連載小説
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所有の罪
 ロズとミックはそれぞれが担当する死刑囚を連れて地下牢を歩いている。
 ミックが連れ歩くは、スキンヘッドのぎょろ目中年男。
 ロズが連れ歩くは、どう見ても殺人者とは思えぬ風貌の女。
 性別も身なりも全くといって良いほど異なる二人の犯罪者であるが、人を殺めているという点においては確固たる証拠のある共通点がある。
 その足取りの重さは足枷の鉄球が地下牢の石畳をごりごりと擦り、乾いた低音からでも十分わかるほどだ。

「オラッ!入れ、今日からココがテメーの部屋だ。ま、死ぬまでの期限付きだけどよ」

 ミックは真鍮の鍵を取り外し鉄格子を開けると、中年の死刑囚"グリドリー"を足で押し付けながら牢の中へと蹴り入れた。グリドリーの背中には泥のついた足跡がくっきりとつけられている。
 はたから見ると酷くぞんざいな扱いだと思われるかもしれない。しかし、彼は執行人で相手は死刑囚なのだ。立場的に執行人が優位であるというのは明らかであり、いかに執行人が傲慢な態度を取ろうとも死刑囚はただそれを耐えるしかないのである。

「勘違いすんなよ。俺が死刑執行するまでの間お前の命は補償しといてやる。けどそれまでに間に俺が何しようとそりゃテメーの知ったこっちゃねぇ。それがここのルールだ」

「フヒ、ヒヒ、ウヒヒ」

「返事はあり、言葉は認識できず……っと。あんまり面倒なこと起こしてくれるなよ?かったるい後始末は困るんでね」

 鍵を施錠して収容の完了である。
 メモ帳のようなものに死刑囚の特徴を記入しながら、独り言のように喋り倒すミック。もしかするとグリドリーに話しかけているのかもしれないのだが、当の本人は視点も合わない上の空だ。よだれをたらしながらやや白く濁った斜視をぐるんぐるんと動き回すその姿ははっきり行って健常とは程遠いものである。
 17人もの女性を殺害した者が健常と言い振舞うこと自体に御幣がありそうだが、少なくともグリドリーという男は普通ではないということは最低限理解できそうだ。

「オ、おお、オンナ……女くれ!オンナオンナぁ!ここころしてきもち!」
「うっせーんだよこのダボハゼがッ!」
「あうあうオンナ……おんなくれ……ぐげげげ」

 収容された直後、突然グリドリーが鉄格子を両手で掴み癇癪を起こし始めた。手錠と鉄格子がぶつかり合い甲高い金属音ががしゃんがしゃんと鳴り響くものだから、あまりのうるささに腹を立てたミックはそれよりも大きな怒鳴り声で黙らせる。反射的にミック自身も鉄格子を一発蹴りいれてしまって一際大きな騒音が両者を劈く。
 音に驚いたのかすぐさま静かになるところを見ると、意外と聞き分けはいいようである。

「うあああかゆいカユイ痛いイタタた」
「…………ひでーなこりゃ」

 メモ帳に2、3個新たなコメントを記入するとミックは看守室へと戻っていった。






 一方、その頃ロズは。
 
「……入れ。ここがお前の独房だ」

 静と動で表すならば、ミックが動であるならばロズが静だろうか。大柄な体格からは想像も出来ぬほど静かで落ち着きのあるロズ、そしてその後ろに佇むカティア死刑囚。袋を外し露になったその姿はやはり美しいものがあり、容姿端麗を取ってつけたような立ち姿で、二人の姿を例えるならば巨木と小枝のようだ。
 二の腕付近まで伸びたすらりと伸びる蒼いロングヘア。その髪は彼女の凛とした目つきと相まってとても冷たく感じられる。
 奥の方から聞こえる騒音を小耳に挟みながら解錠作業をしていると、ロズの背後から語りかける彼女の声が聞こえた。

「ここが私の独房なのか」
「ああ、そうだ」
「暗くて、狭いな……とても」
「地下牢なんだから当たり前だろう。ほら、開いたぞ入れ」

 鉄格子が開くと、カティアは独りでに足を踏み出し自らの力で独房へと入っていった。
 カビ臭くて、じめじめして、薄暗くて、ノミシラミが沸くベッドがあって、すぐ近くに濁流流れる下水があって……人間が住むにはこれとないほど最悪の環境である。これほど美しい女性がこれほど汚らしい環境に佇むという光景が絶妙にミスマッチであり、何か別の新しいジャンルが生まれそうな、そんな気さえしてくるほどだ。
 彼女の全身が独房に入ったのを確認すると、ロズは早々に鉄格子を閉め施錠する。ガチャリ、ガチャリという音が二回ほど鳴るのを確認すると、彼は看守室に戻ることなく鉄格子に寄りかかり、カティアを背にとるかたちになった。

「気分はどうだ」
「…………」
「お前の世話から死刑執行までの間担当になったロズだ。短い間だがよろしく頼む」
「…………」
「……聞いているのか」
「あ、あぁすまない」

 今にも消え入りそうな、か細い声。それが彼女の第一印象だった。
 この薄暗い地下牢の重圧に今すぐにでも押しつぶされてしまいそうな、力弱い気配を感じさせる。
 しかしそれとは逆にどこかに心の奥底に力強い芯をもっているような、そんな声だった。
 ただ死ぬのを待つだけ。
 これがいかに恐ろしく、果てしなく長い時間に感じられることだろうか。そのような境遇にあわされている彼女の心境は恐れ怯えていてもいいというのに、そういった雰囲気は見たところ感じられそうもない。

「随分と胆力があるようだなカティア死刑囚」

 ロズが振り返りながらそう言うと、独房の中のカティアはベッドに腰掛けている最中であった。
 ギシ……と腐った木材が軋み木屑がパラパラと床に落ちている。
 カティアは木屑をベッドの下に蹴飛ばしあたかもなかったことのようにすると、ロズの方に目をやった。ロズの巨躯に臆することなく正面から目と目を合わせる。

「……俺の姿を見て身動ぎしない死刑囚はお前が始めてだ。しかもそれが女ときたものだ」
「それは誇りに思って良いものなのだろうか」
「お前に任せる。……さて、と」

 ごほん、とロズは一つ咳払い。
 そうしておもむろに懐を漁りはじめると、死刑囚の詳細が記された書類が姿を現した。
 何の変哲もない紙切れ数枚に死刑囚の詳細が事細かに記載されており、正直なところロズ本人はあまり読みたくはないと思っているのだろう。ページをめくる彼の露骨に嫌そうなしかめっ面がそうだと肯定している。
 やがて目当てのページを見つけたのか、ロズはもう一度咳払いをするとカティアに話しかけるように記されている部分を読み始めた。
 
「"カティア死刑囚(女27歳) ガルメント卿殺害の罪及び無断住居侵入、金品強奪等の罪により極刑とす"これに記載されていることに間違いはないな?」
「ああ……正真正銘私だ」
「馬鹿な真似をしたな。大臣を殺せば大罪になるのは当たり前だろうに」
「馬鹿、か…………ふふ、そうだな。本当に私は大馬鹿者なのかもな」
「……ふむ」

 そう言うカティアの横顔はどこか愁いのような、儚げあるもののように感じ取れた。今まで数多くの罪人の絶望に染まる顔を見てきたロズだからこそ感じ取れる些細な表情の変化なのかもしれない。
 目の開き具合、口角の上がり下がり、眉の方向、声のトーン。
 目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、カティアの表情は実にわかりやすいものであった。
 しかし、ロズはそれ以上詮索することはせず、続けざまに口を開く。


「これから簡単な説明をする。一度しか言わん、よく聞け」

「その一、当地下牢において執行人の命令は絶対である。
 その二、執行人が死刑囚にどのような行為を行なおうともそれは国で認められた制度であり合法である。
 その三、死刑囚は死刑執行までの間生命の維持は保障される。しかし、何らかの原因により絶命した場合においては全て獄中の病死という扱いにする。
 以上、何か質問は」
「なるほど、実に端的でわかりやすい。要するに死刑囚には人権すら与えられないということか」
「……理解が早くて助かる」

 あらかたの説明を終えるとロズは書類を再び閉じ懐にしまいこんだ。
 この地下牢における死刑囚の立場とはもはやヒトと呼ばれるものではない。執行人が絶対であり死刑囚はただ執行人の言いなりになることしかできないのだ。それはもはや奴隷、家畜というものに限りなく近いのだろう。
 唯一異なるのは、死刑執行までの間は命が保障されているという点くらいなものである。
 と言っても、それは表面だけ取り繕った確信のない保証であるのだが。

「私がどう拒否しようともお前が命令すれば私はそれに従うしかない。そうだろう?」
「そういうことだ」
「頑なに拒否した場合はどうなる」
「…………想像に任せる。ただ、そうだな――」

 
 ロズは親指を横に立て、クイッっと斜め向かい奥の方向を指した。
 何があるのか、と気になったカティアは腐ったベッドから立ち上がるとロズのいる鉄格子まで歩み寄り指差す方向に支店を移す。
 その視線の先に見えたのは先ほどまで騒音を鳴らしまくっていたグリドリー死刑囚の独房だ。時間が経ち癇癪が収まったのか、独房の隅でガリガリと爪を嚙みながら縮こまっているグリドリーの醜い姿が目に映る。こちらの視線には気が付いていないようだ。

「お前と今日一緒に収容されたグリドリー死刑囚の担当にミックってやつがいる。俺の同僚なんだが……」
「あの細身の男か。その男が何か?」
「あいつは死刑囚をかわいがるのが大好きな変態というヤツだ」
「……かわいがる、というのは一体……」
「言ったはずだ、"執行人が死刑囚にどのような行為を行なっても合法"だと。死刑囚が男だったら暴行するし、女だったら犯す、ただそれだけだ。アイツはそういうやつだ」
「ッ……!」

 そう聞くや否やカティアはすかさずロズの元から後ずさりし、一定の間隔をあける。独房内で、なおかつ鍵を持っているロズに対して距離を保つという行為は全くの無意味な他ならないのだが、彼女は反射的に嫌悪感を感じ取り後ろへ飛び退いたのだ。
 
「……安心しろ。生憎俺はそんな趣味はない」
「信じろ、という方が無理がある」
「それもそうか」

 錆びついた鉄球がゴリゴリと鳴りカティアは後ずさりをし続けると、やがて背中が石畳の壁に突き当たった。これ以上後ろに下がることはできないのにもかかわらず尚も後ずさりをする彼女。よほどロズの言ったことが衝撃的だったのであろうか。
 それにロズ自身、そういうものには興味ないと言っているがそれを信じていい確証など何一つない。
 もしかしたら嘘かもしれない、私を安心させ油断させたところで襲いに来るのかもしれない。その疑心が彼女の凛とした顔をより一層険しいものにしていた。

「信じる信じないはお前の好きにしてくれ。ただ、一つ言えることがあるとすればお前は相当運が良い」
「運が良い?」
「もしお前の担当が俺ではなくミックだとしたら……今頃お前は全身青アザだらけの肉便器と化していただろう」
「ぅぐ……」

 彼女は心底冗談だと思いたかった。
 思いたかったのだが……ロズの声色一つ変わらぬ淡白な声はそれが冗談ではなく本当の忠告であると思い知り、今一度心の奥底で静かに震えた。
 そうして再び実感することになる。今自分がいる場所は人権すら認められぬ最低の場所、地下牢獄であるということを。
 自分はただ死を待つだけの罪人であるということを。

「それと、一つお前に聞きたいことがあるのだが」
「な、なんだ……?」
「いや、いい……今は休め。尋問やら裁判やらで疲れが溜まっているだろう。明日にでも聞くとする」
「しかし……今話さなければ私はロズの命令を受け付けなかったことになって……」

 カティアがそうたじろいでいると、ロズは鉄格子から離れ看守室へと足を進め始めた。
 彼の歩き去る後姿を見て、カティアは安堵半分、疑心半分の心持を残しながら独り、独房でうずくまる。去り際に彼が言い残した言葉に若干の安堵を上乗せして。

「俺が明日で良いと言ったからには明日だ。今は休め、命令だ」







 ロズが看守室の扉を開けると、やはりいつものように灰色の煙が彼の全身を取り囲む。
 先に看守室に戻っていたミックは先日と同じように足をテーブルの上に乗せだらしない格好で煙草をふかしていた。今日は地面が乾いていたおかげか靴底に付着していた土も少なく、テーブルの上にもそれほど多くの土が落ちていない。ロズはそれを見てほんの少しだけ胸を撫で下ろした。

「いよう、随分時間かかったじゃねーか。何かトラブったか?」
「……いや、ただ少し話をしていただけだ」
「ほーんお前が死刑囚と会話をねぇ。珍しいじゃん」
「俺が死刑囚と会話しちゃ悪いか」

 ミックが不思議がるのも無理もない話であった。
 というのも、ロズは元々死刑囚との係わり合いは必要最低限に留めるタイプの人間であったからだ。いわばミックとは真逆のものである。
 ロズが死刑囚に対して行なうことといえば、食事の配給と毎日の点呼、後は死刑執行くらいなものである。互いに深く干渉せず、ただ死刑囚を殺すまでは安否し、最後は機械的に断頭するのみである。
 それ故に数年共に仕事をしてきてロズのことは人一倍観察してきたミックにとって、今日ロズがとった何気ない行動は非常に非日常的であったのだ。

「いーや悪かねぇよ。むしろ俺みたいにもっと死刑囚と肌と肌を合わせ拳を語り合うくらい密接な関係になった方が良いぜ?」
「お前のそれは強姦に暴行だろうが。俺にはそんな性癖はない」
「ハイハイそうだったな。けどよーそんなにカタブツだと色々疲れるんじゃねーの?たまにはリラックスも必要だがなぁ」
「強姦に暴行でお前はリラックスするのか……」
「そりゃーさいっこうに快感よ?そうだ!これから仕事終わりに風俗でも行かね?」

 また始まったか。ロズは率直にそう思った。
 陽気なテンションで軽々しく語るミックの口ぶりからして嫌な予感はしていたのだが、やはりこういうものはどうにも的中してしまうものである。
 ミックの悪い癖はその不良性にもあるのだが、それよりも群を抜いて悪いと思えるもののなかに"自らの趣味趣向は他人も同じように好きであり強要しようとする"ことにある。
 彼の好きなものは成人男性なら誰しもが虜になってしまう性交そのものである。そう思うだけならばごくごく正常であるのだが、それをこの世に生ける全ての男性がそうであると思っていることが厄介なのである。

「……今日の夜の見張り当番はお前だろう」
「ちょっとくらいいーじゃんよ!カティア死刑囚見てたらムラムラしてきてよぉ!」
「ハァ……そういうことだろうと思った」

 ロズの頭痛の種が一つ増えた瞬間だった。
 ミックがこう言い出すのは月一回程度の発作のようなものだ。あるときは男死刑囚を半殺しに殴り倒した日に。またあるときは女死刑囚を死刑執行したその後の余韻に浸りたくて。その他にもなんやかんやと理由付けをして夜遊びをしたくなる発作だ。
 ロズ自身、女に興味が無いと言う訳ではない。彼もまた立派な成人男性であり、当然性交の経験もあるし好きか嫌いかで言えば好きというだろう。
 しかしそれは世間一般的なものであって、ミックのような色狂いな変態野郎と同じベクトルで考えてはいけないのだ。

「……好きにしろ。俺は行かんぞ」
「えーまじかよーお前つまらねぇ人生おくってんなー」
「……どうも俺は金で女を買うってことに抵抗がある」

 体格も性格も正反対なこの男二人。凹凸が激しく、よく数年間この薄暗い地下牢で二人だけという環境の中で仕事が続けていられたか非常に不思議に思えるだろう。二人の言動を見聞きしていると一見そういう印象に捉えることができる。
 だが、実際のところ彼らの仕事はプロレベルであり、特にトラブルもなく穏便に過ごせている。それは彼ら二人が正反対の凹凸だからこそかみ合う部分があり、息の合った連携で成り立っているのだ。
 故に少なからず信頼している部分もあるし、多少のマイナスイメージには目を瞑ることにしている。





「そういえばだが……」

 帰る支度をしていたロズはふと思い出したかのように口を開いた。

「グリドリー死刑囚はどんなヤツだった」
「ん、あ、あぁー……アレね」
「歯切れが悪いな」

 若干の皮肉を込めてそう言ったものだから、どのような返答がくるか予想していたロズにとって口ごもるミックの返答は予想外のものであった。
 普段ならば自らの担当となった死刑囚のことを聞いてもいないのに意気揚々と語り始めるのだが今回は何か違うようである。

「ありゃダメだ、ラリ中のイカレポンチ野郎だった」
「ほう……」
「ああ最悪だ、あんなのいたぶっても何にも面白くもねぇや。ってか多分ヤクのキメすぎで痛みとか感じねぇよアイツ」

 46歳中年男。
 見た目は痩せ細り、目は斜視、頭はスキンヘッド。
 まともな言葉を発せずうめき声のようなものを鳴らしているだけ。
 ひたすらに女を求めている変態。
 17人もの人を殺している。しかもすべて女性。
 これだけの情報を聞かされれば100人聞いても100人が異常なヤツだと想像することだろう。
 当然ロズ、そしてミックもどのような死刑囚が来ようとも人並みには接してやると思ってはいたのだが、どうやらミック曰くその予想の範疇を超えていたらしい。口からは泡を吐き、薬物投与により意識すらも朦朧としている状態であったのだ。そのような人物にまともな会話など成立するはずもない。

「まさかあんなにひでぇヤツがくるとは思わなかったぜ……」
「一度決めた担当は替えられない制度になっているからな。仕方がないだろう」
「いーよなーロズは。あんなカワイコちゃんの担当で。もし俺がカティア死刑囚の担当だったら今頃精液まみれだぜふへへ。他人の担当の死刑囚には手出しできないって制度もどうかしてほしいぜ」
「………………」
「おいおいそんな怖い顔すんなよ」

 心のどこかに不快感を感じながらも、それがなぜなのかがわからない苛立ちが表情に出てしまったようだ。
 普段ならばミックの軽い下ネタには暴言で返答してあげるのだが、なぜかそれをする気にすらなれずただひたすらに不快であった。
 まるで自分が大切にしている絵画に落書きをされてしまうかのような、例えるならばそういった感覚である。

「……後は任せた」

 そう言いロズは看守室を後にした。





―――――





 ロズが地下牢から地上へと出ると、タイミングよく刻変わりの鐘が鳴り響いていた。丘の上のやたらと豪勢な教会の鐘が夕暮れを告げている。
 いつもならば朱色に染まる夕日が帰路を彩ってくれるのだが、今日は残念なことに鈍色の曇り空であり、夕日が顔を出すことはなかった。それどころか、曇り空は時間を追うごとに暗雲へと近づいていき今にも雨が降り出しそうな空模様へと変化しつつある。
 遠くから聞こえる雷鳴と風に乗ってかすかににおう雨の匂いがより一層雨の気配を明確なものとし、それを察したロズも無意識に足早となる。

「まいったな……家に着くまでに降らないでくれよ」

 そう独りでに呟き強まる向かい風に負けじと帰路への足を進める。肩幅が広くさらに大柄な体格のロズにとって向かい風は人一倍抵抗が大きく余計な力を入れなければならないものだ。
 道行く人々も、皆一様に足早になっており、きたる雨の焦燥感を煽られる。
 仕事帰りの男性。手には土産のようなものをぶら下げている。
 買い物帰りの主婦と子。恐らくリザードマンと思しき女性とその娘。
 はたまた逆に街の郊外へと戻るカップル。恐らくラブホテルで雨宿りでもするのだろう。
 嬉々として街中へ飛び出すぬれおなごのような者もいる。
 例外はあれど雨に当たりたくないという気持ちはロズだけではないようだ。

 ――ポッ……
 ――――ポツッ、ポツッ――
 
 しかしロズの祈りや虚しくついに雨が降り始めてしまう。
 始めは数滴程度が時間を空けて不規則に顔に当たる程度であったのが、やがて肉眼でも確認することができるほどに降り始める。
 ぽつ、ぽつ、と降り始めていたのが数分後にはざあざあとけたたましく降り注ぐようになり早足で歩いていたロズも思わず舌打ちをしてしまうものだ。

 ――ザザーッッ、ザザー―ッ―
 ゴゴゴゴゴ……

「このまま走って帰るか……それともどこかで雨宿りするか……」

 職場である地下牢からロズの家へは歩いて40分程度の距離にある。そして今ロズがいる場所は職場と家間でいうところの若干職場寄りの位置であった。地下牢から出てまだそこまで時間が経過していないのだから無理もないことである。
 今の場所から走って帰れば10分程度で家にたどり着けるだろうが、歩けばまだ30分はかかるであろう。
 横目を逸らすと仕事帰りの男性は雨宿りをしており、リザードマンの主婦と娘は娘が母におんぶされ母の強靭な脚力をもってして全力で家に帰っていた。ぬれおなごは雨に打たれながら気持ちよさそうに鼻歌を歌っている。
 その光景を見たロズは考えた。
 疲れるが雨に濡れながら走って帰るか、ずぶ濡れになりながら足早に歩いて帰るか。
 そうして悩んだ末に出した結果は――

「…………ふう」

 ロズはたまたま目の前にあった小さな商店目がけて走り、その店の入り口付近で足を止めた。
 木造建築であり強風でも吹けば今にも崩れてしまいそうなくらいのボロ小屋、そこで雨宿りすることにしたのだった。特別急いで帰ってもすることなどないし、かといってずぶ濡れで帰宅するのも何か癪に障るというのがロズの考えらしい。
 明日は朝早くからすることがあったっけか、いやない。いつも通り仕事に行くだけだ。
 そう思いたまにはゆっくり雨宿りでもしてみようと思ったのである。

「む……?そういえば」

 ロズは背面にあるボロ小屋を見渡す。
 ところどころに隙間が開いており、それを補強しているような痕跡すら見えぬほど酷く痛んだ外装が見える。店内は薄暗い明かりがいくつか点灯しており営業はしているようだ。
 何を取扱っている店なのか、そもそも店主はいるのか皆目見当もつかず、一見すると近寄りがたい異質な雰囲気すら感じられる。
 しかしロズが不思議に思ったのはそういうことではなく、もっと根本的な問題であった。

「こんな店……俺は知らんぞ。一体いつの間に……」

 この街道は仕事のある日なら必ず通る道であり、ロズにとってもはや見慣れた町並みというものである。当然どこにどのような建物が建っているかというのは把握しており、ここら一帯は地図がなくとも自由に歩けるほど地形を記憶していたはずだ。
 だがしかし、この店は。このボロ小屋は一体何なのだろうか。そう思わざるを得なかった。
 この場所には空き地しかなかったはず。否、はずではない。確かに空き地であったのだ。早朝、ロズが職場へ向かうときには間違いなく空き地であった。記憶違いというわけではない。
 もし朝の段階でこのボロ小屋が建てられているとしたならば、朝の時点で気が付いていたからだ。
 いつも見慣れた場所に見慣れない謎の建物が建てられているという奇怪さにロズは不穏を隠すことができない。

「ぬけ……"ぬけがら屋"と読むのか。やはりそんな店は知らん」

 入り口の上部に木彫りでそう綴られていた。
 そのような店の名前など聞いたこともなく、やはりこの店はロズの記憶には存在しない。
 その廃墟のような佇まいは近寄りがたい雰囲気を発しながらも、どこか好奇心をくすぐられるような不思議な威圧感を放ち無言で立ち尽くしている。
 窓ガラスから店内を覗き込むと、薄暗い明かりに照らされて見えるのは多種多様の雑貨のような小物だ。窓ガラス越しからではよく確認することができないが色とりどりの宝石のようなものがあったり、見たこともないような道具がいたるところに点在している。

 ギィィィ――

 するとどうしたことか、店内の様子を観察していると入り口のドアが独りでに開き始めた。
 無言を貫きぽっかりと口を開ける入り口。
 ロズはそれを見ていると探究心や好奇心といったものの他に、何か見えざる力が働き吸い寄せられるように店の中へと足を進めてしまった。







「見たところ雑貨屋のようだが……」

 店内に入り、入り口をの扉を閉めるとロズはとりあえずふらふらと歩きながら物色することにした。
 ふと足を止めると、外から見えた宝石のような物が目に留まる。深紅や蒼、碧に桃といった極彩色の宝石たちが眼前一杯に広がる。薄暗い店内が夜空だとすると、その宝石たちは夜空に輝く星々のように爛々と発光し幻想的な風景が目の前に広がっている。
 宝石などの装飾品にはこれといって興味関心のないロズでさえも、思わずこの光景には固唾を呑む。

「見た目は凄いに尽きるが値段も凄いな」

 一際驚いたのはその値段だ。
 ゼロが一つや二つ多いどころの話ではない。下手すればロズが一生働いて稼いだ金額よりも多いのではなかろうかとも思えるほど超多額な金額がそこには書かれていた。それも宝石全て一括りの値段ではなく、宝石一つ一つの単品がそれぞれその値段なのである。この宝石にどのような価値が込められているのかは皆目見当もつかないロズ。
 宝石の美しさで息を飲んだが、そのありえない価格設定に思わず失笑がこぼれてしまうほどだ。

「何だこれは、ただの短剣のようにも見えるが……」

 さらに店内を物色すると、目に留まるもの見つかった。
 それは何の変哲もないただの小さな短剣である。
 先ほどのような煌びやかな宝石群と比べ、あまりに貧相あまりに質素。特筆した装飾など飾られておらず、ただ少し灰色の刀身が物珍しいと思う程度のごくごくありふれた普通の短剣であった。

「これはこれで、なかナカキレイダ……」

 しかしどういうことか、その短剣を見ているとなぜかどうしようもなく握ってみたいと感じてしまう奇妙な魔力を感じさせるものがあり、一度視界に入れれば決して視線を逸らさずにはいられなくなってくる。
 よくよく見ると短剣はカタカタと振るえ、柄の部分をこちらに向かせ、さも握ってくれと言わんばかりに誘っているようにようだ。
 側にはラベルのようなものが張られており、【予約済み:Disaster level MAX】と書かれている。

「ヲイ、俺は一体何をしてイル?ナニヲ……」

 よくわからないがとにかくとてつもなく握ってみたい。そう思うようになっていた。
 自らが意図していないのにもかかわらず、自身の腕は無意識に動き始め、短剣を握ろうと少しずつ前へ前へと繰り出されてる。
 徐々に視界が暗くなってくるとロズは言いようのない恐怖に襲われることになる。
 視界が暗くなる。
 視界が狭くなる。
 周囲の空間が暗黒に包まれ、見えるのは自分の手と卓上に上げられた短剣のみ。不気味に震える短剣はカタカタ、ぐじゅりと音を立てると独りでに宙に浮かび上がり動き始める。

「ヤメろ……ヤメ……ヲ……」

 ぐじゅ、ぐじゅ、と動くその先にあるのはロズの手の平。短剣は無理やりにでも自分を握らせようと動きまわり灰色の液体をその切先から垂れ流している。そこまでくるともはやロズには短剣以外のものなど見えなくなっており、自分の姿さえ視認することはできなくなっていた。
 手の平と短剣の距離50cm……


 40cm……
 
 20cm……
 
 10cm……
 
 そして5cm……あと僅か……

 1cm……

 手と柄が触れるその時――



「やめなさい」



 突如として背後から謎の声が聞こえると、眩い光が輝き始めロズの視界を暗黒から解き放つ。
 その瞬間、短剣は弾き飛ばされ元にあった卓上へと戻ると再び動くことはなかった。すかさず背後の者は手に持った紫色の布で短剣を包むと、人目につかない場所へとしまいこむ。
 ロズの額には脂汗が流れ、全力疾走でもしたかのように息を荒げている。寒くもないのに鳥肌を立たせ全身が震えている。
 何が起きたのだろう。状況がさっぱり理解できないロズ。

「ハァッ……!!はぁ……一体どうしたって……いうん……」

 ひとまずは心を落ち着かせて息を整えると額の汗を拭き取る。
 俺は一体何をしようとしていたのだろうかと思い出そうとするとあの短剣の姿がチラついて頭痛がするのみであった。店の中を物色していたところまでははっきりと覚えている。宝石を見て美しいと思ったと同時にあまりの高額な値段に失笑した、そこまではいい。
 そうして物色を続けあの短剣を見つけたところだろうか、そこからの記憶が煩雑しており鮮明に思い出すことができなくなっていた。

「お客様……予約済みのものを触られるのはコチラとしても困ります故……」

 店内に入り周囲を見渡しても人の姿や気配などは微塵にも感じられなかったのに、今ここにロズの隣には謎の少女が存在していた。
 一体いつから?どこから?
 率直にその疑問を抱いたロズはそのまま自分の思ったことを少女に質問する。
 ――質問した。
 質問したはずだったのだが、ロズの口からはそれとは全く関係のないことが発せられていた。

「もう一度あの短剣を見せてはくれないだろうか」

 その言葉に一番驚いたのはロズ自身であった。
 頭の中では"アンタは誰だ、というかココはどこだ"という言葉を発していたつもりであったのだが、自分の肉声から発せられた言葉はそのような要素など全く含まれていなかったのである。それどころか、先ほどの得体の知れぬ謎の短剣をもう一度見たいという要求を出している始末だ。
 頭の中で考えていることと、体が行動しようとしていることがあべこべになっている。その事態にロズは尋常でない不安を感じ取った。
 一方で少女の方はというと、ロズの口から発せられた言葉を聞いて何を思ったのか何も思わなかったのかは見当もつかないが一切の変化がなかった。

「少々眩しくなりますがご了承くださいませお客様」

 そう呟いたのだろうか。
 少女は懐からひしゃげ捻れ曲がった木の棒を取り出すと、その切先をロズの眼前に突き出し一言そう添えた。その棒は少しでも乱暴に扱おうものならいとも容易く折れてしまいそうなほど酷くぼろぼろである。
 木の棒、ともすれば杖のようにも見える切先はほのかに熱を帯び、光の玉のようなものが出現しているのが確認できた。やがて光の玉は徐々に大きさを増すと、その発光も更に眩いものになりロズの眼前で光り輝いている。
 そして一際大きく点滅し店内全体が光に包まれんばかりの明るさに包まれると、ロズの意識はそこで完全に途絶えてしまった――




―――――





「んん……むぅ……」

 背後に柔らかな感触を覚えつつ目を覚ます。
 薄ぼんやりとした視界はやがて鮮明なものへと変わり、眼前の光景をはっきりとしたものにする。
 ソファのようなものに横になっていたらしく、その柔らかな触り心地は対象を更なる深い眠りへと誘っているようだ。その誘惑を振り払いロズは上半身を起き上がらせると、見慣れない光景を舐めるように見渡し、確認する。
 薄暗い照明、珍妙な品々、異様な静けさ。
 どうやらまだロズは店内にいるようである。

「オヤ、御目覚めになられましたかお客様」
「あんたは……」

 ソファの後ろから声がするので振り向いてみると、先ほどの少女が見えた。
 魔法のようなもので複数の雑貨を浮かせると大きいものは奥へ、小さいものは前へと並び替えている。商品の陳列を正しているようだ。

「アンタはなんだ……ここは店、なのか」

 しばしの間少女の作業を見続け、ひと段落着いたのだろう。そのタイミングを見計らってロズは少女に投げかけた。
 肩についたほこりを手で払い除けながらこちらに近づいてくる少女。黒衣のローブを身に纏いその身には怪しげな装飾品が数多く飾られている。フードを深く深く被っているのでその表情はうかがい知ることはできないが、フードからはみ出る長い艶やかな髪と透明感のある声が彼女は女性であると物語っていた。

「申し送れましたお客様。わたしは――――と申しまして当店の店主をやらせてもらっています。しがない骨董商ですが……ええ……」

 言語が異なるのか名前の部分だけうまく聞き取れなかったが特別気になるものでもなかったので深く言及はしないことにした。
 はっきりしたのはここが骨董店ということであり、少女はこの店の店主だということだ。

「俺は確か雨宿りで店に入って店内を見回っていただけなんだが……どうしてソファに寝ていたんだ」
「貴方は…………………………………………そうですね、この即効性の睡眠香を嗅いでしまって卒倒してしまったのです。ええ、ハイ」

 そう言って少女は奥のほうにある小瓶と香炉を指差してそう語る。
 そういうわりにはやたらと間があったような気がするが店に入ってからの記憶が無いので恐らくそういうことなのだろう、と無理やり納得することにしたロズであった。
 店に入って、色々物色して、やたらと高い宝石の値段に驚いて、お香の嗅いでしまって眠ってしまった。そうなのだろう。
 何かとても重要なことがあったような気がしたのだが思い出すことができないので忘れることにする。眠っている間に見ていた夢なのかもしれない、そう思い込むことにした。

「ところでこの店、ぬけがら屋だったか。一体何なんだ。朝にはなかったはずだが」
「この店は悩める人を救済しヒトという狭い殻から抜け出すことを可能にする店……いつの時代、どのような場所にもここは存在します」
「??は、はぁ……」
「過去、現在、未来、そして宏大無辺の平行世界……その全てを観測し正しき方向へと導くためにこの店は存在しております」
「むぅ、よくわからんな」
「深く考えずとも自ずとわかります……貴方もまた、その素質があるようですので……ええ」

 何か怪しい宗教のようなものにも感じられる少女の語り草。どこにでも存在する、平行世界、素質があるなどといういかにもなワードを耳にしてロズはより胡散臭さを体感するのであった。
 外を見るといつの間に雨は小降りに収まっており、今のうちにならそう濡れることなく帰れそうだ。また本降りになる前にと思いロズは一言例を言って店を後にしようとする。

「お待ちください。貴方はただ雨宿りをしにこの店を訪れたわけではありません……導かれているのです」
「導かれている?俺が、一体何に」
「貴方は、オヤ……武器防具を御探しですか。それではこちらへどうぞ……」
「いや俺はただ雨宿りに、っておい話をちゃんと聞い……」

 少女は木の棒を取り出し先端を光らせると、その明かりを頼りに店の奥へと消えていった。
 特にこの店には何の用事も無いロズはこのまま少女を気にせず帰ればよい。
 そう、帰れば良かったのだ。
 にもかかわらず彼はそれをすることはしなかった。そのまま無視をし、入り口の扉を開き自宅へと帰路に着けばいいだけ、それだけなのに彼は入り口とは逆方向の方へと明日を進めることとなる。
 何か見えざる力が働いているのかといわれれば完全に否定することは難しいのだが、それよりも上回る好奇心が自然と足を店の奥へと進ませていたのだ。
 いかにも怪しげな風貌の少女と店内。
 それが妙に気になってもっと知ってみたくなってしまったのだろう。一種の怖いもの見たさなのかもしれない。

「お客様、絶対に何かに触ってもいけません。目を弾くような物があっても、見つめたりしてはなりません。まずいと思ったらすぐに目を逸らして自分の靴を見てください……」

 奥の方から少女の忠告が聞こえてくる。
 確かに品々を見渡してみると、明らかにどうみても危険な雰囲気を漂わしているものがちらほらと目に移りこむ。商品の節々には予約済みのラベルが張られているものがあり、ロズはこんな得体の知れないものでも好んで購入するヤツはいるのか、と色々な意味で感心していた。

「さあ着きました武器庫です……身近な日用品から戦闘用まで数多く取り揃えておりますゆえ、お気に召されるものがございましたらいつでもご相談ください」

 多数ある小部屋のうちの一室にたどり着くと、今までの薄暗く陰鬱とした雰囲気は更に拍車をかけプレッシャーとしてロズに襲い掛かる。彼の巨躯をも押し退けんとする重圧は凄まじいものだ。
 武器庫、と言われているように目に映る品々は今までの細々とした装飾品や衣服などとは異なり、刃物や防具の占める割合が圧倒的に多くなっていた

「待て、俺は買うつもりは無いぞ。それにこんな大金出せるわけが無い」

 目の前にある紅蓮色をした鎧を見てみると金貨10万枚相当の金額がつけられており、思わず馬鹿げていると頭の中で叫んでしまう。
 その麓にある紫色でいかにも禍々しい壷にいたっては20万枚相当だ。

「その鎧は旧時代のドラゴンの鱗から作成された『王焔』と呼ばれる名品でございます。一説に寄ればその鎧を着こなした者には溶岩の上で昼寝ができるほどの耐炎能力と永劫の名声をもたらすとされています……ハイ」
「そちらの壷は『リタタノ=クドコ』と呼ばれる儀式用の祭具でございまして……毒気が強すぎるのでこちらで厳重に保管している代物です。そろそろ目を逸らした方が賢明ですよ」

 その他にもありとあらゆる品々が不気味なオーラを漂わせながら存在している。
 この白と黒の双剣にいたっては値段すらつけられておらず、値段をつけられないほど高額なのか、そもそも売ってはいけないほど危険なものなのかもしれない。
 ここら一体にある装備品々は明らかに人間の手によって作られたものではない。もしくは人間の手で作られたとしても想像を絶するような思念が込められているものなのだろうとロズは直感した。確定的に断言できるものではないのだが、常日頃から武器の手入れをして扱いに手馴れている者だけが悟れる一種の勘のようなものなのだろう。
 ロズはお世辞にも何かしらの武器の達人、というわけではないが手入れだけならそこらへんの下手な鍛冶師よりは達者であると自負している。そういった面から恐らく感じ取れた勘なのだろう。

「む、これは……」

 ふと。
 一際目に留まるものがあった。
 それはロズの背丈よりも大きな刃幅であり、柄の部分を合わせるとロズ二人分ほどの大きさになろうものか。
 装飾品も飾られているがそのどれもが自己主張の乏しいものでありメインである刃部分を目立たせるような気配りをしている。刃には複雑な紋章が彫られており、非常に高級感を煽る外見だ。
 しかし刃のかつての輝きは失われており、所々が黒ずんでいた。
 それは――
 
「斧……なのか……?」

 これを斧と呼ぶには、従来の斧を棒切れと呼ばなければならないほどそれは巨大だった。
 刃は刃こぼれし、黒ずみ、とてもじゃないが物を切断できそうとは思えず、むしろその大きさを活かし鈍器として扱ったほうが利口なのではないかというほどだ。
 ロズはなぜか無性にこの斧が気になり、少女に触ってもよいものなのかと確認をする。

「ホウ……それをお手に取りますか。なかなか良い趣味をしております」
「それは、どうも」
「その斧は『免罪斧(メンザイフ)』と呼ばれる業物の一つです。長らく手入れをされていないものですので切れ味はありませんが……お客様自身が手入れをなされば斧はそれ相応に応えてくれるでしょう」
「やはり斧で良いのかこれは」

 刃渡りおよそ2mはあるだろうか、ただひたすらに大きく、大きく、とてつもなく大きい。
 ロズは免罪斧と呼ばれるその斧の柄に手を伸ばし、無骨で傷だらけの手を握らせた。普通の成人男性ならば握ることですら一苦労しそうな太さであるが、骨太で体格が豊かなロズにしてみればその柄はまさにぴったりであり手の平に吸い付くようにフィットしていた。
 まるでパズルのピースが合わさるが如く、鍵と鍵穴が合わさるが如く、握り心地や太さが完全にかみ合わさっていたのだ。

「持ち上げても構わないか」
「ええ…………持ち上げられるものでしたらどうぞ。今まで幾多の人々がその斧を持ち上げようとしましたが持ち上げられることのできた者は指で数えるほどです……」

 斧が置かれている床部分を見てみると、その周囲だけが斧の重さにより歪み凹んでおり足場が斜めになっていた。これほどまでに大きな斧、言い換えれば金属の塊だ。並大抵の重さではないということは一目見ただけでも測り知ることができる。
 その刃の色調は鉄や合金などといった鈍色ではなくどちらかというと銀や白金のような清潔さが黒ずみの隙間から垣間見え、相当な上物で精錬されているものであるということを証明付けているようだ。

「こんなもの持ち上げられる人間なんているのだろうか」
「それは試してみなければわかりません……」

 いくら力自慢であるとはいえ、この規格外のサイズの金属を持ち上げられるほど人間辞めてはいない。絶対に持ち上げられるわけがないと思っていたロズは半ば冗談気味で力を込めると、柄を握ったその腕を勢いよく上へと挙げた。
 そして実感することとなる。人間辞めてしまったのかもしれないかと。

「ほら無理だ。手がすっぽ抜け……んん!?」

 勢いよく腕を上へ挙げると、物を持ち上げたという感触はなく腕のみが挙手されたかたちとなった。あまりの斧の重さに柄を握っていた手だけがすり抜けてしまったと思っていた。
 だがしかし、それでは納得がいかない点がある。
 今さっき目の前にあった『免罪斧』が姿形なく消失しているのだ。一体どこへ?
 その答えは彼のすっぽ抜けた腕の先にある。

「ふふ……やはり貴方は素質がありましたね……」
「うそ、だろう……?」

 ロズが腕の先を見ると、いとも容易く持ち上げられ勢いよく跳ね上がった斧が店の天井に突き刺さっている光景がそこにあった。
 そう、彼は手がすっぽ抜けたのではない。斧が重すぎて持ち上げられなかったというわけではない。
 むしろその逆、斧はあまりにも軽く感じられたせいで風のような速さで持ち上げられるとその巨大さゆえに天井に突き刺さってしまったのだ。
 少しの時差の後、天井から降り注ぐ木片がロズの頭に降りかかると、ロズ自身はこの斧を持ち上げてしまったという出来事を実感する。

「免罪斧は素質ある者にしか扱うことができません……貴方がそれを持ち上げることのできたということが何よりの証明となります……」

 天井に突き刺さった斧をゆっくりと抜くと再び壁に立てかけなおすロズ。ロズの手元から離れると斧はまるで今まで忘れていた自らの重さを思い出したかのように壁を軋ませた。
 メキメキと音を立てる壁と、ミシミシと唸りを上げる床。

「……確かにただの斧ではないということはわかった。だが、そもそも俺は買いに来たわけじゃない」
「お代ですか?いえいえ結構です……無料で提供してさし上げますよ。いいのですいいのです。普通の一般客であれば多額な金額を頂く算段でしたが……どうやらお客様はその斧に選ばれた資格ある者、のようですので。ええ、そうです。」
「無料だと?アンタ正気か」

 ロズがそう言うのも無理もない。
 この斧、『免罪斧』の価格は金貨3万枚だからだ。先ほどの鎧や壷ほどには及ばないが、それでも金貨3万枚は一生豪遊して暮らしていてもつり銭が返ってくる金額である。そんなものをただで貰うということにロズの良心が許すはずもなかった。

「その斧は素質ある者にしか持ち上げることのできない特別な商品にございます……これもなにかの縁、というものです」
「むぅ、しかしだな……」

 受け取りを渋るロズに少女はさらに畳み掛ける。

「私がここに店を開いたのは偶然。貴方が店を訪れたのもまた偶然。しかし、偶然と偶然が合わさると時としてそれは運命となりうるのです。そしてその運命は貴方がその斧をお受け取りになって初めて奇跡へと昇華するのです」
「ハァ……仕方ない。そこまで言われて貰わないのは男が廃るというものだ」

 まだ心から納得したわけではないのだが、こうも諭されてしまっては逆に貰わない方が良心が痛むような気がしたので渋々承諾することにしたロズ。
 金貨3万枚を得したようなものである。宝くじを買ってすらいないのに一等賞が当選してしまったと言えばわかりやすいものだろうか。

「『免罪斧』は元々装飾用に作成された一品とお聞きします……その出生には色々といわくのようなものがありまして……ええ……」
「装飾用ということは普段は飾っていればそれでいいのか」
「……いつ使おうがどのように使おうがそれは貴方が決めるものです。貴方が使おうと思ったその時その瞬間が道具の正しい使用方法なのですから。私からお教えできることは何もございません」

 結局は投げやりじゃないか、そう思うロズ。
 店構えといい、店主といい、商品といいすべてが胡散臭さ満載のこの空間から早く抜け出したい。そう思うようになっていて、その旨を少女に伝えると、少女は一度深く頷き了承してくれたようであった。

「長く拘束してしまいまして誠に申し訳ありません……ですが最後に小言ですが一言だけ添えさしていただきます。
 『免罪符』……別名『罪を免す斧』。この斧にはありとあらゆる罪を免し改心させる魔力が込められていると伝えられております。しかしながら、改心の余地が認められなければ斧自身に溜め込んだ罪を罰という形で変換されてしまうという伝承もあります。ゆめゆめ忘れることのなきよう……」
「ああ、わかった。肝に銘じておこう」
「ありがとうございます……それでは斧をお持ちください。外まで転送いたしますので……ええそうです、ハイ……」

 彼女の言葉を最後まで聞き、一応は理解したつもりである。
 終始声のトーンが一定であるので、どこからが本当でどこまでを信じていい話なのかがあまり把握できなかったのが辛いところであるが、彼女なりには言いたいことは全て言い切ったのであろう、そういうことにした。
 壁に立てかけてある斧を手に取ると、少女は再び懐から木の棒を取り出しロズから一歩引いた場所から呪文のようなものを唱え始めた。
 するとたちまちロズの身体は淡い光に包まれ、数秒後にはその空間からはいなくなっていた。

「どうぞお持ち帰りくださいませ……どのように使用するかは彼方次第です。
 それでは吉報をお待ちしておりますよ……」





―――――





 シュピン!
 という音を立ててロズの視界が晴れると、そこは先ほどまで雨宿りしていた空き地であった。
 手には大斧が握られており体には何も異変がないところを見ると、どうやら店の外まで転送されたらしい。地面を踏み締める土の感触が少々懐かしく感じられる。

「まいったな……こんな馬鹿でかい斧、家に入るだろうか」

 そう言い頭をかきながら斧を見る。
 やはり黒ずみと刃こぼれがひどく目立つが、逆に言えばそれさえ解消してしまえば以前の輝きを取り戻せるかもしれないということにもなる。
 刃こぼれは研磨をすれば多少は改善されるし、黒ずみも金属の材質によっては簡単に解消できるかもしれない、そう踏んでいたのだ。
 そうだ、聞き忘れていた。斧の材質は何でできているのを聞き忘れていた。
 材質がわからなければ、いくら武器の手入れが得意なロズであっても的確な手入れをすることができない。もしくは最悪、傷めてしまうかもしれない。それだけはあってはならないのだ。
 肝心の情報を聞き忘れたロズは、再び店主の少女に会うために"ぬけがら屋”へ戻ろうと後ろを振り向いたのだが――

「なっ……」

 ロズが振り向いたその先には、何もなかった。
 そこにあるのはいつもの風景と全く同じ、ただの空き地が延々と広がっているのみで小屋らしきものなど影形すら存在していなかったのだ。
 あの美しい宝石群も、馬鹿みたいに高額な鎧や壷も、得体の知れない店主も、その全てがまるで最初からこの世に存在していなかったかのごとくそこには何もなかった。

「俺は夢でも見ていたのか……それとも」

 仮に夢だとしたら、その手に持つ大斧は一体何なのだろうか。
 仮に夢じゃないとしたら、店は一体どこへ消えてしまったのだろうか。
 唯一つわかることがあるとすれば、確かにここには斧が存在しており、そしてあの店も存在していた。確かに存在していたのだ。
 それ以上のことはいくら考えても答えは見つかることなどなかった。


 気が付けば空はすっかり夜の黒色へと変わっていた。星空が見えないところを見ると恐らく空は雨雲で包まれているのだろう。
 顔に当たる雨を感じるとロズは大斧を担ぎながら急ぎ自宅へと走っていく。
 雨はまた少し強く降り始めていた。
15/03/08 22:54更新 / ゆず胡椒
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■作者メッセージ
本当はカティアさんともうちょっと会話を進める手はずだったのですが、骨董商とのやりとりが想像以上に長引いてしまったので字数的な問題からここらで区切ろうかと思います。

相変わらずストーリーの展開がおおなめくじレベルで遅いですがご了承くださいませ。

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