連載小説
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chapter 4
 『気象操作技術研究所』の廊下を、ジェインは走っていた。傍らにはイヴァンの姿もあり、二人の脳裏には人目に付かないように、という言葉が抜け落ちているようだった。無理もない。塔のすぐ側を、ロプフェルの飛行船が飛んでおり、数分後に多くの警備隊を降下させると言っているのだ。その上、この塔は完全に無人らしく、ロプフェルの通告に動揺する気配すらなかった。
 警備隊から逃れるため、二人は急いでいた。
「はぁはぁはぁ…!」
「こっちだ!」
 ジェインはイヴァンに呼びかけ、廊下の角を曲がった。
「ちょ、ちょっと待って…!」
 少年は必死に追いすがりながらも、息も絶え絶えに言った。塔での軟禁生活のせいか、イヴァンの体力はほとんどないようだった。
「もう少しだ!」
 ジェインは少しだけ速度を落としつつ彼を励まし、通路の向こう側に目を向けた。薄暗い通路には等間隔に扉が並んでおり、うち一つが内向きに開いていた。ジェインとイヴァンは通路を駆け抜け、開かれたままの扉の内側を横目で見た。
 扉の内側にあったのは、テーブルと針金を巻き付けられた小瓶、そして床で砕け散ったガラスの破片だった。ジェインが最初に忍び込んだ部屋だ。出口は近い。
 やがて二人は通路の突き当たりに達し、扉の前で足を止めた。
「開けるぞ!」
 ジェインが扉を開くと、強い風とともに光が通路に入ってきた。塔の屋上に出ると、ジェインが乗ってきたチェアがそのまま、屋上にうがたれたくぼみの中央に鎮座している。
「風が強いから気をつけろ!」
「このぐらい、僕が風を弱めて…」
「今はしなくていい!」
 気象を操作し、吹き抜けていく風を制御しようとした少年を制止すると、ジェインは彼の手をつかんだ。そして轟々と音を立てる風の中を進み、チェアに達した。
「よし…座れ」
 ジェインはチェアに腰を下ろすと、少年の方を向いて彼を招いた。
「え?」
「オレの膝の上に座れ、って言ってるんだ」
 彼女の言動が理解できない、といった様子の少年に対し、ジェインはパンパンと太腿を打ちながら招いた。
「で、でも…」
 少年は少しだけ困ったような表情で、彼女のむき出しの右太腿のあたりをちらちら見ながらもじもじと立っていた。
「時間がないんだ!いいか、もう少ししたらロプフェルは飛行船から警備隊の連中を降下させ終える。そして降下が終わった後、浮上する瞬間にオレたちがチェアで船に飛び込むんだ。そうすれば飛行船の中はガラガラで、簡単に飛行船を乗っ取ることができる。だから、今の内に浮いてないと間に合わないんだ!」
「う、うん…」
 ジェインの言葉に、イヴァンはうなづいた。少々まくし立てすぎたかもしれないが、一応納得はしてくれたらしい。
「わかったら座れ」
「…う…」
「あーもう!」
 ジェインはついにしびれを切らし、右足に力を込めた。瞬間、右足が触手に変貌し、四本の内の三本が少年の体に絡みついた。
「わ!?」
「おとなしくしてろよ」
 ジェインは少年を膝の上に抱き寄せると、触手を絡みつかせて自身と少年、そしてチェアをがっちりと固定した。
「あわわわ…わわ…」
「こんなもんか…?」
 口を開閉させて意味にならぬ音を紡ぐ少年をよそに、ジェインは体を揺らしてチェアへの固定を確かめた。どうやら、ジェインがわざとゆるめない限りは、触手は二人をチェアにつなぎ止めておいてくれるようだ。
「よし…」
 ジェインは顔を上げ、チェアの上部を覆う傘に向けて声を上げた。
「飛行船…ロプフェル号へ!」
 一瞬戸惑ったが、ジェインは窓から垣間見た飛行船の船体や袋にかかれていた文字を頼りに、そう言った。だが、チェアが浮く気配はなかった。
「…ロプフェル号へ!」
「あの、ジェインさん…」
「何だ」
「チェアはその、セントラの中の場所にしか移動できないから…」
「…最初から言ってくれ!」
 ジェインはようやく知った事実に、頭を抱えたくなった。
「おまえが蜃気楼を張って、チェアでこっそり飛行船に近づこうって計画だったのに…」
 チェアが使えないとなると、大前提から覆ることになる。
「えーと、だったら…チェアの進行と飛行船の位置を重ねて…」
「ジェインさん…その、蜃気楼作りながらチェアを飛ばすのなら、僕だけでもできるけど…」
「…そうなのか?」
 イヴァンの申し出に、ジェインは思わず尋ね返していた。
「嵐をいくつか作る要領で、風と蜃気楼を…」
「できるのならやってくれ!」
「は、はい!」
 ジェインの言葉に、イヴァンは言葉を断ち切った。直後チェアを、正確にはイヴァンを中心に風の渦が生じる。一瞬の間をおいて、チェアが浮かび上がった。
「おぉ…」
「次は蜃気楼…!」
 イヴァンが言葉を持らすと同時に、あたりの景色がゆがみ、薄暗くなる。なにがどうなっているのかは不明だが、蜃気楼の要領で光をゆがめ、二人の姿を消しているらしい。
「ジェインさん…!飛行船に、入るんだよね…?」
 妙に力んだ声で、イヴァンが尋ねる。
「ああ…飛行船は…ちょうど浮上したところだ」
 警備隊を降下させた飛行船の姿を、蜃気楼越しに確認しながらジェインは頷く。
「じゃあ、ちょっと急ぐよ…!」
 そういえば、イヴァンの能力には時間制限があった。ジェインがそのことを思い出したのは、チェアが動き出した直後だった。だが、彼女の脳裏からそのような記憶は瞬間の内にこぼれ落ちた。チェアの加速が余りにも急だったからだ。
「おぉぉぉおっ!?」
 ちょっとした高所から飛び降りた瞬間の浮遊感が、絶え間なくジェインを襲う。だというのに、イヴァンが風を操っているためか、顔に風が触れる感触はなかった。ただ落下の浮遊感めいた気持ちの悪さがジェインを襲い、大型飛行船へと接近していく。
「もう、すぐ…!」
 イヴァンがそう言葉を絞り出したところで、ジェインはチェアが飛行船にかなり接近していることに気がついた。袋の下部に吊り下げられた船舶部分でさえ、そびえる壁のように巨大だった。
(そういえば、どこに着陸するとか、言ってたっけ?)
 口から細長く引き延ばされた悲鳴を紡ぎながら、ジェインは迫ってくる飛行船の木材を見ながら脳裏の一角で考えた。打ち合わせをした覚えはない。そしてそれが彼女の思い違いでないことを証明するように、チェアはまっすぐに飛行船の横腹に激突した。
 ジェインの眼前で、木材が引き裂かれ、砕け散る。チェア本体や、上部の傘が触れたためではない。チェア全体を包む、イヴァンの風によるものだ。だが、そのままの速度で船内を進むことができるはずもなく、イヴァンは風と蜃気楼を瞬時に解除した。勢いが殺され、船内の通路上にチェアごと二人が放り出されそうになる。
「おぉぉぉっ!?」
 ジェインはあたりの湾曲した景色が像を結び、チェアの勢いが失われたことを察すると、瞬時に自身とチェアをがんじがらめにしていた触手を伸ばした。触手が船内の床や壁に吸着して、ジェインが床を転げないよう急制動をかけた。触手の強靱な筋肉が衝撃を吸収し、イスに座るジェインとイヴァンの動きを完全に止めた。
「…と、とまった…」
 反射的な制動が効を奏したことに、ジェインは呆然と呟いた。
「よかった…乗り移れた…」
「…おい、よかったって何だ」
 心底ほっとしたように呟くイヴァンに、ジェインは彼を膝の上に座らせたまま尋ねた。
「そ、その…実はかなり時間ぎりぎりで…」
「さっきは余裕でチェアを飛ばせるみたいなこと言ってたじゃないか!」
「正直に言っても、今更計画変更なんてできないでしょ!?」
「そりゃそうだけど…もし、途中で限界がきたらどうするつもりだったんだ?」
「…そのときは…」
「特に考えがないのなら、自分を大事にしろ」
 ジェインはもう少しだけ続けたかったが、説教じみたものになるのでそこで打ち切った。
「それより、ここは敵陣だからな、そろそろ降りろ」
「…っごめん!」
 ジェインが少年に絡みつかせた触手を解いた直後、彼は飛び跳ねるように彼女の膝から降りた。少年一人分の体重が消え、太腿に軽さが戻る。ジェインは触手を一本に束ねて足に変えながら、イスから立ち上がった。
「さて…何だ?」
 ジェインは自身を見つめる少年の視線に、ふと首を傾げた。
「な、何でもない」
 少年は視線をはずすと、若干早めの口調で続ける。
「それより、静かだね」
「ああ。かなり大騒ぎしたのに、誰も来ないな」
「多分ほとんどの警備隊員をセントラに下ろしたみたいだね」
 最低限の見張りと操縦の為の人員だけしか残っていないようだ。そしてジェイン達は、その最低限の見張りの目をかいくぐって、侵入を果たしたのだ。
「じゃあ、予定通り艦橋に向かって船を乗っ取り、ナムーフを離れる…いいな?」
「うん…それで、方法は?」
「オレには『クラーケン』のジルがある。囲まれるとやっかいだが、この細い通路なら、触手を伸ばして戦える。それに、お前もいるしな」
「僕?」
「ああ、突風とか雷とか起こせるだろ?」
「突風は起こせるけど…雷は無理かな」
「そうなのか?」
「雷雲を作ることはできるけど、いつ、どこに落ちるかまでは操れないんだ」
「…まあ、突風だけでも十分だな」
 口ではそう言いつつも、ジェインは脳裏でイヴァンを戦力から外した。イヴァンの能力には制限が多すぎる。浮遊都市の秘密兵器として持ち帰るため一緒に行動するが、あくまで彼は保護の対象であると考えた方が良さそうだ。ジェインの上着の懐に収まる、『ドラゴン』のジルと一緒だ。なるべく使わないようにしよう。
「いくぞ、離れるなよ?」
「うん」
 イヴァンを、いざというとき触手の届く範囲に置いたまま、ジェインは船首の方に向けて歩きだした。
 神経を研ぎすませ、耳に意識を集中させる。船体をなでる風の音に紛れつつも、ジェインはいくつかの足音を感じることができた。少し離れたところに一つ。船尾の方に二つ。そしてすぐ目の前の通路の曲がり角に一つ。
「……」
 ジェインは呼吸を押さえ込みつつ、イヴァンに仕草で静かにするよう命じた。その数秒後、木造の通路の曲がり角から、制服をまとった男が一人、姿を現した。
「…なっ!?」
 ジェインの姿に男が声を上げそうになった瞬間、彼女は右足を蹴りあげつつ、触手に変じさせた。一本が男の足を、一本が男の腕を、一本が男の口を瞬時に縛り上げ、身動きはおろかうめき声まで封じ込めた。そして最後の一本が男の首筋に近づき、喉仏の左右をぐいと圧迫した。
「…!…!…、……」
 男が一瞬目を見開くが、数秒とたたぬ内に瞳の光を曇らせ、脱力した。
「し、死んだの…?」
「いや、締め落としただけだ」
 脱力した男の姿にイヴァンは震え声で尋ねるが、ジェインは何ともないことのように応じた。
「首の血管をうまく押してやれば、人間は簡単に気を失う」
 力を失った男を触手で支えたまま、彼女は手近な扉を開き、適当な物陰に彼を隠した。
「本当なら縛り上げたいところだけど時間がないからな…」
 ジェインは扉を閉めると、取っ手に触手を絡みつかせ、思い切りひねった。直後木材の折れる音とともに取っ手が外れ、容易に開閉できなくなった。
「何度か体当たりすれば破れるだろうけど、かなり大きな音がするはずだ」
「つまり、目を覚ましても、この部屋からこっそり出ていくことはできないってこと?」
「ああ」
 触手を束ねて足に戻しながら、ジェインは頷いた。
「へえ…やっぱり本を読むだけじゃ分からないことって沢山あるんだね」
「そりゃそうだな」
 ドアを見ていれば、鍵がなくとも容易に開かないようにする方法ぐらいは思いつくだろうし、医学書を紐解けば人間の失神のさせ方ぐらい書いてあるだろう。だが、どのような状況のとき扉の取っ手を毟ればいいのか、どうやれば手軽に首筋の血管を圧迫できるかなどは、経験を伴った技術が必要だ。
「ねえジェインさん」
「何だ?」
「どこでそんな技術を覚えたの?」
「それは…」
 ジェインは一瞬言葉を切った。それは思い出すためであったが、途中から別の沈黙に変わった。脳裏に浮かぶのは、赤と黒の二色に悲鳴。そうレスカ…
「あまり話したくないな」
 ジェインは鳩尾の裏側で、にわかに存在感を持って蠢き始めた胃袋をなだめながら、考えるのをやめた。
「え?なんで?」
「お前にも聞かれたくないことぐらいあるだろう?いくつまで寝小便してたか、とか」
「8」
「…オレは言わないからな」
 潔すぎるイヴァンの告白に、ジェインは呻くように答えた。
「えー?それじゃ僕だけ恥さらし損じゃない」
「オレは答えたくない」
 自分のおねしょがいくつまでだったかを答えてもよかったが、思い出せないので止めておいた。
「オレは聞きたくもない秘密を聞かされたし、お前は聞きたい秘密を聞けなかった。それであいこ、でいいだろ」
「うーん…うん?」
「とりあえず、先に進むぞ」
 ジェインの適当な言い訳に首を傾げるイヴァンを、彼女はせかすように歩かせた。なるべく足音を潜め、他の警備隊員の気配を探りながら、二人は船首に向かっていった。
「ねえ」
「何だ?なるべく手短に、小声で頼む」
 自身の気配を悟られぬよう、ジェインは低い声でイヴァンに命じた。すると彼は、少しだけ声音を潜めながら言葉を続けた。
「ナムーフを出たら、どこに行くの?」
「えーと…」
 ジェインは一瞬考えた。そう言えば、浮遊都市の秘密兵器を持ち出したとして、それをどこに届ければいいのだろうか。最初の飛行船の事故以来、妙に記憶があやふやなところが多いが、これでは困る。
「…お前はどこに行きたい?」
 ジェインは思い出すまでの時間を稼ぐため、逆にイヴァンに尋ねた。
「うーん…本で読んだことぐらいしか知らないけど…たとえばジパングとか?」
「ジパングか」
 ジパング。大陸東部に位置する、独特の文化を持った地域。何かで呼んだような知識は浮かぶが、具体的な景色などは思い浮かばなかった。どうやらジパングは目的地ではないらしい。
「他には?」
「他は…ポローヴェとか行ってみたいな」
 ポローヴェ。魔物の精霊使いによって大きな発展を遂げた国だ。
「精霊使いが有名らしいな」
「うん。気象を操る技術を見たりして、僕の力をいろんな場所で役立てられないか確かめてみたいんだ」
 確かに、イヴァンの天候を操る能力は、一部の精霊使いのそれと似ている。もしかしたらジェインが関知できないだけで、イヴァンの側には精霊がいるのかもしれない。
「なかなか立派な考えだな」
 自分の力を世界のために役立てたい。自分の可能性を信じている子供らしい、あるいは途方もない目的だった。だが、ジェインの脳裏には、それ以上の考えは浮かばなかった。ポローヴェも目的地ではないようだ。
「他にはどうだ?」
「他は…ええと…」
 ナムーフの外に関する書籍はあまりなかったのだろうか。イヴァンはしばらく黙考し、ジェインを見上げた。
「レスカティエ」
 イヴァンの返答を最後まで聞く前に、ジェインは鳩尾の裏側が燃え上がったように感じた。熱だ。熱を帯びた何かがジェインの鳩尾から喉へと向けて、胸の裏側を這い上っていく。
「…!」
 瞬間的にこみ上げてきた吐き気に、ジェインは体を折り畳むようにしながら、口元を押さえた。だが、喉奥からせり上がってきた苦みと酸味は止まらず、あっと言う間に口内を満たした。
「うぶ…!」
 ジェインの頬が膨らみ、鼻腔から酸っぱい臭いが抜けていく。どうにか手で口を押さえ込んでいるが、限界は近い。
「ジェインさん!?」
 不意にその場に身を屈め、通路の床に膝を突いた彼女に、イヴァンは動揺した声で呼びかけた。だが、彼女に返答する余裕などなく、口元を両手で押さえ込み、丸めた背筋を断続的に痙攣させるばかりだった。
「ジェインさん!?ジェインさん!?」
 少年が数度彼女を呼びかけたところで、ついにジェインに限界が訪れた。胃袋から幾度となく送り込まれたモノが、彼女の唇から、彼女の両手の間から溢れだしたのだ。
 吐寫物が木板の上にした立り落ち、ジェインは自身が嘔吐していることを認めた。
「えげぇぇぇ…」
 ジェインは両手を口元から離すと、胃袋の痙攣のままに嘔吐した。ここしばらく飲食した記憶はなかったが、それでもジェインの口からは白く濁った胃液が溢れだしていた。
「えぅえぇぇぇ…ぅぇぇぇええ…」
「ジェインさん…」
 イヴァンは一瞬迷ってから、ジェインの背中をさすり始めた。少年の手のひらの温もりが背筋へと伝わり、ジェインは幾分か嘔吐の苦痛が和らぐのを感じた。そして、少年の介抱もあってか、ジェインの嘔吐は治まっていった。
「うぇぇぇ…ぇぇぇ…っ…!」
 最後にやたら粘つく唾液を滴らせると、彼女の口から溢れるのは嗚咽とえづきのみとなった。だが、嘔吐が治まったものの、彼女を新たな症状が襲った。
 耳鳴りがし、イヴァンの呼びかけが徐々に遠のいていく。
 目がかすみ、床を濡らす吐寫物がぼやけていく。
 目眩がし、両膝と手を床に着いているというのに、ジェインは倒れ込みそうになる。
 なにもかもがぼやけ、ジェインの身動きがままならなくなる。
(何で…?)
 気分の悪さと格闘する彼女は、意識の一角で突然の嘔吐の原因を探った。
 確か、イヴァンから『レスカ
「うぶ…!」
 イヴァンの発した地名を思い浮かべようとした瞬間、ジェインは胃袋が痙攣するのを感じた。今の今嘔吐したばかりのため何も出なかったが、胃袋の蠢きは嘔吐のそれそのものだった。
(何で…?)
 地名を思い出していただけなのに、なぜ。吐寫物に含まれる酸がのどをひりひりと焼き、舌には最悪な後味が残されている。何もかもが曖昧な状態のまま、ただ嘔吐の残滓だけが感じられるジェインは、自問した。
 あの地名に、いったい何があるのだろうか。
「…さん…ェイ…ん…!」
 遠くから誰かが呼びかけている。誰だろう。
 地名と不調の繋がりを探る思考を止めて、ジェインはふと響いてきた声に耳を傾けた。この声は、イヴァンのものだ。そう、イヴァンが彼女を介抱していてくれたのだ。
「う、うぁ…」
「ジェインさん!?」
 イヴァンの呼び声に応えようとした瞬間、ジェインは薄ぼけていた間隔が像を結ぶのを感じた。耳鳴りが弱まり、目の霞が晴れ、目眩が幾分か治まる。そしてジェインは、自身が床の上にいつの間にか横たわっているのに気がついた。
「こ、ここ…?」
「ロプフェルの飛行船!さっきジェインさんが突然倒れたから、ここまで引っ張って…!」
 頭二つは大きいジェインを抱え込み、引きずるようにしながらイヴァンは答えた。
「おい!誰だ!」
「しまった…!」
 不意に響いた誰何の声に、イヴァンが動揺のこもった声を漏らす。ジェインが目だけをイヴァンの方に向けると、彼は通路の前方に向けて顔を上げていた。
「動くな!大人しくしていれば…」
「この!」
 ジェインの視界で、イヴァンが手を掲げた。瞬間彼の髪が前方に向けて一瞬揺れ、遅れてジェインの肌を風がなでた。
「うぉ!?」
 イヴァンの起こした突風によって警備隊員は倒れたようだ。
「今の内に…!」
「い、イヴァ…ン…」
 ジェインを急いで運ぼうとする少年に、彼女は声をかけようとした。彼の後ろに、警備隊員がいると。
 だがその言葉を紡ぎ出すより先に、警備隊員は手にしていた警棒を彼の肩口へと振り下ろしていた。
「…っ…!」
 少年の口から声にならぬ悲鳴が溢れ、直後ジェインを抱える腕が弛緩した。
「侵入者か?」
「らしい」
「確保しておけ」
 どこから集まってきたのか、倒れ伏すジェインとイヴァンに向けていくつもの声が降り注いだ。そしてジェインの両手がとられると、背中の方へとねじりあげられ、手首に金属の輪が填められた。
 手錠をかけられたのだ。
「で、どうする?」
「とりあえずはロプフェル行政長に報告して…」
 警備隊員たちの言葉を聞き、ジェインと同じように手錠を掛けられるイヴァンの姿を見ながら、ジェインは朦朧とした意識が再び混濁してくのを感じていた。




 赤い。
 町が赤い。
 燃えているのだ。
 木材がはぜ、煙が巻き上げられていく音に紛れ、悲鳴が聞こえる。
『覚えているか?』
 燃える町のどこからともなく、何の音にも紛れぬ声が響いた。
『お前がしたことを、覚えているか?』
 思い出せない。
 だが、燃える町と響く悲鳴は、心臓の鼓動を早め、胃袋を不自然に蠢かせた。
 ここから逃げたい。もう何も見たくない、聞きたくない。
『逃げられるわけがない』
 逃げ場を求めて、辺りを囲む燃える町を見回していると声が響いた。
『ここは…』
 そのとき燃え上がる建物の一つが崩れ、火の粉と炎をまき散らした。
 悲鳴のいくつかが掻き消えるが、崩れた建物の奥にも建物はあった。
『成し遂げるのだ。ナムーフから、持ち出せ』
 家屋の倒壊に気を取られていたが、声は続いていた。
『ナムーフから持ち出すことができれば、無用な戦いは止められる。そしてお前は、赦されるのだ』
 なにから
『お前が、ここで為した全てから』




「起きろ!」
 体の前面を打つ衝撃と、降り注いだ声にジェインは目を開いた。
 全身を倦怠感と鈍痛が満たしており、目蓋を上げるのも億劫だった。
「うぅ…」
「おい大丈夫か?」
 ジェインの紡ぎだしたうめき声に、別の声が心配そうな声音で言った。
「あんまり乱暴にして、ここで吐かれたらどうする?」
「あれだけゲロってたんだ。もう何も残ってねえよ」
 ジェインの痕跡を揶揄する言葉に、彼女は自身が何をしたかを思い出した。意識を朦朧とさせる前、油断すべきではない状況で、彼女は無防備にも敵陣で嘔吐し、気を失ったのだ。
 では、イヴァンは?
「は、離せ!」
 ジェインの胸中の疑問に応じるように、少年の声が響いた。ジェインの若干焦点のずれた視界の中、イヴァンは床の上に横倒しにされ、腕を後ろにねじり上げられながらわめいていた。
「いいか、お前たちなんて、僕が…」
「あ?余計な事したら、このアマの指がどうなるか分かってるのか?」
 警備隊員の脅しの言葉に、少年は口をつぐんだ。概ねこういう場合は脅しの意味合いが強いから、折れる必要はなかったのに。ジェインが胸中で言葉を紡ぐが、イヴァンには届かなかったようだ。
「ほら、顔を上げろ。ロプフェル行政長のおいでだ」
 警備隊員の一人が、ふと思いついたようにジェインの銀髪を掴み、顔を持ち上げた。毛髪によって頭を持ち上げられる痛みに、ジェインは低く呻いた。
「うぅぅ…」
「ジェ、ジェインさん!?」
 ジェインの紡いだうめき声に、イヴァンが問いかける。どうやら、ジェインが完全に死んだ、あるいは気を失ったものと思っていたらしい。
「ジェインさん!?大丈夫、大丈夫だから…」
「静かにしろガキ!」
 ジェインの視界の外で鈍い音が響き、イヴァンが低い声とともに言葉を絶った。
「う、うぅ…」
 庇護すべきナムーフの研究成果であるイヴァン。彼が傷つけられたというのに、ジェインの意識は穏やかに明瞭になりつつあった。徐々に取り戻しつつある冷静は、状況を把握する上では重要であったが、ジェインの意識の一角にかすかな困惑をもたらしていた。
「ふん、ネズミが二匹か…」
 徐々に明瞭になりつつある意識の中、聞きなれた気のする声が響いた。
「ロプフェル行政長!」
「ああ、黙れ黙れ。私を讃える言葉は十分だ」
 ジェインの視界の外から、みしりみしりと床板を踏み鳴らしながら、ロプフェルはゆっくりとジェインたちの方へ近づいてきた。
「それで、この二人が我が飛行船に忍び込んだネズミだと言いたいのか?」
「は、はい」
 警備隊員のうち、この飛行船の警備責任者だと思われる男が、言葉を紡いだ。直後ジェインの耳に届いたのは、肉をたたく固い何かの音だった。
「馬鹿者が!」
 ロプフェルと呼ばれた男の声が響く。
「この飛行船に!のうのうと入られて!その上でこいつ等を捕らえただと!?恥を知れ!お前は、この二匹の進入を赦したのだ!」
「も…申し訳…ありません…!」
 音に紛れて、男の声が響く。必死に許しを求める声だった。
「警備隊員の!ほぼいない飛行船を守ることが!貴様の任務だろうが!?」
 ますます勢いを強めながら、もう一つの声は力を増し、言葉の合間に挟む柔らかい何かと固い何かのぶつかる音を大きくしていった。
「はぁはぁ…おい」
「はっ」
 ロプフェル、と呼ばれた声は荒く呼吸を整えると、ジェインの視界の外にいると思しき誰かに声をかけた。
「この役立たずをセントラにくれてやれ」
「し、しかし…」
「今この瞬間から、貴様が警備隊員チーフだ」
「…はっ!」
 突然の異動を、男は受け入れたようだった。
「それで、何だ?白髪の女と、若い男…いや、子供だな。若白髪の女と子供の二人組か?」
 呼吸を整えた後、ロプフェルの声は床に倒れ伏す二人に興味を向けたようだった。ジェインの視界の端を靴に包まれた足が通り、ちょうど二人の眼前で止まる。
「そいつらの顔を見せろ」
「はっ!」
 ジェインにとっては聞きなれぬ声が響き、彼女は髪に何かがふれるのを感じた。人の手だ。そう察した直後、彼女の顔は持ち上げられていた。床板にふれていた頬が解放されるが、髪を掴まれているため頭皮が痛む。だが、痛みのおかげでジェインはぼやけていた意識が像を結ぶのを感じた。焦点のずれていた視界がくっきりとした形を描き出し、ジェインを見下ろす男の姿を意識に届けた。
 肥満ではないものの、そこそこ恰幅のいい中年男だった。上等そうな生地で作られた軍服のようにも見える衣装を纏っている。そして彼の肩の上には、ちょうどこの飛行船の船首に掲げられていたのと同じ顔がひとつ乗っていた。
(この男が、ロプフェル…)
 ジェインは初めて対峙したナムーフの支配者の姿に、妙な感慨を覚えていた。だが、船首では唇を一文字に結びつつもかすかな笑みを浮かべていたその顔は今、大きく目を見開き驚きを滲ませている。
「チャールズ…?」
 男の唇が開閉し、名前を紡いだ。
「は…?この女が……?」
 ジェインの頭髪を握りしめていた警備隊員が、行政長の言葉にジェインの顔をのぞき込もうとした。
「そんなはずはない!チャールズがこの場にいるはずはない!」
 ロプフェルは大きな声でそういい放つと、ジェインから顔を背けた。
「おい、そこの!」
「はっ!」
 ジェインから離れた場所に立つ警備隊員が、不意の呼びかけに姿勢を正す。
「この女の身元は!?」
「はっ!持ち物を探りましたが、何も見あたりませんでした!」
 警備隊員は、傍らのテーブルに並べられた物品を示しながら言った。どうやら気を失っている間に、身体検査をされていたようだ。
「『ドラゴン』のジルに、照明ジルの小瓶が一つ。これらはセントラ研究島から持ち出したもののようです」
「ふん、ドラゴンにでもなって飛んで逃げるつもりだったか?ほかには?」
「ナイフにロープ、簡単な応急手当セットなど小物がいくつかです」
「それで、どうだ?」
「わかりません。いずれもナムーフでも手に入りそうなものばかりです」
 どうやら彼女の持ち物では、身元を暴くことは困難なようだ。
「ふん…貴様が誰かわからない、というのは予測していた。だが、私にはお前が何者かわかるぞ」
 妙な敵意を言葉に込めながら、ロプフェルはジェインを見下ろした。
「お前は、ナムーフの秩序を乱す浸食主義者だ」
「へ…いろんな奴から言われたな…」
「ほう、口を利く気になったか」
 しびれの残る舌を操って言葉を紡ぐと、ロプフェルは目を見開いた。
「では貴様の口が動くうちに尋ねておこう。貴様は、いったい何の目的で私のナムーフに侵入した?」
「正直に答えれば、帰してくれるってか?」
「場合によってはな」
 ロプフェルの返答に、ジェインは自分が解放されることはないと嗅ぎとっていた。
「もっとも、貴様の目的がろくでもないことなど私にはわかる。市街地でジルを大量に服用して魔物化し、警備隊の飛行船を強奪。その上…まあ私の管轄ではないがセントラ研究島からジル二つ盗んだ上に、『子供』を連れ出すとは」
「え…?僕のこと…?」
 不意に自身が話題に上ったことに、イヴァンは声を漏らしていた。
「そうだ。貴様のことは私もよく知っている」
 ロプフェルはジェインから視線をずらすと、忌々しげに言った。
「貴様のおかげでナムーフはさらなる秩序を手に入れることができたが、結果ギゼティアの所の白衣野郎どもに大きな顔をさせることとなったからな」
「ぼ、僕は何も…」
「お前が何もしなくとも、白衣野郎どもが成し遂げたのだ。かつて、このナムーフが空へと飛び立ったばかりの頃、幾度となく嵐がナムーフを襲った!だが、白衣野郎がどこからか見つけてきた『子供』を使うことで、もはやナムーフは如何なる天候からも守られることになったのだ!見るがいい!」
 ギゼティアはくるりと二人に背を向けると、飛行船の窓の外に広がる青空に向けて手を広げた。
「この青空は、貴様から取り出した力を使って作られているのだ!嵐の中においてもナムーフにはそよ風一つ吹かない!地上を数ヶ月の干ばつが襲っても、ナムーフには恵みの雨がしとしとと降る!ナムーフはもはや主神の恵みすらも不要となったのだ!白衣野郎どものおかげでな!」
 ロプフェルは言葉を切ると、床に転がされたジェインの方に向けて顔を向けた。
「しかし、ナムーフはまだ未熟だ。私の作り上げた秩序を地上に広めるには、まだ足りぬものが多い。だから、貴様のような浸食主義者に街を乱される訳にはいかないのだ」
 ロプフェルは屈み込み、ジェインの顎を掴んだ。
「ぐ…!」
「さあ、言え。貴様の目的は何だ?どこからやってきた?」
「…わ…んね…!」
 ジェインは顎を固定されたまま、唇を小さく開閉させて言葉を紡ごうとした。
「何だ?」
「ロプフェル行政長!」
 ジェインの髪の毛を掴んでいた警備隊員が、耳を近づけようとするロプフェルを制するように声を上げた。
「なあに、この人数だ。無茶なことはできまい…」
 彼は余裕たっぷりに笑みを浮かべると、改めてジェインに顔を近づけた。
「さあ、何だ?」
「…悪いが、オレにもわかんねえんだ…!」
 自分がどこからやってきたのか。ジェインはその質問に低い声音で答えてやった。
「それは…」
 ジェインの返答にロプフェルが困惑した瞬間、彼女は思いきり右足に力を込めた。瞬間的に右足が解け、四本の触手に分裂する。
「しま…!」
 ジェインを組み伏せる警備隊員が、警棒でジェインを殴りつけようとした瞬間、彼女は天井に向けて触手を伸ばした。勢いも速度も、迸るというような勢いで触手が伸び、天井に吸着する。一気に触手を縮めると、ジェインの体が逆さに持ち上がり、彼女を組み伏せる警備隊員が体勢を崩して床の上に転げ落ちた。
「く!?」
 身を起こそうとする警備隊員に向け、ジェインは触手を伸ばし、緩んだ手の中から警棒を奪い取った。そして彼が姿勢を立て直す間もなく、その横っ面を容赦なく殴りつける。
「…!」
 警備隊員は声もなく昏倒し、床に崩れ落ちた。失神するほどではなかったが、それでもしばらく身動きはとれないだろう。
(次は…)
 ジェインは室内を一瞥し、ロプフェルと六人の警備隊員の位置を確認した。どういう順番で片づければよいか、ジェインは脳裏で描く。
「貴様!」
「動くな!」
 ロプフェルが声を荒げると、イヴァンの側にいた警備隊員が短く命じた。彼は拘束された少年の襟首を掴むと、人質でも取るかのように抱え上げた。
「大人しくしろ!さもないと…!」
 彼は警棒をイヴァンの首筋にぐいと押し当てて見せた。
「…へ、わかったよ」
 ジェインは天井から逆さ吊りになったまま肩をすくめると、触手をゆるめた。奪った警棒に吸着していた吸盤がはがれ、堅い木の棒が床へと落ちていく。
「…」
 ジェインが抵抗をやめた。その事実に、イヴァンを人質に取る警備隊員の全身から、緊張の糸が緩む。ジェインが待っていたのは、その瞬間だった。
 ジェインは警棒を掴んでいた触手を大きく振ると、落下していく警棒に思い切りたたきつけた。警棒の一端に衝撃が伝わり、まっすぐに警備隊員の方へと飛んでいく。すると警棒は、吸い込まれるように警備隊員の額に命中した。
「…っ…」
 短い呼気と共に、警備隊員の目玉がぐるりと上を向き、イヴァンを抱えたまま真後ろに倒れていった。彼がクッションになってくれるおかげで、少なくともイヴァンが怪我をすることはないだろう。ジェインは一瞬のうちに判断を下すと、次の相手に目を向けた。正確には、自身を吊り下げる触手を軽くねじり、体ごと背後を向いたのだ。ジェインの視界に入ったのは、警棒を手に手が届かない程度の距離まで駆け寄る、七人目の警備隊員だった。
「!」
 警備隊員の顔に焦りを含んだ驚きが宿る。気づかれぬ間に距離を詰め、警棒の一撃でしとめるつもりだったのだろう。しかし、今の自分をどう攻撃するかということを考えると、ジェインには容易に彼の動きが予想できた。ジェインは触手を三本伸ばし、二本で警備隊員の体を、一本で警棒を締め付けた。そして力任せに警備隊員から警棒を奪う。
「こ、の!」
 警備隊員は警棒を握りしめて抵抗しようとしたが、ジェインの触手の力にかなうわけもなかった。男の手の中からすっぽ抜けた警棒を確認すると、ジェインは警備隊員の体を、残る警備隊員たちに向けて放り投げた。
「あぁぁぁっ!?」
 悲鳴の後に衝突音が響き、投げられた一人と合わせて、三人の警備隊員がひとかたまりになって倒れ伏す。失神させるには至らなかったようだが、それでも彼らの手足は床をひっかくばかりで、体を支えるほどの力は入らないようだった。
「これで、あと二人だな…」
 ジェインは三本の触手を床に着けると、天井に吸着させていた一本から力を抜いた。逆さ吊りになっていたジェインの体が反転し、左足が床に触れた。
「どうする?続けるか?」
 ジェインの問いかけに、二人の警備隊員が一瞬視線を交差させた。どのような作戦を採ったところで、あっと言う間に床に倒れ伏すことが目に見えるようだったからだ。
「うぐ、ぐぬぬぬ…浸食主義者め…!」
「そういえばさっきも言ったけど、浸食主義者ってなんのことだ?」
 完全に昏倒した二人と、ゆっくり力を取り戻しつつある三人に視線をちらちら向けながら、ジェインは時間つぶしも兼ねて問いかけた。
「浸食主義者は、この私の理想たる『人間と魔物の共生する社会』を浸し、脅かそうとする、貴様等のような連中のことだ…!人の姿で社会にとけ込み、魔物に変化して害をまき散らす、害悪の塊だ!」
「はぁ?」
 ジェインはロプフェルの呪詛に首を傾げた。
「まあ、足がクラーケンになったのは予想外だったけど…魔物が紛れ込むことのなにが悪いんだ?『人と魔物の共生』なら、問題ないだろ?」
「私が目指すのは『共生』だ!ただ一緒に存在する『共存』や、魔物側の理に人間が組み込まれる『浸食』などではない!」
 ロプフェルは吠えるように声を張り上げた。
「我々人間が、その理知でもって魔物や動物、草木のすべてを支配して『共生』すべきなのだ!すべてを支配し、魔物さえもが繁栄する道を探るのが、我ら人間に与えられた役割なのだ!それを貴様は、貴様等浸食主義者は!魔物の理に人間を組み入れ、破滅の道に誘おうとしている!」
 男は目を血走らせながら、大きく息をついて続けた。
「だから私はナムーフを作り上げ、この天上の理想郷で地上を統べるための方法を日夜作り上げているのだ!結果、我々人間はジルでもって魔物の力を操る術を手に入れた!だが、その術で人が魔物になってはならないのだ!魔物は、人に統べられなければならないのだ!!」
「ああはいはい」
 ジェインは適当に頷いて見せた。どうやら、この男は特殊な考えの持ち主らしい。どうやってこの浮遊都市を手に入れたのかは知れないが、天空にすんでいるという意識が、彼の『人間こそがすべてを支配する』という妄想めいた主張をより強いものにしているようだ。
「わかった。確かにあんたの理想は立派だ」
 ジェインは触手を伸ばすと、倒れ伏す警備隊員の上からイヴァンを抱き上げた。
「オレとしては、あんたをじゃまするつもりはない。オレはただ、地上に帰りたいだけなんだ」
 触手で抱き寄せたイヴァンを腕で受け取りながら、彼女はそう続けた。
「帰る?どうやってだ?」
「この船を貸してくれ。地上に着きさえすれば、後は俺たちでどうにかする」
 そう。地上に着くだけでいいのだ。浮遊都市の技術ならば、ジェインの体に染み着いた『クラーケン』がある。直接の最終兵器ではないかもしれないが、気象操作という技術の要である少年もいる。地上に二人がたどり着けば、あとは依頼主に任せておけばいい。
 仮にロプフェルに拒絶されたとしても、ロプフェルを取り押さえてしまえばよいだけだ。
「…なるほど、この船で、地上へ降りたいのか…」
 ジェインの申し出に、ロプフェルは言葉を区切りながら言った。
「ならばこの飛行船などくれてやる!好きなところへ行くがよい!」
「は…?」
 ジェインは彼の突然の発言に、一瞬どう行動すべきか迷った。すると警備隊員の一人が、艦橋の壁面に並ぶ操作盤に駆け寄った。飛行船を操作して大きく揺らすつもりだろうか。
「っ!動くな!」
 ジェインは我に返り、触手に掴んでいた警棒を投げつけた。堅い木製の棒は警備隊員の目の前をかすめ、壁面に突き刺さった。
「っ!?」
 警備隊員は警棒の勢いに思わず足を止めてしまう。
 だが、警備隊員が動きを止めたにも関わらず、天井から鉄格子が降りてきた。下手すればその中で一家族が暮らせそうなほど大きな鉄格子の籠が、ジェインとイヴァンを覆う。
「な…」
「ははははは!どうだ?我々を閉め出した気分は!?」
 籠の外から、いつの間にか壁際に移動していたロプフェルが問いかける。彼の側、壁板の木目の一部が妙にへこんでいる。どうやら木目に紛れるように細工されたスイッチを操作したらしい。
「本来ならば、賊から私や操作員を守るための装置だったが、こう役に立つとは思わなかったな」
 ロプフェルの言葉に籠の中を確かめると、ジェインは舵輪やレバーなど、いくらかの操作装置がジェインと一緒に閉じこめられていることに気がついた。
「その中の装置があれば、十分飛行船は操作できる。操縦方法は…実際に動かして覚えるがいい。では、私はここで失礼するとしよう」
 妙に楽しそうな表情で、彼はジェインにそう告げると、無事な警備隊員たちに目を向けた。
「おい、ここを離れるぞ。寝てる連中をたたき起こせ」
「はっ!」
 ロプフェルの側にいた一人と、壁に突き刺さる警棒に足をすくませていた一人は短く返答すると、床に倒れ伏す同僚を揺すり始めた。ジェインが放り投げた警備隊員を含む三人は程なく身を起こし、五人が協力して残る昏倒したままの二人を抱えた。
「さて、浸食主義者とセントラの『子供』よ」
 艦橋から出ていく警備隊員たちを背に、ロプフェルはジェインに向けて笑みを浮かべる。
「快適な空の旅を。さらばだ」
「お、おい!待て、どういう意味だ!?」
 ジェインはロプフェルの言葉に、なにやら不気味なものを感じて、問いただそうとした。だが、ロプフェルはジェインの問いに笑い声で応じながら、警備隊員と共に艦橋を出ていった。後にはジェインとイヴァンだけが取り残される。
「い、いったいどういうつもりだ…?」
 飛行船の操縦装置をみながら、ジェインはつぶやいた。
 飛行船は手に入った。イヴァンも側にいる。鉄格子の外ではあるが、『ドラゴン』のジルのボトルもそのままだ。
 ただ、飛行船の操縦装置と共に鉄格子の中に押し込められているだけだ。
「こ、このまま地上に行くんだよね…?」
 ロプフェルや警備隊員とのやりとりの間、恐怖のあまり声を出すことも忘れていたようであったイヴァンが、不安げに尋ねる。
「ああ…だけど、何か変だ…」
 ジルを摂取し、『クラーケン』の触手を手に入れたジェインを敵として断じていたロプフェルが、なぜこうも簡単に飛行船を明け渡したのか。そしてなぜ、鉄格子で制御装置とともに監禁したのか。
 ジェインには分からない。
「まさか、飛行船に火をつけたのか…?」
 飛行船に火を放ち、燃え上がりながら必死に地上を目指す姿を楽しむ。だとすれば、制御装置と共にジェインを閉じこめた理由も分かる。
「とりあえず、手枷をどうにかしよう」
 ジェインは未だ後ろに回ったままの手錠を軽く揺らし、音を立てながらつぶやいた。
「触手ならいけるか?」
 ジェインは誰にともなく呟きながら、右足の触手を手錠に絡み着かせた。鎖を締め付け、引っ張る。だが、大の男を易々と放り投げ、壁面に警棒を突き立てるほどの力を秘めた触手で持っても、手錠はちぎれなかった。
「くそ…触手に手錠が食い込むな…」
 触手の表面はかなり柔らかで、手錠を引き裂く前に肉に食い込んでしまうのだった。手錠をちぎれないようなら、鉄格子を曲げることもできないだろう。
「…だめか…」
 ジェインは触手をほどき、右足に変化させながらあきらめた。
「イヴァン、こう風か何かで鉄格子とか、手錠を切断とか…」
「鉄格子は無理だよ…それに、手錠の鎖ぐらいならできないこともないけど、腕も切り落としちゃうよ」
「だよなあ」
 そう都合よくは行かない。ジェインがダメもとの頼みごとが、やはりだめだったと納得しようとしたところで、ふと彼女の胸に何かが引っかかった。
「待て…風の刃って、何だ?」
「へ?」
 ジェインが自身に対して発した問いかけに、イヴァンが疑問符を浮かべる。
「風の刃っていうのは、勢いの強い空気の流れが作り出す、切れ味を帯びた風のことで…」
「イヴァン、オレもそのことは知ってる。ただ…何でオレ、風の刃なんてものを知ってるんだ?」
 そう、物を切り裂くような風など、日常で出会うことはまずない。
 だというのに、ジェインは言葉そのものはでなかったものの、その存在を知っていたかのように、イヴァンに問いかけていた。
「ここに来る前のことか…?」
 おぼろになっている自身の過去を想起しようとしたところで、ジェインは鉄格子の向こうの机に並ぶ、二つの瓶にふと目を向けた。ドラゴンの意匠を施されたジルのボトルと、木箱から延びる針金でがんじがらめにされた小瓶。風を纏って宙に浮かんだ小瓶を割ってしまい、代わりに拾った光る小瓶だ。
「…思い出した」
 ジェインは脳裏に浮かんだ、風を纏ったジルの小瓶と、触手を弾きとばした感触に思わず声を漏らしていた。どういう仕組みかは分からないが、チェアも小瓶も風を纏って空を飛ぶらしい。ということは、この浮遊都市も…
「イヴァン!」
「な、なに?」
「机の上の『ドラゴン』のジル、こっちまで持ってこれるか!?」
「で、できるけど…」
「急いで取ってくれ!船がナムーフを包む風にぶつかって、粉々になる!」
「…あ!」
 一拍遅れて彼も、ロプフェルの言動と危機的状況がつながったらしい。
「だ、脱出しないと!」
「そのためのジルだ!早く!」
 イヴァンはあわてつつも、鉄格子越しにジルのボトルに意識を向けた。すると、発光するジルの小瓶やナイフなどの小物を吹き散らしながら、風を纏ったボトルが宙に浮いた。『ドラゴン』のボトルは、鉄格子に接近するが、鉄棒と鉄棒の間の隙間はボトルよりも小さかった。
「瓶が通らないよ!」
「十分だ!」
 ジェインは鉄格子に駆け寄ると、鉄棒の隙間に押しつけられるジルのボトルに向け、右足の触手を伸ばした。すると、ボトルを包んでいた風が一瞬のうちに掻き消え、彼女の白い触手の中に収まる。ジェインは何のためらいもなく、翼を広げるドラゴンの少女の装飾ごとボトルのふたを引き抜くと、鉄格子に顔を寄せて口を付けた。
「ん…ん…!」
 持ち帰るべきサンプルを消費している、という考えや、ジルを摂取しすぎると魔物になる、という警告を意識の外に追いやり、ジェインはボトルの中身を飲み続けた。そして強い酒のような熱が、ジェインの喉や胃壁を灼き、ついに全身へと滲みだしていった。
「ん…ん…んぐ、げほ!」
 熱に耐えきれなくなり、ジェインはついにせき込みながらボトルから口を離した。
「げほ、ごほ、げほっ…!」
 せき込みながらも触手はボトルを保持していたが、ジェイン自身の体の揺れにより、その中身はほとんど床へとこぼれてしまった。
「大丈夫!?」
 イヴァンが、体を折り曲げるようにして咳を重ねる彼女に駆け寄った。そして彼の手のひらが、ジェインの背筋をさすろうとのばされる。だが、彼の柔らかな指先が触れる直前、少年は動きを止めてしまった。
 背中の方にねじられ、手錠を掛けられたジェインの右手に異変が起きていたからだ。
「ごほ…ぇほっ…!」
 ジェインは少年の動揺を察知することもできず、咳を繰り返し、全身に広がった熱に汗を浮かべていた。やがて全身の熱は、『クラーケン』のジルを飲んだときのように、体の一ヶ所に集まり始めた。左腕だ。
 肩から指先までが熱を帯び、脈打ちながら痙攣する。筋肉とは異なる別の何かが皮膚の下で蠢き、腕の骨全体がみしみしと痛む。腕全体が変形しつつあるのだ。
 するとジェインは、自身の手首に何か固い物が食い込んでいるのに気がついた。手錠だろうか?しかし、手錠は手から抜けることはなかった物の、手首が回せるほどの余裕があったはずだ。だが現に手錠はそのサイズを縮めたかのように、彼女の手首に食い込んでいた。
(いや、オレの腕が太くなって…)
 ジェインがその事実に重い至ったところで、ぶつんと音を立てて手錠がはずれた。不意に後ろの方へねじられていた腕が自由になり、彼女は両手を自身の前に回した。咳を繰り返したせいで涙に滲む視界に入ったのは、手首に金属の輪をはめたままの見慣れた右手と、二周りは大きくなった左腕だった。それも、ただ膨張したわけではなく、腕全体が歪に変形していた。二の腕が延び、手のひらが大きくなり、指がいくらか縮んでいる。そして肩口から指までの皮膚を突き破って、赤黒い鱗が規則正しく覗いていた。指先に生えそろっていた見慣れた平たい爪は姿を消し、黒く湾曲した爪が伸びている。
 腕も、鱗も、鉤爪も、みしみしと音を立てながら伸びていた。
 そして、右手全体の脈動が収まったところで、彼女はいつの間にか咳がやんでいることに気がついた。
「…終わった…?」
 人外のものとなった左手を曲げ、伸ばし、指を開閉しながら、ジェインは呟いた。外見こそ恐ろしいものであったが、それは彼女の思い通りに動いていた。大まかな構造が似ている分、右足の触手よりも扱いやすいかもしれない。
 ジェインは左腕の様子を確かめたところで、右足の触手出握りしめていたボトルが空になっていることにふと気がついた。せき込んでいる間に、上下逆に握ってしまっていたらしい。彼女はボトルを放り捨てると、触手を束ねて右足に戻し、床を踏みしめた。
「ジェインさん…その腕…!」
「ああ、ちょっとびっくりさせたな」
 ジェインはイヴァンの震える声に応じると、何でもないと安心させるように軽く手を挙げて見せた。
「でも、ジルを摂取しすぎると、魔物になるって…」
「そうだな。どこに出るかは賭だったけど…うまい具合に腕に出てくれてよかった…」
「うまい具合?」
「ああ、こうする為だ」
 ジェインは自身の右手に絡み着いたままの手錠を鉤爪で摘むと、軽く力を込めた。ドラゴンの強靱な筋肉と、かなりの硬度をそなえた爪が金属の輪をひしゃげさせ、ちぎり取った。
「ほら、どうだ?今度はイヴァン、お前の分だ」
 手錠の残骸を床に放り捨て、ジェインはイヴァンを手招きした。
 少年はいくらか緊張した面もちで彼女に背を向けると、後ろに回された両手の手錠を軽く掲げて見せた。ジェインは彼の細い手首に絡みつく手錠を爪で挟み込み、同じようにちぎり取った。
 金属音が二つ響き、少年もまた自由になる。
「あ…ありがとう…」
「なーに…さて、次は…」
 続けてジェインは二人を取り囲む鉄格子に向かうと、その鉄棒に軽く手をかけた。人差し指と親指で作った輪ほどの太さの鉄棒は、普段ならばほぼ曲がることはないだろう。だが、彼女が左手に軽く力を込めるだけで、鉄棒は湾曲していった。
「こんな…もんだな」
 鉤爪で鉄棒を何本か切断し、ジェイン一人でも通れるほどの隙間を作り出す。そして彼女は隙間をくぐって鉄格子の外に出ると、少年を振り返った。
「ほら、イヴァン。急ぐぞ」
「う、うん…」
 少年は一つ頷くと、遅れて鉄格子の隙間を通り抜けた。
 右足が触手になり、左腕が鱗と鉤爪の生えたものとなる、彼女の作り出した隙間を。
13/12/05 21:18更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ

 魔物による人間社会への浸食は、もはや止めようがない。魔物が変質してからという物の、奴らは巧妙に我らの社会に入り込んでくる。
 奴らが力で攻め込んでくるのならば、人間にも知恵という対抗手段があった。
 だが、奴らは人間のごとき知恵と外見を手に入れ、人間の感情を利用して浸食を進めているのだ。
 魔物どもは人間の社会に入り込むと、獣のように盛り、男との間に子を作るのだ。魔物の子をだ。人間の女ならば大丈夫かと思えば、彼女らも魔物になってしまう。
 人が、魔物に犯されているのだ。
 だが、どうすればよいのだ?主神は人間に力を授けてくださるが、その力でもって魔物を滅ぼすことはできない。人間の外見を持つ魔物どもを、喜々として手に掛けることができる人間は、もはや魔物だ。魔物を相手にするために、魔物になってはならない。
 もはや、人は魔物に犯されるがままにされるほかないのか?我々の父と母や、その父と母、連綿と続く系譜が作り上げてきたすべてを、魔物に壊されるしかないのか?
 何か方法があるはずだ。人と魔物が、最後の一線を越えることなく、我らの社会を守る方法が。
 奴らの浸食をくい止め、人間の社会を守らなければ。


ロプフェル行政長
ギゼティアとの邂逅前の日記より

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