(67)アリス
朝、街の一角の住宅街に、二人の魔物がいた。
すらりとしたサキュバスと、十歳ほどのアリスだ。
「ダインお兄ちゃん、まだかなー」
「もうすぐよ、ドナ」
愛らしいドレスに袖を通し、宝物のブローチを胸元に着けて目一杯のおめかしをしたドナに、母親のサキュバスは微笑む。
「あ!来た!」
ドナが声を上げながら、庭を挟んだ門の向こうを指さし、慌てたように手を引っ込めた。
代わりに、期待と喜びに満ちた視線を、門扉に歩み寄る青年に注いだ。
「おはようございます」
「おはよう、ダイン君」
「ダインお兄ちゃん、おはよう!」
門扉を開き、庭に入りながらの青年の挨拶に、サキュバスは軽く手を上げ、ドナは小さな翼をぱたぱたと動かしながら応えた。
「セルマは?」
「化粧に手間取っていたようなので、先に俺だけ来ました。もうすぐ追いつくと思います」
「そう」
母親と青年が言葉を交わす様子、正確に言えば言葉を紡ぐ青年の姿を、ドナはニコニコと見上げていた。
「じゃあ、約束通りドナのこと、お願いね?」
「はい。お姉さんも、妹さんと姉妹水入らずを楽しんでください」
「ありがと、ふふふ」
サキュバスはドナに視線を向けて、続けた。
「それじゃ、ドナ。ダインお兄ちゃんにワガママ言って、困らせたらだめよ?」
「うん!」
どこかそわそわとした様子で、アリスは大きく頷いた。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
母親の一言に、ドナは母親の側を飛び出し、ダインに抱きつかんばかりの勢いで駆け寄った。
「行って参ります。じゃ、行こうか、ドナちゃん」
「うん!」
青年の差し出した手を取りながら、彼女は満面の笑顔で頷いた。
ダインとドナは家を離れ、しばし住宅街の間を進んだ。
二人が手をつなぐ様子は、年の離れた兄妹、下手すれば若々しい父親と娘のように見えたが、ドナ自身はそのどちらでもないらしい。
「それでね、ミューちゃんの家は床屋さんなんだけど、ミューちゃんのお父さんは頭つるつるなの!」
「へえ」
自分の手を握りながら、最近学校や家で起こったことについて一生懸命に話すドナに、ダインはにこにこと相づちを打った。
「ミューちゃんのお母さんはレッサーサキュバスで、髪の毛も腕の毛もふさふさなのに、お父さんは頭も眉毛もないつるつるなの!だからミューちゃんはふつうのサキュバスなんだよ!」
「ちょうど間をとった、って訳だね」
二人が言葉を交わしながら道を進むうち、大通りにでた。
馬車や荷車が行き交う、幅広の通りだ。
二人はしばし通りに沿って進むと、道の傍らに設置された、乗り合い馬車の停留所で足を止めた。
「じゃあドナちゃん、馬車の中では?」
「おしずかに、ね!」
青年とのおしゃべりは楽しいが、彼の迷惑になるようなことはしてはいけない。
母親との約束もあったが、彼女自身が青年を困らせたくないという想いの方が大きかった。
しばし行き交う馬車を眺めながら、取り留めもない話をしていると、やや大きな馬車がゆっくりとやってきて、二人の前で止まった。
「はい、メッジャ通り行きですよー」
馬車の上に乗っていたハーピーが、バサバサと翼をならしながら二人の前に舞い降りた。
「大人一枚小人一枚、終点まで」
「はいはい、銀貨二枚ですー」
青年は財布を開くと、いわれたとおりの金額を取り出し、ハーピーの車掌が差し出した小さな紙切れと引き替えた。
「ご乗車どうぞ〜」
「はーい」
ドナは車掌の言葉に、乗り合い馬車に乗り込んでいった。
最大八人が乗れるほどの広さの馬車には、先客が一人いた。
「揺れると危ないですので、ご着席お願いしまーす」
「はい。ドナちゃん座って」
「うん」
ダインの言葉に、ドナはやや小さな声と共にうなづき、窓際の席に腰を下ろした。
すると、彼女の隣に青年が座る。
「はい、発車しまーす」
車掌が馬車の扉を閉め、御者に合図を送ると、かすかな揺れと共に馬車が動き出した。遅れて翼が空気を打つ音が響き、馬車の上に何かが乗る。
「車掌さん、遠くまで見られていいねー」
「でも、馬車の上にイスはないから、ちょっと辛いよ」
馬車の上のハーピーについて、二人は先客の迷惑にならない程度の小声で言葉を交わした。
「でも、大きくなったら馬車の車掌さんになりたいかも・・・どうやったらなれるのかな、ダインお兄ちゃん?」
「うーん、ちょっと分からないなあ・・・でも、いろいろ試験があるだろうから、お勉強をがんばらないとね」
子供の思いつきレベルの『なりたい』という欲求に、青年は適当にごまかすことなく考えた。
「お勉強かー・・・うん、あたしがんばる」
「うふふふふ・・・」
すると、今まで無言で窓の外を眺めていた馬車の先客が、不意に笑みを漏らした。
「あら、ごめんなさい」
帽子をかぶった、ワーウルフの女が、笑みを漏らしたことに気がついたのか慌てて口元を押さえた。
「すみません、こちらこそ騒がしくしてしまって・・・」
「いえ、いいんです。お二人のやりとりが楽しそうで、微笑ましくて・・・えぇと、娘さんですか?」
「いえ、知り合いの娘です。今日一日預かることになりまして・・・」
「お姫様のエスコート、というわけですね」
ワーウルフの女は、ドナに目を向け、ほほえみながら続けた。
「お兄ちゃんとデートですってね?いっぱい楽しめるといいわね」
「うん!」
見知らぬワーウルフではあったが、彼女のデートという表現に、ドナは満面の笑みを浮かべて頷いた。
それから、二人は窓の外を見て時折言葉を交わしながら、馬車に揺られた。
途中でワーウルフの女が降り、別の客が乗り込んでは降りを繰り返しながら、乗り合い馬車は町の中心に近づいていった。
通りも徐々に幅が広がり、通りに面する建物も少しずつ大きくなっていった。
そして、見上げるほど巨大な建物が林立する一角で、ついに馬車が止まった。
「終点、メッジャ通りでーす」
馬車の上から舞い降りたハーピーが、馬車の扉を開いてそう乗客に呼びかける。
「足下にご注意して、降車お願いしまーす」
「降りるよ、ドナちゃん」
「うん」
ダインが先に馬車を降り、ドナの手を取りながら彼女が馬車の段を一つずつ降りていくのを手伝った。
そして、石畳の上にドナのピカピカの靴がそろったところで、彼女は並ぶ建物を見上げた。
「うわぁ・・・」
街の中心部は、両親に連れられて何度も訪れたことがあるが、建物から見下ろされるような感覚はなかなか慣れなかった。
「ほらドナちゃん、行こう」
「う、うん・・・!」
一瞬呆けたように建物を見上げていたことに気がつき、顔を赤らめながら彼女は歩きだした。
人通りはかなり多いため、はぐれないよう二人はしっかりと手をつないだ。
青年の大きな手とその温もりを確かめながら、ドナは行き交う人々に目を向けた。
人間や魔物が入り交じり、それぞれがそれぞれの目的に向けて歩いている。
一人の魔物がいるかと思えば、言葉を交わす二人ずれと思しき人間もいる。そして、ドナとダインのように手をつなぐ親子連れもいた。
そんな中、ドナの目がある一組の男女に向けられた。
人間の男と、短い金髪のきれいな女だった。女は男に何事かを話しかけていたが、男は楽しげな表情など浮かべてはいなかった。しかし、二人は指と指を絡め合うようにしっかりと手をつないでいた。
二人の姿は数秒のうちに人の波に紛れて、ドナの視界から消えてしまった。しかし、二人が指を絡めて手を握り合う様は、彼女の脳裏に刻まれていた。
「・・・」
ドナは視線を、自分の手に向けた。
ドナの手もダインとしっかりつないでいたが、あくまで握手するような、手のひらと手のひらを触れ合わせる程度のつなぎ方だった。
先ほどの二人のような、指を絡め合わせるつなぎ方ではない。
不意にドナの胸中に、手をつないでいるにも関わらず自分が一人きりになったような、寂しさめいたものが芽生えた。
「・・・ん・・・」
彼女は小さく声を漏らすと、少し先を進んでいたダインの側に歩み寄り、彼の腕に自分の体を押しつけた。
「ん?どうしたのドナちゃん」
「人が多いから・・・はぐれないように・・・」
自分の内側の寂しさを悟られぬよう、ドナはそう言い訳した。するとダインは、彼女の言葉に納得したのか頷いた。
「そうだね。うっかりしたらはぐれそうだ。しっかり掴まってるんだよ」
「うん・・・」
ダインの言葉に彼の優しさを、そして彼の腕に青年自身の温もりを感じながら、彼女は頷いた。
やがて二人は、林立する大きな建物の間を抜け、やや開けた通りにでた。
道幅こそ広いものの、馬車は行き交っておらず、代わりに屋台が軒を並べていた。
「わあ・・・!」
道の左右に軒を連ねる店や、色とりどりの屋台に、ドナは目を輝かせた。
しかし、ダインの手を引いて屋台へ駆けていこうとする体を、彼女はぶんぶんと頭を左右に振って押さえ込んだ。
買い物は後だ。
「ええと・・・ああ、やってるやってる」
喫茶店と料理店の間に建つ、映画館の前でダインは足を止めた。
入り口脇に掲げられているポスターには、ドナの大好きな物語の主人公が描かれており、ポーズを決めていた。
「ドナちゃん、ここでいいんだよね?」
「うん!」
ダインの確認に、彼女は大きく頷いた。
ダインはドナと手をつないだまま窓口に歩み寄ると、映画の切符を二枚購入した。
「はやく、はやく!」
「大丈夫、席は逃げないよ」
待ちきれない、といった様子のドナに、ダインは今し方購入したチケットを掲げた。
「ええと、『殺人鋸フライングチェーンソウ3 帰ってきた地獄の神隠し歌』だったね?」
「ちーがーうー!『キャプテンアンジェリカ』!」
チケットの文字を読み上げるフリをしながらのダインの冗談に、ドナは唇をとがらせる。
彼女が見たいのは、そんな怖い映画ではない。
「はいはい、ほら『キャプテンアンジェリカ』でしょ?」
ダインの差し出した、自分の文のチケットを受け取ると、ドナは並ぶ文字を確認した。
確かに、『キャプテンアンジェリカ』のチケットだ。
「よかった・・・」
万に一つもないだろうが、本当にダインがチケットを間違えた可能性が消えたことに、彼女は胸をなで下ろした。
すると、彼女の翼の間の背中を、ダインが手のひらで軽く押した。
「ほら、入るよ」
「うん!」
二人は映画館の入り口に近づくと、モギリの若い男にチケットを差しだし、半券を受け取って暗い劇場に入っていった。
すでに客席の半分ほどが埋まっており、作品の人気が伺える。
「ほら、ダインお兄ちゃん、あそこだよ!」
「そうだね」
埋まった客席の合間、ぽっかりと空いた空席を目指し、二人は客席の間を通り抜けていく。
「ええと、ここ・・・だけど・・・」
ドナは、自分の手にしたチケットの半券の席番号と、席に記された番号を見比べ、困惑した。
確かにドナの半券通りの番号では合ったが、その左右の席は埋まっているのだ。もしかして、ダインと離ればなれの席になるのだろうか?
「ダインお兄ちゃんの席が・・・」
「ああ、体格差席を頼んだから、これでいいんだよ」
ダインが彼の半券をドナに見せる。そこに記されていた席番号は、ドナのそれと同じだった。
「親子とか、小さな魔物と人のカップルのとき、二人で同じ席に座れるんだ。だから、ドナちゃんには俺の膝に座ってもらうんだけど・・・いいかな?」
「うん!」
彼の言葉に、ドナは頷いた。
細かい制度などはよく分からないが、離ればなれになると思っていたのが、最高の特等席で映画を楽しめるというだけでドナには十分だった。
ダインが席に腰を下ろすと、ドナはその膝の上に座った。
「大丈夫?痛くない?」
「うん、大丈夫だよ」
彼女はダインの胸に背中を預けると、彼を見上げて微笑んだ。
こんな素敵な席に座れるなんて、自分はなんて幸せなのだろう。
劇場を見渡せば、ドナとダインのように二人で一つの席に腰掛けるカップルや親子連れが見えた。
だが、ドナはこの劇場の中で、自分が一番幸せだという自信があった。なぜなら彼女が腰掛けているのが、ダインの膝だからだ。
胸の奥から湧いてくる幸福感に浸っていると、ベルの音が響いた。
もうすぐ映画が始まる。
「ん・・・」
ともすれば口元がゆるみ、えへへ、と漏れそうになる声を押さえ込みながら、ドナはスクリーンに目を向けた。
銀幕に光が宿る。
「どうだった?」
「とってもおもしろかった!」
数時間後、劇場を出た二人は隣の料理店に入り、注文の品が運ばれてくるまでの間に、今し方観た作品の感想を口にしていた。
「アンジェリカがね!セシリアとシスフィーナと一緒にどかーんって!」
映画のクライマックス、三人のヒロインが力を合わせ、悪者を退けるシーンの興奮を思い返しながら、ドナは一生懸命に自分の感想を表現していた。
その様は、まるで映画を見ていないダインに、その面白さを伝えようとしているかのようだった。
「そうだねえ、三人ともかっこよかったね」
だがダインは、ドナを膝の上に乗せながら鑑賞したにも関わらず、彼女の感想に耳を傾け、相づちを打っていた。
目をきらきらと輝かせ、身振り手振りを交えて一生懸命に伝えようとするドナの姿が愛らしいのだ。
「それでね!アンジェリカが最後にイスト君と・・・」
「お待たせしました。お子さまランチセットと、パスタベネチアンです」
ドナのクライマックスシーンの解説を遮るように、料理店の店員が料理を運んできた。
ドナは一瞬、悔しそうに店員を見上げるが、直後テーブルの上の皿に目が釘付けになった。
大きな皿に、一口サイズに刻まれたステーキや、小さな卵焼き、数本の揚げ芋など、いくつもの種類の料理が少しずつ盛られた、ごちそうがそこにあった。そして、デザートと思しきフルーツには、ウサギの形に切れたリンゴが一切れ添えられていた。
「おいしそうだねえ、ドナちゃん」
ドナがお子さまランチセットに心を奪われる様子に、ニコニコと微笑みながら、ダインはフォークを手に取った。
「冷めるといけないから、ご飯にしようか」
「うん!」
クライマックスシーンの解説を遮られたことについての腹立たしさはとっくに消え去っていた。
彼女は子供向けの小さなフォークを手に取り、大好きな卵焼きから取りかかろうとして踏みとどまった。
ダインの迷惑にならないよう、行儀よくしなければ。
「・・・いただきます・・・」
一度フォークをおいてそう口を開くと、彼女は行儀よく、ナイフとフォークを手にした。
そして、卵焼きの端の方をフォークで押さえ、ナイフで一口大に切り取ると、彼女は口へ運んだ。
母親の焼いてくれる卵焼きとは違う、やや甘みの強い卵焼きだった。だが、表面はしっかりと焼けているのに、中身がトロリとした卵焼きは彼女の頬を溶かすようだった。
「んー!」
物を口に入れているときにしゃべってはいけない、という両親の教えに基づき、ドナは口を閉じたまま、美味しいと言った。
「美味しいかあ。よかったねえ」
ダインは彼女の表情の変化に、卵焼きがそれほど美味であることを察すると、ニコニコしながら言った。
それは、ドナにしてみれば、言葉を使わずとも通じ合えたように感じられる出来事だった。
それから二人は昼食を終えると、店を出て通りを散策した。
服屋のショーウィンドウを眺めたり、屋台をのぞき込んだり、大道芸の芸を観て拍手したりと、とくにあても目的もなく、ぶらぶらと歩いた。
そして、小物を売る屋台の一つの前で、不意にダインが足を止めた。
「んー?」
「なあに、ダインお兄ちゃん?」
ドナがダインの視線をたどると、彼の目が屋台に並ぶアクセサリーを観ていることに気がついた。
銀細工の指輪や髪留め、ブレスレットなどの装身具がそろっていた。
「わぁ・・・」
きらきらと光る宝石がついているわけではないが、それでも鈍い銀色の光を放つアクセサリーは。ドナの胸の奥をときめかせた。
「いらっしゃい。こっちのは銀貨五枚で、残りはどれも銀貨三枚だよ」
屋台の店番をしていたドワーフが、笑みを浮かべながらそう説明した。
ドナは一瞬、自分より小さな子供が商売をしているのか、と驚いたがすぐにドワーフの特徴を思い出した。身の丈こそドナより小さいが、彼女は立派に大人なのだ。
「ん?おにーさん、こっちのお姫様にプレゼント?」
「まあ、ね・・・」
ドワーフの問いかけへの返答に、ドナの心臓がとくん、と高鳴った。
「だったら、気合い入れて選ばないとね。おにーさんのセンスが問われるよ?」
「ああ、だから今考えているんだ・・・」
ダインが、自分のためにアクセサリーを選んでくれている。それだけで、ドナの胸の高鳴りが強まっていった。
そして同時にドナは、ダインが何を選んでくれるのかが気になった。
耳飾りだろうか?きっとダインなら、彼女の耳にあう素敵な物を選んでくれるに違いない。だが、なくさないように注意しなければ。
それとも首飾り?ダインの選んだ品が、自分の胸のあたりを飾る様子を思い浮かべると、笑みがこぼれるようだった。しかし、この店の首飾りの紐や鎖は簡単に切れそうだ。ひっかけて切らないよう、友達と走り回るような遊びをするのはやめよう。
それにしても、ダインは何を選んでくれるのだろうか?
「うーん・・・」
「・・・」
ドナは口元に手を当て、呻くダインを見上げると、再び視線を辿った。すると彼女は、ダインが指輪のあたりをみていることに気がついた。
指輪。男女の間で、それが重要な意味を持つことは、まだまだ子供のドナにも分かっていた。
先ほど見た映画でも、ヒロインの一人が敵の一人から指輪を贈られ、彼と共に逃げるか否か思い悩んでいた。
ドナは、並ぶ指輪を見ながら、どれが自分の物になるか期待に胸が膨らみ、頬が赤らんでくるのを感じた。
「うん、これがいい」
ダインは手を伸ばすと、並ぶ銀細工の一つを手に取った。
彼が手にしたのは、小さな髪飾りだった。前髪が垂れないように挟んで抑える、装飾のついたヘアピンといったところだろうか。
一瞬、ドナの胸中を落胆がよぎったが、すぐに喜びが湧いてきた。
「つけてみても?」
「どうぞどうぞ」
ドワーフはゴソゴソと鏡を取り出すと、二人に向けておいた。
「ちょっとじっとしててね・・・」
ダインはドナに向かって少し身を屈め、彼女の前髪が寄せられた耳の上のあたりに、髪飾りを差した。
「よし」
ダインの手が離れると同時に、ドナは鏡をのぞき込んだ。すると彼女は、地震の金色の髪の間に銀色の花が咲いているのを見た。
「よかった、似合っている」
「・・・!」
ダインの一言に胸の奥が熱くなり、ドナは急に何も言えなくなってしまった。
「銀貨三枚だっけ?」
「はい。包みましょうか?」
「いや、彼女も気に入っているみたいだから、このままでいいよ」
「毎度あり」
鏡を一心に見つめるドナの横で、ダインとドワーフは言葉を交わすと、支払いを終えた。
「それじゃ・・・行こうか、ドナちゃん」
「うん!」
鏡から目を離して、彼女は満面の笑顔で頷いた。
どちらからともなく互いに手を取り合い、ドワーフの屋台を離れ、歩き出す。
「それにしても、気に入ってもらったようでよかった」
満足した様子のドナと、彼女の頭の髪飾りを見下ろしながら、ダインはそう口を開いた。
「ダインお兄ちゃんが選んでくれたから嬉しいの。ありがとう、ダインお兄ちゃん」
「俺が選んだから、か・・・俺のセンスじゃないんだなあ」
ドナの本心からの言葉に、ダインが苦笑する。
顔こそ笑っているものの、彼の言葉に滲む何かを察し、ドナは急に不安を覚えた。
「ダインお兄ちゃん・・・?」
「ああ、何でもないよ。まあ、気に入ってくれたんなら俺も嬉しいよ」
苦笑を消し、ドナの不安を打ち消すように彼はそういうと、彼女の金色の頭に軽く手を乗せた。
温かく大きな手のひら。こうして手をつないでいるのとはまた違う、安心感が彼女にもたらされる。
「ほら、まだ時間があるから、ほかのところも見ようよ」
「うん!」
ドナは金髪の合間に咲く銀色の花を上下に揺らして、彼の言葉に応えた。
青空の下、二人は通りを散策した。太陽がやや傾く頃、二人は通りの一角に置かれたベンチに腰掛け、休憩していた。
「・・・・・・」
ドナは、どこかうつろな表情で風船菓子をかじりながら、ぼんやりとしていた。
親指ほどの大きさの豆に圧力と熱を加え、一気に解放することで風船のように軽く大きく膨らませた風船菓子。熱々の間は宙に浮かび、冷めて食べてもおいしいという、珍しい菓子にも関わらず、ドナはゆっくりゆっくり、一口ずつかじるばかりだった。
「ドナちゃん、もしかして疲れた?」
「・・・・・・・・・」
ドナはダインの問いかけに、無言で頷いた。
ふと気を抜けば、そのまま寝入ってしまいそうだが、彼女はどうにか耐えていた。
彼女の手の中の風船菓子はだいぶ冷めており、浮力をほとんど失っていた。もはや空に向かって浮かんでいくことはおろか、手を離した位置に留まることもできないだろう。
ドナの意識も、風船菓子のそれと同じく、眠らないぎりぎりのところに留まろうとしていたが、もはや時間の問題だった。
「ちょっと、お休みしようか・・・起こすから眠っていいよ」
「・・・ん・・・」
ダインの言葉に、ドナは彼の肩に体重を預け、眠らぬよう必死に耐えていた意識を手放した。
心地よい温もりが、彼女を包み込んでいく。
だが、やはりこの季節の昼間であっても、外で眠ると少し寒い。ドナが寝入ってから、数度体をふるわせたのを悟って、ダインはそっと彼女を抱き上げた。
もう少し、風をしのげる場所に行かなければ。
ダインはドナを抱えたまま通りを進み、大きな宿屋に入っていった。
抱き上げられて揺られたたことで、いくらか眠りの浅くなったドナは、自分が宿屋の一室に運ばれるのを感じた。
そして、自分のベッドの何倍もの広さのある巨大なベッドに彼女を横たえると、ダインは上着を脱いで、ドナの側に入ってきた。
「お休み、ドナちゃん」
ダインの腕の中、彼の温もりを感じながら、ドナは深い眠りに落ちていった。
そして翌日、ドナを宿屋に連れ込んだことを知り、彼女の両親はダインに責任をとるよう求め、ダインとドナが結婚することとなった。
しかしドナがまだ小さいため、彼女がウェディングドレスに袖を通せるよう成長するまで、婚約止まりである。それでもダインはドナの家に通い、時折彼女と一つのベッドに入って、抱き合いながら眠るのだ。
彼の腕の中の温もりは、何年味わっても飽きがこない。
ドナが成長するに連れ、ダインに包み込まれるようだったのが、互いに抱き合うようになっても、温もりは変わらなかった。
やがて、ついにドナが待ち望んでいた日が訪れた。彼女の身の丈が、ウェディングドレスに袖を通せるほどになったのだ。
明日、ダインとドナは結婚式を挙げ、ついにドナはダインのお嫁さんになるのだ。
純白のドレスを見ながら、彼女は自身の幸せを実感していた。
「ドナちゃん、ドナちゃん」
不意に、ダインが彼女を呼んだ。もう立派な大人の体だというのに、ダインは未だに彼女をそう呼ぶ。
なあに?とドナがダインの方を向こうとしたところで、彼女をやや強めの振動が襲った。
「ん・・・」
揺れに目を開くと、ドナは自分がダインに抱き抱えられていることに気がついた。
どうやら、思いの外深く眠ってしまっていたらしい。
「ドナちゃん、おうちに着いたよ」
「ふふふ、眠り姫様は本当に眠たいみたいね」
薄く開いたドナの目に、ダインとドナの母親の顔が映っていた。
「すみません。疲れさせちゃったみたいで・・・」
「大丈夫よ、ちょっとはしゃぎすぎて疲れただけだから。それだけこの娘が、あなたとのデートを楽しんだってことよ」
ドナの頬を、母親がそっとなでた。
「じゃ、眠り姫様をお返しして帰ろうか」
ダインの物でも、母親の物でもない三つ目の声が、ドナの視界の外から響いた。
「そうね、ダイン君お疲れさま」
「ああ、俺が家の中まで運びますよ」
「いいわよ。むしろ久々にこの娘を抱っこしたいし」
再びドナの体が揺れ、なにやら柔らかな別の温もりが彼女を包むのを感じた。
「んん・・・」
温もりの変化に、ドナは小さく声を漏らした。
「あら?眠り姫様のお目覚めかしら?たぶん起きたら、ダイン君に泊まっていってとか言い出すだろうから、早く戻った方がいいわよ」
「そうですね。では今日はここで失礼しますが・・・セルマはドナちゃんに挨拶しなくていいのか?」
「いいよいいよ。また今度にしておく」
「そうだな・・・起こすのもかわいそうだし」
三つ目の声が響き、ダインがそれに頷いた。
「それでは、今日もありがとうございました」
「こっちこそ、ドナの面倒見てくれてありがとうね。二人とも気をつけて」
「ええ。では、失礼します」
「じゃーね、姉さん」
ダインと三つ目の声が、母親に別れを告げた。
ドナは半ば眠りの世界に浸った意識を鞭打ち、視線だけでも声の方に向けた。
しかし彼女の目に映ったのは、夕焼けに赤く染まる住宅街の道を進む、二人の後ろ姿だった。
ダインとサキュバスの背中が、並んで離れていく。
そして二人の手は、指を絡めあわせるようにつながっていた。
ダインとドナが手を繋いでいたのとは違う、恋人同士の繋ぎ方だった。
「・・・・・・・・・」
ドナは、胸の奥に何かが沸き起こるのを感じたが、それ以上物を考えるのが億劫になり、目蓋をおろした。
ダインが伯母のセルマと恋人同士のはずがない。彼は明日、自分と結婚するのだ。
幸せな夢の世界に、彼女は再び沈んでいった。
すらりとしたサキュバスと、十歳ほどのアリスだ。
「ダインお兄ちゃん、まだかなー」
「もうすぐよ、ドナ」
愛らしいドレスに袖を通し、宝物のブローチを胸元に着けて目一杯のおめかしをしたドナに、母親のサキュバスは微笑む。
「あ!来た!」
ドナが声を上げながら、庭を挟んだ門の向こうを指さし、慌てたように手を引っ込めた。
代わりに、期待と喜びに満ちた視線を、門扉に歩み寄る青年に注いだ。
「おはようございます」
「おはよう、ダイン君」
「ダインお兄ちゃん、おはよう!」
門扉を開き、庭に入りながらの青年の挨拶に、サキュバスは軽く手を上げ、ドナは小さな翼をぱたぱたと動かしながら応えた。
「セルマは?」
「化粧に手間取っていたようなので、先に俺だけ来ました。もうすぐ追いつくと思います」
「そう」
母親と青年が言葉を交わす様子、正確に言えば言葉を紡ぐ青年の姿を、ドナはニコニコと見上げていた。
「じゃあ、約束通りドナのこと、お願いね?」
「はい。お姉さんも、妹さんと姉妹水入らずを楽しんでください」
「ありがと、ふふふ」
サキュバスはドナに視線を向けて、続けた。
「それじゃ、ドナ。ダインお兄ちゃんにワガママ言って、困らせたらだめよ?」
「うん!」
どこかそわそわとした様子で、アリスは大きく頷いた。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
母親の一言に、ドナは母親の側を飛び出し、ダインに抱きつかんばかりの勢いで駆け寄った。
「行って参ります。じゃ、行こうか、ドナちゃん」
「うん!」
青年の差し出した手を取りながら、彼女は満面の笑顔で頷いた。
ダインとドナは家を離れ、しばし住宅街の間を進んだ。
二人が手をつなぐ様子は、年の離れた兄妹、下手すれば若々しい父親と娘のように見えたが、ドナ自身はそのどちらでもないらしい。
「それでね、ミューちゃんの家は床屋さんなんだけど、ミューちゃんのお父さんは頭つるつるなの!」
「へえ」
自分の手を握りながら、最近学校や家で起こったことについて一生懸命に話すドナに、ダインはにこにこと相づちを打った。
「ミューちゃんのお母さんはレッサーサキュバスで、髪の毛も腕の毛もふさふさなのに、お父さんは頭も眉毛もないつるつるなの!だからミューちゃんはふつうのサキュバスなんだよ!」
「ちょうど間をとった、って訳だね」
二人が言葉を交わしながら道を進むうち、大通りにでた。
馬車や荷車が行き交う、幅広の通りだ。
二人はしばし通りに沿って進むと、道の傍らに設置された、乗り合い馬車の停留所で足を止めた。
「じゃあドナちゃん、馬車の中では?」
「おしずかに、ね!」
青年とのおしゃべりは楽しいが、彼の迷惑になるようなことはしてはいけない。
母親との約束もあったが、彼女自身が青年を困らせたくないという想いの方が大きかった。
しばし行き交う馬車を眺めながら、取り留めもない話をしていると、やや大きな馬車がゆっくりとやってきて、二人の前で止まった。
「はい、メッジャ通り行きですよー」
馬車の上に乗っていたハーピーが、バサバサと翼をならしながら二人の前に舞い降りた。
「大人一枚小人一枚、終点まで」
「はいはい、銀貨二枚ですー」
青年は財布を開くと、いわれたとおりの金額を取り出し、ハーピーの車掌が差し出した小さな紙切れと引き替えた。
「ご乗車どうぞ〜」
「はーい」
ドナは車掌の言葉に、乗り合い馬車に乗り込んでいった。
最大八人が乗れるほどの広さの馬車には、先客が一人いた。
「揺れると危ないですので、ご着席お願いしまーす」
「はい。ドナちゃん座って」
「うん」
ダインの言葉に、ドナはやや小さな声と共にうなづき、窓際の席に腰を下ろした。
すると、彼女の隣に青年が座る。
「はい、発車しまーす」
車掌が馬車の扉を閉め、御者に合図を送ると、かすかな揺れと共に馬車が動き出した。遅れて翼が空気を打つ音が響き、馬車の上に何かが乗る。
「車掌さん、遠くまで見られていいねー」
「でも、馬車の上にイスはないから、ちょっと辛いよ」
馬車の上のハーピーについて、二人は先客の迷惑にならない程度の小声で言葉を交わした。
「でも、大きくなったら馬車の車掌さんになりたいかも・・・どうやったらなれるのかな、ダインお兄ちゃん?」
「うーん、ちょっと分からないなあ・・・でも、いろいろ試験があるだろうから、お勉強をがんばらないとね」
子供の思いつきレベルの『なりたい』という欲求に、青年は適当にごまかすことなく考えた。
「お勉強かー・・・うん、あたしがんばる」
「うふふふふ・・・」
すると、今まで無言で窓の外を眺めていた馬車の先客が、不意に笑みを漏らした。
「あら、ごめんなさい」
帽子をかぶった、ワーウルフの女が、笑みを漏らしたことに気がついたのか慌てて口元を押さえた。
「すみません、こちらこそ騒がしくしてしまって・・・」
「いえ、いいんです。お二人のやりとりが楽しそうで、微笑ましくて・・・えぇと、娘さんですか?」
「いえ、知り合いの娘です。今日一日預かることになりまして・・・」
「お姫様のエスコート、というわけですね」
ワーウルフの女は、ドナに目を向け、ほほえみながら続けた。
「お兄ちゃんとデートですってね?いっぱい楽しめるといいわね」
「うん!」
見知らぬワーウルフではあったが、彼女のデートという表現に、ドナは満面の笑みを浮かべて頷いた。
それから、二人は窓の外を見て時折言葉を交わしながら、馬車に揺られた。
途中でワーウルフの女が降り、別の客が乗り込んでは降りを繰り返しながら、乗り合い馬車は町の中心に近づいていった。
通りも徐々に幅が広がり、通りに面する建物も少しずつ大きくなっていった。
そして、見上げるほど巨大な建物が林立する一角で、ついに馬車が止まった。
「終点、メッジャ通りでーす」
馬車の上から舞い降りたハーピーが、馬車の扉を開いてそう乗客に呼びかける。
「足下にご注意して、降車お願いしまーす」
「降りるよ、ドナちゃん」
「うん」
ダインが先に馬車を降り、ドナの手を取りながら彼女が馬車の段を一つずつ降りていくのを手伝った。
そして、石畳の上にドナのピカピカの靴がそろったところで、彼女は並ぶ建物を見上げた。
「うわぁ・・・」
街の中心部は、両親に連れられて何度も訪れたことがあるが、建物から見下ろされるような感覚はなかなか慣れなかった。
「ほらドナちゃん、行こう」
「う、うん・・・!」
一瞬呆けたように建物を見上げていたことに気がつき、顔を赤らめながら彼女は歩きだした。
人通りはかなり多いため、はぐれないよう二人はしっかりと手をつないだ。
青年の大きな手とその温もりを確かめながら、ドナは行き交う人々に目を向けた。
人間や魔物が入り交じり、それぞれがそれぞれの目的に向けて歩いている。
一人の魔物がいるかと思えば、言葉を交わす二人ずれと思しき人間もいる。そして、ドナとダインのように手をつなぐ親子連れもいた。
そんな中、ドナの目がある一組の男女に向けられた。
人間の男と、短い金髪のきれいな女だった。女は男に何事かを話しかけていたが、男は楽しげな表情など浮かべてはいなかった。しかし、二人は指と指を絡め合うようにしっかりと手をつないでいた。
二人の姿は数秒のうちに人の波に紛れて、ドナの視界から消えてしまった。しかし、二人が指を絡めて手を握り合う様は、彼女の脳裏に刻まれていた。
「・・・」
ドナは視線を、自分の手に向けた。
ドナの手もダインとしっかりつないでいたが、あくまで握手するような、手のひらと手のひらを触れ合わせる程度のつなぎ方だった。
先ほどの二人のような、指を絡め合わせるつなぎ方ではない。
不意にドナの胸中に、手をつないでいるにも関わらず自分が一人きりになったような、寂しさめいたものが芽生えた。
「・・・ん・・・」
彼女は小さく声を漏らすと、少し先を進んでいたダインの側に歩み寄り、彼の腕に自分の体を押しつけた。
「ん?どうしたのドナちゃん」
「人が多いから・・・はぐれないように・・・」
自分の内側の寂しさを悟られぬよう、ドナはそう言い訳した。するとダインは、彼女の言葉に納得したのか頷いた。
「そうだね。うっかりしたらはぐれそうだ。しっかり掴まってるんだよ」
「うん・・・」
ダインの言葉に彼の優しさを、そして彼の腕に青年自身の温もりを感じながら、彼女は頷いた。
やがて二人は、林立する大きな建物の間を抜け、やや開けた通りにでた。
道幅こそ広いものの、馬車は行き交っておらず、代わりに屋台が軒を並べていた。
「わあ・・・!」
道の左右に軒を連ねる店や、色とりどりの屋台に、ドナは目を輝かせた。
しかし、ダインの手を引いて屋台へ駆けていこうとする体を、彼女はぶんぶんと頭を左右に振って押さえ込んだ。
買い物は後だ。
「ええと・・・ああ、やってるやってる」
喫茶店と料理店の間に建つ、映画館の前でダインは足を止めた。
入り口脇に掲げられているポスターには、ドナの大好きな物語の主人公が描かれており、ポーズを決めていた。
「ドナちゃん、ここでいいんだよね?」
「うん!」
ダインの確認に、彼女は大きく頷いた。
ダインはドナと手をつないだまま窓口に歩み寄ると、映画の切符を二枚購入した。
「はやく、はやく!」
「大丈夫、席は逃げないよ」
待ちきれない、といった様子のドナに、ダインは今し方購入したチケットを掲げた。
「ええと、『殺人鋸フライングチェーンソウ3 帰ってきた地獄の神隠し歌』だったね?」
「ちーがーうー!『キャプテンアンジェリカ』!」
チケットの文字を読み上げるフリをしながらのダインの冗談に、ドナは唇をとがらせる。
彼女が見たいのは、そんな怖い映画ではない。
「はいはい、ほら『キャプテンアンジェリカ』でしょ?」
ダインの差し出した、自分の文のチケットを受け取ると、ドナは並ぶ文字を確認した。
確かに、『キャプテンアンジェリカ』のチケットだ。
「よかった・・・」
万に一つもないだろうが、本当にダインがチケットを間違えた可能性が消えたことに、彼女は胸をなで下ろした。
すると、彼女の翼の間の背中を、ダインが手のひらで軽く押した。
「ほら、入るよ」
「うん!」
二人は映画館の入り口に近づくと、モギリの若い男にチケットを差しだし、半券を受け取って暗い劇場に入っていった。
すでに客席の半分ほどが埋まっており、作品の人気が伺える。
「ほら、ダインお兄ちゃん、あそこだよ!」
「そうだね」
埋まった客席の合間、ぽっかりと空いた空席を目指し、二人は客席の間を通り抜けていく。
「ええと、ここ・・・だけど・・・」
ドナは、自分の手にしたチケットの半券の席番号と、席に記された番号を見比べ、困惑した。
確かにドナの半券通りの番号では合ったが、その左右の席は埋まっているのだ。もしかして、ダインと離ればなれの席になるのだろうか?
「ダインお兄ちゃんの席が・・・」
「ああ、体格差席を頼んだから、これでいいんだよ」
ダインが彼の半券をドナに見せる。そこに記されていた席番号は、ドナのそれと同じだった。
「親子とか、小さな魔物と人のカップルのとき、二人で同じ席に座れるんだ。だから、ドナちゃんには俺の膝に座ってもらうんだけど・・・いいかな?」
「うん!」
彼の言葉に、ドナは頷いた。
細かい制度などはよく分からないが、離ればなれになると思っていたのが、最高の特等席で映画を楽しめるというだけでドナには十分だった。
ダインが席に腰を下ろすと、ドナはその膝の上に座った。
「大丈夫?痛くない?」
「うん、大丈夫だよ」
彼女はダインの胸に背中を預けると、彼を見上げて微笑んだ。
こんな素敵な席に座れるなんて、自分はなんて幸せなのだろう。
劇場を見渡せば、ドナとダインのように二人で一つの席に腰掛けるカップルや親子連れが見えた。
だが、ドナはこの劇場の中で、自分が一番幸せだという自信があった。なぜなら彼女が腰掛けているのが、ダインの膝だからだ。
胸の奥から湧いてくる幸福感に浸っていると、ベルの音が響いた。
もうすぐ映画が始まる。
「ん・・・」
ともすれば口元がゆるみ、えへへ、と漏れそうになる声を押さえ込みながら、ドナはスクリーンに目を向けた。
銀幕に光が宿る。
「どうだった?」
「とってもおもしろかった!」
数時間後、劇場を出た二人は隣の料理店に入り、注文の品が運ばれてくるまでの間に、今し方観た作品の感想を口にしていた。
「アンジェリカがね!セシリアとシスフィーナと一緒にどかーんって!」
映画のクライマックス、三人のヒロインが力を合わせ、悪者を退けるシーンの興奮を思い返しながら、ドナは一生懸命に自分の感想を表現していた。
その様は、まるで映画を見ていないダインに、その面白さを伝えようとしているかのようだった。
「そうだねえ、三人ともかっこよかったね」
だがダインは、ドナを膝の上に乗せながら鑑賞したにも関わらず、彼女の感想に耳を傾け、相づちを打っていた。
目をきらきらと輝かせ、身振り手振りを交えて一生懸命に伝えようとするドナの姿が愛らしいのだ。
「それでね!アンジェリカが最後にイスト君と・・・」
「お待たせしました。お子さまランチセットと、パスタベネチアンです」
ドナのクライマックスシーンの解説を遮るように、料理店の店員が料理を運んできた。
ドナは一瞬、悔しそうに店員を見上げるが、直後テーブルの上の皿に目が釘付けになった。
大きな皿に、一口サイズに刻まれたステーキや、小さな卵焼き、数本の揚げ芋など、いくつもの種類の料理が少しずつ盛られた、ごちそうがそこにあった。そして、デザートと思しきフルーツには、ウサギの形に切れたリンゴが一切れ添えられていた。
「おいしそうだねえ、ドナちゃん」
ドナがお子さまランチセットに心を奪われる様子に、ニコニコと微笑みながら、ダインはフォークを手に取った。
「冷めるといけないから、ご飯にしようか」
「うん!」
クライマックスシーンの解説を遮られたことについての腹立たしさはとっくに消え去っていた。
彼女は子供向けの小さなフォークを手に取り、大好きな卵焼きから取りかかろうとして踏みとどまった。
ダインの迷惑にならないよう、行儀よくしなければ。
「・・・いただきます・・・」
一度フォークをおいてそう口を開くと、彼女は行儀よく、ナイフとフォークを手にした。
そして、卵焼きの端の方をフォークで押さえ、ナイフで一口大に切り取ると、彼女は口へ運んだ。
母親の焼いてくれる卵焼きとは違う、やや甘みの強い卵焼きだった。だが、表面はしっかりと焼けているのに、中身がトロリとした卵焼きは彼女の頬を溶かすようだった。
「んー!」
物を口に入れているときにしゃべってはいけない、という両親の教えに基づき、ドナは口を閉じたまま、美味しいと言った。
「美味しいかあ。よかったねえ」
ダインは彼女の表情の変化に、卵焼きがそれほど美味であることを察すると、ニコニコしながら言った。
それは、ドナにしてみれば、言葉を使わずとも通じ合えたように感じられる出来事だった。
それから二人は昼食を終えると、店を出て通りを散策した。
服屋のショーウィンドウを眺めたり、屋台をのぞき込んだり、大道芸の芸を観て拍手したりと、とくにあても目的もなく、ぶらぶらと歩いた。
そして、小物を売る屋台の一つの前で、不意にダインが足を止めた。
「んー?」
「なあに、ダインお兄ちゃん?」
ドナがダインの視線をたどると、彼の目が屋台に並ぶアクセサリーを観ていることに気がついた。
銀細工の指輪や髪留め、ブレスレットなどの装身具がそろっていた。
「わぁ・・・」
きらきらと光る宝石がついているわけではないが、それでも鈍い銀色の光を放つアクセサリーは。ドナの胸の奥をときめかせた。
「いらっしゃい。こっちのは銀貨五枚で、残りはどれも銀貨三枚だよ」
屋台の店番をしていたドワーフが、笑みを浮かべながらそう説明した。
ドナは一瞬、自分より小さな子供が商売をしているのか、と驚いたがすぐにドワーフの特徴を思い出した。身の丈こそドナより小さいが、彼女は立派に大人なのだ。
「ん?おにーさん、こっちのお姫様にプレゼント?」
「まあ、ね・・・」
ドワーフの問いかけへの返答に、ドナの心臓がとくん、と高鳴った。
「だったら、気合い入れて選ばないとね。おにーさんのセンスが問われるよ?」
「ああ、だから今考えているんだ・・・」
ダインが、自分のためにアクセサリーを選んでくれている。それだけで、ドナの胸の高鳴りが強まっていった。
そして同時にドナは、ダインが何を選んでくれるのかが気になった。
耳飾りだろうか?きっとダインなら、彼女の耳にあう素敵な物を選んでくれるに違いない。だが、なくさないように注意しなければ。
それとも首飾り?ダインの選んだ品が、自分の胸のあたりを飾る様子を思い浮かべると、笑みがこぼれるようだった。しかし、この店の首飾りの紐や鎖は簡単に切れそうだ。ひっかけて切らないよう、友達と走り回るような遊びをするのはやめよう。
それにしても、ダインは何を選んでくれるのだろうか?
「うーん・・・」
「・・・」
ドナは口元に手を当て、呻くダインを見上げると、再び視線を辿った。すると彼女は、ダインが指輪のあたりをみていることに気がついた。
指輪。男女の間で、それが重要な意味を持つことは、まだまだ子供のドナにも分かっていた。
先ほど見た映画でも、ヒロインの一人が敵の一人から指輪を贈られ、彼と共に逃げるか否か思い悩んでいた。
ドナは、並ぶ指輪を見ながら、どれが自分の物になるか期待に胸が膨らみ、頬が赤らんでくるのを感じた。
「うん、これがいい」
ダインは手を伸ばすと、並ぶ銀細工の一つを手に取った。
彼が手にしたのは、小さな髪飾りだった。前髪が垂れないように挟んで抑える、装飾のついたヘアピンといったところだろうか。
一瞬、ドナの胸中を落胆がよぎったが、すぐに喜びが湧いてきた。
「つけてみても?」
「どうぞどうぞ」
ドワーフはゴソゴソと鏡を取り出すと、二人に向けておいた。
「ちょっとじっとしててね・・・」
ダインはドナに向かって少し身を屈め、彼女の前髪が寄せられた耳の上のあたりに、髪飾りを差した。
「よし」
ダインの手が離れると同時に、ドナは鏡をのぞき込んだ。すると彼女は、地震の金色の髪の間に銀色の花が咲いているのを見た。
「よかった、似合っている」
「・・・!」
ダインの一言に胸の奥が熱くなり、ドナは急に何も言えなくなってしまった。
「銀貨三枚だっけ?」
「はい。包みましょうか?」
「いや、彼女も気に入っているみたいだから、このままでいいよ」
「毎度あり」
鏡を一心に見つめるドナの横で、ダインとドワーフは言葉を交わすと、支払いを終えた。
「それじゃ・・・行こうか、ドナちゃん」
「うん!」
鏡から目を離して、彼女は満面の笑顔で頷いた。
どちらからともなく互いに手を取り合い、ドワーフの屋台を離れ、歩き出す。
「それにしても、気に入ってもらったようでよかった」
満足した様子のドナと、彼女の頭の髪飾りを見下ろしながら、ダインはそう口を開いた。
「ダインお兄ちゃんが選んでくれたから嬉しいの。ありがとう、ダインお兄ちゃん」
「俺が選んだから、か・・・俺のセンスじゃないんだなあ」
ドナの本心からの言葉に、ダインが苦笑する。
顔こそ笑っているものの、彼の言葉に滲む何かを察し、ドナは急に不安を覚えた。
「ダインお兄ちゃん・・・?」
「ああ、何でもないよ。まあ、気に入ってくれたんなら俺も嬉しいよ」
苦笑を消し、ドナの不安を打ち消すように彼はそういうと、彼女の金色の頭に軽く手を乗せた。
温かく大きな手のひら。こうして手をつないでいるのとはまた違う、安心感が彼女にもたらされる。
「ほら、まだ時間があるから、ほかのところも見ようよ」
「うん!」
ドナは金髪の合間に咲く銀色の花を上下に揺らして、彼の言葉に応えた。
青空の下、二人は通りを散策した。太陽がやや傾く頃、二人は通りの一角に置かれたベンチに腰掛け、休憩していた。
「・・・・・・」
ドナは、どこかうつろな表情で風船菓子をかじりながら、ぼんやりとしていた。
親指ほどの大きさの豆に圧力と熱を加え、一気に解放することで風船のように軽く大きく膨らませた風船菓子。熱々の間は宙に浮かび、冷めて食べてもおいしいという、珍しい菓子にも関わらず、ドナはゆっくりゆっくり、一口ずつかじるばかりだった。
「ドナちゃん、もしかして疲れた?」
「・・・・・・・・・」
ドナはダインの問いかけに、無言で頷いた。
ふと気を抜けば、そのまま寝入ってしまいそうだが、彼女はどうにか耐えていた。
彼女の手の中の風船菓子はだいぶ冷めており、浮力をほとんど失っていた。もはや空に向かって浮かんでいくことはおろか、手を離した位置に留まることもできないだろう。
ドナの意識も、風船菓子のそれと同じく、眠らないぎりぎりのところに留まろうとしていたが、もはや時間の問題だった。
「ちょっと、お休みしようか・・・起こすから眠っていいよ」
「・・・ん・・・」
ダインの言葉に、ドナは彼の肩に体重を預け、眠らぬよう必死に耐えていた意識を手放した。
心地よい温もりが、彼女を包み込んでいく。
だが、やはりこの季節の昼間であっても、外で眠ると少し寒い。ドナが寝入ってから、数度体をふるわせたのを悟って、ダインはそっと彼女を抱き上げた。
もう少し、風をしのげる場所に行かなければ。
ダインはドナを抱えたまま通りを進み、大きな宿屋に入っていった。
抱き上げられて揺られたたことで、いくらか眠りの浅くなったドナは、自分が宿屋の一室に運ばれるのを感じた。
そして、自分のベッドの何倍もの広さのある巨大なベッドに彼女を横たえると、ダインは上着を脱いで、ドナの側に入ってきた。
「お休み、ドナちゃん」
ダインの腕の中、彼の温もりを感じながら、ドナは深い眠りに落ちていった。
そして翌日、ドナを宿屋に連れ込んだことを知り、彼女の両親はダインに責任をとるよう求め、ダインとドナが結婚することとなった。
しかしドナがまだ小さいため、彼女がウェディングドレスに袖を通せるよう成長するまで、婚約止まりである。それでもダインはドナの家に通い、時折彼女と一つのベッドに入って、抱き合いながら眠るのだ。
彼の腕の中の温もりは、何年味わっても飽きがこない。
ドナが成長するに連れ、ダインに包み込まれるようだったのが、互いに抱き合うようになっても、温もりは変わらなかった。
やがて、ついにドナが待ち望んでいた日が訪れた。彼女の身の丈が、ウェディングドレスに袖を通せるほどになったのだ。
明日、ダインとドナは結婚式を挙げ、ついにドナはダインのお嫁さんになるのだ。
純白のドレスを見ながら、彼女は自身の幸せを実感していた。
「ドナちゃん、ドナちゃん」
不意に、ダインが彼女を呼んだ。もう立派な大人の体だというのに、ダインは未だに彼女をそう呼ぶ。
なあに?とドナがダインの方を向こうとしたところで、彼女をやや強めの振動が襲った。
「ん・・・」
揺れに目を開くと、ドナは自分がダインに抱き抱えられていることに気がついた。
どうやら、思いの外深く眠ってしまっていたらしい。
「ドナちゃん、おうちに着いたよ」
「ふふふ、眠り姫様は本当に眠たいみたいね」
薄く開いたドナの目に、ダインとドナの母親の顔が映っていた。
「すみません。疲れさせちゃったみたいで・・・」
「大丈夫よ、ちょっとはしゃぎすぎて疲れただけだから。それだけこの娘が、あなたとのデートを楽しんだってことよ」
ドナの頬を、母親がそっとなでた。
「じゃ、眠り姫様をお返しして帰ろうか」
ダインの物でも、母親の物でもない三つ目の声が、ドナの視界の外から響いた。
「そうね、ダイン君お疲れさま」
「ああ、俺が家の中まで運びますよ」
「いいわよ。むしろ久々にこの娘を抱っこしたいし」
再びドナの体が揺れ、なにやら柔らかな別の温もりが彼女を包むのを感じた。
「んん・・・」
温もりの変化に、ドナは小さく声を漏らした。
「あら?眠り姫様のお目覚めかしら?たぶん起きたら、ダイン君に泊まっていってとか言い出すだろうから、早く戻った方がいいわよ」
「そうですね。では今日はここで失礼しますが・・・セルマはドナちゃんに挨拶しなくていいのか?」
「いいよいいよ。また今度にしておく」
「そうだな・・・起こすのもかわいそうだし」
三つ目の声が響き、ダインがそれに頷いた。
「それでは、今日もありがとうございました」
「こっちこそ、ドナの面倒見てくれてありがとうね。二人とも気をつけて」
「ええ。では、失礼します」
「じゃーね、姉さん」
ダインと三つ目の声が、母親に別れを告げた。
ドナは半ば眠りの世界に浸った意識を鞭打ち、視線だけでも声の方に向けた。
しかし彼女の目に映ったのは、夕焼けに赤く染まる住宅街の道を進む、二人の後ろ姿だった。
ダインとサキュバスの背中が、並んで離れていく。
そして二人の手は、指を絡めあわせるようにつながっていた。
ダインとドナが手を繋いでいたのとは違う、恋人同士の繋ぎ方だった。
「・・・・・・・・・」
ドナは、胸の奥に何かが沸き起こるのを感じたが、それ以上物を考えるのが億劫になり、目蓋をおろした。
ダインが伯母のセルマと恋人同士のはずがない。彼は明日、自分と結婚するのだ。
幸せな夢の世界に、彼女は再び沈んでいった。
12/10/30 21:40更新 / 十二屋月蝕
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