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四匹目

 その鬱蒼とした原色に茂る森の傍らに広がっている草原には、ヒトが棲まない。
 しかし、奴らはただ棲まないだけではなく、あの汚い口から吐瀉物と相違ない声をもってして、彼の土地のことを憎々しく忌々しそうに喚くことが間々あったりする。
 あの草原は野犬の国だ。危険だから近づくな。
 確かに凶暴である上に、もしや病に狂っている愚昧な存在だって予想に難くない犬たちの楽園である。ヒトが無数の暴れ犬など、魔法の手を借りず駆逐できる筈もなく、昔からヒトはあの草原への出入りを禁忌と指定していたらしい。かつてはヒトも猛る野心をふるって犬と抗争を繰り広げていたと聞くが、どうにも戦況は振るわなかった様子で撤退を決め込んだという。それでもこの土地に未練を残し、ヒトは草原の周りに国を作り、村を作り、街を作ったのだ。
 随分と聞こえの良いそこまでの価値がこの盆地にあるのかというと、古くから禁域とされているためであろうが、そういうわけでもない。危なっかしくて並大抵のヒトが近付けないがために、せめてもの己の支配欲に従い、草原を囲むようにヒトの国を築き上げただけの話である。半ば神聖視されかつ禍々しい場所と見られているだけで中身が何も無い実状は、唾棄のしようも無い程にどうしようも無くつまらないものであった。そしてそれはひとえに、魔物にとっても大した価値の無い場所ということになる。

「...」

 だのに、どうしてこんな家がある。
 ヒトっ子ひとり見えそうにない場所に、どうしてこんな家がある。

 私は低背の葉垣に登り家を眺めた。
 彩り豊かな庭には煉瓦積みの花壇や針金細工のラックに咲く大輪に溢れ、そのどれもが原色を主張して容赦なく目を眩ませてくる。外壁は雪のように白く、その青色掛かった影の上には庭で豊かに生ったトマトでさえ真っ青に見えるほど強烈なる赤色の屋根があった。
 長く見ていると目が悪くなる気がして、私は陰場を求めて草木を鉄枠に弦ませて出来上がったトンネルをくぐる。プラントアーチとでも言うのか知らないが、薄く降りた影が心地よいものであった。近しいイメージならば凱旋門だが、あれよりはこちらの方がよっぽど体にしっくりくるし、何より埃臭さの代わりに緑の香りで満たされ、快適であるように思える。

「...」

 何が凱旋だ、と、私は一人悪づいた。
 馬鹿でかくて忌々しいったらありゃしない。あれはヒトがよいそれと作る大きさのものではない筈だ。ああいうヒトの手に余るであろう大きなものを作り上げてしまう無神経さには、ほとほと呆れる他も無い。第一、あそこは私のお気に入りの寝場所であった。せめて一言断りを入れるべきだろうと言うのに、街を作っては好き勝手に建て始めてしまったのだ。何年と生きていると、どうにもヒトに見下されている自分自身にだって嫌になってしまう。元居た場所を奪われてからというものの、ふらふらとし過ぎたかこんな辺鄙な土地にまでやってきて、ああ実にくだらない、くだらない。

「ああ。やはり」

 悪趣味な家は大抵にして豪邸と呼ばれるようなものの訳で、そういったところに棲むのは大凡にして平凡とはかけ離れた奇怪なヒトである訳で、そんな滑稽なヒトは大体にして愉快ここに極めけりなるペットがいたり、偏屈なガードがいたりする。私は当然そんなことなど知っていたが、これはやばい。思わず身の毛が逆立ってしまった。

「見つけた」

 野性味溢れる狼人の無骨なる爪が、竦んで動けずに居る私の体の毛を掻き分け、直に身体に触れてくる。その爪の何たる冷たいことか。私の爪は私の心に匹敵するかのごとくしっかりと温もりがあるし、そもそも爪というパーツはお洒落に使えるものだ。この狼はどれだけ冷酷で窮屈な心を持っているのだ。などと思いながらも喉は動かず、喉が動いたとしても裂かれたくないので黙っていただろうが、私はその狼に抱きかかえられ、そのまま、家の中に連行された。
 敷居を越えると家のにおいが鼻に入るものだ。しかしなががら、悪趣味な外観の割にはきつい香のようなものは炊かれておらず、どうかと言うならば羊毛や甘い綿のように柔らかな雰囲気で包まれている。その鬱屈としない雰囲気のために私はひとまず眉間に皺を寄せずに済み、悪態をつく必要が無いことに喜んでいた。
 そうしていたら、向かって行った部屋の中には本当に羊がいたので驚いた。羊といってもその気質がある魔物であったが、なるほど羊の雰囲気には納得がいく。しかし、羊と狼が仲良く共存しているなんて、何とも不思議な家だった。そういえば聞いた事がある。魔に染まったけものは従来の敵対的な性質とは真逆の共生関係を築くものだと、以前どこかの誰かが言っていた。それに準ずるもの達の姿は生まれて此の方初めて見るが、案外にして普通の光景であるのかもしれない。とは言うものの、やはり私には薄気味悪くも真新しく見えて仕方が無い。

「ねえセラ。この猫のこと知ってる?」
「しんないよー」

 先に羊を見つけてしまったから気付かなかったが、綿飴のような雰囲気の正体も家の中にいたらしい。珍しい綿毛の魔物と見られるが、それにしても幼げに見える。狼が厭にオネエサンぶっているところを見ると、実際に若い魔物なのだろう。こいつだけなら手玉に取ってここから逃げる手段を拓けそうな気がする。
 
「じゃあ馬鹿羊は」
「馬鹿じゃないもん」
「そうか馬鹿じゃないのか。最近セラに知力抜かれたらしいけど馬鹿じゃないのか」
「ぐ」

 紅茶を優雅そうに飲でいた馬なのか鹿なのか羊なのかよくわからなくなった魔物に対し、狼は軽口を叩く。馬鹿そうな羊も羊だが、狼も思春期の少年みたいな言い方であるため、案外全員が頭の弱い生き物なのかもしれない。

「いいから。エリーなら猫のこと少し位知ってるんじゃないの」
「知ってるよ」
「いつ頃からここらにいたか判る?」
「うんと、だいたい三日前位からかなあ」
「ふむ。やはりか」

 狼は鼻をひくつかせて、ゆっくりと息を吐いて、氷も崩れる冷たい目で私を見下した。
 あ、これはだめだ。冷や汗が尋常じゃない。私はお前らのようなものとは違ってデリケートなんだ。優しく扱わないと死ぬぞ。死んでしまうぞ。お前らのせいでかわいい私が死ぬんだぞ。死んだら皆が悲しむぞ。悲しみで世界が包まれるぞ。いいかお前らも絶対泣けよ。というか殺さないで下さい。すいませんお願いします。あ、こりゃだめだ喉カラカラだから喋れやしないし喉に爪立てられたまま抱えられてて動けないしもうおしまいだ。

「とりあえず御主人殿にどうするか訊いてみるか」
「マァは楽しそうだねえ」

 そりゃあ当事者じゃない羊は暢気に言えるだろうが、お前私の喉笛に爪少し刺さってるの見えてないだろ。虐待現場なんだから何とか私を救ってください。

「うちも、おもちゃほしー」

 この私をおもちゃと言ったそのクソ綿毛の口を、この自慢の爪で裂いてやりたい。
 というか何しているのかと思えば、綿毛は画用紙に絵を描いていたらしい。その絵のうまさは認めざるを得ないものだった。隣国の街で評判の絵師とタメを張る技術力がこんな幼児に宿っているのだから、あの絵師とこの綿毛を会わせたら絵師が自ら首を括りそうだ。だがしかしクソ綿毛てめえは許さない。

「御主人殿に頼んでみるから、セラは我慢しなさい」
「うーん、わかったあ」
「よし、いい子」

 いい子なんてことは断じてないだろ脳漿腐ってやがるんか、と狼をねめつける。
 言葉手短に話を切り上げた狼はその視線に気付いたのか、数分も立たないうちに居間らしき場所から羊を伴って抜け出した。居間の奥にある木張り床の廊下を伝っていると、高慢ちきだったり下品だったりする香とは違う、妙なにおいが漂い始める。それは正に薬品を取り扱っているような、鼻の粘膜を直接洗いに掛かり来るナルシズムで潔癖質な雰囲気である。その潔癖振りには苦手意識があるものの、奥の扉を開いた先にいたのものは、それに相反するかのような際立つものであった。

 随分と穢れたヒトが潜んでいたものだ。
 私はそう思った。
 見た目ではない。否、確かに見た目も酷いが、醸す気配がヒトやインキュバスのそれとは、大概にして相当に違う。ただ私のこの頭脳をもってしても表現の幅の外にある、例えるなら矢張り穢れているヒトとしか言いようの無い存在があったのである。

「御主人殿」

 狼は部屋の主に声をかける。
 そいつは私の目の前で大きな机に向かっており、眉を顰めて生意気にも難しい顔をしながら向かって右の本と睨み合い、左の本にインクを走らせていた。しかし狼の声に気付く様子は無く、もう一度狼が呼びかけたときに初めて体がぴくり反応し、今しがた気づいたばかりであると言う事実を正直に体現するが如く、顔を上げた。
 
「んん、どしたマァ」

 この国の人間としても平々凡々な顔立ちだろうが、髪と同色の無精ひげができているため、その平均よりも幾分かは確かに汚らしいという印象を植え付けるに充足として値する姿であった。また、皺の伸ばし方を忘れた主婦だって夫に対してこんなファッショナブルな服装を作り出さないだろうという位に衣服は乱れており、元々白衣だったであろうそれには染みや汚れがこびりついている。更に、何故かカラーパレットの如き極彩色になっているのだ。髪はぐちゃぐちゃにセットされている様にも見えるが、どの道にしてもルーズ
アピールのための代物でしかない。中の黒いセーターは手編みだろうが、その小ささに輪をかける古さと編み下手さが際立っていた。唯一しっかりした身形として表現できそうなものと言えば、首に掛けられている鎖状の金の輪ぐらいだ。
 というか、白衣にセーターだなんて、静電気で苦労しないのだろうか。

「御主人殿も見たことが無いと仰っておりました珍客が居たもので」
「珍客っつったって、猫じゃないか」
「東洋のヨークァイの一種かと」
「ふうむ、んじゃネコマタかな」
「恐らく」
「…マタタビ渡したらどうなるか知ってるかい」
「御主人殿が大変面白い目に遭ってから、エリーに殴られるかと」
「ですよね」
「そもそもマタタビ持っていましたか」
「あるよ。ここに」

 目の前のヒトが手前の引き出しを開けて取り出したものは、なるほど正しくうおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおそれくれよ旦那。あんた最高にクールだよ。だからそれよこせよほらほら、ほら!

「うわ。急に暴れるな」

 うるせえぞ狼女私は今あんたとじゃれあってるどころじゃないのようわあ痛い痛い爪刺さってる刺さってるやめて痛いまじ痛い勘弁しろくださいほら血が出てる出血してる血が出ちゃってますよ謝罪と賠償請求しちゃうからねもう怒っちゃうんだからねってぎゃあああ痛ってえええええええええええ動いてないじゃんもう動いてないじゃん全然動いてないじゃん何で傷元触るかなあこの超弩級サディスティック嘘吐き狼おまえのかーちゃんでべそだろ絶対そうだろそうに違いないんだろこのへそ曲がりつーか何が御主人殿だよ馬鹿じゃねえのおまえの頭湧いてんじゃねえの何で契約まがいの真似してンのマジでアホだろマヌケだろこのウスラトンカチ千鳥ぶち込むぞばーかばーかばーかばーか!
 もうやだ痛い。

「気性の激しい猫だなあ」
「それにつけても御主人殿の引き出しは色々入っていますね」
「んん、青いマタタビは辛くて眠気に効くからねえ」
「普段からお疲れでしたか」
「まさか。それに普段なら甘いものがいいな。
 チョコレイト・キャンディ、また舐めるかい」
「それもまだ残っていたのですか」
「マァも喜ぶと思って結構買ったし、さ」
「先日は俺用のとか仰っていたじゃないですか」
「俺が独り占めするものだとは言っていたかい」
「…光栄です」

 おい旦那私にも何かよこせよ持成せ振舞え奉れ珍客様のお目見えなんだぞ。私は主にと言うか机の上のマタタビだけが欲しいったら欲しいんだけど解るかな解るよね。

「ほら口開けろ」

 え、くれるのまじありがとう旦那!

「…ありがとうございます。御主人殿」
「また欲しくなったらおいで」
「はい」

 ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!
 騙されたよ私の純情弄んだよこの冷血野郎!
 思わず時代を超えてセルみたいに叫んじまったよ!
 この振りは栽培系戦闘員だって産んじゃう勢いだったよ!?
 駄犬なんかに構ってないで私を見て欲しいったら見て欲しいんですけど!
 真っ赤で三分の一くらい純情なハートが堪えきれずに血を出しちゃってるというのに!
 あ、これ作品違う。

「…この猫、本当にこれ欲しそうだな。
 人に成れるなら本当にあげても良いっちゃ良いんだけど」
「寝室に一週間は篭りきりになりますよ」
「その時間の研究よりも、正直この猫の変身シーンを拝める方が大事な気がする」

 この私を捕まえておいて変身シーンて何だよ旦那。
 目が真剣だよ怖いよ。
 御託はいいからそいつくれってばよ。

「多分3日目くらいから私も混ざりますよ」
「やばいそういやマァの発情期近づいて来てる」
「自由にできる初めての期間ですから。多分凄いですよ私」
「一週間で済むかな」
「一週間もあれば流石にあいつが遊びに来ると思いますよ」
「リルか。確かにリルならお前らを止めてくれるだろうけど」
「多分セラが参戦済みですけど」
「やめてそれだけは色々と呵責がやばいから」
「そしてフィンがいつの間にか混ざっています」
「待って俺本当にもたない多分じゃない絶対もたない」

 私は諦める。
 話の意味が見えない訳ではなく、寧ろ内容に自身の存在を気遣う様子がないことが伺えた。そう考えると、言外であって事の外、私は居ない事も同然である。序で考えるならば、この私の命はマタタビひとつに捧げるほど安いものではないし、そこまで軽い猫であるなどとはこの身が裂けても思われたくない。
 などと思いつつも、自我を保つ上では感謝しきれない興醒めである。
 しかし、心に空虚は残るものだ。
 空虚に乗じて憤りもこみ上がって来る。

「白昼痴話もいい加減にしてからに、さっさと持成さんかね」

 私はぷっつんした。
 こいつらは、まあヒト程度の存在ゆえに生後3秒にして諦めるべき仕方のない無遠慮であるのだが、仮にも同じ魔物であるウェアウルフがこんなにも駄犬と成り下がっているのである。狼女の魔物としての高貴さにヒトと同様の穢れが見えてしまうことは、本来生粋の魔のものとして生きる存在であるウェアウルフに対しての優越感以上に、魔のもの危機感を感じうるところだ。平和に呆けて情けないと自省しないのか。それとも、生来の魔のものとしての余裕と言うか、堕落なのか。
 彼女から魔族の尊厳が見えないのは、私が妖怪だと後天的に気付いたためか。

「おお喋った」

 ヒトは私に向き直り、まじまじともの珍しげに顔を近づけてくる。
 世紀の大発見でも目の当たりにしたかのような驚愕の顔には、研究者の目が伺えるものの輻輳や髪型も相まった差し詰めマッド・サイエンティスト然としている実に狂気的な雰囲気があり、私に与えて来る圧力は存外に計り知れず恐ろしいものであった。一方狼はと言えば、その顔こそ見えないものの爪を立てていた指を緩め、喉を動き易くさせるように私を持ち直そうとする。恐らく捕らえたままに私に口を動かさせようと言った魂胆であろうが、そんな不自由は御免である。私は緩まった腕から颯爽と抜け出して床に降り、その柔らかい厚さが逆に足にだるさを与えて歩き難くなっている絨毯に意を介さず、黒色めいた木製である確りとした造りの机の脇を回って、窓前に開放されている私に御誂え向きのスペースがある棚まで跳んだ。着地と同時に、棚の上に置いてあった青銅だか鋳鉄だか訳のわからない小さな像が、幾らか音を発てて倒れた。そのうちのひとつである鎧を纏ったヒトを模した像は、倒れた拍子に首がとれ、それは転がって床にまで落ちていった。

「ああっお気に入りの像が」
「何ですか。それ」
「デュラハン像」
「じゃあ首がとれるのって仕様じゃないですか」
「でも剣折れたんだから嘆かせろよ。
 安いながらに動力入れたら動く筈なんだけど」
「デュラハン像の動力ですか。燃料に体力を消費しそうですが」
「ただの砂糖水が原動力なんだが何を想像した」
「おい、この私が折角喋ってやったのだ。
 もう少しぐらい感謝するべきではないのかね」
「うわまた喋った」
「何だか偉そうな猫ですね。料理しましょうか」
「やめなさい」
「貴様ら私を見んか」
「うおお喋った」
「御主人殿。五月蝿いです」
「ごめん」
「許しましょう」
「あれ立場逆転してないか」
「それで、子猫さんは何が言いたいのかな」
「無視か」
「マタタビをくれ。あっ違う私を持成せ」
「結局マタタビじゃんか」
「いいだろくれよ」
「襲うなよ」
「襲わない襲わない」
「でもあげない」
「襲うぞ」
「余計あげられない」

 ヒトは愉快そうに笑う。
 結局これ以上話を進めたところで、やはり私に得が無い事を悟る。当人らは面白いと感じて行っている事だろうが、される身にあれば白け具合も甚だしい。

「つまらない時間を過したものだ。私は帰らせてもらう」

 私は棚から降りて部屋を出ようと狼の横を通り過ぎようとした。が、狼は首尾よく私の首の余った皮をつまみあげ、私をその目前に前吊り上げる。半になって私を品定めする狼の目は、御託を並べ立てていた日常の中においてもなお冷たく、ともすれば今にも牙を剥いて喰らわんとする欲が渦巻いている。見ていて気持ちの良いものではなかったが、睨まれると睨み返さざるを得ないのは猫の性である。私は狼の手の元で揺れながら、それでも黙って狼の左目を見つめた。
 しばらくすると、狼は睨み合いに飽きたのか、一度深く目を瞑る。
 そして再び目を開いたとき、私に質問を投げかけてきた。

<見当はつくが一応訊こうか。何故3日間も私の縄張りを荒らしていた>

 ヒトが忘れて聴く力を失った意思の疎通法であり、獣の声だった。
 その目は一度瞑っても変わらない、寧ろ先ほどよりもより冷たさを帯びた光で私を射抜こうとする。笑いを許さない視線と威嚇じみた瞳孔に鬼気迫る感を与え、かつ口元を緩やかに上げ調子にしているところを見ると、相当の実力があると自負しているらしい。それゆえに逆らうなと、上に立って私を見下す雰囲気がありありとして見えてくる。浅はかどころか底を見上げるほどの愚かさたるや、如何ともし難いものがある。
 狼女なぞに屈する事など、逆にストレスの溜まるものであった。

<ただの気儘な旅猫である>

 睨み合いは慣れたものだが、この狼も散々とした好きものだ。

<盆地周辺の猫の集会とやらで此処の話は出ないものかね>
<お前等と違って常時集って牙を研いでいる程我等も暇じゃないんでね>
<私も剰りお前に構っていられるわけじゃないのだかな>
<おいおい何を生き急ぐ。
 ついぞさっきおまえの手下をいくらか撫でてあげたからかい>
<…目には目を、歯には歯をという慣わしに倣おうか>
<私ならおまえの目に歯を立ててやろうぞ>
<集会にすら出られぬ逸れ者がのたまうなよ。
 折角歓迎して遣ったと言うのに、何なら私の手料理を味わうかい>
<汚い言葉だな。
 そんな腐れ汁の垂れる爪が作る料理はさぞやお綺麗なんだろうな>
<言うだけなら簡単だろうが、試してみるか>
<つまらない。私の相手になるまで修業してからなら受けもしよう>

「何か知らんが唸り合わないで喋ってくれ」
「すいません御主人殿」

 狼人が御主人殿と呼ぶ以上、恐らくこの雌の一存を握っているのはヒトである。下手にヒトを蔑ろに誑かして攻撃指示でも来ようものなら面倒だ。逆に、今のままなら私にも分が見える。
 ゆえに私は提案する。

「御主人殿とやら、名前はなんと言う」
「んん、オーヴァイス=ダンデリオン。きみ、名前は?」
「捨てたよ。要らないからね。
 私にはそんな縛る為だけのものなぞ、迷惑なだけだ」
「何だか面倒だな、きみ」
「…それではオーバ」
「その略称は何だか赤毛のアフロになりそう」
「オーバよ、私は帰ろうと思う。
 机に突っ伏していた当たり忙しいところだろうが、送ってはくれないか」
<下品な狼が家の中とは家襲って来るやも知れんでな>
<その身を裂かれたいのか>
「人語を操るヨークァイの頼みとあれば、構わないよ」
「妖怪である。妙な発音をするな」
「妖怪、ね。ありがとう覚えたよ」
「覚えついでに私を狼から解放してくれないか」
「んん、マァ」
「はい」

 狼女は素早く手を離し、その爪に血を残して私は地面に舞い戻る。そして狼を見上げると、私は
思わず笑ってしまった。
 この狼の悔しそうな声は何だというのだ。自分の言葉を打ち明ける機会を失ったのだろう。このヒトに対して犬どもが倒されている状況を伝える暇も無かったのであろう愚鈍な狼だ。野犬もださいったらありゃしない弱さであったし、そんな犬どもを従えているだけで睨みを利かせようとするなどと、数百年早い。愚鈍の図として絵にだってできる。お前は最高の慰みものだと、賞賛にさえ値する。
 私は尻尾と立てて部屋を出る。ヒトと狼が後に続き、居間を通って玄関に抜ける。狼の後ろには羊と、その両腕に抱かれた毛玉がついてくる。この行列の大将が短くも紛れも無く私であったことに、多少の優越感は感じえない。猫と言うものは生涯尊さに生きるものである。
 玄関先には既に原色の目に悪い照り返し溢れており、緑の影場まで身を屈めて頭を垂れつつ、内心舌打ちをし、そのゲートの中で向き直る。この一時の気紛れな従僕どもが私の言う事に従ったことに対する、少しばかりの恩は与えてやらねばなるまい。私は妖怪として今は本来の姿となってしまった“ひとがた”に戻る。

「んぉ」
「わあ」
「おー」

 目を火槌で打たれた鉄のように輝かせて私を仰ぎ、卑下たる喉から嗚咽に似た感嘆の声を漏らして反応したのは、ヒトに羊にクソ毛玉である。私の手入れの行き届いた銀地に黒の虎柄を浮かべる毛並みもさることながら、この金と赤のオッドアイは見たものを魅了させない事など考えられない。我ながら姿かたちならば猫をはじめとする獣からヒトに神をも引きつけるだろう自負がある。そうするように、ちゃんと磨きあげているのだから。

「きれー」
「至極当然のことを言うなよ、毛玉」
「異色症とは珍しい。それに、綺麗な髪だな」
「短居の礼だ。このまま帰らせてもらおう」

 私は居の構える場所を間違えた路傍の輩を尻目に、苛立たしい彩りの外界へと向き直る。早々にこの場所から離れようと、しかしゆっくり堂々と足を運んで前へと進んだ。風は剥き身の頬に秋口の涼やかさを舐めつけ、鼻に原色の青草をまるめて突っ込まれたかという面倒で無駄に整えられたにおいを運んでくる。ガーデンの不自然なにおいに中てられた事で嫌気が差し。一瞬だけ眉に意識が寄った。
 その瞬間を見計らったかのように、オーバが私を呼び止める。

「これやんよ」

 ヒトは玄関の前から一切動いていなかったため、幾らか歩いた私とはそれなりに距離がある。私が振り向くと、その距離からゆるい円弧を描くものがあった。て、小さなものが投げ渡された。私はそれを払いのけるようにして受け取った。

「な、」

 私は掌の内を見る。そして、気付いてしまえば瞬く間に酔いが回る。
 御主人殿とやらはセンスがいい。わかっている。
 これを待っていた。

「どうやら欲しがっていたし、お土産にあげるよ」
「む、…そうか」
「また来るといい。次はちゃんと持成そう」

 このときから既に私は、ヒトの話が耳に入ってこそいるが、ただそれだけの状態であった。油絵をぶちまけて作られた目に痛い世界が混濁していき、視界が淀み、むせ返る青いにおいの奥に潜むアルコール以上の陶酔感。恨めしく思えて仕方の無い目に移る全てが花の色に輝く様の、なんと美しく喜ばしい事か。土埃を被った地蔵の袂下に死んでいる老爺の抱える幼子の木乃伊の腐った片目に巣食う溝鼠にでさえいとおしさを感じえぬと言う事すらできるものである。
 しかしながら、そこで冷たい目が私を射抜く。
 頭が湧いたか。頓狂な狂った顔だ。
 狼に焦点を合わせると、狼の目は全ての感情をもってして私を見下しており、獣の言葉でもなんでもなく、ただ目だけでずっと私を愚弄していたのだ。

「ああん?」

 呆れる。
 あらゆる美麗が私を中心に移ろってゆく世界に水を差してくるとは、了見も規範も空気の読み方すらも知れぬものがいたものだ。これ以上が過剰な水分であるとわかっていない上に、大抵の猫が水浴びを嫌うことを知った上での行動だろう。厭味の酷さは地底一品といったところか。例え痴れ者であっても程を弁えるべきだと云う教えを、親かそれに准ずる存在に習わなかったのか。
 この世界は麗しくも、暗黒なる欠点があるらしい。その色を身に纏って離さない狼というふざけた幻想が、目の前にある。貸し借りの嫌いな私は、ヒトに対して早急なマタタビのお返しをしたほうがいいのかもしれない。生憎ヒトに呉れて遣るような持ちものは何も持たない上に、一旦この原色の家を離れたところで再びこの地に戻ることも無いだろう。ならば、今私のできることをするとよいのである。そして、オーバの世の中を素敵に彩るに当たっては、その隣に立っている影の塊を画用紙から除くだけでよいのである。黒い影は最終的に切除する必要があるのだ。殺すべきである。何も間違ってはいなかろう。
 なればこそ、善は急げの慣わしに倣おうか。

 よく磨き砥いで紫に染めつけた爪を隠しているつま先が浮くとほぼ同時に、狼の目の前で踵を下ろす。目だけは追いついたのか、狼は私とすぐさま視線を結ぶ。しかし、急な反応に体は追いついていないらしく棒立ちである。元より俊敏性に富んだ私の種族に対して、耐久性一辺倒の狼が短期決戦で挑もうなどと言うのが愚昧なる主張をしているに等しいのだ。
 私は狼女の顎に掌を合わせる。居間この瞬間の暇を持て余す私の左手は、そのまま狼の顎を天上にかちあげる。哀れ狼はその流れに乗じ、無言のままに星の見えない濃い青を仰いだ。次に、それでもなお伸びてくる狼の右手を左に払い除け頭を右に払い、身体に回転させた勢いを作り上げてから、そのこめかみを羊の硬い肩に対してぶつける。勢いよく衝突した二匹の魔物は、玄関横の花壇にまで倒れていく。

「呆気の無い」

 ヒトを見遣る。
 多少なりとも好みでないが、据え膳喰らわんで何が猫か。膳なら椀諸共噛み砕いてこその礼儀だろう。またたびの椀を鑑みれば、ヒトの掌に違いあるまい。指す先が決まれば、噛み砕かねばなるまい。礼節を重んじる私にとっては当然のことじゃないか。
 そうだ、骨抜きにしてやろうか。

「オーバ、こっち来いよ」
「後でちゃんと謝ってくれよ。俺の大切な家族なんだからさ」
「気が向けばね」

 特に邪険に扱う様子も無く、ヒトは私に従った。どうやらその家族とやらを大切にしているという言葉のは口先だけなのか、それともこの行動があの獣らへ対する信頼の証だとでも何をとち狂ったか勘違いして思ってしまっているのか。しかしそれも好都合。とりあえず私に従っているのであれば、まったくもって問題は無い。
 ヒトが近づくや否や、私はヒトを痛覚を覚えさせないように配慮しつつ仰向けにして組み伏せる。その一瞬の出来事がヒトの身には激しすぎてこたえたのか、それきり目を回してしばらく声を失わせていた。別段脳震盪等の刺激や揺さぶりを加えたつもりでもなかったのだが、やはり特別弱く設計された生物なだけあるとしか言いようが無い。だが、これすらも改めて都合がいい状況となったと考えられる。生け造りもいいが、それだって四六時中食べていると飽きるものだろう。偶には恰も死んでいるようなものを食べたほうが、健康にも良さそうな気がしてならない。
 下半身を覆う布に手をかけるが、組み伏せているせいでうまい具合に脱がすことが出来ない。このような些事に梃子摺る真似は私とて許しがたく、仕方も無くも即座に指の爪を側部にある縫い目に沿わせて立てる。そして、一息にして布を裁ち下げる。するするとまではいかないが、さほど苦に労するほど無くして両端の端を切り落とす。更に現れた薄地の下着は、いとも簡単に裂くことが出来た。

「あーあ。怒ったマァは怖いぞー。
 エリーに至っては最悪死んでしまう様な気がするけど」
「僥倖。受けて立とうぞ」
「…ならば。卑怯者は覚悟するべきだ」

 目だけで声のある方を見ると、花壇から狼が立ち上がって睨んできていた。羊は暖炉に座り込んで暢気な顔で頭を擦っている。その腕の中に居るクソ綿毛は、狼を見て笑っていた。

「丈夫だろ、うちの家族」
「ただのアホだろう」
「馬鹿が出来るのって、いいことでしょ」
「平和な奴らだな」
「ひとえに御主人殿の努力の賜物だ。
 独り身のお前には解りかねん事だろうが。な」
「掛かってこいよ狼さんよ」
「そっちこそ来いよ狂い猫。人質なんか捨てて掛かって来い。
 楽に倒しちゃつまらないだろう。
 爪を突き立て、私が苦しみ餓いてゆく様を見るのが望みだったんだろう」
「…手料理なんて面倒くさい。地面を味あわせてあげようかね」
「ほら。憎い私は此処だぞ」

 安い挑発だ。あまりにも安すぎて伸ばしかけた手を我に返って引く感覚だ。
 そんなにまでして、さぞや御主人殿とやらを守りたいのだろう。内心まさしく狼狽しているに違いあるまい。寧ろ可愛げの感すらこみ上げられて来る様な姿勢ではないか。
 しかし、相手には不足だ。
 私はヒトを握り、口角を上げて狼を嗜める。

「生憎おまえに足りえないものが、こっちにはある」

 鼻をつけ、思い切りヒトのにおいを嗅ぐ。まだ膨らまないそれは、しかしにおいを十二分に放出して魅惑する。先ずはその空気を肺の奥にまで、腑の壁にまで送り込んで堪能する、独特の懐っこいにおいであり、苦味や酸味も織り交ぜられた甘みがある。それから、ゆっくりと舌を出す。

「離れろ」

 やはり興を殺ぐのはいただけない。
 狼がぶわりと息の塊をぶつけてきたのである。私の緩やかなほほがその風で歪み、髪に息を吹き付けられてしまった。煉瓦製の豚小屋ですら壊せない空気の弾丸であるが、用心に越したことはないと言う言葉もある。獅子欺かざる力の如く、本領を発揮してやるのも吝かではないところか。

「くさい獣の息なんぞ、食らいたくないものだ」
「厭ならばこそとくと食らうべきだ。
 御主人殿に害なすものなぞ、私が許すとでも思っているのか」
「許すも何も、オーバは何も言っとらんがね」
「こんな可愛い女の子に襲われるんだったら、
 悪い気なんてなかなか起こさないんじゃないかな」
「...こいつ真の馬鹿じゃないかね」
「ヴィスの妙にクサい台詞には慣れないと大変だよ」
「エリー、俺そんなにクサい台詞言ってるか」
「言ってるよ」

 剰りにも暢気な会話が展開され、反吐を吐きたくなるような思いだ。興を殺ぐだとかそういったものとは格が違うものに棚上げされてしまっている。かなり薄めたラベンダーの花の香りを嗅ぐが為に、ドリアンをみじん切りにして花に直接振り撒いているような気分である。
 だが、舐める。
 舌先だけであると言うのに、特段好みの貌である訳でもないのに、なんと香ばしく馨しい味であろうか。暫く振りの味には愛嬌があり、魔のものとよく交し合っていた形跡が色濃く残っている。そのよく慣らされている味は一級品のものであり、更にダカール・ラリーに素足で参加しても完走を果たすことが出来るようなエネルギーに富んでいる。目の前の獣らに慣らされた味であることは少々苛立たしさを感じなくも無いが、寧ろこの逸物をよくぞ私に差し出したという大義親を滅す思いすら湧き上がる。
 そこに、鉄爪を伴う肉拳が飛び込んでくるが、首を動かして躱す。続きざまに左足が我が腹に向かって跳んで来るが、流石にそれは身を翻す。オーバは勿論、私が掴んだままだ。一瞬の間に身体がぐるぐると回転したせいか、またもやヒトは若干目を回す。
 
<くどいぞ。
 此奴に褒美を取らせてやると言うのに、無礼な奴だ>
<許さない>
<質の悪い油でもおまえほどしつこくは無いと思うぞ。
 理由があるなら、ちゃんと話せ。この私を納得させてみろよ>

 途端、狼の顔が首まで赤くなって俯いた。

「生娘でもあるまいに、何だその反応は」
「…うるさい。
 きょ。今日は私が宝を頂ける日だ。
 一体全体どいつがお前なぞに差し出してやるものか」

 ははあん。
 独占欲の強い狼人だ。
 その剛たる欲は私の嫌うところのものではない。どちらかというと、好ましさの方がより強い。魔物は宝をマモるもノである。そんな事を忘れていては矜持所の話ではないが、ヒトを宝扱いする辺り理解はしていると考えてもいいのかもしれない。今でこそサキュバスやオークを始めとした性欲狂いのものが無数跋扈するようになったものだが、その中でもドラゴンなどはヒトを確りと宝と定め、守っている。その志たるや、今も昔もなお変わりのないものである。

「マァは欲張りだな」
「ご主人様、少し黙れ」
「はい」
「いいだろう。奪われた宝であるぞ。
 私からちゃんと取り戻してみせるがいい」

 ヒトに頬擦りをしつつ、その挑戦を受ける。
 狼はすぐさま私に向かって飛びついた。優風のような身のこなしは悪いとも言い切れないが、なにぶん青臭い動きがあり、単純な勢いに身を委せている節がある。逆して言えばそれだけ純粋な敵対心及び好意、加えて渦巻く色情の欲だ。私はオーバを両腕に抱えたまま後ろに退けた。先まで私の頭のあった場所には、狼の爪が空を切って通っていった。
 ヒトを口に含んで、舌で転がす。その刺激に応えて、ヒトは次第に膨らんでいく。においは次第に私の中に溶け込んで薄れてきたが、その分以上に私を疼かせる気配が立ち昇ってくる。より恍惚とさせる。
 狼は追いかけるが、私はそれよりもずっと早く逃げ回る。どんどんと珍妙な色使いの家から離れていき、羊やクソ毛玉が遠くなっていく。その間に、一度口の中が満たされる。一度狼を遠ざけてから堪能し近づいて来れば再び逃げるを繰り返すうちの出来事であった。むせ返るような濃い味は、存分に私を楽しませてやまず、より足を早く動かすオイルの如くエネルギーに溢れている素晴らしいものであった。狼もそれを察知しているのか、心なしか涙目に見える。それにしてもヒトもヒトであり、暢気に私に抱かれつつ果てるとは、変人ではなかろうか。ある意味余裕の権化とでもいえるかのような、のんびりとした雰囲気に気圧される。
 そこで、足に何か引っかかる。
 単純だからこそ効果が高い、草結びであった。私はそのまま身体のバランスを崩して立ち竦む。狼は渡し目掛けて相変わらず飛んでくるが、私はその身体を一蹴する。狼は方向を変えて飛んでいくが、元の勢いのままに、私の顔に綿が飛び込んできた。眠気を高める、睡魔の羊綿だ。確かに有効と言えば有効だろう、実際に頭がくらりと来るし、判断力も落ちる上に身体も鈍る。本来であればそうなって当然だ。だが、またたびを持った私にそれが通じるとは、流石愚図なる狼の女である。此処に来て馬鹿を余計なまでに露呈した。しかも、羊毛にはクソ綿毛の成分も込められているらしい。その成分だけ抽出される性質が、同じ植物という種族であるまたたびに無いわけが無い。私はずっと恍惚に酔うことが出来たのである。
 酩酊とも違う、頭はすっきりと物事を正確に判断できる一方で、幸福感や満足感、更に目の前の性の泉を貪りたいという欲求、穏やかな筋肉の弛緩具合に精神も綻んでゆく気がする。そして、これを守るためならばどんな事だって出来そうな、そんな自信ガわきあがってくる。
 私はヒトを上に放り投げる。そして、くどくも心地よく掛かってくる狼を、腕を振るって地面に叩きつける。硬い筋肉で包まれているその身体に、種族の違いを感じ取る。感じ取りながらも、四肢の間接を外した。狼は叫ぶ。私は、嗤う。

「いいか狼、私はおまえに勝利した。
 今日の権利もどうやら私に分があるとは思わんかね。
 諦めろよ。
 一矢報いることが出来たのならばまだ褒めて遣れるところであるがな」
「認めない」
「まだ言うか。
 されどおまえは、指を咥えててめえを慰めることだ」
「認めない」
「初心なのもまた愛し気を誘うものかも知れんがな、
 同性相手に発揮するなど言語道断。
 場合によっては忽ち斬り捨てられるほどの苛立ちを買うぞ」
「認めない」
「私はこれより御主人殿とやらを深く味わうが、まあ見て居ろよ」

 狼は涙していた。
 その泣き振りは破瓜の痛みを知った少女の涙ほどに気持ちのよいものであり、如何にヒトの虜になっているのかを知らしめるには丁度いいものさしになっていた。

「さて」

 落ちてくるヒトを受け止めて、木陰に置く。気を失うのはヒトの十八番らしく、どうやら三度目にして恒例なる気絶であった。しかしなれど、今でもその魔のものによって鍛え上げられた逸立は隆々としている。私はその上から正面を向いて跨り、着衣をずらして導いた。
 久しく体験していなかった感覚が、下半身から脳天にまで染み渡っていくのがわかる。ヒトの形に合わせて歪められた肉が、そこから感じ取ることのできる気迫が、精力が私を昂り続けて止まないのである。節くれ立って感度を高めている訳でもなく、インキュバスのように巨物である訳でもなく、放つ精の量が特別多いと言う訳でもない。ただ、ヒトならではの順応力をもってして慣らされた上質そのものであった。

「立派なものだな、オーバ」
「…本当に酔っているようには見えないな、きみ」

 いつの間にやら起きていた。若干驚いたが、まあ気にする事も無い。

「褒め言葉と受け取るぞ。
 それより、どうだ。私は」
「締め付けが凄いよ。握られてるんじゃないか」
「だろうね」
「それに、粘っこくてぐっちゃぐちゃだ」
「おいそれと鍛えられるものじゃない技巧だぞ」
「だろうな」

 私はヒトの肩を持って上下に動く。狼の涙混じりの唸り声が聞こえる。甘美なる快感が加速を促す。愚昧なる若狼にしては、いい相手を見つけている。質と言うものはインキュバスになってからでも十二分に修正が利くものであるが、ヒトの身に於いて妖化してからの修正を必要としないまでに練り上げられたものは、常軌を逸した美しさがある。蠱惑的なものとはひとえにその精の浸透率や味触りなどが色濃く凝縮された結晶を指すものであるが、オーバのものはこれより更に、ヒトのヒトならざる暢気を一徹させる精神力に秘められた力強さ、温かさ、優しさといった包容力も混入されている。現代、安心感を与えるものは、ヒトにも魔のものにも好かれる時代である。この男が魔のものを好いているのであれば、昔に劣らぬ魔のものとヒトとのあり方を指し示すのではないか。
 怒張が更に膨らんで、私を圧迫する。

「…潮時かね」
「ああ。きみとはこれで御仕舞いだ」

 魔のものと長く付き合っている筈のヒトがする発言にしては、中々どうして不可思議なものであった。普通、性欲に狂う魔のものは文字通り対象の精を吸い尽くして尚止まぬ攻勢を保ち続ける。相手方が一旦気を失ってから目を醒ましたところで、その身体の上で魔力によって保たされた剛直によがるものを目の当たりにすることも少なくない筈なのである。永く生きているだけに、ある程度の自我を残している余裕を看破されているらしい。
 上質な糧は魔の者たちだけの成果ではなく、当該のヒトであるオーバ自身の見切りによっても作り上げられたと言うことか。もしもそういうことであるのなら、ヒトの口には向かうことは、やはり背き難い。折角の史上稀に見る高級な精を、態々劣化に追い遣る事は勿体の無い話であった。

「そりゃ、…残念だね」
「中でいいのかい」
「呉れ」

 思い切り腰を落とし、内側の肉でヒトを押し上げる。孔を開いて招く。孔に切っ先当てて、最高に強く締め上げる。捻るように緩ませて、ヒトを蠢かせる。着衣が接合部を始めとして、背中も汗塗れに濡れていた。私はヒトの首を抱き、縋る様に胸に頭を押し当てる。
 そうして、ヒトは私の左耳に息を吹きかけながら奔流する。様々な権化を混濁させた糧が奥に這入って行く。しかも、筋肉の脈動で私の中の液すらも奥へと運ばれ、糧とまた混ざり合わさっていく。言わば強力なポンプによる、内液の押し上げである。最早内蔵とすら呼べる部位に糧を送り込み、その孔を切っ先で蓋をする。この珍無類な体験は初めての事である。かような器用さなど、ヒトができるものなのか。魔のものによって改造されるインキュバスとて此処まで求められているものは中々居ないのではなかろうか。

「嗚呼、美味なり」

 ふと、口にして肩を落とす。
 いつの間にやら胎が満たされていた。さしたる量でこそ無かったが、内液全てを胎に送り込まれているのだ。それは、胎も膨れるに決まっている。当然のように私の内液は糧と混ざり合ってより強力な糧となり、満ち足りて気分を上気させるまでに満腹であった。
 腰を落としたまま半刻程度の間、私は動かなかった。完全に胎内に飲み込んでから再び味わうのに、それだけの時間を要するほどの糧であった。さらりと溶けるのにも関わらず、穏やかで優しい余韻を持ったにおいがあるのだ。この糧のためならばダカール・ラリーに優勝しようとするものだっているだろう、と考えられてしまうほどに、だ。

「正直驚いた。
 ヒト如きが此処まで上質な糧を生成するとは思いもよらなかったね」
「ああ、それは切度リルのお陰かな」
「リル、とは」
「絵描き妖精のリルウェン。
 知る人ぞ知る人気のなんとやらだとか」
「知らんな。芸術とやらは嫌いでね」
「まあ、その妖精が色々教えてくれたんだよ。
 色とか音による健康管理とか、食器による精神管理とか」
「また変に物知りな妖精が居たものだな」
「下手したら、いや多分きみよりも永生きだからね」
「まさか、変革前からの魔のものか。ただの妖精が」
「さてね。俺は知らないよ」

 ヒトは力なく手をひらひらと振って笑う。下種な気がしていたと言うのに、心とはどうしてこうにも単純なものであるのか。いまや特定なるヒトを気に入った。昔も同じように気に言ったヒトがいたものだが、いずれも糧を貰った仲であった。より多くの糧を搾り取ったり、掠め取ったりとした人間に対して抱く感情であったが、そのどの記憶よりも心地よい糧であった。例え此処が色褪せた人工物の並ぶ町並みであったとしても、華やかな桃源郷に見えることだろう。
 もっとも、目も眩んで潰されるような原色の強い世界では、それ以上華やかな世界を眺める事など出来はしないのだが。
 
「それにしても驚いた。マァを打ち負かす奴がいるなんて」
「…契約ってのが面倒なもんだとは、妖精に習わなかったのかね」
「と、言うと…あぁ、齟齬が発生したのか」
「御名答。ヒトにしては理解が早い。
 契約は縛るものだろ。でも、あの狼は本能で動こうとした。
 主に性欲と、食欲だな。だから、“うまく動けなかった”ということだ」
「そんな面倒な事になるんだな」
「オーバの契約が、ただ大儀なものだっただけだ。
 見ろよ、あの狼女、相当の喪失感漂わせているぞ」
「いや、きみが目の前にいるからずっと見えないんだけど」
「発情してるくせにぼろぼろ泣いて虚ろな目してやがる」
「きみは下衆だな」
「オーバ程でもないがね」
「いいんだよ俺は。今夜たっぷり慰める」
「机の中の強壮剤でかね」
「…きみは凄いな。何でもお見通しか」
「勘が働くだけだ。ヒトも昔はいい勘してる奴、多かったんだがね」

 気分が高揚したまま、私はヒトを抜く。ぬるりと抜けたヒトをそのままに、私は狼人の前にまで歩いていく。いい気分だ。いい身分だ。狼は無感情の顔を私に向ける。絶望とはこうあるものだ。こんな簡単に絶望する事が出来るあたり、相当に単純である。ヒトと暮らしていく内に、やはりヒトと馴化してしまったのだろう。同じ魔のものとしてその浅はかさが腹立たしい。涙と涎が顎にまで垂れて、目に涙を溜めて、それでも無表情である。私の心を擽る貌であるが、その浅はかさゆえに物足りなさを覚える。
 それでも、まあいいかと私は狼に向き合って間接を元に戻す。

「欲に純粋過ぎると、大事なものまで捕られるもんだ」
「…」
「覚えておけ。
 差し詰めおまえはオーバの命を守る役目を持っているだろう。
 なら、更に自分を抑え付けて我慢を覚える事だ。
 恰も最近その我慢を忘れているかのような、情けない真似は止せ」

 狼は小刻みに震えつつも立ち上がり、呆然としながら私の顔を虚ろ気な目で見る。攻めるわけでもなく、羨みを持ってるわけでもなく、ただ機械的に見ているだけの気味の悪い視線だった。下半身からは幾筋かの透明な糸に似た狼汁が地面に垂れていたが、些事としてお構いなしに私を見続ける。敗北者の癖にしつこく鬱陶しい視線を振り払うべく、私はヒトに振り向いた。
 オーバが未だ木陰に腰を下ろしたまま動かないでいるのは、何やら足の痺れと言う理由があるらしい。確かに私がずっと跨いでいた分、血の巡りが悪くなっているところであろう。しかしながら、ここにもヒトというものの弱さがよく見て取れる。薄弱たるその体に何故上質の糧を秘めているのかなんて理由を、私は知らない。が、愛し合うヒトと魔のものの多いことだけは十全にして理解するまでも無い。そのためのこの世界であるならば、ヒトはどうしても魔のものという種族の宝にして寵愛されるべき存在なのだ。今のオーバの姿を、かわいいと思うことだって無理からぬ根源的真意なのかもしれない。

「気に入った。
 気が向きさえすれば、また此処に来るだろうよ」
「…今度はちゃんと持成すから、さ。
 こういう真似は本当に二度と御免だな」

 ヒトは木の下の木漏れ日の踊る陰の中で、ゆらゆら手を振った。振り絞れば別かもしれないが、出せる力が無いのだろう。どくどくと私の中に注いでいる分、疲労も多いものだろう。気力を失った狼女に肩を借りて帰るのか、歩いて近づいてきている羊に担がれて家に戻るのか。何れかの方法で帰宅をするのだと容易に想像がつく。
 常日頃から、これからの事などどうでもいいと半ばにして思っているところのある私にして見れば、実際にまた訪れる事は考え難い。そもそもこの土地がどこにあるのか自体を知って入っている訳ではないし、出る時だってそのような手がかりなんてある場所を通らない。通りたくない。それでも何の因果に因ってか、再びこの地に戻ってみようものならば。

「心掛けてみようかね。その時に忘れていなければ」

 私は狼に一瞥を呉れて遣り、目眩ましの家と別方向に足を進める。




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書き上げた今現在思うこと。
後味の悪くなる側面を示すのは、この場所に副わないのでしょうか。



12/02/08 20:06 さかまたオルカ

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