逆に考えるんだ、気まずくてもいいさと
「バカだろ、貴様」
財布を落とした僕に対する友人の第一声である。
小柄な体躯に不釣り合いな威圧的な眼光に射すくめられ、僕は不覚にも笑ってしまった。
大概の話題ならどうでもいいと一蹴する武者小路も、お金が絡む話題となると、かくも恐ろしい。
「はっはっは、憐れんで恵んでくれると泣いて感謝するぜ?」
「ハッ、俺が? タダで情けをかけると? 貴様は俺が釈迦かキリストにでも見えるか?」
「どっちかってーと切捨徒だな」
現在進行形で捨てられてるし、僕。
しかし、藁にも縋るつもりで武者小路に頼りにきたのだ。
こうもアッサリ切り捨てられては困る。
「別に僕は武者小路に金の無心に来たわけじゃねーんだ。聞いてくれよ」
「相談料払え」
「お前ホント鬼だな!?」
蔑むような笑顔で手を差し出す友人はマジキチ(マジ鬼畜の略だ。もっとも武者小路には正式な略称も該当するだろうが)としか言いようがない。
分かり易いと同時に融通の利かない奴だとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。
「あぁ、もう分かったよ。でも僕、残金10円だぞ」
「じゃあ10円分の相談に乗ってやるよ」
そう言って彼は遠慮なく僕がポケットから取り出した10円玉を取った。
あまりにもナチュラルに取るもんだから、抵抗する間すらなかったぞ……。
「で、どうせ財布のことだろう? 落とした場所は把握してるのか?」
しかもホントに相談に乗り始めたし。
「あ、あぁ。確か食堂隣の談話室に……」
「よし、諦めろ」
「10円分にしても結論はやくないか!?」
相談始めて二言目で諦めろとは……。
なけなしの10円を返してほしい。
「ふむ……、なら結論の理由を聞いて納得しろ。それが不可能なら自己完結してくれ」
一方的にそう言い、彼は10円玉をポケットの中に仕舞った。
意地でも返すつもりはないらしい。
さすが守銭奴である。
「財布を落としたのはどうせ昼時だろう? そう考えればもう手遅れだろ」
貴様は実にバカだな、と言いたげに武者小路は煙草を咥える。
夕陽をバックに煙草に火をつける様はよく似合っているが、蔑むような視線が腹立たしい。
大きく灰色の息を吐いて、武者小路は続けた。
「お前のことだから学生課には届け出たのだろう?」
「そりゃ勿論」
「昼に届け出て、未だに発見の報告が無いとすれば悪意ある第三者に盗られたことは明白だ」
それに昼時の談話室はなぁ……、そこで区切って武者小路は煙草を咥える。
「食堂で席が足りずにあぶれた奴が集まってるだろ。拾得者の特定が不可能だ」
煙草を咥えたまま気だるげにそう言い、武者小路は肩をすくめる。
言い分は理解できるが、それで諦めきれないから相談したのだが。
「俺は警察犬じゃないんだ。貴様の財布の所在など知るか」
「そこを何とかムシャえもん」
「次にそのふざけた呼称で呼んだら黄金の夢を見せてやろう(訳、金塊で殴る)」
苛立たしげにそう言い、武者小路は立ち上がった。
「じゃあな。悪いが付き合ってられん」
無情にも吐き捨てて、煙を吹きながらひらひらと手を振る武者小路。
その背中に小さくため息をついて、僕も立ち上がろうとした。
「ん?」
が、ある一点に視線が吸い寄せられ、動きが止まってしまった。
そこは、さっきまで武者小路が座っていたベンチで、違和感を放つカロリーメイトが置かれていた。
無開封で、明らかに武者小路の物であることが分かる。
だが、あいつが忘れ物なんて抜けたことをするキャラじゃないのは長い付き合いから知っている。
「あのツンデレめ」
悪友の厚意に感謝して、僕はそのカロリーメイトを有難く戴いた。
◆ ◆ ◆
がたんと古い線路に跳ねるたびに吊環が揺れる、窓の外はうっすらと暗い。
帰路について、僕は春先に買った定期にしみじみと感動していた。
カードの類は別に取っといて正解だったなぁ……。
そうでなければ、アパートまで歩いて帰る羽目になってたし。
「…………」
にしても、今日の電車混んでるなぁ。
金曜日だから? まぁ、繁華街の方に向かってるし、これから飲みにでも行くんだろうな。
……次のバイトの給料入ったら、武者小路と飲みにでも行こうかなぁ。
そんな風に益体もないことを考えていたときだった。
ぼんやりと思考に耽っていたせいか、僕は電車がカーブに差し掛かったことに、直前になって気づいた。
金属の擦れる音と振動を足に感じて、吊環に掛けていた手を握りこんで踏ん張る。
少し遅れたせいか、バランスを崩してしまい、それだけでは済まなかった。
ドスンッ
「…………!?」
女の子が、僕の胸に飛び込んできた。
恐らくは急カーブに踏ん張りがきかず、体勢を崩してしまったのだろう。
「だ、大丈夫ですか?」
さすがに黙っているわけにもいかず、無難な言葉を選んで呼びかけてみる。
しかし、女の子はこの呼びかけにびくっと身を竦め、耳までカーッと赤くなってしまった。
「あ、あ……っ、あぅ……」
よほど恥ずかしいのだろう。
僕の顔をちらちらと見ては俯き、蚊の鳴くような声で何かを言いたそうにするが、言えてない。
あどけなさの残る顔つきが困惑しており、申し訳ないが僕は素直に可愛いなと思ってしまった。
だが、これはどうなのだろう?
傍から見れば、これって僕、痴漢っぽくねぇ?
「……ぁ……、ぁぅ」
女の子の鈴の鳴るような声が耳に痛い。
やっぱこれ、僕が痴漢っぽく見えるって……!
吊環に掛けていない方の腕を慌てて上げて、すぐさま『痴漢してないアピール』をする。
「……ぅ、あぅぅ……」
「…………!」
い、いけない。
なんか、こう、疑心暗鬼になってるのかなぁ……?
周囲の視線が、なんか痛い気がするなぁ……。
おまけに、あぅあぅ言ってる娘が何気にかわいいし、なにこのやり辛さ……。
プシュー
そうこう悶々としてるウチに、電車がどこぞの駅に着いたらしい。
チクチクと刺さる視線から逃げるように、僕はそそくさと降りることにした。
振り返ると、そこには既に女の子の姿はなく、何故かホッとした。
「な、何だかなぁ……」
しかし、随分と中途半端な駅に降りてしまった。
駅名から察するにアパートから二駅は離れている。
……お財布携帯でも利用して、軽い晩御飯でも食べながら帰ろうかな。
そう思ったら、単純な僕は腹が減ってきたわけだ。
最寄りのコンビニで適当なパン系食品を見繕う。
最近、K's Cafe のパニーニにはまっているため、どうしたものかと悩んでしまう。
妥当に105円のパンか、それとも厚切りベーコンのパニーニか。
そりゃ勿論、僕としては是非ともパニーニが食べたい。
蕩けたチーズと、油の乗ったベーコンと、少し焦げ目のついた熱々のパニーニは絶品だ。
しかし、お財布携帯で買えるとはいえ、今の僕は金欠状態だ。
290円もの贅沢などする余裕がない。
そう考えたら、やはりヤマザキパンが妥当な判断だろう。
だが考えてみてくれ。晩飯に菓子パンや惣菜パンなんて、味気なさすぎではないだろうか?
「……武者小路に怒られてもアレだし、アンパンでいいか」
金にうるさい武者小路は、他人の些細な贅沢も許さない。
まして、彼のお情けでカロリーメイトまでもらって、そのような暴挙に及ぶ勇気は僕にはない。
おもむろに、105円のこしあんを手に――いや、手を伸ばした時だった。
きめ細かい、しかし少しふんわりとした藍色の羽毛と重なってしまった。
思考に夢中だったせいか、僕は周りをよく見ていなかったのだろう。
慌てて手を引っ込めると、その藍色の羽先もびくっと引っ込められた。
「あ、すいません」
このご時世だ、魔物娘の方など珍しくもない。
苦笑しながら片手を上げて拝む。
そのまま藍色の羽の方を見て、僕は笑顔のまま固まってしまった。
見覚えのある、先ほどのあどけない顔が、やはり耳まで真っ赤に染まっていたのである。
薄く染めているのか、やや紫がかった艶のある髪に見え隠れする瞳が、少し濡れている。
「あ……ぇ……っ?」
向こうも、電車でぶつかった僕だと気付いたのだろう。
しかも、なんかじんわりと涙目になっている。
「…………」
だから、なんでそんな反応するの!?
いや、恥ずかしいのは分かるよ!?
それに男としてはこう、嗜虐心そそられるというか守ってあげたくなるというか、とにかく可愛いよ!?
でもこういう公共の場でそうゆうことされると、第三者から見て僕が君を虐めているように見えるんだ!
「あ、す、すいませんでしたー……」
臆病にもそう言い、固まった笑顔のまま踵を返す。
そそくさと、僕は逃げさせてもらうことにした。
チキンと言う勿れ。三十六計逃げるに如かずという言葉もあるじゃないか。
大体、僕は女の子全般が苦手なんだから仕方ないだろ!
そうして、アンパンを買うこともなく、僕は小走りでコンビニを後にした。
覚える必要もない罪悪感を抱えて。
コンビニから歩いて数十分の公園で、僕はダイエットコーラを呷っていた。
さすがにカロリーメイトだけでは喉が渇くため、さっき自動販売機で買ったものだ。
炭酸飲料は腹が膨れるため、個人的にはちょうどいい。
「げふっ」
人気がないため、人目を憚ることもなく堂々とげっぷを零す。
公園の中心に聳える時計は、既に9時を回っている。
普段なら、家でひとっ風呂してる時間である。
「…………」
それよりも、僕としてはさっきから少しショックな事実がある。
累計はまだ二回で、同じ女の子ではあるが、出会い頭に怯えられたりするのはなかなか精神的にくるものがある。
言っておくが、断じて嗜虐心ではない。
僕は自分を見て怯える少女を虐めたいなどという変態的欲求は断じて持ち合わせていない。断じてだ。
「僕って、そんなに怖い顔してるかぁ……?」
個人的には凡夫という表現がしっくりくる、どこにでもいるような面構えだ。
というか、今までの人生であんな露骨な反応を示されたことはない。
もしかして、これはアレだろうか?
僕自身は僕の顔をどこにでもあるように錯覚していて、周りの人から見たら驚異的に人相が悪いということなのだろうか。
今までの人生でああも反応されなかったのは、隠していただけで内心はキモがられていたのだろうか。
何それヘコむ。
「はぁ〜……」
頭が重い。
いや、正確には気が重い。
こんなネガティヴな状態で帰宅してぼっちとか、なんてデフレだよ。
とは言え、帰らないわけにはいかないな。
そう思って、カバンを手に取った時だった。
「……ふわふわり〜、ふわふわる〜♪」
やけにご機嫌な、鼻歌のような歌声が耳に響いた。
澄んだ、とか、綺麗な声だ、とか思うより、楽しそうだな、と思った。
少しのんびりとしたテンポながら、弾む声にはありありと喜色が見える。
「……はは」
そんな歌声を聞いて、下らないことで落ち込んでいた自分がバカみたいに思えてきた。
乾いた笑いが自然と口からこぼれ、なんとなくテンションが上がってきた。
「でもそんなんじゃだぁめ、もうそんなんじゃほ〜ら♪」
よほど熱中しているのか、それとも周囲に人がいないと踏んでいるのか、声は夜間に響くほどには大きい。
ステップも踏んでいるのか、トントンと靴の跳ねる音まで聞こえる。
――ここで顔出しちゃったら、恥ずかしがられるだろうなぁ……。
苦笑して、僕は音をたてないようにベンチから立ち上がった。
せっかく気分がいいようだし、それを邪魔するつもりもない。
「心は進化するよ、もっともぉっと♪」
近づいてくるご機嫌な声を微笑ましく思いながら、僕はこっそりと公園の別口から離れようとした。
その時だった。
「にゃあ?」
ピシリと、何かがひび割れた音がした気がする。
ちょうどサビが終わったのか、それともブレスでもしていたのか。
タイミングが悪くも、声の主の歌が止まっているときに、僕を見つめる猫が鳴いた。
媚びるような甘い声は、やはり夜間によく響いたらしい。
「…………」
再開されない歌声に、ブリキのようにギギギっと首だけで振り返る。
何というか、このとき僕は確信した。
というより、少し予期はしていたのだ。
よく言うじゃないか、二度あることは三度あると。
声の主はちょうど街灯の下に立っていたため、その姿はよくわかった。
紫がかった少し長い前髪に、あどけなさの残る可愛い顔立ち。
そして、見覚えのある袖から覗く柔らかそうな藍色の羽先。
固まった笑顔でこっちを見ていた彼女が、見る見るうちに赤くなっていった。
「え……へっ、へぅ……!」
「す、すんませんっしたぁ!!」
遠目から見ても、羞恥に震えているのが分かった。
形だけで意味がないかもしれないが、僕は大きく会釈してダッシュで公園の別口から逃げ出した。
今日は、きっとやたらと彼女と巡り合う星の廻りなのだろう。
……しかし、改めて見たが、やっぱり可愛かったなぁ……。
◆ ◆ ◆
「あぁ、くっそ……疲れたぞ畜生……」
結局、その公園から僕は走って帰ることになったのだった。
目に焼き付くほどの玄関の白い蛍光灯を見上げて、荒い息を吐き出す。
「……くっそ。こうなりゃヤケ酒したる……」
そう呟いて、ドアノブに手をかける。
が、少し捻ったところで気づいた。
ガチッ、と空しくもノブが何かに引っかかる。
「あ、鍵開けてなかったな」
アホなことしたなぁ、と苦笑する。
そして無造作にカバンの中を手探る。
確か、財布の中に鍵を入れていたはずなんだが…………が?
財布?
「あ」
そうだった。
財布、落としていたんだった。
腕時計を見てみると、時刻は既に10時を超えている。
幾らなんでも、こんな遅くに大家の号室に鍵を頼むのは気が引ける。
「マ、ジ、で、す、かぁぁ……」
ドッ、とドアに背中を押しつけて、ずりずりと力なく腰を下ろす。
別に冷え込むような時期でもないが、締め出しを食らうとさすがに落ち込む。
特に、今日は精神的にも肉体的にも疲れる日だったのだ。
「ファミレスで粘ろうにも、財布ねぇんだよなぁ……」
何たる因果応報か。
両足を欄干に投げ出し、僕はカバンを両腕で力なく抱える。
浮浪者扱いされるのも癪で、僕はここで一晩過ごすことにした。
ご近所さんから白い眼で見られるかもしれないが、適当な公園で寝るよりはマシなはずだ。
「あーあぁ……」
うんざりして、さっきから溜め息しか出ない。
溜め息すると幸せが逃げるとか言うが、溜め息以外に何が吐けようか。
やり場のないイライラとした感覚に、僕は頬杖を突いて隣の号室を見やる。
玄関の蛍光灯が点いていない、ということはまだ帰宅してないのだろう。
自棄になり、僕はそのまま無理矢理にでも寝ることにした。
お隣さんに変に思われようが、正直もう動きたくない。
瞼を閉じて、胡坐をかいて、僕はそのまま無理に寝ようとする。
「…………」
だが、座ったまま寝るという慣れないことをしているせいか、寝つきが悪い。
イライラにイライラが募り、何とも不機嫌になっているようだ。
と、その時だった。
カツカツと硬質な、外付けの階段を上る音が耳に響く。
二階は僕とお隣さんしかいないから、恐らくはお隣さんだろう。
「…………」
何というか、どうせなら寝ているときに来てほしかった。
そうしたら恥も外聞もなく、堂々としていられたのに。
今日は本当に星の廻りが悪いというか、とことんツキがないのだろう。
小さくため息を吐いて、僕はそのまま狸寝入りを続けることにした。
カツカツ、カン。
そこで立ち止まった気配が伝わった。
恐らくは、玄関で胡坐をかいて寝た(フリをしている)僕に吃驚しているのだろう。
個人的には見世物じゃないと一言かましてやりたいが、黙っていた方が無難だ。
「…………ぐぅ」
寝ているとアピールせんばかりに、少しばかりわざとらしく鼾をかく。
そこで、少し予想しない反応が返ってきた。
「ぷふ……っ」
あ?
「くふ……、ふふ……っ」
堪えているのは分かったが、それは明らかに笑い声だった。
不思議と苛立たなかったのは、明らかにそれが嘲笑ではないと分かったからだろう。
なんとなく、笑う気持ちは分かる。
見たこともないお隣さんが、玄関で胡坐をかいて、わざとらしく鼾をかいていたら少しシュールだ。
……うわ、今更ながらちょっと恥ずかしくなってきた。
「……ん、んぅ?」
多少は自然さを装って、瞼をピクピクと震わせる。
そしてグシグシと少し乱暴に目元を擦る。
「ふあぁ……」
最後に大きく欠伸して、『自然に起きたアピール』をする。
そしてちらりと笑い声の主を一瞥して、仰天してしまった。
「ぁ……」
起こしてしまったと思ったのか、藍色の羽先で口元を覆う彼女。
電車で、コンビニで、公園で会った、セイレーンの彼女だった。
さすがに偶然が重なりすぎて、僕は彼女を見つめてしまった。
その視線が、彼女とバッチリ合ってしまい、カーッと彼女の顔が赤くなる。
「ぁ……、ぇぅ……す……すみません……」
俯いて、彼女は蚊の鳴くような声でそう言った。
正直、何と言ったかは分からなかったが、ニュアンスは伝わった。
今にして分かったが、これはきっと彼女の素なのだろう……。
「あ、いえいえ。お気になさらず、どうせ狸寝入りっしたから」
真面目に謝られて、ふざけて返すわけにはいかない。
それに、羞恥を抑えてわざわざ声をかけた彼女に嘘をつくのも申し訳ない。
その両方から、ついネタばらしをしてしまった。
「というより……、お隣さんだったんですね、お姉さん」
個人的にはこっちの方が吃驚である。
騒いでも文句を言われないし、顔を見たこともない謎のお隣さん。
だとすれば、行く先々でばったり会ってしまうのも納得がいく。
そりゃ、帰り道が一緒なんだもん。
「は、はいぃ……っ、す、すみませんすみません……!」
何故か謝られた。
「い、いえ……、こっちこそ、なんかすみません……」
呆気にとられ、こっちも少し恐縮して謝ってしまった。
何というか、非常に気が弱いのだろうが……、うん、可愛いな畜生。
真っ赤になって彼女は俯き、グッと薄くグロスを塗った唇を一文字に結ぶ。
そして、少しつっかえながら、彼女は切り出した。
「あ、あの……、ど、どうかしたんですか?」
固い敬語に何とも言えず、僕は苦笑してしまった。
「鍵を落としちゃいまして。玄関前にて野宿なう、です」
意趣返しに敬語で返すと、彼女は赤面しながら縮こまる。
小動物的な臆病さが何とも愛らしいが、それを言ったら更に恥ずかしがるのだろう。
というか、別にこの娘、僕を困らせたかったんじゃなかったんだな、やっぱり。
普通に心配されちゃったよ。
「気にしなくていいですよ、寝ますから」
肩をすくめて付け加えて、僕は頬杖を突いた。
何となく、今なら気持ちよく寝られそうだ。
が、僕はやはり今日は神様か何かに恨まれていたのだろう。
ポツ……ポツポツポツ……サァァ―――……ザァ―――――!!
欄干を跨ぐ勢いのゲリラ豪雨である。
慌てて立ちあがり、耳まで赤い彼女を見直す。
「……ね、寝ますから」
立ったまま寝るのも、当然ながら初めてである。
まぁ、ずぶ濡れで寝て、風邪を引くよりかはマシなはずだ。
明日も、午後からとはいえ講義がある。
「ほ、ホントに……大丈夫……ですか……?」
少しだけ、声量が上がった。
と、いうか。
この場面で『大丈夫』以外に返せる言葉があるだろうか。
「……大丈夫ですよー。前世は忍者でしたから」
苦笑いして返答すると、一際強い風が吹いた。
外付けに大きく吹き込み、豪雨がべしゃりと僕にぶっかかる。
……寒い。
「……き、北国生まれですから!」
北国生まれだったらびしょ濡れでも立ったままで眠れようか。
さすがに無理があるなぁ、そう思った時だった。
「ぃ、幾らなんでも、無理で……しょ?」
小首を傾げて、彼女はこちらの顔を困ったように覗き込む。
はい、完徹覚悟です。
「とは言いましても、まぁ自業自得ですし」
としか返しようがない。
その返答に、彼女は少し考え込むように俯いた。
そして少し躊躇いながら、彼女はぎこちなくはにかんだ。
「……よっ、よければ……っ、ボクの部屋に泊まっていきません……っ?」
は?
◆ ◆ ◆
「お、お湯加減、ど、どうかな……っ?」
スライド式のドアの奥から聞こえる声はどこか固い。
恐らくは、彼女もお隣さんとはいえ男性を安易に部屋に入れたことに、多少の緊張を覚えているのだろう。
……ここで一つ、ふざけよう。正直、僕もそう冷静ではないのだ。
あ…、ありのまま今起こったことを話すぜ!
『僕が玄関の前で彼女と話していたら
いつの間にか彼女の部屋で入浴してた』
な…、何を言ってるのか、わからねーと思うが、僕も何をされたのかわからなかった…。
……ふぅ、精神安定完了。
「はっ、はい……! ち、ちょうどいいです……!」
そんな容易く落ち着けるか!!
いや待て。こうゆうのはオーソドックスに定番を試してみたらいいんじゃないか!?
ほら、よくあるじゃないか!
般若心経唱えるとか、素数を数えるとか!!
「仏説魔訶般若波羅蜜多心経……までしか覚えてねぇよ」
つか、これって全部失敗例じゃねぇか!
……いや、アレだよ?
そこで画面の向こうで壁を殴ってる皆々様、僕も一応断りはしたんだよ?
ほぼ初対面の、しかも女性の部屋に泊まるなんて大胆なことできないし!
しかし、まぁ……、その、断り切れなかったんです。
なんか、意外と押しが強くて……。
「ふ、服は少しは乾いたから……、おっ、置いとくねっ?」
「あ、どうぞお構いなく……」
じゃねぇだろ!?
さすがに心の内にその突っ込みは留めて、パタパタとドアの向こうで駆けていく彼女を見送る。
あ、あぁ……べ、別に疚しい目的があって招き入れたんでもないんだ……。
い、いやガッカリなんかしてないぞ!?
「…………」
カポー……ン
しかし、こう、静かだと、なぁ。
お年頃の男の子が、同年代の女性の風呂に入っている状況だ。
って、意識したら余計に恥ずかしい……。
……これ……普段はあの娘が体洗ってるんだよなぁ……。
「い、いいお湯加減でございました……」
「そっ、それは……どうもだけど、何で土下座……?」
フローリングの床が冷たくて気持ちいい。
「ふ、服の乾き具合もいい塩梅です……」
「よ……よかった、かな?」
やはりぎこちなく、彼女はそう言う。
疚しくて疚しくて辛いよー。
土下座のおかげで赤面も収まり、僕は熱い顔を上げた。
「その……マジで助かりました……」
「こっ、こっちこそ、えと、その……、い、いっぱい迷惑かけちゃったしっ、おわっ、お詫びになってればそれで……!」
「いえ……その、こちらこそで」
「いっ、いやいやいや、ここっ、こっちこそ、だしっ!」
いやに低姿勢に堂々巡りを続けて、少し笑いそうになる。
緊張しているのか、恥ずかしいのか真っ赤な彼女の顔を見て、僕は苦笑した。
「じゃあ……、おあいこってことで、手打ちにしましょう」
「いやっ……、う、うんっ! そ、そうだ、ね!」
羽先を顔の前で合わせて、彼女は実に嬉しそうにはにかんだ。
……やべぇ、可愛い。
「お、おあいこならさ……っ?」
上擦った声で、彼女は続けた。
「何でしょう?」
「その、さ……、敬語じゃなくても、いいんじゃないかな……っ?」
あ。
あちゃー。
指摘されて、僕は顔を掌で押さえてしまった。
「す、すみま……ごめん。ちょっと、初対面の人には癖で敬語になるんだよ……僕」
「そ、うなの……?」
「あぁ……、特に女の子って、ほら。ちょっと神経使うし」
それに思い当るところがあるのか、彼女は曖昧に笑った。
その笑顔に、少しだけ救われた。
「で、えーと……さ」
「ななっ、何かなっ!?」
少し慌てたのか、彼女の声がまた上擦る。
が、正直に、これだけはと聞かねばいけないことがある。
躊躇っていても、すぐに問わねばならないことだ。
「こっから、どうしましょう……?」
……敬語になっちゃった。
が、彼女はそこを気にした様子はなく、ボフッと茹った。
やっぱり、深くは考えていなかったらしい。
羞恥に呂律が回らないのか、彼女は何度もつっかえる。
「ぁ、ぇ、あ、そっ、そうだ! う、ウノ! ウノやろうよ!」
ウノ!? 二人で!?
随分と可愛らしい提案だが、それ地雷じゃないか!?
さすがに本人も無理がある提案だと気づいているのか、恥ずかしそうにしている。
が、すぐに拗ねたようにこっちを見つめた。
「じゃ、じゃあそっちが提案してよぅ……」
「え、えぇ? 僕ッスか?」
と、言われて、即座にピンとくるものはあった。
思い出したのは、公園でのアレだ。
「そんじゃ、歌ってくれねぇ?」
少し、意地悪な顔をしていたのかもしれない。
言うなり、見る見るうちに彼女の赤面に羞恥の赤が注がれた。
セイレーンなのに、歌うのが恥ずかしいとは、本当に変わっている。
「いやぁ、もっぺん見たいな、お姉さんが気持ちよく歌ってるとこ」
「お、お姉さんじゃないよ!? ボク、まだ18だもん!」
「ありゃ、僕とタメか」
何となくで呼んでた呼称は、どうやら外れだったらしい。
そこで、そういえば名前を聞いていなかったと、ふと思い出した。
「あ、そういや僕は阿万音佐々良ってんだけど、束紗さんは?」
「ボクは束紗詩乃……って、知ってるじゃん!」
「表札、ちらっとだけ見たし」
詰め寄る束紗に、少しニヤけてしまった。
何というか、やっぱり可愛い。
「で、それはさておき束紗? 歌、提案したけど?」
「え、えぇ!? そ、そんなぁ……!」
泣きそうにすらなる束紗。
恨みがましく僕を涙目でにらんで、彼女はがっくりと項垂れる。
そして、まるで蚊の鳴くような声で、呟いた。
「わ、笑ったり、しない……よね?」
「笑わねぇよ。僕が聞きたいんだ」
素直に返すと、湯気が出そうなほどに赤くなった。
そして、観念したのか、覚悟したのか、とにかく彼女は顔を上げた。
「じゃ、じゃあ……もう遅いし、Aメロだけ……」
そう言って、彼女はすぅっと息を吸った。
◆ ◆ ◆
一言で彼女の歌を評せば、最高の二文字に尽きる。
サビの余韻を締めくくり、喉に当てていた手を離した束紗に、僕は親指を立てた。
「聞いててこっちもテンション上がったよ、最高だった」
端的な感想に、彼女はぎこちなくはにかむ。
気まずさを誤魔化すような笑みとは違い、ほんのりと喜色が浮かんでいた。
「え、えへへ……ありがと」
「こちらこそ、感謝の極みです」
つい敬語になってしまい口を覆うと、彼女はクスクスとおかしそうに笑った。
「ホントに、癖なんだ……ね?」
「う、うぅん……、女の子が相手になると、どうしてもねぇ?」
神経質、と言えばいいのか。
別に男女差別をしているわけではないが、やはり意識せざるにはいられない。
その辺りをあまり気にしない武者小路が羨ましくはあるが、これも性分と受け入れるしかない。
「…………」
ちらりと時計を見やると、大きな針は未だ一時を回ったばかりだった。
手持ち無沙汰な沈黙と、外から響く激しい雨音が耳に痛い。
「じゃ、じゃあやっぱウノでもする? それとも、寝るんだったら僕は外にでるけど……」
「だ、だから……外じゃ風邪ひく……でしょ?」
お世話になっている上に、そうも心配されると言い返せない。
どうしたものか、そう考え込むと再び沈黙が訪れる。
気まずい空気だなぁ、そう思った時だった。
ッどぉぉん!!
窓から鮮烈な光が差し込むとほぼ同時に、心臓が跳ねるような爆音。
雷だ。
近かったのだろうか、僕らを照らす蛍光灯が絶えた。
「ありゃ、激しいですね――」
ドッ、と。
胸に重い衝撃。
予期せぬことに、束紗が僕の胸に飛び込んできたらしい。
唐突過ぎてふんばりが効かず、僕は彼女に押し倒される形で背中から倒れこんだ。
「…………ッ!」
「……も、もしかしまして、雷とか苦手です?」
「…………ッ!!」(ぶんぶん)
首を横に振られた。
いや、あの、さ?
一目瞭然ではあるし、それ以前にその、な?
胸板に押し付けられる控えめな感触が、ね?
あと、なんか海に来た時にするような、独特の香りが、ほのかに鼻孔をくすぐる。
そういえば、シャンプーがそれっぽい香り、だったような……。
い、いやいや、これ、やばくない?
ギュッと固く閉じられた瞼から滲む涙。
ふるふると小刻みに震える華奢な体躯。
薄い布を隔てて伝わる、柔らかい感触。
極めつけは、無音と暗闇。
「あ、あの……束紗? とっ、とりあえず、離れないか?」
「……むっ、無理ぃ……ッ!」
やんわりと距離を取るよう促すが、更に力強く抱きしめられた。
正直に言おう。
今の僕の脳内は、八割がたがえるぉい妄想に使われている。
ちなみに二割はパニックだ。
これ、どうすればいいの!?
手は出したらまずいし、このまま抱かれっぱなしって生殺しなんですが!?
ッどぉぉん!!
「ひ……っ!」
再びの轟雷と、か細い悲鳴。
自分を抱きしめて震えるお隣さんに、僕はやるせなく頬を掻いた。
仕方なく、決意を固めた。
「大丈夫……、ほら、僕もいるし」
囁いて、髪を梳くように撫でる。
ものすごく気恥ずかしいせいか、僕の声も震えていた。
しかし、何度か彼女の頭をなでると、強張った彼女の体から、徐々に力が抜けていくのが伝わった。
「…………」
「あ、アッハッハー、こ、ここいらで小粋なジョークとか……いっとく?」
気まずさを誤魔化して、ふざけてそんなことを言ってしまう。
無論、返答はなく、沈黙は益々重くなった。
「あー……、えっと、なんか……ごめん」
たぶん、こんな暗闇の中で、僕みたいな男がいるのも恐怖の促進になっているのだろう。
ただでさえシャイな束紗だ。
恥ずかしいし、怖いし、心細いのだろう。
矛盾しすぎて、僕は此処にいた方がいいのか悪いのか、分からない。
でも、やっぱり、放っておけない。
「…………」
「…………」
それっきり、僕は黙ることにした。
雨音と、細やかな息遣いと、時々響く雷音。
時たまに彼女の体が強張るのが伝わったが、僕はされるがままになった。
何となく、そんな沈黙の時間も、重くはなかった。
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ!
「んぁ……?」
そんなこんなで、いつの間にか僕は寝ちゃってたらしい。
目覚まし時計特有の、無機質な電子音に意識が覚醒する。
胸に寄りかかる重みに、視線を下げると束紗も眠っていた。
「……つか、時計うっせぇ……」
さすがに束紗を押しのけるわけにもいかず、足を伸ばして何とか時計を探す。
その目覚まし機能を止めて、時間を見るとまだ朝の6時だった。
何とも早起きなタチらしい。
僕は大概、8時を回らないと起きない。
「ん……んぅ……?」
そこで、束紗が目覚める。
何となく、反射的に、僕は両手を挙げた。
「……ぅ、ん? あ、あれ……?」
バッチリと目が合い、彼女は困惑したような声をあげる。
が、察したのか、彼女の顔が徐々に朱に染まる。
「ぇ、ぁ……、阿万音、くん……っ?」
「あ、どうも……。なんか、雨やみました、ね?」
あ、そういえば何気に初の名前呼びだ。
「え、っと? そんなわけで、僕、大学あるんで、行きますね?」
「ぁ、は、はい……」
本当は、講義は10時からだ。
しかし、学生証の電子マネーで確か飯が食えたはずだし、朝食にさっさと登校した方がいい。
それに何よりも、この場にいても気まずい。
「あー、じゃあ、ありがとう、ございまし、た?」
「ぇ、ぃ、いぇ……、こっ、こちらこそ……」
どこか惚けたように言う彼女に、僕は逃げるように玄関へ向かった。
履き潰した安物の靴に足を突っ込み、ドアノブに手をかける。
「ぁ、ぁの……」
「それじゃ、また今度お礼します!」
何か言いたげではあったが、僕はそれを一方的に遮ってドアを開ける。
物言いたげにこちらに手を伸ばす束紗をちらりと振り返り、僕はそのまま逃げるように大学へ小走りで向かった。
◆ ◆ ◆
「朝飯を奢れ」
食堂の入り口で、仁王立ちしていた武者小路がそんなことをのたまった。
スルーしようと隣を通り抜けようとすると、ボソリと呟かれた。
「あのカロリーメイトは俺の今日の朝食だった」
食堂にて、武者小路は米と味噌汁だけと、実に質素な朝食を摂っていた。
ちなみに、僕はピザトーストと野菜ジュースである。
丁寧に手と手の皺を合わせて合掌する武者小路に倣い、僕も合掌する。
「いただこう」「いただきます」
これで意外と、武者小路の礼節はきちんとしている。
不躾な発言は、基本的に内輪にしか向かない。
「して、昨晩はどうしたのだ? 貴様は財布に鍵を突っ込む悪癖があっただろう」
「…………」
ズカズカと、今朝一番聞かれたくない話題である。
「別に、窓から入って家で寝たよ」
「くくっ……、不審者だな」
適当な嘘に、武者小路は適当に笑う。
そして味噌汁を一口啜り、一つ頷く。
「捜索料、占めて二百円だ」
そう言って、武者小路は無造作に何かをこちらに投げつける。
慌ててそれを受け取ると、幼稚なマジックテープ式の、見慣れた僕の財布だった。
ヒヨコのストラップも、健在である。
中身を確かめると、二百円を除いて寸分違わず元のままだった。
「え、武者小路?」
「昨日は暇でな。談話室の清掃婦人を手伝っていたら、自販機の下で見つかった」
拾われたのではなく、無為に蹴り込まれでもしたのだろう。
そう付け加えて、武者小路はムッスリと黙り込んで食事に集中し始めた。
……ツンデレめ。
「そうか」
僕もそれだけ返して、心の中で感謝した。
相応の対価を貰った武者小路は礼を言われると極端に不機嫌になるからだ。
気難しいものの、なかなかどうして悪くない友人である。
そこで、ようやく僕もピザトーストにかじりつく。
「ところで」
チーズを伸ばして遊ぶ僕に、白飯を咀嚼しながら武者小路が問う。
ごくりと飲み込み、彼は続けた。
「カバンはどうしたのだ?」
「あ」
……どうにも、僕は落し物か何かの神様に憑かれているのだろう。
今頃、僕のカバンは束紗の部屋で横たわっているはずだ。
財布を落とした僕に対する友人の第一声である。
小柄な体躯に不釣り合いな威圧的な眼光に射すくめられ、僕は不覚にも笑ってしまった。
大概の話題ならどうでもいいと一蹴する武者小路も、お金が絡む話題となると、かくも恐ろしい。
「はっはっは、憐れんで恵んでくれると泣いて感謝するぜ?」
「ハッ、俺が? タダで情けをかけると? 貴様は俺が釈迦かキリストにでも見えるか?」
「どっちかってーと切捨徒だな」
現在進行形で捨てられてるし、僕。
しかし、藁にも縋るつもりで武者小路に頼りにきたのだ。
こうもアッサリ切り捨てられては困る。
「別に僕は武者小路に金の無心に来たわけじゃねーんだ。聞いてくれよ」
「相談料払え」
「お前ホント鬼だな!?」
蔑むような笑顔で手を差し出す友人はマジキチ(マジ鬼畜の略だ。もっとも武者小路には正式な略称も該当するだろうが)としか言いようがない。
分かり易いと同時に融通の利かない奴だとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。
「あぁ、もう分かったよ。でも僕、残金10円だぞ」
「じゃあ10円分の相談に乗ってやるよ」
そう言って彼は遠慮なく僕がポケットから取り出した10円玉を取った。
あまりにもナチュラルに取るもんだから、抵抗する間すらなかったぞ……。
「で、どうせ財布のことだろう? 落とした場所は把握してるのか?」
しかもホントに相談に乗り始めたし。
「あ、あぁ。確か食堂隣の談話室に……」
「よし、諦めろ」
「10円分にしても結論はやくないか!?」
相談始めて二言目で諦めろとは……。
なけなしの10円を返してほしい。
「ふむ……、なら結論の理由を聞いて納得しろ。それが不可能なら自己完結してくれ」
一方的にそう言い、彼は10円玉をポケットの中に仕舞った。
意地でも返すつもりはないらしい。
さすが守銭奴である。
「財布を落としたのはどうせ昼時だろう? そう考えればもう手遅れだろ」
貴様は実にバカだな、と言いたげに武者小路は煙草を咥える。
夕陽をバックに煙草に火をつける様はよく似合っているが、蔑むような視線が腹立たしい。
大きく灰色の息を吐いて、武者小路は続けた。
「お前のことだから学生課には届け出たのだろう?」
「そりゃ勿論」
「昼に届け出て、未だに発見の報告が無いとすれば悪意ある第三者に盗られたことは明白だ」
それに昼時の談話室はなぁ……、そこで区切って武者小路は煙草を咥える。
「食堂で席が足りずにあぶれた奴が集まってるだろ。拾得者の特定が不可能だ」
煙草を咥えたまま気だるげにそう言い、武者小路は肩をすくめる。
言い分は理解できるが、それで諦めきれないから相談したのだが。
「俺は警察犬じゃないんだ。貴様の財布の所在など知るか」
「そこを何とかムシャえもん」
「次にそのふざけた呼称で呼んだら黄金の夢を見せてやろう(訳、金塊で殴る)」
苛立たしげにそう言い、武者小路は立ち上がった。
「じゃあな。悪いが付き合ってられん」
無情にも吐き捨てて、煙を吹きながらひらひらと手を振る武者小路。
その背中に小さくため息をついて、僕も立ち上がろうとした。
「ん?」
が、ある一点に視線が吸い寄せられ、動きが止まってしまった。
そこは、さっきまで武者小路が座っていたベンチで、違和感を放つカロリーメイトが置かれていた。
無開封で、明らかに武者小路の物であることが分かる。
だが、あいつが忘れ物なんて抜けたことをするキャラじゃないのは長い付き合いから知っている。
「あのツンデレめ」
悪友の厚意に感謝して、僕はそのカロリーメイトを有難く戴いた。
◆ ◆ ◆
がたんと古い線路に跳ねるたびに吊環が揺れる、窓の外はうっすらと暗い。
帰路について、僕は春先に買った定期にしみじみと感動していた。
カードの類は別に取っといて正解だったなぁ……。
そうでなければ、アパートまで歩いて帰る羽目になってたし。
「…………」
にしても、今日の電車混んでるなぁ。
金曜日だから? まぁ、繁華街の方に向かってるし、これから飲みにでも行くんだろうな。
……次のバイトの給料入ったら、武者小路と飲みにでも行こうかなぁ。
そんな風に益体もないことを考えていたときだった。
ぼんやりと思考に耽っていたせいか、僕は電車がカーブに差し掛かったことに、直前になって気づいた。
金属の擦れる音と振動を足に感じて、吊環に掛けていた手を握りこんで踏ん張る。
少し遅れたせいか、バランスを崩してしまい、それだけでは済まなかった。
ドスンッ
「…………!?」
女の子が、僕の胸に飛び込んできた。
恐らくは急カーブに踏ん張りがきかず、体勢を崩してしまったのだろう。
「だ、大丈夫ですか?」
さすがに黙っているわけにもいかず、無難な言葉を選んで呼びかけてみる。
しかし、女の子はこの呼びかけにびくっと身を竦め、耳までカーッと赤くなってしまった。
「あ、あ……っ、あぅ……」
よほど恥ずかしいのだろう。
僕の顔をちらちらと見ては俯き、蚊の鳴くような声で何かを言いたそうにするが、言えてない。
あどけなさの残る顔つきが困惑しており、申し訳ないが僕は素直に可愛いなと思ってしまった。
だが、これはどうなのだろう?
傍から見れば、これって僕、痴漢っぽくねぇ?
「……ぁ……、ぁぅ」
女の子の鈴の鳴るような声が耳に痛い。
やっぱこれ、僕が痴漢っぽく見えるって……!
吊環に掛けていない方の腕を慌てて上げて、すぐさま『痴漢してないアピール』をする。
「……ぅ、あぅぅ……」
「…………!」
い、いけない。
なんか、こう、疑心暗鬼になってるのかなぁ……?
周囲の視線が、なんか痛い気がするなぁ……。
おまけに、あぅあぅ言ってる娘が何気にかわいいし、なにこのやり辛さ……。
プシュー
そうこう悶々としてるウチに、電車がどこぞの駅に着いたらしい。
チクチクと刺さる視線から逃げるように、僕はそそくさと降りることにした。
振り返ると、そこには既に女の子の姿はなく、何故かホッとした。
「な、何だかなぁ……」
しかし、随分と中途半端な駅に降りてしまった。
駅名から察するにアパートから二駅は離れている。
……お財布携帯でも利用して、軽い晩御飯でも食べながら帰ろうかな。
そう思ったら、単純な僕は腹が減ってきたわけだ。
最寄りのコンビニで適当なパン系食品を見繕う。
最近、K's Cafe のパニーニにはまっているため、どうしたものかと悩んでしまう。
妥当に105円のパンか、それとも厚切りベーコンのパニーニか。
そりゃ勿論、僕としては是非ともパニーニが食べたい。
蕩けたチーズと、油の乗ったベーコンと、少し焦げ目のついた熱々のパニーニは絶品だ。
しかし、お財布携帯で買えるとはいえ、今の僕は金欠状態だ。
290円もの贅沢などする余裕がない。
そう考えたら、やはりヤマザキパンが妥当な判断だろう。
だが考えてみてくれ。晩飯に菓子パンや惣菜パンなんて、味気なさすぎではないだろうか?
「……武者小路に怒られてもアレだし、アンパンでいいか」
金にうるさい武者小路は、他人の些細な贅沢も許さない。
まして、彼のお情けでカロリーメイトまでもらって、そのような暴挙に及ぶ勇気は僕にはない。
おもむろに、105円のこしあんを手に――いや、手を伸ばした時だった。
きめ細かい、しかし少しふんわりとした藍色の羽毛と重なってしまった。
思考に夢中だったせいか、僕は周りをよく見ていなかったのだろう。
慌てて手を引っ込めると、その藍色の羽先もびくっと引っ込められた。
「あ、すいません」
このご時世だ、魔物娘の方など珍しくもない。
苦笑しながら片手を上げて拝む。
そのまま藍色の羽の方を見て、僕は笑顔のまま固まってしまった。
見覚えのある、先ほどのあどけない顔が、やはり耳まで真っ赤に染まっていたのである。
薄く染めているのか、やや紫がかった艶のある髪に見え隠れする瞳が、少し濡れている。
「あ……ぇ……っ?」
向こうも、電車でぶつかった僕だと気付いたのだろう。
しかも、なんかじんわりと涙目になっている。
「…………」
だから、なんでそんな反応するの!?
いや、恥ずかしいのは分かるよ!?
それに男としてはこう、嗜虐心そそられるというか守ってあげたくなるというか、とにかく可愛いよ!?
でもこういう公共の場でそうゆうことされると、第三者から見て僕が君を虐めているように見えるんだ!
「あ、す、すいませんでしたー……」
臆病にもそう言い、固まった笑顔のまま踵を返す。
そそくさと、僕は逃げさせてもらうことにした。
チキンと言う勿れ。三十六計逃げるに如かずという言葉もあるじゃないか。
大体、僕は女の子全般が苦手なんだから仕方ないだろ!
そうして、アンパンを買うこともなく、僕は小走りでコンビニを後にした。
覚える必要もない罪悪感を抱えて。
コンビニから歩いて数十分の公園で、僕はダイエットコーラを呷っていた。
さすがにカロリーメイトだけでは喉が渇くため、さっき自動販売機で買ったものだ。
炭酸飲料は腹が膨れるため、個人的にはちょうどいい。
「げふっ」
人気がないため、人目を憚ることもなく堂々とげっぷを零す。
公園の中心に聳える時計は、既に9時を回っている。
普段なら、家でひとっ風呂してる時間である。
「…………」
それよりも、僕としてはさっきから少しショックな事実がある。
累計はまだ二回で、同じ女の子ではあるが、出会い頭に怯えられたりするのはなかなか精神的にくるものがある。
言っておくが、断じて嗜虐心ではない。
僕は自分を見て怯える少女を虐めたいなどという変態的欲求は断じて持ち合わせていない。断じてだ。
「僕って、そんなに怖い顔してるかぁ……?」
個人的には凡夫という表現がしっくりくる、どこにでもいるような面構えだ。
というか、今までの人生であんな露骨な反応を示されたことはない。
もしかして、これはアレだろうか?
僕自身は僕の顔をどこにでもあるように錯覚していて、周りの人から見たら驚異的に人相が悪いということなのだろうか。
今までの人生でああも反応されなかったのは、隠していただけで内心はキモがられていたのだろうか。
何それヘコむ。
「はぁ〜……」
頭が重い。
いや、正確には気が重い。
こんなネガティヴな状態で帰宅してぼっちとか、なんてデフレだよ。
とは言え、帰らないわけにはいかないな。
そう思って、カバンを手に取った時だった。
「……ふわふわり〜、ふわふわる〜♪」
やけにご機嫌な、鼻歌のような歌声が耳に響いた。
澄んだ、とか、綺麗な声だ、とか思うより、楽しそうだな、と思った。
少しのんびりとしたテンポながら、弾む声にはありありと喜色が見える。
「……はは」
そんな歌声を聞いて、下らないことで落ち込んでいた自分がバカみたいに思えてきた。
乾いた笑いが自然と口からこぼれ、なんとなくテンションが上がってきた。
「でもそんなんじゃだぁめ、もうそんなんじゃほ〜ら♪」
よほど熱中しているのか、それとも周囲に人がいないと踏んでいるのか、声は夜間に響くほどには大きい。
ステップも踏んでいるのか、トントンと靴の跳ねる音まで聞こえる。
――ここで顔出しちゃったら、恥ずかしがられるだろうなぁ……。
苦笑して、僕は音をたてないようにベンチから立ち上がった。
せっかく気分がいいようだし、それを邪魔するつもりもない。
「心は進化するよ、もっともぉっと♪」
近づいてくるご機嫌な声を微笑ましく思いながら、僕はこっそりと公園の別口から離れようとした。
その時だった。
「にゃあ?」
ピシリと、何かがひび割れた音がした気がする。
ちょうどサビが終わったのか、それともブレスでもしていたのか。
タイミングが悪くも、声の主の歌が止まっているときに、僕を見つめる猫が鳴いた。
媚びるような甘い声は、やはり夜間によく響いたらしい。
「…………」
再開されない歌声に、ブリキのようにギギギっと首だけで振り返る。
何というか、このとき僕は確信した。
というより、少し予期はしていたのだ。
よく言うじゃないか、二度あることは三度あると。
声の主はちょうど街灯の下に立っていたため、その姿はよくわかった。
紫がかった少し長い前髪に、あどけなさの残る可愛い顔立ち。
そして、見覚えのある袖から覗く柔らかそうな藍色の羽先。
固まった笑顔でこっちを見ていた彼女が、見る見るうちに赤くなっていった。
「え……へっ、へぅ……!」
「す、すんませんっしたぁ!!」
遠目から見ても、羞恥に震えているのが分かった。
形だけで意味がないかもしれないが、僕は大きく会釈してダッシュで公園の別口から逃げ出した。
今日は、きっとやたらと彼女と巡り合う星の廻りなのだろう。
……しかし、改めて見たが、やっぱり可愛かったなぁ……。
◆ ◆ ◆
「あぁ、くっそ……疲れたぞ畜生……」
結局、その公園から僕は走って帰ることになったのだった。
目に焼き付くほどの玄関の白い蛍光灯を見上げて、荒い息を吐き出す。
「……くっそ。こうなりゃヤケ酒したる……」
そう呟いて、ドアノブに手をかける。
が、少し捻ったところで気づいた。
ガチッ、と空しくもノブが何かに引っかかる。
「あ、鍵開けてなかったな」
アホなことしたなぁ、と苦笑する。
そして無造作にカバンの中を手探る。
確か、財布の中に鍵を入れていたはずなんだが…………が?
財布?
「あ」
そうだった。
財布、落としていたんだった。
腕時計を見てみると、時刻は既に10時を超えている。
幾らなんでも、こんな遅くに大家の号室に鍵を頼むのは気が引ける。
「マ、ジ、で、す、かぁぁ……」
ドッ、とドアに背中を押しつけて、ずりずりと力なく腰を下ろす。
別に冷え込むような時期でもないが、締め出しを食らうとさすがに落ち込む。
特に、今日は精神的にも肉体的にも疲れる日だったのだ。
「ファミレスで粘ろうにも、財布ねぇんだよなぁ……」
何たる因果応報か。
両足を欄干に投げ出し、僕はカバンを両腕で力なく抱える。
浮浪者扱いされるのも癪で、僕はここで一晩過ごすことにした。
ご近所さんから白い眼で見られるかもしれないが、適当な公園で寝るよりはマシなはずだ。
「あーあぁ……」
うんざりして、さっきから溜め息しか出ない。
溜め息すると幸せが逃げるとか言うが、溜め息以外に何が吐けようか。
やり場のないイライラとした感覚に、僕は頬杖を突いて隣の号室を見やる。
玄関の蛍光灯が点いていない、ということはまだ帰宅してないのだろう。
自棄になり、僕はそのまま無理矢理にでも寝ることにした。
お隣さんに変に思われようが、正直もう動きたくない。
瞼を閉じて、胡坐をかいて、僕はそのまま無理に寝ようとする。
「…………」
だが、座ったまま寝るという慣れないことをしているせいか、寝つきが悪い。
イライラにイライラが募り、何とも不機嫌になっているようだ。
と、その時だった。
カツカツと硬質な、外付けの階段を上る音が耳に響く。
二階は僕とお隣さんしかいないから、恐らくはお隣さんだろう。
「…………」
何というか、どうせなら寝ているときに来てほしかった。
そうしたら恥も外聞もなく、堂々としていられたのに。
今日は本当に星の廻りが悪いというか、とことんツキがないのだろう。
小さくため息を吐いて、僕はそのまま狸寝入りを続けることにした。
カツカツ、カン。
そこで立ち止まった気配が伝わった。
恐らくは、玄関で胡坐をかいて寝た(フリをしている)僕に吃驚しているのだろう。
個人的には見世物じゃないと一言かましてやりたいが、黙っていた方が無難だ。
「…………ぐぅ」
寝ているとアピールせんばかりに、少しばかりわざとらしく鼾をかく。
そこで、少し予想しない反応が返ってきた。
「ぷふ……っ」
あ?
「くふ……、ふふ……っ」
堪えているのは分かったが、それは明らかに笑い声だった。
不思議と苛立たなかったのは、明らかにそれが嘲笑ではないと分かったからだろう。
なんとなく、笑う気持ちは分かる。
見たこともないお隣さんが、玄関で胡坐をかいて、わざとらしく鼾をかいていたら少しシュールだ。
……うわ、今更ながらちょっと恥ずかしくなってきた。
「……ん、んぅ?」
多少は自然さを装って、瞼をピクピクと震わせる。
そしてグシグシと少し乱暴に目元を擦る。
「ふあぁ……」
最後に大きく欠伸して、『自然に起きたアピール』をする。
そしてちらりと笑い声の主を一瞥して、仰天してしまった。
「ぁ……」
起こしてしまったと思ったのか、藍色の羽先で口元を覆う彼女。
電車で、コンビニで、公園で会った、セイレーンの彼女だった。
さすがに偶然が重なりすぎて、僕は彼女を見つめてしまった。
その視線が、彼女とバッチリ合ってしまい、カーッと彼女の顔が赤くなる。
「ぁ……、ぇぅ……す……すみません……」
俯いて、彼女は蚊の鳴くような声でそう言った。
正直、何と言ったかは分からなかったが、ニュアンスは伝わった。
今にして分かったが、これはきっと彼女の素なのだろう……。
「あ、いえいえ。お気になさらず、どうせ狸寝入りっしたから」
真面目に謝られて、ふざけて返すわけにはいかない。
それに、羞恥を抑えてわざわざ声をかけた彼女に嘘をつくのも申し訳ない。
その両方から、ついネタばらしをしてしまった。
「というより……、お隣さんだったんですね、お姉さん」
個人的にはこっちの方が吃驚である。
騒いでも文句を言われないし、顔を見たこともない謎のお隣さん。
だとすれば、行く先々でばったり会ってしまうのも納得がいく。
そりゃ、帰り道が一緒なんだもん。
「は、はいぃ……っ、す、すみませんすみません……!」
何故か謝られた。
「い、いえ……、こっちこそ、なんかすみません……」
呆気にとられ、こっちも少し恐縮して謝ってしまった。
何というか、非常に気が弱いのだろうが……、うん、可愛いな畜生。
真っ赤になって彼女は俯き、グッと薄くグロスを塗った唇を一文字に結ぶ。
そして、少しつっかえながら、彼女は切り出した。
「あ、あの……、ど、どうかしたんですか?」
固い敬語に何とも言えず、僕は苦笑してしまった。
「鍵を落としちゃいまして。玄関前にて野宿なう、です」
意趣返しに敬語で返すと、彼女は赤面しながら縮こまる。
小動物的な臆病さが何とも愛らしいが、それを言ったら更に恥ずかしがるのだろう。
というか、別にこの娘、僕を困らせたかったんじゃなかったんだな、やっぱり。
普通に心配されちゃったよ。
「気にしなくていいですよ、寝ますから」
肩をすくめて付け加えて、僕は頬杖を突いた。
何となく、今なら気持ちよく寝られそうだ。
が、僕はやはり今日は神様か何かに恨まれていたのだろう。
ポツ……ポツポツポツ……サァァ―――……ザァ―――――!!
欄干を跨ぐ勢いのゲリラ豪雨である。
慌てて立ちあがり、耳まで赤い彼女を見直す。
「……ね、寝ますから」
立ったまま寝るのも、当然ながら初めてである。
まぁ、ずぶ濡れで寝て、風邪を引くよりかはマシなはずだ。
明日も、午後からとはいえ講義がある。
「ほ、ホントに……大丈夫……ですか……?」
少しだけ、声量が上がった。
と、いうか。
この場面で『大丈夫』以外に返せる言葉があるだろうか。
「……大丈夫ですよー。前世は忍者でしたから」
苦笑いして返答すると、一際強い風が吹いた。
外付けに大きく吹き込み、豪雨がべしゃりと僕にぶっかかる。
……寒い。
「……き、北国生まれですから!」
北国生まれだったらびしょ濡れでも立ったままで眠れようか。
さすがに無理があるなぁ、そう思った時だった。
「ぃ、幾らなんでも、無理で……しょ?」
小首を傾げて、彼女はこちらの顔を困ったように覗き込む。
はい、完徹覚悟です。
「とは言いましても、まぁ自業自得ですし」
としか返しようがない。
その返答に、彼女は少し考え込むように俯いた。
そして少し躊躇いながら、彼女はぎこちなくはにかんだ。
「……よっ、よければ……っ、ボクの部屋に泊まっていきません……っ?」
は?
◆ ◆ ◆
「お、お湯加減、ど、どうかな……っ?」
スライド式のドアの奥から聞こえる声はどこか固い。
恐らくは、彼女もお隣さんとはいえ男性を安易に部屋に入れたことに、多少の緊張を覚えているのだろう。
……ここで一つ、ふざけよう。正直、僕もそう冷静ではないのだ。
あ…、ありのまま今起こったことを話すぜ!
『僕が玄関の前で彼女と話していたら
いつの間にか彼女の部屋で入浴してた』
な…、何を言ってるのか、わからねーと思うが、僕も何をされたのかわからなかった…。
……ふぅ、精神安定完了。
「はっ、はい……! ち、ちょうどいいです……!」
そんな容易く落ち着けるか!!
いや待て。こうゆうのはオーソドックスに定番を試してみたらいいんじゃないか!?
ほら、よくあるじゃないか!
般若心経唱えるとか、素数を数えるとか!!
「仏説魔訶般若波羅蜜多心経……までしか覚えてねぇよ」
つか、これって全部失敗例じゃねぇか!
……いや、アレだよ?
そこで画面の向こうで壁を殴ってる皆々様、僕も一応断りはしたんだよ?
ほぼ初対面の、しかも女性の部屋に泊まるなんて大胆なことできないし!
しかし、まぁ……、その、断り切れなかったんです。
なんか、意外と押しが強くて……。
「ふ、服は少しは乾いたから……、おっ、置いとくねっ?」
「あ、どうぞお構いなく……」
じゃねぇだろ!?
さすがに心の内にその突っ込みは留めて、パタパタとドアの向こうで駆けていく彼女を見送る。
あ、あぁ……べ、別に疚しい目的があって招き入れたんでもないんだ……。
い、いやガッカリなんかしてないぞ!?
「…………」
カポー……ン
しかし、こう、静かだと、なぁ。
お年頃の男の子が、同年代の女性の風呂に入っている状況だ。
って、意識したら余計に恥ずかしい……。
……これ……普段はあの娘が体洗ってるんだよなぁ……。
「い、いいお湯加減でございました……」
「そっ、それは……どうもだけど、何で土下座……?」
フローリングの床が冷たくて気持ちいい。
「ふ、服の乾き具合もいい塩梅です……」
「よ……よかった、かな?」
やはりぎこちなく、彼女はそう言う。
疚しくて疚しくて辛いよー。
土下座のおかげで赤面も収まり、僕は熱い顔を上げた。
「その……マジで助かりました……」
「こっ、こっちこそ、えと、その……、い、いっぱい迷惑かけちゃったしっ、おわっ、お詫びになってればそれで……!」
「いえ……その、こちらこそで」
「いっ、いやいやいや、ここっ、こっちこそ、だしっ!」
いやに低姿勢に堂々巡りを続けて、少し笑いそうになる。
緊張しているのか、恥ずかしいのか真っ赤な彼女の顔を見て、僕は苦笑した。
「じゃあ……、おあいこってことで、手打ちにしましょう」
「いやっ……、う、うんっ! そ、そうだ、ね!」
羽先を顔の前で合わせて、彼女は実に嬉しそうにはにかんだ。
……やべぇ、可愛い。
「お、おあいこならさ……っ?」
上擦った声で、彼女は続けた。
「何でしょう?」
「その、さ……、敬語じゃなくても、いいんじゃないかな……っ?」
あ。
あちゃー。
指摘されて、僕は顔を掌で押さえてしまった。
「す、すみま……ごめん。ちょっと、初対面の人には癖で敬語になるんだよ……僕」
「そ、うなの……?」
「あぁ……、特に女の子って、ほら。ちょっと神経使うし」
それに思い当るところがあるのか、彼女は曖昧に笑った。
その笑顔に、少しだけ救われた。
「で、えーと……さ」
「ななっ、何かなっ!?」
少し慌てたのか、彼女の声がまた上擦る。
が、正直に、これだけはと聞かねばいけないことがある。
躊躇っていても、すぐに問わねばならないことだ。
「こっから、どうしましょう……?」
……敬語になっちゃった。
が、彼女はそこを気にした様子はなく、ボフッと茹った。
やっぱり、深くは考えていなかったらしい。
羞恥に呂律が回らないのか、彼女は何度もつっかえる。
「ぁ、ぇ、あ、そっ、そうだ! う、ウノ! ウノやろうよ!」
ウノ!? 二人で!?
随分と可愛らしい提案だが、それ地雷じゃないか!?
さすがに本人も無理がある提案だと気づいているのか、恥ずかしそうにしている。
が、すぐに拗ねたようにこっちを見つめた。
「じゃ、じゃあそっちが提案してよぅ……」
「え、えぇ? 僕ッスか?」
と、言われて、即座にピンとくるものはあった。
思い出したのは、公園でのアレだ。
「そんじゃ、歌ってくれねぇ?」
少し、意地悪な顔をしていたのかもしれない。
言うなり、見る見るうちに彼女の赤面に羞恥の赤が注がれた。
セイレーンなのに、歌うのが恥ずかしいとは、本当に変わっている。
「いやぁ、もっぺん見たいな、お姉さんが気持ちよく歌ってるとこ」
「お、お姉さんじゃないよ!? ボク、まだ18だもん!」
「ありゃ、僕とタメか」
何となくで呼んでた呼称は、どうやら外れだったらしい。
そこで、そういえば名前を聞いていなかったと、ふと思い出した。
「あ、そういや僕は阿万音佐々良ってんだけど、束紗さんは?」
「ボクは束紗詩乃……って、知ってるじゃん!」
「表札、ちらっとだけ見たし」
詰め寄る束紗に、少しニヤけてしまった。
何というか、やっぱり可愛い。
「で、それはさておき束紗? 歌、提案したけど?」
「え、えぇ!? そ、そんなぁ……!」
泣きそうにすらなる束紗。
恨みがましく僕を涙目でにらんで、彼女はがっくりと項垂れる。
そして、まるで蚊の鳴くような声で、呟いた。
「わ、笑ったり、しない……よね?」
「笑わねぇよ。僕が聞きたいんだ」
素直に返すと、湯気が出そうなほどに赤くなった。
そして、観念したのか、覚悟したのか、とにかく彼女は顔を上げた。
「じゃ、じゃあ……もう遅いし、Aメロだけ……」
そう言って、彼女はすぅっと息を吸った。
◆ ◆ ◆
一言で彼女の歌を評せば、最高の二文字に尽きる。
サビの余韻を締めくくり、喉に当てていた手を離した束紗に、僕は親指を立てた。
「聞いててこっちもテンション上がったよ、最高だった」
端的な感想に、彼女はぎこちなくはにかむ。
気まずさを誤魔化すような笑みとは違い、ほんのりと喜色が浮かんでいた。
「え、えへへ……ありがと」
「こちらこそ、感謝の極みです」
つい敬語になってしまい口を覆うと、彼女はクスクスとおかしそうに笑った。
「ホントに、癖なんだ……ね?」
「う、うぅん……、女の子が相手になると、どうしてもねぇ?」
神経質、と言えばいいのか。
別に男女差別をしているわけではないが、やはり意識せざるにはいられない。
その辺りをあまり気にしない武者小路が羨ましくはあるが、これも性分と受け入れるしかない。
「…………」
ちらりと時計を見やると、大きな針は未だ一時を回ったばかりだった。
手持ち無沙汰な沈黙と、外から響く激しい雨音が耳に痛い。
「じゃ、じゃあやっぱウノでもする? それとも、寝るんだったら僕は外にでるけど……」
「だ、だから……外じゃ風邪ひく……でしょ?」
お世話になっている上に、そうも心配されると言い返せない。
どうしたものか、そう考え込むと再び沈黙が訪れる。
気まずい空気だなぁ、そう思った時だった。
ッどぉぉん!!
窓から鮮烈な光が差し込むとほぼ同時に、心臓が跳ねるような爆音。
雷だ。
近かったのだろうか、僕らを照らす蛍光灯が絶えた。
「ありゃ、激しいですね――」
ドッ、と。
胸に重い衝撃。
予期せぬことに、束紗が僕の胸に飛び込んできたらしい。
唐突過ぎてふんばりが効かず、僕は彼女に押し倒される形で背中から倒れこんだ。
「…………ッ!」
「……も、もしかしまして、雷とか苦手です?」
「…………ッ!!」(ぶんぶん)
首を横に振られた。
いや、あの、さ?
一目瞭然ではあるし、それ以前にその、な?
胸板に押し付けられる控えめな感触が、ね?
あと、なんか海に来た時にするような、独特の香りが、ほのかに鼻孔をくすぐる。
そういえば、シャンプーがそれっぽい香り、だったような……。
い、いやいや、これ、やばくない?
ギュッと固く閉じられた瞼から滲む涙。
ふるふると小刻みに震える華奢な体躯。
薄い布を隔てて伝わる、柔らかい感触。
極めつけは、無音と暗闇。
「あ、あの……束紗? とっ、とりあえず、離れないか?」
「……むっ、無理ぃ……ッ!」
やんわりと距離を取るよう促すが、更に力強く抱きしめられた。
正直に言おう。
今の僕の脳内は、八割がたがえるぉい妄想に使われている。
ちなみに二割はパニックだ。
これ、どうすればいいの!?
手は出したらまずいし、このまま抱かれっぱなしって生殺しなんですが!?
ッどぉぉん!!
「ひ……っ!」
再びの轟雷と、か細い悲鳴。
自分を抱きしめて震えるお隣さんに、僕はやるせなく頬を掻いた。
仕方なく、決意を固めた。
「大丈夫……、ほら、僕もいるし」
囁いて、髪を梳くように撫でる。
ものすごく気恥ずかしいせいか、僕の声も震えていた。
しかし、何度か彼女の頭をなでると、強張った彼女の体から、徐々に力が抜けていくのが伝わった。
「…………」
「あ、アッハッハー、こ、ここいらで小粋なジョークとか……いっとく?」
気まずさを誤魔化して、ふざけてそんなことを言ってしまう。
無論、返答はなく、沈黙は益々重くなった。
「あー……、えっと、なんか……ごめん」
たぶん、こんな暗闇の中で、僕みたいな男がいるのも恐怖の促進になっているのだろう。
ただでさえシャイな束紗だ。
恥ずかしいし、怖いし、心細いのだろう。
矛盾しすぎて、僕は此処にいた方がいいのか悪いのか、分からない。
でも、やっぱり、放っておけない。
「…………」
「…………」
それっきり、僕は黙ることにした。
雨音と、細やかな息遣いと、時々響く雷音。
時たまに彼女の体が強張るのが伝わったが、僕はされるがままになった。
何となく、そんな沈黙の時間も、重くはなかった。
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ!
「んぁ……?」
そんなこんなで、いつの間にか僕は寝ちゃってたらしい。
目覚まし時計特有の、無機質な電子音に意識が覚醒する。
胸に寄りかかる重みに、視線を下げると束紗も眠っていた。
「……つか、時計うっせぇ……」
さすがに束紗を押しのけるわけにもいかず、足を伸ばして何とか時計を探す。
その目覚まし機能を止めて、時間を見るとまだ朝の6時だった。
何とも早起きなタチらしい。
僕は大概、8時を回らないと起きない。
「ん……んぅ……?」
そこで、束紗が目覚める。
何となく、反射的に、僕は両手を挙げた。
「……ぅ、ん? あ、あれ……?」
バッチリと目が合い、彼女は困惑したような声をあげる。
が、察したのか、彼女の顔が徐々に朱に染まる。
「ぇ、ぁ……、阿万音、くん……っ?」
「あ、どうも……。なんか、雨やみました、ね?」
あ、そういえば何気に初の名前呼びだ。
「え、っと? そんなわけで、僕、大学あるんで、行きますね?」
「ぁ、は、はい……」
本当は、講義は10時からだ。
しかし、学生証の電子マネーで確か飯が食えたはずだし、朝食にさっさと登校した方がいい。
それに何よりも、この場にいても気まずい。
「あー、じゃあ、ありがとう、ございまし、た?」
「ぇ、ぃ、いぇ……、こっ、こちらこそ……」
どこか惚けたように言う彼女に、僕は逃げるように玄関へ向かった。
履き潰した安物の靴に足を突っ込み、ドアノブに手をかける。
「ぁ、ぁの……」
「それじゃ、また今度お礼します!」
何か言いたげではあったが、僕はそれを一方的に遮ってドアを開ける。
物言いたげにこちらに手を伸ばす束紗をちらりと振り返り、僕はそのまま逃げるように大学へ小走りで向かった。
◆ ◆ ◆
「朝飯を奢れ」
食堂の入り口で、仁王立ちしていた武者小路がそんなことをのたまった。
スルーしようと隣を通り抜けようとすると、ボソリと呟かれた。
「あのカロリーメイトは俺の今日の朝食だった」
食堂にて、武者小路は米と味噌汁だけと、実に質素な朝食を摂っていた。
ちなみに、僕はピザトーストと野菜ジュースである。
丁寧に手と手の皺を合わせて合掌する武者小路に倣い、僕も合掌する。
「いただこう」「いただきます」
これで意外と、武者小路の礼節はきちんとしている。
不躾な発言は、基本的に内輪にしか向かない。
「して、昨晩はどうしたのだ? 貴様は財布に鍵を突っ込む悪癖があっただろう」
「…………」
ズカズカと、今朝一番聞かれたくない話題である。
「別に、窓から入って家で寝たよ」
「くくっ……、不審者だな」
適当な嘘に、武者小路は適当に笑う。
そして味噌汁を一口啜り、一つ頷く。
「捜索料、占めて二百円だ」
そう言って、武者小路は無造作に何かをこちらに投げつける。
慌ててそれを受け取ると、幼稚なマジックテープ式の、見慣れた僕の財布だった。
ヒヨコのストラップも、健在である。
中身を確かめると、二百円を除いて寸分違わず元のままだった。
「え、武者小路?」
「昨日は暇でな。談話室の清掃婦人を手伝っていたら、自販機の下で見つかった」
拾われたのではなく、無為に蹴り込まれでもしたのだろう。
そう付け加えて、武者小路はムッスリと黙り込んで食事に集中し始めた。
……ツンデレめ。
「そうか」
僕もそれだけ返して、心の中で感謝した。
相応の対価を貰った武者小路は礼を言われると極端に不機嫌になるからだ。
気難しいものの、なかなかどうして悪くない友人である。
そこで、ようやく僕もピザトーストにかじりつく。
「ところで」
チーズを伸ばして遊ぶ僕に、白飯を咀嚼しながら武者小路が問う。
ごくりと飲み込み、彼は続けた。
「カバンはどうしたのだ?」
「あ」
……どうにも、僕は落し物か何かの神様に憑かれているのだろう。
今頃、僕のカバンは束紗の部屋で横たわっているはずだ。
13/04/29 15:59更新 / みかん右大臣
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