ム\マ
――君の白き頬に赤い椿添える――
ム\マ
ヒト夢
ガタン と壁の響く音で私は目を覚ました。
何事かと思い、耳を澄ませば安アパートのベニヤを張り付けただけの様な壁の向こうからは男女の叫び合う様な声が聞こえる。
ああ、またか。
と私はため息を吐き、頭脳の覚醒と共に鮮明さを増していく現実の声から耳を塞ごうと試みた。
しばらくすれば隣の若夫婦の喧嘩は何らかの形で終わりを迎えたらしく、私は静かになった自室で、ゆっくりと身体を起こした。
時計を見れば、起きるにはまだ早く、寝直すにはもう遅い時間である。
私は上司からの説教を受ける可能性と、駅前の珈琲チェーンで注文するブレンドコーヒーの値段とを天秤にのせる。
僅かな差で選び取った珈琲を買うために私は身体を起こし、8畳程の冷たいフローリングの上を歩いて洗面所へと向かう。
相も変わらず冴えない自分の顔は、あつらえた様に寝癖が似合う。
いや。そもそも、寝ぐせというのは寝ている時に頭と枕によって挟まれ、湾曲した髪の毛の繊維質が湿気により緩み、それが乾く事によってありもしない形へと固定される現象だ。
それを“あつらえた様に”と比喩することにも問題があるようにも思えるが、冴えない自分の様な20代半ばの青年がそれを問題視した所で、その事が社会へと及ぼしうる影響を考えるとそれこそ“あつらえられた寝ぐせ”程もどうでもいい話であるので、ここは捨て置く事にしよう。
兎にも角にも、隣の部屋の住人から押し付けられたささやかで押し付けがましいプレゼントとも取る事が出来なくもない40分間を有意に使うべく、私はカルキの味がする水道水で歯を磨いて口をゆすぎ、軽く顔を洗って、寝癖を直すと、1年前にはまっさらだった所々シワの抜けないよれたスーツを身につけ、家賃が1万円札を片手の指の数ほど並べた額で事足りる安アパートを後にした。
会社のある都会と呼べなくもないオフィス街に比べ幾分も空が広く見える片田舎の住宅街の中にある下り坂を私は転がり落ち続けるフンコロガシの糞の様に無気力に歩き、いつの間にやら大きく巻き込んでしまった日ごろのストレスを、今朝方新たにくっ付けてしまった眠気と共に引っぺがすべく、香ばしく誘い込むかのような香りのする珈琲チェーンへと向かって行った。
途中通り過ぎたコンビニでは、よく言えば人の良さそうな、悪く言えば色々と抜け落ちている見慣れた店員がレジで頬杖を突いて、視点の定まっていない様な、睡眠薬を飲んだばかりの睡眠障害持ち様な顔をして、大荷物を抱え売り場をうろつく発注業者の男性を見ていた。
そう言えば先日、朝食のおにぎりを買った際に、彼からお釣りを20円余分に貰ってしまったのだが、それを返しに行けば私にはどれ程の利益があるのかと考えたところ、返さなくてもよいという判断に至ったのだという事を思い出した。
思えば、大昔の私は嘘を吐いた事を正直に謝り、学校の先生から褒められるという、リンカーンだったかワシントンだったかの伝記を紐解いたらそこに出てきたような少年だったのだが、今となってはそんな事をしても自分が損をするだけという事実を痛いほど見続け、何時しか汚れた大人へと成長してしまったものだと悲しく思いもしないわけでもないが、特に気にかけるつもりもないので、その話も捨て置く事にしよう。
振り返れば目が覚めてから無意味な事ばかりを言っているような気もするが、この国は残念ながら3分に1回は強盗が起きる様なスラムなど、どこを探しても見つからない様な平和ボケを絵に描いた様な先進国家であるので、そんな国のこんな地方都市を歩く私にはそれぐらいしかささやかな退屈を潰す方法を他に思いつかないので仕方ない事だろうと思う。
ほら。そんな事を言っているうちに目的の珈琲チェーンが見えてきた。
カラン と音が鳴り私が扉を開くと、朝早くから起きているであろうにもかかわらず、先程のコンビニとはずいぶんと違った様子の店員さんが“いらっしゃいませ”と決まり文句な挨拶を述べた。
私はとりあえずブレンドコーヒーのMサイズと見た限り一番安いサンドイッチを注文し、料金を姑息にも10円玉を出せる限り出しきって払い終える。
狭いとも広いともつかない店内を見渡せば、時間が時間なだけに店は私以外の客という種類の人物は来ていないらしく、私はその中でも一番人が寄らなさそうなウィンドウから離れた角の席を選ぶと、そちらに向かってstaff onlyと表記されたドアの前を横切っ…。
ガンっ!
と鈍い音がして、私は鼻っ柱に重い衝撃を受けた。
その際私が“ゴギャン”とどこぞの画家の名前の様な悲鳴をあげてしまったことは特筆すべきではないと思いつつも、他に言うべき事が見当たらないので言っておこう。
「だ、大丈夫ですか!?」
「大丈夫じゃないですね。思っクソ顔面入りましたね。でも大丈夫です」
「そ、それってどっちなんですか!?あわわわわわ。どうしよどうしよ」
「いや、別にどうもしなくて大丈夫ですよ。鼻血も出ていないみたいですし。気にかけて戴く必要もないですよ」
「でもそんな…そうだ。救急車を。えむあーるなんとかで検査しないと!!」
ああ。きっとこう言う子が救急にあり得ない内容の通報をして救急隊員達を混乱のどん底に陥れるんだろうなと思いつつも、私は彼女を落ち着かせるべくしきりに“大丈夫だ”と言い続ける羽目になってしまった。
痛い一撃を受けた鼻を押さえる私と、それ以上に大丈夫じゃなさそうに慌てるヘタをすれば小学生とも見える小柄な女性店員さんとのやりとりは1分ほどだったと思うが、その頃には先ほど私がレジを担当してもらった若い青年がチェーン店のロゴが入ったマグカップに入ったブレンドコーヒーが載せられたトレーを持って私の方にやってきた。
「あぁ〜、ハルちゃんま〜たやっちゃったの?」
「あうぅ〜。店長…どうしましょう?どうしましょう?」
「とりあえず落ち着いて。 すみませんね、お客さん。お怪我は無いですか?」
「ああ。大丈夫ですよ」
どうやらこの小柄な店員はハルといい、若い青年はこの店の店長であるらしい。
まぁ、そのハルというのがニックネームであるのか、本名であるのかはわかりかねるところではあるが、それを知った所で私にとって利益になる情報とも思えないので気にもかけないが。
しかしながら店長の言った“また”という2文字がこのハルという少女のキャラクターをあまりにも分かりやすく解説したかのように思う。
もしも犬であるのならば耳を頭の上にくたりと垂らし、尻尾をぺたりと股の間に押し付け“くぅ〜ん”等と情けないにも程がある様な声を出していたであろう女性店員さんに、むしろこちらが申し訳なくなってしまった様な気持になりつつも店長さんが好意でサービスしてくれたスコーンをかじりながらよく言えばバランスの取れた風味の、悪く言えば何処でも味わえるような味のブレンドコーヒーをすすった。
そうしてどうにか眠気が覚めた様なあまり変わっていない様な、むしろずっと昔からこんな調子であった様な頭心地で席を立ち、背後から例の女性店員さんの元気を取り戻した“ありがとうございました”を聞いて店を出た。
そこで時間を確認すると、どうやらいつもの電車よりも一本早いものに乗れそうであった。
そうして地球温暖化によって10年前と比べ気温が何度か上昇したと何処の専門家か分からんおっさんたちが偉そうに語る気温を肌で感じつつ、小脇に抱えた上着を着ようか着まいかを考えながら駅に向かって歩き始める。
ホームではいつもより人が少なくて心広いかと思いきや、実のところ全くそうではなく、いつも通りに何処から群がってきたのかホームの黄色い点字パネルの点に並び立つかのように人がずらりと並んでいる。
これでも東京などに比べると十分の一も乗車していないというから驚きであるが、私は東京の通勤ラッシュをじかに体験した事があるわけではないのでこれの十倍と言われてもいまいちパッとかないものがあり、且つそんな人数がどうやってあの狭い電車に乗り込むのかと考えるだけでも心苦しい気持ちになるので何も考えないことにした。
そうこうしているうちに電車が上司のかつらも吹き飛ばしてしまいそうな風圧と共にホームに滑り込んできて、私は今日も席に座れなかったとため息を吐いたかのような心地でプラスチック樹脂製の釣り環を掴んでそれに全体重を乗せるのであった。
さて、ここから先は電車を降りて会社へと向かい、全くいつも通りの日常を送るという場面へと繋がるわけなのであるが、そんなものを累々坦々と描いた所でだれが得するという事も無きにしも非ずといったところであるので、ここはひとつ脳をオートモードへと移行させて何事もなかったかのようにアフターファイブ、正確には残業を終えてのアフターエイトにでも移ろうと思う。
「じゃあお先です。ご苦労様です」
一言上司に挨拶をするとオフィスを後にする。
心の中ではグチグチと年金生活を始めたばかりのお年寄りの様な言葉の嵐が巻き起こっている様な、いない様な気もするが、こうして誰よりも遅く残って働いている上司、もとい中間管理職の中年男性へ少しばかりの尊敬と、それに付き合わされてこんな時間まで残されていることへの恨みとがせめぎ合い合い、分銅を乗せたばかりの両皿天秤の如く揺れ動いた私の心はコンマ五ミリで僅かに尊敬とそれに伴う労いが勝ち、先程の一言に含まれる感情へと相成ったわけである。
こうして、会社のある、見上げなければ見えないが、見上げるほど高くもない気がするビルを出る頃にはトリカゴから解放され窓のしまった部屋の中を羽根をポロポロ落としながら飛びまわるセキセイインコのような開放感を感じる事が出来たのである。
さて、羽根の無い私からポロポロと零れ落ちていく物はここではいったい何に該当するのだろう。
そんな事を考えながら歩いていると、駅へと向かう道を通り二つ程通り過ぎてしまっている事に気づいてしまった。
しまった、というのはこのまま気づかずに500メートルも歩いていれば次の駅が見える大通りに出るので、これほどの後悔を感じる必要もなかったという意味での“しまった”である。
さてどうしたものか。このまま進めば次の駅へ向かう事が出来るが、後ろへ引き返せば300メートルと戻らずに前の駅へたどり着く事が出来る。
しかしながら戻ってから電車に乗る場合と、進んで次の駅へ向かう場合とでは歩行距離にすれば200メートル程の差があるのではあるが、今歩いてきた道を戻るというのは何とも休日の午前中を寝て過ごしてしまうぐらいに意味のない時間を過ごしてしまったかのような後悔に駆られてしまう気がするし、かといって200メートルもここから余分に歩くという事は、つまり学生時代体育の授業で肩で息をしながら15秒程を掛け走り抜けたあの100メートル走の距離を二回分歩くという事になるわけで、体力的には損をしてしまう気がするのだ。
そんなこんなでまたもやいらん思考を巡らせているうちに、次の駅までの距離がぐんぐんと短くなってきている事に気づく頃には“前進有るのみ”という意見で私の脳内サミットは終結を見たらしく、次は今夜の夕食、もとい夜食をどうしようかという会議が踊り始めていた。
と、その時。
―ぴろりろりろ〜ん、ぴろりろり〜ん♪
某コンビニで聞かれるような、最近あまり効かなくなった様な赤外線インターホンのメロディーが鳴り、私は携帯をポケットから取り出した。
大学当時から使い続ける携帯で、その頃から換える事無く使い続けていると言えば聞こえはいいが、ただたんに換えるのが面倒くさいという理由で変わらないでいる着信音だ。
学生時代、この音を聞いて、「いらっしゃいませ!」と寝起きに叫んだ笹田という悪友がいたが、そいつとは大学を卒業して以来会っていない。
…などと思っていたら、電話の相手はその笹田であった。
「もしもし?」
『おう。やべぇよ。13万勝ったぜ!』
「ほぉ。開店から閉店まで打ち続けたのか。平日の昼間からずいぶんと暇な奴だな。これまでにいったいいくら負けたんだ?そして差し引きするといくら勝っているんだ?」
『はん。負け犬の遠吠えはよしてくれたまえ。ちなみに俺は人生においても勝ち組になってしまったようだ。いいか?今俺がどんな状態にあるのか聞かせてやろうか?』
「そんな昨日の夕食のメニュー程もいらん情報を垂れ流す暇があったらもっとまともな職についてはどうだ?」
『聞いて驚け。なんと美女二人が俺さまの腕の中に居るんだ!』
「ほぉ…」
『ふはははははは!ざんねんだったなぁ!俺さまが楽してお前よりも勝ち組になってやるぜ!』
『おい。もういいだろ、お・う・さ・ま?次の王様決めるからさっさと離してやれ」』
『ふははは。じゃ〜な!』
(プツン ツーツー)
「…………」
どうやら先程の悪友、笹田からの電話の内容を順序を追って説明してみるならば恐らくはこう言う事になるのだろう。
“笹田はパチンコで大勝ちし、テンションの上がっている状態のまま、合コンの王様ゲームで偶然ハーレムを一時的に手にしてしまった事で頭がおかしくなっているらしい。”
恐らくは面と向かって話をしたならばこちらまで酔ってしまいそうなほど恐ろしく酒臭い吐息で百年の恋も一瞬で醒めるほどに奴の事がさぞ嫌になった事だろう。
そうして整理された情報を元に私が見出した答えはおおよそこう言う事になる。「私はこんな男の電話番号がケータイに入っているという事が今この瞬間から嫌になった」
言っておくが断じて笹田が美味しい状況にあるという事に嫉妬しているわけでは一ミリたりともない。というか…
何が言いたいんだ!
と叫び、携帯を空の彼方へ投げ出したい気持ちになったが、ここは冷静に携帯をポケットにしまう事にした。
今さら新しい携帯の為に金を出すのは嫌だしな。
このままこのオンボロ携帯を生涯現役と使い続けられる確率ははたしていかなものか等と考えながら私はとりあえずため息をついてスーダンの治安の様な混沌とした気分を吐きだしてみる事に…
「きゃ! ご、ごめんなさい!」
「あ、すんません。大丈夫ですか?」
アメリカの牛のげっぷほどの二酸化炭素を含んでいるかのような重いため息は突然胸の中に飛び込んできた女性のタックルによって再び肺の中へと舞い戻ってしまった。
「あうぅ〜?だいじょ〜ぶですかぁ?怪我とかしてないですかぁ?」
「ああ。大丈夫ですよ。むしろあなたの方が大丈夫ですか?だいぶ弾き飛ばされてましたが?」
ぶつかってきた女性は私より少し年が上だろうか。
暗がりでよく見えないが、どうやらずいぶんと美人であるらしい。
そう考えるとそんな女性が私の胸に飛び込んできた事に対して、私はむしろ「ありがとうございます」といった方がいいのではないだろうか。
とまぁ、絶対にそんな事は口が裂けても言わないであろうが、とりあえず私は私にぶつかった衝撃で転んでしまった女性へ手を差し伸べる事にした。
「あ。すみませ〜ん。でも。大丈夫ですよぉ〜。一人で立て…あれ?」
立ちあがろうと地面に手を吐いた女性は立ちあがったものの、マタタビを吸入し続けてそのままマタタビガスの充満した密室に放置されたネコの様にバランス感覚をなくし、再び転んでしまった。
いや、そんな状況に置かれたネコがいったいどんな状態になるのか予測がつかないのではあるが、何となくどんな状態なのかは分かりそうなものであるが実際のところよく分からない。
そもそもこんな事を例えとして持ち出す私はいったいどういうものかと思いつつも今はそんな事よりも優先して行うべき行為がある様な気がするので私はその行為を実践する事にした。
私はあわててその身体を支え、そして気づいた。
酒臭い。
どうやらこの大人の色気漂う見目麗しいこの女性は酒が足に来て、地面との接地面積の狭いハイヒールを使いこなせないでいるようだ。
「おかしいですねぇ…。ビールをピッチャーで二杯ほど頂いただけなんですけれど…」
「…むしろそれだけ飲んでおいてこの程度で納まっていることに驚きを隠しきれませんね」
「おかしいとは思っていたんですけど…。お店を出てここまでたどり着くまでに14回程電信柱にぶつかったりしたし」
「あぁ〜、それ完全に泥酔状態ですね。むしろ何でそんだけ飲んで急性アル中にならなかったのかが不思議なくらいですね」
この女性はいったいどういう体質をしているのだろう。
もしかすると肝臓や血中に存在するアルコール分解酵素が異常値を示す程に存在するのではないだろうか。
そう言えば顔立ちもどこか日本人離れしているし、ドイツ人かフランス人のハーフなのかもしれない。
いや、そうに違いない。
奴等は進化の過程でアルコールを水か何かの代わりに摂取できるように進化した人種なのであろう。
それに比べ私は典型的で何も特筆する事がない特に面白味もない人間であり、祖先たちが玉露の一杯で酔っぱらってしまったといわれるアルコールに弱い人種であり、その子孫である私もまた、チューハイの一杯で十分な程に酔っぱらってしまえるので、ピッチャー等に入ったビールなどを出された日には匂いだけで酔ってしまえる自信がある。
そもそもこんな美女がそんな量のアルコールを飲むに至った事情というのも気にはなる所ではあるが、今はどうやらそんな事を聞いている場合でもない様だ。
「タクシーを呼びましょうか?」
「いえ…もうすぐ駅ですので大丈夫ですよ」
「いえ、何処をどう見ても大丈夫そうじゃないですよ? 電車に揺られて気分でも悪くなっては大変でしょうし」
「ん〜。それもそうですね…。あ、そうだ。では、あそこで休みましょう」
「あそこ…?」
そう言って彼女がエジソンが白熱電球を発明した時の様な閃きスマイルとともに指差した先には凝った洋館の様な装飾が施されたビルがあった。
いや、待て、アレはそう言う事に使うものではない気がする。
私は看板に書かれた“ご休憩3時間3990円”の文字を見てツッコミを入れた。
あれ?でも、アレ確かに“休憩”って書いて…いやいやいや、字面に騙されるな。日本語とは文字の意味以外に持つその単語の力というのが大きい難解不可思議な言語であるはずだ。
そうなればやはりあの文字が指し示す意味はそう言う事になるだろう。
そして事はそれだけに収まらず、私がこんな会社から最寄りの駅から少し離れた駅前でこんな美女を連れてラブホテルなどに入っていく姿を同僚から目撃され等してしまった日には目も当てられない様な噂が会社の中を縦横無尽に飛び回り、私に何の勘違いをしたのかはたまた誤解であるのか分からないがどうやら気に入ってくれているようである上司からの評判すらも落としてしまう事になりかねないわけであり。
いや、しかしこんなどこぞのハリウッド映画のクレジットで上から5行目以内に名前が載っていそうな美女が私の様な適当に街中を見渡せば同じレベルの男が10人は該当しそうな、美青年などという言葉からは程遠い男に対して一緒にホテルに行こうなどと言ってくれる確率ははたしてこの銀河に存在する知的生命の存在確率とどちらが高いと言えるのかなどと考えに考え抜いた揚句、私は彼女の肩を担ぎ、目の前の外観だけはやたらと小奇麗なその建物へと歩いて行くことにしたわけである。
そうだ、普通に考えてみろ。こんな美女がいくら酔っぱらっているからと言ってこんな男をその様な対象として選択するはずがないではないか。
こんな所で下手な期待でもしてみろ。恐らくは部屋を選んでプチアクアリウムのある様な部屋に入ったとたんに彼女は備え付けのウォーターベッドにダイブするや否や寝息を立て始めて肩すかしをくらってしまうこと間違いなしなのである。
そうしてそんな彼女の姿を見て落胆の余り両膝を突き、プラトーンといういつぞやの戦争映画のジャケット写真のようなポーズをとって涙を流す私の姿は100人の審査員が見れば99人は「バカ」という判定を下すに相違なく、それこそ目も当てられない状態になってしまうこと間違いなしである。
などと考えている間にも美女はまるで住み慣れたアパートに10年来の親友と会話するかのような手際でホテルのフロントと話をつけてしまったようである。
いや、そう言うには少しばかり彼女は呑み過ぎているようにも見受けられるが、恐らくは店員さんもこう言った客への接し方にもなれているのであろう、などと私はただただ感心するばかりであった。
「27番のお部屋ですね。そちらのエレベータから2階に上がった突き当たり右になります」
「どうもありがとうございますぅ…」
そう言って店員が差し出した鍵を掴もうと手を伸ばすもどうやら彼女は焦点すらもまともに定まってはいない様であり、何度かその鍵を空振りする。
そうしてようやく手にした鍵を持ち、フラフラといつ転ぶかも分からないような足取りでエレベータの方にキョンシーかゾンビかはたまた夢遊病患者であるかのように歩いて行ってしまった。
そんな彼女の姿を見て、恐らくはバイトであろう若い店員さんは不安そうに見ている。
私はそんな店員さんの心中渦巻く疑念を恐れ、なるべく目を合わせないように彼女の肩を再び担ぐとエレベータに乗り込もうとした。
「君の白き頬に、赤い椿添える」
「え?」
突然背後から店員さんの声が聞こえた。
「どうぞ、ごゆっくり」
ん?なんだ、からかわれただけか。
そんな私の背中を現在の私の事情を知る者が見たのならば恐らく彼等はこう思う事であろう。まるで時効直前になってそわそわとしている詐欺犯か誘拐犯の様だ、と。
そんな事を想いながらも彼女の選んだ部屋へとたどり着いた。
「……お?」
「あぁ〜かわいぃ〜♪」
私はその部屋の内装を見てなぜあれだけ種類のある部屋の中でここを選んだのかと彼女に小一時間問いただしたくもなったが、彼女はその内装が痛く気に入ったらしく、ベッドのわきに積んであるというか置いてあるというか一か所に集められ積み上げられているといった感じのぬいぐるみたちに抱きついていた。
この人はこう言うのが趣味なのか…。
いや、てっきりシャープな美人だと…。
人というのは外見だけでは分からないものである。とファンシーな壁紙とピンクの花柄のシーツのダブルベッドを見ながら思った。
やはりというか当り前というかベッドは一つしかない様である。
そうして私が部屋を見回しているうちに、彼女はおもむろに服を…。
っておい!
やはり脱ぐのか!?
「あれ?脱がないんですか?」
「いや…そもそも私とあなたは初対面なわけで…」
「…そう」
私の返答で少しばかり彼女は表情に影を作る。
が、
「そうやって私を捨てるのね!男は皆そうなのね!!」
「え?」
「あなたもあいつと同じように私を捨てる気なのねぇ!!」
ああ、そうか。
何となく彼女がこれほど飲んだくれていたわけが分かった。
恐らくは彼女は付き合っていた男にフられ、自棄酒をしていた帰りなのであろう。
そして私はそんな女の自暴自棄に巻き込まれてしまったというわけか…。
「落ち着きましょうよ。あなた今酔ってるから。絶対後で後悔しますよ?」
「後悔なら先にすませておきましました!後悔したから飲めないお酒を…うぅ」
「いや、ピーチャー二杯のビールを飲む人がお酒を飲めないなんて行ったら世界からお酒が消えて無くなりそうなので、そこは訂正して下さいよ。ってか先に後悔したらそれもう後悔って言わないですよ。まずは落ち着きましょう」
「その場のテンションに身を任せる事こそ上手な生き方である。と誰かが言っていた気がします」
「なんですかそのダメ人間の典型みたいな考え方?だめですよ。しっかりして下さい」
「ピッチャーびびってるぅ〜ヘイヘイヘイ♪」
「いや、ピッチャーでもないしビビってもないですよ」
「ならバッチコイ!」
「どうしてそうなる!? ってか汗は掻いてないですけど風呂も入ってないですし。何よりあなた酔ってますから。どうせあれでしょ?明日目が覚めたら今の事覚えてなくて大騒ぎするとかってオチでしょ?そんなんで裁判沙汰とか嫌なので、遠慮しときま…(カチャ)…ん?」
「えぇ〜、2208(にーいちぜろはち)被疑者確保。罪状は“男の風上にも置けない甲斐性なし” 繰り返す…」
「いや、繰り返さないでください、そんな不名誉極まりない罪状。ってかどっから持ってきたんですか?手錠とセリフ」
「SMプレイ好きなカレ(元)の影響で常に手錠を携帯してて」
「何それ怖い…」
「ほ〜らぁ〜。これで逃げられませんよ。 という事でレッツらゴ〜」
「古っ! ってあわわ!」
私は突然彼女にベッドに押し倒されてしまった。
何だこの状況!?
ってかまぁ、これならこの手錠を証拠に逆レイプとして裁判でも有利に戦えるだろう、等と以外にも冷静に事後処理の事を考えている自分に少し嫌気がさしつつも、凝った装飾のファンシーな電灯の光で余計に美しさを増したというか、先程まではよく見えなかったブルーネットの髪と茶色い瞳が見えそんな女性とこれから行われるであろう行為を予想してまんざらでもない気持ちの私がいた。
恐らく数時間前の私がこれを見ていたならば即座に今の私の頭を度付きまわそうと様々な策を巡らせて止めにかかっていた事だろうが、“無理やり”彼女から迫られたという事が幾分か私の自制心を解きほぐしてしまっているのだろう。
もうこうなれば行くところまで行ってしまおうとすら私は考えていた。
一応言っておくが断じて彼女のブラから零れ落ちそうになっている胸に誘惑されたわけではない。
「これじゃズボンが脱げません」
「私が全部やりますから任せてください。うふふふふ」
「その笑い怖いのでやめてください。ってか、本当に後悔しても知りませんよ?」
「いいの。……今は、あなたに甘えたいの…」
そう言って女性は服を脱ぎ去った魅惑的な身体で私に迫ると、官能的なキスをしてくる。
私はそんな行為の最中、よくぞ理性が崩壊する事無く残っているなと、自分の精神力に半ば感心しながらそのキスに応じていた。
ヒト夢 終
ヒト現
ピピピピ と鳴り響く聞き覚えのない目覚ましの音で私は目を覚ました。
何故か下半身を中心にかつて経験した事がない気だるさと締め付ける様な痛みを感じる。
ああ、そうか。
と私はため息を吐き、昨夜自分の身に起こった現実味のない現実の事を思い出そうと試みた。
しばらくすると気だるさと眠気は覚めてきて、代わりに思い出してしまった過ちについての罪悪感がずくずくと心を蝕んでいく。
いや、まぁ、アレはその場の流れで。
彼女から誘ってきた事で。
無理やり襲われて。
ああ、どれを選んでも結論からいえば酔っている女性と行為を行ってしまった私が悪いわけで。
などと思いつつ、私は重たい身体を起こす…。
“カチャ”
「ん?」
ああ。そうか、手が手錠で結ばれているんだった。
というか、外してくれなかったのか…えぇと…。
ああ。そう言えば結局彼女の名前すら聞いていない。
いや、正確には何度か呼ばされていた気もするのだが、疲労と快楽のせいか良く覚えていないのだ。
私は苦戦しながらも筋肉痛の残る腹筋を酷使して起き上がる。
どうやら昨夜の美女は私が起きるよりも早くこの部屋を去ったらしい。
ベッドサイドのテーブルには“ごめんなさい”の文字と“ありがとう”という文字が並んでいて、律儀にも部屋の宿泊代が2人分、そしてこの手錠の物らしい鍵が置かれていた。
酔っぱらっていなければ恐らくは凛とした顔同様に真面目できちんとした人なのであろう。
しかしながらその字は何やら丸みを帯びていて可愛らしい。
そう言えば彼女の選んだこの部屋も…。
私は手錠を苦戦しつつも外しながらずいぶんとファンシーな部屋を見渡し、凛とした整った顔立ちの彼女が甘えた声でぬいぐるみと戯れる姿を想像して苦笑した。
まぁ、何にせよ、高い授業料が必要かもしれないと考えていた私にとってみれば痴漢冤罪で逮捕されたにもかかわらず無罪を勝ち取れたぐらいのお得感と安心感があった。
ベッドサイドの時計を見れば丁寧にも彼女がセットしてくれたのか、はたまた私自身が気合でセットしたのか出勤には十分に間に合う様な時間であった。
しかしながら残念な事には今日は休日である。
その為に昨夜遅くまで残って仕事を済ませてきた事を思い出し、カレーを作ろうとニンジンとたまねぎとジャガイモと牛肉を買ってきたがカレー粉を買い忘れしぶしぶ肉じゃがを作った主婦の様な気持にさいなまれてしまった。
兎にも角にもこんな所に長居するのもアレなので、私は彼女が残して行った金銭を受け取り、迷ったが彼女の残して行った手錠も鞄の奥深くにしまい、身なりを正して出所する犯罪者の様な面持ちでホテルを後にした。
それにしても、よくよく考えればあれはラッキーだったのではないだろうか。
一夜の過ちとはいえ、私には運が良いのか悪いのかに養うべき家族はいないわけなのであるから、当の彼女以外には何ら罪を感じる必要はないように思われるのだ。
そう思ってしまえばあれは彼女かもしくは神様か、大穴狙いで上司からのとっておきのご褒美だったのかもしれないわけで。いや、流石に上司は無いだろう。
などと思いつつも、休日でやや人の多い街を私は行く当てもなくとりあえず駅に向かい電子マネーで改札を抜けると家路に向かう電車に乗り込んでいた。
悲しいかなせっかくの休日だというのに私にはこれといってする事もないわけなのだ。
11/01/10 02:17更新 / ひつじ
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