連載小説
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…この気持ちは変わらない。
 
 
 今日、記憶魔法に対抗する手段としてあげられているもののほとんどはレオナルド-キャロルの主張に基づいたものである。
 先にあげた忘却魔法のうち脳を破壊するものへの対処法は現代になってやっと確立されたが、軽度の忘却魔法被害者への治療はすでにキャロルが存命中に成功させている。

『まず、何よりも当時の状況に近づけることが重要である。記憶を失くす前後の行動を調べあげ、失われた時間を再現するのが近道だ。さらに絵画や料理など再現できるものは徹底的に再現し、とにかく五感全てを刺激することである。特に視覚的な外部刺激は大変有効である。
 このとき治療者は『思い出す事』を強要してはならない。ただ患者を見守り、混乱や異常がみられたら適切な処置を行わなければならない。過度なストレスは忘却を進めてしまう恐れがあるため、注意が必要である』

 キャロルは20代後半から解剖を含めた様々な実験を繰り返し、晩年にその結果と考察をまとめた本を出版している。いまだにこれは学者だけでなく医療関係者もこの道にたずさわるならば必ず手にするべき本の一冊となっている。また、実験に関するエピソードや主張に到達するまでの過程は彼が手がけた多くの教養書から読み取ることができる。
 だが、唯一以下の主張に到達する過程は一切描かれていない。

『記憶に対抗する最も有効な手段。それは『忘れたくない』という心である。本人が忘れたがっている出来事ほど忘却魔法の効きは凄まじく、逆の場合はいかに強い魔法であろうとも効果が薄い。
 治療者はこの事を見極め、忘れたままの状況が望ましいと判断した場合は患者の関係者とよくよく話し合ったうえで治療を放棄するのがよい。』

 治療を行ったがゆえにトラウマが再発してしまった、というケースは現代でも問題となっている。しかしながらキャロルの主張には根拠となる資料がなかったため、注目されるのは何世紀も後になっていしまった。いまだにこの主張の根拠は研究者の頭を悩ませ続けている。


           フランチェスカ・C・トログウル『先駆者たち』より

__________


「…お…れお………レオ!」
 彼女が大きな声をあげた。
 その声で僕は、スプーンを持ったまま呆けていた事にがついた。

 結局昨日はほとんど眠れなかった。朝日が僕の部屋に差し込むまで、僕はベッドの中で悶々としていた。出来れば起きたくなかった。行為のせいで体がだるいのもあるが、アリスの顔を見たくなかった。彼女の顔を見るたび、昨日のことが思い起こされてしまうだろうから。
 それから嫌々起きても、彼女の記憶を確かめるという事はしなかった。昨日の一件があろうとなかろうと彼女は彼女、アレクシアは僕が愛する女性なのだ。頭ではそう理解しているつもりだった。だが昨日という一日を、あの逢瀬を経た僕と彼女の間にある溝は永久に埋まらない、そんな声も聞こえてきた。
 僕は確かめるのが怖かった。わずか数時間の出来事が彼女の中に存在しないという事を僕は恐れていた。

「アリス、食事中は静かに…」
「スープをだらしなくこぼす人に言われたくなんかないわよ」

 彼女が僕の胸元を指さす。あぁ、見事なシミが。

「…大丈夫?調子悪いの?」
「いやぁ、大丈夫だよ」
「うそ。どこにシャツをうら返しに着て、家じゅうのドアに頭をぶつける大丈夫な人がいるの?」
「あは、あははは…」
「足引きずってるけど、どうしたの?」
「………き、昨日コーヒーを入れようとしたら熱湯をこぼして派手に火傷を……」
「大変…!今日の講演会休んだ方がいいよ!」
「…大丈夫だよ」

 いちいち言葉がのどに突っかかる。彼女との会話で、こんな事は初めてだ。
 フォークを突き刺した足は痛むが、何としても出かけたかった。このまま家にいるのは、彼女の顔を見るのは、すごく辛い。

「…そうだアリス、猫はどうしてる?」
「ん?今はねぇ…ベッドの上にいるわ。よごしちゃまずいでしょ?」
「あ、あぁそうか。そうだよね。うん、良かった良かった」
「………本当に大丈夫?レオ、すごくへんよ」
「…大丈夫」
「…」

 彼女への気持ちは変わらない。だが一体彼女と何を話せば良いのか、僕にはわからなかった。

………

 鏡の前でジャケットを羽織り、角度をつけて見る。
 今日の講演会は魔物相手のものだが、だからといって身だしなみを疎かには出来ない。
「こんなもんかなぁ…」
 僕の後ろからひょこっと顔を出すアリスが鏡に映った。
 今朝からの僕の異常を察してか朝食以来ずっと僕の後をついて回っていた。危うくトイレでも一緒になるところだったが、それを喜ぶような趣味はない。
 僕は何か話そうとするのだが、そのたびに『昨日の彼女』がよみがえって上手く話ができない。言いだそうとした瞬間に喋るべき言葉を見失い、彼女に呼び掛けるだけで終わってしまう。いつも彼女とどんな話をしていたのか、こんな時に限って僕にはまったく思い出せなかった。

「あ、まってレオ」

 しゃがんで、とアリス。

「えり、おかしいわ」

 そうだろうか?鏡で見る分には問題なさそうだが。
 アリスは「朝からボーとして」とぼやきながら、僕の襟を直す。

「あ」
「え?」
「首のとこ…赤くなってる」

 素早く僕は鏡を見る。確かに、首のところに赤いあざのような小さなものがあった。
 おそらくこれは彼女の付けたキスマーク。
 迂闊だった。そんなところにも昨日の跡があるなんて。誤魔化さなくてはと、何故かそう思った。

「いや、これは…蚊!蚊にね!」
「これ…これは…」
 
 僕からアリスが離れる。鏡に映った僕と、その前に立った僕を交互に見る。
 その顔からは表情が消え、感情を読み取ることは出来ない。

「…アリス?」

 僕を見つめていた目が、ゆっくりと見開かれる。まるで何かに驚いたみたいに。アリスは何歩か後ずさって僕から離れると、そのまま僕に背を向けてふらふらとどこかへ行ってしまった。
 追いかけるべきかと思ったが、彼女の異様な様子を見るとどうにも足が動かなかった。

………

 扉を一寸開けて首を出し、空の様子を見る。
 雲ひとつない快晴だった。昨日よりは温かい風が頬を撫でた。
 あぁ、忌々しい。
 その後は一人で支度を終え、仕上げとばかりに余所行き用の靴に履き替えていた。
 真っ黒に磨き上げられた革靴。これもアリスがやってくれたものだ。
 その彼女は見送りに来ない。いつもは玄関どころか、門の前まで来るのに。
 …。
 目を閉じて大きく深呼吸をした後、努めて明るい声で言った。

「いってきまーす」
「まってぇ!レオーー!!」

 ぱたぱたと転がるようにかけてくるアリス。先ほどの顔が嘘のように明るい表情をしていた。
 その手には…日記帳?

「いってきますのちゅう、しなきゃね?」

 はぁと大きく息をついた後、えへへと笑う。
 長らく穏やかだった眉間にしわが寄るのを感じた。多分この時僕は、ここ3年間に無いようなすごく渋い顔をしたんだと思う。ぎょっとする彼女の顔で確信した。

「…なんだい?その新しい習慣は」

 冷たい僕の声に屈することもなく、アリスはしゃがんでしゃがんでと手招きをする。
 僕はそれに従うことなく、一寸考えて口を開いた。

「…じゃ、こっちにね」
 
 彼女の髪をかきあげて、顔を近づける。
 その時、彼女が首に飛びつき、自分の唇を僕のに重ねた。

「!?」

 一瞬何が起こったかわからなかった。それは昨日のように濃厚なものではなく、あっという間の出来事だったが僕を驚かせるには十分だった。

「…こら」
「えへへ、これで『昨日から合わせて』23かいめね!」
「……え?…………えぇ!!?」

__________


「アリスー? オーブン温まったよー」
「は、はぁい」

 レオが呼んでる。
 ついに、ついにこの日が来たのだ。二人の、3年目の記念日。
 胸がどきどきする。あの日彼に「おねがいしたいことがある」と言ってから、わたしはずっとどきどきしっぱなしだった。

「どうしよう、どうしよう」

 今さらどうもしない。言うんだ。あなたが好きですって。キスしてって。でも、どうしよう。すごく、すごくはずかしい。
 頭に思い浮かぶのは、いつも読んでいた恋愛小説。「愛してるよ…」「…私も」その言葉と共に二人はキスをする。いつもは私とレオにおきかえていたけだけだったけど、今日はそれをホントにするんだ。
 わたしから言いだすのはちょっとざんねんだけど。

「でもきっと言うわ…レオも…『アレクシア、愛してる』って…………!」

 そうぞうが追いつかない。わたしは真っ赤な顔を両手でおおい、きゃあきゃあと悲鳴を上げながら足をばたつかせた。

「アリスー?どうかしたー?」
「あっ…なんでもないわー!今いくー!」 

 いけない。このままじゃいけない。
 きっとこの調子じゃ、その言葉を聞いただけでたおれちゃう。いや、それどころか「キスして」って言ってすぐに気ぜつしてしまうだろう。

「この調子じゃ、きっとおぼえてなんかいられないわ…」

 彼の「愛してる」。それから他の愛のささやき。それらが知らぬ間に消えてしまう。そんなのはいやだ。
 わたしは考えた。彼のことばをのこす方法を。その時、机の上の日記帳が目に入った。彼が去年くれた、とってもすてきな日記帳。わたしのたからもの。

「……………そうだ!」

 わたしは日記帳を手に取り、まっさらなページを開いてからベッドの下に放りこんだ。

 計かくはこうだ。
 まずわたしが「キスして」と言う。そうするときっと彼はてれるはず。分かっているんだ、彼がはずかしがりやなことぐらい。でもきっとわかったって言ってくれる。だけど、そこでしちゃいけない。
 そうしたら、「ここじゃはずかしい…」って言ってわたしの部屋に呼べばいいんだ。レオだってダイニングでしようとは思わないはず。それにこの部屋でなら、きっとレオの力でしゃべったことぜ〜んぶが日記に残る。もしもはずかしさとよろこびのあまり気ぜつしても、あとでこの日記帳を読みかえせばいい。

「くふ、くふふふ。やっぱりわたしは頭脳ね!明晰だわ!」
「アリスー?」
「はぁい。今いくってばー!」

__________


 ごめんね
 ん
 おっぱい 小さいでしょ
 でも すごくかわいいよ
 ば かぁ んっ

「…うわぁ」
「てひひ」

 だめぇ レオっ はぁぅ そんなとこなめちゃ ひゃ きたないよぉ やぁっ だ だまるなぁ

「……うわぁ」
「てひひひ」

 くぅっ アリス 足外して
 いいの いいからぁ レオ れおぉ んあぅ ぎゅって してぇ だっこ だっこぉ

「………うわぁ」  
「てひひひひ」

 こんな衝撃は久しぶりだ。子供の頃キッチンで両親がやらかしているのを見て以来だ。
 僕が今読んでいるのは彼女がベッド下に放り込んでいた日記。胡麻粒のような細かい文字で昨日の一連の会話が記録されてしまっている。僕の愛のささやきを記録するためらしいが、愛の営みまで記録してしまったという話だ。
 誰が悪いか?そりゃ僕でしょう。完全に気を抜いていたから。

「にしてもこれは………うわぁ、こんなことまでしたっけ」

 だが改めてみると自分の大胆さに驚かされる。これは両親を笑えない。

「なによう。おぼえてないの?昨日約束したのに」

 彼女は口をとがらせ、「わたしなんか拳拳よ?服膺だわ」と自慢げに言う。
 そう、問題はそこだ。今の言葉の意味は分からないけど。

「…どのぐらい覚えてるの?」

 彼女はちょっと唸ってから「ぜんぶ!」と元気よく答えた。
 ぜんぶ…全部!?そんなバカな!図鑑と全く話が違うじゃないか!彼女が『アリス』であるなら全部忘れているはずだ。個人的には嬉しい事なのだが、だいぶ混乱してきた。これはこの世界を揺るがしかねない。一体全体どういう事なんだ?マズイだろ色々!
 うんうんと唸る僕の顔をアリスが覗き込んだ、かと思うと両手で僕の頬を張った。痛い。

「聞きなさい(リッスンナップ)レオナルド」
「…はい」

 きっと僕を睨みつけるように見る。

「確かにわたしは今朝、ぜんぶ忘れてたわ。でも、さっき思い出したの。ぜんぶね」
「だからそこが問題なんだよ。……いったいなんで………」
「まずはそれよ」

 彼女はびしっと僕の首を指さした。首…キスマークのことか?

「それを見てわたしは、ベッドの下に日記があるのを思い出したの。まったくそれすら忘れてるなんて、油断ね。大敵だわ」
「はぁ」
「それから日記を読んで、さいごのぶぶんでぜんぶ思い出したの!」

 「もう感孚よ。風動だわ…」とわざとらしく目じりをぬぐう。最後…彼女が寝る直前の部分か。

「いや、それは分かったけど…なんでそれで思い出せるのかってハナシだよ」
「だって、レオ言ってたじゃない。『それにかん連した外部しげきがあれば思い出しやすい』って」
「…鍵刺激?でも、そんな都合よく…」
「違うわ。都合なんかじゃない」

 また彼女が僕の頬を両手で張る。
 いや、今度はそのまま僕の顔を両手ではさみこんでしまった。

「言ったでしょう?わたし、忘れたくないって」
「…ふぁい」
「だから忘れなかったのよ、きっと」
「…ほんなごふごうひゅぎな」
「言ってるじゃない。違うわ」

 彼女はくふふと笑い、自信に満ち満ちた声と表情で小首をかしげて言った。

「愛の力よ」

 そう言うと彼女は手を離し、鞄と帽子を僕に持たせると素早くドアを開けて、呆然とする僕を外に放り出した。続いて自分も家を出て、門の前まで僕を押してゆく。

「ほらほらしっかりして!講演会に遅れちゃうわよ!」

 そうか?…そうだ!
 懐から時計を取り出す。マズイ。激マズだ。あまりの衝撃に時間感覚がおかしくなっていたようだ。上品に歩いて行くなんてことは、とてもじゃないが出来そうにない。

「と、とにかく、帰ったら改めて話そう、ね。とりあえず今は…いってきます!」

 僕は鞄を抱えて走り出す。その背中にかかる、彼女の声。

「いってらっしゃ〜い。 あ・な・た・〜」

 くふふふ、という笑い声も次第に遠くなる。
 久々に走るので、もう息が切れてきた。腿が傷むこともあって僕は一度立ち止まる。
 鞄を地面において明らかに緩みきっている頬を両手で張り、もう一度走り出す。
 別に大したことじゃない。昨日のことを覚えているという、ただそれだけのことなのだ。多くの生物には当たり前のことで、なんら特別なことはない。ないんだけれども…。
 あぁ、畜生。どうしてこんなに嬉しいんだ。


 晴れ渡った空、穏やかな風。今は全てが心地よかった。
 今日は急いで帰ろう。そう思った。
 

__________


 当時は科学と魔法の融合が始まり、科学界においてもそれを応用した技術重視の論調が強かった。その時代に記憶と魔法の根源たる感情について言及した彼の研究は大変貴重なものであり、先進的であったといえる。
 なお、あまり知られていないことだが、『記憶という名の不思議の国』をはじめとする彼の著書には、初版本だけに以下の言葉が添えられている。

『この本を我が助手にして最愛の人たるアレクシア-リデルにささげる。
 誰かを思う心は、時に生物の宿命や科学をも超越する力となる事を教えてくれた、彼女に。』


           フランチェスカ・C・トログウル『先駆者たち』より


10/01/01 00:47更新 / 八木
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■作者メッセージ
 いや、ホントごめんなさい。設定準拠endもあるので勘弁してください。
 ただね、
 「赤ちゃんはキスするとできるんだよね」
 「えっ」
 「えっ」
 「なにそれこわい」
 がやりたかっただけなんです。他の部分は飾りなんです。つじつま合わせなんです。主人公の能力も後付けなんです。
 誤字脱字等ありましたら、感想欄にお願いします。

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