4-2 二人の夜
目の前の光景が一瞬にして変わる。そんなことは読者の皆さんには中々想像しがたい事象ではないだろうか?
剣を振り上げていた騎士や、草原、森に光のフィルタがかかったかと思うと、次の瞬間には一変した光景と地形、地質の変化にトーマとトレアも一瞬対応できずに呆けていた。
トレアは手で地面が草原などでなく土と砂に変わっているのを確かめ、辺りを見回した。何度も言うが、その光景は一変していた。
「どう…なっている…?」
広大な森も壮大な草原も姿はなく、眼下に赤みを帯びた土と砂の大地が広がっている。緑もなくはないが、なんというのか、以前から見ていた森とは感じが違って見える。
所々町のようなものも伺うことができ、それぞれの町には1棟の塔が立っていた。
そしてそんな幾つもの町の向こうには、薄い青紫がかり壮大なスケールを誇るスプル山脈が雲を突き抜けてたたずんでいた。
見える景色からしてこの場所がどこか高いところ、山か何かの上だと気付いたのはしばらく経ってからのことだった。
トレアはトーマが負傷していることを思い出し、はっと彼を振り返った。
「トーマッ…!」
彼女は握ったままだった剣を納め、四つん這いで這うようにトーマに近寄った。
「…トレア…状況が飲み込めないんだが…死んじゃったか…?」
「大丈夫、まだ生きてる…!」
「はっ…だよな…天国にしちゃ殺風景だ…」
こんな冗談を言う余裕は、本当はない。それはトレアにもわかることだった。出血がひどく、トーマの目も虚ろだ。
「頑張って、すぐに治療を…」
と言いかけてトレアは周りを見る。
〔そうだ…治療道具はない…どうしよ…〕
この場にあるのは土と枯れたような麻色の草と、傷ついたトーマと己の体のみ。ここにどれほど腕のいい医者がいたとしても、治療などできたものではなかった。
「…トレア…」
苦しそうな声でトーマは呼んだ。そして震える指で傾斜の下の、岩の影を指さした。
「あれは…!」
その先にあったのは、黒いケース、トーマのウェポンケースだった。
「待っていろ、すぐに取ってくる!」
トレアは立ち上がると滑るように傾斜を駆け下り、岩の陰に落ちていたケースを拾い上げ、破損のないことを確認し「よし…」と言うとすぐにトーマの元まで登った。
「トーマ、横になった方がいい…」
苦しそうなトーマを見て、トレアは言った。体を支えて彼が横になるのを手伝う。すると微かにだが、トーマの表情は穏やかになった。
ケースの留め具を外して開けると、まず片方のスペースに入ったサブマシンガンとスコープが目を引いた。もう一方のスペースは不等分に4つに小分けされ、それぞれに蓋が付いていた。不透明な蓋で、中に何が入っているのかはわからない。
「えっと…」
焦った様子でそう言うトレアを見て、トーマは今必要なものの場所を教えた。
「…小分けされた方の…一番大きなポケット…」
トレアはすぐさま一番大きなポケットの蓋を開けた。中にあったのは細長いスプレー缶が3本、包帯、絆創膏、それぞれ色の違うカプセルの入ったケース4つ。
「…黄色いラベルのスプレー缶…円筒状の奴だ…」
スプレー缶と言ってもわからないと思い、トーマは円筒状の物と言いなおした。トレアは取り出したスプレーを「これか?」とトーマに見せた。
「ああ…それだ…」
「これをどうすればいい?」
「…まず俺の服を脱がせろ…ジャケットのホックを外して…傷口を露出させろ…」
「あ、ああ…」
トーマの言うとおりに、血の滲みた紺のジャケットのホックを外し、同じく一部が赤く染まった黒いワイシャツのボタンも外した。斬られた傷が露出して、トレアは顔を思わずしかめた。
「それのキャップを外して…小さい穴が傷に向くようにして…上の部分を押すんだ…よく振ってからな」
キャップを外すと、中は少し細くなり、側面を剥いた小さい穴があった。トレアは言われたようにそのスプレーを上下に激しく振った。少々目抜けに見えなくもないが、スプレーを初めて見て初めて使うのだから仕方ない。
「それで…押すってどこをだ?」
「そのスプレーを持って…細いところを人差し指でこう…だ…」
トーマはジェスチャーで使い方を教えた。それを見て、トレアは傷口に噴出口を向けて押した。
「うわッ!?」
『プシュッ!』とスプレーの中身が噴き出されて、彼女はビックリして声を挙げた。
「あっはははは…ぁいっててて…」
トレアの可愛らしいリアクションに、トーマは思わず笑いだし、傷が痛んで顔をしかめた。
「わ、笑うなっ…!それより今みたいなのでいいのか?」
「あ、ああ…傷口全体にな。押しっぱなしで出続ける…端から端まで一度行けばいい…」
スプレーを傷口に吹き始めると、トーマは顔をしかめた。
「へ、平気か!?」
「ああ、沁みるだけだ…」
傷口全体にかけ、しばらくするとすぐに効果は出始めた。
「え、もう血が…」
「固まってきただろう?」
あれだけ流れ出て止まる気配のなかった血は、だんだんとその流出をやめ、血液は表面に膜を張っていた。
それは例のスプレーの中身がPLT活性フィルムの構成素材だからだ。PLTとは血小板(Platelet)の略称で、簡単に言えば、血小板の凝集を手助けする成分を含み、血液内の水分を利用して表面に薄い丈夫なフィルムを構成する医療素材だ。治癒効果を助ける成分も含まれているため傷は塞がりやすくはなるものの、それでも応急処置に過ぎない。
トーマもその効果と仕組みをトレアに説明すると、彼女は「便利なものだな」と興味深そうに見ていた。
「…これで動いても一応は平気だ、今のうちに下ろう…」
トーマは立ち上がろうとして倒れかけ、それをトレアが抱きかかえるように支えた。
「大丈夫か!?」
トーマは体を一瞬預けたが、すぐに彼女の肩を借りて立ち上がった。
「…ああ、血を流し過ぎたらしい…少しフラつくな…」
「肩を貸す、気をつけろ…」
「悪ぃな…助かる…」
トレアはその言葉を聞いて一瞬息を詰まらせ、顔を背けた。彼女の表情は悲しそうに思えた。
〔そんなことを言わないで…だって…だってッ…私の所為なんだからッ…!〕
トーマが傷を負っているのは、自分があんなところで心を乱したから。己の心がこれほどまでに脆く、未熟だったから。そんな自分が彼から例など言われる資格はない。
トレアの『顔を背ける』という行動はそんな思いから来たものだった。
トーマのケースを拾い上げ肩にかけると、トーマの左腕を首と肩にかけ、体を支えながら傾斜をゆっくり下って行った。
岩山を下り始めたのは午後3時を少し回ったくらいだっただろう。トーマの体力的なこともあり、小まめな休憩を取りながら下りていった。結果、麓に着いた頃には辺りは薄暗くなり始めていた。
数百メートル先にうっすら筋のようなものが見えた。すぐにそれが舗装された道だと気付き、何とかそこまでたどり着いた。
道の一方は岩山の間を抜けるように続いており、もう一方の先には高い塔を中心に据えた町がある。だが、距離を考えると着くころには夜は明けてしまうだろう。
2人は何とかどこか屋内で一夜を明かせる所に辿り着きたかった。なぜなら、日が落ちるにつれて暖かかった気温がどんどん下がり冷えてきていたからだ。手当てしたとはいえ重傷を負ったトーマにしても、リザードマン故に寒さに弱いトレアにしても、防寒具のないこの状況で寒い屋外で一晩を明かすことは避けたかった。
現にトーマの体は若干震え始めているのをトレアは感じていた。このままでは取り返しのつかないことになるかもしれない、そんな焦りの中、トレアは道のわきに建つ小屋を見つけた。
距離的には30分もあればたどり着く距離だ。
「トーマ、歩けるか?」
「…ああ…大丈夫だ…」
トーマの声は微かに震えていた。2人は少し急いで歩みを進めたが、ようやく小屋にたどり着いた時には辺りは全く暗くなっていた。
外観はそれほどボロくはなく、修繕されたような跡もあり、定期的に手入れされているようだった。押し戸を開けると鍵はかかっておらず、中には誰もいなかった。2人は中に入り、トレアは一まずトーマを壁にもたれるように座らせた。
「ここはたぶん、旅人用に建てられた休憩小屋だ」
トレアは小屋の中の設備を一見してそう言うと、棚の埃避けのカバーの下から毛布を3枚取り出した。1枚を床に敷き、トーマをその上に寝かせた。
「明日は私が町まで行って様子を見てくる。ここはスプル山脈の反対側で親魔領だと思うが、一応な。医者を呼んでくるから、お前はここに居ろ」
「ああ…頼む…」
「もう寝ろ、体力を回復させた方がいい」
「そう…だな…」
トレアはトーマに毛布を掛け、自分も毛布を体に巻き、壁にもたれかかって体を休めた。だが、目を閉じていたのはほんの2、3秒くらいのことだった。
暗い小屋の床を向いた視線だが、そんなものは彼女の目に入ってはいない。彼女の眼には全く別の風景が映っていて、歯を食いしばり拳を握りしめた。
そんなトレアはトーマの息遣いに気が付く。彼の方を向けば、毛布の端が震えていた。
「寒いのか?」
「あぁ…少し…冷えるだけだ…心配するな…」
「そうか…」
返事をしてから目を閉じた。それから少し間をおいて、トレアはぱっと目を開けてアイアンガードとウエストガードを外した。そしてトーマに近づき、毛布の中に潜り込んで自分の使っていた毛布をその上から被せた。
トーマはその気配に瞑っていた目を開け、彼女に狼狽混じりの視線を向けた。
「トレア…?」
「寒いなら寒いと言え…」
「…あぁ…すまない…」
トーマは再び目を瞑り、そう言って体から力を抜く。自身の左半身から伝わる暖かさで、寒さに強張っていた体が弛緩したということと、その人の温もりに安堵を感じたためだ。今まで味わったことのないような安心
感がトーマの胸中に生まれていた。
「…強がるな…ほら、こんなに冷えてるじゃないか……こんなに…」
トレアが触れたトーマの体はひんやりと冷えていた。トレアはトーマの体に自分の体を密着させ、右手を折り曲げ枕代わりにし、左手をトーマの腕に沿えた。
「温かいな…」
トーマは少し小さな声でつぶやいた。トレアが伺い見た彼の表情は、柔らかな微笑みを浮かべていた。
「そうか…それはよかった…」
彼女はそれが嬉しくて、思わず一緒に微笑んでいた。
「ああ…それに…いい匂いがする…」
唐突にトーマが呟いた。
トレアは、そんなことを言われたのは初めてで少し戸惑った。それと同時に嬉しいような、なんだか心の中をくすぐられるような気持になった。思わず目を見開いてキョロキョロと返す言葉でも探すように左右に泳がせた。
「そ、そうか…」
結局つっけんどんな返事しかできなかった。先ほどから脈拍が早かったが、今の一言でそれは一層強さとスピードを増した。なんだかトレアは、トーマの横顔を見ているのが少し照れくさくなって、目をまたキョロキョロと泳がせて落ち着く場を探した。だが結局は彼の横顔に戻ってきていた。
そんな自分の鼓動と反して、トーマの鼓動は強くゆっくりと、堂々としていた。その音にトレアは妙な安心感を感じていた。それはその力強い鼓動に、トーマがそれほど弱り切っていないということに安心したのかもしれなかった。だが、それだけではないことをトレアは自分で解っている。
「…トレア…」
少し間が空いて小さな声でトーマはトレアの名前を呼んだ。
「なに?」
「…平気か?」
「え?」
トレアは唐突な問いかけが何を訊いたものかわからなかった。
「お前…相当参ってるんじゃないのか…?」
「・・・・・」
その時、彼女の脳裏にあの情景が浮かぶ。トレアの表情は辛く苦しそうなものになっているが、トーマは目を瞑ったままで、彼女がどんな顔をしているか分からない。だが、左腕に添えられていた彼女の左手がギュッと力を強めたことは感じている。当然それが彼女の無意識であることもわかっていた。
だがトレアはそんな行動とは裏腹な言葉を返した。
「…私は戦士だ…そんなことでへこたれてなどいない…大丈夫だ…」
それは自分に対しての暗示の言葉でもあった。戦士は強くなければならないと、これしきの事でへこたれてはならないと、そう言い聞かせなければ自分はもう戦えない気がした。
「…お前の言葉を返すわけじゃないが…強がるなよ…」
「っ…」
トレアは思わず息を詰まらせた。そして彼女はトーマの言葉を否定した。
「強がってなどいないっ…私は本当に…」
「…嘘だ…」
「っ……なぜ、どうしてそんなことが言えるっ…!?」
「魔物は…人を殺すことに嫌悪を感じている…故に今まで…人の命を奪ったことなどないはずだ…」
トーマは以前、ミラからこの世界のことについて詳しく聴いたことがあり、その時に魔物は人を殺すことにとても大きな抵抗があるということを、その理由も含め聞いていた。
「…確かに…だが…だが奴は死んではいないはずだ…殺していないならいつもの戦闘と一緒だ…」
トレアは反論した。いつも傷つけることはあっても、命を奪うことはしない。
「…違う」
「違わない」
「…違う」
「違わないっ!」
「…違う」
「違わないッ!!!!!」
トレアは思わず声を張り上げ、その顔は泣きそうなとても辛そうな表情を浮かべていた。だがトーマは少しトレアが落ち着いたと見るや、話を続けた。
「…違うだろ?…今まで斬ったことがあるのは急所ではない場所のはずだ…だが、今回はお前の意思ではないにせよ…奴の急所を衝いてしまった…」
トーマの言葉が切れ、二拍ほどの間があってから彼はその決定的な一言を放った。
「死が…見えたんだろ?」
「っ―」
トレアの顔が恐怖に染まった。思い出してしまった、あの不快な感覚を、触れたくない恐怖を、忌むべき出来事を。
「…トレア…逃げるな…逃避しても、それは大きくなって跳ね返ってくる…逃れられないんだ…」
「・・・・・」
「逃れられないから向き合うしかないんだ…それで押しつぶされそうになったら…みんなに頼ればいい…助けてもらえばいい…甘えていいんだ」
「……て…」
トレアの右手がだんだん彼の腕に近づいていた。
「ミラがいるだろ…ノルヴィもいるだろ…キャスもいるだろ…」
「…めて…」
「俺もいるだろ?…だから…」
「やめてッ―!」
トレアは両手でトーマの左腕にしがみ付き、体は縮こまって丸くなっていた。
「…トレア…」
「…お願い、やめて…」
トレアが言ったその言葉は、いつもの戦士としての彼女ではなかった。それは本来の、素の彼女の発した言葉だった。
「…もう…それ以上言わないで…でないと、私…もう戦えない…」
彼女の声と手は震え、怯えていた。それにトーマは落ち着いた声で答えた。
「…大丈夫…」
「大丈夫じゃないッ…だって…私…本当は全然…強くないから…」
トレアはすぐにその言葉を強い調子で否定する。それと一緒に腕にしがみ付く力も強くなった。
「…大丈夫だ」
そのトーマの言葉には確固とした何かがあるように思えた。
「…トーマ…」
「トレアは…自分が強くないってことを…ちゃんと知ってるじゃないか………絶対に大丈夫だ」
絶対に大丈夫。それを聞いた自分の胸の奥から何かが湧き上がってくるのをトレアは感じた。
「…トーマ…トーマぁ……私…怖かったぁ…」
「うん…」
「…目の前の人間を…死なせるかもしれないのがぁ…怖かったぁ…」
「うん…」
「…トーマが斬られて、死んじゃうかも知れなくて…すごく…怖かったぁ…!」
「…うん」
トレアはトーマの左腕に強く抱きついて、その胸の中にしまいこんでいた思いを嗚咽を混じらせながら吐き出した。目からは堪えていた涙が止め処なく溢れてきてどうにもしようがなかった。
トーマは左腕を曲げて、自分の頭の横のトレアの顔を触れ、慰めるように優しく頬を撫でた。トレアはその手を左手で強く握った。トーマもその手を優しく握り返した。
トレアはやがて泣き疲れたのか、思いを吐露して安心したからか、いつの間にか眠っていた。トーマもそんな彼女の寝息を聞くうちに眠りについていた。だが、しっかりと2人の手は握られていた。
翌日の朝、トーマが目を覚ますと、トレアが外していたガードとアーマーを身に着けているところだった。休んで体力が少し回復したのか、意識は昨日よりもマシになっていた。
「おはよう…トレア」
「トーマ、すまない、起こしたか」
「いや…勝手に目が覚めただけだ」
トーマはトレアの表情がすっきりしたように見えた。あれだけ泣いて発散したのだ、そうであっても何もおかしくはない。
「そうか。まぁ、もう昼近いからな。これからこの先の町まで行ってくる。トーマはここで待っていろ」
「ああ」
トレアはドアを開けて「それじゃあ行ってくる」と出ようとした。そしてドアを閉める間際、トレアはトーマを振り向いて名前を呼んだ。
「トーマ…」
「ん…?」
「昨日は…ありがとう」
トレアは笑顔だった。「ああ」とトーマが返事をすると、彼女は頷いてドアを閉めた。トレアの足音が徐々に遠のいていく。
「ふぅ…」
トーマは一息ついて窓の外の青空を見上げた。
『逃れられないから向き合うしかないんだ…』
「…まさか…俺の口からあんなことが出るなんてな…」
彼は昨晩自分の言った事を思い出して、独り言を言った。
〔やっぱり…自分が一番わかってるってことなのか…〕
しばらくすると、馬のひずめの音と一緒に何かが近づいてくる気配があった。足音がドアの方に近づいてくる。
「トーマ、あの街にいけるぞ」
トレアがドアを開けるなりそう言った。
「トレア…どうした?」
「町に行く途中で馬車で移動している夫婦に会ったんだ。事情を話して乗せてもらえることになった」
「そうか」
そういうと、彼女の後ろから男が顔を覗かせた。四角い顔をした体格のいい若い男だった。
「あんたか、怪我してるってのは…って、こいつぁひでぇっ!肩貸してやる、立てるかい、あんた?」
彼は慌ててトーマに駆け寄り、トーマの左腕を首にかけた。
「ああ…すまない」
「っと、その前に…」
「?」
男は毛布をトーマの体に羽織らせ、傷や血が見えないようにした。理由はすぐに分かった。
外に出ると、馬車の手綱を握ったホルスタウロスがいた。それはそうだ、赤いものを見て興奮する彼女に、血は見せられない。
「あわわわ…大丈夫ですか〜?」
少しおっとりした慌て方で、彼女は馬車から飛び降りた。
「あ、ああ…」
「えっと〜、荷台へ乗ってもらいますね〜」
「わかった…だが…」
トーマは荷台の高さを一見した。
「怪我人の俺が乗るには、この高さはきついんじゃないか?」
確かに、荷台の高さは1メートルは越えている。大体トーマの胸より少し下あたりだ。片腕をまともに使えない今の状態で、これに乗るのは難しそうだった。
「だいじょ〜ぶですよ〜」
そう言って、彼女はトーマを連れて荷台の後方へ回る。すると、いきなりの真場にしゃがみ込んだ。
「えっと〜、右側が怪我してるから〜、えっと〜、あ、右肩に座るみたいに乗ってくださ〜い」
「え?いいのか?」
「はい〜、あと〜、左手で角を持ってもらった方がいいです〜」
「…わかった」
トーマが自分の右肩に座り、左手で角を持ちバランスを取った事を確認すると、彼女はなんの困難もなさ気に「よいしょ〜」と言った立ち上がった。
「うわっ…!」
「だいじょ〜ぶですか〜?」
トーマは荷台の上に難なくたった。
「あ…ああ、少し驚いただけだ」
トレアが荷物を持って荷台へ飛び乗ると、馬車はゆっくりスピードを上げて行った。
剣を振り上げていた騎士や、草原、森に光のフィルタがかかったかと思うと、次の瞬間には一変した光景と地形、地質の変化にトーマとトレアも一瞬対応できずに呆けていた。
トレアは手で地面が草原などでなく土と砂に変わっているのを確かめ、辺りを見回した。何度も言うが、その光景は一変していた。
「どう…なっている…?」
広大な森も壮大な草原も姿はなく、眼下に赤みを帯びた土と砂の大地が広がっている。緑もなくはないが、なんというのか、以前から見ていた森とは感じが違って見える。
所々町のようなものも伺うことができ、それぞれの町には1棟の塔が立っていた。
そしてそんな幾つもの町の向こうには、薄い青紫がかり壮大なスケールを誇るスプル山脈が雲を突き抜けてたたずんでいた。
見える景色からしてこの場所がどこか高いところ、山か何かの上だと気付いたのはしばらく経ってからのことだった。
トレアはトーマが負傷していることを思い出し、はっと彼を振り返った。
「トーマッ…!」
彼女は握ったままだった剣を納め、四つん這いで這うようにトーマに近寄った。
「…トレア…状況が飲み込めないんだが…死んじゃったか…?」
「大丈夫、まだ生きてる…!」
「はっ…だよな…天国にしちゃ殺風景だ…」
こんな冗談を言う余裕は、本当はない。それはトレアにもわかることだった。出血がひどく、トーマの目も虚ろだ。
「頑張って、すぐに治療を…」
と言いかけてトレアは周りを見る。
〔そうだ…治療道具はない…どうしよ…〕
この場にあるのは土と枯れたような麻色の草と、傷ついたトーマと己の体のみ。ここにどれほど腕のいい医者がいたとしても、治療などできたものではなかった。
「…トレア…」
苦しそうな声でトーマは呼んだ。そして震える指で傾斜の下の、岩の影を指さした。
「あれは…!」
その先にあったのは、黒いケース、トーマのウェポンケースだった。
「待っていろ、すぐに取ってくる!」
トレアは立ち上がると滑るように傾斜を駆け下り、岩の陰に落ちていたケースを拾い上げ、破損のないことを確認し「よし…」と言うとすぐにトーマの元まで登った。
「トーマ、横になった方がいい…」
苦しそうなトーマを見て、トレアは言った。体を支えて彼が横になるのを手伝う。すると微かにだが、トーマの表情は穏やかになった。
ケースの留め具を外して開けると、まず片方のスペースに入ったサブマシンガンとスコープが目を引いた。もう一方のスペースは不等分に4つに小分けされ、それぞれに蓋が付いていた。不透明な蓋で、中に何が入っているのかはわからない。
「えっと…」
焦った様子でそう言うトレアを見て、トーマは今必要なものの場所を教えた。
「…小分けされた方の…一番大きなポケット…」
トレアはすぐさま一番大きなポケットの蓋を開けた。中にあったのは細長いスプレー缶が3本、包帯、絆創膏、それぞれ色の違うカプセルの入ったケース4つ。
「…黄色いラベルのスプレー缶…円筒状の奴だ…」
スプレー缶と言ってもわからないと思い、トーマは円筒状の物と言いなおした。トレアは取り出したスプレーを「これか?」とトーマに見せた。
「ああ…それだ…」
「これをどうすればいい?」
「…まず俺の服を脱がせろ…ジャケットのホックを外して…傷口を露出させろ…」
「あ、ああ…」
トーマの言うとおりに、血の滲みた紺のジャケットのホックを外し、同じく一部が赤く染まった黒いワイシャツのボタンも外した。斬られた傷が露出して、トレアは顔を思わずしかめた。
「それのキャップを外して…小さい穴が傷に向くようにして…上の部分を押すんだ…よく振ってからな」
キャップを外すと、中は少し細くなり、側面を剥いた小さい穴があった。トレアは言われたようにそのスプレーを上下に激しく振った。少々目抜けに見えなくもないが、スプレーを初めて見て初めて使うのだから仕方ない。
「それで…押すってどこをだ?」
「そのスプレーを持って…細いところを人差し指でこう…だ…」
トーマはジェスチャーで使い方を教えた。それを見て、トレアは傷口に噴出口を向けて押した。
「うわッ!?」
『プシュッ!』とスプレーの中身が噴き出されて、彼女はビックリして声を挙げた。
「あっはははは…ぁいっててて…」
トレアの可愛らしいリアクションに、トーマは思わず笑いだし、傷が痛んで顔をしかめた。
「わ、笑うなっ…!それより今みたいなのでいいのか?」
「あ、ああ…傷口全体にな。押しっぱなしで出続ける…端から端まで一度行けばいい…」
スプレーを傷口に吹き始めると、トーマは顔をしかめた。
「へ、平気か!?」
「ああ、沁みるだけだ…」
傷口全体にかけ、しばらくするとすぐに効果は出始めた。
「え、もう血が…」
「固まってきただろう?」
あれだけ流れ出て止まる気配のなかった血は、だんだんとその流出をやめ、血液は表面に膜を張っていた。
それは例のスプレーの中身がPLT活性フィルムの構成素材だからだ。PLTとは血小板(Platelet)の略称で、簡単に言えば、血小板の凝集を手助けする成分を含み、血液内の水分を利用して表面に薄い丈夫なフィルムを構成する医療素材だ。治癒効果を助ける成分も含まれているため傷は塞がりやすくはなるものの、それでも応急処置に過ぎない。
トーマもその効果と仕組みをトレアに説明すると、彼女は「便利なものだな」と興味深そうに見ていた。
「…これで動いても一応は平気だ、今のうちに下ろう…」
トーマは立ち上がろうとして倒れかけ、それをトレアが抱きかかえるように支えた。
「大丈夫か!?」
トーマは体を一瞬預けたが、すぐに彼女の肩を借りて立ち上がった。
「…ああ、血を流し過ぎたらしい…少しフラつくな…」
「肩を貸す、気をつけろ…」
「悪ぃな…助かる…」
トレアはその言葉を聞いて一瞬息を詰まらせ、顔を背けた。彼女の表情は悲しそうに思えた。
〔そんなことを言わないで…だって…だってッ…私の所為なんだからッ…!〕
トーマが傷を負っているのは、自分があんなところで心を乱したから。己の心がこれほどまでに脆く、未熟だったから。そんな自分が彼から例など言われる資格はない。
トレアの『顔を背ける』という行動はそんな思いから来たものだった。
トーマのケースを拾い上げ肩にかけると、トーマの左腕を首と肩にかけ、体を支えながら傾斜をゆっくり下って行った。
岩山を下り始めたのは午後3時を少し回ったくらいだっただろう。トーマの体力的なこともあり、小まめな休憩を取りながら下りていった。結果、麓に着いた頃には辺りは薄暗くなり始めていた。
数百メートル先にうっすら筋のようなものが見えた。すぐにそれが舗装された道だと気付き、何とかそこまでたどり着いた。
道の一方は岩山の間を抜けるように続いており、もう一方の先には高い塔を中心に据えた町がある。だが、距離を考えると着くころには夜は明けてしまうだろう。
2人は何とかどこか屋内で一夜を明かせる所に辿り着きたかった。なぜなら、日が落ちるにつれて暖かかった気温がどんどん下がり冷えてきていたからだ。手当てしたとはいえ重傷を負ったトーマにしても、リザードマン故に寒さに弱いトレアにしても、防寒具のないこの状況で寒い屋外で一晩を明かすことは避けたかった。
現にトーマの体は若干震え始めているのをトレアは感じていた。このままでは取り返しのつかないことになるかもしれない、そんな焦りの中、トレアは道のわきに建つ小屋を見つけた。
距離的には30分もあればたどり着く距離だ。
「トーマ、歩けるか?」
「…ああ…大丈夫だ…」
トーマの声は微かに震えていた。2人は少し急いで歩みを進めたが、ようやく小屋にたどり着いた時には辺りは全く暗くなっていた。
外観はそれほどボロくはなく、修繕されたような跡もあり、定期的に手入れされているようだった。押し戸を開けると鍵はかかっておらず、中には誰もいなかった。2人は中に入り、トレアは一まずトーマを壁にもたれるように座らせた。
「ここはたぶん、旅人用に建てられた休憩小屋だ」
トレアは小屋の中の設備を一見してそう言うと、棚の埃避けのカバーの下から毛布を3枚取り出した。1枚を床に敷き、トーマをその上に寝かせた。
「明日は私が町まで行って様子を見てくる。ここはスプル山脈の反対側で親魔領だと思うが、一応な。医者を呼んでくるから、お前はここに居ろ」
「ああ…頼む…」
「もう寝ろ、体力を回復させた方がいい」
「そう…だな…」
トレアはトーマに毛布を掛け、自分も毛布を体に巻き、壁にもたれかかって体を休めた。だが、目を閉じていたのはほんの2、3秒くらいのことだった。
暗い小屋の床を向いた視線だが、そんなものは彼女の目に入ってはいない。彼女の眼には全く別の風景が映っていて、歯を食いしばり拳を握りしめた。
そんなトレアはトーマの息遣いに気が付く。彼の方を向けば、毛布の端が震えていた。
「寒いのか?」
「あぁ…少し…冷えるだけだ…心配するな…」
「そうか…」
返事をしてから目を閉じた。それから少し間をおいて、トレアはぱっと目を開けてアイアンガードとウエストガードを外した。そしてトーマに近づき、毛布の中に潜り込んで自分の使っていた毛布をその上から被せた。
トーマはその気配に瞑っていた目を開け、彼女に狼狽混じりの視線を向けた。
「トレア…?」
「寒いなら寒いと言え…」
「…あぁ…すまない…」
トーマは再び目を瞑り、そう言って体から力を抜く。自身の左半身から伝わる暖かさで、寒さに強張っていた体が弛緩したということと、その人の温もりに安堵を感じたためだ。今まで味わったことのないような安心
感がトーマの胸中に生まれていた。
「…強がるな…ほら、こんなに冷えてるじゃないか……こんなに…」
トレアが触れたトーマの体はひんやりと冷えていた。トレアはトーマの体に自分の体を密着させ、右手を折り曲げ枕代わりにし、左手をトーマの腕に沿えた。
「温かいな…」
トーマは少し小さな声でつぶやいた。トレアが伺い見た彼の表情は、柔らかな微笑みを浮かべていた。
「そうか…それはよかった…」
彼女はそれが嬉しくて、思わず一緒に微笑んでいた。
「ああ…それに…いい匂いがする…」
唐突にトーマが呟いた。
トレアは、そんなことを言われたのは初めてで少し戸惑った。それと同時に嬉しいような、なんだか心の中をくすぐられるような気持になった。思わず目を見開いてキョロキョロと返す言葉でも探すように左右に泳がせた。
「そ、そうか…」
結局つっけんどんな返事しかできなかった。先ほどから脈拍が早かったが、今の一言でそれは一層強さとスピードを増した。なんだかトレアは、トーマの横顔を見ているのが少し照れくさくなって、目をまたキョロキョロと泳がせて落ち着く場を探した。だが結局は彼の横顔に戻ってきていた。
そんな自分の鼓動と反して、トーマの鼓動は強くゆっくりと、堂々としていた。その音にトレアは妙な安心感を感じていた。それはその力強い鼓動に、トーマがそれほど弱り切っていないということに安心したのかもしれなかった。だが、それだけではないことをトレアは自分で解っている。
「…トレア…」
少し間が空いて小さな声でトーマはトレアの名前を呼んだ。
「なに?」
「…平気か?」
「え?」
トレアは唐突な問いかけが何を訊いたものかわからなかった。
「お前…相当参ってるんじゃないのか…?」
「・・・・・」
その時、彼女の脳裏にあの情景が浮かぶ。トレアの表情は辛く苦しそうなものになっているが、トーマは目を瞑ったままで、彼女がどんな顔をしているか分からない。だが、左腕に添えられていた彼女の左手がギュッと力を強めたことは感じている。当然それが彼女の無意識であることもわかっていた。
だがトレアはそんな行動とは裏腹な言葉を返した。
「…私は戦士だ…そんなことでへこたれてなどいない…大丈夫だ…」
それは自分に対しての暗示の言葉でもあった。戦士は強くなければならないと、これしきの事でへこたれてはならないと、そう言い聞かせなければ自分はもう戦えない気がした。
「…お前の言葉を返すわけじゃないが…強がるなよ…」
「っ…」
トレアは思わず息を詰まらせた。そして彼女はトーマの言葉を否定した。
「強がってなどいないっ…私は本当に…」
「…嘘だ…」
「っ……なぜ、どうしてそんなことが言えるっ…!?」
「魔物は…人を殺すことに嫌悪を感じている…故に今まで…人の命を奪ったことなどないはずだ…」
トーマは以前、ミラからこの世界のことについて詳しく聴いたことがあり、その時に魔物は人を殺すことにとても大きな抵抗があるということを、その理由も含め聞いていた。
「…確かに…だが…だが奴は死んではいないはずだ…殺していないならいつもの戦闘と一緒だ…」
トレアは反論した。いつも傷つけることはあっても、命を奪うことはしない。
「…違う」
「違わない」
「…違う」
「違わないっ!」
「…違う」
「違わないッ!!!!!」
トレアは思わず声を張り上げ、その顔は泣きそうなとても辛そうな表情を浮かべていた。だがトーマは少しトレアが落ち着いたと見るや、話を続けた。
「…違うだろ?…今まで斬ったことがあるのは急所ではない場所のはずだ…だが、今回はお前の意思ではないにせよ…奴の急所を衝いてしまった…」
トーマの言葉が切れ、二拍ほどの間があってから彼はその決定的な一言を放った。
「死が…見えたんだろ?」
「っ―」
トレアの顔が恐怖に染まった。思い出してしまった、あの不快な感覚を、触れたくない恐怖を、忌むべき出来事を。
「…トレア…逃げるな…逃避しても、それは大きくなって跳ね返ってくる…逃れられないんだ…」
「・・・・・」
「逃れられないから向き合うしかないんだ…それで押しつぶされそうになったら…みんなに頼ればいい…助けてもらえばいい…甘えていいんだ」
「……て…」
トレアの右手がだんだん彼の腕に近づいていた。
「ミラがいるだろ…ノルヴィもいるだろ…キャスもいるだろ…」
「…めて…」
「俺もいるだろ?…だから…」
「やめてッ―!」
トレアは両手でトーマの左腕にしがみ付き、体は縮こまって丸くなっていた。
「…トレア…」
「…お願い、やめて…」
トレアが言ったその言葉は、いつもの戦士としての彼女ではなかった。それは本来の、素の彼女の発した言葉だった。
「…もう…それ以上言わないで…でないと、私…もう戦えない…」
彼女の声と手は震え、怯えていた。それにトーマは落ち着いた声で答えた。
「…大丈夫…」
「大丈夫じゃないッ…だって…私…本当は全然…強くないから…」
トレアはすぐにその言葉を強い調子で否定する。それと一緒に腕にしがみ付く力も強くなった。
「…大丈夫だ」
そのトーマの言葉には確固とした何かがあるように思えた。
「…トーマ…」
「トレアは…自分が強くないってことを…ちゃんと知ってるじゃないか………絶対に大丈夫だ」
絶対に大丈夫。それを聞いた自分の胸の奥から何かが湧き上がってくるのをトレアは感じた。
「…トーマ…トーマぁ……私…怖かったぁ…」
「うん…」
「…目の前の人間を…死なせるかもしれないのがぁ…怖かったぁ…」
「うん…」
「…トーマが斬られて、死んじゃうかも知れなくて…すごく…怖かったぁ…!」
「…うん」
トレアはトーマの左腕に強く抱きついて、その胸の中にしまいこんでいた思いを嗚咽を混じらせながら吐き出した。目からは堪えていた涙が止め処なく溢れてきてどうにもしようがなかった。
トーマは左腕を曲げて、自分の頭の横のトレアの顔を触れ、慰めるように優しく頬を撫でた。トレアはその手を左手で強く握った。トーマもその手を優しく握り返した。
トレアはやがて泣き疲れたのか、思いを吐露して安心したからか、いつの間にか眠っていた。トーマもそんな彼女の寝息を聞くうちに眠りについていた。だが、しっかりと2人の手は握られていた。
翌日の朝、トーマが目を覚ますと、トレアが外していたガードとアーマーを身に着けているところだった。休んで体力が少し回復したのか、意識は昨日よりもマシになっていた。
「おはよう…トレア」
「トーマ、すまない、起こしたか」
「いや…勝手に目が覚めただけだ」
トーマはトレアの表情がすっきりしたように見えた。あれだけ泣いて発散したのだ、そうであっても何もおかしくはない。
「そうか。まぁ、もう昼近いからな。これからこの先の町まで行ってくる。トーマはここで待っていろ」
「ああ」
トレアはドアを開けて「それじゃあ行ってくる」と出ようとした。そしてドアを閉める間際、トレアはトーマを振り向いて名前を呼んだ。
「トーマ…」
「ん…?」
「昨日は…ありがとう」
トレアは笑顔だった。「ああ」とトーマが返事をすると、彼女は頷いてドアを閉めた。トレアの足音が徐々に遠のいていく。
「ふぅ…」
トーマは一息ついて窓の外の青空を見上げた。
『逃れられないから向き合うしかないんだ…』
「…まさか…俺の口からあんなことが出るなんてな…」
彼は昨晩自分の言った事を思い出して、独り言を言った。
〔やっぱり…自分が一番わかってるってことなのか…〕
しばらくすると、馬のひずめの音と一緒に何かが近づいてくる気配があった。足音がドアの方に近づいてくる。
「トーマ、あの街にいけるぞ」
トレアがドアを開けるなりそう言った。
「トレア…どうした?」
「町に行く途中で馬車で移動している夫婦に会ったんだ。事情を話して乗せてもらえることになった」
「そうか」
そういうと、彼女の後ろから男が顔を覗かせた。四角い顔をした体格のいい若い男だった。
「あんたか、怪我してるってのは…って、こいつぁひでぇっ!肩貸してやる、立てるかい、あんた?」
彼は慌ててトーマに駆け寄り、トーマの左腕を首にかけた。
「ああ…すまない」
「っと、その前に…」
「?」
男は毛布をトーマの体に羽織らせ、傷や血が見えないようにした。理由はすぐに分かった。
外に出ると、馬車の手綱を握ったホルスタウロスがいた。それはそうだ、赤いものを見て興奮する彼女に、血は見せられない。
「あわわわ…大丈夫ですか〜?」
少しおっとりした慌て方で、彼女は馬車から飛び降りた。
「あ、ああ…」
「えっと〜、荷台へ乗ってもらいますね〜」
「わかった…だが…」
トーマは荷台の高さを一見した。
「怪我人の俺が乗るには、この高さはきついんじゃないか?」
確かに、荷台の高さは1メートルは越えている。大体トーマの胸より少し下あたりだ。片腕をまともに使えない今の状態で、これに乗るのは難しそうだった。
「だいじょ〜ぶですよ〜」
そう言って、彼女はトーマを連れて荷台の後方へ回る。すると、いきなりの真場にしゃがみ込んだ。
「えっと〜、右側が怪我してるから〜、えっと〜、あ、右肩に座るみたいに乗ってくださ〜い」
「え?いいのか?」
「はい〜、あと〜、左手で角を持ってもらった方がいいです〜」
「…わかった」
トーマが自分の右肩に座り、左手で角を持ちバランスを取った事を確認すると、彼女はなんの困難もなさ気に「よいしょ〜」と言った立ち上がった。
「うわっ…!」
「だいじょ〜ぶですか〜?」
トーマは荷台の上に難なくたった。
「あ…ああ、少し驚いただけだ」
トレアが荷物を持って荷台へ飛び乗ると、馬車はゆっくりスピードを上げて行った。
12/06/17 23:56更新 / アバロンU世
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