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三匹目 |
飛び出したのは思い出せば出す程に短絡的であったと思う。
辻捕り屋、平たく言えば誘拐と人身売買を重ねた生業を持つ飼い主であった。 人間社会の倫理に於いては反するべき職業だとは、何となく思っている。 この時代の経済市場を回転させるには、必要な存在だという事も判る。 しかし、扱く結論を述べるとしたら、決して愛される職業ではない。 男の他者から受けた愛の総量は、恐らく人民内で底辺に位置する。 それ位は、私は判っているつもりだ。 そんな男が、私には随分と少ないだろう愛を分け与えてくれていた。 だからこそ私は、時航機さえあれば、繰り返し失敗などしないだろう。 男に対する恩は忘れていないし、それ以上に私は愛を返していなかった。 後悔が押し寄せる。 どうして出て来てしまったのだろう。 大人しく待って居れば良かった。 今頃はとっくに家へと帰って来て居て、私の事を探しているに違いない。 これは独白になる。 私には飼い主が居て、けれども私はその住居である場から飛び出した身である。 それもこれも、最初から最後まで家出をしようなんて事は考えて居なかった。 飼い主は職業柄数週間家を空ける事も多いが、その上で不安を覚えたのだ。 主人の身に何か厭な事があるのでは無かろうかと、予感がした為なのだ。 海を思い浮かべて、考える事無しに遠く遠くを移動して海へ向かった。 更には小さな身を生かして船にまで乗り、気付けば国を跨いでいた。 道標も理解出来ず、飢えを凌いで見る筈も無い影を追っていた。 疲れを覚えずに探し回ったが、ある時ふと気付いてしまった。 全てが私の気のせいではないかというものであった。 それは非常に根本的問題だった。 それは非情に遅い答えだった。 私は剰りに間抜けであった。 狭い袋小路に立ち会った。 飼い主の安否も判らず。 疑問の答えも判らず。 この場所も判らず。 帰り道も判らず。 言葉も判らず。 全て判らず。 何も知らない。 無闇に絶望した。 記憶を掘り返した。 目一杯に思い出した。 自問自答を繰り返した。 しかし何も判らなかった。 忘れる事など出来なかった。 諦めきる事など出来なかった。 止めどなく後悔が滲み出てきた。 気付けば孤独に絡め取られていた。 事実は疲弊しきった身体よりも、ずっと心を鞭打った。 結局、自己完結、真実、幻想のいずれに於いても質が悪かった。 私は猫である。 他の猫とは会話にならない程折り合いが付かず、ずっと独りであった。 それを拾ったのが、辻捕り屋の男だった。 男は独り身でありながら幾人もの子を持っていた。 変な男で、その全員が腹違いであって、更にその一部は種すら違った。 きっと私は子供愛玩用として拾われたのだ、と最初は思った。 しかしその実、私は男一人に愛された。 男が私を子供から遠ざけ、別の所帯の一員であるかのように扱っていた。 それが気恥ずかしく、逃げるように、否、実際に逃げていた節もある。 逃げている時、困り顔になってこめかみを掻く癖があると知った。 これぐらいの事ならばきっと男の子供達も知っている事だろう。 けれども、きっと私しか知らない事もある。 例えば、攫う者の前で見せる笑顔の次に良い表情は、私しか知らないのだ。 特別な表情であり、それを独占する私自身は男にとって特別であるのだと思った。 累々と流々とした涙である。 何が悲しくて噎ぶのかなど、私には判らない。 何が悔しくて泣くのかなど、私には判らない。 何が寂しくて歎くのかなど、私には判らない。 他の猫なら気付くのかも知れないが、私には判らない。 きっと猫と猫との間で育むべきものが在った筈なのに、私は結局それを怠った。 ゆえに、私は気遣いというものを一切として男に与えなかった。 ただ恥ずかしく、気まずく、対処に困り、逃げていた。 私は嬉しかったのだと、孤独になってから知った。 懐かしみを覚えるが、懐かしんでしまうだけの時間が経っている事に絶望した。 飼い主は今何をしているのだろう。 ベッドの中で温もっているかもしれないし、子供らに囲まれているかも知れない。 攫うだろう人に声を掛けているかも知れないし、道を尋ねられているかも知れない。 どの道私は路頭に迷い、屑籠の脇に畳まれず放置された厚紙箱の中で凍えている。 どれほどの時間をこの箱の中で過ごしたかも忘れてしまった。 曖昧にして漠然とした時間の動きしか思い出せなくなってしまった。 仰げば高くまで人工物が聳えており、星をまともに見る事さえ敵わない。 いずれ雪が降るだろうと容易に想像出来る、秋節最後の夜である。 雲の見えない空は気温を吸い取って、星も綺麗に光っている事だろうというのに。 せめて秋と共に絶えようという命にも、満足に星を眺めさせてくれやしない。 何度呼んでも応えの無かった声を上げてみる。 必死として訴える悲鳴も、今や他者から見ればか細く弱く聞こえる北風と等しい。 諦観と執念の境地で、しかし私は空を見続けようと抗った。 寒さが次第に四肢の筋を強ばらせ、痛みを脳天強烈に訴える。 首の筋だってとうに絶叫しているが、それでも構わない。 そんな熱に滾る願いさえ、路地に吹き荒ぶ寒風でぽきり折れる。 諦観の境地へと、前足全部を付け入れてしまったが最後と知った上での所作だ。 私は筋の違えた首をそのままに、ごろんと段ボールに倒れ込んだ。 身体が既に、腐臭を伴わせて蛆を呼び出しているのでは無いかと思った。 目の前にある厚紙の汚れきった壁が朧に見えた。 あまりに身の上が他人事のような気がした。 もしかすると、これは夢なのでは無かろうか。 相当酷く尋常でない長さの悪夢に苛まれていただけでは無かろうか。 それならば、目を覚ませばいいのだ。 そうすることで飼い主に会える事が出来るなら、喜んで今までの反省を生かそう。 そうだ、これは反省する為の悪夢に違いない。 私は確信した。 確かに信じた。 更に、意識のある夢を自ら覚ます方法を思い出そうと躍起になった。 最後の力を振り絞って脳味噌に血液と気力を送り付け、そうして漸く思い出す。 夢の中で眠ればいい筈だ。 思いついたと同時、私は目を瞑る。 せめて、身体を縮込ませて、丸めて、蹲って、頭を埋めて。 そして厭な跫音が耳へと這入り込んで来る前に、眠ってしまえば。 まだ、楽なのかも知れない。 そう感じながら。 夜霧が地面に降りて露となり、路上の煉瓦を割って生える草木を光らせる。 朝方には寂れて見えるそんな街道を、男と、女が歩いている。 少年の前方を歩く女は、異様一言に尽きた。 人間とはおよそ似ている、といった程度の外見。 選ぶ人に拠っては、先ずそれと判断する事すら無いだろうといった程度の外見。 もっと別の何かを考えてしまう容姿である。 彼女は悪魔であった。 異様も当然だ。 その女は、ゆるり浮くように煉瓦を踏む。 途中、裏路地への小さな通りから何か聞き取って、一瞥した。 「どうしました」 その一瞬の変化を悟り、男は訊ねる。 声にも雰囲気にも何も出さず、ただ彼女の視線の動きだけで女の挙動を察知した。 彼女の視線など、男は一切として見ていなかった。 「いよいよ人間らしくなくなってきたねえ」 女はからからと上機嫌に笑った。 対して男は面白く無さそうに、若干不貞腐れた様に口を尖らせる。 男、と指し示すには少々若すぎるかもしれない。 童顔と言うだけでなく、実際に年の若いだろう少年だった。 「人間だよ」 「それは、ざあんねん」 「おちょくらんといて欲しいんですけどね」 「絶望的瀕死」 不意に女は指差した。 先にあるものは、細い路地に置かれた大きな大きなゴミを捨てバケツである。 そして、男の目に止まったのはバケツの下にある、段ボール。 の。 中にある、生き物。 「ん」 「猫又。吉兆を占うに能っては、凶兆をよく当ててくれる魔物」 男は厭な魔物も居たものだと呟きつつ呆れ笑い、段ボールの中身を覗き込む。 言うならば、半死半生。 もっと言うならば、大半死半々生。 そんな存在が腹を波打たせもせずに止まっていた。 しかし、男は言い切る。 「生きてる」 「そんな状態のものを一目見ただけで、よく判るね。やっぱ人間じゃ無いわね」 「勘弁して。それより、こんな瀕死の猫見つけて、どうするのさ」 「東国の言葉には縁って言葉があってね。これもきっとそうなんでしょ」 「えにし?」 「折角だから連れて行こうって事よ」 「そりゃあ、別に、いいですけどね」 私が目を覚ますとは、と、私自身が驚いた。 恐らくこの事について、私以上に驚いたものなんて、この世には居ないと思う。 もしかすると可笑しいと思われるような話かも知れない。 「お嬢ちゃん、大丈夫」 呆然としていると、見た事のない女が私に声を掛けている事に気付いた。 目の前にいるのに気付かなかった。 憔悴が激しいのかもしれない。 安心して欲しい、自覚はあるのだ。 「え、えっ、ええ。うん、うん」 「それはよかった」 私はどもってしまった事に後悔するが、女はしっとりにこりと笑みを掛けてきた。 優しい笑顔だった。 何でも包み込んでしまいそうなほどに優しい笑顔だった。 例えば、国を丸ごと、とか。 とにかく得体の知れない雰囲気を持つ優しい笑顔であって、異常な笑顔だったのだ。 そういえば、いくら見た事のない女と言えども、彼女自身が異常では無かろうか。 あの髪色や刺青は、染めるなり墨を入れるなりをして身にする事もあるだろう。 しかし、蝙蝠の様な翼と扁平大曲な角に、皮鞭と槍に似た尾を垂らしている。 少なくとも、普通の人間ではあるまい。 これこそが異形の者の姿と言わんばかりの様相だった。 彼女こそが私のこの目に生涯初めて映す、希有で魔性の存在となったのである。 その女は中腰のまま私から遠ざけると、後ろにいた少年に話し掛ける。 少年は、何だか見た事があるような気がする。 飼い主がこの少年とよく似た子供を、暫く家に置いていたと思う。 海を越えた国で言うのも変な話であるものの、何となく懐かしい顔立ちだった。 「極東の土地の言葉が通じるみたい。やっぱりこの娘、そっちの生まれね」 「というか、言葉ってのがそんなに沢山あるんだって今知ったよ」 「ちゃんと教えるから大丈夫よ」 「聞こえないなあ」 「ちゃんと教えるから大丈夫よ」 「…うぅ」 何を話しているのだろう。 言葉を知らない私には判らないが、女は笑っているし、男は不満げな表情である。 茶化されたのかも知れない。 私に係る何事かの意見が合わなかったのかも知れない。 そこに至って初めて、私は自分の立っている境遇を思い出した。 「あっあの」 「うん、なあに、お嬢ちゃん」 知っている言葉を懐かしむ暇もない。 「ここは何処ですかっ」 口から零れ出た言葉が、ひどく慌ただしいと感じた。 同時に、何から訊けばいいのか、何を言うべきかがぐちゃぐちゃになっていく。 何を考えるべきかも、何を思うべきなのかすらも混濁して判らなくなった。 異形の女と少年は私をじっと見て、ただ呆気にとられている。 私は顔を血が上ったように火照らせ、鯉鮒に等しく口を開閉するしかなかった。 涙が溢れ、溢れ、溢れ、溢れる。 嗚咽が込み上げてくる。 「どうしたの」 女が優しく語り掛けてくれる。 何を言っているかは判らないが、少年も心配してくれているらしい表情だった。 「うっうぅっううううえぇぇぇぇぇぇ…」 感情の制御が追い着かず、自然と激情を訴える声が喉元から迸った。 あまり泣き顔を見せるような事は好んでしたい事ではない。 せめて顔を覆おうと、私は手を顔の前に持ってくる。 「ひ」 決壊した涙腺からの感情を拭っていると、今度はその手を見て仰天し、声を失う。 見えた自分の手は、人間のそれであったのだ。 急いで首を傾け、身体を確認する。 指も爪も、腕も肘も肩も、脇下から太腿から膝脛踝足の甲、全てがヒトの姿だった。 猫の私は、どこかへ消えていた。 私は私の知る私ですら無くなって名も知らぬ場所である此処に居るのだ。 それは、私が消えたも同然だった。 血の気が一気に引いていく。 流れのない水を覗けば、顔面蒼白に違いないと何となく判っていた。 もっとも、自分の顔がどんな顔なのかなんて、今では全く知らない事だった。 自分を失った今、何を見て自分を自分と知ればいいのかすら見失った。 「えっと、どうしたのあれ」 「…自分が魔物であるって、知らなかったのね」 「珍しい。そういう魔物も居るんだね」 「ううん、珍しいのは変わらないけど、猫又はその例外ではないの」 「え、それってつまり」 「珍しいって事よ」 少年と女が何か話している。 片や気まずそうに、片や何かを懐かしんでいるかのような語調だった。 私が言葉を何も出せずにいると、女が再び私の方に顔を寄せる。 「大丈夫。落ち着いて。安心していいのよ。 多分なんだけど、あなたは気づいていたと思うから」 「…何を、ですか」 「あなたは自分を客観視する自分を持っている筈なのよ。 どんなに振り乱れていても、厭になるほど冷静な自分が。」 久しく聞き慣れていた言葉に耳が慣れて来た頃、女はそう言った。 急に切り出す話題に相応しいとも評するべきか、それは突拍子も無い話だった。 私が考えられる事の範疇をはるかに越えた所にある話題だろう。 どう思案を巡らせても、このような質問に行き着かれる道理を私は知らなかった。 しかし、何となくだが、身につまされるとでも言おうか、知っている事でもあった。 それが言われて初めて考えるべき存在だと示され、私はまたも少々困惑した。 異形の女は依然として優しい笑みを湛えたまま暖かな私の郷里語で問いかける。 「身に覚えはあるかしら」 「…あります」 しかしそれがどうだと言うのだ、と私は何も判っていない事を主張した。 すると、女は事も無げに私の事を魔物であると返す。 「それが、あなたが貴女である証拠。悪魔の証明だけど、魔物の証明でもあるの。 でも、あなたが魔物だったかどうか何てどうでも良くって、貴女は今魔物なのよ」 「ど、どうしてですか」 「あなた、ひとつ魂抜けちゃってるからねえ。わからないかしら」 「わかりません」 「じゃあ、動く人間の死体を何て言うか知ってるかしら」 「いいえ」 「ゾンビ、と言うの」 続けて女は説明した。 猫には魂が3つはあると言われて随分と久しい。 しかし、その内のひとつでも抜けると、もう生物という括りからは除外される。 そこに魔力が宿っていると、人間で言うゾンビと同種の存在へと成るのらしいのだ。 らしい、のだ。 だからどうした。 だから一体どうしたというのだろうか。 恐らくはかなり初歩的な説明だろうが、今の私にはその説明も理解が追い着かない。 とりあえず、私はどうやら、魔物らしい。 道端の猫よりも、目の前にいる異形の女との方が近しい存在らしい。 「まあ、こんな話は御託かしら。とりあえず、はい」 異形の女は小さな四角の手拭を私に寄越した。 微かに花の香りがするが、それ以上に人間のにおいが染み付いていた。 恐らく、少年が男であると主張するにおいである。 私は涙を拭きつつ鼻でにおいを吸い取った。 何となく懐かしさを覚えるような、不思議と心を落ち着かせる香りであった。 また、心を静める以上に疼くものがあった。 ふるり体を動かす。 「いいにおいでしょう。この人の、なのよ」 女はハンカチを奪って立ち上がり、少年の後ろに回って彼の両肩を持った。 「このハンカチへにおいを移すのだって、結構苦労したのよ」 「…何言ってるのかは知らないけど、あまりいい気分になれないのは何故だろう」 「あら、なんでもないのよ。あなたがいい匂いだって言ってるの」 「それは多分、人間からすると良し悪しの変わるにおいだろ」 「まあいいじゃない。私が好きなんだから」 「ううん、まあ、ううん、ううん」 男が唸っていた。 多分、普段から女の尻に敷かれているのだろう。 そういう雰囲気が、一目見て板についていると判るのだ。 共に長く過ごしていなければ、こうも息のあった関係など築ける事もなかろう。 見た目に反して、恐らくこのふたりはかなりの時間を生きている。 そうでないのならば、かなり相性のいい存在同士であるのだろう。 羨ましかった。 私にも、そういう人が居たのだろうか。 飼い主にはあまりにも手酷い仕打ちを続けてきたと思う。 今更戻っても関係を戻せるだろうか、と、不安にならない訳もなかった。 そもそもとして、お互いに相性のいい存在であったのだろうか。 杞憂かも知れない。 無為かも知れない。 しかし私は考えてしまったがゆえに、思考停止せざるを得なかった。 「表情のころころと変わる娘ねえ」 「あどけなさ半端無えですね」 「あら、またその毒牙に掛けようって言うのかしら」 「…冗談だよ」 「ふうん、そう」 一瞬だけ憮然とした女は私の前に立ち、泣き止むように手を差し伸べる。 気付かなかったが、私はまたもや涙を流していたらしい。 理由があるにしても、どうにも感傷的になりすぎていると反省した。 もう少し落ち着かなければならないなと思い、私は差し出された女の手をとった。 暖かな声と表情とは裏腹に、少し体温の低いてのひらだった。 控えめなぬくもりが気持ちよかった。 手が引かれ、私は立ち上がる。 途端に視界が広がった気がした。 倒れた場所は小路地だったというのに、ここは何処の野原だろうか。 遠くの広葉樹が青く茂っており、目を覚ます前の季節との違和感を覚えた。 「貴女、名前は何」 「…ありません」 「じゃあつけたげる。ねえ、この娘の名前、何がいい?」 「急な振りだなぁ…決めていいよ」 「んじゃ、エニシ」 「えにして、これを拾う時に言った言葉だよね」 「そう。この娘の、遠い故郷の言葉なの」 「東の国のってことか。意味は察するに、ううん、出会い、とかかなあ」 「まあそれでいいか」 「投遣りですね…」 咳払いをひとつした女は、腕を組んで私を見遣った。 「もう名前に縛られたね。とりあえず、好きなように生きるといいよ」 「…訊きたい事が」 「ひとつだけね」 女は相変わらず微笑んでいた。 優しい微笑みの隙間に、やっと私は何かを感じ取ることが出来た。 何しろ目に見て判る異形の女である。 この世界で、そういうものがどんな存在であるのか、知らなくも無い。 彼女は悪魔だ。 彼女は私もそうであると言ったが、私は彼女よりも猫やひとに近い筈だ。 そうでなければ、きっと彼女の隙間を気味悪がったりはしない筈なのだ。 彼女らの恩を、着重ねにしている中で更に被ろうとは思わない、 本来、猫は何事にもあまり被ることを良しとはしないのだ。 水にも、恩にも、情けにも。 私は彼女らから離れることが善手良策であると知った。 彼女らの存在そのものを忘れてしまう事が最善だろうと知った。 根拠がある訳でもなく、しかし私自身がそう訴えかけてくるのだ。 異形の過ぎる存在には干渉するな、と。 私は山々を見る。 森を見る。 青く、白い。 野原にも花畑がある。 極彩色が光を目一杯に浴びて、その煌めきを数倍に跳ね上げて照り返していた。 幽かな潮の薫りすら無く、陸の中であると知った。 行くべき場所を思い出そうと思った。 私の知る家に、私は戻らなければならないのだ。 飼い主はきっと快く出迎えてくれるに違いない。 やはり、そう信じるしかない。 私は悟りに至った思いであった。 少し懐かしい足触りのするその境地に、初めて踏み入れた気がした。 その境地から抜け出さないように注意深く、女と少年を見る。 出来るだけ笑顔で言おうと思った。 「arigatou−gozaimasu それでは、故郷への道を教えてください」 |