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第八章 天を仰ぐは誰がために:天の柱D
―9―

「意外だったな。すぐにスワローの元へ飛んでいくのかと思ったんだけど」
 竜口山から竜翼通りへと続く、整備された山道を歩きながらミクスは独りごちた。
 スワローが意識を失うと同時にミクスはスワローの両親の家へと足を運んでいた。理由は、気絶したスワローを助けに行こうとするリムを説得するためだった。
 しかし、ミクスの予想に反して彼女たちは全く動じずにとある作業を呈の両親たちと進めていた。こっちの方が優先だと言わんばかりに。
 だからミクスは肩透かしを食らって、こうして再び竜翼通りへと戻っているわけである。
「意外と冷たい。それとも、獅子は我が子を千尋の谷に落とすってことなのかな。興味がないってことはないと思うんだけど」
「わかっとらんのー」
 一人ぶつぶつ呟いていると、呆れたようにファリアが声をあげた。彼女の隣にはキサラギもいる。
 まるで自分がわかってるような口ぶりで、ミクスは踵を返すと腕を組んで向き直った。
「じゃあ、ファリアにはわかるのかい?」
「そんなの決まっておろう」
 ファリアは鼻を鳴らして言う。
「子離れしたんじゃよ」
「子離れぇ?」
 珍しく素っ頓狂な声をあげるミクスに、ファリアが大仰に頷き返す。
「手を離れた子にしてやれるのは見守ることと、何かあったときに帰ることのできる場所を作ってあげることだけじゃ。リムはスワローを一人前の大人と認めたんじゃろう」
 子離れ。その発想は全くなかった。ミクスはうんうんと頭を左右に振りながら唸る。
「ああ、色々龍泉様にありがたいお話もらってたっすねぇ。きっとそれが心境の変化じゃないっすか?」
「なんだいそれ。僕初耳なんだけど」
「ミクスはデオノーラ様にお説教されてたじゃないっすか」
 それを言われて、ミクスは苦虫を潰した表情を浮かべる。正直、二度と思い出したくないことだ。母親にも匹敵するくらい怖かった。竜の王の名は伊達ではない。愛情があるが故の怒りはもっとも恐ろしいものだ。
「まぁ、それを聞いていたところでぬしにはわからんじゃろうて。こればかりは親の経験がないとの」
「ふん。お相手もいないのに母親になんてなれっこないさ」
 嫌なことは忘れるに限る。さっさとお説教のことは頭の片隅に押しやって、次の手を考えることにした。
「さぁってどうしようっかなぁ。ふふーん。一番邪魔になっちゃいそうなリムさんが手を出してこないってことはわかったし。これは大収穫だ」
 一瞬前の渋面はどこかへ消え、ミクスは満面の笑みを浮かべながら両手を広げ、ゆっくりとバックステップする。
「まぁた悪巧みしとる」
「ファリア様はミクスに付き添ってるっすけど、別に眷属とかそういうものじゃないっすよね?」
 キサラギがファリアに尋ねる。
 その通り。ファリアはミクスのただの付き添い。魔力を与えたりもしていないし、思想思考を同調し合っているわけでもない。
 対して、キサラギはミクスに同調した同志のようなもの。ミクスはキサラギに自身の魔力を分け与えていた。キサラギが未だ男性と付き合っていないのは自身のせいかもしれない、と考えたことがあるが多分関係ない。ミクスはそう自分に言い聞かせている。
「まだまだ子離れできん親じゃからの、ミクスの両親は。子はとっくに親離れしとるというのに。おかげでこうしてお目付け役をやる羽目になっとる」
「ふっふーん。ファリアはどっちかっていうと母上の眷属だからねぇ。超穏健派。僕はどっちかっていうとデルエラ様の過激派寄りだけど」
 厳密にはその過激派とも違う。過激派の過は過保護の過だ。
 ただ不幸の坩堝にあったレスカティエを瞬く間に淫蕩満ちる楽園へと変えたデルエラのことを、ミクスは心の底から尊敬している。
 自分も彼女ほどの才覚があれば、こんなに回りくどい真似をしなくても呈やスワローを幸せに導くこともできたのだろう。とは言え、自身のエゴに巻き込んでいる形だから謝る権利すらないのだが。
 それに自分はデルエラではない。自分にやれることを地道にやるだけだ。
「まぁ、儂も子離れできとらんっちゅうことじゃ」
「ミクスもややこしいんっすねぇ」
 結局わかっていなさそうな表情を浮かべているキサラギは放っておいて、ミクスはバックステップのまま道を変えた。
「ん? 竜翼通りに戻らんのか?」
「んふふ、良いこと思いついちゃった」
 心底愉悦を滲ませた笑みを浮かべて、ミクスは二人に背を向ける。
「壁は大きい方が燃えるからね。邪魔は入らないんだ。とびっきり大きいのを用意しないと」
 彼女の黒い姿は夜の帳によく溶けていった。

「私の名前はヴィータ。そう警戒しないで。取って食うつもりはないよ」
 片翼を胸に、もう片翼を斜めに上げて、ヴィータと名乗った黒いワイバーンさんがお辞儀する。彼女は服を一切着ていなくて、秘部と胸だけを鱗が覆っていた。笑うことが素の表情であるみたいに口角を吊り上げている。
 どこか胡散臭さを醸しながら、芝居がかったステップで床をカツカツと鳴らしてぼくたちに近づいてきた。
 どっちにしても気絶したスワローを背負って逃げ切れるわけがない。ぼくはスワローを背にしてヴィータさんと向かい合った。
「そんな警戒しないでよ。お話できないじゃない。せっかくこうして会えたんだから。ね?」
「ぼくたちのこと知ってるみたいですけど、やっぱりどこかのワイバーンさんに唆されて?」
「違うってー。色々お話を聞きに来たんだよー。いま話題の天の柱の頂上目指す子供夫婦! 有名人だからね」
 両手、もとい両翼を上下にぶんぶん振って駄々っ子みたいにヴィータさんは振る舞う。それが演技っていうのはぼくでもわかったけど、ひとまずぼくたちを襲う気はないみたいで安堵する。ぼくたちを襲わないワイバーンさんがいれば、他のワイバーンさんも襲いにくい。現にグリフォンさんやハーピィさんのときは襲われなかったし。
「あの、ぼくは呈です。こっちはスワロー。多分知っていると思いますけど」
「おお、ご丁寧にどーも」
 ヴィータさんがぺたんと床に座る。そういえばとても薄着、というか何も着てないけど寒くないのかな。
「……」
「……」
 ヴィータさんがぼくのことをじぃっと見つめてくる。全身をまさぐられているようであんまり居心地が良くない。スワローにだったら視姦されているようで心地いいと思うけど。あ、今度やってみよう。
「ふっふふ、呈ちゃんって色々顔に出るタイプだねぇ」
「そ、そうですか?」
「うんうん。居心地悪そうな顔したあと、スワロー君のこと考えたでしょー? お姉ちゃんは何でもわかるんだよ?」
 は、恥ずかしい。ぼくってそんなに顔に出るタイプだったんだ。
「あっはは、そんなに頬を手で押さえちゃったら自分で白状してるようなものだよ」
 うう、ぼくあんまりこのヒト得意じゃないかも……。
「呈ちゃんはジパング出身だっけ? 最近スワロー君と出会ったんだよね?」
「は、はい」
「じゃあさじゃあさ。馴れ初めとか聞いてもいいかな?」
「ええと――」
 ぼくは簡単にスワローとの出会いを話した。どっちにしてもスワローが目覚めるまで動けない。こうして気を紛らわせられるのはいい。
 どこまで話すか迷ったけど、一応スワローのプライベートなことは伏せて喧嘩をしたけど仲直りはして結ばれたってところまで話した。ヴィータさんはいちいち「ほー」「へー」「すごいねー」と相槌を打ってくれたので、話しやすかったっていうのもある。聞き上手すぎて危うくエッチの具体的な内容まで話しかけちゃったけど。
「そっかぁ、スワローがねぇ」
「……?」
 あれ? なんだろう。変な感じ。
「その、ヴィータさんはここにいるのは長いんですか?」
 だけどよくわからなくて、今度はぼくがヴィータさんに質問をぶつけた。魔力の感じからして夫はいないと思う。
「私はドラゴニアの外からやってきた流れ者だからそんなにかな。下のハーピィの子たちと一緒。この塔は高いし居心地がいいから住み着いちゃった。美味しいものもこの国はいっぱいあるしねー」
「わかります。ドラゴニアの料理はどれも美味しくってびっくりしました。逆鱗亭のステーキはとっても大きくてジューシーでびっくりしました」
「わかるわー。あそこのステーキ最高だわー」
 涎をじゅるりと口の端から垂らしながら、思い出すように天井を見つめる。
「あとは男がいればねー。天の柱じゃ、出会いはあんまりないのよー。そこだけ不満」
「お引越しはしないんですか?」
「あっはは、引越ししちゃうと思い付きで天の柱登ることを決められたら、ぽいぽい追い返せないでしょ? 後手後手に回っちゃう。頂上に行かれちゃ駄目だからね」
「……」
 え?
「逆鱗亭もねー。そうやって追い出した日くらいしかゆっくりできないから、十一回くらいしか行ってないんだよねぇ」
「……」
「呈ちゃん」
 びくっとぼくの肩が上下した。喉元に刃物を突き付けられたのかと錯覚した。
「やっぱり表情に出やすいね?」
 白の瞳が妖しく輝いた。やっぱりこのヒトは……!
 ぼくがあることに気づくと同時に、風の音が響く。天の柱の外で、大きく翼をはためかせる音が響いた。
 魔法を目に宿らせる。
「ぅ……」
 赤く映るワイバーンさんたちの影がぼくたちのいる部屋を中心に、天の柱を取り囲むように飛んでいた。とてもすぐには数えきれないくらい。十じゃ済まない数はいる。
「さて、皆も来たみたいだし行こうか。スワローも連れてね。ああ、抵抗は止した方がいいよ。無駄だし」
 ぼくがリュックのサイドポケットに手を伸ばしかけたのをヴィータさんはあっさり看破する。歯噛みしながらもぼくは手を降ろしてスワローを横抱きにした。確かに外のワイバーンさんたちのことを考えたら逃げられる気がしない。逃げ場なんて、ない。
 大人しくぼくは歩いていくヴィータさんの後を追う。下手に抵抗しても首を絞めるだけ。ならせめてスワローが目覚めるまでの時間を稼がないと。
 階段を登ってヴィータさんが連れてきたのは三階分ぶち抜きの大広間だった。竜の発着場所なのか、外穴は大きく開かれていて、外壁の密度が少ない分柱が特に多く立っている。それにいままでのところよりも多くの魔宝石が埋められていて、普通の家みたいに明るかった。
 ぼくたちが到着すると同時に、外穴に数えきれないくらいのワイバーンさんたちが着地する。彼女たちはぼくたちに、ううんスワローに、雄に向ける淫靡な視線を向けていた。
「さて」
 ヴィータさんが大広間の中央にカツカツと歩いていき、振り返ると大きく翼を広げた。
「よくここまで頑張って逃げてきたけど、詰みだね。どうする? 何か聞きたいことがあるなら教えるよ」
「どうして、こんなことをしたんですか? あなたは唆されたんじゃ、ないんですよね?」
 ワイバーンさんに唆されていないと言った言葉、あれは嘘じゃなかった。
「ふふ、あっはははははははははははっ!」
 しかし、ぼくのその質問がまるでおかしいのか、ヴィータさんは腹を抱えて高笑いする。目尻に涙まで浮かべて、ぼくを嘲笑うように目を細める。
「もう気づいているくせに。そんなに現実逃避しちゃ駄目だよ、呈ちゃん。この私、ヴィータがその唆して回っているワイバーンさ」
 登頂前にスワローが話していた高笑いワイバーンさん。それとこの天の柱で祭りと称して唆して回っていたワイバーンさんが同一人物。一番、考えたくない符合だった。このワイバーンさんが、ヴィータさんがぼくたちを見逃すことは万に一つもない。逃げることもできない。
「どうして、ぼくたちの邪魔をするんですか……! ううん、どうしていままでスワローの邪魔をしてたんですか、あなたは!」
「んー、これ言っていいんだっけか。まぁいいか」
 軽い調子でヴィータさんは言葉を紡ぐ。
「頂上に行くとそいつな、スワロー死ぬんだよ」
 意味が理解できなかった。
 死ぬ? 誰が? スワローが?
 何を言っているの、このヒト。
「スワローはちょっと特別でね。あっち側の世界の魂の集合体が受肉した存在なんだ。ミクス曰く、まつろわぬ魂の具現だってさ」
「ミクス、さん?」
 どうしてそこでミクスさんの名前が出るの?
「頂上に登って記憶が完全に戻るとまつろわぬ魂の全ては結合し再分離、そして、あるべき場所へと還る。ここではない場所、天国とか地獄とかそういう場所だ。ただし、こっちじゃなくてあっち側。ヘル様もいなければ主神もいないあっちのあの世にな。つまり死ぬってことさ。こっちの死とは違う、無慈悲な死を迎える」
「ッ!」
 ヴィータさんの低い声がぼくを斬り付ける。無責任だと言わんばかりに。
 お前はスワローを殺す気なのか。そう言外に言い放っていた。
 喉がつっかえる。でも聞かないと気が済まない。
「あなたは、ミクスさんの、なんなんですか?」
「私? 同志、みたいなものかな。彼女の考えに賛同しているんだよ。この瞳はミクスの眷属である証だね」
 白と黒の反転した瞳。それはミクスさんの瞳と同じだった。
「そのミクスさんはぼくたちが天の柱に登れるよう協力してくれてたんですよ!? おかしいじゃないですか!」
 矛盾している。ヴィータさんがミクスさんの同志だとして、二人がやっていることは全くの反対だ。敵対しているから、という理由の方が納得できる。
「ミクスが何をどこまで考えているのか、私も全部は知らないさ。ただ、スワローを頂上まで登らせないで欲しいとお願いされてそれを今日まで続けてきただけ。それが望むべき形になると私は知っているからね。今日は祭りだから、皆と一緒にスワローを襲うことに決めたわけさ。残念ながら、鐘は鳴らせてあげられないけどね」
 ごめんね、皆とヴィータさんは周りのワイバーンさんたちに両手を合わせて謝る。ブーイングの声が遠い。自分の立っている場所が崩れたかのような、奇妙な浮遊感がぼくを襲っていた。
「さ、諦めてくれるかな? 楽しもう。堕落して乱れて、快楽の底の底に皆で沈もう。天の柱になんて登らなくていい。交わることしか考えないメスとオスになろうよ」
「ッ! スワローは渡さない!」
「あっははははっ! いいよ、じゃあそう願うといい。魔力にその気持ちを込めるといい。本当にそう思っているなら私たちはスワローへの興味を失うからね。天の柱には登らせないけど、手を出せなくはなるよ。それならそれでいい」
 ヴィータさんが近づいてきてぼくの手を取った。強く手を引かれてぼくはスワローの身体を支えていられなくなって地面に落としてしまう。蛇の尾をクッションにしたので怪我はなかった。けどそれに気を取られて、ヴィータさんにスワローから大きく距離を引き離されてしまう。
「ふふ。もう皆待ちきれないって」
 ヴィータさんに背中から羽交い絞めされる。全身をまさぐるようにいやらしい手つきでヴィータさんの爪がぼくの肌を柔く引っ掻く。身じろぎしてもヴィータさんの方が力が強くて引き剥がせない。
 ぼくという邪魔者がいなくなったからか、ワイバーンさんたちはゆっくりと地面に着地した。ゆっくりと、じりじりスワローに距離を詰めていく。上気したその顔は期待と緊張が入り混じったような表情をしていた。
「ぅ、はぁ、はぁ……ぅぁ、はぁはぁ」
 息が上手く吸えない。やめてと言わないといけないのに。皆を止めないといけないのに。スワローを助けないといけないのに。その言葉が出ない。
 ヴィータさんの言葉が頭の中で反響する。
『頂上に行くとそいつな、スワロー死ぬんだよ』
 ぼくはスワローを死なせようとしていた? ううん違う。そんなつもりじゃなかった。スワローを死なせるつもりなんて。それにヴィータさんが本当のことを言っているとは限らないじゃないか。嘘の可能性だって。
 なら、どうしてスワローは目を覚まさないのかな?
 自分の声がする。ぼくを責める棘のある声。その無知さでスワローを殺そうとしていたぼくを責めている。スワローは死なない? それは現実逃避だ。ヴィータさんの顔は真剣そのものだ。嘘なんて絶対についていない。
 ああ。ぼくがスワローに出会わなければ、スワローを好きにならなかったらスワローはいまでもずっと何度も天の柱に登っては落とされてを繰り返して、少なくともスワローが死ぬ可能性なんてなかった。
 ぼくがスワローを死に近づけた。ぼくが、ぼくがぼくがぼくが。
 だからそんなぼくにスワローを独占する資格なんて。スワローの唯一がぼくだけだなんて、おこがましい。
 ヴィータさんの方が、ずっとスワローのことを想っている。スワローが天の柱を登り始めて二年以上。その間ずっと、スワローが頂上に登り切らないよう天の柱に籠っていた。
 ヴィータさんのスワローを見る横顔は優しい。まるで母か、それとも姉のようにいまワイバーンさんたちに襲われようとしているスワローを見守っている。
 そうだ。彼女たちがいれば、スワローは竜騎士になれる。ドラゴニアに恩を返せる。騎竜にはなれないぼくと違って、ワイバーンさんたちなら。
 だから、ぼくには。ぼくなんて。ぼくなんかが。
「ねぇ? ぼくはどうしてスワローを好きになったんだい?」
「ん? なんて」
「ぼくはどうしてスワローを好きになったんだい?」
 問うた。ヴィータさんにじゃない。ぼく自身に。
「ぼくはね、天の柱に登っていくスワローの姿を好きになったんだ」
「呈ちゃん、なにを?」
「同時にね、消えてしまいそうだったスワローを繋ぎ留めたいとも思ったんだ」
 そうだ。
 誰がスワローを好きだろうとそれは変わらない。ぼくよりもスワローを想っている誰かがいたとしても、変わらない、変えられない、変えさせない。
 おこがましくて、卑しくても、そんなことは知らない。
 情欲の蒼い炎を、鮮烈に赫く輝く烈火の如く滾らせる。
 いまスワローの隣にいるのはぼくだ。
 スワローにはぼくだけだ!
「スワローはぼくだけのものなんだ!」
 ぼくの見初めたスワローに手を、出すなッ!!

「スワローはぼくだけのものなんだ!」
 呈が叫んだ直後。
 一瞬のことだった。瞬きしていれば捉えることはできなかったであろう一瞬。
 呈を中心にして蒼い膜のような光が放たれて消えたのを、ヴィータは目撃した。
「いまのは」
 辺りを見渡す。誰もいまの現象に気づいた様子はない。蒼い光。なんだいまのはと、ヴィータは呈に尋ねようとした。
 しかしできなかった。異変が起きた。
「ああ、ふふ、男の匂いがするぅ」
「するな、下の方で芳醇な精の香りを放つ男がいるぞ」
「ハーレム願望の男がいるね。これは捨て置けない。私も混ぜてもらわないと」
「こんなところで道草を食っている場合じゃあないわねっ!」
 ワイバーンたちが不意にスワローから背を向けて、天の柱の外へと飛び始める。
「お、おいお前たち何で……っ!?」
 ぐにゃりとヴィータの視界は歪んだ。陶酔に浸りそうになる歪み方。香しい匂いが鼻腔をくすぐり脳を蕩けさせる。いる。下にいる。自分の好みとなりえるオスが。自身をメストカゲに変えてくれるオスがいる。
 抗いがたい誘惑だった。自分にふさわしいオスがいるとわかって、じっとしていられるはずもない。
 だが、ヴィータは堪える。歯を食いしばり、鋭い爪のある拳を握りしめる。
 自分には使命がある。ミクスから任された使命。スワローを死地へと向かわせない使命が。
「……呈!」
 しかし、陶酔に浸りそうになっている身体が呈を押さえておけるはずもなく、呈がヴィータの腕から離れてスワローの元へと向かっていった。よろよろと、おぼつかない這い方で、未だ意識の戻らないスワローの元へと辿り着き、倒れこむようにスワローに抱き付く。
 数秒だけ揺らめく蒼い炎が二人を包んだ。
 ヴィータは目を何度か瞬きさせ、二人を凝視する。
 スワローの精が呈の魔力と同質になり、まるで二人で一つの魔力のようになっていた。決して解けない、否、元より一つの存在であるかのように。
「……」
 呈がこちらを見る。蛇よりも竜と呼ぶべき、縦に割れた剣閃の眼光でこちらを睨み据えていた。そして、意思表示をしていた。
 絶対にスワローは離さないと。
 それはどの女にも手を出させないという意味だけではない。運命、この世の理、定められた結末、その全てからスワローを守り抜くという決意の顕れ。
 ヴィータはそんな二人を茫然と見つめる。
「ああ、そういうことだったんだ、ミクス」
 これだ。スワローを死なせないための唯一の方法は。単純で、明確で、この世界において一番簡単でもっとも基本的なこと。
「スワローを愛して、スワローが愛せる誰かの存在を見つけること。それが現れるまでの障害が私の役目だったんだ」
 言葉にして気づく。そうじゃない。
「ああ、そっか。私がスワローを愛していれば、その役目をやめても良かったんだ」
「うっ……」
 スワローがうめき声をあげて目を覚ます。呈がようやく目覚めたスワローに泣きながら歓喜の言葉を投げかけていた。
「でもまぁ、ないねー。弟分に欲情する私じゃないし」
 殊更明るく言ってヴィータは天井を仰ぐと、始めてスワローを目にしたときのことを思い出す。
 必死になって、息を荒くしながら登るスワロー。何度も低めの崖から落ちて、見ているとハラハラしてしまうくらい危なっかしかった。最初はミクスの頼みだから聞いていたが、次第に放っておけなくなって、積極的に登らせないようにした。煽りまくって心も折ろうとした。死んでしまうのに、登らせたくはなかった。そのことを伝えるのは禁止されていたが。
 ヴィータに芽生えていたのは恋心というものではない。無鉄砲な弟をどうにか守りたい不器用な姉の気持ちだった。
「おい、スワロー、呈!」
 ヴィータの呼びかけに二人は同時にこちらを見る。スワローはヴィータの存在を認めて驚愕の表情を浮かべていた。あからさまに警戒心を抱いている。
 焦るなよ、とヴィータは笑った。
「お節介はもうおしまいだよ。あとは二人で頑張れ」
 自分の最後の役目は終わった。二人をより強固に結びつかせるための布石。今日ミクスが自分にワイバーンを唆せるよう指示し、二人を追い詰めさせたのもこれへと導くため。
 呈に、自分だけがスワローのものであるという思いだけでなく、スワローが自分だけのものという思いを抱かせる必要があったのだ。それもまだ本人は自覚しきっていないだろうが。
「面白いものが見られるって言ってたけど確かにね……二年以上の報酬はこれで十分すぎるよ」
 見れば見るほど、呈とスワローはお似合いに思えた。もう大丈夫。スワローが呈と分かたれることはない。
「ヴィータ」
「多分、ミクスはまだ何かするよー。気を付けてなさい、二人とも」
 おしまいと言いつつもまたお節介をしてしまった。姉は弟に甘いものなのだ。
 ヴィータはもう何も言わずに天の柱を飛び出す。火照りはもう限界だった。翼を畳み、頭を真下へ、身体を一本の矢とし、彗星の如く急降下する。
 肌が凍りそうなほどの冷気が全身を蝕むが、それでもこの火照りは一切収まらない。
 何人にも止められない。
 竜翼通り。
 そこに、呈が結び付けてくれた自分と結ばれるオスがいる。いた。夜でも見逃さない。
 彼はいままさに、自分たちワイバーンにとっての大好物であるパムムを食べようとしていた。
「あは」
 喜色満面の笑みを浮かべ。
「あははははははははははははははははっ!!」
 高笑いしながら急降下したヴィータは、そのパムムを奪い取り、一口で食べた。
「ごくんっ。ごめんねーお兄さん。折角のお食事。お詫びにぃ、私を食べさせてあげる!」
 自身の熟れた肉体を差し出し、ヴィータは夜の帳へその男とともに姿を消した。
 間もなくそこかしこで、初めてメストカゲとなったワイバーンの嬌声が響くこととなる。

―10―

「ッ……大丈夫か、呈」
「うん! いけるよ!」
 凍り付くような強風がおれたちを吹き飛ばそうと絶えず襲っていた。眼前には上下に伸びる巨大な壁があった。背後にはおれたちを受け止める一切の地面も存在せず、オレンジ色と青が入り混じった大空が分厚い白雲に彩られながら広がっているだけ。
 吐く息は白い。そのまま息が凍って、氷の結晶となって風に散らされていくほどに。
 早朝、おれと呈は天の柱の壁を登っていた。
 吹きすさぶ風によって削り取られ凹凸ができた壁に指をかけ、足をかけ、なんとかおれは壁をよじ登っている。呈は昨日同様、カラビナで繋がり腰回りに巻き付いている。呈も尾に幾つも付けたアイゼンを壁に打ち付けて支え、おれをサポートしてくれていた。
 命綱はない。届く範囲でロープを引っ掛けられる箇所は見当たらなかったのだ。
 それでもここから登る他道はなかった。上階へ行くための階段が崩れていたうえに、その出口が瓦礫で塞がってしまっていたのだ。崩落はどうにかなってもさすがに埋もれた穴をどうにかする術は持ち合わせていなかった。
「ワイバーンたちはもういないんだよな」
「うん。魔法で見てるけど影も形もないよ」
 とはいえ、昨日からワイバーンの姿がどこにもない。それだけが不幸中の幸いだった。
 昨夜、おれが目覚めたあと、呈から事のあらましを全て聞いた。
 おれが意識を失ったこと。あの黒い高笑いワイバーン、名はヴィータか。そのヴィータが現れたこと。ワイバーンに囲まれたこと。ヴィータはミクスの頼みによっておれの妨害をしていたこと。おれが頂上へ辿り着けば死んでしまうこと。
 驚きはしたけど、荒唐無稽だと笑い飛ばすことはしなかった。どこか納得していたのだ。でも悲観はしなかった。多分、いや絶対に呈がいたからだ。
 そして、呈はそうはならないと断言した。覗き込めば沈んでしまいそうなほどの深い紅色の瞳でおれを見つめて。おれの心をその身体で絡み取った。おれは自分の全てを差し出して、呈に呑まれた。
 そうして、まるでおれの身体を根底から作り替えるような激しい交わりを行った。
 お互いの身体全身を覆うような蒼い炎の中で行う交わり。直接的な熱はなかったけど、身体は燃えるように滾った。狂ってしまいかねないほどに。でも、呈と交わればその熱はたちまち収まった。だから呈の肉体に安息を求めた。呈の媚肉を、癒しの水を恵んでもらった。
 際限なしに交わり、蒼い炎に浸って注ぎ込まれて、呈という底なし沼に沈んで、そこに潜む呈という白蛇に貪られた。呑み込まれた。
 呈と一つになる感覚はおれに安息をもたらしてくれた。
「……」
 凍えそうなほどの強風がおれたちを薙いでくるが、ほとんど寒くはなかった。いまでも呈と交わっているときのように、穏やかな水に包まれているような感覚が続いていた。
 いま命に関わることをしているというのに、呈のことが頭の片隅から一時たりとも消え去らなかった。常に呈の存在がおれの中にいる。この困難を前にしても、情欲の蒼い炎のような形で、おれを絶えず奮い立たせてくれていた。
 これまで以上に呈を感じる。内側も外側も、呈で占められているようなそんな感覚。
 心地よかった。
「よ、っと」
 重心のかかる場所を気にしながら指をかける場所を探っていく。慌てない。冷静に、しかし速やかに。
 時間はかかろうとも、両手指と両足で動かす場所は一度に一か所のみ。右手をフリーにすれば、その他三か所はかけたまま。
 ただし身体を支えるのはそこだけではなく、背筋などの全身の筋肉を使って支える。一か所の指のために全身を用いる作業だ。本来はかなりの体力を消耗する。
「っ!」
 指をかけて体重をかけようとした瞬間、その亀裂の縁が崩れた。
 あわや身体が傾きそうになるが、なんとか耐える。息をゆっくりと吐いた。呈の水を感じるとすぐに平静を取り戻せる。
「サンキュー呈、いまのはナイス」
「うん。ぼくも頑張るよ」
 呈がアイゼンを壁に差し込み、がっちりとおれの身体を支えてくれたおかげでバランスを崩さずに済んだのだ。
 壁と身体の距離を極力狭めながら、重心が背中に行かないよう気を付ける。リュックを背負っている以上どうしても重心は後方に下がりやすい。なるべく壁に身体を寄せる必要があった。
 壁を登り始めて三十分以上経っている。吹き曝しの場所だからもっと体力が持って行かれると思ったが、体力は余り余っていた。おそらくは昨夜呈と異常なまでに濃いセックスをしたからだろう。半インキュバスだったおれは、限りなく呈と同じ魔物と呼べるインキュバスに近づいた。呈が近くにいると常に交わって体力を回復しているかのような気にさえなった。
「ふぅ。うーん」
 天の柱の壁は単に風で壁の表面が剥がれたり、削れたりしているだけと思っていたが元々何かしらの模様が彫られているらしかった。大昔の竜工師が建てたという塔だ。もしかしたら巨大な竜でも描かれているのかもしれない。
 下から見える範囲では竜の彫像が飾られてたり、竜に関連する意匠が彫られていたりもする。ここまで上部になると崩落の危険性を考慮してか、派手な装飾などはないが竜に関わる絵が描かれていても不思議ではなかった。
「じゃあ、いま竜にしがみついてるってことになるのか」
「? なんの話?」
「いや、天の柱の壁が削れててよかったなぁって話」
 おかげで登りやすいし。
「……スワロー。ヴィータさんとは何ともなかったんだよね? 出会ってからずっと」
「なかったよ。聞かなくてもわかってるだろ? 名前すら知らなかったし」
 怒った風にではなく、笑い飛ばすようにおれは言う。
「向こうだっておれのことを特になんとも思ってなかったと思うけどな。おれは正直ムカついてたけど、『あはははっ!』って笑っておれを天の柱から投げ飛ばすんだからな」
「目に浮かぶような……。でもお礼を言わないと駄目だよ?」
「お礼?」
 本当に何かしらの絵が描かれているのか、足全体を乗せられるくらい出っ張った縁に辿り着いたところでおれは歩みを止める。
「だって二年もスワローを守ってくれてたんでしょ?」
「そうか。そうなるな。そういえば」
 死なせないようにしてくれていたのは確かだ。遊ばれていた気もするけど。そこは感謝すべきなのかもしれない。
 おれの中のおれたちが還らないように止めてくれていたことには。そうじゃなきゃ、呈に出会えなかった。
「ヴィータさんがお相手見つけてたら一緒に会いに行こう?」
 低い声で呈が言う。まだ警戒しているらしい。なんだか、今日になってようやく呈の蛇らしい一面を見たような気がする。これまでは子供の嫉妬みたいな可愛いものだったけど、いまは本格的に自分以外の女性を拒絶している風だった。
 ま、そこがまた愛おしいんだけどね。
「しっかし、ヴィータはともかくなんで他のワイバーンも見逃してくれたのかな」
 休憩終了。再び気を張り詰める。休憩を終えた直後こそ一番危ないからだ。
 指一本しか乗せられない縁にかけながら、上へ、時折左右に移動しながらルートを開拓していく。呈が上へ伸ばした尻尾のアイゼンで掘った穴を無理矢理利用もしつつ、おれたちはゆっくり着実に登っていく。
「……やっぱりわかんないや。ぼくもあのときは無我夢中だったから」
 しばらく思い出そうとしてくれていたみたいだけど、結局思い当たる節はなかったらしい。
「一応ね。スワローにはぼくの魔力でマーキングしてあるから、ぼくが心底他の女性に触らせたくないって思ったら、誰もスワローを見向きしなくなるんだよ」
「見向きもされなくなるってなんだかすごい表現だ」
 孤独になりそう。いや、呈がいるからそうはならないか。呈に依存してしまいそう。いや、もうしてるか。
「それでもあの直前までは皆、スワローのこと欲しがってた。だから、ぼくももしかしたら心のどこかでぼく以外がいてもいいやって思ってたのかも。スワローを幸せにしてくれるなら」
「呈以外は興味ないよ」
「うん。ありがと」
 上を向いていても声のトーンで、呈が胸の内で微笑んだのがわかった。
「でも、いざってなるとスワローを誰にもあげたくないって思って」
「スワローはぼくのものだ、って?」
「き、聞こえてたの!?」
 いやいや、そのときは絶賛気絶中だったよ。
「エッチしてるとき、独占欲丸出しでぼくのものぼくのものって連呼してたじゃん」
「……ぁぅ、ぼくそんなこと口走ってたんだ」
 今度は恥ずかしがっているのがわかる。顔を見れないのが残念。
「ぅぅ、と、とにかく! スワローはぼくのものなの!」
「そして、呈はおれのものだ」
「ッ!!」
 機先を制するように呈の言葉に繋げると、あからさまに呈が戸惑った。そして烈火の如く怒る。おれを締め付ける。
「っ〜!」
 完全に照れ隠しだったけど、この状況でそれやるのやめて!? さすがに落ちるから!
「あぶ、あぶなっ、危ないだろっ!?」
「スワローがからかうからいけないんだよ! ぼくは真面目なのに」
 おれも真面目なんだけどなぁ。
「まぁ、あれだ。なんやかんやあって、きっとワイバーンは諦めたんだな」
「なんやかんやってなに?」
「なんやかんやはなんやかんやだよ」
「……それだと、ワイバーンさんたちが他の男性を見つけてたみたいなそぶりをした理由にはならないんだけどなぁ。まぁいいか」
 呈は諦めたようにおれをしっかりと抱きしめる。アイゼンでおれのサポートに集中してくれた。
 そう。気にしても始まらないことは考えないのが吉だ。いまはこの状況から早く抜け出すことに集中した方がいい。
 話題振ったのおれだけど。
「ワイバーンがまだいたらここで詰んでたなぁ。よし、見つけた」
 右斜め上方。天の柱から伸びた突起状のものが見える。そこだけでなく、距離はあるが幾つも壁に小さな突起物が見て取れた。本来ならもっと数があったのだろうが、場所が場所である。風などで折れてしまったのだろう。
 描く。自身と突起物、そしてその先にあるものを線と線で結び、ルートを築き上げていく。
 思考する。自身と突起物を繋ぐもの。その道具。ルートを通るための手段。安全に確実に登っていくために必要なピースを、所持物と照らし合わせて構築していく。
「呈、一気に行こうと思うけどいいか?」
「あれをするんだね?」
 頷く。一気に行くときの打ち合わせはすでに行っていた。
 もぞもぞと呈が準備をする。できたよ、という言葉と同時におれは動いた。
 おれたち二人を支える手を壁から離した。背筋も緩め、重心は後方へと移る。上体が上向きに、青い空と天の柱上層を囲う分厚い真っ黒な雲が視界に入る。着ている外套が下からの風で上向きに翻る。落下に転じる直前、おれは腰の右側巻き取り機のロックを解除。同時に鉤爪のロープを三回転ほどさせて振り上げた。
 横殴りの風も計算に入れて、というよりは直感の投擲。しかしロープは突起物へと吸い込まれるように掛かる。それはおれたちの身体が塔と垂直になった瞬間と重なった。
「「風魔石!」」
 おれと呈は同時に叫ぶ。おれたちの胸ポケットから魔宝石が翡翠の輝きを爛々と解き放った。直後、ロープはピンと張り詰める。しかし、小さく脆いはずの突起物はそれでも折れない。
「行くぞ、呈!」
「うん!」
 巻き取り機の本領発揮。駆動を開始し、ロープを吸い込まんばかりに巻き取り始めた。
 翡翠の輝きを放出させたまま、塔と垂直に吊るされたおれは、塔を駆けのぼる。
 重力のしがらみから解放されたように身体は軽く、一足飛びで自分の身長ほど高く駆け上れた。
 ともなればロープの終わりはもう直前。おれは突起物を跳び越すと同時に右手でロープを振るって鉤爪を剥がし、左手で空いている左側の巻き取り機のロープを次の突起物へと投擲し引っ掛ける。
 右側のロープが巻き取り機へと完全に回収される頃にはもう身長二つ分ほどおれは上層へと駆け上っていた。
「次、平行移動!」
「了解! 調整するよ!」
 横から微風が感じられるようになる。
 風の魔力が込められた風魔石の副次効果。周囲の風の影響をコントロール可能。魔力のコントロール力に乏しいおれには難しいが、一夜漬けにも満たないとは言えミクスに鍛えられた呈ならば容易にコントロールできる。
 鉤爪を掛けた突起物が右斜め上方にある状態で、おれは壁を蹴り右へと跳んだ。
 身体が塔と平行になり、足が重力に従って地面へと向く。突起物を支点として振り子のようにおれたちは大きく弧を描いた。
 背に追い風を感じながら、振り子の幅が最大になったタイミングで、先ほどまでと同様、鉤爪の剥がしと新たな突起物にロープを振り投げを実行する。
 おれたちは塔の側面に沿うように大きく移動した。
「呈! 弓!」
「任せて!」
 振り子が最大値へと近づくタイミングで、呈がおれの腰に蛇体を巻きつけたまま、上体を起こしておれよりも高い位置に起き上がった。
 手に持つのは弓。すでに弓は引き絞られ、狩人たる呈の口は獲物へと狙いを定めていた。
 そして、振り子が最大値へと到達し、一瞬身体が無重力状態に移行する。風魔石を使っていてもこの状況を作り出すのはこのタイミングでしかできない。
 その一瞬を、狩人を父に持つ呈は見逃さない。
「ッ!」
 矢は放たれ、風魔石の影響下から出ても暴風を穿って目標へと到達した。
「ホント、呈大好き!」
「ぼくもスワロー大好きだよ!」
 呈の巻き取り機がおれたちをさらに上方へと連れて行く。
「見えてきた。魔力の雲だ」
 黒い雲帯が天の柱に輪をかけるように囲んでいた。あれが魔力の雲。ドラゴニア城周辺を覆うものと近いものだ。
 まだ近くに塔内部へと入る場所はない。だとするなら取る行動は一つ。
「突っ切るぞ!」
「うん!」
 跳ぶ。再び壁にしがみつき、よじ登って魔力の雲へとおれたちは侵入した。
 中は不思議なほど穏やかだった。風魔石がいらないほどに空気が滞留している。見た目こそ雨季に現れる雨雲のような黒さだったが、雨粒があるわけでもなく身体は濡れない。それに内部は魔力が濃厚な桃色の粒子となって漂っている。肌に触れるとそれはまるで吸い込まれるように消えた。
 いや、実際に吸い込まれた。
「っ!」
 呈の身体が異様に近く、そして抗えないほどに魅力的に感じた。いますぐここで抱きついて貪りたいほどに。
 そんなことをすれば壁から手を離してしまうことはわかりきっているというのに。
「まずい……思ってたよりも、きつい」
 指先がぷるぷると震える。理性を保つので精一杯で身体に力を込められない。ドラグリンデ城で、ドラゴニア各地で、呈とのセックスで魔力の耐性は幾分かできたと思っていたが、思い上がりも甚だしかった。
 思考がピンク色で塗りつぶされていってしまう。抗うのがひどく億劫になってくる。
 もう駄目だ、そう思ったときだ。
「ぼく以外の魔力で欲情しないで欲しいなぁ」
 蒼い炎がおれの内側で大きく猛った。瞬間、ピンクに塗りつぶされかけたおれの頭が静謐な湖面の如く落ち着く。呈の水の魔力がおれを包み込んでいた。
「めっ、だよ、スワロー。ぼく以外の魔力でエッチしたくなるなんて」
 腰に蛇体を巻き付けたまま、おれの真横まで顔を持ってきた呈が頬を膨らませる。
「だ、大丈夫なのか、呈は? この魔力に耐えられるの?」
 魔力に耐性のある魔物と言えど影響は受ける。濃密な魔力を受ければ興奮するし、夜の営みが激しくなって快感が増すというのはよくあることだ。ドラグリンデ城がその最たる例で好色な種族であるデーモンたちが多いのもそれが理由。
 だから呈もおれと同じ状態に陥ってもおかしくなかったが、呈はいつも通りだった。
「心地いいのは確かだけど、いまのスワローみたいになったりはしないよ? うん、むしろどんどん調子よくなってく」
 呈は上へと顔を向けると、翡翠の輝きを最大限まで引き上げた。身体が軽くなると同時に、呈はおれを蛇体から解放して直接腕で抱きかかえ、アイゼンの取り付けてある尻尾をぶんっと振り回す。
「一気に行こう、スワロー!」
 ガッ、とアイゼンが天の柱の壁にめり込んだ。
「え、ちょ、まっ!」
 おれの制止もむなしく、ぐんっとおれの身体が上方へと引っ張られる。さながら首元を掴まれて持ち上げられる猫の如く。
 なすがままだった。
「ぐぇ」
 かかる重力が低くなってもなお、すこぶる調子のいい呈が尻尾で一気に身体を引き上げるときにかかる力は半端じゃなかった。
「ぼくもスワローみたいにできてるよ!」
 年相応の子供のように満面の笑みを浮かべる呈は、はつらつと叫ぶ。
 ガッ、ぐんっ、ガッ、ぐんっ、ガッ、ぐんっ。
 まるで早送りロッククライミングでも見ているみたいに呈は一気に魔力の雲を駆けのぼった。
 そして雲を抜ける。ワイバーンが出入りする発着の穴が右を少し行ったところにあった。
「て、呈あそこ」
 グロッキーになりつつも指示。呈は頷いて意気揚々とアイゼンを打ち付けようとした、が。
 ガキンッと壁に弾かれた。
「あれ?」
 見るからに呈の尻尾の勢いは力を失っていた。もしかしなくても魔力の雲を抜けたからだ。
「こ、このタイミングで!」
「ご、ごめんよ〜」
 身体が落下に転じる。壁からは離れているしがみつくこともできない。
「ああ、もうっ!」
 悪あがきのようにロープを穴へと投げ入れ、ぐいっと引っ張った。運よく鉤爪が穴の縁に引っかかる。魔宝石に体重を軽くしてもらっているおかげで鉤爪が外れることもなく、おれたちは仲良く宙ぶらりんになった。
「さっさと入ろう。さすがに疲れた」
「うん。調子に乗ってごめんね?」
「いいよ、実際一気に抜けられたし。これは呈のお手柄だ」
「えへへ。でも次はきちんと言ってからにするね」
 そうしてくれると非常に助かる。
 おれたちは穴へと転がるように入り込む。その先がまたさらに穴、というようなこともなく普通に石の床だった。
 そこは玉座の間のようでもあった。おれたちが入ってきた穴と対照の場所に同じ大きさの発着場所。その中心左側には玉座と反対側には外廊下や階段が見える。それと反対方向の上座に玉座があった。
 玉座には竜の意匠が施されており、当時の天の柱を作った国と竜の関わりが密接だったことがよくわかる。
 そして。
「お前は……」
 その玉座の脇に恭しく控える存在がいた。
 しかし、その立ち振る舞いに反してその姿は気高く、威風堂々とした気迫を放っていた。
 向こうの発着場所から横殴りの朝日が差し込む。
 逆光となってもその輝きは塗りつぶせなかった。
 闇すら、光すら呑み込む白。
「ようやく来たか」
 純白を纏う竜がそこにいた。
17/10/29 19:34更新 / ヤンデレラ
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■作者メッセージ
いったい何ニアなんだ……。

天の柱編はちょっぴり長めなのでどこで区切るかすごい悩みました。
頂上まであともうちょっと!

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