「さて……」
羽倉は地面に倒れ伏した二人の前に立ち、瞳に魔力を込めて容態を観察する。
まず目を向けたのは倒れ伏した女性。
魔力の気配から察するに、ローパーと呼ばれる触手を宿した女性を素とする魔物と分かる。
彼女は極端に消耗している様子だが特に外傷は見当たらない。呼吸も浅いが徐々に安定しているようだ。しかし……魔物の生命力である魔力の状態を観察すると、ローパーの下腹部、子宮付近に魔力の薄い部分が出来ていた。
それは言うなれば、魔力の外傷だ。本来は魔力の発生源ともなる場所から魔力を奪われれば、死にはしないものの魔物といえども回復するにはかなりの時間を要するはずだ。
その原因を作った者はおそらく隣に倒れ伏している少年だろう。

次いで目を向け観察した史郎の体には、人間の男性にはないはずの魔力の残滓が残っている。羽倉がしゃがみこんで右手の脈を測る。拍動は弱く呼吸も乱れ、体の状態は満身創痍だ。
（やはり〈魔物化〉を使ったのか……）
羽倉の胸に鬱屈した思いが満ちる。

＜魔物化＞
魔物化は、驚異的な身体能力と、現魔王の影響によって男性に対する圧倒的な優位性を持つ魔物に対抗するべく開発された技術。
本来、男性は特殊な例を除いて魔物になることはできず、また、女性の場合と同様、一度でも魔物へと変質したら最後、元に戻ることは叶わない。
それは現世界の法則、摂理である。
そのため、魔物化は純然たる魔物に変質するものではない。
体内に埋め込まれた触媒と首輪の術式を通して使用者の精を魔力へと変換、肉体の外側に魔力と微細な魔界銀を転送し、鎧のように身に纏うことで魔力による戦闘を可能にしたものである。
魔物化の際に胸が膨らむのは、精から変換した魔力を生産し凝縮する動力炉の役割を果たすためだ。
ただし、世界の法則に挑み捻じ曲げるような能力を発現するには相応の代償がいる。膨大な精を魔力に変換し得る力は驚異的だが反面、身体機能に過剰な負担がかかり、戦闘後は激減した精が重要な臓器に集中してしまい全身が激しい倦怠感に見舞われる。
その他、術者の身体や精神にどんな影響があるかも明確には分かっていないため、もし術や身体機能のバランスが崩れれば致命的な事態を招く可能性とて十分にあり得る。
よって、魔物化という技術は本来、実際は実用に耐えうるようなものではなかった。
しかし史郎は魔物化の発現において特異な才能を発揮し、想定を現実へと変えている。この少年の持つ、幼いがゆえの潤沢な精から生み出される膨大な力、快楽に溺れることのない驚異的な自制心が、この不安定な能力での戦闘を可能としていた。
ただ、戦闘が可能でも、後に行動不能になることは避けられない。
それを支援するのが羽倉の役目でもあった。

少年の望みに応えた、そういえば聞こえはいいだろう。
だがそれが、この無謀な行いに対する言い訳に過ぎないことは、羽倉自身がよく解っている。

「……これではまるで、実証実験だな」

羽倉は独り言ちた。
しかし直後、暗鬱な気分を振り払うように首を振る。
（まずは史郎から）
今、自分がどんな気分であってもやるべきことは変わらない。
手を伸ばして少年の額に触れ……

ヒタ……

届く前に、小さな手が羽倉の手首を掴んだ。
「先に……あの女性を……」
その手の持ち主である史郎が目を閉じたまま言う。
「驚いたな、もう動かせるのか」
もう一度、瞳に魔力を込めて観察すればなるほど、先ほどまで枯渇状態だった精力が、僅かながらも確実に回復しつつあった。常人を超える回復力を持つ少年に研究者として驚嘆を覚えるが、
「……私は大丈夫ですから」
そう言う史郎の声や手に力はなく、無理をしていることは明白だ。
「……わかった。では先に彼女を病院に転送しよう」
それでも、少年の言葉が虚勢であることを承知の上で、羽倉は早々に譲歩した。
説得を試みて時間を要してはこの少年、最後には自力で戻るなどと言い出しかねない。
「……ありがとう……ございます……」
息も絶え絶えながら律儀に礼を言う史郎を横目に見つつ、羽倉は立ち上がりローパーに歩み寄る。二つの膨らみに押し上げられた白衣の合わせ目に手を潜らせると、新たな転送符を二枚取り出した。
一つをローパーの胸に置き、もう一枚を自身の胸に当てて魔力を込めると、青い光が二人を包み転送が始まった。先ほどの男が張っていた結界はすで羽倉が書き換えているため妨害も生じない。
「３分で戻る」
肩越しに告げた羽倉の言葉を残して二人の姿は掻き消え、路地には史郎がひとり残された。
「……」
史郎は深く息をつき、しばらくはまるで眠っているかように横わたっていた。
が、およそ１分。
史郎がゆっくりと両手を持ち上げ、手の内に握りしめられ、くしゃくしゃになった紙を丁寧に広げ始めた。
転送符。
先ほど発動しきらなかったそれを目の前に掲げてしばらく眺めていたが、不意に転送符が手から離れ、少年の胸の上に舞い落ちた。
「う……」
史郎の表情に苦悶が浮かぶが、徐々に転送符と史郎の身体が青い光に飲み込まれ、その場から消えていく。


史郎がいなくなってから約３０秒後。
ローパーを魔物用の治療室に送り届け、応急の魔法処置を施して予告通りに戻ってきた羽倉を迎えたのは誰一人おらず、わずかな音さえも消えた路地のみ。その状況を目にした羽倉の表情が見る間に焦燥に染まっていく。

「しまった！」

数秒後、舌打つように言い放つ。
あの少年が自分を出し抜くかのように移動した理由と行き先に思い至ったからだ。

「間に合うか……！」

思考に要した時間はものの数秒、新たな符を取り出して発動するまでを合わせて数十秒足らず。ごく短い時間だが、史郎が目的を達するには十分に思える。
光を放ち始めた転送符を祈るように見つめる羽倉。
その姿が光に飲まれて見えなくなり、完全に消える。

それと同時に張られていた結界も消滅した。

途端に、外界から孤立していたビルの隙間に風と雑踏の賑やかさが流れ込み、異界の気配は跡形もなくなっていた。

■作者メッセージ
短い。のに更新遅い。
……展開も遅い。
眠い。(笑)