第一話
―1―
ドジった。
まさか勇者が現れるなんて思ってもみなかった。
くそっ、道理であの村の連中、食いもんとかあっさり渡すはずだ。端っからあたしを仕留める気だったんだな。
「あー、やべぇ……」
視界に靄がかかってきた。どれくらい走った? 山二つは越えたか? どっかの森の中だけど場所が全然わからねぇ。
このアタシが勇者に後れをとって、あまつさえ尻尾巻いて逃げる羽目になるなんて。
ああ、血が止まりやしねぇ。逃げるために激しく動いたからか? それとも勇者の不思議な力のせいか? 腹から流れる血と一緒に力も抜けていくような気がする。
毒は違うはずだ。食いもんに毒は入ってたけど、アタシにそんなものは効かねぇ。まっ、食べすぎたせいで身体が重くなって不覚を取ったんだがな。
「今度はちゃんと狙う場所、選ばねぇとな」
さすがに油断しすぎた。
ただ、いまのアタシに次があるのかって話だが。
「ぐっ……」
脚に力が入らず、アタシは地面に顔面からキスする。そんな趣味はないが、もう力が入らない。
ああくそ、こんな最期かよ。地獄の番犬様が、こんなどことも知れぬ場所で野垂れ死ぬ、か。
「へっ、いいさ……このまま地獄に、帰る、のも悪く、ない……」
今度は地獄の住民相手に奪ってやるさ……。
アタシはその生き方しか知らないんだからな。
「ルーリア?」
声がした。小さな子供の声。それと混じって聞こえるアタシを恐れる大人の声。
「ルーリアだっ!」
だけど、その子供の声にはアタシに抱く恐怖の色は含まれちゃいなかった。
必死に顔をあげてその子供の顔を見ようとして、だけどアタシの意識は闇に呑まれて、消えた。
―2―
地獄の天井、というには普通すぎる木の天井だった。そして視界が広がると直後に来るのは。
「痛っ……!」
腹を襲う激痛。これは違う。ここは地獄なんかじゃない。別のあの世でもない。
確かな現実だ。
自分の置かれている状況が一切合切理解できなかった。
木の天井、つまりは屋内。ここはどこかの家か? それにベッドの上。誰かに連れて来られて寝かされた? しかもあの状況で生きている?
「どこのどいつが」
腹部の痛みに耐えながら身体を起こす。かたいベッドだ。家もさほど裕福じゃなさそうだな。盗るもんなんてろくにないだろう。
全身真っ黒なアタシの肌に映えるような白い包帯が腹に巻かれてある。血は滲んでないし新しい。
助かった? いや、助けられたのか?
しかしこのアタシを助けるってことは、アタシは魔物がいっぱい住む国の領地まで逃げていたってことか? だけどかなり距離があったはずだ。徒歩だと数週間かかるくらいは。
ああ、やっぱりボロっちいな。部屋には小さな椅子とテーブルくらいしかない。壁には何か葉っぱとか木の実とか額縁に飾られてるけど、どれも統一感の欠片もないし食いもんにもならなさそうだ。
まぁいい。いまはあの勇者の活動域から離れることが先決だ。さっさと身体治して、お礼参りしなきゃいけねぇしな。
「誰が連れて来たか知らねぇがさっさとずらかって」
ちょうど言いかけたタイミングで、アタシの向かいにあるドアが開いた。
アタシは腹の激痛も無視して、ベッドから部屋の隅へと飛び退く。全身に殺気を迸らせ、部屋へ入ってきた何者かにあらんばかりへとぶつけた。
小動物がきょとんとアタシを見上げていた。手には包帯やら何かの小瓶やらを盆に乗せて持っている。
「ガキ……?」
しかも人間の。
髪は金髪のツンツン頭。蒼い瞳の大きい、どこぞの館に置いてあったような人形みたいななよなよしい顔。どこか小動物を思わせる。
だけど、その人形みたいな小綺麗な服は着ていなくて、目の前のガキは薄汚い布服を着ていた。身長は多分、アタシのお腹よりほんの少し上くらい。
「よかったっ! ルーリア目が覚めたんだね!」
顔をまるで日光みたく輝かせたと思うと、お盆を床に置いてそのガキはアタシに駆け寄ろうとする。
「シャル!」
しかし背後から現れた大人の女が、シャルと呼んだガキを後ろから羽交い絞めにした。
「お母さん離してよ!」
「駄目です。あなたはこっちに来ちゃ駄目だって言ったでしょう!」
「いやだ! せっかくルーリアが帰って来たんだ! いっぱい遊ぶんだもんっ!」
こいつら二人とも人間? 子供の方はともかく母親らしい女は明らかにアタシを警戒してやがる。この反応だとこいつは噂に聞く魔物と暮らしている国の人間じゃねぇ。
アタシの漆黒の肌と黒炎の体毛、人間の指くらいはある鋭爪もどれも人間にはないもので、奴らにとっちゃあ恐ろしいもんだ。
だからこいつらがアタシらを助ける道理なんざないはず。なのになんでだ?
「もう離してよっ!」
「あぁ!」
ガキが一瞬の隙をついて女の手から離れたと思うと、アタシに突進してきやがった。
部屋の隅、大怪我中。躱す術があるはずもなく。
「ごふぅ!?」
腹部に思い切りガキの突進を受けた。目の前に星が散ったかと思った。悶絶だ。
「こんの、ガキっ……! いきなり何してくれやがる」
アタシは爪を立て、振り上げる。
「あぁ、シャル逃げてっ!」
このアタシに手を出したらどうなるかその身体に思い知らせて……。
「ルーリア」
だけどアタシは振り下ろせなかった。
アタシのお腹に抱き付くガキ。
泣いていた。
だけど、それは初めて見る泣き顔だった。
泣き顔ってのは、何かがいなくなって悲しいときか、アタシに物取られて悔しいとき、憎悪とともに浮かべるもんだと思ってた。
だけどこのガキ。笑いながら泣いてやがる。心底嬉しそうな顔で。アタシの顔を見上げて泣いてやがる。
アタシの存在を喜んでやがる。
「……」
アタシにもそのあと、なんでそんなことをしたのかわからなかった。
ただ無意識のうちに手が伸びていた。爪を立てないよう手の腹の柔らかい肉球のところで、そのガキの頭を撫でていた。
わけがわからねぇ。でも、こうしなきゃいけない。こうしたい、何故かそう思ってしまった。その理由はさっぱりだった。
ガキが泣き止んで嬉しそうに笑ってやがる。アタシも、こいつの母親も茫然としちまった。
腹の痛みなんざもうほとんど飛んじまってた。
「ルーリア。ルーリア……ルーリア」
アタシじゃない誰かの名前でアタシを呼ぶガキ。アタシの黒い毛に顔をこすりつけて気持ちよさそうにしてやがる。これは一体全体なんなんだ。
「おい、アタシはルーリアなんかじゃ」
「あ、言い忘れてた! 遅くなったけど、ルーリア、おかえりなさいっ!」
「っ!」
無邪気に笑うガキにアタシは口を閉じてしまう。
なんでだよ、言えよ。口にしちまえよ。アタシはルーリアとかいう何かじゃないって。
他人の空似、人違いもとい魔物違いだって。
「チッ……」
だけど言えねぇ……。こいつの笑顔、なんでか知らねぇが消してやりたくねぇ。
「はぁ……こほん。お、おう。ただいま」
アタシの返事にガキはぱぁっと明るくなる。それはもう日光なんて目じゃねぇくらい眩く輝いていた。
どうやらシャルとかいうガキは、あたしのことをこないだまで飼っていた黒犬の生まれ変わりだと思い込んでいるらしい。
「だからねー、ルーリアが帰って来たときはー、ほんと嬉しかったんだー。ありがとう、おかえりルーリア!」
疑うことを知らないというのはガキの特権か。羨ましいお気楽な性格だ。
こいつの暮らす付近はどうやらまだ主神教の領地内みたいだった。
この家は森の傍、湖の畔にある。こいつらは森の木を建材にしたり、採取した薬草やら町では手に入らない物を町に持って行っては僅かばかりの稼ぎで暮らしているそうだ。
「なんでルーリアそんなこと気になるのー? 身体が女の子みたいになったから?」
なんて馬鹿げた質問は適当に返す。別に無理してルーリアを装う必要もないからな。
ガキと違って、こいつの母親はガキの馬鹿げた妄想を信じていないみたいだし。部屋の隅っこで警戒心と恐怖心の入り混じった表情でアタシのことをじっと見てやがる。アタシがガキに変なことしないか監視しているんだろう。
目を合わせようとしたら視線を逸らすが、まぁいい。いつもなら食って掛かるところだが、このガキの前だと面倒くせぇ。腹も怪我してるしな。
まっ、言われずともすぐに出ていくさ。奇妙なことに眠ってる間に腹の傷もだいぶ良くなったからな。三日と経たずに良くなるだろ。別に今から出ても問題ない。
「ルーリアルーリア、遊べないの? 怪我痛むのか?」
このガキさえいなけりゃな。
「こんなもん怪我のうちに入りゃあしねぇよ」
「そっかぁルーリア強くなったんだねっ! 無敵だ!」
ベッドに腰かけるアタシに尊敬の眼差しで見上げてくる。アタシは元から強いんだが、まぁ悪い気はしないから放っておこう。
別に誇らしくはなったりはしていない。アタシは地獄の番犬ヘルハウンド様だからな。当然のことだ。
「じゃあ、ルーリア。これつけよう? 前のは一緒に埋めちゃったからないけど、予備のが家にあったんだ」
とか言ってポケットから出してきたのは真っ白な紐に金具がついたベルトだった。
おい、まさかと思うが。
「これ、首輪だろ。まさか、つけろ、ってのか?」
「そうだよ? 前もずっと付けてたじゃない」
あ、アタシは地獄の番犬ヘルハウンド様だぞ? 誰にも縛られず、誰にも従えられず、誰にも懐かない。例えアタシを創った神だろうとだ。それがアタシだ。
そのアタシに首輪、だと? まるでそこらにいるような犬っころと同じになれってのか?
「それにルーリアがいま付けてるトゲトゲの首輪、とっても痛そうだよ? 骸骨で怖いし、重そうだし。こっちの方が絶対いいよっ!」
く、くそっ、そんな、そんなアタシのことを気にかけてるような言葉と顔で見るな。
アタシはヘルハウンド、ヘルハウンド様なんだぞ。そのアタシが普通の犬がつけるような首輪を……。
「付けてあげるね」
「なななっ!」
「わっ」
ガキが膝をよじ登ってくる。突然のことにアタシはガキを弾き飛ばしてしまった。ごろんごろんと床をガキが転がる。
「っ!」
女が息を呑みながら立ち上がるのを目の端に捉える。その顔には恐怖、そしてそれを上回る怒り。子を傷つけられた親がする特有の顔だ。
この顔は苦手だった。
「びっくりした!」
不穏な空気を払うように、ガキの声が響く。転がっていたガキはすぐさま起き上がると、アタシの元に駆けてきた。膝に手を置いて目を輝かせる。
「本当にルーリアすごくなったねっ! 力持ちっ! なんだかぎゅおんってなってごろごろってなってすごかった! もう安心だっ」
「お、お前、アタシのこと怖くないのかよ」
「なんで? ルーリアのことは怖くないよ? いつも押し倒されてたし。それにいきなりよじ登ったらびっくりするよね。ごめんね。昔もそうだったね。ルーリアの背に乗ろうとしたら振り落とされちゃったもん」
怒らねぇのかよ。怖がらねぇのかよ。なんなんだよ、お前。
アタシはヘルハウンドだぞ? 地獄の番犬だぞ? 普通怖がるだろ。子供だって、アタシを見たら怖がって泣いてたぞ。怯えて逃げて、動けない子供は泣いて親の名前を呼ぶんだ。それが普通だ。そうさせるのがアタシという存在だ。
なのに、なんで。
「ねぇねぇ、ルーリア? 今度はいきなりしないね? だから、首輪、つけてもいい?」
いくらそのルーリアに似てるからってよ。もっと怖がれよ。懐くなよ。信頼の眼差しを向けてくれるなよ。
アタシはヘルハウンドなんだからよ。
お前のルーリアじゃないんだからよ。
「……ほらよ」
アタシはベッドから降りて地べたに座った。重いトゲ付きの鉄の首輪を外して、久しぶりに何もなくなった首をガキに差し出す。
ガキが笑っている。悪い気分じゃなかった。
真っ白な首輪が首に巻かれる。それはとても軽くて、何故だかとても心地よく温かった。あの重い鉄の首輪をどうしていままでつけていられたのか、疑問に思ってしまうほどに。
「ねぇねぇ、ルーリア。ぼくの名前呼んでみて」
「……なんで」
「だって、折角お話できるルーリアに生まれ変わったんだもん。ワンじゃなくて、名前を呼んで欲しいな」
「くそ…………シャル……これでいいか?」
アタシが羞恥心を精いっぱい押し殺して紡いだ一言。
それを目の前のガキ――シャルに届けた瞬間、アタシは細い腕に抱かれてシャルの頬と顔をこすり合わせることになった。
「うん、ルーリア。大好き!」
「……くぅん」
何故かわからない。甘ったるい犬のような声がアタシの口から漏れ出た。
ただ一つわかるのは、今日この瞬間、どれほどの間そうであれるかわからないが。
アタシはシャルの飼い犬になった。
それだけだった。
―3―
なんでアタシがこんなことを……。
「さぁ行こっ、ルーリア!」
シャルに手を引かれて、森の中を歩く。木漏れ日がアタシたちを微かに照らし、森を駆ける澄んだ空気が身体を洗っていく。
心地いい。確かに心地いいけど、名目がいやだった。
「ルーリアと久しぶりの散歩、楽しいなぁ」
鼻歌混じりにアタシの手を引っ張ってスキップするシャル。歩幅が小さいからアタシの徒歩とちょうどいい塩梅だ。
「大きくなったルーリアとお散歩。特別なお散歩だね!」
アタシたちの数歩後ろにはシャルの母親もいる。まっ、監視だな。何かあれば背中の槍を使うんだろう。名目は野生動物を追い払うためらしいけど。
当然だ。アタシは魔物でヘルハウンド。警戒してくれた方がこっちとしても助かる。
自分が何者か、忘れないでいられるからな。
にしても散歩か。このアタシがねぇ。散歩の何が楽しいのやら。ただ歩くだけだろ。
「ふっふーん、ルーリアと一緒の散歩、たっのしいな〜。ね、ルーリアも楽しいでしょ?」
「……」
……。
まぁ色々と眩しくて、見ていて飽きないのだけは認める。
「シャル。散歩だけじゃなくて薬草も摘むんですよ」
背中から母親の声。薬草摘み。そういえばそれで生計立ててるって言ってたっけ。だから麻袋を腰からぶら下げてたり、ハサミみたいなのまで持ってるのか。
んで摘んだ薬草を父親が売りに行くと。他にも町で見つけた仕事をこなしたりしているらしいが。
面倒な話だ。働かないと食べていけないんだからな。アタシみたいに奪えたら楽だってのに。
「ようっし、ルーリア一緒に薬草採ろう!」
「え、アタシもやるのか?」
「そうだよ? ルーリアのお鼻で良い薬草悪い薬草って分けてたもん!」
「ええぇ……」
んなこと言われてもよ、アタシ薬草の良し悪しなんてわからねぇぞ。というか鼻で良い悪いなんてわかるのか?
気怠く思っていると、ふとシャルが手袋をはめていたことに気づいた。ぼろっちくて泥汚れの取れてない手袋だ。
「そういや、なんで手袋なんかはめてんだ?」
「ええとね、悪い薬草の中には素手で触っちゃうと危ないものもあるんだよ。やっぱり犬だった頃はわかってなかったんだ! ぼくの大事な手袋がぶがぶって食べちゃったことあったもんね! 今度は食べちゃ駄目だよ!」
「しねぇよ」
頬を膨らませるシャルに全く身に覚えのないことで怒られた。理不尽すぎるだろ。
「あっ、そういえばルーリアの手袋ない。どうしよう。ぼくの半分使う?」
「いらねぇし、こんな小さい手袋アタシの手に入るわけねぇだろ」
シャルに右掌を広げて見せる。そもそも人間とは手の作りが違いすぎる。毛に覆われてるし、長くて鋭い爪も生えてるし。
「ルーリアのお手々ふにゅふにゅで気持ちいいねー」
「ひゃわっ!? い、いきなり触るんじゃねぇ!」
「えー、ルーリアの肉球気持ちいいからやー。手繋ごうよ」
くそっ、こいつ離す気ねぇ。ここで無理矢理振り解いちまったら、足場も悪いし倒れるかもしれねぇ。
「はぁ……ったく薬草摘み始める前までだかんな」
「うん!」
シャルの手はとても小さいはずなのに、アタシの大きな手の方が包まれているような、そんな錯覚をアタシは覚えていた。
手を繋いでアタシたちは自然豊かな森の中を歩いていく。アタシは毛があるから大丈夫だけど、毛の少ない人間にはなかなか厳しい場所だ。枝葉とかで怪我しちまうからな。その代わりに靴とか服を使うんだろうけど。
シャルは家とは打って変わって丈夫そうな布服を着ている。袖までぴっちりだ。母親もおんなじ。結構足場悪いのに歩くのも慣れてるし、庭みたいなもんなんだろうな。
「ねーねールーリアー。ルーリアは何が好きなの?」
「んだ、藪から棒に」
「だってだって、折角お話できるようになったんだもん。名前で呼んでもらえるようになったし、今度はルーリアの好きなものが知りたいな」
そんなもんかねぇ。別に他人の好きなもんとか興味わかねぇけど。
ただまぁ、することは歩くだけ。暇なのも確かだ。仕方ない。こいつの話に乗ってやるか。
「好きなの好きなもの。んー」
そういえば特に考えたことなかったな。アタシの好きなもんなんざ。
腹が減ったら奪ったり、動物狩ったりして飯食って、んで眠くなったら寝る。それくらいしかしてこなかったからな。
食いもんか。そうだな。
「強いて言うなら肉か」
「お肉?」
「脂乗った肉が好きだな。旨いからな。それくらいしか思いつかねーよ」
「ボールは好きじゃないの? いっぱいボール遊びしたでしょ?」
小首を傾げてアタシのことを見上げてくるシャル。全く、本気でアタシのことを犬だと思ってやがんだな。確かに犬系統ではあるが、アタシは地獄の番犬ヘルハウンド様だぞ。そこらの呑気な犬の魔物や、普通の犬と一緒にすんじゃねぇよ。
「ボール遊びなんざ好きでもなんでもねぇよ」
「え、あんなに楽しそうにしてくれてたのに……ごめんね、本当は楽しくないのにボール遊びなんかさせて」
「っ!?」
な、なんで泣く!? アタシがボール遊び好きじゃないってだけで泣くのかこいつは!?
くっ、なんだよなんなんだよ! なんでアタシはこいつが泣くと胸の辺りがぎゅうってなるんだ!? 意味わからねぇ。苦しいぞ……。くそったれ。
「あー、泣くんじゃねぇ! べ、別にお前とのボール遊びが楽しくなかったってわけじゃねぇんだ。お前と遊ぶのなら何でもいいんだよ。ボールが特別ってわけじゃねぇ……」
何言ってんだよアタシは。こんなガキがどうなったって問題ねぇだろ。なのに、慰めるようなこと言って。アタシらしくねぇ。
なのに。
「……ありがとう! ルーリア!」
なのに、こいつが眩しいくらいの笑みでアタシに抱き付いてくると、すぐに胸の痛みが消えやがる。それどころか、なんだか胸がいっぱいになりやがる。腹いっぱい飯なんて食ってねぇのに。
ほわほわで、ふわふわ、ふよふよしてる。
それを心地いいと思ってるアタシがいやがる。わけわからねぇ。
「チッ……。おら、とろとろ歩くんじゃねぇ。さっさと薬草見つけんだろ」
「わぁ」
アタシはシャルの服を背中から掴んでひょいと持ち上げる。それで、そのまま肩車してやった。軽すぎて背負ってるのかどうかもわからねぇくらいだ。
まっ、その方がいい。あんまし抱き付かれるとアタシも自分が何かわかんなく。
「高い高いー! ルーリアの髪の毛ふわふわー!」
「!!」
髪、頭に抱き付かれっ!? シャルの小さい手の感触が頭にぃ!?
「ルーリアのお耳柔らかーい! ふにふにだぁ!」
「お、おまっ、触んじゃねぇ!」
「えー、いいじゃないーそれそれふにふにー」
「ぬわー!?」
耳! 耳の中にシャルの指が入って!?
「ふ、ふふ、ははっ、ちょやめっ、くすぐってぇからやめっ、ひゃははっ!」
笑いが止まんねぇ。本当にくすぐってぇって!
「くすぐってぇっつってんだろっ!」
もう一度背中を掴んで目の前に吊るしてやる。大人でも漏らすくらいの眼光で睨みつけてやったのに、心底嬉しそうに笑ってやがる。くそっ、こいつ全然ビビりやしねぇ。
「ルーリア肩車もっと」
「次、耳触ったら落とすからな」
「はーい!」
仕方なしに乗せてやる。ってまた耳触って……。
「ルーリア号はっしーん! ごーごー!」
ったく、なんだよ、ルーリア号って。
……まっ、いいか。今度はくすぐってこねぇし。
シャルを肩に乗せ、両耳を握られたままアタシは森の中を歩く。薬草ってのは至る所にあるみたいだけど、どれがいいのかわからん。葉っぱなんてどれも同じにしか見えない。
「シャル、ここらにしましょう」
どうやら目的地に着いたみたいだった。近くに水の流れる音がする。川が近いのか。
シャルを下ろすと、早速地面に座り込んで、木の傍とか、地面に生えてる葉を摘み始めた。器用なもんだな。小さくて細長い変な葉っぱをハサミで切ってやがる。人間だし、ガキだからそうするしかないだろうな。
自分用の小さい麻袋にシャルはどんどん葉っぱとか、もとい薬草を入れていく。手馴れてやがんな。
「んだ? 袋に穴が幾つもあんのか?」
「別の薬草が混ざらないように分けてあるんだよ。あとできちんと分けるんだけどね」
「ほう。んじゃましゃあねぇ。アタシも手伝ってやるよ」
アタシもしゃがんで無造作に葉っぱを引きちぎる。
「ああ! 駄目だよ、ルーリア!」
「あん? これでいいんだろ?」
根っこごと引きちぎった葉っぱをぶら下げて、シャルに見せる。
「根はきちんと残しとかないと次の薬草が生えてこないでしょ! それにルーリアが採ったのは子供の葉っぱ! そういうのは置いておいてもっと成長するのを待つの!」
シャルの勢いに気圧され、アタシは掴んだ薬草を地面に下ろす。シャルが根っこを地面に埋めて、軽く土をかけてやった。
それから大人の葉っぱをアタシに指さして教えてくれる。なるほど、肥え太らせてから食うってわけか。一応わかった。
「それにね、全部採っちゃ駄目なんだよ。全部取っちゃうと薬草がもう採れなくなっちゃうでしょ? 根っこを残しておけば、また薬草さんがぼくたちにいっぱい葉っぱを採らせてくれるんだよ」
「採らせてくれるってなぁ。葉っぱに感情なんてないだろ」
「あるよ! あるもん! はい、ルーリアも手を合わせて!」
シャルがいきなり採っていった薬草の方へ向き直り、手を合わせる。
「何やってんだ?」
「早く、ルーリアもっ!」
「お、おう」
仕方ない。やらねぇとうるさいし、真似事だけでもしとくか。
手を合わせる。シャルが目を瞑っていたのでアタシもそれに倣った。
「薬草さん薬草さん、今日も葉っぱを採らせていただいて、ありがとうございましたっ!」
若干の舌足らずで噛みそうになりながらも、シャルはそんなお礼の言葉を薬草たちに贈る。
本心でそう言っているのがわかるほど、ひたむきというか真剣な声音だった。
「ほら、ルーリアも言うの!」
「……や、薬草さん、採らせていただいてありがとうござい、ました」
シャルに言わされて言ってみたが、特に薬草からの返事があるわけでもない。ただ、一瞬、ほんの少しだけ、気持ちいい風が薬草の上を通ってアタシの身体を撫でた気がした。
まぁそれが薬草の返事、なんてことはないだろうけど。
「ふふふ、ルーリア、しゃがんでしゃがんで?」
ん。なんだよ急に。また肩車か? 手袋も外しやがったし。
シャルの望み通りしゃがんでやると、いきなりシャルがアタシの頭をその小さい掌で撫で始めた。
「えらいえらい。ルーリアはえらい」
「なっ、ななな、なにすんだてめぇ!」
アタシは熱くなる顔を感じながら一足飛びでシャルから離れる。
「うふふふふー。ぼくも、いまのルーリアみたいに初めてありがとう、って言ったらお母さんにいまみたいに褒められたのっ! だから、ぼくもルーリアを褒めてあげるんだぁ」
「べ、べべ別にいらねぇよ、んなもん!」
「えー!」
不服そうなシャルにアタシは背を向ける。なんだか顔を見られたくなかった。頭の温かい柔らかな感触に、何故か顔がにやけていたからだ。
ちくしょう。変すぎるぞ、アタシ。
そんなこんな、まだまだ採るものはいっぱいあったらしく、薬草採取は続いた。草だけじゃなくて、花とかも採るみたいだ。季節によっては根を採ることもあるらしい。
ようやく採取とやらにも慣れてきたアタシは、シャルに教えてもらわずとも採れるようになった。まぁシャルが採ったのと同じのしかわかんねぇけど。
「ん。それ、毒草じゃねぇか?」
びくんと肩を震わしたかと思うと、数瞬間が空いてから母親は頷いた。母親の手には、根ごと引き抜かれた薬草がある。花はまだ咲いていないみたいだが、葉は開かれるように四方に広がる形をしている。
「……毒草かどうか、わかるのですね」
なんだ無視されるかと思ったけどな。アタシとは関わらないようにしてたし。まぁいい。アタシは自分が気になったことを聞くだけだ。こいつがどう思ってようが関係ない。
「嫌な感じがするからな。食べたりしたらまずい感じがすんぞ」
直感的に何故かそう思った。まぁ、魔物のアタシが自然界ごときの毒で死んだり腹を壊すようなことにはなりゃあしねぇが。
「もしかして食べるんじゃねぇよな。ぜってぇ食わすよ。シャルには毒だろ」
あまりにもひもじくて、とか。洒落にならねぇ。
しかし、母親はぽかんとしかと思うと、呆れたように肩を竦めた。じとっとした目つきでアタシの顔を見る。んだよ。
「食べませんし、食べさせません。これは毒草ですが根のところが薬になるんです」
「へぇ。毒あるくせに薬にねぇ」
形も育ちも悪い、細長いじゃがいもみたいな根っこ。それが薬になると。
変な話だな。毒が薬とか。まっ、魔物のアタシにとっちゃ薬がないと病気も地力で治せない人間の弱さの方が変だがな。
「別に薬だけじゃありませんよ。普通に食べられているワラビは生のまま食せば脚気になる場合もあります。毒があるものでもきちんと処理すれば、人が食べても大丈夫になるんです」
「ふーん」
あまりに適当な返事過ぎたか睨まれた。まっ、そんな睨み怖くもなんともねぇけどな。アタシはヘルハウンドだからな。
ただ、このアタシに睨み効かせてきた度胸だけは買ってやるよ。
「何故、あなたは魔物のくせに私たちを」
何か呟こうとした母親の声を遮る絶叫が森に響いた。
「うわああああああああああああああん!!」
シャルの悲鳴。それは明らかな危険を孕む、助けを求める声だった。
全身が粟立つ。何かを考えるよりも早く、アタシは動いていた。後ろで母親が背に抱えていた槍を持つ感じがしたが、無視してシャルの声がする方へ駆けた。
草を掻き分けて躍り出た先。少し離れた位置に、大樹を背にして地面にへたり込んでいるシャルと、その少し前に地面を鳴らしていまにも突進しようとしている猪がいた。
猪のサイズはシャルよりも大きい。湾曲した牙は前方へと捻じ曲がり、それはシャルへと向けられている。
そしてその猪が地面を蹴った。
頭が沸騰した。この猪は何を誰に向けている? シャルに、牙を、剥けているだと?
何故か沸いた怒りのまま、シャルに牙を突き刺そうとする猪へ飛び掛かろうとアタシは大地を蹴った。
その瞬間、シャルがアタシを見た。
「ルーリアぁー!!」
アタシを見つけたことへの安堵と、そしていままさに襲われていることへの恐怖が入り混じった顔。
シャルは、アタシに手を伸ばした。多分、猪よりも恐い顔をしているアタシなんかに。
「ッ! シャルッ!」
猪に飛び掛かろうとしたアタシは無理矢理方向を転換させた。アタシに助けを求め、手を伸ばすシャルの方へ。
そして、猪がシャルに突撃するよりも速く、一匹と一頭の間に滑り込み、アタシは小さなシャルの身体を黒い巨躯で抱き包んだ。
直後、背中で鈍い音が響く。
突進をかましてきた猪の牙が、若干だけアタシの背を刺し貫いていた。
「あ、あああああっ! ル、ルーリアぁ! 駄目だよルーリアルーリア!?」
「お、おい、暴れるなっ! アタシは大丈夫だ!」
子供とは思えない力で暴れ出すシャルをアタシは抑えて抱きしめる。
「うううぁあああっ! やだっ、やだやだやだっ、ルーリアがっ!」
泣きべそをかくその瞳はアタシと、アタシじゃない誰かを見ているようだった。
何かを怖がっている? 怪我か? だがそんなの余計なお世話だぞ?
「フゴッ!?」
後ろで困惑する猪の声がする。牙は刺さっている。確かに刺さっている。
一寸の半分も満たないほどだがな。
そのくせに、引き抜けない。牙を引き抜けない。しかし、それ以上刺さりもしない。当たり前だ。このアタシがそこらの野生動物の牙如きに貫かれるような軟な身体してるわけねぇだろ。
んで、人様の身体に刺しといて、ましてやシャルを狙っておいて逃げられるわけ、ないよなぁ!?
シャルの顔を右手で胸に押し付けて、何も見せないようにする。
それで空いた左腕を背後に回し、アタシの筋肉に捕まり抜けなかった猪の牙を掴んだ。
「オラァッ!!」
背筋を緩め身体から牙を引き抜き、力任せにアタシは牙を掴んだ腕を振るう。
まるで枝葉のように宙を舞う猪を、アタシは目の前の木に叩きつけてやった。
「ブギィ!?」
そんな悲鳴を上げたかと思うと猪は地面に落ちて動かなくなる。ふんっ、シャルに手を出そうとした報いだ。
「ああ、ルーリアぁ」
「んだよ、いつまで泣いてんだ。おら、さっさと泣き止めって」
「大丈夫なの、だってだって、猪が、角が、刺さってっ」
「ふん」
シャルの泣き顔をさっさと消すために、アタシの豊満なおっぱいでぎゅうぎゅうに挟み込んでやる。涙なんてアタシの体毛に全部吸わせてやるぜ。
「あぅ、苦しいよぉ、ルーリアー」
「余計なお世話だ。アタシを誰だと思ってやがる」
「……ルーリアだよぉ」
「そうだ。アタシがルーリア様だ」
長くかかったが、どうやら泣き止んだみたいだな。おっぱいの間から顔を出させると、眉をひそめて息苦しそうな顔をしていた。まぁ泣き顔よりはいい。
「良かったぁ」
本気で安堵してやがる。なんだ? さっきの怯え方は。尋常じゃなかったぞ?
「シャル!」
駆け寄ってきた母親に合わせて、アタシはシャルを地面に下ろしてやる。
母親はすぐにシャルへと抱き着き怪我がないかを確認した。母親の方がシャルよりもずっと泣きながら、こいつが無事かを何度も確認していた。
「ああ、良かった、良かったシャル。怪我はないみたいね……」
……ふん。別になんとも思わないさ。アタシは別に好きでやっただけだ。どう思われてても別に。
二人から距離を取ろうとしたアタシの手首を、シャルの母親は掴んだ。
ぼろぼろと涙を零して、しかしシャルに似た笑顔で母親は言う。
「ありがとう、ありがとう……」
アタシは何故か息を呑んでしまって。
何も言えずに立ち尽くしていた。
感じたことのない感情が、胸の内で渦巻いていた。
―4―
物心がついたときには盗みを働いていた。
身体が大きくなったときには強盗を働いていた。
この鋭い爪で、黒い巨躯で、炎を帯びる真紅の瞳で、人を脅し食べ物を強奪していた。
アタシにとって生きるとは、もっというと食べるという行為は誰かから奪う、ということだった。
魔物として自覚して、精が一番の主食だとわかってもアタシは変わらなかった。
男を襲って精を搾り取ってやろうかと考えたこともあったけど、いまいち実行に移せなかった。
アタシは、生粋の略奪者だった。
それ以外の生き方を知らなかった。
だから。
「さぁ、食べてくれ。君が狩った猪なんだからな」
「焼いたものだけじゃなくて、煮たものもあるわよ」
アタシは誰かから与えられるということに慣れていなかった。
テーブルに四つの椅子がある。アタシの右にシャル、左にシャルの母親、そしてテーブルを挟んで向かいにシャルの父親がいた。
そしてテーブルに並ぶのは猪の肉料理。焼かれた鉄板のまま広いテーブルに置かれ、一口大に切り分けられた猪の肉が香ばしい匂いを放つ煙を立てている。
他にも猪の肉が入った茶色のスープ(シチューと言うらしい)だとか、匂いの強い葉っぱに包んで焼いた香草焼きとかいうものが並んでた。
椅子に座ってどんどん並んでいく料理に、しかもそれがアタシのために作られたということに戸惑うことしかできなかった。
何があったか、というと何があったのかアタシもわからない。
家に帰ってしばらくは、アタシはシャルと部屋でごろついてた。シャルがじゃれてくるから、逆さ釣りにしてやったりとかな。
それでシャルの父親が帰って来て、またちょっとしてアタシは夕食に呼ばれた。
昨日の夜も朝も、アタシはパンとかで腹を満たした。一緒の部屋で食べなかった。シャルには母親たちはまだ怪我しているからだとかなんとか言ってたけど、要は怖いから一緒にいたくないということだろう。
なのに今日の夕方になって打って変わって、一緒に夕食を食べないかと誘われた。
んで一緒にテーブルを囲んだらこの通りだ。わけわからねぇ。
それに、シャルの母親も父親もにこにこ笑ってやがる。ご機嫌を窺うような感じではないとわかる。歓迎されている。だから疑問が尽きない。
アタシは魔物だぞ。凶暴凶悪なヘルハウンド様だ。顔色を窺って飯を差し出すんならともかく、こんな隠そうともしない好意で飯を一緒に食べようなんて、頭がおかしくなっちまったとしか思えねぇ。
それともアタシが気が付かないくらい巧妙に騙そうとしているのか? 毒が入っていたりとか。
まぁ毒なんざ効きやしねぇけどな。
「いっぱい食べてね。とても大きな猪だったからいっぱいあるわよ。時期が時期だからあまり脂も乗っていないし、肉も硬いけど、あなたなら大丈夫よね?」
「お、おう……肉は好物だからな」
満面の笑顔で尋ねられると、頷き返すことしかできない。
まぁいいさ。もらえるんならもらう。温かい飯なんざ、そうありつけねぇからな。
「じゃあ、食事を頂く前に祈りを」
「?」
「ルーリアルーリア、こうやって、手と手を握り合うんだよ」
両手で拳を作る感じか。それを口の前に持って行くと。
シャルの真似をして、アタシも同じようにする。母親も父親もやっていた。言葉を紡いだのは父親だった。
「母なる主神よ。今日このとき、貴女様の慈しみに感謝し、この食事をいただきます。大いなる貴女様と心優しき黒き魔物が恵んでくださったものに祝福を与え、私たちの身と心の糧となりますように」
いわゆる食前の祈り。襲いにいった村で似たような言葉を聞いたことはある。
主神。主神か。まぁそうだよな。ここは反魔物領。それも主神の手が及んでいる地域だ。こいつらも主神教であるに決まってる。
おかしいのは、心優しき黒き魔物という言葉が入ってたってことだ。これってアタシのことだろ? 主神教のくせにこんな祈りをしていいのか?
疑問に眉をひそめていると、いつの間にか目を開けていた父親に微笑みかけられた。
まるで心を読まれたように感じて、アタシは目を逸らす。
「さぁ食べよう。ルーリアさん、ルーリアにも感謝してな」
「うん! ありがとうね、ルーリア!」
「ふ、ふんっ。べ、別にアタシは感謝とかしないからな」
そもそもアタシが仕留めた猪だ。アタシに食べる権利があるのは当然。
だから遠慮はいらねぇ。施されたものとか思わなくてもいいはずだ。
なのだが。
「旨っ!? なにこれ旨っ!?」
料理というものができないアタシ一人じゃあ、こんな旨い飯が食えることはなかった。
温かくて、身に染み入るような旨い料理。
毒なんて入ってるわけもなく。
ただただ、お腹と胸の奥を満たしていくような感覚がアタシに奇妙な充足感を与えてくれた。
「手で食べるんじゃないよー、こうやってフォークを使うんだよ」
「……お、おう。こ、こうか?」
「そうそう、上手ー。それでナイフをこうしてー」
だからまぁ、その点だけは感謝してやらなくもない。
アタシはお腹が張って動けなくなるくらい食べた。食べてる途中、ずっと目の前が何かで滲んでいたような、頬を温かいのが伝ってたような気がしたけど、きっと気のせいだ。
シャルもその両親もアタシを見つめて、微笑んでくれていた。
―5―
その日の晩、シャルに構ってやってやっと寝付いたあと、アタシは母親に呼ばれた。
飯の片づけをちょうど終えたところだったみたいで、エプロンを脱いで椅子にかける。父親もその横の椅子に座っていた。
その顔は飯を食っていたときとはちょっと違う。真剣さというか、差し迫るような何かを感じた。
「……」
まっ、タダであんなことするわけないわな。
「お話、いいですか? えっと……ルーリア、さん」
「アタシの名前はルーリアじゃねぇが。いまはそれでいい」
元の名前に思い入れがあるわけでもないしな。むしろ嫌いだ。
「で、話ってなんだ?」
乱暴に椅子に座る。アタシの身体に椅子はギシギシと嫌な悲鳴を上げた。目の前のシャルの父親よりもアタシはでかいからな。
「その、お尋ねしたいのですが、あなたは魔物、なんですよね?」
父親が歯切れ悪く聞いてくる。アタシが魔物かどうか?
「見たらわかるだろうが。この爪、牙、肌の色、そして目に宿る魔力。お前ら人間がこんなの持ってるか?」
人差し指の爪をテーブルに勢いよく突き刺す。長い爪は深くテーブルに食い込んだ。
若干、息を呑む感じが二人からするが、どうにも退くようなそぶりを見せない。
なるほど。結構強い意思をもってアタシに話しかけてきたってわけだ。多分だけど、あのシャルのためだろうな。そんな目をしてる。
「やっぱり魔物、なんですね。主神様に忌み嫌われる」
「ふんっ」
「……その、お怪我の具合はどうなんですか?」
母親が伏し目がちに尋ねてくる。
「ああん? ああ、怪我な。どっちのことだ?」
「えっとどちらも」
「背中はもう完全に塞がってる。あんな猪の角なんざ、何万回刺されようが死なねーよ。腹のこっちはまぁ、面倒な奴にやられたからな。だが、あと二、三日もすりゃほとんど回復する」
「そう、ですか」
残念がってるな。ふん、このまま死んでくれたらと思ってたか?
「実はその、あなたにお願いがあるんです」
姿勢を正して、父親が膝に拳を置く。真剣な眼差し。どこか、申し訳なさかもしくは引け目を感じているようにも見える。母親の方も同様だ。
お願いね。この流れだ。間違いないだろ。
「わかったよ」
お願いが何かも待たずにアタシは答える。どうせ内容なんざわかってる。
立ち上がって、アタシは二人に背を向けた。別に勇者と戦うくらいの全力運動をしなければ傷も開かないほどには治ってる。
どこで休もうが治る速度は変わらない。
「え? えっと、ルーリアさん」
「ルーリアじゃねぇ、アタシはテラスだ。化物のテラスだ」
決別のための言葉。もうアタシはルーリアじゃない。
この家を出ることになる以上、ルーリアは終わりだ。
だって、こいつらの願いはアタシにこの家を出て行って欲しいってことだろう?
なら、もうルーリアの名前は必要ない。
アタシが襲ってきた奴らにつけられた名、テラス(化物)でいい。
「て、テラスさん。ありがとうございます」
「ふん、礼を言うんならシャルに言うんだな」
あいつのせいでアタシは随分と丸く――。
「シャルのこと、よろしくお願いします。傷が治るまでの間だけでもいいので」
「…………は?」
はぁ?
んんっ、いま、なんつった?
この家から出ようとしたアタシは立ち止まる。ギギギと壊れかけの人形のように首を動かして、シャルの両親に振り返った。
ホッとしたように、二人は息をついて笑っていた。
「よかった。ルーリアさ、いえ、テラスさんが受け入れてくれて」
「ああ。これでまたシャルを悲しませなくて済む」
「いやいやいやいや、ちょ、ちょっと待てお前ら! 勝手に話進めんな!」
「はい? え、私たちの話を受け入れてくれたのでは?」
「はぁ!? シャルのことをよろしく!? アタシをいますぐ追い出したかったんじゃないのかっ!?」
アタシの疑問に、二人は首が飛んでいきそうなくらい勢いよく横に振った。それはアタシの疑問の否定だった。
「違います! あなたにはシャルの傍にこれからもいて欲しいんです。少しだけ、せめてあなたの傷が癒える間だけでも」
なんだなんだなんだ!? どうなってやがる! こいつらアタシを追い出したかったんじゃないのか?
「アタシは魔物だぞ!? ヘルハウンド、地獄の番犬だ! それなのに」
「しー! シャルに聞こえます!」
母親に手で口を塞がれる。こいつ、魔物のアタシに全然臆してねぇ!?
「あなたが魔物ということは拾った瞬間からわかっていました。あなたの口からも聞けて間違いじゃなかったこともわかりました」
シャルに聞こえないようにか、小声で母親はかたる。
「でもあなたはシャルを守ってくれました。凶暴な猪から。それに、どれだけ接してもシャルを傷つけるどころか、優しく撫でて、抱き包んでくれて、思いやりのようなものを感じることが私にはできたんです」
「妻はこういうのに敏感です。猪の話を聞いて、私も妻の意見に賛同しました」
「あなたは魔物です。主神様から忌み嫌われ、その子供たちである私たちも貴方を忌み嫌い追い出さなくてはならないのでしょう。ですが、あなたはいま息子の拠り所となっています。それに話に聞く凶暴な魔物とも違う」
いや、アタシは凶暴な魔物だけどな。
「他の魔物がどうなのかは私たちにはわかりません。ですが、あなたならシャルのことを任せてもよいと、そう思ったのです」
「……アタシを拾う前のシャルはそんなにひどかったのかよ」
「ルーリアはあの子の良き姉であり、また妹でもあり、家族でしたから。母親の私よりもずっと長くいたでしょうね。ルーリアが死んでしまったのは、猪に襲われたシャルを庇ったのが原因だったんです。そのときの怪我が元で……」
だからあのときあんなに取り乱して。
「あなたを見つけたのは、森と私たちの家を見渡せる山にルーリアを埋めてきた帰り道だったんです。あそこは特にルーリアの好きな散歩コースでしたから」
心を痛めていたシャルにとって、ルーリアと同じ毛色をした獣人の女性を見つければ、生まれ変わりだと思っても仕方ない、そう母親はかたる。
生まれた時期と死んだ時期が全然違うのに気づきそうなものだけど、シャルにとっては些細なことに違いないと父親は言った。
「あなたがあそこにいなければ、きっとシャルは今日みたいな元気を取り戻せなかったと思います。だからありがとうございます。そして、できればもういましばらくの間、シャルと一緒にいてあげて欲しいんです」
「お願いします」
父親も母親も揃ってアタシに頭を下げてきた。
頭を下げられたことは何度もある。アタシに見逃してもらうため、恐怖から逃れるため、命乞いのため。でもこれはそれらとは全然物が違った。
アタシを排除したいお願いじゃない。
アタシを必要としてくれている願いだった。
「っ……」
まただ。
胸が温かく、いっぱいになる。腹はすでにいっぱいだけど、そういうのとは違う何かが胸の中に溢れてる。
それが悪くないと思う自分がいる。ここにいれば、こんな気持ちをずっと味わえるのか?
シャルと一緒にいればずっと。
「……まっ、もうさっき返事しちまったしな」
二人が驚く。だけど次にはもう笑ってやがった。恐ろしい魔物のアタシに笑いかけてくれていた。
「いいぜ。いてやるよ。怪我が治るまで、かどうかはアタシの気分次第だがな」
どうも照れ臭くて、アタシは二人の顔を見ることができなかった。
なんにせよ。初めてアタシがいてもいい場所ができたのだった。
ドジった。
まさか勇者が現れるなんて思ってもみなかった。
くそっ、道理であの村の連中、食いもんとかあっさり渡すはずだ。端っからあたしを仕留める気だったんだな。
「あー、やべぇ……」
視界に靄がかかってきた。どれくらい走った? 山二つは越えたか? どっかの森の中だけど場所が全然わからねぇ。
このアタシが勇者に後れをとって、あまつさえ尻尾巻いて逃げる羽目になるなんて。
ああ、血が止まりやしねぇ。逃げるために激しく動いたからか? それとも勇者の不思議な力のせいか? 腹から流れる血と一緒に力も抜けていくような気がする。
毒は違うはずだ。食いもんに毒は入ってたけど、アタシにそんなものは効かねぇ。まっ、食べすぎたせいで身体が重くなって不覚を取ったんだがな。
「今度はちゃんと狙う場所、選ばねぇとな」
さすがに油断しすぎた。
ただ、いまのアタシに次があるのかって話だが。
「ぐっ……」
脚に力が入らず、アタシは地面に顔面からキスする。そんな趣味はないが、もう力が入らない。
ああくそ、こんな最期かよ。地獄の番犬様が、こんなどことも知れぬ場所で野垂れ死ぬ、か。
「へっ、いいさ……このまま地獄に、帰る、のも悪く、ない……」
今度は地獄の住民相手に奪ってやるさ……。
アタシはその生き方しか知らないんだからな。
「ルーリア?」
声がした。小さな子供の声。それと混じって聞こえるアタシを恐れる大人の声。
「ルーリアだっ!」
だけど、その子供の声にはアタシに抱く恐怖の色は含まれちゃいなかった。
必死に顔をあげてその子供の顔を見ようとして、だけどアタシの意識は闇に呑まれて、消えた。
―2―
地獄の天井、というには普通すぎる木の天井だった。そして視界が広がると直後に来るのは。
「痛っ……!」
腹を襲う激痛。これは違う。ここは地獄なんかじゃない。別のあの世でもない。
確かな現実だ。
自分の置かれている状況が一切合切理解できなかった。
木の天井、つまりは屋内。ここはどこかの家か? それにベッドの上。誰かに連れて来られて寝かされた? しかもあの状況で生きている?
「どこのどいつが」
腹部の痛みに耐えながら身体を起こす。かたいベッドだ。家もさほど裕福じゃなさそうだな。盗るもんなんてろくにないだろう。
全身真っ黒なアタシの肌に映えるような白い包帯が腹に巻かれてある。血は滲んでないし新しい。
助かった? いや、助けられたのか?
しかしこのアタシを助けるってことは、アタシは魔物がいっぱい住む国の領地まで逃げていたってことか? だけどかなり距離があったはずだ。徒歩だと数週間かかるくらいは。
ああ、やっぱりボロっちいな。部屋には小さな椅子とテーブルくらいしかない。壁には何か葉っぱとか木の実とか額縁に飾られてるけど、どれも統一感の欠片もないし食いもんにもならなさそうだ。
まぁいい。いまはあの勇者の活動域から離れることが先決だ。さっさと身体治して、お礼参りしなきゃいけねぇしな。
「誰が連れて来たか知らねぇがさっさとずらかって」
ちょうど言いかけたタイミングで、アタシの向かいにあるドアが開いた。
アタシは腹の激痛も無視して、ベッドから部屋の隅へと飛び退く。全身に殺気を迸らせ、部屋へ入ってきた何者かにあらんばかりへとぶつけた。
小動物がきょとんとアタシを見上げていた。手には包帯やら何かの小瓶やらを盆に乗せて持っている。
「ガキ……?」
しかも人間の。
髪は金髪のツンツン頭。蒼い瞳の大きい、どこぞの館に置いてあったような人形みたいななよなよしい顔。どこか小動物を思わせる。
だけど、その人形みたいな小綺麗な服は着ていなくて、目の前のガキは薄汚い布服を着ていた。身長は多分、アタシのお腹よりほんの少し上くらい。
「よかったっ! ルーリア目が覚めたんだね!」
顔をまるで日光みたく輝かせたと思うと、お盆を床に置いてそのガキはアタシに駆け寄ろうとする。
「シャル!」
しかし背後から現れた大人の女が、シャルと呼んだガキを後ろから羽交い絞めにした。
「お母さん離してよ!」
「駄目です。あなたはこっちに来ちゃ駄目だって言ったでしょう!」
「いやだ! せっかくルーリアが帰って来たんだ! いっぱい遊ぶんだもんっ!」
こいつら二人とも人間? 子供の方はともかく母親らしい女は明らかにアタシを警戒してやがる。この反応だとこいつは噂に聞く魔物と暮らしている国の人間じゃねぇ。
アタシの漆黒の肌と黒炎の体毛、人間の指くらいはある鋭爪もどれも人間にはないもので、奴らにとっちゃあ恐ろしいもんだ。
だからこいつらがアタシらを助ける道理なんざないはず。なのになんでだ?
「もう離してよっ!」
「あぁ!」
ガキが一瞬の隙をついて女の手から離れたと思うと、アタシに突進してきやがった。
部屋の隅、大怪我中。躱す術があるはずもなく。
「ごふぅ!?」
腹部に思い切りガキの突進を受けた。目の前に星が散ったかと思った。悶絶だ。
「こんの、ガキっ……! いきなり何してくれやがる」
アタシは爪を立て、振り上げる。
「あぁ、シャル逃げてっ!」
このアタシに手を出したらどうなるかその身体に思い知らせて……。
「ルーリア」
だけどアタシは振り下ろせなかった。
アタシのお腹に抱き付くガキ。
泣いていた。
だけど、それは初めて見る泣き顔だった。
泣き顔ってのは、何かがいなくなって悲しいときか、アタシに物取られて悔しいとき、憎悪とともに浮かべるもんだと思ってた。
だけどこのガキ。笑いながら泣いてやがる。心底嬉しそうな顔で。アタシの顔を見上げて泣いてやがる。
アタシの存在を喜んでやがる。
「……」
アタシにもそのあと、なんでそんなことをしたのかわからなかった。
ただ無意識のうちに手が伸びていた。爪を立てないよう手の腹の柔らかい肉球のところで、そのガキの頭を撫でていた。
わけがわからねぇ。でも、こうしなきゃいけない。こうしたい、何故かそう思ってしまった。その理由はさっぱりだった。
ガキが泣き止んで嬉しそうに笑ってやがる。アタシも、こいつの母親も茫然としちまった。
腹の痛みなんざもうほとんど飛んじまってた。
「ルーリア。ルーリア……ルーリア」
アタシじゃない誰かの名前でアタシを呼ぶガキ。アタシの黒い毛に顔をこすりつけて気持ちよさそうにしてやがる。これは一体全体なんなんだ。
「おい、アタシはルーリアなんかじゃ」
「あ、言い忘れてた! 遅くなったけど、ルーリア、おかえりなさいっ!」
「っ!」
無邪気に笑うガキにアタシは口を閉じてしまう。
なんでだよ、言えよ。口にしちまえよ。アタシはルーリアとかいう何かじゃないって。
他人の空似、人違いもとい魔物違いだって。
「チッ……」
だけど言えねぇ……。こいつの笑顔、なんでか知らねぇが消してやりたくねぇ。
「はぁ……こほん。お、おう。ただいま」
アタシの返事にガキはぱぁっと明るくなる。それはもう日光なんて目じゃねぇくらい眩く輝いていた。
どうやらシャルとかいうガキは、あたしのことをこないだまで飼っていた黒犬の生まれ変わりだと思い込んでいるらしい。
「だからねー、ルーリアが帰って来たときはー、ほんと嬉しかったんだー。ありがとう、おかえりルーリア!」
疑うことを知らないというのはガキの特権か。羨ましいお気楽な性格だ。
こいつの暮らす付近はどうやらまだ主神教の領地内みたいだった。
この家は森の傍、湖の畔にある。こいつらは森の木を建材にしたり、採取した薬草やら町では手に入らない物を町に持って行っては僅かばかりの稼ぎで暮らしているそうだ。
「なんでルーリアそんなこと気になるのー? 身体が女の子みたいになったから?」
なんて馬鹿げた質問は適当に返す。別に無理してルーリアを装う必要もないからな。
ガキと違って、こいつの母親はガキの馬鹿げた妄想を信じていないみたいだし。部屋の隅っこで警戒心と恐怖心の入り混じった表情でアタシのことをじっと見てやがる。アタシがガキに変なことしないか監視しているんだろう。
目を合わせようとしたら視線を逸らすが、まぁいい。いつもなら食って掛かるところだが、このガキの前だと面倒くせぇ。腹も怪我してるしな。
まっ、言われずともすぐに出ていくさ。奇妙なことに眠ってる間に腹の傷もだいぶ良くなったからな。三日と経たずに良くなるだろ。別に今から出ても問題ない。
「ルーリアルーリア、遊べないの? 怪我痛むのか?」
このガキさえいなけりゃな。
「こんなもん怪我のうちに入りゃあしねぇよ」
「そっかぁルーリア強くなったんだねっ! 無敵だ!」
ベッドに腰かけるアタシに尊敬の眼差しで見上げてくる。アタシは元から強いんだが、まぁ悪い気はしないから放っておこう。
別に誇らしくはなったりはしていない。アタシは地獄の番犬ヘルハウンド様だからな。当然のことだ。
「じゃあ、ルーリア。これつけよう? 前のは一緒に埋めちゃったからないけど、予備のが家にあったんだ」
とか言ってポケットから出してきたのは真っ白な紐に金具がついたベルトだった。
おい、まさかと思うが。
「これ、首輪だろ。まさか、つけろ、ってのか?」
「そうだよ? 前もずっと付けてたじゃない」
あ、アタシは地獄の番犬ヘルハウンド様だぞ? 誰にも縛られず、誰にも従えられず、誰にも懐かない。例えアタシを創った神だろうとだ。それがアタシだ。
そのアタシに首輪、だと? まるでそこらにいるような犬っころと同じになれってのか?
「それにルーリアがいま付けてるトゲトゲの首輪、とっても痛そうだよ? 骸骨で怖いし、重そうだし。こっちの方が絶対いいよっ!」
く、くそっ、そんな、そんなアタシのことを気にかけてるような言葉と顔で見るな。
アタシはヘルハウンド、ヘルハウンド様なんだぞ。そのアタシが普通の犬がつけるような首輪を……。
「付けてあげるね」
「なななっ!」
「わっ」
ガキが膝をよじ登ってくる。突然のことにアタシはガキを弾き飛ばしてしまった。ごろんごろんと床をガキが転がる。
「っ!」
女が息を呑みながら立ち上がるのを目の端に捉える。その顔には恐怖、そしてそれを上回る怒り。子を傷つけられた親がする特有の顔だ。
この顔は苦手だった。
「びっくりした!」
不穏な空気を払うように、ガキの声が響く。転がっていたガキはすぐさま起き上がると、アタシの元に駆けてきた。膝に手を置いて目を輝かせる。
「本当にルーリアすごくなったねっ! 力持ちっ! なんだかぎゅおんってなってごろごろってなってすごかった! もう安心だっ」
「お、お前、アタシのこと怖くないのかよ」
「なんで? ルーリアのことは怖くないよ? いつも押し倒されてたし。それにいきなりよじ登ったらびっくりするよね。ごめんね。昔もそうだったね。ルーリアの背に乗ろうとしたら振り落とされちゃったもん」
怒らねぇのかよ。怖がらねぇのかよ。なんなんだよ、お前。
アタシはヘルハウンドだぞ? 地獄の番犬だぞ? 普通怖がるだろ。子供だって、アタシを見たら怖がって泣いてたぞ。怯えて逃げて、動けない子供は泣いて親の名前を呼ぶんだ。それが普通だ。そうさせるのがアタシという存在だ。
なのに、なんで。
「ねぇねぇ、ルーリア? 今度はいきなりしないね? だから、首輪、つけてもいい?」
いくらそのルーリアに似てるからってよ。もっと怖がれよ。懐くなよ。信頼の眼差しを向けてくれるなよ。
アタシはヘルハウンドなんだからよ。
お前のルーリアじゃないんだからよ。
「……ほらよ」
アタシはベッドから降りて地べたに座った。重いトゲ付きの鉄の首輪を外して、久しぶりに何もなくなった首をガキに差し出す。
ガキが笑っている。悪い気分じゃなかった。
真っ白な首輪が首に巻かれる。それはとても軽くて、何故だかとても心地よく温かった。あの重い鉄の首輪をどうしていままでつけていられたのか、疑問に思ってしまうほどに。
「ねぇねぇ、ルーリア。ぼくの名前呼んでみて」
「……なんで」
「だって、折角お話できるルーリアに生まれ変わったんだもん。ワンじゃなくて、名前を呼んで欲しいな」
「くそ…………シャル……これでいいか?」
アタシが羞恥心を精いっぱい押し殺して紡いだ一言。
それを目の前のガキ――シャルに届けた瞬間、アタシは細い腕に抱かれてシャルの頬と顔をこすり合わせることになった。
「うん、ルーリア。大好き!」
「……くぅん」
何故かわからない。甘ったるい犬のような声がアタシの口から漏れ出た。
ただ一つわかるのは、今日この瞬間、どれほどの間そうであれるかわからないが。
アタシはシャルの飼い犬になった。
それだけだった。
―3―
なんでアタシがこんなことを……。
「さぁ行こっ、ルーリア!」
シャルに手を引かれて、森の中を歩く。木漏れ日がアタシたちを微かに照らし、森を駆ける澄んだ空気が身体を洗っていく。
心地いい。確かに心地いいけど、名目がいやだった。
「ルーリアと久しぶりの散歩、楽しいなぁ」
鼻歌混じりにアタシの手を引っ張ってスキップするシャル。歩幅が小さいからアタシの徒歩とちょうどいい塩梅だ。
「大きくなったルーリアとお散歩。特別なお散歩だね!」
アタシたちの数歩後ろにはシャルの母親もいる。まっ、監視だな。何かあれば背中の槍を使うんだろう。名目は野生動物を追い払うためらしいけど。
当然だ。アタシは魔物でヘルハウンド。警戒してくれた方がこっちとしても助かる。
自分が何者か、忘れないでいられるからな。
にしても散歩か。このアタシがねぇ。散歩の何が楽しいのやら。ただ歩くだけだろ。
「ふっふーん、ルーリアと一緒の散歩、たっのしいな〜。ね、ルーリアも楽しいでしょ?」
「……」
……。
まぁ色々と眩しくて、見ていて飽きないのだけは認める。
「シャル。散歩だけじゃなくて薬草も摘むんですよ」
背中から母親の声。薬草摘み。そういえばそれで生計立ててるって言ってたっけ。だから麻袋を腰からぶら下げてたり、ハサミみたいなのまで持ってるのか。
んで摘んだ薬草を父親が売りに行くと。他にも町で見つけた仕事をこなしたりしているらしいが。
面倒な話だ。働かないと食べていけないんだからな。アタシみたいに奪えたら楽だってのに。
「ようっし、ルーリア一緒に薬草採ろう!」
「え、アタシもやるのか?」
「そうだよ? ルーリアのお鼻で良い薬草悪い薬草って分けてたもん!」
「ええぇ……」
んなこと言われてもよ、アタシ薬草の良し悪しなんてわからねぇぞ。というか鼻で良い悪いなんてわかるのか?
気怠く思っていると、ふとシャルが手袋をはめていたことに気づいた。ぼろっちくて泥汚れの取れてない手袋だ。
「そういや、なんで手袋なんかはめてんだ?」
「ええとね、悪い薬草の中には素手で触っちゃうと危ないものもあるんだよ。やっぱり犬だった頃はわかってなかったんだ! ぼくの大事な手袋がぶがぶって食べちゃったことあったもんね! 今度は食べちゃ駄目だよ!」
「しねぇよ」
頬を膨らませるシャルに全く身に覚えのないことで怒られた。理不尽すぎるだろ。
「あっ、そういえばルーリアの手袋ない。どうしよう。ぼくの半分使う?」
「いらねぇし、こんな小さい手袋アタシの手に入るわけねぇだろ」
シャルに右掌を広げて見せる。そもそも人間とは手の作りが違いすぎる。毛に覆われてるし、長くて鋭い爪も生えてるし。
「ルーリアのお手々ふにゅふにゅで気持ちいいねー」
「ひゃわっ!? い、いきなり触るんじゃねぇ!」
「えー、ルーリアの肉球気持ちいいからやー。手繋ごうよ」
くそっ、こいつ離す気ねぇ。ここで無理矢理振り解いちまったら、足場も悪いし倒れるかもしれねぇ。
「はぁ……ったく薬草摘み始める前までだかんな」
「うん!」
シャルの手はとても小さいはずなのに、アタシの大きな手の方が包まれているような、そんな錯覚をアタシは覚えていた。
手を繋いでアタシたちは自然豊かな森の中を歩いていく。アタシは毛があるから大丈夫だけど、毛の少ない人間にはなかなか厳しい場所だ。枝葉とかで怪我しちまうからな。その代わりに靴とか服を使うんだろうけど。
シャルは家とは打って変わって丈夫そうな布服を着ている。袖までぴっちりだ。母親もおんなじ。結構足場悪いのに歩くのも慣れてるし、庭みたいなもんなんだろうな。
「ねーねールーリアー。ルーリアは何が好きなの?」
「んだ、藪から棒に」
「だってだって、折角お話できるようになったんだもん。名前で呼んでもらえるようになったし、今度はルーリアの好きなものが知りたいな」
そんなもんかねぇ。別に他人の好きなもんとか興味わかねぇけど。
ただまぁ、することは歩くだけ。暇なのも確かだ。仕方ない。こいつの話に乗ってやるか。
「好きなの好きなもの。んー」
そういえば特に考えたことなかったな。アタシの好きなもんなんざ。
腹が減ったら奪ったり、動物狩ったりして飯食って、んで眠くなったら寝る。それくらいしかしてこなかったからな。
食いもんか。そうだな。
「強いて言うなら肉か」
「お肉?」
「脂乗った肉が好きだな。旨いからな。それくらいしか思いつかねーよ」
「ボールは好きじゃないの? いっぱいボール遊びしたでしょ?」
小首を傾げてアタシのことを見上げてくるシャル。全く、本気でアタシのことを犬だと思ってやがんだな。確かに犬系統ではあるが、アタシは地獄の番犬ヘルハウンド様だぞ。そこらの呑気な犬の魔物や、普通の犬と一緒にすんじゃねぇよ。
「ボール遊びなんざ好きでもなんでもねぇよ」
「え、あんなに楽しそうにしてくれてたのに……ごめんね、本当は楽しくないのにボール遊びなんかさせて」
「っ!?」
な、なんで泣く!? アタシがボール遊び好きじゃないってだけで泣くのかこいつは!?
くっ、なんだよなんなんだよ! なんでアタシはこいつが泣くと胸の辺りがぎゅうってなるんだ!? 意味わからねぇ。苦しいぞ……。くそったれ。
「あー、泣くんじゃねぇ! べ、別にお前とのボール遊びが楽しくなかったってわけじゃねぇんだ。お前と遊ぶのなら何でもいいんだよ。ボールが特別ってわけじゃねぇ……」
何言ってんだよアタシは。こんなガキがどうなったって問題ねぇだろ。なのに、慰めるようなこと言って。アタシらしくねぇ。
なのに。
「……ありがとう! ルーリア!」
なのに、こいつが眩しいくらいの笑みでアタシに抱き付いてくると、すぐに胸の痛みが消えやがる。それどころか、なんだか胸がいっぱいになりやがる。腹いっぱい飯なんて食ってねぇのに。
ほわほわで、ふわふわ、ふよふよしてる。
それを心地いいと思ってるアタシがいやがる。わけわからねぇ。
「チッ……。おら、とろとろ歩くんじゃねぇ。さっさと薬草見つけんだろ」
「わぁ」
アタシはシャルの服を背中から掴んでひょいと持ち上げる。それで、そのまま肩車してやった。軽すぎて背負ってるのかどうかもわからねぇくらいだ。
まっ、その方がいい。あんまし抱き付かれるとアタシも自分が何かわかんなく。
「高い高いー! ルーリアの髪の毛ふわふわー!」
「!!」
髪、頭に抱き付かれっ!? シャルの小さい手の感触が頭にぃ!?
「ルーリアのお耳柔らかーい! ふにふにだぁ!」
「お、おまっ、触んじゃねぇ!」
「えー、いいじゃないーそれそれふにふにー」
「ぬわー!?」
耳! 耳の中にシャルの指が入って!?
「ふ、ふふ、ははっ、ちょやめっ、くすぐってぇからやめっ、ひゃははっ!」
笑いが止まんねぇ。本当にくすぐってぇって!
「くすぐってぇっつってんだろっ!」
もう一度背中を掴んで目の前に吊るしてやる。大人でも漏らすくらいの眼光で睨みつけてやったのに、心底嬉しそうに笑ってやがる。くそっ、こいつ全然ビビりやしねぇ。
「ルーリア肩車もっと」
「次、耳触ったら落とすからな」
「はーい!」
仕方なしに乗せてやる。ってまた耳触って……。
「ルーリア号はっしーん! ごーごー!」
ったく、なんだよ、ルーリア号って。
……まっ、いいか。今度はくすぐってこねぇし。
シャルを肩に乗せ、両耳を握られたままアタシは森の中を歩く。薬草ってのは至る所にあるみたいだけど、どれがいいのかわからん。葉っぱなんてどれも同じにしか見えない。
「シャル、ここらにしましょう」
どうやら目的地に着いたみたいだった。近くに水の流れる音がする。川が近いのか。
シャルを下ろすと、早速地面に座り込んで、木の傍とか、地面に生えてる葉を摘み始めた。器用なもんだな。小さくて細長い変な葉っぱをハサミで切ってやがる。人間だし、ガキだからそうするしかないだろうな。
自分用の小さい麻袋にシャルはどんどん葉っぱとか、もとい薬草を入れていく。手馴れてやがんな。
「んだ? 袋に穴が幾つもあんのか?」
「別の薬草が混ざらないように分けてあるんだよ。あとできちんと分けるんだけどね」
「ほう。んじゃましゃあねぇ。アタシも手伝ってやるよ」
アタシもしゃがんで無造作に葉っぱを引きちぎる。
「ああ! 駄目だよ、ルーリア!」
「あん? これでいいんだろ?」
根っこごと引きちぎった葉っぱをぶら下げて、シャルに見せる。
「根はきちんと残しとかないと次の薬草が生えてこないでしょ! それにルーリアが採ったのは子供の葉っぱ! そういうのは置いておいてもっと成長するのを待つの!」
シャルの勢いに気圧され、アタシは掴んだ薬草を地面に下ろす。シャルが根っこを地面に埋めて、軽く土をかけてやった。
それから大人の葉っぱをアタシに指さして教えてくれる。なるほど、肥え太らせてから食うってわけか。一応わかった。
「それにね、全部採っちゃ駄目なんだよ。全部取っちゃうと薬草がもう採れなくなっちゃうでしょ? 根っこを残しておけば、また薬草さんがぼくたちにいっぱい葉っぱを採らせてくれるんだよ」
「採らせてくれるってなぁ。葉っぱに感情なんてないだろ」
「あるよ! あるもん! はい、ルーリアも手を合わせて!」
シャルがいきなり採っていった薬草の方へ向き直り、手を合わせる。
「何やってんだ?」
「早く、ルーリアもっ!」
「お、おう」
仕方ない。やらねぇとうるさいし、真似事だけでもしとくか。
手を合わせる。シャルが目を瞑っていたのでアタシもそれに倣った。
「薬草さん薬草さん、今日も葉っぱを採らせていただいて、ありがとうございましたっ!」
若干の舌足らずで噛みそうになりながらも、シャルはそんなお礼の言葉を薬草たちに贈る。
本心でそう言っているのがわかるほど、ひたむきというか真剣な声音だった。
「ほら、ルーリアも言うの!」
「……や、薬草さん、採らせていただいてありがとうござい、ました」
シャルに言わされて言ってみたが、特に薬草からの返事があるわけでもない。ただ、一瞬、ほんの少しだけ、気持ちいい風が薬草の上を通ってアタシの身体を撫でた気がした。
まぁそれが薬草の返事、なんてことはないだろうけど。
「ふふふ、ルーリア、しゃがんでしゃがんで?」
ん。なんだよ急に。また肩車か? 手袋も外しやがったし。
シャルの望み通りしゃがんでやると、いきなりシャルがアタシの頭をその小さい掌で撫で始めた。
「えらいえらい。ルーリアはえらい」
「なっ、ななな、なにすんだてめぇ!」
アタシは熱くなる顔を感じながら一足飛びでシャルから離れる。
「うふふふふー。ぼくも、いまのルーリアみたいに初めてありがとう、って言ったらお母さんにいまみたいに褒められたのっ! だから、ぼくもルーリアを褒めてあげるんだぁ」
「べ、べべ別にいらねぇよ、んなもん!」
「えー!」
不服そうなシャルにアタシは背を向ける。なんだか顔を見られたくなかった。頭の温かい柔らかな感触に、何故か顔がにやけていたからだ。
ちくしょう。変すぎるぞ、アタシ。
そんなこんな、まだまだ採るものはいっぱいあったらしく、薬草採取は続いた。草だけじゃなくて、花とかも採るみたいだ。季節によっては根を採ることもあるらしい。
ようやく採取とやらにも慣れてきたアタシは、シャルに教えてもらわずとも採れるようになった。まぁシャルが採ったのと同じのしかわかんねぇけど。
「ん。それ、毒草じゃねぇか?」
びくんと肩を震わしたかと思うと、数瞬間が空いてから母親は頷いた。母親の手には、根ごと引き抜かれた薬草がある。花はまだ咲いていないみたいだが、葉は開かれるように四方に広がる形をしている。
「……毒草かどうか、わかるのですね」
なんだ無視されるかと思ったけどな。アタシとは関わらないようにしてたし。まぁいい。アタシは自分が気になったことを聞くだけだ。こいつがどう思ってようが関係ない。
「嫌な感じがするからな。食べたりしたらまずい感じがすんぞ」
直感的に何故かそう思った。まぁ、魔物のアタシが自然界ごときの毒で死んだり腹を壊すようなことにはなりゃあしねぇが。
「もしかして食べるんじゃねぇよな。ぜってぇ食わすよ。シャルには毒だろ」
あまりにもひもじくて、とか。洒落にならねぇ。
しかし、母親はぽかんとしかと思うと、呆れたように肩を竦めた。じとっとした目つきでアタシの顔を見る。んだよ。
「食べませんし、食べさせません。これは毒草ですが根のところが薬になるんです」
「へぇ。毒あるくせに薬にねぇ」
形も育ちも悪い、細長いじゃがいもみたいな根っこ。それが薬になると。
変な話だな。毒が薬とか。まっ、魔物のアタシにとっちゃ薬がないと病気も地力で治せない人間の弱さの方が変だがな。
「別に薬だけじゃありませんよ。普通に食べられているワラビは生のまま食せば脚気になる場合もあります。毒があるものでもきちんと処理すれば、人が食べても大丈夫になるんです」
「ふーん」
あまりに適当な返事過ぎたか睨まれた。まっ、そんな睨み怖くもなんともねぇけどな。アタシはヘルハウンドだからな。
ただ、このアタシに睨み効かせてきた度胸だけは買ってやるよ。
「何故、あなたは魔物のくせに私たちを」
何か呟こうとした母親の声を遮る絶叫が森に響いた。
「うわああああああああああああああん!!」
シャルの悲鳴。それは明らかな危険を孕む、助けを求める声だった。
全身が粟立つ。何かを考えるよりも早く、アタシは動いていた。後ろで母親が背に抱えていた槍を持つ感じがしたが、無視してシャルの声がする方へ駆けた。
草を掻き分けて躍り出た先。少し離れた位置に、大樹を背にして地面にへたり込んでいるシャルと、その少し前に地面を鳴らしていまにも突進しようとしている猪がいた。
猪のサイズはシャルよりも大きい。湾曲した牙は前方へと捻じ曲がり、それはシャルへと向けられている。
そしてその猪が地面を蹴った。
頭が沸騰した。この猪は何を誰に向けている? シャルに、牙を、剥けているだと?
何故か沸いた怒りのまま、シャルに牙を突き刺そうとする猪へ飛び掛かろうとアタシは大地を蹴った。
その瞬間、シャルがアタシを見た。
「ルーリアぁー!!」
アタシを見つけたことへの安堵と、そしていままさに襲われていることへの恐怖が入り混じった顔。
シャルは、アタシに手を伸ばした。多分、猪よりも恐い顔をしているアタシなんかに。
「ッ! シャルッ!」
猪に飛び掛かろうとしたアタシは無理矢理方向を転換させた。アタシに助けを求め、手を伸ばすシャルの方へ。
そして、猪がシャルに突撃するよりも速く、一匹と一頭の間に滑り込み、アタシは小さなシャルの身体を黒い巨躯で抱き包んだ。
直後、背中で鈍い音が響く。
突進をかましてきた猪の牙が、若干だけアタシの背を刺し貫いていた。
「あ、あああああっ! ル、ルーリアぁ! 駄目だよルーリアルーリア!?」
「お、おい、暴れるなっ! アタシは大丈夫だ!」
子供とは思えない力で暴れ出すシャルをアタシは抑えて抱きしめる。
「うううぁあああっ! やだっ、やだやだやだっ、ルーリアがっ!」
泣きべそをかくその瞳はアタシと、アタシじゃない誰かを見ているようだった。
何かを怖がっている? 怪我か? だがそんなの余計なお世話だぞ?
「フゴッ!?」
後ろで困惑する猪の声がする。牙は刺さっている。確かに刺さっている。
一寸の半分も満たないほどだがな。
そのくせに、引き抜けない。牙を引き抜けない。しかし、それ以上刺さりもしない。当たり前だ。このアタシがそこらの野生動物の牙如きに貫かれるような軟な身体してるわけねぇだろ。
んで、人様の身体に刺しといて、ましてやシャルを狙っておいて逃げられるわけ、ないよなぁ!?
シャルの顔を右手で胸に押し付けて、何も見せないようにする。
それで空いた左腕を背後に回し、アタシの筋肉に捕まり抜けなかった猪の牙を掴んだ。
「オラァッ!!」
背筋を緩め身体から牙を引き抜き、力任せにアタシは牙を掴んだ腕を振るう。
まるで枝葉のように宙を舞う猪を、アタシは目の前の木に叩きつけてやった。
「ブギィ!?」
そんな悲鳴を上げたかと思うと猪は地面に落ちて動かなくなる。ふんっ、シャルに手を出そうとした報いだ。
「ああ、ルーリアぁ」
「んだよ、いつまで泣いてんだ。おら、さっさと泣き止めって」
「大丈夫なの、だってだって、猪が、角が、刺さってっ」
「ふん」
シャルの泣き顔をさっさと消すために、アタシの豊満なおっぱいでぎゅうぎゅうに挟み込んでやる。涙なんてアタシの体毛に全部吸わせてやるぜ。
「あぅ、苦しいよぉ、ルーリアー」
「余計なお世話だ。アタシを誰だと思ってやがる」
「……ルーリアだよぉ」
「そうだ。アタシがルーリア様だ」
長くかかったが、どうやら泣き止んだみたいだな。おっぱいの間から顔を出させると、眉をひそめて息苦しそうな顔をしていた。まぁ泣き顔よりはいい。
「良かったぁ」
本気で安堵してやがる。なんだ? さっきの怯え方は。尋常じゃなかったぞ?
「シャル!」
駆け寄ってきた母親に合わせて、アタシはシャルを地面に下ろしてやる。
母親はすぐにシャルへと抱き着き怪我がないかを確認した。母親の方がシャルよりもずっと泣きながら、こいつが無事かを何度も確認していた。
「ああ、良かった、良かったシャル。怪我はないみたいね……」
……ふん。別になんとも思わないさ。アタシは別に好きでやっただけだ。どう思われてても別に。
二人から距離を取ろうとしたアタシの手首を、シャルの母親は掴んだ。
ぼろぼろと涙を零して、しかしシャルに似た笑顔で母親は言う。
「ありがとう、ありがとう……」
アタシは何故か息を呑んでしまって。
何も言えずに立ち尽くしていた。
感じたことのない感情が、胸の内で渦巻いていた。
―4―
物心がついたときには盗みを働いていた。
身体が大きくなったときには強盗を働いていた。
この鋭い爪で、黒い巨躯で、炎を帯びる真紅の瞳で、人を脅し食べ物を強奪していた。
アタシにとって生きるとは、もっというと食べるという行為は誰かから奪う、ということだった。
魔物として自覚して、精が一番の主食だとわかってもアタシは変わらなかった。
男を襲って精を搾り取ってやろうかと考えたこともあったけど、いまいち実行に移せなかった。
アタシは、生粋の略奪者だった。
それ以外の生き方を知らなかった。
だから。
「さぁ、食べてくれ。君が狩った猪なんだからな」
「焼いたものだけじゃなくて、煮たものもあるわよ」
アタシは誰かから与えられるということに慣れていなかった。
テーブルに四つの椅子がある。アタシの右にシャル、左にシャルの母親、そしてテーブルを挟んで向かいにシャルの父親がいた。
そしてテーブルに並ぶのは猪の肉料理。焼かれた鉄板のまま広いテーブルに置かれ、一口大に切り分けられた猪の肉が香ばしい匂いを放つ煙を立てている。
他にも猪の肉が入った茶色のスープ(シチューと言うらしい)だとか、匂いの強い葉っぱに包んで焼いた香草焼きとかいうものが並んでた。
椅子に座ってどんどん並んでいく料理に、しかもそれがアタシのために作られたということに戸惑うことしかできなかった。
何があったか、というと何があったのかアタシもわからない。
家に帰ってしばらくは、アタシはシャルと部屋でごろついてた。シャルがじゃれてくるから、逆さ釣りにしてやったりとかな。
それでシャルの父親が帰って来て、またちょっとしてアタシは夕食に呼ばれた。
昨日の夜も朝も、アタシはパンとかで腹を満たした。一緒の部屋で食べなかった。シャルには母親たちはまだ怪我しているからだとかなんとか言ってたけど、要は怖いから一緒にいたくないということだろう。
なのに今日の夕方になって打って変わって、一緒に夕食を食べないかと誘われた。
んで一緒にテーブルを囲んだらこの通りだ。わけわからねぇ。
それに、シャルの母親も父親もにこにこ笑ってやがる。ご機嫌を窺うような感じではないとわかる。歓迎されている。だから疑問が尽きない。
アタシは魔物だぞ。凶暴凶悪なヘルハウンド様だ。顔色を窺って飯を差し出すんならともかく、こんな隠そうともしない好意で飯を一緒に食べようなんて、頭がおかしくなっちまったとしか思えねぇ。
それともアタシが気が付かないくらい巧妙に騙そうとしているのか? 毒が入っていたりとか。
まぁ毒なんざ効きやしねぇけどな。
「いっぱい食べてね。とても大きな猪だったからいっぱいあるわよ。時期が時期だからあまり脂も乗っていないし、肉も硬いけど、あなたなら大丈夫よね?」
「お、おう……肉は好物だからな」
満面の笑顔で尋ねられると、頷き返すことしかできない。
まぁいいさ。もらえるんならもらう。温かい飯なんざ、そうありつけねぇからな。
「じゃあ、食事を頂く前に祈りを」
「?」
「ルーリアルーリア、こうやって、手と手を握り合うんだよ」
両手で拳を作る感じか。それを口の前に持って行くと。
シャルの真似をして、アタシも同じようにする。母親も父親もやっていた。言葉を紡いだのは父親だった。
「母なる主神よ。今日このとき、貴女様の慈しみに感謝し、この食事をいただきます。大いなる貴女様と心優しき黒き魔物が恵んでくださったものに祝福を与え、私たちの身と心の糧となりますように」
いわゆる食前の祈り。襲いにいった村で似たような言葉を聞いたことはある。
主神。主神か。まぁそうだよな。ここは反魔物領。それも主神の手が及んでいる地域だ。こいつらも主神教であるに決まってる。
おかしいのは、心優しき黒き魔物という言葉が入ってたってことだ。これってアタシのことだろ? 主神教のくせにこんな祈りをしていいのか?
疑問に眉をひそめていると、いつの間にか目を開けていた父親に微笑みかけられた。
まるで心を読まれたように感じて、アタシは目を逸らす。
「さぁ食べよう。ルーリアさん、ルーリアにも感謝してな」
「うん! ありがとうね、ルーリア!」
「ふ、ふんっ。べ、別にアタシは感謝とかしないからな」
そもそもアタシが仕留めた猪だ。アタシに食べる権利があるのは当然。
だから遠慮はいらねぇ。施されたものとか思わなくてもいいはずだ。
なのだが。
「旨っ!? なにこれ旨っ!?」
料理というものができないアタシ一人じゃあ、こんな旨い飯が食えることはなかった。
温かくて、身に染み入るような旨い料理。
毒なんて入ってるわけもなく。
ただただ、お腹と胸の奥を満たしていくような感覚がアタシに奇妙な充足感を与えてくれた。
「手で食べるんじゃないよー、こうやってフォークを使うんだよ」
「……お、おう。こ、こうか?」
「そうそう、上手ー。それでナイフをこうしてー」
だからまぁ、その点だけは感謝してやらなくもない。
アタシはお腹が張って動けなくなるくらい食べた。食べてる途中、ずっと目の前が何かで滲んでいたような、頬を温かいのが伝ってたような気がしたけど、きっと気のせいだ。
シャルもその両親もアタシを見つめて、微笑んでくれていた。
―5―
その日の晩、シャルに構ってやってやっと寝付いたあと、アタシは母親に呼ばれた。
飯の片づけをちょうど終えたところだったみたいで、エプロンを脱いで椅子にかける。父親もその横の椅子に座っていた。
その顔は飯を食っていたときとはちょっと違う。真剣さというか、差し迫るような何かを感じた。
「……」
まっ、タダであんなことするわけないわな。
「お話、いいですか? えっと……ルーリア、さん」
「アタシの名前はルーリアじゃねぇが。いまはそれでいい」
元の名前に思い入れがあるわけでもないしな。むしろ嫌いだ。
「で、話ってなんだ?」
乱暴に椅子に座る。アタシの身体に椅子はギシギシと嫌な悲鳴を上げた。目の前のシャルの父親よりもアタシはでかいからな。
「その、お尋ねしたいのですが、あなたは魔物、なんですよね?」
父親が歯切れ悪く聞いてくる。アタシが魔物かどうか?
「見たらわかるだろうが。この爪、牙、肌の色、そして目に宿る魔力。お前ら人間がこんなの持ってるか?」
人差し指の爪をテーブルに勢いよく突き刺す。長い爪は深くテーブルに食い込んだ。
若干、息を呑む感じが二人からするが、どうにも退くようなそぶりを見せない。
なるほど。結構強い意思をもってアタシに話しかけてきたってわけだ。多分だけど、あのシャルのためだろうな。そんな目をしてる。
「やっぱり魔物、なんですね。主神様に忌み嫌われる」
「ふんっ」
「……その、お怪我の具合はどうなんですか?」
母親が伏し目がちに尋ねてくる。
「ああん? ああ、怪我な。どっちのことだ?」
「えっとどちらも」
「背中はもう完全に塞がってる。あんな猪の角なんざ、何万回刺されようが死なねーよ。腹のこっちはまぁ、面倒な奴にやられたからな。だが、あと二、三日もすりゃほとんど回復する」
「そう、ですか」
残念がってるな。ふん、このまま死んでくれたらと思ってたか?
「実はその、あなたにお願いがあるんです」
姿勢を正して、父親が膝に拳を置く。真剣な眼差し。どこか、申し訳なさかもしくは引け目を感じているようにも見える。母親の方も同様だ。
お願いね。この流れだ。間違いないだろ。
「わかったよ」
お願いが何かも待たずにアタシは答える。どうせ内容なんざわかってる。
立ち上がって、アタシは二人に背を向けた。別に勇者と戦うくらいの全力運動をしなければ傷も開かないほどには治ってる。
どこで休もうが治る速度は変わらない。
「え? えっと、ルーリアさん」
「ルーリアじゃねぇ、アタシはテラスだ。化物のテラスだ」
決別のための言葉。もうアタシはルーリアじゃない。
この家を出ることになる以上、ルーリアは終わりだ。
だって、こいつらの願いはアタシにこの家を出て行って欲しいってことだろう?
なら、もうルーリアの名前は必要ない。
アタシが襲ってきた奴らにつけられた名、テラス(化物)でいい。
「て、テラスさん。ありがとうございます」
「ふん、礼を言うんならシャルに言うんだな」
あいつのせいでアタシは随分と丸く――。
「シャルのこと、よろしくお願いします。傷が治るまでの間だけでもいいので」
「…………は?」
はぁ?
んんっ、いま、なんつった?
この家から出ようとしたアタシは立ち止まる。ギギギと壊れかけの人形のように首を動かして、シャルの両親に振り返った。
ホッとしたように、二人は息をついて笑っていた。
「よかった。ルーリアさ、いえ、テラスさんが受け入れてくれて」
「ああ。これでまたシャルを悲しませなくて済む」
「いやいやいやいや、ちょ、ちょっと待てお前ら! 勝手に話進めんな!」
「はい? え、私たちの話を受け入れてくれたのでは?」
「はぁ!? シャルのことをよろしく!? アタシをいますぐ追い出したかったんじゃないのかっ!?」
アタシの疑問に、二人は首が飛んでいきそうなくらい勢いよく横に振った。それはアタシの疑問の否定だった。
「違います! あなたにはシャルの傍にこれからもいて欲しいんです。少しだけ、せめてあなたの傷が癒える間だけでも」
なんだなんだなんだ!? どうなってやがる! こいつらアタシを追い出したかったんじゃないのか?
「アタシは魔物だぞ!? ヘルハウンド、地獄の番犬だ! それなのに」
「しー! シャルに聞こえます!」
母親に手で口を塞がれる。こいつ、魔物のアタシに全然臆してねぇ!?
「あなたが魔物ということは拾った瞬間からわかっていました。あなたの口からも聞けて間違いじゃなかったこともわかりました」
シャルに聞こえないようにか、小声で母親はかたる。
「でもあなたはシャルを守ってくれました。凶暴な猪から。それに、どれだけ接してもシャルを傷つけるどころか、優しく撫でて、抱き包んでくれて、思いやりのようなものを感じることが私にはできたんです」
「妻はこういうのに敏感です。猪の話を聞いて、私も妻の意見に賛同しました」
「あなたは魔物です。主神様から忌み嫌われ、その子供たちである私たちも貴方を忌み嫌い追い出さなくてはならないのでしょう。ですが、あなたはいま息子の拠り所となっています。それに話に聞く凶暴な魔物とも違う」
いや、アタシは凶暴な魔物だけどな。
「他の魔物がどうなのかは私たちにはわかりません。ですが、あなたならシャルのことを任せてもよいと、そう思ったのです」
「……アタシを拾う前のシャルはそんなにひどかったのかよ」
「ルーリアはあの子の良き姉であり、また妹でもあり、家族でしたから。母親の私よりもずっと長くいたでしょうね。ルーリアが死んでしまったのは、猪に襲われたシャルを庇ったのが原因だったんです。そのときの怪我が元で……」
だからあのときあんなに取り乱して。
「あなたを見つけたのは、森と私たちの家を見渡せる山にルーリアを埋めてきた帰り道だったんです。あそこは特にルーリアの好きな散歩コースでしたから」
心を痛めていたシャルにとって、ルーリアと同じ毛色をした獣人の女性を見つければ、生まれ変わりだと思っても仕方ない、そう母親はかたる。
生まれた時期と死んだ時期が全然違うのに気づきそうなものだけど、シャルにとっては些細なことに違いないと父親は言った。
「あなたがあそこにいなければ、きっとシャルは今日みたいな元気を取り戻せなかったと思います。だからありがとうございます。そして、できればもういましばらくの間、シャルと一緒にいてあげて欲しいんです」
「お願いします」
父親も母親も揃ってアタシに頭を下げてきた。
頭を下げられたことは何度もある。アタシに見逃してもらうため、恐怖から逃れるため、命乞いのため。でもこれはそれらとは全然物が違った。
アタシを排除したいお願いじゃない。
アタシを必要としてくれている願いだった。
「っ……」
まただ。
胸が温かく、いっぱいになる。腹はすでにいっぱいだけど、そういうのとは違う何かが胸の中に溢れてる。
それが悪くないと思う自分がいる。ここにいれば、こんな気持ちをずっと味わえるのか?
シャルと一緒にいればずっと。
「……まっ、もうさっき返事しちまったしな」
二人が驚く。だけど次にはもう笑ってやがった。恐ろしい魔物のアタシに笑いかけてくれていた。
「いいぜ。いてやるよ。怪我が治るまで、かどうかはアタシの気分次第だがな」
どうも照れ臭くて、アタシは二人の顔を見ることができなかった。
なんにせよ。初めてアタシがいてもいい場所ができたのだった。
18/01/07 20:50更新 / ヤンデレラ
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