No where 2 side B
ぎゅっ、と。細い腕が、オレの体を抱きすくめる。
『オレに恋をした女』の華奢な体を、『オレ』はそっと抱きしめ返した。
「――感謝、しなければな。俺の元へ辿り着いた、奇跡には」
そして、その耳元で優しく言葉を紡いでやった。彼女がどんな顔をしているのか、胸板に隠れたそれを見ることは叶わない。
「ねぇ……もう一個だけ。奇跡を起こしても、良い?」
しかし、その声は。俺の体を必死に抱きしめようとする、その姿は。
「あぁ……俺とお前なら、きっと起こせるさ」
届かなかった想いを。届けてはいけなかった想いを。
必死に手繰り寄せて、届けようとする……恋する女。
顔をあげた彼女の表情は、そう表現するのがふさわしかった。
それが例え……『演技』だと、わかっていても。
「――――カット!!3番、そこまで!!」
審査員の声が、高らかに会場へ響き渡る。
そして彼女は、力を抜いてへたり込むのだった。
恋する乙女の表情ではない、安堵に満ちた表情を……オレ以外の誰かの方へ、向けて。
−−−−−
彼女は、オーディションに無事受かったらしい。
あの時はまだ未定ではあったのだが、これで晴れて彼女とオレが一緒に劇をする事は確定だ。
オレが主役で、彼女がヒロイン。
喜ばしい事、のはずだ。なんだが……素直に、喜べない。
なんとなく、彼女には避けられているような気がする。
劇団に馴染んだ彼女は、誰に対しても親切だ。オレら役者だけでなく、照明係や小道具係のスタッフにも毎日挨拶を欠かさない。
劇においては役者以外も含めた誰もが大切だと、良く知っているようだった。悲しいかな、オレがそれを理解するには時間がかかったというのに。
ただ、そんな彼女が唯一目を合わせようとしない相手がオレなのだ。
それに……いや、これ以上は確信がない事だ。
原因に心当たりは、ある。初日にいきなり男が詰め寄ったりしたのだ、苦手意識を持たれても仕方がない。
しかし、これまではまだしもヒロインとなった今となっては、このままにしておきたくもない。
とはいえ、何をしていいのかも現状はわからずにいて……今まで人間関係を疎かにしたツケが、なおも回ってきている気がする。
アイツにも、こんな調子じゃ顔向けできないな。
悩みながら、携帯を開いてメールを確認する。あいつからの返信を待っている内に、すっかり癖になってしまった。
もうその心配はないとわかっても、なお。メールはちゃんと、返ってきたのだから。
だというのに……別れの言葉が書かれたそのメールを、オレはまだ直視できていない。
あいつとは、別れた気がしないのだ。本当は案外すぐ近くにいて、またオレと劇をしようとしてるんじゃないかって気さえしてる。
この劇を成功させた時に、あいつと向き合える。そんなオレの予感は、どんどん強まっていて……
……だから。
まだ、返せない。返したく、ないんだ。
−−−−−
きっかけが、欲しかった。
「カット!−−まだ、初々しすぎるな」
「……っ、すみません」
「申し訳ないです」
オレとあいつは、二人で頭を下げる。相手は、舞台監督だ。
演技の練習は、お互いに上手くいっているとは言えなかった。
どうにもオレは、彼女の演技に翻弄されているようだ。
彼女の演技は不安定というか、波が激しいというか……一言で表現するのは、難しい。
例えば手を握られて顔を赤らめたり、自分を繋ぎとめようと必死に力を込めたり、そう言った『拙さ』は得意だ。思わずオレもそれにつられてカッコイイ男を演じたくなる、そういう力があるのだ。
一方で、男をからかったりだとかリードしたりとか、そんな『余裕』の表現は上手くない。正確には、できない事もない。しかし彼女がやると、異性に対しての余裕と言うよりも同性の友達同士の気兼ねない関係に近いのだ。
それこそまるで、アイツと一緒にいる時のような……
一度アイツを想像してしまうと、その姿を重ねてしまう事が何度かあって。
彼女の演技に引っ張られて、オレもまるで男友達のような距離感で受け答えしてしまう事が、何度かあった。
彼女はまるで自分1人が悪かったかのごとく申し訳ない表情だが、実際はオレにも責任の半分はある。
だから、何かが欲しかった。自分を避けている彼女を。彼女を支えてやれない自分を。そういう現状を打破する、何かのきっかけが。
「−−うーん。役作りをもっと徹底してみようか」
――そのきっかけを作ったのは、監督の言葉だった。
しかし、それは素直に喜べるものじゃないのは、明らかで。
それを理解していないらしい彼女が、少々縮こまった態度で返事をする。
「お前らの役は同棲している恋人の役、だろ?」
「……は、はい」
「だったら、簡単だ−−お前ら、しばらく共同生活しろ」
「……はい?」
ほらな、と思う。
満面の笑みを浮かべる監督の思いつきは、大抵イタズラに等しいのだ。
−−−−−
「お、お邪魔、しまーす……」
俺の後に続いて、恐る恐ると言った感じで玄関の扉を開く彼女。
その様子は借りてきた猫、ということわざがぴったりだ。
「いや、そんな他人行儀な挨拶はしないでくれ。今日からオレとキミはここで済むんだから、『ただいま』と言うべきだろう」
「あー……そ、それもそうですね」
オレの指摘に対しての返事は、ぎこちない。
……これはいよいよ。オレの予想は当たっていたと見るべきなのだろうか。
「それと……これからはもっと、自然な口調で話してほしい。ずっと演技するのは疲れるだろ?」
「ぇっ……」
これまで彼女の色んな表情を見てきたが、目を見開くのを見るのは初めてだった。
なんとか打ち解けられないものかと、彼女の事はこれまで暇さえあれば観察するようにしていた。それでも結局、仲良くなるきっかけを掴む事はできなかったが……毎日見ている内に、それに気づいたのだ。
アイツが嘘をついている時と、同じような挙動をしているように見えたから。
……まぁ、それに気づいてからは余計に彼女との距離を感じるようになったのだが。
それにしても確信があった訳ではなかったが、カマかけは成功したようで良かった。
「え、えぇと……」
「もう遅いよ。そこまで露骨な反応されると、流石に何言っても信じられないって」
それでも何かを言おうとした彼女の言葉を、先回りして封じ込めると。
観念したのか、がっくりと肩を落として―――
「――わかったよ。悪かったな、ずっと演技してて」
「…………っ!?」
――――まるで、男のような。アイツのような口調で、喋り出した。
「……なるほどね。それなら、キミがそういう態度だったのも納得だ」
「いや、何を理解したんだよ……」
「単純な話だよ。その口ぶりはキミのような女性にふさわしくない。だから女性らしく振る舞おうと努力して、けど演技が抜けきらなかった。違う?」
「………………あぁ、そんなところだよ」
やけに間が空いた、ぶっきらぼうな返事だった。けれどオレの方はといえば、情けない事に動揺を悟られていないかで頭がいっぱいになっていて、らしくもなく饒舌になっていて。
何故、彼女はアイツと重なるのだろう。顔立ちも、表情も。そもそも性別も、何もかもが違うというのに。
相変わらず目を合わせないように努めている事が、その時だけはありがたかった。
−−−−−
同棲が始まっても、オレと彼女の距離感は相変わらず変わらなかった。
彼女はとても献身的だ。家事を積極的に引き受けてくれて、現在じゃ彼女とオレの二人で交代制になる程だ。
特に、何の気はなしにリクエストした豚の生姜焼きはおいしくて……なんとなく、懐かしくて。オレの方は、色々な事情関係なしに彼女とは仲良くしたいと思うようになっていた。
会話も大分、増えてきてはいるように思う。
ただ、彼女はそれでも目を合わせようとはしてくれない。徹底的に。同棲が始まってから、目が合ってもすぐにそらされるからまともに直視をできた事がない。
どうにも、最初に抱いた印象は中々払拭されてくれないのだろうか。
ただ、そんな状況でオレにできる事があるかと言われれば、思いつかない。無理やり距離を詰めるのは、苦手だし性にも合わない。
何も変わらず、日々だけが過ぎていく……表面上は。
「……っ、あっ……」
必死に噛み殺そうとしている声が、漏れている。
くちゅり、と水音が明かりを落とした部屋に響く。
荒れた呼吸が、それに続く。
「んくっ……!!」
ここまでくれば、何が起こっているのかは大体察する。
要するに、彼女は……自慰をしているのだ。よりにもよって、俺の部屋で。
現在は深夜。俺はソファで横になっているし、彼女は布団の上。だから、向こうはオレが寝ていると思っているのかもしれないが……それにしても、だ。
しかもそれは、今日に限った話ではない。ここ数日の間毎日、だ。
初めて気づいた時はオレも、起き上がって止めようかとは思った。
しかしオレも、所詮は健全な思考を持つ男。女性が自分の部屋に転がり込んで、自分を慰めている状況は……決して、嫌なだけではない。
ただ、今日は違う意味で限界が訪れていた。毎日聞いているせいか、パジャマのズボンに張られたテントが若干痛い程に張り詰めてしまったのだ。
――――毎日聞いていて、向こうはこっちに気づかないと油断していたのだろう。気がついたらオレは、大胆な行動を取っていた。
彼女の嬌声をおかずに、自分のモノを扱き始めたのだ。
「−−っ!?」
ビクンッ、と彼女の体が跳ねる。
それに合わせて、手を上下させる。気持ち良い。
「はぁっ……ふっ……っ」
荒れた呼吸を、自分の肉竿を眺めながら興奮している姿だと妄想する。
カリ首を引っ掻く。彼女の手を妄想する。気持ち良い。彼女の体に、白濁をかけてしまいたい。
元々固かったものは、あっさりと精を吹き出す準備を開始する。
にちゃっ、にちゃっ。ぎゅちゅっ、ぐちゅっ……
部屋に響く水音に、自分の先走りが肉の棒とこすれる音が混じる。
自分のものだから大きく聞こえるだけだ、彼女に聞こえているわけではない、そう言い訳していた。
それに……聞かれているかもしれない背徳感は、余計に興奮を増長させて。
もう一押しで、簡単に果ててしまいそうな。そこまでの高まりを、感じた時だった。
「ぁっ……!!ぅあっ、『――――』!!」
――――聞こえてきたのは、オレの名前だった。
びゅっ……びゅぶっ……
そう認識した瞬間、オレは果てていた。
服は汚さないよう脱いでいたから、毛布の下で露出した下半身にべっとりとしたものがかかる。
状況が、わからなかった。
何故、彼女がオレの名前を呼びながら自慰に興じていたのか。それも、オレと目を合わせようすらしない彼女が。
いや、まさか。そんな……
ありえない考えが、オレの頭をよぎる。会って大した間もない彼女が、オレへありえない想いを抱いていたと。
先ほどまでの快楽の記憶は、既に吹き飛んでいた。
――――だから、気付かなかった。
彼女が、ピクリと鼻を鳴らした事に。オレが出した精に反応していた事に。
そしてこれは、気付ける訳もない事だが。
彼女は、オレの想像する「ありえない」を超えた……異形の存在であった、という事に。
「あはぁっ……♪」
恐ろしく艶やかな、情欲を纏った声がした。
『オレに恋をした女』の華奢な体を、『オレ』はそっと抱きしめ返した。
「――感謝、しなければな。俺の元へ辿り着いた、奇跡には」
そして、その耳元で優しく言葉を紡いでやった。彼女がどんな顔をしているのか、胸板に隠れたそれを見ることは叶わない。
「ねぇ……もう一個だけ。奇跡を起こしても、良い?」
しかし、その声は。俺の体を必死に抱きしめようとする、その姿は。
「あぁ……俺とお前なら、きっと起こせるさ」
届かなかった想いを。届けてはいけなかった想いを。
必死に手繰り寄せて、届けようとする……恋する女。
顔をあげた彼女の表情は、そう表現するのがふさわしかった。
それが例え……『演技』だと、わかっていても。
「――――カット!!3番、そこまで!!」
審査員の声が、高らかに会場へ響き渡る。
そして彼女は、力を抜いてへたり込むのだった。
恋する乙女の表情ではない、安堵に満ちた表情を……オレ以外の誰かの方へ、向けて。
−−−−−
彼女は、オーディションに無事受かったらしい。
あの時はまだ未定ではあったのだが、これで晴れて彼女とオレが一緒に劇をする事は確定だ。
オレが主役で、彼女がヒロイン。
喜ばしい事、のはずだ。なんだが……素直に、喜べない。
なんとなく、彼女には避けられているような気がする。
劇団に馴染んだ彼女は、誰に対しても親切だ。オレら役者だけでなく、照明係や小道具係のスタッフにも毎日挨拶を欠かさない。
劇においては役者以外も含めた誰もが大切だと、良く知っているようだった。悲しいかな、オレがそれを理解するには時間がかかったというのに。
ただ、そんな彼女が唯一目を合わせようとしない相手がオレなのだ。
それに……いや、これ以上は確信がない事だ。
原因に心当たりは、ある。初日にいきなり男が詰め寄ったりしたのだ、苦手意識を持たれても仕方がない。
しかし、これまではまだしもヒロインとなった今となっては、このままにしておきたくもない。
とはいえ、何をしていいのかも現状はわからずにいて……今まで人間関係を疎かにしたツケが、なおも回ってきている気がする。
アイツにも、こんな調子じゃ顔向けできないな。
悩みながら、携帯を開いてメールを確認する。あいつからの返信を待っている内に、すっかり癖になってしまった。
もうその心配はないとわかっても、なお。メールはちゃんと、返ってきたのだから。
だというのに……別れの言葉が書かれたそのメールを、オレはまだ直視できていない。
あいつとは、別れた気がしないのだ。本当は案外すぐ近くにいて、またオレと劇をしようとしてるんじゃないかって気さえしてる。
この劇を成功させた時に、あいつと向き合える。そんなオレの予感は、どんどん強まっていて……
……だから。
まだ、返せない。返したく、ないんだ。
−−−−−
きっかけが、欲しかった。
「カット!−−まだ、初々しすぎるな」
「……っ、すみません」
「申し訳ないです」
オレとあいつは、二人で頭を下げる。相手は、舞台監督だ。
演技の練習は、お互いに上手くいっているとは言えなかった。
どうにもオレは、彼女の演技に翻弄されているようだ。
彼女の演技は不安定というか、波が激しいというか……一言で表現するのは、難しい。
例えば手を握られて顔を赤らめたり、自分を繋ぎとめようと必死に力を込めたり、そう言った『拙さ』は得意だ。思わずオレもそれにつられてカッコイイ男を演じたくなる、そういう力があるのだ。
一方で、男をからかったりだとかリードしたりとか、そんな『余裕』の表現は上手くない。正確には、できない事もない。しかし彼女がやると、異性に対しての余裕と言うよりも同性の友達同士の気兼ねない関係に近いのだ。
それこそまるで、アイツと一緒にいる時のような……
一度アイツを想像してしまうと、その姿を重ねてしまう事が何度かあって。
彼女の演技に引っ張られて、オレもまるで男友達のような距離感で受け答えしてしまう事が、何度かあった。
彼女はまるで自分1人が悪かったかのごとく申し訳ない表情だが、実際はオレにも責任の半分はある。
だから、何かが欲しかった。自分を避けている彼女を。彼女を支えてやれない自分を。そういう現状を打破する、何かのきっかけが。
「−−うーん。役作りをもっと徹底してみようか」
――そのきっかけを作ったのは、監督の言葉だった。
しかし、それは素直に喜べるものじゃないのは、明らかで。
それを理解していないらしい彼女が、少々縮こまった態度で返事をする。
「お前らの役は同棲している恋人の役、だろ?」
「……は、はい」
「だったら、簡単だ−−お前ら、しばらく共同生活しろ」
「……はい?」
ほらな、と思う。
満面の笑みを浮かべる監督の思いつきは、大抵イタズラに等しいのだ。
−−−−−
「お、お邪魔、しまーす……」
俺の後に続いて、恐る恐ると言った感じで玄関の扉を開く彼女。
その様子は借りてきた猫、ということわざがぴったりだ。
「いや、そんな他人行儀な挨拶はしないでくれ。今日からオレとキミはここで済むんだから、『ただいま』と言うべきだろう」
「あー……そ、それもそうですね」
オレの指摘に対しての返事は、ぎこちない。
……これはいよいよ。オレの予想は当たっていたと見るべきなのだろうか。
「それと……これからはもっと、自然な口調で話してほしい。ずっと演技するのは疲れるだろ?」
「ぇっ……」
これまで彼女の色んな表情を見てきたが、目を見開くのを見るのは初めてだった。
なんとか打ち解けられないものかと、彼女の事はこれまで暇さえあれば観察するようにしていた。それでも結局、仲良くなるきっかけを掴む事はできなかったが……毎日見ている内に、それに気づいたのだ。
アイツが嘘をついている時と、同じような挙動をしているように見えたから。
……まぁ、それに気づいてからは余計に彼女との距離を感じるようになったのだが。
それにしても確信があった訳ではなかったが、カマかけは成功したようで良かった。
「え、えぇと……」
「もう遅いよ。そこまで露骨な反応されると、流石に何言っても信じられないって」
それでも何かを言おうとした彼女の言葉を、先回りして封じ込めると。
観念したのか、がっくりと肩を落として―――
「――わかったよ。悪かったな、ずっと演技してて」
「…………っ!?」
――――まるで、男のような。アイツのような口調で、喋り出した。
「……なるほどね。それなら、キミがそういう態度だったのも納得だ」
「いや、何を理解したんだよ……」
「単純な話だよ。その口ぶりはキミのような女性にふさわしくない。だから女性らしく振る舞おうと努力して、けど演技が抜けきらなかった。違う?」
「………………あぁ、そんなところだよ」
やけに間が空いた、ぶっきらぼうな返事だった。けれどオレの方はといえば、情けない事に動揺を悟られていないかで頭がいっぱいになっていて、らしくもなく饒舌になっていて。
何故、彼女はアイツと重なるのだろう。顔立ちも、表情も。そもそも性別も、何もかもが違うというのに。
相変わらず目を合わせないように努めている事が、その時だけはありがたかった。
−−−−−
同棲が始まっても、オレと彼女の距離感は相変わらず変わらなかった。
彼女はとても献身的だ。家事を積極的に引き受けてくれて、現在じゃ彼女とオレの二人で交代制になる程だ。
特に、何の気はなしにリクエストした豚の生姜焼きはおいしくて……なんとなく、懐かしくて。オレの方は、色々な事情関係なしに彼女とは仲良くしたいと思うようになっていた。
会話も大分、増えてきてはいるように思う。
ただ、彼女はそれでも目を合わせようとはしてくれない。徹底的に。同棲が始まってから、目が合ってもすぐにそらされるからまともに直視をできた事がない。
どうにも、最初に抱いた印象は中々払拭されてくれないのだろうか。
ただ、そんな状況でオレにできる事があるかと言われれば、思いつかない。無理やり距離を詰めるのは、苦手だし性にも合わない。
何も変わらず、日々だけが過ぎていく……表面上は。
「……っ、あっ……」
必死に噛み殺そうとしている声が、漏れている。
くちゅり、と水音が明かりを落とした部屋に響く。
荒れた呼吸が、それに続く。
「んくっ……!!」
ここまでくれば、何が起こっているのかは大体察する。
要するに、彼女は……自慰をしているのだ。よりにもよって、俺の部屋で。
現在は深夜。俺はソファで横になっているし、彼女は布団の上。だから、向こうはオレが寝ていると思っているのかもしれないが……それにしても、だ。
しかもそれは、今日に限った話ではない。ここ数日の間毎日、だ。
初めて気づいた時はオレも、起き上がって止めようかとは思った。
しかしオレも、所詮は健全な思考を持つ男。女性が自分の部屋に転がり込んで、自分を慰めている状況は……決して、嫌なだけではない。
ただ、今日は違う意味で限界が訪れていた。毎日聞いているせいか、パジャマのズボンに張られたテントが若干痛い程に張り詰めてしまったのだ。
――――毎日聞いていて、向こうはこっちに気づかないと油断していたのだろう。気がついたらオレは、大胆な行動を取っていた。
彼女の嬌声をおかずに、自分のモノを扱き始めたのだ。
「−−っ!?」
ビクンッ、と彼女の体が跳ねる。
それに合わせて、手を上下させる。気持ち良い。
「はぁっ……ふっ……っ」
荒れた呼吸を、自分の肉竿を眺めながら興奮している姿だと妄想する。
カリ首を引っ掻く。彼女の手を妄想する。気持ち良い。彼女の体に、白濁をかけてしまいたい。
元々固かったものは、あっさりと精を吹き出す準備を開始する。
にちゃっ、にちゃっ。ぎゅちゅっ、ぐちゅっ……
部屋に響く水音に、自分の先走りが肉の棒とこすれる音が混じる。
自分のものだから大きく聞こえるだけだ、彼女に聞こえているわけではない、そう言い訳していた。
それに……聞かれているかもしれない背徳感は、余計に興奮を増長させて。
もう一押しで、簡単に果ててしまいそうな。そこまでの高まりを、感じた時だった。
「ぁっ……!!ぅあっ、『――――』!!」
――――聞こえてきたのは、オレの名前だった。
びゅっ……びゅぶっ……
そう認識した瞬間、オレは果てていた。
服は汚さないよう脱いでいたから、毛布の下で露出した下半身にべっとりとしたものがかかる。
状況が、わからなかった。
何故、彼女がオレの名前を呼びながら自慰に興じていたのか。それも、オレと目を合わせようすらしない彼女が。
いや、まさか。そんな……
ありえない考えが、オレの頭をよぎる。会って大した間もない彼女が、オレへありえない想いを抱いていたと。
先ほどまでの快楽の記憶は、既に吹き飛んでいた。
――――だから、気付かなかった。
彼女が、ピクリと鼻を鳴らした事に。オレが出した精に反応していた事に。
そしてこれは、気付ける訳もない事だが。
彼女は、オレの想像する「ありえない」を超えた……異形の存在であった、という事に。
「あはぁっ……♪」
恐ろしく艶やかな、情欲を纏った声がした。
16/11/05 18:12更新 / たんがん
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