バレンタインデー
僕は正教の事をよく知らない。
ただ魔物をあまり良く思っていない人たちの集まりである事は知っている。彼らの教義によれば“魔物達は人間の生活を脅かす存在であり神に反逆する魔性の物”とかいうらしい。おかげで魔物の事を良く知らない人間は“魔物は人の血肉を喰らうもの”と誤解しているらしい。
確かに魔物は人を襲うかもしれないけれど(僕は襲えた事ないけど・・・)、それは人が食事を取るのと同じく魔物には精が必要なのだ。それに魔物だって人を傷つける事は・・・無いわけじゃないけど・・・精を搾取する時だって、相手の寿命をすり減らさないようには注意しているはず。それに、現状として魔物と人が共存しているファフという事例がある以上、魔物=悪と決め付けるのは偏見のような気がしてならない。
まぁ、魔物の僕が主張しても説得力がないし、ファフの司祭様みたいに適度な折り合いを持てない聖職者の方々にとって“汚らわしい魔物が何か言っている”くらいにしか思わないだろう。ここは僕が大人になって教会に対して歩み寄りの姿勢を見せ、正教に対しての僕の理解も深める事にしよう。
さて、教会の一番有名なイベントと言えば、バレンタインデー。
司祭様曰く、日頃の感謝を形にして相手に示し、男女の愛を誓い合うという日らしい。
愛の大切さを説く教会を理解するには、この一番有名で愛に関わるイベントに参加するのが良いに違いない。
うん、理論武装も完璧だ。
これで僕はどこからどう見ても教会に興味をもった魔物にしか見えないはず!
「・・・イルちゃんは、地域の奉仕活動に参加しているから教会の事はよく知っていると思うんだけど」
「良いの!
ねぇ、バレンタインデーって何するの?教えてよ」
「そうだねぇ、地方によっても違うから一概には言えないけど、日頃の感謝を示すのなら手紙やカードを送ったりするのが一般的かな」
「僕は文字を書けないよ・・・」
文章はなんとかかんとか読めるようになってきたが、書ける所まで到達していない。今からずっと徹夜で書いても一週間はかかると思う。バレンタインデーという建前があるからこそのチャンスな訳で、一週間後に渡すなんて阿呆みたい。そんなのは駄目だ。
「それなら“いつもありがとう”と言ってあげるだけでも十分伝わると思うよ」
「それが、伝わらないんだよ・・・
いつも気配りして優しくしてくれるクセに、信じられない位のお人よしのニブチンなんだ“いつもありがとう”なんて言ったら“何かしたっけ?”とか“どうした、何かあったの?”とか言ってくるに決まってるよ」
「じゃあ、代筆を頼むとか誰かに習いながら書いてみるとかはどうかな?」
「絶っ対嫌!」
親切で提案してくれたのだろうけど随分と間抜けな提案だったので、思わず思いっきり嫌な顔を向けるとヴィンセント神父は驚いたように目を瞬かせた。
「思いの人への手紙は、最初に思いの人に読んで頂きたいですもの
例え同性であったとしても、誰かに見られるのは嫌ですわ」
良い案が思い浮かばず思いだけが空回りしていく感覚にたまらず足踏みをしていると、僕と神父のやりとりを聞いていた副司祭のストナがクスクスと笑いながらやってきた。
「ジパングでは、バレンタインチョコを贈る習慣があるそうですよ」
「ばれんたいんちょこ?」
「ジパングでは、バレンタインデーにチョコレートを贈るんだよ」
「孤児院の子供達にあげるのに作るつもりなのですが、一緒に作りませんか?」
「良いの?」
「えぇ、一人で作るよりもみんなで作った方が楽しいですもの」
二つ返事で許可をもらった!
・・・
次の日、必要な材料を買いこんで再び教会にやってきた。
「おはようございます」
裏口から入って挨拶すると、敬虔そうな修道女が“おはようございます”と返してくれた。表口から入らないのは、一応、教会の教義として“嗜好品は禁止”というものがあるからだ。ダークプリーストを副司祭に据えているくらいなので、実際は名ばかりの教義にはなっているけど念のためと言うやつだ。
それにチョコレートを作っている事をお祈りに来た人に知られてしまうとあげなくちゃいけなくなるというのもある。
「えっと・・・ストナ様はどこにいらっしゃいますか?」
ストナに裏口から入っておいでと言われたので、裏口にやってきたのだけれどその後の事は聞くのを忘れていた。とりあえず、ストナに取り次いでもらおうと近くにいた修道女に尋ねてみると、修道女はストナの所に連れて行ってくれると申し出てくれた。良い人だ。
「ストナ様、可愛らしいマンドラゴラの少女が来ましたよ」
連れられてたどり着いた場所は教会の台所だ。
教会は孤児院が併設されており、孤児達の食事は教会で作られているので台所は広い。調度ストナは棚から道具を出していた準備をしていたらしく、ボウルを抱えていた。
「お待ちしておりました
さ、皆さん御揃いのようですし・・・始めましょうか」
みなさん?と首を傾げて台所を見渡すと茶色の髪をした女性がいた。修道女達は清貧である事を美徳としている部分があるので必要以上に装飾品を身に付けないし、体のラインを強調するような服装はしない。けれど、彼女はスレンダーな体を強調するように緑の服に身を包んでいた。気の強そうな少しだけ釣りあがった目は見覚えがある。
「リズエお姉ちゃん!」
名前を呼ぶとエプロンを付ける事に手間取っていたリザードマンは顔を上げる。僕に気が付くと少し気恥ずかしそうに片手をあげた。
「すまない、後ろで上手く結べないのだが、結んでくれるか?」
「あ、うん。良いよ」
背中の後ろでエプロンを結んであげると、“ありがとう”と礼を言ってくれた。男の人には滅多に見せない微笑に僕は嬉しくなる。本人曰く緊張してしまうらしい。リズエは頼りがいがあるけど意外な所に弱点がある。でも、そんなところを含めて僕の“お姉ちゃん”なのだ。
僕がリズエの紐を結んであげると、ストナは鎖を持って立っていた。
「あら、結べないなら言って下されば結んで差し上げましたのに・・・」
ストナは心底残念そうに呟いて頬に手を当てた。先ほどの修道女といい、ストナといい、教会の人達は本当に誰かの役に立つ事が好きなんだな、と感心する。
ストナはスカートの下に先程の鎖を仕舞い、その一部始終を見ていた僕と目があった。
「どうなさいました?」
「あ、ううん。スカートの中に鎖を仕舞うスペースがあるんだぁ、て思ってただけ」
僕も体から生えている蔓は自分の意思で動かせるので普段は邪魔にならないように身体に巻きつけているけど、鎖だとそういう訳にもいかないだろう。たまに葉っぱが擦れて傷んでしまう時があるので、巻きつける以外に方法があるのなら聞いておきたい。
「フフフ、では、特別にご開帳」
スッとスカートの前の部分をつまみあげ、そのまま少しずつ上げていく。鎖が仕舞われているとは思えないような軽さで布が持ち上がっていく。
「これで分かりますか?」
「ううん、どこに仕舞ってあるの?」
半分程持ち上げた所でストナは尋ねた。けれど鎖の端っこさえ見つからない。首を振ると少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべ少し近づいてみるように言った。言われた通りに近づいて観察したけれど、やっぱりわからない。
「知りたいですか?」
「うん」
「仕方のない子ですねぇ・・・もう少しだけサービスをしてあげましょう」
そういって再びストナのスカートの裾が持ち上が・・・
「恥ずかしいから、やめんか!」
・・・る前に後ろからリズエに小突かれた。そのままビシッビシッと僕とストナを交互に指差し、
「イル、いくら鎖の隠し場所が気になるからってそんな間近で見るんじゃない!
ストナ、女子しかいないからと言って易々とスカートなんぞ捲り上げるな!」
とおっしゃった。
確かにその通りだ
ディアンが薬師で診療中に聴診器を当てたりするのに相手の服を捲らせたりするので、僕にとっては服の中を覗くという事は割と普通だったりする。でも、一般的には服を捲くって下着を見せたら反応はそんなもんだよね。
薬師的には
必要かつ相手が自分から服を捲くる=見えても仕方ない
だけど、一般的には
自分から服を捲くる≠見ても良い
だもん。
「すみません・・リズエさん
少しイルちゃんの事をからかい過ぎてしまいました」
「ごめんなさい」
感覚的にはストナと僕は魔物側でリズエは人間側に近い。町で暮らす以上は人間側に合わせる必要があるので、ここはリズエが正しい。二人で頭を下げるとリズエは納得してくれたようだ。
「では、怒られないように素直に種明かしをしますか
実は、縛り方に工夫があってですねぇ・・・」
ストナは乱れたスカートの裾を直し、いつの間にか僕の蔓に見立てた紐を取り出してきて実際にやってみせてくれた。動きも制限しないし葉っぱも擦れなさそうだ。
「覚えておくと便利ですよ、一度自分でやってみると良いですね
他にも覚えておくと便利な縛り方がありますよ」
「へぇ、なになに?」
「例えば・・・」
そう言って僕を後ろ向きに立つと軽く手を後ろに交差させて、手首の辺りを・・・
「やめんかい!」
今度はストナがリズエにチョップされた。
ストナが今やろうとしたのは“後ろ手縛り”というらしい。そんなの役に立つのかなぁ・・・?
・・・
「チョコレートを作る前にバレンタインデーについて少しお話しましょうか
バレンタインデーの起源に関する諸説は色々ありますが、殉教した聖ウァレンティヌスに由来する記念日と言われるのが一般的でしょうか。ジパングではお菓子職人達の集団が購買を促進させるために普及させたと言われています。当時のジパングは女性が奥ゆかしい事を美徳とする風潮があったので、積極的に女性達が告白する機会としてニーズが一致していたのでしょう」
チョコレートの入った箱を開けながらストナはバレンタインデーについてそんな説明してくれた。あまりに淀みなく説明してくれたので、箱を開ける手をとめて聞き入ってしまった。
確かにストナはファフの副司祭だけどダークプリーストなので“堕落した神”の熱心な信者(正教からすれば、いわゆる邪教信者)だ。そのため正教の公式な場所に出る事はなく、いつも司教様の代わりにサバトと交渉を進めたり、邪教信者の魔物達の結婚式を挙げたりしている。
もちろん、司祭様がストナを目の仇にするどころか、サバトや邪教との関わり方は司祭様にとっても難しい事(サバトに男性が迷い込んだ所を想像してみると良く分かる)なので、頭を悩ませる必要なくなったと喜んでいるそうだ。
「それにしても、よく知っているなぁ・・・専門は邪教だろ?」
「えぇ、私もダークプリーストの端くれですからね
ですが、自らの教義だけを主張しても無用な争いを引き起こす原因となるだけです。人や魔物を救うはずの教えによって争いが引き起こされるほど悲しい事もありません。他教の文化を理解するというのは、相互の理解を深める事や他人を寛容できる心を養う事にもつながりますよ」
「なるほど・・・」
やんわりとストナは説明すると、リズエは若干戸惑ったようだ。僕だって驚いているんだから無理も無い。チラリと僕に目配せした所をみるとリズエもストナの評価を上の方へ修正しているみたいだ。
「ところで、チョコレートは元々辛い飲み物だったらしいですね。当時は高級品で媚薬や強壮剤として使われていたそうです。それが今や愛の証ですからね。もしかしたら、奥ゆかしいと言われますがジパング人は魔物以上の魔物かもしれませんよ?」
あ、リズエの評価が元に戻った。
・・・
気を取り直して
チョコレートの作り方と言ってもカカオから作る訳じゃなくて、チョコレートを湯煎で溶かして、型に入れて固めるというヤツだ。コレを手作りと言うかどうかは疑問だけど、要は気持ちの問題。誰かのために心を込めたという事と手間隙をかけたという事が重要なのだ。
「まずは、包丁でチョコレートを刻みましょう
手を切らないように気をつけてくださいね」
「了解」
「うん」
包丁で板チョコを刻む。ディアンと食事を作る時に包丁を握る事はあったし、薬を作る時にナイフで薬草を刻む事もあるので簡単だと思ったけど、これがなかなか難しい。刻みやすい薬草と違い、チョコレートは硬く一度切れ目が入ると今度はいっきに真っ二つになる。リズエは力があるのでなんとかなるが、僕は非力なので体重をかける必要がある。そのため、一回切るごとに
ガンッッッ!!!
と強烈にまな板を叩く事になる。そのたびに僕は反動を受け、チラチラと様子を見るような視線をリズエから送られている。
「リズエはストロベリーチョコレートにしたの?」
確かホワイトチョコを刻んでいたような気がしたんだけど。ストロベリーを選ぶなんてちょっぴり意外だ。意外と甘い物好きだったりとか?
「いや・・・」
緩やかにリズエが首を振ったので、“違うの?”と首を傾げる。そういえば、リズエの顔色が優れない。リズエの手元に目線を移すとイチゴの果肉でも潰したみたいな色になっていた。ちなみに今回は苺なんて高級品は用意していない。
じゃあ、先ほどのチラチラと様子を見るような視線の意味も多分違うだろう
「ストナ、包帯ある?」
・・・
「では、刻んだチョコレートを溶かしましょう」
「結局溶かすなら刻んだ意味はあるのか?」
リズエはストナに聞いてみた。手には包帯を巻いてある。
「チョコレートを溶かし易くするんです
チョコレートは湯煎が重要ですから・・・温度調整が難しいんですよ。それとチョコレート内に水分が入ってしまうといけませんというのもありますね」
チョコレートを作る職人達の間ではチョコレートを作る温度というのは秘伝らしい。ちょっと温度が違うだけで舌触りが全く違うそうだ。
「へぇ・・・そうなんだ、しかも湯煎を使うのかぁ
今まで、普通に火にかけてた」
・・・それでできる方がすごいよ
お湯の入ったボウルの上にチョコレートを刻んで入れたボウルを乗せ、ヘラで混ぜながら溶かす。
「ネルネルネル練れば練るほど・・・」
「それ以上はやめましょうね、リズエさん」
「練るの飽きた練るの飽きたねるの飽きたねるの飽きた寝る飽きた寝る亜北ネ・・・」
「ボカロ亜種もやめましょうね、イルちゃん」
一通り溶けたら今度は何か混ぜる。ここが、手作りチョコレートの醍醐味というやつだ。当然、トッピングの類はいっぱい用意してある。
「なににしようかな、リズエは何にするの?」
「肉」
「それは・・・合わないと思う・・・」
というか、なにその罰ゲーム。
「料理は足し算と言うだろう?
良い物と良い物を足し合わせれば素晴らしい物が出来上がるに違いない」
自信満々に胸を反らすリズエを見て、料理が苦手な理由が分かった。手先が不器用というのを料理が苦手な理由に挙げる人(魔物)がよくいるが、本当のところそうではない。例えばカレーを思い浮かべてもらえば良い。手先が不器用だと見た目や多少焦げがついてしまうかもしれないが食べられない物というのは滅多にできない。実は料理なんてものは案外手先が不器用でもできてしまうものなのだ。
じゃあ、料理ができない人達というのはいったいどんな人だろう。味覚が壊滅的な人だろうか?でも、そんな人でも大部分の人達が好きなものを全て不味いという訳ではないはずだ。味覚が壊滅的と言われる人でさえ医学的な味覚障害でもないかぎりは、あくまで好みの問題であって料理ができない理由にはなりにくいと思う。
料理ができない人の真相とは本当はシンプルなのだ。
いきなり自分流にアレンジしてしまう人
自分ルールを作ってしまう人
この二択。リズエの場合は後者だ。そして、この二種類の人に共通の処方箋がある。それは、一度レシピ通りに作ってみることだ。言われた通りに、あるいは書かれている通りに。料理が出来ない人というのは途中で“こうすれば良いじゃん”とか“これを使ってみよう”とか言って最後までやらないのだ。
とりあえず“レシピ通り”に一度作ってみると最低ラインはクリアするはずだから、もし料理ができない人は是非“レシピ通り”試してみて欲しい。大事な事なので二回言ったよ。
もっとも魔物の感性なんて魔物それぞれだから一概には言えない訳で・・・リザードマンって肉食だし、もしかしたら、リザードマン的には普通なのかもしれない。だとしたら否定する根拠なんて微塵も無いから、僕もそれ以上何も言わない。確かこういうときは、触らぬ神に祟りなし、というんだよね・・・
「ストナは何をいれるの?」
「子供達に配る分にはアーモンドを入れて、アーモンドチョコにするつもりですよ
大きいものを一つあげるより数があった方が喜びますし、その方が配る時も楽ですから
イルは何を混ぜるんですか?」
実はそれが問題だ。何を入れて良いか分からない。喜んでくれるものを入れたいのだけれど、驚かせたいから訊いていない。しかも、張り切ってトッピングを買いすぎてしまったので、選択肢が多すぎるのだ。
「それは困りましたね・・・気になる殿方に差し上げるのでしたら尚更ですね
でも、良い案がありますよ」
「本当?」
えぇ、とストナは頷いた。流石は数多の悩みを解決してきた副司祭様だ、頼りになる。
「愛液なんてどうですか?」
よろしければお手伝いしますよ、と爽やかに言われたけど丁重にお断りさせて頂いた。慌てて一番近くにあったホルスタウロスのミルクを選ぶと、セーブポイントに辿り着いたような妙な安心感があった。
・・・
若干の貞操の危機を感じつつも無事(?)に生地ができた。後は、型に流し込んで冷やして完成だ。リズエと僕は魔術が使えないので、氷の準備はストナに任せる事になる。凍結呪文で氷を作り出し、リズエが氷を適当な大きさに切りそろえる。その上で作ったチョコレートを冷やすのだ。
「「「完成!!!」」」
出来上がったチョコレートを見せ合いながら無邪気に喜ぶ。僕はハート型のチョコレート、ストナはアーモンドの入ったチョコレート、リズエは・・・とても個性的なチョコレート。
「あとは渡すだけですね、お二人の御武運をお祈りさせていただきます」
「ありがと」
「世話になった」
お礼を言って裏口から出て、一目散に家に向かう。
ディアンの喜んでくれる顔を思い浮かべると幸せな気分になった。足が地面についていないのが自分でも分かる。一生懸命笑いを堪えようとしているのに頬が緩んでしまう。ディアンのことをドッキリさせたかったのに、これでは何か企んでいる事が悟られてしまうかもしれない。
でも、それも悪くないかな。
そうしたら、「ありがとう」以外の自分の気持ちを素直に言えるかもしれない。その上、もしかしたら良いお返事がもらえるかもしれない。そして、驚く僕はそのまま押し倒されて耳元で優しく囁かれるんだ・・・
その先を想像してカッと耳まで熱くなる。
ブンブンと首を振って、さっきの妄想を頭から追い出す。冷静になりなさい、イル。まだ駄目、皮算用にも程がある。まださっきの想像の名残で顔が熱い、おまけに心臓がドキドキと早鐘を打っているのが分かる。診療所の扉の前で深呼吸をして呼吸を整える。
吸って、吐いて・・・吸って、吐いて・・・
うん、大丈夫。
やっぱりディアンのことを驚かせる事にしよう。魔物なんだもん、驚かせなきゃ。気合いを入れなおしてドアノブを捻る。診療時間は過ぎているけど、この時間ならまだディアンは下で作業しているはずだ。
「ただいま〜」
「おかえり」
いつも通りを装いつつ帰宅を告げると下の階で声がした。一通り明日の準備を終えた頃合いだったらしく、今まさに一息入れようとしたタイミングらしい。予想以上のナイスタイミングだ。
でも、次の瞬間に誤算に気がついた。
「なに・・・それ・・・?」
テーブルの上に何か乗っている。色とりどりの小さな箱。あるものは板状で、あるものは小箱程度の大きさだ。可愛らしい袋に入っているものもある。嫌な予感がする。否、嫌な予感しかしない。
ディアンは振り返った。
「チョコだよ、患者からもらったんだ」
一人じゃこんなに食べられないよ、と苦笑した。
それは僕にとって死刑宣告みたいなものだった。
背後で隠していたチョコレートを握りしめる。できる事なら今すぐ泣き出したい。でも、そんな事をしたって何の解決にもならない。ただ、ディアンを困らせるだけだ。
「良かった、ね」
それだけいうのが精一杯だ。
・・・
「良かった、ね」
帰ってきた時は声がとても弾んでいたのに、俺の顔を見ると今度は一転して今にも泣きそうな声色になった。あまりの豹変ぶりに戸惑っていると、背を向けて家を出て行ってしまった。呼び止める暇さえなかった。
イルが家を出て行ってしまった理由は分からない。いつもは大人しいし、言いつけもしっかりと守るのだけれど、たまに癇癪を起こす事はあった。多分、今回もその延長であるとは思う。暗くなる前には必ず帰ってくるか連絡ぐらい寄越すだろうという確信はあった。
「だからって、放っておける訳ないけどな・・・」
大通りの真ん中で途方に暮れながら呟く。
イルの事を追い掛けて玄関先まで出てきたのだけれど、鍵を掛けるか否かで迷いイルを見失ったのは不覚だった。
「どうするか・・・」
手当たり次第に探したとして、頭の冷えたイルが家に戻ってきて入れ違いになると最悪だ。イルは家の鍵なんて持っていないだろうから、玄関先でポツンと一人で待っている事になる。そしたら、折角帰ってくるつもりだったとして拒絶されたと悲しむだろう。下手したらまた出て行ってしまうかもしれない。
ここはイルの行きそうな場所を一通りチェックした後、家で待機しているのが正しい選択だ。
じゃあ、行きそうな場所って?
診療所の看板娘として働いて患者達と接しているのだ、面識程度ならファフの大部分の住人とつながる。しかも、真面目に働くため方々から弟子入りの誘いを掛けられている事を考えると、匿ってくれると申し出ない住人を数える方が早そうだ。もし、職人連中に匿ってもらっているとしたら全てを調べる時間はない。
・・・いや、職人達がいくらラブコールをしても首を横に振って断っていた事を考えると、イルが職人達に匿ってもらうというのも可能性としては低い。
そもそも、家を飛び出したのだから不満を誰かに受け止めてもらいたいはず。
となれば、愚痴を言い合える仲の人間か魔物の所に行くだろう。そうなると選択肢はかなり狭まる。
なにかを告白するという意味では教会は可能性としては濃厚ではある。あとはリズエかアレサの所か。“北の塔”という選択肢も無い訳ではないが、イルの足で今から行っては真夜中になるので可能性はほぼゼロだ。範囲的にはファフの中か周囲程度までが限度といった所だろう。
「あ、ディアン」
行き先も絞り込んだし、探しに行くか
と思った時に声を掛けられた。一瞬「イル!?」と思ってしまったが違った。
「あのさぁ、そんながっかりされると年頃の娘としては結構傷つくんだよ?」
「それは申し訳ない」
声を掛けてきたのは酒場兼宿屋の看板娘アレサだった。両手に大量の食材を抱えている所を見るとおそらく買出しの帰りだろう。拗ねた表情を向けるアレサに謝罪をすると今度はニコリと笑った。正直、女子というのは何を考えているのか分からない。山の天気と女性の機嫌ほど予想しにくいものはないと思う。
「で、なんだか随分と切羽詰まっていた感じだけど、どうしたの?」
そうだ、まさにそれを訊こうとしていたのだ。
「イルが帰って来たと思ったら、突然出て行ってしまったんだ
それで、探しているんだけど・・・アレサの所には来てない?」
「ずっと買出ししていたからなぁ・・・宿屋の方に来てたら分からないけど、少なくとも見てないよ?」
「ありがとう、そうしてもらえると助かる」
それじゃ、と駆け出そうとすると“待って”と声を掛けられた。バランスを崩しかけたがなんとか立ち止まる。
「一応訊いておくけど、出て行った心当たりはないの?」
「帰ってくる時は機嫌が良さそうだったし、特に・・・」
強いていうなら“チョコレートをもらったから一緒に食べよう”と言おうとした事ぐらいだが、それが要因とは考えにくいだろう。でも、それ以外の事でイルが怒るような事は言ってないし、した覚えもない。
となると、何に怒ってしまったのか・・・
「サイテー・・・」
完璧に白い目でアレサに見られた。なんでアレサまで。むしろ甘い物が好きなイルなら喜ぶと思ったんだけど・・・
「知らぬは本人たちだけ
まったく・・・なんで気がつかないの?」
「そんなに呆れられると傷つくんですけど・・・」
ハァ、とアレサは溜め息をついた。そんなに呆れないでくれ・・・でも、呆れているという事はイルが怒った理由が分かったという事だろう。
「それで、イルは何で怒っているんだ?」
「そんな物は自分で考えなさい
私が教えた所でなんの意味もないもの」
本当に救いようのない人ね、とあきれ果てるように首を振る。でも、再びこちらに顔を向けた時は楽しそうな苦笑だった。
「ま、会えば解決する問題なんだから、特に気にする必要もないわ。
私が言える事は、狼に横取りされる前に食べちゃいなさいという事ぐらい」
・・・引き止めておいてなんなんだよ
アレサの言いたい事が全く分からず問いただしたい所だが、今はイルを探す事が一番の優先事項だ。なにか引っ掛かるものを感じながら短く礼を言って走り始める。
・・・
「落ち着いたか?」
「うん」
木で作られた机と木をくりぬいて作ったコップ、見れば小屋の中にある大部分のものは木製だ。ここは門の近くにある門番の詰め所。
コップの底にはリズエの淹れてくれた琥珀色の液体が溜まっている。僕はそれを覗き込みながら頷く。あまり飲む気はしないけど、話を聞いてもらうと大分気持ちは楽になった。
「タイミングが悪かっただけだから気にするな」
「でも、こんなにチョコレートは食べられないって言ってたんだよ?」
「あの“お人よし”の事だ。善意であげると言えば、どんなものでももらうだろうさ」
リズエはそう言い切ったが僕には自信がない。ディアンのテーブルには、山のように高級そうなチョコレートが乗っていた。味だって見た目だって比べるべくもない。
「無理だよ・・・」
「そうでもないぞ」
「イル!」
突如として、外から声がした。聞きなれた声で目を丸くすると、わずかにリズエは小屋の出口に目をやり、それから僕に片目を瞑ってみせた。“行ってみな”という事だろう。躊躇いはあったものの、それは僅かな間だ。誘われるように出口の扉の前に行って、ドアのノブに手を掛ける。
ガチャリと扉を開いて、外を見ると人間が一人いた。
「どうして・・・」
「それは、こっちの台詞だよ・・・
行きそうな場所を・・・まわるのだけでも大変だったんだぞ・・・?」
膝に手をつき、ゼェゼェと肩で息をしているディアンは僕を見ると安堵の笑みを見せた。言っている意味が分からない。けれど、胸の奥が熱くなる。隣ではリズエが勝ち誇ったような笑みを僕に向けていた。
「暗くなる前に、帰るよ」
「・・・うん」
まだ完全に息を整えられていないまま、ズボンで汗を拭いて僕の前に手を出した。そっと、その手を握る。
「リズエも悪いね、迷惑じゃなかったか?」
「別に、そうでもないさ」
「そう言ってもらえると、助かる」
今度お礼に何か奢るとディアンは言って、僕たちは門の方へ向かう。
「おい、ディアン」
「うん?」
門を開き、帰路につこうとする僕らをリズエは呼び止めた。
「今日、イルは靴を履いていないみたいだぞ」
・・・リズエも余計なことを
ディアンが僕の方を見た。町で歩く時は靴を履けと言われている。それは石などが刺さってしまうと危ないからという理由だ。でも、ファフに来る前は裸足だったし、マンドラゴラの足は根っこなので足の裏は硬いし再生力もかなり強い。だから大して心配する必要もなかったりする。
それでも、ディアンは認めてくれなかった。ビシッと人差し指が僕の額をつつく。俗に言うデコツンだ。いつもは軽い注意なんだけど、今回はいつもより力が込められていて地味に痛い。地味に怒っている。大分、心配掛けていたんだから当然だ。
僕がリズエに抗議の声を上げようとすると、ディアンは僕に背を向けてしゃがんでいた。
「背負って帰る」
「!?」
ないないないない、それはない!
何言ってるのディアン!?意味わかんないって!大体、僕は魔物だよ?成熟した魔物が人間に負われているのなんて見られたらなんて言われるか分からないよ!僕の立場も考えてってば!
ただ、そんな心の叫びも虚しく。ディアンはそこから動かない。誰かを心配している時ディアンは他に良い方法が無い限り絶対に自分の考えを曲げない。お節介だろうが、自分に利益がなかろうが関係ない。自分の事を襲おうとした魔物でさえ相談に乗ってしまうくらいなので、今僕が何を言った所でテコでも動かないだろう。
それはディアンと共同で生活する上で学んだ事なので間違いない。この場合は、僕が折れるしかないのだ。
できるだけ時間を掛けて背中に近づく。余計な脂肪も、それどころか、筋肉もほとんどついていない華奢な体。後ろから抱きつくような形で背中に乗る。少しだけ汗の匂いがした。
よ、と小さく呟いて、立ち上がる。
「それじゃ、また」
「あぁ、気をつけて」
そういって、僕たちは帰路に就いた。
・・・
もう夕方だからか、それとも、大通りから少し外れた道を歩いているせいか人も殆どいない。聞こえるものも、時折、酒場で大騒ぎしている声が聞こえるぐらいだ。家に着くまで、誰にも見られずにすみそうだ。
「あのさぁ」
「うん?」
後ろから声を掛けると、ディアンは器用に首だけ振り向いた。
前を向いたまま聞いてくれると思っていたのに振り向かないでよ・・・
顔が近くて思わず視線を落としてしまう。声を掛けたのに僕の方から視線を外してしまっては、僕は変な子だと思われてしまうだろうか。それは嫌だ。
「その・・・チョコレート、欲しい?」
だから、勇気を振り絞って続ける。ディアンはパチパチと目を瞬かせたのが分かる。それは、戸惑うよね。あれだけあるんだもん。今更、要らないよね・・・
「うん、欲しい」
ディアンは微笑んで答えた。てっきり断られる物だとおもっていたので、今度は僕が戸惑う番だった。
「チョコレートって言っても、そんなに上等な物じゃないし・・・溶かして固めたやつだから形だって悪いし・・・味も悪いかもしれないんだよ?」
「イルの手作りなの?」
僕の問いにディアンはトンチンカンな答えを返してきた。もう後には引けない。
「これでも・・・良いの?」
ポケットからチョコレートの入った袋を取り出して、差し出す。ポケットに入れたまま走ったせいか体温で溶けていたし、ハート形も大分歪んでいた。
「ありがとう」
ディアンは喜んで受け取ってくれた。本当に心の底から嬉しそうに笑う。裏表の全く無い純粋な笑みだ。
(お人よし・・・)
小さく心の中で呟いて、僕はディアンの背中に顔を押し付ける。
僕も成長したけれど、ディアンの方が頭一つ分くらい背は大きい。僕が小柄なのは遺伝的な問題らしい。けれど、こうして背負ってもらえるのは僕が小柄だからだ。
「ありがと」
「?」
感謝の意味はお人よしのディアンには分からなかったようだ。
・・・・・・
「ところで、ディアン。あのチョコレートは誰からもらったの?」
「え?
ルフからもらったんだよ」
「スライムの?」
「大量に買い込んだんだけど、食べられないからくれるだって」
実は、今回のオチは僕の勘違いだったんだ・・・
ただ魔物をあまり良く思っていない人たちの集まりである事は知っている。彼らの教義によれば“魔物達は人間の生活を脅かす存在であり神に反逆する魔性の物”とかいうらしい。おかげで魔物の事を良く知らない人間は“魔物は人の血肉を喰らうもの”と誤解しているらしい。
確かに魔物は人を襲うかもしれないけれど(僕は襲えた事ないけど・・・)、それは人が食事を取るのと同じく魔物には精が必要なのだ。それに魔物だって人を傷つける事は・・・無いわけじゃないけど・・・精を搾取する時だって、相手の寿命をすり減らさないようには注意しているはず。それに、現状として魔物と人が共存しているファフという事例がある以上、魔物=悪と決め付けるのは偏見のような気がしてならない。
まぁ、魔物の僕が主張しても説得力がないし、ファフの司祭様みたいに適度な折り合いを持てない聖職者の方々にとって“汚らわしい魔物が何か言っている”くらいにしか思わないだろう。ここは僕が大人になって教会に対して歩み寄りの姿勢を見せ、正教に対しての僕の理解も深める事にしよう。
さて、教会の一番有名なイベントと言えば、バレンタインデー。
司祭様曰く、日頃の感謝を形にして相手に示し、男女の愛を誓い合うという日らしい。
愛の大切さを説く教会を理解するには、この一番有名で愛に関わるイベントに参加するのが良いに違いない。
うん、理論武装も完璧だ。
これで僕はどこからどう見ても教会に興味をもった魔物にしか見えないはず!
「・・・イルちゃんは、地域の奉仕活動に参加しているから教会の事はよく知っていると思うんだけど」
「良いの!
ねぇ、バレンタインデーって何するの?教えてよ」
「そうだねぇ、地方によっても違うから一概には言えないけど、日頃の感謝を示すのなら手紙やカードを送ったりするのが一般的かな」
「僕は文字を書けないよ・・・」
文章はなんとかかんとか読めるようになってきたが、書ける所まで到達していない。今からずっと徹夜で書いても一週間はかかると思う。バレンタインデーという建前があるからこそのチャンスな訳で、一週間後に渡すなんて阿呆みたい。そんなのは駄目だ。
「それなら“いつもありがとう”と言ってあげるだけでも十分伝わると思うよ」
「それが、伝わらないんだよ・・・
いつも気配りして優しくしてくれるクセに、信じられない位のお人よしのニブチンなんだ“いつもありがとう”なんて言ったら“何かしたっけ?”とか“どうした、何かあったの?”とか言ってくるに決まってるよ」
「じゃあ、代筆を頼むとか誰かに習いながら書いてみるとかはどうかな?」
「絶っ対嫌!」
親切で提案してくれたのだろうけど随分と間抜けな提案だったので、思わず思いっきり嫌な顔を向けるとヴィンセント神父は驚いたように目を瞬かせた。
「思いの人への手紙は、最初に思いの人に読んで頂きたいですもの
例え同性であったとしても、誰かに見られるのは嫌ですわ」
良い案が思い浮かばず思いだけが空回りしていく感覚にたまらず足踏みをしていると、僕と神父のやりとりを聞いていた副司祭のストナがクスクスと笑いながらやってきた。
「ジパングでは、バレンタインチョコを贈る習慣があるそうですよ」
「ばれんたいんちょこ?」
「ジパングでは、バレンタインデーにチョコレートを贈るんだよ」
「孤児院の子供達にあげるのに作るつもりなのですが、一緒に作りませんか?」
「良いの?」
「えぇ、一人で作るよりもみんなで作った方が楽しいですもの」
二つ返事で許可をもらった!
・・・
次の日、必要な材料を買いこんで再び教会にやってきた。
「おはようございます」
裏口から入って挨拶すると、敬虔そうな修道女が“おはようございます”と返してくれた。表口から入らないのは、一応、教会の教義として“嗜好品は禁止”というものがあるからだ。ダークプリーストを副司祭に据えているくらいなので、実際は名ばかりの教義にはなっているけど念のためと言うやつだ。
それにチョコレートを作っている事をお祈りに来た人に知られてしまうとあげなくちゃいけなくなるというのもある。
「えっと・・・ストナ様はどこにいらっしゃいますか?」
ストナに裏口から入っておいでと言われたので、裏口にやってきたのだけれどその後の事は聞くのを忘れていた。とりあえず、ストナに取り次いでもらおうと近くにいた修道女に尋ねてみると、修道女はストナの所に連れて行ってくれると申し出てくれた。良い人だ。
「ストナ様、可愛らしいマンドラゴラの少女が来ましたよ」
連れられてたどり着いた場所は教会の台所だ。
教会は孤児院が併設されており、孤児達の食事は教会で作られているので台所は広い。調度ストナは棚から道具を出していた準備をしていたらしく、ボウルを抱えていた。
「お待ちしておりました
さ、皆さん御揃いのようですし・・・始めましょうか」
みなさん?と首を傾げて台所を見渡すと茶色の髪をした女性がいた。修道女達は清貧である事を美徳としている部分があるので必要以上に装飾品を身に付けないし、体のラインを強調するような服装はしない。けれど、彼女はスレンダーな体を強調するように緑の服に身を包んでいた。気の強そうな少しだけ釣りあがった目は見覚えがある。
「リズエお姉ちゃん!」
名前を呼ぶとエプロンを付ける事に手間取っていたリザードマンは顔を上げる。僕に気が付くと少し気恥ずかしそうに片手をあげた。
「すまない、後ろで上手く結べないのだが、結んでくれるか?」
「あ、うん。良いよ」
背中の後ろでエプロンを結んであげると、“ありがとう”と礼を言ってくれた。男の人には滅多に見せない微笑に僕は嬉しくなる。本人曰く緊張してしまうらしい。リズエは頼りがいがあるけど意外な所に弱点がある。でも、そんなところを含めて僕の“お姉ちゃん”なのだ。
僕がリズエの紐を結んであげると、ストナは鎖を持って立っていた。
「あら、結べないなら言って下されば結んで差し上げましたのに・・・」
ストナは心底残念そうに呟いて頬に手を当てた。先ほどの修道女といい、ストナといい、教会の人達は本当に誰かの役に立つ事が好きなんだな、と感心する。
ストナはスカートの下に先程の鎖を仕舞い、その一部始終を見ていた僕と目があった。
「どうなさいました?」
「あ、ううん。スカートの中に鎖を仕舞うスペースがあるんだぁ、て思ってただけ」
僕も体から生えている蔓は自分の意思で動かせるので普段は邪魔にならないように身体に巻きつけているけど、鎖だとそういう訳にもいかないだろう。たまに葉っぱが擦れて傷んでしまう時があるので、巻きつける以外に方法があるのなら聞いておきたい。
「フフフ、では、特別にご開帳」
スッとスカートの前の部分をつまみあげ、そのまま少しずつ上げていく。鎖が仕舞われているとは思えないような軽さで布が持ち上がっていく。
「これで分かりますか?」
「ううん、どこに仕舞ってあるの?」
半分程持ち上げた所でストナは尋ねた。けれど鎖の端っこさえ見つからない。首を振ると少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべ少し近づいてみるように言った。言われた通りに近づいて観察したけれど、やっぱりわからない。
「知りたいですか?」
「うん」
「仕方のない子ですねぇ・・・もう少しだけサービスをしてあげましょう」
そういって再びストナのスカートの裾が持ち上が・・・
「恥ずかしいから、やめんか!」
・・・る前に後ろからリズエに小突かれた。そのままビシッビシッと僕とストナを交互に指差し、
「イル、いくら鎖の隠し場所が気になるからってそんな間近で見るんじゃない!
ストナ、女子しかいないからと言って易々とスカートなんぞ捲り上げるな!」
とおっしゃった。
確かにその通りだ
ディアンが薬師で診療中に聴診器を当てたりするのに相手の服を捲らせたりするので、僕にとっては服の中を覗くという事は割と普通だったりする。でも、一般的には服を捲くって下着を見せたら反応はそんなもんだよね。
薬師的には
必要かつ相手が自分から服を捲くる=見えても仕方ない
だけど、一般的には
自分から服を捲くる≠見ても良い
だもん。
「すみません・・リズエさん
少しイルちゃんの事をからかい過ぎてしまいました」
「ごめんなさい」
感覚的にはストナと僕は魔物側でリズエは人間側に近い。町で暮らす以上は人間側に合わせる必要があるので、ここはリズエが正しい。二人で頭を下げるとリズエは納得してくれたようだ。
「では、怒られないように素直に種明かしをしますか
実は、縛り方に工夫があってですねぇ・・・」
ストナは乱れたスカートの裾を直し、いつの間にか僕の蔓に見立てた紐を取り出してきて実際にやってみせてくれた。動きも制限しないし葉っぱも擦れなさそうだ。
「覚えておくと便利ですよ、一度自分でやってみると良いですね
他にも覚えておくと便利な縛り方がありますよ」
「へぇ、なになに?」
「例えば・・・」
そう言って僕を後ろ向きに立つと軽く手を後ろに交差させて、手首の辺りを・・・
「やめんかい!」
今度はストナがリズエにチョップされた。
ストナが今やろうとしたのは“後ろ手縛り”というらしい。そんなの役に立つのかなぁ・・・?
・・・
「チョコレートを作る前にバレンタインデーについて少しお話しましょうか
バレンタインデーの起源に関する諸説は色々ありますが、殉教した聖ウァレンティヌスに由来する記念日と言われるのが一般的でしょうか。ジパングではお菓子職人達の集団が購買を促進させるために普及させたと言われています。当時のジパングは女性が奥ゆかしい事を美徳とする風潮があったので、積極的に女性達が告白する機会としてニーズが一致していたのでしょう」
チョコレートの入った箱を開けながらストナはバレンタインデーについてそんな説明してくれた。あまりに淀みなく説明してくれたので、箱を開ける手をとめて聞き入ってしまった。
確かにストナはファフの副司祭だけどダークプリーストなので“堕落した神”の熱心な信者(正教からすれば、いわゆる邪教信者)だ。そのため正教の公式な場所に出る事はなく、いつも司教様の代わりにサバトと交渉を進めたり、邪教信者の魔物達の結婚式を挙げたりしている。
もちろん、司祭様がストナを目の仇にするどころか、サバトや邪教との関わり方は司祭様にとっても難しい事(サバトに男性が迷い込んだ所を想像してみると良く分かる)なので、頭を悩ませる必要なくなったと喜んでいるそうだ。
「それにしても、よく知っているなぁ・・・専門は邪教だろ?」
「えぇ、私もダークプリーストの端くれですからね
ですが、自らの教義だけを主張しても無用な争いを引き起こす原因となるだけです。人や魔物を救うはずの教えによって争いが引き起こされるほど悲しい事もありません。他教の文化を理解するというのは、相互の理解を深める事や他人を寛容できる心を養う事にもつながりますよ」
「なるほど・・・」
やんわりとストナは説明すると、リズエは若干戸惑ったようだ。僕だって驚いているんだから無理も無い。チラリと僕に目配せした所をみるとリズエもストナの評価を上の方へ修正しているみたいだ。
「ところで、チョコレートは元々辛い飲み物だったらしいですね。当時は高級品で媚薬や強壮剤として使われていたそうです。それが今や愛の証ですからね。もしかしたら、奥ゆかしいと言われますがジパング人は魔物以上の魔物かもしれませんよ?」
あ、リズエの評価が元に戻った。
・・・
気を取り直して
チョコレートの作り方と言ってもカカオから作る訳じゃなくて、チョコレートを湯煎で溶かして、型に入れて固めるというヤツだ。コレを手作りと言うかどうかは疑問だけど、要は気持ちの問題。誰かのために心を込めたという事と手間隙をかけたという事が重要なのだ。
「まずは、包丁でチョコレートを刻みましょう
手を切らないように気をつけてくださいね」
「了解」
「うん」
包丁で板チョコを刻む。ディアンと食事を作る時に包丁を握る事はあったし、薬を作る時にナイフで薬草を刻む事もあるので簡単だと思ったけど、これがなかなか難しい。刻みやすい薬草と違い、チョコレートは硬く一度切れ目が入ると今度はいっきに真っ二つになる。リズエは力があるのでなんとかなるが、僕は非力なので体重をかける必要がある。そのため、一回切るごとに
ガンッッッ!!!
と強烈にまな板を叩く事になる。そのたびに僕は反動を受け、チラチラと様子を見るような視線をリズエから送られている。
「リズエはストロベリーチョコレートにしたの?」
確かホワイトチョコを刻んでいたような気がしたんだけど。ストロベリーを選ぶなんてちょっぴり意外だ。意外と甘い物好きだったりとか?
「いや・・・」
緩やかにリズエが首を振ったので、“違うの?”と首を傾げる。そういえば、リズエの顔色が優れない。リズエの手元に目線を移すとイチゴの果肉でも潰したみたいな色になっていた。ちなみに今回は苺なんて高級品は用意していない。
じゃあ、先ほどのチラチラと様子を見るような視線の意味も多分違うだろう
「ストナ、包帯ある?」
・・・
「では、刻んだチョコレートを溶かしましょう」
「結局溶かすなら刻んだ意味はあるのか?」
リズエはストナに聞いてみた。手には包帯を巻いてある。
「チョコレートを溶かし易くするんです
チョコレートは湯煎が重要ですから・・・温度調整が難しいんですよ。それとチョコレート内に水分が入ってしまうといけませんというのもありますね」
チョコレートを作る職人達の間ではチョコレートを作る温度というのは秘伝らしい。ちょっと温度が違うだけで舌触りが全く違うそうだ。
「へぇ・・・そうなんだ、しかも湯煎を使うのかぁ
今まで、普通に火にかけてた」
・・・それでできる方がすごいよ
お湯の入ったボウルの上にチョコレートを刻んで入れたボウルを乗せ、ヘラで混ぜながら溶かす。
「ネルネルネル練れば練るほど・・・」
「それ以上はやめましょうね、リズエさん」
「練るの飽きた練るの飽きたねるの飽きたねるの飽きた寝る飽きた寝る亜北ネ・・・」
「ボカロ亜種もやめましょうね、イルちゃん」
一通り溶けたら今度は何か混ぜる。ここが、手作りチョコレートの醍醐味というやつだ。当然、トッピングの類はいっぱい用意してある。
「なににしようかな、リズエは何にするの?」
「肉」
「それは・・・合わないと思う・・・」
というか、なにその罰ゲーム。
「料理は足し算と言うだろう?
良い物と良い物を足し合わせれば素晴らしい物が出来上がるに違いない」
自信満々に胸を反らすリズエを見て、料理が苦手な理由が分かった。手先が不器用というのを料理が苦手な理由に挙げる人(魔物)がよくいるが、本当のところそうではない。例えばカレーを思い浮かべてもらえば良い。手先が不器用だと見た目や多少焦げがついてしまうかもしれないが食べられない物というのは滅多にできない。実は料理なんてものは案外手先が不器用でもできてしまうものなのだ。
じゃあ、料理ができない人達というのはいったいどんな人だろう。味覚が壊滅的な人だろうか?でも、そんな人でも大部分の人達が好きなものを全て不味いという訳ではないはずだ。味覚が壊滅的と言われる人でさえ医学的な味覚障害でもないかぎりは、あくまで好みの問題であって料理ができない理由にはなりにくいと思う。
料理ができない人の真相とは本当はシンプルなのだ。
いきなり自分流にアレンジしてしまう人
自分ルールを作ってしまう人
この二択。リズエの場合は後者だ。そして、この二種類の人に共通の処方箋がある。それは、一度レシピ通りに作ってみることだ。言われた通りに、あるいは書かれている通りに。料理が出来ない人というのは途中で“こうすれば良いじゃん”とか“これを使ってみよう”とか言って最後までやらないのだ。
とりあえず“レシピ通り”に一度作ってみると最低ラインはクリアするはずだから、もし料理ができない人は是非“レシピ通り”試してみて欲しい。大事な事なので二回言ったよ。
もっとも魔物の感性なんて魔物それぞれだから一概には言えない訳で・・・リザードマンって肉食だし、もしかしたら、リザードマン的には普通なのかもしれない。だとしたら否定する根拠なんて微塵も無いから、僕もそれ以上何も言わない。確かこういうときは、触らぬ神に祟りなし、というんだよね・・・
「ストナは何をいれるの?」
「子供達に配る分にはアーモンドを入れて、アーモンドチョコにするつもりですよ
大きいものを一つあげるより数があった方が喜びますし、その方が配る時も楽ですから
イルは何を混ぜるんですか?」
実はそれが問題だ。何を入れて良いか分からない。喜んでくれるものを入れたいのだけれど、驚かせたいから訊いていない。しかも、張り切ってトッピングを買いすぎてしまったので、選択肢が多すぎるのだ。
「それは困りましたね・・・気になる殿方に差し上げるのでしたら尚更ですね
でも、良い案がありますよ」
「本当?」
えぇ、とストナは頷いた。流石は数多の悩みを解決してきた副司祭様だ、頼りになる。
「愛液なんてどうですか?」
よろしければお手伝いしますよ、と爽やかに言われたけど丁重にお断りさせて頂いた。慌てて一番近くにあったホルスタウロスのミルクを選ぶと、セーブポイントに辿り着いたような妙な安心感があった。
・・・
若干の貞操の危機を感じつつも無事(?)に生地ができた。後は、型に流し込んで冷やして完成だ。リズエと僕は魔術が使えないので、氷の準備はストナに任せる事になる。凍結呪文で氷を作り出し、リズエが氷を適当な大きさに切りそろえる。その上で作ったチョコレートを冷やすのだ。
「「「完成!!!」」」
出来上がったチョコレートを見せ合いながら無邪気に喜ぶ。僕はハート型のチョコレート、ストナはアーモンドの入ったチョコレート、リズエは・・・とても個性的なチョコレート。
「あとは渡すだけですね、お二人の御武運をお祈りさせていただきます」
「ありがと」
「世話になった」
お礼を言って裏口から出て、一目散に家に向かう。
ディアンの喜んでくれる顔を思い浮かべると幸せな気分になった。足が地面についていないのが自分でも分かる。一生懸命笑いを堪えようとしているのに頬が緩んでしまう。ディアンのことをドッキリさせたかったのに、これでは何か企んでいる事が悟られてしまうかもしれない。
でも、それも悪くないかな。
そうしたら、「ありがとう」以外の自分の気持ちを素直に言えるかもしれない。その上、もしかしたら良いお返事がもらえるかもしれない。そして、驚く僕はそのまま押し倒されて耳元で優しく囁かれるんだ・・・
その先を想像してカッと耳まで熱くなる。
ブンブンと首を振って、さっきの妄想を頭から追い出す。冷静になりなさい、イル。まだ駄目、皮算用にも程がある。まださっきの想像の名残で顔が熱い、おまけに心臓がドキドキと早鐘を打っているのが分かる。診療所の扉の前で深呼吸をして呼吸を整える。
吸って、吐いて・・・吸って、吐いて・・・
うん、大丈夫。
やっぱりディアンのことを驚かせる事にしよう。魔物なんだもん、驚かせなきゃ。気合いを入れなおしてドアノブを捻る。診療時間は過ぎているけど、この時間ならまだディアンは下で作業しているはずだ。
「ただいま〜」
「おかえり」
いつも通りを装いつつ帰宅を告げると下の階で声がした。一通り明日の準備を終えた頃合いだったらしく、今まさに一息入れようとしたタイミングらしい。予想以上のナイスタイミングだ。
でも、次の瞬間に誤算に気がついた。
「なに・・・それ・・・?」
テーブルの上に何か乗っている。色とりどりの小さな箱。あるものは板状で、あるものは小箱程度の大きさだ。可愛らしい袋に入っているものもある。嫌な予感がする。否、嫌な予感しかしない。
ディアンは振り返った。
「チョコだよ、患者からもらったんだ」
一人じゃこんなに食べられないよ、と苦笑した。
それは僕にとって死刑宣告みたいなものだった。
背後で隠していたチョコレートを握りしめる。できる事なら今すぐ泣き出したい。でも、そんな事をしたって何の解決にもならない。ただ、ディアンを困らせるだけだ。
「良かった、ね」
それだけいうのが精一杯だ。
・・・
「良かった、ね」
帰ってきた時は声がとても弾んでいたのに、俺の顔を見ると今度は一転して今にも泣きそうな声色になった。あまりの豹変ぶりに戸惑っていると、背を向けて家を出て行ってしまった。呼び止める暇さえなかった。
イルが家を出て行ってしまった理由は分からない。いつもは大人しいし、言いつけもしっかりと守るのだけれど、たまに癇癪を起こす事はあった。多分、今回もその延長であるとは思う。暗くなる前には必ず帰ってくるか連絡ぐらい寄越すだろうという確信はあった。
「だからって、放っておける訳ないけどな・・・」
大通りの真ん中で途方に暮れながら呟く。
イルの事を追い掛けて玄関先まで出てきたのだけれど、鍵を掛けるか否かで迷いイルを見失ったのは不覚だった。
「どうするか・・・」
手当たり次第に探したとして、頭の冷えたイルが家に戻ってきて入れ違いになると最悪だ。イルは家の鍵なんて持っていないだろうから、玄関先でポツンと一人で待っている事になる。そしたら、折角帰ってくるつもりだったとして拒絶されたと悲しむだろう。下手したらまた出て行ってしまうかもしれない。
ここはイルの行きそうな場所を一通りチェックした後、家で待機しているのが正しい選択だ。
じゃあ、行きそうな場所って?
診療所の看板娘として働いて患者達と接しているのだ、面識程度ならファフの大部分の住人とつながる。しかも、真面目に働くため方々から弟子入りの誘いを掛けられている事を考えると、匿ってくれると申し出ない住人を数える方が早そうだ。もし、職人連中に匿ってもらっているとしたら全てを調べる時間はない。
・・・いや、職人達がいくらラブコールをしても首を横に振って断っていた事を考えると、イルが職人達に匿ってもらうというのも可能性としては低い。
そもそも、家を飛び出したのだから不満を誰かに受け止めてもらいたいはず。
となれば、愚痴を言い合える仲の人間か魔物の所に行くだろう。そうなると選択肢はかなり狭まる。
なにかを告白するという意味では教会は可能性としては濃厚ではある。あとはリズエかアレサの所か。“北の塔”という選択肢も無い訳ではないが、イルの足で今から行っては真夜中になるので可能性はほぼゼロだ。範囲的にはファフの中か周囲程度までが限度といった所だろう。
「あ、ディアン」
行き先も絞り込んだし、探しに行くか
と思った時に声を掛けられた。一瞬「イル!?」と思ってしまったが違った。
「あのさぁ、そんながっかりされると年頃の娘としては結構傷つくんだよ?」
「それは申し訳ない」
声を掛けてきたのは酒場兼宿屋の看板娘アレサだった。両手に大量の食材を抱えている所を見るとおそらく買出しの帰りだろう。拗ねた表情を向けるアレサに謝罪をすると今度はニコリと笑った。正直、女子というのは何を考えているのか分からない。山の天気と女性の機嫌ほど予想しにくいものはないと思う。
「で、なんだか随分と切羽詰まっていた感じだけど、どうしたの?」
そうだ、まさにそれを訊こうとしていたのだ。
「イルが帰って来たと思ったら、突然出て行ってしまったんだ
それで、探しているんだけど・・・アレサの所には来てない?」
「ずっと買出ししていたからなぁ・・・宿屋の方に来てたら分からないけど、少なくとも見てないよ?」
「ありがとう、そうしてもらえると助かる」
それじゃ、と駆け出そうとすると“待って”と声を掛けられた。バランスを崩しかけたがなんとか立ち止まる。
「一応訊いておくけど、出て行った心当たりはないの?」
「帰ってくる時は機嫌が良さそうだったし、特に・・・」
強いていうなら“チョコレートをもらったから一緒に食べよう”と言おうとした事ぐらいだが、それが要因とは考えにくいだろう。でも、それ以外の事でイルが怒るような事は言ってないし、した覚えもない。
となると、何に怒ってしまったのか・・・
「サイテー・・・」
完璧に白い目でアレサに見られた。なんでアレサまで。むしろ甘い物が好きなイルなら喜ぶと思ったんだけど・・・
「知らぬは本人たちだけ
まったく・・・なんで気がつかないの?」
「そんなに呆れられると傷つくんですけど・・・」
ハァ、とアレサは溜め息をついた。そんなに呆れないでくれ・・・でも、呆れているという事はイルが怒った理由が分かったという事だろう。
「それで、イルは何で怒っているんだ?」
「そんな物は自分で考えなさい
私が教えた所でなんの意味もないもの」
本当に救いようのない人ね、とあきれ果てるように首を振る。でも、再びこちらに顔を向けた時は楽しそうな苦笑だった。
「ま、会えば解決する問題なんだから、特に気にする必要もないわ。
私が言える事は、狼に横取りされる前に食べちゃいなさいという事ぐらい」
・・・引き止めておいてなんなんだよ
アレサの言いたい事が全く分からず問いただしたい所だが、今はイルを探す事が一番の優先事項だ。なにか引っ掛かるものを感じながら短く礼を言って走り始める。
・・・
「落ち着いたか?」
「うん」
木で作られた机と木をくりぬいて作ったコップ、見れば小屋の中にある大部分のものは木製だ。ここは門の近くにある門番の詰め所。
コップの底にはリズエの淹れてくれた琥珀色の液体が溜まっている。僕はそれを覗き込みながら頷く。あまり飲む気はしないけど、話を聞いてもらうと大分気持ちは楽になった。
「タイミングが悪かっただけだから気にするな」
「でも、こんなにチョコレートは食べられないって言ってたんだよ?」
「あの“お人よし”の事だ。善意であげると言えば、どんなものでももらうだろうさ」
リズエはそう言い切ったが僕には自信がない。ディアンのテーブルには、山のように高級そうなチョコレートが乗っていた。味だって見た目だって比べるべくもない。
「無理だよ・・・」
「そうでもないぞ」
「イル!」
突如として、外から声がした。聞きなれた声で目を丸くすると、わずかにリズエは小屋の出口に目をやり、それから僕に片目を瞑ってみせた。“行ってみな”という事だろう。躊躇いはあったものの、それは僅かな間だ。誘われるように出口の扉の前に行って、ドアのノブに手を掛ける。
ガチャリと扉を開いて、外を見ると人間が一人いた。
「どうして・・・」
「それは、こっちの台詞だよ・・・
行きそうな場所を・・・まわるのだけでも大変だったんだぞ・・・?」
膝に手をつき、ゼェゼェと肩で息をしているディアンは僕を見ると安堵の笑みを見せた。言っている意味が分からない。けれど、胸の奥が熱くなる。隣ではリズエが勝ち誇ったような笑みを僕に向けていた。
「暗くなる前に、帰るよ」
「・・・うん」
まだ完全に息を整えられていないまま、ズボンで汗を拭いて僕の前に手を出した。そっと、その手を握る。
「リズエも悪いね、迷惑じゃなかったか?」
「別に、そうでもないさ」
「そう言ってもらえると、助かる」
今度お礼に何か奢るとディアンは言って、僕たちは門の方へ向かう。
「おい、ディアン」
「うん?」
門を開き、帰路につこうとする僕らをリズエは呼び止めた。
「今日、イルは靴を履いていないみたいだぞ」
・・・リズエも余計なことを
ディアンが僕の方を見た。町で歩く時は靴を履けと言われている。それは石などが刺さってしまうと危ないからという理由だ。でも、ファフに来る前は裸足だったし、マンドラゴラの足は根っこなので足の裏は硬いし再生力もかなり強い。だから大して心配する必要もなかったりする。
それでも、ディアンは認めてくれなかった。ビシッと人差し指が僕の額をつつく。俗に言うデコツンだ。いつもは軽い注意なんだけど、今回はいつもより力が込められていて地味に痛い。地味に怒っている。大分、心配掛けていたんだから当然だ。
僕がリズエに抗議の声を上げようとすると、ディアンは僕に背を向けてしゃがんでいた。
「背負って帰る」
「!?」
ないないないない、それはない!
何言ってるのディアン!?意味わかんないって!大体、僕は魔物だよ?成熟した魔物が人間に負われているのなんて見られたらなんて言われるか分からないよ!僕の立場も考えてってば!
ただ、そんな心の叫びも虚しく。ディアンはそこから動かない。誰かを心配している時ディアンは他に良い方法が無い限り絶対に自分の考えを曲げない。お節介だろうが、自分に利益がなかろうが関係ない。自分の事を襲おうとした魔物でさえ相談に乗ってしまうくらいなので、今僕が何を言った所でテコでも動かないだろう。
それはディアンと共同で生活する上で学んだ事なので間違いない。この場合は、僕が折れるしかないのだ。
できるだけ時間を掛けて背中に近づく。余計な脂肪も、それどころか、筋肉もほとんどついていない華奢な体。後ろから抱きつくような形で背中に乗る。少しだけ汗の匂いがした。
よ、と小さく呟いて、立ち上がる。
「それじゃ、また」
「あぁ、気をつけて」
そういって、僕たちは帰路に就いた。
・・・
もう夕方だからか、それとも、大通りから少し外れた道を歩いているせいか人も殆どいない。聞こえるものも、時折、酒場で大騒ぎしている声が聞こえるぐらいだ。家に着くまで、誰にも見られずにすみそうだ。
「あのさぁ」
「うん?」
後ろから声を掛けると、ディアンは器用に首だけ振り向いた。
前を向いたまま聞いてくれると思っていたのに振り向かないでよ・・・
顔が近くて思わず視線を落としてしまう。声を掛けたのに僕の方から視線を外してしまっては、僕は変な子だと思われてしまうだろうか。それは嫌だ。
「その・・・チョコレート、欲しい?」
だから、勇気を振り絞って続ける。ディアンはパチパチと目を瞬かせたのが分かる。それは、戸惑うよね。あれだけあるんだもん。今更、要らないよね・・・
「うん、欲しい」
ディアンは微笑んで答えた。てっきり断られる物だとおもっていたので、今度は僕が戸惑う番だった。
「チョコレートって言っても、そんなに上等な物じゃないし・・・溶かして固めたやつだから形だって悪いし・・・味も悪いかもしれないんだよ?」
「イルの手作りなの?」
僕の問いにディアンはトンチンカンな答えを返してきた。もう後には引けない。
「これでも・・・良いの?」
ポケットからチョコレートの入った袋を取り出して、差し出す。ポケットに入れたまま走ったせいか体温で溶けていたし、ハート形も大分歪んでいた。
「ありがとう」
ディアンは喜んで受け取ってくれた。本当に心の底から嬉しそうに笑う。裏表の全く無い純粋な笑みだ。
(お人よし・・・)
小さく心の中で呟いて、僕はディアンの背中に顔を押し付ける。
僕も成長したけれど、ディアンの方が頭一つ分くらい背は大きい。僕が小柄なのは遺伝的な問題らしい。けれど、こうして背負ってもらえるのは僕が小柄だからだ。
「ありがと」
「?」
感謝の意味はお人よしのディアンには分からなかったようだ。
・・・・・・
「ところで、ディアン。あのチョコレートは誰からもらったの?」
「え?
ルフからもらったんだよ」
「スライムの?」
「大量に買い込んだんだけど、食べられないからくれるだって」
実は、今回のオチは僕の勘違いだったんだ・・・
10/03/07 19:01更新 / 佐藤 敏夫
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