連載小説
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約束の場所 ※エロなし

登場人物

 アイオン
 魔物の群れとともに妖精の国へとたどり着いた盲目の戦士。
 光は失われども、導きを信じ続けた。

 ガーラ
 アイオンを果て無き旅へと導いたハイオークの魔物娘。
 その体には旅の記憶と共に数多の傷が刻まれている。

 ティリア
 強大な力と欲望をその身に燻ぶらせる竜の魔物娘。
 アイオンにその身を捧げたいと想うも、己が強欲に恐怖を感じている。

 ノチェ
 戦士と魔物たちを導く小さな妖精。
 我が身を犠牲にしてでも、アイオンを妖精の国へと導こうとする。

 カルタ
 アイオンにその命を救われたケット・シーの魔物娘。
 蜘蛛のゴーレムの背に乗り、アイオンたちと共に旅をする。

 ヘルハウンドたち
 ニヴ、ザンナ、クロ、プレザの四姉妹。
 ニヴ以外ゴブリンの世話をしていることが多い。

 ゴブリンたち
 盲目のホブゴブリンのパロマに率いられた小鬼の群れ。
 少しずつ、かつての陽気さを取り戻しつつある。



 第一 約束の場所

 ……その身を包む柔らかな、そして暖かい風
 冬の台地にはあり得ぬ、生い茂る草花を踏みしめる感触
 麗らかな陽光のようでいて、静かな月光のような優しい空気

 誰もが、静かに息をのむ

 目があるものは見ただろう

 燐光に揺らぐ、草花の絨毯を……
 夜空に星々が連なり、たいまつのごとく世界を照らすのを……
 天高く伸びた木々に光る苔が生い茂り、豊かな実りを鳴らすのを……
 流れる川は澄み渡り、小魚の群れが輝く様子を……
 そして何より、小さきもの……妖精たちが舞う姿を……

 見えぬものは感じたであろう

 巨大な母の温もりを
 己が立つ場所、足元から感じる偉大な息吹を
 そして知るだろう

 この地、この国、この世界そのものこそが……






 「……! ノチェ! ノチェは!」
 穏やかな風に包まれ、戦士が叫ぶ。遠巻きに、周りの妖精が舞う。
 ガーラも、カルタも、ティリアも、ニヴも……だれも声を出さない。否、出せなかった。だが、アイオンは前に出る。前に出て、眼前で……光射さぬ目の中で確かに燃える、小さな燃え殻に駆け寄り、そっと手に取る。
 それは熱く、燻ぶるようにアイオンの手を焼く。かすかに動く、翠の炎の揺らぎがその小さな姫君の命を示す。だが、すでに……戦士の手の中で燃える、小さなノチェは……今まさに燃え尽きようとしていた。今、アイオンが手にしているものは崩れ落ちる寸前の灰に等しかった。
 「ノチェ! ノチェ!」
 どうして、名を呼び、叫ぶ。制御の利かぬ、皮膚を切り裂き、骨を焼く魔力の激痛さえも感じぬとばかりにアイオンはその小さな妖精を優しく両手で包み、胸に抱く。

 燃え殻が、小さく微笑む

 そのままくしゃりと、灰が零れるように……小さな妖精は命を終えようとしていた。何もできない、その絶望に、戦士が叫ぼうとしたその時であった。

 誰かが、戦士の名を呼ぶ。

 故のわからぬ戦士が、顔を上げる

 ただ眼前に広がるのは、柔らかな光


 決して見えぬはずの、光を前に戦士はひるむ。だが、決して姫君を放そうとはしない。
 そんな戦士の両手を光が包む。それはとてもやさしい光。



 おかえりなさい



 その手に痛みはなく、確かな温もりが手の中に横たわる。

 「アイオン!」
 ガーラが、魔物たちが慌てた様子で戦士のそばによる。

「っ……! ノチェが……」

 くるりと、丸く手の中に……姫君が収まっていた。その姿は美しく、黒曜の宝石のよう。そして、その背には確かに……妖精の証たる羽が一対……生えていた。
 「ノチェ……!」
 ぱちりと、その小さな瞳が戦士を見る。
 「……アイオン……」
 妖精は愛する人を一目、目に焼き付けるように見つめると、そっと後ろを向く。人の戦士と、魔物の群れ、その目の前に……



 ただいま……女王様



 その姿は、美しかった。
 ある種、根源的な美しさといえた。だがそれは決して人の美ではない。

 あえて言えば、美しい花々が寄り集まり、人の姿……女性の形を模したようであった。蔓がその肢体を成し、揺蕩う光のような清水が顔のように浮かび、それに草花が長い髪のように連なっていた。一見して異様な姿……だが、不思議と見るものに恐怖は与えなかった。むしろ、目も、鼻も、口すらもない水面のように揺らぐ顔になぜか懐かしい、とても親しみの感じる誰かの面影が浮かび言いようのない安堵をもたらしていた。

 その女王の周りに、妖精たちが蝶のように舞う。

 《……もう、会えぬと思っていました……》

 木霊のように、優しく耳の中に反響するように伝わる“声”。
 ノチェはふるりと、その羽を震わせ……ぱっと花開かせるとふわりとその身を浮かせ……驚きのあまり固まる戦士の肩に座り、そっと愛おし気にその頬を抱く。

 《……ふふ 成長しましたね…… ……ですが、あなたを大切に想う方がいることを……忘れてはいけないのですよ》
 そう告げると、女王は一歩、前に踏み出す。その両足は大地に根付き、足を動かすたびに静かに絡みついた根が動く。いかような不可思議であろうか、いかに根を這わせようとも土が盛り上がり崩れることはなく、まるで何事もなかったかのように大地は草花を咲かせていた。
 《……私が気づかねば、あなたはあのまま灰になっていたことでしょう……》
 憂いに染まるように、水面の光が翳る。
 「女王様は気づいてくださるわ、とても小さな孔でも」
 そう言って悪戯に微笑む表情から、この小さな妖精がいかに目の前の存在を信頼しているのかがわかるようであった。そう、どれほど強大な魔力をもってしても、妖精の国の護りを……それも複数のものを連れて抜けることなど、できはしない。せいぜいが針孔のごとき小さな穴をあけるのが精いっぱいである。それも、無理に開ければその身を焼き滅ぼしてしまう。それほど強大な護り。
 だが、ノチェはそれでも成し遂げねばならぬと心に決めていた。

 小さな、小さな孔でも通れば……女王様は気づいてくださる。ここに、あなたの民がいると、助けを求める妖精が……その命を賭してでも救いたいものがいると。

 《……無礼をお許しください 小さきものの友よ 私は私の子らを守るために、道を閉ざす必要があったのです ……我が子らを奪う、悪意に満ちたものがいるのです》
 その言葉に、ぴくりと小さくカルタが身を震わせる。
 水面に映らぬ鏡面のごとき表情……ないはずの女王の両目が、どうしてか自分を射抜くように見ていると、カルタは感じずにはいられなかった。
 《そのものは旧きもの 我らと同じく滅びる定めにあるものです》
 我らと同じ、その言葉にアイオンは顔を上げる。
 《恐れることはないのです ただ、あるべき姿が変わるだけ……ですがそれは時に本質の変容をもたらし、今までの自らとの死別と同じになりえるもの…… それを拒絶するものがいます……そのものは悪意に満ち、力を持ち、我が子らを脅かしています》
 女王の“眼”が、魔物の群れの中の……ニヴたちを見る。
 《かつてのあなたたちのように……》
 淡々と、女王は告げる。だが、その言葉に怒りはなく、ましてや警戒をもたらすような悪意は一滴も混じっていなかった。ただ優しく子を諭すように、その言葉が紡がれる。
 《ですが、あなたたちは変容した今の形で生きようとしています それを拒み、変容せずにいようとする……あのものとは違い》
 映らぬ女王の眼が、カルタを見る。きゅうっと、その身が縮こまり、毛が逆立つ。隠れたい、でも隠れようがない、どこにどう隠れてもあの目が自分を射抜くから、そう感じずにはいられなかった。
 《あなたは悪意あるものに仕え、我が子らを奪いました……ですが、それを咎めるつもりはありません 空白を抱えたあなたに、悪意を詰め込んだものがいます 何も知らず、何もできぬ無垢なあなた……あなたは哀れな子です、抜け殻であることを望まれ、そのように生まれ落ちたのですから……》
 喉が詰まる。カルタは、女王を見る。見て、そして聞きたかった。

 どうして? なにをしっているの? ぼくはだれ?

 しかし、言葉は出ない。石が詰まったように、息をすることさえも苦しかった。
 女王に問いかけることも、そしてそれ以上女王がカルタの謎を解くこともなかった。それに、女王の言葉はカルタの中にあった闇を一つ、確実に暴きたてていた。



 ぼくはやっぱり ようせいを さらっていた



 それはそれは、背中に大きな焼き印を押されたかのような心地であった。


 《……人と魔物、私の子らの友よ あなたたちはその命をもって、私たち妖精の約束を果たしてくれました 故に、私がそれに報いましょう 悪意がなく、この手で叶えられる願いならば》
 そう言って、女王は“アイオン”と“ガーラ”のほうを見る。

 「私との約束よ、アイオンとガーラは私をここへ帰すと約束してくれたわ」
 そう言われ、アイオンとガーラは思い出す。あの“人食い砦”で交わした、小さな口約束のことを。
 「……妖精との約束を守ってくれる人はとても少ないの でも、アイオン……そしてガーラ あなたたちは約束を守ったわ とても、とても大変だったのに……」
 妖精にとって“約束”とはとても大事なものなのだろう。だが、アイオンは悩む。
 「しかし……ノチェ 最後は君を犠牲にするところだった」
 「でも、アイオンは私の言葉を信じてくれたわ ……それに、最初に約束を破ったのは私だったわ 妖精の国まで案内するといったのに……本当は最初に訪れた森で、ここに来ることができたわ……」
 だから、気にしないで、そうつぶやくようにノチェはアイオンに身を寄せる。

 アイオンの瞳が、潰れた視線が女王のほうを向く。
 その視線を、女王は優しく受け止めている。

 意を決し、アイオンは女王に懇願する。それは最初から決めていたこと、この旅の目的そのものを。

 「女王様、どうかお願いです 我ら……自分アイオン、ハイオークのガーラ、ドラゴンのティリア、ケット・シーのカルタ、ヘルハウンドのニヴとその姉妹たち、そしてゴブリンのパロマとその仲間たち……我らがここに住むことをお許しください」
 跪き、戦士は慈悲を乞う。

 《……そのようなことで良いのですか? 友よ 願わずとも、あなたは我が子らの友……いつまでも、この地に居て良いのですよ ……ですが、それが願いならば……》
 女王は静かに片手をあげ、息吹を吹きかけるような仕草をする。その仕草と同時に、優しい風が渦巻くようにアイオンたちの間を吹き抜ける。

 《あなたたちは、これで我が子も同じ ……それでは大きな娘よ、あなたの願いを聞きましょう》

 呆けたように立っていたガーラは、突然の呼びかけにはっとするように目を瞬く。
 「な、なんでも? なんでもいいのか?」
 《はい、我が娘よ》
 なら、答えは決まっていた。



 「目を アイオンの目を、治してくれ!」






 第二 願い

 ……愛する人の目に、再び光を。
 ガーラが望んだのは奇跡であった。えぐり潰され、切り刻まれてしまった両目。それに再び光を宿す。だが、それは難しいことであった。潰されて間もない時であれば、高位の治癒魔法で癒すことはできなくはない。だが、それでも時として後遺症が残ることも多い、それほどに複雑な器官である目の治癒というのは難しいものであった。潰されてから日が立ち、崩れた器官が固まり退化してしまった今ならば猶更であろう。
 だが、ガーラは奇跡を信じた。
 崩れかけたノチェを一瞬で治癒した妖精の女王であれば、奇跡を起こせるのではないのかと。
 しかし、肉体の構成に魔力を含む魔物と、純粋な肉体のみを持つ人では先の魔法も含め治癒魔法の難易度が段違いでもあった。極端な話、魔物は適切な魔力さえ流し込めればいかようにでも回復する。量が多ければなお早い、という具合に。それに妖精は精霊に近く、ほとんどが魔力で作られた体、それ故に魔力で行う治癒の効きは人とは桁違い良く効くといえた。だが人の……魔力で構成されていない肉体はそうもいかない。それは複雑なパズルともいえた。魔力を流しながら、傷口を一つ一つ繋げ縫い合わせていく繊細な作業、肉や骨ならばいざ知らず……内臓や、目といった複雑怪奇な怪我を魔法だけで治癒するというのは非常に時間がかかりかつ難しい。故に人は医術を発達させてきた、複雑な傷を素早くふさぎ、治すために。人の手であったとしても、つながっていれば魔法でずっと早く癒すこともできる。故に高位の治癒術師は魔道のみならず、医学薬学にも精通していた。
……時として、肉体の構成に魔力を宿す人物もごく稀にいたが、それは精霊や天使、神などの存在から何らかの加護を受けている者たちか、その眷属、血脈を継いでいる者たちに限られていた。

 「頼む……! 女王様、アイオンの目を……!」
 藁にも縋る思い、ガーラはアイオンと同じく跪いて女王に願う。どうか、愛する人に再び光を……と。

 《……いいでしょう ですが……それには代償が伴います》

 女王の手が……ガーラと……アイオンに伸びる。

 《魔物の娘よ……名は?》
 「……! ガーラ ガーラです!」

 《ガーラ……あなたは……聞くまでも、ないのですね あなたは私が何を求めても、差し出すのでしょう さあ、この手を取りなさい》
 当たり前だ、そういわんばかりにガーラは女王の手を取る。

 《ですが、ガーラ 代償はあなただけではないのです……アイオン あなたにも代償が伴います》
 その言葉に、ガーラの顔が翳る。これ以上、彼を傷つけるのか、そう問おうとした時であった。
 《あなたは、変容を受け入れますか?》
 「それは……」
 何を意味するのか。
 《……人の身を……失う覚悟はあるのでしょうか》

 女王の言葉の意味する先、それはすなわち……

 《あなたは光と引き換えに、その本質を変容させねばなりません ……魔物になる覚悟は……ありますか?》

 皆の視線が、戦士に集まる。
 「アイオン……」
 ガーラが、名を呼ぶ。
 魔物になる、それが何を意味するのか。かつて魔物は雌雄が存在していた。しかし、今は雄の存在は失われて久しい。その魔物になるということは、己の性別さえも変じるということなのだろうか。

 《アイオン、あなたの疑問に答えましょう あなたは、人の身ではなくなります……ですがそれは完全な魔物化とはまた違うのです あなたは魔物でありながら、人でもある存在になります 魔人(インキュバス)とでも呼べばよいのでしょうか……あなたはあなたのまま、姿かたちは変わることなく……ですが本質はまったく別の存在になるのです》
 この姿かたちが変わるわけではない。だが、人の身ではなくなる。それが女王のいうところのアイオンが支払うことになる代償なのだろう。

 《アイオン……変容を受け入れますか……?》

 女王の手が、アイオンに伸びる。その手を取れば、この“約束”に同意したことになるのだろう。
 アイオンは迷う。その迷いは、言葉となって漏れる。

 「……ガーラは、何を失うのですか?」

 己の本質が、魔物になることなどはどうでもよかった。すでに人の世を捨てた身、魔物を率いてきたのだ、今更魔物に変わることに迷いはなかった。だがそれよりもガーラが何も聞かずに差し出すといった、その中身が心配だった。
 「アイオン、心配するなって あたしは何を取られたってかまいやしないさ」
 「ガーラ!」
 からりと笑ってのけるガーラに、アイオンは言葉を荒げる。
 《ガーラの代償は……二つある光のうち、一つを失うことです》
 女王が答える。
 「つまり片目が見えなくなるっていうだけだろ? ……あたしはいいぜ、まだ片方が使えるなら平気さ ……アイオン、気にするなって アイオンは両方、だめになっちまったんだから……あたしの片目で、また見えるようになるなら安いもんさ」
 「しかし…… ……いや、すまないな ありがとう」

 片目を失うと知ってもガーラは、笑って許す。だからこそ、アイオンはそれ以上何も言わず、静かに礼を告げて女王の手を取る。柔らかな蔓草と花の感触がアイオンの手を包む。

 《では、まいりましょうか こちらへ》

 女王は手を放し、静かに手招くように道を示すと、そのまま蔓が解けるように大地の中に沈み、消えていった。
 女王が示した先には、並び立つ大樹の一つであった。それは淡く輝く薄紫の葉を茂らせていた。複数の木々が絡みついたような巨大な幹には淡く光る苔やキノコ、宿り木が茂っており、雄大な自然の力の化身であるかのようであった。その大樹までの道が不思議と、目の見えぬはずのアイオンにも、なんとなくわかるようでガーラに手を引かれながら大樹の根元を目指して歩く。
 アイオンの後ろにはニヴたちが続き、その周りを妖精が舞う。妖精たちは少し離れつつも、興味津々といった様子でアイオンたち異邦人を眺め、時に話しかけ、時にそっとその体に触れる。妖精に触れられるのは、少しばかりくすぐったく、声を上げる者もいた。そうした妖精たちの中には、ノチェの友達もいるのだろう。アイオンの肩に座るノチェに声をかける妖精もいた。
 そんなこんなで、少しばかり離れた位置にあった大樹の麓までたどり着いたアイオンたちは大樹を見上げる。その巨体は大きな塔のようであり、麓からではその頂を望むことはできそうになかったのである。

 《どうぞ、お入りになられてください》

 どこからともなく、女王の声が聞こえると同時に大樹の根元がうごめき、大きな洞を開ける。ぽっかりとあいた洞は、地下へと続いているようであった。その壁は光る苔によって覆われており、暗くはなかった。その洞の中を、アイオンたちは進む。足元も柔苔に覆われているのか、ふかふかとした絨毯を踏んでいるような感触であった。
 そのまま大樹の深みへと降りてゆくと、ぽっかりと開いた空間へと出る。そこは大樹の根の中心と思わしき場所で、木の根の壁からは清水がとくとくと染み出すように流れ、中心の窪みへと流れ込んでいた。人が一人、二人収まるかどうかの大きさの窪みに流れ込んだ清水は淡く光を放ち、その前に女王は立つ。その姿は地上とは違い女王の髪と体は木の根のようであり、天井から吊るされているような姿をしていた。また花々ではなく苔を身にまとっていた。

 《それでは、アイオン 衣服を脱ぎ去り、生まれたままの姿で……この泉にその身を沈めてください》

 女王の言葉に、アイオンは少しばかりひるむ。

 《恐れることはありません さあ》
 女王が両手を広げ、招くように窪みへ……泉へと促す。
 「……アイオン」
 心配そうに、ガーラが問う。
 少しばかり悩むものの、アイオンは肩に乗ったノチェを離すと心を決め、衣服を脱いで女王のもとへと向かう。そのアイオンを助けるようにガーラは傍に立つものの、泉へと入ろうとした時に女王の手がガーラを阻む。
 《……いけませんよ アイオンは一人で、この泉に身を浸さねばなりません》
 女王の言葉に、ガーラは少しばかり不安げにする。
 「大丈夫だ、ありがとう」
 だが、アイオンはガーラに安心させるように告げると、そっとその手を放し泉へと入っていく。

 泉は想像に反して暖かく、柔らかいさらさらとした粘液のような感触で、心安らぐ木々の香りを放つものであった。もしかすれば、水ではなく樹液の類なのかもしれない。そんなとろりとした泉の中に体を浸すのは、心地よいものであった。

 《さあ……仰向けに、その身を横たえ……泉の中へ……》

 女王の手が、アイオンの額を撫でるように抑えると、そのままアイオンは意識と共に泉の中へと、微睡みへと沈み込んでいく。泉の中は不可思議な力が作用しているのか、呼吸をせずとも息苦しさを感じることはなく、いくつかの水泡が口から洩れると同時に泉が肺の中に流れ込み満たしていく。
 その様子をノチェや、皆が見守る。そのまま、アイオンの全身が泉の中に浸ったのを女王は確かめると、ガーラのほうへと向き直る。

 《……よろしいですか?》

 確かめるように、女王は問う。

 「ああ 一思いにやってくれ」

 ぐっと、ガーラは胸を張るように女王の前に立つ。そのガーラの瞳に、女王の手が伸びる。

 柔らかな根の感触と、土の香り。それがガーラの顔の左半分を覆った瞬間。


 何かが千切れるような音


 痺れるような感覚、そして喪失感。二つある光のうち、一つが失われる。
 女王の手が離れ、その中にガーラの光だったものが……一つ握られている。黄金色の、獣の目。その目の中に、淡紫の輝きがちらりと見える。それと同時に、ガーラは己が感じた喪失感のもう一つの意味を悟る。長く絡みつき、溶け合っていたがゆえに忘れかけていたもの。

 魔族の少女、その霊魂

 ガーラの目から、知らぬうちに涙が流れる。それは痛みか、それとも喪失からか、埋まっているはずの心にどこか寂しさが溢れてくるようであった。

 《……いけませんよ…… 悪戯な娘ですね》

 ガーラの眼に憑り、そのまま愛する人のもとへ……少女のたくらみはあっさり女王の目に引っかかる。
 「あ……じょ、女王様!」
 慌てて、ガーラが弁明をしようと手を伸ばす。
 《愛するものを想うあまり、それは理解しましょう ですが、その時ではないのですよ……こちらへ》
 女王の指がガーラの眼に触れると……薄紫の靄が抓まれるように出てくる。そのまま女王の手の中にすっぽりと納まると、蒼く光る淡紫色の水晶へと変わる。
 《ガーラ 心配しないで……この娘に危害を加えることはしません ですが、今はおとなしくしていてもらいますからね》
 そう告げると、女王は手にした薄紫の水晶をお付きの妖精に預ける。



 《それでは始めましょう》



 準備は整った、そう告げるように女王はアイオンが浮かぶ泉の前に両膝をつく。片手には、ガーラの眼が納められ、それを泉へと伸ばす。女王の指が泉の表面に触れた瞬間。ゆっくりと女王の体も大地に沈み込んでいく。
 そのまま沈み込み、ちょうど腹部……胎……の位置に泉が来たところで女王は止まると手に納められたガーラの眼を泉の中に落とす。泉の中に沈んだ眼は、アイオンの眼前で止まると、そのまま揺蕩うように……または何か意思が宿っているかのように……緩やかに上を、泉の中からガーラたちを見返すように向きを変える。
 眼が上を向くと同時に、泉の淵から根が張り出し始め蓋をするように覆い始める。それと共に泉の燐光も輝きを強めていった。そのまま、静かにアイオンを浸した泉は根に完全に覆われ、時折脈動するように光を放つ以外中が見えなくなる。
 少しばかりこぶのように膨らんだ“それ”を、女王は愛おし気に撫でる。それはまるで愛し子を孕む母のようであり、アイオンはさながら“胎児”であった。


 《……後はお待ちになられてください、時がかかりますゆえ……》


 「私はここで待つわ いいでしょ、女王様?」
 そう鈴声で告げ、ノチェはふわりと女王の“お腹”の上に降り立つ。その様子を、たしなめるように女王は指でノチェを撫でる。
 「あたしも待つよ、当然」
 ノチェに出遅れる形でガーラも、少しだけむくれるように声を出す。目の奥が少し痺れるような痛みがあったものの、すぐに治療が必要なほどではなかった。それに、ほとんど血も流れていない。眼がもうない、というのは触れずともわかった。言いようのない喪失感はあれど、それで愛する人の目が甦るのならばガーラにとって安い代償であった。ぎゅっと、失った目を隠すようにアイオンの両目を包んでいた黒布を眼帯のように巻き付けると、どかりと腰を落ち着ける。ふかふかとした苔に覆われた洞の床は、思ったよりも座り心地が良かった。
 そのガーラに続く形で、ティリアも静かに座り込み、アイオンが眠る女王の“子宮”を眺める。
 「じゃあアタイも待たせてもらおうかな……あんたたちはどうする?」
 どしりと座り込んだニヴはザンナたちを見る。
 「あたしたちは……どうするかねぇ まあ待っていてもいいんだけど」
 《何も皆までここで待つ必要はありませんよ ヒューレ、ヒューレはいますね? 彼女たちを案内してさしあげなさい ここで暮らすのですから、この地のことを知っておいたほうが良いでしょう》
 名前を呼ばれ、周りを飛び交っていた妖精の中から一つの光がザンナたちの前に降り立つと、恭しく……やや大げさすぎる身振りで……一礼をする。
 「……それじゃああたしは案内にあずかるとするよ、プレザもいくだろ? クロは?」
 「あぅ クロはニヴといる」
 「そうかい じゃあザンナとプレザは行ってきな ……そこのちび助も待つんだろ?」
 クロの影に隠れるようにしていたカルタが、びくりと身を震わせる。ゴーレムを入り口に待たせて、久しぶりにクロの背中に乗っていたが、この広場に出てしばらくカルタは隠れるようにクロの後ろにいたのであった。
 「あ、ああ うん、僕も待つよ」
 遠慮がちに、カルタはつぶやく。
 その様子をクロは不思議そうに眺めるが、カルタは何でもないというように薄く微笑む。
 「カルタ? 大丈夫?」
 「ん、大丈夫 大丈夫だよ」
 カルタの答えに納得がいかなかったのか、クロは少し心配気にカルタの額をなめる。カルタはくすぐったそうにクロの顔を押すも、まんざらでもないようであった。
 「パロマちゃんはどうするの?」
 「私は〜……アイオンさんをまとうかな ちょっと疲れちゃった」
 「そう? じゃああたしも一緒にいてあげる!」
 盲目のパロマを気遣ってか、シーミャがパロマの横に座る。他のゴブリンたちはついに辿り着いた安住の地に着いたという事実、そしてかつての遥か昔に分かたれた妖精の一族の血がなせることか、すでに周りの妖精たちと意気投合しており大いにはしゃいでいた。そのままわちゃわちゃとヒューレ、そして複数の妖精たちと一緒に笑いあいながら妖精の国がどんなところか心を躍らせているようであった。

 「じゃあ行ってくるね!」

 わいわいと、はしゃぎながらゴブリンたちと、ザンナ、プレザ、そして多くの妖精たちが大樹の洞から出ていく。
 ゴブリンと妖精たちが去った後に残るのはガーラ、ノチェ、カルタ、ティリア、ニヴとクロ、そしてパロマとシーミャとその周りを興味深げに飛び回る数体の妖精たちであった。喧騒が去り、洞の中には清水が湧く音と、静かな呼吸の音だけが響いていく。

 それは、これから始まる穏やかな日々に入る前、ついに辿り着いたのだということを噛み締めるための時間でもあった。



 第三 女王語り

 ……静かな時間だけが過ぎていく。
 ほんのりと暖かく、そして薄暗い洞の中は心地よく。ガーラをはじめとした魔物たちは皆、過酷な長旅の疲れもありそれぞれ静かに目を閉じ、寝息を立てている様子であった。もしくは、女王の“魔法”もあったのかもしれない。周囲の光る苔に紛れ、女王の魔力が周囲に広がっていた。その魔力はじんわりと染み込むようにガーラたちの疲れを癒していく。
 そんな中ただ唯一、ノチェだけが目覚めたまま女王のお腹の上でうつ伏せに頬杖をつきながら、羽を羽ばたかせ愛する人が生まれ変わるのを待ちわびていた。その様子を女王は弟が生れ落ちるのを待つ幼い姉を見つめるように優しい視線を投げかけていた。
 《待ち遠しいですか?》
 母のように、優しくノチェに語り掛ける。
 「うん 待ち遠しいわ ……女王様、どうして……アイオンを魔物にするの?」
 小さな妖精は、母に問いかける。
 女王の力をもってすれば、魔物に変えずとも癒せたのではないかと思っていた。
 《人の身のままでは、難しいのです 悲しいですが、このものの眼は完全に破壊されてしまいました このものは私たち妖精とは違うのです、私の力をもってしても千切られた草木がまた芽吹くように、目を治すことはできないのですよ それはガーラに対しても同じです、いくら魔物といえど、肉体を持つ以上はその肉体の治癒、再生の限界を超えることはできないのです ですが、魔物の体ならば失われた体の一部を接ぎ木のごとく繋ぐことはできます……ただ、それも魔力の調和、強い結びつきがなければなりませんが……故に、失われた光を取り戻そうと願うならば魔物になる必要がありました》
 「……そう…… ……ねえ、女王様」
 《なんでしょうか》
 小さな妖精は、身を起こし女王を見つめる。何か悩みがあるような、そんな表情であった。そんなノチェに対し、女王は静かに言葉を待つ。
 「女王様、アイオンを……魔物にできるのならば 私を大きくすることは、できますか?」
 それは、切実な願い。その真意を、女王はわかっていた。
 《……ノチェ かわいい私の娘よ……あなたは変わりました、気づいていないかもしれませんが ノチェ、あなたの本質はもう妖精ではないのです》
 もう、妖精ではない。女王の言葉に、ノチェは驚き眼を見開く。
 《ノチェ……あなたは……恋を知り、愛を覚えました ……体を大きくしたい、というのもこのものと“結ばれたい”と想うが故ですね? ……精霊に近しい存在である我々に性別、それに伴う人への恋心……というものは、本来存在しえないものです ですが、あなたを見ればわかりますよ……その変化が》
 その言葉に、ノチェはほんのりと顔を赤くし目を伏せる。
《ふふ……かわいいノチェ 無垢な胡桃の妖精だった頃もかわいかったですが、今もとてもかわいらしい ……では、問いに答えましょう ノチェ、あなたを……その体を大きくすることはできるでしょう ですが、それはほんの一時だけです》
 「……ずっと、は無理なのですか?」
 《難しいでしょう 変えられる、変わってしまうものがあるように、変えることのできないものも同様に存在します ……かわいいノチェ あなたが妖精であることを捨てるならば、あるいは……ですが、私はあなたにそのままで居てほしいと願っています》
 「女王様……」
 《ごめんさないね、ノチェ これは……女王のわがままなのです……でも、そんな風に悩むあなたを見て、うれしくもあります あなたがそうして結ばれたいと想うほどの人に出会えたのだということを ……今も昔も、妖精と人の世界には見えざる壁があります あなたとアイオンの関係ですべて変わるとは言いませんが、喜ばしい小さな変化には違いありません》
 女王の言葉に、うつむくように、そして少し恥ずかし気に顔を隠し座り込むノチェ。

 暫く、静かな時が流れる

 水が湧き、流れる音だけがゆっくりと響く。ノチェもまた、微睡みに身を任せて眼を閉じようとした時であった。微睡みの一瞬、夢と現が混じり合った瞬間にぴくりと身を震わせてノチェは覚醒する。
 そう、それはどうしても聞きたかったこと。千年以上の時を生き、かつて古き根の神とさえ呼ばれた女王にこそ聞きたいことであった。
 「……女王様、もう一つ……お聞きしても……」
 《なんでしょうか ノチェ》
 脳裏に浮かぶは、あの“魔女”の顔。その両目には眼が収まっているはずなのに、真っ黒な澱みのごとき“穴”しか思い出せぬその顔。それがノチェに対し呟いた、あの一言。それを思い出し、ノチェは震える声で問う。
 「あの……夢見、の力……とは、なんなのでしょうか?」
 夢見の力、その言葉に女王の水面が揺らぐ。
 《……それをどこで知りましたか?》
 「旅の途中で……恐ろしい魔女に出会いました……その魔女に捕まって……その時に、私のことを見て、そう、その力があると」
 ノチェの答えに、女王は考え込むように再びその水面を揺蕩わせる。だが、すぐにノチェのほうに向きなおると答えを告げる。
 《かわいいノチェ、夢見の力とは人の言葉です……それを正確に示す言葉を我々妖精は持っていません ですが、その力は白昼夢を見るように運命の流れを垣間見ることができます おお……ノチェ、かわいいノチェ……人々の中に我々妖精を捕らえるものがいる、という話はしましたね……欲深い、悪意に満ちた人の中には妖精の力を欲するものがいるのです その一つが……夢見の力、人は予言とも予知とも言いますが そんな単純なものではありません……運命とは常に流れ変わるもの “見た”という事実一つでいかようにも変わってしまうのです》
 「……変えることはできるのですか? 見てしまった……運命を」
 《好きなように? ……できるでしょう、ですがそれは無理やり川の流れを変えるようなもの そのうねりがどのような結果を生むか、それこそ予期せぬ災厄を招く可能性さえもあります ……ですが、運命とは不可思議なもの どうしても、断ち切れぬ、変えられぬ流れもまた存在します それは“宿命”と呼ばれるものです それの訪れは変えられません……ただ……》
 言いよどむ女王に、ノチェは少し首をかしげる。
 《宿命もまた不変ではない、ということです 宿命に至るまでの道、出来事によって宿命はいかようにもその姿を変えます それこそ、ノチェ……あなたの持つ力を使えば干渉することもできるでしょう……例えば、出会いという宿命を、その先の未来を、良いものにも、悪いものにも……干渉次第で変えることができます》
 女王の言葉に、その重さ、ノチェは理解する。
 《宿命は“そのようになる”ということしか定めません その先の運命、その結果を、すべてを決めるものではないのです 当然、その宿命に至るまでの道もまた、その宿命に向かって引き寄せられるというだけでうねりもあればほどけもします 宿命の訪れが後になることもあれば、早く訪れることもあるでしょう》
 悪意あるものが使えば、この力は容易に一つの運命を狂わせることができる。だからこそ、あの魔女も……
 《……難しい話をしてしまいましたね かわいいノチェ……恐れることはありません この場所にいる限り、あなたは悪意にさらされることはないのですから 女王はあなたのその力を祝福します ……それに、この力は意図して扱えるようなものではありませんから、心を落ち着かせて過ごせばそれこそ起きたまま夢をたまに見るようなものです 深く、その先を探ろうとしなければ大丈夫ですよ》
 優しい、いたわるような女王の言葉。その女王の声を聴いて、ノチェはふと思う。先ほどの宿命の話、様々な形があるのは間違いないだろう。その一つに“出会い”があると聞いてノチェは好奇心から口に出す。
 「……女王様、その 私と……」

 戦士様との出会いは、果たして“宿命”だったのでしょうか












 《……いいえ かわいいノチェ ……この子……アイオンの宿命の出会いはただ一つ……ガーラとの出会いのみですよ》

 女王の言葉に、ノチェは小さく息を詰まらせる。出会いは、宿命ではなかった。

 《……アイオン、この子の運命は何者かによって歪められたのでしょう……それもずっと昔に……アイオンとガーラ、この二人の結びつきはとても強い……たとえ理が違ったとしても、アイオンとガーラは出会ったことでしょう 人と魔物として》
 ゆっくりと、女王の水面に浮かぶ光が揺らぎ始める。
 《……それは絡み合った二つの木のよう……出会い……離れ難い……アイオンとガーラは……》
 うわごとのように、女王の声が響く。それは、運命の糸を手繰る女王の力の発露でもあったのだろう。


 《……アイオンとガーラは、出会う 出会い、愛し、殺し それは理の隔たり……》


 暫くして、うわごとが減り女王の光の揺らぎが収まっていく。
 《……ごめんなさいね、ノチェ……少しだけ、この子の運命の流れに入り込んでしまいました でも、そう……ノチェ 宿命というものはとても強い繋がりなのです 出会いともなればそれは恐ろしく強い絆となります……それがたとえ一瞬の出会い、そして別れとなろうとも…… その絆を断ち切ろうと……いいえ、変えようとしたものがいます 愛によって結ばれるはずの心を歪め、怒りと憎しみ、そして殺意に満たそうと……そう、それはまさに古い時代、その理のままにしようとするかのよう……》
 身籠る母のように、アイオンとつながりがあるからであろうか、再び女王は運命の糸を手繰り垣間見ようとしてしまう。眼を閉じるように、女王は軽くその首を振ると、ノチェに声をかける。
 《……やはり転生を行うのは慣れませんね…… ……ノチェ、あなたの想いはわかりますよ……ですが嘆くことはないのです 宿命の出会いというものは、先ほども告げたように良いものばかりではないのです それに何より、運命の流れのもと……この子とあなた……アイオンとノチェは出会ったのです それはこの場にいる、この娘たちも同じこと……彼女たちは皆、あなたと同じく運命の流れの中で出会い、そして愛深く絆を紡いだのです その絆は決して、宿命によってもたらされるものに劣りはしないのですよ》
 静かに、宥めるようにノチェに声をかける女王。その声音は優しく、少しだけささくれ立ってしまった心を鎮めるかのようであった。
 《ノチェ、かわいいノチェ お顔を御上げなさい 生まれ変わったこの子にもそんな顔を見せるのですか? ……ふふ、少し難しいかしら……そうね、あなたもおやすみなさい……いろいろと思い悩むのも時には良いことですが、嫉妬の悩みはほどほどにしましょう それに、まだまだ、この子が生まれ変わるには時間がかかりますから》
 女王は微笑むように、そして優しくノチェの頭を指で撫でる。柔らかな木の香りがノチェの鼻をくすぐり、不思議と眠気が波のように意識へと流れ込んでくる。でも、どこかはっきりとした意識が心の中に残る。
 ノチェが再び、ゆっくり腰を下ろしたときであった。女王はそっと、しかししっかりと告げるように語り掛ける。

 《かわいいノチェ 一つだけ、気を付けてくださいね これから先……あなたは望まずとも多くの運命の流れを見ることでしょう……それでも、それに囚われてはいけませんよ 先に言ったように、運命は“見た”時からその姿を変えていくのですから……》

 夢見の力、それは運命を、未来を見通す力……ノチェは微睡みに沈む中ぼんやりと考える。なぜあの魔女は、こんな不安定な力を……見たことで変わってしまう未来を知りたがるのだろうと……

 ころりと、女王のお腹の上でノチェは眠りに落ちる。そのまま可愛らしく、くうくうと小さな寝息を立てて夢を見る。久しぶりの、やっと帰り着いた故郷。
 その故郷で、一番安心できる場所。女王の懐で、小さな妖精は眠る。

 巨樹の洞、その少しばかり湿った暖かい暗闇の中で戦士と魔物たちは眠る。明日から始まる、安寧の日々を思い描きながら……

























 第四 転生

 ……暖かい樹液に満たされた、女王の子宮。
 その中で一人の男が胎児のように浮かぶ。全身に傷が刻まれ、特にその両目は酷く傷つけられていた。もはや、二度と光を宿すことはない……潰された両目が、ゆっくりと開く。それは割れた果実のよう……その割れた果実の片方の前に、金色の瞳が一つ、漂う。
 開かれた眼、割れた果実に半透明の……輝く触手がそっと触れたその時……ぱっと、割れた果実は溶け出すように崩れ、樹液の中に消えていく。そのまま、触手はもう片方の潰れた目にも触れ、同じように崩れ、溶けさせていく。
 男の両目には、ぽっかりと穴が二つ、空いていた。だが、すぐに片方の眼孔に黄金色の樹脂が集まり目の孔を埋めていく。そう時間がかかることなく、かつて男が持っていた……目に似たものが目の孔の中に納まっていた。
 だが、もう片方は空いたまま……その空いた方の眼に、触手はくるりと男と同じく樹液の中に浮かぶ“獣の眼”をつかむと、そっと眼の後ろ……根っこを撫でる。一撫でされた根は淡く輝き、まるで生きているかのようにうねり始めていく。
 一見して、不気味なことであったが、幸いにしてこの子宮の中を知るものは、持ち主である女王以外いなかった。
 そして、眼をつかむ触手とは別に、もう一本触手が生え……男の眼の中へと入り……そっと根を下ろす場所を撫でる。眼の根と同じように、男の眼孔が淡く光はじめたのを確認するように、そして眼の位置を決めるかのように二度、三度と目玉を回す。
 そして……良い位置が決まったのか、そのままゆっくり押し込むように……獣の眼を、男の空いた眼孔へと入れる。

 すっぽりと、獣の眼が収まったと同時に触手が渦を描くようにぐるりと目を覆う。そのまま目を覆った触手は強い光を放ち……

 ……光が収まったときには、まるで最初からそこに納まっていたかのように、獣の眼が、男の眼として納まっていた。

 びくりと、痙攣するように男の体が震える。かつて、失われたはずの器官。それがいま再び、繋がりその機能を取り戻そうとするが故の刺激に反応したからこそであった。それに、今新たに繋がろうとしているものは魔物の眼、男の体にとっては異物に等しいものであった。本来であれば決して繋がり、なじむことのないもの。だが、今男がいるのは旧き地母神の子宮、すべての境界を解かせ……そして一つの命として、新たな形を生み出すための場所。
 羊水のごとく、あたりに満ちる樹液に含まれる魔力は男の体に宿る……体を、心を重ねて魔物たちから得た、受け継いだ魔力と反応しその肉体を、魔の者へと近づけていく。

 人から魔へ

 人の世への関りは絶って久しく、魔と共に歩むと決めた男。
 その決断がいま、ここで結実しようとしていた。



 ゆっくりと、鼓動のような音が響く



 それは目覚めを告げる音
 まもなく、男は生れ変わるだろう

 揺蕩う意識の中で、男は眼を開く

 それは黄金色の海

 母なる神の大いなる子宮

 かつて北の大地で崇められ、その加護を求められた旧き地母神

 大いなる根の神の神秘そのものである



 眩むような感覚に襲われ、男は眼を閉じる

 その、すべてを委ねるような心地よさのまま再び意識が落ちてゆこうとしたその時であった

 柔らかな感触、何かが、男の体に触れる

 触れたそれは男を優しくつかむと、そのまま“上”へと、力強く引き上げる


 引き上げられ、柔らかな樹液から……子宮から……男は出る


 まぶしさ、そして少しばかり寂しさを伴う冷たさが男の肌を撫でる

 男の前で、誰かが男の名を呼ぶ 優しく 求めるように

 ゆっくりと、男は“眼”を開く



 そして、見るだろう……愛し、愛されるものたちの姿を……


23/04/01 18:42更新 / 御茶梟
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■作者メッセージ
読んでいただき、ありがとうございます。

長い旅もここで一区切りとなります。
エロなしで申し訳ないですが、引き続き楽しんでいただけましたら幸いに思います。

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