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初夜権と領主



「そんなの、嫌よ!」
 俺の花嫁、ナーシェは端麗な顔を歪ませた。
 俺よりも一回り小さく華奢な身体には、今夜を飾る筈だった高価な服が纏われている。彼女はそれを振り乱して、不条理を訴えた。
「判ってるよ。俺も、嫌だ」
「判ってる、じゃないわよっ。どうしてなの。伯父さんがお金を支払ってくれていたんじゃなかったの? 話が違うじゃないっ」
 俺達はまだ若かった。俺は十八で、ナーシェは二つ上。幼馴染でありながら、彼女は正に俺の姉のような存在であった。
 そんな彼女とこうして結ばれ、幸せの絶頂である筈だというのに。
「その筈だったんだ。ちゃんと、約束してたんだっ」
 早口に捲くし立てるナーシェに、俺も全くそのつもりでいた事を落ち着いたトーンで伝える。彼女は式中に見せた笑顔とは全く異なる感情を爆発させる。
 彼女の目をふと見ると、其処には怒りと言うよりも悲しみが渦を巻いていた。
「もう、私達、結婚しちゃったんだよ……? 早くお金、払わなきゃ、私」
「……」
 悲痛な声。俺は彼女を守ると誓った筈だった。なのに、結婚して最初の夜を迎える前に、その誓いが果たせなくなるなんて。
「……もう一度、伯父さんと話を付けてくる」
 この風習に曝される農民は皆、この風習を忌んでいる。
 まだ貧しいカップル達の代わりに金を支払ってくれる人は、ささやかながら領主の歪んだ欲望に抵抗しようという人達だ。伯父もその一人の筈だった。まだ十八其処等で貯蓄の乏しい俺の代わりに金を支払ってくれる筈だったのだ。
 なのに、だ。結婚式が終わって、二人のこれからについて夢を馳せようと言う時に、突然「金は払えない」と言って来た。
 一瞬、言葉の意味が判らなかった。理解してからは冗談だと思った。もう事前に支払いは済ませていた筈だった。此方はそのつもりだった。なのに「払っていない」と付け足された。申し訳なさそうな顔で。
 必ず、金は返すと約束したのだ。二人で一生懸命働いて、金はちゃんと返すと。伯父は笑って「返さなくても良い。二人の祝い金だよ」と言った。ほんの一週間前だ。納金日のギリギリまで伯父は俺達の申し出を断り続けたのに、まさか、今更金が惜しくなった?
 だったら、今から伯父の目も前で、必ず返すと誓ってみせよう。そうすれば、きっと判ってくれる。
 それでも駄目だったら   一発、ぶん殴る。
 ナーシェは俺の目付きから何かを察し、新居予定の家から出ていこうとする俺を慌てて引き留める。
「だめよっ。何するつもり?」
「どうして急に金が惜しくなったのか、問いただしにだよっ」
「……だめ。間に合わないよ」
 間に合わない。
 顔を伏せ、噎び泣く彼女が絶望から絞り出した言葉の意味。俺ははっとなった。今はもう、夜。
    直に迎えが来る。
 ナーシェが俺に寄り掛かってくる。俺は彼女を腕に抱き締めた。
 彼女は悲嘆の涙を、俺が纏う麻に染み込ませる。
「傍に居て……。迎えが来た時に、貴方が居なかったら……」
「……判った」
 俺は彼女を更に抱き寄せる。涙の筋が未だ頬を伝う彼女の髪を撫で、接吻を交わす。今まで長く付き合って来たが、初めてキスをしたのは結婚式の時、つまりさっきだった。俺達にとって、このキスは結婚式の続きと言えただろう。
 熱い舌が行きかう。名残惜しく、互いの間を行きかう。肌を触れ合わせ、彼女が無垢で居られる僅かな時間を俺が独占する。


 互いの気持ちが高ぶる寸前の所で、激しく玄関の扉がけたたましく叩かれる。俺は彼女と離れる間際、言った。
「今日一日で、俺達の仲が終わる訳じゃないんだ。続きは、帰ってからしような」
「うん……」
 不安でたまらなそうに、ナーシェは震えた。
 俺は彼女の髪を撫でてから、玄関の扉を開ける。外には予想通り、領主の私兵が数人待ち受けていた。
「本日式を挙げた新郎新婦とはお前達の事だな?」
 俺と、後ろで震えているナーシェに視線が向けられた。
 俺は天を仰ぐ。夜空に満点の星が煌めいている。心臓の鼓動が速くなる。
 いっそのこと、嘘を吐いてしまおうか。もしかしたら、どうにかなるのじゃないか。そんな浅はかな可能性を頭に浮かべる。いや、浅はかかどうかはやってみなきゃ分からない。本当に騙されてくれるかもしれない。バレる前に逃げ出せば、彼女は無垢なままで居られる   
「……そうだ」
 俺はゆっくり頷いた。
 汗が噴き出す。此処で嘘を吐いて僅かな時間を得た所で、更に立場を悪くするだけだ。楽になりたい、迫る状況から逃げたい。そう思った俺は逃げ道を探してしまった。
 俺が逃げては駄目なんだ。彼女を守るには、今は、俺が毅然としていなければならない。
「ナーシェ」
 彼女を呼ぶ。俺の覚悟を察してか、自分から家の外に歩み出し、兵士の手を掴む。
「領主様がお待ちだ。精々、今晩だけでも楽しませるのだぞ?」
 兵士のデリカシーの欠片もない台詞に、俺は拳を握りしめた。連れていかれるナーシェは、振り向いて「大丈夫」と微笑んだ。


 やがて、彼女の姿が見えなくなる。俺は膝から崩れ去る。
 彼女の最後の微笑みが、頭の中から何時までも消えなかった。





――――――――――





 朝陽が窓から差し込む。
 小鳥の鳴き声。荷車を引く音。俺は只、新居のテーブルに腕を乗せて木目を眺める事以外の事をしない。胸の内はもう麻痺してしまったかのように、後悔も怒りも湧き出てこなくなっていた。
 彼女は、俺が苦悩している夜の間、知らぬ男に穢されていただろう。その唇は奪われ、果実は割られている。きっと、美しい彼女の、純粋無垢の全てが毒牙に掛けられている。その事実が、今も俺の中で苛む。
 どうしてこうなったのか。原因は何処にあるのかと思案する、堂々巡り。そうしている間中、不意に彼女の笑顔を思い出し、現実逃避してしまう自分を振りほどく。
 そうしている内に夜が明けた。結局、一睡もしなかった。


 気付くと、誰かが扉をノックする音が聞こえる。
 ナーシェが帰って来たのだろう。俺は椅子を倒しそうになる。
 どんな顔をして扉を開ければいいのだろう。彼女はどんな顔をして立っているのだろう。俺はそんな不安を胸に抱え、扉に手を掛ける。
   あ」
 扉の外には、確かにナーシェが立っていた。複雑そうな表情を携えて。背後には見送りの兵士が立っている。
 俺は彼女の余所余所しい態度に動揺したが、一先ず笑顔で迎える。
「大丈夫か、ナーシェ」
「う、うん。私は大丈夫だけど……」
 ナーシェは目を合わせてくれなかった。
 俺は得体の知れないモノを感じ取りつつも、彼女の肩を抱いて家の中に入ろうとする。すると彼女は、彼女は、俺の腕を抑えて、じっと、その丸っこい瞳を俺に向けるのだ。
「ルーゲル。落ち着いて聞いて」
 彼女が、呼び慣れた俺の名前を呼んだ。
 心臓がドクンと鳴った。妙な汗が額を伝う。彼女の表情には、一片の笑みもない。それどころか、知らない男に抱かれた後としては不自然なほど凛としていた。
 胸の辺りに広がる不快感。ずっと考えないようにしていた可能性が、此処に来て噴き出す。今まで麻痺していた心の感覚が一気に弾けた気がした。
「ナーシェ!」
「え、ちょっと」
 俺は有無も言わさず、彼女を抱き締めた。
 彼女の戸惑う声。彼女の香り。俺は、彼女に甘えていた頃の事を思い出す。みっともないと知っていながら、追い縋った。
「どうしたんだ。俺以外の男に抱かれて、心変わりしたか!? 確かに、今まで一緒に居て、何もしてこなかった俺に甲斐性もないのは判ってる。けど、俺、誰よりもナーシェの事、幸せにしたいと思ってるから……!」
「……え、ちょっと待って。ねぇ、聞いて? ルーゲル」
「嫌だ、聞かない!」
「聞きなさい! 貴方、勘違いしてるから!」
「何がだよっ」
「わ   私、まだ、綺麗なまま……だから」
 ほんのり頬を赤らめて、ナーシェは確かにそう言った。
「……え」
「だ、だから……私、まだ誰のモノにもなってないから……」
「で、でもっ。領主様の屋敷で一晩過ごしたじゃないか?」
「あれは、もう遅いからって、御配慮頂いて……」
 嬉しい事実の筈なのに、何故か信用出来なかった。いや、納得いかなかったというべきか。
 俺は、やっと自分を苦しめるモノが嫉妬だと言う事に気付く。気付いて、自分でも判る様にはっきりと口に出す。
「信用出来ない。ナーシェ、嘘を吐くぐらいなら、本当の事を言ってくれっ」
 覚悟を決めて、改めて彼女の言葉を待つ。
 だが、何故か彼女の顔は見る見る内に赤くなっていくのだった。
「だから!」
 ナーシェは突然声を張り上げた。
「領主様は   女の方だったのよッ」


 ナーシェは、本当に恥ずかしかったと言わんばかりに肩を震わせた。
「もう、とんだ恥掻いたわよっ。此方は毛むくじゃらのおっさんに好き勝手されるかと思って覚悟して行ったのに、まさか領主様が女の人だったなんて」
「……えっ。……」
 あまりに突飛な話に、俺の頭には何の言葉も浮かばない。
 ナーシェは怒りが収まらないかのように口を動かす。
「しっかりして欲しいわよっ。大体、なんで領主様の私兵が領主様の事知らないのかしら」
 そう言われた兵士は面目も無く顔を伏せた。
「……と言う訳で、私は無事なの。判った? ルーゲル」
 俺は反射的に頷いた。そしてじわじわと、ナーシェの言葉の意味を理解していくにつれ、飛び上がりたい程の歓喜を憶え始める。
 そんな俺に呼応するように、彼女は微笑んだ。
「それにしても、ルーゲルってホント焼餅焼きよね。さっきのルーゲル、ちょっと可愛かったかも」
「や、焼餅なんて」
「所で、聞き間違いじゃなかったらだけど」
「……え?」
「ふふ。幸せにしてくれるんだ」
 何時もの調子でからかってくる彼女。さっき自分が吐いた言葉を思い出させられ、俺は顔が熱くなる。
「う、五月蠅いっ」
「もう、何時まで経っても子供なんだから」
 そう言って、頬を突いて来る。なんだか、今まで心配していて損した気分になった。
 しかし、そうなると、初夜権についてはどうなるものなのだろうか。俺はナーシェを連れてきた兵士に目を向ける。俺の視線に気がついたナーシェは、今までの態度を一変し、神妙な表情で俺に向く。
「あ、あのね? ルーゲル……。初夜権の事なんだけど」
「ああ。結局、どうなっちゃうんだろうな」
 そう返す。例え後で大金を要求されるとしても、ナーシェを失わずに済むならこれ以上の不幸などない。そう、たかを括っていた。
 ナーシェが、伏し目がちに呟いた一言がなければ。
「あのね」
「うん?」
「……新郎が、行かなきゃ駄目なんだって」
「あー、成程なー。……って   ええっ!?」
 思わず声をあげて驚いてしまう。見ると、兵士達の目は総じて俺に向けられていたのだった。
「領主様直々の御命令だっ。お前を連れていく」
「ちょっと待てッ。な、なんで俺がっ」
「つべこべ言わずに来いっ」
 彼等も一日目に新婦を連れてくると言う失態を犯した事から焦っているらしい。俺を強引に家から引きずり出す。
「ちょっと、乱暴しないでっ」
「邪魔するなっ。ええい、めんどくさいから新婦も連れていくぞっ」


 ……こうして、何故か俺とナーシェは二人揃って領主の屋敷に連れていかれる事となったのだった。





――――――――――





 屋敷に着いたのは昼間だった。舗装されたばかりの道をゆったりと馬車で進む。森の中を木々の間を縫うように進み、その先に佇んでいたのは、蔦の絡む、古びた建物だった。
 兵士に先導されて中へと入る。兵士は共に入ってこない。扉が閉じられてすぐに感じたのは、昼間にそぐわぬ、中の暗さだった。
 エントランス。見渡す窓には全てカーテンが引かれ、カーテンが備えられてない窓には木の板が物々しく張り付けられている。領主の館としては、余り実感が湧かない印象だった。といっても、廃墟、と言ってしまえるほど生活感がない訳ではないが。
「なぁ、ホントに此処、領主の屋敷か?」
 思わずこそりとナーシェに尋ねる。彼女は母親か何かの様に俺を叱りつつ答える。
「領主、様。何処で聞かれているか判らないんだから。まぁ、確かに吃驚するかもしれないけれど、紛れもなく領主様のお屋敷よ。……掃除とかしないのかしら」
「さぁ。そういえば、領主サマには会ったのか?」
 会っていない訳がないか。そう思いながら訊いたつもりだったが、ナーシェは唇をきゅっと締めた。
「……えと。顔はよく見えなかったんだけど」
 驚いたが、反面すぐにナーシェの言う事には納得した。
 この地の領民、俺の知り合いで領主の顔を見た奴は一人も居ない。領主は滅多に姿を現さなかった。
 何故かは知らない。しかし、私兵にすら性別を認識されていなかったくらいなのだから、あまり目立つ事はしない性格なのだろう。だったら、顔を見えないようにしていてもおかしくない。
「そっか。女だったら、なんとか話せば判るかもしれないな」
 なんとなく呟いた言葉。ナーシャの表情は曇った。
「そうだといいけど……」
 何時まで経っても俺達を出迎える人影は見えない。何故ナーシェがそんな事を口走ったのかは定かではないが、やがて玄関に突っ立ってるのも無意味と悟り、奥へと歩き出す。
 色褪せたカーペット。踏みしめる度に埃が舞う。ますます高貴な身分らしくない住まいだと思った。
「ねぇ、変に歩き回って大丈夫なの?」
 ナーシェが言う。俺は思わず尋ね返す。
「え、お前が来た時はどうしてたんだよ」
「何って、声に従って歩いて行って……」
「声? なんだよ、それ」
「知らないわよ。魔法か何かでしょ」
 蜘蛛の巣が張る廊下を歩きながら、ナーシェはムスッとする。姿を見せずに声だけを示すなんて、そんな対応が実際にあるのだろうかと疑う。
 そんな最中、先の見えぬ暗がりに品のある女性の声が響き渡る。
   誰だ、こんな時間に妾の館に忍び込む愚か者は』
 今は昼間だというのに、寝起きで機嫌の悪いような声。
 ナーシェはほら見ろと言わんばかりに俺に向き直る。俺は念の為にもナーシェを後ろに下げ、闇に問いかける。
「誰だっ」
『妾の屋敷で、よもや誰かと問われるとはな』
 愉快そうな笑い声。その口振りとナーシェが後ろで「領主様よ」と囁いた事からして、この屋敷の主と察した。俺は続けて口にする。
「アンタが此処の領主か? だったら頼むっ。金は何時か払うから、今回の事は勘弁してくれないか」
 すると闇の中の声は押し黙る。
 暫く間を置いてから、再び空気を震わせた。
『今回の事?』
「初夜権……の、事だ」
 一瞬、口に出すのを憚った。
『ふむ。成程、貴様が今宵の……』
 声の向こうでふふっと少女染みた笑みが聞こえた。
『慈悲を掛けてもらいたい、と言う訳か。ならばもう少し口の利き方と言うモノがあるであろう』
 言葉に詰まる俺。相手は諦めたような溜息を吐いた。
『まぁよい。妾の部屋にて話そう』
 その言葉を聞いた瞬間、廊下に並ぶ燭台がぼうっと音を立てて火を灯す。暗がりが開け、道が開かれる。俺達は何も言われずに歩く。進んでいくと左右に道が別れるが、右の通路にだけ明かりが伸びている。
 此方に進んで来いと言う事か。ナーシェの手を引いて歩く。
 やがて燭台の明かりが途絶えた所には、上等な木材で仕上げられた重厚な扉があった。俺とナーシェは互いの顔を見合わせてから、扉をノックする。
 先程の遠い声とは違い、中から近い声が聞こえる。
   入るがいい」
 許可をもらったので、埃が積もったドアノブに手を掛ける。室内はエントランスで感じた暗さよりも数段濃い暗黒に包まれていた。只ぼんやりと輝くのは、暖炉にくべられた薪が赤くなって発する光だけ。その光を頼りに判ったのは、不気味な事に、部屋の真ん中に大きめな棺があるという事だけだった。
 まるで当然の様に部屋に置かれる不似合いなそれの存在に、首の後ろがひやりとした。近付かないでいようと本能的に判断したのだが、何やらその中に気配が横たわっているのを感じた。
 横でナーシェが跪く。俺も慌てて膝を着く。
 すると、その気配は俺達を窺う様な間を置いてから不機嫌な令嬢の声を発した。
「……妙だな。妾が下僕共に呼んで来させたのは、新郎のみの筈だったが」
 不満の矛先であるらしいナーシェは言う。
「私は彼の妻です。彼をどうこうしようが、傍に付き添うのは妻の役目です」
 その物言いは立派だった。俺も、彼女が連れられていく姿を見てこれぐらいの事を言うべきだったと後悔する程に。
 領主らしき影はナーシェの言葉をつまらなさそうに鼻で笑う。
「ふん。あの役立たず共め。使いも満足に出来んのか。つくづく使えん人間共め」
 俺はその傲岸不遜な態度に嫌気が差した。これだから貴族階級とかいう奴等は。
「まぁ、兎も角の所、今度は間違えずに呼んで来られただけ進歩はあるか。余計なのも付いて来ているが、大凡予定通り、だ」
 領主はシーツを摺るような音と共に起き上る。昼まで寝ていられるとは良い身分だ。俺達農民階級とはほとほと違うようだ。
「……所で、今は何時(いつ)時だ?」
「昼間です。陽は丁度真上に来ております」
 ナーシェが答える。と言っても、こんな四六時中夜の様な部屋では、今が昼間と言う事実が疑われるのだが。
 すると暗闇の奥でバサリとシーツに何かが埋もれる音が響く。途端に気怠い声が投げかけられるのだった。
「あー。やはりまだそんな時間かー。全く、夜に連れて来いと言っておいたというのに。やはり使えん奴等め」
 とんでもない怠けた口調で領主はぼやく。後にした方がよいだろうか。一瞬そんな風に考えたが、昼間になっても眠たげであるのは高貴な身分の所為に他ならないと思い、気を配ろうとした自分を振り払った。
「あの、お疲れの所申し訳ありませんが……旦那の事についてお話が」
 ナーシェが先に口を開いた。先程からナーシェが話を執り行っているのに気付く。これでは夫の面目も何もない。姿の見えない中、領主は身体を動かさなかったが、しっかりとした声で返す。
「初夜権の話だったな。予め断っておくが、貴様等は妾から初夜権を買い戻してはおらぬ。とすれば、だ。貴様の旦那の貞操は、妾が好きにしてもよいということになる」
「ですから、其処をなんとか……お許しを頂きたく」
 そう飽くまで下手に出るナーシェに、領主は棺の中で溜息を洩らした。
「妾とて、浅ましい種族である貴様等とまぐわうなど考えてもおぞましい事。本来ならば、貴様の旦那など、此方から願い下げだ。だがな、決まり事は決まり事なのだ。高貴なる者は、人の上に立つ者としても、規律を軽んじてはならん」
 そして領主の口からはこうも続く。
「決まり事に背いた者には相応の罰を与える。そうでなければ、他の者に示しがつかん。そして、貴様等にその罰を与え給う役割を負ったのは妾だ。決まり事に背いた貴様等には、妾から整然とした罰が与えられる。……それとも、それが判らん程貴様等は頭が悪いのか?」
 他の者に示しがつかない。それはそうだ。言ってる事は間違ってないのかもしれない。
「そんな! お金はキチンと支払いますっ。ですから」
「決められた時期は過ぎている。それに、準備するだけの猶予も十二分に与えていた筈だ。それでも準備する事適わなかったという事は、これより先、支払えるとは思えん」
「そんな……でも……っ」
 ナーシェは押し黙る。領主の言葉に抗える要素は見つからない。結局、俺達は領主に情けを掛けてもらわなければならないのだ。
 俺は黙って闇の奥を見詰める。そして、今まで跪いていた床に目を伏せ、少しの間目を瞑る。
 決心がついた頃、俺は言った。
   お願いしますっ。俺、彼女と幸せになると誓ったんです。なのに、最初の日は彼女を守ってやれなくて……っ。だから、二度と、彼女を悲しませないようにしようって。だから、どうか、御厚情の程をお願い致します……!」


 すると、ベッドが軋む音が頭の先から聞こえ、床に足が置かれる音が響く。
 気配が徐々に近づいて来る。
 俺は生唾を飲み込みながら、頭を下げたままにしていた。
「……ふむ。其処まで言うのなら……考えてやらんでもないが……」
 やがて、視界にまっさらな肌の素足が置かれた。俺の身体に緊張が走る。目の前に立った領主は静かに、何処か重たい声で言った。
「顔を挙げよ」
 言われるままに顔を挙げる。
 誰も見た事の無かった領主の姿。まっさらな肌は足の指先から深紅のベビードールに隠れるまで続き、やがて細い首筋から顔全体にまで広がる。ぼんやりと焚火の光に映され、オレンジ色に輝く。傷の一つもない肌。それに顔自体も、畑仕事や家事に追われる村の女達のような泥臭さなど微塵もない。不思議と整った印象を受けた。
 そう言う意味では、ナーシェも負けていない。村一番の美女と言えば彼女だし、いつも傍に居て誰よりも美しいと思えるのは彼女ではあったが……。
 思ったより領主が若く美人だったのには少なからず驚いた俺。領主は真っ赤な唇を揺れ動かす。
   立て」
 俺は操られるかのように立ち上がる。領主は俺よりも少し背が低いくらいだった。ナーシェが不安そうに眉を下げている。俺も何故立たされたのか判らずに戸惑っていると、領主は俺の首に細い腕を回し、まじまじと顔を見詰め始めたのだ。
 突然の接近に慌てる俺。ナーシェも息がとまった様に此方を見ている。そして領主は俺の首筋に顔を埋める   

   かぷっ」

 妙な感覚。首筋の柔らかい筋肉の間に何かを滑り込ませたような、二点の違和感。その部分からじわじわと、何かむずむずとした感覚が体を犯すかのように広がっていく。
 そして、それが広がり終わらない内に全身の力が吸い取られるかのように、脱力感と怠さが襲う。
(じゅるっ。じゅび……ちゅ、ぴちゅ)
「はぁ、はぁ……ん……」
 水っぽい音。興奮した様な息遣いが耳を撫でる。抱き寄せられるままに領主に頭を傾ける。何故だか判らないが、段々と得体の知れない感覚への嫌悪感が、快感へと変わっていく……
(ちゅぅ、じゅるる、ぴちゃっ)
「嘘、そんな……!」
 ナーシェの、何かに戸惑う声が聞こえる。
 だが俺は、意識が次第にとろけていくだけで、何が起こっているのか判らないでいた。
(ぴちゃぴちゃ、ずるっ、じゅるる)
「ル、ルーゲル……!?」
 水を啜る音。ナーシェの、声が、遠くなって……
(んちゅっ。……ちゅぴ)
   いや!」

 突然、耳を劈く様な悲鳴と共に、俺の身体は何かに押された。意識が朦朧としていた為、地面には良い倒れ方をしなかった。痛みに肩を響かせる。
「だ、大丈夫……? ルーゲル」
「え? あ、ああ……」
 心配そうに駆け寄るナーシェに空返事。自分でも何が起きたのか良く判らなかったが、どうやらナーシェは俺を領主から引き離そうとしたらしい。
 ふと首筋をひたりと触る。生温かい感触。手に絡みつく何か。焚火の光に照らされる橙色。   それに勝る、赤。
 血。血だ。血を吸われていた。
 首筋に牙を突き立てられ、溢れる血をコウモリの様に舌で掬い、喉に流されていたのだ。
 領主の真っ赤な唇から、赤い糸が一本筋を引いて床に垂れ落ちる。
「……妾の食事を邪魔するとはな。人間のメスの分際で」
 領主の目が闇の中で不気味に赤く光る。

    逃げないと。

 戦慄する俺達は、互いの手を取り合ってその部屋から逃げ出した。
 廊下は暗く、一筋の光も見えない。それでも駆けだす。時には壁にぶち当たりながら、必死で駆けた。
 だが、そんな俺達の首筋に息が掛るかのような距離で嘲笑が聞こえた。
「ふふ。此処は妾の館。何処に逃げようと、妾の手からは逃げられぬ」
 思わず振り向いてしまいそうになる。其れを我慢して、俺はナーシェの手を引いて走る。
 不意に一筋の光が前方に見えた。正に闇の中に差し込む、希望の光。それが救いそのものにしか見えなかった俺達は、一心不乱に其処を目指して駆ける。
 後ろからは途端に慌てた声が追い駆けてくる。やがて俺達は光へと飛び出した。


    其処は中庭のようだった。真上には太陽が掲げられ、その下には青い薔薇が咲き乱れている。
 俺達は立ち止った。
 咲き乱れる薔薇の根元には鋭い棘があり、それは深く絡み合っているようだった。不用意にこのまま突っ切れば、足を取られ、追い付かれてしまう。
 倉皇している内に、俺達の背後に冷たい息がかかる。
「……たかが人間の分際で、手間取らせてくれる。そんなに妾と同衾するのが嫌か」
 振り向けば、其処にはもう領主の姿があった。太陽の下で露わになる、その肌の輝き。金色の髪が風に靡いて色を僅かにくすませる。息を弾ませながら、俺は尋ねる。
「……い、一体、何者なんだ、アンタ」
 全力で逃げ回っていた俺達に一瞬で追い付いておきながら、領主は息の一つも乱していなかった。身なりだって寝巻のまま、素足のままであるにも関わらず。
 領主はほくそ笑んだ。
 その笑みは尋ねて欲しくて仕方がなかったという風に、悪戯っぽかった。
 だがその笑みは俺達の前で傾いていき   やがて地面に倒れ伏すのだった。





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【メモ・用語】
“初夜権”(詳しくは参考元wikipedia参照)

結婚の際、領主や僧侶など身分の高い人物が新婦と同衾する権利。但し金銭によりこれを取り戻す事が出来た。

処女と性交することは災いを招くという迷信が信じられている地方において、この制度は、権力者には特別にそれが適応されないという認識の下に行われたとされる。

只、そんな事をしたら権力者(野郎)の子供が何処に生まれるか判らなくなるわけで、継承争いなどが起こったらあちこちから継承権を主張する人がわんさか湧いちゃう恐れがあるので、実際あったかどうかは定かではない制度。



なんにせよ、エロい制度である事はゆるぎない。

10/02/27 21:45 Vutur

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