連載小説
[TOP][目次]
第八章 天を仰ぐは誰がために:天の柱E
―11―

 ヴィータらワイバーンが天の柱から飛び出し男と交わっているとき。スワローと呈が濃密な蒼い炎に浸るセックスを交わしているときのことだった。
 そこはドラグリンデ城の玉座だった。この玉座は使われなくなって久しい。それでも白炎竜モエニアらメイドたちはそこの掃除を毎日欠かすことはなかった。チリ一つ、シミ一つ残さず常に綺麗に保たせていた。
 今日は、その毎日の掃除の成果が出た。
 その玉座にはこの城の主が、威風堂々と座していたのだ。長らく使われていなくとも、その光景に違和感を覚える者は誰一人としていなかった。彼女こそがここに座るに相応しい人物だったのだ。
「暇を頂きたく思います」
 彼女の前に恭しく跪き、モエニアが申し出る。
 彼女は尋ねた。呈とスワローの元にか、と。
「はい」
 それはあの黒いリリム、ミクスに依頼されたからか。
「いいえ、それだけではありません。私が行きたいのです。あなた様と先王を見てきた私だからこそ、私は彼らの前に立ちたい。立たねばならない」
 モエニアのその瞳に彼女は在りし日を思い出す。モエニアが白炎竜と成った日、竜の心と気高き精神を備えるに至った日のことを。
 モエニアの瞳には覚悟があった。自身の壁となっていた己自身のように、呈たちにとって壁そのものとなる決意を秘めていた。
「私が彼らの最後の壁となりましょう」
 モエニアは呈とスワローのことを微塵とも疑ってはいなかった。越えられるものと確信している。
 そこまで想っているモエニアを止める理由など、彼女にはなかった。たった一言。
 行ってあげて。
 そう送り出す。
 モエニアは立ち上がると恭しくお辞儀した。
 竜となってから頑固になってしまったと、外へ向かうその背を見送りながら彼女は思う。
 誰に似たのかしら。その問いは彼女の中で反響し続けた。
 彼女の頭上に浮く呈とスワローの情事を映す水球が、炎の花咲くドレスを纏う彼女の姿を微かに反射させる。
 セミショートに切りそろえられた髪の内で、彼女の口元は少しばかり綻んでいた。
 
「ようやく来たか」
「モエニアさん」
 純白のドラゴン、モエニアさんがおれたちを見据える。その眼光は鋭く、一メイドとしてではなく竜として在った。
「ど、どうしてモエニアさんがここに? ま、前と服が違いますね」
 呈の疑問通り、彼女はいつも着ているメイド服ではなかった。いつもは足元まであるロングスカートのメイド服だったが、いま着ているのは太もも半分ほどまでしかない、ミニスカートタイプ。スカートの下まで肌の露出を隠す純白のハイソックスを穿き、上半身も翻りやすいフリルは徹底的に排除され、全身の駆動域を最大限に重視した仕様のメイド服を着ていた。
 まるでこれから激しい運動でもするかのように。
「理由か。二つあるが、一つは労いに来た。よくぞここまで辿り着いたな。お前たちの奮闘は全て見させてもらっていたぞ」
 玉座前の階段から降り、モエニアさんがおれたちと同じ高さまでやってくる。竜らしい気迫を潜めたモエニアさんに安堵したのか、呈もモエニアさんに近づいた。おれもそれに倣う。薄氷を踏むような緊張感を背に抱いたまま。
「全部? 監視でもしてたの?」
「いや、そういうわけではない。祭りと聞いただろう?」
 彼女が手をかざすと掌に小さな雫が出現した。それはみるみるうちに水球となる。そこにはおれたちの姿が映っていた。
 番いの儀のときに使われていたものと同じ水球だ。
 まさか、という考えが脳裏に過ぎる。おれは窓の傍に行き、下を見下ろした。当然ながら分厚い魔力の雲、遠くの方も雲海に覆われているため地上を見ることは叶わない。だけど、おれの予想が正しいと言わんばかりにモエニアさんがくつくつと笑った。
「察しの通りだ。お前たちの様子は全てドラゴニア中に中継されている。ばっちりとな」
「な、なななっ?」
 合点のいった呈がその言葉の意味を理解した瞬間、白い肌が羞恥に染まる。
 呈の隣まで戻り、モエニアさんにおれは向き直った。
「全部って全部?」
「濃密な交わりも全て、だな」
 モエニアさんが口の端を愉悦に歪ませる。おれたちが羞恥に見舞われている状況が、心底面白おかしいらしい。
「な、な、なななんでこんなことするんですかぁっ!?」
「私に言うな。企画したのはミクス・プリケットだ。文句は終わってからあいつに言え」
「な、なんでこんなことするですかぁっ! な、なんっ、なんでぇ!?」
 今度はモエニアさんの持つ水球に向かって呈が文句を言う。あまりにも文句を言いたくて逆に言葉が見つからないらしい。
 多分ミクスには聞こえているだろうし、見えているだろうけど、それをしても結局ミクスは喜ぶだけなんだろうな。
 ミクスがおれたちに協力してくれたり、キサラギに魔法道具を売っておれの手元に来るようにしていたのも、多分このためだろう。おれたちがすぐに断念してはつまらないから。かと言って簡単に踏破できても見世物にはならない。ワイバーンたちを唆すよう仕向けたのは、一種の困難としての仕込みというわけか。
「はぁ。随分とまぁ手の込んだことをしてくれるなぁ。ここまで来れる確証もないっていうのに」
 ドラゴニア全体を巻き込んでまですることか? いや、別に困る人はいないだろうけども、おれたち以外は。やっぱりミクスはどこまで行ってもミクスだ。油断ならない。
 そう、油断ならない。
「あと数階層上へ行けば、お前たちの目的地である頂上、番い鐘がある」
「! そうなんですか。やったスワロー! もう少しだよ!」
「映像で見たこともあると思うが、実物を見るとなかなか壮観だぞ。竜灯花のヴァージンロードを歩くときは感動間違いなしだな」
「モエニアさんも番いの儀をしたんですよね? ここで」
「もちろんだ。いまのパレードほど派手なものではなかったが、それでも盛大に祝ってもらったよ」
 呈は楽しくモエニアさんと談笑するが、おれはただ苦笑するほかなかった。
「あーあ、あのまま壁登って上まで行っておけばよかった」
「いや、無駄だと思うぞ? それを見逃すような間抜けはここには居まい」
 知ってる。言ってみただけだ。
「スワロー? モエニアさん? どう、したの?」
 ようやく不穏なものを感じ取ったらしい。モエニアさんとおれの間に立とうとした呈を制して、おれは呈を背に庇う。
「モエニアさん。ここに来た理由、二つ目って?」
「女の気持ちには鈍感な君だが、こういうことばかりには鋭い。わかっているんだろう?」
「……ヴィータの言ってたミクスが何かするって、あんた?」
「肯定だ」
 背を覆う緊張が最大限に達した瞬間だった。
 モエニアさんが眼前から姿を消した。
「はっ?」
 ガッと真横で石床を蹴る音がする。顔を動かしきることもできず、唯一視線だけがその場所へと追い付いた。
 陸の王者たる竜の尖鋭な眼光がおれたちを射貫いていた。その竜の腕は腰に溜められ、爆発する。
「――が、はっ!?」
 腹部が抉れたかと錯覚した。
 横腹にモエニアさんの拳が深々と突き刺さり、おれの身体を宙に浮かせる。
 一瞬で思考と視界は暗転した。直後の全身に響く衝撃で暗闇に魔宝石のランプを点けるように視界が明るくなる。
 おれのいた場所は先ほどの位置から数M吹き飛ばされていた。全身、特に殴られた脇腹と背中に激痛が走る。ただ血が出たような感じはしない。骨も砕けていない。
「反応が遅い」
 おれを影が覆い、頭上から声が振り下ろされる。声だけじゃない。もうすでにモエニアさんはおれの頭上でその竜の足を振り上げていた。
 咄嗟に腰のナイフピッケルを頭上に構えたのと足を振り下ろされたのは同時、ゴンッと金属がかち合う鈍い音が響く。背で地面に亀裂が入るのを感じた。おれの腕にかかるこの負荷は、いままで崖登りをしてきた中でも最大級のものだ。
「ぐ、ぐぐっ……!」
「この体勢で受けるなど愚行だな」
 躱せなかったんだよ……!
「このまま踏み潰して」
「スワローから離れろっ!」
 モエニアさんの背後に呈が迫り、その長い尾を遠心力を利用して振り回した。テイルアタック。小柄な呈とは言えラミア属、その尾は長く重い。遠心力を上乗せした尾は相応の威力を伴うはずだった。
 が、まるで蠅を払うかのようにモエニアさんは尻尾で呈の尾を受け止める。白い蛇尾と白い竜尾が絡まる。
「ふん」
「あぐっ!」
 そしてなんてことない風にモエニアさんは尻尾を振るった。呈の身体は宙を舞い、地面へと叩きつけられる。鈍い悲鳴が呈の口から漏れた。
「お前ェッ!」
 全身を巡る血液が一瞬で沸点に到達した。全身のバネを最大限に使い、わずかにモエニアの足を弾き、おれは脇に回り込むように立ち上がる。
 魔界銀製のナイフピッケルを立ち上がりと同時にモエニアの顎へと振り上げる。身長、腕の長さ、距離はジャスト。直撃コースだった。
「逸るな」
 顎をくいとひねるだけで躱されてしまった。
 そして致命的なミスをしたことに気づく。伸びきった腕。立ち上がりの硬直。それをモエニアの前で晒してしまった。
「むぐっ!?」
「愛しの恋人を独りにさせてやるなよ」
 竜の手で顔面を掴まれ、力任せに投げつけられる。呈が倒れ伏しているところにぶつける形で。
「がはっ、ごほごほっ」
「うぅ……」
 まるで極限までに鍛え上げた格闘家が子供をあしらうかのような。そんな出来事だった。
「もうおしまいか?」
 顔を上げる。モエニアさん、いやモエニアは凛然と佇んでいた。その瞳に一切の容赦はない。獲物を定めた捕食者の目だった。
 この感じ、母さんに追いかけ回されたときの圧迫感に似ている。いや、それ以上だ。息が詰まり、喘ぐように喉がひくつく。視界が明滅する。
「ど、どうして、こんなことをするんですか……? ぼくたちの邪魔を、どうしてモエニアさんがっ!」
 絞り出すような声を放つ呈を、モエニアは冷たくねめつける。
「理不尽は言葉を話さない」
「え?」
 モエニアは静かに語る。地鳴りのような低い声で。
「ドラゴニア建国以前、この国は理不尽に満ちていた。上民と歩民の格差。生まれによる差別。腐敗し堕落した貴族。それに迎合し、同胞を売る歩民。竜を物として扱う騎士。竜の調教のために消費物のように死んでいく新兵。自由を奪われ厳しい調教の末に命を落とす竜。戦いの道へと進み軍事を拡大していく国。明日食べる金すらない民。この国は理不尽に満ちていた」
「何が言いたいんだ」
 モエニアは純白の翼を大きく広げる。差し込む日の光を受けた翼は眩い後光を放っていた。
「だが一人の、いや彼と志を共にする仲間たちは立ち上がった。この理不尽と逆境、遥かな壁を前にして立ち向かった。そして、この国は越えた。理不尽を呑み込み、逆境を退け、壁を乗り越えた。勝ち取った」
 翼が放つ後光に変化が訪れる。白炎。煌めく光は白く燃え盛る炎へと変化を遂げた。
「そこに何があった。国とは何か。民だ。民とは誰か。人か。人のみか。否。そこには人と竜がいた。この二つなくしてドラゴニアとはなりえなかった。理不尽を呑み込むことなどできはしなかった」
 なればこそ、そう叫ぶモエニアの滾る感情を映すように炎は燃え盛る。
 翼が白炎の竜翼となる。
「国の最小単位たるお前たち二人。お前たちが乗り越えるべき壁と私は成ろう!」
 弾ける、そう確信したおれは行動に出た。残り三つのうちの一つをモエニアとおれの間の地面に叩きつけた。
「っ!」
 すぐにおれは呈の腕を引っ張ろうとするが、呈は自ら立ち上がった。その目に先ほどまでの怯えは見当たらない。おれが逃亡しようとする方向へ着いてきつつも、弓を構え一矢だけ放った。
「呈!」
「うん!」
 おれたちは来た方の発着場所とは別の穴から飛び降りる。ロープを縁に引っ掛け、魔力の雲へと飛び込んだ。こちら側には下階層の穴があった。先ほどは一気に登ったため見つけられなかったものだ。迷いなく飛び込み、おれはロープを縁から剥がして回収する。
「つまり、ラスボスはモエニアってわけか。やってくれる、ミクスの野郎」
 魔物の中でも最上位の強さを誇るドラゴン。それが全力で立ち塞がる? 悪い夢でも見ているみたいだ。
 ワイバーンから逃げきれていたのはそのための対策をしてきたのと運が良かったからだ。ドラゴンと真っ向からやり合うような手段など端から持ち合わせていない。
「呈、怪我はないか?」
「だ、大丈夫。叩きつけられたけど痛かっただけで怪我もないみたい。スワローも?」
「ああ。加減、はしてなかった感じだけど」
 それだけおれたちの身体は丈夫になったということか。記憶にある人間なら最初のパンチで即死していたことだろう。さすがに殺すような真似はしてこないはずだが。
「どうしよう、スワロー。モエニアさんを躱して上まで行けるかな?」
「正直な話きついと思う。空での機動性はワイバーンよりも劣るにしても、陸ならドラゴンの方が上だ。おれたちは空飛べないし。だけど塔内部を通って逃げきるのはワイバーンよりも難しい」
「……ゴール前で待ち構えられたらどうしようもないもんね」
「モエニアを倒すのが一番の解決策なんだけど」
 そんなものは策でもなんでもない。ただの無謀だ。さっきやり合って痛いほど身に染みた。
 上階へと通じる階段を避けながら、数階層下っていく。侵入者を想定している下層ほど入り組んではいないが、幾つかの部屋が点在していて視線を切ったり身を隠すのには適していそうだった。
「まだ上にいるみたい」
 呈が魔法でモエニアの位置を常に把握してくれる。これだけでもかなり楽になる。鬼ごっこするとしたら、呈がいなくて話にならないな。
「おれが囮になって呈だけでも」
「だ、駄目だよ! それじゃあ意味ない! ぼくだけでも、スワローだけでも駄目なんだよ!」
 思わず逃げの思考に陥って口走ったおれを呈がたしなめてくれる。
 そうだ。二人で行かなくちゃ意味がない。記憶を取り戻すことだけが目的じゃない。呈と番い鐘を鳴らすことがおれたちの目的だ。
 逃げ道はない。向かう道にいるのは壁として立ち塞がる竜。あっちの世界では想像上の生き物だ。姫をさらう悪竜として描かれるけど、こっちの竜は悪竜とは似ても似つかない。それでも絶望的なまでに強大だが。勝てる目算なんて一切つかない。
「それでもやるしかないんだよな」
「ぼくは何でもするよ」
「うん。おれたち二人で、使えるもん全部使ってやってやろう」
「アイテム準備だね!」
 とリュックを下ろそうとした呈が、顔を上から右へと動かしていく。その視線は天の柱の外へと向かっていた。そして止まる。遠く、目を凝らして呈はそれを見ていた。
「モエニアか?」
「何、あれ……魔力?」
 呈の放心したような呟きを聞いた瞬間、おれの肌が粟立った。
 直後、塔が揺れた。

 少し時は戻り。
「なるほど。意外と落ち着いている」
 翼の被膜に突き刺さった矢を見上げながら、モエニアは呈のことをそう評した。
 もう少し慌てふためくと思ったが、あの逃亡する最中にきちんと射ってきた。煙玉に紛れての射撃と攻撃の直前だったこともあり、回避しきれなかった。
 翼の周りを浮遊する白炎が矢に触れた瞬間、それは燃えてチリへと還り、からんと鏃が床へと落ちる。被膜には傷一つ残っていない。魔界銀製の鏃は魔力に傷をつけるため、多少の魔力が漏れ出ただけで身体に傷は負わない。
 元より頑強なドラゴンである。もしも倒すとすれば、普通の武器よりも魔界銀製の方が有効ではあった。むしろ自分を倒すための道はそれしかないだろう。
「やられるつもりなど毛頭ないがな」
 手加減などしない。全身全霊を以て二人を追い詰め、倒す。
「あまり失望させてくれるなよ、スワロー、呈」
 二人が下階層へと逃げてしばらくして、モエニアは穴より飛び立った。
 翼をはためかせ、モエニアは感知能力を鋭敏にする。ちょうど魔力の雲がある場所で測りづらかったが、しかし、魔力の偏りのある階層は見つけられた。
「悪いが、鬼ごっこもかくれんぼもするつもりはないのでな」
 モエニアは翼を大きく広げ、滞空する。翼を振るわずとも飛べているのは、翼が帯びている熱が生み出す上昇気流に乗っているからだ。
 そして両翼が陽の光を受け、輝く。白炎も帯び、翼は風を受け止めるように強大になっていった。
「すぅ……」
 モエニアが息を吸い始める。その瞬間、彼女の周囲の風向きが反転する。彼女を中心に渦を巻き、収束する。彼女の全身から魔力が放出され、火を燃やすための酸素を捕らえ全身で取り込んでいく。
 ブレス。
 魔力の練り込まれたドラゴンの焼滅の一撃を、モエニアは喉奥で止めた。
 モエニアの炎は火力の低い分消えにくい。また、魔力の消費度合いにより粘性を増させ、物理的効果を含ませることもできる。
 モエニアは粘性のあるブレスを喉で溜めた。それは噴火の直前のような、粘り気のあるマグマに口を塞がれ、膨大なエネルギーを溜めている状態と同じだった。
 目標はただ一つ。スワローと呈がいると思われる場所。
 空気の収縮が終わる。風の流れが一瞬、完全に制止した。
 ――切り抜けて見せろ。
 モエニアは、ドラゴンの象徴とも呼ぶべき、破滅の炎を解き放った。

 逃げる。躱す。その思考はすぐに捨てた。
 おれは呈のリュックをすぐさま開けて予備の耐火の外套を引っ張り出すと、それを呈と一緒に被り、床へと倒れ込む。同時に、ナイフピッケルを地面に深々と突き刺した。
「身を寄せろ!」
「!」
 おれの言葉に呈が尻尾を外套の中に潜りこませた。直後、塔を揺らした衝撃が、この場所まで到達する。
 熱波と暴風。
 全身を焼き焦がすようような熱と破壊を伴った暴風がおれたちを巻き込んだ。地面に食い込ませたナイフピッケルがガガガと音を立てて地面を削り、暴風に抵抗する。ナイフピッケルの柄を砕いてしまいかねないほど、おれは拳を強く握りしめた。
 周囲の壁や床が砕け吹き飛ばされていく音が、嫌に近く感じる。おれたちを包む熱は息を吸えば身体の内側から蒸発してしまいかねないほど熱く感じた。
 どれだけ時間が経ったか。恐らく十数秒も経っていない。しかし、この絶望的なまでの物理的な暴力はその時間を何分何時間とも感じさせた。
 ようやく終えた熱波に、おれは恐る恐る顔を上げる。肌が焼けるような熱を感じ、おれは愕然とした。
「なんだよ……これ」
 おれのいるフロア、その中心部分が根こそぎ吹き飛んでいた。壁も、床も、わずかにあった調度品やその他ここにあった全てが綺麗さっぱりとなくなっていた。唯一残っているのは塔を支える支柱それのみ。
 少し斜め上の前方から、後方斜め下に何か巨大な円筒状の物体が突き抜けて行ったかのようにぽっかりと穴が開いている。床と天井の崩落により上層と下層が見えた。
 周囲には、熔け残った壁や床が赤熱していて、黒い煙とともに耳障りな音を放っている。
「これが、モエニアのブレス」
 理不尽が形を成したような攻撃だ。まさにドラゴンのブレス。全てを灰燼に帰す破滅の一撃。
 先ほど被った耐火の外套も少し身じろぎしただけでぼろぼろと崩れ落ちた。おれたちが元々着ていた分ももう耐火性能はほとんど失われている。馬鹿げた威力だ。
「躱す選択肢を捨てたか。良い判断だ、スワロー」
 モエニアが大きく開けた穴の先に現れる。陽の光を背に空に浮いていた。
「お前、おれたちを殺す気か!?」
「ふっ、安心しろ。死にはしない。まともに喰らえばお前たちの理性は塵芥の如く燃え尽き、三日三晩交わることしか考えられなくなるだろうがな」
「思いっきりぶん殴って来てたくせに……!」
 呈を起き上がらせ、おれは口を動かしながら別のことに頭を張り巡らせる。
 この何も障害がない場所は地形的に不利すぎる。
「無論、そこは本気でやったが怪我もしていないだろう? 意識を刈り取るつもりでやったが存外二人とも頑丈だ。もう少々強めにやる必要があるな」
「ふざ、けろっ!」
 おれは悪態をつきながらもロープを天井方向へと放り、上層の床に引っ掛けた。そのまま巻き取り機と風魔石を併用して、呈と一緒に上階へ跳ぶ。
「また逃亡か。懲りん奴だな。徹底的に追い詰めねばならんようだ」
 下でモエニアが塔内へと降り立つ音が響く。ブレスが来なかったのは幸いだが、予想通りだ。これ以上やると天の柱が崩壊しかねない。ここまで壊しておいて、とも思うがあの規模のブレスはそうそう撃たなくなるはず。
「呈、作戦だ」
「うん! 何でも言って」
 おれは作戦内容を伝える。作戦、というにはお粗末すぎる内容だがこれしか取れる手段が思い浮かばない。
「ほ、本当に? 大丈夫なの?」
 走りながら呈は不安そうにおれのことを見つめてくる。
「何言ってる。呈の方が責任重大だからな。ちゃんと頼むぞ」
 そう言って呈の髪をくしゃくしゃとし、最後に耳も弄ってやった。
「ひゃんっ!? も、もうスワロー!」
 聞きたかった声も聞けて満足。リュックの留め具を外していき、呈にリュックを手渡す。ここから先、なるだけ身軽でないといけない。
「よし、作戦開始!」
 階段と廊下の続きの分かれ道で、おれたちは別行動を取った。呈は上階へ、おれは反転しその場に留まる。階段を這う音を背に、眼前ではカツンカツンと石床を鳴らす甲高い音が響く。
 曲がり角からモエニアがその白い姿を露にする。おれたちが逃げていても慌てることなく王者の風格で歩いていた。
「足止めか。呈を先に行かせたようだが、お前が行かねば意味がないんじゃないのか?」
「おれが、じゃなくておれたちな。それにだけど、おれも男の子だからな」
「……?」
「負けっぱなしは癪なんだ」
 太ももの湾曲したホルスターに手を伸ばす。そのホルスターに収まるナイフ、カランビットはグリップの底に輪っかがついている。そこへ右手人差し指を差し込み、引き抜いた。
 くるりと人差し指にかけた輪を回し、煌めく刃光が円を描く。
 そしてグリップを拳の中へと深く収め、カランビットを逆手持ちにした。
「奇妙なナイフだな」
 カランビットは特殊な形状をしている。普通のナイフと違い、刃は鎌のように屈曲しており、まるで竜の爪のように鋭い。竜の爪と異なる点は両刃であること。屈曲した刃先が前方へと向いていることだ。その形状とグリップの特殊性から手から落としにくく、力を込めやすい。
 変わった形状のため本来ならば使いにくいナイフではあるが、ことおれに限っては違う。
 手によく馴染む。
 カランビットを持つ右手を前に左手は添えるだけ。重心を低く落とし、おれは父さんの教えを意識する。
「今度はきちんと意識を刈らせてもらおう。そのナイフで自分が怪我をしてしまう前にな」
 視野を拡散する。
 直後、モエニアの姿が消えた。左斜め下へと僅かに銀光の帯を走らせて。
「ッ!」
 おれは左足を滑らせるように右足の後方へと下げながら身体を左側面へと反転させる。
 いままさにおれの左側、壁に沿うようにして着地したモエニアの姿があった。
 鋭く立てられている竜の爪。そこへカランビットを振り上げた。
「……!」
 ガキンと金属音が壁に反響する。弾かれた互い腕とともに、おれとモエニアの身体は交差した。振り向きざまに払うように叩きつけてくるモエニアの尻尾を、開いた左手でナイフピッケルを持ち上げ、その勢いのまま横へと弾き飛ばす。
 尻尾の攻撃だけで終わるモエニアではない。すぐさま先ほどのように視界から外れ、背後へと回ろうとする。
「……」
 だがおれは視界からモエニアの姿を外さない。
 振るわれる狂爪をカランビットの湾曲した刃で受け流す。刃を滑るようにしてモエニアの腕がおれの右腕の真横をかすめる。
「くっ」
「シッ!」
 体が交差すると同時にカランビットの刃を立てると、モエニアを引っ掻くように刃は滑った。
 そして振りぬくように腕を手元へ寄せながら、モエニアの傍から離脱。
 モエニアの追撃はなく、おれに刺された腕をじっと見ていた。そこに傷はない。当然だ、魔界銀製だから。だとするならモエニアが不思議がっているのは反撃されてことだろう。
「……」
 反応できている。モエニアの馬鹿げた動きに身体はギリギリ追い付けている。
「面白い。本当に勝ちに来る気だな」
 その白い姿とはまるで異なる、邪悪な竜そのもののような笑みをモエニアが浮かべる。
「ならば男の意地を見せてみろ、スワロー!」
 ぐっとモエニアが膝を曲げ、溜めを作る。爆発的な加速で真正面から迫りくるつもりだ。
 だがそれを呑気に待っているほど、おれも間抜けじゃない。
 モエニアが突進をかましてくるよりも早く、おれはモエニアへと駆けた。
 意地なんて知るものか。モエニアの土俵には登らない。おれにはおれの戦い方がある。
 父さんから教えられたことを脳裏に常に貼り付けて、おれはモエニアに迫った。

 父さんに組手をしてもらったときのこと。
 おれはナイフを片手に父さんへと腕を振るっていた。
「駄目だ。大振りはするな」
 伸びきった腕を取られ、スッスッと模造ナイフで肌を浅く素早く何度も擦られる。
「魔界銀は魔力を傷つける。必ずしも大きな一撃を与える必要はないんだ。浅くても何度も、攻撃を食らわないように何度も、素早く何度も切りつける。ナイフを使うときはこれを心掛けろ」
 いつもは温厚な父さんもこのときだけは厳しかった。
 無駄な動きはなく、まるで水が道に沿っていくような自然な流れでおれを切りつけていく。反応する間もなく、父さんに接近すれば必ず身体中に擦られた赤い痕が残ることとなった。
 槍だけじゃなくてナイフまでこんなに上手く使えるのか。
「だが切りつけても油断するな。魔界銀で失われた魔力を取り戻そうと魔物はより凶暴になる。未婚相手だとさらに執着されることになる。特に心臓か頭、もしくは子宮を狙えば気絶させやすくなるが目覚めたあとも執拗に狙われる。考えて狙え」
 既婚者の場合はどうなるのかを尋ねた。切られながら。
「その場合は急所でいい。魔力を補おうと夫の下へ行こうとするだろう。まっ、お前を狙う既婚者はいないだろうけどね」
 ふっと笑った。いまがチャンスだと、一歩踏み込んで父さんの首にカランビットを振るうが寸前で受け太刀されたかと思うと、刃で受け流されて上体が前につんのめる。そして、置いておかれた模造ナイフに首から突っ込んでおれは自滅した。呼吸が一瞬できなくなる。
 完全に遊ばれていた。気を抜いた振りまでしやがって。
「こんな見え見えの誘いに乗っちゃ駄目だな。もっと視野を広く持て。ワイバーンたちは素早いんだ。近ければ近いほど、視界の外に逃がしやすくなる。敵を注視するじゃなくて空間で捉えるんだ。視野内の空間で動くものを把握し続けろ。それが敵だ」
 腕をススッと切りつけられる。摩擦熱に手を離してしまいそうになるが必死に堪えた。
「常に考えて行動しろ。自分が持ってるもの、相手が持ってるものを比較して、何が自分にとって有利か不利かを判断するんだ。お前の強みは何だ?」
 おれの強み。おれの強み、それは。

「低いなッ!」
 モエニアが感嘆の言葉を漏らす。
 おれはモエニアへと自ら接近し、機先を制すとそのまま攻撃に転じた。
 低く。姿勢を限りなく低く、地面と限りなく接するほどまでに重心と腰を下ろして攻めた。
 まるで地に這うような攻撃。蛇の男としてある意味相応しい。
 モエニアが振るった腕は頭の上を掠め、髪を何本か持って行くがおれは気にも留めずに身体が触れ合うほどまで近づく。顔はもはやモエニアの膝あたりまで低い。眼前に持ってきたカランビットを、擦るようにモエニアの膝へと振るう。
 スパッスパッ、と竜の鱗の隙間を縫うように柔らかい人肌の部位をを狙って浅く切りつけた。
「チッ!」
 おれを蹴り上げようと脚を振り上げるが、手で地面を叩いて身体を動かし躱す。カランビットは空間に固定しており、モエニアはカランビットの切っ先がある場所を蹴ってしまうこととなった。
「さっきまでとは動きが、違うッ! リュックに重石でも入れていたか……!?」
「フッ!」
 戸惑うモエニアの声を聞きながら、おれは振るわれたモエニアの尻尾を浅く切りつけていく。時には手で進行方向を逸らし、絡みついてくるものは躱し、モエニアにあえて接近することで見下ろさせ、身体の動きを限定させた。
 おれとモエニアの違い。とても簡単な問題だ。身長である。
 子供のおれと大人のモエニアは頭三つ分ほどは身長が違う。通常戦闘に置いて体格の小ささは不利に働くが、今回ばかりは違った。触れられさえなければ、捕まりさえしなければ、間合いに入り切れてしまえば、こちらに優位に働く。
 蛇のように地面を這う動きは捉えにくい。特に腕などでは。この時点で上半身の大半は封じられる。脚にしても重心の偏りなどの予備動作が必ず入る。視野を広げることを意識すれば見逃しはしない。
 だから問題は尻尾。
 鞭の如く振るわれた尻尾。その進行方向と同じ方へ身体を回転させながら短く跳ぶ。進行方向と一緒の方へ回転して跳ぶこと尻尾の勢いを殺し、かつカランビットで回転切りを食らわせた。
「ッ!?」
 そのまま着地と同時に体勢を立て直そうとするが、尻尾の尾先が絡みついていた。腰の右側、ロープの鉤爪に。
「くそっ!」
「逃がさん」
 ぐんっと引き寄せられる。つんのめりになる身体を全身の筋肉を駆使して最小限に抑え、同時に巻き取り機の引っ掛かりを開放した。
 ロープが勢いよく排出されたことでギリギリ体勢が崩れるのを防ぐが、それでも上体はさっきみたいに蛇を這うようなとはいかない。
「ハァッ!」
 竜の鉄拳がおれの顔面を捉える。直撃コース。躱せない。
「あああッ!」
 硬直した身体を無理矢理動かし、拳を振り上げる。ギリギリおれの顔面とモエニアの拳の間に自分の腕を滑り込ませることに成功した。
「ガッ!?」
 それでも勢いを殺せるわけもなく、おれは盛大に吹き飛ばされる。起き上がるのに数秒のロスがある。
 当然、その隙をモエニアが見逃すはずもない。
 一気に距離を詰めようとするモエニア。おれは起き上がることを諦めた。戦うのを諦めたわけじゃない。彼女の足元に伸びているロープを振るい、輪を形成する。そしてモエニアの足が輪の中に入った瞬間、巻き取り機の駆動をオンにした。
「なッ!?」
 足を取られたモエニアの身体が崩れ、床に手をつく。起き上がるための数秒のロスが生まれる。地面に引きずられるモエニアの上を飛び越えるようにして逆手持ちのカランビット振るった。
「くそ!」
 防がれた! 首を狙ったカランビットの刃は竜の腕に阻まれた。鱗のある部分で受けられ、まともにダメージも入らない。腕を殴られていたせいで振りが遅れてしまった。
 おれはカランビットでロープを切断する。あのまま引っ張っていれば今度はこっちが足を掬われかねない。
 両翼の補助ですぐさま立ち上がると同時に攻めに転じたモエニアと、おれは剣戟を繰り広げる。
 ガキンガキンと甲高い金属音が鳴り響き、火花が散る。おれの首を刈り取ろうとする剛爪を寸でのところで躱し、ときに刃で逸らし、僅かな隙を縫って浅くカランビットで切りつける。
「良い動きだスワロー! この私に着いて来られている!」
「そりゃ、どうもッ……!」
 尻尾がおれの動きに対応するように地を這い、おれの動きを制限してくる。高い位置で勝負したいモエニアと、低い位置で戦いたいおれとの主導権争いに変化しつつあった。
「つぅ!」
 爪が外套を掠める。突き出される尖槍の爪がおれを貫こうとする。身を翻して躱すが、それは上体を起こすことに他ならない。間合いに入りたいおれを締め出すように、モエニアの攻撃が苛烈なものへと変化していく。まるで複数人を同時に相手にしているかのようだ。
 それでもおれは反撃でモエニアの腕に刃を浅く掠めさせるが、ほとんどが竜麟に阻まれる。
「く、っそっ!」
 突き出された爪をしゃがむ込みで躱しつつ、腰の巻き取り機のロープを伸ばす。伸びきったモエニアの右腕に巻き付くよう鉤爪を掛けた。
「力勝負か?」
「するかよ!」
 巻き取り機の起動をする。モエニアの身体は深く埋まった岩のようにびくともせず、おれが逆に身体を上へと引き上げられてしまうことになる。
 すでにロープを巻き付けられていない方の左腕を腰に溜めているモエニア。おれの足が地を離れた刹那、その凶爪はおれの腹部へと放たれる。
 風魔石。
 心の中で呟いた瞬間、巻き上げられたおれの身体は加速した。
「ッ!?」
 おれの身体の下を左腕が通り抜けると同時に風魔石を解除。身を翻して、モエニアの腕の上に着地。逆手持ちのカランビットの刃を、モエニアの腕に滑らせながらその端正な顔へと走らせた。
「面白い動きだッ!」
「チッ!」
 弾かれた。モエニアの肩から伸びてきた尻尾に手の甲を。
 そしてこの位置はすこぶるまずい。ほとんど宙に浮いた状態でモエニアの間合いの内側にいる。モエニアの腕を蹴って後方へ離脱しようとおれは試みた。
 が。
「さすがに逃がさんよ」
 足首に尻尾が絡みつき、おれの身体をぐんっと振り回した。
「ガッ!?」
 背中を襲う衝撃。壁に叩きつけられた。
 一瞬意識が刈り取られそうになったが耐えた。魔宝石を反射的に発動して体重を軽くしていなければ確実に落ちていた。だけどもうそれは叶わない。ピキッと胸ポケットで魔宝石が砕ける音がしたからだ。登頂でもかなり酷使していたせいでこのタイミングで限界が来てしまったのだ。
 そして、モエニアの攻撃はまだ終わっていない。
 壁に叩きつけられた状態のおれを、モエニアが刺し貫こうと爪を繰り出していた。
 おれは外套の裾を左手で大きく翻した。めくれた裾を爪が貫いた瞬間、その腕に外套を巻きつけるように腕を振り回す。わずかに狙いの逸れた爪がおれの顔の真横を抜けて壁を貫いた。
 外套の留め具を外し、おれはすぐさま腰を曲げて姿勢を下ろす。逃がすまいとおれの足首を引こうとする尻尾に素早く二往復の水平切りを食らわせ、緩んだ隙におれは離脱した。
「……」
「ぷはっ、はぁ、はぁはぁはぁ……はぁ……くそ」
 再び対峙し、互いの動きを計りあう状況に陥った。モエニアは腕に絡みついた外套を燃やす。不自然に炎が消えては着いてを繰り返し、しかし最後は炎の火力に耐え切れなくなったのか、外套は燃え尽きた。
 おれの息が荒いのに対し、モエニアは涼しい顔で息もほとんど乱れていない。おれの方が切りつけている。攻撃は当たっている。なのに、おれの方が圧倒的に疲弊していた。
「はぁはぁ、体力馬鹿め……」
「否定はしない」
 魔力馬鹿めとも毒づきたかったが、そんな余裕はなかった。
 頭に霞がかかりそうになる。空気が、酸素が足りない。息を吸って吐くたびに心臓が馬鹿みたいに鳴って、肺が破裂するかと思えるほどになった。
 ここまで登ってくるほどの体力がおれにはあるはずなのに、少し戦っただけでこんなにも消耗している。
 こんなはずじゃないのに。考えながら動くというのがこれほどまでに辛いとは。いや、これだけ思考してかつ最大限の動きを発揮できてようやく攻撃を入れられるモエニアが強すぎる。
 なのにまだモエニアは涼しい顔をしている。
「戦えはする。その動きはおそらく君の君じゃない記憶のおかげだろう」
「はぁ、はぁ、なんで知ってるわけ……?」
 そこまで詳しく話したことはないはずだけどな。セルヴィスもああ見えて口は固い。
 そう、おれがこのカランビットを武器に選んだのも、無理矢理キサラギに頼んで製造してもらったのもおれのおれじゃない記憶にあったからだ。この武器で人を殺す自分の姿が。
 忌々しく、恐ろしい記憶。だけどその技術と動きはそっくりそのままと言わないまでもおれの中にある。今日、塔の進行を進めたことでより明確に思い出せた。
 だから、ドラゴンであるモエニアに対して未だおれは立って居られている。
「私はミクスに頼まれてここに来た、もう知っているはずだろう」
「あー、ミクスか」
「とは言え、それだけが依頼を請け負った理由ではないがな」
「……」
「さて。休息は十分取れたか?」
 バレてるバレてる。抜け目なさすぎる。
 あと五分ほど待って欲しいところだったけど、モエニアは完全に臨戦態勢を取っている。おれが動かないなら私が行くぞ、とでも言わんばかりに竜の気迫を翼の銀光から放っていた。
 わかったよ。動くよ、動けばいいんだろ。
「行くぞっ!」
「来い……!」
 おれはカランビットを構え、跳んだ。前に? いや、後ろに。身体を反転させて駆けた。モエニアとは反対の方向へ。
 つまり遁走である。
「ふぅ……君の性格は多少わかっているつもりだったが、さすがに恥が過ぎないか?」
 負けたら終わりなのに恥だのプライドだの意地だのに拘っていられるか。
 おれは階段を登る寸前に中指を突き立ててモエニアに向けた。怪訝な顔をされた。やっぱり伝わらないらしい。
 というか煽るためにやってしまったがこれ既婚者にすごい失礼なんじゃ。ごめんなさい、モエニアの旦那さん。
「って余計なこと考えるな! この状況をどうにかする方法を考えろ」
 時間稼ぎはできた。あとは呈の準備が完了しているかどうかだ。
 ガッと石の床を大きく踏み抜く音が響いた。翼のはためく音も遅れて耳に届く。
 間に合うか?
 呈の魔力を辿りながら階段を二階層分登り切り、周囲を壁に覆われた通路を走る。壁の至る所に先ほどのブレスの影響と思われる亀裂が走り、小さな穴も開いていた。
 少し開けた場所に出る。上階と吹き抜けになっており、前には大階段。左右にフロア内別区画へと繋がるドアがある。
 そして、ちょうど吹き抜けとなる中央の直前にその仕掛けはあった。床に僅かに滴らせられた竜の生き血。呈が残した目印だ。
 背後で竜の進撃が鳴り響く。昨日今日で何度目かもわからない追われる恐怖を感じつつ、おれはその目印を避けて中央に躍り出た。
 振り返るとモエニアがちょうど曲がり角に現れる。あの狭い廊下で飛んでいた。いや跳んでいた、だろうか。壁に着地するように激しく飛び、そしてまた壁を蹴って滑空する。風を切る音は竜の咆哮にも聞こえるほど恐ろしい。
 だが、このまま来るなら好都合だ。おれとモエニアの直線状、その中心にそれはある。
 ワイバーンを絡めとった蜘蛛の糸が。
「それはもう知っている」
 モエニアの低音の声が、おれの耳朶を嫐った。
 アラクネの上下に張られたワイヤーがモエニアに触れる寸前、彼女の身体は白炎を身に纏った。皮膚を焼くほどのその熱量。それにより、白炎が触れるよりも早くワイヤーが赤い炎を走らせる。
「呈の魔力が見え見えだ」
 一瞬で上下に火は走り、ワイヤーを焼き切った。
 抜かれる。絡めとられなかった。
「やっぱり」
「もう逃がさ――」
「そうしてくれるよな」
「……?」
 モエニアの眉がひそまった。
 突っ込んできた彼女の眼前に落ちてきたもの。ワインレッドの球体。
 陶酔煙玉。
 ワイヤーに燃え広がる火の熱ですでに砕ける寸前だった球体が限界を迎える。
 モエニアの目の前で。
 バフッ!
 爆発した。赤紫色の煙がモエニアの身体を呑み込む。
「……!」
 糸がバレることはわかっていた。だからバレる前提で、糸が燃やされれば上部に設置された陶酔煙玉が落ちるよう呈に仕掛けてもらった。
 狩人として父から仕込まれている。そこはおれよりも仕込みが上手い。しかし糸自体を躱されれば効果がない。だから煽ったり、負けるのは嫌いだと言いつつ遁走して追わせた。それでも五分五分だったけど。
 そして。
 ブワッとモエニアの翼がはためく。紫煙吹き飛ばそうとしていた。
 これでモエニアを無力化できるなんて思っていない。
 ここが詰めだ。
 おれは重心を下ろし、膝を溜め、一気に加速。翼をはためかせるモエニアへ疾駆した。
 姿勢は低く、翼による風の抵抗を最小限に、煙の影響を床這いで抜け、モエニアへと一気に距離を詰める。
「ッ!?」
「フッ!」
 モエニアがおれに気づいた瞬間にはおれはもう彼女の股を抜けていた。抜けると同時に大腿部を刃を走らせ、翼を強くはためかせるために地面と接地して上半身を支えていた尻尾にナイフピッケルを振り下ろす。
 ガッ――。岩が砕ける鈍い音はするが肉が裂ける音はしない。魔界銀製は身体を傷つけない。しかし、そこに存在はする物体。モエニアの尻尾を地面に縫い付ける効果はある。
「スワロー……!」
 吹き飛ばした煙の中から凄惨に笑うモエニアと目が合う。
 地面を這うように移動する俺に向けて、尻尾を固定されたまま無理矢理拳を振り下ろそうとモエニアは身体をこちらへとひねった。
 そして、モエニアの顔の横。奥。ずっと向こう側。吹き抜けとなった上層の柵に乗り出す呈の姿があった。
 呈はすでに弓を構えていた。
「……ッ!?」
 気づいたときにはもう遅い。すでに絞られて弓は解放され、矢が放たれた。今度こそ急所を射止めんと矢が空を切る。
「ぐ、うぉおおおおおおおおおおおお!」
 正真正銘の全霊だったのだろうか。雄たけびとともにモエニアは、はためかせるために広げていた翼を無理矢理重ねて背を覆った。矢は被膜に深々と刺さる。が届かない。
 だから、とどめはおれだ。
 狙うは急所。独身相手では狙うべきではない場所。おれの体格にとって一番狙いやすい子宮。ここを突き刺し、魔力を傷つけ、モエニアを夫の下へと帰らせる。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
 咆哮とともに繰り出したカランビットの刃。
 刃の沈む感触がおれの手に伝わった。モエニアが防御した様子はない。
 確実に入った。
 倒せた。
「…………?」
 なのに。
「ふ、ふふ、ふは」
 その笑い声は、モエニアの口から漏れていた。
「アハハハハハハハハハハハハハハハ!」
 哄笑が響く。直後、皮膚が溶けるような熱が右掌を襲った。思わず手を引き、おれは愕然とする。
 カランビットの刃先が赤熱し、熔け落ちていた。まるでブレスを受けたあの壁や床のように。熱に耐えられずおれはカランビットを手放すと、半分ほどまでそれは熔け落ちて落ち着く。桃色の濁った煙を吐くそれは、おれの攻撃が無駄に終わったことを意味していた。
「賞賛に値する」
 モエニアがおれに言葉を落とす。瞳孔を縦に割り、口角を吊り上げ、歯を剥き笑う様は、人の姿ながら竜そのものだった。
「その子供の身で私の速さを凌ぎ、重きを外す身のこなし。我が身に幾度も刃を入れたその腕。感服した。初めて城で会ったときはまるで違う。意思もその身も全てが変わっている。一皮も二皮も剥けたな、スワロー。呈より得た愛はそこまでお前を成長させたか」
 違う。これは違う。
 称えているわけじゃない。褒めているわけじゃない。
「だが」
 だって、モエニアは笑っている。理不尽の形を崩していない……!
「我が壁には届かん」
 白炎が噴出した。おれは咄嗟にナイフピッケルを引き抜きつつ、バックステップする。追撃は来ない。だけど、我が目を疑った。
「なんだよ……それ」
 諦めの雫が滴ったような気がした。
 目に映るのは白炎の多腕。モエニアの身体から幾多にも伸びる白炎の尻尾。
 うねりをあげるように炎は渦巻き、一個の生物のように空に浮くそれは炎の不安定さが全くなかった。
 消えない炎であるかのように。
 その衝撃と熱波によるものか、モエニアを中心に周辺の地面がぴしぴしと亀裂が走る。
「ッ!」
「呈、待ッ」
 呈がモエニアに矢を射る。いまのモエニアの危険さを察知し、堪らず射たのだろう。
「……」
 モエニアは振り向きもせず、炎の尻尾で呈の放った矢を受け止めた。白炎の尻尾に沈んだ矢はその途中で止まり、固定される。そして、数瞬もなく、矢は焼かれ、魔界銀の鏃は溶け落ちた。まるで炎それ自体に物理的な重さがあるかのように。
 実体のある炎。そんなもの、この世にあるのか。それを自在に操れるということは、幾つもの腕があると……。
「この力を使うのは、主の命を狙ったドラゴンスレイヤーの男を我が宝としたとき以来だ。喜べスワロー。お前と呈はいま、ドラゴンスレイヤーと肩を並べたぞ……!」
 ふざけろ。つまりお前が言いたいことはひとつだろうが。
「さぁ、来い、スワロー! 呈! その身を尽くし、心を尽くし、死力を尽くし、愛を尽くして、我が理不尽に抗って見せろ!!」
 腕を広げ、翼を広げ、白炎の尾を広げる。吹き抜けのこのフロア全てを埋め尽くすように、白竜はその顎を広げた。
 暴虐が白炎の形を成した。
17/11/05 20:42更新 / ヤンデレラ
戻る 次へ

■作者メッセージ
Q.何故戦闘シーンがあるのですか?
A.ドラゴンと戦うのは男のロマンだからです。

まぁロマンを刺激するような戦いかと言えば、そうでもないかもしれないですけどね。
ああ、私の妄想は止まらない。加速する……。

【本編に(多分)もう出てこないキャラを紹介するコーナー!!B】
・天の柱にいた名乗らぬハーピー
 人間に換算して十八・九程度の少女でハーピーの群れの姉的な立ち位置。
 リーダー兼両親はきちんといて、スワローたちが会ったときは外出中だった。
 ただし、彼女たちは全員血のつながりのある姉妹、ないし腹違いなので、群れというよりは単純な家族構造に近いかもしれない。
 彼女たちの群れは元々反魔物領にあったが、魔物排斥の機運が高まってきたため、狩りが行われる前に反魔物領を自分たちから出ることにした。争いや面倒ごとを嫌った形である。色々と巡った結果、最終的に辿り着いたのがドラゴニアである。
 よそ者という自覚があるため、両親たちはドラゴニアの人々に迷惑をかけないよう天の柱に住んでいるが、気の使い過ぎであることに気づいていない。
 名乗らぬハーピーはドラゴニアの人たちが自分たちを受け入れてくれていることを知っているが、天の柱での暮らしに困っていないので特に何も言わないことにしている。
 黒いワイバーンことヴィータとは実は何度も会って、パムムの正しい食べ方など教授してもらっているが、いまだに名前も顔もきちんと覚えていないのが現状である。
 自分の名前すら忘れている節がある。日がな一日ぼーっとするのが大好きな未だ恋なき乙女。
 彼女の春はもうしばし時間がかかる模様。

・リファールとリューネ
 天の柱の絵画や宝物が安置されている場所で居を構えている二人組。リファールがグリフォン。リューネがワイバーン。
 宝物庫は彼女たちの場所だけではなく、他の場所は別のグリフォンなどが守っている。
 リファールはドラゴニア生まれで親から宝物庫の番を引き継ぎ、リューネは幼少の頃にドラゴニアへと流れ着いたワイバーンである。
 リューネはリファールに対して偏愛を抱いており、彼女限定のバイである。宝物庫の番をしているのもリファールと少しでも長くいたいがためである。
 その理由は幼少期、旅の途中に教団に襲われ、間一髪のところをリファールに救ってもらったからである。
 そのときにリファールは「我が宝物に手を出すとはいい度胸だ」とまだ子供であったにも関わらず教団兵を蹴散らし、リューネを守り抜いたのである。
 リファールのその姿と言葉に心底惚れこんでしまった結果、リューネは彼女と同じになりたい願望を抱くこととなり、彼女が夫を得たらその夫にメストカゲにしてもらおうと画策している。
 なので色々根回ししているのだが、現状上手くいっていない。
 なお、リファールはリューネが夫を得たら、盗掘者認定して襲いかかるつもりである。
 両想いである。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33