抜けてるお前に大好きを
□■□■□
少し小さく、柔らかい手が俺の手を掴んで引っ張っている。目の前の白水がぐいぐいと俺を引っ張っていく。
こいつは俺より大分小柄なはずなのに、俺は前につんのめるようにして引っ張られている。
離す気がないと思えるくらいにがっちりと手を掴まれていた。もっちりと、しっとりとした感触がなんとも心地よく、手を繋いでいると幸せになるっていうのは、このことか、なんて考えてしまう。柄にも無い。
「やばいやばいやばい、やぁぁぁ!」
そして、そんな白水は、陽子先輩に恐怖している。これは頭の中が1つのことで一杯になっている時の声だ。間違いない。
そんな白水は、パニックに突き動かされ、なりふり構わず全力疾走している。
一度こうなると、なかなか止まらないのは変わっていないのか。なんて、不謹慎だが、にやりとしてしまう。
……遅刻したからって、激烈に怒るような先輩たちでもないよなぁ。
何がそんなに怖いんだろうか。そう思いながら引っ張られるまま走る。とりあえず、周りを見えなくなるくらい慌てているのは分かる。
白水の性格的に必要以上に慌てていると言うか、パニックになっていることにパニックになっていると言うか。
それは置いておくとして、通学路が延々と坂道でなくて良かった。遠いわけでも無くて、良かった。そう思うのは、家を出てからずっと走りっぱなしだからだ。一度暴走すると止まらない白水は俺の手をしっかりと掴んだまま爆走している。
規則正しく、かつ慌ただしい靴の音をBGMにしてひたすらに走り続ける。
ショートの黒髪が、わさわさと揺れる。揺れる胸なんてものはまったく無く、色気なんて微塵も感じさせない。どことなく、小動物のようで、やっぱりかわいい。
……変わらない。小学校の頃、遅刻しそうになった時の記憶がふんわりと浮かぶ。ぱたぱたと前を走る彼女が、とても懐かしくて、とてもとても愛おしい。起きてから、変な事をしないようにきつく閉めた恋しい気持ちが漏れ出してくるのを感じる。
中学校で別々の学校に行って、高校でもあまり話してこなかったのだけれども、嘘のように、すっぽりと、この距離感が腑に落ちる。
本当に冗談のようだけれども、俺と白水は今日この日まで話していない。同じクラスで、白水を追いかけて同じ部活に入って、と環境は整っていたんだけれど。
あの時に、勇気を出して、話しかけておけば良かったんだなぁ、と今さらながら思う。そうすれば、このためらうような気持ちも、どこまでが大丈夫なんだろうかという気持ちも、少しは薄れていたかもしれない。
でも、今、こうして昔のような距離感になっているのは、俺が緊張から壁を作る前に、白水が懐に突っ込んできたからだと、そう思っている。
そういえば、昔も確かに、こうして好き勝手に引っ張られていた記憶がある。どこにそんな力があるのか。毎回疑問に思っていた気がするが、未だに分からない。というか、未だに引っ張られるとは思ってもみなかった。
加えて言うなら、足が速い。俺の1歩は白水の1歩より大きいのに、なんとか引きずられないようにしている状態だった。本当になんでだろうか。
お互いに文化部のはずなんだけれどなぁ。
頭から湯気を出しているような状態の彼女を見ながら、呆れる。火事場の馬鹿力というものだろうか。息を切らせているのはどちらかというと、俺のほうだし、朝からの強引な展開に、ギャグ漫画の中にでも入ってしまったようにも思える。
……そんな、混乱すると何をするか分からないところも、覚えている頃から変わらない。
楽しそうに俺に話しかけたり、表情をころころ変えたりする白水は、俺にとって、太陽だった。俺は、当時からすでに恋心を自覚している。
そんなこいつは、子どもっぽいところも全く変わってない。
あの時、ほとんど聞き漏らしたが、帰りにケーキ屋に行こう、と白水が言ったくだりを思い出しながら苦笑いをした。
本当に、あの頃のまま育ったように感じられる。実際、ためらいも無く俺の布団にもぐりこんできたし、それでいて、警戒もせずにころころと笑うし。
だから、俺の、年を経た結果、どこかどろりとしてしまった恋心を向けるには、あまりにも無垢なんじゃないか。そう思う。同時に、今朝、そんな白水に好き勝手してしまった罪悪感がこみ上げてくる。
あいつにとって俺は友人か、兄妹のようなものといったところだろうか。会えなかった空白の時間のせいで、あいつの中での俺は、小学校のあの時のまま、止まっているのかもしれない。白水が俺に対して、よく遊んだ頃の英君を求めているのだとしたら、今の俺はそぐわないのではないか。
そこまで考えたところで、頭から何もかもを弾き飛ばした。不毛な考えの変わりに、どう先輩に言い訳をしようか、ということで頭を一杯にした。
学校に着くまで、手にぬくもりを感じながら……。
……。
「うんうん、遅刻だね」
部室の扉を開けると、陽子先輩と目があった。
気まずさで固まる俺たちの方を向いて、爽やかに先輩は笑った。その瞬間、こひゅっ、と白水が変な音をたてる。
ふと気付いて部室を見渡すと、じとっとした目で他の部員もこちらを見ていた。
練習中なら、こっそり入れたのだが、少し早い昼休憩にしているのか、会議をしているのか――間違いなく後者だろうが――部室のあちこちから視線が集中していた。
長らく劇で鍛え上げた視線の鋭いこと、鋭いこと。薄っぺらな言い訳を許さない程度には俺の喉を縛っていた。
……大丈夫か、これ。ともすれば過呼吸を起こしそうな白水を横目で見ながら先輩に向けて愛想笑いをする。正直物凄く口元が引きつる。
そんな俺に先輩はにぃっと口の端を上げだ。そんな、自然な笑みじゃないと分かるくらいな表情をした後、こちらに向かって手を伸ばしてきた。
「休日出勤、お疲れさまーっ!」
「いたっ!」
俺は一発デコピンを入れられ、思わずのけぞった。額がじんじんする。
それから先輩は瞬きを忘れて石像のようになっている白水を見てくすりと笑った後、その耳元で何かを囁いた。ストローで赤い絵の具を吸ったみたいにきゅぅっと白水の首からおでこまでが真っ赤になって、息を吹き返す。
「にゃぁぁあっ!?」
白水は百面相をしながら一週回ってまた固まった。
俺が冷や汗をかいているのを見抜いてか、知らずか、先輩は大きく手を叩いて全員の意識を自身に戻す。
「ま、今回はこれで許そう。座って座って」
白水に何を言ったのか分からないが、ニヤニヤとしながら先輩は大げさな動作をし、ウインクをした。
……これは、もしかして、部員全員からドッキリをされたのか?
俺がデコピンを受けた辺りから、くすくすと俺のリアクションか白水の固まり具合かに反応して笑う人が出てきて少し雰囲気が柔らかくなっていたのだ。
そそくさと適当なところに座るために他の部員の間に紛れる時、目が合った部員の誰もが、せきをするふりをするか、親指を立てるので確信した。それにしても、気合を入れすぎだろう! トマトみたいになっている白水を誘導して座らせるとため息をついた。
「はいはい、続き続き。」
ホワイトボードをかつかつと叩きながら先輩は部員のほうに向き直る。やっぱり話し合いだったか、と思っていると、はっと思い出した。
今日は劇のキャスト決めの日だった。
そりゃ、こうでもしたくなるはずだ。俺は自業自得、と額に手を当てた。
ちなみに劇の演目は――
――ロミオとジュリエット。
それぞれ反目し合う家同士に産まれた若い2人を主役にした恋愛悲劇。有名すぎて、題名を知らない人はあまりいないだろう作品だ。
今年、夏の文化祭ですでにやったのだが、思いのほかに好評だったので、もう一度やることになったのだった。
その時ロミオ役をしたのは、今まさに話し合いを仕切っている陽子先輩。男よりも勇ましく、そして熱く役に入り込んだ彼女は、観客を尽く魅了した。
「――と、そこで、今回の主役を決めたいんだ。ロミオ役とジュリエット役ね。なるべく、主役をやったことの無い人にさせてあげたいんだけれど、誰か、立候補ある?」
ぴしり、と先輩の持っているマーカーの先端が部室全体をあいまいに差す。劇中でティボルトと剣を交えた時のような覇気が一瞬見えた気がした。
しんと静まり返った後、ぴん、と手を高く上げたのが1人。
「わ、私やりたいです! ジュリエットやります! やるです!」
白水だった。まだ混乱しているのか、やけになっているのか、目がぐるぐるとしている。
ちょっと、まずいって、主役なんてメンタルが持つのか!? 横であわあわとする俺を尻目に、にっと先輩は笑った。何かいいおもちゃを見つけたような顔だった。
こ、れ、は、まずい。まずい、まずい。そう思ったのと同時に、俺も手を上げた。
「日端誠英、ロミオ役、やりたいです」
……。
結局、部活はほとんど話し合いで終わった。主役はもめるかと思ったが、さっくりと決まった。
そうして同じ部活にいながら、あまり関わったことのない2人が主役同士になったわけだが、不満に思っている人はいないように感じた。
どうなるかな、と興味心身な顔をしている人がほとんどで、にやにやとしながら俺と白水を交互に見ている人までいた。
……確かに、今の今まで声をかける勇気なんて無かったから、近づかなかったし、なあ。
そして、それはそうと、何が恐ろしいって、重要な脇役が先輩方で固められている。俺と白水が立候補したとたん、さらに意味深な笑みを浮かべた陽子先輩に倣うように、それぞれ、瞬間的に役が決まったのだ。脇役になったどの先輩も、主役級の役で舞台に上がった人ばかりで、綺麗な人、かっこいい人ばかりだから――
――死ぬ気で、練習しないと脇役に食われる……!!
結局、遅刻した件でびくびくしていた朝の方がまだましだったのではないかとも思える状態。次の部活からは、びしびしと指摘をされるはずだ。
すぐ前にやった劇ということで、だいたい台本ができているので、読み込みの時間も少ないはずだし。
……ぐるぐるとずっと同じことを考えるのも疲れるので、体の力を抜いた。
隣でぱったぱったと足音を響かせているのは白水。家が同じ方向なので、一緒に帰っている。
会っていなかったブランクなんて感じられない程度に隣にいることがしっくりと来てしまっていた。
一度壁が壊れたからか、話しかけるのも、隣に居るのも、ためらう必要はない。
白水も、同じようなことを考えていたのか、部活が終わると、一緒に帰ろう、と玄関で声をかけてきた。
「なんで手、挙げちゃったんだろー」
「そーだねーあはははー」
やけになって呟くと、同じくやけくそになったような声が隣からする。白水は、大きく伸びをするように両腕を上げると、勢い良く腰に手を当てた。
「でも、でもだよ英君」
白水は立ち止まって、俺を見上げて、にっと歯を見せて笑った。芝居がかった動きでぐるりと回ってから、貴族の令嬢がするように、スカートの裾を摘まんだ。
優雅にお辞儀をして――
「わっとと!」
――バランスを崩す。
慌てて俺は白水を抱きとめた。ぼふりと体重がかかる。そして、甘い香りがした。
「えへへ、ごめん」
白水がちゃんと地に足を着けたのを確認してから手を放して一歩下がる。嫌われないためにも、また、朝のように正気を失いかけるわけにはいかないんだ。
……朝のあの時の甘い香りが頭をよぎる。あの時は、どうにかなりそうだった。
この、この距離が続いたら、そのうち、俺のどこかどろりとした気持ちに気付いて、離れていってしまうのではないか。
自制をすれば、この距離のままでいても、このままでいられるのか。
いや、今日の朝、無理矢理唇を奪った時みたいに、きっといつか大変なことになる。そんな予感がした。
「ど、どうしたの?」
頬を赤く染めながら白水が俺の顔を覗き込んでくる。
昔から、好きだとは自覚していたけれど、高校生になって、久しぶりにあってから見た白水は魅力的過ぎた。小学生の抱く恋心と、高校生の抱く恋心、同じところもあるが、やはり、違うところはある。
一緒にいるだけで満足ができるのは、小学生までだったんだろう。
「いや、なんでもないよ。ちょっと、先輩たちから指導されまくってふと思い出して、ぞくっとしただけ」
そう言うと、白水の火照ったような顔が、すうっと青くなった。
両頬に掌を当ててのけぞったかと思えば、顔の前で手を合わせて体をくの字にして、額に手を当ててまたのけぞって、あああああ、とうめきながら地団駄を踏みながらいやいやと上体を振る。
かわいい――じゃなくて!!
俺は白水の肩を掴んで揺さぶった。路上で不思議な踊りは流石にまずい。
変に大胆だけれど、基本的に恥ずかしがり屋な白水は、きっと後でこのことを思い出して、また謎の踊りを踊りだすだろう。以下無限ループだ。止められるうちに止めねば。
「大丈夫、大丈夫だから、戻ってこい、俺も一緒に指導受けるんだから」
「ああああ指導! 指導ぅぅぅ! ううぅ? ほえ?」
きょとんとした顔で俺の目を見る白水。一緒、という言葉を何回か小声で繰り返してからにかっと笑った。
それから自身の肩に置いてある俺の手を掴んで、激しく振る。
「そうだね英君! 一緒だっ! 一緒!! えへへへへっ!」
やっぱり、笑った顔が一番かわいい。笑うと、誰よりもかわいい。ぶんぶんと手を振る白水はとても楽しそうで、嬉しそうで俺はなすがままだった。
「一緒、一緒……はっ!!」
かちん、と白水が固まる。そして、右を見て、左を見て、車道を通る車を確認して、再度固まった。大通りなので、車通りは、休日の半端な時間とはいえ、多い。
予想をしよう。きっと、白水は『うにゃぁぁぁ!!!!?』と叫びながら走り出す。
俺はすっぽ抜けないように白水の手を掴み直した。
「うに――」
予想通りに顔を真っ赤にした白水が口を開けた時、思い出した。稲妻のように白水をなだめる解決策が降って湧いた。
「白水!」
「うにゃ?」
「ケーキ屋行こう。朝、言ってただろ?」
「えへぇ、けーきー」
落ちた。
力の抜けた白水の手を離して安堵の息を吐いた。また舞い上がって何かの舞を始めそうだったので、正気に戻る前に慌てて手を繋ぐ。
これなら、踊れまい。そして連鎖して暴走しまい。
白水はそれに一瞬目を丸くしてから、にへっと笑ってくっついてきた。
……。
俺は家に帰ってきてすぐに、自分の部屋に行き、リュックを床に置く。少し肩を回すと、そのままベッドに倒れこんだ。スマホをつけると、時間は5時だった。
染み付くように、少し、甘い香りが残っていた。だけれど、朝のように脳髄まで響くような刺激でなかったので、そのまま、脱力してベッドに沈み込む。
今日は、色々ありすぎて疲れた。久しぶりに会った初恋の人が突撃してきたり、その人と劇の主役になったり、帰りにケーキを一緒に食べたり。
我が身に降りかかったことだけれど、振り返ってみると現実味が無い。ノベルゲームのオープニングだと言われても納得しそうなほどだった。
でも、確かに始まりだとは思う。白水とまた、昔のような関係に戻りたいと思うなら、今日のこれをきっかけに距離を詰めていけばいいのだから。きっかけは出来た。
というより、自分が思っている以上に白水は以前どおりだった、ということが分かったのだから、ためらうことはない。
正直、高校に入って再開した白水は、本当に綺麗になっていた。動くと、今日のあれだが、黙っていると、という感じだ。
今の今まで、別人になってしまったように思えて、声がかけられなかった。教室でも部活でも、白水の近くに中学からだろう友達がいたのも声をかけられなかった原因だ。
勇気が無かった。そう思える。
今日、白水から突っ込んでこなければ、きっと卒業まで話しもしなかっただろうと思う。
先輩には悪いけれど、部活があるのを忘れていて、良かった。そうでもしなかったら、こうなってはいなかった。
帰り道はデートのようだった。
ケーキを食べている白水の様子を思い返すと、まるで、餌付けをしているようだと思えて、顔が綻ぶ。
こんなに上手くいったのは、今日だけ、ってことはないよな、と頭をよぎる。明日も、今日みたいに声をかけられるよな。明日は学校だし、同じクラスだし。部活もあるし。
出来れば――
「ごはん、できたわよー」
転がりながらぼうっとしていると、母さんが俺を呼んだ。そんなに時間が経ったか、確認すると、7時になっていた。
嘘だろ!?
跳ね起きて窓の外を見る。確かに日が完全に落ちていた。今日は、時間の感覚が変だ。
「今行きまーす」
そう返事をしてベッドから降りる。自分の部屋の扉を開けると、秋刀魚の香ばしい匂いが漂っていた。俺の好物だ。と思いながらも、そうか、もう、秋か、とも思った。
白水と一緒にいながら、話しかけるまでにどれだけ時間がかかったんだろう。俺は苦笑いをした。
……白水、かなりケーキを食べていたけれど、大丈夫か?
うん、うん。大丈夫だよな、多分。
とにかく、明日も、白水の笑顔を見たい。そう思考を締めくくって、リビングに向かった。
少し小さく、柔らかい手が俺の手を掴んで引っ張っている。目の前の白水がぐいぐいと俺を引っ張っていく。
こいつは俺より大分小柄なはずなのに、俺は前につんのめるようにして引っ張られている。
離す気がないと思えるくらいにがっちりと手を掴まれていた。もっちりと、しっとりとした感触がなんとも心地よく、手を繋いでいると幸せになるっていうのは、このことか、なんて考えてしまう。柄にも無い。
「やばいやばいやばい、やぁぁぁ!」
そして、そんな白水は、陽子先輩に恐怖している。これは頭の中が1つのことで一杯になっている時の声だ。間違いない。
そんな白水は、パニックに突き動かされ、なりふり構わず全力疾走している。
一度こうなると、なかなか止まらないのは変わっていないのか。なんて、不謹慎だが、にやりとしてしまう。
……遅刻したからって、激烈に怒るような先輩たちでもないよなぁ。
何がそんなに怖いんだろうか。そう思いながら引っ張られるまま走る。とりあえず、周りを見えなくなるくらい慌てているのは分かる。
白水の性格的に必要以上に慌てていると言うか、パニックになっていることにパニックになっていると言うか。
それは置いておくとして、通学路が延々と坂道でなくて良かった。遠いわけでも無くて、良かった。そう思うのは、家を出てからずっと走りっぱなしだからだ。一度暴走すると止まらない白水は俺の手をしっかりと掴んだまま爆走している。
規則正しく、かつ慌ただしい靴の音をBGMにしてひたすらに走り続ける。
ショートの黒髪が、わさわさと揺れる。揺れる胸なんてものはまったく無く、色気なんて微塵も感じさせない。どことなく、小動物のようで、やっぱりかわいい。
……変わらない。小学校の頃、遅刻しそうになった時の記憶がふんわりと浮かぶ。ぱたぱたと前を走る彼女が、とても懐かしくて、とてもとても愛おしい。起きてから、変な事をしないようにきつく閉めた恋しい気持ちが漏れ出してくるのを感じる。
中学校で別々の学校に行って、高校でもあまり話してこなかったのだけれども、嘘のように、すっぽりと、この距離感が腑に落ちる。
本当に冗談のようだけれども、俺と白水は今日この日まで話していない。同じクラスで、白水を追いかけて同じ部活に入って、と環境は整っていたんだけれど。
あの時に、勇気を出して、話しかけておけば良かったんだなぁ、と今さらながら思う。そうすれば、このためらうような気持ちも、どこまでが大丈夫なんだろうかという気持ちも、少しは薄れていたかもしれない。
でも、今、こうして昔のような距離感になっているのは、俺が緊張から壁を作る前に、白水が懐に突っ込んできたからだと、そう思っている。
そういえば、昔も確かに、こうして好き勝手に引っ張られていた記憶がある。どこにそんな力があるのか。毎回疑問に思っていた気がするが、未だに分からない。というか、未だに引っ張られるとは思ってもみなかった。
加えて言うなら、足が速い。俺の1歩は白水の1歩より大きいのに、なんとか引きずられないようにしている状態だった。本当になんでだろうか。
お互いに文化部のはずなんだけれどなぁ。
頭から湯気を出しているような状態の彼女を見ながら、呆れる。火事場の馬鹿力というものだろうか。息を切らせているのはどちらかというと、俺のほうだし、朝からの強引な展開に、ギャグ漫画の中にでも入ってしまったようにも思える。
……そんな、混乱すると何をするか分からないところも、覚えている頃から変わらない。
楽しそうに俺に話しかけたり、表情をころころ変えたりする白水は、俺にとって、太陽だった。俺は、当時からすでに恋心を自覚している。
そんなこいつは、子どもっぽいところも全く変わってない。
あの時、ほとんど聞き漏らしたが、帰りにケーキ屋に行こう、と白水が言ったくだりを思い出しながら苦笑いをした。
本当に、あの頃のまま育ったように感じられる。実際、ためらいも無く俺の布団にもぐりこんできたし、それでいて、警戒もせずにころころと笑うし。
だから、俺の、年を経た結果、どこかどろりとしてしまった恋心を向けるには、あまりにも無垢なんじゃないか。そう思う。同時に、今朝、そんな白水に好き勝手してしまった罪悪感がこみ上げてくる。
あいつにとって俺は友人か、兄妹のようなものといったところだろうか。会えなかった空白の時間のせいで、あいつの中での俺は、小学校のあの時のまま、止まっているのかもしれない。白水が俺に対して、よく遊んだ頃の英君を求めているのだとしたら、今の俺はそぐわないのではないか。
そこまで考えたところで、頭から何もかもを弾き飛ばした。不毛な考えの変わりに、どう先輩に言い訳をしようか、ということで頭を一杯にした。
学校に着くまで、手にぬくもりを感じながら……。
……。
「うんうん、遅刻だね」
部室の扉を開けると、陽子先輩と目があった。
気まずさで固まる俺たちの方を向いて、爽やかに先輩は笑った。その瞬間、こひゅっ、と白水が変な音をたてる。
ふと気付いて部室を見渡すと、じとっとした目で他の部員もこちらを見ていた。
練習中なら、こっそり入れたのだが、少し早い昼休憩にしているのか、会議をしているのか――間違いなく後者だろうが――部室のあちこちから視線が集中していた。
長らく劇で鍛え上げた視線の鋭いこと、鋭いこと。薄っぺらな言い訳を許さない程度には俺の喉を縛っていた。
……大丈夫か、これ。ともすれば過呼吸を起こしそうな白水を横目で見ながら先輩に向けて愛想笑いをする。正直物凄く口元が引きつる。
そんな俺に先輩はにぃっと口の端を上げだ。そんな、自然な笑みじゃないと分かるくらいな表情をした後、こちらに向かって手を伸ばしてきた。
「休日出勤、お疲れさまーっ!」
「いたっ!」
俺は一発デコピンを入れられ、思わずのけぞった。額がじんじんする。
それから先輩は瞬きを忘れて石像のようになっている白水を見てくすりと笑った後、その耳元で何かを囁いた。ストローで赤い絵の具を吸ったみたいにきゅぅっと白水の首からおでこまでが真っ赤になって、息を吹き返す。
「にゃぁぁあっ!?」
白水は百面相をしながら一週回ってまた固まった。
俺が冷や汗をかいているのを見抜いてか、知らずか、先輩は大きく手を叩いて全員の意識を自身に戻す。
「ま、今回はこれで許そう。座って座って」
白水に何を言ったのか分からないが、ニヤニヤとしながら先輩は大げさな動作をし、ウインクをした。
……これは、もしかして、部員全員からドッキリをされたのか?
俺がデコピンを受けた辺りから、くすくすと俺のリアクションか白水の固まり具合かに反応して笑う人が出てきて少し雰囲気が柔らかくなっていたのだ。
そそくさと適当なところに座るために他の部員の間に紛れる時、目が合った部員の誰もが、せきをするふりをするか、親指を立てるので確信した。それにしても、気合を入れすぎだろう! トマトみたいになっている白水を誘導して座らせるとため息をついた。
「はいはい、続き続き。」
ホワイトボードをかつかつと叩きながら先輩は部員のほうに向き直る。やっぱり話し合いだったか、と思っていると、はっと思い出した。
今日は劇のキャスト決めの日だった。
そりゃ、こうでもしたくなるはずだ。俺は自業自得、と額に手を当てた。
ちなみに劇の演目は――
――ロミオとジュリエット。
それぞれ反目し合う家同士に産まれた若い2人を主役にした恋愛悲劇。有名すぎて、題名を知らない人はあまりいないだろう作品だ。
今年、夏の文化祭ですでにやったのだが、思いのほかに好評だったので、もう一度やることになったのだった。
その時ロミオ役をしたのは、今まさに話し合いを仕切っている陽子先輩。男よりも勇ましく、そして熱く役に入り込んだ彼女は、観客を尽く魅了した。
「――と、そこで、今回の主役を決めたいんだ。ロミオ役とジュリエット役ね。なるべく、主役をやったことの無い人にさせてあげたいんだけれど、誰か、立候補ある?」
ぴしり、と先輩の持っているマーカーの先端が部室全体をあいまいに差す。劇中でティボルトと剣を交えた時のような覇気が一瞬見えた気がした。
しんと静まり返った後、ぴん、と手を高く上げたのが1人。
「わ、私やりたいです! ジュリエットやります! やるです!」
白水だった。まだ混乱しているのか、やけになっているのか、目がぐるぐるとしている。
ちょっと、まずいって、主役なんてメンタルが持つのか!? 横であわあわとする俺を尻目に、にっと先輩は笑った。何かいいおもちゃを見つけたような顔だった。
こ、れ、は、まずい。まずい、まずい。そう思ったのと同時に、俺も手を上げた。
「日端誠英、ロミオ役、やりたいです」
……。
結局、部活はほとんど話し合いで終わった。主役はもめるかと思ったが、さっくりと決まった。
そうして同じ部活にいながら、あまり関わったことのない2人が主役同士になったわけだが、不満に思っている人はいないように感じた。
どうなるかな、と興味心身な顔をしている人がほとんどで、にやにやとしながら俺と白水を交互に見ている人までいた。
……確かに、今の今まで声をかける勇気なんて無かったから、近づかなかったし、なあ。
そして、それはそうと、何が恐ろしいって、重要な脇役が先輩方で固められている。俺と白水が立候補したとたん、さらに意味深な笑みを浮かべた陽子先輩に倣うように、それぞれ、瞬間的に役が決まったのだ。脇役になったどの先輩も、主役級の役で舞台に上がった人ばかりで、綺麗な人、かっこいい人ばかりだから――
――死ぬ気で、練習しないと脇役に食われる……!!
結局、遅刻した件でびくびくしていた朝の方がまだましだったのではないかとも思える状態。次の部活からは、びしびしと指摘をされるはずだ。
すぐ前にやった劇ということで、だいたい台本ができているので、読み込みの時間も少ないはずだし。
……ぐるぐるとずっと同じことを考えるのも疲れるので、体の力を抜いた。
隣でぱったぱったと足音を響かせているのは白水。家が同じ方向なので、一緒に帰っている。
会っていなかったブランクなんて感じられない程度に隣にいることがしっくりと来てしまっていた。
一度壁が壊れたからか、話しかけるのも、隣に居るのも、ためらう必要はない。
白水も、同じようなことを考えていたのか、部活が終わると、一緒に帰ろう、と玄関で声をかけてきた。
「なんで手、挙げちゃったんだろー」
「そーだねーあはははー」
やけになって呟くと、同じくやけくそになったような声が隣からする。白水は、大きく伸びをするように両腕を上げると、勢い良く腰に手を当てた。
「でも、でもだよ英君」
白水は立ち止まって、俺を見上げて、にっと歯を見せて笑った。芝居がかった動きでぐるりと回ってから、貴族の令嬢がするように、スカートの裾を摘まんだ。
優雅にお辞儀をして――
「わっとと!」
――バランスを崩す。
慌てて俺は白水を抱きとめた。ぼふりと体重がかかる。そして、甘い香りがした。
「えへへ、ごめん」
白水がちゃんと地に足を着けたのを確認してから手を放して一歩下がる。嫌われないためにも、また、朝のように正気を失いかけるわけにはいかないんだ。
……朝のあの時の甘い香りが頭をよぎる。あの時は、どうにかなりそうだった。
この、この距離が続いたら、そのうち、俺のどこかどろりとした気持ちに気付いて、離れていってしまうのではないか。
自制をすれば、この距離のままでいても、このままでいられるのか。
いや、今日の朝、無理矢理唇を奪った時みたいに、きっといつか大変なことになる。そんな予感がした。
「ど、どうしたの?」
頬を赤く染めながら白水が俺の顔を覗き込んでくる。
昔から、好きだとは自覚していたけれど、高校生になって、久しぶりにあってから見た白水は魅力的過ぎた。小学生の抱く恋心と、高校生の抱く恋心、同じところもあるが、やはり、違うところはある。
一緒にいるだけで満足ができるのは、小学生までだったんだろう。
「いや、なんでもないよ。ちょっと、先輩たちから指導されまくってふと思い出して、ぞくっとしただけ」
そう言うと、白水の火照ったような顔が、すうっと青くなった。
両頬に掌を当ててのけぞったかと思えば、顔の前で手を合わせて体をくの字にして、額に手を当ててまたのけぞって、あああああ、とうめきながら地団駄を踏みながらいやいやと上体を振る。
かわいい――じゃなくて!!
俺は白水の肩を掴んで揺さぶった。路上で不思議な踊りは流石にまずい。
変に大胆だけれど、基本的に恥ずかしがり屋な白水は、きっと後でこのことを思い出して、また謎の踊りを踊りだすだろう。以下無限ループだ。止められるうちに止めねば。
「大丈夫、大丈夫だから、戻ってこい、俺も一緒に指導受けるんだから」
「ああああ指導! 指導ぅぅぅ! ううぅ? ほえ?」
きょとんとした顔で俺の目を見る白水。一緒、という言葉を何回か小声で繰り返してからにかっと笑った。
それから自身の肩に置いてある俺の手を掴んで、激しく振る。
「そうだね英君! 一緒だっ! 一緒!! えへへへへっ!」
やっぱり、笑った顔が一番かわいい。笑うと、誰よりもかわいい。ぶんぶんと手を振る白水はとても楽しそうで、嬉しそうで俺はなすがままだった。
「一緒、一緒……はっ!!」
かちん、と白水が固まる。そして、右を見て、左を見て、車道を通る車を確認して、再度固まった。大通りなので、車通りは、休日の半端な時間とはいえ、多い。
予想をしよう。きっと、白水は『うにゃぁぁぁ!!!!?』と叫びながら走り出す。
俺はすっぽ抜けないように白水の手を掴み直した。
「うに――」
予想通りに顔を真っ赤にした白水が口を開けた時、思い出した。稲妻のように白水をなだめる解決策が降って湧いた。
「白水!」
「うにゃ?」
「ケーキ屋行こう。朝、言ってただろ?」
「えへぇ、けーきー」
落ちた。
力の抜けた白水の手を離して安堵の息を吐いた。また舞い上がって何かの舞を始めそうだったので、正気に戻る前に慌てて手を繋ぐ。
これなら、踊れまい。そして連鎖して暴走しまい。
白水はそれに一瞬目を丸くしてから、にへっと笑ってくっついてきた。
……。
俺は家に帰ってきてすぐに、自分の部屋に行き、リュックを床に置く。少し肩を回すと、そのままベッドに倒れこんだ。スマホをつけると、時間は5時だった。
染み付くように、少し、甘い香りが残っていた。だけれど、朝のように脳髄まで響くような刺激でなかったので、そのまま、脱力してベッドに沈み込む。
今日は、色々ありすぎて疲れた。久しぶりに会った初恋の人が突撃してきたり、その人と劇の主役になったり、帰りにケーキを一緒に食べたり。
我が身に降りかかったことだけれど、振り返ってみると現実味が無い。ノベルゲームのオープニングだと言われても納得しそうなほどだった。
でも、確かに始まりだとは思う。白水とまた、昔のような関係に戻りたいと思うなら、今日のこれをきっかけに距離を詰めていけばいいのだから。きっかけは出来た。
というより、自分が思っている以上に白水は以前どおりだった、ということが分かったのだから、ためらうことはない。
正直、高校に入って再開した白水は、本当に綺麗になっていた。動くと、今日のあれだが、黙っていると、という感じだ。
今の今まで、別人になってしまったように思えて、声がかけられなかった。教室でも部活でも、白水の近くに中学からだろう友達がいたのも声をかけられなかった原因だ。
勇気が無かった。そう思える。
今日、白水から突っ込んでこなければ、きっと卒業まで話しもしなかっただろうと思う。
先輩には悪いけれど、部活があるのを忘れていて、良かった。そうでもしなかったら、こうなってはいなかった。
帰り道はデートのようだった。
ケーキを食べている白水の様子を思い返すと、まるで、餌付けをしているようだと思えて、顔が綻ぶ。
こんなに上手くいったのは、今日だけ、ってことはないよな、と頭をよぎる。明日も、今日みたいに声をかけられるよな。明日は学校だし、同じクラスだし。部活もあるし。
出来れば――
「ごはん、できたわよー」
転がりながらぼうっとしていると、母さんが俺を呼んだ。そんなに時間が経ったか、確認すると、7時になっていた。
嘘だろ!?
跳ね起きて窓の外を見る。確かに日が完全に落ちていた。今日は、時間の感覚が変だ。
「今行きまーす」
そう返事をしてベッドから降りる。自分の部屋の扉を開けると、秋刀魚の香ばしい匂いが漂っていた。俺の好物だ。と思いながらも、そうか、もう、秋か、とも思った。
白水と一緒にいながら、話しかけるまでにどれだけ時間がかかったんだろう。俺は苦笑いをした。
……白水、かなりケーキを食べていたけれど、大丈夫か?
うん、うん。大丈夫だよな、多分。
とにかく、明日も、白水の笑顔を見たい。そう思考を締めくくって、リビングに向かった。
17/02/01 23:26更新 / 夜想剣
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