相克の教会
日が昇る。
カーテンを開いて窓を開けると、眩しい陽光が差し込み部屋の中に朝の風が舞い込んでくる。血圧が低い私は思わず目を細め布団を抱きしめた。そんな様子を見て、スプンはフワフワと柔らかい笑い声をあげた。
「今日も良い天気ね。 ほら、起きてよアンリ。 こんなに良い天気だと、なんだか良い事ありそうだと思わない?」
その無邪気な笑みに私は布団の中で瞼を擦りながら苦笑してしまう。良い天気というだけで良い事があるのなら、世の中はまさに良い事だらけだろう。
「良いじゃない、それでも。 気分良く過ごせるのならそれだけでも良い事よ?」
「はいはい」
早速お日様に感謝の祈りをささげている。今日も暖かな恵みをありがとうございます、今日も一日子供達にご加護をよろしくお願い致します。その文句はスプンの毎朝の日課だ。祈りを捧げ終えると私の布団を引きはがしにかかるので、それまでに私は起きなくてはならない。まだ体温の残る布団に別れを告げ、パジャマを脱ぎシスター服に袖を通す。
「ふふ、感心感心。 今日はキチンと起きたわね?」
「いつも寝坊しているみたいな言い方じゃない・・・ 私はそんなに寝坊していないはずだけど?」
「それもそうね」
私が苦笑を浮かべると、彼女は満面の笑みを返した。
「でも、アンリ。 気を付けてね? 怠惰は大罪の一つだもの。 人はいつだって迷いやすくて、ふとした拍子に道を踏み外してしまうのよ・・・」
「大丈夫、分かってますよ。 “だから人はいつだって信仰を忘れてはならない。信仰こそ我々人間が道を誤らないための灯なのだから”でしょ?」
「もう・・・ 貴女のそういう所、良くないと思うわ?」
「だって、暗唱できるくらいに聞いたもの」
むっと唇を尖らせて不満そうな表情を作る。その表情は非常に可愛らしく真面目な彼女の姿勢も相まって天使の様だ。あるいは本当に天使の化身かもしれない。私は天使を見たことがないけれど、もし天使がいたらきっとこんな子だろう。
僅かに私の方が背が高いので彼女は少しだけ私を見上げる視線になる。言いたいことの詰まったその視線を躱して私は台所へと逃げる。隣を通り過ぎる時に彼女のプラチナブロンドの髪からは僅かにお日様の甘い香りがした。
「もう、逃げないの!」
後ろでスプンが可愛らしい声を上げたので少しだけ苦笑してしまう。これは後でお小言を言われるかもしれないなと。
・・・
朝食の用意と言っても非常に簡素な物でパンを切り、ミルクと野菜それからスープと子供達のために僅かな肉を用意すれば終わる。私達は清貧を旨としているので肉を口にする事はできないが、成長期である子供達には野菜とスープだけでは足りないだろうというための配慮だ。
スプンとしては僅かな贅沢であっても子供の頃に知ってしまえば「贅沢に慣れてしまって、道を踏み外す原因」となると考えているらしい。私は「子供達の健やかな成長には十分な栄養が必要であり、神も子供達の健やかな成長の方が喜ぶだろう」というのが持論なので、今なお平行線である。
結局、食事に肉を供するか否かという話では一悶着あり、毎朝朝食にのみ肉を供するという形で落ち着いた。私としは子供達には足りないだろうという事で増やしてやりたいのだが、肉の管理はスプンが行っているので全く手を出すことができずにいる。
子供達はそんな食事でも嬉しそうに食べる。彼らにとってみれば食事は数少ない娯楽であるし、また身寄りのない彼らの絆を深める癒しの場でもあるのだ。
子供達の年齢は一様ではなく、理由も様々だ。けれど、相手がどんな人間であれ助けを求めるのなら助け、互いの過去には干渉せずに建設的に物事を積み上げる。それがここの住人が持つ唯一のルールだ。
「主よ、感謝のうちに食事を終ります。あなたの慈しみを忘れず、全ての人の幸せを祈りながら」
スプンの祈りに合わせて全ての子供達は感謝の祈りを捧げる。
祈りを終えると、子供達は各々の食器を持って台所へと運ぶ。後は年長の子供達が食器を洗い、年少の子供達は後片付けをする。最初は私達が行っていたのだが一人が手伝い始めると、それに習いまた一人、また一人と手伝う子供が増えてきて自然と役割分担ができた。そして、いつの間にか年長が年少に教えるという伝統ができ上がったのだ。
スプンは子供達が自主的に手伝ってくれた、と喜んでいたが子供達としては少しでもスプンと一緒に居たかったのだろう。純粋に彼女の人徳であり、僅かばかりの子供達の下心だ。
「布団を干してきますね」
「はい、お願いします」
人手が足りてそうなので声を掛ける。終わったら手伝いに行きますから、という言葉に頷き部屋を後にした。
玄関を出ると太陽が眩しくて思わず目を細める。
青空は高く、白い雲は柔らかい。良い天気だから良い事がありそう、というのは流石に言い過ぎではあると思うけれど、良い天気だと気分が良いのは本当だと思う。きっと、取り込むころには太陽の香りのするフワフワの布団になっているだろう。
大振りな枝を選んで紐を掛け、地面に立てた棒に結わえる。
布団を干すのは中々の重労働で、間違って倒すと棒を立てる所からやり直しになってしまう。布団の端が紐に引っかからないように気を遣いながら、ゆっくりと慎重に布団を持ち上げる。
「きゃあ!」
後ろから突然衝撃が襲い、思わず声をあげた。重心が高くなっていたせいで簡単につんのめってしまう。しまったと思ったときはすでに遅く、ボスンと音を立てて地面に布団もろとも倒れこんでしまう。
起き上がると目の前で男の子がケラケラと笑っていた。
「こら! ユアイ!」
どうしてそんなことするの、と注意すると彼は逃げてしまった。
彼は悪戯をしてはいつも周囲を困らせていて、子供達も時々彼に悪戯されたと私に訴えてくるほどだ。所謂、問題児なのだけれど、スプンの言うことだけはキチンと聞く。スプンは「寂しいから構ってほしくて悪戯をする、本当は悪い子ではないし、誠意を持って接すれば応えてくれる」というけれど、悪戯の頻度を見ると私の事を嫌っているのではないかと思うほどだ。
溜息が漏れる。
土の付いてしまった布団を払っていると、台所の仕事を終えたスプンがやってきた。
「また悪戯されたのですか?」
「えぇ、ユアイです」
「あとで注意しておきますね。 ・・・私は棒を立て直しますから、アンリは布団を干していてください」
「ごめんなさいね」
「ううん、気にしないで」
謝ると彼女は微笑んで首を振った。
親友でしょう? 助けるのは当たり前だもの
そんな意味を込めて。その温かな笑顔に何度救われただろう。彼女の笑顔は人を惹きつけ幸せにする。誰かのために何かをできる事を心底喜びに感じているからだ。彼女ほどの聖人ならば、教会では引く手あまただろう。
聖人はどの教会でも欲しがる。そこに行けばより豊かな生活もできるだろう。
けれど、彼女がそれをしないのは一重に誰かのために行動できなくなるからだ。教会が求めるのはマスコットとしての聖人であって、実際に誰かのために行動するかは別問題だ。だからこそ、彼女はこんなにも辺鄙なところで孤児院に奉仕をしている。
私は裏打ちのない彼女の生き方を素晴らしいと思う。
「どうしたの?」
「ううん、ただ貴女と会えたことを感謝していただけよ」
彼女は棒を立てながら首を傾げたので、私は首を振って応える。
スプンは困ったように笑い、それからフルフルと首を振った。褒められた事を誇るわけでもなく、褒められたからと言って相手の事を褒める訳でもない。それこそが、自らを戒める唯一の手段だと心得ているというように。
その謙虚な姿勢こそ、彼女を聖人たらしめるのだろう。
・・・
子供達が自ら自分の仕事を行うので、私達シスターの負担は比較的少なくて済む。お蔭で私達は教会の仕事などに専念する事ができる。子供達が外で戯れているのを窓越しに眺めながら、帳簿に視線を落とす。
正直な所、孤児院としての経営は芳しくない。
孤児院は教会の寄付によって成り立っている。もちろん、教会への寄付も教会の修繕費や消耗品の類も賄わなければならない以上、全額が孤児達に使えるわけではないのだ。教会自体からの寄付もあることにはなっているが、それは無いものと考えた方が良い。彼らにとってみれば、辺鄙な教会の孤児院に割く金があるのなら別の所に金を使った方が得だと考えるからだ。
破綻しかけの経営でもなんとかやっていけるのは、孤児院を卒業した子供達の寄付と周囲の人間の温かい支援のお蔭に他ならない。
何度も帳簿に目を通し、僅かな無駄も見逃さないように確認する。少しでも削れる場所があれば削り、それから必要な部分が削れていないかを見直す。目が疲労を感じて僅かに視界が霞んできたころ、やっと月の帳簿が完成した。
今月も無事に借金を作らないで済みそうだ。
軽く伸びをすると、コツコツと部屋のドアがノックされた。
「入っていい?」
「どうぞ」
帳簿を見られないように机の中へと戻しながら声を掛ける。入ってきた人影は二人。一人は柔らかい雰囲気を纏ったプラチナブロンドの髪が特徴的なスプンで、もう一人は短い茶色の髪が特徴的なユアイだ。
「ほら、ユアイ。 きちんと言いなさい」
「・・・分かってるよ、それくらい」
スプンに肩を掴まれていたユアイは不満そうな表情を浮かべたまま、僅かに一歩だけ歩み寄った。それから、目を背けたまま実に言いにくそうに唇を動かした。
「ねぇちゃん・・・ その・・・ さっきは、ごめん」
「仕方ないですね・・・ ちゃんと反省して下さいね?」
スプンにこってり絞られたのか、 俯いている彼の頭の上に軽く手を置いて笑いかける。彼は小さく頷いた。流石の彼もスプンの説教は応えたらしく、今日はとても素直だ。彼も暫くは大人しくしている事だろう。
「ほら、外に行ってきなさい。 皆が居ますから」
「・・・うん」
お説教をされて、反省しているのなら私からそれ以上言うことは何もない。
チラリと一瞬だけこちらを見た後、再び頷きドアの方に歩んでいく。
「ねぇちゃんもさ・・・ 毎日引きこもって書き物ばっかりしてない方が良いよ」
「?」
「だーかーら、帳簿ばっかり見てると、商売しているみたいだって言ってるの!」
「こら、ユアン!」
私が首を傾げると不機嫌そうに言い放ち、止めようとするスプンの手をすり抜けて扉を出て行ってしまった。 シスター服で走るわけにもいかず、仮に走った所でユアンには追いつけまい。スプンと私は彼の背中を見送るしかなかった。
「ごめんなさいね・・・ アンリ」
「ううん、気にしないで」
心底申し訳なさそうな表情をつくる彼女に私は首を振る。すると、彼女は「あまり思いつめないでね?」と苦笑を浮かべた。
けれど、ユアンの言うことは事実だ。
シスターが帳簿を眺めてやり繰りをしていれば、商売をしているようにも見えるだろう。清貧を旨とし、慈愛と教えを広める筈の教会の人間が商売をしていたらどうだろうか。都合の良い建前を述べて、人の好意を利用しているように見えないだろうか。
いや、事実している。
それこそ騙すことこそしていないが、スプンの居ない時には教会の事情を説明して寄付に色を付けてもらっている。汚いのは分かっていても、そうしなければ経営が立ち行かないのだ。
もしも私にスプンほどの人徳があれば、或いは・・・
「アンリ?」
「あ・・・」
声を掛けられて我に返る。考えるな、と思っている傍から考え込んでしまっていた。指先でおでこをギュッと押され軽く押して頭を持ち上げ、そのままグニグニと皺の寄った眉間をもみほぐされる。まるで子供をあやすような仕草で華奢な指が離された時には思わず違う意味で顔をしかめてしまった。
「また難しい顔してる。 一人で悩まないで。 ここは教会よ? 迷える子羊を導くのが教会の役目、それならアナタだって相談していいのよ? それに、私達は友達なんだしさ。 私もアナタの力になりたいからさ」
心の底からの優しい言葉を掛けられて、胸の奥が温かくなる。けれど、それを正直に表情に出すのは恥ずかしすぎて苦笑を浮かべる。
だけれど、その苦笑の裏には困惑が生じていた。どうして困惑したのか分からない。どうしてだろうという疑問を抱いた時点でその疑問は消えてしまった。
・・・
日の出とともに置き、日没と共に眠る。
太陽と共に暮らす、そんな穏やかな日常から少しだけ外れている。蝋燭に火を灯し、手を動かす。時折眠気に負けそうになって手元が狂い、ちくりと針で指先を突いてしまう。
「っつ・・・」
つぃ、と血がにじむ。
やはり、繕い物は昼間の内にやっておくべきだったか。指を咥えながら小さく内心一人呟く。破れた服は子供達の元気な証。けれど、子供達に破れた服を繕っている姿を見せてはいけない。
私が繕っている姿を見てしまえば、きっと子供達は遊ぶのをやめてしまう。それはとても悲しいことだから。
コツコツと不意に懺悔室のドアが叩かれる。
慌てて机の中に道具と服を押し込んで平静を装って返事をする。こんな夜分に誰が来るのだろう。子供達だろうか。いや、そんなはずはない。子供達なら間違いなくスプンか私が寝ている寝室に行くはずだ。ならば、外部の人間だろう。
教会である以上、どんな時間にでも開かれている。人に知られたくない懺悔であったり、あるいは迷っていた旅人を受け入れるためだ。懺悔室にやってきた以上、おそらくは前者だろう。
けれど、同時に招かれざる客というのも必ず存在する。
僅かに緊張を抱えながら、ただ扉を見る。
きぃ、と小さな音を立てて扉が開き静かに中に人影が入ってきた。
人影は小さい。
ぼんやりとしたシルエットから少女の物だと分かり僅かにほっとした。けれど、どうやら見慣れない少女だ。
「どうなさいました? ここは迷える子羊のための教会です。」
どこからか逃げてきた子であれば、大人に対して不信感を抱いている可能性が高い。下手に刺激して一度でも敵意を持たれてしまえば、そこから再び話合う事は困難になる。だから、極力警戒させないように手のひらを見せながら話しかける。
助けが欲しいなら、手助けしますよ と
けれど、少女は笑みを浮かべながら一歩歩み寄ってきた。
「ありがとう。 でも、助けは要らないよ?」
「それでは、懺悔ですか?」
「うん。 そうだね」
「では、奥へどうぞ。 支度をしてまいりますので、少しだけ時間を頂けますか?」
「ううん、そんなのは必要ないよ?」
なぜ? と振り返ると少女の背後から翼が広がった。広がる翼は青白い月光に照らされる。天使だったのかと思わず息を呑む。けれど、純白であるはずの翼は闇よりも尚も暗い漆黒を湛える。
その姿は神秘的というより魔的だった。
「懺悔するのは私じゃなくて、貴女だから」
漆黒の羽を持つ天使は僅かに一歩歩を詰めて囁いた。
「嫉妬しているんだろう?」
ただ言われただけ。
けれど、それが何を意味するのかを瞬時に理解してしまった。
何をどうして嫉妬しているのか
「・・・」
沈黙する。
天使は更に一歩近づいた。
「本当は贖罪をしたいんだろう? スプンに嫉妬している事、自分には届かない純粋さに憧れてしまっている事を」
首を振れば良い。そんなこと、頭では分かっていても・・・
それができなかった。
ここは教会。神前において嘘をつくことは許されない。いや、そんなことは言い訳だ。
私は教えを信じていた訳ではない。スラムで育った私が家族を養うためにはこれしかなかっただけで、多くの孤児を養うためには教会に転がり込むのが効率がよかったのだ。人を救う、そんな御託よりも日々の糧を得ることが重要だった。
だから、私は嫉妬した。本気で人を救えると信じ、奉仕する事を喜ぶことのできるスプンを。そして、その笑顔で数多の人間に救いを与えた彼女を。できるはずがないと切り捨てたことを平然とやってのけた彼女の無垢なあり方に。
それは胸の奥に仕舞い込み、目を背けていたはずの事実だ。
そうすれば、彼女の輝きで自分の醜さを認識しなくて済むから。
けれど、その事実を前にして嘘をつくことなど誰が出来ようか。
私は気付かず後ろに引いた。
それは決定的な解答だったのだと思う
「大丈夫、怖くないよ楽にしてあげよう」
まるで赤子に諭すような言葉が脳髄に染み込んで・・・
そうして、私は私を見失った
・・・
きぃと音を立てて扉が開く。誰だろうと思って半身を起こす。
子供の誰かが粗相をしたのだろうか、それともこの時間に誰かが懺悔だろうか。窓から差し込む銀色の月明かりに浮かぶシルエットを見て、見慣れた姿であると安堵の溜息をつく。
「アンリ、夜更かしもほどほどにしておきなさいね?」
小さく空気が揺れてアンリは頷いた。私は再び布団にもぐる。アンリが夜更かしをしている理由も知っているのでそれ以上の事はいう必要はない。
キシキシと小さな音を立てて歩み寄る。あろうことかアンリは私の布団にもぐりこんできた。驚いて顔を開けると、琥珀色の瞳と目があった。貴女の布団は隣よと言いかけて、その言葉を飲み込んだ。唐突に白蛇のような腕が伸びて頭を掴んで顔を引き寄せると唇を塞いだからだ。
舌が滑り込み、感覚を蕩けさせてしまうような熱が直接伝わってくる。全身の力が抜けるような感覚に思わず我を忘れてしまうと、彼女は首筋に口づけをした後に覆いかぶさった。
混濁する意識の中、月の光を背負う彼女の姿を見る。
サラリと流れる銀の髪、射抜くような琥珀の瞳、透き通るような青白い肌
同性の自分でさえ思わず魅入ってしまう妖艶さを湛えていた。
その中でも行動できたのは日頃の教えを守っていたかだろう。ほとんど反射と言っていい状態で机に手を伸ばし、聖人の加護の込められた小さなクロスを握りそれを押し当てた。迷える者達を導く聖なる十字架は、時として魔を祓うための剣となる。見えない何かに突き飛ばされたかのように彼女の体が弾かれる。机にぶつかった拍子に水差しが倒れて床を濡らした。
十字架を握りしめると流しこまれた魔力が浄化されていき、熱でぼんやりとしていた思考がゆっくりと冷静さを取り戻していく。
・・・
頭がくらくらする。
聖者の十字というものがこれほど強力だとは思わなかった。いや、聖者の加護自体は大したものではないのだろう。それよりも、毎日欠かす事なく込められた祈りの効力だ。一つ一つの効力は薄くとも、ぶれることのなく毎日捧げられた祈りが万人の祈りを受け止めるクロスに指向性を帯びさせ、万人の祈りを顕現させる十字になる。
それでも自我が残っているのは、自分が堕天使による堕落であり、魔物でありながら属性が祈りを受け止めるシスターであったためだろう。元来の属性が近ければ人間としての素質も十分に残る。ただ、それでも魔である以上は影響を免れない。
体は動かず、指先の感覚も無い。平衡感覚は引き裂かれて何かにもたれかかっていないと立つ事はできない。
思考だけが嫌にクリアだ。
視線だけを上げて、スプンを見る。
スプンは真っ直ぐにこちらを見ていた。汚れた魔物を見る目だ。その姿を見て少しだけ安心する。スプンが浄化してくれるのなら、それはとても嬉しいことだから。
私は彼女に嫉妬していた。誰かを羨む事自体は決して間違いではない。それは自らの至らなさを自覚し、自らの向上を目指す事だから。けれど、私は彼女を堕落させる事で安心しようとした。手を伸ばすわけではなく、届かぬ幻想を堕とす事で良しとしようとした。
なんて、汚い
魔物になった事よりも、ただ魔物になったという事実に甘えて唯一無二の親友である友人を壊そうとした。その事実が胸に突き刺さる。だから、私という存在を消すのがスプンでよかったと思う。
スプンという理想の形に消されるのなら
それが一番の贖罪になると思うから。
見惚れるような優雅な動きで一歩、スプンが私に近寄った。私はただ見上げることしかできない。彼女は短く祈りを捧げる。先ほど耐えられなのは偶然が重なっただけ。次はきっと耐えられない。
人間としての思考が戻ったのは、私が自分の罪を認めるために神様が与えて下さった時間なのだと思う。
ごめんなさい
私は、そんなことしか言えない。熱いものが頬を伝う。あまりにも自分の罪の重さが重すぎて膝を折ってしまいそうになるけれど、せめて私という存在が消えるまでは耐えよう。
・・・
私はクロスを捨てた。母さんがくれて、ずっとずっと守ってきたクロスだったけれど、初めて自分の身から離した。命よりも大切だったはずのそれは、今の私には重すぎた。
両腕で友人を抱きしめる。
温かい。
現実を守るためにどれほどの罪を背負ったのだろう。理想を掲げ祈りを捧げる事で現実から目を逸らしていたのはどちらだろう。罪を背負わないという罪がどれほどの大罪か、私はついぞ知ることは無かった。考える事さえしなかった。
彼女は胡乱な瞳で彼女は見上げる。その瞳には一筋の雫が伝わっていた。「どうして裁かないの?」声なき声で彼女は問う。
裁けるわけがない。万人に平等に愛を与えると嘯いて、その結果として私は友人を追い詰めた。そんな私のどこにそんな権利があるのだろうか。
ただ強く、魔物となってしまった彼女を抱きしめる。小さく震えている迷える子羊から恐怖を取り除けるように。私自身が恐怖で震えないように。
・・・
気が付けば朝になっていた。私達はいつの間にか眠っていたらしい。
窓の外を見ると、いつもより日が少しだけ高い。
どうやら寝坊してしまったようだ。スプンに怒られないように早くしないと、と思って立ち上がろうとしたところで体の節々が抗議の声を上げた。おかしな態勢で寝ていたために筋肉を動かすたびにメキメキと音を立てて泣きそうになる。
立ち上がってシスター服に袖を通そうとした所で、自分の体が魔物になっている事を思い出した。
私は言葉を失う
魔物となってしまったからには、もうこの場所には居る事はできまい。自分の居場所を失って初めて、辛かったけれどどこか幸せで楽しかったのだと気が付かされる。だからこそ悲しかった。
そんな当たり前の事に気が付かず一時の感情に流されて、取り返しのつかない事をしてしまったことが。
スプンが浄化してくれなかったのは、魔物になったとしても自分が自分であると認めてくれたからなのだろう。自らの信仰を曲げてまで私を信じてくれた。それだけが唯一の救いだ。
なら、行かないと
信じてくれたのなら、立ち去らないといけない。信じてくれたのだから、それに応えなくては。
自分の居場所から立ち去らなくてはいけないのはとても苦しいけれど、それでも大切な親友が汚い自分を最後まで信じてくれたのだって分かったから頑張れる。行くあてはないけれど、ここに居たらスプンの事を守る自信はないから。
スプンも床で眠っていたのでベッドに戻さないと起きてからきっと体中が痛くなってしまうだろう。そう思って華奢な彼女を抱きかかえると、間近で見た彼女の寝顔にどす黒い感情が湧き上がってくるのを感じた。それを無理やりに抑え込み、ベッドに寝かせる。
単純な作業だったはずなのにベッタリと額に汗をかいていた。
魔物化の浸食はどうやら本能にまで達しているようだ。
幸い清貧を旨としているため、持っていく物はほとんどない。
机の中から財布と僅かな衣類を袋に詰めるだけ、出ていくだけの準備は整った。部屋を出て行こうとした所で不意に手首を掴まれた。
「どこ行くの? 寝坊したのだから急いで手伝ってもらわないと間に合わないのよ?」
「・・・起きてたの?」
「それは床からベッドに移動されれば誰でも起きるわよ」
なんでもない事のように言って、スプンは起き上がりシスター服に袖を通した。当然のように手を取ると、そのまま私を台所に連れて行く。包丁を押し付けて、野菜を刻むように命ずると自分はスープの準備を始めた。
ザクザクと青菜を切りながら彼女の横顔を盗み見ると何か思いつめたように鍋に向かっていた。何も変わらない。ただの一言も言葉を交わさないだけ。黙々と集中して作業を進めた結果なんとか遅れた分を取り戻せた。
「私は子供達を起こしてきますから、アンリは器に装っておいてください」
「でも・・・」
「あなたの分も用意していますから、お願いしますね?」
「・・・」
台所に一人残され、私は途方にくれながら皿に盛りつけ始める。
丁度配膳を終えて食事の準備ができた時、子供達はスプンと一緒に居間に入ってきた。子供たちは私の姿に僅かに息を呑んだのが分かる。それでも、スプンが普段と変わらない振る舞いをするため、直接に問う事もできずにいるようだった。
全員が定位置に座るのを待ち、それからスプンの祈りに合わせて食べ物への感謝の祈りを捧げる。
いつもと変わらない。誰一人糾弾する者もいない。だから余計に居心地の悪さを感じる。例えるのなら私は水の中に落ちた一滴の油だ。私は決して交わることができないから、誰一人として私を糾弾する事はない。一瞬だけ目が合うと子供達は慌てて目を逸らして食事に戻る。
「感謝のうちに食事を終ります。慈しみを忘れず、全ての人の幸せを祈りながら」
食事はつつがなく、どこかぎこちなく終わる。
そして、ゆっくりとスプンが立ち上がる。彼女の席は私の隣、そっと彼女の手が私の肩に添えられる。そこで私はこれから起こる事を理解した。
「ここに居るのは教会の教えに反する魔物です」
短い言葉はナイフのように。
けれど寸分の狂いもなく私の心臓を貫いた。
泡沫の夢はこれで終わり。
あぁ、これは私への罰だ。
けれど、これで良い。
もしも私が無言で出て行ってしまったら、私はきっと未練を残す。この教会に帰りたくなってしまうだろう。その時出て行った私は、教会を襲ってしまう。スプンがここで私を魔物だと言い切ってくれたから。
そして、スプンは言葉をつづけた
「けれど、本当に教えに反するでしょうか。 私にはそうは思えません。 彼女は貴方達を襲おうと思っているようには見えません。私には彼女は自身よりも他者の事を想い、迷い苦しんでいるように見えます。そして、私は貴方達の意見を聞きたいと思っています」
子供達は呆然としていた。それもそうだ。私だけではなく、皆を守ってきていたはずのスプンさえもが一晩で変わってしまったのだから。けれど、その呆然としていたのは一瞬。彼らは口を開きかけ、それから自らの中に二つの意見があることに気が付き目を伏せた。
教えか家族か
彼らにとってはどちらも大切な事だ。彼らがこうして暮らしていけるのは教会のお蔭である。だから、教えを守らなくてはいけない。だが、それを理由に一緒に暮らしてきた人間を易々と切り捨てる事ができるわけがない。
沈黙は長く
相反する答え故に、答えは出ない
どちらを選んでも傷つく答えしかないのだから
やはり、私が答えを出そう
自らの意思を告げるべく立ち上がる
「受け入れようよ」
それよりも早く静寂を破る声がした。
視線が一斉に注がれる。私ではない。注がれたのは一人の少年だ。
「・・・ユアイ?」
思わず、少年の名を口にする。ユアイは真っ直ぐに私を見ると、やがてふてくされたように視線を逸らした。
「ねぇちゃん、いつも言ってたじゃん。何を信じるとか、どんなことをしてきたとかじゃなくて、大事なのは気持ちだって。いくら迷ても、何回つまずいてくじけても、どんなに間違っても、真っ直ぐに生きようって気持ちを忘れないで生きる事はそれだけは絶対に間違いない事なんだって」
小さな波紋は、けれど確かに広がった。子供達も小さく頷き始める。スプンが静かに背に回り、両肩に手を置いて微笑んだ。
「・・・それって」
そのなかで、私はまだ状況を飲み込めずに居た。
「だから、ねぇちゃんは魔物になっても大好きなねぇちゃんだって言ったの!」
大きな声で怒られた。
私は頬を熱い液体が通るのを感じた。
「アンリ、よかったわね。」
「・・・はい」
「自分自身の事にずっと耐えていかなければいけない事はきっと辛いと思う。もしかしたら、ここを出て行くよりも辛いかもしれない。けれど、それは貴方が一生背負わなければならない罪。でも、安心して。私もできる限り手助けしてあげるから。貴女が魔物になってしまったのは何一つ気が付いてあげられなかった私の罪でもあるから」
「・・・ありがとう」
ここには教会がある
白いシスターと黒いシスターがいる
二人は罪人で彼女等に育てられた子も同じ咎を背負う
その咎はどんなに贖罪を重ねても贖う事は叶わず
されど、自らの歩む知恵とならん
カーテンを開いて窓を開けると、眩しい陽光が差し込み部屋の中に朝の風が舞い込んでくる。血圧が低い私は思わず目を細め布団を抱きしめた。そんな様子を見て、スプンはフワフワと柔らかい笑い声をあげた。
「今日も良い天気ね。 ほら、起きてよアンリ。 こんなに良い天気だと、なんだか良い事ありそうだと思わない?」
その無邪気な笑みに私は布団の中で瞼を擦りながら苦笑してしまう。良い天気というだけで良い事があるのなら、世の中はまさに良い事だらけだろう。
「良いじゃない、それでも。 気分良く過ごせるのならそれだけでも良い事よ?」
「はいはい」
早速お日様に感謝の祈りをささげている。今日も暖かな恵みをありがとうございます、今日も一日子供達にご加護をよろしくお願い致します。その文句はスプンの毎朝の日課だ。祈りを捧げ終えると私の布団を引きはがしにかかるので、それまでに私は起きなくてはならない。まだ体温の残る布団に別れを告げ、パジャマを脱ぎシスター服に袖を通す。
「ふふ、感心感心。 今日はキチンと起きたわね?」
「いつも寝坊しているみたいな言い方じゃない・・・ 私はそんなに寝坊していないはずだけど?」
「それもそうね」
私が苦笑を浮かべると、彼女は満面の笑みを返した。
「でも、アンリ。 気を付けてね? 怠惰は大罪の一つだもの。 人はいつだって迷いやすくて、ふとした拍子に道を踏み外してしまうのよ・・・」
「大丈夫、分かってますよ。 “だから人はいつだって信仰を忘れてはならない。信仰こそ我々人間が道を誤らないための灯なのだから”でしょ?」
「もう・・・ 貴女のそういう所、良くないと思うわ?」
「だって、暗唱できるくらいに聞いたもの」
むっと唇を尖らせて不満そうな表情を作る。その表情は非常に可愛らしく真面目な彼女の姿勢も相まって天使の様だ。あるいは本当に天使の化身かもしれない。私は天使を見たことがないけれど、もし天使がいたらきっとこんな子だろう。
僅かに私の方が背が高いので彼女は少しだけ私を見上げる視線になる。言いたいことの詰まったその視線を躱して私は台所へと逃げる。隣を通り過ぎる時に彼女のプラチナブロンドの髪からは僅かにお日様の甘い香りがした。
「もう、逃げないの!」
後ろでスプンが可愛らしい声を上げたので少しだけ苦笑してしまう。これは後でお小言を言われるかもしれないなと。
・・・
朝食の用意と言っても非常に簡素な物でパンを切り、ミルクと野菜それからスープと子供達のために僅かな肉を用意すれば終わる。私達は清貧を旨としているので肉を口にする事はできないが、成長期である子供達には野菜とスープだけでは足りないだろうというための配慮だ。
スプンとしては僅かな贅沢であっても子供の頃に知ってしまえば「贅沢に慣れてしまって、道を踏み外す原因」となると考えているらしい。私は「子供達の健やかな成長には十分な栄養が必要であり、神も子供達の健やかな成長の方が喜ぶだろう」というのが持論なので、今なお平行線である。
結局、食事に肉を供するか否かという話では一悶着あり、毎朝朝食にのみ肉を供するという形で落ち着いた。私としは子供達には足りないだろうという事で増やしてやりたいのだが、肉の管理はスプンが行っているので全く手を出すことができずにいる。
子供達はそんな食事でも嬉しそうに食べる。彼らにとってみれば食事は数少ない娯楽であるし、また身寄りのない彼らの絆を深める癒しの場でもあるのだ。
子供達の年齢は一様ではなく、理由も様々だ。けれど、相手がどんな人間であれ助けを求めるのなら助け、互いの過去には干渉せずに建設的に物事を積み上げる。それがここの住人が持つ唯一のルールだ。
「主よ、感謝のうちに食事を終ります。あなたの慈しみを忘れず、全ての人の幸せを祈りながら」
スプンの祈りに合わせて全ての子供達は感謝の祈りを捧げる。
祈りを終えると、子供達は各々の食器を持って台所へと運ぶ。後は年長の子供達が食器を洗い、年少の子供達は後片付けをする。最初は私達が行っていたのだが一人が手伝い始めると、それに習いまた一人、また一人と手伝う子供が増えてきて自然と役割分担ができた。そして、いつの間にか年長が年少に教えるという伝統ができ上がったのだ。
スプンは子供達が自主的に手伝ってくれた、と喜んでいたが子供達としては少しでもスプンと一緒に居たかったのだろう。純粋に彼女の人徳であり、僅かばかりの子供達の下心だ。
「布団を干してきますね」
「はい、お願いします」
人手が足りてそうなので声を掛ける。終わったら手伝いに行きますから、という言葉に頷き部屋を後にした。
玄関を出ると太陽が眩しくて思わず目を細める。
青空は高く、白い雲は柔らかい。良い天気だから良い事がありそう、というのは流石に言い過ぎではあると思うけれど、良い天気だと気分が良いのは本当だと思う。きっと、取り込むころには太陽の香りのするフワフワの布団になっているだろう。
大振りな枝を選んで紐を掛け、地面に立てた棒に結わえる。
布団を干すのは中々の重労働で、間違って倒すと棒を立てる所からやり直しになってしまう。布団の端が紐に引っかからないように気を遣いながら、ゆっくりと慎重に布団を持ち上げる。
「きゃあ!」
後ろから突然衝撃が襲い、思わず声をあげた。重心が高くなっていたせいで簡単につんのめってしまう。しまったと思ったときはすでに遅く、ボスンと音を立てて地面に布団もろとも倒れこんでしまう。
起き上がると目の前で男の子がケラケラと笑っていた。
「こら! ユアイ!」
どうしてそんなことするの、と注意すると彼は逃げてしまった。
彼は悪戯をしてはいつも周囲を困らせていて、子供達も時々彼に悪戯されたと私に訴えてくるほどだ。所謂、問題児なのだけれど、スプンの言うことだけはキチンと聞く。スプンは「寂しいから構ってほしくて悪戯をする、本当は悪い子ではないし、誠意を持って接すれば応えてくれる」というけれど、悪戯の頻度を見ると私の事を嫌っているのではないかと思うほどだ。
溜息が漏れる。
土の付いてしまった布団を払っていると、台所の仕事を終えたスプンがやってきた。
「また悪戯されたのですか?」
「えぇ、ユアイです」
「あとで注意しておきますね。 ・・・私は棒を立て直しますから、アンリは布団を干していてください」
「ごめんなさいね」
「ううん、気にしないで」
謝ると彼女は微笑んで首を振った。
親友でしょう? 助けるのは当たり前だもの
そんな意味を込めて。その温かな笑顔に何度救われただろう。彼女の笑顔は人を惹きつけ幸せにする。誰かのために何かをできる事を心底喜びに感じているからだ。彼女ほどの聖人ならば、教会では引く手あまただろう。
聖人はどの教会でも欲しがる。そこに行けばより豊かな生活もできるだろう。
けれど、彼女がそれをしないのは一重に誰かのために行動できなくなるからだ。教会が求めるのはマスコットとしての聖人であって、実際に誰かのために行動するかは別問題だ。だからこそ、彼女はこんなにも辺鄙なところで孤児院に奉仕をしている。
私は裏打ちのない彼女の生き方を素晴らしいと思う。
「どうしたの?」
「ううん、ただ貴女と会えたことを感謝していただけよ」
彼女は棒を立てながら首を傾げたので、私は首を振って応える。
スプンは困ったように笑い、それからフルフルと首を振った。褒められた事を誇るわけでもなく、褒められたからと言って相手の事を褒める訳でもない。それこそが、自らを戒める唯一の手段だと心得ているというように。
その謙虚な姿勢こそ、彼女を聖人たらしめるのだろう。
・・・
子供達が自ら自分の仕事を行うので、私達シスターの負担は比較的少なくて済む。お蔭で私達は教会の仕事などに専念する事ができる。子供達が外で戯れているのを窓越しに眺めながら、帳簿に視線を落とす。
正直な所、孤児院としての経営は芳しくない。
孤児院は教会の寄付によって成り立っている。もちろん、教会への寄付も教会の修繕費や消耗品の類も賄わなければならない以上、全額が孤児達に使えるわけではないのだ。教会自体からの寄付もあることにはなっているが、それは無いものと考えた方が良い。彼らにとってみれば、辺鄙な教会の孤児院に割く金があるのなら別の所に金を使った方が得だと考えるからだ。
破綻しかけの経営でもなんとかやっていけるのは、孤児院を卒業した子供達の寄付と周囲の人間の温かい支援のお蔭に他ならない。
何度も帳簿に目を通し、僅かな無駄も見逃さないように確認する。少しでも削れる場所があれば削り、それから必要な部分が削れていないかを見直す。目が疲労を感じて僅かに視界が霞んできたころ、やっと月の帳簿が完成した。
今月も無事に借金を作らないで済みそうだ。
軽く伸びをすると、コツコツと部屋のドアがノックされた。
「入っていい?」
「どうぞ」
帳簿を見られないように机の中へと戻しながら声を掛ける。入ってきた人影は二人。一人は柔らかい雰囲気を纏ったプラチナブロンドの髪が特徴的なスプンで、もう一人は短い茶色の髪が特徴的なユアイだ。
「ほら、ユアイ。 きちんと言いなさい」
「・・・分かってるよ、それくらい」
スプンに肩を掴まれていたユアイは不満そうな表情を浮かべたまま、僅かに一歩だけ歩み寄った。それから、目を背けたまま実に言いにくそうに唇を動かした。
「ねぇちゃん・・・ その・・・ さっきは、ごめん」
「仕方ないですね・・・ ちゃんと反省して下さいね?」
スプンにこってり絞られたのか、 俯いている彼の頭の上に軽く手を置いて笑いかける。彼は小さく頷いた。流石の彼もスプンの説教は応えたらしく、今日はとても素直だ。彼も暫くは大人しくしている事だろう。
「ほら、外に行ってきなさい。 皆が居ますから」
「・・・うん」
お説教をされて、反省しているのなら私からそれ以上言うことは何もない。
チラリと一瞬だけこちらを見た後、再び頷きドアの方に歩んでいく。
「ねぇちゃんもさ・・・ 毎日引きこもって書き物ばっかりしてない方が良いよ」
「?」
「だーかーら、帳簿ばっかり見てると、商売しているみたいだって言ってるの!」
「こら、ユアン!」
私が首を傾げると不機嫌そうに言い放ち、止めようとするスプンの手をすり抜けて扉を出て行ってしまった。 シスター服で走るわけにもいかず、仮に走った所でユアンには追いつけまい。スプンと私は彼の背中を見送るしかなかった。
「ごめんなさいね・・・ アンリ」
「ううん、気にしないで」
心底申し訳なさそうな表情をつくる彼女に私は首を振る。すると、彼女は「あまり思いつめないでね?」と苦笑を浮かべた。
けれど、ユアンの言うことは事実だ。
シスターが帳簿を眺めてやり繰りをしていれば、商売をしているようにも見えるだろう。清貧を旨とし、慈愛と教えを広める筈の教会の人間が商売をしていたらどうだろうか。都合の良い建前を述べて、人の好意を利用しているように見えないだろうか。
いや、事実している。
それこそ騙すことこそしていないが、スプンの居ない時には教会の事情を説明して寄付に色を付けてもらっている。汚いのは分かっていても、そうしなければ経営が立ち行かないのだ。
もしも私にスプンほどの人徳があれば、或いは・・・
「アンリ?」
「あ・・・」
声を掛けられて我に返る。考えるな、と思っている傍から考え込んでしまっていた。指先でおでこをギュッと押され軽く押して頭を持ち上げ、そのままグニグニと皺の寄った眉間をもみほぐされる。まるで子供をあやすような仕草で華奢な指が離された時には思わず違う意味で顔をしかめてしまった。
「また難しい顔してる。 一人で悩まないで。 ここは教会よ? 迷える子羊を導くのが教会の役目、それならアナタだって相談していいのよ? それに、私達は友達なんだしさ。 私もアナタの力になりたいからさ」
心の底からの優しい言葉を掛けられて、胸の奥が温かくなる。けれど、それを正直に表情に出すのは恥ずかしすぎて苦笑を浮かべる。
だけれど、その苦笑の裏には困惑が生じていた。どうして困惑したのか分からない。どうしてだろうという疑問を抱いた時点でその疑問は消えてしまった。
・・・
日の出とともに置き、日没と共に眠る。
太陽と共に暮らす、そんな穏やかな日常から少しだけ外れている。蝋燭に火を灯し、手を動かす。時折眠気に負けそうになって手元が狂い、ちくりと針で指先を突いてしまう。
「っつ・・・」
つぃ、と血がにじむ。
やはり、繕い物は昼間の内にやっておくべきだったか。指を咥えながら小さく内心一人呟く。破れた服は子供達の元気な証。けれど、子供達に破れた服を繕っている姿を見せてはいけない。
私が繕っている姿を見てしまえば、きっと子供達は遊ぶのをやめてしまう。それはとても悲しいことだから。
コツコツと不意に懺悔室のドアが叩かれる。
慌てて机の中に道具と服を押し込んで平静を装って返事をする。こんな夜分に誰が来るのだろう。子供達だろうか。いや、そんなはずはない。子供達なら間違いなくスプンか私が寝ている寝室に行くはずだ。ならば、外部の人間だろう。
教会である以上、どんな時間にでも開かれている。人に知られたくない懺悔であったり、あるいは迷っていた旅人を受け入れるためだ。懺悔室にやってきた以上、おそらくは前者だろう。
けれど、同時に招かれざる客というのも必ず存在する。
僅かに緊張を抱えながら、ただ扉を見る。
きぃ、と小さな音を立てて扉が開き静かに中に人影が入ってきた。
人影は小さい。
ぼんやりとしたシルエットから少女の物だと分かり僅かにほっとした。けれど、どうやら見慣れない少女だ。
「どうなさいました? ここは迷える子羊のための教会です。」
どこからか逃げてきた子であれば、大人に対して不信感を抱いている可能性が高い。下手に刺激して一度でも敵意を持たれてしまえば、そこから再び話合う事は困難になる。だから、極力警戒させないように手のひらを見せながら話しかける。
助けが欲しいなら、手助けしますよ と
けれど、少女は笑みを浮かべながら一歩歩み寄ってきた。
「ありがとう。 でも、助けは要らないよ?」
「それでは、懺悔ですか?」
「うん。 そうだね」
「では、奥へどうぞ。 支度をしてまいりますので、少しだけ時間を頂けますか?」
「ううん、そんなのは必要ないよ?」
なぜ? と振り返ると少女の背後から翼が広がった。広がる翼は青白い月光に照らされる。天使だったのかと思わず息を呑む。けれど、純白であるはずの翼は闇よりも尚も暗い漆黒を湛える。
その姿は神秘的というより魔的だった。
「懺悔するのは私じゃなくて、貴女だから」
漆黒の羽を持つ天使は僅かに一歩歩を詰めて囁いた。
「嫉妬しているんだろう?」
ただ言われただけ。
けれど、それが何を意味するのかを瞬時に理解してしまった。
何をどうして嫉妬しているのか
「・・・」
沈黙する。
天使は更に一歩近づいた。
「本当は贖罪をしたいんだろう? スプンに嫉妬している事、自分には届かない純粋さに憧れてしまっている事を」
首を振れば良い。そんなこと、頭では分かっていても・・・
それができなかった。
ここは教会。神前において嘘をつくことは許されない。いや、そんなことは言い訳だ。
私は教えを信じていた訳ではない。スラムで育った私が家族を養うためにはこれしかなかっただけで、多くの孤児を養うためには教会に転がり込むのが効率がよかったのだ。人を救う、そんな御託よりも日々の糧を得ることが重要だった。
だから、私は嫉妬した。本気で人を救えると信じ、奉仕する事を喜ぶことのできるスプンを。そして、その笑顔で数多の人間に救いを与えた彼女を。できるはずがないと切り捨てたことを平然とやってのけた彼女の無垢なあり方に。
それは胸の奥に仕舞い込み、目を背けていたはずの事実だ。
そうすれば、彼女の輝きで自分の醜さを認識しなくて済むから。
けれど、その事実を前にして嘘をつくことなど誰が出来ようか。
私は気付かず後ろに引いた。
それは決定的な解答だったのだと思う
「大丈夫、怖くないよ楽にしてあげよう」
まるで赤子に諭すような言葉が脳髄に染み込んで・・・
そうして、私は私を見失った
・・・
きぃと音を立てて扉が開く。誰だろうと思って半身を起こす。
子供の誰かが粗相をしたのだろうか、それともこの時間に誰かが懺悔だろうか。窓から差し込む銀色の月明かりに浮かぶシルエットを見て、見慣れた姿であると安堵の溜息をつく。
「アンリ、夜更かしもほどほどにしておきなさいね?」
小さく空気が揺れてアンリは頷いた。私は再び布団にもぐる。アンリが夜更かしをしている理由も知っているのでそれ以上の事はいう必要はない。
キシキシと小さな音を立てて歩み寄る。あろうことかアンリは私の布団にもぐりこんできた。驚いて顔を開けると、琥珀色の瞳と目があった。貴女の布団は隣よと言いかけて、その言葉を飲み込んだ。唐突に白蛇のような腕が伸びて頭を掴んで顔を引き寄せると唇を塞いだからだ。
舌が滑り込み、感覚を蕩けさせてしまうような熱が直接伝わってくる。全身の力が抜けるような感覚に思わず我を忘れてしまうと、彼女は首筋に口づけをした後に覆いかぶさった。
混濁する意識の中、月の光を背負う彼女の姿を見る。
サラリと流れる銀の髪、射抜くような琥珀の瞳、透き通るような青白い肌
同性の自分でさえ思わず魅入ってしまう妖艶さを湛えていた。
その中でも行動できたのは日頃の教えを守っていたかだろう。ほとんど反射と言っていい状態で机に手を伸ばし、聖人の加護の込められた小さなクロスを握りそれを押し当てた。迷える者達を導く聖なる十字架は、時として魔を祓うための剣となる。見えない何かに突き飛ばされたかのように彼女の体が弾かれる。机にぶつかった拍子に水差しが倒れて床を濡らした。
十字架を握りしめると流しこまれた魔力が浄化されていき、熱でぼんやりとしていた思考がゆっくりと冷静さを取り戻していく。
・・・
頭がくらくらする。
聖者の十字というものがこれほど強力だとは思わなかった。いや、聖者の加護自体は大したものではないのだろう。それよりも、毎日欠かす事なく込められた祈りの効力だ。一つ一つの効力は薄くとも、ぶれることのなく毎日捧げられた祈りが万人の祈りを受け止めるクロスに指向性を帯びさせ、万人の祈りを顕現させる十字になる。
それでも自我が残っているのは、自分が堕天使による堕落であり、魔物でありながら属性が祈りを受け止めるシスターであったためだろう。元来の属性が近ければ人間としての素質も十分に残る。ただ、それでも魔である以上は影響を免れない。
体は動かず、指先の感覚も無い。平衡感覚は引き裂かれて何かにもたれかかっていないと立つ事はできない。
思考だけが嫌にクリアだ。
視線だけを上げて、スプンを見る。
スプンは真っ直ぐにこちらを見ていた。汚れた魔物を見る目だ。その姿を見て少しだけ安心する。スプンが浄化してくれるのなら、それはとても嬉しいことだから。
私は彼女に嫉妬していた。誰かを羨む事自体は決して間違いではない。それは自らの至らなさを自覚し、自らの向上を目指す事だから。けれど、私は彼女を堕落させる事で安心しようとした。手を伸ばすわけではなく、届かぬ幻想を堕とす事で良しとしようとした。
なんて、汚い
魔物になった事よりも、ただ魔物になったという事実に甘えて唯一無二の親友である友人を壊そうとした。その事実が胸に突き刺さる。だから、私という存在を消すのがスプンでよかったと思う。
スプンという理想の形に消されるのなら
それが一番の贖罪になると思うから。
見惚れるような優雅な動きで一歩、スプンが私に近寄った。私はただ見上げることしかできない。彼女は短く祈りを捧げる。先ほど耐えられなのは偶然が重なっただけ。次はきっと耐えられない。
人間としての思考が戻ったのは、私が自分の罪を認めるために神様が与えて下さった時間なのだと思う。
ごめんなさい
私は、そんなことしか言えない。熱いものが頬を伝う。あまりにも自分の罪の重さが重すぎて膝を折ってしまいそうになるけれど、せめて私という存在が消えるまでは耐えよう。
・・・
私はクロスを捨てた。母さんがくれて、ずっとずっと守ってきたクロスだったけれど、初めて自分の身から離した。命よりも大切だったはずのそれは、今の私には重すぎた。
両腕で友人を抱きしめる。
温かい。
現実を守るためにどれほどの罪を背負ったのだろう。理想を掲げ祈りを捧げる事で現実から目を逸らしていたのはどちらだろう。罪を背負わないという罪がどれほどの大罪か、私はついぞ知ることは無かった。考える事さえしなかった。
彼女は胡乱な瞳で彼女は見上げる。その瞳には一筋の雫が伝わっていた。「どうして裁かないの?」声なき声で彼女は問う。
裁けるわけがない。万人に平等に愛を与えると嘯いて、その結果として私は友人を追い詰めた。そんな私のどこにそんな権利があるのだろうか。
ただ強く、魔物となってしまった彼女を抱きしめる。小さく震えている迷える子羊から恐怖を取り除けるように。私自身が恐怖で震えないように。
・・・
気が付けば朝になっていた。私達はいつの間にか眠っていたらしい。
窓の外を見ると、いつもより日が少しだけ高い。
どうやら寝坊してしまったようだ。スプンに怒られないように早くしないと、と思って立ち上がろうとしたところで体の節々が抗議の声を上げた。おかしな態勢で寝ていたために筋肉を動かすたびにメキメキと音を立てて泣きそうになる。
立ち上がってシスター服に袖を通そうとした所で、自分の体が魔物になっている事を思い出した。
私は言葉を失う
魔物となってしまったからには、もうこの場所には居る事はできまい。自分の居場所を失って初めて、辛かったけれどどこか幸せで楽しかったのだと気が付かされる。だからこそ悲しかった。
そんな当たり前の事に気が付かず一時の感情に流されて、取り返しのつかない事をしてしまったことが。
スプンが浄化してくれなかったのは、魔物になったとしても自分が自分であると認めてくれたからなのだろう。自らの信仰を曲げてまで私を信じてくれた。それだけが唯一の救いだ。
なら、行かないと
信じてくれたのなら、立ち去らないといけない。信じてくれたのだから、それに応えなくては。
自分の居場所から立ち去らなくてはいけないのはとても苦しいけれど、それでも大切な親友が汚い自分を最後まで信じてくれたのだって分かったから頑張れる。行くあてはないけれど、ここに居たらスプンの事を守る自信はないから。
スプンも床で眠っていたのでベッドに戻さないと起きてからきっと体中が痛くなってしまうだろう。そう思って華奢な彼女を抱きかかえると、間近で見た彼女の寝顔にどす黒い感情が湧き上がってくるのを感じた。それを無理やりに抑え込み、ベッドに寝かせる。
単純な作業だったはずなのにベッタリと額に汗をかいていた。
魔物化の浸食はどうやら本能にまで達しているようだ。
幸い清貧を旨としているため、持っていく物はほとんどない。
机の中から財布と僅かな衣類を袋に詰めるだけ、出ていくだけの準備は整った。部屋を出て行こうとした所で不意に手首を掴まれた。
「どこ行くの? 寝坊したのだから急いで手伝ってもらわないと間に合わないのよ?」
「・・・起きてたの?」
「それは床からベッドに移動されれば誰でも起きるわよ」
なんでもない事のように言って、スプンは起き上がりシスター服に袖を通した。当然のように手を取ると、そのまま私を台所に連れて行く。包丁を押し付けて、野菜を刻むように命ずると自分はスープの準備を始めた。
ザクザクと青菜を切りながら彼女の横顔を盗み見ると何か思いつめたように鍋に向かっていた。何も変わらない。ただの一言も言葉を交わさないだけ。黙々と集中して作業を進めた結果なんとか遅れた分を取り戻せた。
「私は子供達を起こしてきますから、アンリは器に装っておいてください」
「でも・・・」
「あなたの分も用意していますから、お願いしますね?」
「・・・」
台所に一人残され、私は途方にくれながら皿に盛りつけ始める。
丁度配膳を終えて食事の準備ができた時、子供達はスプンと一緒に居間に入ってきた。子供たちは私の姿に僅かに息を呑んだのが分かる。それでも、スプンが普段と変わらない振る舞いをするため、直接に問う事もできずにいるようだった。
全員が定位置に座るのを待ち、それからスプンの祈りに合わせて食べ物への感謝の祈りを捧げる。
いつもと変わらない。誰一人糾弾する者もいない。だから余計に居心地の悪さを感じる。例えるのなら私は水の中に落ちた一滴の油だ。私は決して交わることができないから、誰一人として私を糾弾する事はない。一瞬だけ目が合うと子供達は慌てて目を逸らして食事に戻る。
「感謝のうちに食事を終ります。慈しみを忘れず、全ての人の幸せを祈りながら」
食事はつつがなく、どこかぎこちなく終わる。
そして、ゆっくりとスプンが立ち上がる。彼女の席は私の隣、そっと彼女の手が私の肩に添えられる。そこで私はこれから起こる事を理解した。
「ここに居るのは教会の教えに反する魔物です」
短い言葉はナイフのように。
けれど寸分の狂いもなく私の心臓を貫いた。
泡沫の夢はこれで終わり。
あぁ、これは私への罰だ。
けれど、これで良い。
もしも私が無言で出て行ってしまったら、私はきっと未練を残す。この教会に帰りたくなってしまうだろう。その時出て行った私は、教会を襲ってしまう。スプンがここで私を魔物だと言い切ってくれたから。
そして、スプンは言葉をつづけた
「けれど、本当に教えに反するでしょうか。 私にはそうは思えません。 彼女は貴方達を襲おうと思っているようには見えません。私には彼女は自身よりも他者の事を想い、迷い苦しんでいるように見えます。そして、私は貴方達の意見を聞きたいと思っています」
子供達は呆然としていた。それもそうだ。私だけではなく、皆を守ってきていたはずのスプンさえもが一晩で変わってしまったのだから。けれど、その呆然としていたのは一瞬。彼らは口を開きかけ、それから自らの中に二つの意見があることに気が付き目を伏せた。
教えか家族か
彼らにとってはどちらも大切な事だ。彼らがこうして暮らしていけるのは教会のお蔭である。だから、教えを守らなくてはいけない。だが、それを理由に一緒に暮らしてきた人間を易々と切り捨てる事ができるわけがない。
沈黙は長く
相反する答え故に、答えは出ない
どちらを選んでも傷つく答えしかないのだから
やはり、私が答えを出そう
自らの意思を告げるべく立ち上がる
「受け入れようよ」
それよりも早く静寂を破る声がした。
視線が一斉に注がれる。私ではない。注がれたのは一人の少年だ。
「・・・ユアイ?」
思わず、少年の名を口にする。ユアイは真っ直ぐに私を見ると、やがてふてくされたように視線を逸らした。
「ねぇちゃん、いつも言ってたじゃん。何を信じるとか、どんなことをしてきたとかじゃなくて、大事なのは気持ちだって。いくら迷ても、何回つまずいてくじけても、どんなに間違っても、真っ直ぐに生きようって気持ちを忘れないで生きる事はそれだけは絶対に間違いない事なんだって」
小さな波紋は、けれど確かに広がった。子供達も小さく頷き始める。スプンが静かに背に回り、両肩に手を置いて微笑んだ。
「・・・それって」
そのなかで、私はまだ状況を飲み込めずに居た。
「だから、ねぇちゃんは魔物になっても大好きなねぇちゃんだって言ったの!」
大きな声で怒られた。
私は頬を熱い液体が通るのを感じた。
「アンリ、よかったわね。」
「・・・はい」
「自分自身の事にずっと耐えていかなければいけない事はきっと辛いと思う。もしかしたら、ここを出て行くよりも辛いかもしれない。けれど、それは貴方が一生背負わなければならない罪。でも、安心して。私もできる限り手助けしてあげるから。貴女が魔物になってしまったのは何一つ気が付いてあげられなかった私の罪でもあるから」
「・・・ありがとう」
ここには教会がある
白いシスターと黒いシスターがいる
二人は罪人で彼女等に育てられた子も同じ咎を背負う
その咎はどんなに贖罪を重ねても贖う事は叶わず
されど、自らの歩む知恵とならん
11/10/05 01:38更新 / 佐藤 敏夫