連載小説
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一紡ぎ

登場人物



 アイオン
 魔物を伴とし、旅をしていた戦士。
 罪人として囚われ生きる気力を失うも、再起する。

 ガーラ
 一度は死の淵に立ったハイオークの魔物娘。
 しかし甦り、アイオンを救うために砦を強襲する。

 ノチェ
 アイオンを愛する小さな妖精。
 教母の手によって囚われの身となっている。

 カルタ
 過去を失ったケット・シーの魔物娘。
 砦での戦いでクロとともにノチェを救出すべく奮闘中。

 ヘルハウンドたち
 ニヴ、ザンナ、クロ、プレザの四姉妹。
 旧き姿にその身を変え、ガーラたちとともに砦を強襲する。

 ゴブリンたち
 盲目の指導者パロマに率いられた小鬼の群れ。
 どんな苦境にあっても、パロマのために明るく気丈に振る舞う。

 ティリア
 鮮やかな紅の姿を持つ、竜と化した娘。
 その力は強大無比。







第一 再会

 ……白い雪が舞い吹雪く荒れ丘、そこに建つ砦で炎が舞う。
 砦のあちこちからは黒煙が上がり、砦を守る兵士と、そこで過ごしていた人々の叫びが闇の中に広がっていく。それに混じるように、そしてあまりにも不釣り合いなほど明るい少女たちの笑い声と雄叫びがこの恐るべき一夜を彩っていた。
 砦が築かれて幾百年、数多の戦いの中、幾度となく陥落し、主を変えてきた。その砦が今宵、百年ぶりに再び落ちようとしていた。

 魔物の手によって。

 そんな砦の中庭で、ある魔物たち……獣戦士、黒狼、そして竜……それが対峙していた。獣戦士は黒狼を従え、竜はそれに向かい立つ。竜は灼熱の炎を纏い、あらん限りの怒りと憎しみを籠めて獣戦士を睨む。己の爪で搔き毟った顔からは血とともに漏れ出でた魔力が紅く紅く舞い散り、その美しい顔を彩っていた。その情念に狂った顔立ちは、人ならざる妖美を宿し、人を惹きつけると同時にどうしようもなく恐ろしく感じさせるものであった。

 その竜に向かい立つ獣戦士は全身に焦げ鉄の鎧、あまりにも不格好な、それでいてどこか妙にしっくりとくる出で立ちで獣戦士は大斧を構える。その力強い意思にあふれたその黄金色の両眼に時折蒼い炎がちらりと混じり、畏怖すべき存在である竜に対し決して引くまいと訴えかける。兜からちらと見える顔立ちは、竜とはまた違った美しさを宿していた。
 どこまでも妖しく炎のような美が竜だとすれば、獣戦士のそれは雄大な大木、大地における生命を感じさせる美であった。

 そして、その獣戦士と竜、両者の目的は不思議にも合致していた。
 獣戦士は、一振りの剣と例えただろう。
 竜は、一粒の宝石と例えただろう。
 一人の戦士、両者が互いに愛し愛した一人の男。

 その男がこの砦に囚われていた。

 故に獣戦士は魔物を引き連れ……そして竜は……脆弱な己の殻、人の肉体を破り怪物と化して、砦を襲ったのである。
 どちらも欲深き魔物の性か、それとも因縁故か……獣戦士と竜は相いれることなく戦いへと陥った。どちらも求めるものは同じ、だが獣戦士は竜より奪った、奪う形となったものを守るために、そして竜は奪われたもの奪い返そうと、互いに牙を剥いたのである。

 竜の力は強大であったが独りであった。
 獣戦士は群れを成し竜に抗した。

 独りでは、叶わぬ竜であっても獣たちは群れを成せばその力は抗するに値した。故に戦いは拮抗していた。

 そして、その戦いの場に男が立つ。
 同じく囚われていた魔物の力を狩り、牢を破り、その見えぬ目のまま前を向くのであった。






 「 ティリア! 」

 叫ぶ、竜と化すほどにまで己を欲した女の名を。
 その声は吹雪く風音と燃え盛る炎の鳴り声に掻き消されることなく、竜の、女の耳に届く。

 それと同時に、薫る。
 風の中に渦巻く、男が愛し伴にあると誓った。あの薫り。

 「 ……ガーラ……? 」

 愛する者の名を、呟く。
 死したと思った、思っていた。己が咎のゆえにその身朽ちたと……焦げ付く匂いの中、己は幻覚を感じているのかと、アイオンは自問する。

 だが……

 「 アイオン……ッ! アイオン! 」

 力に満ちた声で己の名が呼ばれる、間違いない。
 無意識のうちに、男の足が前に動き、手を伸ばす。
 確かめたい、本当に、本当に彼女が生きているのだと、その熱を感じたいと。

 だが、その動きを忌々し気に見るものが一つ。

 耐え難い苦痛のままに咆哮を上げ、空を舞い、その両腕を振るう。

 獣と戦士、その離れがたい結びつきを見た竜の……狂おしい嫉妬、苦しみの発露であった。



 第二 渦巻く炎

 風が切り裂かれるような音とともに、鉄と岩がぶつかるが如く轟音が響き渡る。
 振り下ろされた竜の両鎚を獣戦士はその全身と大斧をもって受け止めるも、恐ろしいまでの力が獣戦士の全身にかかり、両足が立つ地が砕けめりこむ。
 「ぐぅっ!!」
 強靭と信じた己の骨が、肉が軋む。あらん限りの、まさに竜の鉄槌ともいうべき一撃を受け止めた大斧の長柄がひしゃげ、折れる。
 (! しまった!)
 「ガーラ!」
 両脇に控えた二体の黒狼が竜に飛び掛かる。効くとは思っていない、だが一縷の望みをかけ炎を噴き上げその牙を竜の足に、腹に突き立て力の限りに喰いつく。

 絶叫

 旋刃の如く、その身と尾がしなりガーラたちを弾き飛ばす。黒狼は強かにその身を壁に、ガーラは地に叩きつけられうめき声をあげる。そのまま倒れたガーラに追い打つように竜が飛び掛かる。
 咄嗟に折れた斧を眼前に掲げ守りの構えをとるも鋭い竜爪に薙ぎ払われ、その手から大斧が弾かれる。
 「がっ! くそっ!」
 そのまま馬乗りになった竜は続けざまに爪を薙ぐ。その爪を、ガーラは腕で守るように受け止める。衝撃とともに鋭い爪が腕甲ごと、ガーラの肉を切り裂く。激しい激痛にガーラの顔が歪む。その苦痛を、竜は嗜虐的な笑みで食い入るように見つめると、立て続けに己の爪を叩きつけていく。

 狂ったように、その口から呪詛を、怨嗟を吐き出しながら、竜は叫び嘆き嗤う。

 次々と爪が、竜の腕が獣戦士の肉を、鎧を抉り飛ばしてその傷口から血を噴き上げさせていく。血だけでなく、魔力もまた同様に傷つけていくその一撃にガーラは何とか抵抗するも、押さえつけられたまま次々とその身を切り裂く猛攻を前に深手を負っていく。
 (ちくしょうっ! まずい……ッ!)
 視界が、紅く、紅く染まっていく。自慢の力をもってしても払いのけられぬ竜の圧倒的な暴力と底知れぬ憎悪によって与えられる責め苦を前に、意識が薄れかけたその時であった……一際巨大な黒狼が竜の背後からその首に喰いかかり、恐るべき力をもって獣戦士から竜を引きはがす。

 大顎によって首を抑えられ、その牙を喰いこまされた竜は絶叫を上げ狂ったようにその爪を、尾を黒狼に叩きつけて打ち飛ばす。黒狼の一際鋭い牙は竜の硬肌を貫き、その首に傷を負わせていた。
 打ち飛ばされた黒狼は素早く身を起こすと、その巨大な大顎をさらに開き灼火迸る喉奥から渦巻く業火を放ち竜の視界を奪う。貫かれることなどない、そう信じていた己の守り、それも生けるものにとって急所となる喉元を破られ半狂乱となったところに業火を浴びせられ、竜はたまらずその身を空へと翻す。

 「ガーラ!」
 「うっ……ッ! お前……ニヴか!」
 一見して悍ましいまでに変わり果てた姿。だが、ガーラは瞬時に理解する。ひときわ大きな巨体を持つ黒狼、ニヴはガーラの肩を軽く噛み支えるようにしてガーラの体を起こす。ガーラの半身は竜の爪によってずたずたに切り裂かれていたが、それでもなおしっかりと大地を踏みしめ空を睨む。
 空では未だ紅い支配者がその翼を広げ逃がさぬとばかりに眼下を睨んでいた。首元からは血が流れ落ち、流れ落ちた血は熔鉄の如き炎となって再び砦に火を広げていく。
 「! アイオン!」
 戦いの中で目的を忘れたとは言わない。だが、気にする余裕はなかった。ガーラは空に警戒しつつもざっと炎が広がる中庭を見渡す。だが、愛する男の姿はない。
 「アイオン! アイオーンッ!」
 「心配スルナ! アイツラガ守ッテイル!」
 焦るガーラの横でそうニヴが叫ぶと同時に、二体の黒狼に守られるように動く男の姿が炎の隙間から見え、ガーラは安堵する。
 だが、それと同時に、空から再度咆哮が響き渡る。

 (来るか!)

 そうガーラが身構えたその時であった。睨むガーラをよそに、竜はくるりとその身を翻す。その視線の先には……

 「マズイッ!」
 ニヴが叫び、駆け出す。だが、竜の急降下の方がずっと早かった。竜が目指すその先に複数の影が動く。そしてそれは先ほどガーラが見つけた愛しい男と傷つきながらも守るように付き従う二体の黒狼のものであった。
 竜もまた、目的を見失ってはいなかった。



 渦巻くような冷気と、時折風に混じりむせるような焦げ臭さとともに熱気がアイオンの体に浴びせられ、ふらつきながらも壁に手を付き前に進もうと足を動かす。聞き違えるはずのない、かつての家族……ティリアの変わり果てた叫び……そして同じく決して忘れることのない薫り、そして声。アイオンはこの時ほど己の目が見えぬことを悔やんだことはなかった。
 だが、確かな希望となってアイオンの足を突き動かしている。

 愛した獣は、死んでいない

 しかし、次に聞こえるは悍ましいまでのティリアの叫び、そしてガーラの悲鳴でもあった。その悲鳴が響き渡ると同時にニヴは即座にアイオンの元からガーラの元へと走ったのである。その動きから状況が良くないということをアイオンは悟る。
 何とか状況を把握しようと耳を澄ませるアイオンのもとに、駆け寄る二体の獣の気配。
 「アイオン! ココハ危ナイ、早クコッチダ!」
 「竜ガ来ル!」
 荒い息を吐き、痛みの滲んだ声。プレザとザンナ、ヘルハウンド姉妹の二体だと気が付き警戒を解くとすぐに二体に連れられるようにして見えぬ闇の中を走る。竜、伝説に語られる大いなる怪物。それが一体何を指す言葉なのか、アイオンには理解する術がなかったが、すぐに理解することなる。
 「クソッ! 来ルゾ!」
 「伏セロッ!」
 引き裂かれる烈風とともに鋭い鞭が走り鈍い打撃の音が鳴る、そして守ってくれていた黒狼が叫びとともに弾き飛ばされる衝撃をその身に受けアイオンは地に伏せたまま動けなくなる。
 竜、そう呼ばれた存在が今己を狙っている、それはアイオンにもわかった。だが、感じる気配は強大な、恐るべき力を前にする恐怖を感じさせるものではなかった。そう。あまりにも懐かしい。思い出すは教会での、長い日々を共に過ごした赤毛の娘、鮮やかな紅の髪が脳裏に輝く。だが、それは同時にとても恐ろしいことであった。なぜ、そのような懐かしさが“竜”から感じられてしまうのか。

 「……アイオン」

 すぐに理解することになる。

 「ずっと……ずっと探していた 私は……」

 熱が、炎の如き熱がアイオンの肌を焼く。光を宿すことのない潰れたはずの目に、紅い輝きがちらつく。その囁きは恍惚を宿し、抑えがたいまでの執着を示す。

 「……私の、私だけの……アイオン」

 鋭く熱い、焼け刺しの如き爪が頬に触れる。

 「……ティリア……」

 名前が、口から零れる。
 どうして、疑問を口にすることもできずにただ名前だけが零れ落ちる。

 「もう……奪わせないわ」

 竜が、戦士を得ようとした瞬間。
 業火とともに黒狼の巨体が舞い竜へと躍りかかる。

 黒狼の爪と牙が、竜の体に再び組み付く。

 叫び、それと同時に戦士は弾かれるように後ろの壁に叩きつけられる。鈍い痛みを感じながら、戦士は意識を集中させる。一体何が起こっているのか、それを理解するために。



 「貴様ァッ!! 邪魔を! 邪魔ヲ!! スルナァッ!!!」
 背後から再度喰いつかれ、怒りに震える。しかし、いくら怒りに濁ろうとも同じ轍を踏むような愚かな竜ではなかった。黒狼の大顎を掴み、その片目を殴りつけるように振り向くと怯んだニヴに対し顎を掴んだまま二度三度、四度、何度となく叫び竜の鉄拳を叩きつける。
 屈強な巨体に拳がめり込み、その度に悲痛な叫びとともに火の粉と血が黒狼の喉から漏れる。幾度となく殴りつけたのち、巨体に竜尾を巻きつけるとその巨体を持ち上げ、力の限り大地に叩きつける。
 敷き詰められた石床が砕け、地にめり込む。いくら黒狼の巨体と雖もあまりにも無情なまでの暴力を前に屈してしまう。だが、その意思までは屈しまいと苦悶の息を吐き捨てながら竜を睨む。その目が、より一層竜を激昂させると知りながらも。
 「獣風情ガッ!!」
 竜の尾が、ミシリと黒狼の体にめり込んでいく。身が引き締められ両断される激痛に黒狼は叫ぶ。

 「やめろ! やめてくれ!! ティリアッー!!」
 僅かな間の攻防、だがその僅かな時に見せた暴力性を前にアイオンは恐怖する。この砦にもたらされた破壊、その主がティリアなのだと。そして、今、ティリアはニヴを己の持つ力のままに殺そうとしていると。だが、その声は竜の怒りに歪み目的の成就に取り憑かれたティリアに届くことはなかった。アイオンは立ち上がり、見えぬままに走る、紅い輝きに向かって。

 アイオンが竜へと立ち向かうと同時に、竜の正面から迫る獣が一体。重い鎧を脱ぎ去り、その身一つで仲間を救うべくぶつかっていく。
 雄たけびを上げ、正面から、馬鹿正直に。

 その獣を前に、竜は嘲笑うように叫ぶと両手の爪を紅花のように開き首と心の臓を引きちぎらんと構える。もう二度と、生き返らぬように。

 獣の黄金の瞳、竜の黄金の瞳……二つの強い意思を宿した金色が、焼き付く砦の中で絡みついていき……



 ぶつかる、その瞬間であった。



 背後より、竜を……ティリアを抱きしめる……制するようにその身を挺するアイオン。じゅっと焼け付くような音とともに肌が鱗と翼に焼き付く。竜の怒りが、ティリアの想いに呑まれた時であった。

 激しい衝撃が腹部に走る。

 竜の体が、獣の突進。ハイオークの二度目の突進を受け宙に浮く。だが、尾に巻き付けた黒狼の巨体と背に抱き着いた戦士が重しとなり先ほどよりも深く力が乗る。背の戦士は衝撃を竜と同じく受け、内臓が揺れるもしがみつき叫ぶ。
 「ガーラッ! 今だッ!」
 戦士の叫び、それに応じるように再度獣の雄叫びが響く、それとともにハイオークの剛腕が竜の腹に叩き込まれる。続けざまに、二度、三度と、その度に背にある戦士にも同じだけの衝撃が加わる。だが、戦士は耐える。
 「喰らえッ!!」
 腹部への衝撃を受け、揺らぐ竜の頭蓋を掴み、獣は己の体の中で最も頑強な部位を……己が頭蓋を……力の限り叩きつける。

 岩を砕き、鉄をひしゃげさせるハイオークの頭突き。

 その一撃を受け、竜の全身が痺れ意識が揺れる。そのまま再びガーラは深くその体を落とし、あらん限りの力を籠める。

 (耐えてくれよ……! アイオン!)

 軋み、弾け、竜を打つ。

 三度目の、最至近距離での突進。
 その衝撃は背の戦士を弾き飛ばし、重しとなった黒狼を竜の尾から解放する。
 吹き飛ばされた竜はそのまま壁の一部を突き崩し、瓦礫の中に埋もれ落ちる。






 僅かな静寂

 「アイオン!」

 獣は、走る。そして弾き飛ばされ地に叩きつけられた戦士を抱き起すと、勢いそのまま戦士の口を奪う。

 甘く、痺れる力が獣に満ちる。枯れかけ、消えかけた炉に燃料が流れ込み一気に燃え盛るような、生命満ちる感覚。先ほどまで冷え切っていた体に、ぽっと熱が灯り心の臓が再び鳴り響いていく。そして、炉が満ちる感覚とともに、確かな歓喜……己以外の、歓喜に打ち震える蒼い炎を確かに目の奥で感じる。
 それと同時に、戦士の肺に命が、生命の、何よりも愛した薫りが満ちその意識を覚醒させる。忘れえぬ、決して間違えることのない獣、それが生きているという確かな、何よりにも勝る歓喜とともにその両腕を回す。
 互いにその体を抱き、もう二度と離すまい、そう固く決意するかのように口を重ねていくのであった。



 第三 小さきもの

 ……竜と獣たちの戦い、その後の戦士と獣の再会。
 それが起こる少し前、冷え切った石の廊下を教母と戦士が歩む。その歩みは砦の唯一の出口である門とは正反対の方へと向いていた。だが、迷うことなく、これこそが正しい道とばかりに戦士は教母を先導していく。その二人を追う小さな影が二つ、気づかれぬように距離を置きながらこっそりと音をたてぬように進む。
 その小さな影の主はカルタとクロであり、目的は教母の持つ鳥籠の中身を確かめ、もしも妖精が捕らわれているのならば救い出すことであった。

 戦士とともに囚われ、そして今は教母の手の中に堕ちてしまったのであろう小さなノチェ。それを救うという大任、それを果たすべくカルタは進む。だが追いついて後、一向に良い考えはカルタの頭に浮かんではこなかった。
 もともと、臆病な生来があるカルタである。不意を突いたとはいえガーラを殺しかけ、そうでなくとも拮抗するだけの実力を備えた戦士ベルナルトに守られた教母の手から鳥籠を奪取するというのはそうそう簡単にできることではなかった。それに、狭い通路という構造がまたベルナルトを大いに有利にしていた。突きを主体とした槍を得意とするベルナルトからすれば、敵を強制的に正面に据えることができるこうした通路での戦いは正に我が意を得たりといえたからである。
 それに引き換えクロはともかくカルタはまともに戦う力はない。せいぜい、持ち前の素早さで相手の意識をかき乱す程度だが、それでも熟練した戦士相手に効くとは思えなかった。小規模な爆発を起こせる油瓶での攻撃もあったが、不意を突く形でなければ十分な威力は発揮しないであろうし、一回で決められなければやはり次はないと言えた。
 (どうすれば……僕じゃあ相手にならないし、クロにも無理はさせられない……何か、何か隙を突かないと……)
 それに出口とは正反対の方向に進んでいるというのもカルタにとって焦りの種であった。出口であれば、どのような形であれ進む道は決まっていく。それにガーラやニヴ達、ゴブリン達の応援も期待できた。だが、教母たちが進んでいるのは主な戦場から離れた場所であり、兵士の気配がない代わりに仲間の応援も期待できない。
 また、恐らく教母は誰も知らない隠し道を、この砦に眠る外への道を知っているのだろう。だからこそこのような道を進んでいるのだと、カルタは考えていた。だとすればいつどこで教母が外へ出てしまうかわからないし、うっかり隠し道へ入り損ねればいよいよノチェを救う手立てがなくなってしまう。それが大いにカルタの気持ちを焦らせていた。
 (落ち着け、落ち着くんだ……)
 だが、カルタはその焦りをぐっと飲み込むように抑え、決して悟られぬように息を殺す。今ここでばれてしまえば、せっかくの、唯一の優位性すらも失ってしまう。カルタとクロは影の如く進みながら願う、どうか、どうか一瞬で良い、あの二人の気をそらす何かが起きてくれと。

 その時であった。

 激しい音とともに、建物が揺れる。何かが砦の壁に当たり、大きな衝撃を建物全体に与えたようであった。だが、その音が起きてもなお戦士は怯むことなく警戒を緩めることも隙を出すこともなかった。だが、教母は違った。
 何かを感じたかのようにピタリとその歩みを止めたのである。
 そして、顔を音がした方に向ける。カルタの目に、教母の顔が映る。

 ……あなたは……

 (……まただ)
 雑音が、カルタの心に混ざる。どうしてか、あの女性の顔を見るとひどく心がざわつく。言いようのない感情が沸き起こる。
 そんなカルタの感情と重なるように、教母の表情は少しばかりの驚きと、失望の色を滲ませる。
 「……教母様? いかがなさいましたか」
 教母が立ち止まったことに気が付き、少し離れたところで戦士が振り向く。
 「……竜が、敗れました……このような結果になるとは……いささか期待外れですね」
 それは微かな動揺だったのだろうか、完全に立ち止まり考え込むように空いた手を軽く握り胸元に置く。その教母を前に、戦士が構えを解き歩み寄ろうとしていた。

 「カルタ……!」

 クロの言葉に、はっとカルタは思考を揺り戻す。
 そして理解する。完璧じゃない、でも恐らく、きっと、今しかない。

 (……アイオンなら、もっとうまくやるのかな……?)

 教会の……女性相手にこんなことをしたとわかったらまたがっかりされちゃうかな……カルタの心が揺れる。だが、そんなことで止めるわけにはいかない。カルタは理解してた。自分は弱い、弱いならば、弱いなりの戦いをするしかない。

 影から飛び出し、駆けて跳ねる。懐から油瓶を取り出し、教母目掛けて投げる。

 「! 教母様!」

 詠唱、念じる……カルタの指先が光り微かな火花が起こる……油瓶の中に。

 炸裂、火花が狭い廊下の中に迸る。その火花は教母の衣服とフードに引火し、教母の身を焼いていく。
 「ノラ様ッ!」



 はずだった

 確かに、教母は驚き、突然の奇襲と攻撃を受けて鳥籠を手から落とした。だが、それ以上大きな悲鳴を上げることも、驚き混乱し振り乱すこともなく、無造作に、素手のまま燃えるフードを掴み投げ捨て、衣服についた火を一撫でで掻き消す。その教母の手は淡く光り、その皮膚に血管の如く刻まれた印が浮かび上がる。

 どろりと、濁った黒瞳が襲撃者たるカルタを睨んだ瞬間であった。

 「おまえは……!」
 動揺が、先ほどよりも強い驚きに教母の目が開く。

 「カルタ!」
 その時であった。
カルタの背後よりクロが駆け寄り、火球を一つ二つ吐き出し教母と戦士にぶつける。
 「くっ!」
 戦士は咄嗟に腕甲を構え火球を受ける。しかし、教母は表情一つ変えることなく、ただ手を前に出す。吸い寄せられるように突き出された手に当たった火球は弾けるものの、教母にとっては何の脅威でもないようで、すぐに掻き消されてしまった。
 奇襲をかけてもなお、圧倒的な力の差があった。

 カルタたちにとって、大誤算といえたのは教母の方が、戦士よりもずっと脅威であったかもしれないということ。だが、それは正面から戦いを挑む時の話である。目的を果たしたのだから、これ以上戦う理由はない。
 カルタとクロは一陣の風の如く、教母と戦士の前から姿を消していた。

 教母が、床に目を落とす。
 取り落とした鳥籠は既になく、鳥籠にかけられていた黒布に先ほどの炎が燃え移り、ぶすぶすと黒煙を噴き上げているだけであった。
 「ノラ様! ……申し訳ありません……!」
 恐れ慄くように首を下げる戦士。だが、その戦士を片手で制すと教母は眉一つ動かすことなく懐から小さな袋を取り出すと、口をほどき息を一つ吹き込み小さく囁き始める。

 小さき蟲、小さき命、ここにヤガを継ぐ者が命じます
 汝、我が敵を、我が家と土地を侵すものを討て
 汝らに鉄の、岩の、土の、身を与えましょう
 その身をもって、我が命を果たしなさい
 征きなさい、小さき子らよ

 ごそりと、袋の中身が動く。
 ノラはぼとりと、無造作に袋を投げ落とす。その瞬間、袋の口から黒い甲虫が数多飛び出し、砦の中に這いまわっていく。その動きは早く、まるで意思を持つかのようであった。その黒い甲虫は魔力の翠の炎を燻らせ崩れ落ちた岩、散らばった武具、土塊の中に入り込んでいく。
 「これでいいでしょう 行きますよベルナルト……ユーリイが待っています」
 「……仰せのままに…… 妖精は、よろしいので?」
 ベルナルトの言葉に、教母は薄く笑う。
 「欲深くあるべきではありません、それに夢見の力を持つ妖精はあれだけではないのですから ……何事も予備や二の三の策があるのが望ましい、ただそれだけですよ」
 その言葉に、戦士はただ頭を下げる。
 「……ここを離れたら、もう一つ使いましょう 試しておかねばならないことがありますから」
 語り掛けているのか、そうでないのか、ただ教母は少しばかり面白そうに一人呟く。まるで興味深い実験を執り行う錬金術師のように……



 第四 虫のゴーレム

 ……「ノチェ! ノチェ! 大丈夫!?」
 冷たい鉄の鳥籠、それを抱えながら猫と狼の小さな魔物が声をかける。鳥籠の中には、さらに小さな妖精が一つ、その身を震わせながら目に涙をため再会の喜びを息も絶え絶えに伝えているところであった。
 「カルタ! カルタ! ありがとう……ありがとう……!」
 黒布に火が付き、衝撃とともに放り投げられた時、何が起きたか理解する間もなく拾い上げられ揺さぶられたていたノチェの目に、見知ったふわふわの濃い灰色の毛と淡い翠色の瞳が映った瞬間、どれほど安堵したことか。
 荒い息を吐きながら、カルタとクロは走る。追手はいない、振り返らずともそれはわかっていた。だが、どうにも嫌な予感がしていた。それはカルタだけではなく、クロもまた同様であった。あの教母が持つ漆黒の瞳。それはノチェの、夜空の輝きにも等しい黒とは違う。

 まるで深い深い水の底に溜まった闇色のどぶのような、ただ見ているだけで引き込まれ自分を見失う、そんな悍ましい黒であった。

 あまりにも恐ろしい。あの黒い教母。その影がまるで今もすぐ後ろに立ち、こちらに手を伸ばしているかもしれない。そう感じてしまう。

 ぞわりと、カルタの首筋に気持ちの悪い冷たさが走る。

 「ッ! 待って!」

 もう少し走れば、砦の中庭……アイオンたちがいる場所に出られる。だがカルタはクロを制止させると、じっと狭い廊下の奥、澱んだ暗がりをじっと睨む。嫌な気配、それをクロも感じたのであろう。牙を剥き、唸る。

 “罠”を察知されたからであろう。
 暗がりから気配の主が姿を現す。

 それは一言でいえば“百足”のようであった。

 キチキチと無機質な音を立てながら姿を見せた“それ”は岩と鉄くずでできた細長い百足の体を引きずりながら、鉄の鋭いのこぎりのような大顎を開いて見せる。目と思わしき場所からは翠の燻ぶりが揺らぎ、カルタとクロ……その腕に抱えられた鳥籠の中の小さな妖精をただ見る。そう、その目に意思はなく、ただ与えられた命令を無機質にこなすだけ。
 そしてその命令は“何か”ということを、カルタは瞬時に理解する。

 「そんなっ!」

 響き渡る悲鳴。
 それを口火に、恐るべき速さで百足はカルタたちに襲い掛かる。

 “殺戮”

 それがこのゴーレムに与えられたただ唯一の使命、存在理由であった。









 「抱キ合ッテイル暇ハナイヨ!」
 苦し気な息を吐きながらも、その巨体を立たせ力強く啖呵を切るニヴ。
 騒ぎが起きたのは突然であった。紅竜ティリアとの戦いを終え、再会の喜びに浸り抱き合っていたアイオンとガーラの耳に届く悲鳴。それは砦を守る兵士、そして未だ外に出られず閉ざされた門の前で身を縮ませていた人々のものであった。
 「一体何が……!」
 目の見えぬアイオンに変わり、立ち上がったガーラが騒ぎの咆哮を見る。
 「あれは……そんなまさか! 虫か!?」
 「違ウ、生物ジャナイ! アレハ“ゴーレム”ダ!」

 どこからともなく現れた巨大な虫を模したゴーレム、それが人々へと襲い掛かっていた。そして、その姿にガーラはかつてカルタが放った泥の獣たち、それに近いものを感じ取る。岩と鉄、そして土塊から生まれ出た百足と蜘蛛の如き怪物たちはただ無機質、無造作に逃げ惑う人々と兵士を捕え、その大顎で喰いちぎり、鋭い脚で貫いていく。
 砦の中庭が紅く染まっていく瞬間。それは正に虐殺、殺戮であった。

 だが、そんな人々を救わんとするものたちがいた。

 それは、ゴブリンたち

 今まで追われ、虐げられた小さきもの。それでも彼女たちはその小さな身を挺し、雄たけびを上げながら武器を掲げ虫のゴーレムたちに殴りかかっていく。
 小さくとも、その力は人をはるかに凌ぐ。それに素早く身軽な動きは虫のゴーレムに対しても引けを取らないものであり、十分に善戦していた。
 しかし一体どこに隠れていたのか、虫のゴーレムは次々とその姿を現し砦の壁を、床を這いまわっていく。それでもゴブリンたちは怯むことなく、同じく数を生かして次々とゴーレムを囲い殴りつけて潰していく。流石の虫のゴーレムと言えども複数に囲まれ殴りつけられればただではすまず、その身を形作る岩や鉄くずを叩き潰され、次々とひしゃげて大地に伏せる。
 一見して、戦況は拮抗しているように見えた。
 だが……

 「うわぁ! こいつら再生しているよ!」
 「ええっ そんなっ!」

 叩き潰され、破壊されてもなおゴーレムたちは動き立ち上がる。それは間違いなく、あの森で、カルタが使役していたものと同じ種類のゴーレムであった。
 その脅威を前に、ゴブリンたちが怯んだその時であった。

 「核だ! 魔力の核を潰しなッ! 怯むんじゃないよ、こいつらは不死身なんかじゃないッ!」

 怯んだゴブリンたちを𠮟咤するように、ガーラは駆ける。
 駆けながら瓦礫を投げつけ、百足のゴーレムを打ち砕く。そのまま崩れ落ちた百足のゴーレムの頭部を踏みつぶしガーラは叫ぶ。飛び掛かるように襲い来る蜘蛛のゴーレムの鋭い両足を掴みへし折るとそのまま大顎を叩き折り、頭部を打ち砕く。
 ゴブリンを圧倒するハイオークの力を前に、蜘蛛のゴーレムは怯むように後ずさるもガーラは即座に距離を詰めると割れた頭部に腕をねじ込み“心臓部”を引きずり出す。それは翠色に燻ぶる小さな核……黒い甲虫を包んだ魔力の繭であった。
 核を抜き取られた蜘蛛のゴーレムはそのまま崩れ落ち、ただの岩と土塊、そして鉄くずに戻る。そのままガーラはそれを見せつけるように掲げると、一息に握りつぶす。
 翠炎が爆ぜ、煙が噴き出す。


 圧倒的な、勇猛なる絶対強者の姿


 その姿を前に、ゴブリンたちは勇気を取り戻し。より一層奮起していく。それだけでなく、弱点を理解したゴブリンたちは持ち前の器用さと団結力を十分に発揮し、多勢のゴーレムを次々と打ち倒し始め、人々を守りながら戦うという劣勢において徐々にゴーレムを押し始める。
 「ガーラさん! 大丈夫ですか!」
 そんな中、ホブゴブリンのパロマがゴブリンのシーミャを連れてガーラの傍によたよたと駆け寄る。目が見えないながらも、ゴブリンとしての鋭敏な感覚とシーミャの助けもありアイオンに比べるとずっと確かな足取りで動けるようであった。ただ、やはり少しばかり動きのトロさがあるのはホブゴブリンとしての天性のものといえた。
 「そうだ! ザンナとプレザは? 無事か!?」
 戦いはまだ続いている、パロマからゴブリンたちの犠牲者はまだ出ていないことを告げられるも心配するように周囲を確認するガーラ。それと同時に先ほど竜に弾き飛ばされてしまった二体の黒狼の様子を探す。
 幸いにして、二体の黒狼は体を切り裂かれたような傷を負っていたものの無事であった。いつの間にかニヴの周りに並び立っており、襲い来るゴーレムを業火で焼き払い、その守りを喰い破って核を破壊している最中であった。アイオンの傍にはニヴが守るように控えており、少なくともゴーレム程度が相手であれば全く問題はなさそうであった。
 「パロマとあんたはニヴの傍にいな! あたしはちびどもに加勢するよ!」
 ひしゃげ、ひび割れた己の大斧を拾い上げガーラは鼓舞するように鬨の声を上げる。たとえ壊れていようとも、振るえればそれは武器なのだ。それにゴーレム如き、素手でも十分なのは証明して見せた。その強者が武器を構えたのだ、もはや負ける道理はない。

 ゴーレムに恐怖の感情はない。ただ淡々と与えられた使命を処理していくのみ。だが、核として使われた虫の本能であろうか、明らかにゴブリンたちの動きが変わり次々とゴーレム……仲間たちが破壊されていく状況に少しずつ後ずさるようにその身をよじるものが現れ始める。

 それに対し、ゴブリンたちはいよいよ勢い付いていた。興奮するように武器を振り上げ、我先にとゴーレムに突撃していく。しかし、ただがむしゃらな突撃ではない。素早く的確に動き、攻撃を防ぎ躱していく。一体二体が陽動と守りを行い、その隙に三体ほどのゴブリンがゴーレムを囲み足を、胴を、頭を砕き核を引きずり出して終わらせる。ゴーレムを屠るたびに己の戦果を誇示するようにゴブリンは叫び、嬌声を上げていく。
 その動きは追われ逃げ惑う小鬼のものではなかった。絶対的強者に率いられ、己もまた強者と信じる鬼の兵士さながらであった。

 戦況は一気に優位に傾き始めていた。



 ……砦の中庭での戦いが決し始めた頃合いより少し前、狭い廊下での小さきものとゴーレムの戦いが中庭と同じく始まっていた。
 大顎を鳴らしながら、狭い廊下の中を渦巻くように床、壁、天井と這う百足のゴーレムに対しクロは口から火球を放って胴を撃ち抜くも、ゴーレムは一瞬だけ怯むように止まるだけで千切れた胴を気にすることもなく……それどころかまるで繋がったままであるかのように土塊が触手を伸ばし、這いまわりながら再生していく。その様子を見てクロもまた怯えるように一瞬身を引くも、護るべきものがあると踏みとどまり迫るゴーレムを睨み再び業火を放たんと息を吸う。
 「クロ! 頭を狙って!」
 カルタの声、それを聞いたクロは素早く首を回し動き回る百足の頭を捕えるように業火を放つ。たとえ小さくとも、吐き出す業火までも劣るわけではない。鉄を焼き切り、岩を焼き砕くに十分な熱量を浴びたゴーレムの頭部はたちまちのうちに燃え上がり焼き崩れていく。それと同時に核となった甲虫も一瞬で灰と化し、そのまま百足の胴体は力を失ったように廊下の中に投げ出され砕け散っていく。
 「やったぁっ!」
 クロとカルタの、無邪気な喜びの声が上がる。しばし、ほんの僅かな安堵と歓喜が小さきものたちの間に広がった時であった。前と後ろ、双方から扉の破る音とともに……前からは再度百足のゴーレム、後方には蜘蛛のゴーレムがその姿を現す。
 それと同時に隠れ潜んでいた人々のものと思わしき悲鳴があちこちから上がり始め……そしてすぐに静かになる。静寂に代わり、感じるのは砦の中に蠢く虫たちの気配。その事実にカルタは戦慄を覚える。多い、あまりにも。
 「カルタ!」
 友の名前を呼び、クロは目の前のゴーレムに再び挑む。友に名前を呼ばれ、カルタは後方より迫る蜘蛛のゴーレムに目を向ける。カルタの目に、うっすらと魔力の経路が映る。核を中心に、細糸の如くゴーレムを形作り操る魔力の糸。
 確かに、カルタは非力である。だが、ゴーレムやアンデッド相手ならばどうだろうか。確かにカルタは魔導士の癖に火球一つまともに出すことはできない。だが、ゴーレム術と死霊術に関しては……なぜそれしか知らないのか、という疑問を除き絶対的な自信があった。
 「ノチェ! しっかり僕につかまってて!」
 自身の毛皮に引っ付くようにしがみつくノチェに声をかけ、カルタは本物の猫のように四つ足で翔る。蜘蛛の鋭い脚による刺突を軽々とよけ、跳ねて、カルタは素早くゴーレムの背に乗る。カルタの目にはっきりと映る、魔力の揺らぎ、翠の炎のようにも映るそれを。
 ゴーレムが望まぬ乗客を振り落とそうと跳ねようとしたその瞬間である、同じく魔力を纏ったカルタの手が、爪がゴーレムの背に突き立てられる。それと同時に痺れたように全身をゴーレムは振るわせ始めていた。

 百足のゴーレムを再度焼き滅ぼしたクロが小さく弱い友を守ろうと振り返る。しかし、そこにいたのはか弱く小さな猫の魔物ではなく、立派な猫のゴーレム使いであった。



 異質。
 最初にカルタが感じたのは違和感であった。ゴーレムを動かす魔力、それは大小の違いはあれども根っこは同じもののはずであった。だが今感じている魔力は何かが違った、いうなればカルタの持つ魔力が熱を宿す炎とすれば、ゴーレムに宿った魔力は氷、冷気の類いであるかのような……それほどまでの、決定的な違い。
 (だったら!)
 このままでは“法(のっと)れない”、ならば書き換えてしまえばいい。カルタの爪先から魔力が流し込まれゴーレムを内側から“焼いて”いく。異質な魔力を砕き燃やし、己の魔力で上書きしていく。もしもこれがしっかりと作りこまれた“お手製”のゴーレムだったならばこうも容易く上書きはできなかったであろう。だがこのゴーレムは悲しいかな、数を揃えることと簡単な命令だけを遂行できれば良いがためにその魔力経路は極めて単純であった。魔力が異質でさえなければ、簡単に法ることができ、書き換える手間も大してかかる代物ではなかった。
 だが、それでもゴーレムの繊細な魔力経路、それを壊すことなく流れる異質な魔力を書き換えていくという芸当は、ゴーレム術に精通したカルタだからこそできたようなことでもあった。

 びくり、と蜘蛛のゴーレムは大きく震え、力が抜けたように床に伏せる。目の位置に燻ぶっていた翠色の煙の如き魔力も消え失せ、一見してゴーレムとしての機能を喪失したかのように見えた。
 しかしカルタは爪を引き抜き、悠々たる様子で蜘蛛の上に座り込むと高らかに命じる。

 立て! ゴーレム! 我、カルタが汝の新たな主だ!

 再び、蜘蛛の目に光が宿る。先ほどとは違う、澄んだ翠色の光を燻らせて立つ。
 「……はは! はっはぁ! やったっ、やったぞ! どうだい、クロ! 僕だってやればできるんだ!」
 ゴーレムの上で、喜ぶカルタ。その頭の上で驚きと感心の様子を見せるノチェ、下では純粋にカルタと一緒になって喜ぶクロが跳ねまわり、一瞬だけここが凄惨な戦場であることを忘れさせる。

 そんなカルタたちに現実を突きつけるが如く、砦の奥からぎちぎちと不気味な音が響き渡る。
 その音は影によって黒く染まる先、狭い廊下の中を多くのゴーレムが我先にと這い出す音であり、それは蠢く黒い壁のようでもあった。
 「ひっ にっ逃げよう! 早く!」

 叫ぶや否やクロは駆け出し、カルタもまたゴーレムに命じ狭い廊下を、外へと向かって走る。幸いにして、カルタの操る蜘蛛のゴーレムは素早く動くことを得意とし、何とかクロを見失わないだけの速度で走ることができていた。それに、少しばかり予定が狂ってしまったがもともともうすぐ砦の中庭に出ることはできる位置にいたこともありクロとカルタ、そしてノチェは中庭へとすぐに飛び出していく。
 「! クロ!」
 「ニヴー! ニヴッ!」
 クロと、それに続くようにカルタがしがみついた蜘蛛のゴーレムが飛び出してきたことでゴーレムに襲われたまま逃げてきたと勘違いしたのか、ニヴはその大顎を噛み鳴らすとクロを飛び越えゴーレムに喰いつかんと躍りかかる。
 カルタもまた、突然のこと……それをプレザやザンナと違いすさまじく恐ろしい見た目のニヴに襲われた……ということもあり絶叫に近い叫び声をあげると、おおよそゴーレムの動きとは思えない動きで高く飛び跳ね、そのまま地面に叩きつけられる。
 「ニヴ! 待って、あれはカルタの! カルタの!」
 そのままゴーレムを破壊しようと唸るニヴの前にクロは出ると誤解を解くようにニヴの前で跳ねながら説明する。その様子に牙を引くも、今一信用できないといった様子でカルタのゴーレムを見る。しかし、確かにカルタが操っている様子を見たのち、一つ鼻を鳴らすとすぐに後ろを向く。

 カルタのゴーレムよりも優先すべき問題が、砦の中より湧き出ても来たのである。

 ガーラとゴブリンたちの手により、ようやく中庭にいたゴーレムを潰し終わった直後。
 クロとカルタを追うように、砦の中から大量のゴーレムが扉や窓、崩れ落ちた壁から這い出してくる様はさながら絶望にも似ていたであろう。事実、飽かぬ砦の門を背に、寄り集まり主神に祈りを捧げる人々や兵士の口からは嘆きや悲痛、神に救いを求める声が響く。だが、それでもゴブリンたち、そしてアイオン達は恐れなかった。

 今一度、全員が……生きてこの場に集ったのだから……竜に打ち勝ち、ゴーレムを薙ぎ払い、そして妖精の姫君を……ノチェを……囚われの戦士を……アイオンを、救い出した……全て成し遂げた。

 そして今、再び蟲の群れと戦い、打ち勝ち、生きてこの砦を……全員で砦を出る。それを為すことができぬ理由がどこにあろうか。

 そう固く心に誓い、魔物たちは叫び、武器を振り上げる。
 かような土塊ごときに、我らが命、ただの一つたりとも潰えさせることはできないのだと思い知らせるように。



 第五 紅い呪い

 ……「お待ちしておりました ノラ様」
 虫のゴーレムの手により、もはや生きている者はいない。その砦の最奥、半ば地下に埋まっているであろう場所に教母と、二人の戦士が立つ。
 倉庫代わりに使われていたのであろう、小さな広間には戦士が持つランタン以外に灯り一つ無く、うっすらと廊下から差し込む光だけが中を照らしていた。
 「遅くなりましたわ ……ユーリイ、扉を」
 倉庫の中で待っていた戦士ユーリイは教母の声掛けに頷くと、倉庫の奥、ひときわ古い石壁の前に立つと撫でるように何かを探し始め、そしてすぐに目的のものを見つける。石壁の中に巧妙に隠された……否、隠してあった取っ手を引く。すぐに、石壁の中の仕掛けが外れ砦の外に出るための隠し扉が開く。基礎となった岩をくり貫いて作られた、細い細い岩道であった。明かりはなく、ただ暗い道が……深淵に続くかのように伸びている。
 「それと……“あの剣”の回収はできましたか?」
 その言葉に、ユーリイは頷くと背に背負った剣をそっと教母の前に差し出す。教母はその剣の柄を握り、そのまま抜いて刀身を見つめる。

 それは古い剣……古くも傷一つ無く、そしてしんと凍てついた冷たい刃を持つ剣……

 アイオンが数奇な縁でその手に持ち、そして振るった“古強者”であった。
 戦士が捕らえられた時、兵士たちの手によって収奪され砦の武器庫の中に、罪人の武器としてしまいこまれていた。それをユーリイは騒ぎの中で簒奪していたのである。だが、この剣はユーリイにとって、少しばかり心を抉るものがあった。あの戦士が振るったこの剣に、己は殺されていたのかもしれないからであった。
 ユーリイとて、剣の道を志し一人の戦士として、剣ならば誰にも負けないと自負するだけの実力を備えたつもりであった。当然、己が振るう武器、いうなれば業物の剣ともなれば興味を持ち叶うならばこの手に握り振るいたいとも思っていた。だがどうだろうか……その己を打ち破り、そして殺そうとした戦士が握っていたこの剣は……ユーリイが握っていた剣、それも決して粗製乱造の品ではない、名のある刀匠に打たせた剣をいともたやすくその刃を落とし、最後は折り砕いてなお刃こぼれ一つない。

 その刃のなんと冷たいことよ

 剣を包む、さやを持つ手が震える。とてもではないが、いかな太古より生き残った業物と言えど……これを握り振るいたいなどとは、ユーリイには思えなかった。

 「怖いですか」

 ユーリイの恐怖、それを見透かすように囁く教母。

 「……これは素晴らしいものですよ 遥か古に作られた……呪い…… ふふ、魔王が、魔物が作ったものではない……人が生み出した、魔物を呪う剣です」

 そう呟き、教母は剣を鞘に納める。
 「行きますよ」
 そう戦士に告げると、教母は歩き始める。光射さぬ闇の道を、まるで見えているかのように……いや、恐らくは見えているのだろう。教母の目がぼんやりと光る。それは魔力の光。
 「貴方の恐れは正しいものですよ、ユーリイ」
 闇の中を歩きながら、教母は囁く。
 「その剣は魔物と戦うための武器ではありません 魔物を殺し、根絶やしにすることを願った “呪詛”そのものです 一度その手に持ち、振るおうものならば憑りつかれてしまいますから」
 まあ……今はその力もだいぶ弱まっているようですが……最後の教母の呟きはあいにくとユーリイの耳には入らなかったが、教母の言葉に、ユーリイはぞっとするような寒気を、背負った“呪い”から感じ取る。なればこそ、あの戦士の……翳に曇った顔、ぎらつくような眼……戦いの時に見せた狂気じみた様相にも説明がつく。だが、同時に疑問にも思う。

 なぜ、魔物殺しの呪いを背負ってなお魔物と共存できたのか

 あの戦士は打ち勝ったというのだろうか、教母の言う、遥か太古の呪いに……

 暗闇の奥、通路の突き当り。教母はそっと目の前の石の壁を押す。手に、刻印が浮かび上がると同時に石壁がゆっくりと後ろに倒れる。
 眼前に、夜の暗闇、吹雪が舞い踊る。

 極寒の風が教母と二人の戦士を襲う。砦の中にいてもなお染み入ってくる冷気、それをもろに浴びようものならば人など一刻も持つまい。当然、こんな夜に徒歩で旅をしようものならばたちまちのうちに冬に抱かれ、雪解けが起こる夏ごろまで見つかることのない死体と化すだけであった。
 だが、教母はただ静かに腰元から一つの振り鐘を取り出すと、小さく振り音を鳴らす。背後の砦からは戦いの喧騒が響き渡り、燃え盛る炎の黒煙がもくもくと闇夜に溶けていた。

 暫く、あまりの寒さに背後に控える戦士たちが自らの体の震えを抑えられなくなった頃合い、雪原の闇の中に巨大な影が浮かび上がる。
 その巨大な影はその身を揺らしながら、教母と戦士の前にその姿を現す。


 それは極めて奇怪な姿をしていた。


 一言でいうならば、教会にも似た古い建物……それに手足が……八つの手足が生えた、家の形をした蜘蛛のようなものであった。
 それは誰も知らぬ古い魔術が一つであった。だが、もしもアイオンやガーラ……ノチェとカルタが見ればこう呼んだであろう……

 魔法使いの小屋、と

 その“建物”が八つの手足を器用に操り、その巨体からは想像もできないほど静かに教母たちの前に来ると、うやうやしく礼をするように首を……“入り口”を差し出す。
 音もなく扉が開き、建物の中に火が灯る。それはまさしく、主を迎え入れんと建物が意思を持っているかのようであった。
 その“建物”の中に教母と、戦士たちが入ると再び扉が静かに閉まり、ゆっくりとその身を起こすと静かに旋回を行い、砦に“背”を向けると再び前へと動き始める。

 これこそが教母ノラ……ヤガを継ぐものが秘技の一つであった。

 その建物の中もまた、奇怪な物であふれていた。それらの品々を一言で言い表すのならば“魔女の呪物”そのもの、おおよそ主神を奉じる教団の教えからは程遠い物ばかりであった。しかし、教母ノラは手慣れた様子で呪物に囲まれた部屋の中心部、そこに置かれた古い木机の上に毛皮を広げていく。毛皮には不可思議な魔術めいた印が刻まれ、ノラはその上に小さな“紅い宝石”を一つ置く。
 妖しく、紅く輝く宝石、それは血の色にとてもよく似ていた。

 「竜の擬血……死した竜の心臓から採れる一滴の血……その血のレプリカ、その力は如何ほどかしら……」

 竜の血、それは伝説に語られる死すら克服する万能の秘薬の材料であり、ただその血を舐めるだけでも傷を塞ぎ、病を癒すだけでなく長寿、はたまた不老すら得られるという。

 だが、同時にそれは呪いにもなる。

 竜の血を飲んだものはたとえ聖人であったとしても竜の如く欲深く、傲慢に変わり、いずれその身を滅ぼすという。欲深きものに至っては、竜の血を一滴でも飲んだが最後、膨れ上がり抑えきれぬ己の欲望によって狂気に陥り……最後はその身を喰い破って新たな竜として生まれ変わり、災厄をもたらす……そう伝えられていた。

 それゆえに竜殺しは偉業であると同時に、呪いと災厄をまき散らす禁忌でもあった。

 その竜血の中でも、心臓から流れ落ちた血の中でも特に魔力が濃く純度の高い一滴……紅い宝石にも似た輝きを放つ一滴ならば、無欲な聖人すらも強欲な竜へと変えたであろう。そのレプリカを、ノラはティリアに“飲ませて”いた。

 紅い、紅い一滴……それが混じった葡萄酒……



 愛に溺れた欲深い娘はすぐに竜へとその身を変じた、ノラの望む通りに……



 「貴女のこと……操れるかしら 楽しみだわ、うふふ……」
 そっと両手を、紅く輝く宝石にかざす。両手に印がうっすらと浮かび上がり、徐々に宝石の輝きが強くなっていく。

 竜の擬血……それは竜の血を模した紅い液体……ただ人を竜に変えるだけでなく、ある“細工”が施してあった。ノラは知っている、代替わり後の竜の血に人を害成す力はない。今の竜の血にあるのは傷と病を癒し若返らせる、それに加え媚薬に近い効能をもたらすものとして伝えられている。もちろん人が飲めば竜に変える、という力は宿しているがそれが有効なのは“人間の女性”のみである。それもある種の適合を要するため女性ならば誰もが竜に変じるということは起こりえなかった。

 だが、そんなものはノラの望むものではない。
 ノラが……“魔女”が望むものはただ一つ……






 ……虫のゴーレム、その群れに対しガーラとカルタ、ニヴたち、そしてゴブリンたちの群れは抗するどころか圧倒し、次々とゴーレムを打ち破っていっていた。
 自慢の剛力をもってひしゃげた大斧を豪快に、そして器用に振るい、次々とゴーレムを打ち砕いていくガーラ。
 どこで手に入れたのか、蜘蛛のゴーレムの背に乗り操る動きは的確で、流石はゴーレム使いならば誰にも負けないというだけの技術で正確に蜘蛛の足で魔力の核を刺し貫き、次々とゴーレムを“絶命”させてゆくカルタ。
 ニヴを中心に、一つの群れとして完成されているザンナ、プレザ、クロたちは業火をもってゴーレムたちを焼き払いたちまちのうちに相手の数を減らしていく。
 それらの猛攻を抜けきり、肉薄したゴーレムに襲い掛かる小鬼……武装したゴブリンの群れは持ち前の連携を生かし、足を砕き、胴を殴りつけ、核を引きずり出して蹴り砕く。その様は一連の“悪戯”のようでもあり、ゴーレムからすればたまったものではなかったであろう。

 勢い強く、もはや勝敗は決したといっても良かった。

 力強く上げられる鬨の声に、アイオンは希望を見出す。たとえ目が見えずとも、その耳に届く音は力と希望にあふれ、勝鬨の時は近いことを十全に伝えてくれていた。

 だが、見えぬ目の奥で、火花のように紅い輝きがちらつく。
 無意識のうちに、首が……見えるはずのない“輝き”の方を向く……

 その輝きは、先ほどの“竜”が見せた輝きであったが、先ほどよりもずっと強く……“目”を刺すほどに強くなっていた。
 「……? 二人とも、どうしたの?」
 パロマにも、見えているのだろうか。傍でアイオンとパロマの護衛をしていたシーミャが問うように聞く。そして“見た”のであろう、シーミャは驚愕の声と悲鳴を上げる。

 「! そんなっ! 竜が、竜が!」



 ……それは幸せな夢……
 ……あなたの傍で一人だけ……
 ……誰もいない、二人だけの……

 激痛

 視界が紅く弾ける



 獣に打倒された竜が、最初に感じた目覚めは“痛み”であった

 瓦礫を弾き飛ばし、飛び跳ねるように起き上がる

 悲鳴と、涙が飛び散る

 己の腹の中に“何か”がいる

 腹を抑えるも、はらわたを引っ掻き回す何かは暴れまわり、内側からぼこぼこと腹を叩く

 それは竜の力をもってしても熱い、否……ぞっとするほどに、熱と見紛うほどに“冷たい”……何かが、竜の腹を喰い破らんと暴れていた

 内側から、刺すような痛みが走る

 まるで何かが根を張り、内側から芽吹こうとするかのような不快な感触と恐怖に娘は泣きじゃくる

 嫌だ

 それは本能的なもの

 けれど、何かは……成長していく

 内側から冒される、耐え難い苦痛

 腹は膨れ上がり、妊婦のようであった

 何か、何かを孕んでいた

 娘は泣きながら手を伸ばす、助けを求めるように……愛したものに……



 溢れる



 口から、喉奥から漏れ出る“苦痛”

 腹を叩き、臓物を掻き分け“それ”は竜の口から這い出す、産まれ落ちる

 悲鳴が上がる



 それは、紅い……紅い呪い……



 粘つく血の塊

 ぼこぼこと泡立ち、“母”を飲み込んでいく

 自らを産んだ母を、憎悪と憤怒、そして絶望を糧に育て産んでくれた母を喰らう

 母を飲み込んだ血肉は巨大に膨れ上がり、歪な姿を為す

 ぐずぐずに腐りきった……死なずの竜……





 悍ましいまでの“悪意”そのものである





 第六 竜の堕とし子

 ……“堕とし子”は産声を上げる。
 その啼き声は空気を震わせ、耳をつんざく。石壁は震え、度重なる衝撃に耐えきれなかった一部は崩れ落ちていく。
 その啼き声は堕とし子自身も傷つけるほどのものなのだろう。不完全な鱗は剥がれ落ち、剥き出しとなった肉から血が噴き出す。不完全、あまりにも不完全。

 それはまさしく竜の姿をした “肉塊”であった。

 嫌悪と吐き気を催す赤色によって彩られ、翼は肉だけが骨にこびりつき飛び立てるようなものではなく、半身に至っては形を成しておらず煮え立つ血肉となってぐずぐずと煙と血潮を噴き上げていた。その半身から赤黒い尾と思わしき血肉の塊がでろりと流れ出ていた。
 その竜が、腐り落ちたような、半分崩れた顔を持ち上げ戦士たちを睨む。どろりと、片目が赤く崩れ流れ落ち、残った片方の濁った眼で生者を……生きとし生けるものを睨む。

 その竜の姿、悍ましい姿、それを盲目の戦士は“見る”。
 潰れた目の奥……見えぬからこそ感じる眩しいまでの“悪意”……紅い、巨大な悪意を。

 「ティリア……!」
 アイオンが、その名を呟くと同時に……竜が咆哮を上げる。

 床にへばりついた皮膚を引き千切り、血肉をまき散らしながら巨大な竜腕が闇空に掲げられる。

 「! 逃げろ!」

 どこの、誰ともわからぬ叫びと同時にアイオンの体を何者かが搔っ攫う。ほんの一息、遅れてアイオンたちのいた場所に竜腕が叩きつけられ不快な体液、肉片が飛び散る。

 獲物を捕り逃し、かすれた叫びを上げる堕とし子。その場を動くことはできず、また火を吐く力もないようであった。だが、喉奥からは火炎が燻ぶり、また僅かにではあったが煮崩れた半身がゆっくりとその形を成そうともしていた。いずれは完全に形を成し、恐ろしい災厄となるのは時間の問題に思えたのである。
 「何ダッテ言ウンダ!」
 ニヴとその仲間たちの手で難を逃れたアイオンは竜から離れ、門を背に……恐怖と絶望のあまり、首を下げただ言葉の通じぬ悪意に対し許しを乞う人々……それらを守るように立つ。

 逃げることも……できただろう

 目的は果たした、救うべきは救った、もうこの砦にいる理由はない……けれど、魔物たちは、戦士は立つ。

 皆、満身創痍であった

 戦士の目は潰れ

 獣の武器も、牙も、爪も砕けかけている

 小鬼たちも、決して無傷ではない


 竜は叫び、腕を振り上げ中庭を引っ搔くようにしてその鈍重な体を引きずり、命を、目の前に輝くものを嚙み砕き食らわんと暴れる


 戦士の肩に、そっと温もりが乗せられる……小さく、小さくも必死にしがみつく妖精の姫君……


 「ノチェ」

 戦士は姫君の名を呼ぶ。

 「すまない」

 そして、許しを乞う。ここで果てるやもしれぬと、約束を守れないかもしれないと。

 「いいのよ、アイオン ……私の戦士様、そして……」

 ……何よりも、大切な人……

 そっと、囁く。姫君の言葉に頷く戦士の手に、武器が渡される。

 「やろうぜ、アイオン」

 「ありがとう、ガーラ」

 薫る、戦士は想う。どんな時も、この薫りは勇気を、戦い生き抜く意志を己に与えてくれた。それが、どれほど心強く救いとなるか……

 「やだよ! 何湿っぽい話にしているんだ! 僕たちは死ぬ気ないからね!」

 「わかっているさ カルタ」

 「絶対だよ!」

 ぷりぷりと尻尾を立てながら怒るカルタ。小さくも、勇敢な魔物。その頭を探し、そっと戦士は撫でる。

 「アタイニノリナ 全ク、見エナイ奴ガ無理スルンジャナイヨ!」

 「ニヴ 頼む」

 ふんっと、鼻息を一つ吹くと巨大な黒狼はその背に戦士を乗せる。盲目とは思えぬほどしっかりと、戦士は黒狼に乗りその背を掴む。決して振り落とされることはない、そう信じているからこその堂々とした姿であった。
 その戦士の後ろに、三体の黒狼が控える。

 「良い、みんな みんな死なないでね 必ず、必ずみんな生きてこの砦を出るんだからね」

 パロマがシーミャを従え、皆に決意を語る。
 目の前を見据え、暴れ狂う暴威と悪意を前に、怯むことなく。
 そして告げる。

 「……ありがとう、戦士さん 私を救ってくれて」

 横に立つ、救い主に、感謝の言葉を。



 鬨の声が上がる



 先陣を切ったのは、最も勇猛にして強者たる獣戦士。
 駆け抜けると同時に、大地に落ちた武器……槍を拾い上げ竜目掛けて投げ放つ。空を切る音とともに槍は竜の体に突き刺さり、鈍い音を立てる。だが、巨体を持つ竜にとっては些末事だったのだろう、気にすることもなく再び竜腕を振り上げるとガーラめがけて叩きつける。紙一重で躱し……大量の血肉を浴びることになっても……振り向きざまに大斧を叩きつけ、竜の指を切り落とす。
 この一撃は流石に無視できぬものだったらしく、竜はその身を震わせ血潮を噴き上げながら怒りに満ちた大顎をガーラめがけて喰いつかんと伸ばす。

 だが、その大顎は獲物に届くことはなかった。四つの業火が、一つの束となって竜の頭を焼いたからである。血肉が焼き焦げる音と臭いとともに悍ましい叫びが竜の喉から噴き上げられる。鬱陶しい黒狼どもを薙ぎ払わんと竜腕を薙ぐも、大振りな一撃など意に介することなく軽々と躱され、再び四つの灼熱をその身に浴びていく。鉄すらも焼き切る熱、流石の竜も剥き出しの血肉で受けるのは耐え難いものがあった。
 怯み手を付く竜の腕に対し、再度ガーラの大斧が振るわれる。ヒビが入ろうとも構わないとばかりに、力を籠め指を、腕を切り落とさんと振るう。
 小さくとも、苛烈な攻め。それを受けた竜は再び首を天に向けると怨嗟に満ちた雄叫びを響き渡らせる。

 あまりの叫びの大きさに、ガーラたちが怯んだ瞬間であった。切り裂かれ、飛び散った肉片が蠢き始める。

 ぼこぼこと泡立つように、湯気を放ち肉片が寄り集まり“産声”を上げる。
 それは、醜い竜のさらなる堕とし子であった。小さく、親と同じく這いずり回ることしかできない赤い血肉の竜。それがうぞうぞと飛び散った肉片から、崩れ落ちた巨竜の半身の臓腑を掻き分け“産まれ堕ちて”いく。その醜い産声は悍ましく、見るもの、聞くものに根源的な恐怖を与えていく。
 だが、戦士は怯まない。見えぬが故の蛮勇、手にした武器……剣を振るい、紅い輝き、その首を切り落とす。黒狼の背で剣を掲げ、号令をかける。それに小鬼の長が応じるように、声を、戦いを命じていく。

 その声に、カルタとカルタの繰るゴーレム、そしてゴブリンたちは覚悟を決め小さき堕とし子に向かっていく。

 巨竜の前に立ち、挑むガーラ。戦場を駆けぬけながら、巨竜と小さき堕とし子を焼き滅ぼしていく三体の黒狼。戦士を背に乗せ、戦いながらも鼓舞していく巨体の黒狼。
 そして小さき堕とし子の群れから人々を守るカルタとゴブリンたち。

 戦いは拮抗していた。

 巨大な竜は次々と堕とし子を産み堕とし、あまつさえ切り飛ばされた指を再生しつつあった。そうでなくとも、竜の巨体である、ガーラ独りの力では限界があった。動きは鈍重かつ単調、かつて戦った“魔法使いの小屋”に比べればずっと戦いやすい相手と言えた。
 だが、次々と産み堕とされる堕とし子の群れがガーラの動きを阻む。素早く這いまわり爪と牙をもって襲い掛かってくる飢えた屍竜の群れ。個々の力は弱い、だが速さは先の虫のゴーレム以上であり、いくら切り、殴り、叩き潰そうとも竜の血肉、そして臓腑から湧いて出てくるその様相は悍ましく、恐ろしかった。
 そして尽きることなく湧く脅威は確実にこちらを疲れさせ、徐々に劣勢へと追いやっていく。
 その事実に、ガーラは焦り始める。巨竜はそんな小さき者を嘲笑うかのように、自らが産んだ子ごと、ガーラを竜腕で薙ぎ払う。素早く伏せたガーラの周りで、堕とし子が不快な叫びとともに砕け飛び散っていく。いくらでも替えが利く、そう叫ぶように竜の臓腑から新たな産声が上がり、血肉をまき散らしながら這いずり出していく。

 化け物めッ!!

 獣は叫ぶ。
悍ましい、あまりにも悍ましい。この怪物に比べたら、先ほどの竜の娘などなんと可愛らしいことか。目の前の、血と死を、悪意しか持たぬ化け物を睨み獣は唸る。

 恐怖を、怖気立つ吐き気がガーラを包む。

 底知れぬ紅い悪意を前に全身が震え、意志に反し足が一歩……後方に引きそうになったその時。

 一陣の風の如くガーラの横を黒い影が通り過ぎる。それは黒狼を駆る戦士、妖精の姫君をその肩に乗せ、巨竜に立ち向かう。小さき堕とし子の首を腕を、そして胴を切り落とし戦士は立ち向かう。
 その姿に、獣は勇気を取り戻す。目が見えぬというのに、戦士は斯くも果敢に、勇気の限り戦っているのだ。

 ガーラは叫ぶ、恐怖を打ち払うように。

 そして駆ける、戦士を守るために。戦うために。






 恐れを知らぬ……恐れたとしても果敢に挑む戦士に、竜が吼える。
 それにアイオンには闇の中で見えていた、紅い輝き、その真実を。あの巨体は所詮ただの肉塊なのだと……“心臓”を中心に伸びる血管の如きもの。大地から養分を吸い取り根を張った樹木にも似ていた。

 故に、血肉でしかないその身を如何に砕こうとも竜に効くはずはない。

 「アイオン!」
 愛する獣が、一つ。悪意を薙ぎ払いながら戦士に駆け寄る。飛び掛かる堕とし子をガーラは手にした斧で断ち払い、その横でニヴが爪を突き立てた堕とし子の頭にアイオンが刃を突き刺し物言わぬ肉塊へと変える。
 「ガーラ! 大丈夫か!?」
 三体の黒狼が、業火を束ね竜腕を焼くも焼き切るまでに至らず戦士たちはその一撃を避けるべく散開する。散らばった戦士たちに堕とし子が這いずり群がり、大口を開け、爪を剥き出しにして襲い掛かる。
 「クソ! キリガナイッ!」
 ザンナが忌々し気に吼える。後方ではゴブリンとカルタも何とか持ちこたえていたが、いかに個々は弱く不完全な存在と言えども、犠牲も厭わず、痛みも感じない狂竜の群れは恐るべき脅威であり、何体かのゴブリンから傷を負った悲鳴が上がり続けていた。小鬼たちが押される度に、背後の人々からも悲鳴が上がる。

 長くはもつまい……

 このまま戦い続け、隙を伺う余裕はない。
 戦士は決断し、叫ぶ。

 「竜の首元、心臓を狙う! ガーラ! ニヴ!」

 戦士は剣を竜の首元、堕とし子が母を飲み込んだ場所を指し示す。戦士と、小鬼の指導者には見えていた。見えぬ目に、燦々と紅く刺し貫くような眩しさでひときわ強く輝く悪意を。闇に閉ざされ、闇のみを見つめるその目に輝く紅。だからこそ、わかるのだろう。

 あの輝きは邪悪なものだと

 「イクヨ! ミンナ!」
 黒狼が、ニヴが業火を号令とともに噴き上げ堕とし子の群れを薙ぎ払う。それに応じ、ザンナ、クロ、プレザもまた力の限り業火を放ち堕とし子を、竜の血肉を焼いていく。力の限り噴き上げられる灼熱は竜の血肉を、仮初の体を焼き滅ぼしていく。その炎を受け、竜はのけ反るようにその身をそらし、喉元を晒しだす。
 その喉元目掛け、ガーラが駆ける。ひしゃげひび割れた斧を手に、ニヴ達が放つ業火に身を焼かれようとも怯むことなく、ただまっすぐに、その力の限り晒しだされた喉元に大斧を振るう。

 鈍い音とともに、喉元が切り開かれ血が噴き出す。

 それに続くように戦士と、それを乗せた黒狼もまた業火を纏い喉元へと詰め寄りガーラが開けた傷穴へと一撃を加えていく。その剣で崩れかけた竜の肉を断ち、黒狼の爪で鱗と柔い喉腹の皮膚を切り裂く。
 己が弱点を狙っている。竜は察したのだろう。絶叫の如き叫びを上げ、焼き崩れることも厭わずに振り上げた竜腕を己が腹、喉元へと叩きつけるように振るう。

 「ッ! させるかあッ!!」

 その竜腕を、ただ一つ、その力をもって受け止める。大斧を振るい叩きつけ、大地にその竜腕を、大腕を縫い付ける。その衝撃を受け、大斧は限界を叫び砕け散った。だが、折れ砕けてなお、鋭く突き破った牙の如く竜腕を砕く。

 「ガーラ!!」

 「アイオン! ニヴ! 早くッ!」

 獣戦士の叫び、それを受け黒狼は身を翻し喉元の傷へと業火を浴びせ最後の扉を開く。切り裂かれ、焼き貫かれた肉塊。その奥底に見えるは悍ましいもの。蠢き紅く脈動する血塊の心臓である。

 「止めだ!!」

 戦士が叫び、輝きに向けてその剣を振るわんと走ろうとしたその瞬間であった。

 「上よ! 避けて!!」
 戦士の肩にしがみついた、妖精の姫君が叫ぶ。
 傷口より生まれ出でた堕とし子が、戦士に食らいつく。妖精が、叫ぶ……剣を上へと……

 戦士は剣を上に、堕とし子の喉へと突き立てる。死は免れた……だが、黒狼より振り落とされ戦士は大地に叩きつけられる。

 「アイオン!!」

 戦士へと叫ぶ黒狼に、堕とし子たちが噛みつきその爪を突き立てる。竜は傷口を隠さんと、その身をよじらんと大きくうねる。そうはさせぬと戦士は立つ、だが輝きは眩しく何も見えなかった。

 「前よ! 走って!」

 だが、見えぬ目の代わりに、見えるものが叫ぶ。妖精の姫君が、戦士を導く。
 しかし、その手に武器はない。だが妖精は導く、武器はあると……どうか私を信じてと……

 戦士は走った

 灼熱を放ち、その巨体をもって堕とし子を叩き潰すニヴ。
 折れた斧の柄を握り振るい、堕とし子を打ち砕くガーラ。

 戦士を想う、獣の目に映るは傷口へと、武器も持たずに走る姿。

 その前には、傷口より湧き出でたる堕とし子が二つ

 黒狼は吼える 吼えるように灼熱を放ち堕とし子を焼き砕く

 獣戦士は叫ぶ 雄たけびを上げ、己が武器を投げ放ち敵を貫く



 妖精は叫ぶ、武器があると、手を前へと

 戦士の手に、獣戦士の大斧……その砕けた散った先の長柄が握られ堕とし子にとどめを刺すと同時に引き抜かれる
 たとえ折れ砕けようとも、その柄の先は鋭く、竜の鱗さえも貫く



 前へ!!



 皆が叫ぶ

 血肉の洞を抜け、戦士は心臓へと迫る


 それは悍ましきもの


 憎しみを、怒りを、嘆きを糧に母なる竜より産まれ落ちた紅い呪い

 血肉の柱の如く、血管に巻き付かれ絡み取られた紅き竜

 その足元より今生を呪うかのように、母に追い縋るように堕とし子が這い出そうとしていた

 堕とし子と同じく紅き竜にまとわりつき、母を求める子の如く乳房をしゃぶるかのような呪いの様相はある種の憐憫を誘うものだったかもしれない

 だが、暗闇の前に物言わぬ嘆きは無意味



 戦士は突き立てる



 その紅い輝き……竜の堕とし子……呪いに向けて






 第七 夜明け

 ……咆哮。
 空を割り、地を響かせる竜の死に際の叫び。

 天を臨み、力の限りその大口を開き、そのまま血肉がはがれ崩れ落ちていく。それは死竜の死に様。音を立て肉が削ぎ落ち、血が噴き出していく。その身に骨は無く、引き千切れる音とともにその巨体を支えていた筋繊維と思わしき赤い筋が飛び散っていく。

 竜の堕とし子が崩壊すると同時に、小さき堕とし子もまた同様にその体が溶け崩れていく。声なき悲鳴を上げ、血を吐き出しながら少しでも長く生きようと、己の使命を……歪み切った、ただ殺し続けることしかできぬというのに……それを果たそうとのたうち回る。だが、崩れ行く体はその爪と牙が命に届くよりもずっと早く堕とし子の仮初の命を失わせていく。

 悲鳴と絶叫、ありとあらゆる叫びが綯交ぜとなり砦に響く。



 竜の体が、紅い呪いが、崩れ落ちていった

















 ……雪原を悠々と、足音を響かせながら進む魔法使いの小屋……否、教会といって良いだろう。その一室、魔女の祭祀場の中心で教母……魔女ノラの眼前で紅い宝石がひときわ強く輝いたその瞬間であった。

 小さな、微かなひび割れる音

 次の瞬間、宝石は砕け散る。砕け散った欠片は回りに飛び散りその輝きを失う。それは魔女が仕込んだ“呪い”が砕けその力を失ったことを示していた。

 魔女の目が、薄く光る

 はるか遠く、荒れ丘の砦……その砦で崩れ落ちながらも隠れ生き残っていた虫のゴーレム、その目に映る光景を魔女は見る。咆哮を上げ、崩れ落ちていく巨竜の様を。その残骸が飛び散り砦を赤く染めていく様を。

 魔女は、薄く目を閉じる

 はるか遠く、荒れ丘の砦……その中で残っていたゴーレムたちの使命を終わらせ、仮初の命を絶つ。

 それから、ため息を一つ

 「まだまだ、“竜”の再現は難しいですね」

 その声音はただ淡々としていた。そしてそのまま机の上にあった本を開く、そこには事細かに様々な呪術の式や応用、様々な効能が記されている。その中のページの一つに、ノラは筆を執り書き入れていく。

 その姿は魔術を研究する魔女そのものであった。












 ……「アイオーン! みんなー!!」
 蜘蛛のゴーレムの上でカルタが、叫ぶ。

 崩れ落ちた肉塊に向かって……

 堕とし子を討つべく、戦士アイオンとガーラ、ニヴは危険を顧みずにその懐に飛び込み、戦いの末にその心臓を断ち見事竜の堕とし子を討ち取った。だが、核が滅び去ると同時に巨竜は戦士たちを飲み込むようにその身を崩壊させ、飲み込んでいった。

 一瞬、カルタの脳裏に恐怖がよぎる。
 だがその恐怖はすぐに希望へと変わる。崩れ溶けだす肉塊の中に“灯った”紅い揺らぎ。それと同時に炎が吹き上がり、内側から引き裂くようにして戦士と……その戦士を守るように獣たちが姿を現す。

 黒狼と獣戦士を率いるように、戦士はゆっくりと立つ
 その両眼は潰され、罪人の証したる黒布が巻かれていた

 右手に竜を貫きたる武器を持ち

 左手には紅い娘を抱く

 その戦士の前に、黒狼たちと小鬼たちが集い歓声を上げ勝利を叫ぶ



 皆、傷を負い……血にまみれ、凄惨なる姿



 その姿を、砦を焼く炎が照らす。


 おお、神よ


 一人、誰かが呟きその手を合わせる 祈るように

 悍ましき悪夢……それを打ち払った者に、ものたちに祈りを捧げる

 次々と頭を垂れ、その姿に祈る


 それはまるで、語り継がれる物語の一節にも似ていた






 ……夜明け、一晩荒れ狂った吹雪は収まり、日差しが白い雪原を照らしていく。
 全ての闇を打ち払い、影を照らす太陽は大いなる救済、祝福のようであった。それは、一晩の悪夢を経験した荒れ丘の砦にとっても同じことであっただろう。
 砦の門は内側より破壊され、その中庭には凄惨な戦いの後がいまだに燻ぶり続けていた。火は消えることなく煙を噴き上げ、飛び散った血と肉が砦壁を彩る。
 何より、中庭の中心にはぶすぶすとほどけるように紅い靄となって消えつつある肉塊がいまだに血を時折噴き出しながらも鎮座していた。

 だが、もはや脅威は去った。

 人々は未だに己が生きていることを信じられぬといった様子で砦の外に彷徨い出ては、冷たく吹きすさぶ風を浴びて生を実感していた。

 数は大きく減ってしまった。だが、皆わかっていた。もしもあの場に魔物たちがいなければ、今頃自分たちは誰も生きていなかったのだと。よもやすれば、恐るべき災厄がこの砦から産まれ落ちたやも知れぬのだと、誰しもが慄いていた。

 あの戦いの後、盲目の戦士に率いられた魔物たちは夜明けを前に砦を発った。
 陽が昇る前の、最も暗い時。獣戦士の魔物が砦の門を素手で叩き割り、戦士たちを背に乗せた黒狼とともに走り去っていった。
 闇に溶け込むように、その姿はたちまちのうちに消えたのである。

 まるで一夜の悪夢、だが確かに存在した現実。
 神話の一端をこの目で見たかのような出来事を前に、人々は祈りを捧げる。その祈りは主神だけでなく、名も言わずに獣を率い砦を去ったあの盲目の罪人……戦士にも捧げられていた。






 此度の、荒れ丘の砦での出来事は、北の大地の国々に衝撃をもって伝えられた……






 第八 一紡ぎ

 ……獣たちの群れが行く。
 白く輝く雪原を、点々とした黒い群れが征く。それは厳しい旅路の途中、群れとともに歩むものは皆傷ついていた。あるものは目を失い、あるものは腕を落とし、あるものは消えることのない深い傷を、それぞれその身に受けていた。
 だが、それでも群れの皆は笑っていた……笑い、生きていた、たくましく、厳しい冬のさなかを。

 それは魔物の群れ……北の大地で、生きることを赦されぬ……原罪たちの群れ……

 その群れの先頭には二頭の黒狼が群れを率い、黒狼に続くように小鬼たちが歌いながら進む。その中心に黒布を巻いた盲目の戦士と、それに連れ立つように小鬼の指導者が歩く……左右にはひときわ大きな黒狼、そして褐色の獣戦士が戦士を守るように並び立つ。少し遅れるようにして、蜘蛛のゴーレムに乗った小さな猫の魔物が同じく小さな黒狼と一緒に群れの殿を務めていた。

 そして、その群れの中に一際輝く紅色が一つ

 異形たる全身に巻き付けるようにフードとマントを羽織り、その身を隠すもちらと見えるその肌、そこに生える鱗に陽があたるたびに宝石の如き輝きが雪原に映える。その者は首を深く落とし、まるで許しを乞うように両手を組み盲目の戦士の後ろを歩いていた。

 傍と見てわかる異形。翼は折り畳めどその雄大さを隠すには至らず、額より突き出したる四つの角は王冠の如くその頭を飾る。全身を覆う鱗は絢爛豪華な鎧の如し……紅き竜、その名はティリア。
 かつては人の娘であったが、教母……魔女……の手によって竜の擬血を飲み、その呪いと魔力を受け“本物の”竜に変じた娘。
 その気になれば、街一つ、城一つ……果ては国すらも滅ぼすことができるだけの力を持つ、暴威の化身にして傲慢なる存在。それがまるで慎み深い修道女の如く、ただ静かに祈りを捧げながら歩む。



 魔物たちの群れが征く、戦士の胸元で静かに歌う、妖精の姫君の導きのままに……






 ……夜、打ち捨てられた小さな砦で群れはひと時の休息をとっていた。夏や初秋のころであれば、野盗の集団がねぐらにしていたであろう場所であったが、冬を越すには隙間が多く冷え込みが厳しく、また冬を越すだけの蓄えをするには小さかった。
 砦が建つ小高い丘の下、その眼下には氷河に沈んだ町が見えた。どのような運命の果てに町が氷河の底に眠ることになったのか、それを知る者は誰もいない。

 そんな砦の一室で、艶めかしい音が響く。

 焚火の灯りに照らされた壁に、睦ぐ男女の……複数の女と一人の男、その影が躍る。
 それは魔物たちの饗宴。厳しい北の大地、そこに生きる魔物たちの最大の喜びでもある愛するものとの交わりであった。

 「ほらほら! どうだい戦士様!」
 毛皮が擦れ、粘つく音を立てながら黒狼のニヴがアイオンの上で躍る。うねり、回しこむようにして腰を振り、戦士を攻め立てる。高熱を発する体に違わず、痛みと錯覚するほどの熱を宿す黒狼の炉は食いこむようにその肉襞を戦士の肉槍に絡ませると同時に、喜びを表すかのようにどろりと淫らな熔鉄を垂れ流し戦士を快楽で焼き溶かしていく。
 きつく、そして絡みつく肉牙と蜜に搾り上げられ、戦士はたまらずに快感のうめき声を上げる。ただ横になり、与えられる快楽を享受するだけ。それでいて与えられる快感の激しさに、自らの上に跨る黒狼がいかに淫らに躍っているのか、それを見ることが叶わぬことが口惜しく感じるほどであった。
 「ニヴ! も……っもう!」
 「ひひっ! 良いよ、アタイと一緒に!」
 名を呼ぶと同時に、ニヴの炉がより奥へとアイオンの芯棒を導くようにうねる。それと同時に腰を深く押し付けると、先ほどの激しさとは一転しぴったりと吸い付くように腰を蠢かせより深く己の炉、その扉を芯棒でねぶる。柔く弾力のある最奥、飲まれたさらに奥で飲まれ噛まれるという決して慣れぬ快感を前に戦士はその全身を震わせると黒狼の中に己の精を放つ。
 「あっあっ! ひっひひっ!」
 精が弾け、己の胎内を叩く感触。幾たび受けてもなお欲してしまう“情愛の証”を前に、ニヴはだらりと舌を垂らし、涎を流しながらその快感に身を震わせていく。

 互いの体から、湯気が立ち上る。体内に籠った熱気を口移しするかのように、ニヴはその身を屈めるとねっとりと肉厚の舌をアイオンの口内に差し込み、唾液一滴残さず舐めとるように、ねろねろと歯茎一つ一つに舌を絡め這わせていく。
 こりこりと口内をなぞるたびに、びくんとニヴの腰が跳ねアイオンの未だ萎えることのない芯棒を嫐り高まらせていく。

 「もういいだろ! 終わったなら早く代わってくれよ!」
 暫く、そのように繋がったまま口交を続けていたニヴに苛立ち紛れの声が上がる。
 「……っふぅ まったく、情緒ってもんをわかってないね」
 やれやれ、とため息一つ吐くようにニヴは目の前の男を背後から抱きかかえている大猪……ガーラに声を上げる。むわりとした、官能的な雌の薫りが立ち昇り、むちむちとした肉体は一度死にかけたとは思えないほど健康的に艶づいていた。あの戦いから数日、すっかり回復したガーラは旅の最中ほぼ毎日といって良いほどアイオンを求め、そして交わっていた。

 ……全ての魔物は現魔王の魔力と影響を受ける……

 それを現すかのように、アイオンと体を重ねるたびにガーラの肉体はサキュバスの如くアイオンの精を吸い上げ、それに呼応するかのように体に刻まれた傷を癒し……恐るべき勢いで力を取り戻していった。
 もちろん、性欲の方も……

 そのガーラが、今宵においてはニヴの後塵を拝する結果になったのはひとえにガーラの不手際故である。厳しい北の大地の冬、その中でこれほどの群れ……盲目の男一人、ヘルハウンド四体、ハイオーク一体、ケット・シー一体、ホブゴブリン一体と他ゴブリン多数、そして妖精とゴーレム……にドラゴン一体……
 見るからに大所帯と化したこの群れを維持するのは並大抵のことではなかった。特に火急の要件となっていたのが食料や水といった物資の確保である。いくら数日飲まず食わずでも平気な魔物でも、本当に飲まず食わずは無理がある。故に移動の合間、休憩時問わずたいていの場合群れの魔物たちは水や食料を求めあちこち奔走する形になっているが、此度今宵に限ってはガーラは運悪く何一つ成果を上げることができなかった。

 故に夜の権利の一つである初夜権……アイオンと最初に交わる権利……特にニヴとガーラの間で激しく争わされる……をガーラは放棄せざるを得なかったのである。

 「はあまったく……んっ……はぁ〜……それじゃあね、アイオン そこのうるさい大猪に飽きたらすぐに言っておくれよ、アタイはいつでも歓迎だからねぇ」
 そう言って口づけを最後に一つした後に、ぬぽりと滑り湿った音とともにアイオンの芯棒が黒狼の炉から引き抜かれる。ほこほこと湯気を放つそこは、失われた熱と湿潤を求めひくひくと跳ねていた。
 それと同じく、ぽっこりと湯気を放つニヴの炉口はぴっちりと閉じられていたものの、じっとりと濡れぼそりてらてらと黒色の輝きを放ちながらとろりとした蜜を滴らせていた。
 「うるせえ! アイオン、アイオン!」
 もう待ちきれない、そういうかのようにガーラはアイオンを己に振り向かせると、そのまま肉布団のようにアイオンを自身に覆いかぶらせる。とはいえ、元々体躯の差があるアイオンとガーラのことである、覆いかぶさるといっても実際はガーラの上に乗っかっているという表現の方が正しいだろう。
 もともと夜の主導権に関してはガーラが握ることが多かったが、今や盲目となったアイオンとの交わりにおいては完全にガーラが主導権を握っていた。しかしてそれはガーラの身勝手な交わりではなく、どちらかといえばアイオンを導き、ガーラは尽くすかのような主導の仕方といえた。

 激しく、見せつけるかのようなニヴの情交を前にガーラも昂っていたのか、いつもよりもさらにむっとと薫るガーラの匂いはアイオンの一物を萎えさせることなく、むしろただこのように抱き合っているだけでも達してしまいそうなほどの高揚感をアイオンに与えていた。
 それを示すかのようにアイオンの愚息ははち切れんばかりであり、ガーラの柔らかな肉を前にその存在を主張していた。そのままガーラは包み込むように抱き締めると、そっと、しかし力強くアイオンの口を奪う。ニヴとはまた違う肉厚の舌が、とろりと口内に浸る。幾たび、こうして口を重ねてなお飽きることのないその味を前にアイオンは貪るようにその舌を味わう。
 舌を絡め、互いに互いの体をまさぐる。太く大きくそれでいて無駄なものなど何もないとわかる張りのある太ももと尻、豊かな実りそのものである大きな乳房に指を埋める心地よさにアイオンが浸っていたその瞬間、ちらりとアイオンの目の奥に蒼い輝きが映りこむ。それと同時に、ガーラの薫りに混じってふわりとした幽香がアイオンの鼻をくすぐる。
 もしも、アイオンの目が見えていれば、ガーラの目の奥で確かに輝く蒼い炎を見たであろう。そう、未だツェツィリアはガーラと共にあった。蘇りを果たし、もはやツェツィリアの助けは必要ない。だが、ツェツィリアはガーラと共にあることを望んでいた。
 それは、肉体を持たぬものにとって得難いもの……たとえ仮宿だったとしても、己とは大きく違う体だったとしても、愛した者に触れられ……そして受け入れるという幸福……それがあるためであった。魔物と霊体の奇妙な共存、それが今ガーラの体で行われていたのである。
 暫く、しっとりとしたガーラの体を堪能するアイオン。口を離し、柔く大きな乳房を口に含む。見えずとも、感じる実りを前に赤子のように甘えるアイオンを、ガーラはそっと慈母の如くその胸に包み抱く。抱きしめられ、より深く濃く薫る匂いを前に、まるで全身に火が灯ったかのような熱が巡り、無意識のうちにアイオンは己の一物を納めるべき場所を探してその腰を動かす。
 「……! ……ほら、アイオン……良いぜ……んっ……あ、はっ……んんぅ、へへ……」
 当然、それを見たガーラはちろりと悪戯っぽく舌を出すと己の腰元を動かし、そっとアイオンの愚息を導く。ねっとりと濡れぼそり、淫らに咲いた肉の花、その花弁へと。
 ぬっと、肉厚でしゃぶりつく入り口を抜け、きゅうきゅうとみっちり詰まった肉の洞を進む。粘つく蜜を掻き分けながら、ぞりぞりと先端が肉襞に撫でられていく。幾たび、幾たび経てもなお新鮮な快感をもたらすガーラの膣内。それが奥に進むほど優しく、そして力強く締め上げていく。
 「んっ」
 ちうっと、最奥の扉に愚息の頭が当たる。ぴったりと、鍵穴にはまる鍵のように肉が食いこみ包む。その抗いがたい快楽を前に、アイオンの腰は震え、その口からは吐息を漏らす。褐色の肌が示すは大いなる地母の慈愛、それを感じるガーラとの交わりは決して代えがたい、安らぎをアイオンに与えるものであった。
 暫く、動けぬほどの心地よさを前に腰を震わせるだけのアイオンを、慈しむようにガーラはその背を撫でる。欲と力に任せた荒々しい交わりも好みであったが、ガーラはこうしたゆっくりとした情交の方が好きになりつつあった。互いに、互いの存在と伴にいられる幸福を分かち合う、それがこの上ない至福の時をもたらしてくれるとわかっているから。
 「ほら……アイオン……あっ……ゆっくり、そう……」
 アイオンの太ももにするりとガーラの尻尾が這う。それに合わせ、柔くゆするようにガーラは腰を、足を開きアイオンを導く。より深く、ぬるりと奥へと飲まれる快感。激しい交わりでもないのに、互いに汗が止まらなくなるほどの快感。一見して、動かしているかすらもわからないほど緩慢な動き……だが、ガーラの柔肉の奥ではぬるぬるとその内部を擦り、こね回し、かき回していく。当然、その凄まじいまでの快感はアイオンも同様であり、己が動かしているはずなのに制御しきれないほどの熱が己が腹奥にずくんとした衝撃とともにたまっていく感覚に翻弄されるばかりであった。
 「ガーラ……! ガーラ……ッ!」
 うわごとのように、愛する者の名を呼ぶ。呼びながら、やわやわと腰を振る。それは母に甘える子の如く、大なる存在に己を委ねる心地よさに浸るものであった。
 「っ! もうっ!」
 「アイオン……っ! きて!」
 絶頂の兆候、それを感じた瞬間ガーラの肉がうねり、最奥へと導く。ずるりと口が開きみっちりとすべてのトロ肉がアイオンを包む。その瞬間、火花が散るような感覚とともに、全てがガーラの中に吐き出されていった。
 びくりと、アイオンとガーラの全身が震え……暫く震えたのち……そのまま力が抜けたようにアイオンはガーラの体に沈み込む。そのアイオンをガーラはきゅっと抱き締め、同じく力が抜けた様子で息を吐く。

 「熱いねえ……妬けちゃうじゃないか」
 その様子を見ていたニヴが、己の黒花をいじりながら熱い吐息とともに言葉を吐く。にちゅっと音を立てながら開かれた奥で、薄桃色の花肉がぬらりと光り、淫らな薫りを放つ。
 「当たり前だろ……アイオンはあたしんだ」
 ぎゅっと、アイオンを抱く腕に力が籠められる。

 「……うわぁ……すごいぃ」
 「良いな〜……いいなぁ……」
 「わたしもセックスしたいよぅ……」

 そんなやりとりを、覗き見る小鬼たち。当然、こうした盗み見をされているというのはガーラたちはわかっていたが、あえて何も言わずにいた。もちろん、ゴブリンたちが望めばアイオンは相手をしたであろうが、今のところ羨ましがりはすれどゴブリンたちはアイオンを求めることはしなかった。だが、だからといって“悪だくみ”をしていないというわけではなかったのだが……それはまた後の話である……



 ……そんなこんなでニヴとガーラ……その後でカルタも……相手にし終わった後、すっかりと夜も更けた頃合いであった。アイオンは一人、廃墟の外……目が開けば眼前には雄大に広がる氷河と、その底に沈む町が見えたであろう場所で夜風に当たっていた。しんと肌を切り裂く冷たい風は激しい情交の残り火をもってしてもたちまちのうちにその体を凍えさせるものであった。
 だが、それは同時に熱に浮かされた思考を覚ますのにはうってつけであった。

 暫し、一人砦の外で身を切る寒さに身を晒していた時であった。衣擦れの音とともに地を踏む足音がアイオンの耳に届く。
 一瞬、アイオンは身構えるも……近づくにつれ辺りを包む冷気が和らぐことで足音の主を悟り、力を抜いて声をかける。

 「……ティリア、か」
 ティリア、そう呼ばれた竜がアイオンの隣に立つ。
 「……そうよ」

 狂わんばかりの愛と執着ゆえに、異形へと身を堕とした娘

 その姿に、かつてシスター……ひいては人間であった名残は薄く、その姿を見れば誰もが魔物と叫んだであろう。だが、もしもアイオンが光を得たならば……きっと言ったであろう、変わることなく、あの日々を共に過ごした家族……シスターのティリアだと。

 あの戦いの後、ティリアはアイオンの腕に抱かれ砦を後にした。
 目を覚ましたティリアが最初に見たのは……潰されてなお、不器用で、それでも伝わる親愛の情を……まっすぐと己に向けるアイオンの瞳であった。痛々しく、切り裂かれた両目。もう二度と、記憶の中でしか愛する者を思い出せぬ罪過の刻印を受けてなおアイオンは愚直に皆を想い、そしてその中に己が含まれているのだと……決して、忘れ去られてなどいなかったのだと、それを確かに告げるその瞳であった。
 ティリアは、泣き崩れた。

 アイオンがティリアを連れていくと、断固として告げた時、誰も異を唱えなかった。それはティリアをひどく驚かせたのである。
 どのような形であれ、明確な殺意を向け、一度はその手にかけようとしたものをなぜ許せるのか……ティリアにはわからなかった。ガーラはもちろん、一番不満げにしていた。なにせ出会いから最悪であった……アイオンにガーラの斬首を命じ、次にあった時は竜と化して自ら手を下さんと襲い掛かってきた……だが、アイオンが力強く断言したことで渋々といった様子で引き下がったのである。それに、ある種直感めいた部分でガーラも感づいてはいたのである。
 もう、危険ではないと。
 強大さは依然変わりなく、一対一であれば誰もティリアに勝つことはできないだろう。だが、少なくとも突然襲いかかってくることも、アイオンを独り攫って行ってしまうことはない、そう言えるだけの奇妙な確信……もしくは絆……同じ男を愛した女としての、一紡ぎの繋がり、それがあった。
 事実、今のティリアはかつてアイオンが知る教会の娘……少しばかり強気で、しかして真摯な気持ちを持つ……それと何ら変わりない存在であった。たとえ姿かたちが変わろうとも、本質は何ら変わりなく……強いて言えば多少の独占欲を剥き出しにはしていたが、それでもあの砦で見せた狂気はすっかり毒気が抜けたかのように消え失せていた。

 そのティリアが、静かにアイオンの横に座り込む。
 ふわりと、ティリアの薫りがアイオンの鼻をくすぐる。懐かしく記憶をくすぐる、幼馴染の娘の匂い。
 そっと、ティリアの広げられた翼がアイオンを包み凍てつく風からその身を護る。紅く輝く翼は冷気を断ち、穏やかな温もりをアイオンに与えていく。それは心地よく、うっかりすればそのまま眠りに落ちてしまいそうなほどであった。

 ティリアは、驚くほど冷静に己の変化を受け入れていた。
 曲がりなりにも教会で育った娘であるながら……魔物と化した我が身を、静かに顧みて、何一つ驚くことも嘆くこともなかった。ただ淡々と己が人でなくなったことを噛みしめるように、ただ一言……


 ごめんなさい、義父さん


 そう呟いたのみであった。

 ともに教会で育ち、そしてともに堕落した……一組の男女。何とも数奇な運命であった。だがそれは降り積もる雪の中に埋もれ消える物語。誰も、その者の名を、物語を知る者はいない。

 そっと、アイオンの手にティリアの手が重なる。異形と化した、鋭い爪と硬い鱗に覆われた鎧と見紛う腕と手。だが、確かに流れる血潮の温もりを、熱く灯る想いをアイオンに伝える。
 ただただ、そっと手を、指を絡める。人差し指で、指の間をなぞり、手の甲を爪先で引っ掻く。武骨な戦士の指を、竜の指が抑え絡め捕る。そのまま指の腹同士を擦り合わせ、熱を灯す。冷たい冬の夜、そうというのに合わせた手と手は熱く、しっとりと汗ばんでいく。

 それはまるで、手と指を使った交わりの真似事のようでもあった。

 事実、それはティリアにとって……己に唯一許した、欲望の発露であった。
 ……想いあっているにも関わらず、二人は未だにその体を……唇すらも許し合っていなかった。
 それは、ティリアが己に科した奇妙な責でもあった。欲望のままに、激情のままにアイオンを奪い、そして殺そうとした魔物たちに対しての、ティリアなりの贖罪。故にティリアは己の中の欲望を、その強固な意志をもって封じていた。
  魔物と化した今、縛るものは何もない。そう言うものもいるだろう。だがティリアは己の内に潜む狂気に対し、言いようのない不安を、そして恐怖を感じてもいた。もしも、ひとたび愛し愛される喜びを知ったが最後、再びあのような激情と狂気に駆られてしまうのではないかという、己の中の“竜”に対する恐れと畏怖。

 アイオンもまた、ティリアに対し複雑な責を感じていた。一度は想いを確信し、また己も相手を愛した、だが己の身勝手でその想いを断ち切り傷つけた。だというのに、再び出会い、そして互いを縛っていたありとあらゆるしがらみからさえも無理やり解き放たれてしまった今、その想いを遂げようというのは果たして許されるのか、と。本来であればもう二度と交わることがないが故に断ち切った、想い。それが数奇な運命の果てに紡がれ繋がってしまったことによる奇妙な葛藤。
 それに、互いに愛し愛されていると確信しているからこその、奇妙な壁。お互いに積み重ね紡いだものが、互いの壁となる。あと一歩、お互いに踏み出す何かが足りない。そんなもどかしい感情が、アイオンの中にはあった。

 「……夜は冷えるわ、もう休みましょう」
 小さな呟き。言葉とは裏腹にきゅっと、指が強く握られる。
 その手をアイオンは握り返し、静かに頷く。



 ただしんしんと、凍える夜が更けていく



























 結 ヤガを継ぐもの

 ……北の大地、その文化と信仰の中心。
 教団統治国家セントノースとノーシア国の国境。その境目となる森を奇妙なものが進んでいた。それは、足の生えた教会に似た建物。秘技を知る者からは“魔法使いの小屋”と呼ばれる呪物であった。
 それは悪路をものともせず、道なき道を進んでいく。その歩みは恐ろしく静かであり、そして素早かった。

 もう間もなく、国境へと至るという道すがら、魔法使いの小屋はその動きを止めると、小さな地響きとともに足を大地に埋めていく。たちまちのうちにその奇妙な建物は森の中に佇む一つの建物と化す。
 数刻の後、森の中に静かに佇むその建物に対し馬車を連れた戦士と、教団の兵士の一団が近づいていく。戦士は馬から降りると、静かにその建物に近づき、扉を叩く。

 「ノラ様 お迎えに上がりました」

 戦士は恭しく、首を垂れ建物の主が顔を出すのを待つ。
 暫くして、建物の扉が開き戦士ベルナルトと、戦士ユーリイが外に出る。それに続くようにして、魔女……教母ノラがその姿を現す。
 「出迎え、ありがとうカタリナ 変わりはないですか?」
 教母の言葉に、より深く首を落とす戦士カタリナ。
 「問題は起きておりません ……ノラ様、ご無事で何よりです」
 「うふふ、ベルナルトもユーリイも良くできた子ですから……貴女もよ、カタリナ」
 挨拶もほどほどに、カタリナは首を上げると片手をあげて兵士たちに命じ、用意した馬車へとノラを案内する。
 「どうぞ、お乗りになられてください、すぐに国境です ……しかしこの度はいったいどうなさったのですか? まさか“教会”をお使いになられるとは思いませんでした」
 馬車へと乗り込んだノラに対し、カタリナは声をかける。
 「……少し厄介ごとが起きました 深入りはしない方が良いのですが、はたまた無視するには……うふふ、まあそういうことですよ」
 「……出迎えの兵士たちには火急の要件でお戻りになった教母様が森の中の建物で休まれているとだけ伝えてあります 詳しい話は後程の方がよろしいですね それと……」
 「何かしら?」
 「……大教母様が大変心配していらっしゃいました」
 カタリナのその言葉に、ノラは目を細めうっすらと微笑む。
 「……まったく、あの子も心配性ですね 大丈夫ですよ……主神様の御加護がありますから……」

 ぴしりとした鞭のしなる音とともに、馬車が動き出す。
 その馬車の中で、教母はただ静かに微笑んでいた。


22/09/19 07:51更新 / 御茶梟
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■作者メッセージ
この度も読んでいただき、ありがとうございます。

毎度ながら長い話ですが、それでもお付き合いいただき大変うれしく思います。
お楽しみいただけたのなら、より幸いに思っています。

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