幕間 ある昼下がりの惨事
「んっ……んん……」
穏やかな温かさを伴って降り注ぐ日差しに、ミネアは緩やかな覚醒を迎えた。
寝起きのせいか重い頭をフラフラと上げて、涎の垂れた口元をぐしぐしと擦る。
その腕のか細さに、未だ子どもの姿であることをぼーっと再認識する。
(……良かった)
無意識に、彼女はそう思った。
寝惚けた頭はなぜそう思ったのかまでは至らず、彼女は一つグッと背を伸ばした。
筋肉が伸びる感覚に心地よさを覚えるうちに、ミネアの頭は段々と鮮明になってくる。
(確か……寝ちゃったのよね……)
その経緯を思い出し、彼女は肩越しに振り向く。
案の定、そこにはどこか儚げな雰囲気の少年が座っていた。
石壁に背を預け、正座したまま眠るアルベールにクスリと笑いが零れる。
どこか大人びたような彼は、あどけない寝顔を晒して眠っていた。
「この陽気だから、仕方ないわよね……」
冬だと言うのにどこかポカポカと暖かいのは、恐らくこの長閑な日差しのせいだろう。
そんな中じっと座っていたら、瞼が重くなるのも必然だ。
「……ふふ」
アルのそんな子どもらしさについ微笑ましくなり、ミネアは自然と笑みを漏らす。
慈愛に満ちた温かみのある少年も、改めて見れば年端もいかない子どもだ。
が、ミネアの視線はその幼い寝顔から柔らかそうな唇にシフトする。
健やかな寝息の漏れる薄紅色の唇に、彼女はごくりと生唾を呑んだ。
「……ちょっとくらい味見しても、誰も文句言わないわよね?」
自分に言い訳するようにそう呟いて、桜色の舌でちろりと上唇を舐める。
見たところ他の女性の匂いがするでもないアルの眠りも深い。
恐らくは、ちょっとやそっとのことでは起きないだろう。
「……リリム相手に、油断してるアルが悪いわ、うん」
ほんのりと頬を紅潮させながら、ミネアは呟き続ける。
その顔は徐々に彼に近づいていき、息遣いさえ感じられるほどに彼女は接近した。
その端正な顔に、心臓が高鳴る。
魔王の娘という淫魔であるながら、たかが顔を近づけただけで彼女の心臓は早鐘のようだ。
「…………ごくり」
再度、彼女は改めて生唾を呑む。
健やかな寝息が熱い頬にかかりくすぐったい。
近づいて初めて分かったが、思った以上にまつげが長い。
そんな程度のことに、彼女の頬はますます赤くなり耳まで染める。
他人の恋愛に無責任に茶々を入れまくるくせに、彼女は自身が思う以上に初心だった。
(し、仕方ないじゃない……。そ、その……初めて、なんだし……)
誰にするでもなく、またも自身にそう心の中で呟くミネア。
勿論、姉や自身がおちょくった連中からもっと過激な話を聞いたり見たりしたこともある。
だが、いざ自分の事となると臆病になってしまうのも仕方はないだろう。
三十路前にして、これが彼女の初恋だ。
「……いただくわ、アル」
ぽつりと呟き、ミネアはググッと顔を近づける。
熱い吐息が彼にかかり、桜色の唇と薄紅色の唇が接近する。
「……っん」
触れた。
啄ばむような、軽いキスだった。
たったそれだけで、みるみる内にミネアの顔が紅潮していく。
バッと自らの頬を両手で押さえ、彼女は真っ赤な顔を俯ける。
「〜〜〜〜〜!」
ブンブンブンブンと何度も首を振り、彼女は声にならない悲鳴をあげる。
あまりの羞恥に悶え死にそうな様子である。
(ややっ、柔らかい……じゃなくてっ! や、やっちゃった……!)
バクバクと弾けんばかりに高鳴る心臓と、燃えるような熱さの頬にミネアは半狂乱だ。
忙しなく右を向いては上を向き、左を向いては上を見る。
誰かに見られでもしたのかと不安げに、彼女は何度も何度も周囲を確認する。
勿論、そのような人影などない。
(……こっ、今度から皆をおちょくるのは止めた方がいいわね……)
赤い頬を掻いて、彼女はそう決意した。
尋常じゃないこの恥ずかしさを乗り切って意中の男性といる友の勇気は、もう踏みにじれない。
「……そう言えば、あの二人……どうなったのかしら」
つい最近カップルになった二人を思い出し、ミネアは何の気なしにそう呟いた。
熱い頬を掌で煽ぎながら、彼女はのんびりと青い空を見上げた。
いい天気である。
◆
「イイ天気ネー……」
どこか呆けたような顔つきで、蛇がそうぼやいた。
大蛇の体にうつ伏せて、穏やかな日光を浴びながら彼女は目尻をとろんと垂らしている。
髪先の小さな蛇たちもみな眠ったように力なく垂れ下がり、とても気持ち良さそうだ。
が、彼女の内心は穏やかではない。
呆然とはしているものの、その根底にあるのは一種の怒りである。
(ネスのやつ……帰ってきたら許さないんだから)
メドゥーサである彼女、コレットには愛すべき伴侶がいる。
その伴侶、ネスティは自ら急遽引き受けた仕事のため、隣にはいない。
本来なら、今ごろは二人で日向ぼっこをする予定だったというに。
「大体、今日は何でミネアじゃなくてエヴァが仕切ってるのよぉ……」
自分に厳しく他人に甘いミネアは、執務室にいなかった。
自分に厳しく他人にも厳しいエヴァンジェルが言うには、強制休暇らしい。
暇ならと危うく仕事を渡されかけ、コレットは慌てて砦の外へ逃げたのである。
「……暇、ねぇ」
日向は温かい。
が、駄弁る相手もいなければどうしようもなく眠い。
はぁ……、と空しそうにコレットがため息を吐いた、その時だった。
「おぉーい、アルー! どこにいるんだー!」
「ん? ……この声って」
のそりと女体の上半身をもたげて、彼女は目を細めて声の主を探す。
その視線の先、小高い丘の上で困ったように辺りを見回す少し生意気そうな少年の姿があった。
キュピィン、そんな擬音が出そうなほどに切れ長の瞳を光らせてのそりと起き上がる。
そして、その緩慢な動作からは想像もつかないようなスピードで彼に這い寄る。
「リュカァァ――――――――――♪」
「ん? って、うおッ!?」
その勢いのままに両手を広げて抱きついてくるコレットを、少年は薄皮一枚でかわした。
リュカと呼ばれた少年、リュカ・アストレイはそんな彼女にうげっと声をあげる。
義姉、そう呼ぶべき彼女に。
「ねねっ、ねえちゃん!? おおっ、オレになんかようかッ!?」
リュカにとって、コレットは天敵である。
彼の兄、ネスティが病体で帰って来たときに付き添っていたのが彼女だ。
随分と真剣に愚兄を看病する彼女を、何の気なしに『ねえちゃん』と読んで以降、追い掛け回されている。
そして、掴まったときは骨が軋むような熱い抱擁である。
魔物娘との交流が少ないわけではないが、命の危険を感じる彼女はリュカも苦手だ。
「あぁん、もう! リュカはネスと違って可愛げがあるから困るわぁ♪」
「はなしきいてねー! つーかっ、ネス兄のかのじょだろねえちゃん!? なんでオレんとこくんの!?」
ギャーギャーと騒がしい悲鳴をあげながらも、リュカはじりじりとコレットから距離を取る。
両手でバッテン印を作って、バリヤーッと叫んでいる。
「必殺石化ビーム☆」
キラッ、とウィンクした瞬間にコレットの琥珀色の瞳が妖しく光る。
リュカの無意味な抵抗も空しく、×にクロスした両腕がペキペキと石化し始める。
「っぎゃぁぁぁあああああ!?」
「バリヤーとか余裕でしたバリバリバリー!」
本気で悲鳴をあげるリュカに、コレットは大人気無く石化を続ける。
ぶんぶんと両手をクロスしたまま振り回して絶叫している。
年端もいかない子どもとしては、恐怖以外の何物でもない。
「なななっ、何すんだねえちゃん!? ねね、ネス兄に言いつけるぞバカヤロー!!」
目を涙で潤ませて叫ぶリュカ。
兄とは違い感情を剥き出しに叫ぶ彼に、コレットは甘い吐息を漏らす。
「はぁん……♥ 義弟かわいい……♥」
「ばかぁぁ――――!! かわいいとかじゃないから早くたすけろぉぉ―――!!」
……閑話休題……
「ねえちゃんはいじめっ子だ……」
未だ涙の浮かぶジト目で、リュカはコレットを睨む。
彼の正面に座らされたコレットは、大して反省した様子もなくニコニコと上機嫌に微笑んでいた。
「ほんと、リュカはネスと違って素直でかわいいわねぇ♪」
「かわいくねぇ! オレはぜんっぜんかわいくねぇ!」
頭を撫でるコレットの手をパシッと軽くはたき、リュカは思いっきりぶんむくれる。
にも関わらず彼女はめげずに薄い金色の髪を梳くように撫でる。
抵抗しても無駄、ということは短い付き合いながらリュカは理解しているため諦めて抵抗しない。
「ふんっ!」
しかめっ面でふてぶてしく頭を撫でられながら、リュカは頬を赤くする。
その様子をあえて見てみぬ振りしながら、コレットはクスクスと笑った。
「そう言えばリュカ、あんた誰か探してるみたいだったけどのんびりしてていいの?」
「ん? って、あ! そうだった、アルをさがさねーと!」
ふと思い出したかのように言う彼女に、リュカは目に見えて慌てだす。
アル、という聞き覚えのない固有名詞にコレットは首を傾げる。
彼女の記憶が正しければその人物は砦の兵士でもなく、ネスの家族でもなかったはずだ。
「アル……って、誰?」
「オレのダチ! 鬼ごっこやってんだけどさ、おわったのに来ねぇからさがしてんだ!」
ただ探している、にしてはリュカの顔色は悪い。
怪訝に思い、コレットは重い腰を上げた。
「リュカの友達かぁ……、ちょっと興味あるわね。私も手伝うわよ?」
「サンキューねえちゃん! たすかるぜ!」
先ほどまで拗ねていたとは思いがたいほどに顔を明るくするリュカに、彼女は微笑む。
きっと娘ができたらこんな感じなのだろう、そう思って。
◆
「ん、んん……」
ピクピクと、アルベールの瞼が震える。
至近距離からまじまじと彼の顔を覗き込んでいたミネアは、その様子にバッと距離をとる。
すっかり赤く染まった己の頬をペチペチと叩くが、もちろん元には戻らない。
そんな彼女の様子に気付いた様子もなく、アルは両腕をグッと青空に突き伸ばす。
「んんんー……ぁっ」
糸が切れたように妙な吐息を残し、アルは瞼を閉じたまま目元をぐしぐしと擦る。
「……は、はやく戻りなさい!」
距離をとったミネアは、そんな彼から目を逸らして尚も赤い頬をペチペチと叩いている。
もぞもぞと身をよじるような音が背後から聞こえ、彼女は硬直してしまう。
「んん〜……ふぁああ……、おふぁよぉ……ミネアちゃあん……」
間の抜けた欠伸と、寝惚けたような言葉にミネアはギクシャクとした妙な動きになる。
ブリキ人形のようにぎこちなく振り返り、彼女はアルにそっと微笑む。
「え、えぇ。おはよう、アル」
その頬はうっすらと赤いものの、アルは気にしたようにえへへー、と惚けたような笑みを零す。
よく見てみると、その口元からは少し涎が垂れている。
ミネアはそんな彼の様子に小さなため息を吐き、ドレスの懐からハンカチを取り出す。
「ちょっと、涎垂れてるわよ。こっち来なさい」
「んんんー、ありがとぉ……」
仕方なさそうに、内心は満更でもなさそうに手招きする彼女にアルは四つん這いで近寄る。
そして、彼は何の気なしにんっ、と唇を突き出す。
否応無しにそのすぼまった薄紅色の唇を見せ付けられ、ミネアはカーッと赤くなる。
彼女の脳裏には、先ほどのキスの記憶が蘇っていた。
「……っ、ふ、拭くわよ?」
気にしすぎても不自然だと思い、彼女は強引に雑念を振り払う。
そんな彼女の呼びかけに、アルはこくんと無垢に小さく頷いてみせる。
「……〜〜〜っ!」
そうは言っても、瞼を閉じて唇を突き出すその姿はキスの催促にしか見えない。
顔を見られないことがせめてもの幸い、そう割り切ってミネアは彼の口元にハンカチをあてがう。
涎の垂れた口端から顎のラインを丁寧に拭き取りながら、彼女は小さくため息を吐いた。
(他の娘なら……、ここで不意打ちにキスでもするんでしょうね……)
その度胸が、どうしても湧かない。
嫌われたくないという思いと、自身が本当は大人であるという事実が彼女を躊躇させる。
グイッと少し乱暴にアルの柔らかい肌を拭い、ミネアは彼の口元からハンカチを離す。
「ほらっ、綺麗になったわよ」
無理に明るい声を出して、彼女はニッコリと笑った。
未だに寝惚けたように笑いながら、アルはフラフラと頭を下げた。
「えへへ〜……、ありがとぉ……――へむっ」
「――――――――――――――――――!!?」
その頭が、ガクンと下がる。
最後に彼の口から漏れたくぐもった悲鳴に、むしろミネアが悲鳴をあげそうになった。
糸が切れたように下がったアルの頭は、ちょうど彼女の胸に落ちてきたのだ。
声にならない声を堪え、ミネアはわたわたと手を振り回す。
弾けんばかりの早鐘のような心音が、彼に伝わってしまうのではないかと疑った。
「う、ん……? んー、あー……ごめんねぇ?」
特に慌てた様子もなく、アルはへらっと笑って彼女から離れる。
当のミネアは、薄っぺらくなった胸元をドレスで覆い口をパクパクと開閉させている。
「どうもぼく、ねおきに弱くて……ふわぁ……」
耳まで真っ赤な彼女とは対照的に、アルは何事もなかったかのように大口を開けて欠伸している。
よくよく見てみると顔色もかなり青白く、かなりの低血圧らしい。
気持ちは分からなくもない、ミネアも寝起きに強いわけではないからだ。
が、彼女としては当然それどころではない。
(む、胸ぇぇ!? なっ、何でよりにもよってこんなペッタンコな時に……! なんで今子どもなのよ私ィ!!)
ぶんぶんと頭を振り回し悶える彼女に、アルは笑顔のまま首を傾げた。
恐らく、将来は素晴らしい女泣かせに育つだろう。
「〜〜〜〜〜〜!!」
(どうしたんだろ、ミネアちゃん?)
悶える彼女をぼけっと見つめて、アルは疑問符を浮かべる。
傍から見れば、初々しい光景にしか見えない。
が、ミネアとしてはただの生殺し以外の何物でもない話である。
そんな二人の耳に、そう離れていない距離から声が聞こえた。
「…………ェ……ィ!」
子どもの泣き声のような独特の高さに、アルは目をパチクリと瞬かせる。
聞き覚えがないことはない、恐らくは一緒に鬼ごっこをしている近所の子どもの声だ。
ミネアもその泣き声に動きが止まった。
「い、今のは……?」
「んー、なんだろ? ちょっとミネアちゃんはここに隠れてて?」
そう言って、アルはスッと立ち上がった。
小さな手に魔道書を掴み、彼はミネアが止める間もなく身を隠していたバケツの影から出る。
どこか胸がざわざわとするような不安感を覚え、彼女もバケツの影から顔を覗かせる。
「ひっ、ひぃ!」
すると、鬱蒼と茂った森の中から一人の少女が飛び出してきた。
アルよりも小柄な少女は怯えたように目尻から涙を零しながら、その勢いでアルに飛びついた。
「あれ、ビーニャちゃん? どうしたの?」
「……むっ」
抱きとめた少女の頭を撫でるアルに、ミネアの頬が膨らむ。
もちろん、彼はそんな彼女を知る由などない。
ビーニャと呼ばれたワーラビットの少女は、ガタガタと尋常じゃなく震えていた。
さすがにその様子を見て、ミネアは文句を言うわけもなくムッツリと黙り込んだ。
「ひ……ぁ……っ……!」
ビーニャはアルの華奢な体に顔を押し付けて、喉から笛のような声を絞りだす。
そんな彼女の頭を、アルは優しく梳いた。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。怖くないよ?」
囁くようなその声音に、ミネアはデジャヴュを覚える。
ウェーブのかかったビーニャの髪を、アルは優しくポンポンとたたく。
それでようやく少しは落ち着きを取り戻したのか、彼女はボロボロと涙を零しながら彼から身を離した。
「あ、アルちゃん……! む、向こうから、向こうからこわい人がぁ……っ!」
「こわいひと……?」
恐怖に震えた彼女の言葉に、アルが首を傾げた時だった。
ガサッと、茂みから葉鳴りの音がした
「ったく、ガキが手間取らせやがって」
「ひ、ひぃぃ……!」
ギラリと凶悪な銀色の光に、アルはきょとんとした表情になる。
血の気が引いたように彼の後ろにビーニャは隠れ、物陰に隠れていたミネアは息を呑んだ。
その男の風体から、彼女の脳裏に今朝の仕事が思い浮かぶ。
街道近辺に出没した盗賊。
(な、なんで村まで……っ!?)
動揺する彼女とは違い、アルは無垢にその男を指差した。
「おじさん、だれ?」
場違いなその質問に、ビーニャは彼の背後で卒倒しそうになっている。
ミネアは、彼のその言葉に自分がどんな顔になっているか想像もできなかった。
が、恐らくは質問された男と同じような間の抜けた顔になっているのだろう適当に考える。
「……あぁ? 何だ、このガキ」
「ああああっ、アルちゃん! こ、この人は悪い人なの! だっ、から早く逃げないとっ!?」
察しの悪い彼に、ビーニャはぐいぐいと彼の服の裾を引っ張る。
見守るミネアもハラハラと落ち着かない。
(わ、私も出た方がいいんじゃ……!?)
ミネアは焦るが、やっぱりアルは落ち着いていた。
落ち着いている、というよりも危機察知能力が欠落しているのではないかと思うほど呆けている。
怯えどころか、驚きもしない鈍いアルに、男は苛立たしげに舌打ちする。
「まぁいい。悪いが、俺は後ろの兎女に用があるんだ。退きな」
そう言って、男は無造作に握っていた剣を振りかざした。
その動作をじっと見つめるアルの後ろで、ビーニャがヒッと小さな悲鳴をあげる。
今にもアルの頭蓋を砕かんと振り下ろされた凶刃に、彼はボソリと呟いた。
「シルド」
ガギィ……!
金属と金属のぶつかり合うような硬質な音ともに、剣の軌道が急に逸れた。
ガリガリとアルの目の前で火花が飛び散り、彼はそれを真っ直ぐに見つめていた。
相対する男は、剣から伝わった未知の手応えに仰天する。
「な、何だと!?」
よくよく見てみると、男の剣を逸らしたのはアルの目の前に浮かぶ半径30センチほどの光の盾だった。
ミネアは、その盾に見覚えがある。
魔法使いの見習いが良く使う、初心者用の魔法だった。
(アル……、魔法が使えるの……!?)
見た目は10ほどの少年は、初級とはいえ易々と魔法を扱っていた。
魔物でもない人間が、その歳で魔法を使役できるのはかなり稀有である。
が、アルはそんなことをおくびにも出さずに剣を振り下ろした男の顔をじっと覗き込んでいた。
「………………」
「ンのッ、クソガキャぁぁああ!!」
大した感情もなく己を見つめる少年に苛立ったのか、男は何度も剣を振り下ろす。
その剣が光の盾とぶつかり派手な音をたてるたびに、アルの後ろに隠れるビーニャはびくっと身をすくめる。
「ひっ、いっ、きゃあああ!?」
「クソッ、クソッ、クソッ!!」
何度も何度も打ち合う盾と剣のリズムが、一定になってくる。
悪態を吐きながらも、男は動揺のせいか油断してしまっていた。
ガギッ、と盾を斬りつけた剣が跳ね上がったとき、アルは彼に掌をかざしていた。
「マジックアロー」
彼の掌から、光弾が放たれる。
寸分も違うことなく、吸い込まれるように、その光弾は男の顎を射抜いた。
バガッ、と骨が軋むような音と共に、男の体が浮いた。
「ぎェ……ッ!?」
白目を剥きながら、男の体が地面に仰向けに倒れこむ。
脳震盪だろう。
その一部始終を見ていたミネアは、驚愕を隠せなかった。
アルは子どもが使った初級の魔法だけで、大の男を容易くやっつけてしまった。
魔法使いとしての才能が、異常なまでに秀でているのだ。
「……っぷぁ。ビーニャちゃん、だいじょうぶ?」
少し緊張していたのか、アルは頬から汗を一筋垂らしながら振り向いた。
名を呼ばれた彼女は、頭の耳をピコピコと揺らしながら目を見開いていた。
目尻には大粒の涙が溜まり潤んでいる。
その様子を見て、ミネアは何とも言えない顔つきになっていた。
(……あの子、天然のたらしね……)
はぁ……、と小さなため息を吐いて、彼女は物陰から出て二人に歩み寄る。
それに気づいたアルは、彼女の方を向いてニコリと微笑む。
人の気も知らないで、と彼女は再びため息を吐いた。
「……まったく、心配して損したわ」
二人に聞こえないようにそう呟いて、彼女はビーニャとアルの頭に手を置いた。
そして、わしゃわしゃと少し乱暴に撫でる。
「お疲れ様、怖かったわね」
周辺領地の一任者として、彼女は頬を染めながら二人を労う。
一軍を預かる者として、彼女からすれば情けない話だ。
目の前にいながら守るのではなく、まさか幼い子どもに守られようとは。
若干の羞恥から、彼女は赤い顔を逸らした。
「…………はぇ? み、ミネア……さま?」
突如現われたミネアの存在に呆然としていたビーニャは、彼女を見つめてそう呟いた。
その言葉にギクリとした顔つきになり、ミネアは慌てて彼女の頭をわしゃわしゃと撫で始める。
「ぅわっぷ……!」
頭を押さえつけるように乱暴に撫でられ、ビーニャの頭がガクッと下がる。
それを見てプッと噴出すアルに、ミネアは彼の頭も乱暴に撫でた。
「うひゃ……!」
二人の子どもにどう言い訳したものか、先の思いやられる話にミネアは深いため息を吐いた。
貴方たちは……、そう口を開いたときだった。
「く……そ、ガキぃ……!」
地獄から這い寄るような、重低音の殺意。
その声の主は、ミネアの目の前で銀色の凶刃を片手にゆらりと立ち上がっていた。
どろりと濁った目が彼女と合い、ミネアは硬直した。
「殺す……ッ、殺す殺すころす……ッ!」
男の口から物騒な言葉が連呼される。
ミネアは彼のその言葉で我に返り、彼女は二人を抱えて後ずさる。
「てめぇらぁ……皆殺しだぁ……ッ!」
思考破綻している。
そう直感した時に、ミネアはすぐさま彼を指差した。
「ディメンションエッジ!!」
その人差し指が、くんっと跳ね上がる。が、彼女の魔法は発動しなかった。
魔力が足りないのだ。
そして、それを思い出したときには遅かった。
「死ねよ、死ねよぉぉおおおおおッ!!」
アルと同様に初級の呪文を唱えようとしたときには、男は剣を振りあげていた。
万事休す、ミネアは二人を覆うようにぎゅっと抱きしめ瞳を固く閉じる。
が、何も起きなかった。
具体的なその何も、というのは剣が振り下ろされることだ。
狂ったような男の雄叫びも、まるで何事もなかったかのようにぴたりと止まったのだ。
怪訝に思い、ミネアは薄目を開ける。
「……………」
男は、石化していた。
「ふん、子ども相手に刃物なんか振り回すからそうなんのよ」
そして、背後から聞こえたその声にミネアは再び硬直した。
先ほど感じたおぞましい恐怖ではなく、聞き覚えのある友人の声に。
彼女は、恐る恐る振り返る。
「ごきげんよう、ミネア」
そこにはふてぶてしく腕を組んだ、コレットが立っていた。
傍らには荒い息を吐く――どこか彼女の恋人に面影のある少年が立っていた。
自らが統治する子ども二人が無事だったことは喜ばしいのだが、ミネアは素直に喜べなかった。
自分とメドゥーサのコレットを見上げるアルの無垢な視線に、彼女はやらかしたと思っていたから。
穏やかな温かさを伴って降り注ぐ日差しに、ミネアは緩やかな覚醒を迎えた。
寝起きのせいか重い頭をフラフラと上げて、涎の垂れた口元をぐしぐしと擦る。
その腕のか細さに、未だ子どもの姿であることをぼーっと再認識する。
(……良かった)
無意識に、彼女はそう思った。
寝惚けた頭はなぜそう思ったのかまでは至らず、彼女は一つグッと背を伸ばした。
筋肉が伸びる感覚に心地よさを覚えるうちに、ミネアの頭は段々と鮮明になってくる。
(確か……寝ちゃったのよね……)
その経緯を思い出し、彼女は肩越しに振り向く。
案の定、そこにはどこか儚げな雰囲気の少年が座っていた。
石壁に背を預け、正座したまま眠るアルベールにクスリと笑いが零れる。
どこか大人びたような彼は、あどけない寝顔を晒して眠っていた。
「この陽気だから、仕方ないわよね……」
冬だと言うのにどこかポカポカと暖かいのは、恐らくこの長閑な日差しのせいだろう。
そんな中じっと座っていたら、瞼が重くなるのも必然だ。
「……ふふ」
アルのそんな子どもらしさについ微笑ましくなり、ミネアは自然と笑みを漏らす。
慈愛に満ちた温かみのある少年も、改めて見れば年端もいかない子どもだ。
が、ミネアの視線はその幼い寝顔から柔らかそうな唇にシフトする。
健やかな寝息の漏れる薄紅色の唇に、彼女はごくりと生唾を呑んだ。
「……ちょっとくらい味見しても、誰も文句言わないわよね?」
自分に言い訳するようにそう呟いて、桜色の舌でちろりと上唇を舐める。
見たところ他の女性の匂いがするでもないアルの眠りも深い。
恐らくは、ちょっとやそっとのことでは起きないだろう。
「……リリム相手に、油断してるアルが悪いわ、うん」
ほんのりと頬を紅潮させながら、ミネアは呟き続ける。
その顔は徐々に彼に近づいていき、息遣いさえ感じられるほどに彼女は接近した。
その端正な顔に、心臓が高鳴る。
魔王の娘という淫魔であるながら、たかが顔を近づけただけで彼女の心臓は早鐘のようだ。
「…………ごくり」
再度、彼女は改めて生唾を呑む。
健やかな寝息が熱い頬にかかりくすぐったい。
近づいて初めて分かったが、思った以上にまつげが長い。
そんな程度のことに、彼女の頬はますます赤くなり耳まで染める。
他人の恋愛に無責任に茶々を入れまくるくせに、彼女は自身が思う以上に初心だった。
(し、仕方ないじゃない……。そ、その……初めて、なんだし……)
誰にするでもなく、またも自身にそう心の中で呟くミネア。
勿論、姉や自身がおちょくった連中からもっと過激な話を聞いたり見たりしたこともある。
だが、いざ自分の事となると臆病になってしまうのも仕方はないだろう。
三十路前にして、これが彼女の初恋だ。
「……いただくわ、アル」
ぽつりと呟き、ミネアはググッと顔を近づける。
熱い吐息が彼にかかり、桜色の唇と薄紅色の唇が接近する。
「……っん」
触れた。
啄ばむような、軽いキスだった。
たったそれだけで、みるみる内にミネアの顔が紅潮していく。
バッと自らの頬を両手で押さえ、彼女は真っ赤な顔を俯ける。
「〜〜〜〜〜!」
ブンブンブンブンと何度も首を振り、彼女は声にならない悲鳴をあげる。
あまりの羞恥に悶え死にそうな様子である。
(ややっ、柔らかい……じゃなくてっ! や、やっちゃった……!)
バクバクと弾けんばかりに高鳴る心臓と、燃えるような熱さの頬にミネアは半狂乱だ。
忙しなく右を向いては上を向き、左を向いては上を見る。
誰かに見られでもしたのかと不安げに、彼女は何度も何度も周囲を確認する。
勿論、そのような人影などない。
(……こっ、今度から皆をおちょくるのは止めた方がいいわね……)
赤い頬を掻いて、彼女はそう決意した。
尋常じゃないこの恥ずかしさを乗り切って意中の男性といる友の勇気は、もう踏みにじれない。
「……そう言えば、あの二人……どうなったのかしら」
つい最近カップルになった二人を思い出し、ミネアは何の気なしにそう呟いた。
熱い頬を掌で煽ぎながら、彼女はのんびりと青い空を見上げた。
いい天気である。
◆
「イイ天気ネー……」
どこか呆けたような顔つきで、蛇がそうぼやいた。
大蛇の体にうつ伏せて、穏やかな日光を浴びながら彼女は目尻をとろんと垂らしている。
髪先の小さな蛇たちもみな眠ったように力なく垂れ下がり、とても気持ち良さそうだ。
が、彼女の内心は穏やかではない。
呆然とはしているものの、その根底にあるのは一種の怒りである。
(ネスのやつ……帰ってきたら許さないんだから)
メドゥーサである彼女、コレットには愛すべき伴侶がいる。
その伴侶、ネスティは自ら急遽引き受けた仕事のため、隣にはいない。
本来なら、今ごろは二人で日向ぼっこをする予定だったというに。
「大体、今日は何でミネアじゃなくてエヴァが仕切ってるのよぉ……」
自分に厳しく他人に甘いミネアは、執務室にいなかった。
自分に厳しく他人にも厳しいエヴァンジェルが言うには、強制休暇らしい。
暇ならと危うく仕事を渡されかけ、コレットは慌てて砦の外へ逃げたのである。
「……暇、ねぇ」
日向は温かい。
が、駄弁る相手もいなければどうしようもなく眠い。
はぁ……、と空しそうにコレットがため息を吐いた、その時だった。
「おぉーい、アルー! どこにいるんだー!」
「ん? ……この声って」
のそりと女体の上半身をもたげて、彼女は目を細めて声の主を探す。
その視線の先、小高い丘の上で困ったように辺りを見回す少し生意気そうな少年の姿があった。
キュピィン、そんな擬音が出そうなほどに切れ長の瞳を光らせてのそりと起き上がる。
そして、その緩慢な動作からは想像もつかないようなスピードで彼に這い寄る。
「リュカァァ――――――――――♪」
「ん? って、うおッ!?」
その勢いのままに両手を広げて抱きついてくるコレットを、少年は薄皮一枚でかわした。
リュカと呼ばれた少年、リュカ・アストレイはそんな彼女にうげっと声をあげる。
義姉、そう呼ぶべき彼女に。
「ねねっ、ねえちゃん!? おおっ、オレになんかようかッ!?」
リュカにとって、コレットは天敵である。
彼の兄、ネスティが病体で帰って来たときに付き添っていたのが彼女だ。
随分と真剣に愚兄を看病する彼女を、何の気なしに『ねえちゃん』と読んで以降、追い掛け回されている。
そして、掴まったときは骨が軋むような熱い抱擁である。
魔物娘との交流が少ないわけではないが、命の危険を感じる彼女はリュカも苦手だ。
「あぁん、もう! リュカはネスと違って可愛げがあるから困るわぁ♪」
「はなしきいてねー! つーかっ、ネス兄のかのじょだろねえちゃん!? なんでオレんとこくんの!?」
ギャーギャーと騒がしい悲鳴をあげながらも、リュカはじりじりとコレットから距離を取る。
両手でバッテン印を作って、バリヤーッと叫んでいる。
「必殺石化ビーム☆」
キラッ、とウィンクした瞬間にコレットの琥珀色の瞳が妖しく光る。
リュカの無意味な抵抗も空しく、×にクロスした両腕がペキペキと石化し始める。
「っぎゃぁぁぁあああああ!?」
「バリヤーとか余裕でしたバリバリバリー!」
本気で悲鳴をあげるリュカに、コレットは大人気無く石化を続ける。
ぶんぶんと両手をクロスしたまま振り回して絶叫している。
年端もいかない子どもとしては、恐怖以外の何物でもない。
「なななっ、何すんだねえちゃん!? ねね、ネス兄に言いつけるぞバカヤロー!!」
目を涙で潤ませて叫ぶリュカ。
兄とは違い感情を剥き出しに叫ぶ彼に、コレットは甘い吐息を漏らす。
「はぁん……♥ 義弟かわいい……♥」
「ばかぁぁ――――!! かわいいとかじゃないから早くたすけろぉぉ―――!!」
……閑話休題……
「ねえちゃんはいじめっ子だ……」
未だ涙の浮かぶジト目で、リュカはコレットを睨む。
彼の正面に座らされたコレットは、大して反省した様子もなくニコニコと上機嫌に微笑んでいた。
「ほんと、リュカはネスと違って素直でかわいいわねぇ♪」
「かわいくねぇ! オレはぜんっぜんかわいくねぇ!」
頭を撫でるコレットの手をパシッと軽くはたき、リュカは思いっきりぶんむくれる。
にも関わらず彼女はめげずに薄い金色の髪を梳くように撫でる。
抵抗しても無駄、ということは短い付き合いながらリュカは理解しているため諦めて抵抗しない。
「ふんっ!」
しかめっ面でふてぶてしく頭を撫でられながら、リュカは頬を赤くする。
その様子をあえて見てみぬ振りしながら、コレットはクスクスと笑った。
「そう言えばリュカ、あんた誰か探してるみたいだったけどのんびりしてていいの?」
「ん? って、あ! そうだった、アルをさがさねーと!」
ふと思い出したかのように言う彼女に、リュカは目に見えて慌てだす。
アル、という聞き覚えのない固有名詞にコレットは首を傾げる。
彼女の記憶が正しければその人物は砦の兵士でもなく、ネスの家族でもなかったはずだ。
「アル……って、誰?」
「オレのダチ! 鬼ごっこやってんだけどさ、おわったのに来ねぇからさがしてんだ!」
ただ探している、にしてはリュカの顔色は悪い。
怪訝に思い、コレットは重い腰を上げた。
「リュカの友達かぁ……、ちょっと興味あるわね。私も手伝うわよ?」
「サンキューねえちゃん! たすかるぜ!」
先ほどまで拗ねていたとは思いがたいほどに顔を明るくするリュカに、彼女は微笑む。
きっと娘ができたらこんな感じなのだろう、そう思って。
◆
「ん、んん……」
ピクピクと、アルベールの瞼が震える。
至近距離からまじまじと彼の顔を覗き込んでいたミネアは、その様子にバッと距離をとる。
すっかり赤く染まった己の頬をペチペチと叩くが、もちろん元には戻らない。
そんな彼女の様子に気付いた様子もなく、アルは両腕をグッと青空に突き伸ばす。
「んんんー……ぁっ」
糸が切れたように妙な吐息を残し、アルは瞼を閉じたまま目元をぐしぐしと擦る。
「……は、はやく戻りなさい!」
距離をとったミネアは、そんな彼から目を逸らして尚も赤い頬をペチペチと叩いている。
もぞもぞと身をよじるような音が背後から聞こえ、彼女は硬直してしまう。
「んん〜……ふぁああ……、おふぁよぉ……ミネアちゃあん……」
間の抜けた欠伸と、寝惚けたような言葉にミネアはギクシャクとした妙な動きになる。
ブリキ人形のようにぎこちなく振り返り、彼女はアルにそっと微笑む。
「え、えぇ。おはよう、アル」
その頬はうっすらと赤いものの、アルは気にしたようにえへへー、と惚けたような笑みを零す。
よく見てみると、その口元からは少し涎が垂れている。
ミネアはそんな彼の様子に小さなため息を吐き、ドレスの懐からハンカチを取り出す。
「ちょっと、涎垂れてるわよ。こっち来なさい」
「んんんー、ありがとぉ……」
仕方なさそうに、内心は満更でもなさそうに手招きする彼女にアルは四つん這いで近寄る。
そして、彼は何の気なしにんっ、と唇を突き出す。
否応無しにそのすぼまった薄紅色の唇を見せ付けられ、ミネアはカーッと赤くなる。
彼女の脳裏には、先ほどのキスの記憶が蘇っていた。
「……っ、ふ、拭くわよ?」
気にしすぎても不自然だと思い、彼女は強引に雑念を振り払う。
そんな彼女の呼びかけに、アルはこくんと無垢に小さく頷いてみせる。
「……〜〜〜っ!」
そうは言っても、瞼を閉じて唇を突き出すその姿はキスの催促にしか見えない。
顔を見られないことがせめてもの幸い、そう割り切ってミネアは彼の口元にハンカチをあてがう。
涎の垂れた口端から顎のラインを丁寧に拭き取りながら、彼女は小さくため息を吐いた。
(他の娘なら……、ここで不意打ちにキスでもするんでしょうね……)
その度胸が、どうしても湧かない。
嫌われたくないという思いと、自身が本当は大人であるという事実が彼女を躊躇させる。
グイッと少し乱暴にアルの柔らかい肌を拭い、ミネアは彼の口元からハンカチを離す。
「ほらっ、綺麗になったわよ」
無理に明るい声を出して、彼女はニッコリと笑った。
未だに寝惚けたように笑いながら、アルはフラフラと頭を下げた。
「えへへ〜……、ありがとぉ……――へむっ」
「――――――――――――――――――!!?」
その頭が、ガクンと下がる。
最後に彼の口から漏れたくぐもった悲鳴に、むしろミネアが悲鳴をあげそうになった。
糸が切れたように下がったアルの頭は、ちょうど彼女の胸に落ちてきたのだ。
声にならない声を堪え、ミネアはわたわたと手を振り回す。
弾けんばかりの早鐘のような心音が、彼に伝わってしまうのではないかと疑った。
「う、ん……? んー、あー……ごめんねぇ?」
特に慌てた様子もなく、アルはへらっと笑って彼女から離れる。
当のミネアは、薄っぺらくなった胸元をドレスで覆い口をパクパクと開閉させている。
「どうもぼく、ねおきに弱くて……ふわぁ……」
耳まで真っ赤な彼女とは対照的に、アルは何事もなかったかのように大口を開けて欠伸している。
よくよく見てみると顔色もかなり青白く、かなりの低血圧らしい。
気持ちは分からなくもない、ミネアも寝起きに強いわけではないからだ。
が、彼女としては当然それどころではない。
(む、胸ぇぇ!? なっ、何でよりにもよってこんなペッタンコな時に……! なんで今子どもなのよ私ィ!!)
ぶんぶんと頭を振り回し悶える彼女に、アルは笑顔のまま首を傾げた。
恐らく、将来は素晴らしい女泣かせに育つだろう。
「〜〜〜〜〜〜!!」
(どうしたんだろ、ミネアちゃん?)
悶える彼女をぼけっと見つめて、アルは疑問符を浮かべる。
傍から見れば、初々しい光景にしか見えない。
が、ミネアとしてはただの生殺し以外の何物でもない話である。
そんな二人の耳に、そう離れていない距離から声が聞こえた。
「…………ェ……ィ!」
子どもの泣き声のような独特の高さに、アルは目をパチクリと瞬かせる。
聞き覚えがないことはない、恐らくは一緒に鬼ごっこをしている近所の子どもの声だ。
ミネアもその泣き声に動きが止まった。
「い、今のは……?」
「んー、なんだろ? ちょっとミネアちゃんはここに隠れてて?」
そう言って、アルはスッと立ち上がった。
小さな手に魔道書を掴み、彼はミネアが止める間もなく身を隠していたバケツの影から出る。
どこか胸がざわざわとするような不安感を覚え、彼女もバケツの影から顔を覗かせる。
「ひっ、ひぃ!」
すると、鬱蒼と茂った森の中から一人の少女が飛び出してきた。
アルよりも小柄な少女は怯えたように目尻から涙を零しながら、その勢いでアルに飛びついた。
「あれ、ビーニャちゃん? どうしたの?」
「……むっ」
抱きとめた少女の頭を撫でるアルに、ミネアの頬が膨らむ。
もちろん、彼はそんな彼女を知る由などない。
ビーニャと呼ばれたワーラビットの少女は、ガタガタと尋常じゃなく震えていた。
さすがにその様子を見て、ミネアは文句を言うわけもなくムッツリと黙り込んだ。
「ひ……ぁ……っ……!」
ビーニャはアルの華奢な体に顔を押し付けて、喉から笛のような声を絞りだす。
そんな彼女の頭を、アルは優しく梳いた。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。怖くないよ?」
囁くようなその声音に、ミネアはデジャヴュを覚える。
ウェーブのかかったビーニャの髪を、アルは優しくポンポンとたたく。
それでようやく少しは落ち着きを取り戻したのか、彼女はボロボロと涙を零しながら彼から身を離した。
「あ、アルちゃん……! む、向こうから、向こうからこわい人がぁ……っ!」
「こわいひと……?」
恐怖に震えた彼女の言葉に、アルが首を傾げた時だった。
ガサッと、茂みから葉鳴りの音がした
「ったく、ガキが手間取らせやがって」
「ひ、ひぃぃ……!」
ギラリと凶悪な銀色の光に、アルはきょとんとした表情になる。
血の気が引いたように彼の後ろにビーニャは隠れ、物陰に隠れていたミネアは息を呑んだ。
その男の風体から、彼女の脳裏に今朝の仕事が思い浮かぶ。
街道近辺に出没した盗賊。
(な、なんで村まで……っ!?)
動揺する彼女とは違い、アルは無垢にその男を指差した。
「おじさん、だれ?」
場違いなその質問に、ビーニャは彼の背後で卒倒しそうになっている。
ミネアは、彼のその言葉に自分がどんな顔になっているか想像もできなかった。
が、恐らくは質問された男と同じような間の抜けた顔になっているのだろう適当に考える。
「……あぁ? 何だ、このガキ」
「ああああっ、アルちゃん! こ、この人は悪い人なの! だっ、から早く逃げないとっ!?」
察しの悪い彼に、ビーニャはぐいぐいと彼の服の裾を引っ張る。
見守るミネアもハラハラと落ち着かない。
(わ、私も出た方がいいんじゃ……!?)
ミネアは焦るが、やっぱりアルは落ち着いていた。
落ち着いている、というよりも危機察知能力が欠落しているのではないかと思うほど呆けている。
怯えどころか、驚きもしない鈍いアルに、男は苛立たしげに舌打ちする。
「まぁいい。悪いが、俺は後ろの兎女に用があるんだ。退きな」
そう言って、男は無造作に握っていた剣を振りかざした。
その動作をじっと見つめるアルの後ろで、ビーニャがヒッと小さな悲鳴をあげる。
今にもアルの頭蓋を砕かんと振り下ろされた凶刃に、彼はボソリと呟いた。
「シルド」
ガギィ……!
金属と金属のぶつかり合うような硬質な音ともに、剣の軌道が急に逸れた。
ガリガリとアルの目の前で火花が飛び散り、彼はそれを真っ直ぐに見つめていた。
相対する男は、剣から伝わった未知の手応えに仰天する。
「な、何だと!?」
よくよく見てみると、男の剣を逸らしたのはアルの目の前に浮かぶ半径30センチほどの光の盾だった。
ミネアは、その盾に見覚えがある。
魔法使いの見習いが良く使う、初心者用の魔法だった。
(アル……、魔法が使えるの……!?)
見た目は10ほどの少年は、初級とはいえ易々と魔法を扱っていた。
魔物でもない人間が、その歳で魔法を使役できるのはかなり稀有である。
が、アルはそんなことをおくびにも出さずに剣を振り下ろした男の顔をじっと覗き込んでいた。
「………………」
「ンのッ、クソガキャぁぁああ!!」
大した感情もなく己を見つめる少年に苛立ったのか、男は何度も剣を振り下ろす。
その剣が光の盾とぶつかり派手な音をたてるたびに、アルの後ろに隠れるビーニャはびくっと身をすくめる。
「ひっ、いっ、きゃあああ!?」
「クソッ、クソッ、クソッ!!」
何度も何度も打ち合う盾と剣のリズムが、一定になってくる。
悪態を吐きながらも、男は動揺のせいか油断してしまっていた。
ガギッ、と盾を斬りつけた剣が跳ね上がったとき、アルは彼に掌をかざしていた。
「マジックアロー」
彼の掌から、光弾が放たれる。
寸分も違うことなく、吸い込まれるように、その光弾は男の顎を射抜いた。
バガッ、と骨が軋むような音と共に、男の体が浮いた。
「ぎェ……ッ!?」
白目を剥きながら、男の体が地面に仰向けに倒れこむ。
脳震盪だろう。
その一部始終を見ていたミネアは、驚愕を隠せなかった。
アルは子どもが使った初級の魔法だけで、大の男を容易くやっつけてしまった。
魔法使いとしての才能が、異常なまでに秀でているのだ。
「……っぷぁ。ビーニャちゃん、だいじょうぶ?」
少し緊張していたのか、アルは頬から汗を一筋垂らしながら振り向いた。
名を呼ばれた彼女は、頭の耳をピコピコと揺らしながら目を見開いていた。
目尻には大粒の涙が溜まり潤んでいる。
その様子を見て、ミネアは何とも言えない顔つきになっていた。
(……あの子、天然のたらしね……)
はぁ……、と小さなため息を吐いて、彼女は物陰から出て二人に歩み寄る。
それに気づいたアルは、彼女の方を向いてニコリと微笑む。
人の気も知らないで、と彼女は再びため息を吐いた。
「……まったく、心配して損したわ」
二人に聞こえないようにそう呟いて、彼女はビーニャとアルの頭に手を置いた。
そして、わしゃわしゃと少し乱暴に撫でる。
「お疲れ様、怖かったわね」
周辺領地の一任者として、彼女は頬を染めながら二人を労う。
一軍を預かる者として、彼女からすれば情けない話だ。
目の前にいながら守るのではなく、まさか幼い子どもに守られようとは。
若干の羞恥から、彼女は赤い顔を逸らした。
「…………はぇ? み、ミネア……さま?」
突如現われたミネアの存在に呆然としていたビーニャは、彼女を見つめてそう呟いた。
その言葉にギクリとした顔つきになり、ミネアは慌てて彼女の頭をわしゃわしゃと撫で始める。
「ぅわっぷ……!」
頭を押さえつけるように乱暴に撫でられ、ビーニャの頭がガクッと下がる。
それを見てプッと噴出すアルに、ミネアは彼の頭も乱暴に撫でた。
「うひゃ……!」
二人の子どもにどう言い訳したものか、先の思いやられる話にミネアは深いため息を吐いた。
貴方たちは……、そう口を開いたときだった。
「く……そ、ガキぃ……!」
地獄から這い寄るような、重低音の殺意。
その声の主は、ミネアの目の前で銀色の凶刃を片手にゆらりと立ち上がっていた。
どろりと濁った目が彼女と合い、ミネアは硬直した。
「殺す……ッ、殺す殺すころす……ッ!」
男の口から物騒な言葉が連呼される。
ミネアは彼のその言葉で我に返り、彼女は二人を抱えて後ずさる。
「てめぇらぁ……皆殺しだぁ……ッ!」
思考破綻している。
そう直感した時に、ミネアはすぐさま彼を指差した。
「ディメンションエッジ!!」
その人差し指が、くんっと跳ね上がる。が、彼女の魔法は発動しなかった。
魔力が足りないのだ。
そして、それを思い出したときには遅かった。
「死ねよ、死ねよぉぉおおおおおッ!!」
アルと同様に初級の呪文を唱えようとしたときには、男は剣を振りあげていた。
万事休す、ミネアは二人を覆うようにぎゅっと抱きしめ瞳を固く閉じる。
が、何も起きなかった。
具体的なその何も、というのは剣が振り下ろされることだ。
狂ったような男の雄叫びも、まるで何事もなかったかのようにぴたりと止まったのだ。
怪訝に思い、ミネアは薄目を開ける。
「……………」
男は、石化していた。
「ふん、子ども相手に刃物なんか振り回すからそうなんのよ」
そして、背後から聞こえたその声にミネアは再び硬直した。
先ほど感じたおぞましい恐怖ではなく、聞き覚えのある友人の声に。
彼女は、恐る恐る振り返る。
「ごきげんよう、ミネア」
そこにはふてぶてしく腕を組んだ、コレットが立っていた。
傍らには荒い息を吐く――どこか彼女の恋人に面影のある少年が立っていた。
自らが統治する子ども二人が無事だったことは喜ばしいのだが、ミネアは素直に喜べなかった。
自分とメドゥーサのコレットを見上げるアルの無垢な視線に、彼女はやらかしたと思っていたから。
13/02/03 17:37更新 / みかん右大臣
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