第五章 交わらぬ二人:竜翼通りB
―1―
夢を見ている。
この夢はおれの記憶の始まり。
初めて目に映した光景は、二人の男女の顔だった。いまでは母さんと父さんと呼んでいる人の顔。どちらも共通しているのはとても若いということ。ただ、女性の方は頬の辺に鱗のようなものが生えていた。よく見れば角まであり、普通の人ではないように見えた。実際、人間らしい姿を持っているものの腕や脚などは決して人間のソレではなかった。でもそのときは不思議と怖くなかった。
二人は事情を説明するのでも、おれに尋ねるのでもなくまず最初に温かい食べ物を食べさせてくれた。ポトフだったと思う。スプーンの持ち方がそのときわからなかった。器に直接口をつけ仰いだせいで唇を火傷しかかった。慌てなくていい、と二人が笑顔で背中をさすってくれたりしてくれていたのを覚えている。
最初は自己紹介からだった。名前を教えてもらい、そして自分の名前を言おうとしたところで言葉が詰まった。名前。その意味の指すところ。自分。自分の名前がわからなかったのだ。それどころか自分が誰なのかすらわからなかった。そのときのおれはパニックになって毛布を被り、ベッドに沈んだらしい。ずっと毛布越しにおれの背をさすってくれていた母さんと父さんから、後々聞かされた。
記憶喪失。おれには母さんたちに拾われる以前の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。誰に産み育てられたのか、どこで暮らしていたのか。何も覚えていなかった。
父さんに勧められておれがしたことは、まず自分がどんな姿をしているか、本能的に何ができるか、ということだった。そう言われて姿見で自分の姿を見て初めて、自分の身体が七歳程度の子供だと知った。身体は健康そのものであったけど、運動能力はあまり良いとは言えなかったらしい。
しかしそんなことよりも初めて『外』に出たときの驚きたるや言葉では言い表せない。
天を舞う竜の輪舞曲。地を這い駆ける地竜の行進曲。良き隣人として彼女たちと輪を築く人々たち。あらゆる竜と人、そして人ならざる様々な種族が対等に友好を結んでいた。
こんな光景は記憶にない。夢のような世界だ。
夢のような? すぐにおかしいと気づいた。この光景を現実ではないと比較できるような記憶が、おれにはないはずなのに。母さんの姿もそうだ。ワイバーンなる存在は“いない”はずなのだ。
考えた。記憶を遡った。全ての意識を頭蓋の中、脳へと向けた。
頭を割らんばかりの激痛とともに、幾つかの映像が想起された。そこに母さんたち、魔物娘の姿はどこにもなかった。
怖くなった。
笑顔を向けてくるあの二人が。
何故? どうして笑顔を?
自分は二人の誰でもないのに。
二人はおれの誰でもないのに。
人間じゃないのに。
おれは逃げ出した。
走って、走って、走って、ただひたすら走って、脇目もふらずに駆けた。一層強まる頭痛に、おれの意識は引き戻されて、気づいたときおれは天上を仰ぎ見ることができないほどの巨大な建造物の前にいた。
その瞬間、おれの頭は自分で記憶を想起したとき以上に激しく揺れ動いた。頭蓋を全方向から錐で穴を開けられているかのような感覚。頭蓋に宛てがった錐の柄を槌で殴っているかのような激痛。耐え切れるわけもなく、おれはふらりと身体を揺らした。
背後が崖となっていたことに気づいたのは、おれの頭が足よりも低い位置に来てからだった。
夢はそこで終わった。壁に埋まる魔宝石の淡い光が朝を告げていた。
心臓が酷く鼓動していた。喘ぐように身動きを取ろうとしたがうまくできない。
呈がおれの全身にその身体を絡ませていたのだ。蛇の尾だけでなく、上半身も使って。僅かな、しかし確かな膨らみをおれの胸に押し当てて。
おれは短い切り揃えられた銀髪を指で梳く。抵抗なく通る呈の髪は触れているととても心地いい。おれがそうしても、呈はすぅすぅとたてる寝息を立てたままだった。
そのときにはもう心臓は平静を取り戻していた。蒼い水に浸ったかのように落ち着いていた。
「……」
おれの最初の記憶。三年前の出来事。夢で見たのは初めてだった。
でもどうして今更になって?
呈の安心しきった寝顔を見ながら、おれは鎌首をもたげたその疑問に、ひたすら何故と問い続けた。
答えなどなかった。
―2―
呈と出会っておおよそ一週間が経った。人見知りする嫌いがあった呈も、父さんや母さん、セルヴィスとラミィさん相手には慣れたみたいだった。
ほとんど遊びっぱなしの一週間。ドラゴニアをゆっくりと巡った。観光というよりは、ドラゴニアがどういう場所であるか、暮らすのに便利な場所はどこかを呈に教えるために回っていたという感じだ。
例えば最近開かれたばかりの小高い丘に作られたドラゴニアヒルズとか。竜泉郷の湯が自宅の風呂として味わえる竜泉窟とか。魔界農家さんのところや、良い川魚などが釣れたりする渓流など。まぁおれも知らなかったことがあったので楽しめた。
ただ、母さんに厳命されて竜の墓場には近寄らなかった。ごだごだがあったらしい。暴走やらなんやらとか。何かあったのだろうか。まぁ元より暮らすのに重要な場所でもないし、行くつもりはなかったんだけど。
「今更だけど本当にここで一緒に暮らしてくれるの? ここに腰を据えるとなると、ジパングに頻繁に帰るのは難しくなるけど」
「大丈夫。寂しくないって言ったら嘘になるけど。でもね、スワローと一緒ならジパングじゃなくても、それこそ別にドラゴニアじゃなくてもどこでも良いと思えるんだ」
おれの元にずっといてくれると、呈は改めて言ってくれた。つい笑みを滲ませてしまって、呈にそれを指摘されて顔も合わせられなくなったのは仕方のないことだ。
しかし一番許可を得ないといけないのは呈の両親だった。母さんたちに指摘されるまで完全に失念していて、すぐさま呈と一緒に彼女の両親にお願いをしに行った。
呈に両親の魔力を辿ってもらって着いた先は竜の寝床横丁にある宿屋。そこにいると思しき部屋に行くも何かしらの結界が張られているらしく、入ることも声をかけることも不可能だった。
どうやら交わりを始めたらしい。呈によると彼女の両親は自分たちの行為を他人に見せたがらないそうだ。それは人の目を気にしてとかでなく、交わっている相手の全てを独占したいからだとか何とか。魔物娘には珍しいことではないそうだけど、ここまでご丁寧に結界まで張るのは見たことないな。
とりあえず書き置きだけして今日は帰ることにした。いつから始まったか知らないけど、呈曰くああなれば最低三日、おおよそ一週間程度は交わりが終わらないらしい。呈の両親やばい。
「ぼ、ぼくは大丈夫だからね……? 無茶したりしないからね……?」
と呈は言っていたけれど、おれも正真正銘のインキュバスになったら順応できるようになるんだろうなぁ。
すぐに呈の両親が帰るということはないとわかったので、とりあえずは放置。もしも街に住居を構えるには住民登録の必要があったけど、呈の両親に話を通していないのでこれまた放置。それに現状母さんの家で暮らすのが一番なのだ。というか、母さんが呈とおれを他の場所に住まわせるなんて嫌だと散々叫んでいた。娘がなかなかできないから、呈という義娘(結婚してない)ができたのがよほど嬉しいんだと父さんが言っていた。十年弱毎日最低二回以上交わっているのに子供ができないというのもすごい話だ。
そんなこんなで一週間経った頃、おれに来客があった。呈と一緒にリビングへと向かうと、二人の女性がテーブルに向かって並んで腰かけていたのだ。
「やぁ、お邪魔しているよ」
「おお、噂は本当じゃったか」
その二人が各々声を上げる。気さくな口調で話しかけてきたのは高身長の妙齢の女性。年寄り口調の方はおれよりも背の低い幼女だった。
「ミクスさん。ファリアさんも」
闇すら呑み込みそうなほどに昏い暗黒の髪を腰まで携えた女性は、背から同様の暗夜の翼を折りたたんでいる。側頭部を這うように前方へ伸びる双角も奈落の如く光り、彼女は妖しい微笑を湛えていた。身体的特徴とは真逆の純白のワンピースドレスを身に纏っていて、そのアンバランスさがより彼女の未知さを醸している。何より、彼女の白目部分は黒く、瞳は純白すら塗りつぶさんほどに真っ白だ。呈の耳といい勝負である。
幼女の方は山羊角を生やした薄っすらと山吹色を含んだ黒髪を右側頭部で結んでいる。手は獣人の魔物娘でよく見られる体毛で覆われた獣の手。幼女でありながらビキニアーマーよりも薄い面積の形容しがたい服を着ていた。もはや最重要箇所しか隠れていない。
「……」
すすっと呈がおれの後ろに下がる。人見知りのようだから仕方ないか。
「前、竜口山で燃える雲の景色を見たときに話したろ? その二人だよ」
「……白黒サキュバスとサバトのお偉いさん?」
「白黒サキュバスもとい、白黒リリムだよ」
「サバトのお偉いさんじゃ!」
にこやかに二人が呈へと笑い掛けてくれる。幾分か呈も警戒心を解いたようで、ぎこちなくも笑った。
「て、呈です。初めまして」
「僕はミクス・プリケット。見ての通り白黒リリムだ。よろしく、呈ちゃん」
「儂はファリア。こやつのお目付け役をやっとる。見ての通りバフォメットじゃ」
立っているのも何なので椅子に腰かけて自己紹介。ミクス・プリケットさんとファリアさん。彼女たちがおれの身体の状態を調べて、おれが向こう側の世界の人間だと仮説を立ててくれた二人だ。
「なんだ、そこまで話してたんだね。折角、僕からバラして驚かせてあげようと思ってたのに」
「やめてくださいよ」
ミクスさんが不満そうに頬を膨らませると、ティーカップに注がれたドラベリーミルクをスプーンでカラカラと音を立てながら混ぜた。母さんが出かける前に用意していってくれたのものだ。
「見たところ、もうこちら側の住民と身体がほとんど変わらんの。だいぶ身体能力は上がったんじゃないのか?」
「うん、もう天の柱を登り始めているよ。まだまだ先は長いけど。それで今日はどうしてここに?」
前回会ったのは二年も前のことだ。突然何の連絡もなしに来るのは、まぁミクスさんだし珍しくはないんだろうけども、理由がわからない。
「いやいや、君みたいな梃でも動かない子に可愛い白蛇の恋人ができたんだ。そりゃあ、一目見にも来るさ。飛んでくるさ。次元を跳んでやってくるさ」
「あっちの世界に行ってたんですか」
「こっちに来た理由は別件じゃがな。おかげで儂はこの放蕩娘に振り回されっぱなしじゃよ、全く」
ミクスさんの隣でファリアさんが疲れたように鼻を鳴らす。相変わらずあちこち引っ張り回されているらしい。
「あはは。向こうで撮った写真見るかい? これこれ、かめらっていうので撮ったんだけど」
悪びれもせずに笑いながら、ミクスさんがどこからともなく、一枚の長方形の紙を取り出した。そこにはまるでミクスさんが入り込んだかのようなリアルな絵が描かれている。姉妹か友人か、白いリリムと肩を組んで楽し気にピースしていた。彼女たちのバックにはとてつもなく大きな赤い鉄の塔が建っている。
その街並みはどこかおれのちぐはぐな記憶に合致する部分があった。少なくともドラゴニアでは見られない景色である。
「本当に……本当に向こうの世界ってあるんだ……」
呈が興味津々に、テーブルに置かれた写真を食い入るように見ていた。
「向こうの世界に興味あるかい?」
「え、あ、えっと……はい」
呈はおれのことをちらりと横目で見ながら、ミクスさんの問いを肯定する。
ミクスさんはにまにまと笑みながら、ドラベリーミルクの雫がついたスプーンを口に含む。艶めかしく舐るように前後させてから、再びティーカップに戻した。
「ふふ、安心しなよ。いまはまだあちら側の世界に行く技術は確立していないんだ。ポータルもない。転移するにはリリムやバフォメットですら疲弊するくらいの膨大な魔力が必要になるんだよね。普通の魔物娘の持つ魔力じゃ行けないんだ。まだ、ね」
ミクスさんの手がすっと伸び、呈の頭を撫でた。
ごくごく自然な、そうなるのが当然と言えるほど滑らかな所作。
おれも呈も全く反応できなかった。
頭を撫でられた呈が驚きに転じる間もなく、すぐにミクスさんの手は離れていく。
呆けたような表情で呈は撫でられた自分の頭に手を当てた。
誰だって自分だけのパーソナルな領域は持っている。他人に触れられたくない、入られたくない部分というのが。呈は人見知りするタイプだ。より、それは強いだろう。
それでもミクスさんは容易に入り込み、そして風が抜けるように去っていく。入り込まれた残滓は、何故受け入れられたのかという困惑を招く。
これがミクスさん。それがミクスさん自身の力なのか、魔王の一族に連なるリリムの力故かわからないけど、容易に心のうちに入り込んでくる。
悪いヒトじゃない。だけど、手放しで受け入れられるヒトではなかった。おれ自身のことを教えてくれた良いヒトだけど。
「だから僕がスワロー君をあちら側に連れ去るとかそういうのはできないから、安心するといい」
「……はい」
「まぁ仮に行くことになっても、スワロー君が君を一緒に連れていくだろうけどね」
目配せしてくるミクスさんに気づいて、おれは肩を竦めながら頷いた。
「一人で行っても仕方ないでしょ」
「……うん!」
呈の暗かった表情もすぐに真白く染まる。足首に優しく呈の尾先が絡みついてきた。
「甘酸っぱいのぉ」
ティーカップを傾けながらおれたちを見ているファリアさんがそんなことを呟く。
母さん、ドラベリーを入れすぎたのか?
「おいおい、ババ臭いぞ、ファリア」
「誰がババ臭いじゃ! このピッチピチの身体を見てどうしてそんな言葉が吐ける!?」
身体つきはピッチピチを過ぎるどころか届いていないと思うんだけど、それは言わないでおこう。呈よりも起伏がないとかそんなことを言ったら呈に――。
「痛ッ!?」
足首に絡まっていた呈の尾の締め付けが急に強くなった。ああ、ニコニコしているけど笑ってない呈がいる。バレていた。
「その、ミクスさんはどうして向こうの世界へ行っているんですか?」
「端的に言うと興味からかな。魔物娘どころか魔法、魔力の概念すらない向こうの世界は純粋に僕の知的好奇心を揺さぶってくるんだ。それに、こちら側との行き来が容易になれば、夫を手に入れられていない魔物娘たちの一筋の光明になりえるかもしれないからね」
ミクスさんの説明に呈は感心したように目と口を目いっぱい開いていた。
「……なんだか、すごいですね」
「そうかい?」
「ぼくなんかじゃ絶対にできません……誰にも知らない場所に行くって考えただけで不安になっちゃいますから」
視線をテーブルに落とす呈。口元は薄っすらと笑っているようだったけど、それはどこか自嘲めいているように見えたのは気のせいだろうか。
「……」
口元にそのしなやかな指を当てるミクスさんの表情が一瞬だけ神妙そうになる。
しかし、指を口元から話した途端、その表情は飄々とした笑みへと戻った。尾先が逆ハート型の黒い尾を指でなぞりながら、ミクスさんは口を開く。
「不安になりそうになったときは、こう考えるといい。『いま自分は誰といるか』ってね」
「誰と?」
「そう。君はもう本当の意味で一人じゃないんだからさ。両親ですら入り込めない領域へと受け入れたヒトがいま君の隣にはいる。そうだろう?」
「……」
おれは呈へと視線を寄越す。
首元で綺麗に切り揃えられた銀髪のボブカット。それに同化するように伸びた、呈のトレードマークとも言うべき白い耳。雪肌を淡く彩る薄紅色の唇が、すぼみながらぷるぷると震えた。呈の目は恥ずかしがるように細められておれとどこか虚空の場所を行き来する。
そう恥ずかしがられると、意識されるとおれも恥ずかしくなってしまう。
「なんじゃか家に帰りたくなったわ」
「ホームシックかい?」
「夫シックじゃ。儂もイチャコラしたいわい」
「まだ相手がいない僕には君しかいないんだから隣からいなくならないでくれよ? 夜になるまで待ってくれ」
「存外寂しがり屋じゃもんな。全く、世話がかかるわい」
それからも色々と世間話に花を咲かせ、向こう側の文化――アニメやら漫画や、音楽、同人なんとかという日本の文化について聞かされた。なんでも向こうの世界は想像力が豊からしく、魔物娘ではないが魔物娘のような姿をした女性を描く人がいるらしい。元となる魔物娘がいないのに、似たような存在を想像で生み出せるって不思議な話だ。
「そうじゃそうじゃ。ここへ来る前にデオノーラのところに寄ったんじゃがの。面白い……いやお主にとっては面白くない話を聞いたぞ」
突然、思いついたようにファリアさんがぽんっと掌を拳で叩いた。ぽんっというよりもモフっていう音がしたけど。
「面白くない話?」
聞き返すと、ファリアさんが「うむ」と大仰に頷いた。
「それはだな」
「なんでも天の柱の改修工事が二週間後に始まるんだって」
「ああ! 儂が言おうと思ったのに!」
「速い者勝ちだよ、ファリア。君には圧倒的に足りないものがある、それは情ね――」
「――儂の方が速いわぁ!!」
ベシンッ! と乾いた音が響いたが俺の耳には届いていなかった。
「呈、今日は……いや二週間くらいか。悪いんだけど付き合えそうにない」
ミクスさんたちを見送り部屋へ戻ったあと、俺は呈にこう話を切り出した。
直後、呈の表情がこの世の終わりのように強張る。
「え……えええ? ぼ、ぼく、悪いことした!? スワローの迷惑になるようなことした!? あ、改めるから! ぼく、スワローの良いお嫁さんになれるよう頑張るから! ぼ、ぼくを捨てないで!」
しゅるりっと呈の尾がおれの身体に巻きついてくる。つるつるな蛇腹のひんやりとした感触が肌をきゅっと締め付けてきた。心地良いんだけども。
「ち、違う! 全然違うから! どうなったらそういう勘違いするんだ!? 違うから泣きそうな顔にならないでくれよ」
発想が飛躍しすぎだ。呈をおれが捨てる? 教団兵にドラゴニアが落とされる以上にありえない。
「じゃ、じゃあどうして? 二週間ずっと……二週間? もしかしてさっきの大規模修繕のこと?」
呈の頭と一緒に、彼女の真横まで登りつめた尾先が小首を傾げた。
「そうだよ。大規模修繕、その日程がわかったからさ」
四年に一度、ドラゴニアの建築業を一手に担う竜工師たちが総出で取り掛かる、天の柱の大規模修繕。酷く崩れてしまった階段、剥がれた外壁、もろくなった足場など。ワイバーンたちや冒険者の移動、式事や風化などで老朽化した場所を綺麗に直すための大掛かりな修繕作業である。その間は基本的に登ることができない。住処にしているワイバーンたちならともかくおれのような一般人は無理だ。修繕している竜工師たちの邪魔になってしまう。
そして高さと修繕面積も相まって、修繕を終えるのにかなりの時間を要するらしい。終了予定は基本的に未定。損壊状況を鑑みて割り出されるが、ファリアさん曰くその情報はまだ入ってきていないそうだった。
とにかく二週間以内に登りきらないと、当分の間天の柱にチャレンジできなくなるというわけだ。そして挑む前にこの一週間で鈍った身体を慣らす必要がある。早朝訓練は欠かしていないけどやはりそれだけでは厳しいのだ。
「なるほどね。もー、先にそう言ってよー」
「呈ってたまに話聞かないときあるよな」
悪い風に考える傾向があるというか。思い込みが激しいというか。
「むー、ちゅー」
「ごまかすためのちゅーはやめなされ」
「むー、してくれないの?」
おれの胸元にすっぽりと納まって、ご丁寧に尻尾で自分ごと包んで上目遣いで見上げてくる呈。
「するよ」
当然。拒否できるわけないじゃないか。
おれは呈の唇に自分のものを重ねた。チュッチュッと空気が弾けるが響いて、おれはさらに呈の唇を貪るように喰む。呈も応えるように唇のクレバスから舌を這い出させ、おれの唇を舐ってきた。
「はぁ、はぁ、あむ、ちゅっ、ちゅるっ」
「んあ、む、すわ、ろー、ちゅっ、しゅきぃ」
互いの吐息すら逃さないキスをおれたちは楽しんだ。
一週間、おれたちはまだ交わることのできる身体になれずにいたけど、こうして幾度となくキスを繰り返した。未だこうしてキスをするのは恥ずかしいし、人前特に母さん達の前では絶対にできないけど、呈とこうすることに躊躇いは出てこない。
「ぷはぁ……えへへ、お口べとべとだね」
蒸気した呈の顔、それがまた愛おしくて。
「ん……」
「やぁ、唇の唾液舐めな、あははっ、くすぐったいよぉ、もー。お返しにぼくも舐めるよ、蛇の舌は長いんだからねー」
ぬるま湯に浸かっているかのように、こうしている間は心地よかった。どんどん呈に沈んでいって、溺れてしまいそうだ。いや、もしかしたらもう溺れているのかもしれない。窒息しないだけで。吐く息、吸う息、飲む水も食べ物も全て、呈を通しておれの身体に行き渡っているのかもしれなかった。
そう思ってしまうくらい、呈と一緒にいるのが心地いい。
だが。
だからこそ、おれは。
「じゃあ行ってくる」
「うん……」
本番を意識した服に着替え、荷物も背負い、おれは部屋を出る。久しぶりのフル装備はいつもより重く感じられた。
呈は着いてきたそうにうずうずとしているように見えたけど、おれは誘わない。着いてきてもらっても暇にさせてしまうだけだし、訓練を見られるというのも恥ずかしいし。
「気をつけてね」
「うん。暗くなる頃には帰るよ」
ドア一枚がおれと呈を挟んで隔てた。
さぁ、行くか。
「今日は呈ちゃんと一緒じゃないんだな」
「着いてきてもらっても暇なだけでしょ」
眼前にはそびえ立つが如く傾斜に立つ石造りの建物群。風が坂を駆け上っていき、急き立てるように背に吹き付けている。
おれたちがいるのは西に少し行けば竜翼通りがある街の最下層。そのうちの一つの建物の屋根の上。ドラゴニアの建物はドラゴンたちの着陸地点にも使われることが多いので、とても頑丈に作られている。もはや屋根というよりは屋上だ。家によっては洗濯物を干したりもしている。
一度荷物を下ろし、全身の身体をほぐしながら異常がないかを探っていく。うん、今日も良好だ。むしろ今までで一番のベストコンディションかもしれない。
「やれやれ。ようやく彼女ができたからマシになったかと思えば、まだまだだな」
「なんか言った?」
「まだまだ子供だってことだ」
実際子供だし。
おれの後ろにいるのは騎士服のセルヴィスとラミィさん、二人の友人であるらしいワイバーンの女性。付き添い兼監視役兼責任者として来てもらった。
今日の訓練は天の柱内部の移動を想定した実践形式の訓練だ。
「ね〜、セルー。スワローくん何するの?」
「ん? 前も何度かやったろ。ここ登んだよ」
そう。登る。眼前にそびえ立つ建物群の屋上をただひたすら駆け、飛び、登っていく。
全身の肉体運動を駆使して屋上を走り、石壁を超え、空中を跳び、壁をよじ登る。それだけ。ゴールはドラゴニア城付近までだ。
監視役というのはその過程で住民たちに被害が及ばないよう見張るためのもの。ワイバーンさんには移動中上空で随行してもらい、緊急時に対応してもらう。市街地だからこその措置だ。本当はダンジョンでやるのが一番なのだけど、身体が慣れてないから最初はもっとも難易度の低いここで。とはいえ、住民たちは大半が魔物娘か彼らの夫である人、それに冒険者という曲者ばかりなので、万が一衝突したりしても怪我しそうなのはこっちだけど。
「ジャンプして?」
「ホップステップもするな」
しない。ラミィさん、期待の眼差しでおれを見ないでくれ。
「スワロー、こういうのなんて言うんだっけか。パル、バル? なんだっけ?」
「パルクール」
「そうそれ」
準備運動は万端。本番を意識してリュックを背負い、上着の上から装着しているハーネスに接続し固定。片側が鋭く尖り、もう片側が斧のようになったナイフピッケルはハーネスの魔界銀製の留め具カラビナに繋げていつでも使えるよう腰に引っ掛けている。今日は使わないけれど、緊急時のロープの切断や壁に突き立てるのに使えるので必須装備だ。
ハーネスとは別に腰には二つの円筒状の巻き取り機。四方に伸びた鉤爪が円筒状の筒から覗いている。おおよそ五十Mほどの長さのロープが入っているのでかなりの重量だ。それでも頑丈軽量のアラクネ印なので軽い方だが。リュックには予備のロープや鉤爪、飲食料が入っている。
全身を揺らす。その場で軽くジャンプ、繰り返しジャンプ。高さを調整して最後に地面を蹴って後方宙返り。重心が荷物のせいで下へ落ちそうになるのを、遠心力の勢いと背筋で耐える。視界が一瞬反転し、着地。よし全身の装備にブレはない。
「おお〜、スワローくんすごい〜」
「よくもまぁ、そんな大荷物でバク宙しようと思うな」
「身体小さい分身軽なのだけが取り柄だし。セルヴィスなら遭難者抱えたままでもできるでしょ」
「遭難者抱えてやるわけないだろが。ラミィ抱えてならやるけど」
「わーやってやって〜、きゃ〜」
ラミィさんをお姫様抱っこしたかと思うと、本当にくるりと後方宙返りをなんてこともないという風に決めてしまった。鎧も着ている癖に。本物インキュバスは身体能力が馬鹿げてる。
こっち見るな。そのドヤ顔やめろ。
「で、バル、パルクール。そんな装備でできるのか?」
「大丈夫、問題ない。それに本番は常にこの状態で登攀、ジャンプ、回避、逃走をこなさないといけないし」
いまからやるのは基礎中の基礎だ。これができないと話にならない。
「無茶すんなぁ。一人で天の柱登ろうだなんてな」
「大瀑布水泳したときよりは全然」
「まだ根に持ってんのかよ……」
本当に死ぬかと思ったからな。
「呈ちゃんは連れてかないのか?」
不意打ちのような問いだった。一瞬、喉が痙攣したようにひくついた。
「……危ないのに連れて行くわけないだろ。じゃあ行ってくる。よろしくお願いします」
やっとのことひり出した言葉はそれだけ。ワイバーンさんに開始前の挨拶をし、おれは位置につく。ワイバーンさんの掛け声とともに、おれは駆けた。
「……なに焦ってんだか」
背後でそんな声が聞こえたような気がした。
ごつごつとした岩天井が煌々と輝く魔宝石の灯火を淡く乱反射させている。
耳鳴りがしそうなほどの無音。寂しさが這い寄り、尾に巻きついているのではと錯覚さえした。
スワローと出会って初めて、スワローが明確にいない時間だった。ぼくは一人ぼっちだ。
ごろごろ。スワローのベッドに俯せになったり仰向けになったりする。ぼくがここに泊まることになったから、リムさんがベッドを二周りほど大きくしてくれた。内装の四割ほどをベッドが占めている。とぐろを巻かないとそれでもぼくの尻尾はベッドからはみ出ちゃうけど。
ふわふわ羽毛の枕に顔を埋めてみた。匂いがする。スワローの匂い。身体の芯に甘い痺れを起こさせる匂い。でも同時に、寂しさが胸の辺をチクチクと刺激してくる。
その寂しさを紛らわせるため、仰向きになってスワローからプレゼントしてもらった右手首のブレスレットを見上げた。白と緑と青の紐に通った飴玉サイズのドラゴンオーブをそっと指でなぞった。するといまその瞬間にスワローからプレゼントしてもらったかのように、不思議と心が温かくなる。でもそのスワローは目の前にはいない。
改めてドラゴニアに来てからスワロー尽くしだったんだなと思っちゃう。スワローがいないと何もすることが思い浮かばない。一緒だと何をしてても、いましているみたいにごろごろしていても楽しいと思えるのに。
いまぼくは何もしていない。スワローはきっといま汗水を流している。前に進んでいる。自分を磨いている。
「……」
ぼくは尾をしならせ、遠心力を利用し上半身を起き上がらせた。外着用の服を着込んでいき、お財布も懐に忍ばせ、出かける準備をする。
ぼくは何をしているんだ。ここで怠惰を貪っているなんて、ぼくが目指す大和撫子になんてなれるわけがない。スワローが自分を磨くように、ぼくも。
意を決したぼくは部屋を飛び出した。
吹き上げる風に髪が乱れるのを手で押さえる。秋の終わりごろのジパングのような冷たい風。地面から尾に冷たさが這い登ってくるようだった。スワローと一緒だとこんなこと感じなかったのにな。
そういえばスワローはどこで特訓しているんだろう。ジパングに負けないくらい、ここは緑自然豊かだし、それに山も入り組んでいて険しい。竜口山で見せてくれたような山登りをどこかでしているのかな。さすがに街ではしないよね。
山壁と手がくっついているかのようにひょいひょいと登っていくスワローの姿を思い出しながら、ぼくはドラゴニア城へと続く竜翼通りのある街へと、整備された山道を歩いて向かった。両脇の林たちがやや傾き始めた陽の光を遮ってしまって、着込んでいてもちょっと肌寒い。木の群れから抜けると街が見えた。空を滑空する竜さんたちの姿もある。
さぁお買い物だ、お買い物。スワローのおかげであまり使う機会のなかったぼくのお金を大放出。ドラゴニアに来るまでにお母さんのお手伝いをしてもらったお小遣いを使うときが来たのだ。
ふふふ。ぼくのお母さんはお父さんを捕まえたとき、まず美味しいご飯でその胃袋を捕まえて警戒心を解きほぐしたらしい。スワローがぼくのことを警戒しているとか、そんなことはきっとない。けど、疲れて帰ってくるスワローには美味しいご飯が一番のはず。それをぼくが振る舞うのだ。
疲れて帰ってくる愛しい人に愛情のたっぷりこもった料理を振舞う。うん、すっごく大和撫子っぽい! かなり大和撫子だよこれ!
お母さんの料理には遠く及ばないけど、何度も料理の仕方は教えてもらったし、お父さんに振舞ったことだってあるんだ。そのときは美味しいって言ってくれたしきっと大丈夫。ぼくの料理でスワローの胃袋をがっちり掴んで、つなぎ止めるんだ。
そうと決まれば食材探し。スワローの食べ慣れたドラゴニア料理はもちろん、ぼくの故郷のジパング料理も食べてもらおう。これだけ広い街だ。龍さんだっている。ジパングで使うような食材だってきっとあるはず。
お味噌はあるかな? お味噌汁は鉄板だし。あとは出汁巻き卵。昆布とか鰹節が置いてあるといいんだけど。ああ、でもいまからだとお夕飯に間に合わないかな。うーん。
結構歩いた。もうすぐ竜翼通りに出るはず。あそこなら生鮮食品も扱っている場所があるはずだ。そこにもなかったら誰か人に尋ねてみよう。すごく緊張するけどスワローのためだったらなんだってできる。
入り組んだ狭い小道にすすすと尾を這わせ、音もなく歩いていく。当然この小道にも人はいた。ぼくの故郷みたいに男の人とドラゴンの魔物娘の女性が仲睦まじく歩いたりしている。血眼になって何かを探している風な女性もいたけど。
ああ、羨ましいな。ぼくもスワローとああして歩きたいな。腕を絡めて、肩を寄せて、尾先を腰に巻きつけて一緒に散歩したいな。
でも、我慢我慢。そうするためにいまこうしてぼくは買い出しに来ているんだ。スワローをつなぎ止めるために。
「……ぁ」
細い道に降り注いで弾ける風に乗って届いた匂い。それが鼻腔をくすぐった。
その匂いがスワローのものだと気づくのに時間は必要なかった。でもどうしてここで、という疑問はあった。ぼくは尾を伸ばして身長をあげ、建物の壁沿いにその上を覗く。吹きつける風に一瞬視界を奪われながら、左右にきょろきょろ、前後にきょろきょろして匂いの元を辿った。
「あ」
いた。
まるで竜のように空を駆けるスワローの姿が、そこにはあった。
建物の屋上を蹴るように走り、道がなくなる寸前でぐっと地面を踏み抜き、跳ぶ。
荷物を背負っているなんて感じさせない、羽根を風に乗せたような軽やかなジャンプ。
自身がいたところより数段上の屋上へと着地し、スピードを決して緩めずに再び駆け始める。今度はさっきよりも高い場所の建物。ジャンプじゃ屋上には届かない。でもスワローは跳び、向かいの建物の石壁の僅かな亀裂や縁、雨戸に手指を掛け足をかけ、ひょいひょいと登っていく。
そうなることが自然かのようななんてことない足取りでどんどんと登っていく。小道を挟む建物と建物を繋ぐ細い柱。脚の半分くらいしか乗りそうにない場所を全速力で疾駆し跳躍。スワローがいたところよりも上の横向きの柱に手をかけ軸とし、くるりと全身を持ち上げ柱に着地。霧の大陸で森に幾年も居を構えるカク猿のように、スワローは道と障害を駆け、跳び、登り、越えていっていた。
「……」
スワローと呼ぶ言葉が喉まででかかったけど、ついにスワローの姿が見えなくなるまで出なかった。
直前まで鼻腔をくすぐっていたスワローの匂いがどんどん薄まっていって、スワローを感じられなくなってしまった。
尾を伸ばすのをやめ、いつもどおりの体勢に戻る。だけどぼくはいつまでも動けずにいた。地面から這い登る悪寒が、尾に広がって動けなかった。
「ぼく、何しに来たんだっけ」
買い物だ。つぶやきに心の中で即答する。
「何のために?」
スワローをつなぎ止めるために。
つなぎ止める。スワローを。
どこへ行かせないために?
「それは」
頭上を仰ぐ。白を描く蒼い空。雲の流れがとても早い澄み渡った大空。
ぼくに、本当にスワローをつなぎ止められる? そんなことができると思う?
あんなに。あんなに真剣に前へ進んでいるスワローを?
悪寒は胸にまでやってきた。
「どうしたらいいの。ぼくはどうしたら」
ずっと不安だった。
スワローが目の前からいなくなってしまいそうな予感がしてならなかった。
最初は本当に最初。スワローを初めて見た時だった。壁に張り付き天の柱を登っていく彼を見て、登ったまま降りてこなくなるんじゃないかって思えた。
そのときにぼくはスワローに惹かれた。想いを伝えたいと思った。僕の炎に浸したいと思った。でも今ならわかる。ぼくがそう思ったのは、きっと消えてしまいそうな彼をつなぎ止めたいと、どうしようもなく思ってしまったからだ。
前を。いや上を見続けているスワローが、そのまま帰ってくることなく登っていってしまいそうで。この世界からいなくなってしまいそうで。
だからぼくはきっと、必死に天の柱を登ったんだ。
「お、テーちゃんじゃないっすか。いらっしゃいっす」
ぼくは気がつけばキサラギさんのお店にいた。でもきっと望むべくしてここに来たんだと思う。だから。
「おや、スワっちがいないっすね。今日は一人っすか?」
「キサラギさん、お願いがあるんです」
「お、うちにお願い? なんでも言ってくださいっすよ、うちとテーちゃんの仲っすからね」
腹に一物を抱えたような笑みを浮かべるキサラギさんに、ぼくは頭を下げた。
「お願いです。ぼくが天の柱に登るための装備を用意してください」
つなぎ止められないなら。
ぼくも一緒に行く。
その道が天国に、たとえ地獄に続いていたとしても。
ぼくはスワローを離さない。
夢を見ている。
この夢はおれの記憶の始まり。
初めて目に映した光景は、二人の男女の顔だった。いまでは母さんと父さんと呼んでいる人の顔。どちらも共通しているのはとても若いということ。ただ、女性の方は頬の辺に鱗のようなものが生えていた。よく見れば角まであり、普通の人ではないように見えた。実際、人間らしい姿を持っているものの腕や脚などは決して人間のソレではなかった。でもそのときは不思議と怖くなかった。
二人は事情を説明するのでも、おれに尋ねるのでもなくまず最初に温かい食べ物を食べさせてくれた。ポトフだったと思う。スプーンの持ち方がそのときわからなかった。器に直接口をつけ仰いだせいで唇を火傷しかかった。慌てなくていい、と二人が笑顔で背中をさすってくれたりしてくれていたのを覚えている。
最初は自己紹介からだった。名前を教えてもらい、そして自分の名前を言おうとしたところで言葉が詰まった。名前。その意味の指すところ。自分。自分の名前がわからなかったのだ。それどころか自分が誰なのかすらわからなかった。そのときのおれはパニックになって毛布を被り、ベッドに沈んだらしい。ずっと毛布越しにおれの背をさすってくれていた母さんと父さんから、後々聞かされた。
記憶喪失。おれには母さんたちに拾われる以前の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。誰に産み育てられたのか、どこで暮らしていたのか。何も覚えていなかった。
父さんに勧められておれがしたことは、まず自分がどんな姿をしているか、本能的に何ができるか、ということだった。そう言われて姿見で自分の姿を見て初めて、自分の身体が七歳程度の子供だと知った。身体は健康そのものであったけど、運動能力はあまり良いとは言えなかったらしい。
しかしそんなことよりも初めて『外』に出たときの驚きたるや言葉では言い表せない。
天を舞う竜の輪舞曲。地を這い駆ける地竜の行進曲。良き隣人として彼女たちと輪を築く人々たち。あらゆる竜と人、そして人ならざる様々な種族が対等に友好を結んでいた。
こんな光景は記憶にない。夢のような世界だ。
夢のような? すぐにおかしいと気づいた。この光景を現実ではないと比較できるような記憶が、おれにはないはずなのに。母さんの姿もそうだ。ワイバーンなる存在は“いない”はずなのだ。
考えた。記憶を遡った。全ての意識を頭蓋の中、脳へと向けた。
頭を割らんばかりの激痛とともに、幾つかの映像が想起された。そこに母さんたち、魔物娘の姿はどこにもなかった。
怖くなった。
笑顔を向けてくるあの二人が。
何故? どうして笑顔を?
自分は二人の誰でもないのに。
二人はおれの誰でもないのに。
人間じゃないのに。
おれは逃げ出した。
走って、走って、走って、ただひたすら走って、脇目もふらずに駆けた。一層強まる頭痛に、おれの意識は引き戻されて、気づいたときおれは天上を仰ぎ見ることができないほどの巨大な建造物の前にいた。
その瞬間、おれの頭は自分で記憶を想起したとき以上に激しく揺れ動いた。頭蓋を全方向から錐で穴を開けられているかのような感覚。頭蓋に宛てがった錐の柄を槌で殴っているかのような激痛。耐え切れるわけもなく、おれはふらりと身体を揺らした。
背後が崖となっていたことに気づいたのは、おれの頭が足よりも低い位置に来てからだった。
夢はそこで終わった。壁に埋まる魔宝石の淡い光が朝を告げていた。
心臓が酷く鼓動していた。喘ぐように身動きを取ろうとしたがうまくできない。
呈がおれの全身にその身体を絡ませていたのだ。蛇の尾だけでなく、上半身も使って。僅かな、しかし確かな膨らみをおれの胸に押し当てて。
おれは短い切り揃えられた銀髪を指で梳く。抵抗なく通る呈の髪は触れているととても心地いい。おれがそうしても、呈はすぅすぅとたてる寝息を立てたままだった。
そのときにはもう心臓は平静を取り戻していた。蒼い水に浸ったかのように落ち着いていた。
「……」
おれの最初の記憶。三年前の出来事。夢で見たのは初めてだった。
でもどうして今更になって?
呈の安心しきった寝顔を見ながら、おれは鎌首をもたげたその疑問に、ひたすら何故と問い続けた。
答えなどなかった。
―2―
呈と出会っておおよそ一週間が経った。人見知りする嫌いがあった呈も、父さんや母さん、セルヴィスとラミィさん相手には慣れたみたいだった。
ほとんど遊びっぱなしの一週間。ドラゴニアをゆっくりと巡った。観光というよりは、ドラゴニアがどういう場所であるか、暮らすのに便利な場所はどこかを呈に教えるために回っていたという感じだ。
例えば最近開かれたばかりの小高い丘に作られたドラゴニアヒルズとか。竜泉郷の湯が自宅の風呂として味わえる竜泉窟とか。魔界農家さんのところや、良い川魚などが釣れたりする渓流など。まぁおれも知らなかったことがあったので楽しめた。
ただ、母さんに厳命されて竜の墓場には近寄らなかった。ごだごだがあったらしい。暴走やらなんやらとか。何かあったのだろうか。まぁ元より暮らすのに重要な場所でもないし、行くつもりはなかったんだけど。
「今更だけど本当にここで一緒に暮らしてくれるの? ここに腰を据えるとなると、ジパングに頻繁に帰るのは難しくなるけど」
「大丈夫。寂しくないって言ったら嘘になるけど。でもね、スワローと一緒ならジパングじゃなくても、それこそ別にドラゴニアじゃなくてもどこでも良いと思えるんだ」
おれの元にずっといてくれると、呈は改めて言ってくれた。つい笑みを滲ませてしまって、呈にそれを指摘されて顔も合わせられなくなったのは仕方のないことだ。
しかし一番許可を得ないといけないのは呈の両親だった。母さんたちに指摘されるまで完全に失念していて、すぐさま呈と一緒に彼女の両親にお願いをしに行った。
呈に両親の魔力を辿ってもらって着いた先は竜の寝床横丁にある宿屋。そこにいると思しき部屋に行くも何かしらの結界が張られているらしく、入ることも声をかけることも不可能だった。
どうやら交わりを始めたらしい。呈によると彼女の両親は自分たちの行為を他人に見せたがらないそうだ。それは人の目を気にしてとかでなく、交わっている相手の全てを独占したいからだとか何とか。魔物娘には珍しいことではないそうだけど、ここまでご丁寧に結界まで張るのは見たことないな。
とりあえず書き置きだけして今日は帰ることにした。いつから始まったか知らないけど、呈曰くああなれば最低三日、おおよそ一週間程度は交わりが終わらないらしい。呈の両親やばい。
「ぼ、ぼくは大丈夫だからね……? 無茶したりしないからね……?」
と呈は言っていたけれど、おれも正真正銘のインキュバスになったら順応できるようになるんだろうなぁ。
すぐに呈の両親が帰るということはないとわかったので、とりあえずは放置。もしも街に住居を構えるには住民登録の必要があったけど、呈の両親に話を通していないのでこれまた放置。それに現状母さんの家で暮らすのが一番なのだ。というか、母さんが呈とおれを他の場所に住まわせるなんて嫌だと散々叫んでいた。娘がなかなかできないから、呈という義娘(結婚してない)ができたのがよほど嬉しいんだと父さんが言っていた。十年弱毎日最低二回以上交わっているのに子供ができないというのもすごい話だ。
そんなこんなで一週間経った頃、おれに来客があった。呈と一緒にリビングへと向かうと、二人の女性がテーブルに向かって並んで腰かけていたのだ。
「やぁ、お邪魔しているよ」
「おお、噂は本当じゃったか」
その二人が各々声を上げる。気さくな口調で話しかけてきたのは高身長の妙齢の女性。年寄り口調の方はおれよりも背の低い幼女だった。
「ミクスさん。ファリアさんも」
闇すら呑み込みそうなほどに昏い暗黒の髪を腰まで携えた女性は、背から同様の暗夜の翼を折りたたんでいる。側頭部を這うように前方へ伸びる双角も奈落の如く光り、彼女は妖しい微笑を湛えていた。身体的特徴とは真逆の純白のワンピースドレスを身に纏っていて、そのアンバランスさがより彼女の未知さを醸している。何より、彼女の白目部分は黒く、瞳は純白すら塗りつぶさんほどに真っ白だ。呈の耳といい勝負である。
幼女の方は山羊角を生やした薄っすらと山吹色を含んだ黒髪を右側頭部で結んでいる。手は獣人の魔物娘でよく見られる体毛で覆われた獣の手。幼女でありながらビキニアーマーよりも薄い面積の形容しがたい服を着ていた。もはや最重要箇所しか隠れていない。
「……」
すすっと呈がおれの後ろに下がる。人見知りのようだから仕方ないか。
「前、竜口山で燃える雲の景色を見たときに話したろ? その二人だよ」
「……白黒サキュバスとサバトのお偉いさん?」
「白黒サキュバスもとい、白黒リリムだよ」
「サバトのお偉いさんじゃ!」
にこやかに二人が呈へと笑い掛けてくれる。幾分か呈も警戒心を解いたようで、ぎこちなくも笑った。
「て、呈です。初めまして」
「僕はミクス・プリケット。見ての通り白黒リリムだ。よろしく、呈ちゃん」
「儂はファリア。こやつのお目付け役をやっとる。見ての通りバフォメットじゃ」
立っているのも何なので椅子に腰かけて自己紹介。ミクス・プリケットさんとファリアさん。彼女たちがおれの身体の状態を調べて、おれが向こう側の世界の人間だと仮説を立ててくれた二人だ。
「なんだ、そこまで話してたんだね。折角、僕からバラして驚かせてあげようと思ってたのに」
「やめてくださいよ」
ミクスさんが不満そうに頬を膨らませると、ティーカップに注がれたドラベリーミルクをスプーンでカラカラと音を立てながら混ぜた。母さんが出かける前に用意していってくれたのものだ。
「見たところ、もうこちら側の住民と身体がほとんど変わらんの。だいぶ身体能力は上がったんじゃないのか?」
「うん、もう天の柱を登り始めているよ。まだまだ先は長いけど。それで今日はどうしてここに?」
前回会ったのは二年も前のことだ。突然何の連絡もなしに来るのは、まぁミクスさんだし珍しくはないんだろうけども、理由がわからない。
「いやいや、君みたいな梃でも動かない子に可愛い白蛇の恋人ができたんだ。そりゃあ、一目見にも来るさ。飛んでくるさ。次元を跳んでやってくるさ」
「あっちの世界に行ってたんですか」
「こっちに来た理由は別件じゃがな。おかげで儂はこの放蕩娘に振り回されっぱなしじゃよ、全く」
ミクスさんの隣でファリアさんが疲れたように鼻を鳴らす。相変わらずあちこち引っ張り回されているらしい。
「あはは。向こうで撮った写真見るかい? これこれ、かめらっていうので撮ったんだけど」
悪びれもせずに笑いながら、ミクスさんがどこからともなく、一枚の長方形の紙を取り出した。そこにはまるでミクスさんが入り込んだかのようなリアルな絵が描かれている。姉妹か友人か、白いリリムと肩を組んで楽し気にピースしていた。彼女たちのバックにはとてつもなく大きな赤い鉄の塔が建っている。
その街並みはどこかおれのちぐはぐな記憶に合致する部分があった。少なくともドラゴニアでは見られない景色である。
「本当に……本当に向こうの世界ってあるんだ……」
呈が興味津々に、テーブルに置かれた写真を食い入るように見ていた。
「向こうの世界に興味あるかい?」
「え、あ、えっと……はい」
呈はおれのことをちらりと横目で見ながら、ミクスさんの問いを肯定する。
ミクスさんはにまにまと笑みながら、ドラベリーミルクの雫がついたスプーンを口に含む。艶めかしく舐るように前後させてから、再びティーカップに戻した。
「ふふ、安心しなよ。いまはまだあちら側の世界に行く技術は確立していないんだ。ポータルもない。転移するにはリリムやバフォメットですら疲弊するくらいの膨大な魔力が必要になるんだよね。普通の魔物娘の持つ魔力じゃ行けないんだ。まだ、ね」
ミクスさんの手がすっと伸び、呈の頭を撫でた。
ごくごく自然な、そうなるのが当然と言えるほど滑らかな所作。
おれも呈も全く反応できなかった。
頭を撫でられた呈が驚きに転じる間もなく、すぐにミクスさんの手は離れていく。
呆けたような表情で呈は撫でられた自分の頭に手を当てた。
誰だって自分だけのパーソナルな領域は持っている。他人に触れられたくない、入られたくない部分というのが。呈は人見知りするタイプだ。より、それは強いだろう。
それでもミクスさんは容易に入り込み、そして風が抜けるように去っていく。入り込まれた残滓は、何故受け入れられたのかという困惑を招く。
これがミクスさん。それがミクスさん自身の力なのか、魔王の一族に連なるリリムの力故かわからないけど、容易に心のうちに入り込んでくる。
悪いヒトじゃない。だけど、手放しで受け入れられるヒトではなかった。おれ自身のことを教えてくれた良いヒトだけど。
「だから僕がスワロー君をあちら側に連れ去るとかそういうのはできないから、安心するといい」
「……はい」
「まぁ仮に行くことになっても、スワロー君が君を一緒に連れていくだろうけどね」
目配せしてくるミクスさんに気づいて、おれは肩を竦めながら頷いた。
「一人で行っても仕方ないでしょ」
「……うん!」
呈の暗かった表情もすぐに真白く染まる。足首に優しく呈の尾先が絡みついてきた。
「甘酸っぱいのぉ」
ティーカップを傾けながらおれたちを見ているファリアさんがそんなことを呟く。
母さん、ドラベリーを入れすぎたのか?
「おいおい、ババ臭いぞ、ファリア」
「誰がババ臭いじゃ! このピッチピチの身体を見てどうしてそんな言葉が吐ける!?」
身体つきはピッチピチを過ぎるどころか届いていないと思うんだけど、それは言わないでおこう。呈よりも起伏がないとかそんなことを言ったら呈に――。
「痛ッ!?」
足首に絡まっていた呈の尾の締め付けが急に強くなった。ああ、ニコニコしているけど笑ってない呈がいる。バレていた。
「その、ミクスさんはどうして向こうの世界へ行っているんですか?」
「端的に言うと興味からかな。魔物娘どころか魔法、魔力の概念すらない向こうの世界は純粋に僕の知的好奇心を揺さぶってくるんだ。それに、こちら側との行き来が容易になれば、夫を手に入れられていない魔物娘たちの一筋の光明になりえるかもしれないからね」
ミクスさんの説明に呈は感心したように目と口を目いっぱい開いていた。
「……なんだか、すごいですね」
「そうかい?」
「ぼくなんかじゃ絶対にできません……誰にも知らない場所に行くって考えただけで不安になっちゃいますから」
視線をテーブルに落とす呈。口元は薄っすらと笑っているようだったけど、それはどこか自嘲めいているように見えたのは気のせいだろうか。
「……」
口元にそのしなやかな指を当てるミクスさんの表情が一瞬だけ神妙そうになる。
しかし、指を口元から話した途端、その表情は飄々とした笑みへと戻った。尾先が逆ハート型の黒い尾を指でなぞりながら、ミクスさんは口を開く。
「不安になりそうになったときは、こう考えるといい。『いま自分は誰といるか』ってね」
「誰と?」
「そう。君はもう本当の意味で一人じゃないんだからさ。両親ですら入り込めない領域へと受け入れたヒトがいま君の隣にはいる。そうだろう?」
「……」
おれは呈へと視線を寄越す。
首元で綺麗に切り揃えられた銀髪のボブカット。それに同化するように伸びた、呈のトレードマークとも言うべき白い耳。雪肌を淡く彩る薄紅色の唇が、すぼみながらぷるぷると震えた。呈の目は恥ずかしがるように細められておれとどこか虚空の場所を行き来する。
そう恥ずかしがられると、意識されるとおれも恥ずかしくなってしまう。
「なんじゃか家に帰りたくなったわ」
「ホームシックかい?」
「夫シックじゃ。儂もイチャコラしたいわい」
「まだ相手がいない僕には君しかいないんだから隣からいなくならないでくれよ? 夜になるまで待ってくれ」
「存外寂しがり屋じゃもんな。全く、世話がかかるわい」
それからも色々と世間話に花を咲かせ、向こう側の文化――アニメやら漫画や、音楽、同人なんとかという日本の文化について聞かされた。なんでも向こうの世界は想像力が豊からしく、魔物娘ではないが魔物娘のような姿をした女性を描く人がいるらしい。元となる魔物娘がいないのに、似たような存在を想像で生み出せるって不思議な話だ。
「そうじゃそうじゃ。ここへ来る前にデオノーラのところに寄ったんじゃがの。面白い……いやお主にとっては面白くない話を聞いたぞ」
突然、思いついたようにファリアさんがぽんっと掌を拳で叩いた。ぽんっというよりもモフっていう音がしたけど。
「面白くない話?」
聞き返すと、ファリアさんが「うむ」と大仰に頷いた。
「それはだな」
「なんでも天の柱の改修工事が二週間後に始まるんだって」
「ああ! 儂が言おうと思ったのに!」
「速い者勝ちだよ、ファリア。君には圧倒的に足りないものがある、それは情ね――」
「――儂の方が速いわぁ!!」
ベシンッ! と乾いた音が響いたが俺の耳には届いていなかった。
「呈、今日は……いや二週間くらいか。悪いんだけど付き合えそうにない」
ミクスさんたちを見送り部屋へ戻ったあと、俺は呈にこう話を切り出した。
直後、呈の表情がこの世の終わりのように強張る。
「え……えええ? ぼ、ぼく、悪いことした!? スワローの迷惑になるようなことした!? あ、改めるから! ぼく、スワローの良いお嫁さんになれるよう頑張るから! ぼ、ぼくを捨てないで!」
しゅるりっと呈の尾がおれの身体に巻きついてくる。つるつるな蛇腹のひんやりとした感触が肌をきゅっと締め付けてきた。心地良いんだけども。
「ち、違う! 全然違うから! どうなったらそういう勘違いするんだ!? 違うから泣きそうな顔にならないでくれよ」
発想が飛躍しすぎだ。呈をおれが捨てる? 教団兵にドラゴニアが落とされる以上にありえない。
「じゃ、じゃあどうして? 二週間ずっと……二週間? もしかしてさっきの大規模修繕のこと?」
呈の頭と一緒に、彼女の真横まで登りつめた尾先が小首を傾げた。
「そうだよ。大規模修繕、その日程がわかったからさ」
四年に一度、ドラゴニアの建築業を一手に担う竜工師たちが総出で取り掛かる、天の柱の大規模修繕。酷く崩れてしまった階段、剥がれた外壁、もろくなった足場など。ワイバーンたちや冒険者の移動、式事や風化などで老朽化した場所を綺麗に直すための大掛かりな修繕作業である。その間は基本的に登ることができない。住処にしているワイバーンたちならともかくおれのような一般人は無理だ。修繕している竜工師たちの邪魔になってしまう。
そして高さと修繕面積も相まって、修繕を終えるのにかなりの時間を要するらしい。終了予定は基本的に未定。損壊状況を鑑みて割り出されるが、ファリアさん曰くその情報はまだ入ってきていないそうだった。
とにかく二週間以内に登りきらないと、当分の間天の柱にチャレンジできなくなるというわけだ。そして挑む前にこの一週間で鈍った身体を慣らす必要がある。早朝訓練は欠かしていないけどやはりそれだけでは厳しいのだ。
「なるほどね。もー、先にそう言ってよー」
「呈ってたまに話聞かないときあるよな」
悪い風に考える傾向があるというか。思い込みが激しいというか。
「むー、ちゅー」
「ごまかすためのちゅーはやめなされ」
「むー、してくれないの?」
おれの胸元にすっぽりと納まって、ご丁寧に尻尾で自分ごと包んで上目遣いで見上げてくる呈。
「するよ」
当然。拒否できるわけないじゃないか。
おれは呈の唇に自分のものを重ねた。チュッチュッと空気が弾けるが響いて、おれはさらに呈の唇を貪るように喰む。呈も応えるように唇のクレバスから舌を這い出させ、おれの唇を舐ってきた。
「はぁ、はぁ、あむ、ちゅっ、ちゅるっ」
「んあ、む、すわ、ろー、ちゅっ、しゅきぃ」
互いの吐息すら逃さないキスをおれたちは楽しんだ。
一週間、おれたちはまだ交わることのできる身体になれずにいたけど、こうして幾度となくキスを繰り返した。未だこうしてキスをするのは恥ずかしいし、人前特に母さん達の前では絶対にできないけど、呈とこうすることに躊躇いは出てこない。
「ぷはぁ……えへへ、お口べとべとだね」
蒸気した呈の顔、それがまた愛おしくて。
「ん……」
「やぁ、唇の唾液舐めな、あははっ、くすぐったいよぉ、もー。お返しにぼくも舐めるよ、蛇の舌は長いんだからねー」
ぬるま湯に浸かっているかのように、こうしている間は心地よかった。どんどん呈に沈んでいって、溺れてしまいそうだ。いや、もしかしたらもう溺れているのかもしれない。窒息しないだけで。吐く息、吸う息、飲む水も食べ物も全て、呈を通しておれの身体に行き渡っているのかもしれなかった。
そう思ってしまうくらい、呈と一緒にいるのが心地いい。
だが。
だからこそ、おれは。
「じゃあ行ってくる」
「うん……」
本番を意識した服に着替え、荷物も背負い、おれは部屋を出る。久しぶりのフル装備はいつもより重く感じられた。
呈は着いてきたそうにうずうずとしているように見えたけど、おれは誘わない。着いてきてもらっても暇にさせてしまうだけだし、訓練を見られるというのも恥ずかしいし。
「気をつけてね」
「うん。暗くなる頃には帰るよ」
ドア一枚がおれと呈を挟んで隔てた。
さぁ、行くか。
「今日は呈ちゃんと一緒じゃないんだな」
「着いてきてもらっても暇なだけでしょ」
眼前にはそびえ立つが如く傾斜に立つ石造りの建物群。風が坂を駆け上っていき、急き立てるように背に吹き付けている。
おれたちがいるのは西に少し行けば竜翼通りがある街の最下層。そのうちの一つの建物の屋根の上。ドラゴニアの建物はドラゴンたちの着陸地点にも使われることが多いので、とても頑丈に作られている。もはや屋根というよりは屋上だ。家によっては洗濯物を干したりもしている。
一度荷物を下ろし、全身の身体をほぐしながら異常がないかを探っていく。うん、今日も良好だ。むしろ今までで一番のベストコンディションかもしれない。
「やれやれ。ようやく彼女ができたからマシになったかと思えば、まだまだだな」
「なんか言った?」
「まだまだ子供だってことだ」
実際子供だし。
おれの後ろにいるのは騎士服のセルヴィスとラミィさん、二人の友人であるらしいワイバーンの女性。付き添い兼監視役兼責任者として来てもらった。
今日の訓練は天の柱内部の移動を想定した実践形式の訓練だ。
「ね〜、セルー。スワローくん何するの?」
「ん? 前も何度かやったろ。ここ登んだよ」
そう。登る。眼前にそびえ立つ建物群の屋上をただひたすら駆け、飛び、登っていく。
全身の肉体運動を駆使して屋上を走り、石壁を超え、空中を跳び、壁をよじ登る。それだけ。ゴールはドラゴニア城付近までだ。
監視役というのはその過程で住民たちに被害が及ばないよう見張るためのもの。ワイバーンさんには移動中上空で随行してもらい、緊急時に対応してもらう。市街地だからこその措置だ。本当はダンジョンでやるのが一番なのだけど、身体が慣れてないから最初はもっとも難易度の低いここで。とはいえ、住民たちは大半が魔物娘か彼らの夫である人、それに冒険者という曲者ばかりなので、万が一衝突したりしても怪我しそうなのはこっちだけど。
「ジャンプして?」
「ホップステップもするな」
しない。ラミィさん、期待の眼差しでおれを見ないでくれ。
「スワロー、こういうのなんて言うんだっけか。パル、バル? なんだっけ?」
「パルクール」
「そうそれ」
準備運動は万端。本番を意識してリュックを背負い、上着の上から装着しているハーネスに接続し固定。片側が鋭く尖り、もう片側が斧のようになったナイフピッケルはハーネスの魔界銀製の留め具カラビナに繋げていつでも使えるよう腰に引っ掛けている。今日は使わないけれど、緊急時のロープの切断や壁に突き立てるのに使えるので必須装備だ。
ハーネスとは別に腰には二つの円筒状の巻き取り機。四方に伸びた鉤爪が円筒状の筒から覗いている。おおよそ五十Mほどの長さのロープが入っているのでかなりの重量だ。それでも頑丈軽量のアラクネ印なので軽い方だが。リュックには予備のロープや鉤爪、飲食料が入っている。
全身を揺らす。その場で軽くジャンプ、繰り返しジャンプ。高さを調整して最後に地面を蹴って後方宙返り。重心が荷物のせいで下へ落ちそうになるのを、遠心力の勢いと背筋で耐える。視界が一瞬反転し、着地。よし全身の装備にブレはない。
「おお〜、スワローくんすごい〜」
「よくもまぁ、そんな大荷物でバク宙しようと思うな」
「身体小さい分身軽なのだけが取り柄だし。セルヴィスなら遭難者抱えたままでもできるでしょ」
「遭難者抱えてやるわけないだろが。ラミィ抱えてならやるけど」
「わーやってやって〜、きゃ〜」
ラミィさんをお姫様抱っこしたかと思うと、本当にくるりと後方宙返りをなんてこともないという風に決めてしまった。鎧も着ている癖に。本物インキュバスは身体能力が馬鹿げてる。
こっち見るな。そのドヤ顔やめろ。
「で、バル、パルクール。そんな装備でできるのか?」
「大丈夫、問題ない。それに本番は常にこの状態で登攀、ジャンプ、回避、逃走をこなさないといけないし」
いまからやるのは基礎中の基礎だ。これができないと話にならない。
「無茶すんなぁ。一人で天の柱登ろうだなんてな」
「大瀑布水泳したときよりは全然」
「まだ根に持ってんのかよ……」
本当に死ぬかと思ったからな。
「呈ちゃんは連れてかないのか?」
不意打ちのような問いだった。一瞬、喉が痙攣したようにひくついた。
「……危ないのに連れて行くわけないだろ。じゃあ行ってくる。よろしくお願いします」
やっとのことひり出した言葉はそれだけ。ワイバーンさんに開始前の挨拶をし、おれは位置につく。ワイバーンさんの掛け声とともに、おれは駆けた。
「……なに焦ってんだか」
背後でそんな声が聞こえたような気がした。
ごつごつとした岩天井が煌々と輝く魔宝石の灯火を淡く乱反射させている。
耳鳴りがしそうなほどの無音。寂しさが這い寄り、尾に巻きついているのではと錯覚さえした。
スワローと出会って初めて、スワローが明確にいない時間だった。ぼくは一人ぼっちだ。
ごろごろ。スワローのベッドに俯せになったり仰向けになったりする。ぼくがここに泊まることになったから、リムさんがベッドを二周りほど大きくしてくれた。内装の四割ほどをベッドが占めている。とぐろを巻かないとそれでもぼくの尻尾はベッドからはみ出ちゃうけど。
ふわふわ羽毛の枕に顔を埋めてみた。匂いがする。スワローの匂い。身体の芯に甘い痺れを起こさせる匂い。でも同時に、寂しさが胸の辺をチクチクと刺激してくる。
その寂しさを紛らわせるため、仰向きになってスワローからプレゼントしてもらった右手首のブレスレットを見上げた。白と緑と青の紐に通った飴玉サイズのドラゴンオーブをそっと指でなぞった。するといまその瞬間にスワローからプレゼントしてもらったかのように、不思議と心が温かくなる。でもそのスワローは目の前にはいない。
改めてドラゴニアに来てからスワロー尽くしだったんだなと思っちゃう。スワローがいないと何もすることが思い浮かばない。一緒だと何をしてても、いましているみたいにごろごろしていても楽しいと思えるのに。
いまぼくは何もしていない。スワローはきっといま汗水を流している。前に進んでいる。自分を磨いている。
「……」
ぼくは尾をしならせ、遠心力を利用し上半身を起き上がらせた。外着用の服を着込んでいき、お財布も懐に忍ばせ、出かける準備をする。
ぼくは何をしているんだ。ここで怠惰を貪っているなんて、ぼくが目指す大和撫子になんてなれるわけがない。スワローが自分を磨くように、ぼくも。
意を決したぼくは部屋を飛び出した。
吹き上げる風に髪が乱れるのを手で押さえる。秋の終わりごろのジパングのような冷たい風。地面から尾に冷たさが這い登ってくるようだった。スワローと一緒だとこんなこと感じなかったのにな。
そういえばスワローはどこで特訓しているんだろう。ジパングに負けないくらい、ここは緑自然豊かだし、それに山も入り組んでいて険しい。竜口山で見せてくれたような山登りをどこかでしているのかな。さすがに街ではしないよね。
山壁と手がくっついているかのようにひょいひょいと登っていくスワローの姿を思い出しながら、ぼくはドラゴニア城へと続く竜翼通りのある街へと、整備された山道を歩いて向かった。両脇の林たちがやや傾き始めた陽の光を遮ってしまって、着込んでいてもちょっと肌寒い。木の群れから抜けると街が見えた。空を滑空する竜さんたちの姿もある。
さぁお買い物だ、お買い物。スワローのおかげであまり使う機会のなかったぼくのお金を大放出。ドラゴニアに来るまでにお母さんのお手伝いをしてもらったお小遣いを使うときが来たのだ。
ふふふ。ぼくのお母さんはお父さんを捕まえたとき、まず美味しいご飯でその胃袋を捕まえて警戒心を解きほぐしたらしい。スワローがぼくのことを警戒しているとか、そんなことはきっとない。けど、疲れて帰ってくるスワローには美味しいご飯が一番のはず。それをぼくが振る舞うのだ。
疲れて帰ってくる愛しい人に愛情のたっぷりこもった料理を振舞う。うん、すっごく大和撫子っぽい! かなり大和撫子だよこれ!
お母さんの料理には遠く及ばないけど、何度も料理の仕方は教えてもらったし、お父さんに振舞ったことだってあるんだ。そのときは美味しいって言ってくれたしきっと大丈夫。ぼくの料理でスワローの胃袋をがっちり掴んで、つなぎ止めるんだ。
そうと決まれば食材探し。スワローの食べ慣れたドラゴニア料理はもちろん、ぼくの故郷のジパング料理も食べてもらおう。これだけ広い街だ。龍さんだっている。ジパングで使うような食材だってきっとあるはず。
お味噌はあるかな? お味噌汁は鉄板だし。あとは出汁巻き卵。昆布とか鰹節が置いてあるといいんだけど。ああ、でもいまからだとお夕飯に間に合わないかな。うーん。
結構歩いた。もうすぐ竜翼通りに出るはず。あそこなら生鮮食品も扱っている場所があるはずだ。そこにもなかったら誰か人に尋ねてみよう。すごく緊張するけどスワローのためだったらなんだってできる。
入り組んだ狭い小道にすすすと尾を這わせ、音もなく歩いていく。当然この小道にも人はいた。ぼくの故郷みたいに男の人とドラゴンの魔物娘の女性が仲睦まじく歩いたりしている。血眼になって何かを探している風な女性もいたけど。
ああ、羨ましいな。ぼくもスワローとああして歩きたいな。腕を絡めて、肩を寄せて、尾先を腰に巻きつけて一緒に散歩したいな。
でも、我慢我慢。そうするためにいまこうしてぼくは買い出しに来ているんだ。スワローをつなぎ止めるために。
「……ぁ」
細い道に降り注いで弾ける風に乗って届いた匂い。それが鼻腔をくすぐった。
その匂いがスワローのものだと気づくのに時間は必要なかった。でもどうしてここで、という疑問はあった。ぼくは尾を伸ばして身長をあげ、建物の壁沿いにその上を覗く。吹きつける風に一瞬視界を奪われながら、左右にきょろきょろ、前後にきょろきょろして匂いの元を辿った。
「あ」
いた。
まるで竜のように空を駆けるスワローの姿が、そこにはあった。
建物の屋上を蹴るように走り、道がなくなる寸前でぐっと地面を踏み抜き、跳ぶ。
荷物を背負っているなんて感じさせない、羽根を風に乗せたような軽やかなジャンプ。
自身がいたところより数段上の屋上へと着地し、スピードを決して緩めずに再び駆け始める。今度はさっきよりも高い場所の建物。ジャンプじゃ屋上には届かない。でもスワローは跳び、向かいの建物の石壁の僅かな亀裂や縁、雨戸に手指を掛け足をかけ、ひょいひょいと登っていく。
そうなることが自然かのようななんてことない足取りでどんどんと登っていく。小道を挟む建物と建物を繋ぐ細い柱。脚の半分くらいしか乗りそうにない場所を全速力で疾駆し跳躍。スワローがいたところよりも上の横向きの柱に手をかけ軸とし、くるりと全身を持ち上げ柱に着地。霧の大陸で森に幾年も居を構えるカク猿のように、スワローは道と障害を駆け、跳び、登り、越えていっていた。
「……」
スワローと呼ぶ言葉が喉まででかかったけど、ついにスワローの姿が見えなくなるまで出なかった。
直前まで鼻腔をくすぐっていたスワローの匂いがどんどん薄まっていって、スワローを感じられなくなってしまった。
尾を伸ばすのをやめ、いつもどおりの体勢に戻る。だけどぼくはいつまでも動けずにいた。地面から這い登る悪寒が、尾に広がって動けなかった。
「ぼく、何しに来たんだっけ」
買い物だ。つぶやきに心の中で即答する。
「何のために?」
スワローをつなぎ止めるために。
つなぎ止める。スワローを。
どこへ行かせないために?
「それは」
頭上を仰ぐ。白を描く蒼い空。雲の流れがとても早い澄み渡った大空。
ぼくに、本当にスワローをつなぎ止められる? そんなことができると思う?
あんなに。あんなに真剣に前へ進んでいるスワローを?
悪寒は胸にまでやってきた。
「どうしたらいいの。ぼくはどうしたら」
ずっと不安だった。
スワローが目の前からいなくなってしまいそうな予感がしてならなかった。
最初は本当に最初。スワローを初めて見た時だった。壁に張り付き天の柱を登っていく彼を見て、登ったまま降りてこなくなるんじゃないかって思えた。
そのときにぼくはスワローに惹かれた。想いを伝えたいと思った。僕の炎に浸したいと思った。でも今ならわかる。ぼくがそう思ったのは、きっと消えてしまいそうな彼をつなぎ止めたいと、どうしようもなく思ってしまったからだ。
前を。いや上を見続けているスワローが、そのまま帰ってくることなく登っていってしまいそうで。この世界からいなくなってしまいそうで。
だからぼくはきっと、必死に天の柱を登ったんだ。
「お、テーちゃんじゃないっすか。いらっしゃいっす」
ぼくは気がつけばキサラギさんのお店にいた。でもきっと望むべくしてここに来たんだと思う。だから。
「おや、スワっちがいないっすね。今日は一人っすか?」
「キサラギさん、お願いがあるんです」
「お、うちにお願い? なんでも言ってくださいっすよ、うちとテーちゃんの仲っすからね」
腹に一物を抱えたような笑みを浮かべるキサラギさんに、ぼくは頭を下げた。
「お願いです。ぼくが天の柱に登るための装備を用意してください」
つなぎ止められないなら。
ぼくも一緒に行く。
その道が天国に、たとえ地獄に続いていたとしても。
ぼくはスワローを離さない。
17/08/21 08:11更新 / ヤンデレラ
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