後編
聞き馴染んだ、翼が風を叩く音がまどろみの中で聞こえた。
「さあ、私たちの家に着いたぞ。――気になるからといって酒に飲まれるなど、貴様はどれだけ私の胸を打つつもりだ?」
楽し気な竜の声で、目を覚ます。気付けば、僕らの住んでいる大きな洞穴に居て、僕はまたドラゴンに抱きかかえられていた。
胡乱な頭を回し、ジパングでの夕食時に出たお酒に酔って寝てしまったのだと理解する。
「……ごめん」
「はは、怒る事などせぬよ。私にとっては、貴様の一挙手一投足が愛おしくて仕方がないのだからな」
額に頬擦りされ、恥ずかしさが増す。
普段から特に何かしている様子はないのに、彼女からは甘い蜜のような匂いがするのだ。おまけに触れた頬は柔らかく、なめらかで、暖かい。
否が応でも、鼓動が激しくなる。
ふと、その時。
「――何か悩んでいるな?」
「え」
問われた意味が分からなかった。いや、正確には悩んでる事を気付かれると思っていなかった。
見上げると、微笑を浮かべながらじっと僕を見つめる竜の顔があった。
「結婚式に向かう子狐と別れてからずっと、様子がおかしいとは思っていたのだ。何でもない、とは言わせんぞ?」
「いや、その」
「まさかあの子狐に恋慕してしまったのか? それは困るな、何せあの狐、既婚者だぞ? それはいけない。貴様には私を見て欲しいものだ」
「……違、違うって」
「だとすれば、何だというのだ?」
「……」
言葉を促すように、ドラゴンは僕をイスの前で下し、座らせる。
言いたい。だけど、言葉にならない。
どうすれば伝わるか。どうすれば、この大きな人に想いを全て届けられるか。それが、分からない。
「――臆するな。そして飾るな」
「え?」
戸惑っていた僕に、竜はただ、言った。
「私は、貴様を見て笑うが嗤いはせぬ。貴様に心の内を表現する言葉を教えたが、最も素晴らしいと思っているのは思った事を素直に口にする事だと思っている」
「いつもの、あなたのように?」
「そうだ。私は、欲しければ欲する。知りたければ求める。発したければ、誰が何と言おうと叫ぶ。私の宝たる貴様にも、そうあって欲しいと、人のしがらみに捕らわれぬようにして欲しいと思っている」
だから、思ったままに言っていい。
そう、聞こえたような、気がした。
「ずっと、気にしてたんだ。あなたにとって、僕は何なのかな、って」
「……何、と?」
「あなたが僕を大切に思ってくれてるのは、すごくよく分かってる。僕だって、あなたの事、最初は訳が分からなかったけど、今は、好き、だよ。……だけど、どうして僕をあなたのものにしないの?」
一度口から出てしまえば、想いは止められなかった。
「僕だって、いろんなものを見た。魔物がどうして人を好きになるのかとか、好きになって、何がしたいと思うのかとか、そして何をするのかっていう事も知ってる。興味も、そ、その、ある」
顔から火が出そうだった。だけど、もう押えられない。
「でも、あなたは僕を奪ってから、そういう事をしようとした事が、ないでしょ? だから、その、僕は、そういうつもりで――」
「そういう、という言葉が多いな。恥じる気持ちはあるだろうが、言葉は正しく使うものだ」
言われて、胸が強く締め付けられた。
言っていいのか、迷った。
でも、僕は、
「……あなたの、こ、恋人として、もらわれたんじゃないのか、って、思っちゃって。僕は、あなたの恋人になれないのかな、って」
「そうか」
驚くくらい、軽い返事だった。
僕の悩んだ通り、彼女にとって僕はそんな程度の存在だったのだろうか。
ドラゴンの表情を見ようと、顔を上げた、その時だった。
「我が宝よ。私を見ろ」
「え? ――っ!?」
全身を、圧し潰されるような感覚が襲った。
竜は、ただ目の前に立っている。
それだけだというのに、怯えが止まらない。
「――見ての通り、私はこういう存在だ」
息が出来ない。
全身の感覚が止まっている。
「そう思う、という事は私と恋仲になりたい、という事であろう? だが今の私を前にして、まだそう言えるか?」
そうだ。この人は魔物なんだ。
ずっと僕を見守るように、僕がいろんな事を知っていくのを楽しんでるように振舞っていたけれど。
この人は僕とは違う、強大な存在なんだ。
「欲しいのならば、なりたいなどという弱気を見せるな。私がいつもそうしているように、奪え。その竦む身体を動かし、組み伏せ、貴様のモノにして見せろ」
静かに、そしてそれが当然と言うように告げる。
自然と視線が下がる。立ち上がろうとする脚が、石になってしまったようだ。
「さあ、どうした。私が、欲しいのだろう? それとも我が本質に怯え、竦む程度の気持ちしか持っていなかったというのか?」
その通りだ。
逃げろ。
怖い。
そんな、心の声が聞こえてきた。
ぱくぱくと、陸に打ち上げられた魚のように開閉を繰り返す口に、喉から声が発せられようとして、
「――出来、ない、よ」
蚊のような小さな、否定の言葉を、絞り出した。
逃げようとする声を蹴飛ばして割り込んできたのは、これまで過ごしてきた、僕と竜の毎日の思い出だった。
横暴だけど、僕に新しいものを見せてくれた。
力がある彼女なら他の誰かを奪ってくる事だって出来ただろうに、いつだって僕を、僕だけを、見つめてくれていた。
だから僕は、彼女と生きたい。
僕にとって彼女との毎日こそがすべてなんだから。
「そんな、事、出来ない……! だって、だって! そんな事したら、僕たちは僕たちじゃなくなっちゃうじゃないか! 僕は、あなたに手を引かれて、一緒に世界を見るのが、好きなんだ!」
「……」
いつの間にか、震えは消えていた。
彼女を僕のモノにしてしまったら、この関係は終わってしまう。僕が上で、彼女が下になってしまう。実際、そんな事にはならないのかもしれないけれど、それでも僕は嫌だ。
「ならばどうする? 何を以って、私と恋仲になる? ――私は人間の言う『邪竜』故に、先ほど言ったオスとメスのやり方しか知らぬのだがな」
考えた。一瞬だったけど、物凄く考えた。
ずっと、頭の片隅で考えていたけれど、表に出せなかったものが、僕の中にはあったんだ。
「――名前」
「名?」
聞き返され、頷く。
「あなたに、名前をあげる。僕だけが、アルという人間だけが知ってる事になる、あなただけの名前」
「……ほう。名付け親にでもなるというのか」
「違う。……前行った国で、見たんだ。夫婦は、名前で呼び合うんだって」
喉の手前まで出かかっていた名前を、これまで考えておきながら、ずっと使わないだろうと思っていた名前を、声に出した。
「リヴィア」
言われ、竜の凛々しい眉がわずかに動いた。
だけど構わず、言葉を並べていく。
「僕にとって、あなたと、あなたと過ごす毎日が、全てなんだよ。だから、すべてを飲み込む竜の伝承から名前をもらった。リヴァイアサンという名を、女性らしくしたんだけど、……その」
あまりの反応の無さに、どんどん自信がなくなっていく。
「気に、入らない、かな」
気に入らなかったらどうしよう。そんな不安が脳裏をよぎる。
だが、その不安はいとも簡単に打ち壊されてしまった。
「――ふふ、はは、はははははははは!」
地面を、そして洞穴全体を震えさせるほどの、笑い声。
お腹を抱え、ドラゴンが大笑いしている。
「気に入らなかった……?」
「いや、すまぬ。そういう訳ではないのだ。まさかそう来るとは思っていなくてな」
はは、とまだ面白いのか、頬が吊り上がったままだ。
「夫婦は名前を呼び合うもの、か。ああ、確かにそうだ。という事は、私を呼ぶその名は貴様なりのプロポーズという事だな?」
「え!? あ、いや……、……うん」
改めて言われると、気恥ずかしさがまた盛り返してきた。
だけどそうなりたい、という気持ちは嘘でも何でもないのは確かである。
「リヴィア、リヴィア、リヴィア……。ふふ、確かにこの魂に刻んだぞ」
「え、と、いう事は」
「新鮮な感覚だな、コレは。私もいつか誰かに組み伏せられ、その者にメスとして媚びる事になるのではと考えた事はあったとも。その誰かが貴様なら、それもまた本望だともな。だが誰かのモノになるのではなく、誰かと共に在ろうとするなど考えた事がなかったよ」
先ほどまでの険しさすら感じた無表情は何処へ行ったのか、普段よりもさらに楽し気で、舞い上がっているような笑顔を浮かべている。
そんな顔のまま彼女は僕に向き直り、じっと目を合わせ、答えた。
「貴様のプロポーズ、喜んで受け入れよう。ふふん、どんな希少な宝石を使った指輪よりも、どんな歴史的に価値のある宝よりも。私を想って呼ぶその名に勝る贈り物は在りはしないだろう」
手を握られる。薄く細められた瞳が、すぐ目の前で瞬く。
「誓おう。私は病める時も健やかなる時も、我が夫となる者に刻まれた名と共に、汝、アルを愛すると」
「え、えっと、誓います。僕は、病める時も健やかなる時も、愛するあなた、リヴィアを、愛するよ」
ようやく、僕の想いを伝えられた。
その事で胸が一杯で、嬉しくて、嬉しくて。
だから、気付かなかったんだ。
「――では、夫婦の契りを交わそうか」
「え?」
リヴィアの顔が、少しずつ近づいてきている事に。
「んぅっ!?」
口唇が、重なった。奪われた、と表現してもいいかもしれない。
初めての、キス。その事実に僕の頭には血が昇る。
だが、そんな事お構いなしと言わんばかりに口唇を割って、熱を持ったヘビが口の中へ入り込んできた。
待って、というヒマもない。瞬時に舌を絡め取られ、唾液を吸われ、代わりに熱くて甘ったるい粘液を注ぎ込まれる。それがリヴィアの唾液だと気付いた時にはもう、頭の中がぼんやりとし始めていた。
意識が何処かに飛んでいってしまいそうな、幸せな感覚。ついに足に力が入らなくなって、膝から崩れ落ちてしまう。
だが、それすら許さないと言わんばかりに、硬い両腕が僕を抱き締めた。
「ん、んぁ……♪」
背中には硬い、腕の甲殻が押し付けられている。反面、正面は柔らかく、何処までも僕を受け入れる柔らかな身体に包まれていた。
服越しに伝わるのは、軟肉の感触と、リヴィアの鼓動。
飄々とした表情のその内面は、僕と同じく、むしろ僕以上に激しく高鳴っていた。
不意に、口が離れる。交換した唾液が混ざり合い、透明のアーチが垂れ落ちる。
「もう、我慢をしなくてもいいのだな」
その時のリヴィアの不敵な笑顔を、僕は一生忘れないだろう。
暴君らしく嗜虐的で、女性らしくヒロイックで。魔物らしく淫靡で、竜らしく気高くて。
そして、今まで見た何よりも、綺麗だと感じた。
するり、という絹擦れの音が、夢見心地の耳に届く。同時に、下半身が涼しくなった。
見なくても、今僕の下半身がどんな風になっているかが分かる。痛いほど脈動して、挿れるべき場所を求めて涎を垂らしているだろう。
抱き上げられる。僕の身長では、彼女と繋がるにはわずかに足りない。足腰が快楽で抜けてしまっている今ならなおさらだ。
艶めかしい水音が、聞こえた。リヴィアの息が、少し荒くなった。
先っぽが溶けたんじゃないかと思うくらい、熱い。これ以上がある、という事実が僕の頭を壊してしまいそうだった。
「感じるか? 私を、私の、体温を。ずっと、貴様とこうなる日を、私は心の底で待ち望んでいたようだ」
楽しげに、嬉しそうに、リヴィアは僕を迎え挿れていく。
じわり、じわりと。
僕の中に、リヴィアが。彼女の中に、僕が染み渡っていく。染まっていく。染められていく。
「愛しているぞ、アル。私の、永遠の恋人よ……♪」
その声が、僕を壊してしまった。
頭を、バチバチと火花が散る。命そのものを吐き出しているような感覚に、頭がおかしくなってしまいそうになる。
悲鳴を上げようとして、その口を塞がれる。さっきよりも強く、締め付けるように、抱きつくように、舌を絡め取られる。
「あぁ、熱い……♪ コレが、私を孕ませるものか……。最奥で出された訳でもないのに、何も考えられなくなるほど酔ってしまいそうだ……♪」
抱きながら、口唇を貪りながら、リヴィアは歓喜の言葉を発した。
そしてぎゅっと、それまで以上に僕の身体を強く抱き締める。
「さあ、見せてくれ。貴様の想いを。貴様の、願いを。私と、どうしたいのか、という事を」
この世のものとは思えない暴力的な快楽に襲われてなお、僕は自分の意思で身体を動かす事が出来た。
一緒に居たい。一緒になりたい。
好きな人と、共に生きたい。
願うままに、思うままに、僕は腰を打ち付けた。
舌をこちらからも絡ませて、両腕を背中に通し、抱き付いた。
リヴィアの、嬌声が聞こえる。これまで聞いた事のない、甘い声。
もっと聞かせて欲しい。もっと教えて欲しい。
一番奥にまで打ち付けて、命を流し込む。すると、一層甲高い声が耳に入ってきた。
もっと、欲しい。もっと、もっと。
求めれば、求めるだけリヴィアは応えてくれた。
その分リヴィアからも求められ、奪われた。
そのまま僕は、意識を失うまでの間ずっと、大好きな持ち主と抱き合ったままであった。
******
洞窟の中は、時間の感覚がなくなる。
これまでリヴィアの魔法によって、朝は明るく、夜は暗くなるようになっていたが、そんな事に意識が回らないのだろう。今ではずっと、暗いままだ。
何日経ったか分からないが、今は小休止として抱き合いながらベッドに、いや。リヴィアの肢体の上に横たわっている。
「――私から手を出さなかった理由? ふふ、それはずっと、私のプライドが邪魔したのだろうな」
「プライド?」
「ああ。私は欲しいものは奪ってでも手に入れる。やりたい事は何が何でもやる。そういう風に、ドラゴンらしからぬ誇りのない我欲に満ちた生を送ってきた。――だが、私もドラゴンだったのだな」
淫欲に塗れた目をしながらも、いつものように竜は悠々と笑う。
「まったく、貴様に教えられる日が来ようとはな。とても良い心地だ」
「これからは教え合おうよ。僕も、もっといろんな事が知りたいから」
「それはいい。ならばまずは、私の弱点を知ってもらわなければな……?」
「貴様がしたい事を教えてくれ。私は、愛しいアルが相手なら何だって受け入れよう。犬のように尻尾を振り、甘い声で鳴こう。ダークエルフのように貴様を組み伏せ、鳴かせてみせよう。――その我が心を捕らえて離さない瞳が、私を見て情欲に染まる様は堪らなく子宮が疼くのだからな」
とろけるような甘い声を耳元で囁かれて、精根尽き果てていたはずなのにまた元気になってしまう。
きっと、これからずっとこうなんだろう。
気が向いた時に何処かへ行って。
気が向いた時に何処ででも愛し合って。
気が向いた時に、家族を増やす。
横暴な彼女の事だ。きっと、それは時も場所も関係なく、突然言われるのだろう。
だけど、そんな彼女に、僕のすべては惹かれているんだ。
「さあ、私たちの家に着いたぞ。――気になるからといって酒に飲まれるなど、貴様はどれだけ私の胸を打つつもりだ?」
楽し気な竜の声で、目を覚ます。気付けば、僕らの住んでいる大きな洞穴に居て、僕はまたドラゴンに抱きかかえられていた。
胡乱な頭を回し、ジパングでの夕食時に出たお酒に酔って寝てしまったのだと理解する。
「……ごめん」
「はは、怒る事などせぬよ。私にとっては、貴様の一挙手一投足が愛おしくて仕方がないのだからな」
額に頬擦りされ、恥ずかしさが増す。
普段から特に何かしている様子はないのに、彼女からは甘い蜜のような匂いがするのだ。おまけに触れた頬は柔らかく、なめらかで、暖かい。
否が応でも、鼓動が激しくなる。
ふと、その時。
「――何か悩んでいるな?」
「え」
問われた意味が分からなかった。いや、正確には悩んでる事を気付かれると思っていなかった。
見上げると、微笑を浮かべながらじっと僕を見つめる竜の顔があった。
「結婚式に向かう子狐と別れてからずっと、様子がおかしいとは思っていたのだ。何でもない、とは言わせんぞ?」
「いや、その」
「まさかあの子狐に恋慕してしまったのか? それは困るな、何せあの狐、既婚者だぞ? それはいけない。貴様には私を見て欲しいものだ」
「……違、違うって」
「だとすれば、何だというのだ?」
「……」
言葉を促すように、ドラゴンは僕をイスの前で下し、座らせる。
言いたい。だけど、言葉にならない。
どうすれば伝わるか。どうすれば、この大きな人に想いを全て届けられるか。それが、分からない。
「――臆するな。そして飾るな」
「え?」
戸惑っていた僕に、竜はただ、言った。
「私は、貴様を見て笑うが嗤いはせぬ。貴様に心の内を表現する言葉を教えたが、最も素晴らしいと思っているのは思った事を素直に口にする事だと思っている」
「いつもの、あなたのように?」
「そうだ。私は、欲しければ欲する。知りたければ求める。発したければ、誰が何と言おうと叫ぶ。私の宝たる貴様にも、そうあって欲しいと、人のしがらみに捕らわれぬようにして欲しいと思っている」
だから、思ったままに言っていい。
そう、聞こえたような、気がした。
「ずっと、気にしてたんだ。あなたにとって、僕は何なのかな、って」
「……何、と?」
「あなたが僕を大切に思ってくれてるのは、すごくよく分かってる。僕だって、あなたの事、最初は訳が分からなかったけど、今は、好き、だよ。……だけど、どうして僕をあなたのものにしないの?」
一度口から出てしまえば、想いは止められなかった。
「僕だって、いろんなものを見た。魔物がどうして人を好きになるのかとか、好きになって、何がしたいと思うのかとか、そして何をするのかっていう事も知ってる。興味も、そ、その、ある」
顔から火が出そうだった。だけど、もう押えられない。
「でも、あなたは僕を奪ってから、そういう事をしようとした事が、ないでしょ? だから、その、僕は、そういうつもりで――」
「そういう、という言葉が多いな。恥じる気持ちはあるだろうが、言葉は正しく使うものだ」
言われて、胸が強く締め付けられた。
言っていいのか、迷った。
でも、僕は、
「……あなたの、こ、恋人として、もらわれたんじゃないのか、って、思っちゃって。僕は、あなたの恋人になれないのかな、って」
「そうか」
驚くくらい、軽い返事だった。
僕の悩んだ通り、彼女にとって僕はそんな程度の存在だったのだろうか。
ドラゴンの表情を見ようと、顔を上げた、その時だった。
「我が宝よ。私を見ろ」
「え? ――っ!?」
全身を、圧し潰されるような感覚が襲った。
竜は、ただ目の前に立っている。
それだけだというのに、怯えが止まらない。
「――見ての通り、私はこういう存在だ」
息が出来ない。
全身の感覚が止まっている。
「そう思う、という事は私と恋仲になりたい、という事であろう? だが今の私を前にして、まだそう言えるか?」
そうだ。この人は魔物なんだ。
ずっと僕を見守るように、僕がいろんな事を知っていくのを楽しんでるように振舞っていたけれど。
この人は僕とは違う、強大な存在なんだ。
「欲しいのならば、なりたいなどという弱気を見せるな。私がいつもそうしているように、奪え。その竦む身体を動かし、組み伏せ、貴様のモノにして見せろ」
静かに、そしてそれが当然と言うように告げる。
自然と視線が下がる。立ち上がろうとする脚が、石になってしまったようだ。
「さあ、どうした。私が、欲しいのだろう? それとも我が本質に怯え、竦む程度の気持ちしか持っていなかったというのか?」
その通りだ。
逃げろ。
怖い。
そんな、心の声が聞こえてきた。
ぱくぱくと、陸に打ち上げられた魚のように開閉を繰り返す口に、喉から声が発せられようとして、
「――出来、ない、よ」
蚊のような小さな、否定の言葉を、絞り出した。
逃げようとする声を蹴飛ばして割り込んできたのは、これまで過ごしてきた、僕と竜の毎日の思い出だった。
横暴だけど、僕に新しいものを見せてくれた。
力がある彼女なら他の誰かを奪ってくる事だって出来ただろうに、いつだって僕を、僕だけを、見つめてくれていた。
だから僕は、彼女と生きたい。
僕にとって彼女との毎日こそがすべてなんだから。
「そんな、事、出来ない……! だって、だって! そんな事したら、僕たちは僕たちじゃなくなっちゃうじゃないか! 僕は、あなたに手を引かれて、一緒に世界を見るのが、好きなんだ!」
「……」
いつの間にか、震えは消えていた。
彼女を僕のモノにしてしまったら、この関係は終わってしまう。僕が上で、彼女が下になってしまう。実際、そんな事にはならないのかもしれないけれど、それでも僕は嫌だ。
「ならばどうする? 何を以って、私と恋仲になる? ――私は人間の言う『邪竜』故に、先ほど言ったオスとメスのやり方しか知らぬのだがな」
考えた。一瞬だったけど、物凄く考えた。
ずっと、頭の片隅で考えていたけれど、表に出せなかったものが、僕の中にはあったんだ。
「――名前」
「名?」
聞き返され、頷く。
「あなたに、名前をあげる。僕だけが、アルという人間だけが知ってる事になる、あなただけの名前」
「……ほう。名付け親にでもなるというのか」
「違う。……前行った国で、見たんだ。夫婦は、名前で呼び合うんだって」
喉の手前まで出かかっていた名前を、これまで考えておきながら、ずっと使わないだろうと思っていた名前を、声に出した。
「リヴィア」
言われ、竜の凛々しい眉がわずかに動いた。
だけど構わず、言葉を並べていく。
「僕にとって、あなたと、あなたと過ごす毎日が、全てなんだよ。だから、すべてを飲み込む竜の伝承から名前をもらった。リヴァイアサンという名を、女性らしくしたんだけど、……その」
あまりの反応の無さに、どんどん自信がなくなっていく。
「気に、入らない、かな」
気に入らなかったらどうしよう。そんな不安が脳裏をよぎる。
だが、その不安はいとも簡単に打ち壊されてしまった。
「――ふふ、はは、はははははははは!」
地面を、そして洞穴全体を震えさせるほどの、笑い声。
お腹を抱え、ドラゴンが大笑いしている。
「気に入らなかった……?」
「いや、すまぬ。そういう訳ではないのだ。まさかそう来るとは思っていなくてな」
はは、とまだ面白いのか、頬が吊り上がったままだ。
「夫婦は名前を呼び合うもの、か。ああ、確かにそうだ。という事は、私を呼ぶその名は貴様なりのプロポーズという事だな?」
「え!? あ、いや……、……うん」
改めて言われると、気恥ずかしさがまた盛り返してきた。
だけどそうなりたい、という気持ちは嘘でも何でもないのは確かである。
「リヴィア、リヴィア、リヴィア……。ふふ、確かにこの魂に刻んだぞ」
「え、と、いう事は」
「新鮮な感覚だな、コレは。私もいつか誰かに組み伏せられ、その者にメスとして媚びる事になるのではと考えた事はあったとも。その誰かが貴様なら、それもまた本望だともな。だが誰かのモノになるのではなく、誰かと共に在ろうとするなど考えた事がなかったよ」
先ほどまでの険しさすら感じた無表情は何処へ行ったのか、普段よりもさらに楽し気で、舞い上がっているような笑顔を浮かべている。
そんな顔のまま彼女は僕に向き直り、じっと目を合わせ、答えた。
「貴様のプロポーズ、喜んで受け入れよう。ふふん、どんな希少な宝石を使った指輪よりも、どんな歴史的に価値のある宝よりも。私を想って呼ぶその名に勝る贈り物は在りはしないだろう」
手を握られる。薄く細められた瞳が、すぐ目の前で瞬く。
「誓おう。私は病める時も健やかなる時も、我が夫となる者に刻まれた名と共に、汝、アルを愛すると」
「え、えっと、誓います。僕は、病める時も健やかなる時も、愛するあなた、リヴィアを、愛するよ」
ようやく、僕の想いを伝えられた。
その事で胸が一杯で、嬉しくて、嬉しくて。
だから、気付かなかったんだ。
「――では、夫婦の契りを交わそうか」
「え?」
リヴィアの顔が、少しずつ近づいてきている事に。
「んぅっ!?」
口唇が、重なった。奪われた、と表現してもいいかもしれない。
初めての、キス。その事実に僕の頭には血が昇る。
だが、そんな事お構いなしと言わんばかりに口唇を割って、熱を持ったヘビが口の中へ入り込んできた。
待って、というヒマもない。瞬時に舌を絡め取られ、唾液を吸われ、代わりに熱くて甘ったるい粘液を注ぎ込まれる。それがリヴィアの唾液だと気付いた時にはもう、頭の中がぼんやりとし始めていた。
意識が何処かに飛んでいってしまいそうな、幸せな感覚。ついに足に力が入らなくなって、膝から崩れ落ちてしまう。
だが、それすら許さないと言わんばかりに、硬い両腕が僕を抱き締めた。
「ん、んぁ……♪」
背中には硬い、腕の甲殻が押し付けられている。反面、正面は柔らかく、何処までも僕を受け入れる柔らかな身体に包まれていた。
服越しに伝わるのは、軟肉の感触と、リヴィアの鼓動。
飄々とした表情のその内面は、僕と同じく、むしろ僕以上に激しく高鳴っていた。
不意に、口が離れる。交換した唾液が混ざり合い、透明のアーチが垂れ落ちる。
「もう、我慢をしなくてもいいのだな」
その時のリヴィアの不敵な笑顔を、僕は一生忘れないだろう。
暴君らしく嗜虐的で、女性らしくヒロイックで。魔物らしく淫靡で、竜らしく気高くて。
そして、今まで見た何よりも、綺麗だと感じた。
するり、という絹擦れの音が、夢見心地の耳に届く。同時に、下半身が涼しくなった。
見なくても、今僕の下半身がどんな風になっているかが分かる。痛いほど脈動して、挿れるべき場所を求めて涎を垂らしているだろう。
抱き上げられる。僕の身長では、彼女と繋がるにはわずかに足りない。足腰が快楽で抜けてしまっている今ならなおさらだ。
艶めかしい水音が、聞こえた。リヴィアの息が、少し荒くなった。
先っぽが溶けたんじゃないかと思うくらい、熱い。これ以上がある、という事実が僕の頭を壊してしまいそうだった。
「感じるか? 私を、私の、体温を。ずっと、貴様とこうなる日を、私は心の底で待ち望んでいたようだ」
楽しげに、嬉しそうに、リヴィアは僕を迎え挿れていく。
じわり、じわりと。
僕の中に、リヴィアが。彼女の中に、僕が染み渡っていく。染まっていく。染められていく。
「愛しているぞ、アル。私の、永遠の恋人よ……♪」
その声が、僕を壊してしまった。
頭を、バチバチと火花が散る。命そのものを吐き出しているような感覚に、頭がおかしくなってしまいそうになる。
悲鳴を上げようとして、その口を塞がれる。さっきよりも強く、締め付けるように、抱きつくように、舌を絡め取られる。
「あぁ、熱い……♪ コレが、私を孕ませるものか……。最奥で出された訳でもないのに、何も考えられなくなるほど酔ってしまいそうだ……♪」
抱きながら、口唇を貪りながら、リヴィアは歓喜の言葉を発した。
そしてぎゅっと、それまで以上に僕の身体を強く抱き締める。
「さあ、見せてくれ。貴様の想いを。貴様の、願いを。私と、どうしたいのか、という事を」
この世のものとは思えない暴力的な快楽に襲われてなお、僕は自分の意思で身体を動かす事が出来た。
一緒に居たい。一緒になりたい。
好きな人と、共に生きたい。
願うままに、思うままに、僕は腰を打ち付けた。
舌をこちらからも絡ませて、両腕を背中に通し、抱き付いた。
リヴィアの、嬌声が聞こえる。これまで聞いた事のない、甘い声。
もっと聞かせて欲しい。もっと教えて欲しい。
一番奥にまで打ち付けて、命を流し込む。すると、一層甲高い声が耳に入ってきた。
もっと、欲しい。もっと、もっと。
求めれば、求めるだけリヴィアは応えてくれた。
その分リヴィアからも求められ、奪われた。
そのまま僕は、意識を失うまでの間ずっと、大好きな持ち主と抱き合ったままであった。
******
洞窟の中は、時間の感覚がなくなる。
これまでリヴィアの魔法によって、朝は明るく、夜は暗くなるようになっていたが、そんな事に意識が回らないのだろう。今ではずっと、暗いままだ。
何日経ったか分からないが、今は小休止として抱き合いながらベッドに、いや。リヴィアの肢体の上に横たわっている。
「――私から手を出さなかった理由? ふふ、それはずっと、私のプライドが邪魔したのだろうな」
「プライド?」
「ああ。私は欲しいものは奪ってでも手に入れる。やりたい事は何が何でもやる。そういう風に、ドラゴンらしからぬ誇りのない我欲に満ちた生を送ってきた。――だが、私もドラゴンだったのだな」
淫欲に塗れた目をしながらも、いつものように竜は悠々と笑う。
「まったく、貴様に教えられる日が来ようとはな。とても良い心地だ」
「これからは教え合おうよ。僕も、もっといろんな事が知りたいから」
「それはいい。ならばまずは、私の弱点を知ってもらわなければな……?」
「貴様がしたい事を教えてくれ。私は、愛しいアルが相手なら何だって受け入れよう。犬のように尻尾を振り、甘い声で鳴こう。ダークエルフのように貴様を組み伏せ、鳴かせてみせよう。――その我が心を捕らえて離さない瞳が、私を見て情欲に染まる様は堪らなく子宮が疼くのだからな」
とろけるような甘い声を耳元で囁かれて、精根尽き果てていたはずなのにまた元気になってしまう。
きっと、これからずっとこうなんだろう。
気が向いた時に何処かへ行って。
気が向いた時に何処ででも愛し合って。
気が向いた時に、家族を増やす。
横暴な彼女の事だ。きっと、それは時も場所も関係なく、突然言われるのだろう。
だけど、そんな彼女に、僕のすべては惹かれているんだ。
19/08/14 22:50更新 / イブシャケ
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