連載小説
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旅の行く末


登場人物

 アイオン
 魔物の群れを率いる、盲目の元戦士。
 人の手が及ばぬ場所として、妖精の国を目指す。

 ガーラ
 アイオンを愛するハイオークの魔物娘。
 愛用の武器、そして一族と姉の想い出の品である大斧を竜との戦いで失う。

 ティリア
 アイオンを愛するドラゴンの魔物娘。
 意図せずではあったが、己を縛る人の身を捨て去り魔物へと転生する。

 ノチェ
 盲目の戦士を導く小さな妖精。
 長い旅の中で、アイオンを深く愛するようになる。

 カルタ
 ゴーレム使いのケット・シー。
 少しずつ、己の戦い方を学びつつある。

 ヘルハウンドたち
 ニヴ、ザンナ、クロ、プレザの四姉妹。
 かつての、より強大で醜い姿を覚えている数少ない黒狼の魔物たち。

 ゴブリンたち
 盲目のホブゴブリンのパロマに率いられた小鬼の群れ。
 再びあてのない旅となったが、妖精の国という希望を得て元気づいている。






 序 ヤガの娘たち

 ……聖歌が満ちる。
 大小の白亜の塔が連なる、北の大地の聖なる地。主神教団の北の要たる教団の統治国家セントノースの首都アポロノース。
 かつてこの地を拓き神の教えを広めた聖者アポロス、その功績をたたえ忘れぬために聖者の名を冠した都市。それは北の大地における主神の教えの中心であり、同時に魔物たちに対する最も鋭い刃であり最も硬き盾でもあった。

 実り多き地とは違い、厳しい冬に苦しめられる北の大地の教えは厳しく、そして生き残るために源流の教義からは外れるようなものも多く残っていた。
 それは古き教えや魔術の流れを汲むものであり、主神教団の原理主義に法れば異教の教え、禁術にも含まれるものである。だが、北の大地の教団の中には脈々と受け継がれ大樹の根の如く深く張り巡らされ絡みついている。もはや誰も、そのことに疑問を思わぬほどに。
 それは一種の密教、秘術であり、北の大地の外から来たものには決して教えぬ北の教団内におけるある種公然の秘密でもあった。

 それらは名を持たぬ、しかして知る者からは一様にして同じ名で呼ばれている。

 “ヤガの娘たち”

 北の教団内に息づく、密教が一つ。その教えを継ぐ者たち。
 かつて聖者アポロスに仕えた北の呪術師にして魔女ヤガ。北の大地に根付く古き呪術に精通し、星読みの力……それは予言ともいえるほどに正確な、その力をもってアポロスを助けたとされる伝説の大魔女である。ヤガとその弟子たちはアポロスを助ける見返りとして、北の教団の中に地位を得ることとなり、魔女のとしての名を隠すようになった今になってなお教団内の一派として決して無視できぬだけの影響力を持つに至っている。
 その源泉はヤガより伝えられた呪術、そして星読みの秘技である。冷たく凍てついた地、そこに潜む強靭な魔物たちに抗するために編み出された古の術、そして魔物たちの動きを予知する言葉によってヤガの娘たちは教団の兵士を、戦士たちを導いているのであった。



 ……アポロノースの古い大教会。
 その一角にある中庭の渡り回廊を二人の人物が歩く。冬の最中に差し込む、柔らかな陽光が中庭に降り積もった雪に当たり輝いていた。
 「ノラ様……間もなく、大教母様がお待ちになられている客間につきます」
 一人は鎧を着こみ武装した女戦士であり。
 「わかったわ、カタリナ」
 もう一人は教母の装束にその身を包んでいた。
 二人とも、この地に息づく密教の徒……“ヤガの娘たち”であった。

 教母……それは北の大地の中でも独特な立ち位置にある者たちである。教団の教えを広める、という意味では司祭や神父と同じ役割を持つが、その本質は別……いうなれば“魔女”や“巫女”という方が適当と言えた。北の地における聖なる護りの裏の顔、魔の方面における暗い護り、それらを担う存在であった。
 当然、全ての教母がそうというわけではないが、半数、それ以上の教母が何らかの魔術、呪術、禁術を修めた者たちでありその本質はむしろ闇に属するものたちであった。だが、それ故に……北の聖都は何よりも堅牢な要塞になり得たのである。
 ただ清浄のみを是とするのではなく、時として穢れにその身を浸し、闇をのぞき込むことこそが教母たち……聖都の魔女たちに求められる、最大の献身であった。過酷な北の大地において、戦いに手段を択ばぬが故の古き因習。それは脈々と受け継がれ、今なお聖都の地に深く深く……巨木に絡みつく寄生木の根のように深く北の聖都の底に広がっていたのである。

 「大教母様……教母ノラをお連れいたしました」
 堅木で作られた、黒塗りの扉の前でカタリナは軽く戸を叩き来訪を告げる。
 「……お入りになって」
 扉の後ろから年老いた女性の声が響く。その声は細くも、しっかりとした芯が通り、年を感じさせぬ意志の強さを表していた。
 カタリナは扉を開くと、首を下げてノラを中へと通す。ノラは小さく一礼し、そっと音もなく大教母が待つ部屋の中へと入る。古い教会に相応しく、歴史を感じさせる調度品に囲まれた一室。様々な主神教団に関する書物、物品に囲まれた奥に一人の老女が品よく、暖炉の前に佇んでいた。暖炉の日は赤々と燃え、冬を感じさせぬほどの温もりをもたらしていた。
 「大教母様……」
 その老女の傍に、そっとノラは近寄ると傅きその首を垂れる。
 「……お顔を御上げになって」
 大教母は、そうノラに声をかける。その声を受け、ノラはその顔を上げて立ち上がる。そのまま大教母に促さられるまま教母ノラは暖炉の前の椅子に腰を下ろす。その椅子には毛皮がかけられ、暖炉の熱によって程よく温まっていた。

 そのまま、大教母はノラの手を取り……先ほどのノラのように、傅くと祈るようにその手を己の頬に当てる。

 「……いけませんよ、大教母ともあろうものがこのような真似をしては」
 しかし、大教母は構うものかと頭を振ると、引き絞るように声を出す。
 「……ご心配をしておりました……貴女の身に何かがあってしまったらと……」
 老女はその細身を震わせ、まるで甘えるようにノラの手をより強く握る。その様子を、まるで子をあやすように微笑むと、そっと老女の……大教母の頭に手を置き、撫でる。
 「まったく、あなたはいつまで経っても寂しがりなのですね ……ただ、心配をかけましたね 大丈夫ですよ、私は健在です」

 もしも、この光景を二人の間柄を知らぬものが見れば異様に映ったであろう。若き教母に、老いた大教母が縋りつくようにその身を寄せるなど。
 だが、それは知らぬものが見れば、というだけの話。

 「……ノラ様、ノラ様……どうかお許しください このエカチェリナは心配なのです」
 老女の心配を、労わるようにノラは微笑む。
 「さあ、エカチェリナ 顔を上げなさい……あなたは大教母なのです この私の言葉が聞けますね……?」
 「はい……ノラ様」
 大教母は顔を上げ、ノラの顔を見る。そこには変わることなく、柔和に微笑む教母ノラがある。
 すっと、微笑の奥で、黒い瞳が揺らぐ。
 「……して、どうですか あなたの“務め”の方は」
 「務めは進んでいます、ノラ様 各地で魔物が蠢き、未だに尽きることなく ……ですが我ら聖都の兵、教団の戦士たち、そして我らヤガの娘の目をもって追い、討伐を進めています ……また、我らの教えと導きもあり、数多の人々は魔物を悪しきものと考え恐れております 全ての“務め”は滞りなく……」
 「もう長いこと、続いている務め……ですが、まだ……かかりそうです エカチェリナ、老いたあなたに任せるのは気が引けますが 務めをお願いしますね」
 ノラの言葉に、首を垂れるエカチェリナ。

 部屋の外では、主神を讃える聖歌が満ちる。
 彼ら、彼女らは高らかに歌う。
 この地を護れ、神の教えを広め、魔を、邪悪を、闇を祓えと。








 戦士編〜アイオンのサーガ〜

 第九章《旅の行く末》




 第一 見えぬ先

 ……さらさらと、銀色の風が吹き抜ける。
 うっすらと氷雲が空に広がり、風と共に粉雪が大地に降り散る。

 冬

 全てが凍てつき、白に埋もれる季節。全ての命が消え去ってしまったかのように、ただただ冷たく静かな時が流れていく。北の大地、全ての生命を飲み込む永い冬を擁する広大かつ冷厳なる地。
 その大地を、一つの群れが進む。一人の男と、数十の魔物の群れ。彼らの旅は、過酷なものなのであろう。それを示すように、皆その姿は酷いものであった。
 ぼろを、そして毛皮を無理やり繋ぎ縫い合わせたかのような衣服に身を包み、光なき両目を前に向ける男。そのそばを、同じく目の潰れたホブゴブリンが仲間のゴブリンに助けられながらよたよたと歩く。その脇に立つハイオークの魔物娘の体には数多の傷跡が刻まれ、特に一度突き破られた腹の傷は余りにも痛々しいほどであった。
 先導するヘルハウンドたちも、小柄なものを除き全員何かしらの傷跡がその身に刻まれており、特に大柄なものに至っては見えぬ傷など数え切れぬほどであった。
 その後ろをぞろぞろと連れ立ち歩くゴブリンたちも、また一様に傷ついていた。あるものは腕を、あるものは片目を、そのように皆何かしらをどこかに落としてきてしまったものもいた。それは長い、長い追放と迫害の旅路を示すものでもあった。
 この魔物たちの中で、無傷なものは僅かに数えるばかりである。その僅かなものたちが、男の……この群れの中心たる、アイオンの胸元に座す姫君……妖精のノチェと、ヘルハウンドの後ろを蜘蛛のゴーレムを駆りながらゴーレムの上に座るケット・シーのカルタ。そしてアイオンを愛し、追い、そして竜へと転生した修道女のティリアであった。
 だが、体に傷なき彼女たちにもまた、決して無傷というわけでもなかった。

 ノチェはその小さき身を、長い旅の中で幾度となく酷使し、時として己の命までも削り愛する者を……アイオンを守ろうとした。その献身は確実にノチェの体に見えぬ傷を刻み、今となってはもはや無視できぬほどにその身を弱らせてしまっていた。そしてそれを、アイオンは心配していた。たとえ目が見えぬとも、ノチェが決して口に出さずとも、その温もりが、胸元で感じる命が少しずつ冷たく弱っていくのを、アイオンは感じてしまっていた。

 そして、一見して元気なカルタもまた、深く刻まれた傷を隠し持っていた。それは記憶の欠落、それと同時にもたらされる己の出自に関する恐怖であった。何故、己には皆が持つべき記憶がないのか。何故こうも己は空っぽであるのか……そして何故、あの時、あの荒れ丘の砦で見た女性……教母ノラのことがこうも気にかかるのか。
 ……カルタはうっすらと気づいてはいた。恐らく、あの女性が自身の……もしくはカルタが何者か、それを知る者であると。願わくば、それを知りたいとカルタは望んだであろう。だが、今はその時ではない、そうカルタは考え己の気持ちを静かに封じ込めていた。

 気持ちを封じ込める、という意味ではティリアもまた同じであった。
 教母の手により、竜へと変じた彼女ではあったが、元はアイオンを愛するが故の執着が全てであった。小さな教会で、同じ孤児としての境遇、そして年も近いこともあり自然と距離は近くなっていた。それに、小さなアイオンの抱いた復讐という暗く固い決意もまたティリアを惹きつけた。もともと献身的な性格もあったのだろう……ティリアはアイオンを傍で支え続ける覚悟を、静かに、己も気づかぬうちに固めて行っていたのである。それは知らぬうちに、いつまでも伴にあり続けるという幻想へと変わっていった。
 それが砕かれ、執着と愛に狂い、そして欲深き竜へと身を堕とし……ティリアは恐怖を覚えるようになる。あまりに強すぎる、己の中の想いに、求めてやまない……竜の欲望に。故に彼女もまた、己の気持ちを封じ、ただ静かに祈り……そして愛する者の傍に居ることの許しを乞い続けるのである。

 先の見えぬ、過酷な旅。
 だが、一行は……獣たちの群れは進む。男の胸元に座する、小さな導き手の指す道を、妖精の国を。ただそこだけがこの北の大地の中で、唯一安らげる場所だと信じて。
 だが、眼前に広がるのは白一色に輝く雪原、その縁を彩るようにまばらな樹氷が冷たく立ち並び、遥か遠方には壁の如く白銀の氷峰が立ち並ぶだけであった。ただ、そんな景色だけが変わることなく広がり続けている。
 ごく稀に、人々が暮らしているであろう村や牧場が見えもしたが、魔物にとってそこは安らげる場所ではなく、ただ無益な戦いを生むだけの場所であった。もちろん、ろくな守衛もいない小さな村ならば、魔物の力を持ってしての制圧は容易である。だが、それはこの群れにとっては望むべくことではなかった。それ故に魔物たちは村や牧場からは距離を置いて進んでいた。
 それはどこまでも静かで、そして耐え忍ぶ旅であった。

 だが、それでも魔物たちは、その旅を……命を精一杯、謳歌していた。

 昼間はただひたすらに歩き、夕に薪と食料を集めに奔走し、夜は廃墟や岩陰、何もなければアイオンを中心にその身を寄せ合い暖を取った。ただ擦り減っていくだけの命だとしても、魔物たちは、アイオンは諦めなかった。絶望の淵に落とされた、あの砦からさえも奇跡的に生き延びたのである。その事実はアイオンたちを奮い立たせ、この過酷な旅で前に進む大きな原動力となっていた。

 なんとしてでも、生きて、生きてたどり着く
 たとえこの大地が拒もうとも、我らは生き抜く

 そう覚悟を決めて、アイオンは、ガーラは、魔物たちは進む。

 この冷たき北の大地を



 第二 導き

 ……眼前に広がる、深い森。
 凍てつく冬の中で、降り積もった白銀色の下で青々とした緑を茂らせた木々。


 ……アイオンと、魔物群れがこの場所にたどり着いたのは、荒れ丘の砦の出立から十二の日を跨いだ昼過ぎのことであった……


 戦士の胸元で、小さな妖精は指し示す。

 ここが、こここそが……旅の終着。妖精の国の入り口がある場所、その一つであると。弱々しく光りながら、ノチェはその身を乗り出しこの森の奥にこそ、故郷が、妖精の国があると示す。その体は軽く興奮に打ち震えているようで、ぽっと温もりが戦士の胸元に宿る。だが、すぐに疲れてしまったかのようにノチェは小さく息を吐くと戦士の胸元に再び身を任せる。
 「ノチェ……!」
 「……大丈夫、大丈夫よ アイオン」
 そっと、アイオンは胸元を抑えるように妖精を片手で包む。硬くざらついた、武骨な手と指。だが、ノチェはそんな指すらも愛おしいというように、その小さな口で指に口づけを交わす。
 その小さな姫君の愛情に、アイオンは見えぬながらも決意硬く前を見据え、口を結ぶ。何としてでも、入り口を、妖精の国の扉を探し出さねばと。
 「……行こう」
 その呟きのように小さな号令の下、群れは歩き始める。

 じっとりとした、湿った風が戦士たちを撫でる。

 それは、凍てつく冬の中で明らかに異質なもの。それだけでこの森がこの世とは違う場所へと通じるのだという奇妙な確信にもつながる。
 そして、アイオンたちの思うように森の中はまさしく“異界”であった。

 その様子はかつて訪れた“苔岩の森”に似ており、全体的に水気に満ち冬とは思えぬほどの湿り気が森の中に満ちていた。足元は奇妙なふかふかとした苔や光る菌類に覆われ、時折岩を踏む以外はぐっしょりと湿った苔に足が沈み込んでしまうほどであった。
 だが、冬だからか、それともやはり場所が違うからか苔岩の森ほど水の流れがあるというわけではなく。むしろ苔岩の森が木々の間を流れる小川、もしくは川の流れの中に森があった場所、とするならばこちらは湿地や沼の上に森がある、という風に表現するのが適切と言えた。そして、そんな森の中の光が差し込む隙間からちらちらと雪が降り積もり、光射す場所だけ白く染まっているという不可思議かつ幻想的な風景があたりに広がっていた。
 「……どうした?」
 その森の中の光景を前に、ガーラたちは一瞬息を飲み立ち止まる。むろん、アイオンとパロマも目が見えていれば同じように息を飲んだことであろう。だが、無明のものとして足元の冷たい水の感触はわかっても、森の中の様相までは見て取ることができなかった。
 「いや……何でもないよ、アイオン 行こうか」
 ガーラは小さく嘆息すると、腕を振り上げ前進を号令する。それに続くようにゴブリンたちがわちゃわちゃと森について喋りながら進む。そのゴブリンたちの会話から、アイオンはこの場所が滅多に見ることの出来ない景色であることを察するも、いくら目を開けようとしても光射さぬ闇ばかりが広がり、諦めたように一つため息をつく。
 「……足、冷たくないかい?」
 「……大丈夫だ、ありがとうガーラ」
 浮かぬ様子のアイオンに気が付いたガーラが労わるように声をかける。アイオンの憂いは無明故の悩みであったが、事実足元の冷たさも無視できるものではなかった。いくら冬とは思えぬほどの湿りを帯びていても、その冷たさは冬の凍て水そのものである。触れようものならば刺すような痛みが走るほどに冷たい水が、氷ることなくこの森全体を覆っている。

 そしてそれはすぐに大きな問題であると気が付くことになる。

 最初こそ、幻想的な風景に興奮し歩みを進めていたゴブリンたちであったが、いくら頑強な魔物の体であっても、凍て水の中を考え無しに進むことは間違いであると思い知ることになる。あまりに冷たい水はゴブリンの足の皮膚を焼き、すぐに数名のゴブリンが足の痛みを訴える事態になったのである。
 「足が、足がー!」
 「冷たい! 痛いよぉ」
 靴を履き、そして目が見えぬゆえにガーラやティリア、ニヴに支えられながらしっかりした道だけを進んでいたアイオンやパロマと違い、殆ど素足のまま湿った苔の中に……凍て水の中に突っ込み進んでいたゴブリンたちの足は真っ赤に腫れ、うっかりすれば凍傷の一歩手前まで来てしまっていた。
 頑強故に雪原の旅では、ちょっとしたサンダルに足を布でくるんだ程度であっても十分耐えられたが、ここでは下手すれば雪よりも冷たい水が隙間なく足を包んでしまうために流石のゴブリンであったとしても耐えるのは難しく、アイオンたちはどうにかして進む術を考える必要が出てきたのである。
 「……すまない、ニヴ 頼めるか」
 そのアイオンの頼みに、仕方ないねえ、といった様子でニヴは頷くとプレザ、ザンナに目配せし、ゴブリンの冷え切った足を自らの肌に当て暖め始める。極寒の中でさえも失われぬ熱を前に、冷え切ったゴブリンの体はすぐに温まり、足の痛みも引いていく。しかし、足は痛々しく赤くなったままであり、あまり無茶はさせられそうになかった。
 少なくとも、無事にこの凍てついた湿原を歩き抜けるのは蜘蛛のゴーレムの上に乗っているカルタ、その身に炎を宿すヘルハウンドのニヴとその姉妹たち、そしてドラゴンのティリアぐらいであった。ガーラでさえも、弱音を吐いていないというだけで、足は冷え痛みを訴えつつあった。アイオンに至っても、足は凍てつき若干麻痺しつつあり、あまり長いこと歩くことはできそうになかった。
 それに、もう一つ懸念があった。かつて訪れた苔岩の森、それと同じ雰囲気……何もいない、静寂だけが……がこの森にも漂っていたのである。
 「……大丈夫、大丈夫よ……」
 そっと、胸元の妖精の髪を戦士は撫でる。妖精はうわ言のように呟きを繰り返し、戦士の手にその身を任せている。
 (……ここにきて、ノチェが急に弱ってきている……一体どうすれば……)
 そんな小さな命を胸に、アイオンはただただノチェを心配し憂うばかりであった。小さな、護ると誓った命。それが約束を果たす前に燃え尽きようとしている。それを示すかのように、妖精の体は先ほどと一転して妙に熱く、まるで燃え尽きる前の蝋燭のように急激にその身を焼いているかのようであった。それがどうしようもなくアイオンを不安にさせていたのである。それに、もしもアイオンの目が見えていたのならば爛々と輝くノチェの瞳を見たであろう。
 その瞳は震え、魔力の、翠の炎を揺るがせながら星の瞬きの如き輝きを見せていたのである。そして、その輝きの震えに合わせるようにその瞳は虚空を見つめ、ノチェはうわごとを繰り返していた。
 だが、そんな状態でありながら、ノチェは静かに行き先を……この旅の終わりへと導くことを止めはしなかった。だからこそ、こんなところで足踏みをしている場合ではなかったのである。
 そんなアイオンの苦悶を読み取ったのか、それともまだ気づいていなかった己の力に気が付いたのか、突如ティリアは己が身にまとっていたぼろ布を脱ぎ去り、その紅き翼を広げる。そして、そのまま凍て水の中に歩みを進めていく。そして、ひときわ深い凍て水の中に己の足を浸したまま立ち止まる。
 何を……、そう誰かが問おうとした瞬間であった。ティリアの体が赤く、赤く灼火の如く揺らぎ始める。その熱は凄まじいものがあるのだろう、たちまちのうちに凍て水が真水に、真水からお湯へと変わり沸騰し始めていく。凄まじい湯気を放ちながら、一時の間にして凍て水に囲まれた湿地が……熱いぐらいの湯地へと変わる。
 「行きましょう、これなら歩けるわ」
 そう呟き、ティリアはアイオンたちを待つ。だが、未だその体は熱を宿したままなのだろう、赤く輝いたまま距離を置きいており、浸した足からはぶしゅぶしゅと沸騰した沫と湯気が絶えることなく噴き出し続けている。広げた翼を一扇ぎすれば、冷気すらも一瞬で吹き払うほどの熱風が宙を舞う。
 「うわぁ……」
 「す、すごい……!」
 竜がなぜ、伝説として語られるのか……その力の一端を垣間見たゴブリンたちは、感嘆しつつも“よく勝てたものだ”と心の中で畏怖を覚える。
 「ありがとう、ティリア」
 だが、その力のおかげで凍て水に囲まれた湿地を進むことができる。それは間違いなく今のアイオンたちに必要なものであり、感謝するべきことであった。
 そんなアイオンの言葉を受け、ティリアは少しはにかむように俯くと顔を背けて前へと進み始める。その後ろ姿を、ガーラとニヴは少しばつの悪そうに眺める。ゴブリンたちの思うように、良く勝てたものだということもさることながら、自分たちではどうにもならないようなことをこうも容易く……特に炎や熱という冬を生きる上で大変重要な事柄を……行える力を持つということに対し、アイオンの称賛を浴びることも含め“嫉妬”を覚えていたのである。特に、ただ頑強で怪力を持つというだけのガーラからすれば傍に居るだけで冬の寒さから愛する者を守ることができるというのは大変羨ましい力でもあった。
 (うう……くっそぉ……!)
 「? ガーラ?」
 歯噛みするように立ち止まりティリアを睨むガーラを、怪訝に思いアイオンは声をかける。ガーラはそのまま“なんでもねぇよ!”と拗ねたように呟くと、アイオンの手を……大分力強く……握り、先導するように歩き始める。
 「いいな〜僕もあんな力があればなあ……」
 ガーラの横でカルタが、ゴーレムの上で呟く。その言葉に、アイオンは“そうだな”と小さく同意を示す。誰もが竜の力を羨む中、アイオンは小さく嘆息する。人である以上、いくら鍛えたところで限界のあるアイオンにとって、己の弱さ、脆さはこの旅の中で幾度となく仲間たちに危機をもたらしてきた厄介な問題であった。アイオンにとって、竜の一撃すらも幾度となく耐えたガーラの強靭さ、そして死さえも乗り越える屈強なまでの生命力こそ憧れの一つであり、どうしようもなく惹かれるものだった。
 それに加え、盲目となってしまった今、この群れの中で一番の荷物は間違いなく己自身であり、どうしようもないまでの弱点となってしまっていることを痛感するばかりであった。それだけに、この森につくまでの間、大規模な衝突がなかったのが何よりもの救いであった。もしも再び、兵団との戦いになっていたならば今度こそ切り抜けられなかったかもしれない。少なくとも、群れの中心が盲目であり、それらを守るように戦っていると見抜かれたならばまず間違いなく兵団は、戦士たちはアイオンを集中して狙ったことだろう。
 (……ノチェのためにも、それにガーラたちにこれ以上負担をかけないためにも……なんとしてでも妖精の国へとたどり着かねば)
 決心を新たに、アイオンは湿った地を踏みしめるようにその足を踏み出す。
 ノチェの言う、入り口まではまだ先があった。だが、今までの雪原の旅とはわけが違う。もう目と鼻の先に、旅の終着があるのだ。アイオンは逸る気持ちを抑えるように、口を結び前へと、支えられながら歩く。この歩みが安息へと至ることを信じて。



第三 旅の行く末

 ……冷たい湿地の森の中、しんしんとした静けさに染み込むように水が沸騰する音と魔物たちが進む足音が響く。
 赤熱によって輝く竜が先導し、歩んだ後の湯気が立ち上る道を魔物たちが続く。その中心でアイオンはガーラに支え、時に手を引かれながら閉じた光の中で物思いに耽っていた。
 もうまもなく……道が閉ざされていなければ……旅は終わる。だが、なんとなくアイオンは察してもいた、その願いは叶わないと。ガーラも、恐らくはアイオンと同じ気持ちであっただろう。奥に進めば進むほど、ガーラの手のひらから微かな震えと、少しばかり籠った力が伝わってくる。それはかつて苔岩の森で通った道。何もいない、静かな森。魔物も、妖精もいない、異界の森……妖精の国の女王が閉ざしたのだろう……思えば、別の入り口を探すというのは浅はかで迂闊な考えでもあった。
 アイオンは逡巡する……自身が王であり、門を閉ざすことで民を護れるならば一か所だけ閉ざすようなことをするだろうか。訳あって開け放っておく必要がない限りは、全ての門を閉ざすだろう。別の世界にあるという妖精の国、そこの女王も同じように考えるに違いない。たとえ秘匿され妖精にしか開けられぬ門であったとしても、道を繋げておけば悪意を持ったものの侵入を許してしまうかもしれない。事実、恐らくカルタの言う“主人”は妖精の国の存在を感知し、その道を探していたとしてもおかしくはない。ならば王として、取る道は一つ……民を、護るために外界への道を完全に閉ざす、そうせざるを得ない……アイオンは、静かにカルタの方に意識を向ける。いつもは明るく振る舞っているカルタは、今は静かにゴーレムの上に座り前だけを見ている。
 カルタもまた、わかっているのだろう。門は……道は閉じている、開きはしないと。アイオンは静かに首を振る。たとえそうであったとしても、アイオンは諦めることはできなかった。否、してはならなかった。アイオンが諦めた時が、全ての……この旅の本当の終わりである。旅の行く末が、そんな結末でいいはずがない。そう己に言い聞かせアイオンは闇の中で問う、次の方策を、冬をどう乗り越え、そして次の安息地をどこに定めるか。
 (……いっそのことここで冬を越すか、少なくとも獣はいるし水に困ることもない 乾いた地面さえ用意できれば、暫く隠れて過ごすにはもってこいの場所だ 進むのに難儀した凍てついた水は考えようによっては冬の間、自然の擁壁として他者の侵入を阻むのに向いている……それからは……もうここまで来たならば……この大地を……故郷を捨てて遥か遠方の魔界を目指すか……)
 考え込むアイオンの鎖骨に、そっと熱い、小さな手のひらが触れる。
 反射的に、見えもしない目を胸元に向ける。一瞬、目の奥に翠の火花が散ったような感覚に陥るも、ただの錯覚だろうと思いなおす。
 「大丈夫……アイオン、どうか……信じて」
 熱っぽく、しかしやけにはっきりと響くノチェの言葉。どうしてだろうか、弱り切っているはずの妖精の言葉、小さな囁きがやけにはっきりとアイオンの耳に響く。その小さな体で、必死に心配をかけさせまいとしているノチェに対し、アイオンはせめてもの慰めとでもいうようにそっと手のひらで包む。
 ぽっと熱い、熱いほどの温もりが手のひらに広がる。



 ……「今日はここで野営だね」
 歩き続けて暫く、陽が暮れてきたのだろう。ガーラが声をかけ、それに応ずるようにわちゃわちゃとゴブリンたちが動き始める。どれほどの道を進めたかはわからないが、凍て水をティリアの力で温めながら進む道はやはり時間がかかるようで、ガーラやニヴから話を聞く限りあまり進めてはいないようであった。だが、それでも凍て水のせいで立ち往生してしまうよりかはずっと良く、またアイオンが心配していたノチェの様子も今は落ち着いている様子だったこともあり、程よく乾いた地面がある場所を確保できたということもあって今日はいったん休止することに相成ったのである。
 「ティリアは、どこにいる?」
 「……此処にいるわ」
 野営、といっても軽く火を熾して並んで寝られるだけの場所を用意するだけのことであり、ガーラとカルタは薪集め、そして食料集めもニヴ率いるヘルハウンドたちの背に数体のゴブリンが乗っていったようで、野営地にはパロマと見張りのゴブリンが数名だけとなり、すぐに静かな落ち着いた雰囲気が漂い始める。
 そんなこんなである程度落ち着いた頃合いを見計らい、アイオンはこの森を進むうえで大いに助けとなってくれたティリアを探すように声を出す。すると、存外傍に居たのか、すぐ近くの場所から声が届く。
 「傍に行っても、良いか?」
 そう言って、ゆっくりと確かめるようにアイオンは立ち上がる。目は見えなかったが、それでも漂う熱気からある程度ティリアの位置を把握することができた。
 「! ま、まって!」
 制止の言葉、それを聞きアイオンは立ち止まる。
 「その……まだ、私……熱いから 少し冷ますわ」
 なぜ、そう問う前にティリアの口から答えが出る。確かに、傍に立つだけで炎のような熱気が漂い、ぼこぼこと水が沸騰する音が聞こえてくる。アイオンはわかったと小さく頷くと、自分が座っていた場所に戻り腰を下ろす。
 暫く、じゃぶじゃぶと水の中を歩む音がした後、ひときわ大きな蒸発の音がした後にティリアが、まだほんわりとした熱を燻らせながらアイオンの傍による。

 「……いいわよ、どうしたの」
 しゅっと、熱とともにしっとりと少し湿った空気、そしてティリアの薫りがほんのり燻る。それはかつて教会にいたころを思い出す、落ち着く薫りであった。その懐かしい、そして捨てたはずの“居場所”を思い出しアイオンの心臓は薄く早鐘を打つ。
 失った光の中に、過去の情景が思い浮かぶ。傍に座る、ティリアの温もり。それを感じたのは一度や二度ではない。教会での祈りの時、義父に教えを学んでいる時、暗い夜、悪夢にうなされた時……ティリアはアイオンの傍に居て、その温もりで包んでくれていた。

 だが、アイオンはそれを捨てた。
 熱にでも浮かされていたのだろうか、これほどの温もりを、安らぎを捨て過酷な道を選んだのは。

 だが、あの時、あの場でアイオンは選んだのだ……魔物と共に歩む道を。

 あの時の選択が間違っていたとは思わない。どうしてか、確信に近い感覚があった。ガーラ……恐ろしいハイオークの魔物。だが彼女の首を刎ねるのは、どうしようもなく間違っている気がした。全てが、流れが、まるで運命だと言わんばかりにガーラの首を求めていた。アイオンに……戦士になれと、その手を血に染めるのだと……

 「……アイオン?」
 「! ああ……すまない」
 「それで、どうしたの?」
 呆けた様子のアイオンに、ティリアは少し怪訝な顔をするも優しい声音で問いかける。それもまた懐かしかった。いつも強気だが、二人でいる時、アイオンが立ち止まりそうなとき、ティリアは母や姉のように優しく一緒に立ち止まってくれた。
 「ティリア……」
 「うん」
 「……ありがとう」

 今、共にいてくれて

 あの砦で見せた、峻烈な想い。
 そして暴威。
 だがそれも全てはアイオンのため。
 愛する者が、人ではなく魔を愛するというならば、己もまた魔に堕ちようという至純なまでの覚悟。ただ、それをアイオンは見落としていた。

 魔物の首を刎ねよ

 慈悲深い彼女が、冷酷な女王のように、そう命じた時、アイオンは初めてティリアの激情、激しく渦巻く想いに気づいたのかもしれない。それは同時に、血の道を行く戦士と共に往くならば、己もまた血に染まることを厭わないという決意の表れでもあった。

 その後の決別、流浪、そして砦での再会……嵐の如き流転の中で、一度断ち切れた運命の糸は再び絡み合い、二度と離れまいとするかのように強固に結びつこうとしていた。

 ありがとう、それは感謝の言葉。
 二度と会えまい、会うまい……生きて共には歩めまいと、勝手に傍を去った己の傍に再び現れ、その咎を赦し、また傍で支えてくれている。そんな彼女に対する、ただ純粋な感謝であった。

 「……うん」
 小さい、しかしてはっきりとした返事。
 それはティリアにとって、神の赦しにも等しい言葉。愛ゆえに、愛するがゆえに狂乱に堕ちた強欲な竜に、赦されずとも傍に居たいという想い。それを抱えた竜にとってアイオンのただ一言の感謝はじゅっと、心臓を焼くようにその身を燃え上がらせていく。

 けれども、その想いは抑えなければならない。まだ、赦しには程遠い。
 己が内に宿る、強欲を、竜の傲慢さを御せなければ……また、いつ再び牙を、爪を剥くかわからなかった。その想いを現すように、全身を覆う紅い鱗が輝く、燃え盛る炎をそのうちに宿すように。

 暫く、沈黙と共に静寂だけが流れていく。


 「……行くわ また、暖めないと」
 そう言って、静かに竜は立つと愛する人の傍を離れ炎に火照ったその体を凍て水の中に浸していく。その様子を見送りながら、アイオンは静かに自らの胸を抑え、寝息を立てる妖精の身を案じる。
 時折、炎のように熱くなる妖精の姫君。そのままぽっと燃え上がり、消えてしまうのではないか……そんな不安に駆られるようにアイオンは口を結ぶ。目が見えぬ以上、自らにできることなど何もありはしない。それは酷く歯がゆく、考えこめばこむほど、失われた光が懐かしく心を焦がす。暗闇、それは心の内をただじっと眺め続けるようなものであったかもしれない。

 「おーい! 戻ったぞー!」

 からりとした、大声と共に不安をかき消す薫りがアイオンに届く。
 「へへっ 寂しかったか?」
 ガーラはそのまま真っ直ぐに、アイオンの傍に駆け寄るとその逞しい腕で抱き締める。暖かく、そしてとても柔らかい肉体は幾たび、それこそ数え切れぬほどの交わりや触れあいを経てもなお飽きることのない安らぎと心地よさを与えてくれる。
 「お帰り、ガーラ 苦労を掛ける」
 ぎゅっと、アイオンはガーラを抱きしめ返す。それが嬉しいのか、ガーラもまたぐっと力を籠めてその大柄な体でアイオンを包み込む。むちっと張りのある肌が重なり、むわりとより濃い薫りがアイオンを包む。ぽっと全身が熱くなる、その薫りに包まれアイオンは母に体を預ける子のように力をふっと抜いていく。
 生きている、それを実感できるその匂い。熱く、血が滾る生命の薫り。
 「良いって、それよりもほら 今日はもう休もう……もうすぐニヴ達も戻ってくるだろうしな」
 「ちょっと! ボクを置いていかないでよ!」
 むにむにと全身を擦り付けるガーラに遅れる形で、カルタが戻る。カルタの乗るゴーレムには大量の薪が積まれているのだろうか、少しばかり足音が重くよたよたとした様子の音が響く。
 「アーイオン!」
 そしてそのまま、アイオンに飛び掛かるようにカルタはその身を投げ出し、ふわっと空いている体に抱き着く。ふわふわした体毛と少しだけ高い体温は心地よく、カルタから薫る匂いは暖かい陽光を連想させた。
 「お帰り、カルタ」
 そのまま、手探りでカルタの小さく柔らかい体に手を這わせ、頬へ、そしてぴんと耳が跳ねている頭部を撫でる。すぐにカルタの体がぐにゃりと粘性の如く柔くなり、ごろごろと喉を鳴らす心地よい音が鳴る。

 ひどく冷たいはずの凍て水の森、だが確かにこの場、この瞬間においてはその冷たさを感じることはなく、忘れることができていた。



 やがてニヴ達も無事に獲物をもって戻り、ささやかながらも平和な一夜が訪れようとしていた……



第四 冬の夜の夢

 ……焚火にくべられた薪が爆ぜる音が響く静かな夜。
 凍て水の森はその姿のとおり、まるで全てが凍り付いたかのようにしんと静まり返り、いつもは明るく騒がしいゴブリンたちも刺すような冷気から身を護ろうと薄布や毛皮で何とか全身を包み、そして複数寄り集まって団子のようになりながら深い眠りに落ちていた。それはアイオンも同様であり、ガーラ、ニヴ、そしてカルタたちに包み込まれるように横になり。ティリアはそこから少し離れた場所でその身に炎を宿し、周囲を熱しながら静かにその瞳を閉じていた。

 しんと静まり返った、そんな冷たい冬の夜。

 それは偶然のことだったのだろうか……
 アイオンは、変わらぬ闇の中で目を覚ます。それは不可思議な覚醒であった。
 微睡の中に沈み込んだかのように感覚の全てが鈍く、澱んだ泥のように感じる目覚め。しかして、アイオンはなぜ目覚めたのか、何が目覚めを導いたのかをすぐに悟る。

 熱い

 ノチェを包むように、胸上に置いた手のひらが、焼け石をその手にしているかのように……しかし、痛みはなく……ただ感覚として“熱”を感じる不可思議。この奇妙な熱が、それと同時に言いようのない不安をもたらすこの熱こそが自らを覚醒に導いたのだとアイオンは確信する。

 一刻も早く、ノチェの無事を確かめねば

 だが、微睡の淵から起き上がったばかりの体は動かず、指先一つすら思うように動かせなかった。
 深く息を吸い、一息にその身を起こそうとしたその時。


 アイオンの耳に、ノチェの囁きが届く


 それと同時に、指先から伝わる“熱”が蠢く。
 その蠢きは艶めかしく、指に絡みつく。花の蜜のように、垂れ落ちる熱が指を這う。それはノチェの舌であった。
 ちろちろと、蝶の口先の如き小さな舌がアイオンの手の、指の腹をなぞる。そのまま、ノチェの肢体が絡みついているのであろう、手のひらから柔く、そして熱く脈打つ小さな鈴鳴りの振動が、ぴんと張りつめた……ノチェの小さな実り……が押し付けられ伝わる。
 ノチェは抱き着くような形で人差し指に口づけを、中指に片腕を絡ませ、小指を両足に挟んでいるようであった。小指の付け根に、無垢種の如き小さな秘裂が押し当てられ、その熱をアイオンに伝える。

 周りの寝息に混じり、静かに聞こえる衣擦れの音。そして響く微かな水音。夜風のような小さな音であったが、静まり返った中、アイオンの耳に簡単に届いてしまう。そしてそれは、目の見えぬアイオンにとって異様なまでに鮮烈な感触となってその熱を伝える。
 ノチェは身をくねらせ、決して滑らかではないアイオンの指に、あかぎれささくれだったその指に口づけを交わし舐める。その吐息は熱く、しっとりとした湿りを帯びノチェの滑らかな髪と共に絡みつく。中指を片手で握りしめ、自らの小さな胸を慰撫させ、小指の付け根を挟み込んだ、すらりと細くも確かな力と弾力を感じる両ももの中心は殊更に熱く、湿り、蜜を帯びていた。
 それは情事の真似事、種族を越えてさえも存在する体躯という絶望的な壁を前に、想いを告げてもなお越えられぬ、越える勇気が持てぬノチェの中に押し込められた熱の発露だったのだろう。
 小さな、小さなノチェにとって、アイオンの小指すらも受け入れるには大きすぎた。ひしと擦り付け、己を高め、“彼女ら”の真似をしてもなお受け入れるには狭く、小さすぎる己の“花”。それを指に擦り付け、己が慰みとする行為にノチェは没頭していた。
 じっとりと燃えるような熱を放ちながら、ノチェはその体をアイオンの手に絡め荒い息を吐く。
 妖精という種族の常だろうか、光る薄衣の下には何も身に着けていないのだろう、熱く湿った肢体の奥の小さな花弁と思わしき、瑞々しい弾力がアイオンの小指に押し当てられるたびに蛞蝓が這ったような“粘つき”が残る。その動きはゆっくりと、前後に滑らせながら確かめるように行われ、時折ぐっと腰に力を入れるように押し付けられるたびに水滴が弾けるような音と共により熱く、より硬い花弁が押し広げられ奥の秘蜜をどうか暴いてほしいとねだる。アイオンの指のささくれが敏感な所を刺激するのか、擦るたびに悲鳴のような声が上がる。だが、ノチェは腰の動きを止めようとはせず、むしろより強く吸い付くようにその体を絡めていく。とても小さな、手のひらから与えられる感覚。それは背徳感故だろうか、それとも光も見えねば、何も音がない静かな世界だからこそだろうか、その小さな刺激は強烈な感覚……言いようのない熱情となってアイオンの意識を襲う。
 しっとりと絡みつくノチェの動きは炎の揺らぎにも似ており、高い体温と相まって手のひらが燃えているかのような錯覚をアイオンに与えていく。同時にぼっと燃え広がるようにノチェの熱がアイオンの体に広がり、同時に強烈なもどかしさとなってアイオン自身を襲うのであった。
 アイオンの目覚め、それに気づくことなくノチェの動きはより能動的に艶めかしくなっていく。押し付けられた小花はしとどに濡れ咲き乱れ、小指の指先に吸い付きその“秘密”の存在を教える。そのまま親に腕を絡め噛み付くように激しい口づけを繰り返す。粘りのある水滴が垂れ、擦り合わされるような小さな音が疾く疾くと早く断続的に響くようになり、それに合わせるようにノチェの太ももが、胸がぴくんと痺れるように震え始める。

 絶頂が近い

 感覚的に、アイオンはそう感じる。かすれた艶声、湿り気を帯び熱の籠った吐息、震える肢体……全身に蜜を溢れさせ燃え上がる小さな姫君は夢想の中、得ることの出来ない喜びを求めて腰を振るい、舌を伸ばし、その体をこすり付ける。
 それは昼間の弱り切った姿からは想像もできないほどに荒々しく力に、命に満ちた動きであった。だが、同時にそれは今際の際に、命を賭して次代を紡ぐ虫の恋にも似ていた。
 アイオンがふと、そんな不安に駆られた時、妖精は啼く。愛する人の名を叫ぶ。叫びながら小さな牙を指に突き立て、両足をぎゅっと閉じ、手のひらに強く、強く抱き着く。
 炎のような熱がより一層強く放たれた瞬間。雫がはじけ漏れ出る音と共にぷるぷるとその体が震え、ノチェの力が抜ける。くったりとその体をアイオンに預け、妖精の姫君はその小さな胸を揺らす。

 静かな時が、再び流れる。
 ノチェの想いは知っているし、彼女が何を望んでいるかもわかってはいた。だが、果たしてそれが叶うかどうかは、アイオンにもわからなかった。あまりにも、二人の体は違いすぎた。
 アイオンがノチェの熱情を前に物思いに沈んでいると、手のひらの中の姫君がゆっくりとその身を起こし、のそのそと手のひらから這い出しアイオンの顔の方へとその体を引きずっていく。その身に宿る熱は未だに収まらず、さながら甘い薫りが燻ぶる炎のようであった。甘い、官能を刺激する妖精の香を前にアイオンの鼓動は少しずつ早くなる。

 「アイオン」

 ノチェが、名を呼ぶ。

 「愛してる、愛してるの……」

 そのまま、アイオンの唇に小さな口づけが行われる。しっとりと甘い薫りを燻らせながら、妖精の姫君は想いを告げる。
 その身は熱く、抑えきれぬ情を揺るがせながら、妖精の姫君は謳うように愛を紡ぎ続けるのであった……












 第五 目覚め

 ……あれは果たして、冬の一夜の夢であったのだろうか。
 ノチェの愛の紡ぎ歌を耳に再び微睡の淵に沈んだアイオンが目覚めた時、ノチェは昨夜の様子とは打って変わり、再びくったりとした様子でアイオンに身を預けていた。しかし、その身から薫る甘い香と、炎のような熱は確かに昨夜感じたものそのままであった。
 それに、じんわりと残る手のひらの湿り気もまた昨夜の出来事が真実であったことを告げていた。

 「ふわぁ〜ぁ あ、アイオンも起きた?」
 間の伸びた、カルタの寝ぼけ声がアイオンの耳に届く。
 「ああ、起きているよ」
 そう答えるアイオンに、えへへとカルタは甘えてくる。ふわふわの柔い毛肉玉がアイオンの体に預けられむにむにと流動的な動きでアイオンの上を動き回ると、収まり良い場所が見つかったのかむぎゅっと体を押し込み落ち着く。その時であった、ひくひくとカルタが何かを嗅ぎ取るかのような音をアイオンは聞き取る。
 なんとなしに、自分が悪いわけでもないのだが少しばかりの気恥ずかしさと気まずさをアイオンは覚える。だが、カルタは特に何かを言うわけでもなく再びぐりぐりと顔を押し付けるようにしてアイオンに甘え始めるのであった。

 「ほら、食事にしよう カルタはさっさと離れな!」
 「なんだよ〜 ケチ! あ、あぁ〜!」
 暫くの間、アイオンの胸元を独占していたのにもかかわらず離れようとしないカルタをガーラはぺりっと引きはがして放り投げる。しがみついていたようだったがガーラの腕力を前に、カルタの抵抗は無意味であったようであっさりとアイオンは解放される。
 「調子はどうだい ……ノチェの様子は?」
 「自分は問題ない、ノチェは……大丈夫そうだが、心配だ」
 そう言って、アイオンはノチェが丸まる胸元に手をやる。実際、ノチェは燃えるような熱を放っているものの、表情は落ち着いており呼吸も乱れてはいなかった。それに、燃えるような熱もどこか昨日までのものとは少し違っているように感じたのである。焼き付くような熱ではなく、熱くも温もりを感じる熱といえばいいのだろうか、とにかく危険を感じるような熱ではなかった。
 「……食事にしよう、今日もすまないな」
 ただ施してもらうことしかできず、謝るアイオンに対しガーラたちは気にするな、と微笑んで返す。冷たい凍て水に覆われた森だったが、それでも少しばかり暖かく感じられる朝であった。



 ……妖精の国、その入り口を探すという長く、長く続いた旅は静かに、平和に、驚くほどあっさりと終わりを告げた……

 ノチェの指し示す場所。そこにたどり着いたのは昼前、陽が少し翳り小さく雪が降り積もり始めた矢先のことであった。ひときわ大きな凍て水の湖……その中心に浮かんだ大岩……あれが探し求めた入口なのだという。かつて訪れた苔岩の森と同じく、そこだけ木々が切り取られたかのようにぽっかりと森の空に穴が開き、天が覗く。そして、いったいどれほどの冷気を纏っているのであろうか、凍て水は氷ることなく……しかして異様な冷気を放つように白煙を放ちしんしんと広がっていた。その凍て水の上に、粉雪が降り積もり消えていく様子は、一時身を切るような寒ささえも忘れ去るほど美しい静かな景色であった。
 森の中の盆地に薄く広がった小さな湖。もしも夏や初秋の時期に訪れていれば、どのような景色であっただろうか。やはり、美しい景色だったのだろうか。

 「……ガーラ?」
 「あ、ああ アイオン、すまないね ……ついたよ……ついたんだ」

 柄にもない、そう呟いてガーラははにかむとアイオンに目的地を告げる。ガーラの、旅を終えることを意味する言葉に、アイオンはぐっと息を飲む。だが、アイオンは、ガーラも……カルタも、わかってはいた。無邪気にはしゃぐゴブリンたち、興味深げに、そしてやっと休めると安堵するニヴ達は知ることのない……言おうとは思っていた、だが言えなかった真実。

 妖精の国の扉は、閉ざされている

 真実を告げるならば、今しかない。恐らく希望は持てないと……だが……アイオンは言葉が出なかった、喉の奥に詰まったかのように。
 それはガーラも同じだったのだろう。ぐっと、アイオンの手を握る力が強まる。だが、言わねばならない。そう意を決し、アイオンが口を開こうとした、その時であった。
 「……大丈夫、大丈夫 アイオン……私を、信じて……」
 小さな、囁き。ノチェの、弱々しい、だがはっきりとした言葉。その言葉に、アイオンは開きかけた口を閉じる。そして、代わりの言葉を告げる。

 「……行こう 妖精の国へ」

 アイオンは、一歩踏み出す。凍て水の湖に向けて。その戦士を鼓舞するように、妖精は謡う。

 前へ、前へ、大丈夫 恐れないで 道はあるから ……と

 あっけにとられ大人しく手を引かれていたガーラが、その手を引き、凍て水の湖に足を踏み込もうとしていたアイオンを止めようとしたその瞬間であった。アイオンの靴底が、湖に触れた瞬間。

 凍て水の表面が“氷りつく”

 氷りついた凍て水はゆっくりと広がっていき、白い大きな氷の結晶となって湖の上に浮かぶ。それは、とても不思議な光景であった。奇跡の如き光景を前に、ガーラたちは驚き目を見開く。そんな中、恐る恐るではあったが、好奇心に負けたゴブリンが一体アイオンと同じように凍て水を軽く踏む。すると、それもまた同じように氷り付き、道となる。その様子に、ゴブリンたちは歓声を上げると我先といった様子で次々と湖の上に乗りこんでいく。
 「行こう」
 アイオンは、再び歩み始める。ガーラの手を引いて、ノチェが指し示す妖精の国への入り口へと……



 ……冷たい凍て水、それが凍り付いた薄氷の湖を越えアイオンたちは立つ。湖の真ん中にぽっかりと浮いた大岩、ノチェの言う入口の前へと。入口の鍵、それはノチェに導かれずともすぐに見つかった。
 少しだけ窪んだ大岩の表面、それより少し離れた位置に大岩と同じく浮いているように顔を出している小岩に苔岩の森で見た“鍵”が咲いていた。淡く輝く、小さな花。真冬であるというのに、その花は萎れることも凍り付くこともなくぴんと咲き誇っている。
 アイオンは、皆が見守る中、ノチェをその岩の上へと……鍵の傍に下ろす。しんと、染み入るように冷たい小岩の上。だが、ノチェはそんな冷たさなど感じないとでもいうように、そして折れた翼を引き摺りながらもしっかりとその細い足で立つ。ノチェがアイオンの手から離れた時、一瞬ちくりと刺すような刺激がアイオンの目の奥に走る。それはほんの僅かな、幻視といっても良いような程微かな“輝き”。だがそれはあの砦で見た毒々しい紅ではない、樹氷の森で見た、ノチェが燃やした命の輝き……淡い翠の輝きであった。
 なぜ、その輝きがこの潰れた目に宿ったのか、アイオンはわからなかった。

 鍵の前に、ノチェは歩み出で……そして手を触れる

 淡く、輝きを強める鍵……だが、待てども……



 門が開くことはない



 静かな、冷たい空気。吐く息の音に混じる微かな絶望をアイオンが感じ取ったその時であった。再び、目の奥に輝きが差す。それは小さな光。淡く、しかし力強く輝く翠の炎。
 「! ……ノチェ……っ!」
 ガーラの、驚愕。その言葉に続くように、周りのものたちが次々と息を飲む。その理由を、光なきアイオンもまた“見る”ことができた。

 それは輝き 燃えるような 輝きであった

 小さなノチェ、その体が輝く。炎のように、魔力を全身から噴き上げ鍵となる花を焼く。魔力の炎を浴びてもなお、花は変わることなく咲き続けていたが、徐々にその輝きを強めていく。
 その輝きをさらに強めんとノチェはもう一つの手を添え、両手で包むように“鍵”に触れる。いったいどれほどの魔力を放っているのか、アイオンが危惧を抱いたその時。

 ゴブリンの一体が叫ぶ “羽が、羽が!”

 折れた、羽 薄くも美しい、枷でしかないその羽の根元が“弾け”鱗粉の如き炎と輝きを舞い散らせ“焼け落ちる”。
 焼け落ちた両羽の根元は引き裂け、裂傷の如き有様であった。だが、その裂傷からはより強く炎のように魔力が噴き上げ、そこから亀裂の如くノチェの体に魔力の裂傷が広がっていく。それは正に“命を燃やしていた”。

 愛する者のためならば、その命さえも厭わない

 自らの命を絶つことになろうとも、門を“無理やり”開けようとしている。それに感づいたアイオンがノチェを止めようと手を伸ばした瞬間であった。

 アイオンの視界が輝きに染まる

 それは、蝶の大羽の如く 燐光を散らし、小さな妖精の背には不釣り合いなほど大きな羽ばたきをもたらしていた

 その輝きにアイオンが怯んだ時であった。

 岩と岩が擦れる音が響く。


 「……岩が!」


 大岩のくぼみ、日々一つないはずの大岩の表面に亀裂が走る。ノチェの、魔力の大羽が羽ばたくその度に、亀裂は数を増やし、隙間から光を放ちながら大きく広がっていく。
 固く閉ざされたはずの門、それが今まさに、開こうとしていた。

 ノチェ……!

 戦士の口から漏れ出る、張りつめた言葉……自らの名を呼ばれた妖精は微笑み呟く


 大丈夫


 それは見えぬ闇の中で虚ろう幻だったのだろうか、妖精の姫君がひときわ大きな輝きを放ち



 門が開く












































 ……気が付いた時……アイオンたちは……

 ……妖精の国に立っていた……


23/02/12 15:42更新 / 御茶梟
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■作者メッセージ
読んでいただき、ありがとうございます。

普段よりかは短いですが、お楽しみいただけたのならば幸いです。
物語としてはこれで一区切りとなります。

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