連載小説
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chapter 5
 通路を二つの人影が駆けていた。ジェインとイヴァンの二人だ。ジェインの左腕は、床を踏みしめる右足と同様に、人のものになっていた。だが、ジェインは自身の腕に注意を向けている様子はなかった。時間がない、かもしれないからだ。
「あとどのくらいだ…?」
 ジェインは乱れる呼吸の合間で、そう自問した。
 既にロプフェル達が艦橋を離れて数分が経過している。ロプフェルの言動からすると、この飛行船が浮遊都市を包み込む風の防壁に激突するのは必定だ。だが、問題はそれまでに後どの程度の余裕があるか立った。
 ロプフェルと警備隊員達の足取りからすると、そこまでせっぱ詰まったものではないのかもしれない。だが、悠長に船内探索ができるほどの時間はないはずだ。
「ジェインさん!」
「どうした!?」
 イヴァンの呼びかけに彼女が振り返ると、彼は足を止めて通路の窓を指していた。
「あれ!」
「何だ?」
 ジェインが彼の指さす方をみてみると、そこには一隻の小さな飛行船が浮いていた。十人乗りほどの大きさのボートを、大きな皮袋が吊している、簡単な構造の飛行船だ。だが、ジェインの目は飛行船の大きさなどではなく、船体に乗っている八人の顔に釘付けになった。
「ロプフェル…!」
 艦橋にいた七人の警備隊員と、この飛行船の持ち主であったナムーフの主。その八人が小さな飛行船に乗っていた。どうやら非常用の脱出飛行船を使ったらしい。
 小型飛行船は軽く旋回すると、ジェイン達の取り残された飛行船とは反対の方向へと飛んでいった。
「ジェインさん!上に出れば他の飛行船が」
「だめだ。あいつのことだ。きっと予備の飛行船も放り捨ててるか、使えないようにいているだろう」
 ロプフェルはジェインとイヴァンをこの船ごと葬り去るつもりだ。脱出手段を残していることなどないだろう。
「行くぞ!」
 ジェインは窓から視線を引きはがし、通路を進みながら考えた。
 いすと傘を使って、即席のチェアを作るか?本来のチェアがどうやって風を起こしていたか不明だし、イヴァンにとばさせようにも、近くの浮島まで力が持つとは思えない。
 艦橋に戻って、進路を変えるか?ジェインがその考えに至ったところで、船体が軽く揺れた。どうやら、舵を破壊されたのだろう。破壊されていない可能性に賭けるのは危険だ。
「どうする、どうする…?」
 ジェインは呟きながらすすんでいると、通路の真ん中にまき散らされた妙に粘つく液体に気がついた。自身の吐寫物だ。少し前、警備隊員を一人閉じこめた後、イヴァンの発した何気ない一言が原因で戻してしまったのだ。その結果捕らわれてしまったが、何も知らずに風の防壁につっこんでいたことを考えると、むしろよかったのかもしれない。
 そこまで思い返したところで、彼女は胸に何かが引っかかることに気がついた。
「…イヴァン、さっきの飛行船、何人乗ってた?」
「え?えーと、全部で八人…」
 そうだ。ジェインと艦橋で顔を合わせた七人の警備隊員に、ロプフェルの合計八人だ。七人の警備隊員の中に、ジェインが叩きのめし、倉庫に閉じこめた一人の顔はなかった。
「イヴァン!こっちだ!」
 ジェインは自身のひらめきを信じ、通路を駆けた。程なくして彼女は船室の扉の前に立った。扉の取っ手に手を掛けるが、妙に空回りするばかりで扉が開く気配はない。内側からあけられないよう、室内側のドアノブを毟ったせいだろう。
「ジェインさん、急に走って…」
「イヴァン、少し離れてろ!」
 ジェインは左腕を掲げると、背後のイヴァンに一言告げた。直後、ジェインの左手もぞりと蠢き、皮膚を突き破って鱗が顔を出した。めきめきみしみしと、赤黒い鱗が爪か何かのように音を立てて伸びていく。その間にも、ジェインの腕全体の骨格が変形し、指先の爪は鋭く湾曲したものとなっていた。
「るぁああああっ!」
 左腕の変形が止まったところで、ジェインは振り上げていたそれをドアに向けて叩きつけた。それなりに丈夫なはずの木材が、破片をまき散らしながら引き裂かれ、室内の様子を垣間見せる。
「この…!」
 ジェインはさらに数度左腕を叩きつけ、扉を破壊すると、最後に思い切り蹴って破った。開け放たれた室内に足を踏み入れるなり、彼女はまっすぐに部屋の隅に横たわる男のそばに近づいた。
「おい、起きろ!」
 『ドラゴン』のジルによって手に入れた強靱な左腕で男の胸ぐらをつかむと、彼女は無理矢理起き上がらせながら声を掛けた。
「ロプフェルは他の連中と一緒に脱出した!舵がぶっ壊されてるから、この船はナムーフの防壁にぶつかる!だが、脱出方法が何かあるだろう!?」
「ま、まへ…まって…!」
 ジェインの揺さぶりと詰問に、男は若干回らない舌で答えた。
「待て?こっちはせっぱ詰まってるんだ。非常用の飛行船の他に、何十人もいるお前たちを脱出させる道具があるだろ!?」
「いう、いうから…!」
 ジェインは左腕の力を弱めてやった。
「それで、なにがある?」
「凧、だ…!」
 目が回るのか、男は軽く頭を振りながら応じた。
「一人用の非常用の凧が、船内のあちこちに用意されてる…!」
「小型飛行船に間に合わないときは、そいつを使うわけだな」
「ああ、そうだ…ほら、そこの箱を開けろ」
 男が室内におかれた箱の一つを示した。イヴァンは箱に近づくと、ただ乗せられているだけの蓋に手を掛け、開いた。
「あった!」
 イヴァンが取り出したのは、折り畳まれた木製の骨組みと、白い大きな布だった。ジェインはドラゴンの左腕から男を解放すると、イヴァンの出した凧をざっと調べた。特に破損らしきものもない。
「ちょうど二組ある。女と子供なら、二人一緒に乗っても大丈夫だろう」
「でも、どうやって使うの?」
 呼吸を整えて立ち上がる警備隊員に、イヴァンが不安そうに尋ねた。
「僕たち、凧なんて使ったことないよ」
「技術ジルがあるから、何とかなるだろう」
 技術ジル。祭りの会場で、小男が宙返りを一瞬で体得したジルだ。ジェインが箱の内側をざっと確認すると、確かに赤い液体の入った小瓶が二つ納められていた。
「俺は訓練で覚えたから大丈夫だが…使うよな?」
「ああ」
 男の言葉に、ジェインは頷いた。
「ジェインさん!?」
 特に警戒もしていない様子のジェインに、イヴァンが声を上げた。
「大丈夫だ。むしろ、ここでぼやぼやしてたらどちらにせよ粉々だ」
 ジェインはイヴァンにそう告げると、小瓶を一つ手に取り、蓋をはずした。薬草のような香りが中りに広がる。
「…」
 ジェインは一つ呼吸を挟んでから、瓶の口に唇をつけ、一気に呷った。一口にも満たない赤い液体が彼女の喉を滑り降り、胃の中で熱を帯びる。
「…!」
 せき込むほどではないが、それでも喉を炙る熱に彼女は目を見開いた。だが、熱はすぐに消え去り、胃袋から彼女の頭の中へと何かがしみこんでいく感覚が続いた。そして、特にめまいも不調もなく、ジェインはジルを取り込んだことを何となく悟った。
「……」
 箱の中の折り畳まれた凧に、彼女は手を伸ばした。凧の骨組みは驚くほど彼女の手になじんだ。
「悪いが、俺はもう行かせてもらうぞ」
 警備隊員の男は、自分の分の凧を手に取ると、ジェインにそう告げて踵を返した。しかしジェインは、部屋を飛び出していく男に目もくれなかった。
「僕たちも早く外に!」
 イヴァンは、ぼんやりと凧を握りしめているように見えるジェインを急かすように言った。
「ああ、出るぞ」
 ジェインは低く呟くと、イヴァンに凧を渡し、飛行船の壁に向かった。そして木造の壁面に向けて、左腕を思い切り振りかざし、叩きつけた。鱗と爪に覆われた左手が、易々と木材を破砕し、青空を露出させる。人一人がどうにか通り抜けられるほどの隙間を作り出すと、彼女はさらに右足をかざした。直後、彼女の右足がほどけ、四本の触手が亀裂の縁に手をかける。力任せに木板を引きはがすと、亀裂はさらに幅の広いものとなった。
「イヴァン!」
 ジェインの呼びかけに、少年は凧を抱えたまま駆け寄ってきた。ジェインは触手から壁板の破片を放り捨てると、彼の体を抱き止めるかのように触手を絡みつかせた。
「行くぞ!」
「え?凧は?」
 触手で抱きしめられたまま、少年はジェインに問いかけた。確かに彼女の手には凧が収まっているが、折り畳まれたままだ。
 しかし、ジェインは返答の代わりに、左足で思い切り床板を蹴った。
 浮遊感が二人を襲い、頬を風がなでる。
「ああああああ!?」
 イヴァンが悲鳴を上げた。凧を広げてから飛んだのならまだしも、ジェインが凧を広げるよりも先に跳んだからだ。下の方に浮島が一つ見えるが、ほぼ何の抵抗もなく落下する二人は、その隣を通り過ぎるだろう。仮にイヴァンが強風を起こして進路を変えたところで、待っているのは堅い石畳と屋根だけだ。
 しかし、ジェインはあくまで冷静に、凧の骨組みに手をかけた。そして両腕を広げると、折り畳まれていた骨組みと布が展開し、二人の眼前を覆っていく。そしてX字型の骨組みが伸びきり、凧の形が四角いことがわかった瞬間、ジェインとイヴァンの体を衝撃がおそった。展開した凧が風を受け止め、落下の勢いを殺したのだ。
「…よし、間に合った…」
 凧の骨組みを握りしめたまま、ジェインは呟いた。
「ま、間に合ったって!?もしかして見切り発進だったの!?」
 ジェインの漏らした一言に、イヴァンは声を上げた。
「仕方ないだろう、オレは初めてなんだから」
「仕方ないって…せめて凧を広げてから飛び降りてよ!」
「ンなこと言っても、ほら、後ろ見ろ」
 ジェインの言葉に、イヴァンが首をひねると、青空に向かって飛行船がまっすぐに進んでいるところだった。だが直後、船体を吊す袋が歪に湾曲し、船首が上方に向かってせり上がっていった。目に見えない高い波に乗り上げたような格好だが、二人にはその理由がわかっていた。飛行船は、ナムーフの外壁に触れてしまったのだ。
 ジェインとイヴァン、二人の胸中の思いを反映するように、のけぞる飛行船の船底が徐々に空へ溶けていった。溶けているのではない。強烈な勢いの風により、削られているのだ。竜骨や船底の木材が削り落とされ、破片さえもが指で摘むのが困難な木片へと打ち砕かれながら、ナムーフを囲む風の流れに取り込まれていく。
 船体から浮き袋へ、船内から備品へ、形あるものが木片、金属片、土片へと打ち砕かれ、空へと飲まれていく。
 そして、飛行船の船首を飾っていたロプフェルの顔の模型さえもが消え去った。
「……どうだ、ぎりぎりだったろう」
「うん…」
 つい先ほどまで乗っていた飛行船の『消滅』に、イヴァンは頷くことの他、ジェインの問いかけに応じる手段を持たなかった。
「じゃあ、さっきの警備の人は…」
「考えるな。運よく逃げ切れたと思え」
 ジェイン達を残して、悠長に甲板に上がり、凧を展開しようとしていた警備隊員のことを、ジェインは脳裏から消し去った。
「それよりだ、イヴァン」
「うん…何?」
「実を言うと、オレは今、単に凧でゆっくりと落ちているだけだ。このままだと、あの島に届かない」
「はぁ!?」
 名も知らぬ警備隊員への祈りを断ち切り、イヴァンは声を上げた。
「いや、自信たっぷりに飛び降りてから凧広げたじゃない!?」
「凧を広げるまでは完璧だったんだ。問題はその後だ…『気合いでどうにかしよう』とかそういう考えが浮かぶばかりで、具体的な操作ができない」
 技術ジルの思わぬ欠点に陥れられたジェインは、そう弁解した。
「頼む、イヴァン」
「あーもう!」
 少年は一つ声を上げると、目蓋をおろし定式を集中させた。直後、二人の背を押すように、強い風が吹いた。凧の白布は風を受けて大きく広がり、二人を眼下の浮島に向けて押しやっていった。
「そうだ、その調子だ!」
「そんなこと言われても、もうすぐ時間切れだからね!?」
「イヴァン、もう少し頑張れ!二人とも落ちるぞ!」
 声を交わしながら、女と少年の乗った凧は、浮島に向けてゆっくりと接近していった。



 骨組みを握る手に力を込め、ジェインは凧を建物と建物の合間に向けて、ゆっくりと降ろしていった。町並みを吹き抜ける風のおかげで、凧は大いに揺れたが、それでも壁面に激突することなく石畳の上へと舞い降りることができた。
「とう、ちゃーく…」
 ジェインは右足の爪先が石畳に触れると同時に、そう言いながら両手に力を込めた。風を受けて広がっていた凧は、一瞬のうちに骨組みを折り畳まれ、ジェインの手の中に収まった。
「ほら、立て」
「わ…!」
 『クラーケン』の触手で抱きしめていたイヴァンを解放すると、彼はたたらを踏みながらも、石畳の上で姿勢を整えた。
「よし、と」
 ジェインは少年の無事を確認すると、右足を人間の足に戻した。
「それで…これからどうするの?」
「あ?」
 少年の問いかけに、ジェインは非常用凧を折り畳みながら聞き返した。
「いや、飛行船が粉々になってたでしょ?どうやって、あの防壁を突破して脱出するのか、方法があるのかなーって…」
「ある」
「あるの!?」
「多分な」
「たぶん!?」
 あからさまに落胆を言葉に混ぜるイヴァンに、彼女は振り返った。
「いや、考えてもみろ。このナムーフは浮上から…ええと、十年規模で祝われている。地上から浮かび上がっての十年間、一度も地上と関わることなく、ナムーフが存在し続けたと思うか?」
 ジェインの問いかけに、少年は即答することができなかった。仮にどこかで作物を育てていたとしても、ナムーフの人口を養うには、浮遊都市を構成する浮島だけでは農地が足りないことに思い至ったからだ。
「つまり…時々防壁を解除するか、無傷で通り抜ける方法がある?」
「ああ」
 ジェインは頷いた。
「それに、オレ自身もどうやって入ったかは思い出せないが…とにかく外からナムーフに入られるのなら、出ていく方法だってあるはずだ。見てみろ」
 イヴァンがジェインの指す方を向くと、青空といくつかの浮島が目に入った。
「あのでかい島、イヴァンが閉じこめられていた島だろ?」
「うん」
 島の底面しか見えないが、その大きさだけで少年にはそれがセントラ研究島だと分かった。
「あそこから出られたんだ。きっと、この街から出ていける」
「…出られるかな…」
「ここまで来たんだ。きっと出られる…さ、行くぞ」
 彼女は折り畳んだ凧を建物の合間に押し込むと、イヴァンにそう呼びかけた。
「え?置いていくの?」
「ああ。もって行くには大きいからな。それに、飛行船にはだいたい置いてあるらしいし、もって回る必要はないだろう」
「ああ…そうだね」
 ジェインの説明に、少年は納得した。
「それで、どこに行くの?」
「とりあえず、見晴らしのいい場所だ」
「え?さっき凧で降りてくるときに見えたじゃない」
 歩きだしたジェインに続きながら、少年はそう返した。
「ああ。でも正直なところ、凧の操作でいっぱいだったからよく覚えてないんだ。だから、もう一度この島の全体像を見ておきたい」
「ふーん…」
 イヴァンは低く呻くように応えてから、ふと思い出したように口を開いた。
「ねえ、ジェインさん」
「何だ?」
「さっきのその…飛行船での事なんだけど…」
「…どれのことだ?」
 心当たりが多すぎるため、彼女はそう問い返していた。
「あ、ごめん。ええとその…ジェインさんが突然…ええと、戻したときの…」
「あれか。気にするな」
 ジェインはよけいなことを考えないよう、即答した。
「気にするな?」
「ああ。あの街の名前を考えるだけでも、胸が悪くなるんだ」
 そう言葉を紡ぐだけでも、ジェインは胸の下で胃袋がうごめくのを感じていた。だが、一度思い切り戻してしまったためか、そこまでの吐き気はない。
「だからこれから先、あの街のことは話題に出さない方がいいな」
「どうしてそんなことに…」
「さあな。もしかしたら、オレが昔、なにかやらかしてしまったのが頭に染み着いてるのかもな」
 燃える街。揺れる赤。悲鳴。嘔吐と目眩と耳鳴りの中に垣間見た景色を脳裏から消し去りながら、ジェインは軽く肩をすくめた。
「何か…ね…」
 イヴァンはジェインの白い髪を見ながら、そう呟く。
「ところで、だ。話は変わるが、イヴァンはナムーフのことをどれぐらい知っている?」
 ジェインは徐々に動きを強める胃袋から意識を切り離すため、そう問いかけた。
「どのぐらい?」
「ナムーフの成り立ちだとか、どんな島があるかだとかだ」
「とりあえず、ナムーフの普通の子供と同じように、地理とかは習ったよ」
「へえ、地理か」
 ジェインは感心したように声を漏らした。
「でも、浮島はあっちっこっちに移動するから、地図とか作りようがないんじゃないのか?」
「確かにそうだけど、島の中の地形や区画分けは変わらないでしょ。それに、島の位置関係はある程度定まってるし、それぞれの島の役割もだいぶ違うんだ」
「役割?」
 そういえば、祭りの会場でそんな話を聞いたような気がする。
「一番分かりやすいのがセントラ研究島」
 空を指さし、ひときわ巨大な浮島の底を示しながら彼は言った。
「ナムーフの暮らしをもっとよくするために、いろんな技術を開発してるんだ」
「ジルとか、飛行船とか…さっき使った凧とかもか?」
「そうだよ」
 イヴァンは頷いた。
「次がイアルプ群島」
 イヴァンの指は、どこか一所を示すのではなく、空に分散するいくつもの中小規模の浮島の間をさまよった。
「ナムーフの住民の大部分が住んでいる島で、家とかお店とかが並んでいるんだ」
「へえ…でも、何でバラバラなんだ?一つの方が便利じゃないか?」
「さあ…昔はナムーフで一番大きな大きな島だったらしいけど、ロプフェル行政長がいくつもの島に分割してしまったんだ」
 ロプフェルの自己顕示欲から考えると、一般住民がナムーフでもっとも大きな島に住んでいることに我慢がならなかったのだろうか。
「で、ロプフェル行政長の名前が出たついでに紹介すると、あの一番上の方に浮いているのがドゥナル・ポト・ナムーフ。リィド…セントラの研究者の人たちは、ドゥナルって呼んでる。ロプフェル行政長とか、ナムーフの偉い人が住んだり仕事をしてるんだって」
「…あれか」
 セントラ研究島の陰に隠れそうになっていたものの、ジェインはその島影を視界に納めることができた。その高度のためか、かなり小さく見える。だが、島の付近を飛ぶ飛行船の大きさからすると、セントラには及ばずともそこそこの大きさがあるようにジェインには見えた。
「そして最後が、ここイーロ・ファクト」
 軽く爪先で石畳をこつこつと打ちならしながら、少年は続ける。
「他の島で使われる道具とか、石鹸みたいな消耗品を作ってるって」
「工場地帯か」
 飛行船から飛び降り凧を操っている間、ジェインはいくつもの煙突を見た気がした。この浮島が工場ならば、無数の煙突にも説明が付く。
「しかし、工場が下にあって、他の島の連中は大丈夫なのか?煙とか、上がってくるんじゃないか?」
「僕も前に気になって研究者の人に尋ねたけど、煙は風の力で効率的に排出されてるから大丈夫だって」
「なるほど…」
 飛行船を粉々にするほどの強風を吹かせる技術があるのならば、煙突から出た煙をどこかに押し流すことができてもおかしくはない。
「煙がナムーフの外に直接吐き出されているのなら、その気流を使って脱出できるかもしれないな」
「人が通れるぐらいといいんだけどね」
「まあ、多少調べるぐらいでいいだろう」
 本命の脱出方法は、地上へと向かう飛行船が出入りする瞬間をねらうことだ。とはいえ、可能性は広く持っていた方がいい。
 そんなことを話しながら足を進めるうち、ジェインとイヴァンは、路地を通り抜け、やや大きな通りに出た。
 二人を迎えたのは、平らに舗装された石畳の道路と、通り沿いに並ぶ倉庫や、その向こうに顔をのぞかせるいくつもの煙突だった。
「うわ…」
「でかいな」
 意識的に見上げなければ頂が見えないほどの高さの煙突に、二人は声を漏らしていた。煙突を有する工場はいずれも稼働中らしく、口から煙をあふれさせていた。だが、自然と真上に立ち上るはずの煙は、途中でにわかに身を捻り、蛇か何かのように煙突に絡みつきつつ根本へと消えていった。
「外に煙を吐き出してる訳じゃないんだな…」
 煙の行き先を見ながら、ジェインは呟いた。もしかしたら島のどこかを通じてから、風の防壁の外へと導かれているのかもしれない。だが、少なくともこの場で煙突から伸びる煙の筋道に飛び込んで出られるとは限らない。
「予定通り、ナムーフの外へ出入りする飛行船を探すか」
「でも、ここにあるかな?」
「あるさ。ナムーフの消耗品は、この島で作られてるんだろ?だったら材料を仕入れてくる船が必要だろう」
「なるほど」
 ジェインの推測に、少年は頷いた。
「それで、どっちに行くの?」
「そうだな…」
 ジェインは少し考えた。ナムーフが海上の島ならば、沿岸沿いに進めば船着き場ぐらいあるだろう。だが、空を自由に行き交う飛行船は、島のどこでも浮上や着陸が可能だ。島全体を練り歩かねば、船着き場は見つからないだろう。
(いや…違う)
 ジェインは胸中で自身の考えを打ち消した。飛行船は風の影響を強く受けやすい。煙を導く風の流れがどれほどの強さかは分からないが、少なくとも飛行船が煙突に触れるおそれのある場所を通ることは避けるはずだ。だとすれば探す場所は限られてくる。
「とりあえず、開けた場所を探してみよう」
 ジェインは煙突の姿のない一角を指した。
「あのあたりなら、飛行船の離着陸もしやすいだろう」
「ああ、そうだね」
 少年はジェインの推測に頷く。
「じゃあ、行こうか」
「ああ」
 ジェインは頷き、少年とともに足を進めた。通りを渡り、倉庫か工場と思しき建物の合間に入っていく。するとどこからともなく響く、何かを打ち据えるような堅い音が、二人の足音を紛れさせた。
「…飛行船、増えてきたね」
 イヴァンは空を見上げてふと呟いた。
「そうか?」
 ジェインがちらりと上を見ると、左右の建物によって細長く切り取られた青空に、小さな船影が見えた。遙か上空、セントラ研究島だとか、イアルプ群島のあたりを行き来しているように見える。
「…もしかしたら、オレ達を探しているのかもしれない」
「そうかなあ?」
「ああ。確かにオレ達の乗っていた飛行船は粉々になったが、ロプフェルはオレ達が粉々になるところを見ていない。それに、非常用凧で脱出した警備隊員もいるから、オレ達が生き残っていると考える方が自然だ」
 心なし壁面に寄り、建物のひさしに身を隠すようにしながらジェインは続けた。
「飛行船がこっちに来る前に、出口を見つけるぞ」
「うん」
 二人はやや足早に路地を進んでいった。
 通りに近づけば、息を潜めて左右を伺い、人の気配を確かめてから一息にわたる。幸い、通りには馬車一台、人一人おらず、二人は順調に船着き場と思しき方角へ近づいていった。
 そして、何本目かの通りに近づいたところで、ジェインが足を止めた。
「待て…!」
 建物の壁に背を押し当て、片手で少年を制する。
「どうしたの?」
「荷車…いや、馬車が来てる」
 イーロ・ファクトに来てようやく感じた他者の気配に、少年は緊張を帯びた。
「ど、どうしよう…」
「どうもしない。通り過ぎるのを待ってから、向こうに渡るだけだ」
 ジェインの耳には、重く軋む車輪の音と、石畳を打つ蹄の音が聞こえていた。車輪の軋みは荷車に積まれた荷物の量を示し、蹄の音は馬が二頭いることを彼女に伝えた。
「かなりの荷物だな…」
 荷車の車軸自体が軽く湾曲するほどの重量がかかっているらしく、車輪の軋みは半ば悲鳴のようになっていた。ちょうどあの街に『あれ』を運び込んだときの…
「…」
 脱線しかけていた思考を、首を左右に振って追い払うと、ジェインは蹄の音に意識を集中させた。馬は意識が敏感だ。下手に気配を漏らせば、気が付かれかねない。
「もうすぐ…静かに…」
「……」
 ジェインの言葉に、イヴァンは呼吸さえも抑えて気配を殺そうとした。そして数秒の後、ジェインの視界に荷馬車が入った。
「…!」
 ジェインは自身の目にした光景に、目を見開いた。確かに荷馬車に積まれていたのは山のような木箱だったが、彼女が驚いたのは荷物の量ではない。荷馬車を引く者のほうだった。
 荷馬車につながれていたのは、二頭のケンタウロスだった。馬の下半身に装具を取り付けられた、栗色の髪の毛のケンタウロスが、懸命に大荷物を運んでいた。彼女たちの口元から首、背中の半ばほどにかけては金属製のコルセットのようなものに覆われているため、顔立ちなどはよく分からなかった。だが、疲労をにじませる目元はよく似ており、栗色の頭髪と併せて二人が姉妹なのではないか、という推測をジェインにもたらした。
「ふぅーっ…ふぅーっ…!」
 ケンタウロスは一歩ごとに、口元を覆う拘束具の合間から呼気をもらしつつ、足を進めていた。荷を引く動きには関わりがないだろうが、そうしていれば少しでもはかどるとでも言うかのように、上半身を小さく左右に揺すりつつだ。
 すると、左右に並ぶケンタウロスのうち、ジェインに近い方の一頭が建物の合間に顔を向けた。ジェインの気配に気が付いたからではない。上半身を揺する勢いで、顔が向いてしまったのだ。
 しかし、ケンタウロスの瞳はまっすぐにジェインの姿をとらえてしまった。
「…!」
 ケンタウロスの視線にさらされ、ジェインは内心で声をあげた。通報されてしまえば、また面倒なことになる。だがケンタウロスを大人しくさせようにも路地から彼女らまでは距離があるし、そもそも相手は二体だ。
「……」
 そんなことをジェインが逡巡している間に、ケンタウロスは彼女から視線を外してしまった。そして、何事も起こらなかったかのように、上半身を揺すりつつ、相棒とともに荷車を引いていった。
「…なんだ、今の…」
 ケンタウロスの引く荷馬車が通り過ぎてしまってから、ジェインは小さく声を漏らした。
「今、確かに見られた…」
「よね?」
 ジェインの疑問を少年が引き継ぎ、二人は顔を見合わせた。
「いや、そもそも何でナムーフに魔物が?」
「あれだ…ロプフェルが言ってた、『人間による魔物の支配』ってやつじゃないのか?」
 確かに、魔物の強靱な肉体は、ただの人間や馬を使うよりも遙かに労働力になる。
「でも、どうやって従わせてるの?重りで荷馬車とつなぐぐらいだったら、ケンタウロスは簡単に…」
「逃げ出してしまうだろうな」
 背後から不意に声が響いた。
 突然の気配に、少年は飛び上がり、ジェインははじかれるように振り返った。左腕と右足に力を込め、一瞬のうちにドラゴンの腕とクラーケンの触手に変じながら身構える。
 しかし、二人の背後にいつの間にか立っていた人物は、驚く様子もなく立っているままだった。
「…お前!」
 ジェインは自身の背後に立っていた、鼠色の作業気に身を包んでいた男の顔に、思わず声を上げていた。
「お前、何でここに…!」
 ジェインが目にしたのは、見覚えのある顔だった。祭りの海上近くの酒場、セントラ研究島を囲む庭園。その二カ所で見かけた男の顔だった。
「え…?知ってるの?」
 ジェインの言葉に、イヴァンはそう尋ねていた。
「ああ。ナムーフに来てから二度も見かけた顔だ…今度は一人か?」
 ジェインは警戒しつつ、そう男に声をかけた。
「今度は、とは…何のことだ?」
「ごまかすな!『クラーケン』のジルの時や、セントラでのチェアの時、一緒にいた女のことだ!」
 下手に誤魔化すことは許さない。その意志を込めて、彼女は左手の鉤爪を軽く擦りあわせた。
「女…ああ、今は私一人だ」
 しかし、男にとって鉤爪が織りなした金属音は威嚇にはならなかったらしい。
「チェアの時は…よく知らない。が、あの酒場で君に話しかけたときにいたのは、あの店の店員だ」
「チェアの時を気を知らない?」
「たぶん、人違いではないのか」
「そんなこと…」
 ジェインは言い返そうとしたが、口をつぐんだ。確かチェアの時も、目の前の男…正確に言えば白衣を羽織った、目の前の男によく似た男は酒場での出来事は人違いだと言っていた。
 酒場のことは知らないととぼけるのならまだしも、彼は酒場での出来事は知っている。もしかしたら本当に、よく似た二組の男女がいるのかもしれない。
「それで、何の用だ?」
 ジェインは構えをゆるめながら、男に問いかけた。
「もしかして、オレ達を見つけたと通報するつもりか?」
「まさか。酒場でのごたごたの後、渡航制限が出てイーロ・ファクトに戻るまで一苦労した。今更もっと面倒ごとに首を突っ込みたいとは思わない」
 男はそう言いながら首を振った。
「正直、ここでごたごたが起こって仕事を止められたら困る。だから私は通報はしないし、君たちが速やかにイーロ・ファクトを抜けられるよう案内もする」
「……」
 ジェインは男の顔を、疑いの感情を込めて眺めた。男の申し出は、虫が良すぎるからだ。
「私に案内させるか、自分たちで移動手段を見つけるか、早く決めてほしい」
 男はちらりと空を伺いながら、やや早口で尋ねた。
「…案内を頼む」
「ジェインさん!?」
 あからさまに怪しい男の申し出に乗ったジェインに、少年が声を上げた。
「大丈夫だ。いざというときはどうにかなる」
 そう。このイーロ・ファクトの狭い路地は、ジェインの『クラーケン』を使えば自在に動き回れる環境だった。『ドラゴン』の性能については未知数だが、進入路が限られる通路内に陣取れば、囲まれることなく敵を迎撃できるだろう。広所に気をつければ大丈夫。
 そう踏んでの判断だった。
「ならばこっちだ」
 男は軽く手招きすると、ジェインたちをもと来た路地へと招いた。
「戻るのか?」
「大通りを抜けるより、建物の中や地下を通れば、その分空から見つかりにくい」
 男はそう言いながらしばし進むと、路地の壁面に設けられた扉に手をかけた。飾り気のない、民家の扉めいたそれはたやすく開く。
「入るんだ」
 男の言葉に従い、ジェインとイヴァンは無数の音が響く向上の中に入っていった。二人を迎えたのは、薄暗い倉庫めいた空間と、天井の木板の上から響く機械音だった。
「ここは?何の工場なの?」
「三次木材加工場。乾燥処理した材木を加工し、様々なサイズの木材にするんだ」
 男が振り返りもせず、イヴァンの質問に応じた。
「加工された木材はさらに別の工場に送られ、テーブルやイス、あるいは建材用にさらに加工される」
「へえ…」
 普段使っている家具がどう作られているのか、その一端とはいえ現場を目にした少年は、感心したように声を漏らした。
「なあ」
「何だ」
「あんたもそうだが、この島で働いているのはどういう連中なんだ?」
 ジェインは前々から浮かんでいた疑問をついに口にした。
「この島で働いているのは、私達のような労働市民と、懲役者と魔物だ」
「魔物…」
「先ほどもケンタウロスが荷運びをしているのを見ただろう」
 男は大したことのないように説明した。
「でも、どうやって魔物を従えて…」
「正確に言えば、あれは魔物じゃない。重度懲役者だ」
「重度懲役者…犯罪者のことか?」
「地上ではそう言っていたな」
 ジェインの解釈に、彼は頷いた。
「ナムーフで重度の罪を犯したものは、このイーロ・ファクトで懲役労働が課せられるんだ。軽犯罪程度なら、作業機械の補助だとか言った、比較的安全な仕事を任せられる。だけど重い罪を犯したものは」
「…魔物になって、さっきのケンタウロスみたいに働かせられる?」
「その通り」
 イヴァンの推測に男がそう答えた。
「ジルの大量摂取による副作用として、魔物になってしまう症状があるのは知ってるな。ナムーフではそれを刑罰に利用している」
「でも、意味あるのかそれ?さっきも思ったけど、魔物の力で逃げればいいことだろ?」
「確かに、逃げるのは簡単だ。ただ、逃げ続けられないんだ」
 男はそう、ジェインの言葉を打ち消した。
「治癒ジルを知ってるか?」
「治癒?なにそれ?」
「ええと、聞いたことあるぞ…」
 ジェインは一瞬考え、思い出した。祭りの会場に入る前、雑貨屋の男がそんな単語を口にしていた。
「長期的なジルの多量摂取による魔物化の症状が発露したころ、人々は大きく恐怖していた。自分の心や体が、いずれ支配されるであろう魔物のものになってしまうからだ。だが、ジルが数年かけてもたらした便利な生活を捨て去ることはできなかった」
 指先に火をおこすことができる『サラマンダー』や、少し離れたところのものを取り寄せることができる『クラーケン』。ジェインのそれとは少々事情が違うが、彼女も今更徒手空拳に戻ることは考えられなかった。
「そんなときに発表されたのが、治癒ジルだ。治癒ジルは魔物化した人間を元に戻すことができる特効薬で、飛ぶように売れた。それどころか、まだ魔物になっていない市民も、いざというときに備えてどころか、予防薬代わりに使うようになったんだ」
「それで、その治癒ジルをどう使えば、魔物になった連中が逃げずに働くんだ?」
「首とか背中に拘束具をつけているのを見ただろう」
「うん」
 先ほどの二体のケンタウロスの姿を思い出しながらか、イヴァンが頷いた。
「あの中に治癒ジルの注射器が仕込まれており、持ち場…ケンタウロスの場合は荷馬車や運送ルートを離れたりすると、注射されるんだ。ジルの注入によって魔物になっていた重度懲役者は人間に戻るが、拘束具は重さそのままで彼の背中にのしかかる。だから…」
「逃げられない、ってわけか」
「その通り」
 男は頷いた。
「もっとも、持ち場を無事離れて、イーロ・ファクトを離れたとしても、ナムーフから逃げられるとは限らないのだが…おっと、すまない」
 男は思わず漏らしてしまった失言に、そう謝罪の言葉を口にした。
「魔物の姿をしていたら逃げられない、というだけであって、君たちならナムーフを離れられるかもしれない。さ、もうすぐで船着き場だ」
 延々と続いた工場の床下が、ついに壁で遮られる。男は壁に設けられた扉の前で足を止めると、それを開いた。
 扉の向こうにあったのは、人が入れそうなほどの木箱が等間隔で流れていく回廊だった。木箱の下には木製の筒がいくつも並んでおり、それらが回転することで荷物を移動させているようだった。
「この先に船着き場がある。船着き場の連中も、面倒事は避けたがるから、君たちの方から騒ぎを起こさない限り見て見ぬ振りをするだろう」「飛行船に乗り込むには?」
「積み込みの時、見張りは荷物の方に集中している。あとは君たちで考えるんだ」
 それだけ分かれば十分だ。
「ありがとう」
「なに、面倒事が嫌いなだけだ。むしろここまで静かに付いてきてくれて、ありがとうと言いたいぐらいだ。さて、そろそろ仕事に戻らないと」
 男はそう言うと、踵を返した。
「君たちの…成功を祈る」
 そう言い残して、男は工場に引き返し、後ろ手に扉を閉めた。
「…行くか」
 回廊の向こう、木箱の行く先に目を向けつつ、ジェインは足を踏み出した。
「ねえ、ジェインさん」
「何だ?」
 木箱の流れる隣を進みながら、ジェインはイヴァンの呼びかけに応じた。
「その…ジェインさんは、昔のことを覚えてないんだよね?」
「思い出せないだけだ」
 そう、この浮遊都市での最初の記憶、ほぼ無人の浮島の通りに炎上する飛行船とともに投げ出されていたことのほかは、はっきりと思い出せることはなかった。
 だが、それでもジェインは様々なことを覚えていた。聞き込みの手段も、人混みに紛れる方法も、多人数に追われたときの対処も、戦う方法もだ。
「でも、その…飛行船で、街の名前に反応したよね?」
 その問いかけに、ジェインは胸の奥がうごめくのを感じた。
「…その話は、あまりしたくない…」
 吐き気にも満たないかすかな気持ちの悪さを押さえ込みながら、ジェインはイヴァンの言葉を遮ろうとした。そうだ、もっと別のことを考えよう。例えば…
「いや、結構重要な話なんだ」
 イヴァンはそう、ジェインに畳みかけた。
「ジェインさんがあんな反応をしたのは、あの街で何かがあったからだと思う」
「何にもない。ただ、街の名前を聞いただけで吐き気が…」
「だったら何であのとき、『許して』って繰り返してたの?」
 その一言に、ジェインは言葉を詰まらせた。
「何か…したんでしょ?」
「…………街が、燃えてたんだ」
 ジェインはたっぷりと沈黙を挟んでから、口を開いた。
「燃えてた?」
「ああ。ここみたいに、大きな建物が並ぶ街で…建物が燃えてたんだ。あちこちから悲鳴が聞こえて、燃え尽きた建物が崩れると悲鳴が消えて…でも、新しい悲鳴が聞こえるんだ」
 飛行船で嘔吐した後にジェインをおおそった幻視と幻聴を、彼女は吐露した。
「何であんなことになっていたのか、オレには分からない…ただ、オレがやったということは分かるんだ。だから…」
「………ジェインさん…」
「分かってる。許されないことを、オレはあの街でやったんだ」
 浮遊都市を訪れた直後、彼女が巻き込まれた飛行船事故。それによって記憶を手放してしまっても、罪悪感まで捨て去ることはできなかったのだろう。『あの街』の名前を耳にするだけで、罪悪感が彼女の胸の奥で暴れ回るのだ。
「イヴァン、オレが何のためにお前を連れだしたか、分かるか?」
「え?」
「オレがやったことを、赦してもらうためだ」
 自分の最大の罪を吐露したついでという訳ではないが、彼女は自身の目的を告白した。
「ナムーフの秘密兵器を持ち出せば、オレがやったことを赦してくれる、とさ…そんなものにすがりついて、ナムーフに来るぐらいオレは追い込まれていたんだ」
「………」
 自分の贖罪のために、イヴァンを利用した。その告白に、少年は何の言葉も返さなかった。
「許してくれ、とは言わない。ただ、オレがそういう人間だということを…」
「ジェインさん…その…」
 少年は、困惑したような様子で口を開いた。
「実は、ええと…あの街のことなんだけど…」
「やめてくれ。また戻すのはゴメンだ」
 ジェインは彼がうっかり『街の名前』を口にする前に、そう遮った。
「違うんだ、僕が言いたいのは…」
 少年は、ジェインの白髪をちらちらと見ながら、言葉を選んでいるようだった。
 そして数度言い淀んでから、彼は決心を固めたように、ジェインを見据えた。
「その…ジェインさんはあの街で…」
 だが、少年がその先を紡ぐ前に、不意に大きな声が響いた。
『労働市民諸君!』
「何だ!?」
 妙に反響した声に、ジェインは思わずあたりに視線を巡らせた。しかし、近辺に声の主と思しき者はいなかった。
『軽度懲役者諸君!重度懲役者諸君!』
「この声…」
 聞き覚えのあるその声に、少年はジェインを見上げた。
「ああ…思ったより早く来たな…」
『こちらはロプフェル行政長だ!』
 ジェインの言葉に呼応するように、ナムーフの支配者が名乗った。
 自らの名を冠し、彼の顔の装飾を施した飛行船を捨ててから、まだ一時間と経過していないだろう。だが、そこに疲労や怒りのようなものは微塵も滲んでいない。
『毎日の勤労、まことに感謝する。この偉大なるナムーフが存在するのは、諸君等イーロ・ファクトあってのものだ!』
「急ぐぞ、イヴァン」
「う、うん」
 ジェインと共に、少年は足を急いで進め始めた。
『だが今現在、ここイーロ・ファクトを危機が襲っている!浸食主義者がこの島に逃げ込んだのだ!』
「やっぱりオレか…」
『一時の過ちを償うために勤労に励む諸君等を、ここに永続的につなぎ止めようとしている恐れがある!』
「…そうなの?」
「ンなわけあるか」
 ジェインは呆れたように、イヴァンの言葉に首を振った。
「ここの連中の警戒感を煽って、オレ達を捕まえるようし向けるつもりだ」
『ただいまより我々警備隊は、イーロ・ファクトに浸食主義者の捜索部隊を投入する!各労働者諸君は部隊の邪魔も、浸食主義者の手助けもせず、ただ労働に励み給え!』
「くそ…」
 ジェインは徐々に大きくなっていく、回廊の突き当たりの光を見ながら、低い声で呻いた。どうやって、この先の船着き場で貨物船に乗り込もうか。これまでのように飛行船を奪う方法では、また落雷や物理的手段によって破壊されてしまうだろう。
 しかし、ここまで警戒が強まってしまっては、こっそり『乗り込む』ことも難しい。
「そもそも、島の外に出る飛行船すら見つけてないってのに…」
「…あ」
 脱出方法を巡って色々と考えるジェインの脇で、イヴァンが短く声を漏らした。
「どうした?」
「その、一ついい方法が…」




 回廊を抜けると、広々とした青空が広がっていた。周囲に建物や煙突がないためだ。並ぶ工場の地下を抜けてきた木箱は、しばらく進んでから船着き場のあちこちに分かれていった。
 船着き場には、四隻の貨物飛行船が着陸していた。何本ものロープで地面につなぎ止められ、船体の側面の扉が開かれている。そこに、何体もの魔物が大きな木箱を運び込んでいた。
「ふぅ…ふぅ…」
 頬に傷の入ったミノタウロスが、首から背中にかかる拘束具の重みに耐えながら、木箱を押していた。
 よくよく見てみれば、彼女の拘束具の前面には『リカルド・エルティニ』という名前が彫り込まれており、その下に『ナムーフ市民の財を不当に詐取した罪』と続いていた。
 ミノタウロスの『リカルド』は木箱を船内に押し込むと、次を運ぶため外に出た。上空には警備隊の飛行船が数隻飛んでおり、船着き場にも何人かの警備隊員がうろついている。だが、恐れることはない。いつものように仕事をしていればいいのだから。
 『リカルド』は積み込み待ちの木箱の列に向かうと、並ぶ箱の一つに手をかけた。ひときわ大きい、ミノタウロスになった『リカルド』さえも楽々中に入れそうな一箱だ。箱の側面には『内装用木材』と記されている。
 その文字を目にした瞬間、『リカルド』の脳裏にある記憶が浮かんだ。彼がかつて、イアルプ群島で家屋の修理をしていた頃の話だ。ナムーフが空に浮かぶ理想都市とはいえ、使っているうちに家屋や家具はこわれる。彼は破損した扉や窓を取り替える仕事をしていた。ナムーフの建物の部品は大きさが定められており、扉も多少のデザインの違いはあるが、新品を取り寄せれば簡単に交換できた。『リカルド』はそこに目を付けたのだ。比較的傷の少ない扉を手に入れ、表面を研磨したり、塗料を塗って修理する。そして次の現場で、そうやって修理した扉を新品と称して取り付ける。新品の建材を仕入れる手間を省けるため、彼はそこそこの利益を得た。もちろん窓枠や扉の修理の手間はかかるが、それも新品を仕入れる値段に比べれば、圧倒的に安いものだった。建材の再利用という僅かな労力で、かなりの儲けを得られる。
 警備隊員に捕らえられるまで、『リカルド』は楽な仕事だと思っていた。だが、こうして重度懲役者として働かされている今、彼は二度と人を欺くまいと胸の奥で誓っていた。昼間の重労働もさることながら、夜になると疼くケンタウロスの肉体も、彼を苛んでいたのだ。夕食時に渡されるごく微量の治癒ジルを用いれば、疼きは多少収まった。だが、それは仮初めのものであり、人間だった頃の穏やかな夜とは別物だった。
 早く人間に戻りたい。
 『リカルド』はそう願っていた。
「…いけない…」
 やや高い女の声で、『リカルド』は呟いた。昔のことを思い出してしまっていた。作業を終えなければ、ペナルティで懲役労働期間が延長されてしまう。
 彼は箱の縁に手をかけ、力を込めた。だが、箱は思ったよりも重く、『リカルド』が意図したものよりゆっくりとしか動かなかった。
「…!…!」
 一呼吸ごとに力を込め、『リカルド』は木箱を押した。なんとしても船の出発時刻までに、荷物を積まねばならないからだ。木箱が重く感じるのは、かつて『リカルド』が修復建材で儲けていたときの罪悪感によるものに違いない。彼はそう思いこんで、箱を押した。
 すると、貨物飛行船と積み荷置き場のちょうど中間ほどで、『リカルド』に向かって一組の人影が近づいてきた。警備隊員の制服に身を包んだ男と、彼の手から延びる鎖に繋がれた灰色の毛並みのワーウルフだ。警備隊員の握る鎖は、ワーウルフの背中から首までに絡みつく、ちょうど『リカルド』のそれと同じような形の拘束具に続いていた。
「そこの重度懲役者、止まれ」
 警備隊員が彼を呼び止めた。『リカルド』は横目で警備隊員とワーウルフの姿を確認するが、その命令には従わず荷物を押し続けた。
「おい、止まれと言っているだろう!」
 警備隊員が、腹立たしげな口調で繰り返した。
「すみません、急いでこの荷物を積まないといけねえんです」
 『リカルド』は警備隊員に目を向けることなく、そう応じる。
「貴様聞いてなかったのか?今現在、イーロ・ファクトに浸食主義者が紛れ込んでいるのだぞ!捜査に協力しろとのロプフェル行政長のお言葉、聞こえなかったのか?」
「聞こえてました。ですが、『ただ労働に励め』と言ってました」
「貴様…」
 警備隊員は悔しげに奥歯を噛んだ。確かにロプフェル行政長の先ほどの放送は、積極的な捜査協力についてはなにも言ってなかった。むしろ眼前のミノタウロスの言うとおり、労働を続けることを推奨していた。
 だが、警備隊員にも任務がある。彼は強気に出ることにした。
「ならば作業を中断し、積み荷を改めさせろ」
「なぜですか?」
「『灰の猟犬』が、このあたりで浸食主義者のものと思しき臭いを感知したのだ」
 『灰の猟犬』。『リカルド』は再び横目でワーウルフを確認し、その毛並みによって名前の由来を納得した。今でこそ『彼女』だが、この彼か彼女も何らかの罪を犯したのだろうか。警備隊員に引き回される境遇に同情を覚えつつ、彼は口を開いた。
「だめです。今、作業を中断すれば、飛行船の出発に間に合いません。どうしても改める、というのなら、積み込み場監督と建材集配監督、貨物飛行船の運航管理責任者に許可をもらってください」
「うぅ…」
 警備隊員は呻いた。今から許可をもらっていては、貨物飛行船が出発してしまう。しかし、ここで無理矢理に止めてしまえば、今日の貨物飛行船の運行時刻が大幅に乱れてしまう。それで浸食主義者を見つけることができれば万々歳だが、空振りだったらとんでもない責任を負わされることになる。
 警備隊員は迷った。彼にあてがわれたワーウルフはこの箱に反応しているが、もしかしたら浸食主義者が長時間箱に触れていただけかもしれない。この船着き場のどこかか、箱が次から次へと運び出される回廊を通じて工場に向かっているかもしれない。
 強制捜査に対する、余りに重すぎる責任に、警備隊員の思考は徐々に逃避の道を選んでいた。
「…でも、既に積み込まれた荷物を調べるだけなら、問題ないと思います」
「ほ、本当か!?」
 『リカルド』の示した道に、警備隊員は飛びついた。
「はい。そのかわり開けた箱はちゃんと閉じて、貨物飛行船が出発する前に出てください。まあ、貨物飛行船が出発しても、イアルプのどこかの船着き場に向かうだけですが…」
「なに、問題ない。では既に積んである分から調べさせてもらおう。引き続き積み込み作業に励め」
 警備隊員は『リカルド』にそう告げると、貨物飛行船に向けて歩きだした。ワーウルフが『リカルド』の押す木箱に視線を向けていたが、警備隊員の手が鎖を軽く引くと、幾度か振り返りながらも彼につき従った。
 二人は船着き場から、貨物飛行船の中に入ると、並ぶ木箱をざっと眺めた。人が数人は入れそうなものから、手足などの一部分ぐらいしか入りそうにないものまで、大小さまざまだ。
「さーて…ついてこい」
 鎖を軽く引いてじゃらりと鳴らしながら、警備隊員とワーウルフは木箱の合間を歩いて回った。ワーウルフは金属の拘束具によって口元を覆われていたが、その奥で鼻をすんすんと鳴らしつつ、浸食主義者と呼ばれる女の臭いを探った。
「どうだ?」
「……」
 警備隊員の問いかけに、彼女は軽く首を左右に振った。先ほどあれほどまで強く感じていた臭いが、あまりしないのだ。
「やっぱり船着き場にいたのか…?」
 船内での捜索をあきらめようとしたところで、二人の耳を木材同士が擦れる音が打った。『リカルド』が遅れて木箱を積み込んだのだ。
「…!」
「何だ?あの箱か?」
 今し方積まれた木箱と警備隊員の顔を交互に見るワーウルフに、彼はそう問いかけた。するとワーウルフは、鎖を揺らしながら何度も頷いた。
「…開けてみるか」
 警備隊員の一言に、木箱を積み終えた『リカルド』が一瞬視線を向ける。だが、既に木箱は彼の手を離れており、優先すべきは残りの木箱だった。『リカルド』は視線を警備隊員からはずすと、貨物飛行船から出ていった。
「よし。蓋を外せ」
 木箱のそばまで歩み寄ると、彼はワーウルフにそう命じた。ワーウルフは、灰色の体毛に覆われた指からのぞく湾曲した爪を、木箱と蓋の隙間にねじ込んだ。だが、大した力を掛けるまでもなく、箱の蓋は簡単に外れた。内側から押し開けられたからだ。
 木箱と蓋の隙間から飛び出した、赤黒い鱗に覆われた腕が、ワーウルフの胸にたたき込まれた。胸元を覆っていた金属のプレートが湾曲し、ワーウルフの体が背後へ吹き飛ばされる。一瞬の衝撃の後、ワーウルフの拘束具から鎖が外れ、警備隊員の手の中に残る。彼は突然の出来事に、目を見開くことしかできなかった。
 だが仮に、多少身構えたり踵を返して逃げ出したところで、どうにもならなかっただろう。箱の内側から溢れだした四本の白い触手が、鱗に覆われた腕に遅れて彼を襲ったのだから。



 最後の積み荷を積み終え、『リカルド』が船着き場へ降りると、貨物飛行船の甲板にいる船員たちの操作によって船体側面の扉が閉じた。そしてしばしの間をおいてから飛行船は空へと浮かび上がっていった。
 『リカルド』は貨物飛行船を見送ってから、ふといつの間にか警備隊員とワーウルフが姿を消していたことを思い出した。
 いつのまに船を出たのだろうか。もしくはまだ飛行船にいるのだろうか。いずれにせよ、もはや『リカルド』とは関わりのないことだった。あとで誰かから尋ねられたら、起こったことをありのまま説明すればいい。
『積み荷の見聞を求められたが、作業遅延の恐れがあるため応えられなかった。だが警備隊員は既に積まれた荷物を改めるため、貨物船に入っていった。その後のことは知らない』
 これで十分だ。『リカルド』にとって重要なのは、あの警備隊員の安否などではなく、次の貨物飛行船のための荷物だからだ。
13/12/07 00:06更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ

 チャールズ氏のジルへの適合能力は素晴らしい。本日までに五十五のジルの投与を行ったが、いずれも拒絶反応を起こすことなく定着している。特に、いくつかのジルについては身体能力の向上のみならず、肉体への形質変化をもたらすに至っている。
 形質変化の発露箇所は限定的で、手足と言った四肢までであり、単一ジルの大量投与実験のような魔物そのものへの変化は見られない。それどころか、形質変化はチャールズ氏本人の意識によって自由に発露と潜伏を切り替えることができるようだ。チャールズ氏の失神状態での実験により、切り替えに必要な要素を見つけだす必要がある。
 彼の適応能力が彼自身の特性によるものか、人間全体が普遍的に有しているのかは不明だ。そのためロプフェル行政長は、ジルの退寮しように対して何らかの措置を講ずるつもりらしい。チャールズ氏のような戦力は手元に一人で十分だと言うことだろうか。
 ただ、これまでの経過で気がかりな点が一つある。チャールズ氏の頭髪から色素が減少し、生殖器が萎縮を始めたのだ。『スキュラ』と『リザードマン』のジル投与以降その傾向は顕著で、すでに生殖器は元の半分ほどになっている。このままジルの投与を続ければ、いずれは性転換する可能性がある。
 チャールズ氏に投与したジルの提供者は、いずれも雌の魔物だ。提供者の性別という特質が蓄積し、発露しつつあるのだろうか?
 引き続き、チャールズ氏への投与実験と経過観察を行うとしよう。次は…記憶操作に関するジルでも投与してみよう。


 トッド・ロック
 ナムーフ歴6年

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