ある猫にとっての気紛れな邂逅、またはある牛にとっての幸運なる援助
不思議の国の案内役は、いつだって猫と相場が決まっている。
にんまり笑った口元とゆらゆら揺れる尻尾をぶら下げて、いつだって人を食ったような喋り方で相手を煙に巻く。
猫が喋ることなど、その世界においては外れた常識のほんの一部でしかない。
……チェシャ猫。
それが彼女、色分いろはの種族を表す名前であった。
紫と黒で分けられた髪、そこからぴょこりと飛び出る同じ色の猫の耳。
頭のそれを揺らして、彼女は帰路とは少しずれた道を歩いていた。
本来ならば隣には毎日一人の少年がいるはずなのだが、今日に限ってその姿はない。
彼女が毎日通る通学路からあえて外れて歩いているのも、そこに起因していた。
結論から言うと、彼女の大切な恋人こと有栖川は本日、風邪を引いて寝込んでいる。
そこで彼女は、お見舞いをしてやろうという計画を立てたのだった。
そこで、病人でも食べられそうなものを作る為に買い出しに行こうとしている真っ最中。
それが……ふとした出会いの、始まりだった。
「ふんっ!!ふんっ!!」
近道を通ろうと、並木道に差し掛かった時の事である。
ぴょこんぴょこんと、空に向かって必死に手を伸ばす一人の少女の姿があった。
「もう、ちょっと……ふんっ!!ふんっ!!」
何度も何度も伸ばしても、小さなその手の先は空を切る。
手と視線の先にあるのは、小さな風船だった。
それも、公園の植木の一つに紐が引っかかってしまっているもの。
この様子だと、自分の手にあったそれを離してしまったのだろう。
さて、これを見た色分いろははどうしたか。
……その時の行動は、まさに『猫の気紛れ』とでも称するべきか。
猫の足が、公園の地面の上からすぐに離れていった。
「にゃあ♪」
「「ふえっ……!?」
少女の横を通過するのは、猫の尻尾。
くるりと回った全身とともに尻尾が木の枝に結びつく。
本来の猫ならばそれで終わりなのだろうが、いろはの尻尾が枝に絡みついたかと思うとその体が枝を軸に一回転する。
遠心力でついた勢いのまま、いろはは空に飛び出した。
一瞬木の上まで一気に跳び上がり……落下際に、鮮やかな色をした腕が、瞬時に風船を捉えた。
「ほわぁ……」
風船を取ろうとしていた少女が、驚きと憧れの満ちた目でこちらを見上げる。
チェシャ猫はそれに、ニヤリと人を食ったかのような笑顔を浮かべ返した。
だが、それがいけなかった。
パァン!!
一瞬、いろはの背後への注意が逸れた時の事だった。
飛び出た木の枝に刺さった風船が、大きな音を立て破裂する。
すたっと華麗に着地したいろはの手には、風船を失った紐がくたりと力なく垂れていた。
「…………」
「…………」
少女二人が、思わず顔を見合わせる。
「ふぇ……」
……その内、小さな少女の方の目が、じんわりと滲んでいく。
(うぅむ……これは仲々どうしたもんかにゃあ……って、アリスはいないんだったにゃあ)
脳内でここにいない少年の事を考えて言葉遊びをするぐらいに、いろはが切羽詰まった状況となった時。
彼女の目が、クレープを売っている車を捉えた。
「はむっ、もぐっ、むぐっ……とってもあまくておいしいでしゅー♪」
「それはよかったにゃあ」
ベンチにてクレープを頬張る少女の隣に、いろはも腰掛ける。
猫のような特徴を持つ彼女の隣に座る少女もまた、動物のような特徴を有していた。
ふさふさの毛で覆われた足、頭から生えているねじれた角とふさふさとした耳。臀部から生える先端に茶色の毛が集中した束……尻尾。
人間と牛の特徴を混ぜ合わせたような女の子、ミノタウロスの少女がそこにはいた。
もぐもぐと、口の中のクレープを噛みきる前から少女は口を開く。
「わた、もぐ、みなづ、ばく、みね、もむ、っていいましゅ!!」
「綿もぐ皆津縛峰揉むちゃんでいいのにゃ?」
「むぐ!?もぐ、はぐっ……!!」
喉に詰まらせたのかというぐらいミノタウロスの少女は驚いて、それから残っているクレープを一気に口の中へと押し込んだ。
「そ、そんな名前じゃないのでしゅ!!わたしは水無月 美音(みなづき みね)でしゅよ!!」
「ほうほう、そんな名前だったのかにゃ。ちっとも気付かなかったのにゃ」
「わかりました、もう食べながら喋らないようにしましゅ……」
ミノタウロスの少女こと美音は、一つ教訓を得て大人になるのだった。
「アタシは色分いろはだにゃ」
「いろ……わけ?なんだか、『色々』ありそうな名前でしゅねぇ」
「それを言うなら、ミネももう少しで『皆々』様拍手喝采のカーテンコールなんだけどにゃあ」
「え?えっと、みなみね……あ、ホントでしゅ!!いろは、しゅごいのでしゅ!!」
自分の名前だと言うのに、空を眺めて反芻をする美音。
気付かなかったというよりは、その名前自体に馴染んでいなかったような言い方だった。
「つい最近変わったばかりなので、ちっとも気付かなかったのでしゅ……」
「ミネ、結婚したのかにゃあ?」
「はいでしゅ!!シンタロー……だんな様は、とってもかっこいい人なんでしゅよ!!」
まさかとは思っていたのだが、本当に既婚者であったらしい。
正確には美音とその恋人はまだ同居まではしていないので、夫婦というよりは許嫁といったところであるのだが。
相手が魔物娘であるとはいえ、それでも普通なら驚愕するところではある。
「ほうほう……とゆうことは、ミネと同じ歳ぐらいなのにゃ?」
だが流石というか、なんというか。
ねじれた常識の住人であるいろはにとっては、表情を変えるにすら値しないようだった。
「違いましゅよ!!シンタローが○学生で、わたしが○学生なのでしゅ!!」
「伏せ字にすると、見事に違いがわからんにゃあ」
「ふせ……?それよりいろはの方は、好きな人とかいないのでしゅか?」
「ちゃんといるのにゃ。アタシと同じ、(ピー)校生の彼氏だにゃ」
「今の音どうやって出したんでしゅ!?」
「うーん、そこじゃないにゃあ」
これがいろはの彼氏こと有栖川の手にかかれば「そこ伏せ字にしても意味無いだろ!!」などと絶妙な切り返しを行っていたことだろう。
小○生……もとい、○学生に期待するのも酷というものであるのだが。
「いろはは、その彼氏しゃんとはラブラブなんでしゅか?」
「そうだにゃあ、いつも授業中だろうと二人でブラブラしてるにゃあ」
「授業中にでしゅか!?いろは、不真面目なのでしゅ!!」
「間違ったにゃあ、ホントはフラフラしてるにゃあ」
「フラフラって……病気なのでしゅ!?大変なのでしゅ!!」
「それも間違えたにゃ、正しくはムラムラしてるにゃあ」
「それはわたしもなんでしゅが……って、結局質問に答えてないのでしゅ!!」
「あれ、そうだったかにゃあ?」
そこでようやく話をはぐらかされたことに気がつく美音であった。
指摘されても、猫のように笑って誤魔化すだけ。
「でも、同じ学校ならいろははきっと毎日ラブラブなんでしゅよねぇ……はぁ……」
そんな彼女に美音が返したものと言えば、疲れを滲ませた溜息だった。
それを見たいろはは何となく、彼女が何に悩んでいるのかを察する。
「旦那に不満でもあるのかにゃ?」
「……わかるんでしゅか?」
はぁ……と、もう一度溜息。
その後で、否定もしない美音がぽつりぽつりと語り出す。
「不満、って程じゃないんでしゅ……ただ、最近シンタローとご無沙汰なんでしゅよ……歳が離れてて学校も違いましゅから、時間が中々合わなくて……」
元々、二人ともまだ学生という身分。
何もかもを放り出して一日中愛し合うというような事を出来るほど、自立ができているわけではない。
恋仲になっても、いやだからこそ一層真面目に勉学に取り組まなければ、と思い立つ旦那の考えが間違えている訳ではないのだが、それでも美音としては寂しいものがある。
「電話しても、いつも課題が忙しいからまた今度、課題が忙しいからって……手伝える程、わたしは頭が良くもないでしゅから行っても邪魔にしかならないでしゅし……」
二人の間の年齢は軽く二桁以上は離れているのだから当然と言えば当然なのだが、語る少女の口調は暗い。
口にしている内に、悲しさを思い出してしまったのだろう。
「キスも交尾も、最後にやったのがいつだったのか覚えてないのでしゅ……うぅ。こんなこと、いろはに言ってもどうしようもないでしゅよね……」
「ミネ、口にクレープのクリームついてるのにゃ」
「見事に聞いてないのでしゅ!?」
ただし、いろははその程度でペースを乱されるような猫ではなかった。
「摂ってあげるからちょっとじっとしてるのにゃ」
「今、何かがすっごく間違ってるような気がしたのでしゅが……まぁ、お願いしましゅ」
大人しくいろはに対面する美音に、猫の毛が生えた手が伸びる。
ふさふさとした感触が頬に触れると、言われないと気付かなかった程度の違和感がそこから消える。
代わりに、頬から離れた紫と黒に包まれた指の一部が白く染まっていた。
「にゃ♪」
「あ、ずるいのでしゅ!!それならわたしが食べたかったのでしゅー!!」
何を思ったのか、いろははクリームのついたそれを自らの口に含んでしまった。
人ならぬ魔性の魅力を持つ魔物娘がやると、なんともいやらしい雰囲気を纏うその動き。
それを見た美音が、何とも子供らしい抗議の声をあげる。
その声に、チェシャ猫らしいにやついた笑みが返されて。
「えっ……んんー!?」
次の瞬間には、楽しそうな表情を滲ませたいろはが美音の唇を奪っていた。
咄嗟に反応出来なかった美音の唇の中に、いろはの舌が割って入る。
「〜♪」
「むみゅっ……!!む、むむぅ……!!」
魔物同士のキスは、クリームの甘い味と香りが同封されてついてきた。
幼い少女の口内を、ざらついた猫の舌が蹂躙していく。
小さな牛の耳が、淫猥な水音を正確に捉える。
口だけなのに、まるで女の中を犯されているような、ぞくりとした錯覚に美音が襲われた時……
「さっきの答え、なんだけどにゃあ……」
いろはの口が、美音から離れていった。
透明な箸がたらりとかかって、やがてベンチの上へと落ちていく。
「好きって気持ちが抑えられないなら、抑える必要なんてないのにゃ。好きって思ったなら、すぐに行動してしかるべきなのにゃ」
「で、でしゅけど……わたしが行ったら、シンタロー困っちゃうのでしゅ……」
「いいのにゃ。魔物が一目見てビビッときたなら、すぐに行動するべきなのにゃ。そういう相手なら……」
かつて自分が押し掛けた少年の事を思い出しながら、猫は言う。
不思議の国では導く側の猫が、導かれるようにして一目で惹かれた少年。
強引なやりとりに疲れは見せてもけして心からの拒絶をせず、自らを抱き寄せたあの時の表情。
「……無茶をしたって、ちゃんと受け止めてくれるのにゃ」
不思議の国にいなくとも、やはり彼女は迷える者を導く猫のようだった。
「……そう、でしゅよね!!シンタローなら、わたしがちょっと押し掛けるぐらいじゃへっちゃらでしゅよね!!わたし、やってみるのでしゅ!!」
やる気に満ちあふれた明るい声で、ベンチから美音は立ち上がる。
既に、自分がこれから何をするべきなのかということを見定めているのだろう。
「そうと決まればじっとなんかできないのでしゅ!!この時間なら、帰ってるって言ってたでしゅし……今からでも、シンタローの家に駆け込んでくるのでしゅ!!ありがとうなのでしゅ、いろは!!」
幼くともミノタウロスらしい力強い言葉と共に、美音は愛しい旦那様の元へと駆け出していく。
迷子の案内を終えたチェシャ猫は一人残されて、それでもいやらしい笑みを浮かべてつぶやいた。
「……さて、アタシも負けてられないにゃあ」
「アリスー、お見合いに来たのにゃー」
「僕達もう付き合ってるだろ……来るならお見舞いに来いよ」
所変わって、いろはの恋人である有栖川の自宅。
額に冷却ジェルシートを貼って布団に潜っている彼こと有栖川は、こんな時でも律儀に言葉を返す。
相変わらず、自分の彼女はどこまで本気かを掴ませようとはしてくれなかった。
「まぁ、いろはが来てくれたのは嬉しいよ。今までは風邪引いても、友達が来てくれる事なんてなかったからさ」
「それはよかったのにゃ、アタシもアリスがぐっしょり濡れてたみたいで安心したのにゃ」
「お漏らしって意味かそれは!?」
「女性的な意味にゃ」
「僕はいつからアルプになったよ!?」
「おっと、これは私の話だったにゃ」
「病人に何を期待している!?」
片方が風邪を引いていようと変わらず繰り返されるやりとり。
有栖川は表面上こそ勘弁してくれと言わんばかりの態度だが、ほのかな口元の笑みはいろはにしっかりとばれていた。
「どうでも良いけど、何で僕の事はまだアリス呼ばわりなんだ。僕の名前、もういろはには教えただろ」
「そんなの、決まってるのにゃ」
がばっと有栖川の潜る布団がめくられて、外の冷気が入り込む。
しかし、彼がそれに身を震わせる事になるのかといえば、そうはならなかった。
「チェシャ猫は、アリスを導くものと相場が決まっているからにゃあ」
有栖川の隣に、いろはの暖かい体が入り込んでしまったのだから。
「……おい。こんなことしたら、僕の風邪が移るかもしれないぞ」
「口移しかにゃ?相変わらず、大人しい顔してむっつりだにゃあ」
「いらん言葉を付け足すな!!」
「間違えたにゃ、ぽっつりだったにゃ」
「孤独感の方も増やすな!!減らせって言ってんだよ!!」
「ぽっちゃりだったかにゃ?」
「遠回しにデブって言いたいのか!?」
「あぁ、ぼっちだったのにゃ」
「もはや純然たる悪口でしかねぇよ!!」
風邪にも関わらず平時と変わらぬテンションだった弊害か、ぜーはーと荒い呼吸を漏らす有栖川。
さすがのいろはでもこれ以上のやりとりは危険だと判断したようで、ここで珍しくまともな表情になる。
「冗談を置いておくと、魔物は人間の病気にはかからないようになってるから大丈夫だにゃ。それに……」
ゴロン、と文字通りの猫なで声をあげて、いろはは視界いっぱいに自分の想い人の顔を映す。
……美音とのやりとりは、普段とは違った反応をみることができてあれはあれで楽しかった。
けれど薄学という割に博学で、むっつりはしていてもぽっくりとはいかないこの少年とのやりとりに感じる、家にでもいるような安らぎ。
「……お前の傍が一番落ち着くのにゃあ」
なんだかんだ言っても、いろはは有栖川の隣がいいのだ。
やれやれ、と言わんばかりの溜息を一つついて、有栖川は最愛の恋人に返事をした。
「……僕もだよ、いろは」
この日、穏やかな声が室内に溶けていった。
「シンタロー!!交尾にきたのでしゅー!!」
一方の、美音の恋人の家である水無月の自宅。
玄関を開けるなりのこの一言は、冗談めいていてもどこまでも美音の本気が込められていた。
「美音!?お前、何で俺の家に……んむっ!?」
様子を見に来たいろはの旦那こと、水無月 慎太郎。
彼を見るなり、その胸の中に飛び込んだ彼女は……その勢いのまま彼を押し倒し、唇を奪った。
「んんっ……!!」
「んちゅ、ぴちゅ、ちゅるぅっ……♪」
慎太郎は困惑の表情を浮かべながら、美音は恍惚の表情を浮かべながら。
美音の舌が慎太郎の中に入り込んで、慎太郎の口の中でさながら赤い物を見た牛のように暴れ回る。
「んじゅる、ぷはっ……♪やっぱり、シンタローは美味しいのでしゅ……♪」
「はぁっ、はぁっ……美音、何で……」
満足そうに口を離した美音に、慎太郎は息も絶え絶えに疑問の言葉を送る。
「どうしてもこうしても、わたしもう待ちきれないのでしゅ!!シンタロー、わたしと交尾をするのでしゅー!!」
「だ、だから……!!俺だってしたくない訳じゃないけど、今日も忙しいんだって……!!」
課題の事を考えて必死に抵抗する慎太郎。
上に乗っている美音は、そこで体を少し足の方へと後退させた。
そこで見た物に、美音は子供ながらに不敵な笑みを浮かべる。
「ふっふっふ……いいんでしゅか、本当に?シンタローのここは、わたしと早く交尾したいって言ってるでしゅよ?」
「うっ……!?そ、そこは……!!」
いろはによる『案内』の成果は、ここでもきっちりと発揮されていたらしい。
キスだけでこの小さな体に欲情した、その事実が幼くとも魔物である彼女の欲望に火を付けてしまっていた。
ズボンの下から張られたテントを、優しい手がやわやわと撫でる。
ズボン越しとはいえ久しぶりに触れた女の子の手の感触に、慎太郎は力が抜けるような気持ちよさを味わった。
「いいでしゅか!?いいでしゅよね!!シンタロー、今日はもう寝かせないのでしゅ!!」
赤い色を見てもいないのにすっかり興奮した美音の手にかかれば、男のズボンをすぐに脱がすことなど雑作もないことであった。
下半身から感じる寒気に、慎太郎の背筋もまた寒くなる。
「ちょ、落ち着けって!!話せばわか……!!」
「落ち着かないのでしゅ!!何を言われたって、わたしは止まらないのでしゅ!!」
好きな相手の息子以外を視界から外して、美音は元気よく叫ぶ。
……いろはと話して、気付いたことがあった。
美音の事が本当はずっと大好きで、でも中々素直にはなってくれない自分の好きな相手。
ずっと逃げ続けていた彼に対して、その背中を追い続けたあの時の自分が覚えた感情。
「覚悟するでしゅよ、シンタロー♪」
何と言われようと、美音は慎太郎を追いかけている時が一番興奮するのだ。
反論を許すまでもなく、慎太郎自身は最愛の恋人の中に飲み込まれた。
「覚悟って、それなんかちが……アッーーー!!」
この日、騒がしい声が町中に響き渡った。
14/03/28 23:50更新 / たんがん