肆項:躊仙楼
頬に当たる涼やかな微風に目を覚ます。
私が横になっているのは昨晩と同じあの簡素な客間である。
横を見やると耶麻がいて団扇で私の顔をゆったりと扇いでいた。
「あ…旦那、起きたんですネ」
「…その耶麻…実はな」
「何も言わないで下さい」
そう言われると本当に何も喋る事が出来なくなる。
ばつが悪い事に取り繕う言葉すら思いつかない。
あの時は気が動転して。何故か場に酔って。女が誘ってきたから仕方なく。
…どれも醜い言い訳だ。しかし頭を包む陶酔感に支配されていたのは事実なのだ。
「旦那・・・・・・旦那は何も悪くないンですよゥ。悪いのは全部…雫姉さんなんだ」
「あの人は旅館の者なのか?」
耶麻は渋い顔をして、はい と返事をした。
「一応私の姉方なんですよゥ…」
なんでもこの旅館には仲居が3人いて、耶麻が一番若く下っ端であの小麦色の肌を持つ女は名を雫といい、一番上の仲居頭を務めているという。
気のいい世話焼きの性格ながら羽目を外し過ぎる所が偶に傷であるとの事だ。
「旦那は青さんに運んでもらったのサ。雫姉さんはさっきまで女将に絞られてましたよゥ」
いい気味です。と耶麻は付けくわえる。
「雫…さんは度々こういう真似を?」
「何言ってンです旦那。それは旦那が若い男なうえに人間―――-」
そこまで言葉にして急に口籠る耶麻。どうしたのだろうか。と、
「耶麻、お客さんがそろそろお見えになりますよ。支度なさい」
襖越しに女将が澄んだよく通る声で呼びかけた。それに弾かれるように耶麻が立ちあがる。
「だ、旦那はまだ寝てて下さい。それじゃ後でまた」
ばたばたと部屋を後にする耶麻を見送り私は再度体を横たえる。
室内の薄暗さから察するにもう夕暮れは過ぎたのだろう。
これでは今日中に出立は無理である。
私は目を瞑り暗がりの中一人無為に浸る。何かが引っ掛かかった。
お客さんがお見えになりますよ
確かにさっきあの女将は口にした。客。客?
私は飛び起きると浴衣姿のまま扉を開け廊下を走った。
そして中庭に面した通りに差し掛かった丁度その時、紅梅の小紋に打ち掛けを纏った傾城の美女が出迎えた。
「どちらまで御用です?」
「…女将さん…その、玄関までです」
――-もしかしたら訪れる客が例の頭巾の女かもしれないのだ。
女将は溜息を一つ吐き、私を見上げる。
「辞めておいたほうがいいかと」
「どういう意味です?」
「お客さんがここで引き返して一晩ぐっすり寝れば明日の朝には宿を発てるでしょう。でも
もし、ここから先に足を踏み入れれば恐らく………」
「恐らく?」
「…あなたは感じている筈ですよ。この旅館の違和感に。だから、その言葉の先は」
お察し下さい、と静かに女将は呟いた。
普段の私なら、何を馬鹿なと一蹴するだろうが今度ばかりは勝手が違った。
漠とした不安があまりにも強すぎる。
しかし、それでも。
私は足を前に出し女将の横を通り過ぎ、長い廊下を渡り終えた。
実際、来客が仮に頭巾の女でないにしても、その存在がこの旅館の”なにか”を証明してくれる気がしてならないのだ。
ようするに私は齢二十七にもなって自らの好奇心に負けたのだ。
広い玄関にはまだ誰も来場していないようだったが、突如客間の廊下から現れた私に旅館の者たちは困惑している。女将に絞られていたという雫さんは、今にも声を上げそうになっていたが耶麻の手前微妙な顔で口を抑え、耶麻は耶麻で複雑な表情をしている。
青さんは初め驚きこそすれ、直ぐに一人納得し瞼を閉じて頷いた。
それから、湯に行く際すれ違った髪の真白いあの娘もいたが眉根一つ微動だにせず立っている。おそらく彼女が耶麻と雫の間に入る仲居衆の最後の一人だろう。
「いらしましたよ」
いつのまにやら横に立つ女将が皆に声を掛ける。
次いで青さんが玄関に立ち引き戸を開けて客を出迎える。
私は息をのみ日の落ちた真っ暗闇に目を凝らす。
しかし闇の中 戸の外にいたのは一匹の狐だった。
明かりにでも誘われて来たんだろうか?私は肩を落とすと女将の顔を窺う。が。
「「「いらっしゃいませ」」」
幾重もの声が玄関に響く。皆が一様に頭を下げている。狐に?
私は訳が分からずただ困惑するばかりである。
すると外の狐がこちらに向かって歩を進めているではないか。
私はついに堪え切れず声を出す。
「青さん、狐が敷居を跨いで入って来てしまいますよ―――-」
一瞬、何が起きたか理解が出来なかった。
眼前の獣が旅館の入り口に立った途端、消えた。
そして同じ位置に私と同じくらいの年の青年が立っていた。
見事な琥珀色の髪を棚引かせた着物の青年が。
「君」
青年は私に話しかける。
「狐が敷居を跨いではいけないの哉?」
夢でも見ているのかと思った。もしや白昼夢の最中にいるのだろうかと。
私の見たままを伝えるなら狐が人に化けた。いや、人に成った。
そんなこと起こりえる筈がない。あり得る筈がない。
青年は快活に笑った。
「ははは。なんてね。それにしても女将、今日も一段とお綺麗じゃないかい」
「まぁお上手で」
女将が上品な愛想笑いを返す。
「さて青、早速湯に入るよ」
「は、畏まりました。葉しび様」
青を伴い玄関を後にする青年。
事態はこれだけに治まらない。開け放された玄関には老いた狐が数匹集まっていて同じように
敷居を跨ぎ人の姿をとったのだ。壮年の男性に高齢の老婆、全て琥珀色の髪である。
私は完全に放心した。処理できない光景を目の当たりにし硬直したのだ。
今度こそ例の頭巾の女ではないか?などと淡い期待をした私はとんだ大馬鹿者である。
人ですら無いではないか。
「妾の言葉、理解できましたか?」
女将が傍らで私に語りかける。
「これがこの旅館の真実です」
数十年、数百年を生きた化生の狐、即ち
”神の眷属たる獣”達の湯治場―――-それが『躊仙楼』。
そう。この宿には確かに客は私一人だったのだ。「人間」の客は。
私が横になっているのは昨晩と同じあの簡素な客間である。
横を見やると耶麻がいて団扇で私の顔をゆったりと扇いでいた。
「あ…旦那、起きたんですネ」
「…その耶麻…実はな」
「何も言わないで下さい」
そう言われると本当に何も喋る事が出来なくなる。
ばつが悪い事に取り繕う言葉すら思いつかない。
あの時は気が動転して。何故か場に酔って。女が誘ってきたから仕方なく。
…どれも醜い言い訳だ。しかし頭を包む陶酔感に支配されていたのは事実なのだ。
「旦那・・・・・・旦那は何も悪くないンですよゥ。悪いのは全部…雫姉さんなんだ」
「あの人は旅館の者なのか?」
耶麻は渋い顔をして、はい と返事をした。
「一応私の姉方なんですよゥ…」
なんでもこの旅館には仲居が3人いて、耶麻が一番若く下っ端であの小麦色の肌を持つ女は名を雫といい、一番上の仲居頭を務めているという。
気のいい世話焼きの性格ながら羽目を外し過ぎる所が偶に傷であるとの事だ。
「旦那は青さんに運んでもらったのサ。雫姉さんはさっきまで女将に絞られてましたよゥ」
いい気味です。と耶麻は付けくわえる。
「雫…さんは度々こういう真似を?」
「何言ってンです旦那。それは旦那が若い男なうえに人間―――-」
そこまで言葉にして急に口籠る耶麻。どうしたのだろうか。と、
「耶麻、お客さんがそろそろお見えになりますよ。支度なさい」
襖越しに女将が澄んだよく通る声で呼びかけた。それに弾かれるように耶麻が立ちあがる。
「だ、旦那はまだ寝てて下さい。それじゃ後でまた」
ばたばたと部屋を後にする耶麻を見送り私は再度体を横たえる。
室内の薄暗さから察するにもう夕暮れは過ぎたのだろう。
これでは今日中に出立は無理である。
私は目を瞑り暗がりの中一人無為に浸る。何かが引っ掛かかった。
お客さんがお見えになりますよ
確かにさっきあの女将は口にした。客。客?
私は飛び起きると浴衣姿のまま扉を開け廊下を走った。
そして中庭に面した通りに差し掛かった丁度その時、紅梅の小紋に打ち掛けを纏った傾城の美女が出迎えた。
「どちらまで御用です?」
「…女将さん…その、玄関までです」
――-もしかしたら訪れる客が例の頭巾の女かもしれないのだ。
女将は溜息を一つ吐き、私を見上げる。
「辞めておいたほうがいいかと」
「どういう意味です?」
「お客さんがここで引き返して一晩ぐっすり寝れば明日の朝には宿を発てるでしょう。でも
もし、ここから先に足を踏み入れれば恐らく………」
「恐らく?」
「…あなたは感じている筈ですよ。この旅館の違和感に。だから、その言葉の先は」
お察し下さい、と静かに女将は呟いた。
普段の私なら、何を馬鹿なと一蹴するだろうが今度ばかりは勝手が違った。
漠とした不安があまりにも強すぎる。
しかし、それでも。
私は足を前に出し女将の横を通り過ぎ、長い廊下を渡り終えた。
実際、来客が仮に頭巾の女でないにしても、その存在がこの旅館の”なにか”を証明してくれる気がしてならないのだ。
ようするに私は齢二十七にもなって自らの好奇心に負けたのだ。
広い玄関にはまだ誰も来場していないようだったが、突如客間の廊下から現れた私に旅館の者たちは困惑している。女将に絞られていたという雫さんは、今にも声を上げそうになっていたが耶麻の手前微妙な顔で口を抑え、耶麻は耶麻で複雑な表情をしている。
青さんは初め驚きこそすれ、直ぐに一人納得し瞼を閉じて頷いた。
それから、湯に行く際すれ違った髪の真白いあの娘もいたが眉根一つ微動だにせず立っている。おそらく彼女が耶麻と雫の間に入る仲居衆の最後の一人だろう。
「いらしましたよ」
いつのまにやら横に立つ女将が皆に声を掛ける。
次いで青さんが玄関に立ち引き戸を開けて客を出迎える。
私は息をのみ日の落ちた真っ暗闇に目を凝らす。
しかし闇の中 戸の外にいたのは一匹の狐だった。
明かりにでも誘われて来たんだろうか?私は肩を落とすと女将の顔を窺う。が。
「「「いらっしゃいませ」」」
幾重もの声が玄関に響く。皆が一様に頭を下げている。狐に?
私は訳が分からずただ困惑するばかりである。
すると外の狐がこちらに向かって歩を進めているではないか。
私はついに堪え切れず声を出す。
「青さん、狐が敷居を跨いで入って来てしまいますよ―――-」
一瞬、何が起きたか理解が出来なかった。
眼前の獣が旅館の入り口に立った途端、消えた。
そして同じ位置に私と同じくらいの年の青年が立っていた。
見事な琥珀色の髪を棚引かせた着物の青年が。
「君」
青年は私に話しかける。
「狐が敷居を跨いではいけないの哉?」
夢でも見ているのかと思った。もしや白昼夢の最中にいるのだろうかと。
私の見たままを伝えるなら狐が人に化けた。いや、人に成った。
そんなこと起こりえる筈がない。あり得る筈がない。
青年は快活に笑った。
「ははは。なんてね。それにしても女将、今日も一段とお綺麗じゃないかい」
「まぁお上手で」
女将が上品な愛想笑いを返す。
「さて青、早速湯に入るよ」
「は、畏まりました。葉しび様」
青を伴い玄関を後にする青年。
事態はこれだけに治まらない。開け放された玄関には老いた狐が数匹集まっていて同じように
敷居を跨ぎ人の姿をとったのだ。壮年の男性に高齢の老婆、全て琥珀色の髪である。
私は完全に放心した。処理できない光景を目の当たりにし硬直したのだ。
今度こそ例の頭巾の女ではないか?などと淡い期待をした私はとんだ大馬鹿者である。
人ですら無いではないか。
「妾の言葉、理解できましたか?」
女将が傍らで私に語りかける。
「これがこの旅館の真実です」
数十年、数百年を生きた化生の狐、即ち
”神の眷属たる獣”達の湯治場―――-それが『躊仙楼』。
そう。この宿には確かに客は私一人だったのだ。「人間」の客は。
11/12/04 11:49更新 / ピトフーイ
戻る
次へ