連載小説
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紅炎 ※エロなし
2022/7/29 第四と第六の表題が重複していたので第六を修正

登場人物



 アイオン
 魔物を伴に旅をする元戦士。
 戦いの果てに両目を失い、虜囚となる。

 ガーラ
 アイオンを伴に旅をするハイオークの魔物娘。
 戦いの果てにその命を落としてしまうも……?

 ノチェ
 アイオンを愛する妖精の娘。
 愛する者の絶望と喪失に心が壊れかけている。

 カルタ
 アイオンを伴とし、旅をするケット・シーの魔物娘。
 己の非力さ無力さに苦悩しつつもできることを精一杯やっている。

 ヘルハウンドたち
 アイオンを伴にし、護り愛すると誓ったニヴ。
 ニヴの子分で取りまとめ役のザンナ。
 小柄で少し頭の悪いクロ。
 貧乏くじが多いプレザの四姉妹。

 ゴブリンたち
 ホブゴブリンのパロマに付き従うゴブリンの魔物娘たち。
 厳しい北の大地の中で追われながらも慎ましく生きている。

 ティリア
 アイオンを愛し、探し続けている教会のシスター。
 たった一粒、雪中の宝石を探し続けている。












 序 灯火、二つ

 ……ある森に、一匹の魔物がいた。
 暗く、蒼い森。ぼんやりと丸い蒼月が靄にかすみ、空の上で寂光を漂わせている。
 その月明かりに照らされた魔物は幼く、そして孤独であった。

 その小さな両手で顔を覆い、目をこすり、すすり泣きの声を上げて。

 風は冷たく、凍えるような夜。
 誰か、温もりを……そう願っても、森の中には誰もいない。

ただ、ただ一人。

 とぼとぼと、あてもなく歩く。泣きながら、歩く。
 風にあおられた木々が、もの悲しく啼く。その音に怯え、魔物は木に寄り掛かり隠れるように、根元に座り込む。

 おねえちゃん……エデルねえちゃん……

 魔物が、ぼそりと呟く。誰よりも、何よりも頼りになる、姉の名を。
 いつも、こんな冷たい夜は抱きしめてくれた。
 いつも、こんな寂しい夜は傍にいてくれた。
 いつも、こんな怖い夜は守ってくれていた。

 でも、もう守ってくれる姉はいない。

 姉は人に負けて、その人のものになってしまった。みんなみんな、変わってしまった。

 おなか、すいた……

 いつも、そう言えば誰かが食べ物をくれた。
 でも、今は誰も、くれない。
 魔物は凍える体を独りで抱いて、小さく鳴るおなかを抑えようと丸くなる。
 それでも、体は冷たくて、おなかは鳴りっぱなしで。

 ただ、たださみしくて、かなしくて、魔物は泣いた。

 そんな夜に、ふわりと優しい風が吹く。

 だれ?

 目の前に、黒衣をまとい捻れ木の杖を持った、魔女が……魔女様が立っていた。
 魔女様は、小さく微笑むと、小さな魔物の顔をのぞきこむ。

 かわいそうに……

 群れからはぐれた……追われた小さなあなた……

 ふうっと、ため息を一つ。魔女様は微笑む。

 つらかったでしょう……いたかったでしょう……

 しんとした、冷気が漂う。骨まで染み入るような、寒さに魔物はより強く、己の身を守るように抱く。その様子さえも、愛おしそうに魔女様は笑って見つめていた。

 でも、大丈夫……もう、つらいことはないわ……

 私と、一緒にいきましょう?

 ……かわいそうな、あなた……

 囁き、そして手を差し出す。透き通るように白い、その手を。冷たく輝くような魔女様の手を前に、幼い魔物は怯えるように身をすくませる。

 だれ? どうして?

 怯えながらも、精いっぱい魔物は問う。あなたは誰なのかと。
 どうして、見知らぬ自分に……そんな優しく微笑みかけるのか、魔物にはわからなかった。

 ほら……

 でも、それでも……魔物は手を伸ばす。
 魔物は、嫌だった。一人でいるのが、寒いのが、飢えが……ただ、誰かに守ってもらいたかった。
 だから、その手を伸ばす。

魔女様の手を、掴もうと……

 ゆっくりと、魔女様の笑みが三日月を描いていく。



 だめ!



 突然の叫び。
 びくりと、驚いた魔物は手を引っ込める。

 だめ! よく見て!

 幼くも、凛と芯のある少女の声が魔物の耳に響く。
 その声につられ、魔物は顔をあげ、そして悲鳴をあげる。

 ぽっかりと、黒く空いた、魔女様の目
 口の中も、まあっくろ

 はやく! こっちへ!

 いつの間にか月は消え、闇があたりを覆う。その闇の中に、蒼い炎が揺らぐ。
 魔物は転がるように、魔女様の前から逃げると這うように炎を追う。

 どこにいくの?

 くすくすと、魔女様の声が闇から響く。

 こっちにおいで、かなしいあなた

 じんと、芯から冷える。囁き。
 それを振り払うように、魔物は走る。

 まって!

 蒼い炎へ、向かって走る。

 早く! 私の手をとって!

 蒼い炎が、少女を象りその手を伸ばす。

 どうして、いたみをもとめるの?

 魔女様が、闇が呟く。

 ガーラ……かわいそうな、あなた……



 蒼い炎が、闇を焼く












 ……けたたましい叫びが、ガーラの耳に響く。
 「ガーラ! ガーラ起きてよ! ガーラ!」
 最初に感じたのは、己の体の冷たさであった。どうしようもなく、冷たく凍てついている。次に煩わしさ、良く知った猫の魔物、カルタの声ががんがんと脳を揺さぶる。
 「……ぅ……ぁ……」
 うるさい、そう言おうとした、でも言葉が出なかった。それでも、反応があったことがカルタにとってはとても重要なことのようで、その小さな手で大きなガーラをゆする。ふんわりとした、非力な手。だがその小さなふにふにとした感触は今のガーラにとってはちょうどよい目覚めの手助けとなった。
 「ガーラ! わあ!」
 ふん、と軽く手を払う。見るからに力のない、ただ動かしただけの手。だが、それでもカルタにとっては脅威に映ったようであり、大げさにのけ反りその手を避ける。
 全身が、ひどく硬い。指先すらもまともに動かないほどであった。それに、ガーラには違和感があった。何かが欠けている、ひどく空虚で……身に染み入る冷たさとは別の、どうしようもなく、耐えがたい“穴”が体に空いているような。実際、ベルナルトの槍を受け腹に大穴は空いたが、今は塞がっているのは感覚的に分かっていた、それとは違う体の内のどこかに空いたかのような、精神的な虚穴であった。
 いったい何が……その答えは、重い瞼を開けてすぐにわかった。岩の天井……洞窟の中にしては、ぼんやりと明るい。炎とは別の魔力の光。淡い燐光を放つそれは不気味な蒼色で周囲を色取り、そしてその中に混じる紅い輝き。ガーラの反応を敏感に感じ取ったのか、カルタが小さく黙る。
 カルタの方を、ガーラは見る。喜びの中に、確かにある苦悶。どうしようもない、罪悪の悔恨。その小さな手から流れ出る血。
 ガーラは思い出す。カルタの術を、膨大な魔力を宿しながら、操る術をほとんど持たない小さな魔物。だが、ある魔術においては絶対的な知識と技術を持つ。

 ゴーレム術、生命無き物に命を宿す秘術……

 だがもう一つ、カルタには在る

 命弄ぶ禁忌
 死せる者を呼び戻し、仮初の命で縛る
 かつてそれは奇跡と呼ばれたのであろうか

 遥か古より、神への冒涜とされた禁術

……死霊術……

 その痕跡が、目の前の小さな魔物から迸る。紅い、血の燻ぶり。蒼い、死者の炎。
 ガーラは口を開き、掠れた声を出す。どうしても、どうしても問わねばならなかった。どうしても、聞かねばならなかったその問いを……



 ……あたしは、死んだのか……






 ……冷たい、風が吹く。
 商隊が列をなし、ゆっくりと白い雪に覆われた冷たい大地を歩む。しんしんと、粉雪がまばらに降り積もるその道行きは決して楽な道ではなかったが、それでも吹雪く夜や雪嵐に比べればずっと見慣れ、歩き慣れた道でもあった。
 だが、商隊の人々の顔は暗く、何かを警戒するかのように張りつめた緊張感をもって歩んでいた。誰も彼も、その表情の奥に恐怖を隠しながら。

 小さな集落の惨状、それが魔物によってもたらされた悲劇だと、商隊の人々は信じて疑わなかった。
 それと同時に、己たちもまた大いなる主神に見放されればあのような末路となるのだと、思わずにはいられなかった。
 だが、そんな心細い商隊の道にも少しばかりの希望が見えていた。目的地ではないが、もうすぐ安心して休める場所へとたどり着く。

 ノーシア国の兵団が駐屯する“荒れ丘の砦”と呼ばれる城砦である。

 小高い丘の上に築かれた、小さくも堅牢な砦であり、多くの戦いの戦場にもなった歴史ある砦であった。かつては対人、対魔ともに重要な砦であったがそうした戦いが行われなくなって久しい今となってはただ一つ荒野を眺める孤独な砦でもあった。
 守備兵も百を超えるかどうか、それ以外の下働きの人々を含めても二百に満たない小さな砦であった。
 そんな小さな砦であったが、厳しい冬の旅の最中において雪風を凌げて、屈強な兵士たちに囲われ守られた砦というのは身を守る術に乏しい商隊にとっては心強いものであり、数少ない心休まる場所でもあった。それに、商いの機会にも恵まれる可能性も高かった。
 ともかく、そんなわけで商隊にとっては一刻も早く砦にたどり着き小さな集落の惨状を伝え、自分たちはゆっくりと腰を落ち着けたかったのである。

 そして、そんな商隊の中に一人のシスターがひっそりと混じっていた。
 紅い髪をフードの奥に隠し、誰もが暗く沈む中、馬に跨り何かを探すかのように鋭く前を見据える。その装束は女戦士のようであり、腰には剣が二振り吊り下げられていた。
 人を探す、旅の途中だと……そう告げて商隊に加わった教会のシスター……かつて戦士だったアイオンの家族、姉替わりでもあったシスターのティリアである。
 アイオンを愛し、それを自覚した時にはすでに遅く、最愛の人は魔物によって心乱され人の道を外れて行ってしまった。それによってティリアの心もまた、どこか壊れてしまったのかもしれない。想いは情念となり、情念は執念に、執念は妄執へと変わり始めていた。

ただ、彼に会いたい、会って、会って、会って……どうするの?

 もはや道は別たれ、交わることはない。魔物と歩むことを決めた時点で、アイオンは人の道に戻ることはない……否、戻れない。ならば、なぜ彼を追うのか。

 それこそが、ティリアの妄執……その源泉であった。

 ダレニモ、ダレニモワタサナイ

 カレハワタシノ、ワタシダケノモノ

 異様なまでの、執着、独占欲。得られて当然だと、信じて疑わなかった居場所を奪われたという憎悪、そして信じていたがゆえに諦められなかった愛情、それを欲して止まない……飢えにも似た渇望。それが今のティリアを形作る全てであった。

 それが叶わぬのならば……

 答えは一つであった。

 永遠に、アイオンを己のものにするために取れる手段は一つ。
 今のティリアは、囚われていた。その、紅い妄執に。己が髪の如く揺らぐ、全てを焼き潰す紅い紅い愛憎の炎に。

 「砦につくぞー!」

 先頭を歩む斥候が叫ぶ。白い風の中に、黒い影が霞んで見えた。そのまま斥候は馬を駆り、砦へと先触れをしに走る。
 「ようやく一息つけるね」
 「まったくだわ あたしゃ足がぱんぱんだよ」
 「しかしもお、何も冬に旅をせんでもと……」
 耳良い報せに商隊の女衆が明るく華やぐ。だが、ティリアの心は安らぐことなく、会えもしない、会うはずのないただ一人の姿を想う。

 「見てごらんよ、兵士様たちだ」

 そんな中、女衆の中の一人が自分たちと同じく砦を目指す一団を見つける。兵団と主神教団の旗を掲げたその一団は足早に雪原を進んでおり、戦闘の後だったのだろう。商隊以上に疲弊しているようであった。
 「あたしらが安心して旅をできるのも、ああやって魔物を退治してくださる兵士様たちのおかげだねえ」
 「ありがたや、ありがたや」
 女衆の一人が、手を合わせようとしたその時であった。

 駿馬が、跳ねる。

 「わあっ!」
 「ああ! し、シスター様!」

 フードが外れ、紅髪が翻り雪原の中に花の如く咲く。そして、ただまっすぐに、兵団のただなか、それに向かって馬を駆り走る。シスターは叫ぶ、誰にも聞こえない、風のようにかすれ切り立った叫びを、そのものの名を、ずっと探していたものの名を。



 ミツケタ

 アナタヲミツケタ!






 第一 罪人

 ……冷たい風が、ある男の肌を切り裂く。
 その男は罪人なのだろう……両手に枷をつけられ衣服をはぎ取られたその男は、ぼろぼろの下履きだけを穿かされて、鎖に繋がれた両足を引きずりながら冷たい雪の上を素足で歩かされていた。その足取りはよろよろと心もとなく、まるで前が見えていないようで時折雪に足を取られ、うめき声とともにたびたび倒れこんでいた。実際、男は見えていなかった……惨たらしく潰された両目には、罪人の証となる黒い布が包帯代わりに巻かれ、血の跡が涙のように両頬を染めていた。

 男の名は……アイオン、アイオン・ノクトアム……

 かつて孤児として教会で育てられ、戦士を志し……そして魔物に心奪われ堕落した男である。事実、その体つきは端整かつ強靭に鍛え上げられ、過酷な長旅の中で無駄なくそぎ落とされた、純粋な鉄芯の如き肉体は戦士としては完璧に近いものであった。
 だが、アイオンは戦士としては、もう終わりであった。その両眼は深く抉られるように確実に潰され、もはやどのような奇跡が起きようとも再び光を宿すことはないであろうことが、容易に窺えたからである。だが、それ以上に決定的であったのが、アイオン自身の心が……戦士として、戦い続けようという意思が……折れてしまっていたのである。

 ……ガーラ……

 苦悶の中に、くぐもった呟きで愛する魔物の名を呼ぶ。戦士ではなく人として、道を外れようとしていた己を止めるためにその身を投げ出し、その隙を突かれ瀕死の重傷を負ってしまった、大切な……伴侶といっても良い、魔物。
 今も瞼の裏に焼き付いている。悲痛に満ちた、それでいてなお己を助けようと必死に足掻く、その顔が。
 流す涙はなく、ただ血だけが滲み出る。
 「貴様! 立ち止まるな!」
 雪に足を取られ、ふらつくアイオンの背に棍棒が叩きつけられる。幾度となく殴られ、その背は蒼く腫れあがり、血を流している。背中だけではない、足は霜で爛れ血を流し、つまずいた足先は割れている。そうでなくとも、過酷な旅路において受けた傷は数知れず……全身、傷だらけであった。
 そして今、己が挑んだ兵士たちの恐怖を、憎悪を、アイオンは今一身に受けていた。

 そして、その様子を苦悶に満ちた表情で眺める魔物が一体、いた。黒鉄の檻に繋がれ、口枷をはめられ全身に鎖を巻かれた黒狼の魔物……ヘルハウンドのニヴである。肩を投槍で貫かれ、アイオンとともに捕まった魔物であった。
 艶やかな毛皮は血に汚れ、傷口から流れ出た血がその傷の深さを物語る。しかし、ニヴは自らが負った深手以上に、愛する者が負わされている苦痛に心を痛めていた。叶うならば、今すぐにでもこの身を縛る鎖と檻を焼き砕き、アイオンを救いだしたかった。だが、当然兵士たちがそれを許すようなことはなく、ニヴが反抗しないようにニヴの檻の前、近くではないがよく見える位置にアイオンを歩かせ、ニヴが反抗すればすぐにでも愛する男の命を奪えるのだと知らしめるように抜身の武器を構えた兵士が数名アイオンを囲っていた。
 口枷は顎骨に食いこむほどにきつく縛られ、火を吐くことはできそうにない。火を熾すことはできるが、鎖と檻を焼き切る前に兵士はアイオンの命を奪うだろうことは想像に容易かった。それ故に、狂獣とさえ呼ばれたヘルハウンドとしては恐ろしく静かにしていた。だが、その表情は怒りと苦悶に歪み、時折唸り声とともに赤熱の火の粉が口枷から漏れる。その目は必死に、そして決して諦めることのない信念の炎を宿していた。

 そして、そんな兵団の足音に混じり、耳が良いものがいたならば聞いたであろう……妖精の泣き声を……悲痛に満ち、嘆きと無力を呪うその声を。鉄の鳥籠、かつて己が捕らえられていた檻に再び妖精は捕らえられていた。名はノチェ、アイオンと旅を共にし、そしてこの結末に導いた……導いてしまった存在。ノチェは悔いていた。己のせいだと、己がこの旅路に誘ってしまった。この惨劇、悲劇の手引きをしてしまったのだと。
 その啜り泣きが風と、兵士の足音に混じる。今、己が捕らわれている鳥籠は厚布に包まれ、冷たい風に晒されることはなかった。だが、ノチェの心身は冷え切り、その細く小さな身を掻き抱いて丸くなる。柔らかな燐光は弱々しく、今にも消え入りそうであった。
 その妖精の耳に、鈍い殴打の音と絞り出すようなうめき声が届く。
 耳を塞ぎ、より身を丸め、ただ泣き啜る。

 妖精は壊れてしまいそうであった。だが、必死に耐えていた。この小さな身を、守ってくれると約束してくれた、戦士のために。涙も、嘆きも、止まりそうにない。でも、壊れてはいけない。己が己であり続ける。決定的な最期が訪れることになるその時まで、耐えることを止めてはならない。耐えて、耐えて、耐え続けて、己の非力を呪おうとも決して壊れはしまい、己が己であることを止めはしないと、それがこの小さな妖精……ノチェの戦いであった。



 ……先頭を往く斥候が先触れの笛を鳴らす。その音は間もなく目的地に着くことを告げていた。
 「間もなく砦につきます」
 「うむ」
 ベルナルトに、傍付きの兵士が告げる。兜によって隠れ見えなかったが、ベルナルトの表情は険しく、この度の失態……襲撃を受けたことによる損失ばかりか、ゴブリンまで逃がしてしまったという……それをどう報告するか、それを逡巡しているということは想像に難くなかった。そうでなくとも、この度の遠征はさほど難しくはない遠征のはずであったということも大きかった。それ故に、辺境の砦のものに北の大地の中心たる聖都の聖戦士の力を見せるという意味でも、成功してしかるべき……否、失敗などありえないはずの遠征だったのだ。
 (……それもこれも、あの堕落者故……)
 ベルナルトは忌々し気に、目を細める。いくら説明したところで堕落者一人と僅か数匹の魔物によって五十を超える兵士が翻弄されたばかりか、戦士の一人……それも熟練の剣士たるユーリイが敗北すらしたという事実が消えることはない。
 だが、それ以上に忌々しく感じていたのは……兵士の誰一人として口には出さなかったが……今、こうして命があるのは一体の魔物が……己の命を投げ出してまで、あの堕落者の戦士を止めたということ、そして我々はそれを不意打つ形で魔物を討ち、戦士を捕えたという覆しようのない事実であった。
 今一度、ベルナルトは忌々しく歯を食いしばり、深い息を吐く。気は重いが、伝えなくては……ベルナルトがそう考え、報告の言葉を繕おうとしたその時であった。兵士の怒声が聞こえたのは。

 「止まれ! そこの女! 止まれー!!」

 嘶き、雪を蹴る馬の駆け音。ちらちらと落ちる粉雪の中に艶やかな紅が煌めく。その装束から女戦士の類いかと、ベルナルトは考える。

 「邪魔を、するな!」

 制止しようとする兵士を鞘巻きの剣で殴りつけ、馬を無理やり走らせる。
 「堕落者に近づかせるな!」
 兵士の怒号が、飛ぶ。紅髪の女戦士の目的は堕落者にあるようであった。駆け寄ろうとする馬に対し、槍を突き出しその動きを止める。
 「スリヴァ! くぅっ!」
 槍に驚き、馬がその身を翻すと同時に態勢を崩した女戦士は叫びとともに馬から落ちる。だが、すぐにその身を起こすと驚くべき速さで兵士の脇をすり抜け、堕落者……アイオンへと走り寄る。あと少し、もう少しで届く……そう女戦士……ティリアが感じたその瞬間であった。

 「寄るな! 寄ればこのものの首を斬る!」

 罪人の首に、鋭い短刀が押し当てられる。髪を掴まれ、顔が上がる。それは、間違いなく……ティリアが探し求めた……戦士の顔であった。
 「アイオン! クッ! 離せ!」
 ティリアが足を止めると同時に、追いついた兵士に二人がかりで取り押さえられる。
 「アイオン! アイオン! よくも!」
 響き渡る絶叫、その怨嗟とも激情ともとれぬ女の叫びに兵士はただならぬものを感じ、困惑と恐怖の表情で罪人と女を見る。
 いったい、この二人の間に何があったというのか……
 「……堕落者、この女は何者だ なぜおまえを知っている!」
 喉に、短刀が食いこみ皮膚が切れる。その声は目の前で狂乱する女の叫びによって半ばかき消されていたが、アイオンの耳には届く。忘れえぬはずのない、あの声を。
 「ぐっ……! ……知らない、この女のことは……声も聞いたことがない」
 「嘘をつくなっ! 貴様! 私のことを忘れたっ⁉ どうしてッ⁉」
 だが、戦士は噓をつく。知りもしないと……この時は、両目が潰されていて幸いだとアイオンは感じる。目の動きで悟られることもない、確かな動揺と目の奥に宿る情を。
 「アイオン! ふざけるな! あの獣に溺れた挙句にッ! 離せッ! 離せェーッ!!」
 しかし、アイオンの返事はティリアの怒りに火をつけるには十分すぎた。ますます狂乱していく姿に恐怖を感じ、兵士は目で合図するとティリアをアイオンから引きはがすべくその口に布を噛ませると、無理やり暴れるティリアを引きずるようにしてその場から離す。流石のティリアも、兵士二人に抑えられてはどうしようもなかったが、それでもなお恐るべき力で兵士を振り回さんとしていた。
 「何事だ」
 「……わ、わかりません 堕落者の縁者だと思われますが……ただの気狂いやもしれません」
 兵士二人に押さえつけられてなお暴れ叫ぶ。それでもなおその顔立ちは美しいと感じられるものがあったのが、ベルナルトの興味を引いた。それに顔つきだけではない、罵声の中に混じる“罪人の名”“あの獣”……狂人には知りえない、それどころか他人ならばまず知りえない言葉を叫ぶ紅髪の女。ベルナルトは直感的に確信する……この女は何かを知っている、もしくはこの罪人と何かしら縁のあるものだと。
 「……あの女も捕えよ 落ち着くかわからぬが、落ち着いた頃合いを見て語り掛ければ何か喋るかもしれんな 狂人なら狂人でよい、ちょうど教母様も来ておる……かようなものを救うのも我らが務めよ」
 「はっ!」

 しんしんと、粉雪が積もっていく。
 もう間もなく、砦へと至ろうとしていた。



 第二 死の淵より

 ……暗く冷たい洞穴、その奥に魔物たちが集う。
 奥の広間、かつてゴブリンたちが自らの住居として整えていた場所。今となっては荒らされ、打ち壊された寝床と入れ物……食料や、ちょっとした宝物を入れていた……の破片だけが飛び散っている。その中心に、それらの残骸を火種に火が熾されていた。その火を囲むようにゴブリンたち、ヘルハウンドのザンナ、プレザ、クロ……そしてガーラとカルタが少し離れて……火を見つめていた。重苦しい沈黙だけが、暗闇のように広間の中に漂っていた。
 何体かのゴブリンがちらちらとガーラの方を見る。その目にはわずかな好奇心と驚愕、そして恐怖とまではいかないが、大きな恐れが見て取れた。だが、それも致し方ないことではあった。ゴブリンたちの大切な仲間、ホブゴブリンのパロマを助けようと兵士たちの野営所に向かい、結果としてパロマを救うことには成功していた。だが、助けようと、見ず知らずのゴブリンたちに言ってくれたあの戦士と、戦士が連れていた妖精、そして大きなヘルハウンドは帰ってこなかった……帰ってきたのは、ケット・シーのカルタと、死にかけ……否、冷たく凍てついた、ハイオークのガーラの死したと思わしき体であった。先にカルタとクロが戻り、そして焦った様子でプレザ、ザンナが出ていき……ガーラを引きずるようにして戻ってきた。
 そして今、死んだと思われていたハイオークは奇跡的に蘇り、静かに火を眺めている。だが、どうにもゴブリンたちにとっては、不気味であった。妖精の血を引き、霊的な感覚に優れたものが多いからこそであろうか。壁に寄り掛かり、カルタの隣で自らの体を確かめるように腕や指を動かすその存在が、生きてそこにいる存在とは思えなかったのである。どこか冷たく、空いた穴のように底冷えする冷気を放つ、そんなふうに思えてならなかった。それに、何体かのゴブリンは気づいていた。ガーラの黄金色の瞳の奥に、ちらりと蒼い揺らめきが宿るのを……それは部屋の奥で見せた、カルタの秘術の光そのものであり、まともな命の輝きとは思えなかったのである。

 ……わからない……

 カルタは、ガーラの問いかけにそう呟いた。
 死んだのか、死んで動く死者として蘇ったのか……まだ死なず、命あるものとしてこの場にいるのか。曰く、とても曖昧な状態なのだという。魂が離れかけたその瞬間、とでもいうような、半死半生そのものであったという。カルタとしても、藁に縋る思いであった。死にかけた体を、無理やり死霊術でつなぎとめる、死の淵に堕ちようとした体を縄で縛りつけて止めるかのような所業。確かに、死の淵には落ちなかった。だが体は傾き縄が切れればすぐにでも死者の国へと落ちていく。
 だが、もしかしたら、すでに死んでいるのかもしれない。現に、心臓の音は聞こえなかった。脈を打っているのか、それとも打っていないのか、わからないほどにこの胸は静かであった。だが、確かに熱は感じていた。熱と同時に、この体を覆うどうしようもない冷たさもまた同様であった。自らのうちに宿る熱……それは、死者には感じえぬもの。感じえぬからこそ、死者たる魔物は人を、温もりの灯火を求める。だからこそ体の芯に宿る、確かな疼きともいえる熱、ただそれだけがガーラにとって己は死者ではないのだと信じ感ずる微かな根拠であった。

 時間がないな……

 あの戦いから、おおよそ半日過ぎた頃合いである。だが、ガーラにとっては時間が経ちすぎていた。
 (あいつらは、アイオンたちを生かしておくと言っていた……でもいつまでだ?)
 虚ろに火を見つめながら考える。ガーラにとって、死にかけたことは些事であった。それよりも、愛する人を、仲間を、救う術を考えねばならなかった。だが、わかってもいた。そんな奇跡のような術などないのだと。だからこそ、早く体の動きを取り戻さねばならなかった。死の淵で凍てついたこの体を。
 「……ガーラ 行くんでしょ?」
 全てをわかっているように、カルタが静かに呟く。小さく非力な、灰色の毛皮の魔物。
 「ああ 行くよ ……お前と一緒に」
 だが、非力だから置いていくなどとは言わない。ガーラは小さく、だが力強く言い切る。
 ガーラの言葉に、カルタは頷く。愛する者を、生きる所以を、その手に戻すために。アイオン亡き世など、ガーラとカルタにして見れば冥府に等しい。ならば、救うために足掻き、そのうえで果てたかった。

 ゆっくりと、ガーラは立ちあがる。冷え切った体の奥底で、熱が燻ぶる。深く息を吸い、目を閉じる。瞼の奥に感じるは、蒼い炎。
 旅の最中で、数度感じた、幽かな気配。それは今、ガーラの中にあった。ガーラの中で、その命を燃やしていた。
 (……すまないね、名前は……ツェツィリア……守護霊、なのかな)
 器に満ちた水の中の氷が溶けるようにゆっくりと、ガーラの意識の中にツェツィリアの記憶がほどけて流れ込んでくる。
 ガーラがはっきりとツェツィリアを見たのは、冬の精霊たちによって追いつめられた、あの時だけだった。その時はなぜ助けてくれたのかわからなかったが、今ははっきりとわかる。
 (恋を、しているんだね アイオンを……愛して、くれている)
 小さな、それでいて芯の強い、少女の愛。それが今、ガーラの命を繋いでいる。文字通り、二人の命は絡み合っていた。しかし、それは歪な形でもある。消えかけた命を、死者の命……魔力といった方が適当か……それが支えている。

 ……確かに、ガーラはあの時死んだのだ。

 ガーラの炎は消え、その魂は肉体を離れようとしていた。それを、カルタの死霊術がつなぎとめた。だが、死霊術に死した体を蘇らせる術はない。死者は死者のままなのである。しかし、奇跡はあった。
 繋ぎとめた魂を、薄氷の如き冥府への道をツェツィリアは辿り、ガーラの魂を連れ戻したのである。それだけでなく、失われた命の炉に自らをくべ……火種となってガーラに命を吹き込んだのであった。
 それができたのも、ひとえにカルタの死霊術によってガーラの炉の扉、とでもいうべき場所が開いていたからに他ならなかった。カルタとツェツィリア、そのどちらかが欠けていても……ガーラが息を吹き返すことはなかった。だが、それでも今のガーラは“無理やり生きている”状態であった。無理に魂を呼び戻し、そして自らの命の火を、他者の命の火を使って無理やり燃やしている状態。だからこそ、時間がなかった。

 火種だけでは、いずれその火は消える。それも、今度の死はガーラだけでなくツェツィリアさえも道連れにする形で引き起こされるだろう。けれども、それはお互いに……というよりもツェツィリアは覚悟をしていた。たとえ己の魔力が全てほどけ、消滅してしまうとしても。
 霊体でしかないツェツィリアには、現実に干渉する術は殆どない。だからこそ、ガーラを生かし、僅かな望みであったとしても託さねばならなかった。愛する人の救出を。
 それに、アイオンは望んでいない。ガーラとともに歩めぬ世界は、アイオンにとっては何の価値もなかった。もちろん、ノチェもカルタも、そしてツェツィリアにニヴ達もアイオンにとっては大切な存在であるが、その中でもやはりガーラは特別であった。最初にして最愛の魔物。今のアイオンを形作る核ともいえる存在、それがガーラであった。

 だからこそ、成すべきを為さねば。
 「……行こうか」
 目を開き、ガーラは呟く。
 さしあたっては、武器を取り戻さねばならない。あの戦いの場に、捨て置かれているはずの大斧を取りに戻らねば。そう考えガーラは歩き出す。その脇に、カルタが従う。ゴブリンたちは怯えた目でガーラを見ると、互いに身を寄せ合い道を開ける。だが、そんなゴブリンたちの中で怯えることなく、ガーラを見上げるものが一体。
 その目は……潰されている。潰れて包帯の巻かれた両目で、ガーラを見上げる。ホブゴブリンのパロマであった。
 「ほ、ほら! パロマちゃん、どこうよ……」
 パロマの傍で、世話役と思わしきゴブリンが慌てて手を引く。
 「大丈夫だよ、シーミャちゃん ……どうして逃げるの?」
 パロマは動じることなく、逆にシーミャと呼ばれたゴブリンの手を握りしめ、じっとガーラを見つめる。
 「……ごめんなさい」
 そしてぽつりと、言葉を紡ぐ。
 「いいさ パロマだっけ? お前さんたちも早く逃げな ……少なくとも、ここにいちゃダメだからな 行く当ては……ないかもしれないけど、黙って死ぬよりかは良いだろう?」
 あっさりとした、言葉を交わす。
 そのままガーラはパロマの横を通り過ぎる。むくりと、ヘルハウンドたちがその身を起こす。その両眼は燃え輝いていた。
 「無理に、とは言わないよ」
 「気にしなさんな ニヴが捕まったんっていうなら、あんたが行かなくてもアタシたちは勝手に助けに行くからね」
 「ほら、早く行こうって 日が暮れちまうよ」
 からりと笑って、しかしその目に燃え盛る戦意を宿しヘルハウンドは出口へと走る。そんな中、一体だけ少し悩むようにガーラを見るものがいた。小さなクロである。
 「どうしたんだい」
 だが、ガーラは特に気にすることなく静かに語り掛ける。ガーラの言葉に、クロはしゅんとした様子で答える。
 「……クロ、アイオン怖い」
 それは、獣としての本能か。クロは、アイオンの闇を垣間見た故の恐怖であった。戦士として、死をもたらすものに対峙した時の、本能的な忌避と畏怖。懐っこく、純粋なところがあるがゆえに、一番強く感じたのであろう。ガーラすらも恐怖したアイオンの持つ、戦士としての業に。
 だから、ガーラは微笑み告げる。
 「……ああ、あたしも怖いよ」
 その答えは、クロにとっては意外だったのだろう。目を見開きガーラを見る。
 「でも……だから、かな あたしが傍にいてあげないと、傍で……守らないと 今度こそ、きちんとね」
 「……どうして?」
 「アイオンが、安心できるようにさ 怪物にならなくても、戦士じゃなくても……みんなが大丈夫だと言えるようにさ 今度こそ、あたしが守るんだ」
 だから、行くよ。そう告げて、ガーラはクロの頭を撫でる。
 ガーラが手を離した後、クロは顔を上げる。
 「クロ、クロも……行く ニヴを助ける、みんなを守る」
 クロはその身を起こすと、すっとカルタの傍によりその顔を舐める。
 いつもなら嫌がるカルタだったが、少しうれしそうに黒の頬にその小さな両手をあてる。そのまま、ひょいとカルタを咥え上げると自らの背に乗せ、洞穴の出口へと走る。ガーラもまた、その後を追うように外へと向かう。

 「背に乗りな」
 外に出たガーラを見て、ザンナが告げる。
 「良いのかい?」
 「ああ あんたの足じゃ遅すぎる、それにソリよりも早いしな ……ハイオークを乗せるのは初めてだけど……まあオークと変わんないだろう」
 「乗せたことがあるのかい?」
 ガーラの問いに、得意げにザンナは答える。
 「こう見えてアタシらは長生きでね ……人間どもと殺りあっていた時も知っているんだよ まあ、今はそんなことはどうでもいいだろう?」
 「……まあそうだな」
 「それに、昔に比べれば今のあんたらの方が乗せ心地は良さそうだ 昔はもっとごつかったし、鎧も重かったからな」
 仄暗い、昔の代替わり前の記憶。それを、ニヴやザンナ達は抱えていた。その事実にガーラは少しばかり驚くも、まるで些末なこととばかりに軽く流すザンナにこれ以上問うこともせず、その背に乗る。
 大柄なガーラが乗り込むと、ザンナは潰れてしまうかのようであったが、まるで気にすることなくしっかりと大地を踏みしめている。
 「……それじゃあ、行こうか」

 黒狼が吼えて跳ねる。雪原を駈けて、死地へと舞い戻る。
 ゆっくりと、陽が傾こうとしていた。

 その背を、駈けてゆくものたちの姿をゴブリンたちが見送る。
 ゴブリンたちもまた、旅立とうとしていた。住み慣れたこの洞穴は、もういられない。食料も、道具もほとんどなかったが、それでも行かねばならない。この厳しい冬の中を……

 「……ねえ、みんな ……」

 盲目の指導者が、ゆっくりと口を開く。
 その言葉は、小さく、風に掻き消される。だが、仲間たちには伝わる。
それは、小さな一つの決断。ゴブリンたちの行く末を決める、言葉であった。



 第三 荒れ丘の砦

 ……荒れ丘の砦。魔王の代替わり前、その始まりは何時からかわからぬほどに古い砦であり、小さくもその堅牢な造りは今なおその姿を変えることなくこの地に残していた。丘にあったという大岩を削り出して基礎にしたというこの砦には、数多の戦いの記憶が人知れずに刻まれており、中には古く呪詛めいたものさえもあるという。砦の地下に半分埋まったかのようなその牢獄もまた、人魔問わず数多の命を繋ぎ留め、その最後を見届けてきた。
 だからだろうか、その牢獄はどこまでも冷たく、血生臭い。その重たい空気はどんよりと澱んでいるかのように、繋がれた囚人たちを苛むのであった。そして、そんな牢獄にアイオンとニヴは繋がれていた。
 アイオンは両手を吊り下げるように、牢の壁に繋がれていた。ニヴは全身に鎖を巻かれ、口に枷をはめられたまま別の牢屋の床に縛り付けられている。
 そこは古い刻印の牢。数多の呪詛と封魔の言葉が刻まれた魔封じの牢であった。力を抑えるだけでなく、重なりすぎた呪文はゆっくりと魔物の体を押しつぶしすりつぶしていく。その苦悶は徐々に囚人の体を蝕み、少しずつ積み重なる痛みとなり、積み重なった痛みは耐え難い苦痛となって囚人を襲う。弱き魔物であれば耐えきれずに死んでしまうことすらある、そんな牢であった。
 その牢の中で、ニヴは呻く。苛む苦痛によってニヴはその身を休めることも、心を落ち着かせることもできなかった。それに、刻一刻と迫る死を前に、足掻くことすらもできない現状が余計にニヴを苛立たせた。あまりにも打つ手がなさすぎる、このままではただ無為に死に向かうことしかできないと。
 (……アイオン……くそっ ……アタイじゃやっぱり……)
 それに、もう一つ懸念があった。あまりにも、アイオンの気が薄れてしまっている。もしも、脱出を成し遂げたとしても果たしてアイオンの心に刻まれた深い傷穴をニヴ達で埋められるのか、わからなかった。情に厚く、責任感もあるアイオンのこと故、ニヴ達がいる限り自死を選ぶことは決してないという確信はあった。だが、それだけにただ自分たちのためだけに生きている、というのはニヴにとっては望ましくなかった。アイオンもまた、幸福で満たされていてほしい。
 だが、アイオンを満たせるのか、いつになくニヴは気弱になっていた。前の飢え切った、空っぽの自分であれば満たせると、忘れさせてやると言い切ったであろう……だが、今となっては違う。満たされたからこそわかる。決して替えの利かない、埋めがたい、それでしか埋まらない穴というものは存在する。ニヴにとってのアイオンであるように、アイオンにはガーラが必要であった。必要であったが……失われた。
 それがたまらなく悔しく感じると同時に、悲しかった。この先助かったとしても、一生アイオンは埋まらぬ傷を心のうちに抱えて生きるのだと、そしてそれを自分は一生感じながら生きるのかもしれぬのだと。果たしてそれは真の幸福といえるのだろうか、と。
 ただ、ただ恨めしい。この冷たき大地を生んだ、神々をニヴは恨む。

 アイオンは、静かに牢に繋がれている。光を失くし、ただ死を待つだけの身。決して楽な姿勢ではない。だが、うめき声一つ上げることなく、冷たく凍てついた床と壁にその身を預けていた。その俯いた顔から表情を窺い知ることはできなかったが、時折痛みと寒さに身をよじる僅かな瞬間にだけ顔をあげ、その表情は悲痛に満ちていた。しかし、それを知る者は兵士を含め誰もいない。牢番となる兵士にとって、アイオンたちの繋がれたこの牢に入った時点で死人と同じだったからだ。砦の最下層、半分地下に埋まったこの岩牢を生きて出たものなど、いない。ましてや今岩牢には盲の罪人一人に、今まで破ったものなどいない封魔の牢に繋がれた魔物しかいない、つまり逃げる恐れのある者はいなかった。ゆえに興味を持つだけ無駄なのだ。それに、冬は氷の室のように冷たく、夏は悪臭と蟲が満ちてじめつくこの岩牢の番は砦の兵士にとって嫌な仕事の最たるものでもあった。だから、少しでもましな場所にいようと休憩所となる開けた場所に集まり、暖炉の前に陣取りながら酒を片手に動こうとはしなかった。

 上階にも牢屋はあったが、そちらは半地下の岩牢に比べずっとましであった。酷く冷え込みはしたが、まだ乾いており、清潔でもあった。そこに、先ほど兵士に対し暴行を働いた罪としてティリアが一人、入れられていた。鎖には繋がれていなかった。砦に連行され、アイオン達とは別の牢に移動させられていた時点で大分大人しくなったのと、ベルナルトの口添えがあったからであった。
 ティリアは静かに俯き、うなだれるようにして床の上に敷かれた藁敷きの上に座り込んでいた。その表情は暗く、何かに取り憑かれたように澱んでいた。長く伸びた紅髪が床に流れる様はまるで流血のようであり、時折その髪の隙間から覗く眼差しの揺らぎは見張りの兵士を怯えさせていた。それもそのはずで、半ば狂気に侵されていたにも関わらずティリアの美しさはなお翳ることなく、むしろより病的な妖しさをその身に宿していた。だが、その妖美は鋭い棘にも似ており、近づこうとする者に対し本能的な恐怖を呼び起こすものであった。おおよそ、人の身で宿せるようなものではない。
 だからこそ……いつもであれば、女性の虜囚は好奇の目で兵士たちに迎えられ、それが美人であれば猶更であるにも関わらず、ティリアの方を見ようとする兵士は殆どいなかった。何かを恐れるように、目を背け己の職務にのみ集中していた。

 「……なんか、嫌な感じだな」
 牢番の兵士が一人、ぼそりと声に出す。目を潰された罪人に、狂人の女、そして黒狼の魔物……迷信深い牢番にとって、あまり歓迎できるような客人ではなかった。近く討伐が行われるとなった際に、聖都からわざわざ聖戦士と教母が増援としてやってくると聞いた時は、これぞ神の恵みと思ったものだったが……結果として討伐は失敗し、その代わりに砦にやってきたのは件の討伐隊を強襲し撤退に追い込んだという堕落者に、それに付き従う魔物、そして浅からぬ因縁がありそうな女……牢番が奇妙で不吉な気配を感じるには十分だったのであろう。
 「いやなことを言うなよ……ただでさえ雪空や曇り空ばかりで気が滅入っているのに……」
 そう言って、話しかけられた兵士は支給された寒さ避けの酒をあおる。
 「それは、そうなんだが……なんというか、ほらよお 不吉な、凶兆というか……」
 「やめろって……ほら、誰か来たぞ」
 ひそひそと、会話を交わしていた兵士たちの耳に足音が届く。響き渡るような音から、複数人であることが伺え、しかも何人かは弁明するかのような声を上げていた。
 「だから私は言いました! 報告するべきだと!」
 牢の扉が開かれ、ぞろぞろと兵士たちとそれに捕えられた男たちが入ってくる。
 「黙れ! 貴様らの犯した罪はなんと言おうと贖いきれん! 報告さえあがっていれば……! ……明日にでも貴様らは脱走兵として送り返す! 後はわかっているな、死刑だ!」
 「そんな! 隊長!」
 「貴様らはもう兵士ではない! 早くぶち込めッ!」
 何とか逃げようとしているのか、もがく男たちであったが次々と牢屋に投げ入れられるように押し込まれていく。口々に許しを請う声を上げるも兵士の隊長格と思われる男は忌々し気に剣を鞘ごと牢の柵に叩きつけて黙らせると早足に去っていく。
 「……ご愁傷さん」
 牢屋に入れられた男の数は五人、うちの何人かは牢番をしている兵士とも知り合いだったのであろう。出してくれと懇願するも牢番は離れて首を横に振る。
 だから言ったんだ、報告するべきだった、あの時逃げていれば……男たちの口から次々と後悔と思わしき言葉が出ていく。暫く、男たちは喚いていたが、結局どうにもならないことを思い知り黙り込んでいく。
 そんな中で、向かい合わせの牢に入っているティリアの存在に何人かが気づきつつも、その雰囲気に異様なものを感じ始めた頃合いであった。再び扉が開き……ベルナルトと傍付きと思われる兵士が二人牢の中に入る。ベルナルトの存在に気付いた男たちは、これ以上何か叱責されると思ったのか牢屋の隅に縮こまるように逃げる。だが、ベルナルトの目的は別にあった。
 「……この女性は何か喋ったか?」
 牢番に確認するようにベルナルトは問いかける。
 「いいえ、何も」
 牢番の答えに、特に何も感じるでもない様子でベルナルトは続ける。
 「ティリアといったな、教母様がお会いになさる 暴れないように願おう」
 その言葉に、ティリアが反応するように顔を上げる。その目は爛々と燃えていたが、至極落ち着いているように見えた。命じられた牢番の手によって牢の扉が開けられると、兵士が出るように促す。ティリアは警戒するように周囲を見渡すと、ゆっくりと立ち上がりどこか怯えたような仕草でそろそろと牢から出る。その表情は、何かを探しているかのようであったが、兵士たちの見張りが厳しそうだとわかると諦めたようにそっと目を落とす。
 「……では、行かれましょうか ティリア殿 気の迷いは起こさぬように……」



 第四 教母

 ……牢から出たティリアはベルナルトと兵士たちに連れられ、砦の中を歩む。教母の部屋は砦の上階に位置しており、階段を上ったのちベルナルトはとある一室の前で足を止めると、恭しく丁寧に戸を叩く。
 「どうぞ、お入りになって」
 部屋の中から、淑やかな声が響く。
 「ベルナルトです ご要望に応え、ティリア殿をお連れしました」
 そう告げると、ベルナルトは戸を開き中に入るようにティリアを促す。
 「お前たちはそこで待つように」
 その言葉に兵士たちは頷くと、戸の脇にある小休止所と思わしき場所へと向かう。どうやら、教母の部屋に入れる者は限られているようであった。その事実に、ティリアは少しばかりの警戒心を抱く。なぜ、そのような高位と思わしき人物が自分に会いたがるのだろう、と。
 しかして、その疑問はすぐに答えられた。

 「やはり、貴女でしたね」

 「……っ、貴女様は……」
 若く美しくも、まるで見た目にそぐわぬ……慈母の如き穏やかな、人を安心させるような笑み。自らの心のうち全てをさらけ出してしまいそうになる、心をゆする声。それは……あの時、聖都で出会いティリアをこの旅へと誘った教母その人であった。かつて、聖都の教会で出会った時と変わらぬ姿と笑みを湛え、この豪奢な部屋の中心に座っていた。武骨な将の部屋の中には教会の備品である祭具やタペストリが運び込まれ、またどのような目的に使われるのかわからぬ不思議な道具もまたちらほらと見受けられた。その部屋で、大きくしっかりと作られた毛皮の椅子に座す姿は正に辺境の祭司長といっても良かったであろう。
 「……こんな形で会うことになるとは、思いませんでしたわ 紹介が遅れましたね、私はノラ、ノラ・ティシャナ 教母として聖都に仕える身ですわ 貴女は、ティリアですね」
 そう言って、穏やかに微笑む。その様子は聖母のようであり、底知れぬ安心感を与えるものであった。
 「……はい」
 恭しく、傅くようにティリアは首を垂れる。どうしてだろうか、深く、どこまでも安心するようで、どこか恐ろしく感じるのは。
 それは、彼女が握っているからだ。己の、そして愛する、探し求めていたものの命を。それをティリアは理解した。野性的ともいえる直感でこの砦の長を見抜いたのであった。この砦を支配するのは、守備隊長でも戦士ベルナルトでもない……教団の声、目として今ここに座す彼女なのだと。
 「鮮やかな紅髪と聞いて、真っ先に貴女が浮かびました もしやと思いましたが……本当に貴女だとは思いませんでしたわ ……ついに、見つけたのですね」
 ぞくりと、心臓が締め付けられる。穏やかには違いない、だが氷の刃の如く鋭くその声は核心をつき、暴き立てる。あの時、教母に話した探し人……それは堕落者。堕落した戦士であるとは、話していなかった。話せるわけがなかった……だが、教母はそれを、見透かす。あの時、ティリアの心の内を見通し言葉を紡いだように……今もまた再び、教母はティリアの心の内を、まるで水面をのぞき込むように読み解いていく。
 「っ……教母、様……お願い、が……」
 「ダメですよ……それは口になさってはなりません 貴女もわかっているはずです……」
 けれども、口は止まらず。
 「あのものの……アイオン、アイオン・ノクトアム……あの堕落者の助命を……どうか……っ!」
 床に伏し、腕を祈るように組み慈悲を乞う。
 それは重き罪。堕落に堕落を重ねたとして、ただ口に出すだけでも死罪となりかねない。けれども、ティリアは縋るしかなかった。

 「……貴女の旅が、心安らかに終わることを祈っていました……けれども、それはなりません それは教団として許すわけにはいかないのです あの堕落者は魔物と交わり、欲に溺れたばかりか人々を襲い、恐怖と混乱を与えたのです ……彼の死は決まっています ともに捕らえられた魔物と共に、明朝……刑に処されます」
 優しく諭すように、ただ冷たく突き放す。
 それでもなお縋ろうと、ティリアが顔を上げその手を伸ばそうとしたその時であった。ティリアの後ろにベルナルトが立つ。

 「良いのですよ、ベルナルト」
 だが、教母は手を上げそれを制す。そしてティリアの手を取り、撫でるように抱き寄せるとその胸に抱く。
 「つらいでしょう……つらかったでしょう……でも、ごめんなさい 私は教団の教母として……あのものに慈悲を与えることはできないのですよ……」
 あやすように、その髪を撫でゆっくりと話しかける。
その言葉に、ティリアはただ呻くように縋り、母に抱き着く幼子のように泣き声を上げる。それは慟哭であり、何一つ、己の想いが叶わなかったことへの絶望でもあった。

 ただ、ただ……ティリアは泣き続けた。
 冷たい砦の一室、死を告げる母の胸の中で……















 ……暫く、ティリアを落ち着かせた教母は奥に向かうと一杯の葡萄酒を……血のように紅い……手に持ち現れる。ほんのりと温められたそれを、ティリアに渡す。
 「……落ち着いたかしら ……これを、お飲みになって 慰めにはならないでしょうけれども、少しだけでも……元気が出るわ」
 暖かく、良い香りのするそれをティリアは促されるままに口をつける。甘く、そして少しばかりほろ苦い……しっとりとした温もりが舌に広がり、喉へと流れ落ちていく。その葡萄酒の熱は、飲んだ後も暫く残り、焼けつくような熱となってティリアの中に広がっていく。
 「……先ほどの、貴女の言葉は聞こえませんでしたわ でも、言うには及びません……貴女の深い慈愛に免じて、刑の前に……あの堕落者の身を清めさせることを赦します……本来であれば、赦されることではないのですが、特別です ……私ができるのはここまでです」
 そう言って、また先ほどと同じように椅子に座る。
 「いえ……教母様、ありがとうございます」
 顔を下げ、震える体を抑えるようにティリアは礼を示す。そして、一つ気になっていたことを問う。
 「……すみません、一つお尋ねしたいことが……捕らえられた魔物についてなのですが」
 憎き獣、できることならば、己の手でその首を刎ねてやりたかった。だが、今となってはなんと虚しいことだろうか……むしろ、羨ましくさえ感じてしまう。あの力があれば、無理やりにでもアイオンを救い出せたかもしれぬのだから。
 それに……

 ワタシがケモノなら、彼ハ愛シテくれタのカシラ?

 ずっと燻ぶり続けた疑問に、火が灯る。その熱が、全身に広がっていく。

 「ヘルハウンドのことですね ……あの魔物が、彼を堕落へと誘ったのですか?」

 チがウ

 「それとも……ハイオークの方かしら? ハイオークであれば、そこの戦士ベルナルトが討伐しました」
 ティリアが虚ろな目で振り向くと、ベルナルトは静かに会釈をする。
 「……どうやら、ハイオークが堕落への導きだったようですね……」

 奴ハ、死ンだ

 「……ティリアさん この度の件は…… もうお戻りになった方が良いでしょう ベルナルト、送って差し上げなさい」

 モう、邪魔な奴ハ イなイ

 「ティリア殿、こちらへ……」

 ワタシが、私ダけノ アイオン アイオン



 ゆっくりと、促され歩くティリア。その目は虚ろに輝き、先ほど飲み込んだ熱がゆっくりと、内側から体を焼き溶かしていく。内に宿った炎は燃え盛り、まるでティリアを作り替えんとするかのようであった。



 第五 戦いの準備

 ……焦げ付いた匂いがいまだに燻ぶる、昨夜の戦いの跡地にガーラたちは立つ。僅かに降り積もった雪が、再びこの地を静寂の中に隠そうとしていた。
 その中で、ガーラは己が戦っていた場所を探す。ベルナルトと戦い、そして己の武器である大斧を投げ捨てたその場所を。
 幸いにして、それはすぐに見つかった。魔界銀で作られた大斧、その身に刻まれたいくつもの傷が戦いの歴史を物語る。かつて姉は語った、ご先祖様から受け継いだ斧だと……それは二振りの斧。一つは姉が、もう一つはガーラが、それぞれ手にした。もともとは片手持ちの大斧だったが、ガーラは幼い自分でも持てるように持ち手を両手用の長柄に作り替えた、そしてそれはそのままガーラの大斧として、今もその形を変えることはなかった。
 ガーラは、そっと斧の表面を撫でる。それは武骨な斧。黒々とした頑丈な造りで、かつての古き世であれば容易く人の骨を砕き、肉を断ったであろう人食いの戦斧に違いなかった。そんな斧だけが、ガーラにとっては己が血族、家族の唯一の形見であった。ガーラは……母の顔も、父の顔も知らぬ。姉は斧以外、家族について語ることはなかった。ただ、ずっと年の離れた姉はガーラにとって何よりも頼りになる存在であった。その姉は今、どうしているだろうか。
 (……いけないね、戦いの前に感傷に浸っちゃ)
 そのまま歩みを進め、燃え落ちた陣地の中に入る。焦げ付いた匂いが、肺に満ちる。少し立ち尽くした後、ガーラは崩れ灰となった中から、使えそうなものを探し始める。できる備えは、しておかなければならない。その様子を見たカルタも一緒に、何かないかと探し始める。

 ……探してみれば見つかるもので、いくつかの焦げ付いた鎧や兜をガーラは発見する。人の身に合わせて作られたそれはガーラの体には小さかったが、ガーラはそれを無理やり曲げ広げることで自身の体に合わせていく。それは、一見してとてもちぐはぐな鎧であった。だが黒く焦げ付き、奇妙に重ね合わされた鎧と兜を着こんだその姿は幽鬼の如きものであり、ガーラの白が混じった灰髪と、褐色の肌にはとても良く似合っていた。
 そんなガーラを見て、ザンナたちはため息をつく。
 「……これはまた、ずいぶんと重たそうだね……」
 「……すまないね」
 けれども、ザンナはそれ以上何も言わずに頷く。死地に赴くのだ、備えずにしてなんになろう。
 征かねば、そうガーラが決心したその時であった。遠くから、呼ぶ声が聞こえる。
 その少女の如き声は、聞き覚えがあった。ゴブリンたちである。
 「待ってー!」
 「ガーラさーん!」
 遠い先でよほどの大声を出しているのだろう、ガーラが振り向いた先では小麦粒程度の大きさでしかなかった。だが、確かに彼女たちはこちらに向かってきていた。十数人のゴブリンたちが、群れを成して走り寄る。そこから少し遅れて、お供のゴブリンと一緒にホブゴブリンのパロマが走ってくる。目が見えないからだろう、時折躓きながらも仲間に支えられ、こちらに駆け寄ってくる。

 「はあ、はあ……なんと、か 追いつけた……はあ〜……」
 「はあふう……疲れたねえ〜……」
 「ちょっと、まって 吐きそう」
 よほど、全速力で走ったのだろう。ガーラのもとに到着するや否や、冬にも拘らず全身から湯気を放つ体を雪原に投げ出しそれぞれ体を冷やして息を整えようとするゴブリンたち。それから少し遅れて、パロマとシーミャたちが到着する。少し遅く移動していたためだろう、息も絶え絶えという様子ではあったがほかのゴブリンたちとは違い倒れるほどではなかった。だが、全身から湯気を立てる様子からやはり、かなりの疲れを見せているのは間違いなかった。
 「ガーラさんっ!」
 しかし、そんな疲れを見せない様子でパロマは勢いよく声を上げる。潰された両目は痛々しく、しかしまるで見えているかのようにガーラへと顔を向ける。
 「パロマ、なんで……」
 ここに来た、そう問おうとしたガーラにパロマは答える。

 「私も、私たちも行きます! 戦います!」

 毅然とした、群れの長としての言葉。後ろでは、倒れたまま歓声を上げてパロマの言を肯定するゴブリンたち。
 その言葉に、ガーラは少し暗い表情を作る。あまり良い考えとは思えなかったからである。何より、せっかく助けた命を無駄に散らしてしまうかのようなことは、アイオンが己の命と引き換えにしてまで助けたに等しいゴブリンたちにして欲しくはなかった。それはわかっているのだろう、パロマは言葉を続ける。

 「……わかってます なんでそんなことをするんだと、言いたいのですね ……恩返しがしたい、そう思う気持ちもあります でも……一番の理由は、もう嫌なんです……逃げるのも、隠れるのも……私たちは隠れてきました、ずっと、ずっと でも、人間さんはいつも私たちを見つけてしまうんです ……その度に逃げて、逃げて……こんなところまで来ちゃいました 本当はもっと南に住んでいたんです、いつの間にか……白い果ての端っこまで来ちゃいましたけど……」
 いったん言葉を切るパロマ。微かに震える頬が、かつて住んでいた故郷を……追われる中で失ったものを……静かにガーラに伝える。
 「だから、嫌なんです 逃げても、どうせ見つかるなら 戦って……手に入れたい、自分たちの居場所を 取り戻したいんです……この大地に、生きる場所を 私たちは、生きているんだと……教えたいんです」
 いうなれば、復讐なのだろう。今までの仕打ちに対する。パロマたちなりの復讐なのだ。
 「……兵士たちを襲えば、もっとひどく追われるよ いいのかい?」
 それは至極当然の問い。たとえ勝てたとしても……否、勝ってしまえばこそ、人はより魔を恐れ、より強大な力を以て襲い掛かってくるだろう。
 その事実を言葉に出して、ガーラは酷く悲しくなる。どうして、ここまで人と魔の間に溝ができてしまったのだろう。どうにかしたいと足掻けば足掻くほど、人と魔の亀裂は深まり、微かな絆すら結びようがなくなっていってしまう。これではまるで、意地悪く滑稽な悲劇ではないか。
 「……それはもう、しょうがないんです」
 でも、パロマは笑う。笑うしかないのかもしれない。
 「どうせ死ぬんだったら……誰かのために、死にたい えへへ……ごめんなさい、ごめんなさい……みんな、私のわがままなんです……」
 わかっているのだ、もしかしたら、死に場所を……生きた意味を探していたのかもしれない。鈍い頭なりに、みんなを引っ張ってきた。そんな己がやろうとしていることは、道連れなのだ。もう何もできないのに、やりたいから、良いような理由をつけて無理やりやろうとしている。
 でも、ゴブリンたちは笑ってついてきた。そして口々にパロマを励ます。
 「あたいもいい加減、逃げるのは嫌だったんだよ だから賛成したの!」
 「パロマちゃん、気にしないでって言ったのに!」
 その声を受けて、パロマは力なく再び笑う。
 それを見て、ガーラは覚悟を決める。

 「わかった ついてきな……けれど、自分の身は自分で守りなよ それにいうことは聞いてもらうからね」
 その言葉に、歓声が上がる。
 「……それじゃあお前らッ! 武器と防具を拾ってきな! すぐにだよ、もう出発するからね!」
 怒号の如きガーラの命令に、寝転んでいたゴブリンたちは飛び起きるように駆け出し燃え落ちた陣地の中を漁っていく。その様子はさながら、古い民話に残る小鬼の伝承そのもののようであった。
 「ちょっと! それはあたしの!」
 「見てよこれ あ! 取らないで!」
 「見つかんないよー!」
 やいのやいのと騒ぎながら、焦げ付いた鎧兜、そして焦げて何かわからない棍棒のような武器でゴブリンたちは武装していく。見るからに不格好な、即席の群れ。それでも、ガーラには何よりも頼もしく感じられた。それに、久々に群れを率いる感覚が、己の中に在るハイオークの血を燃え立たせるようであった。

 「……はぁー やれやれ……やっぱりソリはいりそうだね……プレザ、任せたよ」
 「え、なんでさ! ザンナがやってよ!」
 「アタシは大将を乗せるっていう役目があるからねえ ……そこのゴブリン、支度が済んだならソリを作りな 全員が乗れるだけの大きいやつだよ」
 着々と、戦いの支度が整っていく。
 だが、ザンナ達の会話で問題と疑問がガーラの頭に浮かぶ。
 「……うっかりしてたあたしも悪いんだけど……全員乗せられるのか?」
 ガーラの問いに、ザンナは盛大にため息をつく。
 「できなくはないよ……ただ、ちょっとね ニヴからは止められているんだけどさ」
 思わせぶりなザンナの言葉に、ガーラは首をかしげる。
 「……アタシたちが代替わり前から生きているのはちょこっと話したと思うけど この姿になる前のアタシたちはもっと大きくて力強かったのさ」
 「ああ……でも、それは昔の話なんだよな 今は違うって言っちゃうと怒るかい?」
 「まあ少しカチンとくるね 話を戻すよ、確かに今は違う……けど、アタシたちは、その前の姿に戻れる……って言ったら?」
 そう言葉を切り、ザンナは不敵に笑う。
 「……アタシたちは“前の姿”を覚えている だから、戻ろうと思えば戻れるのさ」
 その言葉に、ガーラは驚きを隠せなかった。代替わり、それは魔物の本質そのものを作り替えるもの、それに抗うことができるのは高位の魔物の中でも一握りしかいないはずであった。
 「まあ、アタシらヘルハウンド全てができるわけじゃないけどね 代替わり後に生まれたやつや元がオスだったやつなんかはできないね けれど、アタシらは長生きだし、元々メスだったからね ……すごく疲れるしずっと戻れるわけじゃないけど、やれるよ」
 まあ、お楽しみはまた後で……ザンナはそう告げると、その場に座り込みガーラの傍に立つパロマの方に視線を向ける。それにつられてガーラが視線を落とすと、申し訳程度に武装したパロマが立っていた。その武装は戦うためのものというよりも、身を守るためのもので、大きな胸を窮屈そうに押し込んでいた。
 「ごめんなさい そして……ありがとう ガーラさん」
 目があれば、そこに確かに秘めたある決意を見て取っただろう。だが、ガーラは目を見ずともその決意を見抜く。恐らくそれは、ずっと前から持っていたもの。
 「……死なせないよ」
 「うん、ありがとう……みんなを……」

 「お前も、だよ」

 沈黙、開きかけた口が閉じる。
 「……おまえ、死ぬ気だね させないよ させるものか」
 小さな肩が震える。口を噛みしめ、潰れた目から涙が落ちる。パロマの重い心の内、故郷を追われ、このような辺境にまで逃げることになった遠因はすべて己にあるのだという思い。愚鈍な己のために、幾度となく仲間は傷つき、倒れていった。己よりも優れたものに託せれば、そう願ってしまった。
 「……行こう、パロマ ……お前たち、準備はできたかいッ!」

 それぞれが、思い思いの武器を天に掲げ雄叫びを上げる。黒く煤けた、幽鬼の群れ。ちっぽけな軍隊。帰り道はない、ただ走って戦って……その先に何を掴もうか。



 ザンナ、プレザが唸り声をあげ大地を踏みしめる。

 その肉体が隆起し、黒煙が噴き出していく。
 人に近い体が、骨格が、鈍い音を立てながら作り替えられる。

 それは古き獣、かつてこの地において恐怖の象徴である黒狼そのもの
 群れを成し、人を食らい、家々を焼いて滅ぼしていく

 背に魔物を乗せ、燃え盛る目で獲物を追う

 彼のものこそ、人は言うだろう

 あれぞ、あれこそ……地獄の猟犬なりと



 二匹の巨大な黒狼が大地を踏みしめる。その灼熱に輝く両眼は炎によって縁どられ、口を開けば溶鉄の如き牙が並ぶと同時に火の粉が舞う。黒い毛皮は光を吸い込む漆黒であり、生きとし生けるものの恐怖そのものであった。
 「……ノリナ」
 だが……
 「ああ、行こう!」

 仲間であれば、これほど心強いものはない

 しっかりとその体を掴み、その背に乗る。はるかに大きく、遠くまで見通せるヘルハウンドの乗り心地は、若干固いことを除けば思うほど悪くなかった。
 後ろでは焦げた木と屑鉄を繋ぎ合わせて無理やり作ったソリにゴブリンたちが乗り込んでいく。何体かのゴブリンはプレザの背中に乗り込みはしゃいでいた。

 「……ね、ねえ クロは変身しないの?」
 すっかり変わったザンナとプレザを、呆けた表情で見ていたカルタは己の相棒に声をかける。しかし、クロはばつが悪そうに耳をたおして告げる。
 「ああ……うぅ……クロ 変身しても、小さい……あまり変わらない……」
 その言葉に、なんとなくカルタは察する。
 「あ、ああうん わかった」



 「さあ、戦いだ!」



 雄々しい掛け声とともに、三体のヘルハウンドが駆け出す。目的地は一つ。愛する者、仲間、それが捕らわれている場所。
 ガーラは信じていた、まだ生きていると、決して手遅れではないのだと。

全てを救いだす、全てを守る、今度こそ。

 日は既に傾き、夕暮れに差し掛かろうとしていた。



 第六 呪術師

 ……荒れ丘の砦の上階、貴賓室の中。大きく開いた窓から重苦しい曇り空を臨み、教母ノラが立つ。ノラの前には小さな机が置かれ、奇妙な印が描かれた古い毛皮が広げられていた。その手には古い骨の杯が握られ、杯の中には獣の牙や爪、水晶、干からびた木の根などが入れられている。それを掲げ、静かに回しながら教母は呪文を唱える。それは古き言葉、主神の祝詞よりもさらに古い呪術の言葉。
 そのまま、唱えながら教母は杯の中身を毛皮の上にこぼす。見るからに、教団の教義からは外れている行い。だが、それを後ろに控えているベルナルトとユーリイは咎めることなく、むしろノラを守るようにじっと立っていた。

 「……ふふっ おかしいとお思いですか、教団に仕える身で……魔術を行うなど」
 教母ノラは、優しく語り掛ける。それは後ろに控えている二人に向けたものではない。毛皮が広げられている机とはまた別の机、教母ノラの真横に置かれた机の上には小さな鳥籠が置かれていた。ノラは、その鳥籠の虜囚に語り掛けていた。
 「ですが、それは間違いですよ むしろ……教母の身であれば、予言や予知……夢見、星読みの類いは修めていて然るべきなのです」
 聞かれてもいないのに、教母は語り続ける。鳥籠の虜囚、妖精のノチェに向けて。
 「……かつてこの地を律した聖者アポロス……彼は何も単独でこの地を律したわけではありません 協力者がいたのです……それこそが、北の大地における教母の祖……北の大地の一族であった呪術師のヤガなのです ヤガの予言と星読みの力を以てアポロスは敵対者を制し、今に至る北の教団と聖都の礎を築いたのです」
 じっと、毛皮の上に転がった魔具と思わしき品々を眺めるノラ。だが、その言葉は途切れることなく続く。
 「ヤガの助力と魔術は、教団における教母の伝統となりました 故に、今なお古き呪術、魔術が聖都の中で受け継がれ、こうして私たち教母の手によって執り行われているのです……ふむ」
 言葉を切り、暫し考え込んだのち……教母は顔を上げる。

 「……ベルナルト あのハイオークは確かに死にましたか?」
 教母の言葉に、ベルナルトは答える。
 「……確かに あの傷で生きているはずが……」
 「……心臓を貫き、首は刎ねましたか? 死んだ、という確認は」
 穏やかながらも、詰めるような物言いにベルナルトは押し黙る。
 「貴方もまだ未熟ですね、戦士ベルナルト…… あの堕落者の戦士と獣の縁が切れていないと、占いに出ていますよ ……まあ、ともに捕らえられたヘルハウンドかもしれませんが、ハイオークでしたら困りましたわ」
 明らかに、年上と思わしき戦士がまるで母に叱られたように若い教母に向けて首を垂れる。それは確かに異様な光景であった。だが、ベルナルトとユーリイにとって教母ノラは敬愛し、畏怖する対象であることは間違いないようであった。それこそ、母と思うほどに。
 「戦いの印が出ていますが、これはどのようなものか……」
 何か思索するように言葉を紡いでいたノラだったが、客人のことを思い出すとにこりと微笑みを向ける。だが、その笑みはノチェにとってとても恐ろしく感じられた。
 「いけませんね……可愛い貴女のことを忘れてしまうなんて……」
 そう言って教母は鳥籠を両手で抱えるように掲げると、その中の妖精をうっとりとした様子で見る。教母の瞳と髪色はノチェのと同じく、黒い色をしていた。だが、ノチェのように輝く夜空のような黒ではなく、とろりとした渦……漆黒の濁液ともいえるような深く沈みゆくような黒色であった。それが、ノチェを見る。
 ノチェは理解していた、その眼差しがただ美しいものを愛でる、という視線ではなく。明らかに、何か得難いもの、利用するべき価値の高いもの……そう、宝石や魔石といった物を見る目であることを。それがどうしようもなく、ノチェをぞっとさせていた。教母は、ノチェを見ていない。妖精、その存在が持つ価値を見ていたのだ。

 「……貴女、夢見の力があるでしょう?」

 ぞわりと、絡みつくような声音。
 夢見の力、それが何を意味する言葉か、ノチェには理解できなかった。だが、それは目の前の教母にとってとても価値のあるもののようであった。
 押し黙るノチェに対し、教母は我が子をあやすように……しかしまるで玩具の人形に語り掛けるような無機質さで言葉を続ける。

 「……わからないのかしら? でも、仕方ないわ……貴女、思い当たることはないかしら……初めて見るはずなのに、そうじゃない、どこかで見た……この後どうなるかわかる、想像でも妄想でもない……あまりにも確信に近い感覚……いうなれば、予知夢のような白昼夢……うふふ わかるでしょう……貴女の顔を見れば、全て……わかる」
 淡々と語り掛ける教母の両目に、影が差す。その影が、まるで両目から溢れ出すようにノチェの周りにも漂うかのようであった。その底知れぬ教母の瞳を前に、ノチェは怯え少しでも逃げようと鳥籠の隅へと後退るも、しょせんは狭い鳥籠の中、教母の黒い眼差しからは逃げようがなかった。
 だが、確かにノチェには心当たりがあった。奇妙な白昼夢、もしくは確信。最初は嫌な予感、虫の知らせ程度のものであった。だが、時がたつにつれ……密かに育てた、アイオンへの想いが……ノチェの感覚をより鋭敏にしていった。だが、それはノチェにとっては負担でもあった。祝福なき旅、まるでそれを暗示するかのように見る夢は恐ろしく、死と痛みに彩られていた。それに、か弱きノチェがいくらその暗示を躱そうと足掻き、叫んでも残酷な宿命の如く夢は現実へと変わる。
 それは、ガーラの死によって明確にノチェの中で決定づけられてしまった。

 見た夢は運命であると、それは変えようがないものであると

 だが、目の前の教母がなぜそれを知っており、そしてその力を持つノチェに“価値”を見出したのかがわからなかった。
 しかし、それはすぐに教母の口から語られることとなった。

 「ふふ……貴女のような妖精は貴重なのです 夢見の力を持つ妖精は、そう多くはありませんから…そんな貴女を連れてきてくれた、あの堕落者には感謝しなければなりませんね」
 そう言って、先ほどと同じ嫋やかな笑みに戻ると、教母は鳥籠を机の上に置く。
 「ベルナルト、ユーリイ……身支度を 今夜、聖都に戻るために発ちます」
 その言葉に、異論を挟むことなく二人の戦士は首を垂れる。
 「もちろん、貴女も一緒に……うふふ 聖都は、素晴らしいところですよ でも、貴女にとっては違うでしょうけれども……それは私にとっては関係ありませんものね」
 優しく、冷酷な言葉。
 「いや……いや!」
 「あら、やっと言葉を発してくれましたね でもそのお願いを聞けないのが、残念です 支度が出来たら、迎えに来ますわ それまで、大人しくしていてね……」
 そう言葉を切ると、教母は黒い布を鳥籠の上にかぶせる。それは何か魔術的な処置が施されていたのだろうか、厚手の黒布によってもたらされたずっしりとした闇は、ノチェの喉を塞ぎ言葉を潰すばかりでなく、前後左右の感覚を失わせ体の動きさえも封じてしまう。
 その重苦しい闇の中で、ノチェは一人すすり泣く。もはや、守ってくれる戦士はおらず、仲間は皆死に絶えようとしている。それがどうしようもなく悲しかった、苦しかった。
 ノチェはもう、壊れそうだった。

 けれど、誰もその嘆きを聞くものはいない。黒布は妖精の全て覆い隠し、誰の目にもつかなくしてしまっていた……



 第七 紅炎

 ……陽が傾き、暗闇が迫る頃合い。
 陽の光を分厚い雲が隠し、ただゆっくりと墨を流すが如く闇が滲みだす。それはこの大地においては見慣れた、変わることのない風景であった。それは僻地といっても良い荒れ丘の砦でも変わらず、兵士たちと、砦内の仮宿に滞在している旅人や商人たちは空の様子を見て夕餉の支度をはじめる。
 「こりゃあ、冷えそうだ」
 仮宿の外、砦の外広間で旅人の一人が焚き木にあたっている連れに声をかける。連れは酒臭かったが、寒さのせいであまり酔えていないようであり、少しばかり不機嫌そうに答える。
 「まったくだ これじゃあ夜もまともに眠れるかわからん……昼間はもっと晴れるかと思ったんだがな」
 連れの傍に座り込み、旅人は堅パンを手渡す。宿といっても、あくまで砦の空き部屋を貸しているだけなので、食事や寝具といったものは別途砦から購入するか、自分たちで用意するしかない。それは旅人にとっては不満の種だったが、安全には変えられなかった。
 「……せめて干し肉でも食えりゃあな」
 「そこの商隊か兵士連中が売ってるよ 割高でな」
 「ぼったくり連中が……」
 そうぼやいて、石のように固いパンをかじる。口に含んだパンを酒でふやかしながら、旅人たちはぼんやりと砦の空を見る。もうすっかり陽が暮れ、どんよりと重い空はただでさえ快適とは言い難い砦の仮宿で過ごす夜を不安にさせる。
 そんな空から、白い雪がちらちらと降り始めていた。
 「吹雪きそうだな」
 「くそっ 明日出発できっかなあ…… うん? 何の音だ?」
 それは、遠吠えであった。はるか遠くから、遠吠えが響く。信心深い旅人は、無意識のうちに主神への祈りを呟く。砦の中にさえいれば、安心できる。そのはずであったが、どうしてか、言いようのない不安が旅人たちの中に広がっていたのである。

 ……そして、それは間違っていなかった。



 暗闇に佇む、荒れ丘の砦を降りしきる雪の中で臨む一団がいた。炎をまとう黒狼に跨り、焼き焦げた煤鎧を着こんだ幽鬼の群れ。その姿は、かつて北の大地に語られた魔王の軍勢、ハイオークに率いられ人々を狩っていった殺戮者の一団……忌まわしき獣の狩人たちそのものであった。
 だが、そんな謂れなど彼ら……彼女たちは知る由はなかった。それに目的はただ一つ、愛する者、そして仲間たちの救出。殺戮など行うつもりは毛頭ない……が、戦いを恐れているわけでもない。望まぬ戦いとなろうとも、立ち塞がるならば打ち砕くのみ。
 その一団が、砦を臨む。ぽっかりと広がる荒野に建つ砦は消えかけの蝋燭のようにちらちらと松明やかがり火の灯りを漏らしていた。

 ハイオークが、静かにその斧を天に掲げる。それに続くように、黒狼が火の粉を噴き上げながらも静かに闇の中を進み始める。冷たい吹雪は雪の帳となって、より深く獣たちを闇の中に隠す。
 静かに、そして素早く。漆黒の矢の如く、獣たちは雪原を駈けて行く。襲撃を、悟られるわけにはいかない。闇に紛れ目的を果たすべく、息をひそめその牙を研ぐのであった。






 ……狼の、遠吠えが響く。
 聞くものに、言いようのない不安と恐怖を搔き起こすその音を聴きながら、一人の虜囚が悶えていた。その異様な様子は、響き渡る遠吠え以上に牢番と他の虜囚たちを怯えさせるものであった。
 その虜囚は紅い髪を振り乱し、その身を襲う熱に苦しんでいた。

 ア、 アア……ウ、ァア……

 玉のような汗を流しながら、苦悶の声を漏らす。先ほどから、まるで全身を焼き焦がすかのような、内側から全てを焼溶かすかのような抑えがたい熱が全身を廻る。痛みはなく、ただただ熱くその身を焦がす。その熱は特に腹部……子宮に、そして心臓に集まり、まるで蠢くかのようにティリアを苛んでいた。蹲り、胸と腹部を抑えながら熱い吐息とともに悶える姿は妖しく、見ようによっては素晴らしく淫靡なものであった。
 だが、その様を見る虜囚たちの目は違った。好奇でも、肉欲でもない。ただ異様なもの、異質なものを恐れ見るようにティリアを眺める。もともと切りたった茨のような雰囲気をまとい、若干狂気じみた表情を見せていただけにティリアを好奇の目で見ようという者はいなかったが、それを抜きにしても今のティリアの様相は異常であった。
 そもそもこの牢屋に暖をとれる場所は殆どない。ゆえに牢の中は極めて冷たかった、そのため多くの虜囚はその身をいやいやながらも寄せ合うか、数少ない藁やぼろきれを何とかかき集めその身を暖めようとするのである。しかしどうだろうか、今目の前にいる女はその身からは汗を流すだけでなく、湯気が立ち上る有様であった。しかも、ティリアは気づいていなかったが、熱気すら放っていた。それこそ通路を挟み対面の牢屋の囚人、果てはほろ酔い気分で暖炉の前にいた牢番すら感づくほどの熱がティリアの牢から放たれていた。
 「い、いったい……」
 「隊長に、隊長にほ、報告だ!」
 「ま、まて! 俺が、俺が行く! お前が見張ってろ!」
 「なに! い、いや! 俺だ! お前は残ってろ!」
 恐怖におびえ、我先にと逃げようとする牢番。それに対し助けと慈悲を求める囚人たち。夜になるにつれて、砦の中が騒がしくなり始めていく。それは、牢番が感じた不吉な予感が現実になりつつあるようであった。



 「教母様! どうかお考え直しを、外は吹雪です!」
 一方そのころ、砦の上階に位置する隊長の部屋では二人の戦士を連れた教母が、隊長と話をしていた。
 「わかっています しかしどうしても急ぎ戻らねばならないのです」
 「先ほどの遠吠えもあるように獣も辺りにうろついています! 夜、それも吹雪き始めている今夜の出発はあまりにも無謀すぎます!」
 「何も護衛の兵士をつけろ、とは言いません 砦の門を開いてくだされば大丈夫です ユーリイも、ベルナルトも熟達した戦士 私一人と自分の身は守れます」
 明朝、少なくとも昼前までは滞在する予定だった教母の突然の帰還要請に、守備隊長は驚きを隠せなかった。それに外は吹雪が舞い始めており、いくら手練れの戦士が護衛についているとはいえ闇夜、それに自然の驚異の前には無力もいいところである。それだけにこの突然の申し出に驚きを隠せず、思いとどまるように説得を試みていたのである。
 だが、教母は頑なに戻らねばと繰り返すばかりであった。その様子に、教母まで気が狂ったかと守備隊長が思い始めたその時であった。勢いよく戸が開かれ牢番が二人、お互いを押しのけ合うように部屋の中に転がり込んでくる。牢を見張る役目を放棄した二人を前に、隊長が叱責しようと口を開きかけたその時、牢番は叫ぶ。
 「た、隊長殿ッ! 囚人が、女が! 変です! 変なんですッ!」
 あの狂人の女か、気が違ってしまっているのだから変で当然だと、堪忍袋が切れかける。しかし、牢番が次に発した言葉で異様さに気づくことになる。
 「全身から湯気が! それに熱い! 熱いんです! 傍によるとまるで炎みてえに!」
 その言葉に、そんな馬鹿なことがあるかと、怒号を放ちたくなるもぐっとこらえ牢番に告げる。
 「……わかった! 様子を見に行く! 先に戻っていろ! ……失礼、教母殿 どうか今しばしお待ちを、ここにいてください いいですね!」
 突然の凶報、それもこの砦に配属されて以来起きたことのない出来事に隊長は言いようのない不安を感じる。
 (くそっ! いったい何だっていうんだ! やはりあの堕落者とあの狂人の女は凶兆だった! 一目見た時から嫌な予感がしていたんだ!)
 指で主神の印を描き、遥かな天空の神に祈る。どうか何事もないようにと……だが、それは叶わぬ願いであった。
 走るように歩き去った隊長の後ろで、教母は暫し考え込むと傍仕えの戦士……ユーリイに耳打ちをする。そのまま、ユーリイは小さく頷くと部屋を出る。この時、教母の顔が微かに微笑んでいることに、ユーリイを除き誰も気づくことはなかった。












 焼溶けていく
 私の全てが

 ……いったい何を、迷っていたのだろう……

 最初から分かっていたのに、望んでいたのに
 気が付かず、初心でわからないふりをして、言い訳をしていた

 ……私は弱かった……

 見え隠れする彼の気持ちに、私たちが重ねた時の流れに……甘えていた

 ……臆病だった……

 いつか、彼の方から答え合わせをしてくれるのだと

 ……なんて愚かな……

 それは、間違っていた
 だらか……だから……

 ……憎い……

 あの獣に、奪われた

 ……憎い、憎い、憎い……

 私は、間違っていた

 ……己の愚かさが、弱さが憎いッ……

 だから、だから

 ……次は……

 それを正さねばならない

 ……次ハ私ガ、奪ウノダ……



 ただ、愛しい 何よりも、何を捨ててでも 彼が、欲しい



 私が……焼溶けていく……






 「これは、これは一体どういうことだ!」
 苛立ち紛れに扉を蹴破るようにして牢に入った守備隊長が見たものは、牢番の言う通りこの世のものとは思えぬ光景であった。狭い牢屋の中で守備隊長よりも先に、この光景を目の当たりにしていたであろう囚人たちは狂ったように助けを求め泣き叫ぶ。

 囚人となっていた女の体が、燃えていた。
 身に着けていた衣服は当の昔に灰と化し、まるで燃え盛る炭の如く全身は黒く焦げ付き、紅くひび割れている。翻る灼熱は女の鮮やかな紅髪のように揺らぎ、石壁や天井を焼き焦がしている。
 人間であれば、死んでいておかしくない。それほどの熱が火柱と化した女の体から放たれていた。

 だがしかし、真に恐ろしかったのは、その女がまだ“生きていた”ことであった。
 全身から炎を吹き出しながら、揺らぐように立ち上がり、その焼き溶けた両目が守備隊長の方を見る。牢の中の熱気はすさまじく、石窯のようであった。その熱に炙られ、囚人たちは出してくれと喚く。
 「ひ、ひぃ! 化け物!」
「おっおのれ!」
 牢番が叫び、役目も忘れて逃げ出す。だが、守備隊長は決死の覚悟で壁に立てかけてあった槍を掴むと、燃え盛る女に向けて突き出す。

 一閃、紅い火の粉とともに槍が深々と女の胸に突き刺さる

 手ごたえあり。そう隊長が確信した時であった。

 槍の穂先が、一瞬で焼き溶け無くなる。
 驚いた隊長が後ろに跳ね飛び、女を見る。その胸に穴はなく、槍の刃先だったものと思わしき熔鉄が、妙に整い艶めかしい胸元にこびりついていた。その槍は役目を果たす前に、熱に焼かれその形を失っていたのであった。
 その恐るべき灼熱に守備隊長が絶句した瞬間。女は両手を広げていく。それはまるで、業火の蕾が、花開くようであった。

 灼熱が、より強く女の体から噴き出していく。その異様な様子に、守備隊長もいよいよ恐れをなし、転がり逃げるように牢から飛び出し走り去る。

 そして、蕾は花開く






 「もうすぐ砦につくよ! みんな、用意はいいね!」
 暗闇の中、眼前に迫る砦を睨みながらガーラは叫ぶ。その声を受けて、わかっているとばかりにザンナは唸りを上げるとより早く疾走していく。すぐ後ろにはプレザとそれが引くソリに乗ったゴブリンたちが続いている。ゴブリンたちは思い思いの武器を手に、盾を構えて戦いに備えていた。そして、その脇に隠れるようにしてカルタを背に乗せたクロが真剣な面持ちで置いていかれぬように駈けていく。
 その時であった。

 砦が突如、ぽっと明るく夜に咲く。

 それと同時に響き渡る轟音が、砦の中で何かが爆発したことを示していた。
 砦全てを吹き飛ばすような、大規模なものではない。事実、兵士たちの叫び声や怒号が聞こえ、多数の兵士はいまだ健在であることが伺えた。突然の出来事、それも奇襲をかける直前に起きた混乱は絶好の機会といえた。やるならば、今しかない。

 「行くよ! 攻撃だッ!」

 覚悟を決め、ガーラは叫ぶ。武器を掲げ、雄叫びを上げる。それに続くようにヘルハウンドたちも高らかに鬨の声を上げ、炎をまとい砦に向けて走る。



 「魔物だァーッ!! 魔物がこっちに向かってる!!」
 「くそっ! こんな時に!」

 突然の爆発に、砦の中は大騒ぎであった。囚人たちが収容されている牢の一角が突如爆発し、壁の一部を吹き飛ばしたのである。飛び散り黒く焼け付いた石壁の一部が、その爆発は恐ろしく巨大な熱を伴って行われたことが物語る。兵士たちにとって幸いだったのは、吹雪いていたこともあり、牢番以外の兵士は外も含め殆ど牢屋の周りにはいなかったことであった。
 続々と兵士が爆発の原因を探るべく、牢屋の周りに集まっていく。
 「原因は何だ!? 早く行って火を消すんだ! 魔物が攻めてきやがる!」
 「牢屋の方だぞ、一体何があったんだ!?」
 「とにかく隊長に報告するんだ!」
 「……まて! 何かいるぞ!」

 壁の上では、魔物の襲撃を知らせる警鐘が兵士の手によって鳴り響く。
 だが、真に恐れるべき脅威は砦の外だけではなかった。

 吹き飛んだ牢の中、もくもくと黒煙が上がるなか……未だに消えぬ炎が揺らぐ。最初、兵士たちは爆発によって引き起こされた火災か何かだと思っていた。だが、違った。
 煌々と火の粉を舞わせながら、炎が蠢く。

 それは、紅い……紅い炎。

 炎がゆっくりと、黒煙の中から歩み出る。闇夜の中、輝かんばかりのその姿が松明によって照らされる。
 それは確かに、人の似姿をしていた。だが、決して人ではない。いうなれば、異教の女神。その中でも最も苛烈な存在といっても良かったであろう。

 驚きのあまり、言葉を失った兵士の前に、“それ”が歩み出る。



 揺らぎ立つ炎のように紅く輝く髪が翻り、その額には大小連なる鋭き角が四つ突き出し、それは王冠の如く

 顔立ちの美しさは恐ろしく、その両目は灼火を宿し

 その身を覆う紅き鱗は絢爛なる鎧であり

 両腕、両足共に異形に象られ、鋭い爪は刃のよう

 だが、何よりも目を引いたのは

 その背より伸びる巨大な一対の大翼と、長く鞭のようにしなり伸びる尾であった



 そう、それは太古より語られ、今なお伝説と共に恐れられるもの……ドラゴン……その姿を象った魔人そのものであった。
 それが今、兵士たちの目の前に立っていた。その恐ろしくも美しい姿を前に、兵士たちは我を忘れる。その造形の美しさだけではない、纏うべき衣服は炎によって失われたのか、秘すべき秘部と胸元の豊かな宝玉が二つ炎の中に浮かぶ。人ならざる、その姿に主神の徒たる兵士たちの視線が集中する。おおよそ、人の身で成しえることのない妖美。それに兵士の多くが心奪われたのである。

 ゆっくりと、確認をするように竜の娘は己の手を見る。そして、目を細め微笑む。

 ああ……これで、これでこそ

 静かに、口の中で呟き……妖艶な仕草でその身を抱く。それに合わせるように両翼が静かにその体を包み込んでいくと同時に、揺らぐ炎がゆっくりと渦を為すように集まり始める。
 蠱惑的で幻想的な、炎の揺らぎ。だが、一部の兵士はそれに気づくと同時に、見惚れるべきではないと悟り、叫ぶ。

 「逃げろ! 逃げるんだ!」

 だが、遅かった。

 二度目の爆風が、砦を襲う。
 炎の風を浴びた兵士たちは吹き飛び、壁や地面に叩きつけられていく。それと同時に巨大な火矢となって彼女は空へと飛ぶ。

 その姿は美しく、歓喜に満ちていた。

 喜びに満ちて……飛竜が、舞う。

 もはや、神の道を信じ、それに縋った娘はもういない。
 非力な人の身を捨て、強大な竜の力を得た、これが、これこそが、彼女が真に望んだもの。

 全身に、力が漲る。
 何事にも動じない、強靭な生命力が迸る。

 もはや、何人たりにも、奪わせはしない。

 周囲に舞う炎のように、抑えきれない欲望が渦巻く。

 今ぞ、今こそ、手にするとき
 何よりも望んだ、我が宝
 雪原の中の一粒きりの、宝石



 竜は啼く、もはや誰にも奪わせはしまいと
 奪うのは、奪うことができるのは……この私だけだと……



 第八 紅竜

 ……「嘘だろ! ドラゴンか!」
 砦の上空に浮かぶ、紅い輝きを見てガーラは叫ぶ。その叫びを受けて、仲間たちが俄かに色めき立つ。
 ドラゴン、それは魔物たちにおいても伝説であり、その姿を直接見たものは殆どいなかった。当然、ガーラも初めて見る存在であるし、まさかこんなところで見ることになるだろうとは夢にも思っていなかったのである。
 その力は強大無比であり、恐らくすべての魔物の中でも最上位に位置する存在であることは間違いなかった。それだけに、なぜそのような存在がこのような辺境の小さな砦にいるのか、もしくは囚われていたのかが不可解であった。それに、あの鮮やかな紅色はかつてガーラと相見え、己が愛する戦士に首を刎ねるように命じたシスターの髪色を連想させるものであり、その奇妙な連想にガーラは胸騒ぎを感じる。
 「なんにしても行くしかない! 急いで!」
 「オウヨ!」
 しかし、逃げることも、立ち止まることもする気はない。あの火竜が敵か味方か、それは間もなくわかること。もう、砦の壁が目の前であった。



 砦の上で、炎が舞う。
 歓喜に満ち満ちた表情で、全身を使って空の上で竜が躍る。
 その姿は美しくも去り、そしてまた恐ろしくもあった。純粋な力と破壊、その象徴たる炎を支配する存在。

 その存在に対し、兵士たちは恐れ慄く。あるものは恐怖のあまり武器を捨て、この砦から逃げようとすらしていた。主神への信仰すらも霞む。それほどまでに砦の上、空で舞う存在は強烈な輝きを放っていた。
 吹雪く夜空に輝く、恐るべき力の象徴であった。

 「バカ者! おまえたちは何をやっているんだ! 早く武器をとれ、戦え! 砦を守るんだ!」

 そこに、守備隊長の怒号が飛ぶ。
牢屋から逃げたのち、竜の顕現を目の当たりにしてもなお己の責務を果たさんとするその姿は立派なものであった。その勇気は称賛されてしかるべきものであっただろう。尤も、竜を前に正面から戦うなど、伝説の勇者であっても決死と感じるほどの難事であったが。
 守備隊長の怒号を受け、兵士たちは目を覚ましたように己の役目を果たさんとする。砦の防壁の上にいた兵士は弓や弩を構え、竜に向けて矢を放つ。
 空気を切り裂く音と共に、鋭い鉄の矢が飛ぶ。しかし、その矢は竜を貫く前に、その周囲に踊る炎に絡め捕られると瞬く間のうちに焼き尽くされていく。幾度となく撃ち込まれるも、一つたりともその矢が竜に届くことはなかった。

 竜の燃える瞳が、じろりと地上を見る。
 そして、思う。

 ああそうだ……まずは掃除をしなければ……

 揺らりと、その翼を広げると大きく一薙ぎ払うように羽ばたく。
 一見して緩慢な動きに何かを仕掛ける前兆かと錯覚を覚えるも、それはすぐに間違いだと悟ることになる。その強靭な大翼によって押し出された空気は大きく震え、強烈な突風となって壁の上の兵士たちを襲う。
 その突風が壁に当たると同時に轟音と振動が響き渡り、兵士たちが叫びと共に吹き飛ばされ、叩きつけられるか壁の下に落下していく。僅か大翼の一薙ぎにして、十数人の兵士たちが地に伏せることとなった。
その暴威を前に、兵士たちは悟るのだ。あれには、勝てないと。

 「ひっ に、逃げろ! 逃げるんだァー!」
 完全に戦意を喪失した兵士の叫び。その恐怖は伝搬し、次々と兵士たちが、そしてこの砦に滞在していた人物たちに広がっていく。だが、そんな叫びや恐怖は遥か空より見下ろす竜には関係のないことであった。再びゆっくりとその身を翻すと、再び先ほどと同じように突風を巻き起こし不運な人間たちを吹き飛ばしていく。それはまさしく小煩わしい地蟲を掃くかのようなものであった。

 恐ろしい轟音と衝撃、そしてそれを受けて叫び声と共に壁の上から落ちる兵士。それを見やりつつガーラは指示を叫ぶ。
 「カルタ、クロはノチェを探して! パロマたちはあたしについて来い! 砦の中に攻め入るよ!」
 「わかった!」
 「いくよ!」
 一声、咆哮を上げると同時にガーラを乗せたザンナは大きく跳躍し、砦の防壁の縁へと爪を突き立て、上に乗り上げる。のっそりと、鎧を身に着けたハイオークを乗せ、火を噴き上げる黒狼が防壁の上へと乗り上げた瞬間、それに気づいた兵士たちはますます恐慌に陥っていく。
 ガーラたちに続くように、ゴブリンたちはプレザに繋いでいたソリを切り離すと次々に防壁へと手をかけよじ登っていく。パロマと何体かのゴブリンはそのままプレザにしがみつき、ザンナと同じように砦の中に飛び込んでいく。やがて、壁の上に登り上がったゴブリンたちは次々と武器を構えて振り上げると雄叫びを上げ、己を鼓舞していく。
 火竜の出現、そして魔物の群れによる襲撃。もはや守備隊長が何を叫ぼうとも兵士たち、そして砦の住民たちを押しとどめることは不可能であった。狂乱に陥った人々は我先に砦から逃げ出そうと門に群がると開けるように叫ぶ。もはや、この砦は人々を守るものではなく、猛獣と共に押し込められた檻でしかなかった。

 そんな人々を後目に、火竜の瞳に魔物が映る。それは焦げ鉄の鎧を着こみ、白灰色の髪を流した大柄な魔物。その顔は見えずと、火竜は知っている。その存在を。
 憎い憎い、宝を奪った盗人。何よりも悍ましい、唾棄すべき獣の存在を。



 憎悪と憤怒に塗れ……火竜が、咆える。



 「……やっぱり、味方じゃあなさそうだね」
 それに応ずるように、ガーラも火竜を見る。
燃え立ち、毛先さえもチリつくような殺意が火竜より発せられる。
 そして、火竜の目から火が迸るように輝いたその瞬間であった。大翼を広げ炎が舞い散る。それは正に、闇夜に浮かぶ火の玉のようであった。
 「みんな! 隠れるんだ!」
 何か来る、そう確信したガーラはゴブリンたちに叫ぶと素早くザンナを駆り防壁の上を疾走する。それに続くようにゴブリンたちが慌てて砦の影に隠れたその瞬間であった、先ほどよりもさらに強烈な突風と共に、紅い火の玉が防壁の一部をえぐり取っていった。
 それは火竜の急降下を伴う突撃であった。灼熱の玉となって、突風と共に憎き獣に向けてその身をぶつけんと滑空し強靭な両腕と両足で防壁を抉り取っていく。それを察したガーラはザンナの助けもあり難なく躱すも、火竜は勢いそのままに空中で身を翻すと再びガーラめがけ、榴弾と化したその身をぶつけていく。咆哮と、ぶつかり飛び散る石片、そして衝撃によって響き渡る音と人々の悲鳴によってさながら攻城戦が起きているかのような喧騒となっていた。そしてそれは、舞い散る炎によって砦のあちこちからぽつぽつと火の手が上がり始めたことでより一層強まっていく。

 「横からくるよ!」
 叫ぶや否や、ザンナは大きく飛び跳ね火竜の突進を躱す。跳ねた瞬間、先ほどまでザンナがいた場所がえぐり取られ、砕け散った破片が宙を舞う。それは、火竜の一撃が荒れ狂う暴威のように見えて極めて正確であることを何よりも物語っていた。そして、執拗にガーラをつけ狙ってくることに、いよいよガーラはただならぬものを感じ始める。しかし、宙を舞い空から襲い来る敵に対しガーラは攻撃手段を持ってはいなかった。だが、だからといって一方的にやられているだけのつもりは、毛頭なかった。砦の防壁を駆け抜けながら、ガーラはその獣の目を以て冷静に火竜の動きを見切っていく。
 それとは対照的に幾度目かの突進を躱された火竜はそのいら立ちを明確にしており、それは動きにも表れていた。先ほどよりもずっと早く飛び回っていたが、その分動きは直線的でより分かりやすかった。そして、再び突撃の構えを見せた時、ガーラは叫ぶ。
 「ザンナッ! 低く、低くだッ!」
 今までとは違い、跳ねるのではなく身を低く走るように叫ぶ。咄嗟に、ザンナはその身を低く伏せるように走らせる。

 ガーラの視線と、火竜の視線が交差する。

 大きくのけ反るように身を捩じり、両手で斧を掴み、あらん限りの力を籠めて振るう。
 刹那、ガーラの大斧は火竜の爪、そして両腕をすり抜けその身にぶち当たる。



 轟音 そして 衝撃



 砦の上階に、火の玉がぶつかり弾け飛ぶ。

 「ガァッ! ウッ! ……くそが……!」

 ハイオークの、岩をも砕く剛力をもってしても荒ぶる火竜の突撃を止めるだけの力はなかった。ガーラの大斧は確かに火竜を捉えたものの、撃ち当たった衝撃と共にガーラはザンナから放り出され砦の中庭に叩きつけられる。あまりの衝撃に、たったの一撃で全身が悲鳴を上げるようであった。そのうえ、火竜の爪がその身を抉ったのか、着込んでいた鉄の鎧の一部が切り裂かれ、二の腕から血潮に混じり紅い魔力が燻り火のように流れ出る。
 ガーラはすぐにえぐり取られ、役に立たなくなった部分をむしり取って投げ捨てると、斧を片手に立ち上がる。もともとこの鉄鎧は砦を守る兵士たちから身を守るためであった。火竜の一撃を受け止めることなど最初から想定はしていない。
 (くそっ! 奴は!?)
 砦の上階の一部は完全に吹き飛び、崩れ落ちた瓦礫の山と化している。火球がぶつかった様相そのままに、煙と炎が噴き上げている様からは到底無事で済んだとは思えなかった。
 「ガーラ!」
 どすりと、黒狼の巨体そのままにザンナが砦の壁から中庭に飛び降りガーラの傍に駆け寄る。その瞬間、物語そのままの恐ろしい魔物の姿を見た人々が次々に悲鳴を上げ門へとさらに押し寄せる。ザンナはそれを煩わし気に睨むも、ガーラに制され視線を外す。
 尤も、砦のあちこちから侵入したゴブリンと破れかぶれの兵士たちとの戦いの音が響き始め、それがまた逃げようと門の前で足掻く人々を大いに刺激していた。そんな状況において人々は兵士たちの活躍に僅かな希望を託すも、すばしっこく、それでいながら小柄な身からは想像できぬ腕力を持つゴブリンに対し、集団で陣形を組んでいるならばいざ知らず。ばらばらに散らばり不意打ちに近い形で襲われ、兵士たちは次々と悲鳴を上げて逃げ惑うか、敢え無く打ち据えられ地面に倒れ伏していく。そんな兵士たちに対し、今まで逃げるばかりであったゴブリンたちは魔物としての本能……逃げるオスを追いかけたくなる衝動……そして生来の悪戯好きが高じ歓声に近い声を上げながら追い回していく。その様子は、人々の希望が虚しくも潰えたことを物語る。
 だが、それは魔物であるゴブリンやガーラにとっては朗報であった。このまま何もなければ、犠牲を出すことなく砦を陥落させられるだろう。しかし、そう上手くいくわけではない。それを告げるように砦の上、火竜がぶつかり崩れたところから爆音とともに炎が吹きあがる。
 細かい破片が燻ぶりながらガーラたちに降りかかり、人々が悲鳴を上げる。脅威を察したプレザがガーラの傍に降り立ち、ザンナと共に見上げる。その先に、炎と黒煙を纏い立つ影が一つ。
 爛々と両目に炎を蓄え、より暴威と憤怒をその全身に漲らせた火竜が、そこに立っていた。


 ガーラの大斧、それを受けてなお紅き竜は無傷であった。





 第九 それぞれの叫び

 ……轟音と砦が揺れるような振動が響き渡る。砦の地下階、死刑囚が入れられた牢も激しく揺れ、ぱらぱらと小石が散らばる。
 それはこの牢に囚われている者にとって驚くべきことであったが、囚われている男はびくりとその全身を震わせるように顔を上げるも、両手と両足は鎖に繋がれ鎖、そして己の両目がもう何も移さないことを思い出すと再び全てを諦めたようにうなだれる。

 このような体で、何ができるというのか

 それに、心もとうに折れている。それでも、アイオンはせめてもの足掻きと、力を籠めて鎖を引くも岩の隙間に深く打ち込まれた鎖が抜けるはずもなく。ただ鉄と鉄が擦れあう音が響くばかりであった。
 どちらにせよ、死ぬことは決まっている。後はそれが、罪人として首を刎ねられるのか、このまま崩れ落ちる砦に埋もれるのか、それか砦の襲撃者の手によって……そう、一つアイオンが気にかかっていたのは、この衝撃をもたらしたもの、存在が何者かということであった。外の喧騒、そして逃げ出した牢番の様子からただ事ではないというのはわかっていた。一つ思うのは、プレザ、ザンナ……そしてカルタ、彼女たちがアイオンとニヴ、そしてノチェを救おうと何か手立てを考え、それを実行に移したのではないかという考え。もしも、そうであって、そして成功したならば生きてこの牢を出ることもできるだろう。だが、失敗すれば……
 それに、成功したとて、アイオンは己が再びきちんと生きていける自信はなかった。ガーラを失ったと同時に、戦士としてのアイオンは死んでしまった。今ある、この抜け殻でしかない己は彼女たち……カルタ、ノチェ……そしてニヴにとって本当に必要な存在なのだろうか。そんな虚空めいた考えばかりがアイオンの内に渦巻く。

 再び、砦が揺れる。爆音とともに崩れ落ちる音が響き、悲鳴が沸き起こる。

 ……ガーラ……

 見えぬ目で、愛しい獣を想う。
 それと同時に、あの薫りが、幾度となく肺を満たし血潮を滾らせたあの命そのものといえるような薫りを思い出していく。忘れえぬ薫り、それがどうしてか、仄かに薫るようであった。
 それと同時に、アイオンは呻く。

 ……そうだ、そうではないか……

 己は、愚かであったと。
 戦いの中で道を忘れ、その咎として愛する者を失い、光を失い、そして忘れてしまっていた。あの悪夢の淵で、己が何のために立つのか、その理由を。

 生きねば

 もはや手遅れかもしれぬ、もはや助からぬかもしれぬ。
 そうであっても、足掻かねばならぬ。己の命は、もはや自分ひとりのものではないのだ。

 叫び、鉄の鎖を引く。しかし、鎖は切れぬ。長い時の中で錆び付いてなお、その役目を果たす鉄鎖は頑強であった。だが、それでもアイオンは諦めなかった。ただがむしゃらに暴れ、叫び、呻き、その身を縛る鎖を断ち切らんと足掻く。



 そんな戦士の足掻きを、見つめるものが一つ。

 それは戦士と伴に囚われた、黒狼の魔物。ヘルハウンドのニヴであった。ニヴもまた、再び自由を得んとその身に力を籠めて己を縛る鎖を破らんとしていた。度重なる衝撃により、岩牢に刻まれた呪文に亀裂が入り、その力を弱めていたのである。それに、牢番が逃げ出したことによってニヴが最も恐れていたこと……抜け出そうともがいている最中に、最愛の人物が殺されてしまう……それが起きる心配もなかった。
 何より、如何様な理由かわからないが、アイオンが再び生きようと足掻き始めたのである。なればこそ、たとえこの身が砕け散ろうとも牢を破り、抜け出さねばならない。アイオンが明日を諦めぬならば、否、たとえアイオンが明日を諦めようともニヴは諦めるつもりはさらさらなかった。今こそ、牢を抜け出す千載一遇の好機なのだから。

 (……やれやれ、こればっかりはやりたくなかったけど……仕方ないね……)

 力を籠め、炎を纏う。骨が軋み、骨格が、肉体が作り替えられていく。ぎちぎちと全身が隆起し、鎖を引きちぎっていく。
 ニヴは、ヘルハウンドの中でも一際大きく強大であった。だが、同時にとても醜かった。強すぎた筋肉は全身の皮膚を破り、大顎は裂けて閉じることなく、その口から吐き出される灼熱に耐えきれぬ皮膚は溶け爛れ……大顎の骨は剥き出しになっていた。それにより閉じることのない口と牙は炎によって縁どられ、見るもの全てに恐怖を与える。だが、そんな悍ましき姿であっても、魔物にとっては好ましかった。ただ力だけを信奉していたのだから。
 けれども、人は違う。

 人に近い姿となって、美醜という概念を得た。それと同時に思う、なんと醜き、悍ましきこの姿。それでもなお、ニヴはかつての姿を誇りに思っていた。

 アイオンに会うまでは。

 一目見て、惹かれ、追いかけ、そして抱かれ、愛され、恐れた。
 悍ましいばかりの、ただ破壊と死をもたらす為のこの姿……決してみられるわけには、知られるわけにはいかないと。
 たとえ、両の目が潰れていようとも、見られぬとしても、アイオン自身に思われたくなかった。決して見せられぬほど、醜い魔物の姿があるなどと。
 だが、たとえ知られることになろうとも、それで救えるならば。その結果、愛する人に恐れられることになろうとも、それで明日が来るならば。

 今こそ、この力を使う時

 咆哮、それと共に吹き上がる炎が壁を焼き、鎖と檻を焼溶かす。刻まれた呪文は焼き砕かれ、もはや魔を縛ることは叶わなかった。灼熱を纏い、愛する者の牢へと走る。
 外では戦いが起きているのか、何ものかがぶつかりあう音が響く。

 「アイオン!」

 鈍く響くような、似ても似つかぬ声。

 「……ニヴ! その声は、どうしたんだ?」
 だが、アイオンはすぐ気づいた。同じように牢を焼溶かすと、戦士を繋ぐ鎖を噛み切りその両手と両足を解放する。ふらつきながらも、しっかりとした足取りで、アイオンはニヴにしがみつくように立つ。
 びくりと、ニヴの体が震える。熱で揺らぐ毛皮に、ところどころ見える剥き出しの筋繊維にアイオンの手が触れる。明らかに、普段とは違うこの姿。触れればすぐにわかってしまう。
 しかし、その慣れぬ感触をアイオンは恐れることなく、むしろ心配げにニヴの体を撫でる。
 「……すまない、苦労をかけた…… 行こう、まだ死ぬわけにはいかない」
 負担のかかった体は弱り、目は見えなかった。しかし、それでもしっかりと前を見据えるように顔を上げると、牢から出るべくそのおぼつかない足取りを進める。しかし、すぐに躓くようにふらついてしまう。
 そんなアイオンを支えるように、ニヴは傍に立つ。
 (……まずは見えぬことに慣れないといけないな)
 ゆっくりと、再び戦士が立ち上がろうとしていた。



 ……同じ頃合い、狂い始めた吹雪の中、灼熱が舞い散る。紅い輝きを纏い、火竜が獣たちに向けてその暴威を振るわんとしていた。
 怒りに満ちたそのままに、砦の上階より飛び降りるように飛び掛かった火竜は着地と同時に大地を蹴り上げ、恐るべき速度でガーラに向かいぶつかるようにその爪を振るう。咄嗟にガーラはその爪を斧で受け止めるも、その爪は灼火の如く熱を放ち、その爪を防いだ斧を焼く。ずしりと重たいその一撃はガーラの力をもってしても完全には抑えきれず、ぐらりとその身が揺れる。
 「ガーラ!」
 押されるガーラへと助太刀するようにプレザが火竜に挑まんとその爪を振るう。しかし、火竜は鞭のように尾を振るうとプレザの巨体を弾き飛ばす。悲鳴と共にプレザは弾き飛ばされるも、大地に爪を突き立て素早く身を起こすと再び火竜に食らいついていく。今度は、ザンナも一緒であった。爪と牙を火竜に向けて振るう。
 「邪魔を、するなッ!」
 憤怒に満ちた叫びと共に、火竜はガーラに振るっていた爪を離し、宙に舞うとその身を捻り尾で獣たちを薙ぎ払う。ガーラは大斧で防ぎ、ザンナ達は飛ぶか伏せてその尾の一撃を躱す。そのまま火竜は翼を広げ、距離を取るように後ろに飛び退く。
 その隙を見逃すまいと、ガーラは落ちていた兵士の剣を拾い上げると即座に火竜に向けて投げ放つ。鋭く飛翔する剣を火竜はその翼で撃ち払ったその時であった、翼で一瞬視線が隠れた瞬間を狙い、一気に距離を詰めたガーラは飛び跳ねると大斧を火竜目掛けて振り落とす。瞬間、鈍い音と共にガーラの大斧は火竜の頭蓋を捉え、打ち貫く……はずであった。
 確かに、ガーラの大斧は火竜を捉えていた。だが、火竜の腕が咄嗟に大斧を防ぐ方が早かった。火竜は驚くほどの強靭さと頑強さを以て、ハイオークであるガーラの渾身の一撃をその腕で防ぐ。しかし、片手で受けたこと、火竜といえども空中で受け止めるには重すぎたその一撃を受けた火竜は態勢を大きく崩し、再び大地に落ちる。

 ガーラも火竜と同じく空中で態勢を崩して落ち、地に叩きつけられるも素早くその身を起こし、攻勢へと転じる。火竜が起き上がるよりも早く、斧を振るう。しかし、今度は正面から叩きつけるようにではなく、受け止められぬように流し削り取るように打ち付けていく。先ほどとは違う、正面を狙うわけではない軌道の読めぬ連撃を前に火竜は苛立ちを募らせるように受け続ける。だが、当然そのような一撃では火竜は傷一つ付くことのない。だが、当然ガーラもそれはわかっていた。そのまま、ひときわ大きく踏み込み屈みこむように斧を撃ち込む。先ほどよりも早く重いその一撃を受け、腕を絡め取られるように火竜はその懐を開ける。

 そこを、ガーラは狙っていた。

 ミシリと、着込んだ鎧が軋む。全身の筋肉が隆起し、その力を漲らせる。踏みしめた大地が砕け散ったその瞬間放たれる。何よりも強大な、それこそ大砲を至近距離で喰らうよりも重く激烈な一撃。
 ハイオークの突進。
 それを懐の空いた火竜にぶつける。いかに刃を通さぬ強靭な鱗、鎧を持とうとも、防ぎえぬものがある。それは衝撃。全身を揺さぶり、内側を破壊せしめる最も原始的な攻撃。そしてそれはハイオークにとって、最も得意とする攻撃でもあった。

 その一撃が、火竜にぶち当たる。

 おおよそ、生き物の口から洩れる音とは思えぬ音と共に炎が吐き出され火竜は打ち上げられ、そのまま大地へと堕ちる。たとえ巨人であったとしても、その一撃を腹に食らえばあまりの衝撃に蹲り、立てなくなっていたであろう。だが、相手は巨人すらも凌ぐ力の、そして永遠の象徴たるドラゴンである。果たして、火竜はその身を襲う激痛に悶えながらも、決して倒れ伏すことなくその身を起こすとより強い憎悪と怒りに満ちた眼をガーラたちに向ける。
 「……まじかよ」
 流石のガーラといえども、噂にたがわぬ……もしくはそれ以上となるドラゴンの頑強さには驚愕の念を禁じえなかった。

 火竜はそのままガーラを睨みつけ、大きくのけ反っていく。息を吸い込むと同時に火竜の喉元が灼火の如く紅く染まり、まるで獲物を飲み込んだ蛇のように膨らむ。

 まずい!

 そうガーラが叫び、飛び退いた瞬間。火竜の口元から業火が放たれ、熔鉄の如く広がっていく。まともに浴びれば文字通り肉を焼き、骨すらも一瞬で灰にする火竜の灼熱をガーラたちは崩れ落ちた建物に隠れやり過ごすも、煉瓦や建材となった石を熱が伝わり耐え難い苦痛を与えていく。ヘルハウンドすらも唸り上げるほどの業火をこうも容易く吐き噴き上げるは流石は火竜と、ガーラはちりちりと己が焦げ付くにおいに呻きながら思う。

 流石にこれ以上は、そうガーラが思い始めた矢先に火竜は苦し気にせき込み炎が途切れる。いかに頑強といえども、ガーラの一撃は効いていたようであり、忌々し気に数度せき込むと飛び出してきたガーラを睨む。

 「ハイオーク……ッ!」

 憎悪と怒り、抑えがたい敵意を籠めた言葉が火の粉と共に吐き出される。
 ガーラはその言葉を受け、静かに火竜を睨む。

 「どうして……ッ! ドウシテッ! ドウシテワタシの邪魔ヲすルんだ!」

 その言葉と共に、己の手を、爪を自らの顔に突き立て引き下ろす。狂乱染みた叫びと共に紅い血が炎のように燃え噴き出す。灼熱の瞳からは炎が飛び散り、自傷により溢れ出た魔力と血を燃やしていく。

 「お前は死ンだッ!! 死んダンだッ!! なゼ生きテいる!? なぜ此処ニ居ル!? お前ハいつも奪ッテいク! 私の! 私ノ……ッ!!」

 絶叫、その狂気と嘆き、そして怒りと憎しみ……ありとあらゆる怨嗟が綯交ぜとなった叫びは聞くもの全てを凍てつかせるかのようであった。

 火竜は躍る。その両腕を……鋭い爪を振り上げ、ハイオークへと……その激情のままに。



 ……溢れかえる、火竜の憎悪。その燃え上がる情念を満足げに眺めるものが一人いた。
 「ノラ様 そろそろ参りましょう」
 主神教団の教母……古き呪術を振るう司祭でもある彼女の名を、戦士の一人が恭しく呼ぶ。砦の一部は崩れ落ち、火竜の炎が燃え移り黒煙を上げ始め、それによって恐慌が起き砦のあちこちから悲鳴が溢れる。ハイオークに率いられ、ゴブリンたちも砦の中に入り込んだようであちこちから兵士の怒号と叫びも響いていた。
 そのような状況にあっても、なお教母は冷静……否、冷淡なまでに落ち着いていた。
 「……恐ろしいものですね ただ一途な想い、それが彼女をああまで変えてしまうのですから」
 凍り付いた微笑みのまま、教母は感慨深げに呟く。
 「行きましょうか、ベルナルト」
 振り返り、戦士へと告げる。
 ベルナルトと呼ばれた戦士は頷くと、僅かばかりにまとめた手荷物を抱え護衛として先導するべく部屋の外の様子を窺う。外の喧騒は激しかったが、火竜と魔物の主たるものたちは中庭に居り、ゴブリンたちも外壁周辺で暴れまわり、建物の中にはそこまで入り込んではいないようであった。そのため、砦の中は一部の臆病な兵士たちが隠れている以外は静かなものであった。
 「先導します」
 ベルナルトは呟くように告げて扉を開くと、その先に槍を構えて歩き始める。教母の手には、鳥籠が一つ。黒い布で覆いかぶされたそれは静かに揺れていた。



 「こっち、こっち!」
 教母たちが部屋から出たのと同じ頃合い、砦の中をこっそりと隠れながら進む小さな影が二つ。
 ガーラより仲間の妖精ノチェを探すように頼まれたカルタとクロが、ノチェの匂いを頼りに砦の上階を静かに進んでいるところであった。何度か兵士を見かけたもののすっかり怯え切った兵士はクロとカルタを見るなり逃げ惑うか、勇気を出して攻撃を仕掛けるものの、小柄とはいえヘルハウンドであるクロに敵うはずはなくあっさりと炎に巻かれるか蹴りか爪で殴り飛ばされ伸びていたのである。
 そして今、クロとカルタはもう間もなくノチェを見つけられる、というところまで迫っていた。
 下の喧騒とは裏腹に、砦の上階は下の騒ぎが響き渡るだけであり、それが奇妙な居心地の悪さを与えていた。しんと冷え込む、石の冷たさもその言いようのない気持ちの悪さを手伝うようであった。その時である。廊下の中に、小さな足音が響く。
 それと同時に、鎧の擦れる音。何かしかの武器が床に当たり、擦れる音も同時にクロとカルタの耳に入る。
 (兵士だ! それも……二人?)
 カルタとクロはそっと身を隠す。何度か兵士と鉢合わせはし、その度に打ち勝ちはしているものの避けられるものならば避けるに越したことはない。あくまでノチェを探し救うのが目的なのだ、無用な戦いはしたくなかった。
 それに今までの兵士と違い、慌てた様子はなくむしろゆっくりと余裕を感じすらする動きであることが足音から伺えたのである。その様子からもただの兵士ではないと感じ取り、隠れることにしたのである。
 幸いにして、小柄なクロとカルタが隠れられるだけの場所は豊富にあった。そっと、カルタとクロは半開きになった小部屋の中に身を滑り込ませる。兵士の宿舎と思わしき部屋の中に住民はおらず、火も消えていたため暗かった。隠れるには絶好の場所である。
 小さく息を吸い込み、足音が通り過ぎるのを待つ。

 二人の……槍を携えた一人の戦士と、鳥籠を持った一人の教母……がゆっくりと通り過ぎていく。

 (! 戦士と……だれ……?)

 カルタの心に、雑音が混じる。

 ……あなたは……

 「ほら、カルタ 行こう」
 クロの声で、カルタは我に返る。
 そっと、部屋から出るとクロは再び匂いをたどっていく。ノチェの痕跡はあの戦士たちと教母が出てきた部屋に続いていた。
 「ここだ!」
 開いた扉を押し、誰もいないことを確認してカルタとクロは部屋に入り込む。


 ……あな……た……は……


 「ノチェ! ノチェ!」

 「どこにいるの!」

 探し始めて暫く、カルタとクロは焦っていた。
 部屋のどこを探しても、妖精がいなかったからだ。しかし、クロ曰く匂いは確かにここで消えているという。だが、痕跡が消えると同時にノチェもまた忽然と消えたかの如くその姿がなかった。
 (どうして……!)
 攫われたノチェ、その痕跡をたどりここまでやってきた。カルタとしてもクロの鼻を疑うつもりはなかった。カルタもまた匂いがここで消えていることは疑いようがなかったからである。

 (何か、何か見落としているんだ 何を……何……を……)

 ぐらりと、思考が揺れ。
 先ほどの記憶が、炎のように揺らぐ。先導する戦士、それに続く……カルタの記憶が歪む……けれど……

 鳥籠

 黒い布に覆われた、鳥籠。

 「さっきの、二人だ」

 口から、漏れる。
 その言葉にクロが反応する。
 「あの二人……ノチェの匂いなかったよ」
 そう、あの二人からはノチェを連れているような匂いはなかった。だが、カルタは確信めいたものがあった。確かに、匂いを完全に消すのは至難の業である。だがカルタは知っている、というよりも可能性として信じるべきは一つの方法であった。

 魔法である。

 その解明に生涯を捧げ、もしくは悠久の時を経てもなお全てを理解することは難しい世界の理、その一端に触れる術。その力を用いて、または宿した道具、それらを使えば匂いはおろか気配すらも消せるのではないか、魔法の一端を知るからこそそうカルタは考えたのである。
 それに、あの二人はこの部屋から出てきた。ならばノチェを連れ去れるのもあの二人以外ありえないことであった。

 「追いかけよう! 急がないと、行こう!」
 カルタの確信めいた言葉に、クロは小さく頷くと背に乗せあの二人を追う。少し時間は経ってしまったが、まだそこまで離れているわけではない。急げば十分追いつける。
 クロは駆ける、狭い砦の中の道を……






 ……叫び、何かが崩れ落ちる音、それと同時に何かが、誰かが戦っている。暗闇の中、アイオンの耳に届くのは戦いの音だけであった。狭く悪臭に満ちた石牢を抜けようと、アイオンはニヴに捕まりながら歩く。少し動けば、痛みが体に走る。痛めつけられただけでなく、裸足で歩き続けてきたこともあり、足の指先は割れ、鈍く痛む。そんなアイオンの足先を、ニヴが悲し気に眺める。
 このような、少し口を開けば火が迸るような姿でなければ、今すぐにでもその傷口を舐め汚れをぬぐってやりたかった。このような悪臭の満ちた狭い場所でなければ、今すぐにでも背に乗せ、この体をもって包み温めてやりたかった。
 (……奴ら……許しはしないよ……)
 ぽっと、心に怒りが宿る。ようやく、愛する人が生きる意志を取り戻したのだ、二度は失わせまいと心に誓い牙を剥く。もうすぐ、この狭い牢から抜け出せる。抜け出せば、すぐにでも背にアイオンを乗せ砦の門を焼き破り野に出よう、そして逃げるのだ、地の果てまで。追って来ようものならば、二度目はない。たとえアイオンに止められようと、ニヴは止めを刺すと、生かしはしない……そう心の中で叫ぶ。

 牢の外に続く道、焼き付いた臭いがあたり一面を覆う。
 「アイオン、大丈夫カイ?」
 ニヴの言葉に、アイオンはその体を撫でて応える。あと少し、あと少しで外に出られる。そうニヴが考えた時、悍ましい叫びが、怨嗟と憎悪、憤怒に満ちた絶叫が響き渡る。



 ……お前は死ンだッ!! 死んダンだッ!! なゼ生きテいる!? なぜ此処ニ居ル!? お前ハいつも奪ッテいク! 私の! 私ノ……ッ!!……



 アイオン!



 アイオン! 愛すル、私ダけのモノ!



 アイオンが、首を上げる。似ても似つかぬ、しかしアイオンは知っていた。アイオンは走る。体をぶつけ、躓きながらも外に出る。そして叫ぶ、何があったのか、たとえその目で見ることが叶わぬとも……その叫びを、嘆きを確かめるために。
 「アイオン!」
 後ろで、ニヴが叫ぶ。
 わかっているが、アイオンは走るそれがどんなに危険なことであろうとも。



 「 ティリア! 」



 叫びと轟音、それと共に肌に焼き付く熱風をその身に浴びる。極寒の大地には似つかわしくない焦熱を前に、アイオンは後ろによろめく。
 そのアイオンを支えるように、追いついたニヴが背に回る。
そこでアイオンは聞き、ニヴは見る。



 そこには、燃え盛る炎を纏い、両腕を振り上げ叫びをあげる竜と

 焦げ鉄の鎧をまとい、二体の黒獣を引き連れ竜に相対する一体の獣戦士を


 人を捨て竜と化し空を舞う、戦士が愛した者

 死に堕ちるとも戦いに立つ、戦士が愛した者



 戦場に舞う、火の粉と獣の薫りが目の見えぬ戦士に告げる
 愛する者の生還を、そして危機を


22/07/29 23:47更新 / 御茶梟
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■作者メッセージ
この度も読んでいただき、ありがとうございます

濡れ場がない話となり申し訳ありません
それでも楽しんでいただけたのであれば幸いに思います

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