連載小説
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参項:仲居衆

正午近くになって私は身支度を整えると入口の受付に立った。

あの無表情の老人が応対する。
「もうお帰りになるのですか?」
「えぇ。また吹雪いてくる前に立たねばと思いまして」

狐狸に化かされたのか商売の話も雲散霧消しましたので、とはとても口にできない。

「勘定はおいくらです?」
「お客さん。まだ支払いはお早いやもしれませんぞ」
そういうと青老人は戸口に立ち、引き戸を開け木の囲いを外した。
途端、猛烈な寒波が玄関に吹き付ける。
「吹雪く前に…とおっしゃりましたがもう手遅れですな」

吹雪に見舞われながら老人が戸を閉める。
確かにこの猛威の中旅館を出るのは自ら命を捨てに行く様なものだ。
「止みそうにありませんね…もう暫く休ませていただきますよ」
「ふふ。ゆっくりしていって下さい。なんなら大浴場をご利用になって手足を温めるのも一興ですよ」

戸の外の風の音を聞く限りちょっとやそっとで止む気配は無い。私は彼に従う事にした。
「…ではお言葉に甘えて」
「浴場はこの廊下を真っ直ぐ言った奥にあります。右が男湯、左が女湯になっております」
ほぼ貸切ですよ、と白髪の翁が朗らかに付けくわえた。今まで気付かなかったが無愛想なだけでこの青と名乗る老人は気さくな人柄なのかもしれないと一人思った。


一旦部屋に戻った私は荷物を置き外套を壁に掛け、浴衣を片手に浴場へ向かう事にした。
相当に吹雪いているのか廊下の雨戸ががたがたと揺れている。気のせいか足先も冷たい。

「冷えるな」

思わず呟いてしまったその時だった。
眼前から耶麻と同じような花柳色の着物の娘が近づいてくる。
私は吸い込まれる様にその娘を、娘の真白い髪を見詰める。雪の様な肌と雪の如き髪色。
「(これは…稀有な)」
年のころは耶麻より一つ二つ上だろうか。細くしなやかで華奢な体が薄暗い廊下を進んでくる。

私はすれ違うまでずっとその娘を見続けてしまう。そして通り過ぎた瞬間
「あの」
何故か声を掛けてしまった。
「…」
娘は振り返りはしたものの言葉を発しない。私はまじまじとその顔を正面から見据える。
髪にばかり目を奪われ気が付かなかったが綺麗な娘である。
小振りな顔立ちに大きな黒い瞳。白い肌が唇の紅を際立たせている。
娘が小首をひねる。いつまでも無言の私に難色を示しているのだろう。
「あ、いやすまない。何でもないんだ…」
私がそう言うと娘はくるりと向きを変え廊下の隅の部屋に消えた。

どうしたのだ私は。あの娘に用があった訳でもないのに無闇に時間をとらせて。
私は手に持つ浴衣を強く握ると目的の場所へとまた歩き出した。

記憶のどこかで彼女に会った気がしたのだが――-―





風呂は文字通りの大浴場だった。

男湯を現すであろう紺の暖簾を潜った先には燭台の日に照らされた岩風呂が出迎えた。
きちんと建付けもしてあるようで外の風も一切入って来ず温泉の蒸気が室内を満たしている。

床は磨かれた石畳が敷き詰められ、岩と岩の隙間からは滝に見立てた湧水が流れていた。
まさしく秘湯然とした佇まいである。

私は早速着ている服を脱ぐと籠に無造作に投げいれ、手拭い一つ持つと浴槽に向かう。
さすがに裸になると僅かに冷えたが、湯から出る熱気が直ぐ様体を覆う。

手近にあった桶を手に取り湯水を一掬いし背中に掛ける。痺れるほどの心地良さである。
私は手拭いを浸すと体中を擦り、長い旅暮らしで付いた垢を流した。そしていよいよ
湯船に片足を入れ肩まで一気に浸かる。嗚呼。至福とはこの事であろう。


耳に女の声で幽かに鼻歌が聞こえて来た。

気のせいかと思ったがどうやら違う。
岩風呂の靄の奥に人影が垣間見える。おかしい、ここは男湯な筈。
人影が近づくにつれ声も鮮明に響く。これまで聞いた事のない艶めかしい、色のある声。

目を凝らした私の前に現れたのは、女将でも耶麻でも白い髪の娘でも、まして翁でも無かった。
そこにいたのは長襦袢を着た黒髪の女だった。やや腫れぼったい唇に笑みをたたえて私を眺めている。雪国に似つかわしくない浅黒い、小麦色の健康的な肌の色をしている。

誰だ、この女は。
岩風呂の淵にいた私は奥の滝の方へ移動して距離をとる。

「あら?先客がいたのね」

おろおろする私とは対照的に平然と挨拶する女。
さらに長襦袢を着たままだというのにお構いなしに湯船に片足をつける。
「ち、ちょっと待ってくれ。もしや…私は湯を間違えたのか…?」
いやいや、さすがにそこまで平静を失ってはいない。確かに右の男湯に私は入った。

第一この状況でおかしいのは私ではなくこの女だろう。
混浴でもない所に男がいたら女は叫ぶなりするだろうし、
誤っても見ず知らずの男のいる湯船には入らない筈だ。しかも、衣服を着たまま。

「いんえぇ。兄さんは間違っちゃいないよ、ここは男湯だ」
ついに両足を湯に入れ腰まで浸した女がこちらに近寄ってくる。
ざぶざぶ、ざぶざぶと白い絹が水を掻き分ける音が立つ。
「では…何故」
「何が何故なんだい?」

私は後ずさる余地を無くし、背後には厚い岩の壁だけしか無い。
女は尚も詰めより手を伸ばせば触れられる距離にまで体を寄せる。
「私がここにいる事かい?それとも服のまま湯に浸かった事かい?」
「……それは…」
正直どっちもである。当然だ。女はそれを汲み取ったかのように一人で応えを口にしだす。
「私がここに来たのは兄さんに会う為。私が服のまま水に入ったのは…」

ぽちょん、と雫が湯船に落ちて波紋を作る

「その方がいやらしく見えるからだよ」
瞬間、女の唇が私の唇に重なる。吸い付く様な柔らかな女の口付け。
抵抗する間も無く、動転する間もなく、私は女に唇を奪われた。

「はぁ―――-」
女が口を離す。
どちらともなく吐息が漏れた。
湯気に混じって女の匂いが鼻をつき咽返る様な情欲が湧き上がる。
女の言う通り身に纏う衣服は湿り気を帯び彼女の特徴的な小麦色の肌を透かしていて、この上無く私を惑わした。
「兄さん…男と女が出会ったんだ…やる事は一つしかないだろう?」
声が脳を震わす。頭に靄がかかったかの如き酩酊感だ。
「ほら…好きにしていいんだよ」
私の手を取り自らの腰元に宛がい、引き寄せるよう促す女。
濡れた襦袢の襟元から見えるお椀形の美しい胸元に玉の汗が浮かんでいる。
「ん…」

私は堪らず首筋に口付けした。女は嬉しそうに身を捩り私の耳元に口をあてこう囁く。
「そこに…しゃがみなよ兄さん…もっといい事をしようじゃないか…」
彼女の言う通りに湯船に腰を沈めた私を小麦色の足が跨ぐ。
そしてそのまま再度口付けを迫る女。

もう、どうにでもなれ―――――――――――-



「ひっ!?ひぃぁあああああああああああああああ」

甲高い娘の悲鳴が岩場に木霊する。
きっと旅館中に響いたんじゃないかという大きな声の主は大浴場の入り口に立つ耶麻だった。
襷掛けのまま手を唇に当て、私達を見据えてわなわなと震えている。
「何やってんのサ!!?雫姉さんッ」

そう言って顔を真っ赤にしてこちらへ駆け寄ってくる。この襦袢の女と知り合いなのだろうか。
私ははっきりしない頭で状況を整理しようと務めたが、なんだか体が熱い。
意識も朦朧としてきた。

「お客さん相手に自分が何やってンのか分かってるンですかっ!?しかも、しかもその旦那は人間なんですよゥ?」
「そう騒がなくても知ってるわよ。久方ぶりに人間の若い男が来たんだから一寸遊んでたの」
「知っててやったンですネッ!?」

石畳の上で耶麻と女が向かいあって言い争っている。
だが、もう何を言っているかはっきり聞き取れない。

「なぁにようアンタ、それがいけないっていうのかい?」
「そういってるンです」
「ちょっと味見したくらいで……はっ、血に反して初な事で」
「ッ!?なんですってぇ」

二人の言い争いが頂点に達しようとした時、遠くに青さんが見えた。
が、女と熱気にのぼせ上がった私はここでついに意識を失った。

11/12/04 01:23更新 / ピトフーイ
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