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リメンバ・ミー
 

 自分の言葉には責任を持たなくてはならない。
 口から出た言葉は空しく消えるが、それでも必ずどこかに残っている。


       レオナルド-キャロル『記憶という名の不思議の国』序文より

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 統合歴269年3月6日
 ロダリアの3月はこれだから油断ならない、と僕は思った。
 窓の外では上等の焼塩のような乾いた雪が全てを覆っていた。ここの窓から見る分には良いが、何せ昨日の夜から続く雪である。外に出る気にはとてもじゃないがなれない。まだ暖炉用の薪があって助かった。
 それはともかくとして、先ほどから駒の動く音がぴたりと止んでしまっている。僕の手はちゃんと指示した筈なんだが、次の手はまだだろうか。上手くいけば後2手、最悪でも5手でチェックメイトなのだが。
 僕は立ち上がって椅子の向きを180度変え、改めて盤に向き合う。そこにはチェス盤を見つめ、わなわなとふるえる少女が一人。

「こんなの奇々よ!怪々だわ!」

 彼女はバタンと大きな音を立てて机の本を閉じた。チェス盤が揺れ、ポーンがころりと一つ倒れた。僕はため息をつきつつ片手を伸ばし、盤の横にあったノートを静かに閉じる。視界の端にびっしりと書かれた棋譜が見えた。最後の行には彼女の言葉。
 こんなの奇々よ 怪々だわ
 ま、これも今日の記録だ。

「なんで!?わたしは本を見ながらやってるのよ?」

 彼女はやにわ立ち上がり、その分厚い本を指さした。表紙にはCHESSとだけ書かれた、金属製の本。きっと持ってくるのも大変だったろうに。

「定石なんて覚えたらすぐ破れるんだよ。むしろ、むちゃくちゃな手の方が厄介だ」
「この本全部よ!?全部のやつをためしたのよ!?」

 忌々しげな彼女の問いに、僕は口の端をわざとらしく吊り上げて答える。

「覚えてるんだよ」
「もー!!」

 どかっと…否、ぽてっと音を立てて(彼女よりもずっと大きい大人用の椅子は、その程度じゃびくともしないのだ)彼女は椅子に腰を下す。そして本の上にあごを乗せ、「おまけに『ばん』も見ないなんて…なんでよ…」としばらく呟いた。
 僕は知っている。彼女はなかなか往生際が悪い。

「で?ホントのところどうなの?」

 何が?と聞き返すと、彼女はパッと本から顔をあげた。そして僕の真似なのだろうか、頬を吊り上げてニンマリとした顔で尋ねた。

「ズルしてるんでしょ?」

 してないよ、と言いかけたところで彼女が「うそっ!!」と遮った。やれやれ、弁解の余地ぐらい与えていただきたいものだ。ため息をついて僕は続ける。

「生き物の記憶っていうのは基本的に頭に残っているらしくてね、なにか鍵があるとふと思い出すことがあるんだよ。」

 彼女の持ってきた本をひょいと持ち上げる。
 もうすぐおやつの時間だ。テーブルの上をあけないと。

「カギ?本よ、それ」

 真顔で彼女は首をかしげる。思わず噴き出した僕を見て、彼女は頬をぷっくり膨らませた。彼女の表情はころころ変わる。見ていて飽きない。
 キッチンから香ばしい香りが漂ってきた。彼女と一緒に焼いたスコーンが今か今かと出番を待っているらしい。

「たとえだよ。要はそれに関連した外部刺激があれば思い出しやすいってこと。鍵刺激って言うんだ。今回はそれがチェスの定石でした、と」
「むつかしいこと言わないでよー」

 そう言うと彼女は腕を伸ばして机に突っ伏した。怒れる乙女が盤上の兵士達を蹴散らす。ナイトがコロコロと床に転がった。木でできた彼の鼻っ柱が折れやしないか、僕は気が気でない。

「オセロもイゴもショーギもだめ…きわめ付けにチェスまでなんて…」
「良いじゃない。カードなら勝敗は今のところ五分五分だよ」

 正確に言えば51戦25勝23敗3分けと僕が若干リードしてるけど。彼女はトランプの女王様という器でもないようだ。
 チェス盤を戸棚にしまい、かわりにティーセットをテーブルに置く。

「それ以外はわたしが勝ったことないじゃない!もー!もー!」
「まぁ、カード以外は研究の一環だからなぁ。やり込みが違うよ」
「でもー」
 
 どたどたと革靴が音を立てる。ぱたぱたと彼女の羽が空をかく。

「ほらほら、モーモー言ってると牛さんになっちゃうよー」
 
 角もあるしね。あ、でもヤギでもいいか。

「またばかにして!もう、今日の晩ごはんなしにするから!」
「えっ」
「中止!アレクシア特せいシチューの予定でしたが中止です!」
「そんなぁ…。じゃ、お行儀が悪い子はお茶菓子なしかなぁ」
「わたしがつくったのに?!」
「生地を混ぜる手伝いとオーブンの番はしたから、僕が作ったとも言えるよね」
「あ〜んもう!へりくつばかり言ってぇ!!」

 結局お姫さまには僕の分のスコーン2つで機嫌を直していただいた。
 紅茶はいつも通り、ミルクたっぷりに角砂糖を二つ。
 彼女はスコーンにのったジャムを落とさないよう、一生懸命大きく口をあけて食べる。ほっぺについたジャムを指ですくってなめ、ご満悦。
 本当に美味しそうに食べるなぁ。いや、実際に美味しいんだけどね。
 僕の視線に気づいた彼女は「かえさないからね」と口をとがらせた。

「別にそういう事じゃないよ」
「うそだぁ。さっきからじっと見てる」
「僕は大人なのでお菓子に執着なんてしません」
「むー。それじゃわたしが子どもみたい」
「そうだねぇ。いっぱい食べて大きくおなり」
「…」

 僕の言葉に彼女は眉をひそめて答える。そしてスコーンと僕との間で視線を何回か往復させたかと思うと、澄ました表情で言った。

「…いっこだけかえしてあげる」
「?いいんだよ、遠慮しなくても」
「わたしはレディで大人だから、心が広いの。寛仁で、大度なの」
 
 そこで彼女は再びにやりと笑った。

「子どもをゲームでかんぷなきまでにたたきのめす大人げない人とはちがうのよ」
「…おやおや?言ってる事が矛盾してない?」
「いいの!とにかくわたしはレディなの!」

 彼女は手をつけていないものにジャムを塗りながら続ける。

「ジャムをぬってかえしてあげるぐらい大人なの」
「それは大きなお世話と言うんじゃなかろうか…」
「いいじゃない。アレクシアとくせいラズベリージャム、おいしいでしょう?」

 僕はまあねと笑いながら差し出されたそれを受け取る。彼女は満足げにそれを見てから、また大きな口をあけてスコーンにかぶりついた。

 ゲームにだって一生懸命。食べるのだって一生懸命。
 アリスは、かわいい。

__________


 レオナルド-キャロルの幼少時代についての資料はほとんど存在しない。晩年の自伝からわずかにうかがい知ることができるだけである。
 だがやはり彼の奇異な能力、『音声の無差別念射』と『その内容の永久記憶』を恐れるものは多かったようだ。彼自身もこの能力を忌み嫌っていたようで、開かれた本やノートを見るとすぐさま音を立てて閉じ、新聞紙やチラシのあるところでは決して口を開かないよう努めたという。
 しかし、彼はある人物のおかげでこの力を逆に利用することを思いつく。

『だが考えてもみてほしい。その少年が傍にいるだけで、あなたの読んでいる新聞や雑誌、果てはノートやメモ帳に見ず知らずの言葉が浮かんでくるのである。「何だこれは?」あなたは言うだろう。それもまた白い平原の中に黒い線となって現れる。
 何だ これは
とね。
(中略)
 悪魔の所業だと恐れるものもいた。僕だってそうだ。こんなものなければよかったのに、と常々思っていた。でも、いつの頃からか、僕はこれを利用してやろうと考えた。父がいつも言っていたのである。
 「レオナルド、くじけるな。天才は決してくじけない」
 父も僕も天才ではなかったが、彼は僕にとってのヒーローだった。彼のおかげで、僕は学者として生きる決意ができた。晩年の父に頼み、この言葉は今も永久保存用のノートに記録(レコーディング)してある。もちろん彼の声で、だ。』

 さて、彼はまず何にこの力を利用したのか?それは自伝には書かれていないが、処女作『記憶という名の不思議の国』に、そのおかしな利用例が書かれている。

『女の子に愛を告白するにあたって彼女の言葉を残しておこうと鞄の中でノートを開いたまま臨んだ事がある。こうすれば家に帰って真っ先に目に入るのが彼女の愛を受け入れる言葉だし、しかも2度と忘れる事のない言葉にできる。幼い私はそう考えていた。『記録者』の協力を仰ぐにはどうすれば良いかはすでに学習していたので、ぬかりはなかった。
 この純で愚かな行動のおかげで、僕は彼女の拒絶の言葉を30年近くたった今も覚えているのだ。』

 彼は『記憶という名の〜』の第一章でこの失敗談を披露している。
 記憶魔術学者レオナルド-キャロル39歳。いささか遅れたデビューだった。


           フランチェスカ・C・トログウル『先駆者たち』より

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 アレクシア、アリスに初めて会ったのは約3年前。厳密な時間は『統合歴266年9月13日』と記録されていたはず。
 まだ彼女がとある孤児院にいたころだ。
 僕は定例の講演会を前にして礼拝堂の椅子に座り、昨日ノートに記録(レコーディング)しておいた原稿を眺めているところだった。例年に比べて寒い日で、周りでは暖房の用意のために関係者がばたばたしている。
 寒さに身を封わせるとノートの端々に黒いものが滲みはじめた。気を抜くとこうして雑音を拾ってしまうのだ。だが、まだ大した被害じゃない。頭の中でこう念じるだけで彼らは黙るのだ。
 黙れ(シャラップ)
 その言葉を思い浮かべるや否や、黒いシミ達はすごすごと退散する。
 子供の頃のように『音声はなんでも拾う』というようなことはもうなかった。この力は、今ではただの筆記用具である。慣れれば便利なもんだ。
 ふふんと自慢げに鼻を鳴らしたその時、ふと誰かが僕を見ているような気がした。

「あ…あの!」

 少しためらいの混じった声がその方向からかけられた。俯いた状態から首をひねってそちらに顔を向けると、小さな女の子がノートを一冊抱えて立っている。金髪碧眼、背丈は座った僕の目の高さぐらい。

「あのう…学者さんなんですよね?」

 僕はその問いに無言でうなづく。
 子供の記憶に関する実験で孤児院の子達とは顔なじみであった筈なのだが、どうも彼女の顔は見たことがない。

「おじゃまをしてごめんなさい」

 彼女は青いエプロンドレスをつまんで軽くお辞儀をした。

「マムのしゅくだいで分からないところがあるの。でもわたし、ここに来たばかりでまだお友だちがいなくて…」

 幼い体に不釣り合いな厳つい角、それに背中の小さな羽根と尻尾。彼女が僕とは違う存在であることがすぐに分かった。
 澄んだ声の彼女は、なおもその言葉で僕の胸をくすぐる。

「おべん強、教えてくださいませんか?」

 サキュバス(この頃は彼女を『サキュバス』だと思っていた。あながち間違いではなかったが)に勉強を教えてくれと頼まれたのは初めてだった。だがこんな声でお願いされたら、どんな男、いや人間でも彼女の頼みを断れまい。なるほど、どこぞの国の野蛮な連中が躍起になるわけだ。
 ステンドグラスから差し込む光が後光のように見えた。太陽の光が、彼女の金色の髪をより美しく輝かせる。
 周囲を見渡す。どうやら準備にはまだまだ時間がかかりそうだ。
 僕はぱたりとノートを閉じ、椅子から立ち上がる。

「喜んでお手伝いさせていただきます。えっと…」
「こらっ、アリス!」

 よく通る声が礼拝堂に響いた。女の子はしまった、という表情で肩をすくめる。
 名前を訊こうと思ったのに、タイミングが良いんだか悪いんだか。

「寝てろって言ったのに男を口説くなんざあーた、やってくれるわねぇ」

 つかつかとワンピースを着た男が近寄ってきた。
 彼女はどうしたらいいかわからないといった顔で僕を見る。
 僕は少し笑って肩をすくめてから、右手を差し出した。

「僕はレオナルド-キャロル。よろしく、アリス」

 彼女、アレクシア-リデルは僕の手と顔を交互に見てからおそるおそるといった感で握った。柔らかく、温かい手だった。

 後でノートを見たら、色々な言葉で真っ黒だった。ちょっと油断するとこれだ。まだまだ修行が足りないらしい。

………

 それから1年後、彼女は僕の家に預けられることとなった。
 話が急?それは僕も同意見だ。

「だが、それらの情報は詰る所どうでもいいのである。あ〜…いわゆる『いつも』の行動はやがて重要性を失い、脳内で自動的にオミットされる。た、た、例えば食事の記憶。昨日何を食べたかといった記憶はさほど重要ではないために次第に削られ、結果食事の…いや違う、『食べた』という記憶のみが残る。日常生活においても、初めのうちは特別に感じていた事も日を重ねるにつれ印象が薄くなっていくことがある。
 え〜これらの日常の記憶、いわば『行間の記憶』は脳にとっては無駄なものなのである」

 え?要するにそのくだりはよく覚えてないってことさ。
 一通り『記録』が終わると僕はパタリとノートを閉じ、脇にやる。それに合わせて戸口に立っていた男が部屋に入り、向かいの椅子を引き出して座った。男にしては優雅な身のこなしだ、と常々思う。

「悪いわね。忙しかった?」
「いえ。ただ今月は連続して実験の立ち会いがあるのでやれる事はやっておかないと」
「それを世間一般では忙しいというんじゃないかしら?」

 僕は笑いながら2人分のカップに紅茶を注ぎ、一つを目の前のマントの男に押しやる。
 多分、今日も飲まないんだろうが。

「で、なんで彼女を僕なんかの家に」

 僕は早速本題に移った。
 かわいい女の子と二人暮らしなんてウッハウハだー、という思考は残念ながら持っていない。この屋敷だって、僕一人しか住んでいないとはいえ維持費がかかるのだ。慈善団体が金を出してくれるとは思えない。
 おまけに僕はただのしがない学者。専門も学会で相手にされないマイナーなものである。
 否、厄介な力のせいで『ただの』ではないか。

「なによう。女の子が単身男の家に乗り込むのよ?わかるでしょう?」

 ダンディな声に筋肉質な体を兼ね備えた男、マムは今にも笑いだしそうな声でそうのたまった。そう、あの日ワンピース姿でアリスを捕まえに礼拝堂に来た男である。この口調と外見に加えてクロスドレッサー。創設者がこれで孤児院の子供たちの教育上どうなんだといつも思うが、なんだかんだで人間としてはできている…はず。

「…仲が良いからというなら、エイブやヒースとも仲がいいですが」
「…そうね。この前は彼らに悪戯を仕込んでくれてあ り が と う」

 声は笑っているが、笑顔ではない事はわかる。
 別に彼らに悪戯を教えた覚えはない。ただ鏡の反射について教えたら、彼らが女性のスカートの中身を見るという技術に昇華させただけの話だ。
 すばらしい。今ある技術から自分のしたい事のために技術を応用するとは。彼らのやった事は正しく科学史の縮図だ。

「やぁ、やっぱり好奇心は科学の父ですね」
「…」

 マムは包帯の巻かれた人差し指でテーブルを打ち、リズムを刻み始めた。
 口を慎もうと思う。

「『結婚式の作法』教えてたわよね?」
「…僕はゲイじゃない」
「アリスによ」
「あぁ、そうですね。スパーニエの方である仲介業者が話題だそうで」
「その前はあの子を膝にのせて礼拝に参加してたわよね?」
「はぁ…正確にいえば彼女がのってきたんですが」
「一緒に昼寝までして」
「ええ…それが何か?」
「えっ」
「別段変った事でもないでしょう?」
「…わかったわ。あーたは何もわかってない」

 ハァとマムがため息をつき、ペチリと自身の頭を叩いた。

「今までアンタ無意識のうちに『結婚式ごっこ〜』とかのフラグ立てまくってたワケね。すごいわ。あーた主人公の素質があるわ」
「いや、それは彼女に訊かれたから…」

 何だ、主人公の素質って。
 ときどき彼は学者の僕にもわからない言葉を使う。今の『ふらぐ』とかいうのもそうだ。「マムは1000年生きてる」って孤児院の子供たちは噂してたけど、もしかしたら本当なのかもしれない。…いや、まさか。
 リズムに中指が加わった。

「…まァ、あーたずっと一人身だから遊び相手が欲しいでしょう?」
「僕は子供ですか」
「ウソウソ。あの子、学者になりたいんですって。確かに勉強はできる方なんだけどねぇ、現実はそれだけじゃないじゃない?で、元凶のあーたに何とかしてもらおうってわけ」
「元凶?」
「そ」
「…言いたい事がよくわからないんですが、僕みたいなマイナーな学者の家じゃなくて、もっとしっかりした所に預ければいいのに」
「あの子みたいな『アリス』であることを差し引いても満点の美少女と一緒に暮らしてマトモでいられる輩が、あーたみたいな超鈍感朴念仁以外いると思う?」

 無言で彼を指さす。
 ワンテンポ遅れて薬指もテーブルを叩き始めた。

「…」
「…で、でも、『封じの首飾り』は付けたままにするんですよね?」
「当たり前よ。魔力も循環されないしね」

 封じの首飾りとはアリスの首にかかっている青い石のことだ。あの日彼女はマムに連れて行かれ、しばらくするとこれを付けて帰ってきた。これがあるおかげで僕は彼女と遊んでもどうともないし、魔力や精は発散されることなく体内を循環するため彼女が人を襲うこともない。
 裏を返せば、あの時の僕は非常に危うい状況にあったといえる。

「はぁ…でも、やっぱり他でもいいじゃないですか。親魔物派の学者なんて腐るほどいますし」
「…わかった、訂正するわ。単にツテがないのよ」

 参った、とでもいうように手をあげるマム。
 参ったのはこっちだ。こういった単純な理由ほど否定するのは難しい。

「…彼女はまだ子供じゃないですか」
「違うわ。永久に子供よ」
「言葉のあやです。専門知識を問うつもりはありませんが、そうなると『助手』というより『お手伝いさん』になりかねませんか?」
「大丈夫。彼女、頭の回転が半端ないわ。門の前に立てとけば1ヶ月後にはシェイクスピアを諳んじるような子よ」
「シェイクスピア?誰ですか、それ」
「気にしないで。それに家事がうまいからお手伝いさんとしても文句なしよ?」

 「オシカケニョウボウ」と呟き、マムはくくくっと笑った。
 シェイクスピア?オシカケニョウボウ?…後で調べてみよう。

「…わかりました。引き受けましょう」
「ありがとう。物わかりのいい子ってアタシ大好き。じゃついでにもう一つ」
 
 マムはリズムを刻むのを止め、小首を傾げて言った。

「…ねぇ、運命の赤い糸ってあると思う?」

………

 その数日後、アレクシアが家の扉を叩いた。
 自分より大きなトランクを引きずりながら、一生懸命歩いてきたんだろう。
 僕を見ると彼女は顔に花を咲かせ、初めて会った日のようにお辞儀をし、「これからもよろしく」と言った。
 少しだけ、頬が赤かった。

 忘れるはずがない。忘れられるはずがない。
 僕は『忘れられない』人間。
 彼女は『忘れてしまう』魔物。

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 キャロルは記憶のメカニズムを『書庫』にたとえる。

『そう考えると、人間の記憶というのは不思議である。図鑑が頭の中に入っているわけでもないのに鳥を思い浮かべる事は出来るし、辞書が頭の中に入っているわけでもないのに様々な言葉を選ぶことができる。しかもその情報量は驚くべきものだ。僕の書庫もビックリの超省スペース大図書館(学者の中には戸棚という者もいるが)である。』

 これは彼が自宅の屋敷に巨大な書庫を有していたためであると考えられている。彼の能力の関係から、通常の図書に加えて金属製の本も大量に所有していた。これらは現在のキャロル邸に変わらず残っており、当時の様子を垣間見ることができる。中には紀元数年の中東で作られた金属書も存在し、その歴史的価値は計り知れない。
 キャロル邸に行くとわかるのだが、これらの図書は適当に書架に放り込まれているわけではない。巨大な書架には金属のナンバープレートが付けられ、その本の対象年齢・厚さ・発行年数問わずでカテゴリーごとに整理されている。驚くべき事に、キャロル本人の『肉声』によって書かれたと思われる図書リストも現存している。つまり彼は、この巨大な書庫の図書全ての位置を把握していたということである。
 『記憶という名の〜』では助手が落ちてきた本の雪崩に巻き込まれるエピソードが披露されている。蔵書量だけでなく、助手の苦労も並大抵のものではなかったようだ。


           フランチェスカ・C・トログウル『先駆者たち』より

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 統合歴269年9月6日
 昨日冬用チェストから出しておいたジャケットは、虫除け用薬剤の臭いがわずかに残っていた。
 世間一般の書庫と違わず、我が家の書庫も独特のカビ臭さがある。それに加えて錆の臭いがするのは僕のとこだけだろうけど。
 僕は革靴が立てる鈍い音と共に書庫のカーペットの上を歩いていた。
 正直、この書庫は大きくしすぎたように思う。本が増えるたびに部屋の壁を破って繋ぎ、破って繋ぎを繰り返した結果がこれだ。父さんが見たら大爆笑だろう。
 10番の書架を横切ったところで、小さな影を認めた。アリスだ。
 書架の間で知識の山に手を伸ばす。背伸びをしつつ背表紙に指をひっかけては、引き出すことができず力尽きている。片手を他の段に支えとして置いているが、そんな事をしてたら本が落っこちるとさんざん言っているのに改めないのは困ったものだ。
 …てか飛べばいいのに。

「取ろうか?」

 きゃあ、という声とともにどさどさと本が落ちた。その雪崩に押しつぶされるように彼女は尻もちをつく。どうやら驚かせてしまったらしい。
 何冊かの本が開いて中身が見えている。この棚の本の多くは紙製だから、今喋ると大変だな。

「もうレオ!びっくりさせないでよ!」

 ありゃりゃ。これはマズイか?
 僕は何も言わず人差し指を立て、それから本を閉じる動作をする。同時に心の中で「黙れ」と命ずる。彼女は気がついたらしく、急いで本をパタパタと閉じた。それを確認し、僕はようやく口を開く。

「ごめんごめん。まさかそんなに驚くなんて思わなかったから」
「もう少しでぺちゃんこになるとこだったわ、もう。まったく危機よ、一発だわ。」
「で、何をお探しかな?お嬢さん」
「えっ?」

 …あれ?何かおかしなことを聞いたかな? 
 目に見えて動揺するアリス。口をもごもごさせながら膝を抱え込む。
 え?いやいや、見えない見えない。白い下着なんて見てない見てない。

「お、お菓子の…レシピを…」

 歩み寄る僕からアリスは顔をふいっと逸らした。
 おや、と思った。

「でもその棚には生物関係の本が306冊、加えて動物・植物などなどの図鑑が34冊あるだけなんだけど…」
「あう…」
「………そう言えば、ここのところよくこの棚にいるね」
「あの…あの…」

 もごもごと口ごもるアリス。
 彼女がこの家に来てずいぶんたっている。少なくとも書架の配置ぐらいは頭に入っているはずなのだが。
 だけどこれ以上追及するのも悪いかな。彼女にだって調べたいことぐらいあるだろう。 もしかしたら面白そうな本を見つけたのかもしれない。背表紙を見て、目的の本ではないのに思わず手に取るのは僕もやることだ。そうだ。考えてみれば、その悪癖のせいで今の書庫があるのだ。そうだよ、他人に見られたくない本だって買いあさったじゃないか。
 すばらしい。人間、知識欲があるというのは大変良いことだ。今度町で脚立を買ってこよう。

「お菓子の本があるのは3番の本棚。4段目の左端から12冊目だよ」

 僕は彼女を助け起こす。

「ここは片づけておくから、行っといで」
「う…うん」

 背中についた埃を払い、ポンと背中を押してやる。
 彼女は2,3度振り返りながら本の森の中に消えていった。
 さてさて、今度の解剖見学用の資料も持ってかなくちゃならないし、やる事は目白押しだな。
 僕は棚を見ながら頭の中で本の配置を思い出す。そしてポリポリ頭を掻きながら、山のてっぺんにあった王国発行の魔物図鑑を拾い上げた。 

「レオ…」

 背中に申し訳なさそうな声がかけられた。
 見るとアリスがひょこっと書架の陰から、申し訳なさそうな顔を出していた。

「ん?」
「やっぱり……おかたづけ手伝う」
「…」

 自然に僕の頬が緩んだ。手招きをして彼女を呼ぶ。
 とたとたと走り来て、彼女は俯いて口を開いた。

「あのね…もうすぐ私たちが出会って3年目でしょ?だからきねん日にプディングを作ろうと思って…」

 なるほど、あと一週間で彼女と出会って丁度三年目だ。
 その日はいつもお祝いをする。僕はアリスの誕生日知らないから(マムに聞いても、笑いながらはぐらかされた)その日を彼女の誕生日として祝っているのだが、プディングはいつも僕が作っていた。作り方を覚えているから。

「(まぁ、知っていると出来るは違うんだけどね…)」
「いつもレオが作ってくれてるからね、だから、だから今年はね、わたしがレオに作ってあげようって…本を探してたんだけどね…」
「(やっぱり不味かったんだろうか…)ん?僕に?」

 こくりと彼女は頷く。

「わたし、レオのおたん生日してあげたことないでしょ?だから…だからね、いっしょにね…」
「…でもそうすると、僕がアリスにあげるプレゼントが一つなくなっちゃうよ?」

 一つ、と言ったのはいつもプレゼントはプディングの他にもう一つ用意するからだ。
 因みに去年は豪華な装飾を施した万年日記帳。ページを継ぎ足して使うことのできるもので、東洋趣味の装飾が目にも鮮やかだ。将来ここでの暮らしをふり返る手助けになれば、と送ったものだ。
 そして今年は大きな猫のぬいぐるみ。そのニヤケ面を町で見かけた時、「これだ!」と思ってその場で買ってしまったものだ。彼は今、僕の机の下に身をたたんで窮屈そうに来るべき日を待っている。

「だいじょうぶ!その日でいいから、おねがいしたい事があるの!」
「…?」

 アリスはぱっと顔をあげて勢いよく言った。
 何だろう。デートかな?なんちゃって。一緒に買い物ならよく行くけど、デートと銘打って女の子と出かけた事は僕の人生で一度たりともないからなぁ。
 アリスはまた俯いた。

「それで…あの……本、落としてごめんなさい」 
「…」

 僕は無言で彼女の頭に手をやり、撫でてあげる。不思議そうな顔で彼女はこちらを見る。そんな事で怒られるとでも思ったんだろうか。

「怪我はなかった?」
「…うん」
「ならいいよ。プディング、楽しみにしてるからね」

 彼女の顔がみるみる明るくなり、「うんっ!!」と元気良くうなずいた。

「まっかせておいて!わたしにかかれば完璧よ!帰趙だわ!」

 まったく、その変な言葉はどこで覚えてくるのか。
 それでも、アリスはかわいい。

__________


 『日常の繰り返し』は彼の論文の中でたびたび取り上げられている。
 記憶魔法を研究する彼は、その初歩的な段階として日常的な忘却に目を付けた。その中で『日常的に繰り返される』出来事は、いかに重要な意味を持っていたとしても細部の記憶が失われてしまう事に気づく。当時の解剖学や生物学なども学び、人間の視野に常に『鼻』があるにも関わらず意識に上らない事を、この『繰り返し』によって主張した。

『繰り返しは学習において大変重要な要素である事は先の章で述べたとおりだが、物事の繰り返しは我々の心に大きな負担を与えることがある。そこで脳は適宜その繰り返される情報の必要性を判断し、事によっては『目をつぶらせる』のだ。』

 彼は真っ先に、記憶魔法の一つが意図的にこの現象を引き起こす事を発見する。現代では脳の配線を意図的に混乱させて『ど忘れ』を引き起こす魔法として知られいるが、それのメカニズムを解いたのは彼の功績である。

『日常生活のちょっとした記憶を操作したり、あたかも前からそこにいるように見せかけたりできる魔法が存在する。脳に対して『これはいつもの事だから、大丈夫ですよ』と警戒を解かせてしまうのだ。これを上手く使うと、相手のライフスタイルをがらりと変えることもできてしまう。』

 その後、彼は記憶魔法の分類に着手する。またMRIはおろかレントゲンもない時代、解剖実験の立ち会いを繰り返しながら記憶魔法にも大きく分けて二種類ある事を発見する。脳の配線を混乱させて『ど忘れ』を意図的に引き起こすものと、脳の記憶にかかわる部分そのものをピンポイントで破壊してしまうものの二つである。
 彼はやがて、これらの対処法に関する研究に着手する。


           フランチェスカ・C・トログウル『先駆者たち』より

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 統合歴269年9月13日
 今日は朝からあの日のように寒かった。
 幸い日中に薪を割っておいたので、こうして温かいダイニングで御馳走にありつけた。若干腰が痛いが、アリスの料理と笑顔のためと思えば安いものだ。
 暖炉の火が弱くなってきたのを見た僕は席を立ち、テーブルに背を向ける。
 背中から大きな包みを破る音、少し遅れて女の子の歓声。
 僕は内心ほくそ笑みながら薪を何本か暖炉にほおり込み、席に戻る。

「ねこ!ねこ!ね〜こ〜!!」

 彼女の見事なプディング(僕が作るより数段上の見た目と味だった)を程々に、プレゼント授与の時間になっていた。

「ありがとう、レオ!」
「いえいえ、喜んでいただけて光栄です」

 にこにこ顔の彼女を見ると、こっちまで嬉しくなってくる。頬が自然と緩む。
 …考えてみれば彼女と暮らし始めて約3年、顔が緩みっぱなしだ。もう少し年相応の顔をした方が良いだろうか。テーブルの下で腿をつねる。

「アリスこそ、プディングも料理も凄く美味しかった。ありがとう」
「へへへ〜。いったでしょう?まかせておいてって」

 そう言いつつも彼女はくすぐったそうな顔をして、毛むくじゃらの猫に顔をうずめる。ぎゅーっと抱きしめるせいで、猫の体がくの字に曲がってしまっている。…ニヤニヤ笑いが喜んでいるようにも見えるのは気のせいか。

「…だって、りょう理のかくし味は『あい』だもの…当ぜんだわ…へへへっ」
「ん?何か言った?」

 声がくぐもって良く聞こえない。

「……なんでもないっ」

 彼女はじっと僕を見た後に笑顔で言った。いや、照れ笑い、だろうか。
 はて、と首をちょっと傾げたところでこの前の彼女の言葉を思い出した。

「あ、そういえば僕にお願いしたい事ってのは?」

 はっと顔をあげるアリス。

「それは…それはねぇ〜……」

 そして何やら恥ずかしげに言い淀む。口をもごもごさせて明後日の方を向いたり、猫を思いっきり抱きしめたりしている。尻尾も少し興奮気味だ。椅子の足にくるくる絡まったり、背もたれをペチペチと叩いている。あ、猫に巻き付いた。
 猫、大丈夫か。お前が抱き殺されないよう、僕が助け船を出そう。

「どこか連れて行ってほしいのかな?」
「えへへへ、えっと、えっとね」

 ぬいぐるみのようにニヤケた顔を両手で張って真面目にし、彼女はテーブル越しに僕の目を見て言った。

「ちゅう、して」

 ぱちん、と暖炉の中で薪がはじける音がした。
 彼女がじっと僕を見ていた。

「………」
「な〜んだ、そんなことか」
「え!?そんなこと!?」

 おいでと手招きをして、何故か異様に驚いている彼女を呼ぶ。椅子からぴょんと降り、おずおずと彼女が寄ってくる。

「うそみたい…しかもこんなところで…レオったら大たんなんだから〜。えへへ」
「? ここじゃまずい?」
「ううん!ぜんぜん!そんなこと九牛よ!一毛だわ!」

 …本当に君は、どこでそんな言葉を覚えてくるんだ。
 アリスは椅子に座った僕の前で立ち止まり、頬を染めながら目を閉じた。

「誕生日おめでとう、アリス」

 僕は彼女のブロンドをかきあげ、額にキスをした。
 顔を離すとどうだろう、目を開けた彼女がぽかんとしている。そしてあからさまに眉をひそめ、ぽそりと呟いた。

「…ちがう」
「ん?」
「ちがぁうの!」
「あ〜…。 あぁ、ほっぺの方が良かった?」

 彼女はぶるぶるとかぶりを振る。尻尾をぴーんと伸ばして天を突き、真っ赤な顔で言った。

「くち!」
「?」
「くちにして!!」
「あぁ、口に……えぇ!?」

 予想外の言葉に驚く僕。キスも予想外ではあったが、これは斜め上、否もはや垂直方向の要望だ。

「な、なんで?!」

 さすが僕。切羽詰まるとロクな言葉が出てこない。三流ロマンスの主人公じゃないんだから、大方予想は出来るだろうに。
 口にするキスは………そういうことだ。
 まったくしょうがない奴だとでも言うような顔をした後で僕の手を取り、きっと僕を見て彼女は言う。

「すきだから!…だから、して!!」

 こらこら、男の人の前で『して』なんて言ったらだめだぞ。特に君みたいな娘の場合えらい事になる。いや、えらい事になってるのは僕の頭の中だ。どうするべきなんだ僕は。ちょっと落ち着いて考えよう。
 まず、目の前にはキスをせがむ女の子(見た目10代前半)。かたや僕は30間近の、彼女からすれば『おじさん』ともいえる年の男。
 これは…これはすごい犯罪臭がするぞ?え、でも周りに人がいないからOK?そもそもキスなんて挨拶代り?でも口にしたらそれは、明らかに挨拶以外の意味を持つ行為になるだろう。
 彼女と目を合わせたまま、凄まじい勢いで頭が回転する。議題は『僕はどうするべきか』。
 その時だった。

「やっぱり…」

 決意の表情をしたアリスの目にじわじわと涙がたまっていく。

「やっぱり…わたしが『まもの』だがら…」

 貯水量を超えた涙が彼女の頬を伝い始める。くしゃり、と彼女の顔がゆがんだ。

「だから、ちゅうも…ちゅうもぉ……」

 ぺたり、とその場に座り込む。

「してくれないんだぁ〜〜〜〜!!」

 色々なものが堰を切ってあふれだした。

「え?な、なにが!?」

 『なんのこと』ではなく『なにが』というのは、彼女の涙を見て選ぶべき言葉を選べなかったからだ。さすが僕。

「だって、だってぇ…本に、書いて、あったんだもん…」
「?」
「わたしたちは、『子どもをつくるこうい』をするとぉ…ひとを『まもの』にかえちゃうって…。だから、だからぁ〜〜!!」
「………」

 オーケー、アリスは泣いているが少し整理してみよう。

 1.アリスは誕生日プレゼントに『キス(唇)』を御所望である。
 2.アリスは自分が『何者か』を本で読んだ(おそらく書庫の図鑑)。
 3.アリスは僕が『魔物化』するのを恐れてキスをしないと思っている。
 4.?

 問題はNo4だ。少し落ち着くのを待って彼女に訊いてみた。

「アリス?」
「…うく……はい」
「こんな時に聞くのもなんだけど…すごくアレなんだけどね?赤ちゃんはどうやってできるかな?」

 確かに食後にする話ではないが…なんだ、アレって。
 アリスはあふれる涙を一生懸命ぬぐい、時折しゃくりあげながらも僕の問いに答えてくれた。

「えく…『あいしあうふたりが…きすをしてぇ……神さまにおねがいすると、できます。たがいのあいをちかいあう、とてもしんせいでとうといこういです』」

 オーケーオーケー。完璧だよアリス。6番の書架の下から2段目、右から42冊目にあった教会発行の子供向け絵本『あかちゃんはどこからくるの?』4〜5ページの完璧な抜粋だ。アリス、君はその本を暗記するほど読み込んだのか。
 ともあれ、残りの部分も埋まった。

 4.僕とアリスには『ある事』に対する『決定的な』認識の差が存在する。

 神よ、あなたの与える試練はロクでもないですな。
 僕は椅子に深く腰掛け、頭を抱える。
 さてさて、どうしたものか。

………

「アリス?僕が『しない』のは、別に君が魔物だからじゃないよ」
「っく、じゃ…なんでよう……」
「本にも書いてあったろ?それは『とても神聖で尊い行為』なんだ。…だから大切にしてほしい」
「ぇくっ…『あいしあって』ないから?」
「そうじゃない。僕は君を愛してるし、君の『愛してる』も伝わった。でも、僕と君とでは…なんて言うか、違うんだ」

 おそらく、彼女の『愛してる』は僕の父性に対する『愛してる』だろう。つまりはエレクトラ・コンプレックス。彼女の実年齢はともかく、性格と思考は少女のものだ。そう考えるのが妥当だろう。
 本気にしてはいけない。

「きっといつか、君の前にはもっと素敵な人が現れる。だから僕みたいなおじさんとするのはやめて、その時までとっておいたらどうかな?」
「…」

 しまった。考える分には良かったが、いざ自分でおじさんって言ったらなんかキたぞ。後でちょっと落ち込もう。
 彼女は何も言わずに俯き、胸の『封じの首飾り』を握りしめる。

「アリス?」

 ぶちり、と妙な音がした。彼女がそれを投げ捨てる瞬間が、いやにゆっくり見えた。大きな青い石が1回、2回とわずかにバウンドして床に転がった。
 途端に空気が甘くなる。蜂蜜の臭気を何倍にも濃くしたような、重苦しい香りが僕を包んだ。一瞬視界が歪み、やがて頭に靄がかかったようになり、全身の力が抜けてゆく。
 あれ?彼女は一体何をしたんだっけ?

「私、知ってるもん」

 彼女がほくそ笑んだ。
 体が熱い。心臓が煩い。完全に四肢から力が抜け、前のめりになるのを堪えて椅子の背もたれに身を預けた。これは…彼女の魔力か?

「これがなければ、レオはちゅうしたくなるんでしょ?」 

 理性にも次第に靄がかかり始める。話に聞いてはいたが、このまわりの早さはおかしい。封じられていた反動なのだろうか?
 なんてこった。マムに後で言っておかなくちゃ。
 いや、そんな場合じゃない。
 一貫した思考ができない。

「ねぇ、レオ……」

 彼女が僕の膝に跨り、首に腕を回した。潤んだ瞳と艶のある唇が僕に迫る。彼女の吐息が鼻にかかり、さっき食べたケーキと同じリンゴとシナモンの甘いにおいが脳をくすぐった。
 マズイ。きっと今したら、それだけでは済まない。

「れお…ちゅう……」

 霧の中で彼女が僕の名を呼ぶ。なんて甘美な響き。
 拒絶の言ばはのどに引っかかり、あと一歩でくう気をふるわせる事が出きない。
 いや、このひびきが耳にのこっている今、僕のこえなどでこの空きをけがすのはぶすい。そんなことしてはいけない。
 
 ならばこのまましてしまおうか?
 なにもいわず、かのじょをめちゃくちゃに。
 
 ぼくはふるえるてをかのじょのほおにそえる。
 かのじょがほほえんだ。かわいい。
 ぼくのてにかのじょがじぶんのてをかさねる。

「…だいすき」

 『だいすき』
 そのこと葉が僕をつなぎ止めた。一じ的に頭のきりが晴れる。
 テーブルの上にあったフォークを逆手に握り、自分の太ももへ思いきり突き刺した。
 初めは自分でも、本当に刺したのかわからなかった。だがすぐにぴりりと痺れたような感覚が起こり、やがてそこがじんわりと熱を持ち始める。分かる。4つ股のそれが、僕の腿の中にある。
 そして来た。
 激痛。

「っ〜〜〜〜〜!!!!」
「!? レオっ!!」

 もはや声にならない。彼女はすぐに異常を察し、僕から離れる。

「……レオ?………どうして…?」

 泣きそうな目と消え入りそうな声で彼女は尋ねた。
 どうして?
 君がしたかったのは『愛する二人の神聖な行為』。僕がしたかったのは『欲望の押し売り』。出来る筈がない。
 僕は君の気持を、『だいすき』を踏みにじる事なんてできない。
 僕も君を愛しているから。
 
 じゃあ、いいんじゃないか?

「(黙れ(シャラップ)!)」

 もう一人の僕への無言の絶境と共に、突き刺したフォークをさらにぐりぐりと押しつける。あまりの痛みに思わずのけぞる。

「! だめ!やめて、レオっ!!」

 彼女が止めようとすがりついたらしく、腕に小さな重みがかかる。
 僕はできるだけゆっくりと呼吸をしながら、顔を彼女の方に向ける。 

「…アリス」
「はっ、はい!」
「首飾り……つけ直してくれるかな」
「は、はい!」
「良い返事だ」

 ぱたぱたと走り、部屋の隅にあった首飾りを拾う。彼女が首飾りをつけると同時に、空気と頭が元通りになった。
 危ういところだった…。

「レオ……けがが…!」
「…大丈夫。それよりアリス、今から書庫にいってきてくれるかな」
「でも、けが…!」
「行くんだ。2番の書架の下から4段目、右から51番目にある本の33ページと、君がいつも読んでた『図鑑』の42ページをもう一度良く読んでおいで」
「でも!」
「行くんだ」

 僕は彼女の頭を撫でる。

「大丈夫。帰ってくるまでに自分で手当てはしておくから…」
「…」
「だから、必ず読むんだ。いいね」

 彼女は無言でうなずき、走って部屋を出た。
 それを見届けた僕は、一気に脱力する。

「…エロ本を突きつけるような事はしたくなかったんだけどなぁ…」

 なんだか寒い。暖炉にもう少し薪を足そうか。

 それから、アリスは食堂に戻ってこなかった。


__________


 僕の影が部屋の中に伸びた。
 猫のぬいぐるみを抱え、僕は彼女の部屋の戸口に立っていた。幸い、ドアはあけ放たれていた。部屋の中は真っ暗だが、ベッドの上にこんもりと山ができているのが廊下の明かりで見える。

「置いてけぼりなんて、ヒドイにゃ〜」

 裏声で喋りながら、猫の腕をぴこぴこ動かしてみる。
 だめか?いや、まだだ!

「う〜ん、しょうがないねぇ。じゃあ君は今日も僕の部屋にいようか」
「え〜、おにいさん(強調)の部屋はあきたにゃ。ボクはアレクシアちゃんと一緒にいたいにゃ!」
「だってさ。どうかなアリス。一緒にいてあげてくれないかな?」
「…」

 だめか。というか僕はいったい何をやってるんだ?

「アリス」
「…」
「僕は明日、講演会があるからもう寝るね」
「…」
「風邪、引かないようにするんだよ」
「…」
「彼は机のところに置いておくから、よろしくね」
「…」

 これはむしろ、もう寝てると見た方が良いだろう。
 そっと部屋に入り、音を立てないよう机の椅子を引き出して彼をのせる。普通に置いた後ちょっと考え、目が覚めた時に真っ先に彼女の目に入るよう両前足を椅子の背もたれにかけて覗き込んでいるようにしてみた。

「…レオ」

 後ろの山の中からくぐもった声が聞こえた。

「んー?」
「…ごめ…な、さい」
「…」
「ごめんなさい…!」
「…アリスの顔が見れたら、許しちゃうかも」

 布の山の中から、彼女の角がわずかに顔を出した。
 僕はベッド脇の明かりをつけてから縁に腰かけ、ゆっくりと彼女の頭を撫でる。

「大丈夫。初めから怒ってないよ」

 気まずそうに、ゆっくりと彼女が目を出した。

「僕こそ悪かった。驚いたでしょ?色々」

 アリスはふるふるとかぶりを振る。

「本は読んだ?」

 こくり、と頷く。

「そっか…本当はもっと後で、しかるべき時に教えようと思ったんだけどね」
「…けが」
「ん?」
「わたしが首かざり取ったから…レオが……」
「いや、大丈夫だよ。僕はひ弱だから、大した傷になってない」

 彼女は素早く布団をはねのけ、僕の首にすがりついた。

「…ごめんなさい」

 何も言わずに彼女の背中をポンポンと叩く。

「でも…でも、好きって言ってほしかったの。キスしてほしかったの…」
「…わかってる」
 
 するとアリスは離れ、じっと僕の目を見て言った。
 涙をたたえた目の片方が、枕元の光を反射して輝いていた。

「レオはわたしのこと好き?」
「もちろん」
「…女の子として?」

 それは…。

「…わからない」
「………」

 僕の口からはその一言だけだった。
 わからない。僕のこの感情は父が娘に感じるそれなのか、それとも男が女に感じるそれなのか。
 はたまた、火に喜んで飛び込む虫のそれなのか。
 …少なくとも愛してはいる。だが…成立するものなのだろうか?僕と彼女との間に、そういう関係は。
 アリスの泣き顔が決意の顔に変わった。

「……わたし…レオのことが好き!」

 そう言うとアリスが僕の頭を両手でつかみ、自分の唇を押しあてた。
 ガチッという音と共に、前歯に痛みが走った。
 僕はあわてて彼女を引き剥がす。

「アリス!」
「へいきだもん!キスだって…この先だって!!」

 まっすぐ僕の目を見ながら彼女が言う。

「…だから僕は」
「つりあわなきゃだめ?わたしが大人じゃなきゃ、レオを好きになっちゃいけないの!?」

 僕の胸倉を握りしめながら彼女は続ける。

「いつからとか、どうしてとかぜんぜんわかんない。わかんないけど、ドキドキするの!くるしいの!レオが笑った時とか、レオによばれた時とか、なでてもらってる時とか!」

 肺の中身をぶちまける様に話す彼女を前に、僕はどうするべきかわからなかった。ただ、彼女が感じているものが自分にも通じる事だということだけは分かった。

「わたしはレオのぜんぶが好き…。大きい手も、ちょっと高い声も、やさしいところも、ひとみも、ぜんぶ」
「…」
「ねぇ、レオはいや?わたしじゃだめ?」

 彼女は僕の胸に顔をうずめ、声を押し殺して泣き始めた。

「おねがい…こたえて………こたえてよう…」
「…」

 彼女をの肩に手を添え、僕から離す。
 そっと彼女の頬に手を添え、俯いた顔を少し上げさせる。
 手から子供特有の高い体温が伝わってくる。温かい。
 彼女の唇に、優しく、触れるように口づけた。

「んっ………」
「ありがとう、アリス」

 そっと彼女を抱きよせる。

「僕も君が、アレクシアが好きだ。大好きだよ」

 彼女がまた僕の胸元ををぎゅっとつかんだ。

「…ばか」
 
 泣き笑いの表情で彼女は言う。

「…ごめん」
 
 ぽろぽろとこぼれ落ちる光のしずくを指で拭う。
 
「……ね、もっと」

 無言でうなずく。
 顔を近づけ、彼女の涙に口づける。

「んっ…レオ、くすぐったいよ」

 ちゅ、ちゅ、と彼女の頬に何度もキスをする。
 そこで彼女が僕の頭に手を回し、優しく引き寄せた。
 重なる唇。
 愛しいものと唇を重ねるという行為に油断した僕の唇の隙間から、ぬるりと彼女の小さな舌が滑り込んできた。

「んぶ! ちょ、アリス!」

 あわてて彼女を引き剥がす。
 あれ?とでも言いたげな顔で彼女は小首をかしげる。

「…間ちがってた?」
「いやむしろ大正解だけど…どこでそんなの覚えたの!?」
 
 アリスは少し困った様子でさっきまでくるまっていた布の中に手を突っ込むと、一冊の本を取り出した。

「これ…」

 『MAKE LOVE of 666  サキュバスが教えるラブテクニック!』
 きわどい下着をつけたサキュバスが描かれた、なんともけばけばしい表紙の本が恥ずかしげに差し出された。
 間違いない。2番の書架の下から4段目、右から52番目にある本だ。つまり、僕が指示したインゲルトラントアカデミー発行『初級生物学 人体編』の隣にあったものだ。
 しかしこの本のタイトルを考えた輩は何を考えているんだ?センスがないというか投げやりすぎるというか…。もう少しマシなタイトルはなかったものか。

「…僕は、これの隣にある本を読んでって言ったんだけど?」

 まぁ、落ち度はうっかりしていた僕にある。あるけど…あぁ、やるせない。もう少し落ち着くべきだった。『13番の書架の下から6段目、右から35番目にある本の49ページ』と言えば良かった。あそこは無害なものばかりだったような…。
 くふふ、と笑いながらアリスは僕に飛びつき唇を重ねる。小さな舌が口内をちろちろとさぐり、僕の舌をつついた。たまらず抗議しようとした僕の舌を、彼女の舌は見逃さなかった。二度、三度と僕の舌をねっとりと撫で、彼女は離れた。二人の間を銀色の糸がつなぎ、落ちた。

「レオ、コーヒーの味がする」

 うっとりした表情でアリスが呟いた。うっと僕は喉を詰まらせた。
 ご明察。確かにあの後、濃いめのを何杯か飲んだ。コーヒーに含まれる成分には利尿作用のほかに血管収縮作用があるらしく―――――。

「ね、わたしは?どんな味?」
「…わかんないよ」
「じゃ、もう一回」
「ちょっ、んぶ!」

 三度目ともなると舌の挿入にためらいがなくなる。小さく薄いそれが積極的に僕の肉厚なそれに絡まり、意志を持つかのように蠢く。くちゅり、くちゅりといやらしい音が部屋に響く。首の後ろでがっちりとホールドされてしまっているので、逃げることもかなわずされるがままだ。
 先ほどよりもずっと長くつながった後、ちゅぷっと音を立てて唇が離れた。糸を引かせないよう、彼女が唾液をすする。

「んはっ…どう?」
「…」
「…答えるまでつづけちゃうから」

 囁くように言って、また彼女が近くなる。
 観念するしかないのか。
 彼女を押しとどめて僕は口を開いた。

「…林檎とシナモン。それと…」
「それと?」
「…綿菓子(コットンキャンディ―)……」

 普段なら頭を抱えて悶絶しそうな台詞だ。
 父さん笑ってくれ。あなたの息子の吐く言葉は三文オペラ以下だ。
 だが彼女は僕の言葉に頬を赤く染めながらへへへっと笑い、また唇を重ねた。

「んんっ…れお…ひゅき………あむぅ……ひゅきい…ちゅっ…」

 熱にうかされたように僕の舌に吸いつき、ねぶり、愛おしげに何度も僕の名前を呼ぶアリス。高ぶってきたのか、彼女は自分の恥部を僕の腿に擦りつけ始めていた。唇を貪りながら、腰を前後左右にふりふりと動かす。太腿にわずかに湿気を感じ、口の方からではない別のところからかすかに水音が聞こえる。さらに…

「…ん?んん!?」

彼女の尻尾が僕の股間をつっつき、撫でつけ始めた。舌が入った時点で半臨戦態勢にあったが、今ははちきれんばかりになっている。それでもなお尻尾は先端をすりつけ、その形を確かめるように押しつけ、彼女の動きに合わせてふるえた。腰にじんわりと快感が蓄積していく。

「ぷはっ…!れお…このつづき……ね?」

 思えば、この時僕はすでに正気ではなかった。目の前の彼女が愛しくて、体が熱くて。
 わかっていたはずなのだ、そんな事をしたら彼女がどうなるのか。愛し合った事を相手が忘れるということがどんなに空しい事か、わかるはずだった。
 それはだめだと言えるはずだった。
 だが僕は…

「…うん」

 僕は彼女の唇をついばみながら、膨らみかけの胸へ、そっと触れた。


………
………



「レオ…もう、いいの?」

 僕の手をきゅっと握り、彼女が小さな声で言った。

「ちゃんと、気もちよかった?」

 僕は空いた手で彼女の髪を梳る。

「うん。それに凄く嬉しかった」
「…えへへ、わたしも」

 にこぉっと笑って彼女は言った。

「ちょっといたかったけどね、一番レオに近くなれたんだって思ったらすっごくうれしかったよ」

 歓天よ、嬉地だわと恥ずかしげに言う。

「ねぇ、レオ」
「ん?」
「21回よ」
「?」
「わたしたち、21回キスしたの」
「数えてたの!?」
「えへへへ」
「…まったく」

 それからしばらく、お互い何も言わずに夜の静寂に耳を傾けていた。
 アリスは時折恥ずかしげに微笑んでは指をからめて僕の手を握ったり、撫でたりしている。

「…忘れないでね」
「え?」
「わたしは忘れちゃう…わかってるの。だから…」
「アリス…」
「気づいてないと……おもってた?」
「…」
「わすれちゃう…けど……」
「…」
「…わすれたくない…わすれたく…ないよう……!」

 怖いよ、と彼女は泣きそうな顔をする。僕は何も言わず、何も言えず、ただ彼女の手を握る。
 来た。来てしまった。
 目に見えて彼女の動きが遅くなった。瞼が重そうだ。

「ずっと…にぎってて……くれる?」
「うん」
「わたしが……ねるまで………ずっとよ」
「もちろん」


「…れお」
「なんだい?」

「ねこ…ありがとう…」
「うん」

「きょ …の……きねん…  たいせつに……する…… らね…」
「……うん」





「…… ぇお」
「なんだい?」





「……さいご…もう…いっかい…」
「うん」



「……き …し …………」
「…」





 彼女の頬に手を添えながら顔を近づけ、口づける。





「…  … ……  …」





 彼女のわずかに開く口が言葉を紡ぐ事はなかった。
 夜の沈黙が、部屋を支配した。
 
………

 つないだ手を両手で包んでから、彼女の指を一本一本ゆっくり外す。彼女の肩まで毛布をかけ、頭を撫でた。消えてゆく彼女の手のぬくもりと感触に、僕は唇をきつく噛んだ。
 静かに寝息をたてるアリス。その全身が淡い光に包まれる。魔術の素養も学も無い僕だが、強力な術式が構築されていくのを肌で感じた。その光もやがて消え、夜の闇が僕らを包んだ。

「…アリスは全て忘れて元通り、か………」

 力なく肩を落とし、僕は呟く。
 だが、僕は違う。きっと僕は忘れられない。否、忘れない。それが彼女との約束だから。

 …夜が明けたら僕は彼女と普段通りに接することができるだろうか。


…この気持ちは変わらない。10/01/01 00:47
…彼女にはなかったこと、か。09/12/31 20:24

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