連載小説
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往診
羽倉が指した場所、様々な店舗が軒を構えるビル街。
史郎が立っている場所はその周辺で最も高いビルの屋上だった。白い病院着の少年が立つには危うい場所だが幸い周囲に人の気配はない。病院からここまでの道のりも普通ならば目立つどころではないだろうが、史郎が着用している病院着には羽倉の術式が組み込まれている。
物理的な接触などがなければ周囲の人間にはまず感知されない。原理は分からないが羽倉曰く……

「電柱に化けるみたいなものだ。ぶつかったりしなければ大抵は意識しない」
らしい。

晴れ渡る空にビル街独特の風が走り、史郎の黒髪を揺らしていく。と、

「…?」

周囲を見渡し、何かを探っていた史郎はわずかな違和感に気づき、次いで目を閉じた。視覚ではなく嗅覚に意識を集中する。吹き上がってくる風、その中に微かな匂いを感じ取った。甘い、独特な匂いには覚えがある。

「足元……あの隙間か」

匂いのもとは史郎が立っているビルと向かいのビル、その隙間から漂ってきていた。羽倉の探知はまさに正確だったようだ。覗き込むようにしてみると、間隔が狭く薄暗い。
史郎は、その隙間を静かに見つめる。普段から感情表現が豊かな方ではないが、今その顔には何の感情も浮かんでいない。およそ幼さの残る少年には似合わない、冷たく温度のない表情だった。
目を細め、隣のビルとの間隔、地上までの高さ、壁の状況を確認し……

「フッ!」

短く息を吐いてビルから跳び降りた。
すかさず手前のビルの壁を蹴り、向かいに跳び、再び反対の壁に跳ぶ。途中途中にある窓枠を掴みつつ落下の速度を殺し、最後は壁に沿って設置されていた排水管を掴みながら減速し地面に降りた。残った衝撃を膝で十分に吸収し、すかさず周囲を警戒する。

「……」

さきほど屋上で感じた匂いは確かに周囲に残っているが、狭い路地には何の気配もない。
史郎は右側のビルの壁に寄りそうようにして死角を減らし、暗がりに目を凝らす。史郎の視線はある一点に止まった。
上から見下ろした時には気付かなかったが、路地の途中、壁際に古い段ボール箱が積み上げられている。高さは大人の身長くらいまであるが表面は埃につつまれ最近動かされた様子は見られない。しかし、何かが存在を潜めそうな場所はそこ以外に見当たらない。

史郎は数歩近づくと足元にあった石を拾い、投げつけた。段ボールはもろくも崩れ、埃が周囲に舞い上がる。
しばらく様子を伺うも何かが動く様子はない。慎重に近づいて確かめると中身は古ぼけた雑誌や布のようだった。

「すでに移動した……?」

呟いて段ボールから視線を上げ……

「……っ!」

史郎は視界の端に映ったものに息をのんだ。
舞い上がった埃で見えなかったが、先ほどまで段ボールで隠されていた壁には小さな窓があった。今まで塞がれていたにも関わらず、その窓はなぜか開け放たれている。
ぽっかりと口を開けている窓の内側は黒く塗りつぶしたかのように暗い……
ゆっくりと顔をそちらに向けた瞬間、
ビシュッ
窓から細長い何かが凄まじい勢いで飛び出してきた。
ズサッ
首をめがけて伸びたそれを地面に這うようにして避ける。
見上げるようにして確認すると、窓から巨大なミミズのようなものが伸びている。路地に射すわずかな光を受けて鈍く光るそれは、ゲームの世界などに登場する「触手」と呼ばれるものだった。架空の存在でしかないはずの異形のもの。それが確かな質感と、濃密な甘い匂いをまとって現れている。獲物を逃した触手の先端が緩慢な動きで史郎に向きなおった。目があるわけではないようだが、明らかにこちらの動きを捉えている。
(まずい)
史郎の背筋を言いしれない悪寒が走り抜けた。
甘い匂いに感化され脱力しそうになる体を強引に動かし、這った状態から横っ飛びに転がる。その瞬間、先ほどまで史郎のいた場所に再び触手が襲いかかり地面を這い回った。眼前に迫った触手から立ち上る匂いを吸い込まないようにしながら体勢を立て直し、跳びのく。
なんとか距離をとれたが事態が好転したとは言い難い。史郎は獲物を捕り逃し中空で待機している触手を警戒しつつ、目線を移した。
触手が伸びている、その根元にある窓。
よく見れば、触手とは別のものが覗いていた。
真っ黒な空間とは対照的に、異様に白い人間の手が窓枠を掴んでいる。そして
ズルリ
と、手の持ち主が窓から這い出てきた。ホラー映画のワンシーンさながらに登場したのは肌が白く、栗毛の髪を肩まで伸ばした女性だった。立ち上がり、薄汚れた白いワンピースが足先までを覆う。ここまではお約束のような展開だが、違う点もある。
女性の表情が、いやらしいのだ。
頬は赤らみ、目が潤み、まるで熱に浮かされたような切なげな笑顔。そこには悪霊のような恨めしさなど一欠けもなく、ただ見る者の正気を揺るがすような濃密な<淫らさ>が宿っている。
よく見れば、先ほど史郎を襲った触手は女性の服から溶け出すように伸びていた。女性が着ている服もまるで液体のように波打ち蠢いている。

女性と触手は、同一の存在だった。

「往診(接触)に成功。対象はローパー……記録を開始する」

史郎の口から、静かな呟きがもれた。
16/06/09 03:10更新 / 水底
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■作者メッセージ
なぜ丑三つ時にばかり物語が浮かんでくるのだろう……。
ホラーじゃないのに。

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