ずっとずっと、大嫌い
カランコロン、というドアベルの音に顔を上げた少女は、いつもの癖で反射的に営業スマイルを浮かべた。
「いらっしゃいませ!」
「ええと……すみません、郵便です」
しかし視線の先――入口では、郵便業者の帽子を被ったセイレーンが申し訳なさそうに会釈する。
「あ、ご苦労さまです」
少女の方も若干気まずげな表情になり、差し出された封筒を受け取った。
郵便屋が帰ると、それと入れ替わるように厨房から顔を覗かせた少女の兄が、彼女と彼女の手元へ視線を向けながら、誰が来たのかと訊く。
「郵便。お兄ちゃん宛だよ」
封筒を受け取った青年は、裏返して差出人を確認してからそれを開けた。
「何て書いてあるの?」
椅子に乗って横から覗き込みながら、少女は訊く。
「同窓会のお知らせ、だってさ」
そこには、彼らが数年前まで通っていた学校の名前が書かれていた。
少し大きすぎる気がする時計塔の鐘の音も、一年以上通えば流石に慣れた。
生徒たちが自分の席に着くにつれ、常にも増してザワついていた朝の空気が収束していく。木製の床を叩く靴音が近づき、ガラリと教室のドアが開けられた。
「おはよう、みんな」
そう言って姿を現したのは、二十代後半ほどの女性教師だった。このクラスの担任である。
「もう知ってる人もいるかも知れないけど、今日はホームルーム前に転校生を紹介するわ」
そう言って彼女が呼びかけると、開きっ放しのドアから一人の女子生徒が入って来た。白い首筋が覗く、赤みがかったショートヘアの少女だ。
教壇に立った少女は、担任に促されペコリと一礼する。
「初めまして。シャーリィ=エルミーナといいます」
表情は何処か自信に満ち、言葉はハキハキとしていた。好感を抱いたらしい男子が彼女を囃し立てたり、質問をしようと手を挙げたりしている。
「はいはい、そういうのは休み時間にしなさい。その方が彼女も早く馴染めるでしょ」
魔物でもないくせに発情期を迎えた男どもをアッサリ制し、担任はシャーリィへ視線を向けた。
「席は窓側のいちばん後ろになるけど、視力は大丈夫かしら?」
「はい」
「そう。分からない事があったら、気軽に周りの人に――っていっても、いきなりは無理か。じゃあ、そうね……」
思案げに視線を巡らせる担任は、窓側の列の前から二番目の席で微妙に目を逸らした男子生徒にニッコリと微笑いかけた。
「あそこにクラス長がいるから、初めのうちは彼に訊くといいわ」
シャーリィに分かるように指差して言う。
「頼むわね、リク」
「……はい」
いくら風邪を引いたとはいえ、迂闊に休んだ結果押しつけられた役職を心底呪いながら、彼は諦めの滲む声で頷いた。
「では今日は、ここまで」
四時間目を担当する教師がそう言った瞬間、他の時間なら促されてからかけられる日直の号令が、殆ど教師の言葉にカブるようなタイミングでかけられた。もっとも、どのクラスでも同じなのか、それを咎める教師はいないが。
「起立! 礼!」
その言葉が合図だった。全生徒――特に窓側の席の男子が、脚に溜め込んでいた力を全解放しドアへと走る。購買戦争の戦端が開かれたのだ。
校舎中が揺れるような足音の怒濤を他所に、リクは机の上を片付ける。弁当組は気楽なものだった。
「あの……」
控えめにかけられた声に顔を上げると、目に入ったのは赤みがかったショートヘア。
「エルミーナ、だっけ。何?」
「あ、うん。リク君だよね。朝は、ごめんね。何か、押しつけるみたいになっちゃって」
「別に、君が押しつけた訳じゃない」
「ありがと。で……早速で悪いんだけど、都合が悪くなかったら放課後、校舎の案内を頼めないかな?」
もっともな依頼に、リクは頷きを返す。特別教室などの位置は知っておかないと、今後困るだろう。と思いきや、
「最低限、購買と学食だけは知っときたいし」
食い気全開だった。
「……」
「な……何かな、その視線は。大変なんだよ、一人暮らしは。お弁当なんて作ってる暇ないし、切実なんだから!」
無表情なリクの視線にそれでも何かを感じたのか、シャーリィは少し狼狽えた様子で取り繕うように言う。
「そう……で、その大変で切実なエルミーナは、今日は大丈夫なの?」
「ん?」
「今頃は購買も学食も、イナゴの群が通過した後の穀倉地帯みたいになってると思うけど」
涼しい顔で言うリクとは対照的に、シャーリィの顔が青ざめた。
察する必要もないほど明白な態度に溜息をつき、リクは鞄の中から小さな紙袋を取り出して彼女に手渡す。
「あげる」
「何、これ……あ、メロンパン。いいの?」
頷くリクに尚も不安そうに、
「でも、これリク君のお昼じゃないの?」
「俺は弁当があるし」
「お弁当があるのに、何故メロンパンを……」
「おやつ」
しれっと答えるリクに、シャーリィは軽く脱力したようだった。
(やっぱり男の子だなぁ……)
十代男子の燃費の悪さは聞き及んでいたが、割と細身のリクですらそうだというのは少し意外だった。
放課の鐘が鳴り、担任を見送った教室が俄に活気づく。ある者は部活へ走り、ある者は友人たちと夕暮れの町へと繰り出して行った。
一緒に帰ろうという誘いを申し訳なさそうに断っているシャーリィを待って、リクは廊下へ出た。
「購買と学食だっけ」
「うん――って、だから、それは一人暮らしだから――」
「はいはい、切実切実」
彼女の食い意地が張っているなどという意図の発言は誰もしていないのだが、何故か当人は随分と拘っているようだった。ヲトメゴコロというやつだろうか、とリクは適当に解釈する。
一階に下りるために階段に向かうと、下から妙に小柄な女子生徒が上がって来た。
「あ、お兄ちゃん」
気づいて顔を上げる少女の耳は尖っていた。とはいえ別に、魔物自体は珍しくもない。
「妹、さん……?」
シャーリィが戸惑ったのは、彼女の体格だった。本人には失礼だが、初等教育を受けている真っ最中にしか見えない。
「アリスだからな」
隣のリクは、本人に聞こえないようにという配慮か、囁くように言った。
「ああ……」
ようやくシャーリィも納得する。子供の姿から成長しない、突然変異のサキュバスの話は聞いた事があった。個体数が少ないらしいので、あくまで噂だけだが。
と、その少女はシャーリィの方を見て、少しだけ不機嫌そうに目を細めた。
「誰?」
「転校生」
単語での問いに、リクも単語で返す。
「シャーリィ=エルミーナです。よろしくね」
それでも愛想良く名乗ってみると、
「……リオよ」
渋々といった感じで相手も名乗った。
「一緒に帰るの?」
「いや。校舎を案内する」
リクが言うと、ふぅん、とリオは思案げに呟く。
「まあ、特別教室の場所とか分からないと困るわよね」
「いや、購買と学食だけど」
「だから、それは……」
わざとやっているんじゃないかと思うくらいに購買と学食を繰り返すリクに、流石にシャーリィも食ってかかろうとする。が、それより早く、リオが何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば、お兄ちゃん。メロンパン買っておいてくれた?」
「ああ、忘れた」
サラリとリクが言うと、リオは不満げに頬を膨らませる。
「約束したのにー!」
この学校の購買において、メロンパンは一番の人気商品である。炭水化物×炭水化物の最強の若者フード、焼きそばパンを押さえて、ぶっちぎりのトップなのだ。それ故、一年生で食べられる人間は少ない。
(……あれ、この子のおやつだったんだ)
確かにリクは、自分の≠ィやつだとは一言も言っていなかったが。
「あっ、あの――違うの」
何だか兄妹が仲違いしてしまいそうな雰囲気に、シャーリィは慌てて割って入る。
「私が今日、お昼に食べるものがなくて……それで――」
「食べちゃったんだ……アタシのメロンパン」
ジトッとした半眼で呟かれた言葉には、ありありと怨嗟が滲み、思わず一歩退いてしまう。
「お前は飢えて死にかけてる人間に、自分が食べたいからというだけの理由で食べ物を恵むのを拒むのか?」
「うっ、それは……」
真顔で言うリクに、今度はリオが怯んだ。
「いや、あの――私、いつの間に行き倒れてた事になってるの……?」
だんだんシャーリィにも、リクという人間が解って来た。表情が少なく声に抑揚がないせいで誤解していたが、どうも彼は随分とユーモアのある人間らしい。
休み時間の喧騒の中、リクがノートや教科書を片づけていると、クラスの女子生徒が声をかけて来た。
「ねえ、リク君。今日の放課後あいてる?」
「いや、予定がある。何で?」
「うん。もしよかったら、何処か遊びに行こうと思ったんだけど……」
残念そうに言う女子生徒にリクは、そう、と呟く。
「あ、じゃあさ――」
と、なおも女子生徒が何かを言おうとした瞬間、教室の戸口からリクを呼ぶ声が聞こえて来た。視線を向けてみると、顔を覗かせたのは上級生――生徒会の人間だった。
「悪い、リク。この間の資料の事で訊きたい事あるんだけど、ちょっと生徒会室まで来てもらっていいか?」
「分かりました」
クラス長であるリクは生徒会の人間とも面識があり、仕事が正確な事もあって、ときどき手伝いに駆り出されるのだ。
席を立ったリクは入口へ向かいながら、悪いな、と女子生徒に謝る。そのままドアをくぐろうとして、
「わっ!?」
入って来ようとしていた何者かとぶつかってしまった。
僅かによろめいたリクは反射的に手を伸ばし、相手が転倒しないように腕を掴み軽く引っ張る。
「悪い。大丈夫か?」
勢いがつきすぎて殆ど腕の中に納まる形になっていた相手は、シャーリィだった。
「ああ、うん。こっちこそ、ごめん。よそ見してた」
驚いたような照れくさいような表情で身を離し、小さく笑って見せる。
「どっか行くの?」
「生徒会の手伝い」
「おお! 優等生がいる」
「ただの体のいい雑用係だよ」
からかうように言うシャーリィに、リクは微苦笑で返した。そのまますれ違い、振り返って互いに軽く手を上げる。
ここ数日で、彼女とは随分と打ち解けていた。互いに名前で呼び合う程に。
それがリク自身、とても意外だった。
生徒会の手伝いを終えて廊下を歩いていると、前方から小さな人影が駆けて来た。
「お兄ちゃーん!」
「……でかい声で呼ぶな」
溜息混じりに言って、目前まで来たリオの顔に紙袋を押しつける。
「ぶっ! 何これ……?」
「メロンパン。この間の分と合わせて二つ」
ついでだから、帰り際に買って来たのだ。
リオは、ふおおおおお、と妙な鳴き声を上げ、目を輝かせている。身体が小刻みに震えているのは、感動ゆえだろうか。
(……安上がりな奴)
お菓子を餌に誘拐される日は、そう遠くないかも知れない。
「ああ、いたいた」
と、不意に後ろから声が聞こえて来た。振り返ってみると、先ほど教室で声をかけて来た女子生徒が手を振っている。
「ねえ、リク君。今度の休みの日、舞台見に行かない? 最終日なんだけど、チケットが余っててさ」
「舞台……?」
「うん。けっこう評判いいんだよ。感動的だって」
楽しそうに話す女子生徒に気づかれないように、リクは嘆息した。感動――自分には最も縁遠いものの一つだ。
「駄目よ!」
リクに代わり、リオが強い口調で断ち切るように言った。視線には敵意が覗いている。
「その日は、お爺さまの命日だもの。家族でお墓参りに行くから、暇じゃないの」
「まあ、そういう事だから。悪いな」
女子生徒へいちど視線を遣ってから、リクは妹を促して歩き出した。
「……ところで、お前は何の用だったんだ?」
「えっ!? い、いや……特にこれといって用は……」
「なかったのか……」
「……強いて言うなら、虫除け……かな?」
ボソリと呟かれたリオの言葉の意味が解らず、リクは怪訝そうに眉根を寄せた。
ある日の放課後、西日の射し込む図書館で調べ物をしていたシャーリィは、壁にかけられていた時計に目を遣り、慌てて立ち上がる。
「うわ! もう、こんな時間」
この学校の図書館は前の学校に比べて蔵書が豊富で、いつも気がつくと、ビックリするくらい早く時間が経過しているのだ。
閉館時間が迫っていたので、慌てて本を片づけ図書館を飛び出す。顔を憶えられてしまっているらしく、司書の女性がクスクス笑いながら扉に鍵をかけた。
誰もいない廊下は閑散とし、何となく淋しさを掻き立てられた。他に音がないせいで、靴音がやけに響く。
日の光が少しずつ赤みを増していく中で教室に辿り着くと、ふと中に人がいる事に気づいた。窓際の列の前から二番目の席。
(リク……)
何か書き物をしているらしい。そういえば今日、彼は日直だっただろうか。
滑らかに動く手元に視線が吸い寄せられた。男の子とは思えない真っ直ぐな長い指は、まるでピアノなどの楽器を演奏する人みたいだった。素直に、綺麗だと思う。
何となくシャーリィは、自分の手に視線を落とした。特に不格好という事もないが、爪の形が少し気に入らない。
パタン、と学級日誌が閉じられる音で、シャーリィは我に返った。気配で気づいたのか、顔を上げたリクと目が合う。
「あ……と、まだ残ってたんだ?」
「日直だからな。これを職員室に持って行ったら帰るよ」
指先で日誌を叩き、リクは立ち上がった。
「じゃあ、よかったら途中まで一緒に帰らない?」
「分かった。昇降口で待ってて」
そう言ってリクは、鞄を持って教室を出て行った。
昇降口に辿り着くと、靴箱に寄りかかったシャーリィが手の中に視線を落としているのが見えた。
「どうしたんだ?」
リクは、歩み寄りながら訊いてみる。
「時計の調子が悪いみたいで……」
そう言う彼女の手の中には、少しくすんだ銀色の懐中時計があった。
「ちゃんとゼンマイは巻いてるんだけど、ときどき時間がズレるんだよね」
何だか切なそうな声で、シャーリィは時計の表面を撫でる。よほど大事にしているらしい事が、仕種から見て取れた。
「時計屋に見てもらえばいい」
靴を履き替えながら提案すると、
「……何処?」
物凄く言いずらそうに彼女は応えた。
時計屋は一応、大通りにある。ただ、入り組んだ路地の先にあるので気づく者は意外と少ない。なので、この町に来たばかりのシャーリィが場所を知らないのも、無理はなかった。それでも時間を見つけては散策していたらしい彼女は、何だか悔しそうだったが。
「そういえば今日、リオちゃんはどうしたの?」
幸い時計は、幾つかの部品を交換しただけで正常に動くようになった。その帰り道で、ふと思い出したようにシャーリィは口を開いた。
「友人と遊ぶ約束があったらしい」
「そっか」
確かに彼女なら、何かしらの予定でもない限り、リクが日直の仕事を終えるまで待っているような気がした。というか待っているだろう、間違いなく。
「仲いいよね、リクとリオちゃん」
「……お前は目か頭か、もしくはその両方がおかしいから、早めに医者へ行け」
「あっ、酷い。いくら照れ隠しでも、そんな言い方しなくてもいいじゃない」
「……照れ隠し?」
不愉快そうに眉間にシワを寄せるリクに、シャーリィは小さく噴き出した。そのまま視線を先へやると――
「あれ? ねえ、あれリオちゃんじゃない?」
やや前方に、同い年くらいの二人の少女が歩いている。楽しげな笑顔を覗かせながら歩く片方には、先端が丸みを帯びた三角形――言い方を変えるならハート型に尖った尻尾が揺れていた。
やはり人間のものより大きな尖った耳はよく聞こえるのか、或いは偶然か、それがピコピコ動くと少女が振り返った。そして物凄く不機嫌そうに、シャーリィを睨みつけて来る。
「……アンタ、何してんのよ」
「え……と、何って言われても……」
「アタシがいないのをいい事に、お兄ちゃんをかどわかして――」
「かどわかされた憶えはないけどな」
横から割り込んだリクが、ワシッとリオの頭に手を乗せる。というか掴む。
「時計屋に案内して来たんだ」
「時計屋〜?」
不審げに言うリオに、シャーリィは直った時計を差し出して見せた。
「うん。父さんから貰った時計」
パカッと蓋が開いたそこでは、順調に秒針が時を刻んでいた。
「ふぅん……いい時計ね」
「あげないよ?」
「アンタ、アタシを何だと思ってんのよ!」
途端に真っ赤になって眉を吊り上げるリオに、ごめんごめん、とシャーリィは謝る。ちなみにその間、リクはリオの連れの少女と挨拶を交わしていた。
休日のリクは、基本的にはバイトに精を出す生活をしていた。表向きの理由は、自分の自由になるお金を自分の手で稼ぎたいから。裏の理由は、なるべく家にいたくないからである。
大通りを一本入ったところにある、小さなカフェが彼のバイト先だった。小さくとも日当たりは良く、大通りからも住宅地からも近いという立地の良さは、客の入りに見事に反映されている。
平日は、学校が終わった夕方から。休日は、ほぼ一日中。リクに用があるなら家を訪ねるより、ここへ来た方がいいというくらい、彼は多くシフトに入っていた。
今日も今日とて、店は盛況だった。
本当は一日休みを取っていたリクだったが、両親の都合で墓参りが半日で終わったため、何となくここへ足を運んだ結果、店長に救世主を見るような視線を向けられ、引き摺り込まれたのだった。そのままキッチンへ直行である。
店内の様子を一言で表すのなら、戦場、だった。休日の午後には珍しくもない風景で、カップルや親子連れ、たまたま立ち寄った旅人、わざと時間をずらして昼食を摂りに来た者たちなどがひしめいている。
「悪い、リク。それ終わったら、ホールに出てくれ!」
入口から顔を覗かせ、店長が怒鳴るように言う。
「分かりました!」
同じように返したリクは、出来あがった料理をウェイトレスに渡してから、更衣室へ向かった。ロッカーから引っ張り出したウェイターの制服に着替え、急いでホールへ飛び出す。
カウンターでは店長がコーヒーを淹れており、その隣では彼の妻がテイクアウト用のサンドイッチを客に手渡していた。更に隣でウェイトレスの一人が、並ぶ客を相手に清算作業を行っている。
(ここ半年でも、いちばん忙しいな)
そう思いながらリクは両手に乗せた幾つもの皿を、未だに料理を待って軽く苛立っている客の元へと運んで行った。
夕方に差しかかり、ようやく店内は落ち着きを取り戻し始めていた。店員も客も殺気立っていた時間は過ぎ、カフェという名前が持つ何処か優雅なイメージに、現実が釣り合って来たところだった。
そんな中リクは何故か、まだホールにいた。本来はキッチンスタッフとして雇われているのだが、客が減った結果キッチンにそれほど人員が必要ではなくなってしまい、惰性でホール業務をこなしているのだった。
リリン、という耳に心地いい金属製のドアベルが響き、カウンターでグラスを磨いていたリクは顔を上げる。と、入口で驚いたように立ち尽くしている少女と目が合った。
「あ……え? リク?」
「いらっしゃいませ、お客様。お一人ですか?」
「あ……はい」
「では、お席の方へご案内いたします」
完全に営業モードで、涼しげで穏やかな微笑など浮かべているリクに度肝を抜かれたのか、シャーリィは我が目を疑うような表情で彼の後に続いた。
「ビックリした。リクって、ここで働いてたんだ」
案内された席で椅子を引いてもらいながら、普段とは違う彼の表情を見上げる。
「表情や言葉遣いまで違って、別人みたい」
普段のリクを知る者からは、二重人格、だの、何かに取り憑かれた、だのと散々な言われようだが、むしろ、普段は素っ気ない彼にもてなされたいという動機で店を訪れる学友も少なくない。女子生徒は彼への憧れから、男子生徒は笑い話の種にするために。
リクは周囲を見回してから、そっとシャーリィの耳元へ顔を寄せる。
「仕事中は、あの喋りだ。悪いけど相手はしてやれない」
他の人間に聞こえないように囁いた。
「あ、そっか。ごめんね」
反省したような表情で彼女が謝っていると、別のウェイトレスが水の入ったグラスとおしぼりを持って来た。
「では、ご注文がお決まりになりましたら、お呼び下さい」
瞬時にウェイターとしての表情に戻ったリクは、頭を下げてから奥へ入って行った。
「ねえ、転校生。あんた、この間の休みの日に、リク君のバイト先に行ったでしょ……」
「え? うん」
転校してから随分と馴染めたと思うクラスにも、やはり、未だに殆ど話した事のないクラスメイトというのはいた。そんな人間から突然、しかも何やら険悪な表情で話しかけられ、シャーリィは僅かに警戒しながら相手を見やる。
「しかも、それ以降、ちょいちょい行ってるよね」
「まあ、ごはん食べるのに都合いい場所だし」
なるべく自炊を心がけてはいるが、悲しいかなレパートリーには限りがあり、そして人間は飽きる生き物である。そんな時には、あの店で食事をするのが習慣になっていた。
家から近く、料理が美味しくて、店の雰囲気もいい。おまけに知り合いがいるというのは、食事をする空間として決して悪くはない。一人暮らしの寂しさも紛れるし。
「……まあ、それだけならいいけど。リク君の邪魔なんかするんじゃないわよ?」
「うん。気をつけてるよ。向こうは仕事だもんね」
愛想よく応えながらも、内心では、成程、と思う。要するに、これは牽制、或いは警告だろう。私のものに近づくな、手を出すな、という。
(リクが聞いたら、怒るかな……?)
少し考えて、否定する。きっと彼は、蔑むような冷たい視線を向けるだけだろう。
彼はおそらく、誰かに所有物扱いされる事を嫌うだろうし、誰かを所有物扱いするような人間には近づこうとはしない気がする。その程度にはシャーリィも、リクという人間を知る事が出来ていた。付き合いの短いシャーリィですら。
(滑稽だなぁ……)
抱いた感想は、果たして誰に向けたものだったのだろうか。自分でも、よく分からなかった。
昼休みのザワつく教室に、失礼しま〜す、という幼い声が溶けていった。
「ヤッホー、お兄ちゃん」
「リオか。何の用だ?」
トコトコと近づいて来る妹に目を向け、リクは問う。
「……用事がなきゃ、来ちゃいけないの?」
「ああ」
平然と即答するリクに、リオは不満げに頬を膨らませた。
「お兄ちゃん、ノリ悪〜い」
そんなやり取りにクスクス笑いながら、シャーリィは近づいて行く。
「こんにちは、リオちゃん」
「……何よ、泥棒猫」
こういうやり取りも、流石に慣れた。慣れたのはお互い様なのか、何となくリオの表情や言葉に含まれた敵意が薄れ、その分うんざり諦めたような雰囲気が感じ取れるようになっていた。
「よかったら一緒に、お昼食べようかと思って」
「何でアタシが、アンタとお昼食べないといけないのよ」
「ほら、初めて会った日にメロンパン取っちゃったから、お詫びに……」
「遠慮するわ。アンタの作った料理なんか食べて、お腹壊したくないから」
取りつく島もなく、リオはプイッと顔を背ける。
「……お前の作った料理で寝込んだ事あったなぁ」
「よ、余計なこと思い出さなくていいの!」
遠い目で呟くリクにリオが真っ赤になり、シャーリィは声を上げて笑った。
いくら友達との約束があったとはいえ、自分がいない間に兄が誘惑されたというのは、リオにとって由々しき事態だった。
再発を防ぐためにもホームルームが終わると同時にリクの教室へ向かおうとしたのだが、そんな日に限って担任から手伝いを頼まれてしまうのは、何者かの悪意を疑いたくなってしまう。
時間的に残っている生徒は殆どおらず、リクもまた先に帰ってしまっている可能性が高かったが、念のため教室まで行って確認しようと思い階段を駆け上がった。
角を曲がろうとしたところで人の声が聞こえて来て、リオは反射的に足を止める。そっと覗いてみると、リクの教室から出て行く数人の女子生徒たちの姿が見えた。
(アイツ……シャーリィ、だっけ?)
その中の一人に見憶えがあり、リオは訝るように目を細めた。遠目には仲の良いグループに見えなくもないが、それにしては感じる雰囲気は険悪である。
(……あんな奴、どうでもいいけど)
それでも何となく気になり、尾行してみる事にした。
校舎裏、壁を背にして数人の女子生徒に囲まれていた。みな一様に不機嫌そうな表情をしており、おそらく自分も同じような顔をしているのだろうとシャーリィは思った。
「何よ、その顔」
女子生徒の一人が言う。
「あんた最近、調子乗ってるよね」
これは別の女子生徒。
「最初から生意気でムカつく女だったけど、それでも大目に見てあげてたんだけどね。さすがに、目に余るっていうか……」
まるで聞き分けのない子供に呆れるような態度で言うのは、シャーリィのクラスメイトだった。暇さえあればリクに話しかけている少女だ。
「わざわざ警告までしてあげたのに、理解できなかったの?」
頭の悪い人間を嘲るような口調だった。
「……相手にしてもらえないのが悔しくて、だけどリク本人にそれを言えないから他人を僻んで、でもそんな自分を認められないから必死で体裁を取り繕ってたのは理解できたけどね」
付き合う義理などないシャーリィは、いきなり核心をつく。数の上では不利だったが、そんな理由で屈するのは嫌だった。
もちろん怖さはある。だが自分は決して、他人に恥じるような方法でリクと仲良くなった訳ではないのだ。どんな目に遭おうとも、心だけは絶対に折らない。
図星をつかれた女子生徒たちは、顔を真っ赤にして掴みかかって来る。
「あんた、リク君に馴れ馴れしいのよ!!」
「それが本音? 相手にされなかった理由を考えた事があるのっ!?」
伸ばされる手を撥ね退け叩き落としながら、シャーリィも言い返した。初めのうちは冷静でいようと努めていたのだが、だんだん腹が立って来る。
「それだけ想ってるなら、何で、もっとリクを見ようとしなかったの! 何で、ちゃんとリクを知ろうとしなかったの!!」
それが何より不愉快だった。ちゃんと見ようとすれば、リクがどういう人間を嫌うかくらいは分かる筈なのに。
けれど彼女たちはそれをせず、ただ自分を押しつけただけだ。無条件で認めろと迫る事しかしなかったのだ。それをリクが、どう思うかも考えず。
「煩いっ!!」
癇癪を起こしたような叫びと共に伸ばされた手が、シャーリィの頬を掠める。爪の先端が皮膚を削り、薄く血が滲んだ。
(このっ!)
誰かに髪を掴まれながらも、目の前の女子生徒の頬を張り倒す。
「やったな、このブス!!」
その女子生徒は他の二人に指示し、シャーリィを地面に引き倒させる。そのまま押さえつけられた彼女の頭を蹴りつけようとした瞬間――
「何してんのよ、アンタたち!!」
素早く駆け寄って来た小柄な影が、女子生徒に体当たりを食らわせた。倒れ込む相手に構わず、シャーリィを押さえ込んでいる二人を、片方は蹴りつけ、もう片方は尻尾で殴打した。
「リ、オ……ちゃん?」
呆然と見上げて来るシャーリィを鋭く一瞥し、
「いつまで寝てんのよ!」
ピシャリと言いながら引き起こす。
「あんたは関係ないでしょ!!」
尻尾が顔面に当たったらしい女子生徒が、憎々しげな表情を向けて来た。
「いいよ。ついでに、こいつもやっちゃおう」
体当たりされた女子生徒が、それを制す。
「こいつも前から気に入らなかったんだよね……血も繋がってないくせに、妹ぶってベタベタして」
その一言で、この諍いの原因を悟ったリオは、ふん、と鼻を鳴らす。
「魂の底から憐れみたくなる程、頭が馬鹿ね。血が繋がってないからこそ、妹ぶるし、家族ぶるのよ!」
遥か高みから、殆ど垂直に見下すような視線だった。
「わけ解んねえよ!!」
女子生徒は苛立ち任せに叫んで、リオに掴みかかる。けれどシャーリィには、彼女の言葉の意味が少し解るような気がした。
リオは小柄な体格を活かして相手の手を躱し、傍らを通り抜ける際に尻尾で足元を掬う。無様に転倒した女子生徒を見下ろし、腰に手を当てた。
「血も繋がってないアタシを家族として受け入れてくれた人たちに対して、本当の家族として接するのは、最低限の礼儀で誠意でしょ?」
そんな事も解らないの、とリオは嘆息し、諦めたように頭を振った。それから、チラリとシャーリィの方を一瞥する。
まさかアンタまでコイツらと一緒で、『解んない』なんて言うんじゃないでしょうね。そう言われた気がしたので、否定の意味を籠めて少しだけ微笑い、頷き返した。
「なに勝ち誇ってんだよ!!」
横から別の女子生徒の声が聞こえ、二人揃って身構える。が、やって来た攻撃は思わぬものだった。
バシャアッとリオに、頭から水がかぶせられる。途中から一人見かけないと思ったら、近くの水道まで水を汲みに行っていたらしい。
流石に不意を衝かれたのか、リオの動きが止まった。濡れた服がまとわりついて動けなかったのかも知れない。その隙を逃さず、女子生徒が再び水の入った容器を持ち上げる。
「っ――!」
咄嗟にシャーリィはリオの前に出てそれを止めようとするが、僅かに間に合わず、自分もズブ濡れになった。
「はっ! バッカじゃねえの」
相手がせせら笑った瞬間を狙い、
パァン!
力いっぱい頬を張る。絶対に隙が出来ると思ったのだ。
「この――」
相手が反撃に出ようとした瞬間、今度は反対の頬を張る。
「……あんたたち、本っ当に最低!」
濡れた髪を掻き上げたシャーリィの目には、先程までとは比べ物にならない程の怒りが燃えていた。
「手前ぇ!」
後ろから掴みかかろうとした女子生徒のお尻に、今度はリオが鋭く尻尾を叩きつける。バチィン、という凄まじく痛そうな音がした。
「……最初は、馬鹿シャーリィだけ引き摺り出せればいいと思ってたんだけどね。アタシも濡れ鼠にされて喜ぶ趣味とかないし、チョットお仕置きが必要よね」
ゆらり、とリオの周囲で陽炎のように魔力が揺らぐ。
「どうされたいかしら? 煮られたい? 焼かれたい? それとも無様に発情させて、淫らなメス豚として裸で大通りに放り出してあげましょうか」
酷薄に細められたリオの目を見て、ようやく女子生徒たちは、彼女が魔物であった事を思い出したらしい。ひっ、と怯えたような声を洩らして後退った。
「何人来てくれるかしらね、お客さん。間違いなく、お兄ちゃんは行かないけど。ああ、でも……どうしてもって言うなら、アタシが連れてってあげてもいいわよ? きっと最高に軽蔑しきった視線を向けてくれるわ。濡れちゃうかもね、アナタたち」
クスクスとサディスティックに微笑うリオを前にカチカチと歯を鳴らしながら、自分たちが何に喧嘩を売ってしまったのか理解した女子生徒たちは、我先にと逃げて行った。
(……うわあ)
余談だが、シャーリィも引いていた。恐怖からではないが。
「……はふぅ」
女子生徒たちの姿が見えなくなると、リオは胸を撫で下ろすような溜息をつき、ペタンとその場に座り込んでしまった。
「えっ……ちょっと、リオちゃん?」
慌てて駆け寄り、その肩を支える。と、視線を上げた先で、少女の頬に透明な雫が流れるのが見えた。先程かけられた水と思いきや、どうもそれは汗らしい。
「アイツらが逃げるのがあと十秒遅かったら、ヤバかったわ……」
肩を上下させ、ゆっくりと呼吸を整えているリオを見て、シャーリィはアリスが元々それほど戦闘的ではない事を思い出した。おそらく先程のように魔力を可視化させ、揺らがせるだけで精いっぱいだったのだろう。
「……ありがとう」
何だか目頭が熱くなって、シャーリィは小さな少女を抱きしめた。
「アンタにお礼を言われる筋合いは、ないわ」
応えるリオは、とても複雑な表情をしていた。
シャーリィが一人暮らしをするアパートは、学校から徒歩十分ほどの所にあった。
室内には意外にも物が少なく、何処か生活感が感じられない。それが、リオには不愉快だった。リクの部屋みたい、などと思ってしまった頭を、とりあえずその辺の壁に思い切り叩きつけたい。
「え? 何しようとしてるの?」
部屋の主が不安そうな顔をするので、やめておいたが。
勝敗がよく分からないのでとりあえず勝った事にしておいた喧嘩の後、シャーリィはリオを連れて自宅へ帰って来た。リオの家は学校から二十分ほど歩くそうで、濡れたまま帰すのは不安があったのだ。
「タオル出すから、服脱いで。すぐ、お風呂沸かすから」
「……そこまでしてもらわなくても、いいわ」
遠慮がちに言うリオに、駄目、という言葉と共にタオルが投げつけられた。
キッチンの方から戻って来たシャーリィは既に下着姿になっており、その上からタオルを被っている。
「はしたない女ね」
「リオちゃんも、はしたなくなるの!」
「ちょっと、こら! 変なとこ触るんじゃないわよ!」
「じっとしてないからでしょ!」
ギャアギャア喚きながらも、ものの数分でリオは裸にされてしまった。
自分を守るように身体にタオルを巻きつけ背中を向けるリオに、シャーリィは小さく噴き出す。何だか、懐かない子猫のようだった。
再びキッチンへ行きお茶を淹れ、マグカップを二つ持って戻って来ると、片方を差し出す。
「お風呂沸くまで、これ飲んでて。それから――」
そう言って、ベッドのサイドテーブルに乗っていた紙袋を手に取った。
「これも」
「何よ」
受け取って中を覗いたリオが、そのまま固まった。
「…………いいの?」
ボソリと呟く。若干悔しそうに。
袋に描かれているのは、この町でも一、二を争う有名なパン屋のロゴだった。そして袋の中身は、メロンパン。一つで通常のメロンパン三つ分の値段という高級品だった。それが二つも。
「どうぞ。元々リオちゃんにあげるつもりで買ったものだから。やっぱり、メロンパンのお詫びはメロンパンでしなきゃね」
そう言って笑うシャーリィに、リオは何故かむくれていた。何となく負けた気分なのだ。
だからメロンパンを一つ取り出して、袋を彼女の方へ差し出し――否、突きつけた。
「え……?」
「……アタシが取られたメロンパンは、一つだけよ。それから、そのリオちゃん≠トいうの、やめて。上から見下されて子ども扱いされてるみたいで、不愉快だから」
自棄っぱちでメロンパンを頬張るリオの様子に苦笑しながら、シャーリィは嬉しそうに袋と言葉を受け取った。
朝の喧騒の中で廊下を歩き教室に到着すると、戸口の所で友人とお喋りに興じていた女子生徒がヒラヒラと手を振って来た。
「おはよ、リク君! ねえ、今度さ――」
「……鬱陶しい」
相手の顔も見ずに、リクは通り過ぎる。
「事あるごとに寄って来るな。蝿か」
「え……」
周囲からの失笑の中で呆然とする女子生徒にそれ以上興味を示さず、リクは真っ直ぐシャーリィの許へ向かった。
「妹が世話になったな」
「ううん。むしろ、助けられたの私の方だよ」
「その後も、だ」
「ああ……」
結局、濡れた服は乾かなかったので、リオにはシャーリィの服を貸したのだ。色々なところのサイズが合わず、本人は屈辱的な表情だったが。
「こんど何かお礼をするから、考えといてくれ」
そう言い残して、リクは自分の席へ向かって行った。
その答えとしてシャーリィが『リクとデートしたい』などとのたまうとは、流石に予想していなかった。リクにしてみれば、お礼をするのはリオの役目だと思っていたのだから、その答えは完全に寝耳に水である。
とはいえ、そこまで説明しなかったのは自分なのだから、いちおう非はこちらにある。そう諦め気味に言うリクに、リオは強硬に反対した。肩を怒らせ直談判に行くと、シャーリィはアッサリと言ってのけたのだ。
『だって、そう言えばリオがビックリするかなと思って』
フルフルと肩を震わせるリオの『こ……の、クソアマー!!』という叫び声が、学校中に響いたとか響かなかったとか。
その後シャーリィが、お礼の内容を『三人で遊びたい』に変更した事で、兄妹の休日の予定が決定した。余談だが、リクのバイト先は店長夫婦の都合で、この日は臨時休業である。
待ち合わせ場所になった噴水広場で兄妹が待っていると、暫くしてシャーリィが息を弾ませながら駆け寄って来た。
「ご……ごめん、遅くなって」
「いや。いま来たところだよ」
事実とはいえ、まるで本当のデートのようなやり取りに、リオのこめかみが引きつる。
「……随分おめかしして来たわね」
「え……そうかな? ケバい?」
不安そうに自分を見下ろすシャーリィに、リオは、ふん、と顔を背けた。今のは、ちょっとした嫌がらせである。
遊ぶといっても、小さな町では出来る事は限られている。服屋や本屋、小物屋などを冷やかしたり、屋台でクレープを買って食べるくらいしかする事はない。
ただ、他愛もない事を話しながら歩くだけでも、不思議と有意義な時間を過ごしているような気がしてくるのが、リオもシャーリィも意外だった。
もっとも、ナチュラルにクレープの取り替えっこなどしているリクとシャーリィに、リオの堪忍袋の緒がキレそうになったり、その報復として、昼食のために入ったレストランで、運ばれて来たシャーリィの料理にリオがタバスコを入れて彼女を泣かせたりと、ハプニングもあったが。
「……どうして、ああいう意地悪をするかな」
「そんなの、アンタが嫌いだからに決まってるでしょ」
何を今更、と言わんばかりのリオに、シャーリィは苦笑する。
それぞれに飲み物を買って、休憩するために公園へ向かった。青々とした芝生の上では、仲睦まじげなカップルや家族連れなどが憩いの時を過ごしている。
キャッチボールをしている少年たちや、飼い犬と散歩している初老の男性もいた。
「わんこ!」
キュピーン、と音が聞こえそうな程に目を輝かせ、シャーリィが走って行く。
「……ガキね」
呆れたように言いながら、リオとリクも後に続いた。
飼い主の男性と二言三言会話をしたシャーリィは、彼の傍らに大人しく座る大型犬を嬉しそうに撫で回す。殆どリオと変わらない大きさだった。
その大型犬はリオを見つけた途端、耳を立ててそれまでより激しく尻尾を振り始めた。シャーリィの手をすり抜け、一目散に彼女に突撃する。
「ちょ、ちょっと!?」
焦ったような表情で逃げ出すと、大型犬は更に足を速めて彼女を追い始めた。
(……同族だとでも思われたのかもな)
尖った耳とか、尻尾とか。
リクは、かなり投げやりにそれを眺めていた。
「何で追いかけて来るのよー!」
「リオが逃げるからだよ! 遊んでもらえると思ってるの」
シャーリィが彼女たちを追いかけながら叫ぶ。
「フレッド、ステイ!!」
強い調子で鋭く言うとフレッドと呼ばれた大型犬は足を止め、名残り惜しそうに尻尾を振っていた。なだめるように撫でながら、飼い主から預かって来たリードを首輪に付ける。
リオは肩で息をしながら、そんなフレッドとシャーリィを見やる。
「く、屈辱だわ。アンタに助けられるなんて……」
「まあまあ……借りは返したぜ、ってやつ」
悪戯っぽく笑うシャーリィに憮然となり、リオは顔を背けた。
「こんなもんで釣り合いが取れるなんて思わない事ね」
「ほほぅ……」
ニヤリ、とシャーリィは人の悪い笑みを浮かべ、リードを手放す。
「フレッド、ゴー!」
リオを指差すと、フレッドは一声鳴き、スタートを切る。
「ちょっ!? 何でアンタ、さっき会ったばっかの犬を手懐けて――来〜る〜な〜!!」
息も整わないまま、リオは再びパタパタと逃げて行った。
そこから少し離れた所で、リクは飼い主の男性と話していた。
「可愛らしいですなぁ……恋人と妹さんですかな?」
「片方はクラスメイトで、もう片方は……フレッドみたいなものです」
無表情で視線だけを向け、リクは答えた。
夕方になり、フレッドと飼い主は帰って行った。
「そ……そろそろ、お開きかしらね」
「そう……だね」
女性陣は息も絶え絶えで、言葉を交わす。
逃げ回るリオを満足げに眺めていたシャーリィだったが、途中で発想を転換したらしいリオが彼女の方へ向かって来た事で状況が変わった。遊んでくれる人が二人になったと解釈したらしいフレッドによって、二人まとめて追い回されたのだ。
燃えるように鮮やかな夕焼けの中を、三人並んで歩く。示し合わせたように、リクを真ん中に挟んで。
待ち合わせ場所になっていた噴水広場まで来たところで、クルリとシャーリィが振り返った。
「今日は二人とも、ありがとね。凄く楽しかったよ」
「アタシは無駄に疲れただけだったわ」
まだフレッドの件を根に持っているらしいリオは、半眼で彼女を睨む。
「おまけに、事あるごとにお兄ちゃんとイチャイチャして……」
「あはは……。最初で最後なんだから、ちょっとくらいイイ思いしてもいいでしょ?」
茶目っ気たっぷりに言うシャーリィだが、リオは聞き捨てならないとばかりに彼女の顔を、睨むように凝視する。
「最初で最後って、どういう事よ……?」
シャーリィは口が滑ったというように、口元を指先で隠して目を逸らした。
「また、転校でもするのか」
それまで聞いているだけだったリクの言葉に、彼女は驚いたように目を見開く。
「何で分かったの?」
「当てずっぽうだよ。リオが、お前の部屋には物が少ないと言っていたから、長居はしないのかなって」
それだけでは根拠として弱いので、おそらく本当に当てずっぽうだったのだろう。
「ず、ずいぶん急じゃない。アンタ、まだ転校して来て二週間くらいしか経ってないのに」
「うん……。初めから、二週間きっかりの予定だったの」
動揺を隠すように平静を装うリオに、シャーリィは申し訳なさそうに言う。
「ごめんね、内緒にしてて。湿っぽくなるのって苦手で」
「な……なる訳ないでしょ。アンタとアタシの間柄で」
何故か怒ったように赤い顔で言うリオに苦笑しながら、そうだね、と頷いた。
「でも、湿っぽくなるのは私の方なんだけどね」
シャーリィは照れくさそうに頬を掻く。
「改めて、ありがとう……リオ、リク。最後に楽しい思い出が出来たよ!」
言葉通り湿っぽくなりそうなのか、努めて明るく、振り切るように彼女は笑った。
「送って行かなくて大丈夫か?」
そのまま踵を返したシャーリィに、リクが声をかける。
「名残り惜しくなっちゃうから、いいよ。ここでスッパリ、お別れしよ?」
顔だけ振り向かせてヒラヒラと手を振りながら、シャーリィは夕焼けの中を帰って行った。
突然のシャーリィの転校は、クラスメイトたちに少なからず衝撃を与えた。
担任の説明では、もともと彼女は父親の仕事の都合で別の大陸の学校へ転校する筈だったのだが、その父親に飛び込みの仕事が入った関係で二週間の空き時間が出来てしまい、それを埋めるためにこの学校へ来たのだそうだ。
彼女がいなくなる事を喜んだ生徒も、一部にはいた。だが大半の生徒は、男女を問わず残念に思っているようだった。そしてリクは――
「何で、ここに……」
大通りに停まった長距離馬車に、旅行用の大きなスーツケースを積み込もうとしたところで、時間的にいる筈のない二つの人影を認めたシャーリィは驚愕に目を見開く。
「黙って行こうなんて、随分と礼儀正しい事ね」
腕組みをして目を細めたリオが、苛立った猫のように尻尾を左右に振っていた。その隣にはリクもいる。
「見送りに行く、と言って聞かなくてね」
「いっ――言ってないわよ、そんな事! 負け犬の敵前逃亡っぷりを見に来ただけで……」
溜息混じりに言うリクの言葉を掻き消そうとするように、リオは大きな声で喚いた。
「ありがと、リオ……」
シャーリィは彼女の前へ行き、警戒するように身構える様子に小さく微笑いながら、その身体を抱きしめた。ビックリした小動物のように身体を硬くするリオの耳元へ口を寄せ、貴女に会えて良かった、と呟く。
「リオは私のこと嫌いだったかも知れないけど、私はリオの事けっこう好きだったよ」
「う……」
照れくさいのか何なのか、リオは言葉に詰まったように小さく呻いた。
「元気でね……?」
小さく頬に口づけ微笑むと、真っ赤な顔で睨み返された。その瞳の奥が揺れている。
それからシャーリィはリクに向き直り、右手を差し出した。
「リクも、ありがと。色々お世話になりました」
「俺は、言われた事をやってただけだよ」
最後まで態度の変わらないリクが握手に応じると、少しだけはにかんだような表情を見せたシャーリィが、リオの方へ視線を向け、ごめんね、と口を動かす。次の瞬間――
「なっ――!?」
全く想定していなかった事態に、リオの思考が停止した。
シャーリィはリクの手を引っ張ると、つんのめった彼の頬に手を添えて、その唇を重ねたのだ。
「なっ……何してんのよアンタ!!」
慌てて間に割り込み二人を引き剥がすと、シャーリィは悪戯っぱい笑顔でウィンクする。
「海の向こうへ行っちゃうんだから、このくらいのハンデはあってもいいでしょ?」
「いい訳ないでしょ! お兄ちゃんが汚れるじゃない!!」
真っ赤になって追いかけて来るリオからひとしきり逃げ回り、やがてシャーリィは馬車へと逃げ込む。もう発車の時間だった。
「逃げるな、馬鹿シャーリィ!」
「敵前逃亡っぷりを見に来たんじゃなかったっけ?」
馬車のドアを叩くリオを窓から見下ろしながら、シャーリィは何処か嬉しそうに笑う。
リオは屈辱的な気分で彼女を見上げていた。だから、そこに心からの親しみが籠められている事には気づかなかった。気づいたのは、離れて見ていたリクだけだ。
御者は仕事道具が傷むとでも思ったのか、やや唐突に馬車を発車させた。
遠ざかって行く馬車――というか窓から上体を覗かせて手を振っているシャーリィを、リオは悔しげに睨みつけている。
ゆるりとカーブしている道の向こうに馬車が消える瞬間、
「大好きだよ、リオ!!」
シャーリィが大きな声で叫んだ。
「……」
見えなくなった馬車を暫く睨みつけていたリオは、やがてゆっくり俯く。彼女が最後に叫んだ言葉が、耳の奥にいつまでも響いていた。
大好きだよ。
恥ずかしくてリオには決して言えない言葉を、シャーリィは、いともアッサリ言ってのけたのだ。だから――
「……やっぱアタシ、アイツ嫌い」
「そうか……」
近づいて来たリクが、ポツリと言う。
「なら向こうが落ち着いた頃、手紙でも出して改めてそう伝えればいい」
「うん……」
意外にも素直に頷いたリオにリクが視線を向けると、ハッとしたように彼女は慌てて付け足した。
「き、気が向いたらね!」
今日は客の入りが少なかったため、臨時で休憩を設けることにした。
店内に一揃いだけあるテーブルセットに腰を下ろし、リオは物憂げに溜息をつく。
「……嫌な事を思い出したわ」
品質には問題ないものの、時間が経って少し硬くなってしまい、売り物にはならなくなったケーキをつつきながら言うと、ティーポットに入った紅茶とカップを持って来たリクが怪訝そうに眉根を寄せた。
カップを両手で持ち、淹れたての紅茶に息を吹きかけて冷ましながら飲んでいると、カランコロン、とドアベルが鳴る。
「い、いらっしゃいませ!」
少しだけ焦りながら、いつもの営業スマイルを浮かべたところで、リオの動きが止まった。
「うわぁ! 本当に、ぜんぜん変わってないんだね!」
戸口に姿を現した女性が、そう言って表情を輝かせた。だが驚きすぎたリオは、何の反応も出来ずにいる。だから代わりに、リクが彼女に声をかけた。
「髪を伸ばしたのか」
「うん。へへ……どうかな? おかしくない?」
女性は背中に届く程になった赤みがかった髪をつまみ、少しだけ不安そうに言う。
「いいんじゃないか」
リクがそう答えると、安心したように息を吐いた。
「な、な……何でアンタが、ここにいるのよ!?」
ようやく復活したリオが彼女を指差して叫ぶと、
「勿論、大好きな友達に会いに来たからだよ」
と女性は微笑う。言外に、目的はリクではない、と言っていた。
一点の曇りもない真っ直ぐな笑顔を向けられたリオは、意表を衝かれたように真っ赤になって俯いた。またしても、自分には言えない事を容易く口にしたのだ、この女は。
やがて怒ったような顔で相手を睨みつけ、叫ぶ。
「やっぱアンタ、大っ嫌い!!」
シャーリィ=エルミーナは、あの日と同じように、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「いらっしゃいませ!」
「ええと……すみません、郵便です」
しかし視線の先――入口では、郵便業者の帽子を被ったセイレーンが申し訳なさそうに会釈する。
「あ、ご苦労さまです」
少女の方も若干気まずげな表情になり、差し出された封筒を受け取った。
郵便屋が帰ると、それと入れ替わるように厨房から顔を覗かせた少女の兄が、彼女と彼女の手元へ視線を向けながら、誰が来たのかと訊く。
「郵便。お兄ちゃん宛だよ」
封筒を受け取った青年は、裏返して差出人を確認してからそれを開けた。
「何て書いてあるの?」
椅子に乗って横から覗き込みながら、少女は訊く。
「同窓会のお知らせ、だってさ」
そこには、彼らが数年前まで通っていた学校の名前が書かれていた。
少し大きすぎる気がする時計塔の鐘の音も、一年以上通えば流石に慣れた。
生徒たちが自分の席に着くにつれ、常にも増してザワついていた朝の空気が収束していく。木製の床を叩く靴音が近づき、ガラリと教室のドアが開けられた。
「おはよう、みんな」
そう言って姿を現したのは、二十代後半ほどの女性教師だった。このクラスの担任である。
「もう知ってる人もいるかも知れないけど、今日はホームルーム前に転校生を紹介するわ」
そう言って彼女が呼びかけると、開きっ放しのドアから一人の女子生徒が入って来た。白い首筋が覗く、赤みがかったショートヘアの少女だ。
教壇に立った少女は、担任に促されペコリと一礼する。
「初めまして。シャーリィ=エルミーナといいます」
表情は何処か自信に満ち、言葉はハキハキとしていた。好感を抱いたらしい男子が彼女を囃し立てたり、質問をしようと手を挙げたりしている。
「はいはい、そういうのは休み時間にしなさい。その方が彼女も早く馴染めるでしょ」
魔物でもないくせに発情期を迎えた男どもをアッサリ制し、担任はシャーリィへ視線を向けた。
「席は窓側のいちばん後ろになるけど、視力は大丈夫かしら?」
「はい」
「そう。分からない事があったら、気軽に周りの人に――っていっても、いきなりは無理か。じゃあ、そうね……」
思案げに視線を巡らせる担任は、窓側の列の前から二番目の席で微妙に目を逸らした男子生徒にニッコリと微笑いかけた。
「あそこにクラス長がいるから、初めのうちは彼に訊くといいわ」
シャーリィに分かるように指差して言う。
「頼むわね、リク」
「……はい」
いくら風邪を引いたとはいえ、迂闊に休んだ結果押しつけられた役職を心底呪いながら、彼は諦めの滲む声で頷いた。
「では今日は、ここまで」
四時間目を担当する教師がそう言った瞬間、他の時間なら促されてからかけられる日直の号令が、殆ど教師の言葉にカブるようなタイミングでかけられた。もっとも、どのクラスでも同じなのか、それを咎める教師はいないが。
「起立! 礼!」
その言葉が合図だった。全生徒――特に窓側の席の男子が、脚に溜め込んでいた力を全解放しドアへと走る。購買戦争の戦端が開かれたのだ。
校舎中が揺れるような足音の怒濤を他所に、リクは机の上を片付ける。弁当組は気楽なものだった。
「あの……」
控えめにかけられた声に顔を上げると、目に入ったのは赤みがかったショートヘア。
「エルミーナ、だっけ。何?」
「あ、うん。リク君だよね。朝は、ごめんね。何か、押しつけるみたいになっちゃって」
「別に、君が押しつけた訳じゃない」
「ありがと。で……早速で悪いんだけど、都合が悪くなかったら放課後、校舎の案内を頼めないかな?」
もっともな依頼に、リクは頷きを返す。特別教室などの位置は知っておかないと、今後困るだろう。と思いきや、
「最低限、購買と学食だけは知っときたいし」
食い気全開だった。
「……」
「な……何かな、その視線は。大変なんだよ、一人暮らしは。お弁当なんて作ってる暇ないし、切実なんだから!」
無表情なリクの視線にそれでも何かを感じたのか、シャーリィは少し狼狽えた様子で取り繕うように言う。
「そう……で、その大変で切実なエルミーナは、今日は大丈夫なの?」
「ん?」
「今頃は購買も学食も、イナゴの群が通過した後の穀倉地帯みたいになってると思うけど」
涼しい顔で言うリクとは対照的に、シャーリィの顔が青ざめた。
察する必要もないほど明白な態度に溜息をつき、リクは鞄の中から小さな紙袋を取り出して彼女に手渡す。
「あげる」
「何、これ……あ、メロンパン。いいの?」
頷くリクに尚も不安そうに、
「でも、これリク君のお昼じゃないの?」
「俺は弁当があるし」
「お弁当があるのに、何故メロンパンを……」
「おやつ」
しれっと答えるリクに、シャーリィは軽く脱力したようだった。
(やっぱり男の子だなぁ……)
十代男子の燃費の悪さは聞き及んでいたが、割と細身のリクですらそうだというのは少し意外だった。
放課の鐘が鳴り、担任を見送った教室が俄に活気づく。ある者は部活へ走り、ある者は友人たちと夕暮れの町へと繰り出して行った。
一緒に帰ろうという誘いを申し訳なさそうに断っているシャーリィを待って、リクは廊下へ出た。
「購買と学食だっけ」
「うん――って、だから、それは一人暮らしだから――」
「はいはい、切実切実」
彼女の食い意地が張っているなどという意図の発言は誰もしていないのだが、何故か当人は随分と拘っているようだった。ヲトメゴコロというやつだろうか、とリクは適当に解釈する。
一階に下りるために階段に向かうと、下から妙に小柄な女子生徒が上がって来た。
「あ、お兄ちゃん」
気づいて顔を上げる少女の耳は尖っていた。とはいえ別に、魔物自体は珍しくもない。
「妹、さん……?」
シャーリィが戸惑ったのは、彼女の体格だった。本人には失礼だが、初等教育を受けている真っ最中にしか見えない。
「アリスだからな」
隣のリクは、本人に聞こえないようにという配慮か、囁くように言った。
「ああ……」
ようやくシャーリィも納得する。子供の姿から成長しない、突然変異のサキュバスの話は聞いた事があった。個体数が少ないらしいので、あくまで噂だけだが。
と、その少女はシャーリィの方を見て、少しだけ不機嫌そうに目を細めた。
「誰?」
「転校生」
単語での問いに、リクも単語で返す。
「シャーリィ=エルミーナです。よろしくね」
それでも愛想良く名乗ってみると、
「……リオよ」
渋々といった感じで相手も名乗った。
「一緒に帰るの?」
「いや。校舎を案内する」
リクが言うと、ふぅん、とリオは思案げに呟く。
「まあ、特別教室の場所とか分からないと困るわよね」
「いや、購買と学食だけど」
「だから、それは……」
わざとやっているんじゃないかと思うくらいに購買と学食を繰り返すリクに、流石にシャーリィも食ってかかろうとする。が、それより早く、リオが何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば、お兄ちゃん。メロンパン買っておいてくれた?」
「ああ、忘れた」
サラリとリクが言うと、リオは不満げに頬を膨らませる。
「約束したのにー!」
この学校の購買において、メロンパンは一番の人気商品である。炭水化物×炭水化物の最強の若者フード、焼きそばパンを押さえて、ぶっちぎりのトップなのだ。それ故、一年生で食べられる人間は少ない。
(……あれ、この子のおやつだったんだ)
確かにリクは、自分の≠ィやつだとは一言も言っていなかったが。
「あっ、あの――違うの」
何だか兄妹が仲違いしてしまいそうな雰囲気に、シャーリィは慌てて割って入る。
「私が今日、お昼に食べるものがなくて……それで――」
「食べちゃったんだ……アタシのメロンパン」
ジトッとした半眼で呟かれた言葉には、ありありと怨嗟が滲み、思わず一歩退いてしまう。
「お前は飢えて死にかけてる人間に、自分が食べたいからというだけの理由で食べ物を恵むのを拒むのか?」
「うっ、それは……」
真顔で言うリクに、今度はリオが怯んだ。
「いや、あの――私、いつの間に行き倒れてた事になってるの……?」
だんだんシャーリィにも、リクという人間が解って来た。表情が少なく声に抑揚がないせいで誤解していたが、どうも彼は随分とユーモアのある人間らしい。
休み時間の喧騒の中、リクがノートや教科書を片づけていると、クラスの女子生徒が声をかけて来た。
「ねえ、リク君。今日の放課後あいてる?」
「いや、予定がある。何で?」
「うん。もしよかったら、何処か遊びに行こうと思ったんだけど……」
残念そうに言う女子生徒にリクは、そう、と呟く。
「あ、じゃあさ――」
と、なおも女子生徒が何かを言おうとした瞬間、教室の戸口からリクを呼ぶ声が聞こえて来た。視線を向けてみると、顔を覗かせたのは上級生――生徒会の人間だった。
「悪い、リク。この間の資料の事で訊きたい事あるんだけど、ちょっと生徒会室まで来てもらっていいか?」
「分かりました」
クラス長であるリクは生徒会の人間とも面識があり、仕事が正確な事もあって、ときどき手伝いに駆り出されるのだ。
席を立ったリクは入口へ向かいながら、悪いな、と女子生徒に謝る。そのままドアをくぐろうとして、
「わっ!?」
入って来ようとしていた何者かとぶつかってしまった。
僅かによろめいたリクは反射的に手を伸ばし、相手が転倒しないように腕を掴み軽く引っ張る。
「悪い。大丈夫か?」
勢いがつきすぎて殆ど腕の中に納まる形になっていた相手は、シャーリィだった。
「ああ、うん。こっちこそ、ごめん。よそ見してた」
驚いたような照れくさいような表情で身を離し、小さく笑って見せる。
「どっか行くの?」
「生徒会の手伝い」
「おお! 優等生がいる」
「ただの体のいい雑用係だよ」
からかうように言うシャーリィに、リクは微苦笑で返した。そのまますれ違い、振り返って互いに軽く手を上げる。
ここ数日で、彼女とは随分と打ち解けていた。互いに名前で呼び合う程に。
それがリク自身、とても意外だった。
生徒会の手伝いを終えて廊下を歩いていると、前方から小さな人影が駆けて来た。
「お兄ちゃーん!」
「……でかい声で呼ぶな」
溜息混じりに言って、目前まで来たリオの顔に紙袋を押しつける。
「ぶっ! 何これ……?」
「メロンパン。この間の分と合わせて二つ」
ついでだから、帰り際に買って来たのだ。
リオは、ふおおおおお、と妙な鳴き声を上げ、目を輝かせている。身体が小刻みに震えているのは、感動ゆえだろうか。
(……安上がりな奴)
お菓子を餌に誘拐される日は、そう遠くないかも知れない。
「ああ、いたいた」
と、不意に後ろから声が聞こえて来た。振り返ってみると、先ほど教室で声をかけて来た女子生徒が手を振っている。
「ねえ、リク君。今度の休みの日、舞台見に行かない? 最終日なんだけど、チケットが余っててさ」
「舞台……?」
「うん。けっこう評判いいんだよ。感動的だって」
楽しそうに話す女子生徒に気づかれないように、リクは嘆息した。感動――自分には最も縁遠いものの一つだ。
「駄目よ!」
リクに代わり、リオが強い口調で断ち切るように言った。視線には敵意が覗いている。
「その日は、お爺さまの命日だもの。家族でお墓参りに行くから、暇じゃないの」
「まあ、そういう事だから。悪いな」
女子生徒へいちど視線を遣ってから、リクは妹を促して歩き出した。
「……ところで、お前は何の用だったんだ?」
「えっ!? い、いや……特にこれといって用は……」
「なかったのか……」
「……強いて言うなら、虫除け……かな?」
ボソリと呟かれたリオの言葉の意味が解らず、リクは怪訝そうに眉根を寄せた。
ある日の放課後、西日の射し込む図書館で調べ物をしていたシャーリィは、壁にかけられていた時計に目を遣り、慌てて立ち上がる。
「うわ! もう、こんな時間」
この学校の図書館は前の学校に比べて蔵書が豊富で、いつも気がつくと、ビックリするくらい早く時間が経過しているのだ。
閉館時間が迫っていたので、慌てて本を片づけ図書館を飛び出す。顔を憶えられてしまっているらしく、司書の女性がクスクス笑いながら扉に鍵をかけた。
誰もいない廊下は閑散とし、何となく淋しさを掻き立てられた。他に音がないせいで、靴音がやけに響く。
日の光が少しずつ赤みを増していく中で教室に辿り着くと、ふと中に人がいる事に気づいた。窓際の列の前から二番目の席。
(リク……)
何か書き物をしているらしい。そういえば今日、彼は日直だっただろうか。
滑らかに動く手元に視線が吸い寄せられた。男の子とは思えない真っ直ぐな長い指は、まるでピアノなどの楽器を演奏する人みたいだった。素直に、綺麗だと思う。
何となくシャーリィは、自分の手に視線を落とした。特に不格好という事もないが、爪の形が少し気に入らない。
パタン、と学級日誌が閉じられる音で、シャーリィは我に返った。気配で気づいたのか、顔を上げたリクと目が合う。
「あ……と、まだ残ってたんだ?」
「日直だからな。これを職員室に持って行ったら帰るよ」
指先で日誌を叩き、リクは立ち上がった。
「じゃあ、よかったら途中まで一緒に帰らない?」
「分かった。昇降口で待ってて」
そう言ってリクは、鞄を持って教室を出て行った。
昇降口に辿り着くと、靴箱に寄りかかったシャーリィが手の中に視線を落としているのが見えた。
「どうしたんだ?」
リクは、歩み寄りながら訊いてみる。
「時計の調子が悪いみたいで……」
そう言う彼女の手の中には、少しくすんだ銀色の懐中時計があった。
「ちゃんとゼンマイは巻いてるんだけど、ときどき時間がズレるんだよね」
何だか切なそうな声で、シャーリィは時計の表面を撫でる。よほど大事にしているらしい事が、仕種から見て取れた。
「時計屋に見てもらえばいい」
靴を履き替えながら提案すると、
「……何処?」
物凄く言いずらそうに彼女は応えた。
時計屋は一応、大通りにある。ただ、入り組んだ路地の先にあるので気づく者は意外と少ない。なので、この町に来たばかりのシャーリィが場所を知らないのも、無理はなかった。それでも時間を見つけては散策していたらしい彼女は、何だか悔しそうだったが。
「そういえば今日、リオちゃんはどうしたの?」
幸い時計は、幾つかの部品を交換しただけで正常に動くようになった。その帰り道で、ふと思い出したようにシャーリィは口を開いた。
「友人と遊ぶ約束があったらしい」
「そっか」
確かに彼女なら、何かしらの予定でもない限り、リクが日直の仕事を終えるまで待っているような気がした。というか待っているだろう、間違いなく。
「仲いいよね、リクとリオちゃん」
「……お前は目か頭か、もしくはその両方がおかしいから、早めに医者へ行け」
「あっ、酷い。いくら照れ隠しでも、そんな言い方しなくてもいいじゃない」
「……照れ隠し?」
不愉快そうに眉間にシワを寄せるリクに、シャーリィは小さく噴き出した。そのまま視線を先へやると――
「あれ? ねえ、あれリオちゃんじゃない?」
やや前方に、同い年くらいの二人の少女が歩いている。楽しげな笑顔を覗かせながら歩く片方には、先端が丸みを帯びた三角形――言い方を変えるならハート型に尖った尻尾が揺れていた。
やはり人間のものより大きな尖った耳はよく聞こえるのか、或いは偶然か、それがピコピコ動くと少女が振り返った。そして物凄く不機嫌そうに、シャーリィを睨みつけて来る。
「……アンタ、何してんのよ」
「え……と、何って言われても……」
「アタシがいないのをいい事に、お兄ちゃんをかどわかして――」
「かどわかされた憶えはないけどな」
横から割り込んだリクが、ワシッとリオの頭に手を乗せる。というか掴む。
「時計屋に案内して来たんだ」
「時計屋〜?」
不審げに言うリオに、シャーリィは直った時計を差し出して見せた。
「うん。父さんから貰った時計」
パカッと蓋が開いたそこでは、順調に秒針が時を刻んでいた。
「ふぅん……いい時計ね」
「あげないよ?」
「アンタ、アタシを何だと思ってんのよ!」
途端に真っ赤になって眉を吊り上げるリオに、ごめんごめん、とシャーリィは謝る。ちなみにその間、リクはリオの連れの少女と挨拶を交わしていた。
休日のリクは、基本的にはバイトに精を出す生活をしていた。表向きの理由は、自分の自由になるお金を自分の手で稼ぎたいから。裏の理由は、なるべく家にいたくないからである。
大通りを一本入ったところにある、小さなカフェが彼のバイト先だった。小さくとも日当たりは良く、大通りからも住宅地からも近いという立地の良さは、客の入りに見事に反映されている。
平日は、学校が終わった夕方から。休日は、ほぼ一日中。リクに用があるなら家を訪ねるより、ここへ来た方がいいというくらい、彼は多くシフトに入っていた。
今日も今日とて、店は盛況だった。
本当は一日休みを取っていたリクだったが、両親の都合で墓参りが半日で終わったため、何となくここへ足を運んだ結果、店長に救世主を見るような視線を向けられ、引き摺り込まれたのだった。そのままキッチンへ直行である。
店内の様子を一言で表すのなら、戦場、だった。休日の午後には珍しくもない風景で、カップルや親子連れ、たまたま立ち寄った旅人、わざと時間をずらして昼食を摂りに来た者たちなどがひしめいている。
「悪い、リク。それ終わったら、ホールに出てくれ!」
入口から顔を覗かせ、店長が怒鳴るように言う。
「分かりました!」
同じように返したリクは、出来あがった料理をウェイトレスに渡してから、更衣室へ向かった。ロッカーから引っ張り出したウェイターの制服に着替え、急いでホールへ飛び出す。
カウンターでは店長がコーヒーを淹れており、その隣では彼の妻がテイクアウト用のサンドイッチを客に手渡していた。更に隣でウェイトレスの一人が、並ぶ客を相手に清算作業を行っている。
(ここ半年でも、いちばん忙しいな)
そう思いながらリクは両手に乗せた幾つもの皿を、未だに料理を待って軽く苛立っている客の元へと運んで行った。
夕方に差しかかり、ようやく店内は落ち着きを取り戻し始めていた。店員も客も殺気立っていた時間は過ぎ、カフェという名前が持つ何処か優雅なイメージに、現実が釣り合って来たところだった。
そんな中リクは何故か、まだホールにいた。本来はキッチンスタッフとして雇われているのだが、客が減った結果キッチンにそれほど人員が必要ではなくなってしまい、惰性でホール業務をこなしているのだった。
リリン、という耳に心地いい金属製のドアベルが響き、カウンターでグラスを磨いていたリクは顔を上げる。と、入口で驚いたように立ち尽くしている少女と目が合った。
「あ……え? リク?」
「いらっしゃいませ、お客様。お一人ですか?」
「あ……はい」
「では、お席の方へご案内いたします」
完全に営業モードで、涼しげで穏やかな微笑など浮かべているリクに度肝を抜かれたのか、シャーリィは我が目を疑うような表情で彼の後に続いた。
「ビックリした。リクって、ここで働いてたんだ」
案内された席で椅子を引いてもらいながら、普段とは違う彼の表情を見上げる。
「表情や言葉遣いまで違って、別人みたい」
普段のリクを知る者からは、二重人格、だの、何かに取り憑かれた、だのと散々な言われようだが、むしろ、普段は素っ気ない彼にもてなされたいという動機で店を訪れる学友も少なくない。女子生徒は彼への憧れから、男子生徒は笑い話の種にするために。
リクは周囲を見回してから、そっとシャーリィの耳元へ顔を寄せる。
「仕事中は、あの喋りだ。悪いけど相手はしてやれない」
他の人間に聞こえないように囁いた。
「あ、そっか。ごめんね」
反省したような表情で彼女が謝っていると、別のウェイトレスが水の入ったグラスとおしぼりを持って来た。
「では、ご注文がお決まりになりましたら、お呼び下さい」
瞬時にウェイターとしての表情に戻ったリクは、頭を下げてから奥へ入って行った。
「ねえ、転校生。あんた、この間の休みの日に、リク君のバイト先に行ったでしょ……」
「え? うん」
転校してから随分と馴染めたと思うクラスにも、やはり、未だに殆ど話した事のないクラスメイトというのはいた。そんな人間から突然、しかも何やら険悪な表情で話しかけられ、シャーリィは僅かに警戒しながら相手を見やる。
「しかも、それ以降、ちょいちょい行ってるよね」
「まあ、ごはん食べるのに都合いい場所だし」
なるべく自炊を心がけてはいるが、悲しいかなレパートリーには限りがあり、そして人間は飽きる生き物である。そんな時には、あの店で食事をするのが習慣になっていた。
家から近く、料理が美味しくて、店の雰囲気もいい。おまけに知り合いがいるというのは、食事をする空間として決して悪くはない。一人暮らしの寂しさも紛れるし。
「……まあ、それだけならいいけど。リク君の邪魔なんかするんじゃないわよ?」
「うん。気をつけてるよ。向こうは仕事だもんね」
愛想よく応えながらも、内心では、成程、と思う。要するに、これは牽制、或いは警告だろう。私のものに近づくな、手を出すな、という。
(リクが聞いたら、怒るかな……?)
少し考えて、否定する。きっと彼は、蔑むような冷たい視線を向けるだけだろう。
彼はおそらく、誰かに所有物扱いされる事を嫌うだろうし、誰かを所有物扱いするような人間には近づこうとはしない気がする。その程度にはシャーリィも、リクという人間を知る事が出来ていた。付き合いの短いシャーリィですら。
(滑稽だなぁ……)
抱いた感想は、果たして誰に向けたものだったのだろうか。自分でも、よく分からなかった。
昼休みのザワつく教室に、失礼しま〜す、という幼い声が溶けていった。
「ヤッホー、お兄ちゃん」
「リオか。何の用だ?」
トコトコと近づいて来る妹に目を向け、リクは問う。
「……用事がなきゃ、来ちゃいけないの?」
「ああ」
平然と即答するリクに、リオは不満げに頬を膨らませた。
「お兄ちゃん、ノリ悪〜い」
そんなやり取りにクスクス笑いながら、シャーリィは近づいて行く。
「こんにちは、リオちゃん」
「……何よ、泥棒猫」
こういうやり取りも、流石に慣れた。慣れたのはお互い様なのか、何となくリオの表情や言葉に含まれた敵意が薄れ、その分うんざり諦めたような雰囲気が感じ取れるようになっていた。
「よかったら一緒に、お昼食べようかと思って」
「何でアタシが、アンタとお昼食べないといけないのよ」
「ほら、初めて会った日にメロンパン取っちゃったから、お詫びに……」
「遠慮するわ。アンタの作った料理なんか食べて、お腹壊したくないから」
取りつく島もなく、リオはプイッと顔を背ける。
「……お前の作った料理で寝込んだ事あったなぁ」
「よ、余計なこと思い出さなくていいの!」
遠い目で呟くリクにリオが真っ赤になり、シャーリィは声を上げて笑った。
いくら友達との約束があったとはいえ、自分がいない間に兄が誘惑されたというのは、リオにとって由々しき事態だった。
再発を防ぐためにもホームルームが終わると同時にリクの教室へ向かおうとしたのだが、そんな日に限って担任から手伝いを頼まれてしまうのは、何者かの悪意を疑いたくなってしまう。
時間的に残っている生徒は殆どおらず、リクもまた先に帰ってしまっている可能性が高かったが、念のため教室まで行って確認しようと思い階段を駆け上がった。
角を曲がろうとしたところで人の声が聞こえて来て、リオは反射的に足を止める。そっと覗いてみると、リクの教室から出て行く数人の女子生徒たちの姿が見えた。
(アイツ……シャーリィ、だっけ?)
その中の一人に見憶えがあり、リオは訝るように目を細めた。遠目には仲の良いグループに見えなくもないが、それにしては感じる雰囲気は険悪である。
(……あんな奴、どうでもいいけど)
それでも何となく気になり、尾行してみる事にした。
校舎裏、壁を背にして数人の女子生徒に囲まれていた。みな一様に不機嫌そうな表情をしており、おそらく自分も同じような顔をしているのだろうとシャーリィは思った。
「何よ、その顔」
女子生徒の一人が言う。
「あんた最近、調子乗ってるよね」
これは別の女子生徒。
「最初から生意気でムカつく女だったけど、それでも大目に見てあげてたんだけどね。さすがに、目に余るっていうか……」
まるで聞き分けのない子供に呆れるような態度で言うのは、シャーリィのクラスメイトだった。暇さえあればリクに話しかけている少女だ。
「わざわざ警告までしてあげたのに、理解できなかったの?」
頭の悪い人間を嘲るような口調だった。
「……相手にしてもらえないのが悔しくて、だけどリク本人にそれを言えないから他人を僻んで、でもそんな自分を認められないから必死で体裁を取り繕ってたのは理解できたけどね」
付き合う義理などないシャーリィは、いきなり核心をつく。数の上では不利だったが、そんな理由で屈するのは嫌だった。
もちろん怖さはある。だが自分は決して、他人に恥じるような方法でリクと仲良くなった訳ではないのだ。どんな目に遭おうとも、心だけは絶対に折らない。
図星をつかれた女子生徒たちは、顔を真っ赤にして掴みかかって来る。
「あんた、リク君に馴れ馴れしいのよ!!」
「それが本音? 相手にされなかった理由を考えた事があるのっ!?」
伸ばされる手を撥ね退け叩き落としながら、シャーリィも言い返した。初めのうちは冷静でいようと努めていたのだが、だんだん腹が立って来る。
「それだけ想ってるなら、何で、もっとリクを見ようとしなかったの! 何で、ちゃんとリクを知ろうとしなかったの!!」
それが何より不愉快だった。ちゃんと見ようとすれば、リクがどういう人間を嫌うかくらいは分かる筈なのに。
けれど彼女たちはそれをせず、ただ自分を押しつけただけだ。無条件で認めろと迫る事しかしなかったのだ。それをリクが、どう思うかも考えず。
「煩いっ!!」
癇癪を起こしたような叫びと共に伸ばされた手が、シャーリィの頬を掠める。爪の先端が皮膚を削り、薄く血が滲んだ。
(このっ!)
誰かに髪を掴まれながらも、目の前の女子生徒の頬を張り倒す。
「やったな、このブス!!」
その女子生徒は他の二人に指示し、シャーリィを地面に引き倒させる。そのまま押さえつけられた彼女の頭を蹴りつけようとした瞬間――
「何してんのよ、アンタたち!!」
素早く駆け寄って来た小柄な影が、女子生徒に体当たりを食らわせた。倒れ込む相手に構わず、シャーリィを押さえ込んでいる二人を、片方は蹴りつけ、もう片方は尻尾で殴打した。
「リ、オ……ちゃん?」
呆然と見上げて来るシャーリィを鋭く一瞥し、
「いつまで寝てんのよ!」
ピシャリと言いながら引き起こす。
「あんたは関係ないでしょ!!」
尻尾が顔面に当たったらしい女子生徒が、憎々しげな表情を向けて来た。
「いいよ。ついでに、こいつもやっちゃおう」
体当たりされた女子生徒が、それを制す。
「こいつも前から気に入らなかったんだよね……血も繋がってないくせに、妹ぶってベタベタして」
その一言で、この諍いの原因を悟ったリオは、ふん、と鼻を鳴らす。
「魂の底から憐れみたくなる程、頭が馬鹿ね。血が繋がってないからこそ、妹ぶるし、家族ぶるのよ!」
遥か高みから、殆ど垂直に見下すような視線だった。
「わけ解んねえよ!!」
女子生徒は苛立ち任せに叫んで、リオに掴みかかる。けれどシャーリィには、彼女の言葉の意味が少し解るような気がした。
リオは小柄な体格を活かして相手の手を躱し、傍らを通り抜ける際に尻尾で足元を掬う。無様に転倒した女子生徒を見下ろし、腰に手を当てた。
「血も繋がってないアタシを家族として受け入れてくれた人たちに対して、本当の家族として接するのは、最低限の礼儀で誠意でしょ?」
そんな事も解らないの、とリオは嘆息し、諦めたように頭を振った。それから、チラリとシャーリィの方を一瞥する。
まさかアンタまでコイツらと一緒で、『解んない』なんて言うんじゃないでしょうね。そう言われた気がしたので、否定の意味を籠めて少しだけ微笑い、頷き返した。
「なに勝ち誇ってんだよ!!」
横から別の女子生徒の声が聞こえ、二人揃って身構える。が、やって来た攻撃は思わぬものだった。
バシャアッとリオに、頭から水がかぶせられる。途中から一人見かけないと思ったら、近くの水道まで水を汲みに行っていたらしい。
流石に不意を衝かれたのか、リオの動きが止まった。濡れた服がまとわりついて動けなかったのかも知れない。その隙を逃さず、女子生徒が再び水の入った容器を持ち上げる。
「っ――!」
咄嗟にシャーリィはリオの前に出てそれを止めようとするが、僅かに間に合わず、自分もズブ濡れになった。
「はっ! バッカじゃねえの」
相手がせせら笑った瞬間を狙い、
パァン!
力いっぱい頬を張る。絶対に隙が出来ると思ったのだ。
「この――」
相手が反撃に出ようとした瞬間、今度は反対の頬を張る。
「……あんたたち、本っ当に最低!」
濡れた髪を掻き上げたシャーリィの目には、先程までとは比べ物にならない程の怒りが燃えていた。
「手前ぇ!」
後ろから掴みかかろうとした女子生徒のお尻に、今度はリオが鋭く尻尾を叩きつける。バチィン、という凄まじく痛そうな音がした。
「……最初は、馬鹿シャーリィだけ引き摺り出せればいいと思ってたんだけどね。アタシも濡れ鼠にされて喜ぶ趣味とかないし、チョットお仕置きが必要よね」
ゆらり、とリオの周囲で陽炎のように魔力が揺らぐ。
「どうされたいかしら? 煮られたい? 焼かれたい? それとも無様に発情させて、淫らなメス豚として裸で大通りに放り出してあげましょうか」
酷薄に細められたリオの目を見て、ようやく女子生徒たちは、彼女が魔物であった事を思い出したらしい。ひっ、と怯えたような声を洩らして後退った。
「何人来てくれるかしらね、お客さん。間違いなく、お兄ちゃんは行かないけど。ああ、でも……どうしてもって言うなら、アタシが連れてってあげてもいいわよ? きっと最高に軽蔑しきった視線を向けてくれるわ。濡れちゃうかもね、アナタたち」
クスクスとサディスティックに微笑うリオを前にカチカチと歯を鳴らしながら、自分たちが何に喧嘩を売ってしまったのか理解した女子生徒たちは、我先にと逃げて行った。
(……うわあ)
余談だが、シャーリィも引いていた。恐怖からではないが。
「……はふぅ」
女子生徒たちの姿が見えなくなると、リオは胸を撫で下ろすような溜息をつき、ペタンとその場に座り込んでしまった。
「えっ……ちょっと、リオちゃん?」
慌てて駆け寄り、その肩を支える。と、視線を上げた先で、少女の頬に透明な雫が流れるのが見えた。先程かけられた水と思いきや、どうもそれは汗らしい。
「アイツらが逃げるのがあと十秒遅かったら、ヤバかったわ……」
肩を上下させ、ゆっくりと呼吸を整えているリオを見て、シャーリィはアリスが元々それほど戦闘的ではない事を思い出した。おそらく先程のように魔力を可視化させ、揺らがせるだけで精いっぱいだったのだろう。
「……ありがとう」
何だか目頭が熱くなって、シャーリィは小さな少女を抱きしめた。
「アンタにお礼を言われる筋合いは、ないわ」
応えるリオは、とても複雑な表情をしていた。
シャーリィが一人暮らしをするアパートは、学校から徒歩十分ほどの所にあった。
室内には意外にも物が少なく、何処か生活感が感じられない。それが、リオには不愉快だった。リクの部屋みたい、などと思ってしまった頭を、とりあえずその辺の壁に思い切り叩きつけたい。
「え? 何しようとしてるの?」
部屋の主が不安そうな顔をするので、やめておいたが。
勝敗がよく分からないのでとりあえず勝った事にしておいた喧嘩の後、シャーリィはリオを連れて自宅へ帰って来た。リオの家は学校から二十分ほど歩くそうで、濡れたまま帰すのは不安があったのだ。
「タオル出すから、服脱いで。すぐ、お風呂沸かすから」
「……そこまでしてもらわなくても、いいわ」
遠慮がちに言うリオに、駄目、という言葉と共にタオルが投げつけられた。
キッチンの方から戻って来たシャーリィは既に下着姿になっており、その上からタオルを被っている。
「はしたない女ね」
「リオちゃんも、はしたなくなるの!」
「ちょっと、こら! 変なとこ触るんじゃないわよ!」
「じっとしてないからでしょ!」
ギャアギャア喚きながらも、ものの数分でリオは裸にされてしまった。
自分を守るように身体にタオルを巻きつけ背中を向けるリオに、シャーリィは小さく噴き出す。何だか、懐かない子猫のようだった。
再びキッチンへ行きお茶を淹れ、マグカップを二つ持って戻って来ると、片方を差し出す。
「お風呂沸くまで、これ飲んでて。それから――」
そう言って、ベッドのサイドテーブルに乗っていた紙袋を手に取った。
「これも」
「何よ」
受け取って中を覗いたリオが、そのまま固まった。
「…………いいの?」
ボソリと呟く。若干悔しそうに。
袋に描かれているのは、この町でも一、二を争う有名なパン屋のロゴだった。そして袋の中身は、メロンパン。一つで通常のメロンパン三つ分の値段という高級品だった。それが二つも。
「どうぞ。元々リオちゃんにあげるつもりで買ったものだから。やっぱり、メロンパンのお詫びはメロンパンでしなきゃね」
そう言って笑うシャーリィに、リオは何故かむくれていた。何となく負けた気分なのだ。
だからメロンパンを一つ取り出して、袋を彼女の方へ差し出し――否、突きつけた。
「え……?」
「……アタシが取られたメロンパンは、一つだけよ。それから、そのリオちゃん≠トいうの、やめて。上から見下されて子ども扱いされてるみたいで、不愉快だから」
自棄っぱちでメロンパンを頬張るリオの様子に苦笑しながら、シャーリィは嬉しそうに袋と言葉を受け取った。
朝の喧騒の中で廊下を歩き教室に到着すると、戸口の所で友人とお喋りに興じていた女子生徒がヒラヒラと手を振って来た。
「おはよ、リク君! ねえ、今度さ――」
「……鬱陶しい」
相手の顔も見ずに、リクは通り過ぎる。
「事あるごとに寄って来るな。蝿か」
「え……」
周囲からの失笑の中で呆然とする女子生徒にそれ以上興味を示さず、リクは真っ直ぐシャーリィの許へ向かった。
「妹が世話になったな」
「ううん。むしろ、助けられたの私の方だよ」
「その後も、だ」
「ああ……」
結局、濡れた服は乾かなかったので、リオにはシャーリィの服を貸したのだ。色々なところのサイズが合わず、本人は屈辱的な表情だったが。
「こんど何かお礼をするから、考えといてくれ」
そう言い残して、リクは自分の席へ向かって行った。
その答えとしてシャーリィが『リクとデートしたい』などとのたまうとは、流石に予想していなかった。リクにしてみれば、お礼をするのはリオの役目だと思っていたのだから、その答えは完全に寝耳に水である。
とはいえ、そこまで説明しなかったのは自分なのだから、いちおう非はこちらにある。そう諦め気味に言うリクに、リオは強硬に反対した。肩を怒らせ直談判に行くと、シャーリィはアッサリと言ってのけたのだ。
『だって、そう言えばリオがビックリするかなと思って』
フルフルと肩を震わせるリオの『こ……の、クソアマー!!』という叫び声が、学校中に響いたとか響かなかったとか。
その後シャーリィが、お礼の内容を『三人で遊びたい』に変更した事で、兄妹の休日の予定が決定した。余談だが、リクのバイト先は店長夫婦の都合で、この日は臨時休業である。
待ち合わせ場所になった噴水広場で兄妹が待っていると、暫くしてシャーリィが息を弾ませながら駆け寄って来た。
「ご……ごめん、遅くなって」
「いや。いま来たところだよ」
事実とはいえ、まるで本当のデートのようなやり取りに、リオのこめかみが引きつる。
「……随分おめかしして来たわね」
「え……そうかな? ケバい?」
不安そうに自分を見下ろすシャーリィに、リオは、ふん、と顔を背けた。今のは、ちょっとした嫌がらせである。
遊ぶといっても、小さな町では出来る事は限られている。服屋や本屋、小物屋などを冷やかしたり、屋台でクレープを買って食べるくらいしかする事はない。
ただ、他愛もない事を話しながら歩くだけでも、不思議と有意義な時間を過ごしているような気がしてくるのが、リオもシャーリィも意外だった。
もっとも、ナチュラルにクレープの取り替えっこなどしているリクとシャーリィに、リオの堪忍袋の緒がキレそうになったり、その報復として、昼食のために入ったレストランで、運ばれて来たシャーリィの料理にリオがタバスコを入れて彼女を泣かせたりと、ハプニングもあったが。
「……どうして、ああいう意地悪をするかな」
「そんなの、アンタが嫌いだからに決まってるでしょ」
何を今更、と言わんばかりのリオに、シャーリィは苦笑する。
それぞれに飲み物を買って、休憩するために公園へ向かった。青々とした芝生の上では、仲睦まじげなカップルや家族連れなどが憩いの時を過ごしている。
キャッチボールをしている少年たちや、飼い犬と散歩している初老の男性もいた。
「わんこ!」
キュピーン、と音が聞こえそうな程に目を輝かせ、シャーリィが走って行く。
「……ガキね」
呆れたように言いながら、リオとリクも後に続いた。
飼い主の男性と二言三言会話をしたシャーリィは、彼の傍らに大人しく座る大型犬を嬉しそうに撫で回す。殆どリオと変わらない大きさだった。
その大型犬はリオを見つけた途端、耳を立ててそれまでより激しく尻尾を振り始めた。シャーリィの手をすり抜け、一目散に彼女に突撃する。
「ちょ、ちょっと!?」
焦ったような表情で逃げ出すと、大型犬は更に足を速めて彼女を追い始めた。
(……同族だとでも思われたのかもな)
尖った耳とか、尻尾とか。
リクは、かなり投げやりにそれを眺めていた。
「何で追いかけて来るのよー!」
「リオが逃げるからだよ! 遊んでもらえると思ってるの」
シャーリィが彼女たちを追いかけながら叫ぶ。
「フレッド、ステイ!!」
強い調子で鋭く言うとフレッドと呼ばれた大型犬は足を止め、名残り惜しそうに尻尾を振っていた。なだめるように撫でながら、飼い主から預かって来たリードを首輪に付ける。
リオは肩で息をしながら、そんなフレッドとシャーリィを見やる。
「く、屈辱だわ。アンタに助けられるなんて……」
「まあまあ……借りは返したぜ、ってやつ」
悪戯っぽく笑うシャーリィに憮然となり、リオは顔を背けた。
「こんなもんで釣り合いが取れるなんて思わない事ね」
「ほほぅ……」
ニヤリ、とシャーリィは人の悪い笑みを浮かべ、リードを手放す。
「フレッド、ゴー!」
リオを指差すと、フレッドは一声鳴き、スタートを切る。
「ちょっ!? 何でアンタ、さっき会ったばっかの犬を手懐けて――来〜る〜な〜!!」
息も整わないまま、リオは再びパタパタと逃げて行った。
そこから少し離れた所で、リクは飼い主の男性と話していた。
「可愛らしいですなぁ……恋人と妹さんですかな?」
「片方はクラスメイトで、もう片方は……フレッドみたいなものです」
無表情で視線だけを向け、リクは答えた。
夕方になり、フレッドと飼い主は帰って行った。
「そ……そろそろ、お開きかしらね」
「そう……だね」
女性陣は息も絶え絶えで、言葉を交わす。
逃げ回るリオを満足げに眺めていたシャーリィだったが、途中で発想を転換したらしいリオが彼女の方へ向かって来た事で状況が変わった。遊んでくれる人が二人になったと解釈したらしいフレッドによって、二人まとめて追い回されたのだ。
燃えるように鮮やかな夕焼けの中を、三人並んで歩く。示し合わせたように、リクを真ん中に挟んで。
待ち合わせ場所になっていた噴水広場まで来たところで、クルリとシャーリィが振り返った。
「今日は二人とも、ありがとね。凄く楽しかったよ」
「アタシは無駄に疲れただけだったわ」
まだフレッドの件を根に持っているらしいリオは、半眼で彼女を睨む。
「おまけに、事あるごとにお兄ちゃんとイチャイチャして……」
「あはは……。最初で最後なんだから、ちょっとくらいイイ思いしてもいいでしょ?」
茶目っ気たっぷりに言うシャーリィだが、リオは聞き捨てならないとばかりに彼女の顔を、睨むように凝視する。
「最初で最後って、どういう事よ……?」
シャーリィは口が滑ったというように、口元を指先で隠して目を逸らした。
「また、転校でもするのか」
それまで聞いているだけだったリクの言葉に、彼女は驚いたように目を見開く。
「何で分かったの?」
「当てずっぽうだよ。リオが、お前の部屋には物が少ないと言っていたから、長居はしないのかなって」
それだけでは根拠として弱いので、おそらく本当に当てずっぽうだったのだろう。
「ず、ずいぶん急じゃない。アンタ、まだ転校して来て二週間くらいしか経ってないのに」
「うん……。初めから、二週間きっかりの予定だったの」
動揺を隠すように平静を装うリオに、シャーリィは申し訳なさそうに言う。
「ごめんね、内緒にしてて。湿っぽくなるのって苦手で」
「な……なる訳ないでしょ。アンタとアタシの間柄で」
何故か怒ったように赤い顔で言うリオに苦笑しながら、そうだね、と頷いた。
「でも、湿っぽくなるのは私の方なんだけどね」
シャーリィは照れくさそうに頬を掻く。
「改めて、ありがとう……リオ、リク。最後に楽しい思い出が出来たよ!」
言葉通り湿っぽくなりそうなのか、努めて明るく、振り切るように彼女は笑った。
「送って行かなくて大丈夫か?」
そのまま踵を返したシャーリィに、リクが声をかける。
「名残り惜しくなっちゃうから、いいよ。ここでスッパリ、お別れしよ?」
顔だけ振り向かせてヒラヒラと手を振りながら、シャーリィは夕焼けの中を帰って行った。
突然のシャーリィの転校は、クラスメイトたちに少なからず衝撃を与えた。
担任の説明では、もともと彼女は父親の仕事の都合で別の大陸の学校へ転校する筈だったのだが、その父親に飛び込みの仕事が入った関係で二週間の空き時間が出来てしまい、それを埋めるためにこの学校へ来たのだそうだ。
彼女がいなくなる事を喜んだ生徒も、一部にはいた。だが大半の生徒は、男女を問わず残念に思っているようだった。そしてリクは――
「何で、ここに……」
大通りに停まった長距離馬車に、旅行用の大きなスーツケースを積み込もうとしたところで、時間的にいる筈のない二つの人影を認めたシャーリィは驚愕に目を見開く。
「黙って行こうなんて、随分と礼儀正しい事ね」
腕組みをして目を細めたリオが、苛立った猫のように尻尾を左右に振っていた。その隣にはリクもいる。
「見送りに行く、と言って聞かなくてね」
「いっ――言ってないわよ、そんな事! 負け犬の敵前逃亡っぷりを見に来ただけで……」
溜息混じりに言うリクの言葉を掻き消そうとするように、リオは大きな声で喚いた。
「ありがと、リオ……」
シャーリィは彼女の前へ行き、警戒するように身構える様子に小さく微笑いながら、その身体を抱きしめた。ビックリした小動物のように身体を硬くするリオの耳元へ口を寄せ、貴女に会えて良かった、と呟く。
「リオは私のこと嫌いだったかも知れないけど、私はリオの事けっこう好きだったよ」
「う……」
照れくさいのか何なのか、リオは言葉に詰まったように小さく呻いた。
「元気でね……?」
小さく頬に口づけ微笑むと、真っ赤な顔で睨み返された。その瞳の奥が揺れている。
それからシャーリィはリクに向き直り、右手を差し出した。
「リクも、ありがと。色々お世話になりました」
「俺は、言われた事をやってただけだよ」
最後まで態度の変わらないリクが握手に応じると、少しだけはにかんだような表情を見せたシャーリィが、リオの方へ視線を向け、ごめんね、と口を動かす。次の瞬間――
「なっ――!?」
全く想定していなかった事態に、リオの思考が停止した。
シャーリィはリクの手を引っ張ると、つんのめった彼の頬に手を添えて、その唇を重ねたのだ。
「なっ……何してんのよアンタ!!」
慌てて間に割り込み二人を引き剥がすと、シャーリィは悪戯っぱい笑顔でウィンクする。
「海の向こうへ行っちゃうんだから、このくらいのハンデはあってもいいでしょ?」
「いい訳ないでしょ! お兄ちゃんが汚れるじゃない!!」
真っ赤になって追いかけて来るリオからひとしきり逃げ回り、やがてシャーリィは馬車へと逃げ込む。もう発車の時間だった。
「逃げるな、馬鹿シャーリィ!」
「敵前逃亡っぷりを見に来たんじゃなかったっけ?」
馬車のドアを叩くリオを窓から見下ろしながら、シャーリィは何処か嬉しそうに笑う。
リオは屈辱的な気分で彼女を見上げていた。だから、そこに心からの親しみが籠められている事には気づかなかった。気づいたのは、離れて見ていたリクだけだ。
御者は仕事道具が傷むとでも思ったのか、やや唐突に馬車を発車させた。
遠ざかって行く馬車――というか窓から上体を覗かせて手を振っているシャーリィを、リオは悔しげに睨みつけている。
ゆるりとカーブしている道の向こうに馬車が消える瞬間、
「大好きだよ、リオ!!」
シャーリィが大きな声で叫んだ。
「……」
見えなくなった馬車を暫く睨みつけていたリオは、やがてゆっくり俯く。彼女が最後に叫んだ言葉が、耳の奥にいつまでも響いていた。
大好きだよ。
恥ずかしくてリオには決して言えない言葉を、シャーリィは、いともアッサリ言ってのけたのだ。だから――
「……やっぱアタシ、アイツ嫌い」
「そうか……」
近づいて来たリクが、ポツリと言う。
「なら向こうが落ち着いた頃、手紙でも出して改めてそう伝えればいい」
「うん……」
意外にも素直に頷いたリオにリクが視線を向けると、ハッとしたように彼女は慌てて付け足した。
「き、気が向いたらね!」
今日は客の入りが少なかったため、臨時で休憩を設けることにした。
店内に一揃いだけあるテーブルセットに腰を下ろし、リオは物憂げに溜息をつく。
「……嫌な事を思い出したわ」
品質には問題ないものの、時間が経って少し硬くなってしまい、売り物にはならなくなったケーキをつつきながら言うと、ティーポットに入った紅茶とカップを持って来たリクが怪訝そうに眉根を寄せた。
カップを両手で持ち、淹れたての紅茶に息を吹きかけて冷ましながら飲んでいると、カランコロン、とドアベルが鳴る。
「い、いらっしゃいませ!」
少しだけ焦りながら、いつもの営業スマイルを浮かべたところで、リオの動きが止まった。
「うわぁ! 本当に、ぜんぜん変わってないんだね!」
戸口に姿を現した女性が、そう言って表情を輝かせた。だが驚きすぎたリオは、何の反応も出来ずにいる。だから代わりに、リクが彼女に声をかけた。
「髪を伸ばしたのか」
「うん。へへ……どうかな? おかしくない?」
女性は背中に届く程になった赤みがかった髪をつまみ、少しだけ不安そうに言う。
「いいんじゃないか」
リクがそう答えると、安心したように息を吐いた。
「な、な……何でアンタが、ここにいるのよ!?」
ようやく復活したリオが彼女を指差して叫ぶと、
「勿論、大好きな友達に会いに来たからだよ」
と女性は微笑う。言外に、目的はリクではない、と言っていた。
一点の曇りもない真っ直ぐな笑顔を向けられたリオは、意表を衝かれたように真っ赤になって俯いた。またしても、自分には言えない事を容易く口にしたのだ、この女は。
やがて怒ったような顔で相手を睨みつけ、叫ぶ。
「やっぱアンタ、大っ嫌い!!」
シャーリィ=エルミーナは、あの日と同じように、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
10/12/26 16:53更新 / azure
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