診察時間
恵奈が史郎を見舞いに来て一時間ほど経った頃。
コン、コン、コン……
年頃の女の子らしく、終わりの見えない恵奈の話を遮ったのは硬質なノックの音だった。
「どうぞ」
すっかり話に夢中だったため恵奈はすぐには反応できなかったが、史郎の返事は早かった。
その時の声が少し緊張しているように感じたのは気のせいだろうか。
「失礼するよ」
高いが、凛々しさを感じさせる声の後、静かにドアが引かれた。
入室してきたのは医師だった。
入院患者の部屋を医者が訪れるのは当たり前のことだが、その姿を見て恵奈は思わず固まった。
モデルのような長身に白衣をまとい、その下から覗く足はスラリと細い。
ショートカットの茶色がかった髪に包まれた顔は小さく、西洋人形のように整っていた。
掛けている銀のフレーム眼鏡はあくまで実用的なデザインだったが、それもあつらえたかのように良く似合っている。
「おや、お見舞いの方かな」
有名劇団の男優のような口調とともに、髪と同じ茶色の瞳が恵奈に向けられる。幾多の患者を診察してきたであろう目線は、静かだが確かな意思を見るものに感じさせた。
「はっ、はい!」
突然現れた美人に驚き、上ずった返事をしてしまった。
「…ふむ」
特に気にした様子もなく、なぜか医師は恵奈を静かに見つめてきた。
その視線は、まるでなにかを見抜こうとするかのようで実に居心地が悪い。
耐えきれずに恵奈が視線を下げると、そこに名札があった。
「羽倉美鈴(はくらみれい)」
その実に美しい名前を見て、恵奈は内心、ずるいと思った。
ちなみに、その名札はキッチリと止められているにもかかわらず、すこし斜め上を向いていた。今まで気づかなかったのはそのせいだろう。
顔立ちも口調も一見すると男優のような雰囲気の羽倉だが、名札を白衣の下から押し上げている膨らみは、間違いなく彼女が女性であることを誇示していた。
その実に豊かな胸部を睨み、恵奈は心底、ずるいと思った。
「…羽倉さん」
羽倉は恵奈の顔を、恵奈は羽倉の名札(その下の胸)を凝視する奇妙な時間を終わらせたのは史郎の声だった。
(ん?史郎…いま…)
恵奈が<あること>に違和感を持ったのと同時に、
「…ああ、すまない。
医師としての癖のようなものだ。許してくれ」
史郎の指摘を受けてか、羽倉は弁明しながら恵奈に謝罪した。
その時、すこしだけ口元に浮かんだ笑みは先ほどと違って柔らかなものだった。
「アッ、いえ、私こそすみません」
初めて見た笑顔の柔らかさに動揺しつつ、恵奈も慌てて謝った。
「私は、羽倉美鈴。江水君の担当医だ」
名乗った時の羽倉の声は名前負けしないほど澄んでいた。
「私は藤木恵奈です。史郎のお姉ちゃんです。よろしくお願いします!」
恵奈は気を取り直して元気よく、なぜか一部が嘘の自己紹介をした。
「…え?」
史郎は当然のように反応し、すぐさま訂正を試みたが、
恵奈から向けられた視線は
(いいから!)
と、雄弁に語っていた。
その視線に押され、史郎もすこし迷った後で
「…はい」
訂正を諦めたようだ。
あの「お姉ちゃんの日」以来、恵奈は史郎に特別な感情を抱いている。
思わずお姉ちゃん宣言をしてしまったのも、突然現れた美人に乙女心が反応したからだ。
(それに史郎、この人のこと<先生>じゃなくて<羽倉さん>って呼んだ…)
こういうところに鋭い女の勘は、恵奈にも備わっている。
なんとなくだが、この二人の間には普通の先生と患者とは違う、何かがあるような気がして仕方なかった。
「…そうか」
羽倉はそんな気持ちを知ってか知らずか、気に留めたようすもない。挨拶と自己紹介が済んだところで羽倉が本題を切り出す。
「……さて、話し中に悪いが、そろそろ<診察時間>なんだ」
その言葉を聞いた恵奈は驚いたように時計を見た。
「もうこんな時間?!ごめんなさい!」
どうやら一時間もしゃべり続けたことに今になって気付いたようだ。
謝る恵奈は後ろにいる史郎の目がすっと細められたことに気づかなかった。
「史郎もごめんね。また、こんなに…」
「いえ、退屈してたので…ホントに楽しかったです」
「じゃあ…史郎。また明日ね」
「はい、また明日」
恵奈が振り返って見たときには、史郎の表情はいつも通りの微笑みだった。
自分ばっかり話し過ぎたと反省するのも、史郎の笑顔を見た途端、その反省をすぐに忘れてしまうのも、本当に名残惜しそうな恵奈の顔も、それを見た史郎がすこし照れたように返事をするのも、いつも通りのことだった。
…が
「気を付けて帰るようにね」
「…ありがとうございます」
そこに美人の医師が同席していることだけが、いつもと違っていた。
…後ろ髪ひかれつつ病室から出た恵奈はいつにない真剣な表情で廊下を歩いていた。
(あの羽倉ってお医者さん、美人だったなぁ…)
入院していれば担当の医師がいても不思議はないのだが、片思いの相手の担当があんな美人医師なのは大問題だ。
(でも史郎って、そういうこと嫌いみたいだし…)
かつて、恵奈が史郎と一緒に登校した日。
昨日、電車で痴漢をして捕まった犯人が近所の人だとテレビで知り、恵奈のほうから話題にしたことがある。何とはなしに痴漢の話をしていた恵奈だったが、それを黙って聞いていた史郎は見る間に厳しい表情になり、
「…女性を傷つける男は人間ではありません、オス以下です」
と低い声で断言したことがある。
普段の史郎はどんなことにも寛容すぎるほどの態度をとるが、その時の史郎は静かでも強烈な雰囲気を放っていた。横にいるだけで怖いくらいに。
それ以来、史郎の前では、その手の話は一切していない。
(でも、診察時間ってことは…やっぱり史郎の胸に聴診器とかあてるんだよね…いいなぁ)
まだ見ぬ想い人の素肌を想像して、恵奈はひとり赤くなった。
(…はっ!…史郎にその気がなくても、あの羽倉さんって人のほうから迫られたら史郎は…危ないかも!!)
むしろ、紅い顔をして一人でブツブツ言いながら、いかがわしい想像をしている方がよっぽど危ないのだが、ちょっとズレた乙女道まっしぐらの恵奈はもちろん気付かない。
(よし!ここはお姉ちゃんとして美人女医の魔の手から大事な弟を守ってあげなくちゃ!)
恵奈の想像は最高潮に達し、妄想へと昇華していた。
病室に戻ってコッソリ様子をみる決意を固め、ようやく顔を上げた…が。
「…あれっ?…ここ、どこだろ…」
時すでに遅く、妄想も現実もすでに迷宮入りしていた。
ちなみに、3分足らずの妄想で発生した迷宮を恵奈が脱し、再び病室にたどり着いたのは30分後。その時にはすでに、羽倉はもちろん、史郎の姿さえ見えなかった。
結局、病院の入り口に戻るのにも時間がかかってしまい、帰りついた時には藤木家の門限をとうに過ぎていた。クタクタになって帰ってきた娘を鬼の顔をした母が待っていたのは言うに及ばない
コン、コン、コン……
年頃の女の子らしく、終わりの見えない恵奈の話を遮ったのは硬質なノックの音だった。
「どうぞ」
すっかり話に夢中だったため恵奈はすぐには反応できなかったが、史郎の返事は早かった。
その時の声が少し緊張しているように感じたのは気のせいだろうか。
「失礼するよ」
高いが、凛々しさを感じさせる声の後、静かにドアが引かれた。
入室してきたのは医師だった。
入院患者の部屋を医者が訪れるのは当たり前のことだが、その姿を見て恵奈は思わず固まった。
モデルのような長身に白衣をまとい、その下から覗く足はスラリと細い。
ショートカットの茶色がかった髪に包まれた顔は小さく、西洋人形のように整っていた。
掛けている銀のフレーム眼鏡はあくまで実用的なデザインだったが、それもあつらえたかのように良く似合っている。
「おや、お見舞いの方かな」
有名劇団の男優のような口調とともに、髪と同じ茶色の瞳が恵奈に向けられる。幾多の患者を診察してきたであろう目線は、静かだが確かな意思を見るものに感じさせた。
「はっ、はい!」
突然現れた美人に驚き、上ずった返事をしてしまった。
「…ふむ」
特に気にした様子もなく、なぜか医師は恵奈を静かに見つめてきた。
その視線は、まるでなにかを見抜こうとするかのようで実に居心地が悪い。
耐えきれずに恵奈が視線を下げると、そこに名札があった。
「羽倉美鈴(はくらみれい)」
その実に美しい名前を見て、恵奈は内心、ずるいと思った。
ちなみに、その名札はキッチリと止められているにもかかわらず、すこし斜め上を向いていた。今まで気づかなかったのはそのせいだろう。
顔立ちも口調も一見すると男優のような雰囲気の羽倉だが、名札を白衣の下から押し上げている膨らみは、間違いなく彼女が女性であることを誇示していた。
その実に豊かな胸部を睨み、恵奈は心底、ずるいと思った。
「…羽倉さん」
羽倉は恵奈の顔を、恵奈は羽倉の名札(その下の胸)を凝視する奇妙な時間を終わらせたのは史郎の声だった。
(ん?史郎…いま…)
恵奈が<あること>に違和感を持ったのと同時に、
「…ああ、すまない。
医師としての癖のようなものだ。許してくれ」
史郎の指摘を受けてか、羽倉は弁明しながら恵奈に謝罪した。
その時、すこしだけ口元に浮かんだ笑みは先ほどと違って柔らかなものだった。
「アッ、いえ、私こそすみません」
初めて見た笑顔の柔らかさに動揺しつつ、恵奈も慌てて謝った。
「私は、羽倉美鈴。江水君の担当医だ」
名乗った時の羽倉の声は名前負けしないほど澄んでいた。
「私は藤木恵奈です。史郎のお姉ちゃんです。よろしくお願いします!」
恵奈は気を取り直して元気よく、なぜか一部が嘘の自己紹介をした。
「…え?」
史郎は当然のように反応し、すぐさま訂正を試みたが、
恵奈から向けられた視線は
(いいから!)
と、雄弁に語っていた。
その視線に押され、史郎もすこし迷った後で
「…はい」
訂正を諦めたようだ。
あの「お姉ちゃんの日」以来、恵奈は史郎に特別な感情を抱いている。
思わずお姉ちゃん宣言をしてしまったのも、突然現れた美人に乙女心が反応したからだ。
(それに史郎、この人のこと<先生>じゃなくて<羽倉さん>って呼んだ…)
こういうところに鋭い女の勘は、恵奈にも備わっている。
なんとなくだが、この二人の間には普通の先生と患者とは違う、何かがあるような気がして仕方なかった。
「…そうか」
羽倉はそんな気持ちを知ってか知らずか、気に留めたようすもない。挨拶と自己紹介が済んだところで羽倉が本題を切り出す。
「……さて、話し中に悪いが、そろそろ<診察時間>なんだ」
その言葉を聞いた恵奈は驚いたように時計を見た。
「もうこんな時間?!ごめんなさい!」
どうやら一時間もしゃべり続けたことに今になって気付いたようだ。
謝る恵奈は後ろにいる史郎の目がすっと細められたことに気づかなかった。
「史郎もごめんね。また、こんなに…」
「いえ、退屈してたので…ホントに楽しかったです」
「じゃあ…史郎。また明日ね」
「はい、また明日」
恵奈が振り返って見たときには、史郎の表情はいつも通りの微笑みだった。
自分ばっかり話し過ぎたと反省するのも、史郎の笑顔を見た途端、その反省をすぐに忘れてしまうのも、本当に名残惜しそうな恵奈の顔も、それを見た史郎がすこし照れたように返事をするのも、いつも通りのことだった。
…が
「気を付けて帰るようにね」
「…ありがとうございます」
そこに美人の医師が同席していることだけが、いつもと違っていた。
…後ろ髪ひかれつつ病室から出た恵奈はいつにない真剣な表情で廊下を歩いていた。
(あの羽倉ってお医者さん、美人だったなぁ…)
入院していれば担当の医師がいても不思議はないのだが、片思いの相手の担当があんな美人医師なのは大問題だ。
(でも史郎って、そういうこと嫌いみたいだし…)
かつて、恵奈が史郎と一緒に登校した日。
昨日、電車で痴漢をして捕まった犯人が近所の人だとテレビで知り、恵奈のほうから話題にしたことがある。何とはなしに痴漢の話をしていた恵奈だったが、それを黙って聞いていた史郎は見る間に厳しい表情になり、
「…女性を傷つける男は人間ではありません、オス以下です」
と低い声で断言したことがある。
普段の史郎はどんなことにも寛容すぎるほどの態度をとるが、その時の史郎は静かでも強烈な雰囲気を放っていた。横にいるだけで怖いくらいに。
それ以来、史郎の前では、その手の話は一切していない。
(でも、診察時間ってことは…やっぱり史郎の胸に聴診器とかあてるんだよね…いいなぁ)
まだ見ぬ想い人の素肌を想像して、恵奈はひとり赤くなった。
(…はっ!…史郎にその気がなくても、あの羽倉さんって人のほうから迫られたら史郎は…危ないかも!!)
むしろ、紅い顔をして一人でブツブツ言いながら、いかがわしい想像をしている方がよっぽど危ないのだが、ちょっとズレた乙女道まっしぐらの恵奈はもちろん気付かない。
(よし!ここはお姉ちゃんとして美人女医の魔の手から大事な弟を守ってあげなくちゃ!)
恵奈の想像は最高潮に達し、妄想へと昇華していた。
病室に戻ってコッソリ様子をみる決意を固め、ようやく顔を上げた…が。
「…あれっ?…ここ、どこだろ…」
時すでに遅く、妄想も現実もすでに迷宮入りしていた。
ちなみに、3分足らずの妄想で発生した迷宮を恵奈が脱し、再び病室にたどり着いたのは30分後。その時にはすでに、羽倉はもちろん、史郎の姿さえ見えなかった。
結局、病院の入り口に戻るのにも時間がかかってしまい、帰りついた時には藤木家の門限をとうに過ぎていた。クタクタになって帰ってきた娘を鬼の顔をした母が待っていたのは言うに及ばない
16/05/16 02:36更新 / 水底
戻る
次へ