読切小説
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監鈴の本
ふとした瞬間、酷い孤独を感じる事がある。
友達がいないわけじゃない。
女の子とも付き合っていたことも何度かある。
家が貧しいわけでも、親を亡くしているわけでもない。
でも、一人の部屋で、人ごみの中で、地下鉄の中で、静かな講義室で、殺菌灯の漏れる実験室で。
ボクは突然一人になる。
それは友達と遊んでいるときにも、彼女と付き合っていたときにも、変わる事無く襲ってきた感覚。
突然世界との接続を切られたみたいな。
突然穴の中に落ちたような。
突然何かを失ってしまったような。
そんな重く暗い感覚。
他人の考えている事が分からない。
皆が僕を嫌っている気がする。
世界が僕を避けている気がする。
そんな時、ボクはベッドに掛け込む。
布団を被って考える。
身動きが取れなくなるような想いに縛られている。
そんな状態を考える。
ボクを殺したいほど憎んでいる誰かを思い浮かべる。
ボクを縛りつけたいほど愛している誰かを思い浮かべる。
そんな人物の兇刃に貫かれ。
そんな人物の双腕に抱かれ。
ボクは夢見心地になる。
そんな瞬間は間違いなく幸せで。
そんな瞬間は間違いなく独りではない。

――にゃーにゃー

飼い猫が枕元で餌をねだる声がして目を覚ます。
その顔を見てたまらなく嬉しくなる。
この子はボクを求めている。
嫌がる猫を無理やり抱きしめてその温もりを感じる。
猫の爪が肩に当たり痛みを伴う。
いっそのことその爪でボクの肌を貫いてほしい。
そうすればちょっとは幸せになれる。



ある日、古本屋で暇をつぶすため立ち読みをしていた。
漫画コーナーをぐるりと回る。
その奥には成人コーナーの暖簾がある。
ボクは引き返そうと身体を回す。
その時目に入った一冊の本。
分厚いハードカバーで、タイトルの表記もない。
漫画本の派手な表紙の中で明らかに浮いているその本。
訳も分からずその本を手に取っていた。
ボクはそれを持ったまま内容も確認する事無くレジに向かう。
店員はその本を手に取り、首をかしげた。
店長を呼んでくると言われ待たされる。
ボクの後ろに2人の客が並ぶ。
1人はもう片方のレジに通され、残された男性客はボクの方を一度睨む。
ボクはその目を一度見て、そしらぬ素振りでレジに向き直る。
丁度店員が店長と呼ばれる若い男を連れてきた。
二人はその本を手に取り二、三度首をかしげては話し合う。
ボクは結局その正体不明の本を一般小説(ハードカバー)の基本料金で購入した。
帰りにスーパーによって買い物をする。
人がたくさんいる。
レジの列では子供が落ち着きなくレジ横に置かれたお菓子や小物雑貨を手に取り、母親にしかられる。
ボクも昔はこういう子どもだった。
ボクは2才くらいからの記憶をおぼろげながら持っている。
スーパーで100円均一のコーナーを見て回っている母親に手をひかれ、ボクはあるワゴンに積んであったおもちゃをねだる。
母親は何を思ったのかその隣の小物を手に取り、首をかしげる。
そうして僕が抱っこをせがみ、視線が高くなる。
その時ふと飛び込んできた黄緑色の綺麗な色合いのプラスチックのバスケット。
ボクはそれを見て玩具への興味を無くしてそれを手に取り、母の買い物かごに入れていた。
母はそれをずいぶんと不思議がったが、ボクはそれまでお菓子よりも味の付いていない麩を好んでポリポリと食べたり、歩けるようになると親の目を盗んでアパートの部屋を飛び出し、アパートの1階にある遊び場の滑り台に行って遊んでいたりと、一般的に言う変わった子だったので、くすくすと笑いそのバスケットを買ってくれた。
ボクは家に帰るとさっそくそのバスケットにお気に入りの玩具や雑誌の切り抜き、自分で折った折り紙などを入れて満足していた。
悲劇は次の日起きた。
当時大学院生だった父が友達と飲んで帰ってきて、ボクのバスケットに気づかずそれを踏んで壊してしまった。
絶望してしばらく父と口を利かなかった。

――次の方どうぞ

その声でボクは現実に戻り、1歩進んでかごをレジの台に置いた。
1824円を支払い、レジ袋に品物を詰める。
ネギが飛び出したそれを持って車に向かう。
カーステレオからcobaの曲が流れる。
本当はアニメソングなどを入れたいが、部活や研究室の後輩を乗せる事もあるので、車には割と好きなJポップ歌手や父親の影響で聞きなれていたベートーベンが積んであった。
そんな僕の小さなディフェンスすらも無視して友達は自分のIポットを繋ぎ大音量でアニメソングを流したりすることがあるが、そう言う時後輩の女の子から非難を浴びるのはボクではなく友達なのでボクは気にしない。
アパートの8台止めの駐車場に車を止め、アパートの裏の玄関へ回り込む。
布団を干している上の階の主婦と目が合い、作り笑顔で挨拶をする。
あそこの部屋に住んでいる娘のアイちゃんは何故か僕の事を気に入ってくれて、ボクを見かけると無邪気な声で挨拶をしてくれる。
先日偶然後輩たちと映画館に行ったときに何気なしに取ったUFOキャッチャーのぬいぐるみをあげた時は目を輝かせて喜んでくれた。
日陰の玄関の鍵をあけて部屋に入る。
猫が走ってきてボクの持ったレジ袋の中身を興味深そうに見つめる。
残念だけど今日は猫缶は買っていない。
ってか、一昨日あげたんだからしばらくカリカリで我慢しろよな…。
冷蔵庫に買ってきたものを入れ、PCの電源をつける。
ジャンプが積み上がり1人しか座れなくなっている2人掛けソファーに座り、買ってきたハードカバーを開いた。

――あなたとお話したい

まえがきもタイトルもなしにいきなり書かれたそれだけの文字。
これがタイトルなのだろうか?
次の頁をめくる。

――あなたの好きな物は何?

今度はややページの右側に寄せて書かれた質問。
開きページの反対側は白紙だった。
なんだこれ?
ボクは早くも頭の中でこの本に払った金額で何が買えただろうと計算していた。

――あなたは何が好き?

ふと眼を戻すとその文字に違和感を感じた。
質問の内容は変わっていない。
でも、なんだかさっきと違う気がする。
というか何が好きと聞かれても食べ物なのか映画なのか、漫画なのか、好みの女性のタイプなのか、幅が広すぎる。

――あなたの好きな食べ物は何?

あれ?瞬きした瞬間に質問の内容が変わっている。
気のせいなのか?
思えば最初見た時の質問の内容はこんな感じだったかもしれない。
という事はさっきまでが何か勘違いしてたのだろうか?

――あなたの好きな食べ物は何?

今度は何も変わっていない。
やはりそうだったのか。
それにしても、好きな食べ物は何?っていう質問は質問としては比較的ポピュラーなものだが、二十歳も過ぎて一人暮らしをしているととりあえず安いものなら何でも食べているので今となっては特に好きや嫌いというものもない。
強いて言えばカレーとかだろうか?
カレーは肉を入れなければ安く大量に作れるし、米は実家から時たま送られてくるのでいくらでもある。
これほど手間のかからず何日も持つ料理はなかなかない。

――私はお肉のたっぷり入ったシチューが好き

…あれ?
左のページは白紙だった気がしたけど。
今見れば左側のページには質問の答えと思しき文章が書かれていた。
ボクは気になって左側のページをめくってその裏側を見てみた。

――あなたの飼っている猫の名前は?

さっき前のページを初めて見たときと同じように質問が一つだけ書かれていた。
左側のページには何も書いていない。
ボクはもう一度さっきのページを確認するため右側のページをめくる。

――あなたとお話したい

そこにはハードカバーの表紙の裏と、最初に見たタイトルの様な一文が書かれていた。
間にはさっき確かにあったはずのページがない。
そしてページを戻すと変わらず猫の名前を尋ねる質問が。
ボクはそれを見て恐ろしくなった。
さっきの質問は誰に対しても質問が成立するものだった。
しかし今度のは違う。
猫を飼っている家なんてそうそうあるわけじゃない。
そして、さっきの不可思議なページの文章の変化とページ自体の消失。
気の所為もここまで来ると気のせいではなくなってくる。
ボクは思わずその本をソファーの上に投げてしまった。
積み上がったジャンプに当たり、跳ねっかえると本はパラパラとめくれ、最初の

――あなたとお話したい

のページで止まった。
そしてふと思った。
古本屋での本の違和感。
そして内容。
この本は普通の本じゃない。
ボクは思いきってもう一度本を手に取りそのページをぱらぱらとめくって確認していく。


白紙。

白紙。

白紙。


どのページにも何も書かれていなかった。
そして最初のページに戻る。

――あなたとお話したい

ボクはその言葉がこの本、またはこの本の作者が発した生の声であるかのように感じた。

――ふぅ

一度深呼吸をする。
そしてページを一つめくった。

――ごめんなさい
――驚かせてしまった?

右側のページには先ほどの質問が消え、別の分が書かれていた。
うん。とても驚いた。
そう声に出して答える。

――悪気はなかったの

左側の白紙のページに文字が浮かび上がった。
次のページをめくる。

――私は本当にあなたと話をしたいだけ

君は…この本は何か化け物とか呪いの本とかそういう類のものなのか?
ボクがそう尋ねると左側のページにまた文字が浮かび上がる。

――あなたの常識からみれば普通ではないと思う

分かった。よくわからないけど、何となくわかった。
そう答えてページをめくる。

――ありがとう

さっきの質問に答えるよ。あの猫の名前は瑠璃だ。
拾い猫だけどロシアンブルーの雑種らしくて、よく見ると瞳孔が閉じている時だけ瞳孔の周辺が綺麗な青い色をしているから瑠璃って言う名前にした。

――綺麗な名前ね

――あなたは優しいのね

そんなことはないよ。
偶然このアパートがペットを飼ってもいいところだからバイト先に捨てられていたのを拾ってきただけだよ。

――そういう人を優しい人と言うのだと思うけれど?

――この本を買ってくれたのもそう言う理由なの?

この本は偶然手にとって、気になったから買った。


気がつかずボクは本との会話に夢中になっていた。
ページを次から次へとめくり、読んでは答えながら読み進めていく。
不思議とページは進む事無く最初から2ページ目のまま。
その事を尋ねると本は

――この本は普通の本じゃないから

と答えた。
そして声に出さなくても答えを思い浮かべるだけで本は理解してくれるようだった。
ボクはそれが本がボクの心の言葉を聞いてくれているようで嬉しく思った。
ボクが夕食を作る間も本は話しかけてくるので、ボクはまるで料理初心者が料理本を見ながら料理を作っているような状態になっていた。
そして、気がつけば本は自分からページをめくっていた。
料理をしながらページをめくるのは大変なので助かったけど。

――おいしそうね

特売の魚の切り身とネギを生姜醤油で煮ただけだよ。
時間もかけてないからたぶんあんまりおいしくはないけど。

――明日はシチューを作って

だめだよ。
明日は今日買ってきたチキンカツとこの煮物の残りで食べるつもりなの。
っていうか、君本だから食べられないだろ?

――あなたが食べた感想を思い浮かべてくれたら何となく伝わるわ

そうなの?
なんか頭の中のぞき見されてるみたいだな。

――なんならもっと奥まで覗いてあげましょうか?

やめろよ。
そんなことしたら燃えるごみに混ぜて捨てちゃうぞ?

――私は普通の本じゃないからそんな事をしても気がついたらあなたの手元に戻ってくるわ

それってまるまる、呪いの本じゃないか。

――うふふ
――あなた私に呪い殺されるかもね

冗談にならないからやめてくれよ。

――うふふ
――冗談よ



普通の人が見たらボクはきっと何かに憑かれていると思うのかもしれない。
でも、ボクは友達とも家族とも彼女とも違う人間関係を得たような気がしていた。
そうして2人(?)でテレビを見たりしながら話をしていた。
どうやって見たり聞いたりしているのかと尋ねると、

――あなたの目や耳を通して見たり聞いたりできるの

と答えた。
そしてどうやらボクの感情までその時に読みとっているらしいという事が分かった。
本当にボクはこの本に憑かれてしまったらしい。
あと、どうやら彼女はある程度普通の知識を持った女の子であるという事も分かった。
ただ、その知識は随分と古いみたいだ。
テレビを見た時も、ガスコンロを見た時もいろいろと驚いている様子だった。

じゃ、そろそろ寝るよ?
明日は研究室に用があるから。

――はい
――おやすみなさい

君も眠るの?

――私はまだ眠くないから

そう。
じゃあお休み。



その夜、夢を見た。
ボクは一日に平均2〜3回夢を見る。
その代わりその夢が覚めるごとに目を覚ましてしまう事がある。
夢なんて見ないという友達が多いのでうらやましがられるけど、夢なんて総じて意味のない内容のものばかりで、しかも目を覚ましてしまってねつけなくなるときとかは次の日クマを作って大学に行くことになる。
でも、その日の夢は違った。
夢の中でボクは目を覚ますと、そこはボクの部屋で、隣には知らない女の子が眠っていた。
ボクが身体を起こすと彼女も目を覚ましたみたいで、

――おはよう

とガラスの鈴が響くような声で言った。
その仕草と表情は初めて会ったばかりのはずなのに、どこかで見た事がある気がして、

――君は誰

とボクが聞くと、

――私はミスズ

と答えた。
女の子の歳は僕と同じか、それより1つ2つ下ぐらいで、プロポーションは残念だけれどボクの好みとは違い、背も低くて胸も小さい。
でも、くっきりとした目は10代の子供とは違いしっかりとした意思を持っていて、見た目よりも彼女を大人びて見せている。

――そんなこと言われたって私は産まれた時からこんななんだから仕方ないでしょ

ボクの考えを読みとったかのように彼女は答えた。

――君…もしかして

――なに?

そう聞き返す彼女は少し意地悪な顔で笑ってた。

――あの本?

ボクがそう答えると、彼女はにっこりと笑い

――そうよ
――私はミスズ
――よろしくね

そう言って彼女はベッドから出てぺこりとお辞儀をした。
その時初めて気がついた。
ううん。
気づいていたけど、気にしてなかった。
彼女も僕も裸だった。

――うふふ
――どうしたの?
――顔赤いわよ?

――ど、どうして裸なのさ!

――そんなの
――こうするために決まってるでしょ

そう言って彼女は僕に襲いかかってきた。
そして、そのままベッドに押し倒されて唇を奪われた。



そこで目が覚めた。

――おはよう

枕元に置かれた本に文字が浮かび上がる。
同時に昨日は聞こえなかった彼女の声が頭の中に響いた。

――どうしたの?
――そんなとこ膨らませて

!?
ボクはあわててズボンにテントを張っていた股間を布団で隠した。

――続き、してほしかった?

ってことは、やっぱりあの夢は…。

――うん
――私があなたの夢に入ったの

君は夢魔か何かなの?

――ううん
――普通の幽霊
――ちょっとエッチが好きなだけよ


ああ。
きっと悪魔か悪霊か何かだ。
ボクはそう思った。
そこで


――   そぉい!


ミスズの本を窓から投げ捨てた。
これでも中学の時は陸上大会で円盤投げと砲丸投げでクラスの陸上部を抑えて選手に選出された事もある(校内の)。
しかし…。

――コツン!

鈍い音と衝撃が頭にして、その後床に何かが落ちる音がした。

――ふふふ
――私を捨てようなんてあと100年早いわ

床に落ちていたのは見覚えのあるハードカバーだった。
ボクはミスズに憑かれた。

――ホアチャアー!
投げる――腹部に跳ね返ってくる

――ソエアァァァァ!
投げる――太股にいい角度で入る

――チェリオー!
投げる――額に見事な角度でぶつかる


ボクはミスズに完全に憑かれていた。



本当に憑き殺されたりしないよね?

――大丈夫よ
――それより貞操の心配をした方がいいかもね

これでも一応女の子と付き合った事はあるよ?

――でも、1年もエッチしないまま別れたでしょ
――その前は高校だっけ?

な!?
何でそれを!?

――私に隠し事は出来ないわ
――あなたの思い出から知られたくない性癖まで
――全部私には分かっちゃうの

……。

――ふんぬらばぁ!

――ふふ
――車の窓から投げ捨てても無駄よ
――例え地球の裏側に捨ててきても
――私はあなたから離れない

ボクは大学に向かう車の中、助手席に置かれた本を睨みつけた。

こんなの卑怯だ。
ボクの頭ばっかり覗かれるなんて…。

――うふふ
――じゃあ私の中も覗かせてあげるわ

え!?

――その前に車を止めて

車を?

――止めた方がいいと思うわ

わ、わかった。
これでいい?

ボクは道の端に車を止めた。
幸い国道からは降りた田舎道なので他の車の邪魔になる事もない。
カッチカッチというハザードランプの音とエンジン音がカーステレオの音を邪魔していた。

――いい?
――覚悟してね


次の瞬間僕は思わず悲鳴をあげそうになった。
ハザードの音もエンジン音もカーステレオも何もかもの現実の音が吹き飛んだ。
その代わりにボクの頭には一瞬では理解できないほどの映像や音が流れ込んできた。
でも、それ以上にボクに衝撃を与えたのはミスズの感情とでも言うのだろうか。
いや、ボクの頭に入ってきた瞬間からボクの感情になり、悲しみや怒りの混在した言葉に出来ないような激情がボクの頭を支配した。
もし隣に誰かが座っていたなら、ボクは迷うことなくその人物が誰であれそいつの首を絞め、殺そうとしていただろう。

――ブーーーーーーーー

鳴り続けていたクラクションの音で我に返った。
見ればボクの肘がクラクションを押していた。
通り過ぎて言った車の運転席からボクに視線を感じた。
ボクは急いで肘を離した。

――どぉ?
――すごいでしょ?

うん。
やっぱり、悪霊だったんだね。

――今は違うわ
――何故かちょっと前からエッチなことばかり気になるようになっちゃって
――気がついたら恨む事を忘れてたくらい
――今なら悪霊になった理由を肴にお酒が飲めちゃうくらいよ

彼女はそう言って笑った。
ボクは笑えなかった。
教授に言われ、普段から客観的な視点を持つように気をつけていたけど、あんな激情の前じゃとてもそんな事を考える余裕なんてない。
自分が悪いとか相手が悪いだとか言う以前の問題だった。

――どぉ?
――これで私の心も記憶もあなたに筒抜けよ?
――これで公平になったでしょ?
――辛い?
――もう私の心の繋がりを切った方がいい?

ううん。
いい。
ただ、ちょっと待ってて。

――何処行くの?


ボクは車を降りて外に出た。
もし今ボクの目の前に野良犬とかが現れたらボクはためらうことなくそいつを蹴飛ばし殴りつけていた。
もう常識を超えた感情がボクの前頭葉と海馬を行き来して視床下部で火花を散らせていた。
本当に頭から煙が出そうだった。


――わああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!!!


ボクは周囲に民家すら見えない国道脇の田舎道で空に向かって叫んでいた。


――ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!


叫んで叫んで。
涙が止まらなかった。


はぁ…はぁ……

――落ち着いた?

うん。
もう大丈夫。

子供のころ以来こんなに泣いた事はなかった。
泣きやんでも膝が震えて、喉が震えて。




ボクはその後、研究室で最低限の記録だけ付けると、まとめは明日にして、教授のコーヒーも体調が悪いと断って、すぐに家に帰った。
アパートに帰ると瑠璃が駆け寄ってきたが、無視してそのままベッドにダイヴした。
ベッドに飛び込んでから、一階でよかった、と思える程度の冷静さはどうにか取り戻していた。

――ごめんなさい

ミスズは悪くないだろ。
でも、これでミスズと繋がった。
エッチが好きって言うくせにまだ処女なんだね。

――うふふ
――そうよ

ちょっと…寝るよ。


夢でまた、ミスズが出てきた。
でも、今度はボクの部屋じゃなかった。
ミスズの最期の場所だ。
本が散乱してる。
血が飛び散った跡がある。
触れると手に付きそうなほど新しい血。
その中心にミスズが血まみれで倒れていた。
あの時ミスズの記憶で見たのとは違い、今度はミスズの手足は繋がっていて、お腹も綺麗に穴一つなかった。
ってか、血に染まった着物も着てなかった。

――おはよう

――わぁ!

血まみれのミスズが突然身体を起こして立ち上がった。

――あはは
――殺されちゃった

見るとボクの手にはあの男が持っていたのと同じ包丁が握られていた。
書斎の窓はカタカタと狂風に揺れ音を立てていた。
きっとミスズの断末魔は麓の村まで届く事はなく森に吸い込まれてしまったのだろう。

――まだあいつは捕まって無いんだってさ
――っていっても
――もう百何十年も昔の話だけど

ミスズの骨を無理やりにたたき割った包丁の刃はところどころ毀れ、何度もミスズの胸を突き刺した切っ先は折れて無くなっている。

――とっても
――痛かった
――あいつの事
――信じてたから

ミスズがボクの包丁を持っていない方の腕を取り、その手を自分の胸にあてさせた。

――うっ!

その瞬間ミスズの当時の想いが僕にも伝わってくる。
ミスズは痛そうに眉間を振わせる。

――大丈夫だよ
――もう

ボクはミスズの肩にそっと触れる。

――私
――怖かった
――自分が死んで
――自分じゃなくなっていくの
――怖くて
――怖くて
――悲しくて

ミスズから感情が流れてくる。
ボクはミスズと一緒に涙を流した。
流れても流れても止まらない。
零れても零れても終わらない。

――大丈夫だよ
――ボクも一緒に居る

――うぅ…うあぁぁぁ

ミスズが声を出して泣くと、ボクまでそれが伝わって。
思わず喉を突いて出そうになる。
下あごが震えてこらえた涙が鼻から流れてくる。
心が、記憶が繋がっている事が苦しくて堪らなくなる。
今すぐにでも引きちぎりたいって思う。
でも、

――大丈夫
――ボクを離さないで

本当はボクから離してしまいそうだった。
だから、代わりに強くミスズの小さな体を抱きしめた。

――うん
――離さない
――離さないで
――私と一緒にいて

ふたりじゃなきゃ堪えられなかった。
そんな想いをミスズはずっと独りで耐えていた。

――ふふ
――ありがと
――一緒に泣いてくれて

身体を離すとミスズは笑った。
涙を流したまま。
すると、ミスズの身体にべっとりと付いていた血が消えていく。
しばらくするとミスズは真っ白なきれいな肌を取り戻した。

――ねぇ
――我儘言ってもいい?

――なに?

――私と
――ひとつになって

――うん

ボクがそう答えると。
ミスズはゆっくりと両腕を伸ばした。
ボクも両腕を出してミスズを抱きしめてキスをした。

夢の中でボクはミスズと身体を交えた。
ミスズと心を交えた。


――ありがとう

――え?
――ミスズ?


・・・・・・・・・・

・・・・・・・・

・・・・・・

・・・・

・・


――ミスズ!?

ボクは一人のベッドで目を覚ました。
でも、そこにミスズの姿はなかった。
枕元にあった本を開いた。
そこにはびっしりと並んだ文字が印刷されていた。
内容は両親を亡くした少女が叔父に引き取られ、その叔父に殺され、怨霊となって本に憑きその本の所有者が皆不運の死を遂げるというホラー小説だった。
名前も描かれていない主人公がその本の呪いを解くために霊媒師と共に屋敷に乗り込んで元となった怨霊の少女を倒し、主人公は無事に救われるというB級映画も顔負けのラストだった。

――ミスズ

――………

ただ、ボクの中に残された鮮烈な記憶と感情だけが、ミスズの存在を示していた。




























1年後

ボクは院の進学も決まり、その日も研究室のパソコンにデータを打ち込んでいた。

「あ、アカネさん。一緒に帰りませんか?」
「ええ。じゃあ先に車で待ってますね」

新しい彼女も出来た。
彼女はアカネさん。
ボクの1つ上の学年で歳は2つ上だ。
ミスズの事があり落ち込んでいたボクを元気づけてくれた。
セックスも2回した。
正直、ミスズの事は忘れられない。
でも、彼女のおかげでボクは独りではないという事が何となく分かった。
彼女の心を知ったから。

ボクはデータを保存してUSBを抜くとアカネさんの待つ駐車場に向かった。

「アカネさん。お待たせしました」
「うふふ。待ってたわ」
「…アカネさん?」

アカネさんは何故かうつむいたまま笑っていた。

「アカネ?私の名前を忘れたの?」
「え?」
「ひとつになってって言ったでしょう?」
「…………ウソ?だろ?」

――あなたとお話したい

頭の中に響いてきた。
懐かしい声。

――ひとつになって





























「おはよう」
「ん…。おはよう。ミスズ」

ボクは身体を起こす。
ボクは裸だった。
ミスズも裸だ。
昨日は夜遅くまで身体と心を交えた。
あの日以来ミスズは憑く対象を本から人に移した。
ミスズは一度成仏したにもかかわらず、今度は別の未練のためにまた幽霊になった。
きっと今度は永遠に成仏できない。
だって

――ふふ
――死んでもあなたの魂を抜きとって憑いてあげるわ
――死んでも離さない

彼女の心が伝わってくる。
ボクも同じ気持ちだ。
ただ、ミスズはそれだけでは満足しなかった。

「お2人共、おはようございます」

そう言ってマグカップを持ってやってきたのはアカネさんだ。
ミスズを通したせいでボクらは3人とも心と記憶と感情が筒抜けの状態になってしまった。
そして何故かアカネさんもミスズの記憶と心を知り、その上で

『3人で仲良くお付き合いしましょ』

と言いだした。
ミスズに憑かれたアカネさんは文字通りミスズと一心同体になったが、ボクが院に上がる頃にはミスズは何故か自分の姿を現実でも現せるようになり、透けていた身体も徐々にはっきりとしてきて、今では人や物に触れ、持ち運ぶこともできる。
おかげで昨夜も2人がかりで責められた。
しかも心が筒抜けだからいいところばかりを攻められて反撃も出来ない。

――でも

――あなたも喜んでいたでしょ?

「うん…まぁ……」

――嬉しかった


ボクはもう独りと思う事はない。
ふとした瞬間にも思い出されるのは2人の女性の笑顔。
間違い無く、今。
ボクは幸せだと思った。
10/03/23 21:28更新 / ひつじ

■作者メッセージ
最近ずっとワケありだったのでほのぼのエロなしで息抜きをと思って書きました。
途中全然ほのぼのしてなかったです。
むしろあれはグロ?
つかもうほのぼのの基準がわかんなくなってきた。あれ?ドロヘドロ、あれはほのぼの?フラジールは萌えゲー?あれ?やべぇ、もう何が何だか…。
いや、あんなぐらい全然問題ないっすよね?
実は「ボク」のモデルは僕です。
つまりはただの妄想垂れ流しです。ゴーストなだけに。
まぁ、性格は改ざんしてます。
現実のひつじはもしこんな本見つけたらテンションあがって落書きとか空白のページにします。
夢の中で裸のミスズが現れたら「優しくしてくりゃれ」とほおを染めます。
心霊スポットとか呪いの絵とか見て、マジでなんか憑いてほしいって思います(ただし美人に限る)。
でも、僕の守護霊ひいじいちゃんらしいんですけど、ひいじいちゃんがとても強いらしくて悪霊とか全部片っ端からやっつけちゃってるらしいです。
おかげでこのアパートでなぜか一部屋だけ家賃が安くなってて引っ越した直後は猫がやたらと何もないところをきょろきょろとしてたりしましたが問題なく暮らしてます。
しかし相当硬派で堅い人だったとか・・・。僕が童貞なのこの人のせい?
まぁ、霊感ないので信じてませんけど。見えない聞こえない寄せ付けない。

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