連載小説
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前編
立てつけの悪いドアは、いつも通りに短い悲鳴をあげた。
かぼそくてごくごく短いくせに、いつまでも耳孔の奥をヒリつかせる軋み声。
最終防壁の主将は、荒く細切れになった呼吸と動悸が合わせて百に届く前に、
細い金属製の髪留めだか何だかの攻勢に呆気なく降伏してしまったのだろう。
金具がカチャカチャ言う音が、先程まで意識のどこかにひっかかっていた気もする。
どちらにせよ、もうどうしようもない。
何故なら、古びた扉の向こうから、悪魔がひょっこり顔を覗かせてきたのだから。

「ふぅ、ドロボーの真似って疲れますねぇ……さて! あらためましてこんばんは、お邪魔します」

後ろ手にドアを閉める音に重なるのは、ほんの少し語尾にアクセントの効いた高く甘い声。
そのくせ、細く薄い唇を心持ち吊り上げた、いかにも淑女然とした穏やかな微笑は、
私の背丈に頭半分を加えた高さをゆうに超える位置にあるようだった。
部屋の片隅でうずくまったまま、おずおずと顔をあげた私の視界に飛び込んできたのは、
黒い修道衣もどきに長身を包み、つばの無い帽子を被った、腰まで届く白髪の女性だ。
だが、髪は白くとも、手触りのよさそうな生地を押し上げる胸元と腰回りの実り具合や、
シミやシワの気配さえうかがえないなめらかな頬は、断じて老婆のものではありえない。
さもあろう、私の目の前に佇むのは、主神と信仰の敵にして、肉欲の権化たる魔物なのだ。
尖った長い耳は、弓に長けた森の民にもありふれたものではあったが、然(さ)にあらず。
側頭部から伸びた一対の角は、額を囲むように湾曲して、黒光りする冠のような体をなし、
腰に畳まれた濡れ羽色の翼は、地味な修道衣もどきに落ち着いた華やかさを加えていた。
ロザリオとも拘束具ともつかない銀の鎖が絡むのは、矢尻のように先端が膨れた青黒い尻尾。
異形のパーツが目を惹くが、総じて小ぶりで華奢な作りのせいか、忌むべき者のおぞましさより
女性的なたおやかさを感じさせるのが当世の魔物らしいというべきか。
彼女らは例外なく若く美しい女性のような容姿を持ち、それによって犠牲者を誘惑するという。
そして――――。

この部屋に逃げ込むまでに嫌と言うほど見せつけられた浅ましい行為の数々。
修道を志す者の行いにも集う場にもふさわしくない情景を、私は必死に忘れようとした。
だが、いつの間にか目の前に来ていた修道衣もどきの長い裾がそれを許さない。
揃えられた膝が裾の下を滑り、むっちりとしたふとももの輪郭が生地の表面に浮かび上がって、
下腹の落ち込む先と、ももの谷間が交わる果てに逆三角形のくぼみが姿を現した一方で、
裾から両ももの付け根にかけて設けられた二つのスリットは、折り畳まれた長い両脚の間に
生地が呑み込まれ、白い柔肌があらわになるにつれてはしたなく拡がっていき、
花弁を模した蜘蛛の巣のようなレースが、関節に食い込んでいる様子を垣間見せてしまった。

数拍おいて、スリットから顔を覗かせるものに釘付けになってしまった私の視線に気づいたか。
悲鳴と言うにはずいぶんと陽気に弾んだ短い声がして、ももの谷間に滑り落ちていた生地が
引きずり出されて脚をくるみ込んでいたが、程よく肉の付いた中身の形は隠しようがなかった。
そして、やわらかそうな肌に食い入る秘密の断片の記憶も。

裾の向こうに息づく花弁が、目玉の中に焼き付いてしまったらしい。
沸き立つ恥ずべき衝動が、押し込めていた忌まわしい記憶を容易に蘇らせる。
下穿きを剥ぎ取った兄弟達に跨がり、あるいは彼らに後ろから覆い被さられながらも、
うねる様に身悶えして快楽を貪りあう異形の女達の痴態が頭蓋の中で像を結び、
私の罪深い部分が見苦しく膨れ上がって、ズボンの前を天幕状に持ち上げた。

「えっち」

胡座を掻いていたため、裾を押さえてはにかむ淫魔にもその醜態は見えていたのだろう。
嘲笑うような甘いささやきが耳を貫いて、私の安っぽい矜持とひ弱な信仰心を深々と抉った。
情けなくうつむいていると、火照った頬に、やわらかくしっとりとした大きな手のひらが添えられ、
そのまま私は、どこか眠たげな白いかんばせと対面させられることになった。

「しょんぼりなさらないでくださいな、健康な男の子ならみんなそんな風にするものだそうですし」

含み笑いと共に、どこか懐かしく甘い芳香が鼻孔をくすぐり、四肢の強張りと震えを奪っていく。
それに替わるかのように、私の薄い胸板の下では、勢いを増した早鐘が連打されていたが。
忌むべき魔物に触れられているというのに、抵抗も不快感も無い自分をもて余していると、
合わせられた視線の先で、垂れ気味の細い目が柔和に弧を描いた。

正直、対応に困る。 煙るような紫の瞳が、先程目にした秘密の花弁を連想させたからだ。
気まずさとペースを上げる胸の早鐘に耐えかねて視線を下ろした先には、
谷間が覗くように逆十字型のスリットが刻まれた、女性特有のふくらみが鎮座していた。
神性と母性を踏みにじりながらも、美しさと魅力は損なわれていない禁断の果実がふたつ。
逆十字からはみ出さんばかりの瑞々しい大白桃が、私の眼球に一切の挙動を禁じてしまった。

「うふふ……やっぱりえっちです。 そんなに気になりますか? 私のおっぱい」

左下にほくろのある口元が綻んで、甘ったるい毒が吐かれる。
せめてもの抵抗として固く目を閉じるも、唇に触れてきた湿りがそれを阻んだ。
闇が退いた次に見えた物は、赤みを増したシスターもどきの面映ゆそうなにやけ顔である。
透き通るように白い歯並びを覗かせて、「はじめて」を奪っていった唇が桃色の舌に清められていく。
ほんのり甘く、蕩けるように熱かったそれの味は、自らの舌でも感じ取れるものなのだろうか。
……などと、愚にもつかない妄想を催しているところに、四度目の不覚。
彼女の外見年齢に似合わぬ、悪戯っぽく口元を押さえるしぐさを、ひどく愛らしいと感じてしまった。

「ごちそうさまでした……油断大敵ですよ?」
「だ、黙りなしゃい」

罪深い魔物め、という罵声は、喉の辺りですり減って消え失せた。
口元を抑えて少女のようにクスクス笑う魔物が疎ましい……。
やがて、笑いを含んだままのソプラノが、赤熱した私の耳朶を叩く。
差し出されたのは、すんなりとした白い右手だった。

「そう邪険にしないでくださいな、はい。 ……お尻、汚れちゃいます」

首を左右に振ってから無言で後ろ手をつき、私は立ち上がった。
残念そうに眉根をよせて手を引っ込めるシスターもどきの表情が、何故か罪悪感を引っ掻く。
大きさや肌の色艶こそ違えど、手の雰囲気が母や姉と似ていたからかもしれない。

――そんなハズがあるものか、その二人と目の前の淫魔を重ねて見ていただと?

憤りが奥歯に耳障りな音を奏でさせ、私の目つきを歪ませる。
だというのに、この長身の女は、ますますあの二人のように眉根をよせるばかり。
対抗するように眉間のしわを深めて見せると、鼻先に突き出されたものがあった。
愛らしくへの字口を結んだ白皙の美貌と、ピンと立った右手の人差し指である。

「駄目ですよ? そんな怖い顔しちゃ」

まるで悪戯をしでかした幼子に言い聞かせるような口ぶりであった。
お約束のように「めっ」と凄んでくるのがなんとも……いや、この童顔と矮躯が悪いのだろう。
俗世にいた頃から、初対面の相手には四、五歳は幼く見積もられてきたのだし。
だが、この場においてもっと悪いものは、私の幼い容姿でも、未だに猛る罪深い箇所でもない。
冬場のドアノブに触れてしまった時のように、怯み萎れてしまった私の敵愾心だ。
安らぎを覚えるほどに、彼女のしぐさは、先日手紙を送ってくれた、愛する人達に酷似していた。
(ちなみに、十七歳を目前にして、私はいつの間にか叔父になっていたという内容であった。)

ふと、鼻先が突き合わんばかりの位置で、淫魔が細い垂れ目を見開いているのに気づいた。
への字口はOの字口に転職し、やがて先程の穏やかな弧に落ち着く。
つややかな桜色の唇に連動して、口元のほくろが動くのが、否応無しに目を惹いた。

「……あ、やっと笑ってくれましたね」

顔に添えられた私の左手は、確かに持ち上がった頬と口角の感触を感じ取っていた。
さもありなん、今まで心中にあった彼女に対する恐怖や忌避感も綺麗に揮発してしまい、
取って代わったのは親しみとかすかな懐かしさ、そして安らぎだろうか。

無邪気な笑顔に向きあって渋面を取り繕うも、私の内に在ったのは納得に他ならない。
姉の快活さと母のおおらかさを併せ持った存在に私が抗えるハズがないのだから。
だが、それを悟られるのは――バレていたとしても――なんとなく悔しくもあったので、
せいぜい小面憎く見えるよう、そっぽを向いて私はうそぶく。 ……頬の熱さなど、知ったことか。

「もういいです、好きにしなさい」

次の瞬間、私は逆十字に口づける破目になっていた。
もとい、何やらやわらかく弾力のあるもの同士に顔面を挟み込まれ、
後頭部をがっしりと押さえつけられ。
この修道院に入る前夜、姉の胸の中で味わったものをことごとく強めたような、
コトコトと響く小さな遠鳴りと、甘い香りのするぬくもり、おまけに息苦しさを道連れに。
一撃でこちらの肺の中の空気を絞り抜いておきながら、まったく緩む気配が無いどころか、
はしたない歓声と身悶えとともに圧力を増していく魔の抱擁に耐えかねて。
数年前に他界した母方の祖父が、眉間に縦ジワを増やしつつ
イヌを追い払うような手つきをして見せていたのを幻視しながら、堕ちて逝った。
……祖父が目尻から赤い涙を流し、妬ましそうに歯噛みしていたことは忘れたいと思う。
若い頃の祖母は、母や姉同様にホルスタウロスめいた女性だったそうだが……。




「ゴメンなさい、だいじょうぶですか?」

私が小さく左右に首を振ると、シスターもどきは申し訳なさそうに長身を竦ませた。
彼女の胸元に縁取られた、冒涜的なシンボルを両断するように走る亀裂が、
両側から挟むような二の腕の動きにあわせて影を深めたが気にしないことにする。
先程から彼女が身動(みじろ)ぎするたびに、たわわに実った双子の黒メロンが震えることや、
二人で腰掛けているベンチ代わりの古いベッドが小さく呻くことともどもだ……じゃなくて。

一瞬気が遠くなっただけで済んだとはいえ、危うく主神の御許に旅立つところであったのだ。
無類の弾力と心ざわめく甘い香りを持つ、若く美しい女性の胸元に溺れて窒息する。
ある意味理想の逝き方かもしれないが、まだ二十年も生きていないのにそれは御免こうむる。
……第一、地獄行き確定だろう、そんな死因は。

「淫獄になら今すぐ連れて行ってあげられますけど?」
「……間に合ってます」
「嘘はいけませんよ?」

眉間に浮かばせたシワが気に障ったらしく、二度目の「めっ!」が私に炸裂した。
ただし、今度はじかに指先がシワを小突くような形をとっており、痛みは無いが、場所が悪い。

「指が目に入ったらどうするんでむぐぁ」
「お姉さんがおしおきの狙いを外すと思いますか? 落ち着いてくださいな。
 ……怖がらせちゃったのなら、ゴメンなさいね」

食って掛かる暇も無く、弾力とぬくもりに溢れたものが、私にほの甘い闇を押しつけてきた。
後頭部に感じる圧力からして、ちょうど頭の上半分を抱きしめられている格好になるわけだ。
多少強引に右を向かされている上体に違和感があるが、先程のものとは違い呼吸にも動作にも支障は無い。
抵抗は容易なハズなのに、私は腰を捻られている違和感が薄くなるように、下半身も右に向かせるだけだった。
後頭部に平手が置かれ、あやしつけるように長い指だけが上下しているらしく、
肉厚な掌のやわらかさと、指の腹による軽い振動が、片意地と警戒心の残滓をほぐしていく。
満足げな含み笑いに、チャラチャラと小さな金属音が重なった。 揺れる尻尾の鎖だろうか。

安らぎと欲望が膨らんでいく裏側で、
「どうしてこのひとはこんなことをしてくれるのだろうと」の疑問もまた芽吹く。
前の二つを糧として生長し、心の防壁を崩したそれは、私の口から問いかけとして落果した。

「何故、私を選んだんですか?」

言いつつ、だらりと下ろしていた両腕を上げて、彼女の肩口や上腕に数度軽く触れる。
意図が通じたのか、抱擁が解かれて、私は対面の淫魔とまた向き合うことができた……が。
紫の垂れ目は、視線が再度絡まるとそっと閉ざされ、目元の辺りをかすかに赤く染める。
気がついたらベッドについた右手を左手で押さえ込まれて、
自分のそこにはひんやりとした弾力の肉矢尻、おまけに左腕全体を戒める鎖と肉の感触。
顔をそむけようにも、首は左頬に添えられた手のひらのせいで稼動不能であった。
耳たぶと耳孔のふちを指先でくすぐられるこそばゆさに呆然としている間に、
ひと舐めされて潤った唇が、こちらの同類めがけて照準をあわせるかのように尖り始めていた。

着弾。

「ぁ…………じ〜っくり教えてあげますから、まずは『ぎゅ〜』ってしてくださいな」

私の口内や唾液の味でも反芻しているのか、左の口角がイタズラっぽく吊り上がった。
行儀よく整列した白い歯並びの中で、糸切り歯の剣呑な尖り具合が異様に目立つ。
実に分かり易い、人ならざるものにして捕食者の証。
本来、それは恐怖の対象であり、逃げてしかるべきなのだが、
何故か彼女の笑顔の愛らしさを助長するものにしか思えなくて、もっと間近で見ていたくて。

私はためらいなく、左腕を彼女のくびれた脇腹に回して身を寄せた。
すると、

「素直な子は、お姉さん大好きです ん……」

三度めの口づけは、二度目のそれより甘く長いものであった。
16/01/23 15:54更新 / ふたばや
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