連載小説
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前編
―1―

 バレンタイン。
 日本においては女性が気になる男性や付き合っている相手にチョコレートをプレゼントして、親愛の情を示すというイベント。
 いわゆるそれは本命チョコだそうで、本命でない相手に渡す社交辞令的な義理チョコや、女性同士で渡し合う友チョコ、最近に至っては男が男に渡す強敵(とも)チョコなるものも存在するらしい。
 このようにチョコレート会社の涙ぐましい努力もとい謀略の成果によって色々なチョコプレゼントの形式が生まれたわけだけども、俺みたいな非モテ族にはどのチョコもとことん縁がない話だった。
 チョコレートもらったことない歴十六年で高校一年まで来た俺は、チョコレートを義理ですらもらったことがない。当然ながら母親と親族は数に入れてない。
 だから困っている。
「これは、どっちなんだろう」
 下駄箱に入った、藍紫色のリボンで丁寧にラッピングされた立方体の小箱。リボンの隙間には小さく折りたたまれた紙が挟まれている。
 今日はバレンタインデー当日、今年も今年とて変わらず何もないだろうと思いつつ、しかしもしかしたらと一種の期待感を抱いていた俺にとって、その光景は俺の思考を乱すのに充分すぎた。
 軽く十秒ほど、俺は自分の下駄箱でその箱を見つめながら固まってしまう。後ろを通り過ぎていく同級生たちが何かひそひそ話をしていたことに気づいて、俺は慌ててその箱を鞄に仕舞い込んだ。
 落ち着け、まだチョコとも、ましてや本命とも決まったわけではない。というか、置く場所を間違えた可能性すらある。期待しちゃ駄目だ。絶対何か落とし穴がある。
 そうは思いつつも、俺は口の端がにやつくのを抑えられなかった。

 で、友達がいる前で開けることなんてできるはずもなく。しかし、早くこれが何なのか知りたかった俺は、昼休みにこっそりと旧校舎の誰もいない屋上手前の階段まで行った。
 本当は本館の屋上の方へ行くつもりだったんだけど先客がいた。ちょうど告白シーンだった。
 いつもなら爆発しろと内心叫ぶ俺だけど、今日は懐にあの箱があるので幾分か嫉妬心が湧いてこない。まだ誰から誰への何の物なのか判然としていないのだけれど。
 しかしそれも今にわかる。
 手紙。さすがにこれになら差出人とその相手が書かれているはずだ。漫画的なベタな名前書き忘れなんてないだろう。
「……」
 無言のガッツポーズ。我が世の春が来たァ!!
 早速手紙の冒頭に俺の名前があった。間違いない。一言一句丁寧に、とても綺麗で女性らしさのある柔らかなタッチで俺の名前が書かれている。
「以前からあなたのことが気になっていました……か」
 ぐっと手紙の内容を俺は噛み締める。

『薬師丸瑞樹(やくしまる・みずき)さんへ。
 突然の手紙とプレゼントごめんなさい。
 ずっとずっと以前からあなたのことが頭に離れなくて、早くこの気持ちを伝えたかったのだけれどやっぱり直接渡すとなると私は恥ずかしくて何も言えなくなりそうだから、バレンタインデーのこの日にこの手紙で気持ちを伝えます。
 あなたのことが好きです。この身と心が千切れてしまいそうなほどにあなたを想い、この身をあなたに繋ぎ止めてもらえれば、この心があなたのものになればと思う程、私はあなたを求めています。
 重い女でしょうか。
 ですが、こうでしか私は想いの丈を伝える術を知りません。きっとあなたに直接言おうとすれば、この重たい口は開かなくてあなたを困らせてしまうでしょう。
 もしもあなたが少しでも私の想いに触れてくださるなら、放課後旧校舎の屋上で待っています。返事はその折にしていただければと思います。
 中学生の頃からあなたに想いを寄せていた毒島紫百合(ぶすじま・しゆり)より』

 文句のつけようもないほどのラブレター。内容はかなりヘビーを極めているが、初めての本命と告白という事実が内容の重さを些細なものにしてくれている。
 嬉しい。純粋に嬉しい。やばい、小躍りしてしまいそうだ。
「……ただ」
 ぐっと昂る感情を抑えて、手紙の最後を見る。
「毒島紫百合って誰だ?」
 俺に告白してくれたのは、俺の知らない相手からだった。
 名前からして女性であることは間違いない。毒島って珍しい名前だし憶えていると知っていたら覚えているもんだけど。

「あそこにいるのが毒島だな」
 クラスに戻って友達に毒島のことを聞いたら、同じクラスだと教えられた。あれー?
 教室の窓際、後ろから二番目の席。背筋を伸ばして座っているのが毒島らしい。
 長い髪。とてもつもなく長い艶のある黒髪で、口以外の顔が髪に隠れてしまっている。
 第一印象は暗そう。昼休みなのに誰かと話しているそぶりも見せないし、昼食を食べて時間を持て余している感じだ。バレンタイン当日特有の妙な空気感から、彼女だけ確実に断絶されている。
「さすがに同級生の名前ぐらいは憶えておくべきだぞ薬師丸。まぁ俺も名前しか知らんが。それで、毒島がどうかしたのか?」
「あ、いやなんでもない。ありがとな」
「ふむ、そうか? ……もしかして、薬師丸、お前毒島からバレンタイン」
 友達に言い当てられそうになった瞬間、タイミングよく予鈴が鳴る。
「なわけねぇって。名前も知らなかったのによ」
 俺はチャイムの音に震える声をごまかしながら自分の席に戻った。それ以上は言及されずに済んだ。
 しかし実際、俺は毒島のことを知らなかった。というよりは忘れていた。あまりに影が薄いからピンと来なかったが、言われて確かにいたと思い出した。絡みなんて全くなかったし、どういう娘なのかも知らない。向こうだってそのはずだ。
 なのに俺のことを好き? ずっと前から。というか中学のときから? 地元の高校だから中学も同じの奴がいるにはいるけど。うーん。
 次の授業の準備をしているとき、俺はちらりと斜め後ろの毒島を見やる。
「っ!」
 目が合った。目の隙間から覗く闇色の瞳が俺のことをまっすぐに見つめていた。
 それは俺が毒島の方を見やるずっと前から、俺のことを見ていたことを意味していた。
 目が合ったことに気づくと、毒島は慌てたのか、身体をじたばたさせると窓の方へと向いてしまった。
 暗そうな印象はやっぱり拭えない。
 でも、口元が恥ずかし気にぎゅうっとつぐまれ、僅かに見える顔の肌が朱に染まっているのを見て、俺は不覚にも可愛いと思ってしまったのだった。
 放課後、旧校舎の屋上に行くとしよう。

 放課後、もうすでに教室に毒島の姿はなかった。俺はもらったチョコの数選手権への参加を辞退して屋上に向かう。どうせ同率最下位なのだから、一個貰ってしまった俺が参加しては皆に悪い。
 屋上のドアは開いていた。普通は閉まっているはずだけど、多分毒島が鍵を借りたのだろう。ここなら誰も来ないだろうし。
「毒島、さん?」
 彼女はすでにいた。左手側の手すり前でこちらに背を向けて。
 膝ほどまである長い髪を風にはためかせ、毒島が振り返る。素顔が露になる。陰りのある暗い瞳に、冷たさを感じさせるほどの白い肌。病弱な山荘の令嬢を思わせる儚げな雰囲気は、正直俺の好みにドストライクなほど、彼女を魅力的なものへと昇華させていた。
「瑞樹くん……」
 うわ、女子に下の名前呼びされてしまった。しかもいいなと思った娘に。いやそもそも、俺はこの娘に好意を寄せられているのか。
 いまさら緊張してきた。喉が渇いてぱりつく。上手く唾液が出ない。手が震えるのはきっと寒さのせいだけじゃない。
「え、えっと、これくれたの、君だよね?」
 俺は下駄箱に入れてくれた箱を見せる。中身は確認済みだ。丁寧に個包装されたトリュフチョコレート。まだ食べていないけど、包装されていてもわかるほど甘く美味しい香りが漂っていた。
「う、うん……ふふ、き、来てくれたんですね、瑞樹くん、良かった……来てくれなかったらどうしようかと思ってたんです」
 胸元で両手を握りながら、若干前屈みに毒島がこっちに来る。すごく独特な立ち振る舞いだ。
 山荘の令嬢と表現したけど、少し違うかもしれない。口元のつり上がった笑みがどこか狂人を思わせるようなものだった。
 ああ、いや、すごく失礼だなこれ。
「あー、うん。そりゃあ、せっかく手紙まで書いてくれたんだしね」
「ふ、ふふ、二十回くらい書き直したの……でも良かった。すれ違いになったらいけないから、終わってすぐにこっちに来て正解でした」
「へー……」
 まずいかもしれない。もしかしたら俺、やばい奴に目をつけられたのか?
「チョコレートは食べてくれました?」
「いやまだなんだ。返事をする前に食べるのはフェアじゃないと思ってね」
「そう、なんですね。気にしなくても良かったのに。それ、自信作なんです。一か月かけて作ったんですよ」
 本気で好意を寄せてくれているんだなとわかる。ただ言葉の一つ一つが、多分他の人が言うところの重いというレベルじゃない。
 この人、毒島自身がのしかかってくるかのような、そんな重さだ。
「えっと……俺たちお互いのことまだ知らないよね」
「私は良く知ってます。ずっと見ていましたから」
「ごめん、正直俺は君のこと全然知らなかったんだ」
「はい、そのことも知っています」
「だから、手紙の返事だけど」
「私、フラれちゃうんですか?」
 前屈みの彼女が鼻が擦れそうなほど間近まで迫ってきた。上目遣いの瞳が、闇すら呑み込みそうなほどの黒玉が俺の視線を掴んで離さない。
 甘い匂い。あのチョコからも微かに漂っていた甘くて良い匂いが、毒島から漂ってくる。
 女子は良い匂いがするっていうの本当だったんだ。それとも、毒島だから、かな。
 ちょっと変な奴という印象はどうあがいても覆らないけど、それ以外はかなり、いやとても魅力的だと思う。
 少なくともずっと隣にいて欲しいと思うくらいに。
 頭がぼうっとしてきた。俺何を考えて。
「瑞樹くん?」
 毒島さんが顔を上げて少し離れる。直後、ハッとなって俺は瞬きを繰り返した。なんだろう、いまの。すごい心地よかった。
「ねぇ、瑞樹くん。こんな私は、いやですか? 見た目通り、根暗だし友達もいないし、誰かとお話するの苦手で、いまだって緊張しっぱなしだし、やっぱりこんな私はいやですか?」
「あ、えっと違う、違うんだその。俺、毒島さんのこと知らないから。そんなのでもし良いよって返事したら、女性だからだとか外見だからとかそういう汚い理由でOK出したみたいで卑怯だし」
「ふ、ふふ、う、嬉しいぃ。瑞樹くん、私のこと想ってくれているんですねぇ」
「え、えっと、あれ、え」
 俺、何を言っているんだろう。頭がやっぱり上手く働かない。
「でもこんな外見ですよ? 根暗ですよ? 性格もねちっこいですよ? でも外見でならOKだって思ってくれるんだ。ふふ、すごい、嬉しい……」
「っ、毒島さん!?」
 背中に手を回され、真正面から抱きしめられる。髪がちょうど鼻先に触れて、彼女特有の甘い、思考を蕩かすほどの芳醇な香りが俺の思考を靄で埋め尽くす。
「じゃあ、お試し期間にしましょう? 一か月、次のホワイトデーまでのお試し期間。それまでに瑞樹くんが私のこと気にいってくれたら私と正式にお付き合いしてくれませんか? 私、そのためなら、瑞樹くんのためならなんだってしますから」
 きっと振り払わないといけなかったのだろう。でも、俺好みの甘い匂いはこの状況を甘受させるのに十分なほど、俺を魅了し尽くしていた。
 そして、彼女の申し出を数瞬の暇もなく受け入れてしまうほどくらいに。
「じゃ、じゃあ毒島さん、一か月、お試し期間……で」
「ふふ、はい、よろしくお願いします瑞樹くん。じゃ、じゃあ、さ、早速彼女(仮)からお願いしてもいいでしょうか」
「なに?」
「私のこと、し、紫百合(しゆり)って呼んでください。私、あまり苗字は好きじゃないし、それに、あなたに紫百合って呼ばれるの、ずっと夢見ていたんです。だからお願い、耳元で私に紫百合って囁いて」
 彼女は髪をあげて耳にかける。不意に見えた耳元から首筋にかけての色白な肌に不覚にも心臓が高鳴ってしまった。
 煽情的な毒島の仕草は俺の正常な心理状態を完全に乱してきたのだ。
「し、紫百合」
「……っ!」
 ぶるっと毒島が身体を震わせる。彼女の表情は恍惚に歪められ、白かった肌が真紅へと瞬時に染まっていった。
 何かを堪えるように抱きしめている俺に寄りかかってきた毒島を支えるため、俺も彼女の背に手を回す。
「ひぁっ!?」
「し、紫百合!?」
「あひゅっ、あああっ」
 な、なんだ具合悪くなったのか!? いきなり素っ頓狂な声だして。いや、それにしてはとても色っぽい悲鳴だったけど。
「ふ、ふふ、ふひっ、あはぁ、言われちゃいました、瑞樹くんに紫百合って。しかも早速呼び捨て。うふふ、抱きしめてももらえて、嬉しすぎて私このまま心臓が止まっちゃいそう」
 な、なんだ。そういう理由か。にしてもそんなに反応良くされると困るというか、嬉しいというか。
「ご、ごめん。紫百合、さん」
「あら、だ、駄目ですよ、瑞樹くん。もう紫百合って呼んでください。(仮)とはいえ、私たちはもうそういう仲なんですから」
「……」
 もしかしたら俺は、道を見誤ったのかもしれない。
 しかし、この甘い香りに浸れるならそれでもいいとさえ思ってしまった。
 そして。
「ふふ、チョコレート、私が食べさせてあげますね?」
 手に持っていた箱を取られ、中身の包装されたトリュフチョコレートを紫百合は取り出す。
 そしてそれを塗れた唇で摘まむと、迷いなく俺の顔に寄せてきた。
「っ!」
 チョコが口に当てられる。このままいけばキスになってしまう。一瞬浮かんだ抵抗心。しかし、思考を蕩かす甘い香りはチョコからも漂って来ていて、俺の抵抗力を根こそぎ奪っていった。
 俺の唇をこじ開けて侵入するチョコ。次いで蕩けた生チョコのような感触の、紫百合の唇が俺のに重なった。
 逃げられない。背と後頭部に手を回されて、紫百合から逃れられない。暗い闇色の瞳が、俺を沼の底へと引きずり込む。チョコの沼、紫百合の住まう沼に俺は絡めとられ、全身を捕らわれてしまったのだ。
 何より取り返しがつかないと思うのは。
 紫百合に囚われたのだと理解していても、別にいいかと思ってしまういまの精神状態だった。
 紫百合の柔らかな唇をいつまでも味わっていたと思うことだった。
「はぁあぁ……ふふごちそうさまでした。私、帰りますね。ゆっくり、ゆぅーっくり、私のチョコレート、味わってくださいね。私の瑞樹くん」
 チョコを軽く噛んだ瞬間、溢れ出た甘く刺激的な蜜は、彼女から漂う香りを何十倍も濃くさせた強烈な味わいだった。
 俺の意識がこちら側に戻って来れたのは、見回りに来た先生に怒られたおかげだった。

―2―

 紫百合は変な奴。という認識は正直いまでも変わっていない。素顔はとても可愛いのにわざわざ髪で顔を隠しているし、笑い方独特だし、あと虫が好きらしい。
「薬師丸、お前、本当に毒島と付き合い始めたのか?」
「(仮)だけどな。おっと嫉妬に駆られたパンチしてくんなよ」
「しない。別に羨ましくも思わんからな。ただあまりこういう陰口は言いたくないのだが、彼女はかなり変な奴だぞ」
「唐突だな」
「以前、虫、いやムカデか? と戯れているのを見たことがある。それにだ。俺は彼女が他の誰かと喋っているところ見たことない。中学の頃の同級生もいないみたいだし、完全に孤立してる」
「なら一層一緒にいた方がいいんじゃないの。孤立は駄目だろ」
「どう言ったものか。違和感があるんだ……いや、すまん、人の彼女に変なことを。ただまあ、孤立している相手と付き合うということはお前も孤立する可能性があるということだけ覚えておいてくれ」
「一応の忠告なんだな。だけど俺なら大丈夫だ。心配してもらって悪いな」
「そうか。ああ、最後に一言だけ……リア充爆発しろ」
「嫉妬乙」
 なんてやり取りを友達としたけど、こうして一週間、紫百合との関係は続いている。
 なんというか、俺と紫百合が一緒にいても特に誰にもとやかく言われなかった。
 高校生という中学よりは少し大人になったからなのか、それとも俺も紫百合もそういうターゲットには入らないレベルなのか。どっちかはわからないけど、変に囃されるよりははるかにマシだ。
「ム、ムカデですか? はい、好きですよ」
「そうなの。女の子は気持ち悪くなるもんじゃない? というか昼時にする話題でもなかったか」
 お昼休み。教室の隅っこで俺たちは紫百合の席で昼飯を共にしている。付き合い始めて二日目くらいで誘われてからずるずるとこの調子。友達たちも気を利かせて特になにも言ってこなくなった。
「だ、大丈夫です……ふふ、わ、私、お家柄、ムカデとか虫は大丈夫ですから」
「へぇ意外だ」
 弁当は当然ながら持参。作りましょうかと聞かれたけど悪いので丁重に断った。代わりに一緒に摘まめるおかずを何品か持ってきてくれていた。和食が得意らしく煮つけやらだし巻きやらどれも美味しい。
「ふ、ふふ、私の方が意外に思いました。み、瑞樹くんもムカデ大丈夫、そうですね」
「まぁムカデそのものが大丈夫、ってことじゃないけどな」
 ある意味でムカデは俺の恩人なのだ。だから無碍に扱えない。
 当たり障りのない世間話をして、昼食は終わった。変な奴という印象はやっぱり拭えない。会話の内容もホラーものの映画とか恋愛小説、それも純愛だけど歪な感じのものばかり。
 でも楽しい。初めての彼女(仮)だからか、それとも紫百合だからか。
 なんというか遠慮はあんまり出て来なくて気が楽なんだけど、時折見せる仕草、例えばご飯を食べるときの髪をかき上げる仕草とか、透明と言えるくらいの雪の肌が露になる瞬間とか、どうしても心臓が高鳴ってしまうとき不意に訪れる。
 そのバランスが絶妙で、一緒にいて全然飽きない。
「ふぅ」
「な、何か物足りなさそうです、ね。もっとおかず持ってきた方が良かったですか?」
「んー。いやお腹はいっぱいなんだけど何かが足りないって言うか。なんだろう」
 最近ずっとこの調子だ。お腹はいっぱい。もう食べられない。なのに物足りない。あと何か一つ。食べたりない。しかし、それは何でもいいってわけじゃなくて。でもそれが何かわからなくて、最近やきもきしている。
「ふふ」
 紫百合が不意に笑った。なんだろういまの。俺おかしいところあったかな。と、思っていたら、紫百合の手が俺の頬に伸びた。米粒がどうやらついていたらしい。
「ん、美味し」
 それをそのまま自然な流れで口に運ぶ紫百合。ああもう、どうしてこんなに。変な奴なのに、可愛いんだ? 挑戦的で煽情的な、闇色の瞳がまっすぐ俺を見据えて来て目が離せない。
「み、瑞樹くん……今日良ければ私の家に寄っていきませんか?」
「し、紫百合の家に?」
「はい。そ、そろそろ瑞樹くんと一緒に帰りたいと思って、いましたし」
「俺は構わないけど、紫百合の家の人は大丈夫?」
「家は無駄に広いですから。大丈夫です」
 何気に良家の娘なのだろうか。逆玉の輿……なんてな。一度は言ってみたかっただけだ。
「じゃあ、お邪魔するよ」
 きわめて平静を装って俺は返事した。多分気が付かれていないと思う。だが、内心は破裂しそうなほど心臓は高鳴っていた。
 だってさだってさ! 女子の家に! しかも彼女(仮)の家に! 
 初めてお邪魔するという、男子高校生切望の大イベント!
 ドキドキしないはずがないよな!
 午後の授業はほとんど身に入らなかった。

「マジか。え、マジか」
 世間話をしながら下校。地元の高校といっても田舎なので家まで遠いから当然自転車通学。無駄にだだっ広い田園に挟まれた道を並んで走りながらの世間話に花を咲かせて、着いた紫百合の家。
 俺は心底驚いた。小山の中腹にある神社へと続く階段を見上げて。
「え、紫百合ってここに住んでるの?」
「はい。わ、私の家、百足神社なんです。大百足を祀っていて」
「いやそうじゃなくて。えっと、あれ。ん、ああ、だからムカデとか大丈夫なんだ」
 紫百合がこくんと頷く。
 俺たちは階段下の駐輪スペースに自転車を置いて階段を上り始める。と言っても俺たちの自転車しかないけど。
 石段の幅はそこそこ広くて傾斜も緩やかだから楽だけど、とにかく長い。
 去年、百足神社なんだし、きっと百段あるだろうと実際に数えてみたら本当に百段あった。誰かに聞けばよかったのに無駄に頑張ったあのときが懐かしい。
「じゃあ毎日ここ上り下りしてるんだ。すごいな」
「ふふ、すごくはないですよ……慣れです、慣れ。それを言うなら、瑞樹くんだって、去年、毎日のように来てたじゃないですか」
「え?」
 否が応でもその言葉に反応してしまう。髪の隙間から見える紫百合の視線は、いつものように湿度の高いものだった。ただ、ずっと前からその視線は俺に向けられていた、のか。あの手紙にあったように中学の頃から。
「中学受験のとき、から」
「はい、熱心にお祈りしていて……ずっと、ずぅーっと、そのときから見てたんです」
「そう、なんだ」
 この胸の鼓動はなんだろう。恐怖? 緊張? 多分、どっちも。
 でも。
「ねぇ、瑞樹くん」
「っ、し、紫百合?」
 ぐっと腕を掴まれ、その腕を抱き締められる。ブレザーの内側にある柔らかな一対の感触、実感に伴う紫百合の体温、そして微かに鼻先をくすぐる紫百合の甘い匂いに、俺が抱いていた感情が変貌する。
 恐怖が、紫百合の女性的な魅力に対するドキドキへと塗り替えられたのだ。
「さ、最初はね……どうせすぐに帰るんだろうなーってくらいしか思わなかったんです。でもずっと長いこと祈り続けてくれて、それに何度も何度も足を運んできてくれて。不思議に思ったんです。こんなご利益もなさそうな神社に、どうしてこんなにも来てくれるんだろうって。気になると、もう止まらなくなっちゃって」
「う、うん」
 喉が渇く。
「気がつけば、毎日来る瑞樹くんをずっとずっと探してたんです。今日は、来ないかな、来るかな、ああ、来てくれた、話しかけたいな、でも怖がられたらいやだなって、だからずっと見てたんです。ずーっと」
「か、神城高校に合格できるかギリギリで俺追い詰められてたからな。勉強以外ですがるようなものなかったし、ダメ元で神様に祈ってたんだ。本当は有名なところ行きたかったけど、遠くに行っている余裕なかったし、寂れてても百足だから百点で合格って、最初はくだらない理由だったけど、でもなんとか合格もできたし、だから百足神社に感謝してて、ムカデにも」
 ああ、何言ってるんだ俺。言葉がうまくまとまらない。
「進学してもう来なくなってすごく残念に思いました。でも神様はすごいプレゼントをしてくれました。同じ高校、しかも同じクラスに通えるようにしてくれたんです。ふふ、もうこれは運命なんだなってそう思いました」
 腕を胸にいまだ挟んだまま、紫百合がもう片方の手で前髪を掻き分ける。闇色の瞳が不自然に煌めいた。毒々しい、しかし見るものを魅了し尽くす紫紺の色に。
「でも言えなくて。想いを伝えられなくて。神様は教えてくれました。勇気を。好きな人への想いの伝え方を」
「紫百合?」
「ふ、ふふ、だからバレンタインデーで告白させてもらいました。勇気を振り絞って、告白しました。じ、実は、こうやって家に案内するのも、すごく、勇気を振り絞っているんですよ……?」
「そ、そうなんだ」
「はい、そうなんです。まだ(仮)期間だけど、絶対に瑞樹くんを私のものしてみせますから」
 もう俺はすでに君のものだと、喉の奥まで出かかった。僅かに残った理性がぐっとそれを呑み込ませた。

「く、くつろいでいてくださいね。お茶持ってきますから」
 紫百合の部屋に案内されて俺は座布団に座っている。初めての女の子の部屋に、俺は背筋を伸ばして正座でテーブルに向っていた。もはや、お構いなくという言葉が喉をつっかえて出てこないくらい緊張している。
 あまりじろじろ見るのは良くないんだろうけど、しかし持て余した時間は紫百合の部屋を見渡すよう俺を急き立てた。
「…………」
 割と明るい感じの部屋なんだな。和室だからだろうか。畳や壁紙の色合いに柔和な明るみを感じる。ホラーとかが好きだったし、もっとこう暗いのをイメージしていた。うん、失礼だな。
 襖の奥の押入れには多分敷布団があるんだろう。部屋には正方形のテーブルと、勉強机。本棚が幾つかと箪笥。箪笥の上には某ファンタジーな熊さんが鎮座して俺を見下ろしている。
 本棚か。ああ、やっぱりタイトルはホラーっぽいのがちらほら。でも俺ですら知っている有名どころの恋愛漫画とかもある。あとは昆虫図鑑……。お酒についての本?
 お酒。そういえばあのトリュフチョコレート。中にお酒が使われていたみたいだったな。アルコール分はとても低いものらしいけど、それも手作りだったらしい。菓子作りの本もある。なるほど本当に俺のために一か月も前から作っていてくれていたらしい。
 ちょっと異質な感じはする。けどやっぱり手作りをもらえて、しかもそれが超がつくほど美味しいとあれば、嬉しくないはずがない。
 もう一度食べてみたいな。
「お待たせしました」
 すーっと襖を引いて戻ってきた紫百合に、俺は目を剥いた。
「し、紫百合、それ」
「ふふ、せ、せっかくなので着替えて来ました。家では普段これ、なんです……似合い、ますか?」
 紅緋と漆黒を基調にし、紫紺が血管のように走るどことなく艶のある着物。
 しかし単なる着物じゃない。帯が、ない。留められるはずの帯のない着物は裾がぶら下がり、身体の正中線を露にしている。
「っ、ちょ、し、紫百合それ、目のやり場に、困るっから」
「大丈夫ですよぉ、きちんと和装下着を着ていますから。肌色の」
「そ、そうじゃなくって」
 確かに着てはいる。でもすごく薄地だ。しかも見た感じ、ブラをつけていない。つまりこんな薄地で下の色を隠すことなんてできやしない。さっき俺の腕を挟んだふくらみはくっきりと出ているし、もし少しでも着物がずれたら見えてしまう。
「じゃあ脱ぎましょうか? 着物に、下着は邪道ですもの、ね?」
 前髪から僅かに覗く紫百合の瞳が細まる。妖艶に口元が歪む。まるで同級生には思えない、もっと年上の、いや人ですらない魔性の女性に見えてしまう。
「はい、冗談ですよ、瑞樹くん。ふ、ふふ、少しからかいすぎました。ごめんなさい。み、瑞樹くんがおうちに来てくれて、舞い上がってしまいました」
「……それでも帯は締めないんだね」
「きついのは苦手なんです。だ、大丈夫、瑞樹くんになら見られても私は、こ、困りませんから」
 困るのは俺なんだけどなぁ。いや、眼福だけども彼女いない歴=年齢の俺には刺激が強すぎる。もう、まともに紫百合の方を見られない。ああああぁ、やばい恥ずかしい。
「ふふ、さぁ飲んでください、瑞樹くん。冷めちゃいますよ」
「あ、う、うん……あ、美味しい」
 なんだろうこれ。紅茶? だけどちょっと違う。紅茶に何か別の味が混ざっているような。
「よ、良かった。口にあったみたいですね」
「この味、あのチョコに入ってたのと、似てる?」
「あ、わかりました? 隠し味でほんの一滴だけ。身体が温まりますよ」
 喉が潤っていく感じがする。美味しい、これ美味しい。
「おかわり、いります?」
「うん、ちょうだい」
 紫百合が嬉しそうに笑う。真っ白な首元を晒しながら、まるで俺に見せつけるようにティーポットのソレを注いでくれた。
 また俺はそれを一息に飲み干していた。
「嬉しい……気に入ってくれたんですね」
 肩に触れそうなほど隣まで身体を寄せてきた紫百合に、俺は何の抵抗心も浮かばずに受け入れていた。なんだか頭がふわふわする。
 肩に紫百合の頭が乗る。俺の身体にしなだれかかってきている。着物の隙間から淡い桃色の粒が見える。とても美味しそうで魅力的で、ああ、着物の裾の隙間から見える紫百合の太もももとても白くて……。
「瑞樹くん?」
「っ!」
 ハッとなった。俺は一体いまなにを?
「瑞樹くん……もしよろしければ、あのチョコレートまた作ってきましょうか?」
「えあ、えっと」
「好き、ですよね?」
 チョコ。ああ、チョコレート。あのチョコレート。うん、食べたい。そうだ。もっと食べたい。あれだ。あれがなかったからなんだ。最近俺が、ずっと物足りないと感じていたのはそれだ。
「じゃあ、作ってきますね。ふふ、たっぷり、たぁっぷり、愛情込めて、瑞樹くんのためだけのチョコレートを作ってきますね。……もう、二度と忘れられないように」
「うん、頼むよ、紫百合」
「はい、瑞樹くん」
 顔を上げる紫百合の表情は、まるで人ならざるもののように歪で、そして狂気と淫靡に満ち満ちた笑みとなっていた。
 それがおかしいと何故か俺は思えず、ひたすら身体を寄せ合う時間を続けていた。

―3―

 あれから二週間と少し。もうすぐホワイトデーがやってくる。
 紫百合との関係はとても良好だった。少なくとも紫百合がいない時間がつまらないと思えるくらいには。
 チョコはあれから毎日食べている。紫百合のチョコを食べると不思議とつまらなさと寂しさが解消されたのだ。充足。満たされる感覚が体内を巡っていくのはたまらなく心地が良い。
 疑問には思わなかった。紫百合の作るチョコレートは美味しい。ただそれだけだろうと思っていた。美味しいから、こうも求めてしまうのだと。そして、それを作る紫百合自身も求めてしまうのだと。
 紫百合。紫百合。紫百合。
 きっとホワイトデーが来たら俺は、俺から告白する。付き合ってくださいと。
 それまでは(仮)で、このたまらなく渇いては満たされる感覚を楽しみたい。

 そう、思っていた。友達からあれを聞くまでは。

「薬師丸。最近付き合いが悪いな。彼女ができたからとは言え、たまには俺たちの集まりにも顔を出せ。今日カラオケ行くんだが、どうだ?」
「ああ、いや悪い。今日も紫百合と約束してるから。紫百合ん家で一緒に菓子を作るんだ」
「全く仲が良くて羨ましい限りだな。しかしあまり遅くなるなよ。郊外から帰るんなら家に着く頃には真っ暗だろう」
「いや、家からはそんなに遠くないから大丈夫だよ」
 友達は俺の言葉に訝しげに眉をひそめる。
「お前の家の近く? いや、それはおかしくないか?」
「何が?」
「毒島は市外の家に住んでいるんだろう?」
 何を言っているんだ?
「おいおい、そんなわけないだろ」
「いやしかしだな。毒島の同級生はこの学校にはおらんぞ? この近くで通っている中学は一つしかない。なのに誰も毒島の中学の頃を知るやつはおらんのだ。もしや、今年引っ越してきたのか?」
 嫌な汗がでた。知りたくないと、心の声が警鐘を鳴らした。
 だけど、俺は言葉にしてしまっていた。
「いや違うって。だって毒島の家は、あの百足神社だぞ」
 とうとう友達は露骨に表情を歪めた。顔面蒼白で、明らかに恐怖を抱いていた。
「や、薬師丸、それはあり得ないぞ」
「あり得ないって……」
「百足神社に家などないし、あそこは無人神社だぞ? いつ取り壊されてもおかしくない」
「……え?」
 え?
 いままで立っていた足元が揺らぐような感覚を、俺は初めて味わった。
「瑞樹くん、帰りましょう?」
 耳元で囁かれた声は、足場を失って落ちていくを容易に絡めとり、そして呑み込んでいった。
18/03/04 23:00更新 / ヤンデレラ
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■作者メッセージ
 今作は久しぶりにまともなヤンデレ物になりそう……!
 なったら、いいなぁ(遠い目)。

 ホワイトデーが終わるまではバレンタインなので、別に出遅れてないのです。
 ないのです!

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