想起:気持ちとは何か
山頂付近の冷たい風が、自分の体に突き刺さる。
轟々とうねりを上げる風の音が、耳に擦りつけられ。
ぶつかり続ける空気の壁を、今全身で感じている。
上に見えるは、岩肌の見える天井。
そして足元には、青々とした底のない奈落。
でもそれは、空に天井があるわけでも、足元に大地がないわけでもない。
ただ自分が逆さまに落下しているだけだった。
ただ、自分のいた所の崖が崩れ、そこから落ちてしまっただけだった。
なんて自分は運が悪いんだろう。
こんな事故に巻き込まれるなんて。
もし自分に本物の足があったなら、大地を踏みしめる感覚で分かったのかもしれない。
あの崖が崩れやすくなっているってことが、分かったのかもしれない。
顔を下に・・・否、上に持ち上げて目に映るのは。
必死に手を伸ばして、遠ざかっていく彼女の姿。いや、この場合遠ざかっているのは自分の方か。
体の感覚がゆっくり感じられる。彼女の姿がゆっくり離れていく。
また崩れるかもしれない崖から手を伸ばしているけれど。
もう、届かない。離れきってしまっている。
自分に超人的な握力や腕力があったなら、どこかに掴まって助かることができるのかもしれないけれど。
生憎周りに掴む場所なんてどこにもない。ただ、自分が落ちきるのを待つだけだ。
かすかに見えているあの岩だらけの天井に、叩きつけられるのを待つだけだ。
それなのに、自分は恐怖を覚えなかった。
あの時のように危機迫っているのに、大声を上げることはなかった。
それはきっと、君の顔を見ていたからなのかもしれない。
君のその顔がずっと見えていたから、自分は安心していられるのだろう。
ああ、なんて顔しているんだよ。
そんな悲しそうな顔しないでくれよ。
自分はただ、君の笑顔が見たかっただけなんだ。
君が、心から笑う顔が、見たかっただけなんだよ。
だから、最期くらい笑った顔を見せてよ。
ああ、でももう見えないや。
遠く離れすぎてて、もう見えない。
視界が霞んで、見えないんだ。
雫が目から溢れて、止まらないんだ。
空へとどんどん、溢れてしまうんだ。
灰色の岩槍が、自分の体に近づいている。
これだけの高さから落下してぶつかったら、まず助からないだろう。
・・・死にたくないなぁ。
走馬灯のように、記憶は思い出されるけれど。
頭に残るのは後悔だけ。
まだ翼も完成してないのに。
親友の腕も作れてないのに。
他にも、まだまだいっぱい。
やり残したこと、いっぱいあるのになぁ。
全部、終わっちゃうんだ。
・・・死にたくなかったなぁ。
岩がくっきり見えた時、自分は腹を括って目を閉じた。
もう雫は出なかった。覚悟を決めたから。
せめて、あんまり痛くないといいんだけど。
静かに願って、目を閉じた。
ありがとう、シエル。
君との過ごした日々は、楽しかったよ。
・・・・・
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・?
急に、体を何かに圧迫された。
ついに落下して叩きつけられたのかと思ったけれど。
自分は岩の固い冷たさじゃなくて、柔らかさと暖かさを感じていた。
その何かは、自分の全身を思いっきり引っ張った。
ぐんっ、と思いっきり体の中身を持ち上げられた感覚がして苦しくなったが、すぐに収まった。
そして、体に感じていた風の冷たさは、徐々になくなっていき。
静かな風の音だけが、自分の耳には届いていた。
一体何なんだろうか?
何が起こったんだろう?
閉じてた目を、ゆっくり開けると。
そこには、今までにないくらい近づいた君の顔が、目の前にあったんだ。
見たことないくらい、目尻に涙を蓄えて。
全速力で走った後みたいに、息を切らして。
そして・・・
そして、背中に付いた『翼』をはためかせて。
空を飛んでいる君の姿が、目に映った。
「シエル・・・」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・アイレンっ・・・!!」
「良かったな、シエル。飛べたな。『勇気』出せたじゃないか」
「・・・っ!!」ギュゥゥゥゥ!
「え、ちょっと待っ痛い痛い痛い痛いぃ!!?」
体を思いっきり締め上げられる。
さっきまで身体が飛んでいたけれど、今度は意識が飛びそうだ。
正確には、飛んでいたんじゃなくて落ちていただけなんだけども。
「このっ!馬鹿者がぁっ!」ギリギリギリ
「痛い!締まる!?締まってるっ!?放してっくれぇっ・・・!?」
「放したら落ちるだろうが!!この馬鹿っ!!」
「せ、せめて・・・もう少し、緩め、て・・・」
「うるさい馬鹿っ!この大馬鹿者!!散々言ったのに!!あれ程大丈夫かって聞いたのに!!!」
「放、し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「もう放さんっ・・・!二度と、放さないからなっ!」
「・・・・・・・・・」
「・・・おい?アイレン?・・・どうした!?しっかりしないかっ!!」
ちょっと頑張ってみたけれど、駄目だったよ・・・
流石ドラゴンの力。半端じゃないって体で思い知らされました。
まさかドラゴンに絞め落とされる日が来るなんて。
普通に生きてても、中々出来ない、貴重な、経、けん・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さぁさぁ、と風で木の葉が揺られる音に気がついた。
頬に当たる風は先程の冷たさではなく、気持ち良さを感じさせていた。
ずっとこうしていたい気分だ。
でも、何やら後頭部に暖かさも感じる。
「う・・・ん?」
「・・・ようやく目が覚めたようだな」
どうやら自分はシエルに抱き締め上げられ、今まで気絶していたらしい。
目の前に見えるのは、吹き抜ける青空と二つの山、そして自分を覗き込むシエルの顔。
・・・山だと思ったのは、シエルの胸か。ある意味山だけども。巨大な山だけども。
後頭部に感じる温かさは、彼女の膝のようだった。
ってことは・・・今自分はシエルに膝枕されてるっていう状況で、合ってるのかな?
「・・・だから少し放してって言ったのに」
「うっ・・・それに関しては、申し訳ないと思っている・・・///」
二つの山に隠れて見えにくいが、顔が少し赤くなっている。
少し反省しているみたい。申し訳なさそうに顔を背けている。
でも自分も助けてもらった身だ。文句なんてあるはずがない。
まさか、あんな短時間で二回も死にかけるなんて思ってもなかったが。
「でも、私は悪くないぞ!アイレンが悪いのだからな!///」
「うん・・・まあ自分の不注意が招いた結果だし、素直に受け止めることにするよ」
「そ、そうか・・・・・・だがそんなあっさり認められても・・・うむぅ・・・」
普通に自分の非を認めただけなのに、何故か向こうは困っている。
そんな反応がおかしくて、つい笑ってしまった。
「ふふっ・・・でも驚いたよ。・・・君が『翼』を使って、飛んで助けに来るんだからさ」
「・・・・・・」
「・・・シエル?」
「最初は、怖かった」
「え?」
「この翼を使っても、きっと上手く飛べないのだろうと、怖かった。
でも、それ以上に・・・お前がいなくなってしまうことの方が、もっと怖かった・・・」
「・・・・・・」
「お前が崖から落下していく様子を見て。どんどん遠く離れる姿を見て。
そんな中でも、私に優しい顔を向けるアイレンを見て・・・
私は、翼を失うこと以上にお前を失うことに恐怖を感じたのだ・・・」
「そっか・・・」
まさか彼女からそんなことを言われるなんて。
ここまで思ってもらえていたなんて、考えてなかった。
自分はただの修理屋だから。自分の我が儘で仕事をしていただけだから。
こんな『翼よりもお前が大事』って言っているように聞こえる台詞が、少しくすぐったくて。
たとえ勘違いでも、嬉しかった。
「アイレン。一つ、約束してくれないか?」
「・・・何だい?」
「私の前から、勝手にいなくならないと。そう私に約束してくれないか?」
不思議な約束だった。
自分は修理屋。自分の店からいなくなることはないだろう。
こんなことがない限りは。
だから、自分は彼女がこう言いたいんだと思った。
『勝手に死ぬな』って。
勝手にそう捉えていた。
「・・・まあ自分がいなくなったら、シエルの懐中時計修理できなくなっちゃうもんね」
「私はそういう意味で言っている訳ではっ・・・!!」
「大丈夫、約束するよ。自分は勝手にはいなくならないから」
「・・・約束だからな」
自分はもう、勝手には死ねない。
だって、自分のことをこんなにも必要としてくれている人がいるのだから。
自分のことを、本当に思ってくれる人たちがいるのだから。
だから、やっぱり彼女にありがとうって思えるんだ。
自分があの子供の頃に死んでなくてよかったって。
辛くて苦しい日々だったとしても。
生きてて良かったって、思えるんだ。
「さて、それじゃそろそろ帰ろっか」
「いや、もう少し寝ていろ。その・・・結構やりすぎってしまったしな」
「大丈夫だって、よいしょ・・・イテテ」
「ああもう動くな!!」
「むぐっ!?」
むにょん、と顔に大きな何かが当たる。
慌てて彼女が自分の体を抑えるものだから、自分の顔に山が急降下してきたんだ。
そのまま気にせず起き上がっても良かったけれど・・・
彼女の力が思った以上に強くて動けず、なおかつ息苦しい状態にもなるから、抵抗できなかった。
「あ・・・ああいや!すまん・・・だが、言うとおりにしていろ・・・///」
「・・・うん、わかったよ」
すぐに離れてくれたから窒息することはなかった。
流石に死にかけ三回目は遠慮しておきたい。
仕方なくシエルの言葉に甘えて、そのまま体を預けつつ。
日が傾くまで、彼女の温もりを頭で感じていた。
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「それじゃ、自分は夕食の準備を始めるよ。シエルは、好きにしててね」
「ああ・・・」
あれからしばらく経って、日が落ちる頃には家に帰ってきた。
でも、少しシエルの様子がおかしい。
行きはあれだけ心配して声をかけてきてたというのに、帰る途中では随分静かだった。
翼についての話をしたかったんだけど、質問してもぼんやりとした相槌が返ってくるだけだった。
やっぱりまだ、飛んだ時の緊張がとけてないのかな。
今日は色々あったし、一気に疲れが来たのかもしれない。
これから夕食を作ることだけ伝えると、彼女は自分の部屋である二階へとすぐにあがっていった。
自分としては、話をしたかったんだけどな。
翼が直った以上、彼女は目的を達成した、ということになる。
やっぱりすぐに反魔物領から離れたいんだろうし・・・
つまり彼女には、ここにこれ以上留まる理由がないんだ。
あくまでも、自分と彼女はお店とお客の関係だから・・・
彼女との生活も、これで終わりなんだって話も、含めて。
・・・自分としても、少し・・・いや。
大分、寂しいけれどね。
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私は、今までのことを思い返していた。
この場所で。彼と出会った時から今までのことを、だ。
それを、よく噛みしめるように。まるで自分を言い聞かすかのように。
ゆっくりと。静かに思い返していた。
初めて出会った時は、不安だった。
母の懐中時計を直してくれる所を探していて、ようやく見つけた修理の店。
扉を開けて目に映ったのは、何やら不思議な男だった。
私の姿を目にしても逃げ出さずに、話を静かに聞いてくれた。
そこに、いてくれたのだ。
次に出会った時は、ささやかな期待だった。
店を回って、断られて、直せなくて、ようやく見つけたこの店だ。
どこか期待をしながら、他の店と同じで結局直らないのだと思っていた。
だがまさか修理を引き受けてくれて。
さらに、わずか一週間で元通りに直るとは考えていなかった。
・・・だからこそ、もう二度と壊れて動かなくなる姿は見たくなかった。
私はドラゴンなのに臆病で、心配性だったから。
最初の数ヶ月の時は、申し訳なさだった。
私は、また懐中時計を失う恐怖に耐えられなかった。
実際に失う、というよりはただ壊れて動かなくなるだけなのだが。
それでも、耐え切れなかったのだ。
臆病故に、他のドラゴンと会うことを続け。
臆病故に、店に何度も足を運んでしまった。
でも私が臆病者ではなかったのなら。
この出会いは、きっとなかったのだろう。
見つかった時は、恐怖だった。
最後のドラゴンを退けたあの日、私は勇者の男に見つかった。
どことなく騎士の姿をしたあの男は強かった。
ドラゴンをも打ち倒す技量のある男。私はそれを肌で感じた。傷を付けられたのだ。
上手く不意を付き、ドラゴンの炎をお見舞いしてやったが・・・
私の傷は深かった。どこか、休める場所が必要だった。
翼がなくなった、あの時の恐怖を思い出す。私はとにかく逃げ出したかった。
どこか、安心できる場所へ。本当は一刻も早く、逃げ出したかったのだ。
だが私は、まだ逃げ出すわけにはいかなかった。
再び壊れた、見るも無残に破壊された懐中時計をまた、直すために。
黒の鎧を回収し、私は静かに街へ向かった。
思えばあの時は、無意識だったのだろう。
あれほどまでに傷ついた体で、真っ先に思いついた場所が。
反魔物領にある修理屋だったのだから。
私から逃げることなく。私が逃げることなく。
いつも熱心に、修理へ取り組んでいたお前の顔が。
真っ先に浮かんだのだ。
正体がバレた時は、絶望だった。
私は、もうここには来られない。もう、直してもらえない。
その二つの言葉が頭の中をかき混ぜていた。
だが、お前は私の姿など関係無いと言う。
私はまだ、ここに来られるのだと。私の大切は、まだ直せるのだと。
私の下から、居なくならないのだと。
お前は私の絶望を、あっさりとぶち壊した。
だからなのかな。
全部を知らないお前に。
知らなくても、受け入れてくれたお前に。
私の全部を、話したくなったのは。
提案を受けた時は、驚愕だった。
私の翼を直す。そう聞こえた言葉は、私の耳を疑わせた。
翼を失って7年。もう二度と手に入れる事のない空翔ける手段。
それが再び私の手に戻るなど、考える方がおかしいだろう。
だが、お前は本気だった。真剣だった。
諦めていた現実を。暗い檻にいた私の心を。お前は引っ張り出したのだ。
もう少し、この場所で。逃げずに居てみよう。そう思うには十分な理由だったな。
そういえば、初めてお互いの名を知ったのも、あの時だったか。
それからの日々は、充実だった。
少しずつ、少しずつ。ゆっくりだが確実に前に進む。
そんなじれったいが、くすぐったくもあるような日々は、楽しかった。
中々に無茶を言われたこともあったが。
誰かと過ごすことが、こんなに楽しいなんて。
私は久しく忘れていたよ。
道が見えなくなった時は、悲痛だった。
順調に思えた空への道。それは突然見えなくなった。
最初は恨んださ。お前のことを。だがそれは筋違いだとすぐに気付いた。
最初から直るかどうかも分からなかったのだ。
それを勝手に信じて、その道を選んだのは私だ。決してお前のせいではない。
それが分かっていたからこそ、今度こそ諦めてしまいたかった。
だが、お前は諦めなかったよな?
本人の意向など、お構いなしに。私の気持ちなど露程も知らずに。
だから私はぶつけてしまった。思いの丈を、怒りを込めて。
しかしな。まさか真正面から打ち返すなんて。
あの時は全く思ってもみなかったよ。
お前の過去を知った時は、困惑だった。
何故今まで黙っていたのだ、という怒り。
何故お前が苦しまなければならないのだ、という悲しみ。
何故そこまで前を向いていられるのか、という畏れ。
様々な感情がまぜこぜになった。一度に整理がつかなかった。
だが、私がその時、心の奥底で感じていたのは。
私は目の前にいる、見ているだけで足が地につかなくなるこの男に。
『勝てない』という嬉しい感情だった。
何故こんな感情を抱いたのか。この時感情が何なのか、私は分からなかった。
お前が落ちていく姿を見た時は、何だっただろう。
突然のことだった。
何かが崩れるような音がしたと思ったら、お前が崖から落ちていくのだから。
咄嗟に声をかけたがお前には届かなかった。
懸命に伸ばした手もお前には届かなかった。
どうすれば、お前に届く?どうすれば、私はお前を助けられる?
置いていかれるあの日の感覚を、私は再び感じていたのだ。
このままでは、お前が死ぬ。
そう考えた時、全身が凍りついたような寒さを覚えた。
締め付けられ五体が引き裂かれるような苦しみを感じた。
だが私はそこで、ばさりと動く自分の「翼」があることを思い出したのだ。
今の私には翼がある。だが、ちゃんとこの翼を扱えるだろうか?
落ち行くお前を救えるだろうか?
しかし、そう頭で考えるよりも疾く、体が既に行動を開始していた。
あの時の私は、翼を失う恐れさえもどうでもいいと思っていた。
懐中時計が壊れた時よりも。私が勇者に見つかった時よりも。
私が生きてきた何よりも、必死だったようにも思える程にだ。
私を駆り立てたものは、一体何だったのか。
お前が居なくなることに対する嫌悪?
それもあるが、違う。
お前が無くなることに対する恐怖?
それもある。だが違う。
私は本心はそうじゃない。
私は。
私は・・・
そうか、私は・・・
私は、お前のことが大好きなんだ。
お前のために全てを失ってもいい。
お前が好きだから、いなくなるなんて嫌だ。
お前が大好きだから、私の傍に居て欲しかった。
それ程までに、私はお前に惚れていた。惚れ込んでいた。
愛しくて、愛して止まない。そんな存在にまで膨れ上がっていた。
何故、こんなことに今まで気が付かなかったのだろう。
その疑問の答えもすでに出ていた。
ドラゴンの尊厳。強者の高慢。
私は己以上の強者に怯えながらも、心のどこかで人間を見下していたのだ。
ドラゴンとしてのプライドなんて、とうの昔に捨て去ったと。思っていたのに。
それが私の邪魔をする。それは、今もなお。
『ドラゴンは己よりも強いオスに屈する』という、プライドが邪魔をする。
魔物としての本能は、既に襲いかかりたい衝動に駆られているというのに、だ。
何故なんだ。己のことなのに、私は己が分からない。
そうだ。今までにもこのようなことが何度かある。
翼を切られた時も、深手を負わされた時も、敗北を味わっていた。
だが、私の心はその相手を勝者とは認めていなかった。
本能が屈するはずなのに、その本能が負けたと思っていなかった。
あの時も、あの時も・・・
ああ、そうか。
私は初めから、戦ってなどいなかったのだ。
だって私は、『逃げていた』のだから。
戦いからも、敗北からも、強者からも、恐怖からも逃げていた。
勝ちも負けもない、逃げ。それで勝者も敗者も決まるわけがない。
逃げるが勝ち、という言葉もあるくらいだから、少なくとも今まで私は敗けていなかった。
きっとそういうことなのだろう。
私は戦ってすらいなかったのだ。なんと情けないものか。
ドラゴンの恥だ・・・そう感じてしまうのはやはり、まだ私にも高慢さが残っている何よりの証拠なのかもしれない。
心が苦しい。見えない枷に、私の本能は囚われている。
今まで敗北を覚えたことのない私の中の竜が、それを教えてみせろと叫んでいる。
私はあの男以外を、オスと認める訳にはいかない。
だが彼が、私を力で屈服できるなど到底思えない。どうすればいいのだ?
私は彼にどうすれば敗けられる?
私がアイレンに勝てないもの。それは・・・
・・・
ああそうか。
ははっ。何だ、こんな簡単なことだったのか。
一度理解してしまえば、私を縛る枷など無いも同然だ。
あの時感じた嬉しさも、今なら良く分かる。
ああ疼く。あのオスのものになりたいと、私のメスが暴れている。
居ても立ってもいられない。早く行こう。直ちに行こう。刹那に行こう。
早く全身で初めての『敗北』を感じてしまおう。体全部に刻み込んでしまおう。
彼に私の負けを、受け止めてもらおう。まだ晒していない全てを見せてもらおう。
さあ早く行こう。
私が『勝てない』オスの所へ・・・♥
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ぐつぐつと、よくシチューの煮える音が聞こえる。
一口啜って確かめてもいい塩梅だ。・・・うん、おいしい。
そろそろシエルもお腹を空かせて降りてくる頃かな?
階段を下りる音が聞こえたとき、自分はそうだと確信していた。
いつも通りの顔をして、「さあ食事にしようか」といつものように。
そんな君の姿を想像していた。
でも。
「・・・アイレン」
「ああシエル。もう少し待ってくれないかな?今からパンも用意するから・・・」
「その必要はない」
「え?」
ドサッ・・・
「何故なら、私は今から」
「ちょ、ちょっと?シエル?」
「お前を、頂いてしまうのだからな・・・♥」
でも、今までにない顔をした君が。
まるで獲物を見つけた獣の顔をした君が、そこにいるとは思わなかった。
自分の腕を掴んで、息を荒げて、舌なめずりをして。
自分の体を押し倒すなんて、夢にも思ってなかったんだ。
13/11/29 20:56更新 / 群青さん
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