連載小説
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第六章 白蛇、山嶺に消ゆ:ドラグリンデ城A〜東の荒野
―2―

 勇者さんに抱えられ、城内へと消えたストリーマさんたちを見送った後、ぼくはある匂いを嗅いだ。鼻腔を甘くくすぐる香り。これは。
「呈、今日は助かったよ。城内の教団兵を全員捕らえたら浴場の準備をするが、入っていくか?」
 そう声をかけてきてくれたモエニアさんの言葉はほとんど頭に入ってこなかった。ぼくはあの香しい匂いの元へと、すぐに駆けだしていた。
 後ろでぼくを呼ぶ声がする。でも気にも留めていられない。どうしてここに彼が、スワローがいるのか。いち早く知りたかった。
 匂いの元を辿るにつれてスワローを強く感じるようになる。それ以外も、魔物娘のものじゃない魔力を感じた。きっとこれは教団兵さんの魔力だ。魔力の弾ける感じがする。戦っている?
 全身から悪寒とともに汗が噴き出た。もし。もしも、戦っているのが、教団兵さんがスワローに魔法を使っているとしたら?
 外の勇者さんみたいな人を殺めかねない魔法をスワローに向けて使っていたとしたら?
 背筋が凍てつく。真冬のジパングよりも極寒の吹雪が全身を襲った。ぼくを目的地へと追い立てるには充分すぎて、尾が絡みそうになりながら全速で城内を駆けた。
「スワローッ!」
 廊下の角。その先にスワローがいる。ぼくは警戒心なんてゼロで、最悪スワローの盾になることも覚悟して彼らがいる廊下に躍り出た。
 結論、スワローはいた。うつ伏せに紐で縛られた黒いローブ姿の男性の背中に座る形でいた。傍らにはリュックがある。彼はまるで一仕事終えたかのように、皮の水筒に口をつけていた。スワローたちの周囲に銀色の細かい粒子が僅かに舞っていたけど、ぼくが到着してすぐに消えてしまう。
 そんなスワローと目が合う。まるで状況がわからない。
「「どうしてここに……?」」
 一言一句違わずにぼくたちは言葉を絡める。
 よいしょっと言いながらスワローは、十字紋様の入った白色のローブを着ている教団兵さんから立ち上がって、ぽんぽんと背中の埃を払ってあげる。教団兵さんは後ろ手に、肩と二の腕と胴体にも通る形で縛られていた。見事な緊縛。
「えっと、その人は教団兵さん、だよね?」
「そうなの? 城内にいたら襲われたから撃退しただけだけど」
 なんてことない風にスワローは言ってのける。ええ、返り討ち? スワローってそんなに強かったの?
「それにしてもなんで呈がここに? 最近よく出かけてるけどいつもここに来てたの?」
「ううん。ぼくは、ちょっとね。今日はここが教団兵さんの襲撃があるから掃除のお手伝いに来たんだよ」
「襲撃があったら掃除するのか? よくわからん。だからメイド服着てるの?」
 腕組みをして唸っているスワローに簡単に説明した。キサラギさんのこと、天の柱踏破のための装備を調達する目的ということは伏せて。
「メイド服似合うかな?」
 変に質問攻めに遭う前にぼくは話を逸らそうと話題を変えて、くるりと身を翻す。
 他のメイドさんたちみたいにタイツとかは履けないけど、それ以外は全部同じ由緒正しきメイドさん仕様。いつもは白蛇巫女だけど、今日は白蛇メイドさんなのだ。
「うん、いつもの巫女服もいいけどそっちもいいね。可愛いよ」
「えへへ、褒められちゃった」
 ぼくがもじもじしながら喜んでいると、後ろからどたどたと走る音が迫ってくる。
「それでスワローはどうして――」
「呈! 急にいなくなるな!」
 ぼくが今度はスワローに話を聞こうとしたタイミングで、後ろの廊下の角からモエニアさんが現れた。
「しかも、教団兵のいる方に全速力など……と?」
「ああ、モエニアさん、こんばんは」
「スワローか? 久しぶりだな。数か月ぶりか。天の柱の踏破を頑張っていると聞いているぞ」
「そのためにここに来たんだよ」
 あれ、おかしいな。
「どうして二人が、知り合い?」
 さっき、だってモエニアさん、スワローのことを知っているだなんて一言も。
 さっきスワローに褒められたことが頭の片隅へと一気に追いやられる。暗い情念が宿りはじめた。ぽとりぽとりと心の奥底に溜まっていくのがわかる。
「あぁ……嫉妬か?」
 まるで幼子でも見るような生暖かい目でぼくを見て、モエニアさんはふっと笑う。
 かぁっと顔が熱くなるのがわかった。怒りじゃなくて恥ずかしさで。
 そう、嫉妬。この感情は嫉妬だ。夫もいるモエニアさんに、いまぼくは嫉妬した。ぼくの知らないスワローのことを知っていそうで。ぼくの知らないスワローのことを知っている人なんて、モエニアさん以外にもたくさんいるのに。
 何故だろうか。いまのぼくは嫉妬心の抑えが効かない。蒼い情念が消え失せない。
「……この魔力、本当に白蛇だけの?」
 モエニアさんの呟きはよく聞き取れなかった。そんなことよりも、モエニアさんに問い質さないと。ぼくのスワローとどういう関係なのかを。
「ほーらっ」
「おわ!」
「きゃっ!?」
 突然、モエニアさんが素早く動いたかと思うと、スワローを尻尾で押し出しぼくへと倒れ込ませた。ぼくの視界がスワロー一色になって、そして受け止めきれずにそのまま廊下にぼくたちは倒れる。むぎゅう。
 重い。でも幸せ。ああ、なんだか久しぶりに抱き合った気がする。深呼吸すーはーすーはー。ああ、スワロースワロースワロー! スワローの匂い! 汗の匂い! クンカクンカ! ハスハス!
 嫉妬心? そんなものは忘れました。いまはスワローを堪能するのだ!
 うぇへへへへへへ。
「うぇへへへへへへ」
「て、呈?」
「スワロー。君、呈のことほったらかしているんじゃないか?」
「……あ、んー」
 おっといけない。完全にトリップしちゃってたや。落ち着けぼく。落ち着いてスワローの胸元に顔を埋めて、コシコシ! 尻尾も巻き付けちゃえ! うぇへへへへへへ!
「ダメだ、完全に暴走してる」
「おれ、おれのせい、なのか?」
 とにかく満足するまで尻尾も絡めて腕も巻き付けて、抱きしめホールドだぁー!

「じゃあ、スワローは魔力の雲に慣れるためにここに?」
「うん、天の柱の上には魔力でできた雲があるから。それ越えるときに魔力に慣れてないと正気を保てなくなったり、酔ったりするし」
 落ち着いたあと、城内を外へ向けて歩きながらスワローのここに来た目的を聞いていた。
 さっきの教団兵さんは独り身のデビルさんが手近の部屋に連れて行った。すぐさま教団兵さんの嬌声が響き渡ったので、スワローに縛られてたりしたけど大事はないということだろう。何をしたのかちょっぴり気になる。
「そうだな。慣れは必要だ。魔力に含まれた淫気に耐性がなければ、それこそさっきの呈みたいになりかねん」
「うう、言わないでくださいよ、モエニアさん。恥ずかしぃ……」
 不覚。スワローの匂いに酔っちゃって、完全にぼくは我を忘れていた。こんなこといままでなかったのになぁ。
「私たちが知り合いなのはそれが理由だよ。セルヴィスに紹介されて、城内を案内していたんだ。ボディガードも兼ねてね」
 ボディガードというのは貞操的な意味でだそうだ。とは言っても、直接的ではない誘惑は自由。もし、スワローが折れて誘惑に乗っていれば貞操を守るつもりはなかったらしい。無理矢理はダメ、ということ。
 もしもそこでスワローが誰かと結ばれていたと考えると空恐ろしい。
「で、でもどうしてモエニアさんはスワローのことを黙っていたんですか?」
 知っているなら教えてくれても良かったのに。
 しかし、モエニアさんは頭を掻きながらばつの悪そうな表情を浮かべる。
 そしてぼくをまっすぐ見据えてこう言った。
「白蛇だからな、君は」
「……ぅぅ」
 さっきみたいになることを予想して知っているとは言わなかったんだね。実際嫉妬に支配されてしまったことを考えると、ぐうの音も出ない。
 でもどうしてあんなになったんだろう。調子悪いのかな……?
「しかし、黙っていたのが悪手だったのは確かだな。すまない。変な誤解を生ませてしまった」
「誤解も何も、モエニアさんとおれがどうこうなるなんて、ありえないと思うんだけどな」
 スワローの言葉に、むすっとぼくはなってしまう。そうだけどさ。そうなんだけどさ!
 ぼくが何か言ってやろうと口を開こうとしたところで、モエニアさんがコツンとスワローの頭を拳で軽く叩いた。困惑した表情のスワローにモエニアさんが言ってのける。
「君は女心をわかっていなさすぎる」
「……女心?」
「例え理由がなんであれ、他の女のいる場所に行くというのは待つ者を不安にさせるものなんだ。君はもう少し女心を学ぶべきだ」
 モエニアさん……。
「……そうか。おれ、呈を不安にさせてたか」
 スワローが呟きとともに立ち止まる。釣られて振り返ったぼくの真ん前まで来ると、頭を下げてきた。
「呈、悪かった。おれが浅慮だったみたいだ」
 ぼくの胸の内がぎゅっと締め付けられるのと、それからじんわりとした熱が宿った。
「ううん、ぼくの方こそ、勘違いしてごめんね。ぼくはスワローのこ、こ、恋人なのに、信じられなくて、ごめんね」
「呈……」
「スワロー……」
 ぼくたちは見つめ合う。ああ、仲直りできた。嬉しいな。スワローの顔が近いや。ぼくから近づいているのかな? それともスワローから? ああ、でもどっちでもいいや。このまま、スワローと……。
「……」
 にまにまにやにやにたにた。その竜麟と同じくらい眩しい笑みのモエニアさんがぼくたちを見ていたことに気づいたのは、もう唇が触れるか否かの瀬戸際だった。
「どうした? さぁ遠慮するな。私に二人のラブラブっぷりを見せてくれ」
「帰ろう、スワロー」
「そうだな、呈」
 すっぱり言うぼく。頷くスワロー。うん、帰ろう。
「ええ!? やらないのか!? ぶちゅっといかないのか!?」
 ぶちゅってなんなのさ!
 見たい見たいと子供みたいに喚くモエニアさんを放ってぼくたちはドラグリンデ城を後にした。

「ドラグリンデ様とドラゲイ王のことを」
「うん、モエニアさんから色々教えてもらったんだ」
 帰り道。山沿いの均された道を歩きながら、ぼくはドラグリンデ様についてのモエニアさんの昔話を話した。
 すっかり夜も更けて、星々は分厚い雲に遮られて漆黒の暗闇となっている。スワローがドラゴンオーブのランタンをかざしてくれていて、道を照らしてくれていた。
 虫の音と木々の葉擦れの音だけが響く世界。世界がぼくたちだけになってしまったような錯覚さえ覚えちゃう。
「モエニアさんを見ているとドラグリンデ様を見ているように思えちゃうよ。顔だって知らないのに」
「それにしてもドラグリンデ様って亡くなっていたのか。普通に城にいると思ってたよ。デオノーラ様の妹だって話も聞いたことあるし。どれが本当かわからないな」
 あの口ぶりから察したことだからわからないけれど、でもぼくどころかお母さんが生まれるよりもずっと以前、魔王の代替わり以前の人だから仕方ないのかもしれない。
 お会いしてみたかったな。
「宿題なぁ……」
「ぼくたち二人で考えてくる、って言ってたよね。ドラゲイ王の物語について」
「うん。そういえば、ろくに話し合ってなかったよな」
「そうだね。ぼくが酔って眠ちゃって、次の日からはずっと遊んでたもんね」
「なんだか、夏休みが終わるまで宿題をやらない学生みたいだ」
「夏休み?」
 夏のお休み? 避暑地に行くことかな?
「ああ、いやなんでもないよ」
 よくわかんないや。でも宿題に関しては本当に話し合いたいな。
 それに、今日モエニアさんからお話を聞いて、一つ気になったこともあったし。
 思うまま、ぼくはそのことを話題に出すことにする。
「ぼく気になったんだけどさ、このドラゲイ王の物語ってなんだかドラグリンデ様の物語でもあるように思えない?」
「ドラグリンデ様の? どうして? ドラゲイ王の没落話じゃないの?」
「そうなんだけど。でも、今日モエニアさんから、立場について教えてもらってね。この物語はその人の立ち位置の話だったんじゃないかって」
「立ち位置」
「うん。王様の立場、貴族の立場。それに縛られて何もできなかった二人のお話だったんじゃないかなって」
 エリューさんたちのお話の中でもドラグリンデ様のことは度々語られていた。むしろ協調されていたようにも思う。
 宿題は先の物語の真相を探ることじゃないけれど、考えることはして欲しいって言っていた。だからぼくはそうなんじゃないかなと思う。
「ドラグリンデ様とドラゲイ王は幼馴染だって言ってた。だからもしかしたら……立場の意味は」
 結末はわからないけれど、二人に訪れたのが明るい未来だったいいな、とぼくは考える。
「そのときはドラゴニアじゃなかったけれど、でもドラゲイ王は王様じゃなくなったんだもん。だからね」
「それは呈の予想?」
「女の、もとい蛇の勘だよ!」
「当たるの、それ?」
 わーかーりーまーせーん。でもその方が救われるもん。
「スワローはどう思うの?」
 ぼくの質問にスワローは眦を下げながら肩を竦める。
「正直わかんないな。幼馴染だからっていうのも」
 スワローの口ぶりにどことなく寂しさが感じ取れたのはぼくの気のせいだろうか。
 でも、わかる気がする。スワローは断片的な記憶しかなくて、しかもそれは異世界のもので、小さな子供の時を経ずにいまのスワローになっている。
 幼馴染なんて当然いなくて、わからないというのは仕方ないのかもしれない。
 ぼくはぎゅっと、スワローの腕に自分の腕を絡めた。
 別にいいじゃない。幼馴染なんていなくても、ぼくがいるんだから。
 口にはできなかったけど、そう伝えるようにぼくは熱を込めるように絡める腕の力を込めた。
 スワローは笑い掛けてくれてそのまま一緒に歩いてくれる。一層近づけた。そう思った。
「でも、立場ってのはなんだかわかる気がするな。縛られるっていうのも」
「……スワロー?」
 不意な変化だった。
 温かくなっていた腕の熱が急速に冷めていくのをぼくは感じた。
 真横にいるスワローがとても遠くにいるように感じてしまったのだ。
「わかっていても、変えられないんだよな」
 初めてスワローを見上げたときと同じ、彼がどこかに消えてしまいそうな予感をぼくはこの瞬間感じてしまった。
 スワローがいなくなるという恐怖。それはぼくを急いた行動へと追い立てた。
 ぼくが立ち止まると一緒にスワローも止まってくれる。彼の腕を離し、きょとんと首を傾げるスワローの顔をぼくはまっすぐ見据えた。
「スワロー、ぼくも一緒に天の柱に登らせて欲しい」
 心構えもなく、直前の深呼吸もなく、流れるようにというよりは何も考えずに思ったことを、言いたいことを口にしたという形。スワローがどんな反応を返してくれるかも考えないで、ただ、不安に急き立てられる形で言葉にした。
 スワローの表情が固まる。絶句と呼べるものかもしれない。予想は正直していた。きっとスワローはぼくを連れていきたくないんだと思う。わかっている、わかっているよ。でも、ぼくは言いたかった。
「お願い、スワロー、ぼくも一緒に」
「どうして、行きたいんだ……?」
 スワローの声は掠れていた。苦しそうな喘ぐような声音で、水を求める魚のようにぼくの答えを求めていた。
「……スワローを一人で行かせたくないから」
 半分は本当。もう半分はぼくが一人になりたくないからだ。スワローが帰ってこなかったらと思うと、胸が張り裂けそうになる。吐き気さえするんだ。
 スワローと視線を合わせられない。重苦しい空気。困惑と僅かに怒りの感情がスワローから感じられる。
「じ、実はきょ、今日までキサラギさんのところで働かせてもらって。装備は整えたんだ。も、もう準備はできるんだよ」
「キサラギ……最近家をよく出ていたのはそれが理由か」
 スワローが頭を掻く。その視線の先は竜翼通りのそのもっと向こう側。きっと天の柱の方だろう。
 視線が戻ってきてぼくは慌てて視線を地面に戻した。
「スワロー、ぼ、ぼくは行けるから、お願い。ぼくも一緒に天の柱に登りたいんだ」
 絞り出した願望をスワローに差し出す。スワローにこんなに緊張したのは初めて会ったとき以来だ。でも、これはとても嫌な緊張。
 そして、張り詰めた空気の中で、スワローはたった一言、ぼくに突き付けた。
「ダメだ」
 切り捨てる無情な一言。有無を言わせない語気。ぼくの願望を握りつぶす言葉。
 顔をあげると、スワローは一切の遊びのない真剣な面持ちでぼくを見据えていた。
 奥歯がカチカチとぼくの意思に反して鳴ってしまう。泣くな、ぼく。どんな返答でも泣くな、涙を武器にしちゃダメだ。
 喉の奥で重たい水が落ちていくのを感じながら、ぐっと感情の昂りを堪えて喉を震わした。
「ど、どうして、ダメなの? ぼくは、大丈夫だから。魔物娘だし、身体だって頑丈だよ? スワローの役に、立つからさ。荷物持ちだって、するし。何でもお手伝いする、からさ……だからスワロー、ぼくも」
「足手纏いなんだ」
 刹那、目と鼻の奥が燃え盛りそうなほどの熱を帯びた。喉が決壊した。
 言葉を紡げなくなった。
「あ、ぅ、あぁ……」
 唇が勝手に動いている。でも微かな意味を持たない言葉が漏れるだけで、何もスワローには伝わらない。
 足手纏い。
 そうはっきりと言われた。ぼくは足手纏い。そう、当然だ。ぼくは子供で何も天の柱に登る訓練もしていなかった足手纏い。当然だ。スワローについていけるわけがない。
 ついていく資格なんて……ない。
 スワローが抱えるものを一緒に抱えることは、できない。
「…………」
 もうスワローに顔を合わせられなかった。顔を見られたくなかった。いまにも決壊しそうな涙を見せたくなかった。涙で訴えたくなかった。そんな卑怯なことをしたくなかった。
 だから、ぼくはスワローに背を向けて走り出した。逃げたのだ。
 背後で身じろぎする感じがするけれど、追ってくることは決してなかった。それでよかったけど、追いかけてもらえなかったことは単純に悲しかった。
 ぼくはスワローの何だろう。スワローの何になりたかったんだろう。
 キサラギさんのところで働かせてもらって、ぼくはスワローの何かに近づいていると思っていた。たった唯一。他の何を投げうってでも求めてもらえる、そんな存在に。
 ひどく滑稽で、浅ましくて、思い上がりが激しいのだろう。結局ぼくはひどく臆病な存在で、それは何も変わっていなかったんだ。
 悔しい。悲しい。ぼくがスワローにできることなんて何もなかったんだと思うと、無力な自分に腹立たしさを覚える。
 でも、もう何かをする気力は、自分を変えようとする気力は湧かなかった。
「…………」
 肌に冷たい雫が突き刺さる。雨だ。いつの間にか雨が降って来ていた。
 その雨は怒りの炎を、抗おうとする力を削ぎ取っていく。そして、ぼくの心の中の蒼暗い情念の炎に薪をくべた。燃え上がる。じっとりと、べたつくようなどす黒い熱が膨れ上がる。
 燃える。滾る。逆巻く、ふいごの中央でぼくの情念の炎が燃え盛る。
 ぼくは白蛇。蒼い炎をその手に抱く種族。愛しき人をその炎で燃やし、己という唯一の水で癒して依存させる狡猾な蛇の一族。
「……………………ふ」
 ふ、ふふ。ふふふ……あはは。
 そうだ、そうだよね、そうなんだよ。ぼくは白蛇。愛しき人はどんなことをしても決して離さない。逃さない。この身に沈め、永劫の時を絡まり合いながら抱き合いながら、愛の水に溺れていく。それが白蛇だ。
 スワロー? ぼく、決めたよ? 君のことを沈める。
 君を天に昇らせたりなんてしない。絶対に、離さないから。一人にさせないから。
 ぼくは踵を返す。元の道を戻ればスワローはいるよね? 一人でいるよね……?
「呈だったな」
「……?」
 そして。
 蒼い炎に支配されたぼくの前に突然現れたのは、誰よりも紅い炎を支配した存在だった。
 雨粒が蒸発する音とともに、猛々しい竜の女王はそこにいた。

―3―

 呈の姿が完全に見えなくなってから、おれは膝を折って地面に座り込んだ。
 沸騰しそうなほどの熱い血潮が昇っていく。怒り。呈にではなく、自分に対する怒り。
 拳を地面に打ち付けた。一度、二度、三度、痛みで拳に力が入らなくなり、痛めつけることができなくなるまで何度も。
 冷たい雫が打ち付けてきた。だけど、それはおれを冷静にさせるものではなく、非難するようにけたたましい音を響かせてくる。
「うっ、おえぇぇ……ぅぐっ、あぁぁぁっ」
 胃から嫌悪感が形となって込み上げてくる。喉に這い登るそれは口から透明な液体となって地面に落ちた。だけどそれはどす黒いヘドロだ。まるでいまの自分のように。
 発狂しそうなほど、頭がガリガリとヤスリで削られているような苦痛と不快感が脳裏にこべりついていく。目の奥が内側から裂けて表に出てしまいそうな、筆舌にし難い疎ましい感覚が離れてくれない。
 呈。呈。呈!
 心の中で拒絶してしまった彼女の名を、助けを求めるように呼ぶ。だけど突き放したのは自分だ。嘘をついたのは自分だ。傷つけてしまったのは自分だ。
 呈の絶望に暮れた表情。何を見ているのかわからなくなってしまった瞳。力なく垂れる尾。そんな呈にしてしまったのは自分だ。
 好きな人に嘘をつくことが、傷つけてしまうことが、気が触れてしまいそうなほどに苦しいとは思いもしなかった。
 もし。
 もしもこのことが切欠で呈がおれの前からいなくなったとしたら?
 天を仰ぐ。曇天の暗夜がおれを呑み込もうとしている。
 それは絶望だ。もはや呈のいないおれの人生に意味なんてない。
 おれは立ち上がって呈の方へと走ろうとした。
「ッ!?」
 だが、動かない。
 するべきことは一つなのに。おれの視線は呈の方ではなく、天の柱へと向いていた。
 天の柱は、欠片の記憶が問うてくる。
 お前は誰か。
 それに答える。
 誰でもない
 そう、おれは誰でもない。何者でもない。だから、おれは自分にならないといけない。
 そうじゃないと、おれは呈と向き合えない。記憶の清算をつけなければ、この世界で誰かを好きになる資格なんてないんだ。
「ごめん、呈」
 おれは呈の消えた方へ歩き始めた。だけど、呈を追いかけるためではなかった。
 打ち付ける雨は、ひたすらおれを責めていた。それを振り切り様におれは歩む速度を速めた。

「デオノーラ様……」
 メインストリートの竜翼通りから少し脇道に入った場所で、ぼくはここドラゴニアの女王様と相対していた。
 雨に濡れて短い髪や服がじっとりと貼り付いているぼくと対照的に、水すら燃やすデオノーラ様はその身体を一滴たりとも雨に濡らしていない。周囲を焦がし尽くすような赫奕を放っている。
 ぼくの情念すらも燃やし尽くすほどに。
「久方ぶりだな。以前、寝床横丁で会ったとき以来か」
「……」
「警戒されてるよ、デオノーラ様」
 デオノーラ様の紅炎の影に隠れて見えなかったけど、女王様の後ろには白黒リリムのミクスさんがいた。
「やぁ、呈ちゃん。浮かない……いや、沈み切った顔をしているね」
 ぼくの心の中を探るような、遠慮のない視線が射抜いてくる。
 本能的だったのか、ぼくは無意識のうちに後退していた。見られたくない、見て欲しくない。こんな自分を。
「お前の方こそ警戒されているではないか」
「おっと、ごめんね呈ちゃん。そんなつもりじゃなかったんだ」
 大袈裟な手ぶりでミクスさんは嫌な視線をぼくから外す。でもきっといま内心でぼくがほっとしていることも見透かされているんだろう。
「その、何か御用ですか……?」
 どうしてこんなときに、と思う。早くスワローの元に行きたいのに。行ってぼくの場所まで沈めてあげたいのに。天に昇ることを考えられなくなるくらい。
 でも逃げるという選択肢はありえない。女王様相手に失礼だし、もしぼくに用があるなら逃げ切れるわけがない。
 適当にあしらって、当たり障りのない返事で切り抜けよう。
 邪魔なんて絶対にされたくない。
「呈」
 デオノーラ様がぼくの前にゆっくりと歩を進めると、目線を合わせるように膝を曲げて、ぼくの両手をその炎竜の手で握ってきた。
 熱い。熱。猛る情熱の炎の熱さ。赤い魔力がじんわりとぼくに、その手を通して流れ込んでくる。
「納得しているか?」
「えっ……?」
「お前は、その気持ちに心が納得しているのか?」
 威厳を放っていた先ほどまでのデオノーラ様とはまるで異なり、全てを抱擁する母のような優しい声音で語りかけてくる。
 赤い熱が胸の内にじんわりと広がっていく。あしらう、逃げる、切り抜ける、そんな思いが溶かされていく。デオノーラ様の言葉をぼくは無心に受け止めていた。
「お前と彼は違う。異なる存在だ。竜と人とが違うように」
 デオノーラ様が言葉を紡ぐ。
「しかしだからこそ、わかり合おうとすることができるんだ。かつてデル・ロウがそう示したように。いま、竜と人が愛しき者を求め合うように」
 始まりの竜騎士デル・ロウ。竜に対する思いやりと優しさでこの国の礎を築いた人。
「でも、でも、ぼくは……いまのスワローを変えることなんて」
 天の柱に向かおうとしている彼を止めることなんて。
 一緒に行くことすらもできないぼくなんて。
「お前はいま、縛られている」
「っ!」
「自分の想いと彼の想いの狭間に」
「でも、どうすればッ!」
「私も昔はそうだった。女王としての責任とドラゴンとしての矜持から迷いを抱いていた」
 その日々のことを思い出すように、大切な思い出を慈しむ優しい表情をデオノーラ様は浮かべている。そして、その優しい笑みをデオノーラ様はぼくに向けてくれた。
「だが、いまは違う。私は人と竜が共存するために一番必要なものが何か教えられた」
 デオノーラ様の瞳の奥に、大きな大きな、全てを抱擁してくれる誰かをぼくは幻視した。
 ぼくの、ううん、ぼくたち魔物娘の根幹をなすことになってくれた誰かの姿を。
「シンプルに考えるといい。お前は一人の女で、彼は一人の男なんだ。そして、お前たち二人はなんなんだ? そこに何があるんだ?」
 ぼくたちは。ぼくたち二人の関係は。
 モエニアさんの言葉を思い出す。立場に縛られたぼくたちを乗り越えさせてくれるもの。ぼくたちが感じることのできる大切な気持ち。
「もう少し自分に正直になれ。ヤマトナデシコになるのだろう? ならば己が力で気持ちを伝えてみせろ」
 蒼い情念が、赫い情熱と混じり合っていく。塗りつぶされるのではなく、お互いを燃やし合うぼくの本当の気持ちに。
「……もう大丈夫だな」
 ふっと優しい笑みを浮かべたデオノーラ様の手が離れていく。
 それでもぼくの心の内は熱を抱いていた。
 伝えたいこと、話したいこと、ぶちまけたいこと沢山ある。
 一緒に天の柱に行きたい。行かせないんじゃなくて、一緒に行きたい!
「伝えたい。伝えるんだ。でも……だからこそ、力が欲しい」
 この気持ちに迷いはない。
 ぼくの頭は冷静さと情熱が同居していて、これからを見据えていた。冷静に、いまの自分ではスワローの足手纏いにしかならないと理解する。
 だからこそ、ぼくはスワローの足手纏いにならない、ううん、スワローを支えられるくらいの力がいる。
 一緒に天の柱を登るための力が。
「迷いが吹っ切れたのなら、竜泉秘境に行ってみるのはどうだい?」
「ミクス、お前」
「大丈夫だよ、デオノーラ様。もう呈ちゃんに迷いなんて生まれる余地はないさ」
 ミクスさんは竜泉郷の方角へと指を指す。
「竜泉秘境は東の荒野の外れにあるからね。時間があるときに行くといいよ。なんなら仲直りついでにスワロー君と……あれ?」
 ぼくは走り出していた。竜泉秘境に向けて。背後のミクスさんたちの声がぐんぐんと遠くなる。それくらいぼくは急いで駆けていた。
 エリューさんが歌の中で話していた竜泉秘境での出会いの物語。竜となった女性の物語。それを思い出した瞬間、いてもたってもいられなくなった。スワローと一緒に行くための力。寄り添う力。
 もう迷わない。やるべきことは決まった。あとは進むだけだ。
 ぼくは一層強く降り続ける雨を弾くように、仄かに光るドラゴンオーブの灯火の下を駆け抜けた。

「速いなぁ呈ちゃん。先にスワローくんと仲直りしてからの方がいいと思ったんだけど」
 まぁ仕方ないか、とミクスは呈の消えた方角から目線を外しつつ肩を竦めた。
 隣で呆れたようにため息をついたデオノーラが、剣呑な目つきで見据えてくる。先ほどまで呈に向けていた視線とは真逆のものだ。
「お前、ドラゴニアに来た本当の目的はあの娘だろう? いや、“あの娘たち”か」
「おっと、さすがデオノーラ様、鋭いねぇ。まぁあの娘じゃなくても良かったんだけどね」
 大袈裟に驚いて見せたが、本当は驚いてはいない。自分よりも圧倒的に格上で、気高い竜の女王に隠し事などできるはずもなく、隠すつもりなど最初からなかった。
「全く、デルエラといい、お前たちは本当に企みが好きだな」
 剣呑な面持ち、しかし本気で怒っているわけではないということをミクスは知っている。
 何故なら、自分たちは本気でスワローや呈のことを思って行動しているからだ。
 その大前提がある限り、デオノーラも、どんな魔物娘も、例え母や祖母であっても止めることはないだろう。
「お前の企みはなんだ?」
 そして、その過程で、自分も、もとい自分たち魔物娘と人が利益を被ることができるのであれば、それに越したことはない。
 礎にも犠牲にも生贄にもさせない。スワローと呈が幸せになる過程で新たな幸せの可能性を生み出すのだ。
「僕のお願い聞いてくれたら、全部話すよ、デオノーラ様」
「人の領地で好き勝手暗躍しておいてよくもまぁぬけぬけと」
 聞いてやらんぞと言いたげに腕組みをしてデオノーラは目を瞑る。
「大丈夫大丈夫。デオノーラ様にお願いするのはスワローたちのためだから。なにより」
「ん?」
 もったいぶって間を置くと、やはり気になったのか片目だけをこちらに向けてきた。
「お祭りはデオノーラ様もお好きでしょ?」
 得意げに、心底を楽しみだと言わんばかりにミクスは淫靡な魔性の笑みを浮かべるのであった。

 竜翼通りを越えてさらに向こう。入り組んだ道の中を、天の柱に向かってる。雨は止むことを知らずにいまでもおれに非難の嵐を打ち付けていた。
 この雨で出歩く人はほとんどいない。すれ違っても恋人同士ばかり。おれはなるべく彼女たちを視線に入れないように目を伏せながら、足早に歩いた。
 吐き気はなおも収まらない。拳の痛みだけが自己嫌悪の霧中に陥ろうとするおれを引き留めている。現実へと駆り出す。
 呈に酷いことをしてしまった。謝る言葉さえ思いつかない。顔を合わせることさえ。
 本当に天の柱を登り切れば元通りになるのか、もう取り返しがつかないんじゃないか、そんな不安が頭の中を堂々巡りする。
 でも登らなきゃ。登って終わらせないと。いまのおれを終わらせないと。変われない。
「……っ!?」
 足元ばかり見てしまっていたせいか、おれは曲がり角から現れた人影に気が付けなかった。そのまま半身がその人とぶつかる。
「ご、ごめ――」
「おっと、ちゃんと前向いて、ってランドか?」
 そして、それがよりにもよってセルヴィスだったなんて。
 きっとおれはいま、驚愕と気まずさが綯い交ぜになった表情をしているだろう。
 一瞬でセルヴィスはおれに何かあったことを察したように、眉をひそめる。おれの隣と背後に呈がいないことを確かめて、さらにおれの拳を見て、口を開いた。
 その刹那、おれは逃げようとした。セルヴィスが口を開く前に、おれの内心を言い当てて突き付けてくる前に。
 しかし。
「ここは通行止めだよ〜」
 ラミィさんの尾に道を寸断される。念入りに建物の上にまで尾を伸ばした。おれが上から逃げようとしたら叩き落とす、まではいかないまでもその尾で縛り上げられるだろう。
 逃げ切る自信はなくもない。が、それを成し遂げる気力には自信がない。
 諦めておれはセルヴィスの前に立った。
「……なに?」
 ぶっきらぼうに、会話を続ける気がないという意思表示をしながら尋ねる。
 いつものセルヴィスなら呆れたような笑みを浮かべていたことだろうが、いまは眉間にしわを寄せて不機嫌そうな顔になっていた。おれを見下ろす視線が、喉元に刃を突き付けてきているようだ。
「呈ちゃんは?」
「知らない」
「言い方変えるわ。何を言った?」
 鋭いな、本当に。見てきたんじゃないのか?
 セルヴィスだけじゃない。魔物娘やそれに関係する奴は基本的に鋭い。母さんも父さんも、ドラゴニアで初めて目覚めたおれの内面をよく察知していた。心の機微に敏感すぎないか? もっと言えばお節介だ。ミクスは悪い意味で例外だけど。
「お前、いま自分に苛ついているだろ? 呈ちゃん絡みで。お前、何かしたんじゃないか? 呈ちゃんに」
 セルヴィスの視線はおれの背中と腰回りに向かった。フル装備のおれを見ている。
「天の柱に行く気か?」
「だったら?」
「呈ちゃん置いてか?」
 結局のところそれが、おれにとっての我慢の限界点だった。一瞬で臨界点を越えた。
「だったらッ!?」
「わかってんだろうがッ!」
 声を荒げたおれに、まるで鏡のようにセルヴィスが猛る。おれの襟元を掴むと眼前にまで持ち上げた。おれの小さな身体は襟元だけで支えられて、足が宙を揺れる。
「セ、セル〜。暴力はダメだよ〜」
 なだめようとするラミィさんの声が遠い。激昂し、歯が剝き身になったセルヴィスをおれは同じように睨み返した。
「離せよ、お前には関係ないだろ」
 最大限の低い声で、唸るようにセルヴィスに命令する。どうせ離してくれないだろうが。
「ねぇわけねぇだろ。ダチが彼女泣かして放っておけっか」
 見ていないくせに確信して言うセルヴィス。確かに呈は泣いていた。その表情を見せまいと振る舞い、そして走っていったけどおれにはわかる。
 呈は泣いていた。涙を風に散らしながら、おれの前から去ったのだ。おれが呈にそうさえたのだ。
「なぁ、スワロー。呈ちゃんがどれだけお前を想ってるか、わかってんのか?」
「わかってる」
 わかっている。だから苦しいんじゃないか。
 そう出かかった言葉はしかし喉につっかえた。それを言ってはいけない。自分を擁護してはいけないのだ。
「本当にわかってんのかよ! わかってんなら、どうして一緒に行くって行ってやらねぇ! 呈ちゃんはお前のためにキサラギさんのところで働き続けてたんだぞ!?」
「……」
「え、えっとねぇ。スライムさんの荒波に揉まれたり、子供の身体で慣れないお酒をいっぱいいっぱい飲んだりね〜。ほかにもドラゴニアの色々な場所に行ってたよ〜。ドラゴニアの〜端から端まで〜。ふふ、実はこっそり見張っていたのだ〜。危ないところ行かないようにね〜」
 酒。酔いつぶれて帰って来たときのことか。あの日から、呈は毎日毎日へとへとになって帰って来ていた。理由は聞いたけどはぐらかされて、でもおれも訓練で疲れていて気にすることはあまりなかった。
 呈がキサラギのところで働いていると知ったのは今日だ。呈が働き始めて何日経ったんだ? おれは何をしていたんだ?
「本気の本気だったぞ。呈ちゃんは本気で、お前のためについていこうって心に決めて動いていたんだ。どんだけ人見知りでも、どんなに辛くてもな!」
 ゆさゆさと揺らされる。地面を恋しく思う足裏も力なく垂れさがっていた。
 おれを責める、いや、説得しようとしてくれているセルヴィス。本当に良い友人だ。本当の兄貴のようだ。ありがたい。本気でおれと呈のことを案じてくれている。
 でも。
「ダメなんだ」
「……?」
 ものすごい剣幕だったセルヴィスの表情に困惑の色が差す。
「おれは一人で天の柱に登らなきゃいけないんだよ、セルヴィス」
 頬を伝う雨が温く感じたのは気のせいだろうか。
「おれに家族はいない。兄弟もいない。恋人だっていない」
 ならこの記憶はなんだ。おれの中でチラつくあれらの光景は、親しい人の姿たちは。
 はっきりさせないといけないんだ。おれが誰であるかを確立しないと、呈の恋人であることを、母さんたちの子供であることを、おれがスワローであることを確定できない。
 おれが他の誰かである可能性はなくしちゃわないといけないんだ。
「わかるかよ、セルヴィス! お前に! おれじゃない記憶が! 恋人も親も兄弟も姉妹も息子も娘も何もかもいる記憶があるおれの気持ちが! その記憶が全部! どれもこれも自分が別人であるおれの気持ちが! おれの記憶が一人だけのものじゃないって気持ちがッ!」
 おれは感情の赴くまま、怒気を撒き散らすように吠えた。それこそ、子供のように。
「それがなんなのか全部わからないと! 心の底から呈を愛せると思えねぇんだよ!」
 セルヴィスがゆっくりと腕を降ろし、おれを地面に立たせた。烈火のごとき表情はなりをひそめていたが、セルヴィスは納得していないようだった。泣きそうな表情にさえ見える。
「意固地になっているだけだろうが」
「っ……!」
「お前が誰かだと? お前はスワローだろ。呈ちゃんの恋人で、リムさんとウェントさんの息子だ! このドラゴニアに住んでる一人の男だろ!」
「そう思うためにおれは」
「だったらリムさんにでも誰にでも言って天の柱にさっさと登ればいいだろうが! お前は自分の意地で呈ちゃんのことを無視してるだけだ! お前の意地とあの娘、どっちが大切かなんてわかりきってるだろうがよ!」
 わかっている。わかっているさ。これは意地だ。わがままだ。それでもだ。
「おれが自分の力で成し遂げないといけないんだ。生まれ変わるのは自分の力でじゃないとダメなんだよ、セルヴィス……!」
「一人だけで生きているみたいな口ぶりしやがってよ……」
 荒々しく襟元を開放される。おれは後退しながら、背後の壁に背負うリュックをぶつけて止まった。
「スワロー、お前はな――」
「セルヴィスさーん、ラミィさーん!」
 言いかけたセルヴィスの声を遮って、建物と建物の間の頭上からやってきたのは一人のワイバーンだった。何度か訓練の際にも付き合ってもらった人だ。
「よかったここにいた。大変ですよ! 東の荒野に続く山道がこの雨で土砂崩れ起こしたみたいです!」
「土砂崩れ? 本部に連絡は?」
「本部では隊の編成中です。まだ詳しい状況は不明ですが巻き込まれた人がいるかもしれないので至急隊に合流を」
「……ああ、わかった」
 ワイバーンの女性にしっかりと向き直った瞬間をおれは見逃さなかった。
 すぐさまおれは踵を返し、セルヴィスたちから遁走した。背後からおれの名前を呼ぶ声がしたが無視して脇道に入り、水たまりを弾きながら全速で駆けた。
 追いかけてくる感じはなかった。土砂崩れの件もあるし、おれに構っている暇はないだろう。ただ、お節介焼きなのは確かだ。さっさと天の柱に行ってしまおう。
 入り組んだ道は徐々に減り、建物同士の間が開けてきた。澱んだ夜空も広く口を開いて、家々の灯りがいまはとてつもなく頼りない。
 今日、明日、もしくは明後日まで。頂上に到着するまでにどれほどかかるかはわからないが、この数日で終わらせる。終わらせて、自分と決別しておれは呈のところに行く。
 早く。速く。疾く。
「やぁやぁやぁスワロー君、一人かい?」
 おれのはやる気持ちを軽妙に押しつぶすような声が響いた。
「ミクス、さん」
 不意に現れたのは白と黒の悪魔だった。貼り付けたような薄ら笑いを浮かべた魔性。
 白黒サキュバス。もといリリムのミクスがいた。
 彼女は雨の中、傘も差していない。しかし、何かの膜が彼女を包んでいるのか、髪も顔も服も濡れているようには見えなかった。
 闇に浮かぶ白い双眸がおれのことを、愉悦に滲ませて見つめている。
「なんてね、君が独りぼっちなのは知っていたさ。ちょっと前に呈ちゃんと会ったからね」
 ふらりふらりと上半身を左右に揺らしながら、おれの目の前まで迫り、腰を曲げて目線を合わせてくる。一連の動作におれは逃げるという発想を過ぎらせることができなかった。
「呈ちゃんは思い込み激しいよねー。白蛇だからかな? 子供だからかな? お母さんの性格に似たのかな、それともお父さんかな? それともそれとも全部かな? まっ、どっちでもいいか」
「なんですか? 何か用ですか?」
 世間話でもしに来たのか。いや、ミクスがそんな女じゃないことはわかる。軽薄な笑みは笑っているように見えて、観察している表情に仮面を被せているだけだ。
「あるよあるよ大有りだ。ああ、でも二人きりなんだから僕のことはミクスと呼べばいいよ。心の中で呼んでいるみたいにね。僕のこと、別に敬ったりとかしていないんだろ? ここには呈ちゃんもお父さんお母さんもいないんだし、表も裏も偽らなくていいんだぜ?」
 にこやかに笑う。彼女の顔の周りがぐにゃりと歪んだようだった。威圧感を感じたわけではなく、彼女の得体の知れなさのせいでそう見えた。
「正直はいいことだ。素直なのもいいことだ。愚直さも好きだね。好ましい。だから君は正直に、心の思うままぼくのことを嫌いになるといい」
 芝居がかった調子にいいながら、ミクスは人差し指を口元に当てた。
「そんな君を僕は好きでいてあげよう」
「意味がわかんないですよ」
「そうかい? わかると思うけどな。あ、いまの“好き”は友愛の意味だからね。恋愛じゃあない。呈ちゃんに恨まれるのはごめんだからはっきりさせておくよ。まぁいいや、話を戻そっか」
 ミクスが立てた人差し指をくるくるして円を描く。
 本当に勝手だ。自由気まま、捉えどころと実体のない風、いや闇と光のような女性だ。
「呈ちゃんが竜泉秘境に行ったんだ。ぼくはスワロー君と行った方がいいって行ったんだけどね。あの娘、話聞かないだろ? もう目的持っちゃったら猪突猛進だよ、さすがメッダーと勝負しただけはあるね。ああ、メッダーっていうのはグランドワームの巣に住んでいる憤怒の城壁崩しの二つ名を持つワームさ。あれ、そういえば一度会ってはいるんだっけ?」
「竜泉秘境?」
 脱線しそうな話をおれは無理矢理戻す。
「うん。“東の荒野”にある竜泉の源泉地帯だよ。聞いたことくらいあるだろう?」
 やけにその単語だけは鮮明に聞こえた。
「え?」
 自分の発した言葉が遅れて耳に響く。
 え?

 ぼくはひた走っていた。泥水を撥ね飛ばしながらただひたすら山道の斜面を滑るように進んでいた。
 身体や服がいくら汚れようとも気にならなかった。ぼくには目的があった。
 スワロー。やっぱりどうしてでもぼくは君についていくよ。ダメだと言われても、足手纏いだと言われても、絶対に一緒に行くよ。
 でも話をしよう。もっときちんと話をしよう。ぼくのことを、スワローのことを、そして天の柱のことを話そう。お互いをもっと知ろう。納得行くまで、夜中も朝までもずっと知り合おう。真正面から、向き合って、さらけ出そう。
 ぼくは尽くすから。言葉でも、行動でも。君のために、ぼく自身のために。
 それに、君の足手纏いにならないくらいぼくは強くなるから。
 スワローを助けられるくらいになるから。
 だから。
「……え?」
 音がした。何かをすり合わせるような、連続して続く音だった。
 それは雨の中でも聴こえるくらい大きく……違う、雨の中でも聴こえるほどぼくの近くまで来ていた。
 山の登り斜面、音の方角へぼくは顔を向けた。
 黒い壁が、ぼくの視界を覆っ――。
17/09/17 21:54更新 / ヤンデレラ
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■作者メッセージ
――。
それではまた次回。

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