連載小説
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chapter 6
 貨物飛行船がイーロ・ファクトを離陸してまもなく、貨物の間から一つの影がそっと姿を現した。白髪の若い女だ。女はしばしあたりの様子を伺ってから、小さく囁いた。
「大丈夫だ、見張りはいない」
 女の声にそっと立ち上がったのは、十代半ばほどの少年だった。どこか不安げな様子で、ちらちらとあちこちを見ている。
「だ、大丈夫かな…」
「大丈夫だ。箱を押し込んでた魔物も言ってただろう。『降りるのが遅れても船は出発する』って」
 ジェインはそう、イヴァンの不安を打ち消してやるように言った。
「それに、今は二人ともよく眠っている。仮に気がついたとしても、箱の蓋が開くまでだれも気がつかない」
 そう言いながら、彼女は傍らの大きな木箱を示して見せた。
 貨物飛行船の離陸直前、ジェインたちが隠れていた木箱を警備隊員とお供のワーウルフが開こうとしたのだ。幸い人目がなかったため、ジェインがワーウルフを思い切り突き飛ばし、警備隊員を締め落として対応した。そして、警備隊員の持っていた手錠やらで無力化した二人を、ジェインとイヴァンが身を潜めていたスペースに押し込めたのだ。
「しかし、本当に人間に戻るんだな…」
 ジェインはふと、警備隊員を締め落とした直後のことを思い出した。ただ『ドラゴン』の左腕で突き飛ばしただけのワーウルフは、ジェインの目の前で見る見るうちに人間に戻っていったのだ。灰色の毛並みも、三角形のとがった耳も、手足の末端からのぞく爪さえも消え去り、後にはただの女だけが転がっていた。ワーウルフの拘束具につながる鎖がすっぽ抜け、警備隊員の手に握られたままだったところを見ると、安全装置が稼働して治癒ジルが注入されたらしい。
「…改めて見ると、変な気分だったね」
「ああ…まあ、コレがあることを考えると、当たり前なんだろうけどな」
 ジェインはイヴァンの感想に頷いて、左手を軽く開閉し、ズボンが半ばで破けてむき出しになった右足を小さく揺らした。ジェインの意志に応じて鱗と鉤爪をはやす、あるいは強靱な四本の触手に分裂する四肢。その効能のほどを考えれば、異形が人間の形になることなど、不思議ではない。
「それより、そろそろ外見をどうにかしないとな…」
「え?」
「ほら、オレの髪って目立つだろ?」
 ジェインは後頭部で結われた髪の毛に軽く触れながら、イヴァンに答えた。
「それに片足だけ破れたズボンとかも、たぶん警備隊連中の間で広まってるはずだ。下手すれば人目に付いた瞬間『キャー!』ってなるかもしれない」
「つまり…変装?」
「ああ」
 ジェインは頷くと、並ぶ木箱の合間を巡り始めた。
「確かこの船は、イアルプ行きだって話だろ?こいつが建材専用の貨物船でもない限り、どっかに…あった!」
 彼女は木箱の一つの前で足を止めると、その蓋をはずした。
「ほら、あった!」
 そう言いながら彼女が木箱から取り出し、イヴァンにむけて掲げて見せたのは、一着のワンピースだった。淡い、若草色のそれは胸元が大きく開いており、ブラウスと一緒に身につける一品のようだ。
「……」
 イヴァンはふと、ジェインがそれを身につけた時の様子を思い浮かべた。彼の脳裏で、ジェインはまとめていた髪を下ろしており、白髪…いや銀髪が日の光を反射しながら風になびいて
「ほら、こっちにはイヴァンが着れそうな奴があった」
「ああ…って!」
 ジェインが続けて広げて見せた、やや小さな白いブラウスに、少年は脳裏の景色をかき消して声を上げる。
「ジェインさん、それ女物!」
「え?そうなのか?」
 ジェインはイヴァンと手元のブラウス(彼女の認識ではシャツ)を交互に見比べた。
「でも、レースとか飾りとか入ってないし…」
「ボタンの付け方見てよ!こう…向かって右側にボタンが付いてるのは女物だよ」
「…本当だ!」
 よくよく眺めてから、ジェインは驚きの声を漏らした。
「でも、僕に入りそうなのがあるなら、他にも…」
「いや、服関係はこれぐらいしかなさそうだ」
 ジェインのすまなさそうな言葉に、イヴァンが動きを止めた。
「ズボン類もあるのはあるけど、お前にはかなり長すぎる奴だし、あとは女物と、帽子と…まあいいか」
「よくないよ!僕が変装できないじゃない!」
「いや、俺の特徴ばっかりが目立つだろ?だったら、オレだけが変装してしまえば、たぶんバレない…いやまて」
 ジェインは言葉を中断し、しばし默考した。
「どうしたの?」
「…イヴァン、いい方法があるぞ…」



 ナムーフの中層に浮かぶいくつもの小島の群、イアルプ群島。その一つの船着き場で、騒ぎが起こっていた。積み荷の木箱をあわただしく降ろす作業員に混ざり、工具や木材を抱えた者が出入りしているのだ。
「荷降ろし状況は!?」
「残り二割程度です!」
「修理状況はどうなってる!?」
「とりあえず塞ぎましたが、強度に不安があります!」
 船着き場と船内の合間を、いくつもの大声が飛び交っている。無理もない、飛行貨物船が船着き場に着陸する寸前に、船倉の壁面、つまりは船体側面に大穴が開けられたのだから。
 飛行貨物船の突然の破損に、作業員や船員の脳裏をよぎったのは、積み卸しの遅延による飛行貨物船の遅れだった。この貨物船は、朝から晩までみっちり運行計画が定められており、僅かな遅れは他の貨物船の運航にも関わってくる。仮に、船の修理や荷降ろしの手間取りで出発が遅れてしまったら、その責任は誰が被るのか。
「荷降ろし急げ!」
「外からも材木を当てて、強度確保しろ!」
 責任者の語句を肩書きに持つ者は、必死になって声を張り上げていた。彼らの焦燥は、直属の部下はもちろん、他の貨物船の作業を担当している者たちにもじわじわと広がっていた。だが、自分の仕事を抱えた彼らにはどうすることもできず、ただハラハラとしながらそれぞれの作業をこなすばかりだった。
「ああ…間に合うのか、あれ…」
 船着き場を囲む格子のいくつかに設けられたの出入り口の一つ、関係者以外の者が入らぬよう見張っている男がが、大穴の痕も痛々しい飛行貨物船を見ながら思わずつぶやいた。
 彼には見張りという仕事があるが、可能ならば貨物船のところまで駆けていって修理を手伝ってやりたいところだった。
「あの…」
「何だ?」
 男はふと掛けられた声に、顔を船着き場の外に向けた。だが、そこに立っているはずの、声の主であろう女の姿はなかった。
「こちらです…」
 再度響いた声に振り返ると、そこには二つの人影が立っていた。紺色の簡素なドレスに身を包んだ若い女と、彼女と手をつなぐワンピース姿の少女だ。二人ともお揃いの帽子を被っており、休日にイアルプの繁華街を歩けば、一度はすれ違う程度にありふれた姉妹と思しき取り合わせだ。
 ただ、二人の立ってる場所が問題だった。彼女たちは格子の内側、つまりは関係者以外の立ち入りが禁じられた、船着き場の中にいるのだから。
「あ、あんたたちどこから入ったんだ!?」
「ええ、向こうの方から迷い込んでしまって…それで出口を探していたのですが…」
「ここは関係者以外は立ち入り禁止だぞ」
「すみません。ですが間違って入ってしまったもので…」
 女はすまなさそうに、帽子を乗せた頭を下げた。そこで男はようやく、彼女の髪が白いことに気がついた。
『浸食主義者は白髪の若い女で、ズボンの右足が破れている』
 男の脳裏に、警備隊員から聞かされた特徴がよみがえるが、すぐに打ち消した。服装が違うし、そもそも浸食主義者は少年を連れていたはずだ。目の前の女の髪が白いからといって、決めつけてはいけない。
 男はそう、疲労か不安によるものか、所在なさげに視線をさまよわせる少女から目を離した。
「とにかく、ここからでるんだ」
「はい…」
「本当なら、いつ、どこから、どうやって入り込んだかを書類にまとめなきゃいけないんだが…この辺りを歩くときはもっと気をつける、って約束できるか?」
「は、はい」
 女の言葉にあわせて、少女も頭を上下に揺する。
 男は彼女の必死な様子に、それでこの一件を納めることにした。彼女のような美人を怖がらせることに対して心が痛むのもあったが、むしろ今からこの二人を船着き場の管理事務所まで連れていって、書類を作る方が手間だと感じたからだ。
「よし、じゃあ出てよし」
 男は二人に対し、一歩横にずれて道をあけた。
「ありがとうございます…」
 女はそう感謝の言葉を口にしながら、彼のそばを通り抜けていった。
「…さて…」
 女と少女、二人の後ろ姿を見送ってから、彼は視線を貨物船に向けた。船の修理は、果たして間に合うのだろうか。
 彼にとって気がかりなのは、そのことだった。



「…もう大丈夫だろう」
 建物の合間で足を止めると、ジェインは頭に乗せていた帽子を脱ぎ、軽く仰いだ。
「はぁ…にしてもバレなかったなあ…」
「……」
 ジェインの言葉に、イヴァンは無言だった。無理もない。彼は今現在、少女に変装しているのだ。慣れぬスカートの不安感と、女装に対する羞恥が、彼の口をつぐませていた。
「どうした?…ああ、女装させたのは謝るけど、わりといい案だったろ?さっきの警備も、オレの髪見て一瞬疑ったみたいだけど、お前見てすぐに納得したようだし…」
「……」
「…あー…わかった。とりあえず服屋か留守の家を見つけて、今度はオレが男装する方向で変装しよう」
「…僕、もうスカートは履きたくない…」
「わかってる。多少大きくても、男物に着替えさせてやるから、な?」
 ジェインはそう、イヴァンの機嫌を取ろうとした。だがその一方で、彼女は今のドレス姿を割と気に入っていた。これならば、膝や太腿がむき出しになることを気にすることなく、楽に右足を『クラーケン』の触手に変えられるからだ。だがその一方で、ドレスの袖は長く、左腕を一度でも『ドラゴン』に変えたが最後、生地がずたずたになることは容易に予想できた。
(男ものだとズボンが破れて、女物だと袖が破れて…)
 男装するにしても、左腕や右足を露出してもおかしくない服装を選ばなければ。ジェインは内心でため息をついた。
「それじゃ、先に服を探すか?」
 ジェインがそうイヴァンに問いかけると、彼は小さく頷いた。ジェインがイヴァンに向けて手を伸ばすと、彼はしばし迷ってからその手を握った。
 これで傍目にはあまり似てない姉妹、あるいは年の近い伯母と姪に見えるかもしれない。
「…服屋か何かを見つけるまでの辛抱だ…」
 ジェインは路地から通りに向けて足を進めながら、そう囁いた。顔は正面を向けていたが、視界の端で少年の帽子が揺れるのが見えた。
 そして二人は程なくして、路地から建物の並ぶ通りへ出た。
「…へえ…」
 ジェインは並ぶ建物を一瞥し、声を漏らした。煉瓦積みの背の高い建物の並びが、かつて見たものによく似ていたからだ。とはいっても、ナムーフを訪れる以前の記憶ではない。燃える飛行船のそばで目を覚ました後、祭りの会場を通り抜けた前後の町並みの記憶だ。
 並ぶ建物の通りに面した一階は商店になっており、二階より上は集合住宅のようだった。
 ただ記憶との相違点を挙げるとするならば、行き交う人々の足取りがやや慌ただしく、表情にも不安が滲んでいることだろうか。
「やっぱりオレのせいかな…」
 すれ違う人々に聞こえぬよう、口の中だけでジェインは呟いた。イーロ・ファクトで再会した、見覚えのある男によれば、島の間の交通が止められているらしい。仮に自分の家のある島から別の島にいるときに巻き込まれたら、どんな気分になるだろう。
「……」
 ジェインは一瞬湧いた罪悪感を押し殺し、通りを進んだ。探すべきは、服屋か留守宅だ。まずはイヴァンを着替えさせなければ。ジェインはちらちらと通りに面した窓を伺いながら、留守宅を探った。だが、ろくに進まぬうちに、彼女の足が遅くなっていった。
「あれ…?」
「…どうしたの?」
 ついに足を止めてしまったジェインに、イヴァンは不安げに尋ねた。
「いや、このあたりはもしかして…」
 ジェインの胸の内で、徐々にある考えが浮かんでくる。通りに面した建物、一回に構えられた店。閉店中なのか人気がなく、入り口に紐の張られた酒場。そして、酒場の上に掲げられた、『ジル』の文字を消された看板。
「戻ってきたのか…」
 ジェインは『クラーケン』を手に入れたあの場所に戻ってきたことを悟った。
「戻ってきた…?」
「ああ、ここでいろいろあって、警備隊員に目を付けられるようになったんだ」
 ジェインはざっと経緯を説明すると、店の様子をうかがった。店の窓は割れており、ジェインが一暴れした後そのままになっているようだった。もしかしたら、ジェインにジルを提供した件で、店の主人と従業員の女は警備隊に連行されているのかもしれない。
「なら、狙い目だな…」
 ジェインはあたりの様子をうかがうと、酒場とその隣の建物の合間を目指して足を進めた。
「え?こっち?」
「たぶん、あの店は今は留守だ。店の主人が男だったから、男物の服ぐらいあるはずだ」
 大暴れした上に服を盗むなど、少々主人に対して悪い気がしたが、ジェインは罪悪感から目を背けた。そもそも、ジェインに対してジルを提供しなければ、こんなことにはならなかったのだ。
(まあ、そのジルがなければ、オレはイヴァンを連れ出せなかったんだけどな…)
 その一点にだけは、彼女は感謝していた。
 やがて二人は路地裏に面した店の裏口の前にたった。ドアには事件の捜査中により立ち入り禁止の旨が張り出されているだけで、見張りも行く手を阻む障害物もなかった。
 ジェインの手が扉の取っ手をつかみ、軽く回す。金属の部品が擦れる感触の後、扉は店の中に向けて開いていった。鍵は掛かっていない。
「…不用心だな」
 ゆっくりとドアを押し開きながら、彼女は口中で呟いた。もしかしたら室内に留守番がいるのかもしれない。
「…イヴァン、ちょっと待ってろ」
「うん…」
 ジェインはイヴァンを路地裏に残し、そっと店の中に入り込んだ。ジェインを迎えたのは厨房だった。タイル張りの床を、足を滑らせるように進めながら、ゆっくりと進んでいく。大きな調理台の向こうには出入り口が二つ。一つは扉でふさがっており、もう一つは蝶番の跡と思しき穴だけがドア枠に取り残されていた。彼女が首を伸ばして開いている方の出入り口を除くと、カウンターの裏側ととりあえず並べられたテーブルが見えた。酒場の客室だ。
 ジェインは酒場の方に向かっても何もないと判断すると、扉の方へと進んだ。通りの方から店内とカウンター越しに見られても気が付かれぬよう、調理台の陰に身を隠しつつ、扉のそばに達する。そして彼女は耳を軽く、扉の木板に押し当てた。
『グラスが22、テーブル3つ、ボトルが…』
 扉の向こうから聞こえてきたのは、男の声だった。どうやら店主は既に警備隊員から解放され、ジェインによる『損害』を計算しているらしい。
『壁の補修と、窓ガラス…窓枠も換えねえと…』
 店主の声は最後にため息を重ねてから途切れた。その沈黙には、ジェインから服をいただこうという考えを引っ込ませるほどの、疲労がにじんでいた。
(考えてみれば、ここの店主はかなり太ってたな…いくら何でもイヴァンにはサイズが合わない)
 ジェインは脳裏で、道化のようにダボダボのズボンを履いて走り回る少年の姿を思い浮かべ、そう結論づけた。だとしたら、この場から早いとこ撤退しなければ。
 彼女は扉から耳を離し、そのまま少し後ずさった。だが、ジェインが裏口の方へ振り返ろうとしたところで、扉の取っ手が回転した。
かちゃり
 金属の擦れる音を立てて、扉が開いた。
「っ!?」
「あら?」
 扉の奥から姿を現したのは、女店員だった。店主が着ていたのと同じエプロンを纏っている。
「何かご用かしら?」
「いや、その…」
 ジェインは何か言い訳しようとして、自信の格好のことを思い出した。今彼女は変装しているのだ。
「すみません…親戚のやっている店に入るつもりだったのですが…通りを間違えたみたいで…」
「そうなの?」
 ジェインの取り繕いのいいわけに、女店員は軽く首を傾げながらそう返した。
「『立ち入り禁止』と扉に貼ってあったはずだけど?」
「ええ、叔父得意の冗談かと思って…」
「そう、でも気をつけなさい」
 女店員はとりあえず納得したようだった。ジェインは紺色の布地に包まれた胸の奥で、心臓の鼓動がゆっくりになるのを感じていた。
「ところで、『クラーケン』はちゃんと使えてるかしら?」
 心臓が跳ね上がる。
「ボトル一本は服用しきれなかったようだけど、あのぐらいでちょうどよかったでしょう?」
「な、何を…」
 人違いではないか、とジェインはしらを切り通そうとする。
「服装を変えても分かるわ」
 だが、女店員の目を欺くことはできなかった。
「…分かった、降参だ」
 ジェインは口調をいつものものに戻し、軽く手を挙げた。
「それでどうする?『犯人が戻ってきた』って警備隊に通報するか?」
「しないわ。だって、お困りなんでしょ?」
 女店員は、扉を大きく押し開くと、ジェインに向けて手招きした。
「まずは奥へ。それと、外の子もね」



「え…リィドさん?」
 路地裏で待っていた少年を呼んだ直後、彼は女店員に向けてそう問いかけていた。
「…たぶん人違いよ」
「でも…え?」
 イヴァンは彼女の否定に首を傾げるが、女店員は続けた。
「セントラ研究島に、私によく似た人がいるって聞いたことあるわ。たぶん、その人がリィドさんなのよ」
「え?でも…え?」
「この女の言ってることは正しいぞ」
 いまいち納得し切れていない少年に、ジェインは続けた。
「オレもこのあたりからセントラに飛んでいったとき、彼女によく似た白衣の女と会った。ここから移動して先回りしたにしては早すぎるから、リィドって奴はセントラにいるはずだ」
「う、うーん…ん?」
「とにかく、私は研究員じゃなくてここの店員よ」
「そうだ。…そういえば、店長は?」
「店長?ああ…上よ。面倒ごとはごめんって。それより、座らない?」
 彼女はそう、イスを勧めて話題を打ち切った。
「それで、何でまたここに?」
「ここに来たのは偶然だ。忍び込んだのは…こいつの服を調達するためだ」
 少年はジェインの言葉に、改めて自身が女装したままであることを思い出したのか、少しだけ頬を赤らめた。
「でも、着替えるだけじゃないでしょ?」
「そりゃ着替えた後のことはある。ただ…」
 ジェインはその先を口にしようとして、やめた。計画をあまり漏らしたくないからだ。
「…もしかして、私が通報すると?」
「かも、しれない」
 ジェインは彼女に対する疑念をごまかさなかった。
「そもそも、どうしてそうやってオレに協力する?」
「あなたはここまで、自分一人の力だけでやってこれた?」
 相手の目的がなんなのか探ろうとした質問に、女店員はそう問い返した。その問いかけに、ジェインは言葉に詰まった。彼女の言うとおり、様々な場所でいろいろと手助けされていた節があったからだ。
「ナムーフはあなたが思ってるほど一枚岩じゃない。でも、ロプフェルの支配に表だって逆らう者もいない。そんな状況で、あなたみたいな人が現れたら?」
 手助けをするには至らずとも、邪魔をすることはないのではないか。ジェインは直接的ではないとはいえ、そういった密かな手助けに支えられていたのだ。
「それで、欲しいのはその子の服だけかしら?」
 話を女が切り替えると、イヴァンがすさまじい勢いで頷きを繰り返した。
「いや、それだけじゃない」
 女店員の言葉に、ジェインが応えた。
「ここから…ナムーフから脱出する方法も、だ」
「へえ?」
 ジェインの注文に、女店員は声を漏らす。
「脱出の方法、見つけてなかったの?」
「いくつか案はある。だけど方法はいくつかあった方がいいだろう」
「なるほど、ね」
 彼女はジェインの言葉に納得したようだった。
「ナムーフから外へ出て行くには、いくつか方法があるのだけど、あなたたちはいくつ見つけた?」
「……」
「飛行船に凧、あとはハーピィみたいな空を飛べる魔物のジルぐらいかしら?」
 無言のジェインに、女店員はそう続けた。
「でもどの方法を使っても、島から離れることはできるけど、ナムーフの防壁を通り抜けることはできない」
 そう。飛行船を粉々に破砕する防壁の存在が、最大の難関だった。
「だから、防壁に穴をあけるか、防壁を解除するしかない…ということは知ってたかしら?」
「ああ。でもロプフェルの奴を締め上げるか、一番上の島の…ドゥナルでどうにかすれば、防壁の解除もできるだろ」
 防壁の解除の権限は、最高責任者であるロプフェルが握っているはず。ジェインはそう推測し、ドゥナル・ポト・ナムーフを目指すつもりだった。
「うーん、ロプフェル行政長をどうにかすれば解決する、って考えはある意味正しいけど…」
「…やっぱり不味いのか?」
「ええ。それに、風の防壁を作り出しているのは、ドゥナル・ポト・ナムーフじゃなくてセントラ研究島」
「ってことは、ロプフェル行政長を捕まえた後、セントラまで戻らないと防壁の解除はできないの?」
「その通り」
 イヴァンの言葉に、彼女は頷いた。
 彼女の言葉が事実なら、かなり手間がかかることになる。
「でも、防壁を解除しないという方法もあるわ」
「そんな方法が?」
「ええ。簡単なことよ。防壁に壊されるよりも先に、防壁を突破する。それだけよ」
「そんなこと、できるわけないだろ!?」
 確かに飛行船の動きはかなりゆっくりとしており、ハーピィなどの魔物の方がよっぽど早く移動できそうだった。だが、見る見るうちに木材を打ち砕く風の中、どうやって生身の体が通り抜けられるだろうか。
「できるわ」
 しかし女店員は、そう頷いた。
「樽か何か、装甲の代わりになる物に入って、島を飛び降りればいいの。防壁を通り抜けたところで樽を捨てれば、外に出られるでしょ?」
「いや、その後どうするの」
「そうだ。確かに下は海だけど、この高さじゃ助からないぞ」
 外に出たはいいが、命を落としてしまっては元も子もない。だが、彼女はジェインとイヴァンの言葉に、笑みを浮かべた。
「ふふ、空に放り出されても、無事に地上に降りられる方法…あなたは知ってるんじゃない?」
「はぁ…?」
 女店員の視線に、ジェインは訝しげな声を漏らした。
「ここまでナムーフを見てきたのなら、分かるはずよ」
「…あ」
 ジェインは脳裏に浮かんだいくつかの可能性に、声を漏らした。そう、彼女は知っていたのだ。大空に放り出されても、地上にたどり着く方法を。
「ジル、だな。ハーピィのジルをたっぷりと飲めば、翼ぐらい生えてくるはずだ」
 ジェインはそう、自身の考えを口にした。
「へぇ…そういう方法ね…」
 女店員は驚きを含みつつも、納得したように数度頷く。
「でも、どうやってハーピィのジルを手に入れるの?魔物のジルはただでさえ飽和気味だし、そもそも個人相手にボトルで売ってくれるところなんてないわ」
「それは…」
 これまでそうしてきたように、どこからか奪う。だが、どこから?ジェインは答えを紡ごうとしたが、自身の疑問に阻まれてしまった。
「ジェインさん、凧は…どうかな?」
「凧…あ」
 飛行船に格納されている、非常用の凧。あの大きさと展開までの手間なら、十分地上まで滑空できるはずだ。それに、イヴァンが風で誘導してくれれば、ジルなどよりも容易に移動できるだろう。
「凧を忘れてたな。こっちの方が簡単だ」
「じゃあ、決まりね」
 女店員は頷くと、テーブルに手を突いて立ち上がった。
「何だ?」
「もう私にできることはないわ。後はせいぜい、警備隊の人を引き留めるぐらいよ」
 彼女がそう言葉を紡ぐと同時に、裏口の扉を叩く音が響いた。
「っ!」
「静かに…二階の窓から出れば、すぐそばに外階段があるから」
 彼女は暗に逃走経路を説明しつつ、厨房へと続く戸に近づいた。
「がんばってね」
「ああ…」
 女店員の言葉にジェインが返すと、彼女は軽くほほえんでから厨房の方へと出ていった。
「行くぞ」
 ジェインは女店員が裏口を開ける気配を扉越しに察知すると、少年を促して二階へ向かった。階段を音を立てぬよう上っていくと、閉じた扉と開け放たれた広めの寝室が二人を迎えた。寝室には大きなベッドがおいてあり、本棚には料理の本やらがつっこんであった。
「…いないな…」
 寝室の方に店長の姿がないことを確認すると、ジェインはちらりと閉じた方の扉をみた。何の部屋かは分からないが、こちらにいるのだろう。
 そちらの方が好都合だ。
 ジェインは寝室に足を踏み入れ、窓に近づいた。すると、窓際に置かれた雑誌が、ふと彼女の目に入った。
「ん?」
 ジェインは目に付いた語句が気になり、何となくそれを手に取った。
「ジェインさん…!早くしないと…!」
「ああ、すまない」
 イヴァンと店長。二人に胸中で謝りつつ、ジェインは雑誌を手にしたまま、窓から外を見た。窓の外は、ちょうど店の裏側の通りに面しており、女店員の言っていたとおり、外階段が手の届きそうな場所にあった。
「届く…な」
 身を乗り出して手を伸ばせば、外階段の手すりに触れることができた。『クラーケン』を使えばもっと確実だろうが、今は人目が気になる。
 ジェインはさらに身を乗り出し、落下するよりも先に手すりをつかんだ。一瞬下を見ると、以外と近い場所に地面が見える。意図的に頭を下にして飛び降りでもしない限り、死ぬことはないだろう。
 ジェインは落下しても大丈夫、と自身を安堵させ、何の問題もなく階段に入り込んだ。
「よし…イヴァン」
 少年に呼びかけると、彼は緊張した面もちで、手すりと地面を見比べながら手を伸ばした。その動きは僅かにゆっくりとしており、不安が伺える。
「こっちだ。オレの手に掴まれ」
 ジェインがそう言いながら手を伸ばすと、彼は指を絡めた。緊張のためだろうか、少年の手は僅かに汗ばんでいた。
「よし…そのままそのまま…ほっと!」
 イヴァンの手を強く握りしめ、力を込める。直後、少年の体は窓から外階段へと滑り込み、ジェインの腕の中に飛び込んでいた。
「よーし、もう大丈夫」
「あ、ありがと…」
 かすかに震えていた少年は、ジェインの腕の中で短く礼を述べた。そして自身がどこにいるのかを悟ると、少しだけ慌てたように身を離した。
「どうした?」
「いや、何でも…それよりジェインさん、さっき本か何か取ってたけど、いいの?」
「ああ、これか」
 ジェインは、何かをごまかすようなイヴァンの問いかけに、片手に握っていた雑誌を示した。
「内容が気になって、ちょっと借りただけだ」
「借りたって…」
「もう船二隻沈めてるし、今更雑誌一冊の盗みが追加されたってどうってことねえよ」
 彼女は軽く笑うと、外階段を踏みしめる足を進める。
「それより、これ見てくれ」
「何?」
 ジェインは階段を下りながら、雑誌の表紙の一角を指でつついた。
「『ギゼティアの飛行機械 ついに完成』………『か?』」
 並ぶ文字の最後に添えられた疑問符までを、イヴァンは読み上げた。
「ギゼティアって確か、ナムーフを空に浮かべた学者だろ?」
「うん。その後は特に大きな研究発表はしてなかったと思うけど…」
「そのギゼティアが飛行機械を作ったって、気にならないか?新型飛行船とか新式凧とかじゃなくて、飛行機械だぞ?」
「うーん、でも見出しが思い切り疑問形だし」
 階段を下りきり、石畳の通りを進みながら、イヴァンは眉間にしわを寄せた。
「ほら、中読むぞ…ええと『ナムーフの礎を作り上げたギゼティア氏が、ドゥナル・ポト・ナムーフにて新型の飛行機械を研究中。幾度もの失敗にも屈することない彼の姿勢は、ナムーフ市民に新たなる翼をもたらすか?』」
「やっぱり疑問形じゃない」
 記事本文の概要さえもが不確定なものだったことに、イヴァンはうんざりとした様子で漏らした。
「でも、飛行船より速く空を飛ぶ方法があれば、簡単に防壁突破もできるんじゃないか?」
「まあその通りだけど…その挿し絵、思い切り人がむき出しになってるよね」
 本文の空白を埋めるように入れられた、火を噴く樽に跨る男の絵や、鳥のような翼を両腕につけた尻から火を噴く男の絵に、イヴァンは不安を隠しきれないようだった。
「これはあれだ。『挿し絵はイメージです』って奴だ」
「記事の内容は信用したのに、そういう不安要素は受け流すの!?」
「そりゃここに書いてあるしな…それに、どちらにせよドゥナルまで上がる価値はあると思うぞ?ロプフェルも言っていた、ギゼティアの研究だからな」
「うーん…」
 イヴァンは呻いた。確かに雑誌の記事はかなり胡散臭いものであったが、ギゼティアの研究というだけでそれなりに価値があるようにも思えるからだ。ナムーフが空に浮かんでからの年月をそそぎ込んだ、ギゼティアの研究の結晶とはどのようなものだろうか?
「でも、ドゥナルまで上っていく方法はどうするの?旅客飛行船は止められてるし、イーロ・ファクトと違って貨物船に忍び込むのも大変そうだし…」
「んなもん決まってるだろ。飛行船なら、いくらでも飛んでるじゃないか」
 ジェインの笑みに、イヴァンは少しだけ不安が膨らむのを感じた。




 二人は通りに並ぶ建物のうち、四階建ての集合住宅の屋上に上がることにした。
「いいか、おどおどするな。オレたちは、ここの四階にすんでる従兄弟に会いに来たんだ」
「う、うん…」
 建物の入り口前で念を押すジェインに、イヴァンは表情に緊張を滲ませながら頷いた。手はずとしては高いところに上り、ジェインの触手とイヴァンの突風を使って、辺りを巡回する警備隊の飛行船に飛び乗る、というものだった。だが、イヴァンには不安しかなかった。
「大丈夫だって」
 視線の定まらないイヴァンに、ジェインはわずかに膝を屈め、視線の高さをそろえながら言った。
「オレは一度この方法で乗り移れてるんだ。度胸があればどうにかなるって」
「そうかもしれないけど…」
 ジェインの妙な自信に、イヴァンは口ごもった。確かに度胸があればどうにかなるかもしれないが、それは一抹の不安要素に足を引っ張られないようにするためのものだ。不安しかない作戦を強行するものではない。
「ほら、行くぞ」
 ジェインはついにイヴァンの手を握ると、集合住宅の入り口をくぐった。
「うわ…!」
 何歩かたたらを踏みつつも姿勢を立て直すと、少年はスカートの下で両足をしずしずと動かし、共用の廊下を進んだ。数年分の年季の入った木板を踏みしめ、並ぶ扉の前を通り過ぎると、二人は階段に至った。
 すると、二人の耳をみしりみしりと規則正しい軋みが打った。誰かが階段を降りてきているのだ。
「…行くぞ…」
 しかしジェインは足音に対して臆することなく、階段を踏みしめた。スカートの裾がめくれすぎぬよう、静かに足を上下させつつ、上っていく。やがて、踊り場を過ぎた辺りで、二階から人影が降りてきた。年の頃四十ほどの男だった。
「こんにちは」
「……」
 ジェインの挨拶に男は軽く会釈すると、二人のそばを通り過ぎていった。
「………」
 無言のまま二階にいたり、そのまま三階を目指して階段を上る。そして、二つ目の踊り場に着いたところで、ジェインがようやく口を開いた。
「な?大丈夫だったろ?」
「う、うん…」
 男に何か感づかれるのでは、と心臓を高鳴らせていた少年は、彼女の言葉に短く応えた。
「堂々としていれば、バレないものなんだよ」
「そうかもしれないけど…」
 イヴァンは抗議の言葉を口にしようとして、やめた。未だ二人は集合住宅の中にいるのだ。どこかで二人の会話を聞いた誰かが、警備隊に通報するかもしれない。
「ほら、もうすぐだ」
 何事もなく三階に至ったジェインは、四階への階段を上り始めた。
「ねえ、ジェインさん…」
 みしりみしりという階段の軋みの響く中、イヴァンは囁くような小声で尋ねた。
「何だ?」
 イヴァンの小声は軋みに紛れることなく、ジェインの耳に届いたようだった。
「その…『堂々としてればバレない』とか変装の仕方とか、どこで覚えたの?」
「うーん…具体的には思い出せないけど…まあ、いろんなところだな」
「そう…」
 イヴァンはそれ以上尋ねるのをやめた。だが、疑問はまだ彼の胸中で渦巻いていた。もし、ジェインの来歴がイヴァンの考えているとおりだとするなら、彼女が服装による変装の仕方など知っているはずが…
「よし、出るぞ」
 イヴァンが胸中の疑問に意識を奪われている間に、ジェインは屋上へと続く扉の取っ手を握っていた。いつの間にか四階を通り過ぎていたようだ。
 イヴァンが内心の驚きを押さえていると、彼女は扉を押し開いた。瞬間、まばゆい外光が二人の目を貫いた。瞬きを繰り返しつつも屋上へ出ると、二人を風が撫でる。やはり屋内はそれなりに湿気がこもっていたのか、ジェインには涼しく感じられた。
「さーて…」
 ジェインは短くつぶやきながら空を仰ぎ、行き交う飛行船を見渡した。数人乗りのボートを皮袋から吊しているものから、輸送船ほどの大きさはあろうかというものまで様々だった。
「…あれがいいか」
 ジェインはちょうど、集合住宅の屋上からさらに建物一軒分ほど上空を飛ぶ飛行船に目を付けた。皮袋からボートが吊された構造ではあるが問題ないだろう。
「じゃあイヴァン、手はず通りに…な?」
「う、うん…」
 ぎこちなく頷く少年の腰に腕を回すと、彼女は力強く抱き寄せた。そしてスカートの裾を振り乱しながら、彼女は一直線に建物の縁に向けて駆けていった。
「……!」
 屋上から飛び降りようとする女の姿に、ジェインが目星をつけた飛行船の警備隊員がなにやら騒ぐ。だが、彼女は警備隊員たちの方に目もくれることなく、一気に建物の縁に駆け寄り、通りに向けて身を踊らせた。その瞬間、ジェインのスカートの裾からのぞいた右足が『解け』、四本の白い触手となる。一瞬、ジェインの胸中を既視感が去来した。『クラーケン』を手に入れた直後も、こうやって飛行船を奪おうとしたのだった。だが、ジェインが触手を伸ばしたのは建物の縁などではなく、腕に抱えた少年だった。イヴァンの体を白い触手で自らに縛り付けた。そして彼の腰に回していた手を離し、落下の浮遊感味わいながら叫んだ。
「今だ!」
 その瞬間、通りから空へ向けて、ジェインとイヴァンの体を空気の塊が叩いた。いや、正確に言えば突風だ。巨大な竜巻や嵐の中でしか吹かないような強烈な突風が、二人の体を打ったのだ。
 大きく広げていたジェインの両腕は、吹き付けた突風をもろに受け、二人の体を風に舞う木の葉のように上空へと舞い上げた。一瞬のうちに今し方飛び降りた屋上を通り過ぎ、青空を抜け、小型の飛行船と同じ高さに至る。すると、イヴァンの作り出した突風の勢いが失われ、ジェインたちの動きが止まった。
 一瞬の静止の中、小型飛行船の警備隊員とジェインの視線が交わる。警備隊員たちは呆けたように、宙に浮かぶ彼女の姿を見ていた。予想通りだ。
「ふっ…」
 ジェインは鋭く呼気を放つと、イヴァンに巻き付けていた触手の一本をボートの側面に向けて伸ばした。打ち出されるような勢いで放たれた先端は、狙い違わず木板に吸着する。
「お、おい!」
「乗り移る気だ!」
 警備隊員たちがジェインの目的に気がついた時には、二人に授けられていた突風の恩恵は失われていた。ボートの側面にへばりついた触手を支えに、二人の姿が船底へと消える。
 警備隊員たちは飛行船から身を乗り出し、『浸食主義者』がどこにいるのか見極めようとした。だが船体のせいで飛行船の真下は見えず、側面にへばりついた触手から、二人が船の真下にいるのではないか、ということしかわからなかった。
「高度を落とせ!建物にぶつけてやるんだ!」
 警備隊員の一人が声を上げ、別な一人が飛行船を操作する。すると町並みの上空を旋回していた飛行船が急速に高度を落とし始めた。船底を擦るのは危険だが、飛行船を乗っ取られて遙か上空からイアルプのどこか、あるいは浮島の外へと放り出されるよりかはましだ。見る見るうちに町並みが船の底に迫り、手を伸ばせば届くほどの距離を屋上が流れていく。
「どうだ!?やったか!?」
「船尾にはなにも見えない!」
 飛行船の後方を確認し、船底をかすめていった建物の屋上に二人の姿がないことを警備隊員の一人が報告した。
 船底を削る覚悟でもっと高度を落とすか。舵輪を握る隊員が、自身の技量でそんな芸当が可能かと手に汗を握った瞬間、彼の視界の端に影が差した。横目だけで影の正体を見極めようとした瞬間、彼のわき腹を衝撃が貫いた。
「かはっ…!?」
 漏れ出る吐息に、船上の隊員たちの視線が集中する。そこにいたのは、果たしてジェインであった。赤黒い鱗に覆われた左拳を、舵輪を握る隊員のわき腹に打ち込んでいた。彼の体が揺らぎ、船底に倒れ伏す。目を開き、口をぱくぱくと開閉させているが、ろくに身動きがとれそうにないのは明らかだった。
「さーて…」
 ジェインは抱き寄せていたイヴァンから触手をほどき、船底を渡って反対側の側面まで伸びていたそれを縮めながら、隊員たちを一別した。
「叩き落とされるか、自分で降りるか選べ」
「わわわ…っと…」
 イヴァンが舵手のいなくなった舵輪に飛びつき、飛行船を制御しようとしている傍ら、ジェインはそう告げた。隊員たちは一瞬視線を交わすと、腹を決めたようだった。
「誰が」
 隊員の一人がそう声を上げて距離を積めようとした瞬間、ジェインのスカートの裾が翻った。左足を軸足に右足を掲げ、触手を打ち出すような勢いで伸ばす。まっすぐに伸びた白いそれは隊員の腹を打ち、彼を船の外へと弾きとばした。
「がっ…ぐぁ…!」
 建物の屋上で彼は数度飛び跳ねながら転がり、あっという間に飛行船から離れていった。
「次は通りまで落ちるかもしれねえぞ?」
 ふわりと翻っていたスカートの裾が降りてから、彼女はそう告げた。蹴り一つと一言。それだけで十分だった。隊員たちは皮袋から吊されるボートの縁に寄ると、めいめいがタイミングを見計らって身を躍らせた。幾度か短い悲鳴が続き、ついに船上からたっている警備隊員の姿がなくなった。
「後はこいつで最後だな」
 ジェインは船底に倒れる、舵輪を握っていた警備隊員に向けて左手を伸ばした。赤黒い鱗に覆われたドラゴンの左手が彼の胸ぐらをつかみ、易々と持ち上げる。
「イヴァン、もう少しいけるか?」
「も、もう限界…!」
 震える舵輪を握りしめ、ただひたすら進路と高度を維持するので手一杯な少年が、悲鳴混じりの声を上げた。これでは船を停止させて、身動きのとれない警備隊員をおろすことなど無理だろう。
「…すまん」
 ジェインはつかみ上げた警備隊員に向けて短く謝ると、彼の体をボートの縁から外へと出し、流れていく屋上にそっと横たえた。警備隊員はしばらく背中を建材で擦ってから動きを止めた。あれならば怪我もないだろう。
 ひとまず胸を撫でおろした彼女は、イヴァンの背後へと駆け寄り、舵輪を握ってやった。
「よくやった。交代だ」
「は、はぁ…」
 イヴァンの口からため息が漏れだし、舵輪を握りしめていた両手がゆっくりと離れる。
「こいつをこうして…」
 舵輪を少しだけ傾けて進路を変えると、ジェインは飛行船を建物の屋上から通りの上空へと移した。そしてボート上部の皮袋から垂れ下がるひもを引くと、高度が上昇した。
「これで一息つけるな」
 徐々に眼下へと小さくなっていく町並みを一瞥しつつ、ジェインはそう呟いた。あたりの飛行船を軽く見回すが、まだ二人の乗る飛行船に船首を向けているものはない。二人が飛行船を奪ったことが知れ渡るのは時間の問題だが、呼吸を整える程度のことはできるだろう。
「…イヴァン」
「なに?」
「ここまでに何度か、オレに何か話そうとしてたよな?」
「何かって…」
「ほら、ロプフェルの飛行船の時とか、イーロ・ファクトの時のことだ」
 イヴァンが何かを伝えようとしたものの、何らかの妨害により会話が途切れてしまったときのことを、ジェインは羅列した。
「イヴァン、お前はオレに何ていいたかったんだ?」
「ええと…今ここでは…」
「聞かせてくれ」
「…」
 少年はジェインを無言で見ると、彼女の側に立った。
「何だ?」
「いや…念のため…」
 イヴァンははぐらかすような口調で応じてから、続けた。
「その…ジェインさんは、あっちこっちに行って、いろんなことを覚えたって言ってたよね?」
「ああ。今は詳しくは思い出せないけどな」
「そして、その…僕に関連する仕事とかについても、思い出せない部分があるんだよね?」
「ああ」
 誰が依頼したか、どこにイヴァンを連れて行けばよいか、そして詳しい報酬の内容など、思い出せないことはいくつもある。だがジェインが思い出せずとも、この仕事を受ける理由は体が覚えていた。意識の底、肉体にへばりついた、あの街の記憶。ジェインは、胃袋が蠢動するのを感じた。
「ジェインさんが仕事を受けたのは、昔のことを許してもらうためだ、って言ってたよね?」
「…っ!」
 少年の一言に、ジェインの腹の蠢きが一際大きくなった。
「昔、ジェインさんがあの街で犯した罪を…」
「やめ、ろ…イヴァン…!」
 ジェインは少年の言葉を遮ろうとした。ただ歩いてるときならまだしも、今は飛行船の操作中。しかも、もうすぐ他の飛行船に追われるのは目に見えている。かなりの集中を要求されるであろう今、イヴァンがあの街の名前を口にしまい、ジェインが昏倒するのはなんとしても避けなければならない。
「ジェインさん」
 そうすれば体を支えられるとでも言うかのように、舵輪をきつく握りしめるジェインを見上げながら、少年は言った。
「あの街では、ジェインさんが思ってるようなことは起きてないよ」
「……え?」
 耳にした少年の言葉に、彼女は呆けたように声を漏らした。
「街が丸ごと焼けるようなことも、建物が次々と崩れるようなことも、起きてないんだ」
「で、でも…オレは…」
 そう、ジェインの脳裏には景色があった。燃え上がる街に、崩れる建物。そして響きわたるいくつもの悲鳴。脳裏の景色の中にジェインはいて、彼女を苛んでいたのだ。
「あの街で起きたのは、とある魔物による魔界化。僕は本で読んだだけだから、詳しくなにが起きたのかは知らないけど、ジェインさんが見たっていうようなことは何もなかった」
「そ、そんな…いや待て!」
 ジェインは足下が崩れ落ちるような感覚にとらわれながらも、少年に向けて強い口調で問いかけた。
「じゃあ、オレが見たあの景色は何だ?燃える街や悲鳴は頭の中で作り出した幻なんてものじゃなかったぞ!オレは、あの景色を見ているはずなんだ!」
「そ、それはわからないよ…でも、あの街でジェインさんが見た、って言うことは何も起きてないんだ…」
「じゃあ、あれは…別の街?」
 ジェインはそう結論づけつつも、胸中に芽生える疑問を押さえられなかった。仮にあの惨状が別の街のものだったとしても、なぜあの街の名前と結びついている?
「僕がセントラにいたころ、技術ジルの話を聞いたんだ」
 聞かされた真実に困惑するジェインに、少年が関わりのなさそうな話を始める。
「格闘技とか、軽業が簡単に身に付くジルの話を聞いて、僕もリィドさんに飲んでみたいって頼んだんだ。そしたらリィドさんは『まだ技術成分と記憶成分の分離が不完全だから駄目』だって。ほら、格闘技も何度も繰り返して覚えるでしょ?だから結局のところ、体で覚える技術もある種の思い出じゃないかって僕は思うんだ。だから技術を伝えるジルが作れるなら、特定の思い出だけを伝えるジルも作れるんじゃないかって…」
「…イヴァン、何が言いたい…?」
 薄々と気がつきながらも、ジェインは低い声音で問いかけていた。少年が、彼女の口調に一瞬気圧される。だが、少年は言葉に含まれた殺気のような感情が、自身に向けられたものではないと悟った。ジェインは怖いのだ。少年が続けようとしている言葉が、彼女の胸中に浮かんだ恐ろしい可能性そのものであることを、怖れているのだ。
「ジェインさんは…ジルを飲まされて、あの街の記憶を植え付けられたんだと思う…」
「…………」
 ジェインは、予想していたほどの衝撃がなかったことに、内心驚いていた。イヴァンの言葉を、ただ静かに受け入れている自分を、どこか別の場所から眺めているようだった。
「じゃ、じゃあ…オレは…オレは何のために…?」
 冷静だと思っているジェインとは裏腹に、舵輪を握りしめている彼女は、動揺を隠し切れぬ口調でそう尋ねた。
「わかんない」
 少年は軽く頭を振った。
「たぶん、ジルの実験か何かじゃないかと思うんだ。与えられた記憶だけで、どのぐらい…人を操ることができるか、とか」
 イヴァンの推測が正しいとすれば、実験は大成功だといえるだろう。ほぼ何も知らぬ状況でナムーフに放り出された彼女が、こうしてイヴァンを連れて、脱出方法をいくつか手に入れようとしているからだ。
「ジェインさん…」
 少年は、ふと彼女の名を呼んだ。
「その、ショックかもしれないけど…記憶がなくても、ジェインさんと一緒にいたのは楽しかったし、またセントラの部屋に閉じこめられるのも気にはならないし…」
「…なんだ、イヴァン?急に弱気なことを言い出しやがって…」
「え?」
 少年は、いつもと変わらぬ調子のジェインの言葉に、一瞬声を漏らした。
「いや、その…仕事をする理由がなくなったんだから、僕を連れて逃げ出さなくてもいいんじゃないかって…」
「イヴァン…お前そんなことを気にしてたのか?」
 ジェインは声を上げて笑ってから続けた。
「確かに、仕事をする理由がなくなったが、むしろオレは嬉しいぐらいだ」
「え…?なんで…」
 少年の問いかけに、ジェインは表情を引き締めた。
「実は、今回の仕事はナムーフの最終兵器を持ち帰るってものだったんだが…オレはお前自体が最終兵器だと考えていたんだ」
「それじゃ…」
「ああ、ナムーフからお前を連れだした後、正体も分からない依頼主に引き渡すつもりだった」
 ジェインの告白に、少年は身を強ばらせた。
「これまで…もしかしたら植え付けられた記憶かもしれないけど、いろんな仕事をやってきた。だから依頼主が怪しいからといって、お前を渡すのを止めるつもりはなかった」
「そんな…」
 セントラ研究島で、少年に向けて告げた言葉は嘘だったのか。道中で、『ナムーフを出たら何をしたい』と問いかけた言葉の裏には、何もなかったのか。今度は少年の方が愕然としていた。
「だけど、仕事をする理由がなくなって心底ほっとした。お前を誰にも渡さずにすむからな」
 ジェインは少年に顔を向けながら続けた。
「イヴァン。これまで仕事のことを黙っていてすまなかった。代わりにオレと…一緒にナムーフの外に出てくれないか?」
「ジェインさん…」
 イヴァンは悟った。ジェインはもう彼女自身のために、ナムーフの外を目指しているのではない。イヴァンのために、ナムーフを出ようとしているのだ。
「…うん、一緒に出よう」
「よし、決まりだな!」
 ジェインとイヴァンは笑みを交わすと、視線を離した。
「さーて、そろそろ他の飛行船が動き出すはずだ」
「うん、左から大きいのが一隻、こっちに向かってる」
「じゃあイヴァン、風での後押しを頼むぞ」
「わかった!」
 女と少年は言葉を交わすと、ナムーフ最上の浮島を目指して、舵輪を操り、風を起こした。
 その瞬間、強い風が吹き抜けてジェインの帽子を吹き飛ばした。
「あ…!」
「気にするな!」
 飛んでいく帽子を追おうとした少年に、ジェインが言う。
 彼はボートの船尾から青空に向けて飛んでいった帽子を見送り、視線をジェインに戻した。
 そこでは、帽子がとばされた勢いで解けた彼女の髪が、風になびいていた。
 日の光を照り返し、銀色に輝くジェインの白髪が。
13/12/07 19:51更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
 そもそもの始まりは、飛行船の遅さだった。離陸してからのんびり空を飛び、目指す地点で降下する。遅すぎる。確かに空を飛ぶのは気持ちがよいかもしれないが、長時間の空中移動は事故の危険を常に抱えている。
 だから私は、大砲をヒントに目的地まで一足飛びで移動できる飛行機会の開発を目指すことにした。飛行機械についての実験の記録を簡単にまとめておこう。
大砲を使っての実験:砲弾の中の蛙は死んでいた。着弾の衝撃によるものか。
大砲と大量の緩衝材を使っての実験:発射の衝撃の時点で蛙は死ぬことが判明した。
火薬量を調整した大砲での実験:蛙が死なない程度の火薬では、あまり砲弾は飛ばない。
砲身半ばに火薬を仕込んだ二段階加速大砲での実験:蛙は死ぬことなく、十分な量の緩衝材に着地した
砲身を改良した五段階加速大砲での実験:大量の緩衝材を使うことで蛙は無事着地した
人形を用いての、五段階加速大砲での実験:砲弾は緩衝材を突き抜け、浮島の基礎部にまで食い込んだ。計算よりも大量の緩衝材が必用で、念のために理論値の倍の緩衝材を用意してなかったら島を貫通しているところだった。人形は砕けていた
人形を用いての、二段階加速大砲での実験:砲弾は無事着地し、中の人形も無事だった。だが着地の度に、大量の緩衝材が必用となる。これでは行き先にあらかじめ着地施設を作る必要がある。
砲弾自体に加速機関を組み込んだ飛行機械での実験:砲弾はしばし直進した後空中で回転し爆発四散。制御がかなり困難だが、理論としては正しいことを確認する。加速で燃料を半分、減速でもう半分使用するようにすれば、理論上はどこからでも発射、着地できるはず。

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