連載小説
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第七章 雨降って地交わる:竜泉秘境@

―1―

 二年と半年と数か月ほど前の話をしよう。
 そのときのおれはろくに体力もなく、少し走れば息を切らし、身体もいまみたいに出来上がってはいなくて、竜口山の崖なんて身長分も登れないくらいだった。
 それだけじゃなくて、不愛想かつ憎たらしい性格でお世辞にも人付き合いがいいとは言えなかった。まぁこっちはいまもかもしれないけど。とにかく人見知りでなくなっているのは確かだ。
 その頃くらいにもともと住んでいた雲上都市から洞窟の方へと母さんたちは引っ越した。おれが正式に二人の養子となったタイミングでだった。理由は幾つかある。おれが一度天の柱近くの崖から落ちたこともあり高い場所は危ないから、あとは街の方だとつまみ喰いに来る娘が多いからだとか。その頃はまだおれが人見知りだったせいもある。
 まぁ、一番の理由は竜泉郷近くの場所に居を構えたかったからだろうけれど。ともかく、ワイバーンにとって過ごしやすい雲上都市から低地の方へと母さんと父さんは引っ越してくれた。
 おれは目覚めて以来、特に何不自由なく過ごしていた。
 そして、この頃には二人を母さん父さんと呼ぶくらいには信頼していた。
 身寄りのないおれに生きる場所と、ここで生きてもいいんだと教えてくれた二人。魔物娘の存在自体を知りすらしないおれの存在を認めてくれた二人。信頼しないはずがない。
 面と向かって口にしたことはなかったけれど、嬉しかった。心の底からおれは二人に感謝した。いまだってしている。言葉じゃ言い尽くせないくらい。
 おれの身体が変調をきたしたのは引っ越ししてすぐの頃だった。
 熱っぽい感覚。ふわふわと宙に浮いているような、全身が蒸気になったように地に足がつかない状態におれは陥っていた。それと同時に全身が軋むような、痛みはないけれど痺れがあった。その中でも泣かなかったのはおれの朧気な記憶に、白い病室で息も絶え絶えに苦しむ自分がいたからだろう。苦しさに慣れていたとは言わないけれど、心構えはできていたのだと思う。
 正直おれはこの風邪のような状態をあまり深刻に考えていなかった。
 が、母さんたちは違ったらしい。
 おれが体調不良だと知るや否やドラゴニア中を東奔西走してくれた。本当の親であるかのように。多分、二人を本当の意味で親だと思うようになったのはこのときだと思う。
 そして、さる高名な二人を母さんたちは探し出してくれたのだ。
 いまでも少ないながらも親交のある彼女。たまたまドラゴニアに訪れていたサバトの長、バフォメットのファリアさん。
 そして、闇色に一点の光を灯す白黒サキュバス。自身をリリムとかたるミクスだった。
 おれを初めて見たときのミクスの顔は、その瞳はいまでも覚えている。
 その瞳がおれじゃないおれを見ていた。
 魔物娘を怖いと思ったことはあったがすぐに誤解は解けた。しかし、そのときばかりは人も魔物娘も関係なく、ミクス自体を怖いと思った。その絶世の美貌すら霞むほどに。
「君は、何だい?」
 どこのでもなく、誰でもなく、おれが“何”なのかをミクスは尋ねていた。
 おれは答えられないまま、ベッドの上でファリアさんの診察を受けていた。
 ファリアさんが描く魔法陣と燐光の文字は、おれの身体の変調に関して診断をすぐさま下してくれた。
 人間。それもこの世界ではなく、魔力も魔物娘も魔法も存在しない世界の人間。
 朧げな記憶の世界の人間であったのだ。潜在的に魔力がゼロのせいでおれの身体は抵抗なくインキュバスというものに変質したらしい。身体の痺れは魔力による身体の変化がもたらしたもので害はなく、時間経過で治るそうだった。
「なるほどなるほど。記憶喪失か。それは大変だったね」
 ミクスは実体のない風だ。霊体の風だ。容易に身体の内側へと吹き込んでくる。
 温かいような、冷たいような風を伴いながら。
「いや、それとも大変じゃなかったのかな? 比較すべき記憶を持っていないんだから」
 矢継ぎ早に紡ぐ彼女の言葉に、おれは乗せられていたんだと思う。誘導されていた、と言うべきか。
「朧げな記憶が比較対象かって? 君がそう思うならそうでもいいけれど本当のところ思ってないでしょ?」
「君は記憶に自身を見出していない。意味も意義も理由も価値もその記憶にはないでしょ?」
「些事だと思っているでしょ?」
 軽薄な笑みに、諸手を挙げる大仰な振る舞い。
「僕たち魔物娘や人にとって記憶っていうのは道標だ。いままで歩いてきた道のりであり、これから進むべき道を示す指針でもある」
 おれの横たわるベッドの周りを一歩一歩、何かの一本綱を渡るかのように両手でバランスを取りながらミクスは歩く。
「でも君はそうじゃない。君の人格形成の一助になってはいても、自己確立にはなっていない」
「じゃあ君はどこにでも行けるのかな? だだっ広い野原に君はいるのかな?」
 世界を広げるように両手を広げるミクス。
 ミクスの笑みが深くなる。心底楽しいと言わんばかりに。
 淫魔よりも悪魔のように。
 彼女はかたる。囁くように、囀るように、嘯くように。
「違うよねぇ、そんなことないよねぇそんなわけないよねぇ」
「意味もない意義もない理由も価値も道義すらも、自己を証明する札にもならない記憶」
「だけど君にはそれがついて回っているよね?」
「目を瞑れば思い出すよね? 瞼の裏に背けたくても映るよね?」
「どこにでも行っていいのにこっちに行け、あっちに行けって指図してくるよね?」
「それが記憶さ」
「たとえ些末で自分のものじゃない記憶でも君はそれに迷わされるよ」
「記憶の生き方が、未来の生き方を縛るんだよ」
「君が些末だと思っている記憶は君が思っている以上に厄介なものなのさ」
「どうすればいいって? おいおいおいおいそれを僕に聞いちゃうんだ?」
「でもいいよ。教えてあげるさ。そのために僕はここにいるんだからね」
「僕がここに存在する理由は君だからね」
「記憶を全部取り戻せばいいよ」
「記憶は道のりであり道標だけど、引き返すことはできるのさ」
「そうして道を変えればいい。自分の行きたい道に歩き出せばいい」
「その道のりがはっきりしているならね」
「ふふ、わかっただろ? 厄介なのは中途半端な記憶さ」
「これまでの道を見失っているのに戻れやしないよ。過去を乗り越えるなんてとてもね」
「君はこっちの世界での生活をお望みだろう? 向こうの世界に興味はないんだろう?」
「でも、過去の自分が望む生き方をしないでいいのかって不安なんだろう?」
「なら全部を思い出すといい。思い出して噛み砕いて呑み込んで、そして一歩進めばいい」
「君だけの生き方をね」
 あの日のミクスの会話をいまでもおれは一字一句覚えている。
 軽薄な笑みの仮面を被った淫魔の言葉におれは乗った。
 天の柱に登ることを決めたのだ。自分自身の力で。
 おれの記憶で成されていた誰かじゃない、おれがおれ自身の記憶を成すために。
 本当の意味でまっさらな道のりを作り上げるために。
 そうしていまは、呈と一緒に生きる道を作るために。
 おれは天の柱に登る。一人で登る。
 そのつもりだった。

 東の荒野に繋がる山道。土石流に呑まれた崖下。
 ランタンを照らした先に、土に埋もれた白い蛇腹が見えた。
 頭蓋が裏返るような吐き気を伴う気持ち悪さ。目の前が真っ暗になる感覚をおれはこのとき初めて味わった。
「――――――――!!」
 何を喋っているのか自分でもわからない。崖下に降りていたことに気づいたのは、その蛇腹の前まで来たときだった。
 身体が自分のものじゃない感覚だった。
 目を背けたい気持ちを、目の前の彼女を助けないといけないという気持ちが捻じ伏せた。
 身体はほとんどが土に埋もれていた。水をたっぷりと吸い込んだ泥土のようなぬかるんだ土。拳くらいの石や萎れた根のようなものが入り混じった、重質の土が蛇腹以外の全てに圧し掛かっていた。
 頭に過ぎる。
 息は? 圧迫している。身体は無事? 全身埋まっている。埋まってどれくらい経った? 大丈夫なのか? 大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。窒息。死。
 死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。
 呈が死ぬ?
 おれの慟哭は誰にも届かない。
 おれは正気を失っていた。手は眼下の土へと伸びていた。ぬかるむ土はおれの腕を呑み込み、重く絡みつく。
 掻き出す。一心不乱におれの一番大切なものを奪い、呑み込んでいるそれを獣の如くほじくり出していく。小さな石粒が指に刺さる。根が爪に引っかかる。殴りつけていた拳がその痛みを増していく。それでもおれは叫び続けた。手を止めなかった。
 返せ。
 返せ。返せ。
 返せ返せ返せ返せ返せ!
 おれの呈を返せ! お前が奪っていいものじゃねぇんだ!
「『自分で手放したくせに』」
 頭が真っ白になった。
「『この結果はお前が招いたことだろ』」
 息が吸えなくなった。
「『お前に呈を愛する資格なんてない』」
 手が震えた。
「『だから』」
 それでも、おれはこの手を止めない。
「『――――』」
 わかっている。
 この責める言葉はおれ自身の声なんだろう。罪悪感の顕れ。きっとそうだ。
 呈を見捨てて、見なかったことにしろという自己保身の言葉だ。
「ふざけるな」
 ふざけるなよおれ。これを招いたのがおれなら、決着を着けるのもおれだろうが。
 呈を助けるのはおれしかいないだろうが!
「呈!」
 指先がぬかるんだ土とは別の、柔らかい感触に沈んだ。

―2―

 きっとこれは罰なんだって、ぼくはそう思った。
 スワローの気持ちを蔑ろにしたぼくに対する罰。
 自分だけの気持ちを押し通そうとしてしまった罰なんだって。
 もう何も感じないのはぼくがもう死んでしまったからなのかな。
 痛くもない。苦しくもない。でも身体は一寸も動かない。蛇に睨まれた蛙みたい。
 ぼくが蛇なのにね。
 あーあ、どうしてかな。
 動けないのに、何も感じないのに、どうして考えることができちゃうのかな。
 ぼくが終わって、ぼくがなくなれば、考えずに済んだのに。
 スワロー。スワロー。スワロー。
 彼の名前が浮かぶ度に、じんわりと胸のうちが滲む。
 何にだろう。悲しいのかな、温かいのかな、嬉しい、寂しい、辛い、喜び?
 わかんないけど、スワローの名前がどんどん積み重なっていく。消えてくれない。
 考えちゃう。好きで好きで堪らないスワローのことばかり。
 考えちゃいけないのに。ぼくがスワローのことを想うと彼に迷惑がかかっちゃうのに。
 ああ、でもぼくは死んでいるからもう迷惑はかけないのかな。幾ら考えても大丈夫?
 でもそれは地獄だ。ずっと届かない想いを抱いて、彼のことだけを考え続けるなんて。
 いつなくなるの、ぼくは? 考えなくて済むようにいつなれるの?
 辛いよ。苦しいよ。痛いよ。スワローのことを想うと辛いよ。もう会えないんだよ?
 きっとぼくの身体はグチャグチャ。上半身はきっと見るに堪えない醜い姿になってる。
 スワローに見られたらどうしよう。嫌だな。ぼくの死んだ姿を見られたくない。
 ぼくが死んだらスワローはどう思うんだろう。
 悲しんでくれるかな? 泣いてくれるかな? 苦しませてしまうのかな……。
 それはもっと嫌だな。
 死にたくない。
 スワローに負い目を感じさせたくない。
 笑っていて欲しい。
 笑いかけて欲しい。
 一緒に遊んだり。あーんしたり。お風呂入ったり。布団に入ったり。
 いつかはエッチなこともしたい。
 気持ちよくしてあげて、気持ちよくなりたい。
 そして、いつかはスワローの子供を産んであげたい。
 ああ、本当に地獄だなぁ。
 何もできないのに。したいことばかり思い浮かんできちゃう。
 生きたい。
 生きたいよ。
 一緒に生きたいよ、スワロー。
 ああ、苦しいよ。息ができないよ。身体中痛いよ。
 もう、ダメ、なんだね。
 スワロー。
 もう一度。
 一目でいいから、君の顔を見たかった。
 天を仰ぐ、君の顔を。

「ごほっ! ごほっ、けほっけほけほっ!」
「――!」
 声が聞こえる。でも何を言っているかわからない。
 全身が痛い。瞼が開かない。ヒューヒューという息の抜けるような音が近くで響いている。ううん、自分から響いている。一瞬、ふわりと浮遊感が伴って、ぼくは何かにうつ伏せで寄りかかる。誰かに背負われている? わからない。でも、温かい。
 身体が揺れる。尾が地面に擦れている感覚がする。声が耳元でずっと響いている。言葉はわからないけれど安心する声。
 ぼくは目覚めているのか、夢を見ているのか、それともここは地獄なのだろうか。
 彼が船頭をしているのだろうか。それならそれでもいいかな。
 彼? どうしてだろう。ぼくはどうして、この人が彼だと思ったんだろう。
 彼は死んでいないのに。
 ずっしりと圧し掛かる倦怠感が、纏わりつく鈍痛が、ぼくにここが現実だと知らしめた。
 鉛を含んだように重く沈んだ瞼を、ぼくは激痛に耐えながら持ち上げる。
 確認しないといけない。見なくちゃいけない。
 ここに来るはずのない、来るわけがない彼ではないかと。
 この温かい背中がスワローなのではないかと。
 もう二度と光を拝めなくてもいい。
 それでも、ぼくは最期の望みを求めて瞼をこじ開けた。

 そこに、愛しい人はいた。
 闇がぼくの視界を遮り始める。
 彼の顔が見えなくなる。
 それでもぼくは満足だった。

―3―

 呈の身体は冷たかった。
 土から掘り起こした彼女を背負い、降りしきる雨の中、おれは道なき道を歩いている。
 ヒューヒューと掠れた息遣いが呈の状態を如実に表していた。
 生きてはいる。だけど、肌は氷のように冷たく、意識はない。もう幾許もない。彼女の尻尾が地面を引きずっているが、構っていられなかった。早く医者に見せないといけない。呈の負っている怪我はおれじゃあどうにもならなかった。リュックに入っている傷薬でどうにかなるレベルじゃない。
「呈、呈! 目を覚ましてくれ! 死ぬな! 呈!」
 何度となく声をかけるが、呈が口を開くどころか身じろぎすらしない。瞼は土に汚れて腫れている。肌は赤黒い打撲痕が幾つも広がっていた。短い銀髪の綺麗な髪は土に塗れてその輝きの一切をなくしてしまっている。
「くそ! なんなんだよ、この霧は!」
 呈を助けるために町へ戻ろうとしたおれを阻んだのは濃い霧のようなもの。
 一寸先とは言わないまでも、夜ということも相まって十歩先の足元がまるで見えない。まるでおれたちに絡みつくようなその霧はおれたちがここから離れるのを阻んでいるようだった。
 頭の中がパニックになりそうになる。
 どうする。どこでもいいから走るか。大声。誰かいないか。レンジャー隊。セルヴィス。ラミィさん。ワーム。救助。まだか。いつになる。呈が保たない。一刻の猶予もない。怪我。治療。ダメだ。いまの呈に効くようなのは。考えろ。考えろ考えろ。死なせない。死なせたくない。絶対に駄目だ。どうする。誰か。助けてくれ。誰か!
「ああぁ、呈! ダメだ、ダメだダメだダメだ!」
 掠れた声すらしなくなってしまった。芯から冷えるような冷たさが地の底から這い登ってくる。
 呈が死ぬ。死んでしまう。
「助けて! 誰かッ! 誰でもいい! 呈を! 呈を助けてくれッ!」
 嗚咽混じりの慟哭が霧の中に溶ける。しかし、返事は来ない。ただ霧が揺らぎを以て答えるだけだった。
 自分はなんて無力なのか。
 呈を納得させることもできず、彼女を傷つけて、あまつさえ瀕死の彼女を助けることすらできない。自分の下らない意地が呈を殺そうとしている。
「嫌だッ! 助けて! 誰か! お願いだッ! なんでもするから! 呈を、ていをッ!」
 視界が滲んで前がよく見えない。そのせいで足元に窪みがあるのに気づけなかったおれは、盛大に足を引っかけて顔面から地面に倒れ込んだ。呈の上半身と蛇体がおれの背面に重く、冷たく乗りかかる。
 命の温もりを一切感じられない呈の身体がおれを地面に縛り付けた。
「だれか、たすけてよぉ……たすけてぇ……」
 その声を聴き遂げてくれる者はいない。
 どうすることもできない。
 もし、もしも呈を救えないのなら。そのときは、せめて一緒に。
 この冷たい地の上で、抱きながら逝こうと顔をあげたときだった。
「……?」
 霧が妙な動きをしていた。
 渦巻くような、逆巻くような動きを伴って規則だって移動している。
 そして、おれの前方の霧がふっと払われた。まるで道を作るように。
 疑問は尽きなかった。それでも、背中の重みを感じれば動かないわけには行かなかった。
「ッ、ンああああああぁッ!」
 足が、腕が、背が、全身がミシミシと嫌な音を立てる。それでも構わずおれは呈を背負ったまま大地を再び踏みしめた。
「ふっ、ふっ、ふっ……」
 浅い息を吐きながら、おれたちを誘導する霧の道を歩き始める。
 道は次第に岩が増え始め、険しい道のりとなる。足を取られそうになるのに必死に耐えながら、一歩ずつおれは霧の中を進んだ。
 おれがあることに気づいたのはそこからすぐだ。
 雨が止んでいたこともあるが、それ以上に寒さがはっきりと和らいでいた。温かい空気がじんわりと身体を包み込んでいる。それに匂い。水……いや、お湯の独特な匂いだ。
 これは霧じゃない。湯気だ。
 まさか、おれは東の荒野の方へ歩いていたのか?
「…………ふぅ」
 だが、引き返している暇なんてない。
 湯気がおれたちを導いたのだとしたら、湯気を操る何者かがいるのだとしたら。
 その人が善意を持っていることに期待するしかない。
 そして、湯気の道はとある場所で終わりを迎えていた。
 淡い白光とおれたちを導いた湯気とは別の湯気がおれたちを出迎えたのだ。
 足元にあったのは岩に囲まれた、広いお湯溜まり。ここは東の荒野だ。おそらくは手付かずの天然の竜泉の湯だろう。
 そこを中心に濃い湯気が包み込み、またそこからももうもうと湯気を立ち上らせている。
 魔力によるものなのか、温泉はそれ自体が淡い光を放っており、湯気に反射してランタンの灯が必要ないほどの明るさとなっていた。
「ここに入れって言うんだな」
 どうしてここに導いたのかはわからない。何者なのかも。それでも疑っている余裕はない。
 もうおれが縋ることができるものはこれしかないのだ。
 竜泉の魔力が巡る湯。その湯に賭けるしかない。せめて、身体を温めることができれば意識が戻るかもしれないのだ。
「悪い、呈、脱がすぞ」
 リュックの中のナイフでメイド服を切り脱がし、おれ自身も服を脱ぎ捨てて、その温泉の中へとゆっくりと呈と一緒に入る。尾の先まで全部。掛け湯なんてしていられなかった。
 温泉は竜泉郷の一般的な湯よりも若干ぬるかった。しかし、入った瞬間、じんわりとした熱が身体の奥底に宿る。
「呈……」
 呈の背中を抱えながら、風呂の湯で彼女の身体についてある泥を拭い落としていく。額に、瞼、頬に口元。できるだけ彼女の柔肌に傷がつかないよう、優しく塗り落すように指の腹で撫でる。それでも、土などで切ったであろう細かい傷が彼女の顔に残っていた。
 おれは呈が沈まないように気を付けながら、ゆっくりと肩までお湯に浸かる。呈の銀髪に付着した泥を梳きながら丁寧に落としていった。少しでも呈がもとの彼女に戻るように願いを込めながら。
「呈……」
 呈の全身は余りにも白く冷たい。それに映える斑点のようにできた痛々しい打ち身の痕は服の下にも至る所にあった。
 目を背けたくなる。でも、こうなったのはおれの責任だ。いまおれがしてやれるのは、彼女をただ温めてあげるだけだ。
 背に両手をまわし、その肩に頭を置いておれは呈を正面から抱きしめた。おれの熱を、命を全部あげてもいい。だからどうか。どうか呈の命を助けてやってくれ。
 純粋無垢な、ただただおれを想ってくれている優しい呈を。
 おれが惹かれた、真白の輝きを抱く呈を。
 ――ぴちょん。
 雫が水面に波紋を広げるのとそれはほぼ同時だった。
「ん……」
 おれの耳元に微かな、しかし、耳にしたくて堪らなかった声が届いた。
 夢なんだと最初は思った。幻聴だと。信じられない。でも信じたい。夢であって欲しくない。現実だと思いたい。
 様々な思いが巡りながら、おれはゆっくりと背から手を離し、呈の真正面に顔を向けた。
 紅い瞳が儚げに揺れる。それでも確かな命の輝きを宿しておれの姿を映した。
 呈が目覚めた。
「ッ! 呈ッ!!」
 おれは我も忘れて呈に抱き付いていた。ぎゅっとその温かさを取り戻した呈の熱を確かめるように、もう二度と離さないように強く抱きしめる。
 生きている。この腕の中に呈がいる。歓喜が源泉のごとく胸の内に湧き上がっていた。
「良かった! 呈、良かった!」
「い、痛いよ、スワロー……」
 笑みを含めた声音で訴えかけてくる呈に、おれは慌てて腕の力を抜く。
 しまった。かなりの大けがをしていたのにおれはなんてことを。
「ん、え、あれ?」
 おかしい。全身の打撲痕。顔の無数の傷跡。冷えて青白くなった肌。
 その全部が元通り、呈の身体に戻っている。まるで時間を巻き戻したかのように、玉のような肌と綺麗な銀髪を取り戻していた。ただ単に願いが届いたからとは思えない。思えば泥で汚れているはずの湯舟が未だに綺麗な透明の湯を保っている。
 それにおれも。剥がれた爪や砂利石で傷ついた指、転んで擦りむいた膝や顔まで全部綺麗さっぱりなくなっている。痛みも洗い流されたかのように消えてしまっていた。
 これは、竜泉秘境の湯だからか?
「スワロー?」
 しかし、そんな疑問はおれを呼ぶ呈の声ですぐにどうでもよくなった。確かなのは呈が目覚めてくれたこと。それだけで十分だ。
 周囲を確かめるように呈があちらこちらに視線を彷徨わせてから、最後におれを見つめる。死にかけたにも関わらず、呈は柔和な笑みを浮かべていた。
「土砂崩れに巻き込まれたぼくを助けてくれたのはスワロー、なんだよね?」
「……違うよ。おれが、呈を土砂崩れに巻き込んだんだ。ごめん、呈、おれがお前に酷いことを言ったせいで」
「スワロー」
 おれの言葉を遮るように、呈がおれを強く抱きしめてくる。温かい。とくんとくんと心臓の穏やかな鼓動が胸の内側に届く。呈のいまの気持ちに自然と引き寄せられた。
「ありがとう、スワロー」
「え?」
「スワローに助けてもらえて、一度ぼくは目を覚ましたんだ。君の顔が真横にあって、ぼくは嬉しかった。もう二度と会えないんだって思ったから。迎えに来てくれた、助けに来てくれた、それがとても嬉しかったんだ」
「違う、違うよ、おれはそんな。怖かったんだ、怖くておれは」
 おれは自分のことばかり考えていた。喪失を恐れてやってきたのだ。
「ぼくもだよ。ぼくもスワローを失うのが怖いんだ」
 嗚咽混じりになるおれを包み込むように、呈がおれの頭を優しく胸元で抱いてくれた。
「天の柱に登る君がそのまま帰ってこなくなっちゃうんじゃないかって、怖いんだぼくは」
 おれは呈を不安にさせてしまっていた。真っ新に呈を愛するために、と免罪符にして行っていたことがその実、呈を一番傷つけてしまうことに繋がっていたのだ。
「それでぼくはスワローの気持ちを蔑ろにしてた。ぼくは自分のことばかり考えてたんだ」
 気持ちを打ち明けた呈の言葉におれはハッとなる。それはまるで自分と同じだった。
 互いを大切に思っている。でも、だからこそ譲れない想いがあった。
 おれはしがらみを越えて呈を愛するために。呈は愛してくれているおれを失わないために。それは解けないほど絡まってしまっている。どちらかを断ち切るしかないほどに。
 それならば。断ち切るべきは、ただの意地で紡がれたものだろう。
「呈、おれは天の柱に登るのをやめるよ」
 自分でも意外とすんなり言葉にすることができた。いや、意外ではないか。
 呈に替えられるものなどこの世には存在しないのだから。呈を失うことに比べたら、意地を捨てるなんて容易い。
「……」
 ぎゅぅっと呈の腕の力が強まった。押し付けられる浅い胸の谷間に口と鼻が塞がれる。さらには蛇の尾でご丁寧に互いの身体が密着するよう巻き付けてきた。当然窒息するのである。込められる腕には怒りの感情が含まれているような気がした。
「むぐぐっ!」
 呈を叩くわけにもいかない。やめろという意思表示を腕で虚空を掻くことで呈に伝える。
 幸い、呈に伝わったみたいで意識が朦朧としかけた寸前でおれの頭は解放された。
「ぷはぁっ! 呈、何す……んだ?」
 呈は真顔だった。怒るのでも、悲しむのでも、笑うのでもなく、おれの目をその紅い瞳でまっすぐ見据えてきていた。
「やめちゃダメだよ、スワロー」
 呈がはっきりと告げる。
「天の柱に登るの、やめちゃダメだよ」
「いや、でも、おれは呈に酷いことをして……今日こんなことがあってわかったんだよ。おれには呈を失ってまで、あそこを登る意味なんて一つもないんだって。呈の方が大事なんだ。だから、おれはもういいんだ」
「ぼくはよくないよ」
 呈が強く唇を結んで、おれに訴えるように瞳に力を込める。さっきまで意識を失っていたとは思えないような……いや、数日前の呈ともまるで違う、確かに変化を遂げた呈が目の前にいた。
「ぼくはスワローと一緒に登りたいんだ。天の柱のてっぺんまで一緒に」
「おれが帰って来れないかもしれないから?」
 おれの問いに、呈はゆっくりと首を横に振って「それだけじゃないよ」と言った。
「ぼくはね、スワローと一緒にあの鐘を鳴らしたいんだ」
 その言葉を聞いて、理解するのに数瞬かかった。気づいた瞬間、訪れたのはこの温泉が沸騰してしまいかねないほどの驚愕と羞恥の熱だった。
 あの鐘とはつまり『番い鐘』のこと。あの鐘を一緒に鳴らしたいという言葉の意味なんて一つしかありえなかった。
 口元が震える。こんな状況なのににやける。止められない。慌てて顔を背けながら、掌で覆うけども呈のクスッと笑う声で顔面蒸発待ったなしだった。
「ずっりぃーな、呈。この場面で言うか、それ」
 つまるところ、遠回しな、でもこのドラゴニアではド直球なプロポーズの言葉だった。
 告白はすでにしあっている。いつかは言うことにもなっていただろう。それでもこのタイミングで言われると驚かざるを得ない。
 嬉しさと、先に言わせてしまった羞恥が綯い交ぜになって上手く表情を作れない。自分はどんな顔をしているのだろうか。嬉しい顔? 恥ずかしい顔? 案外泣いているかもしれない。それくらい不可思議な気分だった。
「話をしよう、ぼくたちのこと、もっと。立場なんて忘れて、ううん、自分がいる場所を知り合うためにぼくらをもっと知り合うために話をしようよ」
 どこまでもおれを想ってくれている呈に、これからのことを思い描いていてくれている呈におれは堪らなく惹かれた。
 この娘を幸せにするために、いや、この娘と一緒に幸せになるためにすべきことをしよう。そう心の中でおれは誓った。

 そして、幾度となく言葉を交わせ、ぶつけあい、疑問を投げかけておれたちは互いの気持ちを伝えあった。
 文字通り、裸で。外側も内側も全てをさらけ出して話し合った。
 おれの告白を呈はじっと聞いていてくれた。
 誰かの過去の記憶に対する不安。それを清算するための方法が天の柱に行くこと。呈を好きになって、おれはこれが呈と一緒になるために必要な行いだと思ったこと。それは単なる言い訳で、意地とプライドで塗り固めていたということ。それを全てさらけ出した。
 呈の気持ちもおれは全部受け止めた。天の柱に登ったまま帰ってこないんじゃないかと思ったこと。一人置いて行かれることの恐怖。おれと天の柱で結ばれたい、番いの儀を行いたいこと。もうその気はないが、白蛇の魔力を用いておれの心を自分の元に縛り付けることも考えていたそうだ。
 結局、おれも呈も好き合っていて、一緒にこれからを生きていきたいことは変わらなかった。同じ方向を向いていた。でも、立つ場所が違っていたんだ。違う場所から、同じ方向を見ていて、おれたちは無理矢理互いを引き寄せ合おうとしながら歩いていたのだ。どちらかが転んでもおかしくないような、足場の悪い場所で。
「ようやく、エリューさんがあの宿題を出した意味がわかった気がするよ」
 おれたちの危うさにあの人たちは気づいていたのかもしれない。
「おれたちもドラゲイ王とドラグリンデ様と同じだったんだな」
 立場、立ち位置、持つもの、考えの相違。
 おれたちはあの二人みたいに国を背負っていたわけじゃない。
 でも、国を守るため、国民を守るためという最小値、目の前の大切な人を守りたい、幸せにしたいという意味では同じだったのではないか。
「でも、ぼくたちはいま気づけたよ。すぐ隣に大好きな人がいて、同じところを見ていてくれているって」
 おれは呈の言葉に深く頷いた。
 空を仰ぎ見る。立ち上る湯気が消えていく天上で雲一つない、暗い空に眩いほどの星屑が輝いていた。
 この広い空に比べたら自分たちなんてちっぽけ……などとは全然思わない。
 おれたちにとっては、お互いを想いあっているこの瞬間がもっとも大切でかけがえのないものだ。空で瞬く星々よりも煌々と輝いている。
「ぼくは、天の柱を見ていたスワローを好きになったんだ。消えてしまいそうなほど儚げで、だからこそ自分のところにいて欲しくて、繋ぎ留めたくて、でも登る姿がとても格好良くて惹かれて……矛盾してるかもしれないけど、でもそんなスワローがぼくは好き。だから――」
 言いかけた呈の唇におれは指を当てて遮った。
 そこから先はおれの口から言いたかった。呈に、お願いをしたかった。
「呈、おれの記憶にケリをつけるために、一緒に天の柱に登って欲しい」
 いまのおれを好きになってくれた呈がいる。
 中途半端な記憶を持つおれを好きになってくれた呈がいる。
 記憶を取り戻す必要はもうないのかもしれない。いまのおれでもきちんと呈を愛せる。その自信はもう決して揺るがない。
 それでも行こう。自分自身の決着のために。おれと呈のこれからのために。
 そして。
「一緒に鐘を鳴らそう、呈」
「うん、スワロー」
 湯気の中でも見紛わないほどの輝きを放つ呈の笑顔に、おれは吸い込まれた。
 そっと唇が触れ合う。歩む道が重なった。
 おれの内に訪れた感情の昂りは、その瞬間から収まることやめたのだった。
17/09/24 22:18更新 / ヤンデレラ
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■作者メッセージ
なんやかんやありましたが仲直り。
次回、ようやくエロありタグに変えられるようになるかと思います。
……長かった。

【本編に(多分)もう出てこないキャラを紹介するコーナー!!A】
・スワローの訓練時に付き添いをしてくれていたワイバーンさん
 セルヴィスとラミィの後輩で第五陸上部隊第六分隊所属。
 主に空から要救護者を探したり、遭難者の早期発見、地形情報の報告など空の活動を任されている。第一空挺部隊と違う点は平時から土砂崩れの危険性がある場所などの要注意箇所の情報を収集する仕事がある点。
 彼女はごくごく普通の家庭で生まれ育った貧乳ガール。飛びやすいから構わないと強がりをラミィによく言っている。でも少し羨ましいとも思っている。
 スワローに対して恋心を抱かなかったのは、すでに心に決めた幼馴染がいるため。どっちも奥手なので正式に付き合うことになるのにはもう少しかかる。
 第五陸上部隊に入隊したのはドラゴニアの考古学者でもある彼が危ない場所に行かないように危険な場所についての情報をできるだけ多く、新しいものを仕入れるためである。竜騎士になって欲しいと思っているが、奥手なのでもうしばらくかかる模様。

・呈をクイーンスライムの竜分体の下へ案内してくれたサハギンさん
 ロリコンかつ微Mな紳士諸君が大歓喜しそうな、つるぺたスク水ジト目な少女。
 彼女は普段はドラゴニア大瀑布の上流の川の畔にある小屋に、夫と二人で暮らしている。地下水路にはスライムゼリーをたまたまもらいに訪れていた。
 無口かつジト目なので勘違いされやすいが、とても社交的な性格でドラゴニア中を巡り巡ってはグルメを夫と食べ歩いている。最寄りのスライムゼリーをもらいに行っていたのは初心に帰るため。
 最近とある白黒リリムと仲良くなり、彼女が話した世界中のグルメと異世界のグルメに興味を抱いている。彼女に同行して異世界グルメを食べに行かないかと、夫に相談するか考え中。

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