まいごのまいごの一反木綿
物干し竿に痴女が引っかかっていた。
時間は午後の三時。日が陰り、肌寒い空気が身にしみるころ。干しっぱなしの洗濯物を取り込まねばとベランダの窓を開けて。
『…………?』
純白の──文字通り、全身が真っ白な女性と目が合い凍りついた。女性、と評しこそしたが、顔や肌、衣服とも呼べない布切れの向こう側には空の景色が透けて見えている。
どう見てもまっとうな人間ではない。人ん家で引っかかってることも含めて。
「こ、こんにちは……?」
ひらひらと手を振ってあいさつを返された。彼女(?)の表情が和らぐ。お腹を支点にして体を預けているようだが、苦しくないのだろうか。とにかくそこから降りてください、と言おうとして、彼女には地に降り立つ脚がないことに気づく。
『…………///』
彼女は何も話そうとしない。ほんのり体を夕暮れ色に染めて、ただぶら下がっているだけだ。口がきけないのだろうか。こちらのあいさつには応じていたようだし、意思疎通ができない訳ではないのだが。
『…………!』
ふわり、と。撫でつけるような風が一陣、吹いた。
ゆらり、と。彼女の体が宙を舞った。
「あ」
咄嗟に伸ばした手は空を切る。紙のように頼りない、掴みかけた彼女の感触はいとも容易く風に流され、秋の空へ浮かんで消えていった。無表情のまま。
『…………! …………!』
……何だったんだろうか、あれは。腑に落ちない、訳の分からない光景を目の当たりにして、しばらく立ちすくむことしかできなかった。
「寒っ」
体も洗濯物もすっかり冷え切ったころになって、ようやく気を取り直す。さっさと部屋に戻ろうと、手早く乱雑に、片っ端から洗濯物を籠に放り込む。ハンガーや洗濯ばさみもお構いなしだ。数日分のそれをまとめたそれを抱え上げ、
『…………♡』
混ざっていた異物を、さっきお空の彼方へ飛ばされたはずの『彼女』をもう一度お空の向こうへ送りだした。
『…………!! …………!!』
ふわりふわりの風の行くまま、気の向くまま。たなびく雲の如くどこぞに行ってくれるだろうと眺めていたら。
『…………♡ …………♡♡』
「泳げるのかよ!?」
見事なドルフィンキックを披露してこちらに急接近してきた。
楽しそうだ。でも俺はお空を泳げないんだ、一人でやってて下さい。
迎撃するのは流石に忍びないので、ぴしゃりと窓を閉める。思っていたよりも彼女は速く、辛うじて侵入される寸前で閉める形になった。
『…………! …………!!』
どうやらおでこをしたたかに打ちつけたようで、窓越しに無言の圧を送られた。何を言ってるのかは分からないが、ほっぺを膨らませてることから怒っているのは間違いないだろう。両手をぺちぺち窓に打ちつけている。
そんな目で見られても困る。施錠すれば入ってこられないだろうと、窓の鍵に手を伸ばしたところで、
『…………♡』
「え」
するり、と。窓と窓との隙間に、指先が通った。
『…………♡♡』
腕を、胴体を、顔や脚を。虫も通れないだろう隙間に彼女はやすやすと入り込んできた。鍵へと伸びたこちらの手を優しく握り、胸の前まで持っていく。薄手の布の手触りをしたそれは、ついさっきまで風に吹かれていたとは思えない人肌の温もりがあった。
『…………♡♡♡』
「いや訳分からん」
ほっぺたをぺちぺちされた。ほんと訳分からん。
§
それはある朝のできごと。
ふわりふわりとお空を漂っていたら、お洗濯物を干している殿方を見かけました。眠たそうなお顔をして、ぱたぱたと皺にならないよう布地を広げています。
随分たくさんのお洋服を広げています、が、どれも似たようなお洋服ばかりです。独り身で、普段はお忙しいのでしょうか? お手伝いしましょうか決めかねている間に、彼はたちまちお仕事を終えて引っ込んでしまいました。
「また、会えるかしら」
ぽつりと、何となく呟いた言葉に答えてくれる人はいませんでした。
お日様が西に傾き始めたころ。
私は朝見かけた男の人が気になって、もう一度彼の家の近くまでやってきました。お洗濯物はそのままお外にぶら下がったままです。
「そろそろ取り込まないと、お日様のぽかぽかが逃げていっちゃいますよ?」
窓から様子を見ようとしましたが、カーテンがかかっていて向こう側を窺うことはできません。窓を叩いて教えてあげようとしましたが、返事は返ってきませんでした。
「変ですねぇ」
彼にも彼の都合があるというのに、何を言っているんでしょうか私は。彼に向けたはずの言葉は、後々私自身にそのままそっくり返ってくることになるのです。
しかし、この時の私はそれに気づきもしませんでした。彼が出てくるまで待ってみましょうと、物干し竿の空いている場所にかけて待つことにしたのです。
そうして時間は過ぎ、退屈でうつらうつらと瞼が下がり始めたころ。
『こ、こんにちは……?』
窓が開いて、彼が姿を現しました。驚いたような、怖がっているような、そんな顔をしていました。当然でしょう。余所様の軒先に見知らぬ女性が上がり込んでいるのですから。
「ああいえ、違うんです、そんなつもりでは」
私は誤魔化すように手を振ります。ばつの悪さと寝顔を見られたかもしれない気恥ずかしさで、自然と曖昧な笑みが浮かんでしまいました。もっとも、それを見て彼は安心したようでしたが。
叱られる、かと思いましたが彼はそれ以上何も話しませんでした。興味ありげに目線が上下していますが、不思議と嫌な気分はしませんでした。……むしろ、興味があるのなら、いっそ触れてもらいたいような、そんな感情が湧いてしまっていたのです。内側から体が火照るような感覚に陥りつつも、意を決し
「その、もし宜しければ──ぁ」
触れてもらおうと身を乗り出したところで、一陣の風が私をさらっていきました。
「あ」
『え』
あまりにも突然なできごとに、私は対応できませんでした。彼に見つめられるまま、ふわりふわりと遠いお空へ浮かび上がっていきます。
ああぁ、これでお別れなんて寂しすぎます。何としても戻らないとーー!
「はー、はーっ……、ど、どうにか戻ってこられました……」
風の流れに逆らってお空を飛ぶ術を編みだし、どうにかこうにか彼の家へと戻って参りました。当初の目的はとうに私の頭から抜け落ちて、今はどうにかして彼に触れてもらいたいという一念でいっぱいです。
これを一目惚れというのでしょうか。
「とはいえ、どうしましょうか……」
しかし難儀なことに、どうやら私の言葉は彼に通じていないようです。そんな状態から触れてもらうためには一計を案じる必要があるでしょう。
「そうです!」
ふと目についたのは大きな洗濯籠。ひょいひょいと、彼は私に目もくれず次々にお洗濯物を放り込んでいます。つまり、こっそり忍び込めばばれないかもしれません!
「ああっ違うんです待って止めて流さないでーー!」
ばれてしまいました。私の体はひょいと抱え上げられ、お外に放り出されてしまいます。ああでも、これで彼に触れてもらえたからそれで良しとしましょうか、私の頼りない手と違ってしっかりと握って抱き留めてくれそうな手をしていましたね──いやいや認めませんよ!? もっとしっかり触れて頂かないと!
「待ってくださいませ! どうか、どうかもう一度機会を与えて下さいませんか!?」
『泳げるのかよ!?』
貴方様にもう一度触れてもらうために頑張ったんですよ、と必死になって空を泳ぎます。あともう少し、もう少しで彼の胸元まで飛び込め──
「ふぎゃ!?」
鼻先で窓を閉められました。うぅぅ、ひどい。こんな仕打ちをされるなんて。こうなったらどうしてでも触れていただかないと収まりがつきません。ぷんすこ。
「開けてくださいよぅ、触ってくださいよぅ……よよよ……」
訳の分からない乱入者を相手にしても、ばつが悪そうに悲しげな顔をしてくれる彼はきっと優しい方なのでしょう。だというのに、私はその優しさにつけこむような真似をしています。
けれどどうしても止められないのです。例え彼が窓に鍵をかけたとしても──
「……あら♡」
『え』
鍵がかかっていません。指先を通せばするりと抜けるだけの隙間がありました。そのまま、私自身の体をするりするりと入れ込ませます。……するり、は大げさですが、そこは愛の力でカバーしました。
『ふふ、ひょっとして、恥ずかしかっただけなんですねぇ……♡』
大丈夫です、何も怖いことはありませんよ、と。安心させるべく彼の手を取り私の胸元へと寄せました。触れてしまえば崩れてしまいそうな頼りない私の手と、がっしりとした肉感ある彼の手とが重なり合います。
温かい。体温だけでなく、この身を委ねられる感覚が、何よりも心地良いです。かさかさ、と私が人の温もりの感触を味わう音が、絶え間なく辺りに流れていました。緊張からか、彼の手から滲んでいた汗が私へと染みていきます。
「やっぱり、貴方様は私の運命の人だったのですね……♡」
『いや訳分からん』
分からないのなら、私が教えて差し上げますよ……♡
ゆっくりと彼の頬に手を添え、二度三度触れたり離したりを繰り返してから、優しく顔全体を包み込む。今何が起こっているのか、これから何が起ころうとしているのか、何も知らない顔へゆっくり唇を近づける。
さぁ、まずは唇から……♡
『私の感触、たぁっぷり味わってくださいませ♡』
時間は午後の三時。日が陰り、肌寒い空気が身にしみるころ。干しっぱなしの洗濯物を取り込まねばとベランダの窓を開けて。
『…………?』
純白の──文字通り、全身が真っ白な女性と目が合い凍りついた。女性、と評しこそしたが、顔や肌、衣服とも呼べない布切れの向こう側には空の景色が透けて見えている。
どう見てもまっとうな人間ではない。人ん家で引っかかってることも含めて。
「こ、こんにちは……?」
ひらひらと手を振ってあいさつを返された。彼女(?)の表情が和らぐ。お腹を支点にして体を預けているようだが、苦しくないのだろうか。とにかくそこから降りてください、と言おうとして、彼女には地に降り立つ脚がないことに気づく。
『…………///』
彼女は何も話そうとしない。ほんのり体を夕暮れ色に染めて、ただぶら下がっているだけだ。口がきけないのだろうか。こちらのあいさつには応じていたようだし、意思疎通ができない訳ではないのだが。
『…………!』
ふわり、と。撫でつけるような風が一陣、吹いた。
ゆらり、と。彼女の体が宙を舞った。
「あ」
咄嗟に伸ばした手は空を切る。紙のように頼りない、掴みかけた彼女の感触はいとも容易く風に流され、秋の空へ浮かんで消えていった。無表情のまま。
『…………! …………!』
……何だったんだろうか、あれは。腑に落ちない、訳の分からない光景を目の当たりにして、しばらく立ちすくむことしかできなかった。
「寒っ」
体も洗濯物もすっかり冷え切ったころになって、ようやく気を取り直す。さっさと部屋に戻ろうと、手早く乱雑に、片っ端から洗濯物を籠に放り込む。ハンガーや洗濯ばさみもお構いなしだ。数日分のそれをまとめたそれを抱え上げ、
『…………♡』
混ざっていた異物を、さっきお空の彼方へ飛ばされたはずの『彼女』をもう一度お空の向こうへ送りだした。
『…………!! …………!!』
ふわりふわりの風の行くまま、気の向くまま。たなびく雲の如くどこぞに行ってくれるだろうと眺めていたら。
『…………♡ …………♡♡』
「泳げるのかよ!?」
見事なドルフィンキックを披露してこちらに急接近してきた。
楽しそうだ。でも俺はお空を泳げないんだ、一人でやってて下さい。
迎撃するのは流石に忍びないので、ぴしゃりと窓を閉める。思っていたよりも彼女は速く、辛うじて侵入される寸前で閉める形になった。
『…………! …………!!』
どうやらおでこをしたたかに打ちつけたようで、窓越しに無言の圧を送られた。何を言ってるのかは分からないが、ほっぺを膨らませてることから怒っているのは間違いないだろう。両手をぺちぺち窓に打ちつけている。
そんな目で見られても困る。施錠すれば入ってこられないだろうと、窓の鍵に手を伸ばしたところで、
『…………♡』
「え」
するり、と。窓と窓との隙間に、指先が通った。
『…………♡♡』
腕を、胴体を、顔や脚を。虫も通れないだろう隙間に彼女はやすやすと入り込んできた。鍵へと伸びたこちらの手を優しく握り、胸の前まで持っていく。薄手の布の手触りをしたそれは、ついさっきまで風に吹かれていたとは思えない人肌の温もりがあった。
『…………♡♡♡』
「いや訳分からん」
ほっぺたをぺちぺちされた。ほんと訳分からん。
§
それはある朝のできごと。
ふわりふわりとお空を漂っていたら、お洗濯物を干している殿方を見かけました。眠たそうなお顔をして、ぱたぱたと皺にならないよう布地を広げています。
随分たくさんのお洋服を広げています、が、どれも似たようなお洋服ばかりです。独り身で、普段はお忙しいのでしょうか? お手伝いしましょうか決めかねている間に、彼はたちまちお仕事を終えて引っ込んでしまいました。
「また、会えるかしら」
ぽつりと、何となく呟いた言葉に答えてくれる人はいませんでした。
お日様が西に傾き始めたころ。
私は朝見かけた男の人が気になって、もう一度彼の家の近くまでやってきました。お洗濯物はそのままお外にぶら下がったままです。
「そろそろ取り込まないと、お日様のぽかぽかが逃げていっちゃいますよ?」
窓から様子を見ようとしましたが、カーテンがかかっていて向こう側を窺うことはできません。窓を叩いて教えてあげようとしましたが、返事は返ってきませんでした。
「変ですねぇ」
彼にも彼の都合があるというのに、何を言っているんでしょうか私は。彼に向けたはずの言葉は、後々私自身にそのままそっくり返ってくることになるのです。
しかし、この時の私はそれに気づきもしませんでした。彼が出てくるまで待ってみましょうと、物干し竿の空いている場所にかけて待つことにしたのです。
そうして時間は過ぎ、退屈でうつらうつらと瞼が下がり始めたころ。
『こ、こんにちは……?』
窓が開いて、彼が姿を現しました。驚いたような、怖がっているような、そんな顔をしていました。当然でしょう。余所様の軒先に見知らぬ女性が上がり込んでいるのですから。
「ああいえ、違うんです、そんなつもりでは」
私は誤魔化すように手を振ります。ばつの悪さと寝顔を見られたかもしれない気恥ずかしさで、自然と曖昧な笑みが浮かんでしまいました。もっとも、それを見て彼は安心したようでしたが。
叱られる、かと思いましたが彼はそれ以上何も話しませんでした。興味ありげに目線が上下していますが、不思議と嫌な気分はしませんでした。……むしろ、興味があるのなら、いっそ触れてもらいたいような、そんな感情が湧いてしまっていたのです。内側から体が火照るような感覚に陥りつつも、意を決し
「その、もし宜しければ──ぁ」
触れてもらおうと身を乗り出したところで、一陣の風が私をさらっていきました。
「あ」
『え』
あまりにも突然なできごとに、私は対応できませんでした。彼に見つめられるまま、ふわりふわりと遠いお空へ浮かび上がっていきます。
ああぁ、これでお別れなんて寂しすぎます。何としても戻らないとーー!
「はー、はーっ……、ど、どうにか戻ってこられました……」
風の流れに逆らってお空を飛ぶ術を編みだし、どうにかこうにか彼の家へと戻って参りました。当初の目的はとうに私の頭から抜け落ちて、今はどうにかして彼に触れてもらいたいという一念でいっぱいです。
これを一目惚れというのでしょうか。
「とはいえ、どうしましょうか……」
しかし難儀なことに、どうやら私の言葉は彼に通じていないようです。そんな状態から触れてもらうためには一計を案じる必要があるでしょう。
「そうです!」
ふと目についたのは大きな洗濯籠。ひょいひょいと、彼は私に目もくれず次々にお洗濯物を放り込んでいます。つまり、こっそり忍び込めばばれないかもしれません!
「ああっ違うんです待って止めて流さないでーー!」
ばれてしまいました。私の体はひょいと抱え上げられ、お外に放り出されてしまいます。ああでも、これで彼に触れてもらえたからそれで良しとしましょうか、私の頼りない手と違ってしっかりと握って抱き留めてくれそうな手をしていましたね──いやいや認めませんよ!? もっとしっかり触れて頂かないと!
「待ってくださいませ! どうか、どうかもう一度機会を与えて下さいませんか!?」
『泳げるのかよ!?』
貴方様にもう一度触れてもらうために頑張ったんですよ、と必死になって空を泳ぎます。あともう少し、もう少しで彼の胸元まで飛び込め──
「ふぎゃ!?」
鼻先で窓を閉められました。うぅぅ、ひどい。こんな仕打ちをされるなんて。こうなったらどうしてでも触れていただかないと収まりがつきません。ぷんすこ。
「開けてくださいよぅ、触ってくださいよぅ……よよよ……」
訳の分からない乱入者を相手にしても、ばつが悪そうに悲しげな顔をしてくれる彼はきっと優しい方なのでしょう。だというのに、私はその優しさにつけこむような真似をしています。
けれどどうしても止められないのです。例え彼が窓に鍵をかけたとしても──
「……あら♡」
『え』
鍵がかかっていません。指先を通せばするりと抜けるだけの隙間がありました。そのまま、私自身の体をするりするりと入れ込ませます。……するり、は大げさですが、そこは愛の力でカバーしました。
『ふふ、ひょっとして、恥ずかしかっただけなんですねぇ……♡』
大丈夫です、何も怖いことはありませんよ、と。安心させるべく彼の手を取り私の胸元へと寄せました。触れてしまえば崩れてしまいそうな頼りない私の手と、がっしりとした肉感ある彼の手とが重なり合います。
温かい。体温だけでなく、この身を委ねられる感覚が、何よりも心地良いです。かさかさ、と私が人の温もりの感触を味わう音が、絶え間なく辺りに流れていました。緊張からか、彼の手から滲んでいた汗が私へと染みていきます。
「やっぱり、貴方様は私の運命の人だったのですね……♡」
『いや訳分からん』
分からないのなら、私が教えて差し上げますよ……♡
ゆっくりと彼の頬に手を添え、二度三度触れたり離したりを繰り返してから、優しく顔全体を包み込む。今何が起こっているのか、これから何が起ころうとしているのか、何も知らない顔へゆっくり唇を近づける。
さぁ、まずは唇から……♡
『私の感触、たぁっぷり味わってくださいませ♡』
21/10/29 09:01更新 / ナナシ