顔をのぞかせていたのだ。
「っ!」
少年の口から吐息が漏れ、日除けの布ごと少女を抱えて走り出す。
休憩のおかげか、腕の震えはいくらか収まっており、二人分の体重を支える両脚もいくらか早く動いていた。
だが、それもすぐに限界を迎えるとステアは踏んで、布の中から声を上げた。
「下ろしなさい!セフ!命令よ!」
「いやです!」
少年は断固たる口調で、ステアに応えた。
「絶対に、絶対にお守りします!」
「何言ってるのセフ!すぐそこに触手がいるのよ!あなただけでも逃げなさい!」
だが、少年の足は止まる気配がなかった。
「下ろしなさい!」
ステアはそう命じて身体を捩るが、セフはもがく彼女を押さえつつ、走り続けた。
ステアの動きが少年のわずかな体力を奪っていき、ついに支えきれぬまでに疲労させる。
「お嬢様…すみません…!」
歯の間から言葉を漏らしたセフは、少女を取り落とすまいと、倒れるより先に石畳の上へステアを下ろした。
ステアは日除けの布を被ったまま立ち上がると、少年の背後に目を向けた。
そこには、建物の壁や石畳にへばりつき、蔦のように這いながら、徐々に迫りつつある触手があった。
「セフ!」
「ハァハァ…は、いっ!?」
少女は少年の手を掴むと、半ば引きずるようにして路地を駆けた。
日陰を選びつつ表通りを目指して、ステアは足を動かす。
「お嬢様!?」
「街の外に逃げるわよ!大人しくついてきなさい!」
口を開きかけたセフに、振り返ることなくそう言い放つ。
触手に追いつかれぬよう急いで、だが少年が転倒しないような速さで、ステアは路地裏を駆けて行った。
時折、建物の合間から差し込んだ日の光りが、日除けの布越しに彼女の肌を焼く。
ヴァンパイアである彼女はそのたびにわずかな痛みを覚えたが、痛みに臆して立ち止っていては、あの触手どもに追いつかれてしまう。
日の光を堪えながら、少女は少年の手を引きつづけた。
路地裏を進み、通りを渡り、触手から逃れるうち、やがて二人は大通りに近づいていた。
大通りに出てしまえば、そのままダーツェニカを囲む城壁の東西南北に設けられた城門まで一直線だ。
「セフ!もう少しだから…!」
大通りから城門に出てしまえば安全だ。そう思いを込め、彼女は背後の少年に呼びかけた。
だが、建物の合間から通りに飛び出した二人を迎えたのは、無数の触手ののたうつ石畳と建物だった。
無論、ある程度の触手は覚悟していたが、二人が目にしたのは想像を上回る惨状だった。
大通りの石畳を突き破り、人が十人ほど手を繋いで作った輪ほどの太さの肉塊が、通りの真ん中にそそり立っていた。
肉塊の上部からは腕ほどの触手が何百も生えており、その一本一本から肉紐が幾本も枝分かれしていた。
肉塊の中ほどからは、大通りにつながる通りに伸びる極太の触手が数本生じており、その触手の脇からは、先ほど遭遇した触手ラミアのように等間隔に人の銅ほどの太さの枝が生えていた。
そして肉塊の根元は、樹木の根元のように細やかな触手が石畳の上を這い、蔦のように建物の壁面を覆いつつあった。
赤黒い肉の巨木が、枝を広げ、根を張り、触手を生やした蛇を従えていた。
触手の量はもはや今まで見てきたどの通りよりも多く、肉樹の近辺では石畳が完全に覆い隠されているほどだった。
そして、石畳の上の赤黒い肉のところどころに、触手に絡め取られた人々が横たわり、身悶えしながら嬌声を放っていた。
「そんな…」
脈打ち、蠢動する赤黒い肉を目にしたステアが呆然と呟く。
これでは、大通りを抜けてその向こうにあるはずの城門に向かうことができない。
いや、路地を戻って別な通りから、肉樹を迂回すれば城門を目指すことは出来るだろう。
しかし―
「…無理ね…」
背後を振り替えれば、路地の反対側から赤黒い肉紐が数本、二人に向かって伸びつつあるのが見えた。
赤黒い肉樹に浸食された大通りを突き進むより、路地を戻って肉紐を突破する方が、助かる可能性は高いかもしれない。
だが、それはあくまでかも知れないだ。
「どうすれば…」
悩んでいる間に背後の肉紐は長さを伸ばし、肉樹の浸食は広がりつつある。
すると、不意にステアの握る手に力が籠った。
「え…!?」
不意に加わった力に抵抗するより先に、彼女の身体が引っ張られ、路地に面した建物の裏口へ引き込まれた。
「っ!」
手が離れて建物の中、床板の上に放り出され、彼女の身体を転倒の衝撃が襲う。
その直後、開いていた扉が閉じられ、がちゃんと閂が下ろされた。
「はぁはぁはぁ…お嬢様、すみませんでした…」
扉を背にしたセフが、その場にへたり込みながら、ステアに向けて言った。
「…大丈夫よ、ちょっと驚いただけ…」
彼女は床の上で身を起こすと、頭にかぶっていた日除けの布を下ろし、どこかの商店の倉庫と思しき薄暗い一室を見回した。
入ってきた扉と反対側の壁に、もう一枚扉が設けてあり、壁に並ぶ棚には何も入っていなかった。どうやらここの店主は、早々に逃げ出してしまっているようだ。
「でも、これでしばらく時間が稼げるわね」
彼女はへたり込むセフに肩を貸して立たせると、触手のいるであろう路地から離れるべく、もう一枚の扉を開いた。
扉の向こうにあったのは陳列棚の並ぶ店舗で、カウンターの内側に二人は出ていた。
窓越しに赤黒い肉のひしめく大通りが見えるが、ステアはカウンターの内側を進み、半ば開いていたもう一つの扉の中を覗いた。
どうやら帳簿付けなどの事務仕事に使っていたらしく、机と本棚だけが置かれた、明り取りの小さな窓だけが設けられた小さな部屋だった。
ステアは部屋に入ると、扉を閉め、セフを床に座らせた。
「これで、少しだけ時間が稼げるわね」
椅子をドアまで引きずり、ドアノブに背もたれが食い込むよう固定させながら、ステアはそう口にした。
「それで…これからどうしようかしら?」
大通りは肉樹に浸食され、路地は触手が徘徊している。
どちらを進んでも、無事に城門までたどり着けそうにはない。
「どうせ外に出ても、日の光りから逃れられそうな場所は無いし、私が時間稼いでいる間にあなたが逃げるのはどうかしら?」
「何を言ってるんですか、お嬢様!」
ステアの提案に、セフは疲労を滲ませながらも声を上げた。
「僕の方こそ、もうロクに走ることもできませんから、僕が囮になってる隙に城門に逃げてください!外に出れば他の街の人がいるでしょうから、馬車に乗せてもらったりすれば太陽からも逃れられます」
少年の口から紡がれたのは、自らを犠牲にする案だった。ヴァンパイアである彼女が触手を相手にするのとは異なり、疲労困憊した人間である彼では、時間稼ぎのための囮にしかならないだろう。
その分、提案より真剣なことが分かった。
「セフ、あなた…」
ステアは、ふと何かを言いかけた口を閉ざした。
『父』が買い与えてくれた世話係の少年に、前々から言いたかったことを、思わず口にしかけたからだ。
その答えは概ね予想がついていたが、今この場で聞きたい言葉ではなかった。
分かれるのならば、今このまま彼と別れたかった。
だが、セフはなんとしてでもステアの身を守ろうとするだろう。
「……」
「…お嬢様?」
黙考するステアに、セフが心配そうに声を掛ける。
その一言で、彼女は決心した。
どうせわかりきっていることなら、自分から言ってしまえば、彼の口から聞ずにすむのだ。
「セフ」
ステアは少年の目をまっすぐに見つめ、続けた。
「あなた、本当は私のことが嫌いでしょう」
「っ!」
彼女の言葉に、少年の目が見開かれる。
「本当は嫌いなのに、パパの命令で私に従ったり、今みたいに私だけでも助けようとしてるんでしょう」
言葉を紡いでいるのは自分の口のはずなのに、なぜかステアの胸の奥に一句一句が突き刺さっていく。
「それはそうよね。私が死んで自分だけ助かっても、どうせ後からパパに酷い目にあわされるもの。どうせ死ぬなら、気持ちよく、楽に死にたいものね」
「お嬢様…」
「口を挟まないで、セフ…言いたいことは分かってるわ」
何かを言おうとした少年を制すると、寂しげな笑みを浮かべた。
「でも、これまでのあなたの気遣いはとても嬉しかったわ…さっきのあなたの言葉も、途中まで私を運んでくれたことも、優しいあなたを感じられて、嬉しかった…」
彼女は言葉を切ると、頭を振った。
「そんなの、私の勘違いだってのは分かってるわ。だから最期にあなたに頼みたいの、セフ…」
まっすぐに少年を見つめながら、続けた。
「私が外の奴らを相手にするから……どうか、外まで無事に逃げて…私の好きな…人…」
少年が目を見開き、口を数度開閉してから、どうにか言葉を紡ぎ出した。
「お嬢様、それは…」
「お願いだから、何も言わないで。勘違いだってのは知ってるから…だから、だから…」
胸に刺さる自分の言葉を堪え、彼女は顔を伏せた。
「……ステアお嬢様…」
床を見下ろすステアの耳に、セフの声が届いた。
だが、彼女は何も聞くまいと、耳から意識をそらせていた。
「………」
セフは彼女の名を呼んだきり、口をしばしの間つぐんでしまった。
そして沈黙を破る代わりに、彼は起き上がり、顔を伏せる彼女に近づいた。
ステアが身を強張らせるが、少年は少女の側で足を止める。そして、手を上げて彼女の肩に触れた。
「…お嬢様…僕もです…」
「……え……?」
「僕も、お嬢様みたいに、勘違いだと思ってました」
顔を上げる少女に向けて、彼は続ける。
「お嬢様が、ときどき僕に向けてくれる気遣いは、ただ旦那様に買ってもらった僕を辞めさせないようにするためだと思ってました。お嬢様のために働くのも、旦那様の命令に従っているからだと思ってました。ですけど、たった今分かりました。お嬢様も、そうだったんですね」
セフの『お嬢様も』という言葉に、ステアは目を見開いた。
「セフ…」
「僕も、好きな人には生きていてほしいんです…ステアお嬢様」
「……ふふふ…ふふふふ、あはははは…!」
ステアはセフの言葉に、どこか渇いたような声で笑った。
「あははははは…あははははは…!」
「お嬢様…?」
「あはははは…せっかく、どっちも好きだったって分かったのに、どちらかしか逃げられないなんて、笑うしかないじゃないの…あはは……」
ステアの両の目からあふれ出した滴が、頬を伝った。
彼女はそのまま、セフとの距離を詰め、両腕を彼の背中にまわした。
「お嬢様…!?」
突然の抱擁に、セフが声を漏らした。思わず両腕を上げ、彼女の肩に触れようとしたが、少年はそのまま固まった。
少女の細く華奢な肩を、抱き寄せるべきか引き離すべきか、少年自身と彼女の世話係としての意識がせめぎ合ったからだ。
「最後に、最後にこうさせて…」
恐るべきヴァンパイアの少女でもなく、自身の従うべき主でもなく、ただのステアと言う少女のか細い声に、少年はようやく自身の気持ちに素直になった。
「……はい」
腕の中のぬくもりに、少年はそう応えた。
扉の外から、窓の割れる音が響いた。




――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



建物の屋上から屋上へ、黒い影が飛ぶように渡り移っていた。
夜空や闇に紛れるはずの黒い衣装は、日の光の下では目立つばかりである。
しかし、建物の合間を走り回る人々は、誰も頭上を跳び回る影のことなど見ていなかった。
「……」
バードマンは、商工会議所を目指して建物の屋上を走りながら、横目に街を見た。
街のあちこちから上がっていた煙はいつの間にか収まり、代わりにあちこちの屋根に赤黒い何かが絡みついているのが見えた。
街のあちこちから現れた触手が、建物に絡みつき屋根までその先端を伸ばしているのだ。
バードマンは視線を前に向けると、屋上の縁を蹴って空中に身を投げた。
直後、落下が始まるより先に手を前方にかざし、通りを挟んだ向かいの建物に向けてフックの付いたワイヤーを放つ。
フックが建物の屋根の縁を捕え、そこを中心にバードマンが弧を描くように落下の向きを導く。
そして、彼が付きだした足の裏に窓がぶつかり、衝撃と共にガラスが砕けた。
「っ!」
「なんだ!?」
商工会議所の一室に転がこむ彼に、いくつもの声と驚きの気配が向けられた。
会議室の隅の窓から飛び込んだため、飛散するガラスで怪我をした者はいないようだが、商工会と人間会の面々の視線には険が宿っていた。
「お前は…バードマンか…」
バフォメットが驚愕から立ち直ってようやくそう呟くのと同時に、バードマンは一同に向き直った。
「会議中すまない。緊急事態だ」
「知っている。その対策を皆で協議しているところだ」
「もはや対策協議をしている場合ではない」
バードマンは会議テーブルに向かうと、誰も座っていない席の後ろに立った。
「既にダーツェニカの数十か所から触手状の生物が現れ、市民を襲っている。規模も範囲も時間とともに拡大しており、ここもじき危なくなるだろう」
「なるほど、もう商工会だけでどうにかなる問題ではなくなったのね」
卓についていたサキュバスが、バードマンの言葉に少しだけ嬉しげな様子を見せた。
「この事態を収束させるには、人間会の協力が絶対的に必要になったな」
「いや、もう人間会ですら無力かもしれない」
バードマンの一言に、人間会幹部たちの表情に険が宿った。
魔王の交代により姿こそ変わったものの、人間よりはるかに強い魔物の力が、魔物の魔術が否定されたのだ。
「バードマン…貴様、何を言ったか自分で理解しているのか…?」
「私としては、諸君らがアレを相手に勝とうとしている方が驚きだ」
ここに来るまでの間に目撃した、建物を包んでいく肉蔦と無数の触手を思い返し、バードマンは兜の下で頭を振った。
「ではバードマン、人でも魔物でも相手に出来ないというものに対して、お前は一体どうするつもりだ」
しびれを切らしたように、商工会の商人が尋ねる。
「全市民をダーツェニカから避難させ、王都と聖都に触手討伐の協力を要請する」
「バカげたことを!」
商人が、彼の言葉に声を張り上げた。
「ダーツェニカはずっと王都と聖都から独立してきたのだぞ!?今更あいつらに頭を下げ、助けてくださいとでも頼むつもりか!?」
「仮に協力を得られたとしても、商取引税を掛けて来たり、中央教会への寄付を強要されるに違いない」
「我々人間会としても、聖都に貸を作るのは避けたいところだが…」
顔をしかめる商人に、バフォメットが渋るようにつづけた。
自治独立を保ってきたダーツェニカに、王国や聖都の影響が及ぶのを避けるためだ。
「だが、他に方法があるのか?あるのならば教えて欲しい。私も可能な限り協力したい」
バードマンが一同を見回しつつ、続ける。
「こうしている間にも、触手は街を侵し市民を襲っている。一刻を争うのだ。どうか、協力してもらいたい」
商工会と人間会の幹部たちは、本当の名も素顔も知らぬ男の言葉に、しばし口を閉ざして考えた。
「しかし…我々人間会としては、中央教会の連中に…」
「ほ、報告!」
ようやく口を開いたバフォメットを遮るように、半ば転がり込むようにしながら会議室に兵士が一人入ってきた。
「先ほど、ハーピィが一体やってきて…っ!?」
兵士の言葉が、バードマンの姿を目にすると同時に止まる。
「問題ない。彼は関係者だ。続けろ」
「は、はい…」
商人の言葉に、兵士はちらちらとバードマンに目を向けながら続けた。
「その、人間会の北部地下施設が触手に制圧され、多数の犠牲者が出た模様です」
「なんだと!?」
「そんな…」
バフォメットが立ち上がり、サキュバスが言葉を失った。
つい先ほど地下通路が分断されてからそう時間は経っていないのに、もう壊滅した施設が出てしまったのだ。
「さあ諸君、時間がないのだ。早く、決断を」
バードマンが、低く呟いた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



三角形の大きな帽子を被った少女が、牛頭骨を飾りにした杖を手に街の中を走っていた。
近隣の建物には、赤黒い肉が薄く膜をを張るように這いまわっている。石畳を突き破って姿を現した触手とともに、辺りを浸食しつつあるのだ。
通りには赤黒い肉に包まれた繭状のものがいくつも転がされており、建物の窓からは嬌声が響いている。
魔界に存在するという触手の森が顕現したかのような景色の中を、少女は駆けていた。
するとその背中に、腕ほどの太さの触手がどこからともなく伸びてきた。窄まった先端が開き、指ほどの太さの触手が、粘液を滴らせながら現れる。
だが、触手が少女の身体に触れる寸前、少女が身を反転させ、手にした杖を掲げた。
「はっ!」
裂帛の気合とともに、牛頭骨の額に火の玉が浮かび、炎が迸った。
炎は広がりながら触手に躍り掛かり、絡み付く。一瞬で赤黒い表面を覆っていた粘液が蒸発し、熱が肉を侵して白く色を変え、あっという間に焼け焦げた。
すると痛覚があるのか、触手は炎に包まれながらのた打ち回り、やがて動きを止めた。
「…」
三角帽子を被った少女は、魔女の道具である自身の杖を握り直すと、再び走り始めた。
向かう先は、ダーツェニカ中央に存在する会議所だ。
ほんの数十分前、ダーツェニカ北部の人間会集会所が突然現れた触手によって陥落したことを報告するためだ。
「……」
彼女の脳裏に、その時の光景がよみがえった。
地下の広間でテーブルに着き、幹部の帰りを待ちながら思い思いの方法で時間をつぶしていたところ、突然施設全体が揺れた。
ダーツェニカでは珍しい地震に、人間会の魔物たちは不安を抱きながら、じっと揺れが収まるのを待っていた。だが、揺れが収まりきる直前、他の施設へと続く扉を突き破り、地下通路から人の胴ほどはあろうかという触手が幾本も現れたのだ。
触手は手近にいたサキュバスやゴブリンを飲み込むと、枝分かれと成長を繰り返しつつ魔物たちを襲った。
戦おうとする者、逃げようとする者、組み伏せられて地下通路へ引きずり込まれて行く者、触手に飲まれる者。
魔女が呆然としている間に、何十体もの魔物たちが襲われていった。
そして、いつの間にか魔女を含む数体の魔物だけが、触手ひしめく集会所に取り残されていた。
魔女は近くにあった扉から飛び出すと、全力で外を目指して走った。
地上に飛び出した彼女を迎えたのは、地下に現れたのと同じ触手と、襲われ逃げ惑う人々の姿だった。
何か大変なことが起こっている。魔女にはただそれだけのことしかわからなかった。
だが、最低でも北部の集会所が壊滅したという事実を、幹部たちに報告しなければならない。
そのため、彼女は触手ひしめく街の中を進んでいるのだった。
「はぁっ!」
杖を掲げて念を込め、炎を進行方向に迸らせる。
すると、建物と建物の間に枝を伸ばし、膜状に道をふさぎつつあった肉が焼き払われ、穴が開く。
魔女は焼きあけた穴に飛び込む。しかし、彼女の足が一瞬止まった。
膜の向こうの様子が、少しだけおかしかったからだ。
建物や石畳を赤黒い肉蔦が這いまわり、太い触手が犠牲者を求めてさまよっている。だが、それに加えて赤みを帯びた粘液が、触手や建物を薄く覆っているのだ。
触手の表面に滲んだ粘液のようにも見えるが、量が多すぎる気もする。
「…!いけない!」
魔女は我に返ると、辺りの粘液から意識を引き剥がし、走り出した。
びちゃびちゃびちゃ、と規則正しく粘ついた水音が、見慣れたダーツェニカの町並みと触手に響く。
多少様子がおかしくても、ここを通らなければならないのだ。それに彼女には炎の魔術がある。
そう踏んでのことだった。
やがて粘液を踏みながら通りを進むうち、彼女の前に新たな触手が現れた。
大蛇のように肉に覆われた石畳の上を這い、その先端を持ち上げている。
人の胴体ほどの太さの触手ならば、この通りの外でいくらでも見かけたが、彼女の前に現れたのは様子が違っていた。
先端に、女性の上半身が付いているのだ。
肩に届くほどの赤髪の、整った顔立ちをした女性だ。その双眸は興奮に潤んでおり、滑らかな白い肌は臍の辺りから赤黒く色づき、そのまま触手に繋がっていた。
だが最も目を引くのは、彼女の乳房だ。片方だけでも人の頭ほどはあろうかという大きな乳房が、女体の前面にいくつも並んでおり、すらりとした自身の腕で抱えるようにして揉んでいた。
「うふふふふ…」
乳房を鈴なりにした女体が、とろんとした瞳で魔女を見つめると低く笑い、蛇のように触手を引きずりつつ、這い寄ってきた。
「く…!」
異形のラミアとも言うべきその姿に圧倒されつつも、魔女は杖を掲げた。
この場を逃れて迂回する暇も惜しいのだ。
「うふふふ…」
乳房ラミアと魔女の距離が十歩ほどまでになったところで、魔女の杖から炎が溢れ出した。
触手を焼き、街を隔てていた膜を焼いた炎が、異形のラミアに迫る。炎が魔女の視界をふさぎ、触手の先端に生えた女体を包み込んだ。
そして魔女はたっぷり十秒ほど、触手が焼け焦げ芯まで煮える程、炎を放ち続けた。
だが魔女の火炎が途絶えた後には、火傷一つ負っていない触手ラミアが佇んでいる。
「なっ…!」
「うふふふふ」
微笑む異形のラミアの乳首の一つから、たらりと赤い液体が垂れた。
血液のように見えたそれは、血液などよりはるかに粘り気が強いらしく、滴が糸を引きながら垂れて行き、石畳を濡らす粘液に加わった。
それを見た魔女は、この辺りを濡らす粘液の正体と、なぜ炎が届かなかったかを理解した。
この異形が、炎に向けて乳房から粘液を放って相殺したのだ。
「うふふふふ」
異形の蛇は、たわわに実る乳房を抱えるように添えていた腕を寄せた。
乳房に加わる圧力が上昇し、乳房が形を変える。
そしていくつも並ぶ乳頭の先端に赤い滴が滲む寸前、魔女は再び杖から炎を放った。
「っ!」
炎が迸り、降り注ぐ赤い粘液を遮る。炎の向こうで、粘液が泡立ち蒸発していくが、赤い迸りは絶えることなく降り注ぎ続けた。
先ほどは炎を遮っていた粘液が、逆に炎に襲い掛かっている。
延々と続くかに見えた拮抗だったが、不意にギリギリのバランスが崩れた。魔女の炎が途切れたためだ。
牛頭骨から迸る炎が急速に弱まり、魔女が目をつむった。
そして、激痛にも灼熱にも耐えようと覚悟を決めた彼女に、赤い粘液が降り注ぐ。
「…っ!」
最初に感じたのは冷たさ。正確に言えば、覚悟していた物よりはるかに低い温さだった。
赤い粘液は人肌ほどのぬくもりで、どこまでも糸を引き続けるほどの粘度を有しているにも拘らず、衣服に染み込んでいった。
「な、なにこれ…ひゃっ!」
浴びせかけられ続ける粘液に顔をそむけようとした瞬間、魔女が声を上げた。
衣服に染み込んだ粘液が、もぞりと蠢いたのだ。
そう、異形のラミアの乳房から迸ったのは、ただの赤い粘液ではなく、スライムのような粘体生物だったのだ。
「うわ…ひゃ…!」
粘液に塗れた衣服が、魔女の幼い肉体を這いまわり、ぬるぬると粘液を擦り付けた。
薄い乳房を撫で、細い太腿を擦り、背筋を這いずる。
まるで、ねっとりとした香油に塗れた幾本もの手が、マッサージをしているかのようであった。
「ああ…ひゃ、あ…!」
上ずった声を少女が漏らし、少しだけ脚から力が抜ける。すると、足に絡み付いて遺体引くが粘液の導きによって動き、彼女の膝裏を押した。
どうにか彼女の身体を支えていた二本の脚が、膝裏に加わった力に負け、折れ曲がり、彼女の身体を粘液に覆われた石畳の上に倒した。
地面を覆う赤い粘液は、内部に泡を発生させて膨れ上がり、魔女の細い体を柔らかく受け止めた。
そしてそのまま衣服に粘液が染み入り、そのなめらかな肌をやさしく這いまわった。
「あ、ああ…!」
どうにか姿勢を保つことで保っていた緊張の糸が、地面に倒されたことで断ち切られ、必死に拒んでいた快感が意識に入りこんでいく。
粘液が指を形作り、粘液越しに彼女の背中を撫であげた。
まるで、先輩魔女や彼女らの長のバフォメットによるご褒美の愛撫のようだったが、快感と併せて感じるのは悦びではなく、怖気だった。
だが、快感が徐々に得体の知れない粘体生物による愛撫への嫌悪を溶かし崩して行った。
「あぁ…あ…!」
肉体が這い回る粘液に反応し、腹の奥に疼きが生じる。そして両脚の付け根の亀裂が僅かに湿り気を帯びた。
赤い粘液は魔女の興奮の証に反応し、自身の量を増そうとするかのように、股間を覆う下着に染み入った。
ぬめりを帯びた慎ましやかな亀裂に、粘液が押し当てられ、滲む愛液を舐めとるように擦った。
「ひゃうっ!」
敏感な個所を驚くほど優しく撫でられ、魔女は声を上げた。
赤い粘液は彼女に拘泥することなく、ただひたすらに下着を通して、舌状に固めた粘液で幼い亀裂を擦り続けた。
緊張と恐怖に固く閉じていた女陰が、粘液の温もりと優しい愛撫によって、徐々に緩んでいく。
粘液は舌状の凝固を解除すると、物欲しげに口を開いた女陰へと入りこんでいった。
「あ…入って…!」
ぬるりとした温かな粘液の感触に、彼女の意識が少しだけ醒める。
しかしそれも、狭い膣道に入った粘液が指状に凝固するまでのことだった。細く長い、女の指めいた粘液の塊が、彼女の亀裂の内を軽く擦った。
襞越しに走る神経を伝い、痺れるような快感が彼女の全身を走る。
「はひっ…!」
昂っていた精神が無理やり絶頂へ押し上げられ、何かを言おうとした口から吐息だけが溢れ、全身が痙攣する。
すると、彼女を覆い包む粘液がもぞりもぞりと蠢動した。まるで、彼女の手足の震えをなだめるようにだ。
ぬるぬると、赤い粘液が汗のにじみ始めた少女の身体に擦り込まれていく。
粘液と汗が混じり合い、肌と粘液の境があいまいになっていく。まるで、汗の代わりに粘液が肌に染み込むかのようだった。
事実、彼女の感覚は間違いなどでなく、赤い粘液は肌から、毛穴から、股間の粘膜から、彼女の胎内に染み込んでいた。
発汗により渇いていく体を粘液が潤し、血管の中を赤い粘液が満たしていく。
体表面に生じていた快感は、いつしか粘液と共に彼女の体に染み込み、神経に直に生じていた。
粘液の温もりも、彼女自身の火照りと一体となり、自身が粘液に溶け込んでいくようだ。
「ああ…あ…あ…」
口からあふれ出していた嬌声も、いつしか弱々しい物になり、絶頂に伴う体の痙攣も弱まっていた。
だが、それは法悦の極みから戻れたというわけではなかった。
彼女の胎内を満たしていく粘液が、彼女の身体を奪っているのだ。
女陰から入りこんだ粘液は、凝固して作りだした指で膣壁を擦りながら、粘液を奥へ奥へと送りこみ、子宮を満たしていく。
尻の割れ目に覆いかぶさった粘液が、きゅっと締まった窄まりを揉み、僅かな隙間から少しずつ粘液を注ぎ込んでいく。
体液が粘液に置き換わり、赤い液体が体の内から外から魔女を愛撫する。
身体の内から外から注ぎ込まれる快感が、彼女の意識を絶頂に押しやったまますり減らしていく。
皮膚を擦られているのか、神経を撫でられているのか、膣を押し広げられているのか、膣が締めあげられているのか、もう分からない。
「あ……」
そして、もはや自身の名前さえも消え去ってしまった忘我の極致で、彼女の意識は小さな喘ぎを残して、消滅した。
「………」
ピクリとも動かなくなった少女の身体に、赤い粘液が降り注いでいる。
「ふふふふ……」
異形のラミアの細めた視線の先で、少女の身体に粘液が積もり、凝固し、完全に赤い塊となった。
赤い塊はしばしの間もぞもぞと蠢いていたが、やがて春の雪が崩れるように、どろりと形を失った。
流れ去って行った粘液の後には、何も残っていなかった。
「ふふふふふふ」
触手の先端に生えた女体は、流れていく粘液を見送りながら微笑むと、たわわに実った乳房を揺らしつつ、ずるりずるりと這って行った。



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ダーツェニカの街中を、一人の男が走っていた。
腰に数本の剣を下げ、両手にも一振りずつ長剣を携えた、ソードブレイカーだ。
街中に配置した怪人たちの様子を見まわっていたところに、水路から何十本もの触手が現れたのだ。
ソードブレイカーは、とりあえずその場を離れ、近場にあった武具店に押し入って剣を可能な限り入手すると、パイロのいる倉庫街に向けて走り出した。
「……」
悲鳴と嬌声の飛び交う通りを進みながら、彼は正面から向かってくる触手に剣を振るった。
弾力のある肉紐に刃が食い込み、純然たる力と速度で引きちぎった。
断面から体液をまき散らしながら触手がのた打ち回り、その側を彼は駆け抜けていく。
もう、何百という肉紐を剣で引きちぎってきたが、水路からはそれ以上の触手が姿を現している。
もはや市民や怪人を助けて回る余裕はない。一刻も早く、安全な場所へ逃れなければ。
前方の曲がり角からゆっくりと伸びて来た触手を断ち切り、路地を駆け抜ける。
やがてソードブレイカーが倉庫街に近づくにつれ、路面や壁を覆う肉が徐々に減って来た。
元から人通りのほとんどない場所を突き進み、一軒の倉庫に飛び込む。
荷物もあまり置かれていない屋内を進むと、彼は扉を開きながら声を上げた。
「パイロ!」
「ソードブレイカー!?生きてたのか!」
画鋲や小石が大量におかれた地図を前に、砂漠の民の民族衣装を纏った少年が、驚いたように声を上げた。
「巡回中に地下からの攻撃が始まった。状況は?」
「配置した連中の狼煙も、ほぼ同時に全部上がっている。続報が無いところを見ると、全滅した可能性が高い」
ソードブレイカーは地図の前に歩み寄ると、ざっと確認した。
「よし、ダーツェニカはもう駄目だ。脱出するぞ」
「そんな」
男の発言に、少年は目を見開いた。
「俺だからここまで来れたようなものだ。普通の人間なら、なすすべもなく地下からの触手どもに捕えられているだろう」
「でも…」
「俺たちがこの状況をどうにかできるとでも思っているのか?」
パイロはその言葉に、目を伏せた。
「…分かった」
「よし、ならば全員にここを捨てて脱出するよう命じる。ルートは…」
「いや…僕たちの脱出は、もう少し後だよ」
ソードブレイカーは、パイロに目を向けた。
「今は、住民の避難誘導をすべきだ」
「そんな暇が…」
「僕たちが避難誘導をしながら脱出すれば、商工会への貸しが作れる」
「成程…」
少年の言葉に、ソードブレイカーは頷いた。
「それじゃあ、避難路を兼ねた誘導路についてだけど…」
「そういうことはお前に任せておく。私には行くべき場所があるからな」
「え?あ、ちょっとソードブレイカー!」
踵を返し、歩き始めた男の背中に、彼は呼びかけた。
「心配するな。バードマンのところだ。奴の協力があれば、もっと効率的に避難誘導ができるだろう」
そう、彼の協力が不可欠なのだ。
「場所は?」
「予想が付いている」
「なら、気をつけて」
「ああ」
ソードブレイカーは、パイロに顔を向けることなく歩み去って行った。



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ばさりばさり、と空に羽音が響く。
鳥よりも重い羽音の主は、ドラゴン娘であった。
ダーツェニカの上空を、街を見下ろしながら彼女は滑空していた。
眼下に広がるダーツェニカの街は、いたるところが赤く色づいており、その範囲は徐々に広がりつつあった。
街の至る所から赤い物が溢れだしているのだ。
「酷い……」
彼女の唇から洩れた言葉が、風に巻き込まれていく。
人の目では豆粒ほどにしか見えない人影の一つ一つが、彼女の眼にはよく見えた。
赤い物から逃げまどい、追いつかれ、囚われて行く人々の姿が、よく見えた。
「……」
彼女は無言で視線を街から引き剥がすと、街の中央部に目を向けた。
向かう先は赤い物の浸食を受けていない区画の一角、大きい建物だ。
彼女はばさりと羽を打ち鳴らし、風に乗って建物の屋上を目指した。落下するのと同じ速さで滑空するに連れ、見る見るうちに小指の爪ほどの大きさだった建物が、端から端まで一息では駆け抜けきれぬほどの大きさに広がっていった。
屋上に立っていた三人の兵士が彼女に気が付き、驚き、慌て始める。
そして二人が弓を構え、一人が報告のため屋上を降りたところで、彼女は翼を広げた。
全身に一瞬衝撃が走り、激突せんばかりの勢いで迫りつつあった屋上が、急にその速度を緩めた。
一度、二度、と空打ちを繰り返し、彼女は十分に減速してからそっと石組の屋上に降り立った。
着地の衝撃を膝で吸収すると、彼女の実を覆う分厚い鱗の下で、そのたわわな乳房が揺れた。
美しい女の姿と、未だいくつもの伝説を残すドラゴンの融合。見張りの兵士二人では、相手どころか時間稼ぎ程度にしかならないだろう。
二人の兵士に顔に緊張が走った。
遅れて階下から階段を駆けあがってきた衛兵たちが、ドラゴン娘に各々の得物を向ける。
「何者だ!」
「ダーツェニカ南方砦、竜兵部隊所属、イプラス少尉です」
弓を構えた兵士の誰何の声に、ドラゴン娘は姿勢を正して答えた。
「ダーツェニカで発生している事態について、ダーツェニカ商工会の皆さんと協議、及び対策の場を設けるために参りました」
兵士たちは顔を見合わせた。ダーツェニカ南方砦と言えば、文字通りダーツェニカの南方に位置する、王都によるダーツェニカの監視所だ。
表面上は平静を装い、金品をやり取りするダーツェニカと王都ではあるが、ひとたび有事となればいつでも攻め込める準備をしているのだ。
だというのに、これはどういうことだろうか。
「どうか、商工会の方々にお目通しを」
ドラゴン娘、イプラスはそう兵士たちに言った。


イプラスが屋上から下に通されたのは、更に兵士がもう一往復してからだった。
上等な作りの廊下を、前後左右を衛兵に囲まれたまま、商工会幹部の待つ一室まで案内される。
やがて、左右に見張りの兵士が控える両開きの扉の前で、衛兵たちの脚が止まった。
先頭の衛兵が、拳を掲げて軽く扉を叩く。
『入れ』
「失礼します!」
扉の向こうからの声に衛兵が応えると、扉を押し開いた。
兵士たちと共に、会議室と思しき部屋に、イプラスは足を踏み入れた。
床は毛足の長い絨毯に覆われ、部屋の真ん中には大きな卓が置かれている。
壁にはガラスのはまった窓が並んでおり、卓にはそう年から老人までの男たちと、種族も様々な魔物が着いていた。
だが、なぜか一枚ガラスが割れており、卓の一角に黒いマントを羽織り黒い兜を被った何者かが立っていた。
「先ほどお伝えしました、ダーツェニカ南方砦からの使者をお連れしました!」
「御苦労」
卓の上座に腰かけていた老人が、衛兵に向かってねぎらいの言葉を掛ける。
すると衛兵は一礼と共に横にずれ、そのまま彼女の後方へ退いた。
どうやら、ここから先はイプラスが話せ、ということらしい。
「ダーツェニカ南方砦、竜兵部隊所属、イプラス注意です。突然の来訪をお許しください」
一礼ののち、イプラスはそう卓を囲む面々に向けて名乗った。
「それで、何の用件だ?」
「ご覧の通り、我々は忙しいのだ。税金やらなんやらの下らぬ用事ならば、お帰り願おう」
老人とバフォメットが、イプラスに向けて苦々しげに言った。
「いえ、現在ダーツェニカが受けている攻撃についてです。王国軍は、現在のダーツェニカに対する何者かによる攻撃を、魔界からの人類に対する攻撃と認めました」
「認めたからと言ってなんだというんだ?『お前らが全滅したら仇は討ってやる』か?」
壮年の幹部商人が、いくらかの嘲りを含んだ言葉を紡いだ。
だが、イプラスは軽く首を振って応えた。
「いえ、この一件に王国軍も協力し、『ダーツェニカの商人の救出・保護』と『事態解決』に全力を尽くします」
「ほう…?」
予想もしていなかったドラゴンの言葉に、商人たちが声を漏らした。
「御存じの通り、ダーツェニカは街道を伝って大陸中の金貨と品物を吸い上げ、大陸中に循環させています。大陸経済の心臓とも言うべきダーツェニカが失われれば、大混乱は必至です」
そのためにも、ダーツェニカの商人の保護と、都市の奪還を王都は望んでいる。
イプラスの仕事は、それを伝えることだった。
「それで…一体なんだ?命を助けてやったから、王都に従属しろとか言う引き換え条件でも?」
「ここから先については、避難後にダーツェニカ南方砦で話し合いましょう」
条件があるのかないのか、明言を避けたイプラスに、商人や魔物が表情に微かな苦さを滲ませる。
無理もない。避難してしまったあとでは、交渉の場で王都に優位に立たれてしまうからだ。
「迷っている暇はない。急いで市民の避難と保護をしてもらうべきだ」
会議室の中、ただ黙して立っていた黒マントに兜の人物が、低い声で漏らした。
「しかしバードマン…」
「今ここで迷って犠牲者を増やし続け、我々が全滅してからダーツェニカを明け渡すのと、王都に協力要請するのとどちらがよいか、考えるまでもないだろう」
「……」
一同が沈黙する中、バードマンと呼ばれた黒づくめは続けた。
「確かに、ダーツェニカは我々がいなくなり、王国軍の手によって奪還されることで、数百年の歴史を終えるだろう。だが、我々の頭の中にあるモノまでは、誰も奪い取れない」
彼は一旦言葉を切り、卓につく商人たちを眺めてから続けた。
「我々が新たに作るのだ、ダーツェニカを」



その後、商人たちがダーツェニカを捨てるという合意に至るのに、十分とかからなかった。
皆の顔には苦い物があったが、それでも決心と覚悟が宿っていた。
「それでは、私は砦に帰還し、合意に至ったことを報告いたします」
商工会議所の屋上で、イプラスは見送りに来た幹部とバードマンに向けて、そう口を開いた。
「ああ、よろしく頼む」
「我々も住民をまとめて避難を開始する」
「了解しました」
商人とアヌビスの言葉にイプラスは頷き、翼を広げた。
膝をかがめ、跳躍と共に翼で空気を打つ。数度の羽ばたきと共に、彼女の身体は空高く持ち上げられていった。
ふと下方に目を向ければ、つい先ほど飛び立った商工会議所の屋上が、指の爪ほどに縮んでいた。
辺りに目を向けると、この数十分の対話で街を浸食する赤い物は大分その版図を広げていた。
早急に砦に帰還し、避難民の誘導と受け入れをしなければ。
加速するため、彼女は翼を軽く折り、一直線に降下した。
落下の勢いが速度に上乗せされ、風が頬を擦り、髪の毛が嬲られる。訓練の時は心地よい瞬間だったが、今は胸の悪くなるような臭いが、風を染めていた。
とっとと砦に帰還しないと。
赤黒い物が這い回る地面に激突する直前、翼を広げて風に乗る。
落下の勢いがそのまま横方向の速度に転じ、一気に眼下の景色が流れていく。
灰色の石畳や建物に赤い物が混ざりはじめ、やがて一切が赤黒く塗りつぶされていく。地面から湧き出した何かが、辺りを覆っているのだ。
できればもっと高いところを飛んで帰還したいところだが、状況を確認することも任務の一部になっている。
赤黒い肉の這い回る街並みを見渡しながら、イプラスは飛び続けた。
すると、不意に前方の建物にへばり付く肉の蔦が、建物から剥がれてイプラスに向けて枝を広げた。
彼女を捕えんとする肉の蔦に、イプラスは広げた翼を傾け、大きく進路を変えた。
網のように広げられた肉の蔦を避けて、街の中を進む。
だが、相手はあきらめる気はないらしく、建物から蔦を剥がし、地面から新たな枝を生やして、網を広げた。
左右はもちろん、上や下に避けても避けきれそうにもない、広く大きな肉の網だ。向こう側が見えないほどの密度だ。
しかし問題はない。イプラスは翼を大きく広げると、上方に姿勢を傾けつつ、大きく打ち鳴らした。
ちょうど先ほど、落下の勢いを速度に転じたように、速度が彼女を高みへ導く。
多少の姿勢変化では避けられないはずの肉の網が彼女のすぐ先を通り抜けていき、イプラスはやすやすと飛び越えた。
だが、網の上端で彼女を迎えたのは、赤黒い物に覆われた街の景色ではなかった。
ただの赤だった。
「っ!?」
何が自分の目に入ったのか理解する前に、イプラスの顔や胸を柔らかな衝撃が打つ。一瞬で飛翔の勢いが殺され、イプラスの身体は落下した。
石畳に激突する痛みを覚悟するが、それより先に彼女を柔らかな何かが受け止めた。
つい先ほど飛び越えようとした肉の網だ。
赤黒い触手が枝分かれして作りあげた網は、イプラスの身体を柔らかく受け止めていた。
「く…何が…?」
衝撃によって朦朧としていた意識を強引に引き戻しながら、彼女は呟いた。
視線を身体に下ろすと、身体が赤く濡れていた。負傷したのか、と肝が冷えるが、痛みも外傷もないようだ。
どうやら、網を飛び越えようとした瞬間、赤い液体を向こうから浴びせられたらしい。
傷もなく、害もないようだが、このままじっとしていたら面白いことにはならないだろう。
「早く…!」
逃れようともがくが、動かした手足に合わせてグニャグニャと形を変えるばかりだ。
腕を伸ばして触手を掴むと、イプラスは身体を引きずりあげようと力を込めた。
だが、身体が動く寸前、彼女の身体を何かが這い回った。
「ひっ!?」
脇腹を擦られたような不意の感触に、彼女は声を漏らした。
身をよじり、錯覚かもしれない掌を払おうとするが、イプラスの引き締まった脇腹を掌は撫で続けた。
粘液に濡れた肌を撫でまわす何者かの愛撫と、辺りに立ちこめる甘い香りが、彼女の緊張を解きほぐしていく。
「く…放せ…!」
目に見えない手を払おうとするが、どう動こうと愛撫は赤い粘液の滑りの向こうから続けられた。
どうやら、この粘液自体がスライムのように自在に動き回るようだ。
そしておそらく、この辺りの触手から滲む粘液も、同様に自在に動き回れるのだろう。
粘液のことを報告できれば、大分戦闘が楽になるはずだ。早いうちに逃れなければ。
「く…ふ…ん…!」
もぞもぞと身体を這い回る粘液の感触をこらえながら、イプラスは肉の網に手を伸ばし、触手を掴もうとした。
粘液の滲む触手はぬるぬると滑るが、力でどうにか握り締める。肉の紐に指が喰い込み、身体を支えるに十分な強度を備えていることを彼女は悟った。
「ふ…ん…!」
身体を引き上げるべく力を込めるが、身体にへばり付く粘液が、ぬるりと腕に絡みついた。
粘液の掌が太ももを擦り、背筋をなぞり、脇腹をくすぐる。そして乳房に軽く力を込め、粘液の指を食いこませた。
「ん…!」
肉体が粘液の与える快感に反応し始めているためか、鼻にかかった声が漏れだし、力が抜ける。
それでもなおも力を込めようとする彼女の身体を、粘液は這い上って行き、足の付け根に触れた。
理性の力で抑え込んでいた興奮が、両脚の付け根の亀裂を撫でられたことで膨れ上がる。
そして、下着に染み込んだ粘液が、薄く口を開いた女陰に凝固させた指を挿し入れた週間、彼女の背筋を稲妻が駆けのぼった。
「……!」
一瞬目の前が白く染まり、高空から一気に下降する際の浮遊感が全身を支配する。
そして、手放しかけていた意識を引きとめ、どうにか手繰り寄せたところ、彼女はいつの間にか触手から手を離していた。
落下した直後と同じように、赤い粘液にまみれ、触手の網の中に囚われたままになっている。
再び逃れようと手を伸ばすが、彼女の全身に広がった粘液が、軽く蠢いた。
「ひぐっ!?」
鱗の合間を軽く撫でられただけなのに、情欲の炎が宿った身体は、素直に意識へ快感を伝え、腕から力を奪い去った。
指先が粘液に濡れる触手の表面を撫でさすり、なにも掴むことなく網の底へと落ちて行った。
「あ…あ…!」
快感に身悶えし、喘ぎ声が溢れだす。
すると彼女を包む触手が、枝分かれと成長を繰り返し、網の目を密にしていく。
どうにか触手の隙間から向こう側が覗いていたのが、いつしか網から肉の膜へと代わり、袋に入れられている様になった。
身体を支える肉膜の縁が寄り合い、彼女を包み込んでいく。
「ああ…いや、あ…!」
喘ぎ声の合間に拒絶の言葉を混ぜ、身悶えの痙攣に逃れようとする動きを滲ませながら、彼女は快感にうち震えた。
そして袋の口を絞るようにして、肉膜の袋が彼女を内に捕えた。
闇と閉塞感と、いくらかの温もりがイプラスを包み込んだ。
「ぁあ…!」
肉膜の中、自身が陥った絶望的な状況に、彼女は声を漏らした。だが、彼女を包む肉が、粘液を滲ませながら蠢くと、快感が沸き起こり絶望感を塗りつぶした。
衣服や髪の毛に粘液を染み込ませ、肌に擦り込むように、肉膜の内側が蠕動する。
口中の飴を転がし、唾液をまぶして蕩かすような粘膜の蠢きに、イプラスの身体は力を失い、徐々にその肢体を丸めて行った。
すると闇の中、いずこからともなく指ほどの太さの触手が彼女の顔に近づき、顔を軽く撫でまわしてから口内に入りこんでいった。
歯を立てようという意識が一瞬鎌首をもたげるが、背筋と足の裏を揉みほぐす粘膜と、身体を撫でまわす粘液に寄って溶け崩れ、容易く触手の侵入を許した。
触手は歯の間を通り、舌を越え、喉からさらにその奥へと入りこんでいく。
表面が粘液で滑っているためか、肉紐の侵入に苦痛はほとんどなかった。それどころか、肉紐が入りこんだことで呼吸がいくらか楽になった気がするほどだ。
快楽と興奮に濁る思考に、「一体なぜ?」という疑問が生じる。だが、答えはすぐに得られた。
肉膜の袋の内面から、粘液が滲み始めたのだ。それも、表面を濡らす程度どころではなく、後から後から溢れ出し、肉袋の内側に溜まり始めろほどだ。
注ぎ込まれるような勢いで滲みだす粘液は、徐々に袋の内側を満たし、彼女を浸けこんでいく。そして注ぎ込まれた粘液もまた、彼女の肌を濡らす粘液と一体となり、柔らかな場所を撫で、快感を注ぎ込んできた。
量を増した粘液は、大きくうねってより強い刺激と繊細な動きを生みだし、イプラスの意識に快感を注ぎ込んでいく。
「…!…!」
触手に口を塞がれ、声もなく身体を震わせる彼女をついに粘液が頭頂まで覆い尽くした。
へその緒の代わりに触手を口にくわえ、羊水よりはるかに粘っこくて赤い粘液に包まれながら、イプラスは肉袋の中に浮いていた。
まるで胎児のようだったが、イプラスを温もりと共に包み込むのは安らぎではなく、快感と肉欲だった。
粘液が肉膜の蠕動と共にぬるぬると蠢動し、彼女の身体全体を優しく愛撫する。
彼女の両脚の付け根、興奮で口を開いた女陰にも粘液は入りこみ、内側から膣壁をくすぐっていた。
「……!…!」
粘液の中に、彼女の喉の震えが起こす『喘ぎ声』が響く。
ゆるゆるとした快感は、彼女を絶頂へ導くわけでもなく、ただただイプラスの意識を侵し続けた。
柔らかな刺激と快感は彼女の意識を情欲で焦がし、徐々にその正気を蕩かして行く。
もう少し。もう少し。手が届きそうで届かない絶頂が、彼女を溶かしていった。



赤い肉と粘液に包まれた街の中、建物の合間に肉膜の袋がぶら下がっていた。
初めのうちこそ、内側にいる物が出てこようともぞもぞと蠢いていたが、いつしかその動きは止まった。
表通りから、裏通りに目を向ければ、似た皮袋がいくつもあった。
路地の片隅に転がり、壁にへばり付き、あるいは建物の間に張り巡らされた触手からぶら下がっていた。
皮袋だけが残されていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「バティ、私だ」
商工会議所の屋上に上ったロックは、兜の内側でそう囁いた。
『はい、どうしました?』
「商工会議所の意思統一を行い、ダーツェニカの全住民を避難させることにした」
『それはよかった…けど、大変そうですね…』
ロックの耳元で、安堵と困惑の混ざったワーバットの声が響いた。
「困難な仕事だ。そこで城門の開放と避難民の誘導を一部請け負うことになったから、迎えに来てほしい」
『既に向かっています。南です』
兜の内側の声に従い、南に目を向けると、青空の中を一欠けの黒が舞っていた。
風に舞う端切れのようにも見えるが、ロックはその正体を知っていた。
「……」
黒い籠手に覆われた手を掲げると、ロックはタイミングを見計らってフックを射出し、頭上を通り抜けるバティに引っかけた。
ワーバットは力強く羽ばたき、屋上に立つバードマンを引き上げた。
『どこの城門から回りましょうか?』
「まずはこのまま北だ」
ワイヤーを巻きあげ、バティと体を密着させてからロックは答えた。
「衛兵に商工会の正式な開門命令書を渡して、避難民を街の外へ導く。バティは、東西と南の門を回ってくれ」
『了解しました。住民への告知は?』
商工会で受け取った書類をバティの腰につけられた物入れに押し込んでいると、ロックに向かって彼女が問いかけた。
「既に人間会のハーピィ達が始めている」
『では声を上げて飛びまわる必要は有りませんね』
バティの声がロックの耳元で響いた。
そして、しばしの間飛翔を続けたところで、ダーツェニカ北部の城壁が近付いてきた。
『もうすぐです。切り離し準備を』
バティの声に、ロックが彼女と自身を繋ぐベルトに手を掛けた瞬間、彼の背筋を冷たい物が走った。
(何かに狙われている…!)
これまで培ってきた勘が、ロックの口を開けさせた。
「バティ!この場から離れろ!」
『え?』
彼女が事態を理解する前に、ロックはベルトを解除し彼女から離れた。
マントを広げ、ワーバットから距離を少しでも取ろうと身をひねった瞬間、彼のすぐそばを何かが通り抜けた。
日の光を照り返す、光沢を帯びた白い何か。一瞬視界を下から上へ通り抜けたそれは、剣のようだった。
バティが羽ばたきながら距離を取っていくのを確認すると、ロックの目は街へと向けられた。
まだ触手の浸食があまり進んでいない区画の一角、宿屋と思しき建物の屋上に人影があった。
「ソードブレイカー…!」
腰に剣を何本も下げ、抜き身の一振りを手にしたままロックを見上げる男の姿に、彼はその名を口にした。
できれば無視して北の門へ向かいたいところだが、また剣を投げつけられてマントを破かれてはたまらない。
すると、どうしたものかと逡巡するロックに向けて、ソードブレイカーが手を掲げた。
まるで、こっちに来いとでも示しているかのようだ。
仕方がない。
ロックはマントを広げて滑空すると、ソードブレイカーの立つ屋上へ降り立った。
「やっと見つけたぞ、バードマン」
ソードブレイカーは抜いていた剣を腰の鞘に戻しながら、そう口を開いた。
「何の用だ、ソードブレイカー」
「ああ、この事態について話がある」
兜の内側で、ロックの表情に険しさが滲んだ。
この地下から現れた触手の元凶に怪人が関わっている可能性があるからだ。
だが、続いて紡がれた言葉は、彼の予測と違っていた。
「事態の収拾のため、我々に協力させてほしい」
「…なんだと?」
ダーツェニカに破壊と混乱をもたらす怪人に似つかわしくない言葉に、ロックは思わず聞き返していた。
「この事態はもはや、商工会と人間会では収拾できない状態になっているはずだ」
顔を横に向け、赤い物に覆われつつある街の一角を示しながら、彼は続けた。
「恐らくお前たちのことだから、住民を全て避難させてから街ごとアレをどうにかするつもりだろう。その手伝いとして、住民の避難誘導をしてやろうということだ」
「…てっきり、お前たちが元凶だとばかり思っていたが…?」
「日誌を読んだだろう。我々ではない」
ソードブレイカーは短く否定した。
「それに、俺たちはあくまでもダーツェニカを荒らすのが目的だ。こういうふうに壊滅させるのは趣味じゃない」
「……」
ロックは、兜の内側からソードブレイカーを睨みながら黙考した。
一体何が正しくて、何が嘘なのか。彼らの言葉が事実なのか、日誌自体が嘘なのか。
『バードマン、私です!』
兜の内側で、バティの声が響いた。
「…どうした?」
ソードブレイカーを見据えつつ、最低限聞こえる程度の小声で、ワーバットに応じる。
『現在北門に到達しましたが、衛兵が誰もおらず、門扉が外側から閉鎖されています!』
「成程…」
どうやら異変が起こった時点で、その場にいた衛兵たちが街の外へ逃げ出し、外側から門を閉鎖して////////しまったようだ。
『既に住民が集まって、押し破ろうとしています!』
一つ間違えれば押し合いになり、かなりの数の死傷者が出る恐れがある。
「分かった。お前は他の門を巡って、命令書の伝達をしてくれ。そこは私がどうにかする」
『了解しました』
バティとの会話を終えると、ロックはソードブレイカーに向けて言葉を放った。
「一切合財信用する、というわけではないが、手伝ってほしいことがある」
「なんだ?」
「北門が外から閉鎖されており、住民が脱出できないらしい。そこでお前に門を破ってもらいたい」
「そんなことか」
ソードブレイカーは薄く笑みを浮かべて続けた。
「お安い御用だ」
「では、付いて来い」
ロックはそう告げて建物の縁に駆け寄ると、跳躍した。
「……ふん…」
マントを広げ、滑空を挟みながら屋根から屋根へ飛び移っていくバードマンの姿に、ソードブレイカーは短く嘆息して踵を返した。
飛ぶことのできない人間は、地道に地面を歩くしかないのだ。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



バティはダーツェニカの北東部を、東門に向けて飛んでいた。
『門を開放し、住民を避難させよ』という命令書を届けるためだ。
既に衛兵が独断で開放しているだろうが、念のためだ。
「…」
街に視線を落とすと、赤黒い触手が街の半分ほどを覆っているのが見える。
もはや街全体が飲まれるまで時間の問題だ。
視線を上げれば、彼女と同じくダーツェニカの上空をハーピィといった有翼の魔物が舞っていた。少し羽を操れば、触手や城壁を容易く越えて行けるというのに。
彼女らもまた、メッセージや仲間、大切な者の命を背負って、いずこかへ向かっているのだろうか。
「急がなきゃ…」
視線を前に向け、羽ばたいて加速しようとした瞬間、彼女の視界の端で何かが動いた。
赤黒く染まる、触手に浸食された一角へ視線を動かすと、建物の間から触手が一本鎌首をもたげているのが見えた。
人の腕ほどはあろうかという太さの、先端が膨れた触手だ。陰茎を思わせるその形と、自身に向けられた先端の亀裂に、バティはいやな予感を覚えた。
直後、触手の先端の亀裂が大きく広がり、赤い粘液が塊になって噴出した。
粘液は断続的に、数度に分かれて吐き出され、バティめがけて弧を描いて迫る。
バティはとっさに、前進するために羽ばたこうとしていた翼膜で空気を叩き、触手から離れるよう身体を傾け、粘液を避けた。
半ば固体になった赤い塊が、触手に覆われた街へと落ちていく。
しかし、彼女は胸を撫で下ろす間もなく、新たな触手が建物の谷間から先端をのぞかせ、粘液を噴出した。
「っ!」
翼膜が空を打ち、バティの身体を少しだけ上空に持ち上げる。
大部分の粘液は彼女に届くことなく地面や建物へと落ちて行ったが、翼膜の縁を掠めた物もあった。
「次はどこ…!?」
両腕で空を叩くと、バティの身体がくるりと、舞台の踊り子のように開店した。
(前に三、右に二、後ろに三、左に一…)
その場で回転しつつ目に収めたあたりの様子で、自身を狙う触手の位置と数を把握する。
いずれも、彼女の上昇に合わせて角度を調整しており、回避の可能性を考慮したのか、やや広い範囲に狙いを定めているようだった。
多少身を捻ったり移動したりした程度では、躱せそうにない。
(ならば…!)
今にも粘液を放たんばかりに亀裂を開く触手の先で、彼女は広げていた両腕を下ろした。
翼膜さえも畳み込み、指の先だけを少しだけ開くことで、彼女の身体は頭を下にして落下を始めた。
直後、触手から赤い粘液が放出され、彼女の足の先、上空で互いにぶつかり合った。
そして、バティは赤いもので覆われた街への落下と、降り注ぐ粘液の飛沫を避けるべく、畳み込んでいた翼膜を勢い良く開いた。
地面に向けて、矢のように落下しつつあった彼女の身体が、翼膜の受けた風によってほぼ真横へ、落下の勢いをそのままに滑空する。
触手たちは、包囲の輪を易々突破したバティに、慌てたように膨れ上がった亀頭を向けた。
しかし向きが揃う頃には、彼女はもはやどれほどの勢いで粘液を放っても届かないほどの距離へと滑空していた。
すると、彼女の進行方向の建物の間から、新たに陰茎めいた触手が顔を覗かせ、脈動とともに赤い粘液が放たれる。
「…っ」
風を受ける翼膜の角度を変え、少しだけ高度を上げると、バティの下を粘液が通り抜け、直後触手の上を彼女は通過した。
この速度ならば、命令書を届けられる。
(でも…)
確信とともに、辺りに目を向けると、彼女の胸中に自戒の念が浮かんだ。
先ほどまで空を舞っていた魔物の数が、明らかに減じていたからだ。
目的地にたどり着いたのか、触手と粘液によって撃ち落とされたのか。
前者であることを祈りつつ、バティは後者とならぬよう、両腕の翼膜を操った。
比較的触手に侵されていない区画まで、もうすぐだった。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



未だ触手の姿が見えない区画の一角、衛兵隊の詰め所にリェンの声が響いた。
「はあ!?城門が全部閉鎖!?」
つい先ほど屋上に降り立った、ハーピィの報告に対する驚きの声だった。
「わ、分かりません…ですけど、門が閉ざされて、避難しようとする人たちが集まってて…」
若い、むしろ幼いといった方が良いぐらいのハーピィが、リェンの大声に臆しつつも、斥候の役割を果たすべく、報告を紡いだ。
「門番がビビッて、門をふさいで逃げたのか…それとも…」
リェンの直属の部下たちが、城門閉鎖の理由を推測しようとした。
しかし、強く何かがぶつかり合う物音が、彼らを遮った。
「理由は後だ!今は城門の開放と、住民の誘導が先決だ!」
だが、リェンがテーブルを叩いた音と、彼自身の声によって思考が断ち切られる。
そう、このまま放置していては、街を脱出しようと詰めかけた避難民による大混乱から騒ぎが生じ、死者が出る恐れがある。
「まずは北門だ!北門の避難民の整理はお前!お前は城門開放だ!」
「了解!」
彼の命令に、詰所から最も近い北門へ隊を動かすべく、部下の二人が自身の詰所を飛び出していった。
「残りの連中は、避難民を可能な限り落ち着かせ、門を開けるまでの時間を稼がせろ!」
命令に、衛兵たちが忠実に動く。
しかし、リェンの顔には険しさが宿っていた。どうやって状況を解決すればいいのか、殆ど手が思いつかないからだ。
「どうする…」
部下たちに聞こえぬよう、口の中だけで彼は呻いた。
せめてバードマンが協力してくれれば、もう少しヒントが手にはいるかもしれないが、彼の協力は望めそうにない。
怪人連中が大人しくしているのが、唯一の救いだろうか。
「リェン!」
不意に、女の声が彼の耳朶を打った。顔を向けると、興奮した様子のワーウルフが、紙切れを手に部屋の戸口に立っていた。
「どうしたジェーン」
「バードマン!バードマンがこいつを…!」
偉く興奮した彼女から紙切れを受け取ると、その内容にリェンの目が見開かれた。
『北門が閉鎖されている。ソードブレイカーに開けさせる』
たったの二文だったが、リェンにとっては百万の励ましの言葉より心強かった。
「ジェーン!北門の整理に行った連中を追いかけろ。『門扉近辺を空けて、門扉の開放作業を邪魔するな』と伝えるんだ」
足の速いワーウルフに、彼はそう命令を預けた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



商工会と人間会の面々は、会議の場所を地下に移していた。
とうとうこの区画まで、触手たちがたどり着いてしまったからだ。
侵入経路の多い会議室に留まるよりも、出入り口を限定できる地下に籠った方が良い。
そう判断しての移動だった。
「第一防壁、配備しました」
「第二防壁、人員配置完了」
「第三防壁、いつでも閉鎖できます」
地下への階段の入り口、階段の終わり、地下室の扉。その三か所の守りを固めたという報告に、壮年の男が頷いた。
「よし…これで、出来ることはすべてやったな」
「ああ」
隣の椅子に腰を下ろしていたアヌビスが、男の声に頷いた。
階段の入り口にはバリケードを築き、階段の終わりには弓兵や攻撃魔法の使える魔物を配置。そして最後は部屋の扉を閉鎖し、完全にふさいでしまって籠城するという、三段階の守りが完成したのだ。
後は待ち、耐えるだけだ。
「しかし…なかなか落ち着いているな」
「…そう見えるのか?」
アヌビスの問いかけに、商人はそう聞き返していた。
「お前に限らない。商工会の皆、そう見える」
彼女は地下室に押し込められた、商工会の幹部たちを示した。
「上にいた時は動揺していたようだったが…」
「もう慌てても騒いでもどうしようもない、と腹を決めたんだろうな」
男は自嘲を孕んだ笑みを浮かべた。
「それに、よくよく考えてみれば、生き残れば勝ちという楽な勝負だしな」
「楽?」
「ああ、店を失うか信用を失うかって言う、被害を押さえ込むための取引よりかは遥かに楽だ」
その一言に、アヌビスは思わず噴き出していた。
「なるほどな!確かにそういう勝負と比べたら、遥かに楽だな、ははは…」
彼女はひとしきり笑ってから、呼吸を整え、続ける。
「ふふふ、なんだか生き残れそうな気がしてきた」
「そうだ。生き残って、またダーツェニカを立て直すぞ」
彼の言葉に、アヌビスは頷いた。
そして、どこからか建物が倒れたような、地響きが伝わって来た。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



ダーツェニカ北部。
街道を遮るように築かれた城門の内側の広場に、人がひしめいていた。
手に手に荷物を持ち、一刻も早く町を出ようとする住民と、住民たちを落ち着かせようとする衛兵たち。
本来ならば、住民を誘導するだけでいいというのに、城門が閉鎖されているために住民はパニックに陥りかけていた。
城門の閉鎖を知り、別の城門を目指そうとする住民と、閉鎖を知らず城門を目指そうとする住民。
「皆さん!その場で待機してください!」
「城門は閉鎖されています!ですがもうすぐ開放されます!」
「もうしばらく、待機してください!」
衛兵たちが声を張り上げ、住民たちを落ち着かせなければ、押し合い圧し合いによる死傷者が出てしまっていただろう。
だが、今ももうどうにか押さえ込んでいる、といったところで、パニックになるのはもはや時間の問題だった。
「分隊長!もう限界です!」
「城門の開放まで耐えろ!」
リェンの命令に従う衛兵たちが、興奮する住民を押しとどめながら、言葉を交わした。
そう、城門が開くまで、耐え抜けば…。
城門が開かないかもしれない、という一抹の不安から目をそむけながら、彼らは必死にパニックを抑えていた。
「おい!あれ!」
不意に、住民たちの間から声が上がり、誰かがある方向を指さした。
衛兵たちの背後、城壁の上部に向けられた指に、住民が、衛兵が視線を向ける。
そして、城門の上部に取り付けられたひさしの上に、人影が一つ立っていることに、その場にいた皆が気が付いた。
「バードマン…?」
「バードマンだ!」
うわさ話の中や、宵闇に紛れる姿でしか見られなかった、黒づくめの男の姿に、住民たちの間に驚きと安堵が広がっていく。
真逆だが、暴動寸前の興奮が収まっていく様子は、静かな水面に波紋が広がっていくようだった。
「……」
バードマン―ロックは、広場に集まった住民の視線を、無言で受けていた。
住民たちの視線には、いつしか『バードマンならどうにかしてくれる』という期待が宿っていた。
彼らが信頼を寄せるだけのことを、バードマンは今までしてきたのだ。
(期待にこたえなければ…)
彼は内心身を引き締め、眼下に並ぶ住民たちに向けて、口を開いた。
「皆さんに頼みがある。どうか一歩ずつ後ろに下がって、私の降りる場所を作ってほしい」
つい先ほどまで押し合い圧し合いしていた彼らが、バードマンの一言に顔を見合わせ、ゆっくりと退いて城門の前にスペースを作った。
バードマンは城門のひさしを蹴り、宙に身を投げ出すと、マントを広げて石畳の上に降り立った。
ただ飛び降りれば、骨の二、三本でも折りかねないような高さであったが、バードマンは屈んで衝撃を殺し、ゆっくりと住民の前で立ち上がった。
「待たせてすまなかった。今から、城門を開く」
住民や衛兵に向けて、彼は続ける。
「ただ、私一人では無理だから、協力者を連れて来た…来い」
バードマンを囲むように立つ人垣の一角に向けて、彼はそう呼びかけた。
すると、並ぶ人々の間から、バードマンが注目を集めている隙に歩み寄っていた男が、城門前のスペースに歩み出た。
腰に何本もの剣を吊るした男の姿に、衛兵たちの間に緊張が走る。
「彼は大丈夫だ。私を信じろ」
衛兵の緊張が住民たちに広がる前に、バードマンはソードブレイカーが安全であると保証した。
「今から門扉を切り刻み、開放する。だが、皆落ち着いて脱出してほしい」
住民たちに、全員の安全な脱出を保障する言葉を、彼は紡いだ。
幸い、この近辺にまだ触手は現れていない。
時間がかかっても、全員を無事に退避させることができるはずだ。
「…そろそろいいか?」
「ああ、頼む」
ソードブレイカーの言葉に、バードマンは短く応じた。
そこには、ソードブレイカーならば門を破れるという確信があった。
また同時に、ソードブレイカーにもバードマンに対する、住民をパニックに陥らせないまま人前に出ることができる、という予測があった。
「……」
住民や衛兵、バードマンの眼前で、ソードブレイカーは腰に下げていた剣を二本抜いた。量産品の、銀貨数枚で簡単に手に入るロングソードである。
だが、どこでも手に入るような二本の剣でも、城門を切り裂く攻城兵器となるのだ。
ソードブレイカーは深く息を吸い、一気に城門に向けて踏み込んだ。
瞬き一つの間に、城門までの十数歩の距離が縮まり、ソードブレイカーの手にした二本の刃が乱舞する。
金属の枠にはめられた分厚い木板に、見る見るうちに筋状の傷が刻みこまれていく。
だが、斬れども斬れども傷がつくばかりで、城門自体を破壊するにはまだ遠い。
どうやら、木板がはめられているのは表面だけのようで、門扉自体は分厚い鋼の板のようだった。
木板の亀裂から覗く鋼の光沢に、ソードブレイカーの胸中に大きな山のイメージが浮かんだ。
まるで、初めて石壁を切ろうとした時のようだ。
あの頃、まだ魔物が危険な存在だった頃、魔物に立ち向かうためだけに剣を振っていた頃。ただがむしゃらに剣を振りまわし、腕力を鍛えようとしていた頃。
あの頃のように、ソードブレイカーは剣を振りまわし、木板を切断し、剥き出しの金属に一条ずつ刻みを入れ、一筋ずつ門扉を削っていた。
鋼の門扉に刻まれる傷が、線から溝へと深みを増す。
瞬きの間と数日の間の差こそあるが、亀裂が増していく様子は、丸太を相手に剣を振りまわし、日ごと樹木に刻まれていったあの日のようだった。
(そう言えば、あの頃は大まじめに魔物退治をしようとしていたな…)
剣を振りまわしていた頃の心境を、ふと彼は思い起こした。
旧魔王時代、まだ力と勇者が求められていた時代、彼は大まじめに魔王を倒そうと山にこもり、剣を振るい続けた。
やがて一人で岩塊を削り崩せるようになったところで、山を降りた彼は魔王の交代を知った。
そして、使いどころのない力だけが、彼に残された。生身を切り刻む悦びを覚え、有り余った力が暴力となるのに、そう時間はかからなかった。
(俺は…馬鹿だったな)
成りたかったモノと真逆の場所にたどり着いたことに、ソードブレイカーは内心苦笑した。
「ふ……!」
肺から空気を絞り、一息で新たな空気を取り入れながら、刃を縦に横に斜めに、踊らせる。
ダーツェニカで魔物と人を刻み続けた力が、今まさに鋼の門扉を削りつつあった。
がぎん…ッ
「っ!」
鋼を削るという極端な酷使に、柄を伝って刀身の軋みという形で上げていた悲鳴が、ついに剣が砕け折れる形で発露される。
だが、ソードブレイカーは手に残っていた剣を投げ捨てると、腰に下げていた一本を新たに抜き放った。
平らだった鋼の門扉には、凹状の窪みが出来上がっており、向こう側に抜けるまでもうすぐだ。
「行けるぞ…!」
「行け!頑張れ!」
ソードブレイカーの背後、遠巻きに見ていた群衆が、もう少しで扉が開くという事実に声を上げた。
そこに、ダーツェニカを彷徨う殺人鬼に対する恐怖は存在せず、ただ閉鎖された城門が開くことへの期待が宿っていた。
「行け…行け…!」
「頑張れ、ソードブレイカー…!」
呼びかけに込められる期待が、いつしかソードブレイカーへの声援へと変わっていく。
(…そうか…)
背後から投げかけられるいくつもの声に、ソードブレイカーと呼ばれている男はふと思い至った。
(俺は、こうなりたかったんだな…)
勇者への声援めいた声を受けながら、彼は心中に喜びが生まれていることに気が付いた。
そしてその喜びは、金属で人や魔物を刻んでいるときの悦びより、遥かに大きかった。
(やはり、気分がいいな…)
内心の喜びに口の端を釣り上げながら、男は両手の刃を引き戻し、門扉に向けて突きを繰り出した。
鋼を削られ、大きく窪んだ門扉に、二本の刃が深々と突き刺さる。男の手に、鋼より柔らかな手ごたえが柄を通じて伝わった。鋼の門扉を刃が突き抜けたのだ。
「おおおおお…!」
低い声と共に込められた力で両腕が膨れ上がり、鋼に突き立った刃が門扉を切り進んでいく。
みしみし、みしみし、と刃が軋み、酷使に対して悲鳴を上げた。
だが、彼は軋みに拘泥することなく、鋼を切り裂き続けた。
そして、刃が門扉に円形の刻みをいれたところで、ついにソードブレイカーの名の通り、彼の握っていた剣が音を立てて折れた。
直後、円形にきりぬかれた鋼が、男の方に向けて押し出される。
「っ!?」
自らの方にせり出してきた鉄塊に、ソードブレイカーは手にしていた剣の柄を投げ出しつつ、横飛びに避けた。
石畳の上に、門扉を成していた鋼の塊が転がり落ち、穴を通じて人々の目に城門の向こうが露わになる。穴の向こうにあったのは、一面の赤だった。
「なに…」
人々が城門の向こうに何を見たのか理解する前に、外開きのはずの門扉が内側に押し開かれ、穴の向こうから覗いていた赤が広場へ雪崩れ込んできた。
触手と粘液と肉塊と、赤が溢れだし、最初にソードブレイカーに迫った。
避けて逃げ出す暇も、新たな剣を抜き放つ間もなく、悲鳴さえ上げることなく彼の姿が赤い肉と触手の奔流の中に消えて行った。
とっさにバードマンが腕を掲げて、城門のひさしに向けてワイヤーを放つが、それが彼の身体を引き上げる前に、肉と粘液の流れに黒いマントが飲み込まれる。
赤の迸りは止まることなく、城門から広場へ広がり、遠巻きにソードブレイカーを見ていた避難民たちに達し、一息に数人、十数人と飲み込んでいく。
そこまで来たところで、ようやく人々が城門の向こうに何があったのかを理解し、悲鳴を上げた。
城門が見えていた人々が踵を返し、広場から離れようと駆けだした。しかし、未だ何が起こったのか知らぬ者たちと、城門が開いたことで外に出ようと押し寄せる人々とがぶつかり合い、誰も身動きが取れなくなる。
「逃げろ!逃げろ!」
「触手だ!あいつらが出た!」
「開いたんだろ!?逃げるんだ!」
怒号と悲鳴、押し合い圧し合いが起こり、衛兵たちが押しとどめる間もなくパニックへ昇華する。
やがて、人だかりの一角で人々が将棋倒しになり、苦痛の悲鳴が加わった。
人の背丈を上回る太さのナマコめいた姿の肉塊は、広場に身を横たえると、その先端から紐状の触手を伸ばした。そして身動きの取れない人々に触手を寄せ、一人また一人ととらえて、その内側へ引きずり込んでいった。
「ああ…早く…!」
「いやだ、いやだ…」
悲鳴と苦鳴にまぎれ、弱々しい声が響いている。
肉塊から延びる触手が、枝分かれと成長を繰り返しながら、身動きの取れない人々を一人また一人と包んでいく。


城門前広場が赤に覆われるのに、そう長い時間はかからなかった。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



肉と粘液に覆われ、触手のほかに動く物の気配のない街の上を、バティは一人飛んでいた。
触手が時折頭をもたげ、彼女を捕えようと腕を伸ばし、粘液を放つが、開門の命令書を届けるという任務を背負った彼女の全速力と機動の前には、いずれもほとんど意味がなかった。
もう少しで、最初の目的地である東門にたどり着く。
その時だった。
――バっ――
「ロック様……!?」
バティが、耳元で響いた小さな音に思わず主の名を呼んだ。
まるで、自分の名を呼ぼうとして、不意に言葉を断ち切られたかのような。そんな印象を、彼女は耳元で響いた音に感じた。
「ロック様!ロック様!?聞こえますか!?」
羽ばたきを続けながら、向こうにいるはずのロックに向かって、彼女は呼びかけた。
だが、返答はおろか、微かな雑音すら戻ってこなかった。
「…っ!」
主の異変に、彼女は戻るべきか進むべきか逡巡してしまった。
その一瞬の隙をついて、彼女に触手が狙いを定める。
「っ!いけない!」
主の異変に気を取られ、速度と高度を落としていたことに気が付き、バティは両腕の翼膜で空気を打った。
一瞬遅れて、触手の先端から赤い粘液が迸る。
とっさの判断で大部分をかわすことができたものの、あらかじめ避ける先を予測していたと思しき粘液が、彼女の右足に命中した。
粘液の生温さとぬめりが右足を包み込んだ直後、熱が生じた。
「し、しまっ…!」
右足が焼けんばかりの熱を感じ取った瞬間、彼女の足を伝って痺れが這い上って来た。
「く、ひ…!」
痺れが全身に広がり、両腕から力を奪っていく。しかし、眼下には触手と粘液が広がっているため、この場で羽ばたきを止めて落下するわけにはいかない。
じわじわと這い登る独特の感触を押さえ込み、彼女はこの場から逃れようと羽ばたいた。
だが、全身を蝕む痺れは、彼女から機動力と速度を大幅に奪っていた。
ようやく羽の生え揃ったひな鳥でさえ、もう少しまともに飛べるだろうというよろよろした動きに、陰茎めいた触手たちは膨れ上がった先端を彼女の方に向けた。
内側に溜めこんだ粘液を抑えきれない、といった様子で震えていた触手が、先端の亀裂を大きく広げ、赤い迸りを放った。
バティめがけて幾度も放たれてきた粘液が、ついに彼女の全身に命中した。
翼膜が、背中が、腹が、胸が、顔が、赤い粘液に塗れる。
「ああああああっ!」
全身にまとわりつく熱に、彼女は絶叫を上げた。
粘液自体の温もりと、肌に生じる熱が、彼女の神経を灼いたからだ。
翼膜を広げていた両腕が、一息にその力を失い、風の流れからその体が外れた。
落下の勢いによる空気の流れが、バティの身体を撫で回し、赤に覆われた街へと導いていく。
すると、建物の合間から数本の触手が空に向かって伸びあがった。腕ほどの太さだった赤黒い触手が、バティの真下で絡み合い、人の胴ほどの一本の肉樹を作り出す。そして、梢が広がって肉紐と触手の枝葉を伸ばし、バティの身体を優しく受け止めた。
「ああ…っ!」
赤い粘液にまみれた彼女の肌に、細くやわらかな肉の紐が触れ、痺れるような快感を生み出す。粘液がサキュバスの体液のように、彼女の感覚を研ぎ澄ませ、興奮を煽っているのだ。
彼女を肉樹から落とすまいと、肉紐が手足に絡みつくだけでも、バティは丹念な愛撫を受けてるかのような快感を覚えていた。
「うあ…あああ…!」
望まない神経の昂りに、彼女の口から喘ぎが溢れだした。
眉根を寄せ、触手に手足をからめられてもなお、彼女は身をよじってこの場から逃れようとしている。しかし、その様は快感に身悶えする一人の女でしかなかった。
事実、触手から逃れようとするバティに、四肢を伝わって快感が染み入り、逃れようとしての身悶えを随喜のそれへと塗り替えていく。
(逃げなきゃ…!)
脳裏の嫌悪感と、命令書伝達への使命感、そして主への想いに縋りつき、バティは身体を蝕む快感を意識から追い出そうとした。
触手に巻き取られ、快感によって力のこもらない手足が、彼女の意思によって少しだけ動きだす。
肉紐は、弱々しいながらも力の籠った四肢を逃すまいと、表面を蠕動させて這った。だが、あらかじめたっぷりとまぶされていた粘液が、触手自体のぬめりと相まって、締め付けの力を受け流し、拘束から易々と手足を抜けさせた。
「んんっ…!」
鼻にかかった、色気の混じった吐息と共に、彼女は巻き付く触手から腕を引き抜き、身体を動かそうとした。
すると、枝葉のように広がっていた何十本もの肉紐が、バティに先端を向けるように伸張した。細く絞られた肉紐の先端が膨れ、表皮が裂ける。すると、粘液を滴らせながら膨れ上がった先端が新たに現れた。
バティに向けて粘液を放って来た、陰茎めいた姿の触手のミニチュアだった。空を飛ぶ魔物を狙撃どころか、人の背丈ほどまで粘液を飛ばすことすらできそうにない。だが、自身を囲む数十本の陰茎がしようとしていることに気が付き、バティの背筋を怖気が走り抜けた。
瞬間、陰茎めいた形の触手が大きく脈動し、先端からバティめがけて粘液を迸らせた。
「ひぃぁぁぁぁああああっ!?」
粘液の量も勢いも少なく弱い物だったが、情欲を煽る粘液が直接肌を叩く感触に、彼女は裏返った声を上げた。
粘液の一滴が肌を打つたびに、そこを起点に心地よい熱と痺れが彼女の神経を襲う。そして海女誰のように降り注ぐ赤い滴が、彼女の意識に快感の稲光を走らせた。
「ああ、あああっ!」
立て続けの快感の落雷に、彼女の意識が絶頂へと引き上げられた。
心身が快感の嵐の中に投げ出され、思考を絶頂の解放感が塗りつぶす。
ともすれば忘我の極地まで連れ去られそうになるのを、バティは快感の嵐に耐えつつ、必死に思考にしがみついていた。
(ロック様…!)
心中で主の名を呼び、バティは絶頂のもたらす解放感と快感に抗おうとする。
しかし、触手の一本が彼女の微かな反抗を嘲笑うように、両脚の間に這い寄り、赤い粘液とは異なる液体に濡れそぼった下着を突いた。
液体の滴りとは異なる、熱と弾力を備えた感触に、快感の渦の中からバティの意識が股間に向けられた。
直後、陰茎めいた形の触手が、下着を除けて股間の亀裂に身を滑り込ませた。
赤い粘液の働きにより、バティの身体は魔物としての本能を煽られ、肉棒を模した触手を滑らかに受け入れ、愛液にぬめる膣壁で抱擁した。
「ひうっ」
括約筋の締め付けにより触手が圧迫され、胎内で膨れたかのような錯覚を彼女は覚えた。
すると、触手も締め付けに反応したかのように、脈動を繰り返しながら粘液を放った。
魔物の肉体が、胎内に注ぎ込まれる粘液を精液と誤認し、放たれるそばから子宮まで啜りあげた。
粘膜を通じて、赤い粘液が胎内に染み入り、血流に加わる。直後、彼女の全身に燃え上がったような熱と快感が生じた。
染み入った粘液はごくわずかであったが、全身にいきわたり、滴る粘液と併せて身体の内外から神経を刺激するには十分な量だったからだ。
「っ………!」
バティは全身を襲う快感に、口と両の眼を大きく開き、声にならぬ喘ぎを絞り出した。
意識が絶頂の白に塗りつぶされ、意志力だけで動かしていた手足が快感に痙攣する。
赤い粘液と触手のもたらす快感が、バティから全てを奪い去ったのだ。
自身の名前さえも絶頂の渦に消えてしまった彼女の口からほとばしるのは快感の吐息で、手足を動かすのは刺激による身悶えだった。
「…っはっ…!」
全身に粘液を浴びせられつつ胎内に粘液を注ぎ込まれ、甘い喘ぎを漏らすバティに、触手たちが覆いかぶさって行った。
肉樹の梢から広がっていた枝葉が閉じ、ワーバットの姿が赤い肉の中に消える。
そして、彼女を包み込んだまま、触手の塊は建物の合間へと降りて行った。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



ダーツェニカの倉庫街だった一角は、もはや魔界と変わらぬ様相を呈していた。
並ぶ倉庫は、触手に覆われるという状態を通り越し、もはや赤い肉の中に埋もれていた。
人の胴よりも太い触手が通りを這いまわり、肉膜と粘液が建物の形もわからぬほど一切に絡みついていた。
だが、見渡す限りの触手の合間にレンガ積みの一角が覗いていた。建物と建物の谷間の、ごくごく小さな袋小路だ。
触手は、袋小路を飲み込もうと壁面や地面を伝い、肉紐を這わせていく。しかし、袋小路の奥から噴き出した炎に、肉紐が炙られ、内側から粘液を弾けさせた。
焼け焦げた先端を切り捨て、石畳や壁面を張っていた触手が退き、同時に袋小路から溢れた炎も止まった。
「はあはあ…」
袋小路の奥、三方を壁に囲まれた場所に、パイロは立っていた。
彼の傍らには炎の精霊が立っており、袋小路の入口に向けて腕をかざしている。
倉庫街への触手の浸食が始まってからどれほど経過しただろうか。怪人たちと散り散りになり、パイロはどうにかこの袋小路に逃げ込み、イグニスの炎によって生きながらえていた。
もっとも、この袋小路以外が触手の海に没している様子は、逃げ込んだというより追い込まれたと言うべきだった。
「はあ、はあ…」
緊張と集中によって上がる呼吸を押さえながら、パイロは目を左右に動かした。一度炙ればしばらく触手は大人しくなっているが、油断はできない。
「…っ!」
背筋を撫であげる寒気に、とっさに振り返りつつ上を見上げると、パイロの視界に建物の縁から頭をのぞかせる数本の触手が映った。
「イグニス!」
彼の言葉に呼応し、炎の精霊が振り向きざまに指先から炎を放った。溢れだした火炎が膨れ上がり、建物の屋上から雪崩れ込もうとする触手に浴びせかけられた。
纏わりついた炎が肉紐と触手を焦がし、身悶えさせながら退かせた。
「はあ、はあ…」
建物の縁や袋小路の入口へ、パイロは息も荒く目を巡らせた。
ここから脱出できるのか。あとどれほど耐えれば助かるのか。まったく予測もつかないが、可能な限り生き延びなければならない。
全身全霊で、四方に意識を向けながら、彼は右に左に視線を向けた。
すると正面、袋小路の入口に、一際太い触手が這い寄ってきたことに彼は気が付いた。
袋小路の道幅より少し細いほどの、巨木めいた太さの触手が鎌首をもたげ、袋小路に入らんと這い寄って来た。
「イグニス…!」
パイロの命令と同時に、炎の精霊が両腕から渦巻く火炎を放った。
炎は建物の合間いっぱいに広がり、袋小路の入口に立ちはだかる触手に覆いかぶさった。
炎の壁が建物の合間に立ちふさがり、触手の撃退と侵入を阻もうとする。もちろん永続的に壁を作り続けることなどできないが、あの極太を退かせることさえできればいい。
だが、その想いと裏腹に、極太の触手は炎の壁を突き破って身をあらわした。
熱によって赤黒い表面は焼け爛れ、黒く縮れた表皮と水疱が生じていた。太かったためか、芯まで焼けてないようだが、人間ならば火傷のショックで死んでもおかしくないほどのダメージだ。
しかし触手は身に帯びたやけどに拘泥するどころか、なおも新たな個所を炎の壁に晒しながら、パイロの方に向けてにじり寄って来た。
イグニスは左手で炎の壁を維持しつつも、右手の向きを変えて、焼け爛れた触手の先端に再び炎を浴びせた。
水疱が爆ぜ、焦げた表皮の合間から覗いていた内側の肉が、見る見るうちに焼け焦げて燃え上がる。
このまま芯まで焼きつくさんばかりの火勢であったが、触手の進行は止まらない。内側から滲みだす粘液で吹きつけられる炎を抑えながら、ついにパイロとイグニスの眼前に迫った。
「く…!」
半ば炭と化し、赤黒い液体を表皮の亀裂から滲ませる触手が、二人の眼前で音を立てて裂けた。
内側から大量の粘液が湯気を立てながら滴り落ち、表皮と粘液に守られていたモノが姿を現す。
それは、三人の女だった。乳房が大きく膨れた赤い髪の三人の女が、粘液に塗れ互いを抱擁しながら、極太の触手の中に収まっていた。だが三人は腰のあたりで一本の触手につながっているため、彼女たちが人間でないのは明らかだった。
「…っ!」
イグニスが両手から放っていた炎を消し、焼け焦げた触手の中から現れた三人に手を向ける。
しかし炎を放つ直前で、彼女は動きを止めた。このまま火を放てば、溢れた炎が傍らに立つ少年に襲いかかる可能性に思い至ったからだ。
「イグニス…」
逡巡する精霊に、少年が低く声を掛ける。少年の言葉に、イグニスは触手から視線を離し、彼の方に向けた。
イグニスの目に映ったのは穏やかな、諦念を孕んだ少年の顔だった。
「ありがとう、もういいよ…」
十数年分に及ぶ感謝の言葉に、炎の精霊は主が何を欲しているのかを悟った。
粘液に塗れた三人の女の目が開き、少年とイグニスを捕えんと手を伸ばす。
だが少年と精霊は、六本の腕が届く前に、身を寄せ合い互いの背中に手を回した。
そして、粘液に塗れた指が届く寸前、イグニスの身体が燃え上がった。イグニスの人の形に押し込められていた炎が、純粋な熱と光となって溢れだしたのだ。
炎は少年を包み込み、触手と一体となった女たちに浴びせかけられた。
粘液が瞬間的に乾き、皮膚を焼き肉を焦がし、火達磨にする。
そして、炎の中心に立っていたイグニスの身体が、内なる炎の圧力によって、ついに爆ぜた。



倉庫街と呼ばれていた、肉と触手の海の一角で、その瞬間光と熱と爆音が溢れ、轟いた。
火炎が建物の合間から、触手ひしめく通りと空へ噴出し、遅れて建物がなぎ倒された。
炎と建材の嵐に、触手が巻きこまれ、炙られ、潰され、触手の海にぽっかりと穴が開いた。
ひしめく触手と粘液の真ん中に、焦げた肉片と煤けた建材、剥き出しの石畳が覗く。
だが、ほどなくそれもゆっくりと押し寄せる肉と粘液に飲まれ、消えて行った。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



丸く切り取られた視界の中、赤く染まったダーツェニカの城壁が広がっていた。
いつも見えていた、高くそびえる石積みの城壁は姿を消し、内臓と剥き出しの筋肉を思わせる肉がそびえていた。
望遠鏡を目から離すと、手が届きそうなほど近かった肉の壁が遠くへ離れる。
「…ダーツェニカに動き、なし…」
ダーツェニカにほど近い丘の上で、ダーツェニカ南方砦から派遣された兵士は、そう声に出した。
「ダーツェニカに動きなし。了解、本部まで報告します」
兵士の傍らに立っていた竜兵が、兵士の言葉を復唱すると翼を広げた。そして、ダーツェニカ南方砦へ向けて羽ばたいていった。
「……」
兵士は伝令役の竜兵を見送ると、再び商都に目を向けた。
突発的な地震の後、ダーツェニカの城壁が肉と粘液に覆われている、と報告されたのが数時間前。ダーツェニカ南方砦では、かねてからのダーツェニカの反乱と、魔王軍からの攻撃の両方を想定し、部隊の展開を行った。
そして、彼は斥候として、ダーツェニカの監視を命じられた。
「……」
再び望遠鏡を目に当て、彼はダーツェニカに目を向けた。
大陸中に張り巡らされた街道の一本が、そびえる触手の塊によって遮られている。
本来ならば街道を通じて、巨大な城門が口を開いて荷馬車や乗合馬車、人や物を受け入れ送り出していると言うのに、触手の壁はただ立ちはだかるばかりだ。
中で何が起こっているのか、何がこれから起ころうとしているのか、まったく想像もつかない。
「…ん…?」
視界を一瞬よぎった影に、兵士は望遠鏡を目から離した。すると、先ほどよぎったのが一体のドラゴンであることに彼は気が付いた。
軍服に身を包み、空を舞っているのは、南方砦所属の竜兵だった。
先ほど本部との伝令のため飛び立ったドラゴンとは別の竜兵で、どうやら彼女は斥候の任務を背負っているらしい。
兵士は竜兵の動きを読みつつ、彼女に望遠鏡を向けた。拡大された視界に、彼女の整った顔が大写しになった。
恐らく城壁の向こうを見ているであろう竜兵の顔には、険しい表情が刻まれていた。城壁の向こうでは、それはおぞましい物が繰り広げられているのであろう。中を見てみたいと言う気もするが、城壁を包む肉からあまり愉快な状況でないであろうことは、兵士にも予測できた。
「それにしても、何が起こってるんだ…?」
竜兵から望遠鏡を城壁に向け直しながら、彼はそう呟いた。
聖都と王都の保護を受けず、自治によって規模を拡大してきたダーツェニカは、ただでさえ危険視されていた。加えて、魔物を引き入れている可能性も報告されていたため、ダーツェニカに対する警戒は高まっていた。
いつダーツェニカが蜂起するのか。いつダーツェニカが領土拡大を掲げて動き出すのか。ダーツェニカの動きを推し量っていた矢先に、この状況である。
ダーツェニカの蜂起、引き入れた魔物による反乱、魔王からの攻撃。考えられる可能性はいくらでもあるが、いずれにせよダーツェニカを包囲し、備えなければならない。
砦の兵力を展開している現在、ダーツェニカの動きをいち早く察知するのが、彼の任務だった。
「…ん…?」
不意に、足の下から感じた微かな振動に、兵士は声を漏らした。
ダーツェニカの異変の報告が入る寸前に感じた揺れと似ている。
「なんだ…?」
何か動きがあったのかと、望遠鏡を男は巡らせた。
だが、肉の城壁は変わらず脈打つばかりで、何の変化も見せていない。
「気のせいか……?」
望遠鏡を外した瞬間、兵士はふと竜兵の動きに気が付いた。翼を広げ、ゆったりと滑空していた彼女が、慌てたように翼を打っているのだ。
すると、城壁の向こうから、赤い物が顔をのぞかせたのが目に入った。
触手か何かが鎌首をもたげたのかと思ったが、赤い物は上昇と共に太さを増し、表面にからパラパラと破片をこぼした。その様子は、まるで赤いドーム状の物が街の真ん中からせり出しているかのようだった。
兵士はその連想に、ようやく自分の見た物が何だったのかを理解した。
街の地下から、巨大な塊が生えて来たのだ。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



上空から見下ろすと、ダーツェニカは大地に描かれた丸だった。
だが、昨日まで屋根と石畳の色に塗りつぶされていた丸は、赤がほとんどを占めるまだら模様になっていた。
地面の底から湧き出した無数の触手が、建物や通りを覆っているのだ。
未だ建物の色が見える場所も、じわじわと触手が這い寄り、蔦が建物を覆うように飲み込んでいく。
触手は建物を覆い尽くすだけでは飽き足らず、窓を突き破り、内側へと肉紐を這い入らせていく。
すると時折、建物の内側から悲鳴が響いた。逃げ損ね、建物に立てこもった人々が、押し入って来た触手に襲われているのだ。
家屋から響く触手から逃れようとする物音は濡れた音へと変わり、悲鳴はいつしか嬌声へと変じていた。
粘液の濡れた音と嬌声が響き、石畳の覗く区画が一つ、また一つと赤い触手の海に沈んでいく。
しかし、触手の浸食に対して、未だ抵抗を続ける区画も残っていた。
窓から入りこむ触手が槍で貫かれ、押し寄せる肉紐に炎が浴びせかけられる。武装した傭兵や魔術の扱える魔女や魔物が、建物に立てこもり、抵抗しているのだ。
太い触手を侵入させようとすれば槍や刃物で突かれ、肉紐と肉糸による浸食を試みれば炎をはじめとする魔術を浴びせられる。
必死に生き延びようとする人間の抵抗に、赤い肉は浸食しかねていた。
やがて、窓際や建物の戸口、あるいは地下室への階段そばまで押し寄せていた触手が、潮が引くように距離を置いた。触手が立ちあがり、身を寄せ合うその様は、浸食の代わりに生き残りの逃亡を防ごうとしているかのようだった。
だが、数えるほどしかない未浸食の領域の、百にも満たないダーツェニカの住民の胸中には、幾ばくかの安堵が芽生える。浸食の手が止んだ、という気休めにしか過ぎない安堵ではあるが、それでも彼らに一抹の希望を抱かせるには十分な物だった。
その時、ダーツェニカが再び揺れた。
地の底からの地響きは、触手たちが現れたときと同じだったが、今度は長く続いた。触手にまとわりつかれた建物が、重さと揺れに耐えかねて崩れていく。触手の海のあちこちで倒壊が起こり、下敷きになった触手が押しつぶされる。
しかし揺れは止まることなく続き、むしろ激しさを増していくほどだった。
そして、ダーツェニカの中心、南北と東西の大通りが交差する一点で、石畳と触手を突き破って地下から何かが現れた。
地表に顔を出したのは、触手と粘液の柱だった。触手が互いに絡み合ってできた、建物ほどはあろうかという太さの柱が石畳を突き破ってそそり立ったのだ。柱の根元は、石畳の一枚下に粘液に塗れた肉がひしめく肉塊につながっており、今度はその肉塊が石畳を破り始めた。だが、割れ広がる石畳とせり上がる肉塊が平面などではなく、あまりの大きさにほぼ平面に見えているに過ぎない。
やがて、肉塊は大通りの交差点いっぱいに広がり、周囲に建つ建物さえも崩し始めた。
盛り上がる肉塊は、緩やかな円弧を描いており、ドーム状の形をしていることを物語っていた。
肉塊が建物を押しのけ、地表へと姿を現す。そして、ダーツェニカの中心部をほぼ破壊し尽くしたところで、半球状の肉塊は動きを止めた。
触手と肉塊が絡み合い、粘液が纏わりついた肉塊は、城壁の外からも見えるほど巨大であった。
ようやく揺れが収まり、肉塊の出現と建物の崩落に巻き込まれなかった生存者が、状況を確認するため顔をのぞかせた。
彼らの目に映ったのは、表面に瓦礫を張り付かせた、巨大なドーム状の肉塊だった。見上げるほど巨大な半球の頂点には太い柱がそそり立っており、その根元の周囲も僅かに盛り上がっていた。絡み合う触手と肉塊のため、まるで皮膚一枚を引き剥がされた乳房のようだった。
すると、巨大な乳房めいた肉塊の根元周囲から、十数本の触手が空中に向かって姿を現した。一見すると指よりも細く見える触手であったが、それは肉のドームと対比してのことで、触手自体の太さは人の背丈ほどもある。
極太の触手たちは、伸張を続けながら肉のドームにもたれかかり、螺旋状に自身を巻き付けていった。肉のドームは触手を柔らかく受け入れ、裾野から頂上に向けて絞られるように変形していく。
そして、触手たちがドームの半ばに達した瞬間、ドームの頂上から粘液が迸った。赤い粘液が、幾筋もの放物線を描きながら、空に向けて放たれる。
粘液は円弧を描きながらしばし宙を舞うと、街に叩きつけられ、辺りを覆う触手を濡らした。
落下の衝撃に飛沫が撒き散らされ、雨のように降り注ぐ。やがて、街のあちこちに粘液が溜まり始めた。
しかし、巨大な乳房からほとばしる粘液は止まらず、むしろ触手が巻き付くのに合わせて勢いを増しているようだった。
赤い雨が降り注ぎ、触手に覆われた街が粘液に沈んでいく。
どこかの建物の地下室の入口に、大量の粘液が流れ込み、短い悲鳴が響く。
触手たちが堤防を作りあげ、降り注ぐ粘液を集中させて、石材がむき出しの家屋を沈めていく。
粘液の雨に気を取られた隙に、極太の触手が家屋に押し入り、粘液をまきちらしながら肉紐を広げる。
触手の浸食に立ち向かっていた者たちが、粘液に飲まれ、触手に囚われ、あるいは自らの手で現世から逃れていく。
そして、赤い雨の降り注ぐ、赤い肉の海の一角を、一つの人影が歩み進んでいた。
「はははははははは!」
滴り落ちる粘液の中、両腕を広げて哄笑しながら歩いているのは、外套を重ね着し、小さいガラス窓の付いた丸兜を被る人物だった。
薄汚れたガラス越しに空を仰ぎ、粘液に全身を濡らしながら、触手に襲われることもなく、彼は赤黒い肉色の通りを進んでいた。
「はははははは!全てだ!全てが全になる!」
触手がひしめき、遠目に粘液を迸らせる乳房を望みながら、彼は哄笑した。
街の全てが粘液に沈められ、住民の全てが触手に飲まれ、ダーツェニカの全てが赤に染められている。
「善は全なり!全は善なり!全は全なり!はははははは!」
赤い雨の降る街角で、両腕を広げてぐるぐると回りながら、彼はそう連呼していた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



その日、多くの商取引が断絶した。
その日、多くの金品が肉と粘液の中に消えた。
その日、多くの人と魔物が地表から姿を消した。
その日、ダーツェニカは死んだ。
無名勇者が訪れるまで、ダーツェニカの歴史は絶える。
12/04/21 17:24更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
旧時代の火は燻りと化し、金品の血液を巡らせる心臓は止まった。
燻りの熱によって、狂信者の妄想が育まれていく。
狂信者の信じる、世界の救済に向けて。

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