雨とラムネ
※
雨が降っている。
緑に溢れた庭先では、鮮やかに咲いた紫陽花の葉に小さなカタツムリの姿が見て取れた。
その取り合わせは、お決まりといえばお決まりなのかも知れないが、しかし実際に目にする事は少ない風景だと僕は思う。
脱サラした父と共に山間の村へ引っ越してきたのは、この春の事だった。
もともと趣味で陶芸をやっていた父は、とある品評会で金賞を取った際に、その筋では大家とされる人物から作品を称賛され、勘違い――もとい一念発起して、彼に弟子入りするためにそれまでの仕事を辞めたのだ。
正直、都会で生まれ育った僕は田舎暮らしというものを妙に美化というか期待すらしていたのだけれど、実際に訪れた山裾の古民家は想像を超えたお化け屋敷だった。いや、出そうではあっても、実際に出たりはしないのだが。
幸いだったのは、外観はともかく内部は今風にリフォームされていた事と、僕が意外と田舎というものとの相性が良かった事だろうか。
初めは戸惑ったのんびりした時間の流れや近所の人たちとの付き合いも、今ではすっかり慣れた。たぶん僕は、もうコンクリートジャングルへは戻れないと思う。
※
季節は梅雨。
稀に晴れる事はあるにせよ、基本的には連日シトシトと雨が降り続いている。
おかげで僕は折角の休日だというのに出かける事も出来ず、縁側に腰かけて草の葉や地面を叩く雫を眺めるという、のんびりと穏やかな――言い方を変えるなら不毛な時間を過ごしているのだ。
こんな日に限って学校の課題はない。バイトのシフトにも入っていない。出来たばかりの友人たちとの約束も、特にない。
家の隣にある家庭菜園の手入れでもしようかと思ったが、この雨では出来る事などない。というか、この雨で雑草が伸びるので、今やると完全な二度手間になる。
父は陶芸の師匠のところへ行っているので、家は静かだった。溜息をつく事にも飽きたので、今は雨の音しかしない。
ガサリという音が聞こえてきたのは、そんなときだった。音の方向へ目を遣ると、父が山へ土を取りに行くのに使う獣道沿いの茂みを掻き分けて、何者かが姿を現すところだった。
「う〜……まったく。暫く見ない間に育ちすぎなのです、雑草の分際で」
忌々しげに下生えを踏みつけながら現れたのは、頭に丸みを帯びた三角の耳を持つショートカットの少女だった。
「……え?」
何かの見間違いだろうかと目を擦ってみるが、彼女が消えたりする事はない。
「ん?」
彼女の方も僕に気づいたらしく、怪訝そうに眉根を寄せている。
「……お前は、こんな所で何をしているのですか」
「何って……」
何をしているのだろう。しいて言えば、暇を持て余しているのだが。
「こんな廃屋風味のあばら屋にいるという事は、家出人か何かですか。それとも憑く家を間違えた、間抜けな座敷童子ですか」
「童子って歳じゃないし、廃屋風味でも中身はしっかりしてるよ」
苦笑しながら僕は答える。彼女の口調は尊大だが、何処か子供が背伸びをしているようで微笑ましい。
少女は馬鹿にするように、フンと鼻を鳴らした。
「お前など、私からすれば小童なのです」
「つまり、そんな歳なのか――」
「女に歳の話を振るものではないのです。そんなんだから、お前は小童だというのです」
「……自分から言ったんじゃないか」
彼女の理不尽さに控えめに不服の意を表して見せるが、当人はどこ吹く風だった。
「つまり、お前はここに住んでいるという事ですか」
「うん。父さんと二人で」
「……こんな人里離れた場所に親子で住むという事は、もはや人間社会では生きていけないような犯罪行為に手を染め、逃亡中という事ですね。または夜逃げ」
「どういう想像だよ……」
僕は頭痛を堪えるように額に手を遣り、俯く。
「それで結局、何をしているのです」
少女は構わず、マイペースに話を続けた。
「特に何も。やる事がないから、雨が降るのを眺めてた」
「ほう……。小童の割に、なかなか風流な趣味なのです」
決して僕はそんな趣味を持ち合わせてはいないのだけれど、何故か感心したような少女の口調に否定する事も出来ない。と――
「うわ。今更だけど、ズブ濡れじゃないか!」
「本当に今更なのです。というか雨の中を傘もなく歩いて来たのですから、もはや濡れている事など驚くに値せず、むしろ濡れていなかったときにこそ驚くべきなのです」
確かにそうかも知れないけれど、驚かなくてもいいから多少は慌てるくらいしてもいいんじゃないだろうか。女の子なのだし、身体を冷やすべきではないはずだ。
「タオル持って来るから、こっち来て」
少女を縁側へ呼び寄せ、僕はバスタオルを取りに行く。
「……ん?」
というか、シャワーでも浴びさせた方がいいのではないか。その間に服を洗って乾燥機にかけておけばいい。
そう思い直し、僕はビニールシートを持って縁側へ戻る。
「なあ、服って中まで濡れてるの?」
「……初対面の女に何を訊いているのですか、この変態」
「いや、そういう事じゃなくて……。もしそうなら、シャワー浴びた方がいいと思って。服は洗って乾燥機にかけておけばいいし」
「申し出はありがたいですが、見知らぬ女を家に上げるお前は少々頭が弱いようなのです」
「……厚意を押しつける気はないけど、人の厚意に対して物凄い言い草だね」
少女は構わず、僕が廊下に広げたシートの上に背負っていた荷物を下ろした。その際、彼女の腰の後ろから生えた太い縞模様の尻尾が目に入る。
「刑部狸……」
「またしても今更≠ナすか。本当に頭が弱いのです」
僕の何気ない呟きに視線を寄越すと、少女は辛辣な言葉と共に意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「……それにしてもシャワーだの洗濯機だの乾燥機だの、見た目と中身のギャップが激しい家なのです」
「どうしても、うちを廃屋にしたいんだね……」
溜息混じりに、僕は少女を風呂場まで案内する。
タオル類と僕が用意した着替えを手に、
「もし覗いたときには、国家が傾くほどの額を請求させてもらうのです」
彼女はそう言って扉を閉めた。
※
「そういえば、まだお前の名前を聞いていなかったのです」
風呂から上がった少女は、何気ない口調でそんな事を口にした。それから、私は詠子というのです、と名乗る。
「よみこ、か。僕は尊――日比野尊」
「タケルですか。ふむ……六十八点」
「……何が基準なんだ、それは」
「乙女のフィーリングなのです」
しれっと言いながら、詠子は濡れた髪をタオルで拭いた。
「しかし、まがりなりにも陶芸家を目指す者の名に『ヒビ』などという言葉が入っているのは、不吉な事この上ないのです。もはや神が、やめておけと言っているとしか思えないのです」
「まあ、それでも賞が取れる程度の腕はあるんだし、結論を出すのはやってみてからでもいいと思うよ」
苦笑しながら、僕は再び縁側に腰を下ろした。
「随分と物分かりのいい息子なのです」
呆れたように言いながら、詠子も倣う。
「その結果として、お前の父親は無収入なのではないのですか? お前だって、バイトをして家計を助けているのです」
「別に、家計を助けるなんてほどの事はしてないよ。そりゃ自分の分の食費くらいは家に入れてるけど、それだって毎月の事じゃないし、基本的には自分が欲しいものを買うお金を稼いでるだけだから」
それに父ひとり子ひとりの生活だから、かかる生活費だって普通の家に比べれば少なくて済む。
何より、父だって決して考えなしに脱サラした訳ではないのだ。充分な額の貯金はあるらしく、僕を大学に行かせてもまだ余裕はあると言っていた。
まあ真偽のほどは定かではないし、それに全面的に甘える気はないけれど。
そんな感じの事を口走ってから、僕は我に返る。きょう知り合ったばかりの相手に、何を語って聞かせているのか。
気恥ずかしい思いで顔を背ける僕の隣で、詠子は小さく鼻を鳴らしていた。そりゃ、そうだろう。
僕の自己嫌悪など知る由もなく、雨は降り続ける。
雫の音しかない沈黙の中に、ふと、暇なのです、という呟きが聞こえた。
「……そうだね」
同意しながらそちらへ目を向けると、詠子は僕とは反対側の隣に置かれた自分の荷物から何かを取り出したところだった。
「よければ飲むがいいのです」
差し出されたのは、青みを帯びた透明なガラスの瓶。飲み口の部分をビー玉で塞いだ、昔懐かしのラムネだった。
「ありがとう」
そう言って、僕は瓶を受け取る。シャワーのお礼か何かだろう。
「少し温くなっているのは、我慢するのです」
「うん」
プシュッという音と共にビー玉を瓶に落としこみ、口をつける。
清涼感と心地よい刺激を与えてくる液体は、言うほど温くは感じなかった。真夏の暑い日でもないのだし、このくらいで丁度いいと思う。
「……それで、君の方は何であんな所から出てきたの?」
一息ついた僕は、何となく気になっていた事を訊いてみた。詠子が現れたのは獣道の脇の茂みなので、そもそも彼女は道ですらない所を歩いてきた事になる。
「――ち、近道なのです!」
詠子は少し慌てたような早口で答えた。僕が視線を向けると、顔を背けて咳払いする。
もしかして、ラムネを飲もうとするタイミングで話しかけてしまっただろうか。だとしたら悪い事をしてしまった、と僕は反省する。
「前に来たときはここに人は住んでいなかったのですが故に、不法侵入する形になってしまった事は謝罪するのです」
「それは別にいいけど……近道って、こんなとこ通って何処へ行くの?」
「む……村なのです。商人というものは、皆、独自のルートを持っているものなのです」
「……それって普通、流通に関するルートの事じゃないの?」
「黙れ、人間! 私は刑部狸――お前たちの常識で語れるものではないのです」
何かを誤魔化すように声を荒らげる詠子に、僕は嘆息した。確かに、人間の常識で測れない部分があるのも事実ではある。
とはいえ彼女がやって来た方向を見遣れば、そこは山以外の何ものでもなく、そんな所を通るくらいなら、多少遠回りでも整備された道を通った方が所要時間は短縮できるのではないだろうかと思えてならなかった。
まあ、まがりなりにも狸の名を持つ種族なのだから、山歩きも大して苦ではないのかも知れない。姿を現したときの彼女が下生えに文句を言っていたような気もするが、まあいい。
そんな事を考えていた僕は、しかし、ふと隣から感じる視線に訝しさを覚えた。顔を向けると、詠子が意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「飲んだのですね」
「え……」
どういう事だ、と脳内で疑問符が飛び交う。飲んではまずいものなら渡してはこないだろうし、まさか何か入っているのか。
「飲んだからには、代金を支払ってもらうのです」
「……お金取るの?」
「当たり前なのです。お前は馬鹿ですか。私は刑部狸――つまり商人なのです。商人が無料で物をくれてやる道理などないのですよ」
「いや、でも……世の中にはオマケとかサービスとかいう言葉も――」
「私の辞書にはないのです。さあ、速やかに支払う事を要求するのです。五万」
「高っ!?」
思わず叫んでしまった。世の詐欺師でも、もう少しマシな値段を設定するのではないかと思う。
「さあ、払うのですか払わないのですか」
「払えないよ、そんな額」
顔をしかめて僕は立ち上がった。
「ラムネって普通、一本いくらくらいだっけ……」
「五万」
「まあ、二百円はしないよな」
「無視するのではないのです、小童」
他人の独り言に対して何か言っている詠子を無視し、僕は障子を開けっ払った和室を突っ切って自室へ財布を取りに向かう。それでも払おうとする自分に、多少呆れないでもなかった。
「成程、踏み倒す気ですか……」
ボソッと、地の底から響くような声が背後から聞こえてきた。
妙な危機感に僕が振り返ろうとするより早く、
「支払えないというのなら、身体で払ってもらうのです」
この一瞬で驚くほど近づいていた声と共に、僕は後ろから畳の上に押し倒されていた。
※
いくら畳とはいえ、胸を強打すればそれなりに痛い。
衝撃は鳩尾まで伝わり、一瞬、息が詰まった。
頭は真っ白になっていた。背中に詠子の体重を感じながら、僕は本能的にもがく。
「ちょ……ちょっと待って! 何――身体でって、肉体労働とか!?」
「魔物相手に、この状況でまだそんな寝言を言えるとは、見上げたノータリンなのです」
何とか仰向けになると、僕の上に馬乗りになっている詠子の人の悪い笑みが見えた。
「魔物が身体で払えと言ったら、答えは一つなのです」
そう言って彼女は僕の上に覆い被さってくる。
咄嗟に頭を庇うように腕を上げるが、詠子は素早くそれを払い除け、左右の手でそれぞれ僕の手首を掴んで畳みに押しつけた。意外と力が強い。手枷で固定されているみたいだ。
「観念するのです」
勝ち誇るように言いながら顔を近づけてきた詠子は、そのまま躊躇う事なく唇を重ねた。
「っ――!」
反射的に口許に力を籠めるが、熱く濡れた舌は僕の唇を割って侵入してくる。
「んふふ……」
詠子は嘲笑うようにほくそ笑みながら、顔を背けようとする僕の動きを巧みに読んで先回りする。どれほどもがいても唇が離れる事はなく、歯を食いしばる僕のその歯列を、柔らかな舌先がくすぐった。
「く……!」
むず痒さに、思わず食いしばる歯の隙間から息が洩れる。
それでも頑なに口を開かない僕に焦れたのか、詠子の目が不機嫌そうに細められた。直後――
「――っ!?」
ジーンズの上から股間に触れられる感触に、僕の身体が僅かに跳ねる。
その拍子に歯を食いしばる力が抜けたのを見逃さず、詠子は舌を差し入れてきた。
「んう……!?」
小さく呻いて僕はそれを自分の舌で押し出そうとするが、彼女はいなすように舌の力を抜いたかと思うと、素早く横から絡め、逃れようとするこちらの動きを利用して口内を蹂躙する。混ざり合った唾液が、僕の喉へ流れこんでいった。
やがて息が続かなくなったのか、相手の勢いが僅かに衰えた隙をついて、僕は素早く顔を横へと逸らす。
「ん……は、ぁ……」
荒く息をつきながら横目で詠子を睨め上げ、
「何で……こんな事……」
「……ラムネ代なのです。魔物なのだから、別におかしな事ではないはずですが?」
何を馬鹿な事を、とでも言うように目を逸らし、詠子は嘆息する。
「そうだけど……! だからって、きょう会ったばっかりなのに何でこんな事できるんだ!」
それが気に入らなかった。納得できない。
魔物が好色なのも、色々と展開が早いのも知っている。けれど、その想いは人と変わらないのではなかったのか。知り合ったばかりの好きでもない人間にこういう事が出来るのだというなら、僕は彼女を軽蔑する。
そんな思いを僕の眼差しから悟ったのか、上体を起こした詠子は少しだけ悲しげに目を伏せた。
「……出来るのです」
「……そう」
たぶん今の僕の顔には、彼女に対する嫌悪の表情が浮かんでいるのだろう。しかし――
「私は、お前を気に入ったのです」
「え……?」
僕は訊き返した。彼女がシャワーを浴びていた時間を除けば、僕らが話した時間なんて数十分でしかない。
「何で……」
何処が、とは言えなかった。自分の何処を気に入ったか訊くなんて頭の悪い真似は出来ないし、何より恥ずかしい。
詠子は、ぽそぽそと答える。
「自分の欲しいものは自分の力で手に入れようとするところや、懐が深く包容力があるところや、意外と面倒見がいいところは私の好みなのです」
「……ぇえ?」
答えてもらっておいてなんだけれど、僕は疑わしい思いで目を細めた。一体どのあたりから彼女がそんなものを感じ取ったのかが分からない。
「私だって、こんな簡単に誰かを好きになるとは思わなかったのです。ですが商売柄、人を見る目には自信があるのです」
詠子は俯いたまま、きゅっと唇を噛みしめる。
「……お前は、私では駄目なのですか? 私には魅力を感じませんか……? こんな事をする女は……嫌い、ですか……?」
彼女は恐れるようなたどたどしい口調で、小さく身体を震わせていた。それを見て、僕は不意に冷静さを取り戻した。
そもそも僕に、詠子を拒絶する理由があるのだろうか。
展開の早さを受け入れられない事を除けば、彼女に対する悪感情はない。若干、性格と口が悪いような気もするが、それだって許容範囲内だ。顔立ちは文句なしに可愛らしいし、よくよく考えれば展開が早いからといって想いが軽い事になどならない。
全ての魔物に共通する特徴として、愛情深く一途であるという事は広く知られている。
「…………」
僕は安易に詠子を軽蔑しようとした自分を恥じた。人でも魔物でも想いは同じはずなどと詭弁を吐きつつ、その実、彼女たちを違うもの≠セと何処かで壁を作っていたのは、他ならぬ僕自身だったのかも知れない。
「……ごめん」
今まで生きてきて感じた事のないほどの自己嫌悪と共に、反省を口にした。が――
「……あっ――いや、ちょっと待って! 違うから! さっきの言葉に対する答えじゃなくて――」
直後、タイミング的に最悪の誤解を与えかねない答えだったと気づく。
事実、詠子は涙ぐんでいた。慌てる僕の態度に、どんな顔をすればいいか分からない様子だった。
「ええと、だから……」
やはり、ちゃんと言わなければならないだろうか。いつかはそんなときも来るとは思っていたけれど、まさか、こんな心の準備も出来ていない状態で言う事になるとは思わなかった。
上体を起こす僕に、詠子は縋るように潤んだ瞳を向けてくる。
「嫌いじゃないよ。急だから驚いたけど……」
「……本当に?」
「うん」
僕が頷くと彼女は勢いよく顔を背け、子供のようにゴシゴシと袖で目元を拭った。
「この私を騙すとは、いい度胸なのです」
そして元の態度に戻る。
「ごめん」
苦笑して、僕は詠子の頬に手を伸ばした。当たり前だが、自分のものとは違う柔らかな頬を優しく撫でる。
「……商人を騙すと高くつくのです」
はにかむような赤い顔を寄せてくる彼女に、今度はこちらから唇を重ねた。
※
ラムネを飲んでいたせいか、詠子の唇は甘かった。
ゆっくりと蕩けるように舌を絡めていると、ふわりと彼女の腕が僕の後頭部へ回される。
陶酔するように頬を染めて目を閉じた彼女のキスは情熱的で、決して激しくはないものの、触れ合う温もりと柔らかさを通じて一瞬ごとに僕の中にその想いの真剣さを刻みつけていった。
やがて、どちらからともなく唇を離す。僅かに遅れて、互いを繋ぐ銀糸がプツリと切れた。
詠子の大きな瞳で至近距離から見つめられ、僕は照れ隠しのようにコツンと彼女の額に自分のそれを合わせる。伸ばした手で髪を撫でていると、指先が耳に触れた瞬間、ピクンと震えた。
「……耳はやめるのです。くすぐったいのです」
恥じらうように目を逸らす詠子が愛おしくて、僕は彼女を優しく抱きしめた。撫でる手をゆっくりと背中へと下ろし、白い首筋に鼻先をうずめる。
「か、嗅ぐな……変態」
それでも強気な態度を崩さない――崩さないように意地を張る様子がおかしくて、思わず噴き出してしまった。
「……何ですか。何か可笑しかったのですか?」
「――ううん。可愛いな、って」
「ばっ――出し抜けに何を……!?」
焦ったように詠子は身体を離そうとするが、僕は敢えて腕に力を入れて彼女が逃げられないようにする。
「はっ、離すのです! 何をするのですか、このスケベ! 女たらし! チャラ男!」
「チャラくはないよ」
腕の中でジタバタする詠子に苦笑しながら、首筋を舌先でなぞった。
「ぁ、ん……!?」
鼻にかかった甘い声で軽く仰け反る彼女に気を良くして、僕はそのまま鎖骨に口づけ、左手で服の上から胸に触れる。
暫く円を描くように撫でてから服の裾に手をかけると、
「じ、自分で脱ぐのです……」
僕の手を押し留めるようにしながら、詠子はそう言った。
そそくさと僕の上から下りると、彼女はゆっくりと服を脱いでいく。雨音しか聞こえない和室に響く衣擦れの音は妙に艶めかしく、僕の心拍数は弥が上にも高まっていった。
サイズの合わない少し大きめのシャツが畳に落ち、白くて細い肩が露になる。背中を向けている詠子は腕で胸元を隠したまま、恥じらうように肩越しに僕を振り返った。
「……あまり見るのではないのです」
彼女はそう言って赤い顔で俯く。
しかし、僕は目を逸らす事が出来なかった。
仕事の関係であちこち歩き回っているせいか、詠子の身体はスラリと引き締まっていた。かといって女性らしい丸みに欠ける訳でもなく、肩から背中、腰へと続く曲線は芸術的ですらある。白く滑らかな肌は、自然と触れてみたい欲求を掻き立てた。
「綺麗だ……」
思わず、そんな言葉が口をつく。心なしか詠子の肌が赤みを増したような気がした。
「スケコマシ……」
「コマしてないって」
どちらかといえばコマされているのだ。
僕は背後から詠子の身体を抱きしめた。彼女の頬に軽く口づけながら、胸を隠す腕を外す。
あっ、と再び相手が胸を隠そうとするのを先回りして、下から胸を持ち上げ優しく揉んだ。人差し指と中指の間に乳首を挟んで刺激してやると、俯く詠子は僕の手に自分の手を重ねながら何かを堪えるように小さく呻く。
「――ぅ、あ……先っぽ、は……!」
「……ここがいいの?」
耳元で囁きながら指先でつまみ、クリクリと転がすと、
「ぃ……ゃ、あ……」
僕の手に重ねられた詠子の手に力が籠められた。
「じゃあ……こっち?」
スルリ、と左手を下へ滑らせる。
「んあ――!?」
じっとりと濡れ、ヌルリとした感触を伝えてくる秘裂を中指でなぞると、彼女はビクリと身体を震わせた。
「……濡れてるね」
「い……いちいち言うな、馬鹿」
そう言って赤い顔で睨みつけてくる様は、堪らなく可愛らしい。
僕は詠子のうなじに口づけながら、指先でクリトリスをいじめる。刺激される度にクプクプと愛液を溢れさせてくれるのが嬉しかった。それだけ彼女が僕を信じてくれ、それだけ彼女が僕を求めてくれ、それだけ彼女が僕で感じてくれているのだから。
全幅の信頼と共に身を預けてくれる詠子に応えるように、僕は愛撫を繰り返しながらゆっくりと指先を侵入させていく。
「ぅあ……は、ぁう……ん……」
詠子は赤い顔を俯け、ギュッと目を閉じながら小さく身体を震わせていた。が、
「や……やめてほしいのです」
「え……?」
やんわりと手を押さえられ、僕は彼女を肩越しに覗きこむ。
「は……初めてなので、出来れば指ではなく、その……お前の、で……」
「ん……分かった」
それ以上言わせるのは何だか可哀想だったので、僕は頷いてゆっくりと指を抜いた。それでも刺激はあったのか、んっ、と詠子は呻いたが。
詠子が荒くなった呼吸を整えている間に、僕は服を脱ぐ。しかし上半身だけ裸になったところで、振り返った彼女が寄り添ってきたかと思うと、そのまま仰向けに押し倒された。
「されるばかりでいるほど大人しい女ではないのです……」
詠子は僕の胸に顔をうずめると、すぅ、と深く息を吸う。
「……いい匂いなのです」
満足げに小さく笑み、チロリと胸の真ん中あたりを舐めた。そのまま首筋の方へと舐め上げ、耳たぶを甘く噛む。
「くすぐったいよ」
「さっきの仕返しなのです」
悪戯っぽく言いながら、詠子は再び唇を重ねてきた。同時に左手が僕の下半身へ伸びる。
「んっ……」
服の上からゆっくりと撫でられ、思わず声が鼻から抜けた。
唾液の糸を引きながら唇を離した詠子は、からかうように目を細める。
「もう、こんなふうになっているのですか。ちょっと人の身体をまさぐっただけでガチガチになるなんて、お前は童貞ですか」
「……お互い様でしょ」
さっき夢見る乙女のような恥じらい方で処女を告白したのは、どこの誰だ。
しかし彼女は、嘲笑うように鼻を鳴らす。
「男と女では、初めての意味も価値も真逆なのです。どれほど理不尽であろうと、それが現実――ひゃぅ!?」
詠子が全て言い終わるより早く、僕は彼女を抱きしめた。
「またですか! お前は、ハグマニアですか!」
またもや詠子はジタバタし出すが、事実、彼女の抱き心地は最高だった。直接肌が触れ合う事で、温もりが直に伝わってくる。
「……お前はヤる気があるのですか、ないのですか」
「あるけど、こうやって抱き合ってるのも気持ちいいな、って……」
「つまり入れてもないのに、もうイきそうという事ですか。まったく、人並み外れるどころか童貞並み外れた早漏野郎なのです」
「……そういう事じゃなくて」
気持ちいいというよりは、心地いいといった方が正確かも知れなかった。心が満たされるような感覚。こういうのを幸福感というのだろうか。
詠子は、満更でもないといった様子で目を逸らした。が――
「しかし私は気分が高まって、それどころではないのです。後でいくらでも抱き枕になってやるから、今はヤる事をヤるのです」
「風情もへったくれもないね……」
首筋に少し強めに噛みつかれた拍子に僕が腕を弛めた隙を衝いて、身体を離した彼女はベルトへ手を伸ばす。
「何より、このバックルは、さっきから硬いし冷たいしで不快なのです」
カチャカチャと乱暴にベルトを弛め、無理やりジーンズを脱がそうとするので、仕方なく僕も協力して自分から脱いだ。
恥ずかしながら僕のボクサーパンツには染みが出来ており、それを見た詠子に何を言われるのかと少々身構えていたが、
「我慢していたのは、お互い様なのです」
もはや余計なものは目に入らないのか、そう言って彼女はパンツを摺り下ろす。
「う……」
しかし露出した僕のモノを見て、怯んだように動きを止めた。
「ど……童貞の割には、そこそこのサイズなのです」
「いや、平均だと思うけど……。ていうか、あんまり凝視しないで」
童貞とサイズには、たぶん因果関係はないと思う。というか、もしかして見るのも初めてなのだろうか。
そんな思いが表情に出ていたのか、ハッと我に返った詠子は取り繕うように僕のモノを握ると、やわやわと扱き始める。
「く――っ」
急な刺激に思わず身体を跳ねさせると、勝ち誇ったような笑みを浮かべながら彼女は僕の上に跨ってきた。
「気持ちいのですか……?」
そう言って僕のモノを自分の秘所へ宛がい、ゆっくりと腰を沈める。
「ん、ぅ……!」
初めてだからなのか、詠子の中は狭かった。自分から入れているにも関わらず、彼女の顔は苦痛にしかめられている。
なるべく痛みが気にならないように、僕は彼女の上体を引き寄せた。唇を合わせて舌を絡めながら、指先で乳首を転がしてやる。
時折できる唇同士の隙間から鼻にかかった甘い声と吐息を洩らしながら、意を決したようにキツく目を閉じて、詠子は一気に僕のモノを呑みこんだ。途中で僅かな抵抗を感じたのが、つまり処女膜という奴なのだろう。
「……痛くなかった?」
止めていた息をゆっくり吐き出す彼女は、僅かに嬉しさを滲ませる笑みを浮かべて頷いた。
「……侮ってもらっては困るのです。そもそも初めてのときに強烈な痛みがあったり出血したりするのは全体の二割程度だと、何処ぞの何とかいう医者が一年間統計を取ったと、何処かの地方紙の小さな記事で見たのです」
「……それはまた、心強い情報ソース」
僕が皮肉ると、詠子はムッとしたように眉根を寄せた。
「もう動いても大丈夫なのです」
「無理しなくていいよ――」
言い終わるや否や、彼女はキュッと僕のモノを締めつけてきた。
「舐めるな、小童」
このあたりの順応性は、さすが魔物という事か。
僕がゆっくりと腰を動かし始めると、詠子もそれに合わせて身体を上下させ始めた。それだけでなく、ときおり左右に腰をくねらせるようにして僕のモノがいい所に当たるように調整している。
それは、僕にとっても丁度いい刺激となっていた。ヒダやイボのような粘膜が亀頭やカリの部分に引っかかり、ピリピリと甘い痺れのような感覚が走る。
「んっ……あっ……、は――ぁ、っ!」
詠子は僕の上に身体を横たえ、ピッタリと密着したまま腰だけを振っている。目はトロンとし、熱を帯びた吐息が頬をくすぐった。
「タ、ケ……ル……」
殆ど声にならない声で呼ばれ顔を上げると、途端に唇を奪われる。ガッチリと僕の頭に腕を回し舌を絡める詠子に応えるように、僕も彼女の腰を掴んで突き上げるペースを速めた。
「んぅ、あぁ、ああ、あっ、あぁん、あ――はっ、あっ、あんっ!」
それに合わせて声を洩らす詠子は、もはや舌を絡める余裕もないのか、僕の耳元で息も絶え絶えに囁く。
「タ……ケ、ル。来て……来て欲しい、のです……! 一緒に――!」
言われるまでもなく、僕ももう限界だった。言い終わるのを待たず身体を震わせる彼女の中へ、白濁した欲望の証を放つ。
「は、あぁ……あ……はぁ……。温かいのです、タケル」
僕の上で詠子は、くたりと全身を弛緩させていた。
「お前は温かいのです、タケル……」
確認するようにもういちど同じ事を言う詠子の髪を、僕は優しく撫でてやった。
※
興奮から醒めると共に、身体の火照りもまた冷めていく。
僕らは互いを温めるように、畳の上で抱き合っていた。
あれから、更に二回――正直、もう僕も魔物たちを展開が早いだの何だの言えないと思う。
それでも、その事に後悔はなかった。僕を気に入ったと言ったときの詠子の気持ちが、今なら少しは分かる。
きょう知り合ったばかりだろうが何だろうが、僕は間違いなく彼女に恋している。それどころか、既にその上をいく想いすら抱いているかも知れない。
ふふ、と隣で詠子が笑った。視線を遣ると、幸せな少女のような穏やかで優しい眼差しとぶつかる。
勝手に人の腕を枕にして寄り添っている彼女は、万感の思いを籠めるように呟いた。噛みしめるように、確かめるように。
「愛しているのです、タケル」
「あ……」
先に言われてしまった、と僕は少しだけヘコんだ。
たとえば女の子が幸せな結婚を夢見るように、いちおう男である僕にも夢があったのだ。
派手でもドラマチックでも情熱的でなくてもいいから、自分の抱く思いを正直に真っ直ぐ、出来れば自分の方から好きな子に伝えたい――そんな、ささやかな夢だ。
男友達からは、乙女か、とツッコまれたけれど。
「……愛してるよ。僕も」
少しだけ拗ねているのが分かってしまったのか、また詠子が笑った。
愛おしくなって、僕は彼女を抱きしめる。さっき、後でいくらでも抱き枕になってやる、と言っていた事だし。
「お前は、とんだ甘えん坊なのです。この密着フェチ」
腕の中で詠子が楽しそうに言うが、僕ももう開き直っていた。何とでも言うがいいさ。
「好きな子とくっついてたいと思って、何が悪い?」
微笑みかけてやると、反撃は予想していなかったのか彼女は真っ赤になって俯き、顔を隠してしまう。
強気な態度の割に純情な心――たぶん僕は、そういうところにやられてしまったのだろう。
※
それからも、詠子との逢瀬は幾度か続いた。
次の予定など決めず、気が向いたときにだけ彼女の方からやって来る関係は、少しだけ不安で、けれど互いの想いがまるで揺らぎもしなければ薄れもしない事を会う度に確認できるという、かなり変則的な幸せだった。
とはいえ、ここ最近は詠子の来訪はご無沙汰だった。
彼女が長く姿を現さないときは、たいてい仕事関係で遠出をしているときだ。出先から電話の一つもしてくれればとも思っていたが、便りがないのは元気な証拠と自分に言い聞かせているうちに慣れた。
商売人である詠子が携帯すら持っていないという事は勿論なく、単に彼女は私用で電話をかけるのが苦手なだけらしい。何を話せばいいか分からないのだそうだ。
いま何処にいるかだけでもいいのに、と言ったら、いま貴方の後ろにいるのとでも言えば満足ですか、と有名な都市伝説まで持ち出して睨まれたので諦めた。
長かった梅雨は明け、季節は夏。
田舎の学校は、都会からは一足遅れて夏休みに入った。ギリギリ一ヶ月あるかどうかという夏休みだ。
幸い、気温は都会に比べれば低い。アスファルトやビルなどの輻射熱がない事も、大きな理由だろう。
それでも動いていれば、汗は後から後から噴き出してくる。
僕は家庭菜園の草取りを終え、父が窯焼きで使う薪の最後の一つを割ったところだった。
ちなみに今日の父は珍しく名指しで器を焼いて欲しいという依頼があって、その依頼主のところへ打ち合わせに行っている。何でも何処ぞの金持ちが家を新築するので、その家に合ったものを焼いて欲しいのだとか。
こういう依頼が来るようになったのも、思い返せば僕が詠子と知り合った頃からだった。もしかしたら出先で宣伝してくれているのかも知れないが、当人は何の事だととぼけている。
台の上にしぶとく立っている薪を蹴落とし、代わりに自分が腰を下ろした。両手を後ろについて空を仰ぐと、見事な入道雲が目に入る。
そういえば、ここ暫く雨が降っていない。
おかげで畑の水遣りも大変だった。何せ父が趣味で掘った井戸から、つるべで汲み上げないといけないのだから。
いちおう屋外用の水道もあるのだが、家庭菜園とは逆の方向にあり、多分これはわざとなのではないかと僕は思う。もちろん悪意があってやった事ではないのだろうが、たまに父を井戸に蹴落としてやりたい衝動に駆られた。
そんな僕の右頬に、不意に冷たい何かが押し当てられた。
「わっ!?」
慌てて振り向くと、大胆に裁断され、和服なのにノースリーブといった感じの衣服をまとった少女の姿があった。頭の耳や腰の尻尾、太股の前面以外を覆う毛は、夏毛なのか心なしかスリムに見えた。
「よければ飲むがいいのです。今日は、ちゃんと冷えているので」
「また五万?」
茶化すように僕が言うと、彼女はムッとしたように、
「今日は、ただでいいのです」
「オマケもサービスもないんじゃなかった?」
「じ……人道的立場からの救援物資なのです」
「僕は戦災孤児か何かか」
笑いながら、水滴のついた薄青い瓶を受け取る。確かに、助かった事は事実だ。
ビー玉を瓶の中へ落として口をつけ、喉の奥に心地いい刺激を感じながら息を吐いた。
「……お帰り、詠子」
僕の言葉に、詠子は照れくさそうに――それを顔に出すまいとするように口許を引き締める。
「別にここは私の家ではないので、お帰りという挨拶は適切ではないのです。というか私が自分のところへ帰って来るのが当然だとでも思っているなら、そんな脳はこの炎天下で日干しにして殺菌するべきなのです」
詠子の口の悪さにはもう慣れていたので、僕は構わず彼女の身体を抱き寄せた。くっつくな暑苦しい、などと言いながらも、彼女も身体を預けてくる。
「……久しぶりに会っても、お前は何も変わっていないのです」
「そうだね。相変わらずの抱き心地だよ」
諦めたように溜息をついて、詠子は僕の膝の上に腰を下ろした。コトリ、とラムネの瓶を置く音がする。
「仕方がないので、チャラ男にコマされてやるのです」
「だから――」
チャラくないし、コマしてない。そう言おうとした僕の唇は、少し冷たい、ラムネの香りのする柔らかな感触に塞がれてしまった。
そういえば、と頭の隅でふと思う。彼女はここは自分の家ではないと言ったけれど、うちの食器が一人分増えている事はいつ伝えよう。
まあいいか、と僕は目を閉じた。急ぐ理由もないし、今は、この愛すべき人を全身で感じていよう。
雨音が蝉の声に変わっても、僕らは相変わらずのままだった。
雨が降っている。
緑に溢れた庭先では、鮮やかに咲いた紫陽花の葉に小さなカタツムリの姿が見て取れた。
その取り合わせは、お決まりといえばお決まりなのかも知れないが、しかし実際に目にする事は少ない風景だと僕は思う。
脱サラした父と共に山間の村へ引っ越してきたのは、この春の事だった。
もともと趣味で陶芸をやっていた父は、とある品評会で金賞を取った際に、その筋では大家とされる人物から作品を称賛され、勘違い――もとい一念発起して、彼に弟子入りするためにそれまでの仕事を辞めたのだ。
正直、都会で生まれ育った僕は田舎暮らしというものを妙に美化というか期待すらしていたのだけれど、実際に訪れた山裾の古民家は想像を超えたお化け屋敷だった。いや、出そうではあっても、実際に出たりはしないのだが。
幸いだったのは、外観はともかく内部は今風にリフォームされていた事と、僕が意外と田舎というものとの相性が良かった事だろうか。
初めは戸惑ったのんびりした時間の流れや近所の人たちとの付き合いも、今ではすっかり慣れた。たぶん僕は、もうコンクリートジャングルへは戻れないと思う。
※
季節は梅雨。
稀に晴れる事はあるにせよ、基本的には連日シトシトと雨が降り続いている。
おかげで僕は折角の休日だというのに出かける事も出来ず、縁側に腰かけて草の葉や地面を叩く雫を眺めるという、のんびりと穏やかな――言い方を変えるなら不毛な時間を過ごしているのだ。
こんな日に限って学校の課題はない。バイトのシフトにも入っていない。出来たばかりの友人たちとの約束も、特にない。
家の隣にある家庭菜園の手入れでもしようかと思ったが、この雨では出来る事などない。というか、この雨で雑草が伸びるので、今やると完全な二度手間になる。
父は陶芸の師匠のところへ行っているので、家は静かだった。溜息をつく事にも飽きたので、今は雨の音しかしない。
ガサリという音が聞こえてきたのは、そんなときだった。音の方向へ目を遣ると、父が山へ土を取りに行くのに使う獣道沿いの茂みを掻き分けて、何者かが姿を現すところだった。
「う〜……まったく。暫く見ない間に育ちすぎなのです、雑草の分際で」
忌々しげに下生えを踏みつけながら現れたのは、頭に丸みを帯びた三角の耳を持つショートカットの少女だった。
「……え?」
何かの見間違いだろうかと目を擦ってみるが、彼女が消えたりする事はない。
「ん?」
彼女の方も僕に気づいたらしく、怪訝そうに眉根を寄せている。
「……お前は、こんな所で何をしているのですか」
「何って……」
何をしているのだろう。しいて言えば、暇を持て余しているのだが。
「こんな廃屋風味のあばら屋にいるという事は、家出人か何かですか。それとも憑く家を間違えた、間抜けな座敷童子ですか」
「童子って歳じゃないし、廃屋風味でも中身はしっかりしてるよ」
苦笑しながら僕は答える。彼女の口調は尊大だが、何処か子供が背伸びをしているようで微笑ましい。
少女は馬鹿にするように、フンと鼻を鳴らした。
「お前など、私からすれば小童なのです」
「つまり、そんな歳なのか――」
「女に歳の話を振るものではないのです。そんなんだから、お前は小童だというのです」
「……自分から言ったんじゃないか」
彼女の理不尽さに控えめに不服の意を表して見せるが、当人はどこ吹く風だった。
「つまり、お前はここに住んでいるという事ですか」
「うん。父さんと二人で」
「……こんな人里離れた場所に親子で住むという事は、もはや人間社会では生きていけないような犯罪行為に手を染め、逃亡中という事ですね。または夜逃げ」
「どういう想像だよ……」
僕は頭痛を堪えるように額に手を遣り、俯く。
「それで結局、何をしているのです」
少女は構わず、マイペースに話を続けた。
「特に何も。やる事がないから、雨が降るのを眺めてた」
「ほう……。小童の割に、なかなか風流な趣味なのです」
決して僕はそんな趣味を持ち合わせてはいないのだけれど、何故か感心したような少女の口調に否定する事も出来ない。と――
「うわ。今更だけど、ズブ濡れじゃないか!」
「本当に今更なのです。というか雨の中を傘もなく歩いて来たのですから、もはや濡れている事など驚くに値せず、むしろ濡れていなかったときにこそ驚くべきなのです」
確かにそうかも知れないけれど、驚かなくてもいいから多少は慌てるくらいしてもいいんじゃないだろうか。女の子なのだし、身体を冷やすべきではないはずだ。
「タオル持って来るから、こっち来て」
少女を縁側へ呼び寄せ、僕はバスタオルを取りに行く。
「……ん?」
というか、シャワーでも浴びさせた方がいいのではないか。その間に服を洗って乾燥機にかけておけばいい。
そう思い直し、僕はビニールシートを持って縁側へ戻る。
「なあ、服って中まで濡れてるの?」
「……初対面の女に何を訊いているのですか、この変態」
「いや、そういう事じゃなくて……。もしそうなら、シャワー浴びた方がいいと思って。服は洗って乾燥機にかけておけばいいし」
「申し出はありがたいですが、見知らぬ女を家に上げるお前は少々頭が弱いようなのです」
「……厚意を押しつける気はないけど、人の厚意に対して物凄い言い草だね」
少女は構わず、僕が廊下に広げたシートの上に背負っていた荷物を下ろした。その際、彼女の腰の後ろから生えた太い縞模様の尻尾が目に入る。
「刑部狸……」
「またしても今更≠ナすか。本当に頭が弱いのです」
僕の何気ない呟きに視線を寄越すと、少女は辛辣な言葉と共に意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「……それにしてもシャワーだの洗濯機だの乾燥機だの、見た目と中身のギャップが激しい家なのです」
「どうしても、うちを廃屋にしたいんだね……」
溜息混じりに、僕は少女を風呂場まで案内する。
タオル類と僕が用意した着替えを手に、
「もし覗いたときには、国家が傾くほどの額を請求させてもらうのです」
彼女はそう言って扉を閉めた。
※
「そういえば、まだお前の名前を聞いていなかったのです」
風呂から上がった少女は、何気ない口調でそんな事を口にした。それから、私は詠子というのです、と名乗る。
「よみこ、か。僕は尊――日比野尊」
「タケルですか。ふむ……六十八点」
「……何が基準なんだ、それは」
「乙女のフィーリングなのです」
しれっと言いながら、詠子は濡れた髪をタオルで拭いた。
「しかし、まがりなりにも陶芸家を目指す者の名に『ヒビ』などという言葉が入っているのは、不吉な事この上ないのです。もはや神が、やめておけと言っているとしか思えないのです」
「まあ、それでも賞が取れる程度の腕はあるんだし、結論を出すのはやってみてからでもいいと思うよ」
苦笑しながら、僕は再び縁側に腰を下ろした。
「随分と物分かりのいい息子なのです」
呆れたように言いながら、詠子も倣う。
「その結果として、お前の父親は無収入なのではないのですか? お前だって、バイトをして家計を助けているのです」
「別に、家計を助けるなんてほどの事はしてないよ。そりゃ自分の分の食費くらいは家に入れてるけど、それだって毎月の事じゃないし、基本的には自分が欲しいものを買うお金を稼いでるだけだから」
それに父ひとり子ひとりの生活だから、かかる生活費だって普通の家に比べれば少なくて済む。
何より、父だって決して考えなしに脱サラした訳ではないのだ。充分な額の貯金はあるらしく、僕を大学に行かせてもまだ余裕はあると言っていた。
まあ真偽のほどは定かではないし、それに全面的に甘える気はないけれど。
そんな感じの事を口走ってから、僕は我に返る。きょう知り合ったばかりの相手に、何を語って聞かせているのか。
気恥ずかしい思いで顔を背ける僕の隣で、詠子は小さく鼻を鳴らしていた。そりゃ、そうだろう。
僕の自己嫌悪など知る由もなく、雨は降り続ける。
雫の音しかない沈黙の中に、ふと、暇なのです、という呟きが聞こえた。
「……そうだね」
同意しながらそちらへ目を向けると、詠子は僕とは反対側の隣に置かれた自分の荷物から何かを取り出したところだった。
「よければ飲むがいいのです」
差し出されたのは、青みを帯びた透明なガラスの瓶。飲み口の部分をビー玉で塞いだ、昔懐かしのラムネだった。
「ありがとう」
そう言って、僕は瓶を受け取る。シャワーのお礼か何かだろう。
「少し温くなっているのは、我慢するのです」
「うん」
プシュッという音と共にビー玉を瓶に落としこみ、口をつける。
清涼感と心地よい刺激を与えてくる液体は、言うほど温くは感じなかった。真夏の暑い日でもないのだし、このくらいで丁度いいと思う。
「……それで、君の方は何であんな所から出てきたの?」
一息ついた僕は、何となく気になっていた事を訊いてみた。詠子が現れたのは獣道の脇の茂みなので、そもそも彼女は道ですらない所を歩いてきた事になる。
「――ち、近道なのです!」
詠子は少し慌てたような早口で答えた。僕が視線を向けると、顔を背けて咳払いする。
もしかして、ラムネを飲もうとするタイミングで話しかけてしまっただろうか。だとしたら悪い事をしてしまった、と僕は反省する。
「前に来たときはここに人は住んでいなかったのですが故に、不法侵入する形になってしまった事は謝罪するのです」
「それは別にいいけど……近道って、こんなとこ通って何処へ行くの?」
「む……村なのです。商人というものは、皆、独自のルートを持っているものなのです」
「……それって普通、流通に関するルートの事じゃないの?」
「黙れ、人間! 私は刑部狸――お前たちの常識で語れるものではないのです」
何かを誤魔化すように声を荒らげる詠子に、僕は嘆息した。確かに、人間の常識で測れない部分があるのも事実ではある。
とはいえ彼女がやって来た方向を見遣れば、そこは山以外の何ものでもなく、そんな所を通るくらいなら、多少遠回りでも整備された道を通った方が所要時間は短縮できるのではないだろうかと思えてならなかった。
まあ、まがりなりにも狸の名を持つ種族なのだから、山歩きも大して苦ではないのかも知れない。姿を現したときの彼女が下生えに文句を言っていたような気もするが、まあいい。
そんな事を考えていた僕は、しかし、ふと隣から感じる視線に訝しさを覚えた。顔を向けると、詠子が意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「飲んだのですね」
「え……」
どういう事だ、と脳内で疑問符が飛び交う。飲んではまずいものなら渡してはこないだろうし、まさか何か入っているのか。
「飲んだからには、代金を支払ってもらうのです」
「……お金取るの?」
「当たり前なのです。お前は馬鹿ですか。私は刑部狸――つまり商人なのです。商人が無料で物をくれてやる道理などないのですよ」
「いや、でも……世の中にはオマケとかサービスとかいう言葉も――」
「私の辞書にはないのです。さあ、速やかに支払う事を要求するのです。五万」
「高っ!?」
思わず叫んでしまった。世の詐欺師でも、もう少しマシな値段を設定するのではないかと思う。
「さあ、払うのですか払わないのですか」
「払えないよ、そんな額」
顔をしかめて僕は立ち上がった。
「ラムネって普通、一本いくらくらいだっけ……」
「五万」
「まあ、二百円はしないよな」
「無視するのではないのです、小童」
他人の独り言に対して何か言っている詠子を無視し、僕は障子を開けっ払った和室を突っ切って自室へ財布を取りに向かう。それでも払おうとする自分に、多少呆れないでもなかった。
「成程、踏み倒す気ですか……」
ボソッと、地の底から響くような声が背後から聞こえてきた。
妙な危機感に僕が振り返ろうとするより早く、
「支払えないというのなら、身体で払ってもらうのです」
この一瞬で驚くほど近づいていた声と共に、僕は後ろから畳の上に押し倒されていた。
※
いくら畳とはいえ、胸を強打すればそれなりに痛い。
衝撃は鳩尾まで伝わり、一瞬、息が詰まった。
頭は真っ白になっていた。背中に詠子の体重を感じながら、僕は本能的にもがく。
「ちょ……ちょっと待って! 何――身体でって、肉体労働とか!?」
「魔物相手に、この状況でまだそんな寝言を言えるとは、見上げたノータリンなのです」
何とか仰向けになると、僕の上に馬乗りになっている詠子の人の悪い笑みが見えた。
「魔物が身体で払えと言ったら、答えは一つなのです」
そう言って彼女は僕の上に覆い被さってくる。
咄嗟に頭を庇うように腕を上げるが、詠子は素早くそれを払い除け、左右の手でそれぞれ僕の手首を掴んで畳みに押しつけた。意外と力が強い。手枷で固定されているみたいだ。
「観念するのです」
勝ち誇るように言いながら顔を近づけてきた詠子は、そのまま躊躇う事なく唇を重ねた。
「っ――!」
反射的に口許に力を籠めるが、熱く濡れた舌は僕の唇を割って侵入してくる。
「んふふ……」
詠子は嘲笑うようにほくそ笑みながら、顔を背けようとする僕の動きを巧みに読んで先回りする。どれほどもがいても唇が離れる事はなく、歯を食いしばる僕のその歯列を、柔らかな舌先がくすぐった。
「く……!」
むず痒さに、思わず食いしばる歯の隙間から息が洩れる。
それでも頑なに口を開かない僕に焦れたのか、詠子の目が不機嫌そうに細められた。直後――
「――っ!?」
ジーンズの上から股間に触れられる感触に、僕の身体が僅かに跳ねる。
その拍子に歯を食いしばる力が抜けたのを見逃さず、詠子は舌を差し入れてきた。
「んう……!?」
小さく呻いて僕はそれを自分の舌で押し出そうとするが、彼女はいなすように舌の力を抜いたかと思うと、素早く横から絡め、逃れようとするこちらの動きを利用して口内を蹂躙する。混ざり合った唾液が、僕の喉へ流れこんでいった。
やがて息が続かなくなったのか、相手の勢いが僅かに衰えた隙をついて、僕は素早く顔を横へと逸らす。
「ん……は、ぁ……」
荒く息をつきながら横目で詠子を睨め上げ、
「何で……こんな事……」
「……ラムネ代なのです。魔物なのだから、別におかしな事ではないはずですが?」
何を馬鹿な事を、とでも言うように目を逸らし、詠子は嘆息する。
「そうだけど……! だからって、きょう会ったばっかりなのに何でこんな事できるんだ!」
それが気に入らなかった。納得できない。
魔物が好色なのも、色々と展開が早いのも知っている。けれど、その想いは人と変わらないのではなかったのか。知り合ったばかりの好きでもない人間にこういう事が出来るのだというなら、僕は彼女を軽蔑する。
そんな思いを僕の眼差しから悟ったのか、上体を起こした詠子は少しだけ悲しげに目を伏せた。
「……出来るのです」
「……そう」
たぶん今の僕の顔には、彼女に対する嫌悪の表情が浮かんでいるのだろう。しかし――
「私は、お前を気に入ったのです」
「え……?」
僕は訊き返した。彼女がシャワーを浴びていた時間を除けば、僕らが話した時間なんて数十分でしかない。
「何で……」
何処が、とは言えなかった。自分の何処を気に入ったか訊くなんて頭の悪い真似は出来ないし、何より恥ずかしい。
詠子は、ぽそぽそと答える。
「自分の欲しいものは自分の力で手に入れようとするところや、懐が深く包容力があるところや、意外と面倒見がいいところは私の好みなのです」
「……ぇえ?」
答えてもらっておいてなんだけれど、僕は疑わしい思いで目を細めた。一体どのあたりから彼女がそんなものを感じ取ったのかが分からない。
「私だって、こんな簡単に誰かを好きになるとは思わなかったのです。ですが商売柄、人を見る目には自信があるのです」
詠子は俯いたまま、きゅっと唇を噛みしめる。
「……お前は、私では駄目なのですか? 私には魅力を感じませんか……? こんな事をする女は……嫌い、ですか……?」
彼女は恐れるようなたどたどしい口調で、小さく身体を震わせていた。それを見て、僕は不意に冷静さを取り戻した。
そもそも僕に、詠子を拒絶する理由があるのだろうか。
展開の早さを受け入れられない事を除けば、彼女に対する悪感情はない。若干、性格と口が悪いような気もするが、それだって許容範囲内だ。顔立ちは文句なしに可愛らしいし、よくよく考えれば展開が早いからといって想いが軽い事になどならない。
全ての魔物に共通する特徴として、愛情深く一途であるという事は広く知られている。
「…………」
僕は安易に詠子を軽蔑しようとした自分を恥じた。人でも魔物でも想いは同じはずなどと詭弁を吐きつつ、その実、彼女たちを違うもの≠セと何処かで壁を作っていたのは、他ならぬ僕自身だったのかも知れない。
「……ごめん」
今まで生きてきて感じた事のないほどの自己嫌悪と共に、反省を口にした。が――
「……あっ――いや、ちょっと待って! 違うから! さっきの言葉に対する答えじゃなくて――」
直後、タイミング的に最悪の誤解を与えかねない答えだったと気づく。
事実、詠子は涙ぐんでいた。慌てる僕の態度に、どんな顔をすればいいか分からない様子だった。
「ええと、だから……」
やはり、ちゃんと言わなければならないだろうか。いつかはそんなときも来るとは思っていたけれど、まさか、こんな心の準備も出来ていない状態で言う事になるとは思わなかった。
上体を起こす僕に、詠子は縋るように潤んだ瞳を向けてくる。
「嫌いじゃないよ。急だから驚いたけど……」
「……本当に?」
「うん」
僕が頷くと彼女は勢いよく顔を背け、子供のようにゴシゴシと袖で目元を拭った。
「この私を騙すとは、いい度胸なのです」
そして元の態度に戻る。
「ごめん」
苦笑して、僕は詠子の頬に手を伸ばした。当たり前だが、自分のものとは違う柔らかな頬を優しく撫でる。
「……商人を騙すと高くつくのです」
はにかむような赤い顔を寄せてくる彼女に、今度はこちらから唇を重ねた。
※
ラムネを飲んでいたせいか、詠子の唇は甘かった。
ゆっくりと蕩けるように舌を絡めていると、ふわりと彼女の腕が僕の後頭部へ回される。
陶酔するように頬を染めて目を閉じた彼女のキスは情熱的で、決して激しくはないものの、触れ合う温もりと柔らかさを通じて一瞬ごとに僕の中にその想いの真剣さを刻みつけていった。
やがて、どちらからともなく唇を離す。僅かに遅れて、互いを繋ぐ銀糸がプツリと切れた。
詠子の大きな瞳で至近距離から見つめられ、僕は照れ隠しのようにコツンと彼女の額に自分のそれを合わせる。伸ばした手で髪を撫でていると、指先が耳に触れた瞬間、ピクンと震えた。
「……耳はやめるのです。くすぐったいのです」
恥じらうように目を逸らす詠子が愛おしくて、僕は彼女を優しく抱きしめた。撫でる手をゆっくりと背中へと下ろし、白い首筋に鼻先をうずめる。
「か、嗅ぐな……変態」
それでも強気な態度を崩さない――崩さないように意地を張る様子がおかしくて、思わず噴き出してしまった。
「……何ですか。何か可笑しかったのですか?」
「――ううん。可愛いな、って」
「ばっ――出し抜けに何を……!?」
焦ったように詠子は身体を離そうとするが、僕は敢えて腕に力を入れて彼女が逃げられないようにする。
「はっ、離すのです! 何をするのですか、このスケベ! 女たらし! チャラ男!」
「チャラくはないよ」
腕の中でジタバタする詠子に苦笑しながら、首筋を舌先でなぞった。
「ぁ、ん……!?」
鼻にかかった甘い声で軽く仰け反る彼女に気を良くして、僕はそのまま鎖骨に口づけ、左手で服の上から胸に触れる。
暫く円を描くように撫でてから服の裾に手をかけると、
「じ、自分で脱ぐのです……」
僕の手を押し留めるようにしながら、詠子はそう言った。
そそくさと僕の上から下りると、彼女はゆっくりと服を脱いでいく。雨音しか聞こえない和室に響く衣擦れの音は妙に艶めかしく、僕の心拍数は弥が上にも高まっていった。
サイズの合わない少し大きめのシャツが畳に落ち、白くて細い肩が露になる。背中を向けている詠子は腕で胸元を隠したまま、恥じらうように肩越しに僕を振り返った。
「……あまり見るのではないのです」
彼女はそう言って赤い顔で俯く。
しかし、僕は目を逸らす事が出来なかった。
仕事の関係であちこち歩き回っているせいか、詠子の身体はスラリと引き締まっていた。かといって女性らしい丸みに欠ける訳でもなく、肩から背中、腰へと続く曲線は芸術的ですらある。白く滑らかな肌は、自然と触れてみたい欲求を掻き立てた。
「綺麗だ……」
思わず、そんな言葉が口をつく。心なしか詠子の肌が赤みを増したような気がした。
「スケコマシ……」
「コマしてないって」
どちらかといえばコマされているのだ。
僕は背後から詠子の身体を抱きしめた。彼女の頬に軽く口づけながら、胸を隠す腕を外す。
あっ、と再び相手が胸を隠そうとするのを先回りして、下から胸を持ち上げ優しく揉んだ。人差し指と中指の間に乳首を挟んで刺激してやると、俯く詠子は僕の手に自分の手を重ねながら何かを堪えるように小さく呻く。
「――ぅ、あ……先っぽ、は……!」
「……ここがいいの?」
耳元で囁きながら指先でつまみ、クリクリと転がすと、
「ぃ……ゃ、あ……」
僕の手に重ねられた詠子の手に力が籠められた。
「じゃあ……こっち?」
スルリ、と左手を下へ滑らせる。
「んあ――!?」
じっとりと濡れ、ヌルリとした感触を伝えてくる秘裂を中指でなぞると、彼女はビクリと身体を震わせた。
「……濡れてるね」
「い……いちいち言うな、馬鹿」
そう言って赤い顔で睨みつけてくる様は、堪らなく可愛らしい。
僕は詠子のうなじに口づけながら、指先でクリトリスをいじめる。刺激される度にクプクプと愛液を溢れさせてくれるのが嬉しかった。それだけ彼女が僕を信じてくれ、それだけ彼女が僕を求めてくれ、それだけ彼女が僕で感じてくれているのだから。
全幅の信頼と共に身を預けてくれる詠子に応えるように、僕は愛撫を繰り返しながらゆっくりと指先を侵入させていく。
「ぅあ……は、ぁう……ん……」
詠子は赤い顔を俯け、ギュッと目を閉じながら小さく身体を震わせていた。が、
「や……やめてほしいのです」
「え……?」
やんわりと手を押さえられ、僕は彼女を肩越しに覗きこむ。
「は……初めてなので、出来れば指ではなく、その……お前の、で……」
「ん……分かった」
それ以上言わせるのは何だか可哀想だったので、僕は頷いてゆっくりと指を抜いた。それでも刺激はあったのか、んっ、と詠子は呻いたが。
詠子が荒くなった呼吸を整えている間に、僕は服を脱ぐ。しかし上半身だけ裸になったところで、振り返った彼女が寄り添ってきたかと思うと、そのまま仰向けに押し倒された。
「されるばかりでいるほど大人しい女ではないのです……」
詠子は僕の胸に顔をうずめると、すぅ、と深く息を吸う。
「……いい匂いなのです」
満足げに小さく笑み、チロリと胸の真ん中あたりを舐めた。そのまま首筋の方へと舐め上げ、耳たぶを甘く噛む。
「くすぐったいよ」
「さっきの仕返しなのです」
悪戯っぽく言いながら、詠子は再び唇を重ねてきた。同時に左手が僕の下半身へ伸びる。
「んっ……」
服の上からゆっくりと撫でられ、思わず声が鼻から抜けた。
唾液の糸を引きながら唇を離した詠子は、からかうように目を細める。
「もう、こんなふうになっているのですか。ちょっと人の身体をまさぐっただけでガチガチになるなんて、お前は童貞ですか」
「……お互い様でしょ」
さっき夢見る乙女のような恥じらい方で処女を告白したのは、どこの誰だ。
しかし彼女は、嘲笑うように鼻を鳴らす。
「男と女では、初めての意味も価値も真逆なのです。どれほど理不尽であろうと、それが現実――ひゃぅ!?」
詠子が全て言い終わるより早く、僕は彼女を抱きしめた。
「またですか! お前は、ハグマニアですか!」
またもや詠子はジタバタし出すが、事実、彼女の抱き心地は最高だった。直接肌が触れ合う事で、温もりが直に伝わってくる。
「……お前はヤる気があるのですか、ないのですか」
「あるけど、こうやって抱き合ってるのも気持ちいいな、って……」
「つまり入れてもないのに、もうイきそうという事ですか。まったく、人並み外れるどころか童貞並み外れた早漏野郎なのです」
「……そういう事じゃなくて」
気持ちいいというよりは、心地いいといった方が正確かも知れなかった。心が満たされるような感覚。こういうのを幸福感というのだろうか。
詠子は、満更でもないといった様子で目を逸らした。が――
「しかし私は気分が高まって、それどころではないのです。後でいくらでも抱き枕になってやるから、今はヤる事をヤるのです」
「風情もへったくれもないね……」
首筋に少し強めに噛みつかれた拍子に僕が腕を弛めた隙を衝いて、身体を離した彼女はベルトへ手を伸ばす。
「何より、このバックルは、さっきから硬いし冷たいしで不快なのです」
カチャカチャと乱暴にベルトを弛め、無理やりジーンズを脱がそうとするので、仕方なく僕も協力して自分から脱いだ。
恥ずかしながら僕のボクサーパンツには染みが出来ており、それを見た詠子に何を言われるのかと少々身構えていたが、
「我慢していたのは、お互い様なのです」
もはや余計なものは目に入らないのか、そう言って彼女はパンツを摺り下ろす。
「う……」
しかし露出した僕のモノを見て、怯んだように動きを止めた。
「ど……童貞の割には、そこそこのサイズなのです」
「いや、平均だと思うけど……。ていうか、あんまり凝視しないで」
童貞とサイズには、たぶん因果関係はないと思う。というか、もしかして見るのも初めてなのだろうか。
そんな思いが表情に出ていたのか、ハッと我に返った詠子は取り繕うように僕のモノを握ると、やわやわと扱き始める。
「く――っ」
急な刺激に思わず身体を跳ねさせると、勝ち誇ったような笑みを浮かべながら彼女は僕の上に跨ってきた。
「気持ちいのですか……?」
そう言って僕のモノを自分の秘所へ宛がい、ゆっくりと腰を沈める。
「ん、ぅ……!」
初めてだからなのか、詠子の中は狭かった。自分から入れているにも関わらず、彼女の顔は苦痛にしかめられている。
なるべく痛みが気にならないように、僕は彼女の上体を引き寄せた。唇を合わせて舌を絡めながら、指先で乳首を転がしてやる。
時折できる唇同士の隙間から鼻にかかった甘い声と吐息を洩らしながら、意を決したようにキツく目を閉じて、詠子は一気に僕のモノを呑みこんだ。途中で僅かな抵抗を感じたのが、つまり処女膜という奴なのだろう。
「……痛くなかった?」
止めていた息をゆっくり吐き出す彼女は、僅かに嬉しさを滲ませる笑みを浮かべて頷いた。
「……侮ってもらっては困るのです。そもそも初めてのときに強烈な痛みがあったり出血したりするのは全体の二割程度だと、何処ぞの何とかいう医者が一年間統計を取ったと、何処かの地方紙の小さな記事で見たのです」
「……それはまた、心強い情報ソース」
僕が皮肉ると、詠子はムッとしたように眉根を寄せた。
「もう動いても大丈夫なのです」
「無理しなくていいよ――」
言い終わるや否や、彼女はキュッと僕のモノを締めつけてきた。
「舐めるな、小童」
このあたりの順応性は、さすが魔物という事か。
僕がゆっくりと腰を動かし始めると、詠子もそれに合わせて身体を上下させ始めた。それだけでなく、ときおり左右に腰をくねらせるようにして僕のモノがいい所に当たるように調整している。
それは、僕にとっても丁度いい刺激となっていた。ヒダやイボのような粘膜が亀頭やカリの部分に引っかかり、ピリピリと甘い痺れのような感覚が走る。
「んっ……あっ……、は――ぁ、っ!」
詠子は僕の上に身体を横たえ、ピッタリと密着したまま腰だけを振っている。目はトロンとし、熱を帯びた吐息が頬をくすぐった。
「タ、ケ……ル……」
殆ど声にならない声で呼ばれ顔を上げると、途端に唇を奪われる。ガッチリと僕の頭に腕を回し舌を絡める詠子に応えるように、僕も彼女の腰を掴んで突き上げるペースを速めた。
「んぅ、あぁ、ああ、あっ、あぁん、あ――はっ、あっ、あんっ!」
それに合わせて声を洩らす詠子は、もはや舌を絡める余裕もないのか、僕の耳元で息も絶え絶えに囁く。
「タ……ケ、ル。来て……来て欲しい、のです……! 一緒に――!」
言われるまでもなく、僕ももう限界だった。言い終わるのを待たず身体を震わせる彼女の中へ、白濁した欲望の証を放つ。
「は、あぁ……あ……はぁ……。温かいのです、タケル」
僕の上で詠子は、くたりと全身を弛緩させていた。
「お前は温かいのです、タケル……」
確認するようにもういちど同じ事を言う詠子の髪を、僕は優しく撫でてやった。
※
興奮から醒めると共に、身体の火照りもまた冷めていく。
僕らは互いを温めるように、畳の上で抱き合っていた。
あれから、更に二回――正直、もう僕も魔物たちを展開が早いだの何だの言えないと思う。
それでも、その事に後悔はなかった。僕を気に入ったと言ったときの詠子の気持ちが、今なら少しは分かる。
きょう知り合ったばかりだろうが何だろうが、僕は間違いなく彼女に恋している。それどころか、既にその上をいく想いすら抱いているかも知れない。
ふふ、と隣で詠子が笑った。視線を遣ると、幸せな少女のような穏やかで優しい眼差しとぶつかる。
勝手に人の腕を枕にして寄り添っている彼女は、万感の思いを籠めるように呟いた。噛みしめるように、確かめるように。
「愛しているのです、タケル」
「あ……」
先に言われてしまった、と僕は少しだけヘコんだ。
たとえば女の子が幸せな結婚を夢見るように、いちおう男である僕にも夢があったのだ。
派手でもドラマチックでも情熱的でなくてもいいから、自分の抱く思いを正直に真っ直ぐ、出来れば自分の方から好きな子に伝えたい――そんな、ささやかな夢だ。
男友達からは、乙女か、とツッコまれたけれど。
「……愛してるよ。僕も」
少しだけ拗ねているのが分かってしまったのか、また詠子が笑った。
愛おしくなって、僕は彼女を抱きしめる。さっき、後でいくらでも抱き枕になってやる、と言っていた事だし。
「お前は、とんだ甘えん坊なのです。この密着フェチ」
腕の中で詠子が楽しそうに言うが、僕ももう開き直っていた。何とでも言うがいいさ。
「好きな子とくっついてたいと思って、何が悪い?」
微笑みかけてやると、反撃は予想していなかったのか彼女は真っ赤になって俯き、顔を隠してしまう。
強気な態度の割に純情な心――たぶん僕は、そういうところにやられてしまったのだろう。
※
それからも、詠子との逢瀬は幾度か続いた。
次の予定など決めず、気が向いたときにだけ彼女の方からやって来る関係は、少しだけ不安で、けれど互いの想いがまるで揺らぎもしなければ薄れもしない事を会う度に確認できるという、かなり変則的な幸せだった。
とはいえ、ここ最近は詠子の来訪はご無沙汰だった。
彼女が長く姿を現さないときは、たいてい仕事関係で遠出をしているときだ。出先から電話の一つもしてくれればとも思っていたが、便りがないのは元気な証拠と自分に言い聞かせているうちに慣れた。
商売人である詠子が携帯すら持っていないという事は勿論なく、単に彼女は私用で電話をかけるのが苦手なだけらしい。何を話せばいいか分からないのだそうだ。
いま何処にいるかだけでもいいのに、と言ったら、いま貴方の後ろにいるのとでも言えば満足ですか、と有名な都市伝説まで持ち出して睨まれたので諦めた。
長かった梅雨は明け、季節は夏。
田舎の学校は、都会からは一足遅れて夏休みに入った。ギリギリ一ヶ月あるかどうかという夏休みだ。
幸い、気温は都会に比べれば低い。アスファルトやビルなどの輻射熱がない事も、大きな理由だろう。
それでも動いていれば、汗は後から後から噴き出してくる。
僕は家庭菜園の草取りを終え、父が窯焼きで使う薪の最後の一つを割ったところだった。
ちなみに今日の父は珍しく名指しで器を焼いて欲しいという依頼があって、その依頼主のところへ打ち合わせに行っている。何でも何処ぞの金持ちが家を新築するので、その家に合ったものを焼いて欲しいのだとか。
こういう依頼が来るようになったのも、思い返せば僕が詠子と知り合った頃からだった。もしかしたら出先で宣伝してくれているのかも知れないが、当人は何の事だととぼけている。
台の上にしぶとく立っている薪を蹴落とし、代わりに自分が腰を下ろした。両手を後ろについて空を仰ぐと、見事な入道雲が目に入る。
そういえば、ここ暫く雨が降っていない。
おかげで畑の水遣りも大変だった。何せ父が趣味で掘った井戸から、つるべで汲み上げないといけないのだから。
いちおう屋外用の水道もあるのだが、家庭菜園とは逆の方向にあり、多分これはわざとなのではないかと僕は思う。もちろん悪意があってやった事ではないのだろうが、たまに父を井戸に蹴落としてやりたい衝動に駆られた。
そんな僕の右頬に、不意に冷たい何かが押し当てられた。
「わっ!?」
慌てて振り向くと、大胆に裁断され、和服なのにノースリーブといった感じの衣服をまとった少女の姿があった。頭の耳や腰の尻尾、太股の前面以外を覆う毛は、夏毛なのか心なしかスリムに見えた。
「よければ飲むがいいのです。今日は、ちゃんと冷えているので」
「また五万?」
茶化すように僕が言うと、彼女はムッとしたように、
「今日は、ただでいいのです」
「オマケもサービスもないんじゃなかった?」
「じ……人道的立場からの救援物資なのです」
「僕は戦災孤児か何かか」
笑いながら、水滴のついた薄青い瓶を受け取る。確かに、助かった事は事実だ。
ビー玉を瓶の中へ落として口をつけ、喉の奥に心地いい刺激を感じながら息を吐いた。
「……お帰り、詠子」
僕の言葉に、詠子は照れくさそうに――それを顔に出すまいとするように口許を引き締める。
「別にここは私の家ではないので、お帰りという挨拶は適切ではないのです。というか私が自分のところへ帰って来るのが当然だとでも思っているなら、そんな脳はこの炎天下で日干しにして殺菌するべきなのです」
詠子の口の悪さにはもう慣れていたので、僕は構わず彼女の身体を抱き寄せた。くっつくな暑苦しい、などと言いながらも、彼女も身体を預けてくる。
「……久しぶりに会っても、お前は何も変わっていないのです」
「そうだね。相変わらずの抱き心地だよ」
諦めたように溜息をついて、詠子は僕の膝の上に腰を下ろした。コトリ、とラムネの瓶を置く音がする。
「仕方がないので、チャラ男にコマされてやるのです」
「だから――」
チャラくないし、コマしてない。そう言おうとした僕の唇は、少し冷たい、ラムネの香りのする柔らかな感触に塞がれてしまった。
そういえば、と頭の隅でふと思う。彼女はここは自分の家ではないと言ったけれど、うちの食器が一人分増えている事はいつ伝えよう。
まあいいか、と僕は目を閉じた。急ぐ理由もないし、今は、この愛すべき人を全身で感じていよう。
雨音が蝉の声に変わっても、僕らは相変わらずのままだった。
12/06/09 19:41更新 / azure