後悔
人は「神様はいつだって身勝手だ」という
老いた夫婦のたった一日の家事を変わってくれない
飢えた子供に一切れのパンを与えてくれない
貧しく清い心を持った若者に学ぶための僅かな金も授けてくれない
それを聞くたびに、確かにそうかも知れないと思う
寒い冬、老婦が寝たきりの老人のために冷たい水に手を浸すのにも手を貸さなかった
動けぬほどに衰弱し、皮を突き破るほどに骨が浮き出た子供の手にパンを与えなかった
貧しく清い若者の手に人を殺す剣の代わりに、銅貨を握らせた事はない
神は人を愛しているが、誰か一人を寵愛することはできない
誰か一人に寵愛を施せば、それを見た誰かが自らも寵愛を受けたいと望む
だから、誰か一人に恩恵をもたらすことはできないのだと言う
オレが豊穣の女神と言われたとしても、その力が及ぶ範囲は限られる
寝る間も惜しんで死ぬ気でやった所で望む全てを与えられるのは数えるほどだろう
それも、何かの代償を必要とする
身勝手だって言うけれど、全ての人間を愛するほどの力はないのだ
与えられぬ事に憤り、かといって代償として奪う事も許さない
仮に与えられたとしても、特別でない寵愛などそれは寵愛ではなく「当然」なのだ
幾多の怨嗟の声を聞き、人間とはそういうモノだと知った
どうしようもなく救えぬ存在だと
正しい判断を下す神ならば、このどうしようもない存在を切り捨てるべきなのだろう
それこそが、最も潔い判断であり賢明な判断である
救えぬなら、救わない
無用な労力など必要ない
神に心など必要なく、慈悲など与えぬ方が良い
虚ろな希望を与えて苦しめるよりも、切捨てられた方がまだ救える
けれど・・・
それを理解してもなお、苦しむ人を前にして流した涙は止める事はできなかった
・・・
「くそっ・・・」
どいつもこいつも馬鹿にしやがって。
冷たいコンクリートを力任せに殴りつける。まともな人間が見れば、大の大人が傷だらけで道端に転がり殺気を振りまいていたら事件か何かだと思うだろう。ただ、今の自分の壊れた拳を叩きつけるほどの彼に周囲の人間を気にする余裕は無かった。
全身が焼ける様に痛い
目頭が燃える様に熱い
はらわたが煮えくり返る
ぶつけ先の見つからない怒りを持て余し、傷む所の無い身体に力を込めて立ち上がる。コンクリートに立てた爪が剥がれたが、痛みを認識することもできない。ヌラリとした感触が手の平に触れる。
「圭太!」
お前もか。
トトは部屋から飛び出し、わざわざ自分の惨めな姿を見に来た。
見るなよ、こんな姿を
臨界を越した怒りは抑制を失い、ただ目の前に居たからという理由だけで拳を向けさせる。声にならぬ怨嗟の咆哮。腕を振るい猛然と突っかかる。その様は赤い布に向かう闘牛のようだ。
ボロボロになった身体では一歩を踏み出す事さえできやしない。
惨めにも程がある
崩れ落ちる身体を柔らかい何かが抱きとめた。腕。温かい腕だ。
「一人で、背負い込まないで良いんだよ」
そっと頭を撫でられ、強く抱き締められる。
「全部、受け止めてあげるからさ・・・」
力任せに背中を叩くが、それでも何も言わずに腕に力を込める。泣いた。泣きながら拳を打ち付ける。こんな俺でも支えてくれる人間が居る。害を為そうとしたのに、自ら傷ついているのにも関わらず。
どうしようもない
どうしようもない子供のようにただ、その胸の内を全てトトにぶつける。
・・・どれだけ続けただろう
感情を出しつくし、ただ虚無感が残る。
「帰ろう・・・ 手当てしてあげるから、さ」
連れられて部屋に戻ると闇の中では全く気がつかなかった、乱暴にトトの額に巻かれた白い包帯が蛍光灯に照らされて痛々しかった。
俺の巻き添えを受けたというのに、トトは何も言わずに手当てをしてくれた。ケチン質で硬質の指先であったが、慣れた手つきで消毒液を塗りガーゼを当て包帯を巻く。上から優しくその手を乗せると薄ボンヤリとした淡い光が舞い降りた。
「大丈夫、すぐに良くなるよ。 綺麗に治るはず」
トトはそう言って微笑んだ。
自ら傷ついているのにも関わらず、支えてくれる人がいる。トトは人間ではなく、デビルバグと呼ばれる魔物だ。ベースとなっている素体も人類から嫌われる種族である。けれど、それでも誰よりも温かかった。
「ルビアの事は・・・ 責めないで」
「・・・」
「お願い、ルビアには私がキチンと言っておくから・・・」
ポツリ、と小さな声で呟いた。無意識のうちにルビアの方を睨んでいたらしい。トトは許せないのは分かっているし、その要求が限りなく不可能であるのも分かっている。それでも、やはり友達を恨まれるのは見ていて苦しいらしい。
「あぁ・・・ できるだけ、そうする」
目を背けて答える。答えるしか無かった。ベッドに横になっているルビアの姿は、いつも以上に小さく見えてしまったから。
・・・
案の定、次の日はギクシャクしていた。
圭太もルビアも顔を合わせ相手が居ることが分かっているのに、相手が居る事を認めたくない。何をするにでも私を通して会話をし、彼らの間で会話がなされることは決してない。
ルビアには、これ以上の暴力を振らないように釘を刺し、圭太に謝るように言ったけれど、「うるさい」の一言を返しただけで、守ってくれるとは一言も言ってくれなかった。これから、どうなるのかさえ予想がつかない。
また、再び仲良く生活できるのか。
「ご馳走様」
圭太は箸を置いて立ち上がり、台所に食器を下げた。ルビアは全く動かない。その事が余計に不安にさせた。
ルビアが人を素直にリードする事ができない事は知っている。暴言という体裁を整えない限り、彼女は自身の本音を出すことができないし優しさを見せることもない。それは十分に理解しているつもりだ。けれど、どうしてルビアは人を傷つけて平気なのだろう。
自分が悪いと理解し、他人も自分も傷つけるのが辛いだけなのに、そんな事ができるのだろう。それが分からない。悪いと思えば謝れば良いではないか、素直に謝り、その上で一緒に新たな道を模索すれば良い。
どうして、こんなに簡単なことができないのだろう
「バイト、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
圭太は上着を羽織って出掛けて行った。
やはり、ルビアの返事はない。
これでも私は彼女を信じられるのだろうか。
・・・
「出掛ける」
胸糞悪い。トトは何か言いたげに口を開いたが、それを無視して外に出る。言いたい事は分かっているし、言い分は常に正しい。確かに一緒に前に進むことができるのは理想的だ。
だが、それは二人にたゆまぬ向上心があっての場合である。
共にある事は甘美であり、それは常に自己陶酔と堕落の危険を孕んでいるという事だ。
片方が僅かにでも妥協すれば、あるいは、他人を支えているという自分に酔ってしまえば、それが綻びとなりもう片方もズルズルと堕ちていくのは目に見えている。その緩やかな退廃の仕方は、互いを見合っている本人達は決して気が付くことはない。
だから、敵を用意してやらないといけないのだ。
守るにしろ、立ち向かうにしろ、そうすれば注意が外側に向く。
あれだけ暴力を振れば、優しいトトはあの馬鹿を介抱するだろう。あの馬鹿は肝心なことには気が付かないが他人の優しさに気が付かぬほど愚鈍じゃないし、優しさに気が付いてなお安穏としていられるほど恥知らずでもない。なんだかんだ言っても奴は賢く、また負けず嫌いなのだ。アイツもきっかけさえあれば、必ず立ち直れる。
「・・・だから、あいつらに任せてオレはこのまま去れば良い」
居心地の良かったゴミ屋敷。見納めなのだろうな、なんて事を思いながら最後に一度だけ振り返る。
つまんねーな
ほんと、つまんねー
腹いせに路傍に落ちていた缶を蹴る。残りが大分入っていたのか、鈍い音がして飛んでいく。鋭い放物線を描いたそれは、コンクリートの壁にぶつかると中身を盛大にぶちまけた。
殴ったりしたけど、本当はお前の事は嫌いじゃなかったんだぜ?
どっちかってーとさ、好きな部類に入ってたよ。
お前の落ち込んでる姿を見てさ、もう一回立ち上がって欲しいって思ったんだ。
できるんだから、そのまま土にお前の才能を還すのがスゲー勿体ねーと思ったしな。
本当は誇って良いんだぜ?
お前は女神に認められたんだからさ。
ま、残念ながら。 今は悪魔だけどな。
はぁ・・・
幾ら理屈をつけようとも、オレはオレのためにあいつ等を利用したことには変わりないんだ。アイツとトトが一緒に歩き始める姿を見て安心したいと思っているだけだ。素直になりたくても素直になれない、そんな自分が馬鹿馬鹿しすぎて笑いがこみ上げてくる。
まるで道化だよ
馬鹿馬鹿って罵ってたけど、本当の大馬鹿野朗は、このオレさ
傷つけるだけ傷つけて、はい、サヨナラ
なんだからな
机の中にトトの奴の分の生活費と迷惑料と手切れ金が入っている。
とりあえず、当面の授業料ぐらいにはなるだろうよ。
一応、その金はオレの能力使わないでキチンと働いた金だからさ。
それなりの義理を通したはずだと思う。
面と向かって別れをいえないのは辛いけど
それ以外に思い残すことは何もないよ。
じゃあな
元気で
オレみたいな悪魔には、二度と魅入られるんじゃねぇぞ?
手をかざす。
円形の淡い光が地面に現れる。
懐かしい匂いだ。僅かに躊躇したが、その中に足を踏み入れる。
キィンと音がして一瞬で彼女の姿は消え、後は何事もなかったかのような静けさを取り戻した。
・・・
「圭太、どうした?」
「いえ・・・」
アルバイトの先輩が浮かない表情の俺を心配してくれた。この人は優しいから俺が困った素振りを見せてしまえば、我が事のように苦しんでしまうだろう。なんとなく心配を掛けたくなくて、俺は苦笑いを返す。
ぎこちない笑みになってしまったのか、先輩はその後もさりげなく探りを入れてきた。気を使ってくれるのは嬉しかったが、先輩にはどうしようも無い事で、迷惑を掛けたくないがために話せないのが心苦しい。
「それより・・・ 先輩、御家族の方はどうでしたか?」
「え? あぁ、祖父のこと?」
強引に話を逸らすと今度はバツの悪そうな表情を浮かべた。
「死んだよ。 老衰、祖父らしい最後だったそうだ」
もとより気性の激しい人だったらしく、意見が合わずにしょっちゅう先輩とも口喧嘩をしていたそうだ。若い奴にはまだまだ負けないとか平気で良いそうなタイプで、殺しても死なないし、それどころか若い奴よりも長生きしそう、なんて言われそうな爺だったらしい。
生ける武勇伝。そんなお爺さんだったから、先輩も油断していた。
いつも通りに喧嘩して、数日後にはいつも通りに仲直りできると信じていた。
だが、それは永劫叶うことはなかった。
老人の身体は既に病魔が蝕んでいた。先輩の前では常に薬と気力で覆い隠し、陰では治療による苦痛と体力の維持という困難に孤独で耐えていた。家族には心配するから先輩には絶対に伝えるな、と伝えた上で。
「遺言書にさ。 言い残す事は何もない、常にお前は正しかった。 お前が立派な大人に成長してくれたのが分かり安心して逝ける。 もしも許されるのなら、生きる糧として最後の最後までお前に迷惑を掛けた老人のわがままを許して欲しい なんて書いてあったんだぜ? ホント、馬鹿だよな・・・ 許すも何もねぇよ。 喧嘩ふっかけたのはこっちなのにさ」
謝るためには、生きねばならぬ。より強く孫の姿を胸に刻むために、前に立ちはだかる。別れを少しでも和らげるために憎むべき相手となる。そのために無理を強いて命を削り喧嘩をふっかけた。素直ではない老人の精一杯の愛情表現だったのだ。
喧嘩別れでは苦しいだけなのに。
「お前も心当たりがあったら、気をつけた方が良いぜ。 できるだけ後悔しないようにするしかねぇんだから」
「・・・そう、ですね」
一応は頷いた。
もっとも、理解してもできるかなんて分からなかったけど。
・・・
一週間、ルビアが帰ってこなかった。
気分転換と称してフラリと出て行ったきり数日ほど部屋に戻って来ないことはあったが、これほどまでに帰ってこないことは珍しい。圭太の件もあったし一体どうしたのだろう、という不安は拭えなかった。喧嘩しているとはいえ、やはり圭太も不安になっているようだ。
ルビアがいつ帰ってきても良いように、掃除をしていて引き出しが気になって開けてしまったのが運の尽きだった。
「圭太・・・」
彼の名前を呼ぶ。
彼は不思議そうに振り返った。
机の中にあったものを見せる。
大金の入った封筒と別れを告げる短い手紙。
それが意味するところは、一つしかなかった。
私達はルビアと仲直りするには手遅れだったという事だ。
老いた夫婦のたった一日の家事を変わってくれない
飢えた子供に一切れのパンを与えてくれない
貧しく清い心を持った若者に学ぶための僅かな金も授けてくれない
それを聞くたびに、確かにそうかも知れないと思う
寒い冬、老婦が寝たきりの老人のために冷たい水に手を浸すのにも手を貸さなかった
動けぬほどに衰弱し、皮を突き破るほどに骨が浮き出た子供の手にパンを与えなかった
貧しく清い若者の手に人を殺す剣の代わりに、銅貨を握らせた事はない
神は人を愛しているが、誰か一人を寵愛することはできない
誰か一人に寵愛を施せば、それを見た誰かが自らも寵愛を受けたいと望む
だから、誰か一人に恩恵をもたらすことはできないのだと言う
オレが豊穣の女神と言われたとしても、その力が及ぶ範囲は限られる
寝る間も惜しんで死ぬ気でやった所で望む全てを与えられるのは数えるほどだろう
それも、何かの代償を必要とする
身勝手だって言うけれど、全ての人間を愛するほどの力はないのだ
与えられぬ事に憤り、かといって代償として奪う事も許さない
仮に与えられたとしても、特別でない寵愛などそれは寵愛ではなく「当然」なのだ
幾多の怨嗟の声を聞き、人間とはそういうモノだと知った
どうしようもなく救えぬ存在だと
正しい判断を下す神ならば、このどうしようもない存在を切り捨てるべきなのだろう
それこそが、最も潔い判断であり賢明な判断である
救えぬなら、救わない
無用な労力など必要ない
神に心など必要なく、慈悲など与えぬ方が良い
虚ろな希望を与えて苦しめるよりも、切捨てられた方がまだ救える
けれど・・・
それを理解してもなお、苦しむ人を前にして流した涙は止める事はできなかった
・・・
「くそっ・・・」
どいつもこいつも馬鹿にしやがって。
冷たいコンクリートを力任せに殴りつける。まともな人間が見れば、大の大人が傷だらけで道端に転がり殺気を振りまいていたら事件か何かだと思うだろう。ただ、今の自分の壊れた拳を叩きつけるほどの彼に周囲の人間を気にする余裕は無かった。
全身が焼ける様に痛い
目頭が燃える様に熱い
はらわたが煮えくり返る
ぶつけ先の見つからない怒りを持て余し、傷む所の無い身体に力を込めて立ち上がる。コンクリートに立てた爪が剥がれたが、痛みを認識することもできない。ヌラリとした感触が手の平に触れる。
「圭太!」
お前もか。
トトは部屋から飛び出し、わざわざ自分の惨めな姿を見に来た。
見るなよ、こんな姿を
臨界を越した怒りは抑制を失い、ただ目の前に居たからという理由だけで拳を向けさせる。声にならぬ怨嗟の咆哮。腕を振るい猛然と突っかかる。その様は赤い布に向かう闘牛のようだ。
ボロボロになった身体では一歩を踏み出す事さえできやしない。
惨めにも程がある
崩れ落ちる身体を柔らかい何かが抱きとめた。腕。温かい腕だ。
「一人で、背負い込まないで良いんだよ」
そっと頭を撫でられ、強く抱き締められる。
「全部、受け止めてあげるからさ・・・」
力任せに背中を叩くが、それでも何も言わずに腕に力を込める。泣いた。泣きながら拳を打ち付ける。こんな俺でも支えてくれる人間が居る。害を為そうとしたのに、自ら傷ついているのにも関わらず。
どうしようもない
どうしようもない子供のようにただ、その胸の内を全てトトにぶつける。
・・・どれだけ続けただろう
感情を出しつくし、ただ虚無感が残る。
「帰ろう・・・ 手当てしてあげるから、さ」
連れられて部屋に戻ると闇の中では全く気がつかなかった、乱暴にトトの額に巻かれた白い包帯が蛍光灯に照らされて痛々しかった。
俺の巻き添えを受けたというのに、トトは何も言わずに手当てをしてくれた。ケチン質で硬質の指先であったが、慣れた手つきで消毒液を塗りガーゼを当て包帯を巻く。上から優しくその手を乗せると薄ボンヤリとした淡い光が舞い降りた。
「大丈夫、すぐに良くなるよ。 綺麗に治るはず」
トトはそう言って微笑んだ。
自ら傷ついているのにも関わらず、支えてくれる人がいる。トトは人間ではなく、デビルバグと呼ばれる魔物だ。ベースとなっている素体も人類から嫌われる種族である。けれど、それでも誰よりも温かかった。
「ルビアの事は・・・ 責めないで」
「・・・」
「お願い、ルビアには私がキチンと言っておくから・・・」
ポツリ、と小さな声で呟いた。無意識のうちにルビアの方を睨んでいたらしい。トトは許せないのは分かっているし、その要求が限りなく不可能であるのも分かっている。それでも、やはり友達を恨まれるのは見ていて苦しいらしい。
「あぁ・・・ できるだけ、そうする」
目を背けて答える。答えるしか無かった。ベッドに横になっているルビアの姿は、いつも以上に小さく見えてしまったから。
・・・
案の定、次の日はギクシャクしていた。
圭太もルビアも顔を合わせ相手が居ることが分かっているのに、相手が居る事を認めたくない。何をするにでも私を通して会話をし、彼らの間で会話がなされることは決してない。
ルビアには、これ以上の暴力を振らないように釘を刺し、圭太に謝るように言ったけれど、「うるさい」の一言を返しただけで、守ってくれるとは一言も言ってくれなかった。これから、どうなるのかさえ予想がつかない。
また、再び仲良く生活できるのか。
「ご馳走様」
圭太は箸を置いて立ち上がり、台所に食器を下げた。ルビアは全く動かない。その事が余計に不安にさせた。
ルビアが人を素直にリードする事ができない事は知っている。暴言という体裁を整えない限り、彼女は自身の本音を出すことができないし優しさを見せることもない。それは十分に理解しているつもりだ。けれど、どうしてルビアは人を傷つけて平気なのだろう。
自分が悪いと理解し、他人も自分も傷つけるのが辛いだけなのに、そんな事ができるのだろう。それが分からない。悪いと思えば謝れば良いではないか、素直に謝り、その上で一緒に新たな道を模索すれば良い。
どうして、こんなに簡単なことができないのだろう
「バイト、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
圭太は上着を羽織って出掛けて行った。
やはり、ルビアの返事はない。
これでも私は彼女を信じられるのだろうか。
・・・
「出掛ける」
胸糞悪い。トトは何か言いたげに口を開いたが、それを無視して外に出る。言いたい事は分かっているし、言い分は常に正しい。確かに一緒に前に進むことができるのは理想的だ。
だが、それは二人にたゆまぬ向上心があっての場合である。
共にある事は甘美であり、それは常に自己陶酔と堕落の危険を孕んでいるという事だ。
片方が僅かにでも妥協すれば、あるいは、他人を支えているという自分に酔ってしまえば、それが綻びとなりもう片方もズルズルと堕ちていくのは目に見えている。その緩やかな退廃の仕方は、互いを見合っている本人達は決して気が付くことはない。
だから、敵を用意してやらないといけないのだ。
守るにしろ、立ち向かうにしろ、そうすれば注意が外側に向く。
あれだけ暴力を振れば、優しいトトはあの馬鹿を介抱するだろう。あの馬鹿は肝心なことには気が付かないが他人の優しさに気が付かぬほど愚鈍じゃないし、優しさに気が付いてなお安穏としていられるほど恥知らずでもない。なんだかんだ言っても奴は賢く、また負けず嫌いなのだ。アイツもきっかけさえあれば、必ず立ち直れる。
「・・・だから、あいつらに任せてオレはこのまま去れば良い」
居心地の良かったゴミ屋敷。見納めなのだろうな、なんて事を思いながら最後に一度だけ振り返る。
つまんねーな
ほんと、つまんねー
腹いせに路傍に落ちていた缶を蹴る。残りが大分入っていたのか、鈍い音がして飛んでいく。鋭い放物線を描いたそれは、コンクリートの壁にぶつかると中身を盛大にぶちまけた。
殴ったりしたけど、本当はお前の事は嫌いじゃなかったんだぜ?
どっちかってーとさ、好きな部類に入ってたよ。
お前の落ち込んでる姿を見てさ、もう一回立ち上がって欲しいって思ったんだ。
できるんだから、そのまま土にお前の才能を還すのがスゲー勿体ねーと思ったしな。
本当は誇って良いんだぜ?
お前は女神に認められたんだからさ。
ま、残念ながら。 今は悪魔だけどな。
はぁ・・・
幾ら理屈をつけようとも、オレはオレのためにあいつ等を利用したことには変わりないんだ。アイツとトトが一緒に歩き始める姿を見て安心したいと思っているだけだ。素直になりたくても素直になれない、そんな自分が馬鹿馬鹿しすぎて笑いがこみ上げてくる。
まるで道化だよ
馬鹿馬鹿って罵ってたけど、本当の大馬鹿野朗は、このオレさ
傷つけるだけ傷つけて、はい、サヨナラ
なんだからな
机の中にトトの奴の分の生活費と迷惑料と手切れ金が入っている。
とりあえず、当面の授業料ぐらいにはなるだろうよ。
一応、その金はオレの能力使わないでキチンと働いた金だからさ。
それなりの義理を通したはずだと思う。
面と向かって別れをいえないのは辛いけど
それ以外に思い残すことは何もないよ。
じゃあな
元気で
オレみたいな悪魔には、二度と魅入られるんじゃねぇぞ?
手をかざす。
円形の淡い光が地面に現れる。
懐かしい匂いだ。僅かに躊躇したが、その中に足を踏み入れる。
キィンと音がして一瞬で彼女の姿は消え、後は何事もなかったかのような静けさを取り戻した。
・・・
「圭太、どうした?」
「いえ・・・」
アルバイトの先輩が浮かない表情の俺を心配してくれた。この人は優しいから俺が困った素振りを見せてしまえば、我が事のように苦しんでしまうだろう。なんとなく心配を掛けたくなくて、俺は苦笑いを返す。
ぎこちない笑みになってしまったのか、先輩はその後もさりげなく探りを入れてきた。気を使ってくれるのは嬉しかったが、先輩にはどうしようも無い事で、迷惑を掛けたくないがために話せないのが心苦しい。
「それより・・・ 先輩、御家族の方はどうでしたか?」
「え? あぁ、祖父のこと?」
強引に話を逸らすと今度はバツの悪そうな表情を浮かべた。
「死んだよ。 老衰、祖父らしい最後だったそうだ」
もとより気性の激しい人だったらしく、意見が合わずにしょっちゅう先輩とも口喧嘩をしていたそうだ。若い奴にはまだまだ負けないとか平気で良いそうなタイプで、殺しても死なないし、それどころか若い奴よりも長生きしそう、なんて言われそうな爺だったらしい。
生ける武勇伝。そんなお爺さんだったから、先輩も油断していた。
いつも通りに喧嘩して、数日後にはいつも通りに仲直りできると信じていた。
だが、それは永劫叶うことはなかった。
老人の身体は既に病魔が蝕んでいた。先輩の前では常に薬と気力で覆い隠し、陰では治療による苦痛と体力の維持という困難に孤独で耐えていた。家族には心配するから先輩には絶対に伝えるな、と伝えた上で。
「遺言書にさ。 言い残す事は何もない、常にお前は正しかった。 お前が立派な大人に成長してくれたのが分かり安心して逝ける。 もしも許されるのなら、生きる糧として最後の最後までお前に迷惑を掛けた老人のわがままを許して欲しい なんて書いてあったんだぜ? ホント、馬鹿だよな・・・ 許すも何もねぇよ。 喧嘩ふっかけたのはこっちなのにさ」
謝るためには、生きねばならぬ。より強く孫の姿を胸に刻むために、前に立ちはだかる。別れを少しでも和らげるために憎むべき相手となる。そのために無理を強いて命を削り喧嘩をふっかけた。素直ではない老人の精一杯の愛情表現だったのだ。
喧嘩別れでは苦しいだけなのに。
「お前も心当たりがあったら、気をつけた方が良いぜ。 できるだけ後悔しないようにするしかねぇんだから」
「・・・そう、ですね」
一応は頷いた。
もっとも、理解してもできるかなんて分からなかったけど。
・・・
一週間、ルビアが帰ってこなかった。
気分転換と称してフラリと出て行ったきり数日ほど部屋に戻って来ないことはあったが、これほどまでに帰ってこないことは珍しい。圭太の件もあったし一体どうしたのだろう、という不安は拭えなかった。喧嘩しているとはいえ、やはり圭太も不安になっているようだ。
ルビアがいつ帰ってきても良いように、掃除をしていて引き出しが気になって開けてしまったのが運の尽きだった。
「圭太・・・」
彼の名前を呼ぶ。
彼は不思議そうに振り返った。
机の中にあったものを見せる。
大金の入った封筒と別れを告げる短い手紙。
それが意味するところは、一つしかなかった。
私達はルビアと仲直りするには手遅れだったという事だ。
11/04/24 00:17更新 / 佐藤 敏夫
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