その時、背後でどさっと何かが落ちる音がした。その方向に目をやると猫のぬいぐるみが床に転がっている。
　…考えてみれば、彼は全て見ていたわけだ。

「ピーピングは良くないぞ、キミ」

　いや、覗いていたわけではないか。
　気恥かしさを覚えながらベッドから離れ、彼をまた椅子の背もたれにひっかける。…アリスは彼の事を覚えているのだろうか。あんなに喜んでくれたんだ、覚えているにきまっている。
　そこで、机の上に何かがあるのに気がついた。
　机の上に広げてあったもの、それは…以前僕があげた日記帳。その日記帳が僕には見慣れた黒色のもので埋め尽くされていた。

「これは…」

　おそらく少し前までは真っ白だったのだろう。
　そこに砂粒のような大きさだが、全てが残っていた。僕の力によって、全てが。
　僕の声で僕が伝えた、彼女への気持ちも。
　彼女の声で彼女が伝えた、僕への気持ちも。

「…」

　悪魔の所業だ。忌々しい力だ。僕の力は覚えていたくない事に限って記録してしまう。昔、初恋の女の子にフられた時もそうだ。なぜ紙にばかり記録を繋ぎ止めて、彼女の記憶を繋ぎ止める事は出来ないのか。
　ふと、彼女にこれを突き付ければ思い出すだろうかと考えた。考えて、やめた。
　昨日、僕たちは互いの合意のもとで関係をもった。だが今日の彼女はこの事を知らない。自分の知らないところで抱かれるというのは気持ちのいいものではないだろう。
　上手く言えないが、これを突き付ける事は昨日の、今日の彼女を穢す事のように思えた。そして僕は、彼女を穢すことなどしたくなかった。今日のこの逢瀬を穢れにはしたくなかった。
　どうせ彼女は忘れているんだ。なかった事にしよう。
　覚えているのは、僕だけでいい。
　彼女はまた、真っ白に戻るのだ。
　全部、なかったことに。
　裏面に記入がない事を幸いと思い、僕はそのページを丁寧に切り取ってからゆっくりと日記帳を閉じた。ページを折り曲げてポケットに入れ、僕は部屋を後にした。

＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿


「…お…れお………レオ！」

　彼女が大きな声をあげた。
　その声で僕は、スプーンを持ったまま呆けていた事にがついた。

　出来れば起きたくなかった。行為のせいで体がだるいのもあるが、アリスの顔を見たくなかった。彼女の顔を見るたび、昨日のことが思い起こされてしまうだろうから。
　だがそうはいかない。この家に一緒に住む限り顔を合わせなければいけないし、後援会に行かなければ食事にありつけない。起き上がらざるを得なかった。
　それから嫌々起きても、彼女の記憶を確かめるという事はしなかった。僕は確かめるのが怖かった。わずか数時間の出来事が彼女の中に存在しないという事を僕は恐れていた。

「アリス、食事中は静かに…」
「スープをだらしなくこぼす人に言われたくなんかないわよ」
　
　彼女が僕の胸元を指さす。あぁ、見事なシミが。

「…大丈夫？調子悪いの？」
「いやぁ、大丈夫だよ」
「うそ。どこにシャツをうら返しに着て、家じゅうのドアに頭をぶつける大丈夫な人がいるの？」
「あは、あははは…」
「足引きずってるけど、けが？」
「…昨日コーヒーをこぼして火傷を……」
「大変…！今日の講演会休んだ方がいいよ！」
「…大丈夫だよ」

　いちいち言葉がのどに突っかかる。彼女との会話で、こんな事は初めてだ。
　フォークを突き刺した足は痛むが、何としても出かけたかった。このまま家にいるのは、彼女の顔を見るのは、すごく辛い。

「…そうだアリス、猫はどうしてる？」
「ん？今はねぇ…ベッドの上にいるわ。よごしちゃまずいでしょ？」
「あ、あぁそうか。そうだよね。うん、良かった良かった」
「………本当に大丈夫？レオ、すごくへんよ」
「…大丈夫」
「…」

＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿


　あからさまに避けているのに勘付いたのか、アリスは朝食以来ずっと僕の後をついて回っていた。身支度を整えている間も扉の陰から僕を見つめ、トイレから出ると扉の前で待ち構えていた。これじゃまるでアヒルの子供だ。

「じゃあ、そろそろ行くね」

　僕はコートに袖を通し、帽子を頭にのせながら言った。鞄に手を伸ばすと、奪い取るようにアリスが鞄を抱えた。

「お見おくり、するから」
「…そう」

　ありがとう、と言えばいいのに。
　二人して屋敷を出て、門までのわずかな距離を歩く。並んでではなく、僕の後ろをアリスが追いかける形で。
　何かを話そうと思った。思ったけど、僕の口は一文字のままだった。アリスもまた同じで、何を言うわけでもなく僕の後ろを歩く。
　空を見ると、なんとも微妙な雲行きだった。日が差しそうにも見えるが、雨が降りそうにも見える。昨日と変わらぬ風が運ぶ肌寒さに、僕はコートの襟を合わせる。
　その時後ろで、くちゅん、と可愛らしいくしゃみが聞こえた。振り返ると彼女が鼻をすすりながらぎゅっと鞄を抱きしめていた。表情のないまま、晴れた日の空のように真っ青な瞳で僕を見ていた。

　ふいに、自分のしていることが馬鹿らしくなった。
　僕は何をやっているんだろう。昨日好きだと、愛しているといった彼女にこんなことを、こんな表情をさせるなんて。気に入らないことがあるとすぐへそを曲げるなんて、まるで子供のすることだ。彼女は今日も変わらず早起きをして食事を作り、僕の靴を磨き、こうして見送りまでしてくれる…。
　何をやっているんだろう、僕は。
　僕は素早くコートを脱ぎ、彼女にかけた。

「…レオ？」
「………アリス、昨日のことを覚えてる？」

　僕は彼女の目の高さに屈み、努めてやさしい声で尋ねる。
　アリスは眉をひそめながら口を開こうとしてやめ、少し考えてから改めて口を開いた。

「レオにぬいぐるみもらってから…それから……思い出せない」
「うん。やっぱりそうか」

　僕はうんうんと肯いて見せる。

「実はその後、僕はお酒を飲んでね」
「…そうなの？」
「うん。いつになく大量に飲んでね」
「…それで？」
「かなり派手に酔っぱらいました」
「……ぜんぜんおぼえてないわ」

　唖然とした表情のアリス。

「そりゃそうだ。君も飲んだんだから」
「うそだぁ！信じられないわ」
「正確に言うと僕が飲ませました」
「うそぉ！いけないんだぁ！」
「酔っ払いの性です。絡み酒です。で、大匙一杯ぐらいで、アリスはダウン」
「えっ」
「僕が正気に戻った時は床でグースカ」
「そんな」
「それで僕がベッドまで運びました、と」

　アリスは終始、信じられないというような表情で僕を見る。
　僕もなんでよりによってこんな事を言ったのか分からなかった。もう少し信憑性のある嘘ぐらいつけそうなものだが、ここまできたならしょうがない。記憶のすり替えはまずこちらが信じなければ成功しないのだ。

「…なんでそんなバカみたいなことをちっとも覚えてないのかしら」
「アルコールハ、トキタマキオクヲブットバシテシマウノデス」
「なんでカタコト！？」
「ナントナクダヨ」
「もう、わけわかんない！」

　アリスの表情に明るさが戻ってきた。心のどこかがちくりと傷んだ気がした。


「それで？それがどうかしたの？」
「ケサカラボクガブルーナノハ」
「カタコトはやめて」
「はい。いわゆる二日酔いのせいなんだ」
「…ふつかよい？」
「そう」
「こうえん会があるのを知りながらのみすぎて？」
「そう」

　再び唖然とした表情で、アリスはぽつりと呟いた。

「……ばかじゃないの？」
「はい」

　悪い大人の典型ですね。

「それで？それがなんなの？」
「うん。正直、今倒れそう」
「なっ！なにそれ！」
「あぁ、大声出さないで」
「あ…ご、ごめんなさい」
「で、先方に『二日酔いだから休みます』とは言いたくないから、一緒に付いて来てくれないかな？」
「えっ…いいの？」
「つーか、来て」
「今から準備してたら遅れちゃうよ？」
「行かないわけじゃないから大丈夫だよ」
「…レオ、ホントにぐあいわるいのね」
「？」
「いつもならそんな投げやりなこと言わないもの」
「あー。そうかな〜」

　そこで僕は彼女から鞄を受け取る。

「戻って準備しよう。遅れること前提だけど、できるだけ急いでね」
「もとはといえばだれのせいよ」
「面目ない」
「…もう、しょうがないわね」

　くふふ、と笑いながら彼女は弾むような声で言う。

「今日はこのわたしが、助手として特別についていってあげるわ！」
「おお、なんと。ありがたき幸せ」
「うむ。ではレオナルドくん、ついてきたまえ！」

　僕のコートを肩にかけたまま、彼女は屋敷に向かってずんずん歩きだす。さっきとは全く逆の構図で来た道を戻る。

「そういえばはじめてね」
「何が？」
「レオのお仕事についていくの」
「…そうだっけ？」
「そうよ」

　日記に書かなくちゃ、と楽しげに言うアリス。
　…日記か。

「じゃ、ついでに帰りにデートしようか」
「えぇっ！！」

　うわ、何だ今のスピンは。ふり返るってレベルじゃないぞ。実は3回転しましたって言われても信じるだろうな。

「デート…あのデート！？」
「そ、そう。いつも家事を頑張ってくれているお礼」
「ででででも、ぐあいわるいんじゃ…」

　アリス、落ち着きなさい。あとその顔もやめなさい。期待に満ち満ちた真っ直ぐな目と緩みきった口がアンバランスですごい不気味だ。

「まぁ、昼を回った頃にはマシになってるでしょう。大丈夫だよ」
「で、デート…レオとデート…デート！」

　その喜びように、僕はむず痒くなって視線を外す。
　そういえば風が止んでいる。空を見ると少し晴れ間が見えた。よかった、傘は要らないな。

「日記に書けることはいっぱいあった方がってうわぁ！」

　再び目を向けると、彼女はもういなかった。遠くで玄関のドアが半開きになっており、二階の彼女の部屋には主の姿がある。唖然とする僕に気がついた彼女は勢いよく窓を開け、エプロンドレスも脱ぎかけに身を投げ出さんばかりに乗り出して叫んだ。

「すぐ行く！すぐ行きますから！昼夜で兼行しますからー！！」

　僕は笑いだしそうになりながら「僕は逃げないよ」と答えた。そして彼女が引っ込んだ屋敷へ歩を進める。
　さて、どこへ行って何をしよう。勢いで言ってしまったが、そういう当てがあるわけではなかった。とりあえず食事は基本だよな。それから新しい彼女のドレスでも買おうか。
　日記に書ける事を、彼女の記憶に残る事を、彼女が笑顔になる事をたくさんしようと思った。
　時間はたっぷりある。
　僕は逃げない。置いていかない。
　君と一緒にいる事が、僕の幸せなんだから。


＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿

　当時は科学と魔法の融合が始まり、科学界においてもそれを応用した技術重視の論調が強かった。その時代に記憶と魔法の根源たる感情について言及した彼の研究は大変貴重なものであり、先進的であったといえる。
　なお、あまり知られていないことだが、『記憶という名の不思議の国』をはじめとする彼の著書には、初版本だけに以下の言葉が添えられている。

『この本を我が助手にして最愛の人たるアレクシア-リデルにささげる。
　いつも傍で僕を支えてくれる、太陽のような笑顔の彼女に。願わくは、彼女の記憶に末永く残らんことを。』


　　　　　　　　　　　　フランチェスカ・C ・トログウル『先駆者たち』より

■作者メッセージ
　設定準拠endになります。
　実際の中世には懐中時計もスーツも燕尾服もねーんだよなっつーことで時代設定についてはご想像にお任せします。
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